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近頃、気力が湧かずに当ブログ記事のストックも底をついてきたので、取り急ぎ懸案のとり・みき氏をまたもWikipediaの情報を引用・コメントすることで茶を濁す算段なのであります。--「事件放送」の録画マニアであり、「大事件」が起きると、チャンネルを切り替えながら、その映像を録画する(仕事中に事件が起こると仕事そっちのけで録画していたこともある)。本人曰く、"事件直後の慌しい雰囲気が良い"とのこと。のちに、テレビ局関係者から「あの事件の映像は残っていませんか?」と尋ねられることもあった。-- なかなかユニークな方面に興味をお持ちのようです。ぼくなどはカッコ付の大事件となるとスケールが大き過ぎてどうにも触手の伸びない領域ではありますが、その理由がなかなか揮っていますね。事件そのものというよりは事件の当事者ではない外野の人々がそんな立場でありながら翻弄されている姿というのは、いかにも人間的で思わずニヤリとさせられました。そんな相撲中継における審判員席の高見盛の背後の升席から事態の推移を見守るような、一連の騒動にコミットしながらも傍観者の位置を頑なに固持する姿勢には共感が持てます。ぼくも大きな騒動の只中にいるとどうにもムズムズとした鈍い興奮を禁じ得ないのです。小松左京氏のファンであるというも案外そうした気質を知ると理解できるような気もするのです。実は日本が沈没しそうになったり、首都が消え去ったりといった大騒動に巻き込まれつつもパニックに陥った群衆を横目に眺めているという作者の視点を持ち合わせているのではないか。なんてことを昨日書いたみたいですが、とても面倒で読み返す気力が湧かないですね。いずれにしても例によってせっかく書いたのだからそのままアップしてしまうのでした。『THE LAST BOOK MAN』(共著:田北鑑生)(早川書房, 2002)『SF大将 文庫版』(早川書房, 2002)『クルクルくりん 第5巻』(トクマオリオン)『とりから往復書簡 第3巻』(共著:唐沢なをき)(徳間書店, 2010)『パシパエーの宴』(チクマ秀版社, 2006)「パシパエーの宴」、「カラオケボックス」、「宇宙麺」『るんるんカンパニー 第2巻』(秋田書店, 1981)
2022/04/10
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前回も書きましたがぼくはとり・みき氏の全くダメな読者でしかないものだから書くべきことはすでに書き尽くしてしまいました。ってほとんど何も語っていないのですが。ということで安直ではありますが、お決まりのWikipediaからとり氏情報をゲットしてそれにコメントを加えるという自堕落対応となりますが己の教養のなさがなさしめることとはいえご容赦願います。--漫画表現そのものをギャグとして追求する作風は「理数系ギャグ」と呼ばれ、内容の無い表層的な作品として批判されることもある。しかし、とり自身はそれこそ自らが描きたいものだと語っている。とり自身があげるこの路線の作家に唐沢なをきがいる。--この一節がよく理解できないのです。「漫画表現そのものをギャグとして追及する作風」というのは、一体どういう意味なのでしょう。具体的な記載がありませんが、恐らくは自己言及などの叙述的な実験的要素を指しているのかと想像します。パロディ、SF、不条理というとり氏的なジャンルは、そうした実験を盛り込むのをお手の物としているはずで、それは大御所の手塚治虫を引き合いに出すまでもなく日本マンガの自家薬籠中の物とするところです。確かに雑誌連載時になかったコマを追加したりというメタ・メタフィクションといったような離れ業も飄々と使いこなすあたりは洗練されているとは思いますが、どうもぼくには手垢の付いた用法に思えてならないのです。それが「理数系ギャグ」と呼ばれるのもよく分からない。「内容の無い表層的な作品」ってのも意味不明であります。と引用しておきながら腐しているけれど、実はこれを読んで再読したくなったのです。吾妻ひでおや大友克洋の影響を語っているけれど、多分に前者の影響を感じます。吾妻氏は晩年にとんでもない傑作を上梓しましたが、とり氏ももしかすると驚くべき傑作を胸に秘めているんじゃないかと期待しているのでした。『クルクルくりん 第5巻』(トクマオリオン)『トマソンの罠』(文藝春秋, 1996)「トマソンの罠」、「帰郷」『とりから往復書簡 第3巻』(共著:唐沢なをき)(徳間書店, 2010)『パシパエーの宴』(チクマ秀版社, 2006)「パシパエーの宴」、「カラオケボックス」、「宇宙麺」『山の音』(早川書房, 1989)『キネコミカ』
2022/04/09
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近頃このシリーズでは似たようなことばかり書いているような気がしますが、ぼくはとり・みき氏の熱心な読者という訳ではありません。コミックスを手に取って眺め始めると一気読みしてしまうことが多いことからもけして嫌いだったり苦手だったりする訳ではなくて、いつだって面白いとは思いはしているはずなのですが、どうも引っ掛かりが少ないのです。作風は多岐にわたっていて、主戦場であるギャクからストーリーマンガ、エッセイマンガも含めてそのいずれにおいても十分に楽しませてもらえるのだから、とり氏はマンガ家として多才であることは紛れもない事実なのだろうと思いはするのです。でも器用貧乏といっては失礼にあたりますが、どうも何を読んでももう少しでいいから物語なりに深入りしてくれたらいいのにというような食い足りなさが残ってしまうのです。ライトで軽快なタッチというのが貴重な資質であり得ることは重々理解しているつもりではありますが、この人の軽い絵柄で重厚な物語を読んでみたいと思うのはぼくだけではないと思うのです。ってまあマンガを生み出すことの苦しみなど知りもしない一読者が好き勝手なことを語っているんじゃないよとお𠮟りを受けそうなことを書いてしまいました。『THE LAST BOOK MAN』(共著:田北鑑生)(早川書房, 2002)『SF大将 文庫版』(早川書房, 2002)「タイム・パトロール」、「スタータイド・ライジング」『クルクルくりん 第5巻』(トクマオリオン)『トマソンの罠』(文藝春秋, 1996)「トマソンの罠」、「帰郷」『パシパエーの宴』(チクマ秀版社, 2006)「パシパエーの宴」、「カラオケボックス」、「宇宙麺」『山の音』(早川書房, 1989)『石神伝説 第2巻』(文藝春秋, 1998)
2022/04/05
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今回は、モンキー・パンチ氏のマンガを取り上げます。とは言っても正直ぼくが知っているモンキー氏(パンチ氏?!)によるマンガ作品はごく限られていて、ほぼ皆さんご存じの『ルパン三世』だけでありまして、よほどのマンガ好き以外は大方の読者も同様なんじゃないでしょうか。というか、そこそこのマンガマニア以外は原作に接したこともなく、アニメーション化された『ルパン三世』でしかモンキー氏の名に接したことのない方がほとんどであるという気もします。原作が読まれる機会が稀であるのにその原作マンガの作者やキャラクターだけは知られてるって例は結構珍しい事のように思えるのです。ああ、そういう意味ではフランス本国でルブランによるアルセーヌ・ルパン物が存在することは知られているもののその冒険物語を読む人が極めて少ないと言われていました。と過去形で書いたのはオマール・シーの主演によるドラマにより人気が再燃して書籍の売れ行きも好調となっているようなのです。その辺が日仏の文化レベルの差異のようにも思えます。それはともかくとして、数年前に原作マンガ家のモンキー氏が亡くなっても、未だにアニメ版の人気が衰えることもなく、昨年からテレビシリーズの6シーズン目が放映されているのだからその息の長さだけをとってもこのシリーズは『ドラえもん』などと同じく国民的作品のひとつであることは異論のないところかと思うのです。モンキー・パンチ・ザ・漫画セレクション 2 Tac・Tic…s』(講談社, 2004)『ルパン三世 愛蔵版 第1巻』(中央公論社, 1989)『新ルパン三世 愛蔵版 第1巻(中央公論社, 1989)
2022/03/01
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始めて一人暮らしを始めた学生の頃、浴びるように映画とマンガに浸かった生活を送っていました。今は何が忙しいということでもないけれど、ゆっくりと過ごす時間がちっとも確保できていない気がしているのですが、当時は映画館や古書店を駆けずり回るとにかく忙しい毎日だったのですが、夜中になると一安心できる時間がちゃんと持てていたような気がします。いつでも寝てしまってもいいようなベッドに潜り込み、電気スタンドのスイッチを入れ、サイドテーブル―プラスチック製のワゴンですけど―には酒―当時はビールで始めて焼酎に切り替えることが多かったです、今も似たようなものか―と簡単な肴を用意します。そんな時のお供としたのが短編中心の少女マンガ―古書店で束売りの少女マンガが格安販売されていました―でした。坂田靖子氏のマンガはそんな夜のお供のレギュラーでした。代表作は、『バジル氏の優雅な生活』ということになるのでしょうが、特に好きだったのが『ライラ・ペンション』です。3人?の女の子たちの下宿生活を描いたユーモラスな作品でいつまでだって読み続けていたい楽しい作品でした。これまで知らなかったのですが、Wikipediaによると「同人界の初期から石川県で漫画研究会ラヴリを主宰し様々な影響を与えた」とのことで、金沢在住だったというのもちょっと意外でしたが、それ以上に漫画研究会のラヴリなるグループを主宰していたとなど全く知らなかったのでした。メンバーには花郁悠紀子氏、小沢真理氏、岡野史佳氏-佐藤史生氏や森川久美氏もそうなのかな-といったそうそうたる顔ぶれが集まっていますが、こういったマンガ家たちのグループ活動を知ってみるとトキワ荘の新漫画党が殊更に特別な存在であったと見做すのは早計であると思わざるを得ません。そう思うと『ライラ・ペンション』は、もしかすると坂田氏の『まんが道』のオマージュのようにも思えてくるのでした。手元には見当たらないので文庫化もされたようだしまた入手して読み返してみたいと思いました。『マイルズ卿ものがたり』(新書館, 1987)『バジル氏の優雅な生活 文庫版 第1巻』(白泉社文庫, 1996)『バジル氏の優雅な生活 文庫版 第4巻』(白泉社文庫, 1997)
2022/02/24
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ぼくが好きなマンガ家さんは数多く存在しますが、新作の発売をもっとも楽しみにしている一人が、阿部共実氏であります。現時点での代表作の一作である『ちーちゃんはちょっと足りない』が『このマンガがすごい!2015』のオンナ編の1位になったことで,初めてこのマンガ家の存在を知ることができたのです。ぼくには、阿部氏のマンガは、シンプルで端正な描線で描かれる可愛らしいキャラクターの造形がなされる一方で思春期の不安定さが可笑しさや辛さ、切なさ、残酷さといった複雑で多様な形で表出されていて、そのギャップが特異な台詞表現で語られることで,時として読み進むのが辛く思えるような切実さを孕んでいるように感じられます。いい年をしたおっさんがかつて自分でも経験したはずの思春期という人生にとっての特異的な時期を今更に振り返させられて、各々に特別なはずの一時期を追体験して心を泡立たせているというのも何だか奇妙でちょっと気持ち悪くて気恥ずかしい体験です。そもそもの話、マンガを読むことで痛みを感じたり、居心地が悪い思いをするという経験がもたらされるようになったのはいつ頃からのことなのでしょう。マンガという媒体はその起源においては娯楽として生み出されたのだと思います。映画や小説でも事態は変わりないことにそのメディアとしての成長に伴い明朗快活な娯楽から陰惨さをも引き受けた痛く苦しく辛い物語を取り入れるようになるのは、不思議なことです。ともあれ、ぼくには阿部氏について語れるだけの言葉は手持ちになくうまく語る自信がまったくないのに、阿部氏はまだまだ活躍してぼくなどを絶句させるような作品をこれからも見せてくれるはずです。『空が灰色だから 第3巻』(秋田書店, 2012)『空が灰色だから 第5巻』(秋田書店, 2013)『ちーちゃんはちょっと足りない 第1巻』(秋田書店, 2014)『月曜日の友達』(全2巻)『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々 第1巻』(秋田書店, 2014)『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々 第2巻』
2022/02/12
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御厨氏は寡作ながらも良質のマンガ作品を残したことは間違いありません。でも前回、真の傑作をものすることがなかったような感想を述べてしまったのですが、氏は書痙を患ったことが執筆を断念した理由であることをWikipediaで知り、うっかりしたことを書くものではないなあと反省しました。マンガ家が手指をダメにすることがどれ程に辛いことか、ぼくなどのような者には知る由もないことですが、有名な話ではちばてつや氏が若い頃にカンヅメされた宿屋でふざけて編集者に電気あんました挙句蹴り飛ばされてガラスで右手の腱を何本か切ってしまったというエピソードがあります。その時は幸いにもお隣の東大病院ですぐに治療を受けて無事後遺症もなく完治したとのことです。最近では『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の作者、太田垣康男氏が腱鞘炎の悪化により画風を大幅に変えて連載を継続しておられるそうです。現代では紙とペンという往年の執筆媒体からCGなどの活用が当たり前になりつつあるようですが、やはり未だに手指の重要性は変わらぬようです。『イカロスの娘』(全2巻)(小学館, 1982)『ルサルカは還らない 第1,2,5巻』(集英社, 1996,97,98)『闇の伝説』(朝日ソノラマ, 1980)「キャピタル・ジャック」『裂けた旅券』(全7巻)(小学館, 1981-83)
2022/01/16
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御厨さと美氏は、今ではすっかり過去のマンガ家となってしまった感がありますが、改めて読み返してみてやはりマンガ好きにとって見逃せないマンガ家さんであることを再確認できました。航空機などのメカ関係の誠意な描き込みや元気で可愛らしい女のコたち、そして能天気でいい加減だけどいざとなると火事場の活躍を見せるおっさんたち。どこまでもおっさんマンガ好きのロマンを満足させてくれるのでした。しかしいつの間にかマンガ界の表舞台からフェードアウトしてしまったのでした。代表作は『裂けた旅券(パスポート)』や『ノーラ』シリーズということになりそうですが、どちらもとても楽しい作品ではありますが、代表作とするには少し物足りなさが残ることは否めないと思うのです。というかぼくがマンガから距離を置いているうちにどうしたことか姿を消してしまい、『ルサルカは還らない』で復帰したことも最近になって知ったのでした。しかしこれも今となっては20年以上前の作品となっています。御厨氏が再び執筆活動を再開し真の代表作を発表するのを期待するのはちょっと無理があるのかなあ。『イカロスの娘』(全2巻)(小学館, 1982)『惑星ギャラガ』(双葉社, 1984)『ルサルカは還らない 第1,2,5巻』(集英社, 1996,97,98)『裂けた旅券』(全7巻)(小学館, 1981-83)
2022/01/15
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アメリカ映画における西部劇というジャンルが衰退の一途を辿っているとよく言われます。実際その通りではありますが、それでも思い出したかのように製作されるのは僅かながらも熱烈なファンがいるからなんでしょうね。ところが意外なことに日本では数はそう多くはないけれど、ほとんど途切れることなく西部劇が発表されているみたいなんですね。それも映画からマンガという媒体に舞台を移して脈々と描き継がれているのです。思い付くだけでも、手塚治虫には『サボテン君』や『レモン・キッド』,日本の児童漫画で初のキスシーンを描いた『拳銃天使』がありますね。藤子不二雄にも足塚不二雄名義で『西部のどこかで』がありますし(『まんが道』に再録されたものを読んでいるだけですが)、その後には藤子・F・不二雄『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』も藤本弘氏の西部劇趣味を反映した作品でした。そして松本零士の代表的なキャラクターであるトチローとハーロックの活躍を描く『ガンフロンティア』がありました。最近では村枝賢一『RED』もありましたし、秋本治『BLACK TIGER』、栗山ミヅキ『保安官エヴァンスの嘘 DEAD OR LOVE』なども連載中となっています。現在の若い読者たちは恐らく西部劇を映画どころかテレビ映画でも接したことのない世代だと思うのですが、そういう若い人たちが西部劇の教養もなしに楽しめていることがちょっと不思議に思えるのでした。一方作者の側に立ってみると日本のマンガ家の少なくない人たちは、西部劇に強い愛着があるようです。そんな一人が川崎のぼる氏でありまして、山川惣治氏が『おもしろブック』に連載した『荒野の少年』を原作として『荒野の少年イサム』を描きました。西部劇の大ファンというだけあって、原作に大幅に肉付けしており上記の作品群以上に本格的な西部劇マンガとなっています。でもまあ本格的である分、今読むと少なからず古びた印象は否めませんが、日本の西部劇マンガを語る上で(語る機会などそうはなさそうですが)外すことのできない作品であることは今でも変わりません。『いなかっぺ大将』(全5巻)(にちぶん文庫)『フットボールの鷹 第3巻』(ベースボール・マガジン社, 1989)『巨人の星』(原作:梶原一騎)(全11巻)(講談社, 1990)『新巨人の星』(原作:梶原一騎)(全6巻)(講談社, 1990)
2022/01/06
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前回、川崎氏の絵について緻密であることを強調したけれど、実は荒々しく大胆な太線も効果的に用いていることを今になってようやくにして知るに至ったのです。スポ根、野球、巨人軍などのキーワードに嫌悪を感じてこれまで真剣に『巨人の星』と向き合ってこなかったことについ最近になって知ることとなったのです。何が凄いって実験的かつ美的な表現は、斬新で画期的でご覧になっていない方は好き嫌いなどという偏見は脇に置いてだまされたと思ってぜひ実作に当たっていただきたいと思うのです。これは余り認めたくないところではありますが、梶原一騎の原作には、マンガ家の作風や筆遣いにまで影響を及ぼすことは認めざるを得ないのかもしれません。それは『あしたのジョー』のちばてつやにも当たるところですが、川崎氏には豪快で大胆な太い描線と繊細で緻密な細い描線が同居する独特な絵として結実することになったのかもしれません。『いなかっぺ大将』(全5巻)(にちぶん文庫)『巨人の星』(原作:梶原一騎)(全11巻)(講談社, 1990)『新巨人の星』(原作:梶原一騎)(全6巻)(講談社, 1990)
2022/01/04
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川崎のぼる氏のマンガ作品などを一望できる展示会「汗と涙と笑いと展」が三鷹市美術ギャラリーで開催されるなど、近年になって川崎氏の再評価の機運が高まっているように感じられます。かく言うぼくはどうかというと、正直ずっと川崎氏のマンガが苦手だったのです。いくつかの代表作をもっておられますが、やはり最も認知度が高いのは『巨人の星』に尽きると思われます。この作品がどうにも子供の頃のぼくにとっては拒否反応の対象であったのですね。理由は様々思い当たるのですが、スポ根物であることや重苦しいストーリーなどを抜きにしても川崎氏の描くところのキャラクターがどうにも耐えられなかったのです。それは『いなかっぺ大将』も同様です。劇画タッチと児童マンガタッチが同居したかのような曖昧なキャラクターの造型がどうにも耐え難かったのだと思います。今ではそうした自身の好き嫌い抜きにマンガを読めるようになって、これでようやく幅広いマンガを楽しめる基盤づくりができたと思っています。そうこうしてようやくのことで川崎氏のマンガを読もうと思い立ってじっくりと目を通して遅まきながら驚愕するに至ったのです。何に驚いたかって、特に描写の密度がとんでもなく濃密であることです。スポ根マンガというのは、それだけで拒絶反応を起こされてしまうので多分に思い込みもあったのですが、キャラクターが紙面の大部分を埋め尽くしていて背景だったりはないがしろにされていると思っていたのです。ところが川崎氏の紙面はとんでもなく精緻で執拗なまでの描き込みがなされていて、代表作の『巨人の星』と『いなかっぺ大将』の同時連載時に崩さなかったのは驚嘆のタメ息が思わず漏れ出るのを抑えられないのです。『荒野の少年イサム』(原作:山川惣治)(全12巻)(集英社, 1976-77)『巨人の星』(原作:梶原一騎)(全11巻)(講談社, 1990)『新巨人の星』(原作:梶原一騎)(全6巻)(講談社, 1990)
2022/01/02
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林静一氏を単にマンガ家として見做すのは適当ではないでしょう。もともとはアニメーターとしてキャリアをスタートしているからアニメーション作家としての顔が根柢にありそうな気もします。たった1作ながら『夜にほほよせ』という実写映画も監督しているから映画作家でもあるし、それならイラストレーターというか画家の仕事であるロッテのキャンディのキャラクターである小梅ちゃんが最も巷間に知られるところだろうからこれがメインの仕事と見做すことが適当に思えます。でもいずれにしたところで林氏の描く絵、とりわけ女性キャラクターの魅力が氏の活動の基盤にあるのはまあ大方の意見として一致するところでしょう。ぼくも初めて接した氏の仕事はやはり小梅ちゃんであったわけで、清楚で清純、伏し目がちの近寄りがたいイメージに心ときめかしたような気もしますけど、今となってはそのときめきは記憶の改ざんに過ぎないようにも思えます。中学生の頃、初めて小学館叢書として刊行された『赤色エレジー』でマンガ作品に触れて、マンガの文法を無視するかのようなコマ割りだったり、静止しているかのような人物や風景の描写に当時のぼくはこれはマンガではないと反感すら覚えたのでした。今ではこういうマンガもありだとは思うけれど、感傷的に過ぎたり、時に寓話的なストーリーには今もって馴染めてはいないと胃のが正直なところです。『赤色エレジー』(小学館, 1992)「赤色エレジー」、「花ちる町」
2021/12/30
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ここのところ、どうも本気で好きだとは言い切れないマンガ家ばかり取り上げてしまっていますが、丸尾末広もそんな一人であります。エロティックでグロテスク、緻密で写実的な描写など多くの模倣者を生むほどのオリジナリティーに魅力を感じなくはないし、江戸川乱歩や夢野久作らに影響を受けているという点でも本当だったらぼくの趣味とそうかけ離れているはずはないのだ。敢えて乱暴にその作風を耽美的と断ずるとすれば、恐らくぼくには小説という媒体がもたらす耽美には惹かれるけれど、写実的な耽美には不安感や不快感として受け止められてしまうようなのです。また、丸尾氏の引用癖もどうもやり過ぎの気がしてならないのです。引用は愛ある剽窃とかいう人もいたけれど、そもそもマンガに限らず映画だって小説だって先行する作品の模倣を余儀なくされるのだから余りあからさまなのはどうかと思うのです。パロディとかいって先行作品を主に笑いで剽窃するのだって、一応はリスペクトの対象としている場合が多いとは思うけれど、まず先行作品より優れた作品となることは稀と思うのです。ところが、短くない沈黙期間を得て発表された江戸川乱歩の『パノラマ島綺譚』は、かつての過激な作風だったり引用癖が幾分影を潜めて洗練された作品となっていました。といったことで今では今後の活躍が楽しみなマンガ家さんの一人となったのでした。
2021/12/26
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正直なところ、ぼくにはまだ日野日出志氏というマンガ家の真価がちっとも理解できていないのです。レイ・ブラッドベリの『刺青の男』を読んで、自らが自身のマンガ作品を要約するところの「叙情と怪奇」に開眼したということで、確かにその作品には哀愁とは異なる叙情が感じられるのは確かだし、恐怖とはイメージを異にする怪奇というイメージが存在するところは理解できるのです。と書いていて何となく分かって来たけれど、ぼくは叙情にも怪奇にもさほど興味はないのであって、むしろ「哀愁と恐怖」の方に惹かれるのです。日野氏の作品をそれほどたくさん読んではいないけれど、氏の絵のタッチにはどこか戦後すぐのマンガ家たち、まだ劇画なりのより写実的なタッチをマンガ表現が導入する以前のどこか牧歌的なほのぼのとした印象を受けるのでありまして、それには氏が当初は杉浦茂氏の影響からギャグマンガ家を目指したところの余韻を携え続けてきたからなんじゃないかとも思うのです。だからかぼくにはどうも氏がホラーマンガ家と評されるのが腑に落ちにくいのです。でもこうした作品のイメージを反芻しつつ記憶を探っていくと、おや、もしかしたら今のぼくは氏の作品を読みたいと感じ始めているようなのです。この一連のブログを書いていて改めて手持ちを読み返すだけでなく、未読の作品にも接してみたいと思うに至ったのはやってきて良かったんだなあと思えました。『地獄のどくどく姫』(全2巻)(秋田書店, 1989)
2021/12/25
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山岸凉子氏は、24年組と呼ばれる面々―萩尾望都氏、大島弓子氏、竹宮惠子ら―の一人として、一括りに評価されることもありますが、彼女ら各々が特別な個性と作風の持ち主ばかりですし、個性的なマンガ家が一時期に排出されるのはトキワ荘の新漫画党の面々に限らず数多くの例があるわけで、一緒くたに語るのはいかにも乱暴に思えます。そんな個性的な面々にあってとりわけ個性が顕著なのが山岸氏であると思います。初期作品はともかくとして彼女の愛好するビアズリーともまた異質な繊細かつ明瞭な描線で描かれた人物や事物はどこか人形のように無機質であるはずなのに、時としてとんでもなく恐ろしい形相を呈してみたり、逆に地獄を目のあたりにしたかのような恐怖の表情を浮かべているのがどうにも不可解なのです。また,基本的には端正で細かなサイズのコマ割りに律儀に過ぎる四角のフキダシで構成された紙面に突如としてぶち抜きの大ゴマが出現するなどのハッタリの効いた演出にも思わず声が漏れるような衝撃を与えられたりと技巧的なマンガ家という印象を抱いていました。しかし、山岸氏が白土三平氏を師と仰ぎ作品執筆に際して徹底的な取材を行うことを萩尾氏との対談で知ってからはこれまでの見方の修正を余儀なくされるのでした。 ところで、まったく話は変わりますが、山岸氏は上記にも書いたように技巧派であると同時に泥臭さを辞さない勤勉派でもあるようです。加えて長編も中短編も達者というオールラウンダーであり、現代のマンガ家はデビューする時点で長/短編いずれかマンガ家であるかの選択を迫られるのに対して、この時代辺りまでのマンガ家というのは実に懐深く物語の引き出しを数多く持っていたようです。その弊害もあってか、山岸氏はとんでもない量のアンソロジーが組まれています。そこに所収された作品が全て読了したものである場合も少なくなかったりして、全てのタイトルを諳んじられるまでの山岸通ではないから何度も歯噛みした覚えがあります。たった1篇だけ未収録作品が含まれた短編集が刊行されたとしても山岸マニアは購入しなくてはならないのだろうからコレクターの方々はホント、大変だろし虚しいでしょうね。『ヴィリ』(メディアファクトリー, 2007)『メタモルフォシス伝』(秋田書店, 2000)『押し入れ』(講談社, 1998)「メディア」『黒鳥-ブラックスワン-』(白泉社, 1995)「鬼子母神」『舞姫 テレプシコーラ 第2部 第1,2,3巻』(メディアファクトリー, 2008,09,09)
2021/12/19
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少女マンガというジャンルは、そもそもが飲食のみならずことごとくの生理現象を排除するところに特殊性があったのではなかろうか。少年マンガの生理現象への組み入れ方については、ここで詳述するまでもなくシリアスなものからギャグといったサブジャンルにも旺盛に描かれてきたこととは対照的に思われるのです。例外的に少年マンガ以上に積極的に描かれるのは涙となるわけで、とにかく少女たちを泣かせることに少女マンガ家たちは腐心してきたと言っても過言ではないと思うのです。涙と書きましたが、涙だけではなく汗も描かれることはありますが、それは多くの場合顔面部に留まります。つまり表情を豊かにするための目、口、眉といった器官と同様に表情の一部をなすものとして涙や汗は描かれています。一方で少年マンガは涙や汗のみならず顔面部だけでも鼻水や鼻血、涎、吐瀉物などなど様々な生理現象がもたらす排出物が物語を活性化したり時には物語の主題そのもの(特にギャグマンガに顕著)となったりしてきました。とちっとも実証的でないことを述べてしまいましたが、少女マンガというジャンルにおいては、人間関係がもたらすドラマに焦点が絞り込まれるから生理現象に構ってられないといった側面もあるかもしれませんが、そんな少女マンガから出発して少女マンガとも少年マンガとも全く異質な表現へと行き着いたのが今回取り上げた山岸凉子氏だと思うのです。山岸氏のマンガは、初期はともかくとしてある頃からは生理現象がほとんど描かれることはなくなったようです。まるで能面や人形のような無感動な顔面には顔を構成する各部位でも整理描写でもなく無機質な黒い線が恐怖などの感情を示すのでした。この線を消し去ったら登場人物たちからその感情を読み取るのは困難なのではないか。というかそもそも山岸氏は登場人物たちの感情なんて表現は不用であると考えているのではないか、そんな風に思ったりするのでした。『ツタンカーメン 第2巻』(潮出版社, 1997)『ハーピー』(朝日ソノラマ)「雨の訪問者」『パイド・パイパー』(集英社, 1992)「パイド・パイパー」、「蜃気楼」『ブルー・ロージス-自選作品集-』(文藝春秋, 1999)「ブルー・ロージス」『メタモルフォシス伝』(秋田書店, 2000)『黒鳥-ブラックスワン-』(白泉社, 1995)「鬼子母神」『奈落-タルタロス-』(角川書店, 1989)「銀壺・金鎖」『舞姫 テレプシコーラ 第2部 第1,2,3巻』(メディアファクトリー, 2008,09,09)
2021/12/16
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永島慎二氏で特筆すべきはその人脈の広範なところにもあると思っています。つげ義春氏のような気難しい人とも友人であると同時にライバル関係でもあったのだから、彼が付き合えない人はいないのではなかろうか,ぼくのような人見知りにとっては、羨望すべき特性であると思えるのです。それにも彼の波乱に満ちた人生経験が反映されているのだろうと想像されます。番長という存在になるには、腕力のみでは成り得ぬことはもちろんだろうから恐らくは人望と指導力、つまり人から畏怖と敬愛を同時に寄せられるだけのカリスマ性を持ち合わせていたのだと思うのです。加えて、マンガ家というどちらかといえば内省的な性格の人が多そうな世界では、数多の職業経験で培ったであろう社交性が求められるだろうから氏のような人は受け入れられる幅を持ち合わせていたのでしょうか。他にもトキワ荘メンバーを中心とした新漫画党や辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをら劇画工房メンバーとも交友関係を構築したというからその社交力には脱帽であります。手塚治虫氏との交流もよく知られるところですが、つげ氏と手塚氏というひどく癖の強いお二人と自在に交感するなんて芸当ができる人はそうはいなかったと思うのです。赤塚不二夫氏も両者と関係していたという談話が残されえ入るけれど、永島氏ほどの密接な関係ではなかったように思われます。なんてったって『COM』と『ガロ』の両誌で作品を発表していたんですからね。弟子筋も豪華で鈴木翁二氏、宮谷一彦氏、三橋乙揶氏などは知られているけれど、なんとあだち充氏は永島氏のアシスタントになるはずだったのですね。川崎のぼる氏もアシスタント経験はないけれど精神的な弟子といっても良さそうです。とまるまるWikipediaの記事を参照したような中身になってしまいましたが、こうして書いていると永島氏の作品への氏と交流のあった多くのマンガ家仲間たちからの影響など探ってみたくもなるのでした。『サトコは町の子』(翠楊社, 1978)「にんげん五十嵐進」、「あだうち狂時代」『永島慎二の世界~1962年から1972年アンソロジー~』(チクマ秀版社, 2006)「道ずれ」、「その周辺」、「東京最後の日―」、「井上陽子の場合」『完全復刻版 柔道一直線』(原作:梶原一騎)(全7巻)()『完全版 漫画家残酷物語』(全3巻)(ジャイブ, 2010)
2021/12/05
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前回すでに書きましたが、どうもぼくは永島慎二氏のマンガ作品に対して素直に賛辞を述べることが憚られるのです。それは、永島氏のマンガに感傷的だったり、情緒過多、センチメンタル、自意識過剰、ナルシシズムといった印象を受けるからなのです。それは、永島氏が中学生の頃に総番長を務めたり、家出や中退、職業を転々するといった破天荒な生きざまが白々しいものに感じられるぼく自身に問題があるのかもしれません。もしかすると、自らが自らを武勇伝として演出していたかのような生き方を実践し得たことについて、ぼくは永島氏に対するあこがれとか嫉妬を感じているに過ぎないんじゃないだろうか。無難に事なかれで生きている自分と比べて、氏は奔放で思うがままに生きていることに羨望を感じていやしないだろうか。でもマンガ作品として表現される登場人物たちは、フーテンだったりマンガ家だったり作者本人や友人知人が反映されているようで、ぼくなどと違って自分の意志に従って生きているはずなのですが、ちっとも己が置かれた状況に満足しているようには思われないのです。自由に生きることを選びながら、現実はちっとも自由ではないというペシミスティックな物語が読んでいて息苦しく思えるのです。見たくない現実を目の当たりにし、ぼくはそうした物語に立ち入ることを拒否して、夏目房之介がしばしば言及する白目(というか瞳が排除された目)の描写だったり、非写実的な抽象的な描かれ方をするモブキャラだったり、コマ割りやコマサイズによる物語時間の伸縮表現だったりといった表現手段の方へと視線を逸らしてしまうのでした。そうした表現方法の分析には恐らくマンガ表現の進展にとって意味のあることだとは思うし、実際なるほどねえと感心させられることも少なくないのです。でも、ある物語とそれを表現するための技法は不可分である以上、やはりぼくはまだ永島氏のマンガ作品を少しも理解していないのだと思うのです。『かかしがきいたかえるのはなし』(ふゅーじょんぷろだくと, 1995)「オムニバスNO. 1 旅人たち」、「オムニバスNO. 2 旅人たち」『永島慎二の世界~1962年から1972年アンソロジー~』(チクマ秀版社, 2006)「道ずれ」、「その周辺」、「東京最後の日―」、「井上陽子の場合」『完全復刻版 柔道一直線』(原作:梶原一騎)(全7巻)()第7巻:「柔道一直線 外伝 鬼車の子守り歌〔全編〕」、「柔道一直線 大完結編」『完全版 漫画家残酷物語』(全3巻)(ジャイブ, 2010)
2021/12/02
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正直なところを告白しておくと、ぼくはどうも永島慎二氏のマンガ作品には乗り切れないでいるのです。この告白は、マンガファンとしてはかなり口に出すのが憚られるものなのです。と書いてもマンガにまるで興味のない方にとっては、何のことやらさっぱり分からないと思いますが、一端にマンガ好きを自称する者で永島氏が不得手だとか好きになれないといったような否定的な言説を弄することは、御法度ということでもないのだろうけれど、マンガをちっとも理解していないと誹られても仕方のないことのように考えられているフシがあるのです。いやいや、マンガを読むという行為というのはとあるコミックスや雑誌を購入し自宅にて頁をめくるまでのあらゆる場面で他者が露骨に介入してくる余地はほとんどないのだから、幾ばくかの金銭を払って己が所有するところとした以上、好きであろうが嫌いであろうがその判断は購入者の権利であるはずです。でも、ぼくはマンガ作品そのものが好きなのは事実ですが、同時にマンガ評論も好きなのです。永島氏はどうもそうしたうるさ型たちのお眼鏡に叶ったマンガ家のようなのです。永島氏のマンガ作品は、マンガ好きたちを饒舌にする効果があるらしいのです。そこで語られるのはもっぱらヒッピー文化のようなマンガそのものというよりは時代の空気感だったり描かれる若者たちの生態だったりについてであり、マンガ表現のどこそこが画期的であるとか斬新であるといった分析からは程遠い物ばかりのように思われるのです。無論、マンガから当時の風俗だったり若者の考え方や行動様式を読み取るのも自由である訳ですし、そこに永島氏の多様で新鮮なマンガ表現がしっくりとハマっているらしいことも分からないではないのです。書いていて収拾が付かなくなってきました。はっきりしているのは、ぼくは永島氏の好んで描く時代が好きになれないだけなのかもしれません。『永島慎二の世界~1962年から1972年アンソロジー~』(チクマ秀版社, 2006)「道ずれ」、「その周辺」、「東京最後の日―」、「井上陽子の場合」『完全復刻版 柔道一直線』(原作:梶原一騎)(全7巻)第7巻:「柔道一直線 外伝 鬼車の子守り歌〔全編〕」、「柔道一直線 大完結編」『完全版 漫画家残酷物語』(全3巻)(ジャイブ, 2010)
2021/11/30
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現代の子供たちは藤子不二雄両氏のことを知っているんだろうか。また、両氏の残したマンガ作品を読んだことはあるんだろうか。たまにテレビで『ドラえもん』が放映されているのを目にすることはあるから少なくともアニメーション版の『ドラえもん』が今の子供の目に触れているらしいことは推察されるのです。しかし藤本弘氏の原作によるこの長寿アニメがマンガ版とはかなり違った印象の作品となっていることはファンの方であればよくご存じのはずです。別にテレビ版が現代風にアレンジされているとかそういったことではなくて、上品でありながらも非常に毒の効いた作品となっているのです。是非、子供たちにも『ドラえもん』のコミックス版を手に取ってもらいたいものです。おっと、お話が藤子・F・不二雄氏へと逸れてしまいました。藤子不二雄A氏に話を戻すと、それこそ代表作の『怪物くん』だったり『忍者ハットリくん』、『プロゴルファー猿』などは突如としてテレビドラマ化されたりもしたけれど、それもすでに数年前のことだったと思うし、これらを見て、マンガ版を想起できる子供たちはほぼ皆無だったのではなかろうか。『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造は、たまに見掛けることはあるけれど、これが『ドラえもん』の相棒の手によるものと気付くこともないんじゃなかろうか。彼らのマンガに登場する空き地だったり土管がもはや過去の遺物と化しつつあるのと同様に、二人のマンガ作品も忘れ去られていくのだとするととても寂しい気がするのです。『ブラックユーモア短篇集 第1巻』(中央公論新社, 1995)『まんが道 愛蔵版』(全4巻)(中央公論社, 1986-87)『まんが道 第二部』(全2巻)(中央公論社, 1987-88)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第1,2,3,5,7,8,9,10,11巻』(小学館, 1997)『新編集 怪物くん 藤子不二雄Aランド 第2,5巻』(中央公論社, 1987)『忍者ハットリくん 中公文庫コミック版 第2巻』(中央公論新社, 1995)『無名くん』(第1巻)(リイド社, 1977)
2021/11/25
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安孫子素雄氏について、Wikipediaを眺めていたら、なんとなんと現在87歳になられていたんですね。今の日本では特別の長寿というわけでもなかろうけれど、トキワ荘の仲間たちの中では長命だなあ。なんて思って少し調べてみたら、鈴木伸一氏、つのだじろう氏、横田徳男氏、水野英子氏らはまだご健在らしいし、初期の新漫画党メンバーの永田竹丸氏も健在なんですね。不健康で不規則な生活を余儀なくされた戦後すぐの世代のマンガ家たちでありますが、無事に老後生活を送れる人たちもいるというのが少しだけ救いであるように思われるのでした。生き残り組の彼らでありますが、執筆活動を継続した安孫子氏も休載を宣言して久しく今ではマンガ作品の新作が発表されることもなくなったけれど、最後の最後まで執筆への意欲を失わないことこそが先に逝った仲間たちへの最高の供養となるように思うのです。定年までまだ先が長いぼくが早く退職して自由の身になりたいなどと願っておきながら、こんなことを思うのは全くもって勝手な話ですが、生涯を通しての仲間でありライバルを持ちえた特権者としての彼らだからこそぜひ最後に隠し玉を披露するといった離れ業を現実のものとしてもらいたいものです。『サル 第1,3,5巻』(小学館)『ブラックユーモア短篇集 第1巻』(中央公論新社, 1995)「無邪気な賭博師」、「一本道の男」、「魔雀」『ブラックユーモア短篇集 第2巻』(中央公論新社, 1995)「不思議町怪奇通り」、「北京填鴨式」、「カタリ・カタリ」、「赤か黒か」、「暗闇から石」『ブラックユーモア短篇集 第3巻』(中央公論新社, 1995)「なにもしない課」、「黒イせぇるすまん」、「恐喝有限会社」、「喝揚丸ユスリ商会 請求書の①、②、③、⑤、⑥、⑦」『まんが道 愛蔵版』(全4巻)(中央公論社, 1986-87)『まんが道 第二部』(全2巻)(中央公論社, 1987-88)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第1巻』(小学館, 1997)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第3巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第4巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第5巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第6巻』(小学館, 2004)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第7巻』(小学館, 2006)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第8巻』(小学館, 2006)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第9巻』(小学館, 2009)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第10巻』(小学館, 2011)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第11巻』(小学館, 2012)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第12巻』(小学館, 2013)『愛ぬすびと』(小学館)『新編集 怪物くん 藤子不二雄Aランド 第1,2巻』(中央公論社, 1987)『帰ッテキタせぇるすまん』(全2巻)(実業之日本社)『喪黒福次郎の仕事』(文藝春秋, 2000)『忍者ハットリくん 中公文庫コミック版 第1巻』(中央公論新社, 1995)『魔太郎がくる!! 第6,7巻』(中央公論社, 1997)『無名くん』(全2巻)(リイド社, 1977,83)
2021/11/23
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藤子不二雄A氏こと安孫子元雄氏の作品で子供の頃に最も愛着をもっと読んでいたのは、『フータくん』(1964-1967)でした。主人公の少年であるフータくが、なんでも屋をしながら日本全国を無銭旅行するという物語で、小学生の頃に朝日ソノラマのサンコミックス版を和歌山駅そばの路地裏にある絶版マンガをどういう訳が数多く品揃えしていた新刊本屋で入手して以来何度読み返したか思い出せぬ程です。途中、100万円を貯めたフータくんが日本一周の旅に出るというストーリー展開となり、これが思えばぼくの旅への憧憬をはぐくんだのかもしれません。ぼくには観光マンガの側面も持ち合わせていたこの作品でそうそう自由に旅することもできぬ子供の頃にこれを読むことで旅欲求を晴らしていたという一面もあったと思うのです。というか安孫子氏自身が売れっ子マンガ家として多忙な毎日を余儀なくされ、スケジュールの隙間を縫っては、ゴルフをしたり、映画を見に行ったり、酒を呑みに行ったり、といった遊びを寸暇を惜しむかのように過ごさねばならなかっただろうから、元来遊び好きな氏としては、気ままな旅マンガを描くことで自らの旅への欲望を晴らしていたのかもしれません。まあ、実際にはオバQの大ヒットにより日本中を講演で飛び回ったこともあるそうだからその際の見聞を活かしたということなんでしょうか。ということで書くことが尽きたのでWikipediaを眺めるとサンコミックス版に収録されていない挿話が記されています。リメイクされた『フータくんNOW!』は中央公論社の藤子不二雄ランドに収録されていたから薄々は知っていたけれど、結局手に取ることなく絶版となりました。ぼくが生まれた時にはとっくに完結していたから知らなかったけれど、雑誌連載時には「ナンデモ会社編(社長編)」が掲載されていたらしいし、番外編も1話を除いては読んでいないので、ぜひ安孫子氏がお元気なうちに全作品を収録したヴァージョンを発行して欲しいものです。『ブラックユーモア短篇集 第1巻』(中央公論新社, 1995)「無邪気な賭博師」、「一本道の男」、「魔雀」『ブラックユーモア短篇集 第2巻』(中央公論新社, 1995)「不思議町怪奇通り」、「北京填鴨式」、「カタリ・カタリ」、「赤か黒か」、「暗闇から石」『ブラックユーモア短篇集 第3巻』(中央公論新社, 1995)「なにもしない課」、「黒イせぇるすまん」、「恐喝有限会社」、「喝揚丸ユスリ商会 請求書の①、②、③、⑤、⑥、⑦」『ブラック商会変奇郎 第1巻』(小学館)『まんが道 愛蔵版』(全4巻)(中央公論社, 1986-87)『まんが道 第二部』(全2巻)(中央公論社, 1987-88)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第1巻』(小学館, 1997)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第3巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第4巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第5巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第7巻』(小学館, 2006)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第8巻』(小学館, 2006)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第9巻』(小学館, 2009)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第10巻』(小学館, 2011)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第11巻』(小学館, 2012)『愛ぬすびと』(小学館)『新編集 怪物くん 藤子不二雄Aランド 第1,2,5巻』(中央公論社, 1987)『帰ッテキタせぇるすまん』(全2巻)(実業之日本社)『笑ゥせぇるすまん』(中央公論社, 1989)『忍者ハットリくん 中公文庫コミック版 第1巻』(中央公論新社, 1995)『魔太郎がくる!! 第1,2,4,6,7巻』(中央公論社, 1997)『無名くん』(全2巻)(リイド社, 1977,83)
2021/11/21
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トキワ荘メンバーが続きます。トキワ荘入居マンガ家の3番手(手塚治虫氏、寺田ヒロオ氏)である藤子不二雄氏の片方、藤子不二雄Aこと安孫子元雄氏を取り上げます。マンガ家としての藤子不二雄A氏のマンガ作品については、小学生の頃から多くの作品に接してきましたが、好みかどうかと問われたら必ずしもいいとは思えないけれど、新作の発表が途絶えたつい最近(正確には「ジャンプスクエア」の『PARマンの情熱的な日々』2015年12月号で休載を宣言したようですが、ぼくにとっては『愛…しりそめし頃に…』が「ビッグコミックオリジナル増刊」2013年5月号で完結が実質的な休筆に当たると思っています)までの長きに亘って付かず離れずの距離感で読み継いできたから、マンガに限らず全ての作家の中で最も長期に及んでその作品に接してきたことになるのでした。だから元相方の藤子・F・不二雄氏の上品かつスマートな作品に比べるとアクが強い割りにはオチのない『魔太郎がくる!!』や『笑ゥせぇるすまん』などの作品は読みこそすれ、必ずしも面白いと思っていたわけではなかったのでした。では、ぼくが藤子不二雄A氏の作品を読み続けてきたのは先の『まんが道』があったことが一番の理由ですが、『劇画 毛沢東伝』(1971)、『愛ぬすびと』(1973)、そして『フータくん』(1964-1967)があったからなのです。『サル 第1,3,5巻』(小学館)『ブラックユーモア短篇集 第1巻』(中央公論新社, 1995)「無邪気な賭博師」、「一本道の男」、「魔雀」『ブラックユーモア短篇集 第2巻』(中央公論新社, 1995)「不思議町怪奇通り」、「北京填鴨式」、「カタリ・カタリ」、「赤か黒か」、「暗闇から石」『ブラックユーモア短篇集 第3巻』(中央公論新社, 1995)「なにもしない課」、「黒イせぇるすまん」、「恐喝有限会社」、「喝揚丸ユスリ商会 請求書の①、②、③、⑤、⑥、⑦」『まんが道 愛蔵版』(全4巻)(中央公論社, 1986-87)『まんが道 第二部』(全2巻)(中央公論社, 1987-88)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第1巻』(小学館, 1997)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第2巻』(小学館, 1998)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第4巻』(小学館, 2003)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第6巻』(小学館, 2004)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第8巻』(小学館, 2006)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第9巻』(小学館, 2009)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第10巻』(小学館, 2011)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第11巻』(小学館, 2012)『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春 第12巻』(小学館, 2013)『愛ぬすびと』(小学館)『帰ッテキタせぇるすまん』(全2巻)(実業之日本社)『黒ィせぇるすまん』(立風書房)『笑ゥせぇるすまん』(中央公論社, 1989)『喪黒福次郎の仕事』(文藝春秋, 2000)『無名くん』(全2巻)(リイド社, 1977,83)
2021/11/20
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加藤幹郎氏と書いてもご存じの方は少ないかもしれません。Wikipediaによると映画批評家、映画学者となっていますが(というか、加藤氏は昨年亡くなられていたのですね、知らなかった!)、この方のどの著作だったか失念してしまいましたが非常に示唆的な『サイボーグ009』第2部のエンディングとなる一コマに関する考察がありました。その一コマをご記憶の方も少なくないでしょう。そう海に向かって垂直にジェット機が墜落するコマのことです。そこにはスピード線も効果音も描かれていません。この一コマのどこに加藤氏は衝撃を受けているのか。このコマで石ノ森氏は無時間性あるいは超時間性を描くことに成功しているというのです。それを説明するために加藤氏は映画におけるストップモーションとの比較を用いています。映画は時間の芸術と定義されることもあるようにストップモーションといえども一定時間の静止であることが定められているのに対して、マンガの場合は読み手がコマを凝視し続ける限りにおいては静止状態を続けることになる。つまりは、このコマでジェット機は永遠に落下しつつ静止しているという矛盾した状態の描写になっていると加藤氏は述べるのだ。確かにこのコマの鮮烈さは今でも明瞭にイメージすることができるけれど、そこに無時間性だったり超時間性を読み取れるかどうかは甚だ疑わしいと思うのです。このコマはむしろ単純に惨劇を直後に控えた緊迫感を漲らせるためは静寂した空間を描くのが適切であると石ノ森氏の鋭敏な経済的センス(つまりは手抜きして)が適切に機能しただけじゃないんだろうか。『サイボーグ009 第6巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第9巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第12巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第13巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第17巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第18巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第22巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第23巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第24巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第25巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第26巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第28巻』(メディアファクトリー, 1998)
2021/11/13
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石ノ森章太郎氏について語れることはあまりありません。どうも若い頃から天才と呼ばれたような人に対してやっかみも含めて素直に好意的に語るのが困難なのです。マンガの話法を多様化した功績は、マンガ鑑賞の感受性ばかりでなく批評性も愚鈍なぼくでも一定程度は理解しているつもりですが、非難を覚悟して述べるとすれば石ノ森氏はその早書きであることが仇となってその多くがリーダブルな作品になってしまっているように思うのです。筆が早いという天性の才能は、読む手にとっても作用するのかいつでもさっと読めてしまい、読後感がとても淡泊に感じられるのです。石ノ森氏はマンガを執筆する時には、事前に綿密なプランを立てるタイプではなく、自身の感性と瞬発力を武器にして作品を仕上げるタイプのマンガ家のようなのです。本人の口からもそれに類するような発言が残っているからきっとそうなんだと思うのです。小説には、例えば村上春樹氏の著作のように読み易い小説を書く作家もいれば、中上健次氏のように恐ろしく読み難いものを書く作家もいます。どちらが小説家として優れているかは、ぼくには明白なのですがそれを口にすると非難どころで済まぬだろうから敢えて書くことはしません。マンガと小説を比較するのが適当であるかはともかくとして、読み易い作品を生み出すのは才能であることは間違いありません。もともとは『サイボーグ009』もそんな筆の勢いに乗って執筆された一作だったのかもしれませんが、今作では筆の勢いに加えて物語性、テーマ性も冴え亘る傑作となっています。不満があるとすれば、尻切れトンボとなってしまった点です。完結編として『Conclusion God's War』の構想が立てられていたことを思うと本人も無念だったのではないか。長男の小野寺丈らにより石ノ森氏の構想に沿ってマンガ化もされていますが、未だに手に取る気になれないのでした。『サイボーグ009 第2巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第6巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第16巻』(メディアファクトリー, 1998)「サンジェルマン伯爵」『サイボーグ009 第22巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第27巻』(メディアファクトリー, 1998)『サイボーグ009 第28巻』(メディアファクトリー, 1998)
2021/11/11
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今回、眺めている『佐武と市捕物控』は、ぼくが最も好きな石ノ森氏のマンガ作品ですが,ピックアップしたこれだけを眺めるだけでもその様式化ギリギリのシャープな描写に思わず見惚れてしまうのでした。石ノ森氏は長中短編、編集者の要求に応じて描き捲りましたがその本領とするところは実は短編にこそあったのではないかと考えてみたくなるのです。実際にもう一つの代表作である『サイボーグ009』は中短編の寄せ集めといった構成となっています。手塚氏には『BLACK JACK』という代表作はあるけれど、本質は間違いなく長編作家だと思うのです。そういう意味では、石ノ森氏が絵のマンガ家であるとすれば、手塚氏は物語マンガ家ということになるのかもしれません。一時石ノ森氏の『ジュン』を巡って生じた確執もそうした氏室の差異が招いた必然的な出来事だったとも考えられます。 ところで、Wikipediaで知ったことですが『佐武と市捕物控』は、めくらの市役を若山富三郎に据えて映画化が企画されたようなのですね。下っ引きの佐武役を千葉真一もしくは松方弘樹が演じる予定だったというから驚きというより、勝新太郎の座頭市に対抗するという企画の安直さに愕然とさせられるのです。結局は勝慎太郎が投影に対してクレームをつけ、お兄ちゃんは道義的にできぬと断ったけれど、両者のファンであるぼくとしてはやっててくれれば良かったのにと思うのです。そうなれば快作『座頭市千両首』を凌駕する座頭の市と下っ引きの市による勝負を目にすることができたかもしれぬのだから。バカバカしい企画ではあるけれど、そもそも映画なんてのはバカバカしいことをいい大人が真剣になって興じる類のものなんだからぜひ実現してもらいたかったのです。『佐武と市捕物控 第2巻』(小学館, 1976)『佐武と市捕物控 第4巻』(小学館, 1977)『佐武と市捕物控 第7巻』(小学館, 1977)『佐武と市捕物控 第9巻』(小学館, 1978)『佐武と市捕物控 第10巻』(小学館, 1978)
2021/11/04
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石ノ森章太郎氏について語るには、どうしてもトキワ荘を切り離すことは困難です。藤子不二雄氏の『まんが道』をはじめ多くのエッセイや映画、ドラマで描写される氏は才能に満ち溢れているばかりでなく常にヴァイタリティ旺盛であり、作風などで大きな影響を受けた手塚治虫氏とも並び称されるほどですが、ぼくにはそれ以上にトキワ荘の青春を彩る重要人物であることの方が大事なのです。誤解を恐れず書いてしまうとぼくにとっては、石ノ森氏のマンガ(ここは氏の意向を汲んで萬画と表記すべきでしょうか)作品にほとんど思い入れのあるものがないということなのです。好きなのは凡庸ですが、代表作といってもいい『サイボーグ009』と『佐武と市捕物控』位で、それ以外の多くの作品は絵のタッチや大胆なコマ割りなどの演出にこそ惹かれるものがあるけれど、それ以上の感想を抱くことがなかったのです。ギネスにレコードされるほどの量産体制(『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)500巻770作品所収)が作品の質に影響を及ぼしたということもあり得る気がします。もしかしたら手塚氏の作品にも近いことが言える気もします(むしろ代表作すら挙げることが困難かも)。しかし、手塚氏が絵や演出に一定の見切りをつける反面、物語を深化・先鋭化させたのに対して、石ノ森氏は前者は同様であるにも関わらず物語ることすら放棄したとも解しかねぬ作品を量産したことに対しては共感は持てないのでした。そこが神様と王様との差異なのかもしれません。また、遅筆であることを嘆いていた藤子不二雄の両氏でありますが、恐らく彼らはそれぞれに自身の代表作をものしているとぼくは思えるのです。とまあ、腐してばかりですが、石ノ森氏のこの代表的な2作品にはかつて熱狂したことは間違いありません。物語の深化と絵とその演出の洗練が嚙み合った作品として今後も読み継がれていくことになるはずです。『佐武と市捕物控 第2巻』(小学館, 1976)『佐武と市捕物控 第4巻』(小学館, 1977)『佐武と市捕物控 第7巻』(小学館, 1977)『佐武と市捕物控 第10巻』(小学館, 1978)『佐武と市捕物控 第13巻』(小学館, 1978)
2021/11/02
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黒田硫黄氏のマンガ作品にどう反映されているかはともかくとして、氏のプロフィールに幼少期に札幌を振り出しにして10回以上の引っ越しをしたことに、ぼくはシンパシーを感じていました。ああ、氏の作品を思い返してみると、その登場人物たちはこぞって流浪する人たちばかりのように思えてきます。誰一人として安定した居住地を構えていないのではなかったか。そんな風に回想してみると、今すぐにも確認してみたくなります。それからよく言われることに手塚治虫氏らと同様にスターシステムを採用しているのですが、作品横断的にキャラクターが活躍するというこのシステムは、引っ越し人生の根無し草に通じるところがあって、氏も幼少期にそんな心性を涵養したのではないかと推察するのです。氏は、藤子・F・不二雄のマンガ作品に影響を受けたようですが、キャラクターの作品を越えた横断性に惹かれておられたのかもしれません。 もう一つ、これまたしばしば黒田氏のマンガ作品を巡って語られることではありますが、食に対する関心の強さにぼくもまた非常に共感を覚えるのです。短編作品集『黒船』に「肉じゃがやめろ!」なんていう連載もありますが、特に『茄子』における食事シーンは魅力があって、キャラクターたちがヘタを摘まんで一口でパクリとナスを口中に放り込む場面など思わず喉がグビリと鳴ってしまうのでありました。野田サトル氏の『ゴールデンカムイ』を始めとして、食事シーンを単なる閑話として物語における緩急付けのためとしてのみ用いることなく、物語を活性化するための活力源として積極的に取り込むスタイルが一般化しているように思えます。先の藤子氏もそうだし、手塚治虫氏や水木しげる氏などにも見て取れ、食事もそうだし、飲酒シーンなどもマンガ演出上で重要度を増していきそうです。『あたらしい朝 第1巻』(講談社, 2008)『アップルシードα 第1巻』(講談社, 2016)『セクシーボイスアンドロボ』(既刊2巻)(小学館, 2002-03)『映画に毛が3本』(講談社, 2003)『茄子』(全3巻)(講談社, 2001-02)『黒船』(イースト・プレス, 2001)「鋼鉄クラーケン」、「自転車フランケン」、「年の離れた男」「ナイト オブ ザ リヴィングデッド、「さらばユニヴァース」」『大王』(イースト・プレス, 1999)『大日本天狗党絵詞 第2巻』(講談社, 1996)
2021/10/17
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前回、意図せぬことだったのですが、黒田硫黄氏のこれまでの成果についてネガティヴとも取られかねぬ文章を書いてしまいましたが、それは全くの誤解なので、取り急ぎフォローしておきます。黒田氏のマンガ作品は,どれだって面白く読んできたしこの先も新作がだ他ならゆるゆると継続して読んでいこうと思っています。それほど好きなら語るべきことなどいくらだって尽きぬことはなかろうと思いきや、実は何事かを語ろうかと思ってみてもことさらに語るべき言葉が出てこないのだった。Wikipediaを参照して、例えば「コマ割りへのこだわり」について、確かに全編に亘って切れ味のいいセンスのあるコマ割りが随所にみられるのはぼくも認めるところです。でもコマ割りというのは適切な省略と補充の匙加減次第で一定程度のレベルに達することができそうです。仮に、上手いと思ったコマ割りを踏襲して自身のオリジナルと強く言い放てばそれを実例をもって示すのは困難に思えるのです。氏は、大島渚の『忍者武芸帳』を参照することで、「コマの面積と読み手の感じる作品内の時間の長さは比例」するのではないか、という仮説を立てたようだけれど、それを作品に活かす方法も探ったはずですが、少なくとも現在までそれが実作に結実しているとは言えなさそうです。また、氏の特徴として語られることの多い筆の使用についても、模倣しようとすれば出来ちゃう人も少なくないはずで、どうも氏のマンガ作品について、露骨に表出している技術的な側面をあれこれと語ったところでそれは氏にとっては、小手先の技術に過ぎないのではないかという気がしてくるのです。当のご本人が「コマ割りに凝れば凝るほど、“コマ割りがいい”という漫画の楽しみ方は貧しいなと思い知りました」と語っているのはそうした貧しい楽しみ方で自身の作品が語られることの違和感を訴えているように思えるのです。マンガというメディアに限ったことではなさそうですが、何かを評価しようとするときに細部をもって評価するのは、全体を取りこぼすことになりはせぬかと感じるのです。『あたらしい朝 第1巻』(講談社, 2008)『セクシーボイスアンドロボ』(既刊2巻)(小学館, 2002-03)『茄子』(全3巻)(講談社, 2001-02)『黒船』(イースト・プレス, 2001)「鋼鉄クラーケン」、「自転車フランケン」、「年の離れた男」「ナイト オブ ザ リヴィングデッド、「さらばユニヴァース」」『大王』(イースト・プレス, 1999)『アップルシードα 第1巻』(講談社, 2016)『映画に毛が3本』(講談社, 2003)
2021/10/14
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黒田硫黄氏は、デビュー当初からマンガ家だったり評論家たちから高い評価を受け続けてきました。近頃は病気がちということもあり作品の発表機会も減っているようだけれど、ぼくにとってもずっと気になるマンガ家の一人なのです。黒田氏の現時点での代表作となると『大日本天狗党絵詞』になるのでしょうか。もしそれが正当な理解であるとすれば、最初の連載作品がいきなり代表作ということになります。でもそれはなんだか少し寂しいと思うのです。処女作には作家のすべてが宿るなんてことが呟かれることがありますが、ぼくにはこの言葉はいかにももっともらしいことを言ってみました的な狡さが込められているように思えます。仮にすべてが含まれていたとして、それが代表作と成り得る傑作かどうかとは別の問題に過ぎません。映画監督なんかだと少なからず処女作が傑作でしかもそのまま代表作となる場合があったりするようで、それは例えばオーソン・ウェルズ『市民ケーン』だったりジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』、ニコラス・レイ『夜の人々』、ヴィタリー・カネフスキー『動くな、死ね、よみがえれ!』なんてところもオールタイムベストを選定すると選ばれていたりするのだけれど、こういう映画監督はすぐさま別なタイトルを挙げることも可能だったりするわけです。しかも特に名高いウェルズやゴダールなんかだと長編デビュー前に習作的に短編作品を少なからず作っているから、そもそも当該作品を処女作と呼ぶのはおかしなことだったりします。それに映画の場合は資金繰りという現実的な課題もあるからジャン・ヴィゴ『アタラント号』などは監督が29歳にて夭折したため、長編作品としてはこれ一本のみを完成させただけだし、レナード・カッスル『ハネムーン・キラーズ』やチャールズ・ロートン『狩人の夜』などはまさに一作家が一作品のみを残すのみです。そうした意味では最初の長編作品で高い評価を得てなお、執筆活動を継続できている黒田氏は幸運なのかもしれませんが、もうひと踏ん張り作品数を増やして欲しいのです。マンガを執筆することがいかに過酷な行為であるかは、すでに多くのマンガ家による自作自演が成果となって結実しているから詳細はそちらに譲ることとして,1本の傑作よりも10本の佳作を作ってもらってみたいと願う者としては、旺盛な執筆活動を願うのみなのです。って、寝ぼけて書いてるから無茶苦茶なこと書いてそうだなあ。『あたらしい朝 第1巻』(講談社, 2008)『セクシーボイスアンドロボ』(既刊2巻)(小学館, 2002-03)『茄子』(全3巻)(講談社, 2001-02)『黒船』(イースト・プレス, 2001)「鋼鉄クラーケン」、「自転車フランケン」、「年の離れた男」「ナイト オブ ザ リヴィングデッド、「さらばユニヴァース」」『大王』(イースト・プレス, 1999)「西遊記を読む」、「あさがお」『大金星』(講談社, 2008)「ミシ」、「居酒屋武装条例」、「ぶどうの丘」『大日本天狗党絵詞 第2巻』(講談社, 1996)『大日本天狗党絵詞 第3巻』(講談社, 1997)『大日本天狗党絵詞 第4巻』(講談社, 1997)
2021/10/11
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伊藤氏がホラーマンガ家であると世間的に認知されているであろうことは、ぼくにだってよく分かっているのです。でも既に書いたけれどぼくには伊藤氏のマンガはちっとも怖くないのです。それは多感な幼少期にその作品に接しておらず、幽霊などをあまり怖いとは思えなくなった青年期に初めて読んだからだと思うことにしていたけれど、どうもそんな言い訳で自分を納得させることはできないようです。でも以下のページを見て、伊藤氏本人も怖くないと語っていて少し安堵したのです。「浦沢直樹の漫勉」http://www.nhk.or.jp/manben/itoh/ そりゃまあ、マンガに限らず作者当人が怖がっているような作品など存在しない気もするけれど、作り手の思考を知悉しているであろう浦沢直樹氏がわざわざそんな質問をしたということは、自分の描いたホラーマンガに恐怖し、ギャグマンガに抱腹絶倒し、恋愛マンガに涙するマンガ家が存在するということだろうか。それとも伊藤氏をやはり特別なマンガ家として認めた上で、伊藤氏は自らの作品に恐れおののくことができる特別なマンガ家と評価したのだろうか。ともあれ、ここで浦沢氏の指摘するようにぼくも伊藤氏のマンガが「ホラーとコメディの距離が近くなってい」ると思っているので、それが非作為的に表現できるようになったと語る現在からの作品を読むのが楽しみになっているのでした。ちなみに楳図氏も『まことちゃん』などを執筆していたけれど、それは伊藤氏とは違っていてやはり当人はギャグのつもりだろうけれど、ホラーマンガでしかないように思われるのです。笑いと恐怖は表裏一体であるということではきっとなくて、それは伊藤氏がギャグマンガを描いたらちゃんとギャグになると思えるからなのです。『ミミの怪談』(メディアファクトリー, 2003)「海岸」『憂国のラスプーチン』(全6巻)(原作;佐藤優、脚本:長﨑尚志)(小学館, 2010-13)『地獄星レミナ』(小学館, 2005)「第1話 おぞましき星」、「億万ぼっち」『闇の声』(朝日ソノラマ, 2003)「第5話・グリセリド」『新・闇の声 潰談』(朝日ソノラマ, 2006)「潰談」
2021/10/08
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ぼくが伊藤潤二氏のマンガ作品に惹かれるのは、病的なまでの緻密な描線にあります。人によってはそれをリアリティと呼んで評価したりもするようですが、それはマンガというメディアがリアルであることを一つの使命と課されているようでどうもしっくりとこないのです。リアルを追求するのであれば何もマンガなどという七面倒臭いメディアに固執する必要などないはずだからです。いやまあ、マンガ家の中にはリアルを越えた何某かの表現を目指す人もいるようだけれど、二次元である平面上に果たしてそのような何かを見いだせるものだろうか。しかも伊藤氏のマンガで描かれるものがリアルであるとしたら世界はどれほどに奇想天外なんだろうか(彼らが見る世界はうずまきで満ち満ちているというのか!)。と細密に描かれた絵をリアルと安直に呼ぶ識者たちのことを揶揄してみたところで詮無きことであります。ぼくにとっての伊藤氏の絵はとにかく徹底的な描き込みの妥協のなさだったり、奇想を明瞭に提示する表現力の高さに驚かされるのです。しかもそうした作業をたった一人で行っているというのだからさらに驚きです。これ程の絵が描けるのに物語が図式的というか驚きが少ないと思っていたのでありますが、この10年程で突然別人のような驚愕のストーリーが展開されるようになったように思うのです。その理由の一端に映画監督の黒沢清氏の存在があったのではないかと密かに思っているのですが、勘違いに過ぎないのでしょうか。『伊藤潤二恐怖collection 10 あやつり屋敷』(朝日ソノラマ, 1998)「中古レコード」、「睡魔の部屋」『伊藤潤二恐怖collection 12 いじめっ娘』(朝日ソノラマ, 1998)「いじめっ娘」『憂国のラスプーチン』(全6巻)(原作;佐藤優、脚本:長﨑尚志)(小学館, 2010-13)『地獄星レミナ』(小学館, 2005)「第1話 おぞましき星」、「億万ぼっち」『伊藤潤二自選傑作集 電子書籍版』(朝日新聞出版, 2015)「ファッションモデル」
2021/10/04
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遅ればせながらアイズナー賞(The Will Eisner Comic Industry Awards)の「Writer / Artist部門」を伊藤潤二氏が同時受賞したことを記念して、今回は伊藤氏が登場です。って言っても無知を晒すようで口にするのを躊躇ってしまいますが、ぼくがアイズナー賞というのを知ったのはつい最近のことなのです。最初にロッテ・アイズナーなどというマンガとはあまり縁のなさそうな人物しか想起できなかった位なのです。それにしても、こうした賞をもらってご本人たちはまあそれなりに嬉しかったりするのだろうけれど、それが正当な評価と思えぬことが少なくないし、実際、作品の良し悪しは受賞の有無などとは全く無縁だと思うのですよね。などとこんな憎まれ口ばかり叩いていると自分が受賞の誉れと無縁だから、単にやっかみと捉えられるのだろうなあ。 ところで、正直なところ、ぼくは必ずしも伊藤氏の良き読者とは思っていません。というのが、確かにその絵にはいつも驚かされるのですが、そこにいくらかの不気味さこそ感じるものの恐怖という感情を抱いたことはついぞないからです。例えば伊藤氏の大先輩で大御所の楳図かずお氏のマンガには、細密な絵に驚かされると同時に常に恐怖を感じたものです。子供の頃に楳図氏の『おろち』だったかをたった一頁だけピックアップして紹介していた本がありました。その作品を是が非でも読みたいと思わせるだけの力があったんだと思います。また、少女が恐れおののく姿を描いた一コマがよく引用されていますが、もうそれだけで震え上がらせられるだけの恐怖を内在しているのです。少なくともぼくにとって伊藤氏のマンガにはそれが感じられないのです。むしろぼくには、伊藤氏の真価は,氏が敬愛する諸星大二郎氏に通じるユーモアと恐怖の交わるところにこそあるんじゃないかと思ったりするのです。氏のアイズナー賞の受賞対象の一作である『地獄星レミナ』などはそうした方向性によりコミットしているようで大変楽しく読みました。『伊藤潤二恐怖collection 2 富江 Part2』(朝日ソノラマ, 1997)「富江・画家」『憂国のラスプーチン』(全6巻)(原作;佐藤優、脚本:長﨑尚志)(小学館, 2010-13)
2021/09/30
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ちっとも知らなかったのですが、押切蓮介氏は清野とおる氏とお友達だったの ですね。母親の友人が清野氏とバイト先の同僚動詞ということで、こんな薄い関 係が二人を結びつけるきっかけとなったのだから、余程馬が合ったということな のでしょう。でも、清野氏が所帯を構えて2人の関係に何らかの影響が及んだの か少し気掛かりです。とまあWikipediaの情報を頼りに何とか乗り切ろうとする 魂胆なのですが、自伝的なマンガを読めばそれだけで随分と押切氏を知った気分 になれてしまうのです。へえ、ドラマ化された『となりの関くん』で知られる森繁拓真とも仲が良いのですね。なんだかちょっと意外です。てゆうか森繁氏って、東村アキコ氏の弟さんだったのか。以前、東村氏の『かくかくしかじか』のファンだと公言したばかりだったのに、そこに弟として描かれてさえいたのだから、それでどの口がファンなどとぬかせるんだと詰られたとて返す言葉もないと、思いっきり脱線してしまいました。と言いつつもお詫びがてらに宣伝すると、森繁氏が原作を務めたカミムラ晋作作画『おとうふ次元』は面白かったです。でもこの姉弟も資質がまるで違っているように思えますが、押切氏とも作風が全く異なるのに親しいというのが面白いですね。安孫子元雄氏がさいとうたかを氏と仲良しみたいなものかねえ。 そうそう、知らなかったことといえば、「グルメ漫画マニアであり、土山しげるの作品や、 泉昌之の『食の軍師』などを特に好んでいる」というのがとても意外だし、何か 思わず吹き出しそうになったのです。押切氏って食べることにちっとも興味がなさそうに思えるんですけどねえ。2人のB級グルメ系マンガ家たちは、その描く食べ物のリアルさだったり登場人物たちのやはりリアリズムな絵柄ながら極端な表情や動作といった点で通じるところがあると思うのですが、押切氏はもっと直感的に彼らのマンガが好きなんだろうか。徘徊が趣味というのもいいですねえ。マンガでもその俳諧ぶりが描かれたりして楽しみにしていて、その見ていても怠くなるようなトボけた描写が楽しいので、ぜひレギュラー作品として描き続けてもらいたいものです。『ぎゃんぷりん 第2巻』(双葉社, 2018)『でろでろ DERODERO』(全16巻)(講談社, 2004-)『ドヒー!おばけが僕をぺんぺん殴る! 押切蓮介作品集』(太田出版, 1006)『ハイスコアガール 第3,7,9巻』(スクウェア・エニックス, 2012,17,18)『ピコピコ少年 SUPER』(太田出版, 2015)『ピコピコ少年TURBO』(太田出版, 2011)『ぼくと姉とオバケたち』(全2巻)『猫背を伸ばして 新装版』(フレックスコミックス, 2012)
2021/09/27
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押切氏のマンガ作品に切実なまでの共感を覚えるのは、恐らく氏が多分に自虐的なところがあるからじゃないかと思っています。ぼくなどからすると押切氏は、少なからぬ読者を獲得するだけの書籍をたくさん出版しているし、アーケードゲームをはじめ麻雀などのゲームも上手だというから少しもダメじゃないじゃないかと思ってみたりするのですが、氏が俺は何をやってもうまくいかないと感じるのは、もっと人としての根源的で衝動的な根深いところから発せられる叫びのようなものなのかもしれません。押切マンガの主人公たちは、そうした氏の代弁者というか普段押し殺している叫びを代行する役割を果たしているのだろうか。奇妙で癖がありながらけして乱雑にならないその描画は、下書きなしのいきなりのペン入れでなされるようですが、そうしないと衝動的な叫びを直接的な描き切れないのではないんじゃないか。まあ、そんなことを考えてみるのですが、その一方で、もしかするとそうしたわれわれに知らされる作者像やそれが反映されたと思わせる登場人物たちも、徹底的に計算ずくの演出なのではないかと思えるのです。いずれにしてもぼくは氏のマンガを読むたびに描かれる人物たちの唐突でいびつな発言だったり行動だったりを手に汗を握るようにして見守ることになるのでした。『でろでろ DERODERO』(全16巻)(講談社, 2004-)『ぼくと姉とオバケたち』(全2巻)
2021/09/23
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現在進行形のマンガ家さんで好きな人は数多くおりますが、もっとも波長が合うと思っているのは押切蓮介氏ではないかと思っています。1998年がデビューということだからすでに世半世紀に近いキャリアを持っておられるようですが、ぼくが初めて押切作品と接したのはその随分後、2010年から連載された現時点での代表作とみなされる『ハイスコアガール』においてでした。ノスタルジックでありながら、奇怪なユーモア感覚で貫かれる語りだったり絵柄だったりに大いに興奮させられたのです。登場人物たちの心の機微が人によっては読み取りにくいかもしれぬなあと思いつつも、その内省的な人物たちに共感すら覚えたのでした。それからは過去の作品を遡及して読むことになりますが、ユーモアを徹底して排した『ミスミソウ』に代表される系譜や描かれる笑いと恐怖というのが実際には相通じるものであることを描いて見せた『でろでろ』、自伝として描かれながらもこれがとてもかつて現実の出来事のようには感じられぬ『ピコピコ少年』など、押切氏はいくつかの傾向の作品を描き分けてこられたようだけれど、『ハイスコアガール』はそうした作品群の総集編的な役割を果たしているのかもしれません。そして、この後には『狭い世界のアイデンティティー』が描かれここではまだ混乱したところはあるけれど、さらなる進展を予感させる萌芽的な作品となっているんじゃないでしょうか。押切氏のマンガ作品はどれを読んでも押切氏の個性が色濃く反映されていて、それがぼくにはとてもしっくりと馴染むのです。読んでいてひどく切実に感じられるのです。それは一体どうした理由によるのか、次はそう言ったところをちょっと考えてみたいと思います。『でろでろ DERODERO』(全16巻)(講談社, 2004-)『ピコピコ少年 SUPER』(太田出版, 2015)『狭い世界のアイデンティティー 第1,2巻』(講談社, 2017-18)『猫背を伸ばして 新装版』(フレックスコミックス, 2012)
2021/09/22
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あんまり正直に語りたくないことでありますが、ぼくは何事につけそのとっかかりにあるのが評論だったりの本から得た情報に基づいて、最低限の知識を身に着けてからようやく実践に移すことができたのです。映画だって淀川長治・山田宏一・蓮實重彦著『映画千夜一夜』(1988、中央公論社)がきっかけであり、折に触れては読み返すことで、映画狂いへの道筋を確保したのでありました。マンガの場合はもう少し手軽に接してはいたけれど、その深みにハマっていく契機となったのが四方田犬彦著『漫画原論』(1994、筑摩書房)がありました。先の映画本にせよ四方田氏によるマンガ論にせよ、読み進める上でどうしても気掛かりになるのが見知らぬ作家による作品のことです。見も知らぬ作品について語られていることが記されていても理解が行き届かぬ場合もあるし、何より実作に触れてみたくなるのが、人情であります。辞書のような先の鼎談集では映画の語り部たる淀川氏が現存しないフィルムについて朗々と語ってみせることもあるわけで、その語りの見事さにまさに映画を見ているかのようだという論評が与えられたりもするわけですが、やはり本物とは違っているのは当然です。四方田氏の本にもぼくにとってまったく未知なる固有名詞がいくつもあって、その中には四方田氏が現代マンガにおける最高の表現手法を持ち合わせた作家であると評価した人も少なくなかったのです。 今回取り上げさせていただいたお三方もそんな方たちでした。ただちに古書店を巡り三氏の著作を探し求めることになりました。岡田史子氏の朝日ソノラマ・サンコミックスから刊行された『ガラス玉』『ほんのすこしの水』は、比較的すぐに入手できましたが、『ダンス・パーティー』を見つけることができぬままにいつしかせっかく入手した2冊も紛失してしまったのでした(その後NTT出版から作品集が復刻され再入手)。宮西計三氏の著作は、コツコツと5年近い歳月を掛けて7、8冊を揃えることができました。別格だったのが宮谷一彦氏でこの方の著作はそれなりに古書店で見掛けはしましたが、意外な高値が付けられていて何度も二の足を踏んだまま、数冊を手にするのがやっとでした。そんな苦労をして入手したけれど、まだぼくにはこの三氏の真価が十分に汲み取れていないように思っています。それでもいずれの方の作品も一度見たら忘れられない特異な描画であることは確かで今後も折に触れては読み返すことになりそうです。とりわけ宮西氏には頁を繰るたびに驚かされるので再読の機会が多くなりそうです。 さて、もう少し何事かを語っておきたいのですが、お三方のことをWikipedia調べしたのですが、孤高のマンガ家であるかに思われる彼らがアシスタント経験があるという事実です。岡田氏は永島慎二氏、西谷祥子氏の元でアシスタントをしており、前者は影響を受けたマンガ家、後者はお気に入りのマンガ家と幸福なアシスタント経験であったように思われます。宮谷氏は影響を受けた石ノ森章太郎氏や永島慎二氏のアシスタントを務められたそうです。宮西氏も真崎守氏やいしかわじゅん氏のアシスタントを経ているようですが、自身の絵に影響を及ぼしているのはダ・ヴィンチと語っているようです。むしろ真崎氏などは自身のアシスタントに一コマに数日を要するのがいると宮西氏のことを語ってもいるようです。とまあ、いずれもが当代の最先鋭であるマンガ家たちのアシスタントを務めた先に当人自らもマンガ家としての極北に位置するまでになったことには興奮を禁じ得ないのです。まあ、宮西氏はちょっと例外かもしれませんが。『ピッピュ 宮西計三第一作品集』(ブロンズ社, 1979)「飛び出しておいでBANANA BABY」『金色の花嫁 宮西計三作品集』(けいせい出版, 1982)「熱花のメロン」、「恋色の電極」『カボチャ王子+19篇』(松文館, 1989)、『薔薇の小部屋に百合の寝台』(久保書店, 1981)、『頭上に花をいただく物語』(フロッグ, 1989)『スーパーバイキング 宮谷一彦自選集』(チクマ秀版社, 2007)「スーパーバイキング」、「ワンペアプラスワン」、「嘆きの仮面ライダー」『岡田史子作品集1 赤い蔓草』(NTT出版, 1992)「赤と青」
2021/09/18
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前回、日本を代表する臭い食べ物として、納豆、沢庵、鮒ずしを挙げたけれど、お気付きの通り最高峰はくさやということになるでしょう。ぼくが初めてくさやを口にしたのは、大学生の頃だったでしょうか。断言するだけのしっかりした記憶があるわけではないのですが、恐らく当時もっとも親しくしていた友人の住んでいた三島にあった「高砂酒場」という素晴らしい酒場だったと思うのです。その在りし日の姿は以下のサイトで辛うじて確認することができます。酒ゆかば http://izutarou.cocolog-izu.com/haisai/2005/06/post_94b5.html 思えばここではくさやを始めとして人生で初めての食べ物をいくつも味わってきたのです。松戸をはじめ落花生の産地である千葉で呑むことも多い今ではちっとも珍しくなくなった茹で落花生を始めて食べたのもここでした。また、イナゴやちょっと変わったところではトドの煮付けなどの珍味も摘まんだと思うのです。だからくさやなどは珍味のうちにも入らぬわけで、数多の食材を調理の結果、店そのものも煮締まったかのような複雑で危険な臭気を放っていたのです。その一端をくさやが担っていたのもあるのでしょうが、ここで呑む以上はくさやの臭いなどいかほどのものでもなかったのでした。ただし、その強烈な塩味によって激しい胸焼けに見舞われたことだけは明確に記憶しています。つまり、例の強烈なアンモニア臭より塩味にやられたわけです。塩の摂取量が高いといわれる日本人のぼくですらそうなのだから、日頃薄味に慣れた舌の持ち主だと臭いにすらキツイ塩味を嗅ぎ取ってしまうかもしれません。 でも臭いというのはとても謎めいていて分かっていないことも多いようです。「臭い」と書いては、誤解を招いてしまうかもしれませんね。「臭い」がもっぱら不快なにおいを意味するのに対して、「匂い」は嗅覚を刺激するもの全般を意味するようです。ということでここでは「匂い」を用いるのが適切であると思うのですが、良い匂い/悪い匂いの差異すら実のところ好きな匂い/嫌いな匂いという個人の嗜好に依存するところが多いように思えるのです。強い「臭い」は悪臭防止法の対象となるけれど、これが万人にとっての悪臭とは限らなかったり、オヤジ臭の元となる加齢臭や口臭などを好む人がいても不思議ではないのです。また、香水なんかも付けた人が憎らしかったりすると、単なる「匂い」が「臭い」へと変化を遂げ、スメルハラスメントの対象ともなりかねないのだから厄介です。食へと話題を戻してみると、人は「匂い」を嗅ぐことでその食材なり料理などが腐敗していたり毒などが添加された有害なものでないかを嗅ぎ分けようとするけれど、世の中には腐敗臭や刺激臭を好む人が間違いなく存在するのであります。いやはや、グルメ系ではないけれど、飲食をテーマとしたこのブログでこのネタを続けることが果たして適切なのか不安ではあるけれど、まだまだ続けてみたいと思うのです。
2021/09/17
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そうそう、前回は高野氏がデビュー後、絶え間なく絶賛を浴び続けてきたということだけを語ることで終始してしまいましたが、ぼくもまたそんな盛名の威を借る狐のように、『高野文子作品集 絶対安全剃刀』所収の「うしろあたま」を自分に都合の良い解釈で利用したことがあったのでした。以前も書いたことで恐縮ですが、ぼくはこれまで何度かマンガに傾倒した時期がありまして、今もまさにそんな一時期の人生で何度目かを迎えているわけですが、ちょうど大学生の頃にも映画には及ばぬもののかなりマンガに入れ込んだ頃がありました。映画とマンガなんて、いかにも文系学生の暇潰しの時間の過ごし方みたいでありますが、実際にそれと指摘されたなら頷かざるを得ないのでありました。ただし、当時のぼくはまだまだ若かった。最後位はせめて映画のようなものでも作ってみようと意気込んだわけで、かと言ってちっとも自分自身に対して自信を持てなかったから虎の威を借りることに躊躇いわなかったのでした。人間関係の構築というもしかすると学生時代になるべき最貴重課題であるかもしれぬ振る舞いを排することで、自身を何某か成し得る者であるかのように見せたかったのかもしれません。そんな未熟な考えはともかくとして、映画もどきに出てくれる知人も少ないぼくとしては、高野氏の同作はその点で大いにお誂え向きでありましたし、何ならマンガのコマ割りそのままに撮り上げればそのまま相応な映画っぽくなるんじゃないかという甘い期待もありましたし、失敗したらしたで原作者である高野氏に責めを負わせることもできるのではないか。そうして出来上がった40分足らずの映画風の何かは己の限界をまざまざと見せつける出来栄えであり、近頃はまず見返すこともないけれど、大学を出た後も慢心しそうになる自分を律するためにのみ存在の意義を放つのでした。って高野氏とはまったく関係のない話で重ね重ね恐縮です。『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』(小学館, 1987)『るきさん』(筑摩書房, 1993)『棒がいっぽん』(マガジンハウス, 1995)「病気になったトモコさん」、「奥村さんのお茄子」『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』(講談社, 2002)「マヨネーズ」
2021/09/16
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どうやら高野文子のマンガ作品は、それを読み終えた人々を饒舌にする作用があるようです。40年を超えるキャリアを有しながら単行本でわずか7冊のみを上梓するのみという相当に寡作なマンガ家でありますが、これまでの業績に対して語られた有象無象の論評は、膨大なものとなっているようです。デビュー直後から高い評価を受け続けニューウェーブのマンガ家として大友克洋らとも並び評されており、ぼくはそのことがもしかすると寡作の原因ともなったのではないかと懸念しているところです。稀に表舞台で発言をされる際には、思いがけずもざっくばらんな語り口で、自身の作品の登場人物たちと同様に淡々と自らを語って見せるのは、もっと近寄りがたい孤高の人との印象を払拭させるのでした。特に初期の「田辺のつる」なんかは今となっては古典的とも思えるようなアイデアで勝負しているにも関わらず、余りにも高く評価され過ぎたのではないかと思うのです。荒俣宏氏が惜しげもなくアイデアを使い捨てるその思い切りの良さを絶賛していたと思いますが、この時点で驚愕しているようではその後の高野作品の驚きには付いていけないはずです。「黄色い本」では、自身にとって最後のマンガ作品となることを念頭に執筆されたそうですが、呉智英が2作を並べて評価する姿勢は高野氏の本意ではないのではないでしょうか。ここで自在なマンガ演出について、事細かに称賛してみたところで得るところはなさそうです。ここでは、まだ高野氏が未知のマンガ家である幸福な方に対して、ぜひ一読を勧めることがぼくにできる数少ない振る舞いと思います。『おともだち』(筑摩書房, 1993)『るきさん』(筑摩書房, 1993)『棒がいっぽん』(マガジンハウス, 1995)『高野文子作品集 絶対安全剃刀』(白泉社, 1982)
2021/09/15
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前回、上村氏の業績に対して空虚な賛辞を捧げたのですが、実は正直言ってぼくは上村氏の良い読者では必ずしもなかったのでした。というのもその絵だったりコマ割りだったりの美術的側面を愛しこそすれ、いつだって沈鬱な物語、文芸的側面はどうにも好きになれないからなのです。絵と話を切り離して評価をすることは真に作品を読んだとは言えぬ所業であるかもと思いつつも、マンガ作品から特定の一コマもしくは数コマのみを切り出して鑑賞するという無体な試みを続けている以上は、話は脇によけておくというのは恥を上塗りする程度の問題でしかないと開き直るのでした。さて、少し話は少しずれるけれど、ぼくにとっては、上村氏とその作品とはむしろ映画化作品において親しいものであるのです。思い浮かぶところでは、藤田敏八監督による『修羅雪姫』、山根貞之監督の『同棲時代』、野村芳太郎監督の『しなの川』、武田一成監督の『サチコの幸』などがあります。うち野村監督作品は未見でありますが、他の3作品は出来栄えはともかくとして記憶に鮮明に留まる作品であり続けています。上村作品の審美的な側面に影響が及ぼされているのか、もともと不器用な演出が持ち味となっている藤田作品もぎこちなくはあるけれど、不思議と魅力ある作品となっています。主人公を演じた梶芽衣子の貢献するところも大きいかもしれません。当時、青春映画の旗手として活躍した山根監督でありますが、この人も様式的な画作りを好む割にはうまくいかないことが多いのですが、やはりここでもピシっとは決まってこないけれど、それが逆に物語のギクシャクしたところにハマっていたように思えます。これらに対して武田作品はさすがに実力者の監督した映画らしくとてもカッコいい作品に仕上がっていました。武田一成という監督は今では忘れられつつあるように思われますが、再評価されて然るべき監督と今でも思っています。このお三方はいずれにも鈴木清順と深い関わりがあるはずで、ハッタリの効いた見せ場を大事にする清順タッチと上村氏の作風が間接的に交わった結果として見ることをできそうです。『同棲時代 愛蔵版 第1巻』(中央公論社)『菊坂ホテル 昭和の名作マンガ』(朝日新聞出版, 2008)『修羅雪姫 第1巻 修羅怨念編』(原作:小池一夫)(小池書院, 2004)『修羅雪姫 第2巻 因果応報編』(原作:小池一夫)(小池書院, 2004)
2021/09/13
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45歳という若さで「昭和の絵師」と称されもしたマンガ家、上村一夫氏は亡くなっています。上村氏のよく竹久夢二と並び評される耽美的な女性たちははじめて氏のマンガ作品に接した(多分、中央公論社の分厚い復刻版の『同棲時代』だったと思います)初心だった頃のぼくの心に皮膚を突っ張らさなければ埋没して不可視となってしまった傷跡のように思い出したように時折、視界に浮上してくるのでした。しかし、個人的には竹久よりも格段に優れた作家であると思うのです。これは極論に思えるかもしれぬけれど、上村氏の画業は単に女性の造形にのみあるわけではないことは、そのマンガ作品に接したことのある方には申し上げるまでもないのでした。それは竹久がいつだって正対した女性を描いたのに対して、上村氏はスタイリッシュというような軟弱なスタイルには収まらぬ様々な手法を駆使した劇的な表現を自らのものとしているからです。乱筆とも思われるほどにマンガを大量生産したいた一時期は筆が滑り過ぎて密度が薄くなることもあったけれど、それだけ技術を自家薬籠中の物としていた証左とも見做しうるかもしれません。見事なペンタッチはそのままアシスタントであった谷口ジローへとさらなる進化/深化を遂げて引き継がれているし、同じくアシスタントであった岩明均には劇的な演出の閃きが見て取れるように思えます。ともあれ、上村氏若くして円熟期を迎え、絶頂のままに死を迎えてしまいましたが、枯淡の域に達した画業を見てみたかったと、未だその死が悔やまれるのでした。『修羅雪姫 第2巻 因果応報編』(原作:小池一夫)(小池書院, 2004)『同棲時代 愛蔵版 第1巻』(中央公論社)
2021/09/12
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前回も少し触れましたが一連のアタゴオルの物語の主要キャラクターである猫のヒデヨシは常に酔っ払っています。だから酔うことが事件の契機になったり、それこそ吞んでばかりの物語もあったりするのだけれど、とにかく酒を呑むシーンが多いのは秘められたますむらマンガの楽しみなのです。ますむら氏本人が酒を嗜む方なのかは知らぬけれど、そうであればいいなあなんて思ってみたりします。まあ、ますむら氏は、60歳で引退を考えていたようで、ぼくがもしその年齢で引退したらきっと酒浸りでその先はそう長く生きられそうもないから、仮にますむら氏が呑む方であるならば結局引退できずに仕事を続けておられて良かったのかもしれません。まあ、ぼくにしたって宝くじに当選したら60歳とかもっと若い50歳とかで引退する、いやできると思っていたら肩の荷も少しは軽減するからそうした心理的な効果を狙って言っていただけなのかもしれません。といったところで、ボチボチにしたいのですが、いつものようにWikipediaを参照して初めて知った事実をメモしておきます。ますむら氏が宮沢賢治を敬愛していることは有名というか自明ですが、故郷岩手を理想郷として「イーハトーブ」と名付けましたが、ますむら氏の「ヨネザアド大陸」は故郷である山形県米沢市からというのは容易に想像できましたが、「アタゴオル」の出典は、「現住地である千葉県野田市の愛宕と故郷米沢市の愛宕山からの連想」から名付けられたそうです。聞いてみればどうって話でもないですね。[飲食店]『カリン島シリーズ2/3 オーロラ放送局』(全2巻)(学習研究社, 1993)『コスモス楽園記』(全5巻)(スコラ, 1988-90)『惑星ミマナ』(全3巻)(ポプラ社, 2002)[映画館]『コスモス楽園記』(全5巻)(スコラ, 1988-90)
2021/09/09
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若い頃、ますむらひろし氏のマンガが苦手でした。あからさまに過ぎる文明批判や社会批判があまりにもナイーヴに過ぎるのではないかと反発したいような気分にさせられるからです。とかく若さは直截的すぎる正論に対して敵愾心を抱くようにできている生き物のようです。正論という反駁の困難な言論に真っ向からノーと言って強弁できるだけの経験や知識に乏しい以上は黙り込むことで大人たちにあらがって見せるしかないというもどかしさもあったのかもしれません。そこに被せるように童話的なムードを前面に押し出すことで教訓や風刺の効果を巧みに組み入れてしまうますむら氏のような人を批判したくもなるのも今ではよく理解できるのです。そしてそんな風刺のようなことをわざわざマンガという媒体で説教臭く語るのには違和感を抱いていて、エコロジーのような問題はどこかよそのメディアでやってくれいという葉感すら抱くことも少なくなかったのです。人間と猫が同等の権利で生きられる世界は、どうしても現実世界の人間と猫の関係にも思いはせてしまうわけで、リアルな社会における人間と何物との関係を暗示しているのだろうかなどと余計な想像を働かさねばならないという強迫観念に駆られたりするのです。とまあ苦手だった頃のことなどまあとりあえずは捨て置くことにします。そういった若気の至らしめるものでしかない薄弱な悪意が削げ落ちてみると、そこに描かれる独創的とまではいかぬまでもアントニオ・ガウディを想起させたりもするユニークな建物だったり、植物やら鉱物を源泉とする住居なんかを眺めているだけで楽しかったりするのです。また、ヒデヨシを筆頭とするだらしなく口汚く酒癖の悪いキャラクターたちを見ているとあくせくした生活を一時でも忘れ去ることができるのでした。『アタゴオル物語』(全6巻)(朝日ソノラマ, 1987)『アタゴオル玉手箱』(全9巻)(偕成社, 1986-87)『アタゴオルは猫の森 第2巻』(メディアファクトリー, 2001)『アタゴオルは猫の森 第3巻』(メディアファクトリー, 2001)『アタゴオルは猫の森 第5巻』(メディアファクトリー, 2003)『アタゴオルは猫の森 第10巻』(メディアファクトリー, 2006)『アタゴオルは猫の森 第11巻』(メディアファクトリー, 2007)『アタゴオルは猫の森 第13巻』(メディアファクトリー, 2008)『アタゴオルは猫の森 第14巻』(メディアファクトリー, 2009)『アタゴオルは猫の森 第15巻』(メディアファクトリー, 2010)『アタゴオルは猫の森 第16巻』(メディアファクトリー, 2010)
2021/09/07
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うっかり雑談に興じてしまい、楳図氏によるマンガ作品の特異さ、というよりは異様さについて語りたかったのに、うっかりこれが最終回となってしまいました。なので、思いつくままに氏のマンガの異常さを羅列してみたいと思います。・絵本にはタイトルがなく「えほん」だったり、デパートは「デパート」、大学は「大学」、花屋は「花や」、病院は「HOSPITAL」だったり「総合病院」となんとも横着極まりないこと。せいぜいがまことちゃんの通うのは「聖秀幼稚園」だったり、遊びに行くのは「よいこ公園」なんてところで、楳図氏にはモンローだったりプレスリーなどの特権的な固有名詞は存在しても主人公たちの名はおざなりな気がします。子孫を残すことには興味があっても名付けにはあまり関心がないようです。・楳図氏の特異なコマ割りには、意味不明のアイリス、しつこいくらいの同軸の寄り、コマのサイズの出鱈目な使い分け、1コマで表現できるシーンを数コマ、場合によっては数頁に及んでみせるかと思えば、数頁を要するはずの情報を1コマに収めてみせたり、コマのサイズや密度もそこに必然性があったりなかったりなど、とにかく多彩である。 と、とにかく通常のマンガ家がこだわるところには無頓着だったり、既存のマンガ表現の文法など無視した変幻自在さで汲めども尽きぬアイデアが画面上に溢れているのです。ああ、まだまだ楳図氏の脳内には表現に至っていないアイデアが汲み尽せぬ程に保管されているんだろうなあ。『イアラ』(小学館, 2002)『おろち』(全6巻)(秋田書店, 1969-71)『まことちゃん』(全11巻)(小学館, 1999)『怪 第1巻』(秋田書店, 1972)『洗礼 第3巻』(小学館, 1995)
2021/09/04
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Wikipediaで調べると楳図氏は、徹底してオリジナルを追求するためにマンガや映画、アニメ、小説などと無縁であることを貫いてきたということです(そのすぐ後に宮崎駿によるアニメ映画の大ファンであることを公言して憚らぬとあるから俄かには信じられないけれど)。マンガを描き始めた頃は、手塚治虫氏の影響を多分に受けていたそうですが、プロマンガ家を目指すにつけ手塚カラーから脱することを肝に銘じていたとのことですから、自身が影響を受けることのなさそうな才能により産み出された作品に対しては、一定の距離を保ちつつ触れてきたのだろうと推測されます。1963年に27歳になってから遅めの状況を果たした頃にはすでにオリジナルなタッチや技法、話術を身に着けていたようだから、自由で独自の表現を身に着けるには、孤独な修業時代というのが重要となるのかもしれません。ってまあ上京前の楳図氏が孤独であったかどうかなど知る由もないのですが。加えてやはりWikipediaによればマギー司郎氏が「唯一のお友達」とのことだから上京して同じくマンガ道を進む知己を得てもなお孤独であったのかもしれませんけど。でもこれもまた、例えば久住昌之氏が一緒に食事に出掛けたりしているのを読んだりすると疑わしいものに思えるのです。ところで、楳図氏って酒は嗜むんでしょうかね? 一見すると飲酒とは無縁のようにもお見受けしますし、酒の力など借りずともそのままで飛んじゃってる気もするし。ともあれ、矛盾を抱えつつも楳図氏の偉大さは語っても語りつくせぬものであることは確かなことです。『14歳 文庫版 第1巻』(小学館, 2001)『おろち』(全6巻)(秋田書店, 1969-71)『まことちゃん』(全11巻)(小学館, 1999)『わたしは真悟 第1,2,6巻』(小学館, 2000)『シリーズこわい本〈1〉 映像(かげ)』(朝日ソノラマ, 1990)「谷間のユリ」『洗礼 第2巻』(小学館, 1995)『妄想の花園-単行本未収録作品集3-笑いの妄想』(小学館, 2001)「マリコさん事件ですよ! お地蔵さまの呪い」、「きいてください私の悩み」、「ヒゲばあさん」『楳図パーフェクション!3 蟲たちの家』(小学館, 2005)「蟲たちの家」、「目」、「きずな」
2021/09/02
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楳図かずお氏は、1936年生まれの84歳でご存命でおられるそうです。数年前にテレビのニュース番組だったかでお姿を拝見してからはめっきりお見掛けしなくなりましたがお元気でおられるのでしょうか。小学生の頃に手塚治虫の『新宝島』を読んでマンガ家を志してからというもの、1955年、高校卒業後すぐにプロデビューを果たし、その過酷な労働環境から短命なマンガ家も多い中、1995年に休筆するまでの40年間に亘って精力的にマンガ家生活を過ごされました。でも考えてみたらすでに4半世紀以上をマンガを描くことなく生きておられるというのはいかにももったいなく思うのはファン故の我儘と許してもらいたいのです。いや、連載こそしていないけれど実はこっそり『わたしは慎吾』すら凌駕する傑作を描き上げていて、然るべき発表の場を模索していたりするんじゃないかと夢想してみたりもするのです。この間、『マザー』(2014年)で映画監督としてデビューを飾っていることからも創作意欲は損なわれてはいないと思ったりするのでした。そうそう,楳図氏はもともとマルチな才能を発揮された方で、マンガ家はもちろん、映画監督も経験しましたが、俳優(『兵隊やくざ』(1965年)に出演!)や作詞家(郷ひろみの楽曲「寒い夜明け」「南の果実」を作詞!)、それに旺盛なタレント活動もよく知られるところで、マンガ界だけに留まっていられるような器ではないのかもしれませんが、やはりぼく個人としてはマンガを描き続けていてもらいたいと願うのでした。『おろち』(全6巻)(秋田書店, 1969-71)『まことちゃん』(全11巻)(小学館, 1999)『わたしは真悟 第1,2巻』(小学館, 2000)『シリーズこわい本〈1〉 映像(かげ)』(朝日ソノラマ, 1990)「谷間のユリ」『神の左手悪魔の右手 第3巻』(小学館, 1997)『洗礼 第4巻』(小学館, 1995)『猫目小僧 第2巻』(小学館)『漂流教室 第1巻』(小学館, 1993)『妄想の花園-単行本未収録作品集3-笑いの妄想』(小学館, 2001)「マリコさん事件ですよ! お地蔵さまの呪い」、「きいてください私の悩み」、「ヒゲばあさん」『楳図パーフェクション!3 蟲たちの家』(小学館, 2005)「蟲たちの家」、「目」、「きずな」
2021/08/31
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現代マンガは、現在進行中で日々進歩を続けているように思えます。いや、マンガ表現といった叙述のための技法に関しては、ほぼ出尽くしてしまったように思えますが、コンピュータの導入により作画技術が驚くばかりに向上しており、物語すらAIが産み出すようになったのだから技術的進展は今後も期待できますし、物語も複雑化する一方で洗練度を増していることは明らかに思えるのです。だからぼくが子供の頃に好んで読んでいたマンガの多くは、今振り返ってみると大部分がどうしても古びて見えてしまうのは仕方のないことでありますし、作品に触れるということは常に現在進行形であるべきとは思うけれど、どうしてもノスタルジーなどのバイアスを通さないと読み通すのが困難に思えたりもするのです。ところが、ぼくが生まれる以前からずっと孤高のマンガ家としてラディカルである困難を生き続け、数多くの作品を生産し続けたマンガ家がいます。いうまでもなく今回取り上げる楳図かずお氏でありますが、その凄さはマンガ評論家などもまだ十分には語りつくせてはいないように感じられるのです。マンガ読者としては未熟なぼくにはとても手出しできる対象ではありませんが、その一端を読み解くことはできずともその材料の一端でも提供できればいいと思っています。『イアラ』(小学館, 2002)『おろち』(全6巻)(秋田書店, 1969-71)『楳図パーフェクション!2 ねがい』(小学館, 2005)「プレゼント」、『まことちゃん』(全11巻)(小学館, 1999)『わたしは真悟 第1,2,6巻』(小学館, 2000)『恐怖 第2巻』(秋田書店, 1971)『楳図パーフェクション!3 蟲たちの家』(小学館, 2005)「蟲たちの家」、「目」、「きずな」
2021/08/29
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作家ならざるぼくには知る由もありませんが、マンガに限らず何某かの作品を残さんと企図するような人達にとっては、自身の作品を少しでも未来に向けて鑑賞し続けていって欲しいと考えるのではないでしょうか。人類がどうこうといったスパンで物事を語ったつもりになって、たかだか人類のなしえた営為において未来永劫残すべきものなどそんざいしないなどとニヒルぶって見せるつもりはないけれど、実際に作者の死後10年も作品が残ればいいほうではないかと思うのです。でも園山氏の発明によるマンモスの肉塊とそれに齧り付く登場人物の姿は今後も短くない将来に向けて記憶されていくのではないかと思うのです。実際にマンガ飯というマンガに登場する料理を引用・再現しようという試みは、マンガ食堂(https://mangashokudo.net/)を代表に多くの方たちによってHP等で公開されています。しかしながらなるほどユニークではあるけれど、思いの外独創性に欠けるのは、マンガにおける料理というものが現実の料理から大幅に逸脱することがないからであって、余りに現実離れした料理だと旨いとか不味いとかを判断する余地さえ生み出しえぬからだと思うのです。そんなマンガ飯ではありますが、多くの人たちにとって垂涎の食べ物の筆頭に挙げられるであろうものが園山氏の手による例の肉塊なのであります。実際に北極だったか南極だったかでマンモスの肉が発掘されたとの報道がなされたこともあったかと記憶しますが、マンモスに限らなければ現実に存在しても不思議でないこの食べ物が人々の記憶に残ったのは、先に書いたようにそれを食べる愉快な登場人物の描かれ方にあるんじゃないでしょうか。とてもあり得ない食いっぷりのユーモアこそがマンモスの肉塊をとてつもなく魅力的にしているのでありまして、実はそこにこそマンガ飯の可能性があるのではないかなどと愚考する次第です。『ギャートルズ 愛蔵版』(全3巻)(中央公論社, 1988)
2021/08/23
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園山俊二のマンガは子供の頃からずっと馴染みがありました。でも不思議なことに実作に触れた機会はそう多くない気がするのです。『がんばれゴンベ』や『ペエスケ』といった作品は長期連載であったにも関わらず、そんなに読んだ記憶がないのです。前者は毎日小学生新聞に連載されておりましたが、これはセールスをやっていた母親がバーターにより購読していた時期に読んだだけだし、後者は気まぐれで引っ越すたびに購読紙を変えていた父親がたまたま朝日新聞をとっていた時期に読むことができただけでした。むしろぼくにとっての園山作品とは、『はじめ人間ギャートルズ』と『はじめ人間ゴン』というテレビアニメ作品に偏るようです。というかここまでさも万人の知られたマンガ家であるかのように書いてきてしまったけれど、今の若い世代ー若いってのも曖昧だけれどーには既述のマンガ作品のタイトルすら知らぬ人も少なくないのかもしれません。でもそんな若い世代やそれこそマンガにほとんど接する機会のない方でもある園山氏にまつわる食べ物を示しさえすれば、あゝ、あれは園山氏の発明によるものなのかと膝を打ってくれるだろうと思うのです。そのある食べ物のことは次回送りにさせていただきますが、ぼくにとって親しく感じられる園山氏はお馴染みの藤子不二雄A氏の『まんが道』でとりわけの親愛の情を込めて好漢として描かれる園山氏の姿です。『第二部』にもちらりと登場したかもしれませんが、それよりも『愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春』では相棒の藤本氏以上に登場しているのではないかと感じられるほどです。園山氏の仲間である福地泡介、東海林さだお両氏の描かれ方を大幅に上回る贔屓振りです。もともとは藤子氏らトキワ荘組の兄貴分であった寺田ヒロオ氏が新漫画党に招き入れたようですが、安孫子氏には園山氏の早過ぎる死は藤本氏のそれに勝るとも劣らないものだったのではないかと愚考するのです。『ギャートルズ 愛蔵版』(全3巻)(中央公論社, 1988)
2021/08/22
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