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蔵王町について学んだ。自分が感じていた謎を解くことを軸にしながら、資料で勉強。なお、「謎」とは、次の2つだ。謎1 小学校名にもある「永野」は旧村名にないが、どこを指すのか?謎2 旧宮村は遠刈田温泉も含むが、通じる道路は円田地区なので実質飛び地。どういう経緯か?(3回シリーズです。第2回は遠刈田温泉、第3回は宮財産区について) 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 概況まず、読みは「ざおうまち」だ。市町村合併の経緯でいうと、昭和の合併で円田村と宮村が合併して命名された。明治の合併(明治22年町村制)の際は、円田、小村崎、塩沢、平沢、曲竹、矢附の6村が合併して円田村となり、他方の宮村は単独で村制を敷いた。現在、「蔵王町」の次に続く地名としては、これら7つの旧村名と「遠刈田温泉」の合計8つがある。ただし、厳密には、旧円田村の6つの地名は「大字何々」だが(例えば役場は蔵王町大字円田字西浦北10となる)、宮と遠刈田温泉は「大字」ではない。さらに細かいことを言えば、「遠刈田温泉」と同格のものとして「遠刈田温泉本町」「遠刈田温泉仲町」「遠刈田温泉旭町」「遠刈田温泉栄町」「遠刈田温泉寿町」があるので(遠刈田温泉(字)本町、ではない)、結局のところ、「蔵王町」の直下の階層をなす地名としては、大字の6つ、大字以外で7つ(「宮」、「遠刈田温泉」、遠刈田温泉市街地5町)、合計13の地名があることになる。2 江戸時代の概要(村、宿駅、温泉など)『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●宮村 宮村は東西に細長い広大な山林牧野を含む。この広範な地域は江戸時代に、向山村・宮司村・沢内村・宮町に分かれ、それぞれに肝入が置かれていた。宮町は白鳥神社のある宮宿を中心とした限られた地域で、沢内村は宮町に接し七日原・遠刈田温泉を含み、蔵王山頂お釜までの広大な地域である。●円田村 松川沿いに遠刈田温泉・青根温泉に通じ、永野は笹谷街道の宿駅であり、猿鼻(さるはな)宿を経て四方峠(しほうとうげ)を越えて川崎宿に至る。 史料には、円田(天文7年段銭古帳)、苅田荘遠田郷内(伊達正統世次考)、延田(同)などと見える。 円田村の知行主秋保氏の検地帳が残されていて、人頭144人で、寛永検地の竿答え百姓75人から69人の増と言える。人頭144人のうち、村住居95人、町住居49人で、家数を記載してある項目に「当村永野町と申し候宿場家数49軒」とあるから、町住居49人は永野宿の居住である。人数は男447人女347人の計794人で、馬数114匹とある。明治初年の「刈田郡地誌」では戸数149戸、人数1151人(男586女565)とある。 永野町鎮守は愛宕神社で、寺院として真言宗円明院、同慈眼院、曹洞宗龍源寺があったが慈眼院は廃寺となった。 永野の町裏に白崩明神があった。文治の合戦で西城戸太郎国衡の屍を埋めた所と伝え、岩山が崩れ落ちて白くみえるためにこの名があるという。蔵王町文化財(白九頭龍古墳)。古墳の上に白九頭龍神社が祀られている。同じく永野の西裏の田中に古い松の大木があった。文治の合戦の平泉側の大将金剛別当秀賢が伊達大木戸で敗戦、厚樫山も攻め抜かれ、秀賢は出羽に逃げ延びようとして病重くついにここで松の樹下で死んだという。そのため死生松という名を残している。●宿駅について 蔵王町にあった宿駅は、奥州街道沿いに、宮宿ー金瀬宿、笹谷街道沿いに、宮宿ー永野宿ー猿鼻宿、がある。それぞれの宿場には定められた人馬が準備され、荷物の継送の責任者を検断といった。宿場の中央に問屋(とんや)場があり、制札場があった。問屋場は検断や本陣を兼ねる場合があった。宿泊は本陣と旅篭のほか、格安の木賃宿があった。 宮宿は、奥州街道と笹谷街道の分岐にあり、安永風土記には、「宮町と申す宿場4丁21間78軒御坐候」とある。寛文7年書上(白石市史)によると、東側に39軒、西側31軒、御伝馬所(3軒分)、宮荒町分南側11軒、北側蓮蔵寺門前8軒、とある。本陣は幕末に設けられたと思われ、肝入の阿部氏が問屋を兼ねていた。 永野宿は、円田村の「安永風土記」によると、村居住95人、町居住49人とあり、永野町49軒で構成された。宿場は文久年間の「永野屋敷図」によると3丁14間とあり、町の中央に検断清右衛門の屋敷があり、その向かいを村田への道が東進している。また、町の北端において遠刈田への道が分かれている。「梅津政景日記」寛永3年(1626)に「永野町より雪降る」とある。 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年(1602)とする。3 役場と学校刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年(復刻版=名著出版、昭和47年、限定500部)から。なお、一部新字体にした。以下本ブログ記事において同様。同資料(第18章)から官署と学校の経緯。●宮尋常高等小学校 明治6年8月創立。初め7大学区第3中学第20番小学と称す。同19年9月尋常小学校と改称。20年4月尋常高等(ママ)併置、23年4月宮尋常小学校と改称。31年高等科(修業年限2年)を増設し宮尋常高等小学校と改称。33年4月高等科4か年とする。41年4月小学校令改正の結果、尋常56年を置き高等科1、2年を置く。●宮村役場 明治11年宮村戸長役場として宮村一村を統轄し、同14年4月宮村曲竹村を管轄し宮村曲竹村戸長役場と改称。17年宮村深谷村曲竹村八ッ宮村4ヵ役場として宮村外三ヵ村戸長役場と改称。明治22年3月31日町村制実施とともに宮村一村の宮村役場となる。おだずま注:深谷村と八ヶ宮村は、明治の合併で福岡村に含まれることになる。●遠刈田尋常高等小学校 明治9年9月以来宮尋常高等小学校の分教場としてその管轄に属したが、大正12年4月分離独立し、遠刈田尋常高等小学校と改称。大正13年4月実業補習学校を附設。●圓田尋常高等小学校 明治6年5月村内龍源寺を仮用して創立。同15年白石高等小学校区内圓田中等学校と称し、25年7月圓田尋常小学校と改称。29年高等科を併置して圓田尋常高等小学校と改称。41年5月小村崎、平澤、永野、曲竹に四分教場を置く。42年12月新築移転。44年補習学校を併置。大正11年1月平澤、小村崎両分教場を合併して平澤尋常小学校と称す。同12年、曲竹、永野両分教場を合併して永野分教場とす。●永野巡査駐在所、郵便局 巡査駐在所としては、永野巡査駐在所が記載されている。他には、宮村巡査駐在所、平澤巡査駐在所が記載されている。 なお、郵便局は、宮郵便局、遠刈田郵便局、圓田郵便局のようだ。●平澤尋常小学校(略)4 明治の町村制『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●明治の地域制度 従来の郡を大区、村を小区としたが、従来の町村とは切り離されたもので、区長や戸長も新しい観点で任用された。明治5年4月の改正では、刈田郡は第17大区で、従来の宮、曲竹、矢附の3ヶ村が第8小区、円田、塩沢、平沢、小村崎の4ヶ村が第9小区となった。 幕政時代、曲竹、宮、矢附は独立した単独の村だったが、これを解体して国家統治を効果的に地方に浸透させるため、本来戸籍事務だけのはずの戸長の職務も「小区の一切の事務に任ず」と村政全般を管掌することになる。 明治7年4月、柴田郡と刈田郡は合併して第9大区となり、郡役所というべき大区詰所は宮駅に置かれた。●学校 第7大学区(東北全体)は、仙台に我が国7番目の大学を設置し角田市に第3の中学校を、その他の各連合村には1小学校の建設計画であった。第3中学区(伊具、刈田、柴田、名取、亘理、宇多の6郡)の一番小学校は角田小学校、伊具郡内一巡の後刈田郡白石小学校が13番目に、柴田郡大河原小学校は24番目に建設された。 明治6年6月10日宮小学校(学校番号20)が三谷寺に、同年7月7日円田小学校(21番)が龍源寺に開校。生徒は宮68人、円田57人。教師は応急措置で村田の教師を派遣。通学区は明治5年の大小の行政区制度が施かれ、第8小区、第9小区がそのまま学区に置き換えられた。 明治6年7月には円田小学校平沢学校(ママ)が保昌寺を仮教室に開校(生徒数男57女5)、また同年9月には遠刈田地区に刈田嶺神社を教場に遠刈田支校が開校された。その後平沢支校は12年に円田小学校から分離し初等科3年制の独立小学校に。 円田小学校は明治8年6月新校舎に移り、平沢、小村崎、矢付(ママ)に14年には支校を設置した。宮小学校も明治9年校舎を新築。5 昭和の合併前の状況刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、から。一部新字体にした。●町村 宮村(役場所在は宮)=大字及字 宮、澤内、向山、宮司、遠刈田 圓田村(役場所在は圓田)=同 曲竹、円田、平澤、塩澤、小村崎おだずま注:大字及び字として、永野もだが、矢附の名も見えない。●宮村について(上掲資料から) 地勢上自ら東部宮と北部遠刈田の2つの中心を有する。松川は源を刈田岳に發し、遠刈田、圓田村、宮村向山区を貫流して白石川に入る。沿岸の地は細長き平地を成せども、其の他は悉く山地...●圓田村について(同上) 東南部及南部は一帯に平地にして松川この間を流れ、西部は丘陵重畳し、土浮山、七日原高原連亘、遙かに蔵王を望むべし。松川は、遠刈田にて澄川を合せ、本村に入りて永野、矢附、曲竹を貫流し、宮村に出でて白石川に合す。上流澄川を合わせざる部分を濁川と称し、多量の硫黄分を含有するを以て魚類の生息することなし。 なお、同上資料の「神社、自院、堂宇、教会」の章(第14章)の「圓田村」の項には、「御渡神社」は「永野にあり。印度より渡来の神を祀るなりと。」と記載されており、地域の呼称としての認識がわかる。6 仙南温泉軌道と永野駅 仙南温泉軌道は、大河原町と遠刈田温泉を結ぶ軽便鉄道で、現蔵王町内には、平沢駅、円田駅、永野駅、疣岩(いぼいわ)駅、遠刈田駅があった。 経緯を少し。日本鉄道の開業で、遠刈田温泉の観光客や青根の鉄鉱石の輸送を目的に、まず1900年柴田鉄道が設立される。これは、大河原から金ケ瀬、宮、永野、遠刈田を経由して青根まで馬車鉄道を敷設する計画だったが、資金難で断念。1904年、日本製鉄が鉱石運搬用の馬車鉄道を申請し、1906年に遠刈田と永野の間が先行開業。永野の先は大河原町堤地区を経て大河原駅に至る計画だったが、1907年に宮地区を経て白石駅に至るルートに変更する誘致運動が起きて工事が一時中断する。1908年に遠刈田と青根の間は貨物用索道で開通。日本製鉄は解散するが、遠刈田ー永野間は地元資本で仙南軌道として継続。永野の先は、仙南軌道が宮地区経由で北白川駅に至るルートを予定したが、大河原や村田の資産家が中心に設立した城南軌道は、平沢、村田町中心部を経由して大河原駅に至るルートを想定した。結局、郡長の調停で永野から先は城南軌道が開業させることで、1915年再申請に漕ぎつける。1918年城南軌道の大河原ー村田間が開業。1920年城南軌道が仙南軌道を吸収合併し、1921年仙南温泉軌道と改称、1922年(大正11)ようやく全線開通に至る。(下の図面は、刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、の付録から)7 昭和の合併『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。 宮城県の町村合併促進審議会が昭和28年10月答申した町村合併計画策定答申では、旧刈田郡は白石市、七ケ宿と小原の合併、宮と円田の合併による1市2町案であった。 宮村と円田村では様々な意見がだされた。宮村では各地区代表と村議会議員で構成する町村合併研究委員会が組織され、県案を中心に住民の意見を集約することになった。大方の意向は、宮地区では白石市との合併を望み、遠刈田地区は円田村との合併を希望した。これらは地理的経済的条件が近いところを望む合理的なものだったが、意見がまとまらず、住民投票を行い、結果、白石市との合併1,172票、円田村との合併1,053票となったので、合併研究委員会はこの結果を尊重して村議会に答申した。 村議会では採決の結果、12票対7票で白石市との合併が決まり申入れを行うことになった。しかし、宮村でも遠刈田地区は事情が異なり、道路その他で円田地区とのつながりが強く、村議会では遠刈田地区の円田地区への分村を表決したところ、16票対4票で決定した。 他方、円田村では、宮村宮地区が白石市を向いたため、やむを得ず宮村遠刈田との合併決議が円田村議会で決定された。 この結果を受けて、両村はそれぞれ県に内申。県議会は昭和30年3月の本会議で町村合併を議決する予定だったが、刈田郡が県の試案と合致せず、難色を示す県当局や議員が多かった。というのも、宮村宮地区を白石市に合併すると白石市が突出した広域になり、逆に弱小町村をつくることの懸念で、原案を崩さない県の意向が刈田事務所長を通じて両村長に伝えられた。 これを受けて両村は議論を深めようとしたが、利害や感情が絡んで紛糾。4月1日の町制施行のタイムリミットが3月20日であることから、3月15日から17日にかけて両村議会があいついで協議を重ね、両村の対等合併をまとめ、17日に県に「刈田郡宮村円田村を廃して蔵王町を設置する処分申請書」を提出した。昭和30年4月1日新しい蔵王町が発足した。 この紆余曲折は、両村の歴史的地理的経済的な背景や基盤が異なっていたことも指摘されているが、明治22年の町村制施行時も同様な動きがあったといわれ、大正9年には遠刈田地区が、宮村から分村独立の請願運動を行うなど、宮村の宮と遠刈田がしばしば合併分離などの経過があったことも、今回の町村合併に陰に陽に左右し続けていたとみるべきであろう。 なお、地方の町村にありがちな政治的思惑もあり、県議会議員にも動きがあったとされる。(おだずま注:具体的な記載はない。) 役場は将来の発展を考えて円田におき、宮と遠刈田に支所を置くことで両村は合意をはかった。旧円田村役場が新町役場となり、昭和52年に現在の新庁舎となる。8 現在の小中学校ここで蔵王町の学校通学区域をみてみる。小学校は5校あり、永野小学校の所在地は大字円田(円田小学校も同様)である。・円田小学校 (学区)大字塩沢の一部を除く字全部、大字円田の一部、大字平沢の一部・平沢小学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の一部・永野小学校 (学区)大字曲竹の字全部、大字矢附の字全部、大字円田の一部・宮小学校 (学区)宮の字全部(おだずま注:「大字宮」と言わない。)・遠刈田小学校 (学区)遠刈田温泉の一部を除く全部、大字円田の一部中学校は3校。・円田中学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の字全部、大字矢附の字全部、大字塩沢の字全部、大字平沢の字全部、大字曲竹の字全部(A)、大字円田の一部(C)を除く字全部、遠刈田温泉の一部(八室、大枝山)(B)・宮中学校 (学区)宮の字全部、大字曲竹の字全部(A)・遠刈田中学校 (学区)遠刈田温泉の字全部、大字円田の一部(上記C)(A)と(B)は地域が重複することになるが、通学先中学校を選択できるとされている。(B)は円田地区寄りのエリア。(A)の曲竹だが、宮中学校の学校要覧では学区に曲竹北、曲竹南と記載されているし、円田中学校の学校要覧には、円田、平沢、永野の3小学校から子どもたちが集う、と記されているので実際には曲竹地区の中学生は宮中学校に行くのだろう。大字円田の中でも遠刈田中学区となる(C)は「釜沢と土浮山の一部」とされており、すずらん峠に至る西部丘陵地帯で遠刈田に近い。なお、中学校は、統合の上で令和9年4月開校にむけて事業が進んでいる。以上から、謎を解題するとすれば、永野は宿場名に使われた由緒ある地名。旧村名では円田に含まれ小字名にも残らないが、円田村のうち主要街道を擁する南部一帯を指すものとして定着、官署名にも使われて定着してきたのだろう。遠刈田は温泉場の特殊性からか近代の村制では沢内村→宮村に包含されたが、やはり地方制度改革にあわせて宮地区との関係では離合の動きがあった。■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.18
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新聞記事で読んだ。郷土史家の木村紀夫さんが、山元町の歴史講演会(23年12月20日、ふるさとおもだか館にて。町ふるさと歴史学習会主催)で解説をされた。記事によると、要旨は以下。・藩祖伊達政宗が瑞巌寺や大崎八幡宮を造営したように、歴代藩主は統治のため仏教を政治的に大いに利用した・維新の廃仏毀釈で仙台藩士は心のよりどころを失い、他方で函館戦争に加わった藩士がカトリックやハリストス正教会に感化された・仙台・宮城は今もキリスト教徒が他県に比べて多いとされる木村さんのお話を直にお聴きしたかったし、交流センターふるさとおもだか館も訪れてみたかった。宮城県にキリスト教徒が多いとされることについて、統計や書籍に当たってみたいと思うが、時間がないので今後の課題に。それにしても、維新の激動を通じて、藩士や家族の心のよりどころ、また明治期の教育文化に大きな役割を果たした内外の宗教活動家たちの業績など、私たちは歴史をよく知らねばならないと感じる。■関連する過去の記事 神社の多い福島、少ない岩手(2014年02月09日)
2024.01.11
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残念なことに、閉鎖されていました。観光センターから眺めた秋の日の小黒崎美豆の小島から戻る小径からも眺めてみました。■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.13
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美豆の小島をはじめて訪れた。小黒崎観光センター(閉鎖)から少し国道を西に行くと、小さな案内標識に誘われて小径を降りていくのだ。川原を望む開けた場所に降りると、ちょっとした駐車スペースに奥の細道と書かれた標識が建ち、傍らに説明書きがある。 美豆の小島(みづのこじま)は、水の小島、みづの小島とも書き、10世紀初めにつくられた古今和歌集や13世紀初めの続(しょく)古今和歌集にも出てくる歌枕の名所です。 松尾芭蕉が門人の河合曽良とともにここを通ったのは、1689年7月1日(元禄2年旧暦5月15日)、尿前の関に向かう途中のことでした。それまで多くの歌に詠まれてきた美豆の小島でしたが、その場所をここと特定したのはこの時の曽良の日記がはじめてのものです。 曽良日記によると、川中に岩の島があり、松が三本、そのほか小木が生え、この時は江合川右岸と川原続きになっていたようです。さらに以前は中洲であったとも書かれています。美豆の小島は川の流れによってその形や場所を少しずつ変えていましたが、1890年(明治23年)の洪水で、荒廃してしまいました。現在の鳥居は大正時代に建てられたものです。小黒崎みつの小島にあさりする 田鶴そなくなり浪たつらしも(続古今和歌集・四条天皇)人ならぬいはきもさらにかなしきは みつのこじまの秋の夕ぐれ(続古今和歌集・順徳院)駐車場の向かいの山側にはどっしりとした石の歌碑がある。古今和歌集 巻20 東歌 をぐろ崎みつの小島の人ならば 都のつとにいざといはましを河道に向かって歩いて進むと、鹿が何頭かこっちを振り向いては走って遠ざかって行った。肝心の「小島」の写真を撮り損ねたが、鹿が戯れていた辺りのこんもりした山がそれだったのだろうか。(↓駐車場から歩いて進んでいく)(↓さらに進み、この先を右に折れてすぐ左手に「小島」があった。)(↓駐車場の山側から望んだ画像)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小僧街道踏切(大崎市)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.12
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前回記事で上原地区を探訪した(川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日))。このときは、川渡温泉駅あたりで国道47号から県道に入って山あいの上原地区に入り、その後は県道を東に抜けて国道457号に出て右折して、池月交差点で国道47号に合流した。池月交差点に出る100mほど手前にR457が陸羽東線を渡るのだが、そこは「小僧街道踏切32K736M」と表示されている。小僧街道とは初めて聞く気がする。かつて芭蕉が通った松山街道がここではないのか、などと思いを巡らせていたが、帰宅後よく調べると自分の勘違いだ。まず、小僧街道について。池月から栗原市の旧一迫町長崎地区やR398(花山方面)に抜ける現在のR457が、小僧街道と呼ばれる。山を越えてちょうどR398との重複区間が始まる交差点が、中小僧という小字になっている。また、西方の山の中(長崎川上流)には小僧不動の滝がある。この小僧に至る道ということで小僧街道の名がついたようだ。そして、松山街道だが、岩出山でも古川寄りの上野目駅付近の山寄に、天王寺追分があり、ここが出羽街道と上街道(松山街道)の分岐点だった。ここから、真山、真坂、岩ケ崎を通って一関に至るのだ。大崎市サイト(陸奥上街道)■関連する過去の記事(松山街道、上街道) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 松山道・上街道(2011年9月16日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.11
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ちょっと前の晴れた秋の日。大崎市鳴子地区の山奥のおそば屋さん(手打ち蕎麦ふく)に家族でお邪魔した。しばらく順番待ちだったが、心優しい店主の気づかいとおいしい蕎麦を堪能させていただいた。住所は鳴子温泉水沼という地名だが、周囲は入植開拓地という雰囲気。学校の建物と校庭がある。閉校の碑と銘打たれた碑文をみると、平成12年3月に閉校した上原分校である。並んでいる「開校三十周年記念」の碑は1980年と記されているので、1950年(昭和25年)の開校ということになる。以下に碑文を転記する。■開校三十周年記念凍土を掘起し 開拓の鍬を入れてから 三十年わたしたちは この分校を囲んで 部落をつくってきた子どもたちが 希望の光 であった1980年8月 上原分校育英会■閉校の碑この手に鍬を持ち 子どもらと生きることを願い 分校とともに歩んだ日々それは上原を拓く年月でもあった五十年の時が流れた 子どもらを見守る 男達の深いまなざしと 女達のやさしさが 耕す土に浸みた平成12年3月29日 文 伊藤清之 書 多田正隆読んでいると、胸が熱くなる。以下は周辺の風景。まずは、旧分校からは西の方面にひろがる牧場。次の画像は、道端の集会所と思われる施設にあるモニュメントなど。さらに、学校の東側方向にも、牧草地が広がる。■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.10
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猛暑も過ぎやっと空気に秋を感じる休日の日暮れ前、塩竈市本町、御釜社の角からのぼる坂に佇むのが、杉村惇美術館である。公民館本町(もとまち)分室/旧塩竈市公民館として、平成25年塩竈市指定有形文化財。昭和26年竣工のモダンな建築で、管理棟と大講堂(昭和32年に増築される)からなる。大講堂は逆さカテナリー(懸垂)曲線を木造で実現した初期の建築物。昭和51年に新公民館ができた際に、取り壊しも検討されたが、本町分室として残す。平成26年11月には、建物の一部を使って杉村惇美術館が開館。(以上はシオーモの解説から)展覧会。3つの視座/3.11の記憶と未来(すがわらじゅんいち、髙橋勉、村山耕二の3氏)。時がたっているが、時間とは、過去と未来をつなぐ軸だ。後戻りはできないが、私を含む人間の気持ちは、昔にも未来にも伸びていく。戻りたくない心情もあるが、未来に伝えなければならない思いもある。振り返り、美術館の建物を仰ぎ見た。■関連する過去の記事(塩竈市) 日本の塩神と鹽竈神社(2021年11月3日) 母子石(塩竈市)の伝説(2013年2月13日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 伊保石公園を散策する(10年6月6日) 塩竈寿司めぐり(10年4月8日) 宮城の小規模特認校(10年1月9日) 浦戸の小規模特認校を考える(10年1月8日) 寒風沢島に行きたい(09年9月29日) 塩竃の花火大会(08年7月21日) 塩竃の花火大会とイーグルス快勝(08年7月20日) 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日) 塩釜エスプのツリーハウス(07年6月4日) 塩釜のエスプは良いですね(05年12月1日) 日本の白菜を育てた宮城県(2011年5月1日) 宮城のかまぼこ業者(08年4月25日) 昭和57年の釜竈論争(2011年10月18日) 塩竃市体育館の命名権を考える(08年2月8日) 仙台ハクサイと沼倉吉兵衛(2015年2月16日) 守屋前次官と宮城県(07年10月30日) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)
2023.10.14
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志津川湾は、歌津、志津川、戸倉を含む南三陸町の海全体。太平洋に直接面して強く影響を受けるとともに、深い湾の奥は穏やかで、世界的に貴重な自然環境が広がっている。志津川湾には、北海道沖を通過して三陸沖で東に向きを変える親潮(寒流)と、房総半島沖で蛇行する黒潮(暖流)の支流が到達する。さらに、対馬海流が日本海から津軽海峡を抜けて南下する津軽暖流も混ざり合い、多様性豊かな貴重な海となっている。昔から漁業はさかんで、「西の明石、東の志津川」と味の良さをうたわれるタコは、イシャリという道具を船から垂らしてとる。箱メガネをのぞいて長い竿の先のカギでとるウニ、アワビ。明治から始まった養殖漁業はノリが皮切りだったが、昭和30年代からワカメ養殖が始まる。マガキも主要な産品で、2017年戸倉地区のカキ養殖がASC認証取得。ホタテ、ホヤ、ワカメ。また、ギンザケは志津川湾が養殖発祥の地だ。ラムサール条約(正式名称は、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)は、保全・再生と賢明な利用(ワイズユース)を目的とし、そのための交流・学習(CEPA)を進めることを大切とする。2018年10月18日、志津川湾が登録され、23日にドバイで開催された条約締約国会議で認定証が授与された。現在、日本には登録された湿地が52か所ある。宮城県では、伊豆沼・内沼、蕪栗沼・周辺水田、化女沼が登録されている。藻場(海藻の森や海草の草原のこと)は、多くの生き物の隠れ家や揺りかごとなり、また葉に住む小生物と一緒に海をきれいにし、生態系で大切な役割を果たすが、志津川湾では、200種以上の海藻と5種の海草が確認されている。コンブ場、アラメ場、ガラモ場、アマモ場など多様な藻場があり、マコンブとアラメの双方が見られる大変貴重な海である。環境省は国内の重要な自然環境を1000か所ほど選んで調査している(モニタリング1000)。志津川湾は全国で6か所の藻場サイトに選ばれている。毎年6月、椿島付近で生育状況を調査。南三陸ネイチャーセンター(南三陸町自然環境活用センター)では、2008年から調査に関わり、震災後、地盤沈下の影響で藻場が岸寄りにシフトしたことが明らかになった。志津川湾は、環境省が選定する「日本の重要湿地500」にも選定されている。また、細浦と折立海岸の干潟は、「宮城県の重要な干潟」に選定され、干潟からは多くの希少動物が確認されている。八幡川河口の松原海岸は、潮干狩りなどが楽しめる干潟だったが、50年ほど前、チリ地震津波の後に防潮堤が作られ、松原公園となった。2011年の東日本大震災津波で防潮堤が壊され、ふたたび干潟や磯を含む海岸に戻った。水鳥では、コクガンの重要な越冬地になっているほか、冬にやってくる渡り鳥は、マガモ、ヒドリガモ、オオガガモ、コガモ、シノリガモ、スズガモ、ホオジロガモ、クロガモ、オオバン。猛禽類では、ミサゴ、オオワシ、オジロワシ。■南三陸町発行の冊子「ラムサール条約登録湿地 志津川湾」(2021年3月26日改訂版)から
2023.08.25
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上野の国立科学博物館で現物をみて感動に震えたのは、もう6年前。その隕石の故郷(第二の?)富谷で、残暑厳しい休日の昼、再開を果たすことができました。(このあと、本記事では展示・解説の内容を記させていただきます。)とみぷら移転5周年記念「富谷隕石」特別展示(3階富谷市民俗ギャラリー)。●【パネル】富谷市外にある貴重な文化財(2) 富谷隕石富谷市富ヶ丘3丁目に昭和59年(1984)8月22日午後1時35分。石のようなものが前ぶれもなく落下し、その石は、国立科学博物館による鑑定の結果、隕石と断定されました。富谷隕石は、ケイ酸塩鉱物が主な主成分(ママ)の「石質隕石」で、宇宙にあった時と同じ状態のきれいなまま発見され、落下後20数時間で専門家の手に渡ったことなどから、太陽系誕生の過程を知る資料として貴重な資料と(ママ)なりました。現在は、東京上野にある国立科学博物館で常設展示されています。(↑画像加工で所有者のお名前を伏せました。)●【新聞記事】(河北新報紙面。ちなみに隣の漫画はヒラリ君。Yさん所蔵)ゆく夏のロマン”宇宙の使者”/いん石二個(アメ玉大)落下/一つはパジャマの上に/宮城・富谷仙台近郊の住宅団地に22日午後、アメ玉大のいん石二個が落下した。一戸は民家の物置のトタン屋根に大きな音を立てて落下、もう一個は縁側に置いてあった女児のかわいらしいパジャマの上に音もなく軟着陸した。23日、現地で確認した国立科学博物館の村山定男理化学部長は「いん石が見つかるのは世界で毎年十例前後とまれな上、住宅地にたて続けに二個も落下したのは極めて珍しい」と驚いている。 いん石が落下したのは、宮城県富谷町富ヶ丘三丁目(おだずま注:記事には番地まで記載あるが省略)、会社員Aさん(注:記事には実名と年齢あるも伏せます)の縁側と隣のYさん(注:同前)の物置屋根。発見者の浅野さんの妻Bさん(注:同前)の話だと、22日午後1時35分ごろ、隣のYさん方で「物干しざおが落ちるような」物音がして十数秒たった後、縁側に足の親指ほどの円形の石が落ちてきた。生臭いような異様なにおいがしたので、Bさんはびっくり。夫のAさんが23日朝、仙台市天文台に知らせた。 同市天文台はいん石の専門家である村山部長に連絡。同日午後駆けつけた村山部長が二つの石を鑑定、いん石と断定した。 大きさは、一つは3センチ×2.8センチ×1.7センチ(重さ19.2グラム)。もう一つは2.3センチ×2センチ×1.5センチ(8.3グラム)。いずれも色は黒っぽく、一部灰色の部分が残っていた。黒っぽく見えるのは落下の際、空気との摩擦によって焼けたもので、本来の色はわずかに残っている灰色だという。 村山部長の話によると、落下したいん石が実際に発見されるのは、毎年、世界で十例ほど。国内では昭和十三年の岐阜県、三十三年の埼玉県、今年六月三十日の青森市松森に続き、昭和に入ってからわずか四例目。特に青森市に落ちてから二カ月もたたないうちに、同じ東北地方で発見されたことは「こんなことがあり得るのだろうか」(同部長)と驚くほど珍しい現象。しかも、今回の発見された二個はいずれも「宇宙にあった時と同じ状態のきれいなまま」(同)見つかっている上、落下後二十数時間という短時間の間に専門家の手に渡っていることから、四十六億年前にさかのぼるといわれる太陽系の生成過程を知る貴重な手掛かりになる。 東北ではこれまでに青森の一例のほか、秋田、岩手各一例、山形三例の計六例のいん石が確認されている。 命名は確認された地名をかぶせるのが通常で、今年青森市に落下したものは「青森いん石」と呼ばれていることから、今回の例は「富谷いん石」と命名されそう。 Bさんの話 / 異様な音に生後三カ月になる双子の姉妹が、目を覚まし泣き出してしまいましたので、落下の瞬間ははっきり覚えています。その直後に今後は縁側でしょう。本当にびっくりしました。(中略)落ちた黒っぽい石ころは子どもが外から投げたものと思いました。でも拾ってみると、冷たくて生臭いにおいがしたので普通の石ではないと気づきました。 いん石とは / (略)写真(落下した隕石(上)といん石が落下した縁側の前で、国立科学博物館の村山定男理化学部長に「所有権はあなたのものですよと」と言われ、ニッコリする発見者のBさん(宮城県富谷町で)(おだずま注:写真では、縁側の前でBさんが小さな子を抱いています。)(↑このパジャマが受け止めてくれた。何とも天文学的偶然。しかもど真ん中です。)●【パネル】富谷を騒がせた富谷隕石とは? 1984年(昭和59年)8月22日午後1時35分に富谷市富ヶ丘三丁目に、石のようなものが前ぶれもなく落下した。その石は、国立科学博物館の村山定男理化学部長が鑑定した結果、隕石であると断定された。 そもそも隕石とは、宇宙の惑星間空間に存在する固体物質が地球の表面まで落下してきたものである。そして、隕石は大きく3つに分類することができる。鉄隕石(略)、石鉄隕石(略)、石質隕石(略)富谷隕石はこの石質隕石にあたるものである。 宇宙から飛来する隕石は、通常は発見から分析・鑑定が行われるのに間に(ママ)時間がかかり、いつどのような形で落下したのか具体的に詳細が分かる物は、数少ない。また、落下して地球の大気に触れることで、分析・鑑定を難しくしてしまう。 そんな中、富谷隕石は、宇宙にあったときと同じ状態のきれいなままで発見され、落下後20数時間で専門家の手に渡ったことなどから、太陽系の生成過程を知る資料として、貴重な資料となった。●雑誌記事(おだずま注:出典記録忘れました。村山定男理化学部長の執筆のようです。)富谷隕石 8月22日11時ごろ、今度は(おだずま注:直前が青森の話題)仙台市天文台の小石川正弘さんから電話があり、隕石が落ちたようだというので、午後の新幹線にとびのって仙台へ向かいました。仙台市天文台の机の上には小さな隕石が二つおいてありました。思わず「こんなことあっていいの?」と大きな声を出し、小坂台長に笑われてしまいました。 天文台の小石川さん、千田さん、それに郡山からかけつけた藤井さん、岡田さんらと現地に向かいました。隕石が落ちたのは仙台市天文台から北へ10kmほどの黒川郡富谷町の富ヶ丘ニュータウンにあるAさん(おだずま注:実名を伏せます)のお宅です。大勢の報道陣のなかで奥さんから話を聞きました。8月22日13時35分ごろ、奥さんが庭に面した部屋で4歳のお嬢さんにカゼ薬を飲ませていたところ、バシッと竹ざおが落ちるようなはげしい音がしたので驚いて外を見ると、まもなく今度はぬれ縁の上に干してあった洗濯物の上に、黒い石がサッと落ちてきたのだそうです。拾い上げるとなま臭いにおいがしたそうですが熱くはなく、むしろつめたかったそうです。 外にいた隣の奥さんとなんだろうとあたりを見まわすと、ななめ隣の家の物置のトタン屋根にもう一つ黒い小石がのっていました。小石川さんたちの調査では、もう1軒隣りのプレハブ物置の屋根にキズがあり、これに当たってバウンドして隣りのこの物置の屋根の上にのったらしいことがわかりました。この時の音が初めに聞こえたのでしょう。 物置に当たった方の重さが8.3g、ぬれ縁に落ちたのが19.2gと、今まで日本に落ちたものでは最小ですが、全面に黒い溶融皮膜をかぶっているものの、明らかに大気中でいくつにも割れた破片の特徴をそなえているので、ほかにもかなり落ちていると思われます。しかし落下前の爆音も火球も見えなかったようなので、隕石の規模は小さかったと思われます。当日は台風10号が日本海を北上中で、空は曇って南風が強く吹いていました。 とにかく青森隕石は落下後2昼夜、富谷隕石は1昼夜あまりという新鮮な隕石を入手しました。いずれも泥もつかず水にもぬれていないので、もちろんサビなどはまったくありません。青森の破片などはあまりにもきれいなので、最初手にしたとき、どんな種類の隕石か一瞬とまどうほどでした。青森隕石は鉄の量の少ないグループ(シソ輝石球粒隕石)、富谷隕石は鉄分の多いグループの(古銅輝石球粒隕石)でした。 隕石には宇宙空間で宇宙線に照射されてできた原子核がいろいろ含まれていますが、半減期の短い放射性原子核は、落下後なるべく早くしらべなければなりません。今回の二つは日本での新記録で、目下研究中です。 同じ東北地方に2カ月たらずの間に、相ついで落ちたのは、本当に珍しいことです。写真 / 富谷隕石の落ちたAさん宅(左)、こんなふうに拾ったの・・・・・・と語るA夫人●星の手帖vol.26(1984年秋号)日本一ちっちゃな隕石落下/富谷隕石 去る6月30日午後1時50分ごろ、青森市松森の人家に隕石が落下したばかりというのに、わずか2か月もたたない8月22日に、こんどは宮城県富谷町の住宅団地内に2個の小さな隕石が落下、拾得されるという”事件”が起こった。青森市に落下したのが昭和33年埼玉県に落下したものから26年ぶりだったから、これはもう連続隕石落下事件といっていいほどのもの。「まさか」といいながらも相つぐ隕石落下に隕石関係者は口をあんぐりしたり、ほくそ笑んだり・・・。 写真(文字通り降ってわいたような”大事件”に団地内はウワサでもちきり、おおぜいの住人が事件現場にかけつけ、他にも黒い石がないかとあちこちさがしまわる姿が見うけられた。) 写真(隕石を見つけたBさん(左端)から落下の事情を聞く村山定男先生。拾われたからわずか26時間後。これほど早く専門家の手にわたった隕石の例はない。) 写真(住宅のぬれ縁にビシッというするどい物音をたてて落下した。周囲の事情から隕石は南東の方向から飛来したらしい。) 写真(「赤ちゃんの世話をしていたら、なにかが落ちてきた音がして、こうやってひろいあげました・・・・・・」。隕石の大きい方は縁側になった女児用パジャマの上に見事ソフトランディング。落下時の音のするどさに赤ちゃんもビクリと反応したとか。) 写真(隕石はこうして落ちたが、もし別の場所だったら発見されたかどうかわからない。)(↑民俗ギャラリーでいただきました。)■関連する過去の記事 神岡隕石を持つ人(2013年2月28日) 巨大隕石と東北(2013年2月16日) 気仙隕石(2010年2月15日)
2023.08.20
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南蔵王の高原をわたる県道の傍にある。1945年3月10日未明に米軍B29爆撃機3機が不忘山に墜落し、米兵34人が落命。山頂から300メートルほど下ったところに、1961年に碑が立てれらた(不忘会建立と刻まれている)。その石碑を抱く不忘山を遠望できるこの地に、石碑の刻文を紹介しながら「不忘の碑」として1982年(昭和57)に作られたようだ。この広場の北の方には、開拓の記念碑がある。路傍のバス停の脇の石からは、清水が噴出しているのが、不思議だ。また、碑のある開けた広場の南側には、水分神社がある。そもそもこの広場が神社の境内なのかも知れない。また、この県道を南下した七ケ宿町の長老湖ちかくには、不忘平和記念公園がつくられ、不忘の碑(レプリカ)、世界平和の祈念碑が、2015年8月2日に除幕された。■関連する過去の記事(不忘の碑) 昭和20年不忘山にB29が墜落(2015年8月4日) 船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日) 宮城県内の戦災はどうだったのか(06年8月2日) 藤井前市長の話(06年7月13日)(空襲の話)■関連する過去の記事(白石、蔵王など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) 白石の横丁を考える(2013年4月3日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 白石城の来場者が激増(09年3月12日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 蔵王の紅葉(07年10月15日) 蔵王三階の滝(07年10月14日) 白石の芝桜(07年5月14日) 白石湯沢温泉「やくせん」(07年5月13日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)
2023.08.11
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『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(川島秀一執筆部分)■関連する記事 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・糸車を回す婆様(山中の家に居り、何度撃っても笑っている。最後には老体のサルが正体を現し、婆様と思ったのは木の根だあった)・海人魚(唐桑町津本の漁師がカツオ船で目撃したクジラのようなヒレを持ち胴体は人間の女性。同町鮪立では捕まえた人魚を逃がしたら、舐めれば三年長生きするのに、と揶揄われた。)・海坊主(網地島のカツオ船が大漁するたびに船上から熊野神社に投げていた。もったいないからと潜ってそのカツオを拾い上げた船頭が、大坊主に片手をつかまれ、馬屋の馬を海に引っ張り込んだ。)・大鱈(気仙沼市五駄鱈の家の娘に毎夜通ってくる和子様(若者)の袴に麻糸をつけて、翌朝たどっていくと沼の中に大きな鱈が死んでいた。南三陸町戸倉の同様の話は「姫子岩」で鱈の親分に子分が集まる所の話で、鱈網で大漁する漁場だった。)・片目の鮒(大郷町大谷のメッコ沼の鮒は、漁師が大鮒の目を貫いて殺したため、みな片目だというが、その漁師も片目を刺されて死んでいた。)・河童(旧暦6月15日は天王様の祭日で各家で初物のキュウリを供えるが、気仙沼地方では河童様にあげ申すと唱えた。河童に引かれるからと危険な場所で子どもが泳ぐのを注意することもある。色麻町の磯良神社はオカッパ様と呼ばれ、宮司の姓は代々「川童」である。)・ザシキワラシ(気仙沼市大島村上家。旧長磯村斎藤家。気仙沼尋常小学校。南三陸町入谷の菅原家では代かきを手伝ってくれたワラシに魚を御馳走したが、雲南神社の祠に入っていたので、以来菅原家では田仕事に魚を食べない。南方町原の佐々木家。宮戸島の観音寺では、三寸くらいのザシキワラシが多数酒を飲みかわすが、見た者は小人になってしまう。)・大蛇(気仙沼市名木沢の門兵衛が鉄砲で撃った大蛇が、大島の葡萄口まで流されて死んだ。その祟りで門兵衛一族が大島に渡るとさざ波が立ち、一族は代々片目が悪い。大郷町では板谷斎兵衛が大蛇を撃った話。七ヶ浜花渕浜の花淵善兵衛は大蛇の歯に刺さっていた獣骨を抜いてやり、山の蛇除けの言葉を教えられた。)・テンテンコブシ(気仙沼地方で、わら打ちの槌を椿の木でつくると、その晩に化け物が来る。)・人をだます猫(離島に多い話。小野喜惣治『田代管見録』(1888)。また、網地島では、田代島から渡って来たマントに高帽の男が渡した金が木の葉だった。網地島で宿直の先生が毎晩猫を目撃したが、その猫が船賃として2円を出した。今でも臨時に田代島から網地島に船を出してもらうときには2000円を払うという。出島では唄を、野々島では浄瑠璃を歌う猫の話。田代島には猫神様、野々島には猫神社が祀られている。)・ヒヒ(本吉町でヒヒ(老年のサル)にさらわれた娘がを、故郷の者が五葉山で見つけたが、何不自由ないので帰らないと語った。)・船幽霊(菅江真澄が1786年気仙沼大島に渡る船中で聞いた。沖に碇泊していたカツオ船に次々と人が乗り移ってくるので、狭い一室に閉じ込めると翌朝にはみなクラゲになっていた。七ヶ浜にも同様の話がある。南三陸町寺浜では、大阪徳蔵という船頭の船の前に急に山が現れたが、乗り切って助かった。「大阪徳蔵山乗った」という地口が残る。清水浜ではハモドウ(ハモ漁の筌)を挙げているときに多数の手が船べりにすがりついた。)・まさぼう滝(気仙沼市渡戸川の小滝に浮いた大ウナギを取り上げダツ(運搬具)に入れたところ、マサボウ、マサボウ、いつ来るや、と滝の中から声が聞こえ、ダツの中から大ウナギが、マサはいつ来る来ずさ、と声を返したので、男は一目散に逃げ帰った。同様の話のある「昌坊滝」が登米市東和町と藤沢町の境にも伝えられる。)・山小屋の妖怪(気仙沼市塚沢で出会った化け物は人の心を読むので退治に難儀したが、そのうち小屋のオキリ(炭火)が跳んできて退散した。同市西才中に同型の話がある。)■関連する過去の記事 ごんだら村(気仙沼市五駄鱈)(2013年2月8日)ほかにも多数あります。フリーページの記事リストご覧ください。
2023.07.13
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徳仙丈山。5月の晴れた日に、気仙沼川の登山口から登りました。向かう途中に、ちょうどラジオの石丸謙二郎の山カフェでツツジの海という読者の声を取り上げていた。(勉強の成果は、画像の後に。)(以下、気仙沼市のパンフレット2021.3から)標高711mの徳仙丈山の最大の魅力は、ツツジの大群生を散歩気分で満喫できること。ツツジの面積は約50ha、本数約50万本。野鳥の宝庫でもある。気仙沼側にある徳仙奥入瀬では、清流のせせらぎも。■深紅に染まる名山 5月中旬から下旬には50万本のヤマツツジやレンゲツツジが全山を深紅に染めあげる。 登山口は南北に二か所。北の気仙沼登山口からは、つつじが原を見渡す第一展望台。さらに第二展望台から眼下には、ツツジと太平洋の紺碧が織りなす雄大な風景が迫る。その先は、人の背丈を超すほどのつつじ街道を通って山頂へ。 本吉側からは、まず駐車場そばの長命清水でのどを潤し、のんびり作業道コースと尾根道コースから道を選らぶ。 どちらからも山頂には40分ほど。360度の絶景が待っている。視界を遮る高木がないため、東にリアス式海岸が続く太平洋、大島、南に金華山、北東に五葉山、西に栗駒山、北に室根山、大森山を一望。また、自然保護を願い登山者の労をねぎらおうと、樹齢1000年以上のツツジを御神体とする石造りの徳仙丈山神社も建立されている。 昔、屋根葺きや農耕馬用の採草地だったことから、山焼きが行われ、その火防線は現在の登山道の一部。山焼きや伐採など多くの試練を耐え抜いたツツジ。その成長の陰には、本吉側の「徳仙丈山つつじ保存会」、気仙沼側の「徳仙丈の自然とつつじを守る会」とその意思(ママ)を継いだ「徳仙丈のつつじを愛する会」の長年にわたる保護活動の尽力があった。 気仙沼側には、清らかなせせらぎの徳仙奥入瀬があり、大きな岩を抱いた「岩抱きけやき」をはじめ美しい風景が点在する。■ツツジの名所になったワケ 徳仙丈山には大正初期から昭和25年まで銅を採掘した徳仙鉱山があり、火入れや山火事跡は萱や牧草地として利用されていた。現在の登山道の一部は火防線として明治につくられたもの。その後幾度も山火事や植林事業を経て、厳しい自然環境に耐え、山頂一帯が黒野牧(くろのぼく)という土がツツジの成長に適していたことなどから、自生のヤマツツジの大群落となったといわれる。昭和51年に気仙沼側の故佐々木梅吉氏ら、同年に本吉側の故須藤隆氏らにより撫育や保護事業が開始され、以後双方の住民による地道な活動によって、現在の徳仙丈山が日本屈指の名所となった。 日本一のツツジの山と言われる徳仙丈山だが、30数年ほど前はツツジの株も小さく地元でさえもあまり注目されることはなかった。昭和51年、当時の気仙沼市議、故・佐々木梅吉氏は、山に咲くツツジに魅了され仲間とともに下草やツツジに絡まるツタを刈る作業をしながら、撫育管理の必要性を訴えた。この作業により草木の陰となっていたツツジは大きく成長し鮮やかに山を彩るようになり、後に市も草刈りや歩道の整備などを行った。佐々木氏は有志による「徳仙丈の自然とつつじを守る会」を結成し、昭和53年に第1回つつじ祭りを主催。その意思(ママ)は現在「徳仙丈のつつじを愛する会」に引き継がれ、つつじ祭りの開催や自然保護活動が行われている。 昭和51年、当時の本吉町議、故・須藤隆氏は「本町の貴重な財産であるつつじの保護」を議会に求め、ツツジの魅力と山の整備を町に訴えながら、自ら草を刈り、ツツジの生育に適した環境づくりを行った。昭和56年からツツジの保護活動が町の事業として開始され、昭和63年に「本吉町徳仙丈山つつじ保存会」を結成、平成元年に第1回徳仙丈山つつじ祭りを主催、現在までつつじ祭りや下草刈り、ツタ刈りなどの活動を行っている。 二人の先人の熱い想いと、それに共感した地域の人々の地道な活動が市や町を動かしてきた歩みが、徳仙丈山のツツジが全国に名を馳せる礎になっている。
2023.06.01
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田束山にのぼった。海岸のまちを、観音様が見守っている。
2023.05.30
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歌津といえば、魚竜だ、というのが若い頃のイメージ。それなのに、震災前に魚竜館にも行かないでいた自分を恥じていたのだが、過日やっと、ゆかりの地に立った。(魚竜化石の意味、震災を挟んだ経緯など勉強の成果は、画像の後に。)歌津ICからR45に出て、ハマーレ歌津かもめ館に入り、化石の展示を眺める。誰もいなかったが、かもめの本屋さん、また復興支援で寄せられた機材や木製机などが印象的。階段を上がると展望スペースがある。R45を北に進み、GSのある管の浜交差点を、右折。初めて泊崎半島方面に向かう。館崎漁港に碑があるので県道からそれて車を停める。ここから、防潮堤をくぐって海岸(漁港)に出ると、魚竜化石産地を示し解説をする石碑3基が建っている。奥には木製の階段があり、林を越えて海岸の化石産地に降りることができるのだ。この階段の設置は大震災の後だろうか。他方で、岸壁の端に防波堤を越えて海側に降りていく幅の狭いコンクリートの階段があった。宮城県の公式サイト(指定文化財)の説明では、大震災の前と思われる写真がある。その写真では、現在岸壁の上にある3つの碑(下記画像)は、波にもまれる地層が角張って露出する海岸に直面している。比較すると、3つの碑もだいぶ内陸に移ったような感じがするが、海岸を復旧工事による護岸や防波堤のために、三畳紀の地層の露出する海岸を多少つぶしたように思う。その後、半島の先に足を延ばしてみた。仙台藩の泊浜唐船番所があったはずだ。■関連する過去の記事 仙台藩の唐船番所(2011年10月7日)半島の先端には、尾崎神社がある。付近から海を眺めると(下の画像)、初夏の曇り空の下で、波がのたりと動いていた。さて、以下は歌津魚竜に関する勉強の成果です。1.歌津魚竜の発見歌津町(当時)館崎の海岸に露出している稲井層群大沢類層で発見された。1970年9月、東北大学の畑井小虎(はたいことら、1909-1977)古生物学教室の村田正文氏ら日本地質学会の研究グループが、館崎岬の西側一帯の海岸から十数体の化石を発見。魚竜は、恐竜と同じ頃に栄えた爬虫類で、イルカに似た体格で海に生息した。中生代三畳紀前期。2億4200万年前と推定され、世界最古の魚竜化石として、ウタツサウルスと命名された。1975年国天然記念物に指定(歌津館崎の魚竜化石産地及び魚竜化石)。2010年には、ベレムナイト(イカに似た動物)の新種化石がみつかる。2.魚竜館と総合展示室歌津や志津川などで魚竜類や貝類の化石発見が相次いだことから、町おこしの拠点となる博物館として、国道45号沿いに、1990年にオープン(歌津町字管の浜194、現在は管の浜漁港)。2階建の歌津町水産振興センター2階展示室(総合展示室)と露頭展示施設である魚竜館からなり、歌津管の浜漁港防波堤のすぐ脇に立地していた。天然記念物の指定地の外であり、第二標本発見現場とされる。総合展示室では、歌津産出のアンモナイト化石、南ドイツホルマーデン魚竜化石、イタリアのベノーザ魚竜化石、このほか、カナダやタイの化石標本も展示されていた。また、昔の漁具などを展示した。1階では地場産品の販売も行われた。魚竜館は、白色に水色の一本の横帯が描かれた外観。魚竜化石の発掘場所の上に建物が建てられ、発掘した状態の維持が図られていた珍しい展示方法である。魚竜化石は前期三畳紀のウタツサウルスではなく、中期三畳紀のミクソサウルス類、通称「管の浜魚竜」である。地元の特産品販売や食事スペースもあり、観光がてらに食事・買い物を楽しむ観光客が多かった。来場者は、2010年には6万人を超えていた。3.東日本大震災2011年東日本大震災で被災。化石標本は、がれきに埋もれ、しかも、地盤が1メートルほど沈下したため、展示されていた化石は海中に水没した。化石などの収蔵品の大部分が東北大学文化財レスキューチームの協力により救出され、破損部分は修復された。その一部が2013年3月より歌津コミュニティ図書館(現歌津支所)に展示された。2019年8月から、歌津町産直の店「みなさん館」内に「みなみさんりく発掘ミュージアム」と称し、歌津魚竜の化石標本や、歌津地区で出土した化石の展示、またかっての地域産業道具も展示された。(その後の経緯はわからないが、ハマーレかもめ館で見たものがそれだろうか。歌津支所にも行けばもっと分かったかも知れない。)4.魚竜化石と国際交流1999年11月、町制40周年記念事業として、ドイツやイタリアの研究者が会して「国際魚竜サミット~魚竜化石と自然史博物館」が歌津町で開かれる。また、イタリアのベザーノ町(ベザノサウルスが発見された)とは、国際友好都市提携を行い、1995年から中学生の相互ホームステイ等の国際交流が行われている。■関連する過去の記事(歌津に関するものです) 仙台藩の唐船番所(2011年10月7日)(泊浜に番所があった) 松島のタロちゃんを考える(10年1月19日)(2002年9月に歌津のウタちゃんが話題に!)
2023.05.21
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今朝、新聞を広げて思わずあっと声を上げた。あの双子だ!■関連する過去の記事 a half of twins = a twin ?(09年8月29日)(角田出身の双子が大相撲入入門)河北新報記事(4月16日朝刊とうほく面)。挑発的な見出しとともに、二人の写真が載っている。斉藤ブラザーズ 宮城凱旋 / 角田出身・悪役双子レスラー全日本プロレス 23日、仙台大会「満足させてやるから見に来い」「チョップ100発 つぶす」記事によると、斉藤ジュン(36)とレイ(36)の双子の兄弟。角田市出身で母が日本人、父が米国人。高校から約7年間を米国で過ごし、高校時代はアメフト州大会で優勝。09年から約8年間大相撲出羽海部屋で修行。引退後、20年12月全日本プロレス公開入門テストに揃って合格、2021年後楽園ホールでデビューし、悪役レスラーで人気急上昇。23日の全日本プロレス・チャンピオンカーニバル仙台大会に出場を前に、河北新報を訪問して取材を受けたようだ。ハーフという言葉の使い方が気になって、前回の記事を書いてからもう14年が経っている。おぼろげな記憶だが、ほかの報道で亘理町の出身(親が在住の意味だったかも)とするものがあったと思う。今回の記事ではハーフの語は使っていないが、河北新報オンラインでは、【動画】悪役レスラーは双子でハーフで元力士/「斉藤ブラザーズ」が宮城で凱旋試合となっていた。「双子のハーフ」と書かないのは、私の14年前のブログを河北新報さんが気に留めてくれたからである(はずはない)。それはどうでも良いとして、私もこの動画を見た。斉藤兄弟、大人になったな(昔を知っているわけではないが)!様々な経験を経て、堂々宮城に凱旋だ。がんばれ、ふるさとを大いに盛り上げてほしい。
2023.04.16
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仙台藩が雄藩だったとか、そのアナロジーだろうが、東北の雄県と冠して宮城県を論じる風がある。存在感を放った大藩の誇りを示す枕詞としてさほど気に留めていなかったが、ある雑学本を眺めていて、「雄藩」の意味に自分が無知だったことに気づくとともに、不安感を覚えた。■小和田哲男監修『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365 歴史編』文響社、2021年(218雄藩、のページ)雄藩の説明として、天保の改革で幕政立て直しを模索しているころに、藩政改革に成功して、経済力と軍事力を背景に幕末維新期に国を動かす原動力となった藩のこととしている。文章中では、薩摩、長州、肥前、土佐、宇和島などの外様藩や、水戸、越前などの親藩が紹介されている。とすると、「雄藩」とは、藩政改革がうまくいって、幕末から明治日本への歴史で主役となったダイナミックさをもつ藩になるが、その呼称は、明治初期にでも誰かの著書や新聞論調などで定着したのだろうか。仙台藩が列するのは無理があるように思うが、西南諸藩偏重の明治改革に対して反骨の精神をもって、我こそ雄藩なり、という気概で明治以降の仙台人が意図的に自称したのだろうか。それとも、そもそも藩内体制刷新や維新のダイナミズミとは別に、藩政期全般を通して経済力をもった藩に「雄藩」の語を当てた文献があったのかも知れない。あるいは、最初はダイナミズムだったが、どこかで経済力や規模の大きい藩を漠然と示す意味にも使われるようになったのか。この辺は深読みが過ぎるかもしれないが、いずれにしても、仙台の人が「雄藩」というときに、全国的な観点からは違和感を惹起するのではないか、アレまた仙台人の独りよがりダネと言われないか、というのが冒頭に記した自分の「不安感」だ。大したことではないかも知れないが。それにしても、仙台・宮城の人は「雄藩」や「雄県」をよく言うと感じる。他と比較してみよう。まず、宮城県議会の議事録(ネット)をみてみた。代表的な言い方と思われるものを紹介する。■雄藩(ヒット7件)事例(1)「我が宮城県は奈良朝時代既に国府を置かれた樞要な地であり藩租正宗公仙台に治府以来天下の雄藩として独特の地方文化を創造して重きをなして...」(昭和22年、県史編纂を進めるべしとの意見書の中で。漢字はママ)事例(2)「当時、仙台藩主だった伊達政宗公の指揮のもと、復興事業が始まり、米や木材等を運ぶ運河、沿岸部の新田開発、更に製塩業の振興など次々に手が打たれ、この時の挑戦が後に実質百万石と言われる雄藩に成長する基礎となりました...」(平成28年)事例(3)「河北新報社発刊の「宮城県百科事典」では次のように解説しております。県名の由来、1871年、明治4年、仙台藩は仙台県となったが、政府部内に仙台という名は過去の雄藩を連想させるとして翌年1月8日宮城県に改称したと言われる...」(平成29年、多賀城跡の整備を促進すべきとの質問で。)ここに掲げた3事例以外に、本来(たぶん)の「雄藩」の意味(ダイナミズムある藩)に忠実といえるものもあるが、大半のヒット例は、これら事例のように仙台藩が「雄藩」だったという認識だ。つぎに、「大藩」と「雄県」を確認してみよう。■大藩(ヒット1件)(仙台・宮城に関わる発言ではない)■雄県(ヒット49件)事例(1)「東北の雄県であります本県の警察長を拝命いたしましたことを光栄に存じます...」(昭和23年)事例(2)「こうした宮城県の貧弱さ、かつて全国に誇る雄県として認められておつた宮城県が、かような状態にある一事をもつてしても...」(昭和26年)事例(3)「こういったデータによって他県と比較してみると、かつて東北の雄県と言われた宮城県の姿は、随分かすんできたなというのが実感であります...」(平成16年)「雄県」は、ほとんどの場合「東北の雄県」という表現が定着しており、だから他県に先を越されるべきでない、とか、それに相応しい基盤整備をせよ、などの文脈で用いられている。中には、近代の宮城県の地位(東北の中心として官公所などが置かれたなど)を重視するものもある。語呂はともかく、「雄藩」との歴史的連続性が意識されている訳ではないと感じる。さて、他県はどうだろうか。(ヒット数は、検索対象期間などが異なり一概に比較できない。)■石川県議会「雄藩」(ヒット1件)例「まさにこのことが百万石という雄藩をつくる礎になったのではないか...」(平成14年)■同「大藩」(ヒット4件)例「まさに旧百万石の大藩の面影とそのすばらしい様は、また新たなる大きな観光の目玉ともなり...」(平成3年)■同「雄県」(ヒット17件)例「裏日本の小県であった石川県を今やさん然と輝く日本海側の雄県、トップリーダー県に押し上げられたのはほかならぬ谷本知事の卓越したリーダーシップによる...」(令和4年)例「北陸国際空港建設という大きな視点で見た場合、北陸の雄県として隣県との連携をどのように...」(平成3年)石川県では、「北陸の雄県」などと言われるようだ。■岩手県議会「雄藩」(ヒット1件)西南雄藩との語法だ。■同「大藩」(ヒットなし)■同「雄県」(ヒットなし)■鹿児島県議会「雄藩」(ヒット1件)「近代日本の黎明期、西国の雄藩薩摩は、西洋の文明を先駆けて取り入れ、明治維新の原動力となりました...」(平成6年)■同「大藩」(ヒットなし)■同「雄県」(ヒットなし)雄藩や雄県なるワードに対する思い入れは、仙台・宮城に特有かもしれない。江戸時代の経済大藩という歴史認識に加えて、明治以後も東北の中心という位置づけがされた事実をもとに、本来(たぶん)の意味の「雄藩」に対しては意図的か無意識的かは別として、わが郷土を称揚する決まり文句として、あるいは、現状改善を訴えるスローガンとして多用され続けてきた、というあたりだろうか。(雄藩の表現の経緯については、資料や論考があると思われます。当ジャーナルでも課題としてまいります。)■関連する過去の記事(仙台・宮城の県民性や歴史認識などに関しては、下記以外もあります。フリーページ記事リストをご覧ください。) 三柄大名(07年8月17日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)(明治末年の出来事) 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 仙台文化を理論的に解明?(06年2月17日)
2023.02.26
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一度は見たかった奇祭。米川の水かぶりを堪能できました。ユネスコ無形文化遺産、来訪神:仮面・仮装の神々、です。良く晴れた初午の日曜日、2月5日の朝。10時頃に、町場の手前の特設駐車場に停めて歩いていくと、受付テントがあり、ここで体温をチェックされ、黄色い健康チェック済みステッカーを腕に貼ってもらいました。保存会の皆さんのようです。町中にはすでに多くの人たちが集まっていました。大慈寺山門下で一行の登場を待ち、その後は通りに出て行列を眺めました。ありがたいことに、私自身も水もかぶりました。藁に身をまとった人たちが疾走するものだと勝手に想像していたのですが、実際にはゆっくり歩いて、人々が藁を抜く(火除けのお守りになる)のでした。以下は、受付でいただいた資料(こういうのが実に有難いです)からのお勉強。■伝承について米川の水かぶりは、登米市東和町米川地区で古くから受け継がれてきた火伏行事。毎年2月の初午の日に行われる。しめなわと被り物を纏った奇怪な姿の者たちが、火伏せ(火災除け)を願って沿道の家々に水をかけながら社寺等を参詣する。起源は定かでないが、「水かぶり宿」の口伝によれば、江戸時代中期にはすでにこの行事が行われていて、一度も休まずに続けられてきたという。一説には、地区内の諏訪森大慈寺の修行僧の行が起源とも言われる。伝承は、水かぶり宿と呼ばれる菅原家だけが代々受け継いでいる。水かぶり宿とは、神様の宿るところ、立ち寄るところであり、お世話を担うところである。この行事は米川地区、その中でも五日町の元服以上の男性だけが装束を身に着けて参加できる。元服については、数えの年齢で15歳前後とされている。五日町は住所表示の名称ではなく町内会の名称であり、地域の住民により通称として使われている。伝承によれば、水かぶりは火伏せ行事を主意として伝えられ、付帯の意味として厄払いや新たに地域の集団に迎え入れる男性の成人儀礼と通過儀礼の意味も有する。水かぶり参加者で厄年に当たる者には厄払いになるので、還暦や厄年等に当たる者の一人が幣束を付けた梵天を掲げ持ち、水かぶりの一団の先頭を務める。■水かぶり行事のあらまし参加する五日町の男性たちは、2月初午の早朝、菅原家に集まってそれぞれ支度を整える。裸体(白い股引きのようなものを着用)になって身を清め、腰と肩に稲わらで作った「しめなわ」を巻き、同じく稲わらで作った「アタマ」と「ワッカ(ワ)」を頭から被り、足にわらじを履く。身にまとう「しめなわ」は三本で、「アタマ」は頭から被る大きな苞状のものである。これら「しめなわ」と「アタマ」は「オシメ」とも呼ばれる。水かぶりの特徴的な装束の中で特に「アタマ」の形は各自が工夫を凝らして作り身につける。さらに、顔には火の神様の印であるかまどの煤を塗る。水かぶり装束を身に纏うことで、男性たちは来訪神に化身する。化身した一団は、水かぶり宿の菅原家を出発してから地区内の法輪山大慈寺(永享元年、1429年、中山良用大和尚が再興、奥州三十三観音の第14札所)の境内にある秋葉山大権現様に火伏せの祈願をする。次に、藤原秀衡が嘉応2年(1170)に建立した諏訪森大慈寺跡に火伏せの祈願をする。その後、一団は地区内に繰り出して、奇声を発しながら家々の前に用意された手桶の水を家にかけて火伏せをする。一団を見守る人々は、水かぶりが身に着けたしめなわ等から稲わらを抜き取り、火伏のお守りとする。お守りの稲わらは、下記から離れた場所を選び、家の屋根にあげたり、家のどこかに飾っておいたりする。どのような形で火伏せを祈願するにしても、神様に感謝する気持ちが第一であると伝えられている。水かぶりの一団とは別に、手鐘を鳴らす墨染僧衣の「火男(ひょっとこ)」と、天秤棒に手桶を担いだ「おかめ」が托鉢の形で家々を訪れる。この2人は、家々に福をもたらす来訪神といわれ、火男は火の神様の仮の御姿で、おかめはその相方と伝えられている。これも古くからおこなわれているものである。■地域を挙げての伝承活動昭和46年10月8日付で東和町の無形民俗文化財に指定され、平成3年8月30日付で宮城県から無形民俗文化財に指定された。機運の高まりにより、菅原家当主を会長として、平成4年2月6日に「米川の水かぶり保存会」が結成された。五日町地区の全世帯が会員となり、年齢や男女を問わずそれぞれの役割を担う。関係各位の協力も受け、地域を挙げて伝承活動に取り組んでいる。後継者の育成、行事の保存に向けた動画や写真による記録作成など活動の幅も広がり、平成12年12月27日付で国の重要無形民俗文化財に指定される。■次の世代に米川地域でも伝統行事をどう伝承していくか検討している。特に、参加できる五日町の男性の確保については、小学校高学年の男子児童の参加を「元服年齢前後」として認めるとともに、児童生徒の行事見学で各学校に協力を求めるなど、次世代への周知に努めている。先人は自然の力を恐れ敬い、崇め奉ってきた。神様に祈りを捧げ守護していただけるように、さまざまな祭りや行事が行われてきた。米川の水かぶりにおける火伏せの意味するところも、人々に多くの恩恵をもたらす火を遠ざけるのではなく、災いとならないよう火の神様に祈願する一つの形である。ユネスコ無形文化遺産の登録を大きな周知の機会として理解が広がるとともに、先人の思いと信仰が結びついて今に伝わる米川の水かぶりは、世界に認められた各地の行事とも連携しつつ、次の世代に継承していく。■関連する過去の記事(登米市関係) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日)民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.02.09
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ここ数年、雪のない1月に慣れきっているので、先週前半からの寒波襲来には驚いた人が多いだろう。とにかく気温が低い。25日には、仙台ではマイナス7.5度、石巻ではマイナス8.2度、登米市米山マイナス9.4度を記録したという。日中も気温が上がらず仙台のマイナス4.2度は過去2番目、気仙沼のマイナス7度は過去最低。10年に一度クラスの寒波と表現する報道があった。■関連する過去の記事 2月最高の気温を記録!(2016年02月15日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年01月07日) 昭和22年以来の積雪を記録(2013年4月21日) 積雪最新記録を更新中(2013年02月25日) 釜石で35.6度(2022年06月26日) 9月の気温差 盛岡が世界2位(2012年10月15日) 積雪の一番は青森県(2012年03月03日) 今季一番の冷え込み(2012年01月29日) 異常低温の冬 仙台(2012年01月28日) 冬将軍頑張る(2011年1月30日) 薮川はもう氷点下3.8度!(2010年10月20日) 四月の雪を考える(2010年4月17日) 花と雪(同じ日) 9月に最高記録更新! 暑いぜ仙台(10年9月4日) 真夏日数が過去最高に(10年8月25日) 薮川が寒い理由(10年2月7日) 仙台の最低気温を考える(10年1月15日) 大雪の庄内(09年12月17日) 薮川で氷点下(08年9月29日) ダイナミックな寒暖の差(06年11月28日) マイナス10度の朝を迎えられるか(06年1月9日)
2023.01.29
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本に書いていた。四万温泉(群馬県中条町)、湯平温泉(大分県由布市)と並んで、わが宮城県川崎町の峩々温泉が、日本三大胃腸病の湯と呼ばれるという。■参考 飯島裕一『温泉の秘密』海鳴社、2017年峩々温泉は、含石こうー重曹泉(ナトリウム・カルシウムー炭酸水素塩)。飲泉とともに、湯船のわきに仰向けに横たわって備え付けの竹筒で浴槽内の熱い湯(源泉は58℃)を腹(胃や腸)の上にかける温治作法が伝わっている。かけ湯百回と言われる。六代目当主の竹内宏之さんは、「自然発生的に生まれたようだ、湯あたりを防ぐ知恵ともいえましょう」と説明する。(上掲書から)四万温泉は、近くの草津温泉の荒療治の帰途に、荒れた肌の手入れをする上がり湯として知られた。環境省による泉質月の飲泉適応症では、以下の通り。・塩化物泉 萎縮性胃炎、便秘・炭酸水素塩泉 胃十二指腸潰瘍、逆流性食道炎、耐糖能異常=糖尿病、高尿酸血症=痛風・硫酸塩泉 胆道系機能障害、高コレステロール血症、便秘・二酸化炭素泉 胃腸機能低下・含鉄泉 鉄欠乏性貧血・含よう素泉 高コレステロール血症・硫黄泉 耐糖能異常=糖尿病、高コレステロール血症
2023.01.02
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昨日(19日)の夜7時50分頃、涌谷町の民家で起きた殺人事件は、県民に驚きを与えた。インターホンが鳴って玄関に出た住人の64歳男性が、ニット帽の犯人と揉み合いになって刺された。この家にいた知人女性が目撃しており、犯人は車で南の方へ逃走したという。警察が威信をかけて鋭意捜査中だろうが、あまり情報が出ていない。涌谷町では、午後10時過ぎ町内全域に注意を呼び掛ける防災無線とメールを流した。警察の統計では宮城県内の殺人事件は、令和3年で12件。前年の令和2年は19件だ。
2022.11.20
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今朝の河北新報の記事。アイヌ語や宮古島方言を研究したロシア人言語学者のニコライ・ネフスキーが、約100年前に登米を訪れて伝承や風習を調査したという。南方村の大嶽山をねぐらにした大嶽丸という鬼が坂上田村麻呂に成敗された言い伝えなどを記録した。調査成果は天理大学付属図書館に残されている。今月13日、登米市歴史博物館の主催で講演会「ロシア人が書いた登米の民俗 高橋清治郎とニコライ・ネフスキー」が開かれる。登米市南方農村環境改善センター。口承伝承学を専門とする石井正己教授(東京学芸大学)がネフスキーの調査と南方村の民俗学研究家高橋清治郎との交流も紹介する。以上が記事の内容だが、こんな小さなスペースの記事から、地域の息づかい、悠久の歴史、そして100年前の国際交流、というさまざまな見方た広がってくる。まさに当ジャーナルの取り上げたいテーマだ。登米市の関係者に賞賛をおくりたい。高橋清治郎(1869-1944) 小学校教員をしながら郷土史を研究。宮城県史の編纂委員にも。ニコライ・ネフスキー(1892-1937) ロシア人学者。言語学、民俗学。日本に滞在した。大嶽(おおだけ)山興福寺(登米市南方) 一説には、一帯を支配していた豪族・大武丸(おおだけまる)を807年に征夷大将軍坂上田村麻呂が討伐し、その亡骸を葬った塚の上に観音堂をたてたのが始まり、という。(登米市ホームページから)
2022.11.09
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宮城郡利府町は、いまやイオンの巨大商業施設の町のイメージだが、住みよい地だったのだろう縄文の遺跡、古代の多賀城の経営や合戦を交えた中世の城郭、里山の神社たち、下っては芭蕉も詠んだ近世の情景、などなど、往古のゆたかな歴史をたたえる里だ。■出典 「時をこえて今に残る 利府町の埋蔵文化財 ~地中からのメッセージ~」利府町教育委員会1 縄文時代の遺跡■六田遺跡(ろくだ。総合運動公園の北、沢乙温泉の手前あたり)砂押川、榎川による浸食で形成された丘陵平坦部の集落跡。県総合運動公園用地造成工事に伴う調査の結果、縄文時代前期の竪穴住居跡12棟など多数の遺構が見つかった。住居跡や隣接する沢を中心として、縄文土器や石器が多数出土。土器の年代から縄文時代前期(約8000年前)の集落跡と判明。生活に伴う石器(石鏃、石錐、石箆(へら)、石匙、石斧など)のほか、玦状耳飾も出土。■浜田洞窟遺跡海水の浸食による天然の洞窟を利用した遺跡。東北大学の発掘調査が行われており、縄文時代晩期と弥生時代の遺物が出土している。また、付近から貝塚も見つかっている。2 古墳時代の遺跡■郷楽遺跡(ごうらく)三陸自動車道建設工事に伴う発掘調査で丘陵頂部に4基の円墳が見つかった。大きさは12から27mで、6から7世紀の古墳群。一号墳の周溝からは大量の埴輪(朝顔形埴輪、円筒埴輪)が出土。朝顔形は県内に出土例が少なく、保存状態も良好。その他、須恵器や装身具(切子玉、棗(なつめ)玉、管玉)等も出土。■川袋古墳群3基の円墳がみつかっている。一号墳の横穴式石室の形態や出土遺物の年代から、7世紀代に作られた古墳群。石室内部から、直刀、馬具、刀子、帯金具などの鉄製品がまとまって出土した例は県内でも少なく、保存状態も良好。■八幡崎B遺跡古墳時代の溝跡がみつかり、堆積土からは赤彩された土師器(高坏、壺)や須恵器(𤭯(はそう))などが出土。全容は把握できていないが、周溝墓に伴う溝跡の可能性。■菅谷横穴墓群7世紀の初めころから作られ始めた墓群で、横穴の総数は100以上といわれる。東北学院大学などによる学術的な発掘調査が行われ、39基がみつかった。土器(土師器、須恵器)、装身具(勾玉、管玉)、鉄製品(直刀、刀子)等が出土。土師器、須恵器には、東海地方の特徴を有するものが含まれ、交流があったと思われる。■【コラム】菅谷不動尊横穴墓群が位置する丘陵の麓。平安時代、藤原景昌が蝦夷の亡霊を鎮めるために紀州高野山から分霊したのが始まりといわれる。火焔を背負った3mをこえる不動尊像が祀られる。社の裏に湧き出る清水は眼病に効くといわれる。3 奈良・平安時代の遺跡■春日窯跡群東西約2.7km、南北2.1kmの広大な範囲に及ぶ。硯沢窯跡、大沢窯跡、春日大沢瓦(ママ)窯跡、春日大沢B窯跡、春日大沢C窯跡、大貝窯跡、中倉窯跡などによって構成されていることがわかっている。春日窯跡群の存在は古くから知られ、天保13年(1842)から安政4年(1857)に書かれた『仙台金石志巻之二、名蹟一之下、壺碑下』に初見。これまで三陸自動車道建設工事に伴う発掘調査の結果、多賀城創建期から多賀城Ⅳ期にかけての瓦、須恵器、炭窯跡が多数見つかり、古代の一大生産拠点であったことが明らかに。■硯沢窯跡春日窯跡群の西端に位置。これまで三陸自動車道建設工事、春日PA建設工事に伴う発掘調査で、奈良時代(8世紀前半)の須恵器窯跡・炭窯跡や平安時代(8世紀末~9世紀)の瓦窯跡・炭窯跡など多数の生産に関わる遺構がみつかっている。須恵器窯跡や失敗した製品の捨て場である灰原からは、多数の須恵器が出土。器種は、坏(つき)、高台坏、鉢、蓋、高坏、壺、甕、円面硯など。須恵器の中には「宮城郡」と刻書された須恵器があり、形態や製作技法から奈良時代(8世紀前半)のものであり、そのことから既に宮城郡が設置されていたことがわかった。硯沢窯跡の西端に、県内では数例しか確認されていない平安時代の火葬墓が1基みつかった。骨壺には頸の部分が意図的に割られた須恵器長頸壺(ちょうけいこ)が利用されていた。蓋は須恵器坏が用いられ、倒位で埋納されていた。炭窯跡も数多く、その中の2基は「横口付木炭窯」と呼ばれる特殊な構造の窯で、国内最北の発見。通常の登窯(のぼりがま)式の炭窯は斜面に対して垂直に構築されるが、横口付木炭窯は斜面に対し平行に構築され、複数の横口が設けられるのが特徴。県内では山元町で同様の炭窯跡があるが発見例が少なく貴重な調査成果。大量に生産された木炭は製鉄に用いされたと思われる。■大貝窯跡宅地や公共公益施設造成工事に伴い発掘調査。平安時代(8世紀~9世紀前半)の須恵器・瓦窯跡18基、炭窯跡10基、竪穴住居跡9棟など多数の生産に関わる遺構が見つかった。瓦窯跡の構造は半地下式登窯で底面には転用された丸瓦が階段状に並べられ、焼台が形成されていた。多賀城政庁に係る窯跡は大沢窯跡、硯沢窯跡でも確認されていたが、大貝窯跡の調査により改めて春日・赤沼地区が多賀城政庁と強い係りをもつ重要な地域であったことがわかっている。窯跡に隣接して竪穴住居跡も見つかっており、位置関係から作業場の役割を担っていたと思われる。住居跡内の竈(かまど)には構築材として瓦が用いられており、瓦窯跡工人(こうじん)と係わりのある住居跡と考えられる。■郷楽遺跡標高60mの丘陵頂部、陸奥国府多賀城から北に2kmの地点。三陸自動車道建設などに伴い、これまで6次にわたる発掘調査の結果、奈良から平安時代(8~10世紀)の竪穴住居跡、掘立柱(ほったてばしら)建物跡などが多数みつかり、土器など多数の遺物が出土。この時代は、郷楽遺跡の主体をなす遺構群が形成された時期で、竪穴住居や掘立柱建物が連続して築かれていたと考えられる。奈良時代(8世紀中~後半)の竪穴住居跡の竈の暗渠排水施設から転用された瓦が出土。また、住居跡内からは多数の須恵器のほか、馬具、刀子、鉄鏃などの鉄製品も出土し、国府多賀城と深い係わりをもった人々の集落と考えられる。竈の暗渠から多賀城政庁内編年Ⅱ期にあたる刻印のある丸瓦が出土した。この特徴をもつ瓦は仙台市小田原窯跡群や多賀城政庁以外に知られず、それらとの関連が考えられる。刻印には、「伊」「占」「田」などの種類がある。■八幡崎B遺跡舌状丘陵の頂部に位置。東北新幹線建設工事や県立利府支援学校建設工事などに伴う発掘調査の結果、飛鳥~奈良時代(7世紀後半~8世紀初頭)の竪穴住居跡や平安時代(9世紀)の竪穴住居跡などがみつかっている。各遺構からは、土師器、須恵器などの土器類が多量に出土。8世紀初頭の住居跡出土遺物には「関東系土師器」も含まれ、当時の人や物の流れをうかがうことができる貴重な史料である。■館ヶ沢A遺跡(利府城跡に裏から向かう道路の北側)西から東に延びる沢の東奥端に位置し、丘陵麓の南斜面に位置。町営墓地用地造成工事に伴う発掘調査で、竪穴住居跡1軒や土坑、溝跡がみつかった。住居跡の床面からは多量の炭化物が出土したことから、火災にあったと思われる。住居跡内からは土師器のほか、鉄製品(鍬先)や砥石も出土した。遺物の年代や堆積土から、9世紀末から10世紀初頭頃の住居跡と思われる。■熊野堂遺跡(保健福祉センターの南、沢乙東団地あたり)北側の南向き斜面に位置。土地区画整理事業に伴う発掘調査の結果、竪穴住居跡7棟、掘立柱建物跡30棟、埋設土器遺構などが見つかっている。これらからは土師器・須恵器などの土器類が出土。土器の年代から飛鳥~平安時代(7世紀後半~9世紀中頃)の集落跡と考えられている。9世紀の埋設土器遺構から、土師器甕の中に灯明(とうみょう)痕跡がある土師器坏や皿が収められた状態で出土している。■菅谷の穴薬師道安寺の南にあり、菅谷横穴墓群の一つにあたる。1基の横穴墓が改良され、横穴壁面に刻まれた「磨崖仏」(まがいぶつ)である。岩切東光寺の磨崖仏(宵のお薬師)、菅谷の「夜中のお薬師」、七ヶ浜町湊の磨崖仏(暁のお薬師)が「三薬師」と数えられ、いずれも9世紀に慈覚大師円仁によって一夜のうちに造られたと伝えられる。現在は前面にお堂が設けられ安置されている。4 鎌倉~江戸時代の遺跡■伊沢家景の墓伊沢家景は平安時代末から鎌倉時代にかけての御家人。文治3年(1187)、源頼朝の家臣であった北条時政に文筆の能力を認められ推挙され、戦場に出る武士ではなく文筆に携わる吏僚として頼朝に仕えた。建久元年(1190)、前年の奥州合戦の後の混乱に乗じた大河兼任の乱が鎮圧された後、源頼朝によって初代「陸奥国留守職(るすしき)」に任命され、多賀国府に国衙在庁の長官として赴任してきた。『留守旧記』によれば、この時家景に随行してきたのは、宮城・村岡・芳賀・佐藤・南宮・笠上氏などであるといわれる。その後、家景の子家元以降も代々陸奥国留守職を世襲したため、役職名から留守氏を名乗るようになった。墓碑は長い年月の間、土中に没していたと言われたが、文政2年(1819)、倒れていた石が墓碑であったことが判明し、当時の水沢領主留守村福(むらやす)が墓石を建て直したと伝えられる。■板碑(いたび)鎌倉時代から江戸時代に盛んにおこなわれた死者の追善供養のために建立された平たい石の卒塔婆をさす。室町時代以降になると民間信仰と習合し、多人数が結集して、月待供養や庚申供養などの刻銘のある板碑が全国的に建立された。鎌倉時代、利府町内には数多くの板碑が建立された。延慶の碑、菅谷の碑、染殿神社の板碑群など。○菅谷の碑(穴薬師の近く) 梵字:アン(無量寿如来) 造立:正応2年(1289) 高さ:1.5m、幅:0.75m○延慶の碑(県道利府街道沿い、神谷沢) 梵字:ア(大日如来) 造立:延慶3年(1310) 高さ:1.2m、幅:1.5m■菅谷横穴墓群13世紀になると、再利用されている。一部の横穴墓の中から10cmほどの扁平な河原石が大量に見つかった。その中の数点には細字漢字でお経が墨書きされた「写経石」が含まれていた。その1つには、「弘安六年庚未九月六日、摩謌摩耶経下巻」と書かれているものもあり、中世に修行信仰の場所として横穴群が再利用されたことがわかった。■十三本塚十三塚や十三本塚は、全国的に分布する民間信仰による塚であり、一般的に13基の塚で構成され、塚の直径は10m以下のものが大部分。作られた目的は、十三仏信仰に由来するといわれるが正確にはわかっていない。利府町には、十三本塚、十三塚の地名がそれぞれ残るが、現在では塚の一部が現存するのみである。■大貝窯跡大貝窯跡では中世の製鉄炉跡や鍛冶炉跡などの製鉄に関連する遺構が多数見つかっている。県内の製鉄関連遺跡の調査例は少なく、非常に重要な発見となった。製鉄炉跡の周囲からは炭窯跡もみつかり、製鉄炉跡に伴うものと思われる。一部の窯の煙出施設において板碑が転用されていたことから、少なくとも板碑の普及する13世紀末以降の炭窯跡と考えられている。また、そのことから、製鉄炉跡も概ね13世紀末以降であると思われる。■大沢窯跡三陸自動車道建設工事に伴い発掘調査。その結果、江戸時代(17世紀中頃)の瓦捨て場が見つかっている。これは瓦窯跡に伴うもので、中からは、瑞巌寺で見つかった刻印瓦と同じ「太田市兵衛」の刻印のある瓦が見つかっている。瑞巌寺は伊達政宗によって17世紀中頃に再興されており、再興に係わる瓦を付近で焼いていたと考えられる。大沢窯跡の近くには、瓦焼場という地名が現在も残り、昔から瓦の産地であることを想像させる。■岩切城跡仙台市岩切と利府町神谷沢にまたがる中世の山城。城跡は標高106mの高森山を中心に尾根を平らに削り、平場を造り出し、空堀、堀切などで構成されている。岩切城は留守氏の居城といわれるが、構築年代は正確にはわからない。動乱の激しくなった南北朝時代の初めころに築かれたと推定される。正平6年(1351)には岩切城を舞台に激しい合戦が行われている。岩切城は規模が非常に大きく、保存状態も良好なことから、東北地方の中世史を考える上で重要な遺跡として、国の史跡に指定されている。■利府城跡標高88mの自然地形を利用した山城。岩切城跡と同様に山を削り平場を造り、そこに施設を設けた守り重視の館跡。利府城が築かれた時代は正確にはわかっていないが、留守氏の家来であった村岡氏が築いたと考えられている。その後、戦国の時代を迎え留守氏内部に家督相続問題が起き、永禄12年(1569)留守氏の血筋を守る立場に立った村岡氏は、伊達政景(晴宗の三男、政宗の叔父)を養子に迎え、伊達氏勢力下にあって留守家安泰を図るべきとする伊達派と対立した。この時、村岡氏はこの城にたてこもり戦ったが敗れて滅亡したといわれている。永禄13年(1570)に政景は岩切城から利府城に移り、地名を村岡から利府に改めたといわれる。また同時に、村岡城とよばれていた城名も利府城となった。留守政景は天正18年(1590)に、伊達政宗から黒川郡大谷に隠退を命ぜられるまでの約20年間本拠地とした。その間、政宗の右腕として活躍したことは有名である。
2022.05.07
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連休の良く晴れた日に角田市内から足を延ばして訪れた。高蔵寺、旧佐藤家住宅や水車、庭園などを包むように農村公園がよく整備されており、そのままに優しく歴史を伝えてくれるようだった。白石に通じるR113を通ったことはあるのだが、高倉(西根)の旧道沿いの集落、高倉川の桜並木(散っていましたが)も初めてゆっくり眺めることができた。■勝楽山高蔵寺〔パンフレットから〕819年に徳一菩薩が創建したと伝える。寺は三方が山に囲まれた清閑なところにあり、境内の杉や裏山のカヤ林は数百年を経た古木で他にない特異な景観を呈している。かつては大門坊、入りの坊、清水堂の三坊を有して栄えたときのことが奥羽観跡聞老誌や安永風土記に詳しく記されている。阿弥陀堂は宮城県最古の木造建築で、平安時代の治承元年(1177)に建立と伝えられる。平安時代の建造物は全国で現在26しか残らず、阿弥陀堂では7か所だけ、東北では平泉の中尊寺金色堂、福島県白水の願成寺阿弥陀堂とともに現存する数少ない貴重な文化遺産である。 間口、奥行きともに9.3mの茅葺の御堂の中には、嵯峨天皇御宸筆「高蔵寺」の額、古い阿弥陀如来像、小さな仏像などが保存されている。阿弥陀堂は明治41年特別保護建造物の指定、昭和25年には堂内の阿弥陀如来像とともに重要文化財に指定されている。■阿弥陀如来坐像(本尊) 阿弥陀堂の本尊で、藤原秀衡とその妻が作らせたと伝えられる。像高2.7mの寄木造り来迎引摂印の尊像で、現在はほとんど漆黒色だが昔は金色に燦然と輝いたと言われる。床の上に直接据えられた蓮華座に安置され、飛雲光背を合わせると全高5m18cmあり、一部補修はあるが、当時の姿のまま8百年来、地域の信仰を集めている。 眉目が切れ長く豊麗で、その表情や布の襞の表し方は平安時代の優美な感じから鎌倉時代の力強さへの過渡期の作風。 平成28年には、94年ぶりに京都で5年間の修繕を行った。■破損した素木の阿弥陀如来坐像 堂内に安置されているもので、左胸部が朽損し右腕を失っているが、当時の寄木法がよく観察され、お顔は本尊より古風な柔和な彫り。衣文の彫刻なども浅くおとなしい作風。■旧佐藤家住宅(国指定重要文化財) 江戸時代中頃に建てられた仙台藩領の中規模農家の典型的な建物。間口14.8m、奥行き7.8mで、建坪約35坪の直屋(すごや)様式、屋根は寄棟造りの茅葺き。天井は煙出しのためと藩の禁止令のために設けられず、太く荒削りの柱は鳥居造という古式の構造。 旧佐藤家は車屋の屋号を持ち、古来修験者が住んでいたと伝えられる。もとは高倉川下流1kmほどの高倉字新町佐藤源氏の所有だったが、昭和46年市に寄贈された。同年国の重要文化財の指定を受け、昭和47年高蔵寺境内近くの現在の場所に移築された。 住宅には自由に入ることができ、土間、囲炉裏、古い戸棚、農機具など、近い昔の生活の一端が感じられた。 編集長の幼少の頃の岩手県の実家も茅葺のこんな家だった。昭和40年代の改築の前の記憶がある。邸内から縁側にでて佇み、しばらく庭を眺めていた編集長だった。■今回の角田訪問の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日)
2022.05.05
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角田の大地主、旧氏丈(うじじょう)邸を訪れた。よく晴れた連休の昼間、地元の方が中心のようだが割とお客さんもおられ、ちょっと昔の手の込んだ木造家屋を味わっているようだった。3月16日の地震のために庭の塀はすべて倒壊し、屋敷の中も被害を受けており、その状況が大型ディスプレイで説明されていた。座敷の畳に座ってみたり、廊下をゆっくり歩いてみたりした。なお、遺跡出土の考古資料や石川氏関係資料を展示している展示室(もとの米蔵)は地震のためだろう閉鎖されていた。■氏家丈吉(加登丈、かどじょう)について〔資料館でいただいた資料から〕 初代氏家丈吉は天保10年(1839)本家(氏家清吉)の次男に生まれ、慶応年間に現在地に分家したようである。店蔵(一階二階とも開放され、二階は角田の歴史が展示されている)、文庫蔵、母家、表門(角田要害から移築)は初代により建てられた。明治21年角田の大地主13人中4番目、伊具郡内に59町6反521歩もの田畑を所有。明治26年町税納税は本家氏家清吉に次いで2位である。 二代目氏家丈吉は慶応2年(1866)山形県生まれ、角田町会議員、郡会議員、角田製氷社長などを歴任。新座敷、奥座敷、米蔵等は二代目によって建てられた。昭和8年宮城県内で16番目の多額納税者。本家氏家、加川とならび角田町三富豪の一人に数えられた。 三代目氏家丈吉は明治27年生まれ、昭和17年に父の死で襲名。書画刀剣に造詣深く、仙台藩の書画の鑑識に長じた。農地解放直前の昭和22年3月、140町9反104歩を所有していた。■氏家本家について 本家の氏家は、代々清吉を名乗り、屋号は加登清(かどせい)。4代目が仙台に進出し、七十七銀行頭取に就任、その子栄一、孫照彦も同銀行頭取を務めた。 本家は現在資料館の駐車場となっている隣地にあった。七十七銀行の角田支店長は就任すると必ず、分家のここに挨拶に来るのだそうだ。〔資料館職員の方の話〕。■旧氏丈邸の建物 初代と二代目が建築した建物を昭和60年に角田市が譲受した。平成3年市文化財。 座敷は床柱をはじめ良質な材を多用し、奥座敷、夏座敷(北側)など、日常の喧騒を忘れさせる静謐な時間が往時から今に至るまで流れているようだ。浴室は大正期のモダンな雰囲気を漂わせる。石灯籠が配された庭を窓越しに臨むのだが、ガラスには微妙な歪みがあるのが職人技の証拠。3月の地震では、八角時計が落ちるなどしたが、建物の基本部分やガラス戸などはほとんど壊れなかったようだ。(資料館の前に、河川敷の菜の花畑に行ってみた。晴天の下、蔵王を背景に撮りました。)■今回の角田訪問の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日)
2022.05.05
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東北本線の敷設に際して白石-大河原-船岡ルートに負けてしまったことは、白石市史など白石サイドの文献には当たっていたが〔下記の過去記事リストをご覧ください〕、角田市側の見方も知りたかった。この点も含めて、馬車鉄道や軽便鉄道の開通に努力してきた近代角田の鉄道の歴史について整理した。連休に訪れた角田市郷土資料館(旧氏丈邸)の店蔵の2階の展示にあった解説が役に立った。■角田と鉄道〔市郷土資料館の解説〕 鉄道開設期には煤煙が稲や桑に悪影響を及ぼす等の理由で嫌悪されたこともあった。このことが角田のその後の発展にとってマイナスになった。明治20年に上野-仙台間の鉄道が開通したが、福島-仙台間のはじめの予定線は、丸森-仙台経由であった。阿武隈川水運との関係や平坦な地形による工事の難易度からこのルートが計画された。ところが地元の熱意は稀薄で、鉄道敷設株も集まらなかった。そのため、予定を変更して勾配の急な白石方面に路線が決定した。 ところが、鉄道が地域の発展に刺激を与えることが認識されると、角田にあっても鉄道敷設の要求が生じた。そこで、明治32年に角田馬車鉄道を開通させた。また、大正6年には角田軌道株式会社をつくり、軽便鉄道を走らせた。しかし、軽便鉄道は経営困難におちいり、水害もあって、その役目をバスに譲った。その後鉄道敷設は昭和43年の丸森線開通まで待たなければならない。このような鉄道に関する出来事は、現在の我々に多くを示唆してくれる。※年表風に 明治32年8月 角田馬車鉄道 槻木-角田間が開通。翌年、角田-館山(ママ)間開通。 大正2年8月 大洪水、江尻の堤防が寸断される。川蒸気船はこれ以来、運転中止となる。 大正5年10月 角田馬車鉄道株式会社が角田軌道株式会社と改称。馬力から蒸気となり、角田-槻木間を運転する。 大正6年6月 30人乗ボギー式客車(軽便鉄道)を角田-槻木間に運転する。 昭和9年10月 省営バス白中線(白石-角田-丸森-中村-原釜)が開通する。 昭和29年10月 人口規模において宮城県最大の新角田町が発足する。※掲示されていたものから○(掲示されていた写真)角田馬車鉄道初荷風景 新丁の高橋精米所 大正3年 (同)江尻閘門を行く馬車鉄道 ラッパを鳴らして合図としていた○時刻表(角田馬車鐵道株式会社 明治33年7月20日改正)〔漢数字で縦書き〕 上りは舘山(ママ)發が4本、角田發が6本、その6本が槻木着のようだ。例えば、もっとも早いのは、5時角田發(上野行接續)が6時40分槻木着。舘山發は7時10分(上野行接續)をはじめに午後6時10分發(角田6時50分着止とある)まで。角田發槻木行は午後6時發(7時40分着)まで6本で、初めの2本(5時發、8時10分發)が上野行接續と付記される。 下りは、槻木發が6本。朝は7時10分から。最後の2本(6時10分發と8時20分發)には上野下り接續と付記されている。角田發(舘山行)は4本。6時發(舘山着6時40分)から、午後5時20分發(舘山着6時)まで。 時刻表の隅には、「途中」として 木沼、櫻、江尻、小坂、等ノ各驛發着ハ馬匹ノ都合ニヨリ5分乃至10分ノ遅速可有之ニ付時間凡そ10分前ニ駐車塲ニテ御接受ケ被成下度候 とある。(以下は当ジャーナルの整理) 角田・丸森の鉄道の歴史は、明治32年の角田馬車鉄道(槻木-角田)に始まる。33年に丸森町舘矢間まで延伸。その後、大正5年に蒸気機関車を導入し、角田-舘矢間の間は馬車鉄道として残ったがやがて廃止。昭和4年に営業廃止。 国鉄丸森線は昭和43年に槻木-丸森間が部分開業。もともと、改正鉄道敷設法(大正11年法律第37号)の別表に記された予定路線〔下記リスト中の記事を参照ください〕では、「27 福島県福島ヨリ宮城県丸森ヲ経テ中村ニ至ル鉄道及丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鉄道」とされ、内陸部の東北本線福島、白石から丸森を経て海岸部の常磐線中村(現相馬)を結ぶ横断線だった。しかし、戦後東北本線福島-白石間の急勾配を緩和するために第21項の2の槻木-丸森間が鉄道敷設法予定線に加えられ、当初の横断線の構想を縦断線に変更。この予定線変更の経緯では、急勾配を抱える東北本線白石ルートとの争奪戦再燃の面もあったようだが、結局白石ルートが支線化どころか複線化・電化されて決着する。 東北新幹線の計画に際して角田側が誘致に動いたかどうかは私は聞いたことがない。(戦後の角田と白石の関係は今後の当ジャーナルの検討課題です。) 昭和61年7月(国鉄分割民営化に先立ち)第三セクターの阿武隈急行線として開業し、昭和63年に電化及び福島までの全線開通を果たした。■今回の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日)■関連する過去の記事(角田に関するもの) 郷土を開いた高山善右衛門と県内の主な開墾地・干拓地(2013年5月1日) 阿武隈急行の輝かしい「日本初」(2012年10月7日) 大槻義彦先生と宮城(09年7月8日)■関連する過去の記事(鉄道敷設など)●特に角田に関するもの 仙台駅の位置について(その10)新幹線長町駅?(2021年11月14日) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 新生富谷市はなぜ「駅なし鉄道なし」なのか(2016年10月10日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 仙山鉄道 3つのルート(2015年2月13日) 小原新道と白石人車軌道(2014年8月8日) 松山人車と白石人車軌道(2014年8月7日)●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日) 仙台駅の予定地について(その9)(2012年5月23日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日)●やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日)●東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日)●大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2022.05.01
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鹽竈神社は陸奥国一宮と称される東北を代表する神社である。塩竈は、海水を煮沸する釜のことだが、鹽竈神社には塩釜は祀られておらず、本町通りに神器としての塩釜を祀る御釜神社が設置されている。鹽竈神社の本殿の左宮には武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮には経津主神(ふつぬしのかみ)、向かって右側の別宮に塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が祀られている。3神はいずれも古代神話に登場しており、東国平定に派遣された戦いの神である武甕槌神と経津主神が、海の神である塩土老翁神を案内役に進軍を続けて東北地方にまで至ったというのが、3者の関係である。東北平定ののち、引き返した武甕槌神は鹿島神宮の、また、経津主神は香取神宮のそれぞれ祭神となったが、塩土翁神は現地に残って人々に塩作りを教えて塩業を盛んにしたため、鹽竈地区の人々は感謝して塩神として祀ることになったという。ところが、何時の頃からかはっきりしないが、鹿島神宮や香取神宮から武甕槌神と経津主神の神霊を分けてもらって、一緒に祀るようになって現在に至る。以上から、鹽竈神社の塩神は、別宮に祀られた塩土老翁神ということなるのだが、全国に塩竈(釜)の名を持つ神社は多数存在している。その多くは、塩竈市の鹽竈神社に願い出て分社として建てられたもので、当然ながら祀られる塩神はすべて塩土老翁神である。なお、正式に願い出たかどうか不明なものも、その塩神はほとんどが塩土老翁神である。塩土老翁神以外の塩神を祀る塩竈神社もあるが、数も少なくその神の由来もはっきりしないものが多い。いいかえれば、日本の塩神は、古くから今日まで、本社である塩竈市の鹽竈神社、分社である全国各地の塩竈神社に祀られている塩土老翁神ただ1人であるといっても良い。この塩神の塩土老翁神への一元化という事情は、日本の塩神信仰の大きな特色であろう。■東北学院大学文学部歴史学科編著『大学で学ぶ 東北の歴史』吉川弘文館、2020年 から(谷口満執筆担当部分。漢字の表記は引用文献に従いました。)東京新橋の神社に行ってみたことがある。また、高松の友人家族を塩竈市の神社に案内したら、四国にも海運の縁なのか鹽竈神社はあると言われ、実際に寄進札版に四国の人の名を指摘されたことがあった。
2021.11.03
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かなり前のブログに記した昭和47年仙石線脱線事故。現地に石碑があると情報いただいていたので懸案でしたが、今日の午前、やっと現地で見てきました。念願かないました。■関連する過去の記事 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) (この記事に多数のコメントいただき、ありがとうございました。)新田踏切の東(国道45号側)、踏切に向かって右手(北)、警報機のすぐ下に佇む黒い石碑。正面に「電車運転士(芳名)君殉職慰霊碑」と書かれ、左側面に「昭和47年8月18日殉職」、右には「昭和48年8月18日陸前原ノ町電車区職員一同建立」と刻まれている。礎石の手前の左右には、花立の石に、枯れてはいるが花が供されていた。碑の手前には、踏切事故ゼロ運動のイラストが描かれた茶碗が置かれている。また、碑の左に小さく並んでいるのは、石のお地蔵様だろうか。この事故以前にここで亡くなった人の供養として置かれていたものか。手を合わせて居たら、何しているのかと気になったのだろう、自転車のおじさんが寄って来た。いつも踏切通っているが、碑があるのがわからなかったという。自分の知っている事故のことをお話しすると、この事故自体はご存じないようだが、子供のころに近くの本線のトンネルで小学生3人が列車にはねられて亡くなった。トンネルを抜けて出た浜でハゼが釣れるから。また、北浜の方でもよく事故があったな、などと教えてくれた。おじさんと話している間に、仙石線の電車が上下2本、踏切を通過した。ここにラーメン屋ありましたか、と問うと、ここだ、と、仙石線と国道45号の間の空き地区画を指した。ちゃんと花を遣る人がいるんだな。こういうことは大事なことだ。そう言い残して、おじさんは自転車でゆっくりと踏切を渡っていった。帰宅して、手元のゼンリン住宅地図(99年)を開くと、店の名は「そば・うどんの越之浦」、おじさんの言う子どもの死亡事故のあった東北本線トンネルは第二吉津隧道(仙石線の越ノ浦隧道と並列)、また、北浜での事故が多かったというのは、市内の仙石線が国道45号の海側に付け替わる以前のことだろうか、などと考えた。■関連する過去の記事 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)犠牲者を悼み、事故を伝えることは大事なこと。自分もおじさんだが、20年くらい先輩の地元の自転車おじさんに、心から共感したのでした。
2021.10.19
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ドラマの「おかえりモネ」で気象予報士の朝岡が見たいと言った北上川の移流霧を、早朝にモネちゃんたちが眺めるという、たいへんに印象的なシーンがあった。気仙沼線の青いトラス橋が映っていて、場所は鴇波だとわかった。■関連する過去の記事 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 宮城県の渡船を考える(2010年6月5日)(鴇波・柳津の渡しの廃止) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日)さて、ドラマでは、霧を見つめるモネが、故郷の気仙沼の離島の風景と3年前の「あの日」を回想して、自分は何もできなかったと涙を流す。何を見たかは画面で示さないが、前の回でもモネは、「あの日」自分は島にいなかったと独白している。高校のある市内にいたという設定だろうか。多くの宮城県の人々が、心を揺さぶられたのではないでしょうか。東日本大震災のあの日、言葉を失い、何が起きたのか、自分は何もできないのか、何ができたのか、と長い間考えさせられた。10年を過ぎた今でも、いや今こそ、真っすぐに思い起こさねばならないような気がします。
2021.05.22
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気仙沼市の大谷鉱山歴史資料館を訪れた。国道45号から山間に入る道沿いは、初夏の緑に染められていたが、往時は職員住宅などが立ち並び、さぞ賑わっただろう。■大谷鉱山の沿革地域の産金の歴史は遠く前九年の役(1050頃)以前に遡ると言われ、また平泉の黄金文化の源泉であったと伝えられる。大谷鉱山は明治38年唐桑町鈴木哲郎氏が試掘鉱区を設定、露頭部、旧坑の開発を試みて以来、福山久吉氏、三原経国氏、十時精一氏及び久原鉱業株式会社等鉱主の変遷があったが、昭和4年日本鉱業株式会社の経営となり我が国有数の金山として盛名を馳せるに至った。昭和37年大谷鉱山株式会社が鉱業権を継承したが、数十年にわたって地域経済に貢献した業績は誠に甚大であった。その沿革概要は次のとおりである。昭和3 この頃までは手掘り手選鉱であったが、はじめてさく岩機を導入する。昭和6 岩尻坑操業開始(翌々8年さく岩機31台入る)昭和9 浮遊選鉱場完成(鉱石処理能力月3000トン)昭和11 赤牛、萱刈坑を日満鉱業(株)より買収昭和13 浮遊選鉱場拡張。岩尻、赤牛、津谷、新月、矢越の各坑を操業。昭和17年には従業員1303名(鉱山居住580通勤723)坑道総延長55km、立坑深さ450m、年間1トン余りの産金量を誇る。昭和18 太平洋戦争苛烈となり、金山整備令により休山。昭和25 再開。26年以後には、産金年間400から450kgを記録昭和26 青化製錬場完成(36年拡張、処理能力月1500トン)昭和36 青化製錬場わきに浮遊選鉱場完成(処理能力月1500トン)昭和37 日本鉱業(株)より分離、大谷鉱山(株)設立。この頃坑道延長90km昭和39 興北鉱業(株)を吸収合併、大谷及び興北の2鉱業所となった。昭和40 青化製錬場の設備増強、鉱染部採掘が進み、坑内スレイム充填開始昭和46 大谷鉱業所は興北の浮選操業を残して休山昭和51 興北鉱業所も埋蔵鉱量枯渇により操業休止、全面閉鎖するに至った■平泉黄金文化と大谷の金山平泉藤原氏の黄金文化を支えたのは海道の北上山地からの「本良金」「気仙金」によるところが大きい。本吉地方の産金は12世紀の前半と考えられ、その一部が本良荘(東北にあった荘園の一つ)の年貢として中央に貢進されたと思われる。大谷の金山については、安倍頼時・貞任父子が本吉地方を支配下におき、特に後世の大谷金山附近の地を重視していたようである。新館山に館を構えて、そこから山下一帯の地に号令し、金の採取を督励し人夫を酷使したといわれる。新館山には今なお土塁のようなものが残っている。山下には上小屋千軒、下小屋千軒とよばれる鉱夫長屋があったとも伝えられ、現に長屋のあった場所として上小屋、下小屋の地名が残っている。当時の金の採取方法は表面採取で、鉱石ならこれを粉にし、泥や砂に混ざったものはそのままで、これを筵の上に水とともに流し、比重の重い金が下にたまり、筵の網目に沈下する。それを取り外して乾かし、火で焼くと灰とともに金が残るという方法であったという。そこで、金を採取するのに多くの水を必要として、その水を引くために水路が造られたという。金の採掘がそのような表面採取ではあきたらなく、次第に坑道を掘って多量の金を採取するようになっていった。■金鉱山を偲ぶエリアとして!大谷鉱山の歴史を地域・近隣市町村の子供たちに学習の場としての機会を与えるとともに、大谷鉱山資料収集保存会・地域振興会を中心とした地域住民がこの歴史資料館を拠点に金鉱山を偲ぶエリアとして積極的にPRし、気仙沼市の観光スポットのひとつとして位置づけ、地域の活性化を図ることを目的としています。事業紹介 平成16年度魅力ある地域づくり事業補助対象事業 20,000千円 床面積168.51m2(51.06坪)展示内容のご案内 さく岩機、支柱、運鉱機械、鉱石、写真等約140種類450点■関連する過去の記事 鹿折金山(2021年5月3日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)
2021.05.04
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気仙沼市の鹿折金山資料館を訪れた。■略史藤原時代に黄金文化を支えた金山のひとつと伝えられる。江戸時代には源氏沢鉱山として唐桑村の古館が探鉱。明治14年に山形県南山村の鉱山師信夫歌之助が探査。明治20年に鹿折の菅野駒治が秋田県阿仁の鉱山師中村亀治を招いて開発し、金鉱を発見。明治27年に、仙台の内ヶ崎峯吉が試掘。この頃から鹿折金山が注目される。明治33年、中村亀治から早稲田大学工学部教授徳永重康に鉱山の権利を売渡し。36年、気仙沼の吉田正章と徳永重康が共同で開発、経営した。金の含有率20%という高い鉱脈を発見。明治37年には金の含有率83%という自然金が発見され、セントルイス万国博覧会に出展し、ナゲット・モンスターと称賛され青銅メダルを授与される。このことが日露戦争の外貨獲得に大きな貢献をする。徳永回顧録によると、使用人600人、事務員だけで20人いた。明治42年、古賀廉造個人のものとなり、50馬力の機械を備え付け一日1万貫の鉱石を採掘したが、43年に休山。昭和13年、堀家万太郎により復活。その後、日本産金会社が経営し、一時期トン当たり200gの富鉱にも当たったが、大部分はトン当たり3gの貧鉱だった。昭和24年、堀家が再挑戦し小規模ながら生産した。同46年、鉱業権を放棄し、鹿折金山が閉山した。平成10年、鹿折金山跡保存会が設立、14年、仮設・鹿折金山資料館が保存会有志によって開設。平成24年10月28日、気仙沼市鹿折金山資料館が開館。運営委員会を設置。(以上はパンフレットに掲載の略史。以下には、パンフレットの解説から要点を。)■鹿折金山の伝説大治元年(1126)藤原清衡公が中尊寺金色堂を建立した時、陸奥の多くの砂金が献上された。鹿折金山の砂金も献上されたと云われる。鹿折金山の裾野に源氏の沢があり、三段に流れる源氏の滝がある。また、源義経公、愛馬太夫黒が生まれ、沢の水を吞んだ場所に飼馬桶跡の窪みがある。金山を抱える土地は日ノ口(ひのくち)、奥州平泉藤原時代の所縁か、藤村姓が多く太夫黒の母馬が生まれたという屋号、臺羅貝(飼)(たいらがい)、場産地に繋がる、駒つなぎ、木戸脇、仮松部、などがある。■鹿折金山の事実昭和44年10月故藤村臺一郎氏のゴボウ畑から57基の板碑が出土、うち22基に金泥梵字があった。更に経文を入れた三筋壺も出土、いずれも平安から室町時代のものとされる。■豊臣秀吉、徳川家康の金山管理秀吉の時代、この地方の百姓たちは年3度の運上金制度に反発し、千厩に集まり三千人の一揆を起こした。徳川家康は全国の大名に金山開発を命じ、産金地に奉行を配置し、金を採掘する百姓達に鑑札(御本判)を持たせ、厳しく取り締まった。伊達政宗の時代この地方の鹿折金山、大谷金山、玉山金山等三金山の他多くの金山が砂金採取地として管理され、御本番百姓達が作業に駆り出された。■本格的な鹿折金山の採掘明治20年、秋田、鉱山技師中村亀治が初めて金脈を発見。資金が続かず、同33年、早稲田大学理事徳永重康氏に鉱山権利を譲渡し、その後37年、金の含有率83%の怪物金を発見。米国セントルイス万国博に出展「モンスターゴールド」と命名された。やがて日露戦争が勃発、怪物金は外貨獲得の材料として英国にわたり、司馬遼太郎作「坂の上の雲」にも紹介された。明治42年、古賀廉三が所有権者となり、昭和13年堀家万太郎により再開発され日本産金株式会社となって一時期トン当たり2百gの富鉱があったが、その後トン当たり3gの貧鉱が続き、昭和46年、鹿折金山は完全閉山となる。■明治、大正、昭和の鹿折金山の監督として初代中村亀治の系統である中村家は、二代中村直太、三代中村源一郎まで、金山作業監督として続いた。源一郎の妻はつえは、平成22年2月20日、99歳白寿にて大往生された。はつえは、その生涯をかけて鹿折金山を大切に保存し続けた。(現鹿折金山資料館館長四代中村敬二)■モンスターゴールド明治37年、重さ2.25キロの鉱石に金の含有率83%の巨大な金鉱石が産出された。この怪物金はセントルイス万国博覧会に出展され、青銅メダルと大賞状を受賞。海外にその名を馳せ、モンスターゴールドと命名された。現在は茨城県つくば市の地質標本館に6分の1の塊が保存。■鹿折金山資料館の完成平成23年、東日本大震災の年、菅原市長は郷土の大切な文化財資料として後世に残すことを決断し優先して鹿折金山資料館の建設に着手され、平成24年10月28日、公設民営方式で開館し、現在に至る。運営は鹿折金山資料館運営委員会、展示品は約千数百点にのぼる。また、資料館外部には日本でも珍しい金を溶解したレンガ造りの釜が残されている。■岩手日報2019年12月13日「三陸ジオトレインの旅/8/上鹿折駅・鹿折金山跡」(資料館で頂いたもの。以下要約)気仙沼駅前の停留所からBRTで上鹿折駅までは、一般道を走る民間バス会社路線をBRTとして運行。最終停留所の上鹿折駅で下車、徒歩30分。大船渡線の鉄橋をくぐると、真新しい鹿折金山資料館が見えた。館長の中村敬二さん(81)の案内で、裏手の鹿折金山へ。林道を20分ほど歩き、4番坑口跡と事務所跡。坑道は鉄枠フェンスでふさがれ、奥には水が溜まっていた。さらに林道を10分ほど上り、2番坑口跡に到着。ここからモンスターゴールドが産出。下山し資料館で中村さんの話に耳を傾ける。1887年(明治20)に曾祖父亀治さんが金鉱脈を発見、以来祖父、父の3代にわたり採掘の現場を主導してきた。4代目の中村さんは、「ここはほとんど手掘りで周りの金山と違って大きな機械が入っていない。もしかすると手つかずの鉱脈が残っているのではないか」と力強く語る。(報道部・佐藤渉)【解説】鹿折金山跡鉱脈は約1億2千万年前に起きた火成活動により、マグマや熱水が周辺の地層の割れ目に沿って流動、生成された石英脈。玉山、大谷の両金山とともに奥州藤原氏の黄金文化を支えたと伝えられる。明治初期から本格的な開発が始まり、一時期は1トン当たり200グラムの金を産出したが、次第に減少し1971年に閉山。2002年に資料館が開設された。【おすすめスポット】金山神社の岩塩と黄金水/邪気を清めるパワー資料館に隣接する金山神社には、モンゴルから贈られた世界最大級の岩塩が祭られている。自由に触れることができる。重さ1.5トン、世界遺産に指定されているモンゴルの岩塩産地ダブスト山から切り出された。邪気を浄化する力があるとされ、手についた塩をなめると、海の塩と違うほのかな甘みがあると評判だ。2005年愛知万博の同国ブースで展示され、終了後に引き取り先を探した結果、モンスターゴールドのセントルイス万博(1904年)出展の縁で寄贈された。金山神社そばには金山から湧き出る「黄金水」を汲める水道も配置。鉱床で育まれたカルシウム豊富な水。昔から飲用に使った中村さんは、家族では不思議と誰も骨折したことがないと効果を実感。その場で飲む場合は無料、持ち帰りは500円。■関連する過去の記事 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)
2021.05.03
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1951年(昭和26)5月のある朝、市川市の八幡(やわた)学園で暮らしていた山下清は、出奔して長い旅を始めた。まず、宮城県の松島を見物しようと、松戸から常磐線沿いに歩く。カネがないから通りがかりの民家でおにぎりをもらい、駅のベンチで寝て、線路を伝って歩く。松島のあとは、山形、新潟、東京、熱海、そしてこの年の暮れには鹿児島に至る。学園には帰らぬまま、翌年も翌々年も、各地で大好きな花火や温泉を楽しんだ。54年1月、朝日新聞社会面トップに記事が出る。「日本のゴッホ、いまいずこ/山下清君、消息絶って2年余」。その4日後に鹿児島で、記事を読んだ高校生に発見された。このとき山下清は31歳。すでに戦前から、八幡学園の子たちの絵の展覧会や作品集で、山下清の絵はとりわけ評判を呼んでいたが、作品展のスタートした翌40年に最初の放浪に出ている。戦後はのびのびと歩き、学園に戻っては絵を制作した。1971年、脳出血で逝去。49歳だった。(以上は、週刊現代2020年6/13・20号を参考に)芭蕉が扶桑第一の好風を目指し、アインシュタインは月を観た。その松島を、山下清は、どんな思いでめざしたのだろうか。■関連する過去の記事(アインシュタインと仙台・松島)アインシュタインと仙台(その7) 2007年5月27日アインシュタインと仙台(その6) 2006年8月31日アインシュタインと仙台(その5) 2006年1月15日アインシュタインと仙台(その4) 2006年1月4日アインシュタインと仙台(その3) 2005年12月18日アインシュタインと仙台(その2) 2005年12月17日アインシュタインと仙台 2005年12月14日■関連する過去の記事(松島について)寺田知事の松島公園化 2016年1月23日久々に登る 春の大高森日本三景の成立(その1)多聞山から偉観松島を眺める双観山からみた松島扇谷山から幽観の松島を望む扶桑第一の好風 松島を考えるタロちゃんのその後松島と象潟(にかほ市)松島円通院のライトアップ松島湾の朝日大高森のすばらしさを考える松島町の隠れた名所散策高城川を考える仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」東北須磨駅このほか記事リスト 仙台・宮城に関するもの(4)宮城>地域 同上(6)>教育・文化・ひと・事件 近現代の仙台・宮城 戦国・藩政期の仙台・宮城 古代・中世の仙台・宮城などに多数ありますので、ご覧ください。
2020.06.10
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明治6年(1873)、日本が初めて日本銀行一円券(紙幣)の肖像に採用したのが、上毛野(かみつけの)田道(たじ、たみち)将軍であった。日本書紀によれば、第16代仁徳天皇53年(365)、新羅が朝貢しなくなり、天皇はまず田道の兄で、上毛野氏の祖、荒田別(あらたわけ)の子である竹葉瀬を新羅に遣わした。上毛野氏は、崇神天皇の皇子の後裔とされ、日本書紀によれば軍事や外交で活躍。蝦夷討伐にも軍功をたてた。しかし、竹葉瀬は途中で白鹿を獲て戻り天皇に献上、改めて出発したが成否は述べられていない。弟の田道に新羅征伐の軍令が下り、田道は精騎(うまいくさ)を連ね、巧みな戦術で新羅郡を破ったという。さしずめ田道は日本における騎馬戦の始祖といえるかもしれない。魏志倭人伝の当時の倭人は、馬をもっていなかったはずだ。それまで日本と百済の連合軍は歩戦で、騎馬の新羅軍には勝てなかった。馬が輸入されて日本の軍事レベルは急速に高度化した。この軍事技術に支えられて大和朝廷は半島における任那経営を行い、東国の蝦夷征伐にも、新羅戦の功将の田道を投入することとなった。もっともこれらは神話主体の話であり、馬具や馬形埴輪の出土からは、「精騎」が可能となったのは5世紀に入ってからのことと考えられる。田道は、新羅で活躍したあと百済に遣わされ、止美(とみ)邑の呉女(ごじょ)(南方出身の女性の意か)を娶って、止美連(とみのむらじ)の祖、持君(もちぎみ)をもうけたとの伝承がある(新撰姓氏録)。さらに、田道将軍は仁徳天皇55年、蝦夷反乱を征伐に向かう。しかし、伊寺水門(いじのみなと)(石巻市に比定)で奇襲攻撃を受け深手を負う。一円券はこのおりの奮死(憤死)を描いたものとされていた。将軍の妻は、夫が生前手に巻いていた玉を抱き、首をくくって後を追う。のちに、蝦夷が田道の墓を掘り起こしたところ、神の化身である大蛇が現れ、将兵たちは食い殺された(日本書紀)。近代的な銀行制度をととのえるには、藩札レベルの紙幣ではならない。伊藤博文のなかば独断専行で、米国の印刷会社に、肖像を含む紙幣が発注された。図柄は、上毛野田道のほか、大己貴神(大国主命)、仁徳天皇、三韓征伐、天石窟(あめのいわや)の雅楽、蒙古襲来覆没、楠公迎輦などが考えられた。いずれも、明治維新を成し遂げ国際社会に遅れて加わることとなった日本だが、すばらしい(強い)歴史を持つ国なのだという思いが図柄の選択につながったと思われる。新政府にとって、いにしえの英雄は自分たちを鼓舞する心の支えであったろう。以上は、加来耕三『紙幣の日本史』KADOKAWA、2019年 より。
2020.02.01
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先日河北新報で報道があった。今月3日、栗原市議会が、次世代新幹線開発に向けた試験車両の深夜走行の中止を求める意見書を反対多数(議長を除く23人中17人が反対)で否決。記事によると、県の2017年調査で新幹線の騒音が環境基本法の基準を超えていることが前提として認識されており、その上でも沿線住民への配慮はなされている(反対意見)、子供や高齢者に苦痛をあたえている(賛成意見)とのことのようだ。また、志波姫地区東北新幹線沿線公害対策協議会なる組織の会長の発言が紹介されている。JR東日本が時速360kmの営業運転を目指すため、試験車両として運用しているのがE956型ALFA-Xである。試験走行は今年5月から仙台ー新青森間で実施。22年3月まで週2回のペースで行う。問題の栗原市は、くりこま高原駅を午後11時台と午前5時前後に通過するのだそうだ。営業運転での目標は360kmだが、現実の気象や地形など諸条件を考えると、試験走行では時速400kmをクリアすることが必要で、今回の試験でも400km走行を数回試すという。窓が非常に小さく、両端車両の鼻が異常に長いのが特徴だ。北海道新幹線が札幌まで延びる2031年春までの導入をめざす。なお、2005年からの試験車両FASTECH(ファステック)も営業360kmを目指したが、騒音とコスト対策が課題で現行のE5系は320kmを最高としている。JR東としては、沿線地域の反対はもちろん避けたいだろうし、時間短縮に見合わない高コストは意味がないということだろう。現在仙台から東京は約90分、中でも約30分を要する大宮以南のスピードアップは技術的には可能だという。最近になってやっとこの区間の最高110kmを130kmに引き上げるための工事を始めたそうだが、かつての埼玉県住民などによる東北新幹線反対の大運動を背景に、沿線には相当気を使っているのだろう。それにしても、わが宮城県で「新幹線がうるさい」という意見はこれまであっただろうか。たしかに個別の世帯の状況によっては苦痛といえる場合もないとは言えない。また、信条をもって問題提起する個人がいるのも自由で構わない。しかし、地域の声として対策を求める動きがあるとは、私は不勉強にして知らなかった。「公害対策」とまで名を冠した組織があるのか。まずはそのことが新鮮だった。
2019.10.06
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某所の道端に。手作り感満載ですが、大変よくできています。紐を引くと、カランと鳴るのです。
2019.07.15
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JR東日本の新幹線車両の中枢基地が、利府町にあるアレだ。正式には、新幹線総合車両センターというそうだ。JR東日本で総合の名が付く車両基地は、新幹線についてはここだけ。昭和54年設置。担当車両数は1359両、最大収容579両、従業員数1200名。ここは、JR東日本の保有するすべての新幹線車両の点検整備を担当。東北、上越、北陸、山形、秋田の各沿線各所に車両センターはあるが、それらを統括しており、全般検査(36月以内又は120万km以内)、台車検査(18月以内又は60万km以内)は、全てここで行われる。これらの検査のほか、日常的な検査である交番検査(30日以内又は3万km以内)と仕業検査(48時間以内)が、各新幹線沿線の車両センターで行われるが、利府は東北新幹線車両について交番検査と仕業検査を実施している。台車検査は、車両を連結したままで、台車に取り付けられている部品をすべて外して、分解整備する。2日で作業を終えて、試運転を含めて3日を要する。全般検査は、車両を1両ずつ切り離して行い、台車工場、組立工場、車体工場、組立工場、台車工場の順に指定の作業を行う。組立工場は、車両から取り外された機器の分解整備を行う。車体はさらに隣の車体工場で整備される。全般検査の最終段階では、車両をつないだ編成試験が行われるが、利府の基地構内での試運転のあと、仙台ー北上間で実際に走行して試験する。なお、台車検査での本線試運転は、白石蔵王ー仙台間で行う。新幹線は走行距離が長く、東京ー新函館北斗の一往復だけで1700km以上になる。また、最速320km/hで、不具合が発生した場合の対処が気になる。東京は東京新幹線車両センターが担当するが、利府の総合車両センターは郡山付近から北上付近を担当するので、担当エリアが最も広いという。不具合は、走りながら修理するが、それができない場合は仙台で列車を打ち切って車庫に入れる。自力走行できない場合は、数キロごとにある軌道への専用出入り口まで、車で向かい、そこからは軌道上を歩いて現場に向かう。■参考:柴田東吾『車両基地 知られざる鉄道バックヤード』交通新聞社(交通新聞社新書104)、2016年なお、文中の「東京新幹線車両センター」は田端。また、これ以外の各「新幹線車両センター」とは、以下のとおりのようだ。盛岡新幹線車両センター(なお、青森派出(油川)があり)小山新幹線車両センター長野新幹線車両センター新潟新幹線車両センターまた、山形車両センター(新幹線車両センターではない)と、秋田車両センター(同じく)では、それぞれ、新幹線直行特急電車(E3系、E6系)が配置されているようだ。
2017.03.29
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坂上田村麻呂ゆかりの観音像をもつとされる。以下が、「奥州三観音」だ。大仰寺(だいぎょうじ)富春山大仰寺、臨済宗松島町、奥州三十三観音第7番富山観音と呼ばれる。松島四大観の一つ(麗観)本尊は千手観世音菩薩、坂上田村麻呂開基、延暦年間の建立梅渓寺(ばいけいじ)両峰山梅渓寺、曹洞宗石巻市牧山の中腹、奥州三十三観音第8番本尊は聖観世音菩薩(牧山観音)、無尽天全和尚開山、貞治2年(1363)創建箟峯寺(こんぽうじ)無夷山箟峯寺、天台宗涌谷町の箟岳山頂、奥州三十三観音第9番本尊は十一面観世音菩薩(箟岳観音)、坂上田村麻呂開基、大同2年(807)建立古来、殺生禁断、女人禁制。大門より一歩入れば仙台藩で科人を捕らえられなかったなお、奥州七観音と呼ばれるものがある。やはり坂上田村麻呂祈願のものと伝えられるようだ。大嶽観音(登米市南方町、興福寺、奥州三十三観音第10番)箟岳観音(上記)長谷観音(登米市中田町浅水、長谷寺、奥州三十三観音第24番)富山観音(上記)牧山観音(上記)小迫観音(栗原市金成小迫、勝大寺、奥州三十三観音第22番)鱒渕観音(登米市東和町米川、華足寺、奥州三十三観音第15番、馬頭観音)奥州三十三観音、奥州七観音のほかに、三陸三十三観音(1991年設定)、仙台七観音もある。(『岩手・宮城 御朱印を求めて歩く 札所めぐり 奥州ルートガイド』メイツ出版、2016年を参考にいたしました。)
2017.01.21
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8日の河北新報に出ていた。国天然記念物で、ウトウ繁殖地の南限である女川町の無人島、足島で、海鳥がドブネズミに捕食される被害が出ているという。足島は、天敵のヘビがいないため、ウミネコなどの海鳥にとって楽園である。だが、大震災以降ネズミによる被害が急増。津波でがれきに乗ってやって漂着したという見方がされている一方、ネズミは1kmほど離れた江ノ島から泳いで渡ることも可能だという。環境省では昨年11月に3回、殺鼠剤入りのえさを置いたが、今後も警戒して監視を続けていくのだそうだ。■関連する過去の記事 江島列島 足島と笠貝島(2016年6月14日)
2017.01.09
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藤原氏が滅びた後に支配者となった鎌倉御家人などの推移をまとめる。(山本博文監修『あなたの知らない宮城県の歴史』洋泉社、2013年 などから)〔前回 中世宮城の名族たち(その1) に続く〕4 北条氏の権勢と御家人の没落・頼朝死後、北条氏は有力御家人を謀略で滅ぼし、実権を掌握・奥州に所領を持つ畠山重忠、和田義盛、三浦泰村なども倒される・鎌倉中頃には県内の半数が北条氏の所領に・なお、北条時頼の時代に延福寺(天台宗)が円福寺(臨済宗)に改められる5 建武の新政と奥州小幕府・建武の新政では、元弘3年(1333)後醍醐天皇が北畠顕家を陸奥守に任命、義良(のりよし)親王とともに多賀国府に派遣し支配させる・顕家は、父親房とともに統治機構を整備・式評定衆(8人)、引付(一から三番)、政所、奉行(評定、寺社、安堵の各奉行)、侍所を設置・評定衆には、冷泉家房(公家)、結城宗広(奥州武士)、伊達行朝(同)、二階堂行珍(旧鎌倉幕府文官)などを任命・この機構は、旧鎌倉幕府の焼き直しで、義良親王(村上天皇)を将軍に、顕家を執権に擬した、奥州小幕府とでもいうべき・足利尊氏を牽制し、関東や奥羽の武士を建武政権に靡かせるねらいとされる・さらに奥州諸郡には郡奉行、郡検断がおかれ、現地人材を登用・これにより北条氏領の地頭代として逼塞していた奥州土着武士や庶流の武士の自立の機会となり、彼らは小幕府に忠誠心を高めた(顕家が奥州武士を率いて西上し尊氏を追いやる)・しかし、顕家が鎮守府将軍として奥州に戻るまで、尊氏から奥州総大将に任命された斯波家長が、二階堂行珍ら評定衆を引き抜いて多賀国府を骨抜きにし、在地武士を北朝に寝返らせる・建武4年、顕家は多賀国府を放棄(奥州小幕府の瓦解)、霊山城に逃れ、暦応6年(1338)和泉国で討死6 南北朝期と岩切城の戦い・顕家死後、奥州では北朝が攻勢・斯波家長に続く奥州総大将の石塔義房は、康永1年(1342)、陸奥介・鎮守府将軍の北畠顕信(顕家の弟)を三迫(栗原市)で破り北朝優位を決定づける・その後北朝内部で、尊氏と直義の兄弟対立(観応の擾乱)で全国で両派に分かれ戦う・奥州では、奥州管領として貞和1年(1345)赴任の畠山国氏(尊氏派)と吉良貞家(良義派)の抗争・観応2年(1351)、貞家は和賀氏(北上)から結城氏(白河)まで奥州武士の大半を動員して岩切城の畠山国氏を攻める・国氏は、留守氏、宮城氏とともに防戦するが惨敗・一方、北畠顕信は北朝分裂に乗じて一時多賀国府を回復するが、観応3年、吉良貞経(貞家の弟)に奪い返され、宇津峰城に籠城するもやがて奥州から撤退7 大崎氏の登場・文和3年(1354)、斯波家兼(大崎氏初代)が吉良貞家の後任の奥州管領として赴任・賀美、志田、遠田、玉造、栗原の大崎5郡を所領。4代満持の頃から大崎氏を名乗る・家兼赴任の頃は、斯波、吉良、畠山、石塔の4氏がそれぞれ管領として権限行使・明徳3年(1392)、鎌倉府の管轄下となり奥州管領は廃絶。しかし、家兼の孫詮持とその子の満持が事実上管領権を行使・幕府と鎌倉府の対立が深刻化し、将軍義満は応永7年(1400)ふたたび大崎氏を奥州管領に任命・その後大崎氏は、伊達、葛西、南部、留守、結城、和賀などの各氏を配下に収め、福島県から岩手県にかけて影響力を持つ奥州随一の勢力に・奥州統治の拠点も多賀国府から志田郡に移る・国人領主達は定期的に大崎に出仕。家督相続には大崎氏の許可を得る8 戦国へ・14世紀半ば以降、大崎氏が奥州管領として君臨。周囲の有力国人を配下に収め、さらに婚姻関係で強固な同盟を結ぶ・しかし、16世紀初頭に伊達氏が台頭。大永2年(1522)伊達稙宗が幕府から陸奥国守護職を拝領。大金と引き換え。・鎌倉期に奥州惣奉行だった葛西氏は、戦国期には伊達氏養子を受けるなど弱体化・留守氏も伊達配下に収まり独立性は維持できず
2016.12.26
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藤原氏が滅びた後に支配者となった鎌倉御家人などの推移をまとめる。(山本博文監修『あなたの知らない宮城県の歴史』洋泉社、2013年 などから)1 奥州合戦後(鎌倉前期)の体制・御家人2氏(奥州惣奉行と呼ばれる)が事実上の現地支配者に・諸国におかれた守護に近いが、陸奥には守護がおかれず、奥州惣奉行が事実上守護に相当・鎌倉時代を通して、多賀国府と平泉が奥州統治の拠点になった(1)葛西氏・葛西清重。関東八平氏・秩父氏の一族豊島氏の子。下総国葛西御厨を所領として葛西氏を名乗る・鎌倉をめざす頼朝の陣営に加わり、平氏追討や奥州合戦で軍功。幕府草創期の重臣・胆沢郡、牡鹿郡などの地頭職を得るとともに、陸奥奉行人として戦後処理にあたる・検非違使所(平泉)を指揮。御家人の統制、軍事警察権執行、農村復興など・伊沢氏(国衙)に対して、清重は奥州藤原氏の行政権を継承した・鎌倉末期には関東御代官として奥羽両国の年貢を中尊寺に進上(清重以来のもの)(2)伊沢氏、留守氏・伊沢左近将監家景。京下りの役人。文才を買われて御家人になった・幕府の陸奥統治の拠点は多賀国府。現地最高責任者である留守職に・家景以後も留守職は代々継承・(事例)淡路国から将軍に献上された九本足の馬を外ヶ浜に放つ(建久4年)・(同)津軽海辺に人のような大魚の死体が浮かんだことを幕府に報告(宝治2年)・家名も留守氏を名乗る2 所領を得た鎌倉御家人たち・奥州合戦と大河兼任の乱で藤原時代の土着の領主が没落・鎌倉御家人(治承・寿永の内乱で武功)が幕府の命で次々と奥州各地の地頭職に就任・宮城県内では 葛西清重(牡鹿郡) 伊沢家景(宮城郡高用名) 千葉常胤(亘理郡) 畠山重忠(長岡郡) 和田義盛(名取郡) 宇都宮朝綱(遠田郡) 熊谷直実(本良(もとよし)荘) 山内首藤経俊(桃生郡)など・ほとんどの御家人は自ら赴任せず、庶子や一族、家人(けにん)を代官(地頭代)として派遣・かれらが本家から独立して各地に土着していく・地頭の権益は大きく、年貢収納をはじめ、警察、裁判、自社造営役の催促など・(事例)正治2年長岡郡小林新熊社(大崎市)僧侶の境界争いで、地頭畠山重忠は藤原以来の由緒ある祈祷所の争論を専断できないとして幕府に採決を仰いだが、裏を返せば通常の訴訟は地頭の専断であって奥州の地頭の権力の強大さがわかる3 平安以来の土着の武士の多くは所領を失う・鎌倉以後も宮城県内に所領を持ったのは、陸奥介氏(八幡荘)、柴田氏(柴田郡)・柴田氏は鎌倉の召喚に応ぜず、正治2年追討を受け滅びる・陸奥介氏は鎌倉中期に下野国保田景家を祖とする八幡介(やわたのすけ)氏に代わられる(続く)
2016.12.23
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1 はじめに(何が問題か)大震災の津波で多くの児童や職員が地域の方々とともに命を失った大川小学校の事故をめぐって、児童の遺族から国賠訴訟が提起され、さる10月に教員の過失責任を認めて石巻市と宮城県に賠償を命じる仙台地裁の判決があった。被告である石巻市と宮城県は、11月7日に仙台高裁に控訴。石巻市は10月30日に臨時議会を開催して議決(賛成多数)。宮城県は知事による専決処分で控訴を決定。この行政側の控訴の判断にも、事故そのものと同様にさまざまな受け止め方がされているようだ。そして、中には、控訴は誤っているという論調がみられる。しかし、その見解は、原告遺族や弁護士が主張するのは自然かも知れないが、今回の事態全体を客観的に考えた場合、控訴断念が、事件を教訓に論じられるべき防災対策に直接つながる訳ではないし、更に、地方自治の視点からしても実は重要な問題を含んだ見解である。以下に丁寧に解説するが、端的に指摘すると、事故の反省や教訓という我々が真摯に向き合うべき課題と、国賠訴訟は別物だと認識しなければならない。言い換えると、裁判の場は教職員の過失の有無を判断するだろうが、一般の方々が(おそらく原告も)熱望する事故の反省や教訓、そしれこれから学校関係者や行政や我々がどう対応していくべきかを明らかにする場面では全くない、ということだ。この点で、地裁判決翌日の社説でさっそく、「控訴すべきでない」と堂々と論陣を張った河北新報は、いかにも突出した印象だった。情緒論を表に出して行政の対応への非難を控訴の当否に集約させてしまい、かえって問題の本質をすり替えてしまった形なのだが、いかにも「わかりやすい」納得感(?)だけを読者に与えようとした面がある。石巻市や県の判断に先だって主張した勇み足の点も、自治とメディアの観点から重大な問題を持つと思う。以下、大川小事故とその教訓との関係で裁判(控訴)をどう考えるべきかを説明し、最後に、河北新報の社論の問題点をまとめて述べる。2 事故の教訓と課題大川小事故は大きな課題を残した。学校管理下で多くの児童が犠牲になった事実は、必ずや事実として受け止め、絶対に後世に教訓として残していかなければならない。そのためには、多面的な角度からの検証は必要だ。どんな議論があるか、項目立てしてみると...(1)真相究明として、現場の実態はどうだったのか。より具体的に言えば、なぜ校庭に長時間とどまっていたのか、その間教頭以下の教職員の対応や指示はどうだったのか、なぜ裏山でなくて三角地帯に向かったのか、(2)学校安全の問題として、事前の防災訓練やマニュアルが徹底されていたのか。その内容は今後に向けて妥当なのか、(3)地域防災の観点として、避難所としていたことの問題、市役所の避難の広報の仕方、さらには、災害に対して迅速に主体的な避難行動がとれるような勧告等の発令のあり方、また防潮堤や河川堤防のハードについても、専門家の知恵を集約していくべきでないか、(4)事後対応の問題として、市教委や市の対応はどうだったのか(メモ廃棄、宿命発言)、学校教職員の研修などに積極的に活かすべきでないのか、県教委のリーダーシップが欠如したのでないか、そもそも学校組織や教委の隠蔽体質や事なかれ主義が根本問題でないか、(5)訴訟に至らざるを得なかったのは、行政側の話し合いが足りなかったのでないか、これにより遺族の苦しみは消えない、控訴すれば苦しみが長引く、和解すべきでないか、(6)裁判過程で、生存した教諭の証人尋問をすべきでなかったか、児童の証言を尊重すべきでないか、(7)宮城県知事が専決処分で控訴を判断したのは、議会軽視でないか、...などの様々な視点があるように思う。一般の方々の抱く認識としても、「なぜ命を救えなかったのか」という疑問と教訓意識を抱くだろう。真相はどうだったのか、そして、なぜ裁判になってしまったのか、という思いを多くの人が抱くのでないか。そして、こうした思いに駆られるのは、74人の児童が学校管理下で死亡・行方不明という圧倒的な惨事であることと、石巻市教委などによる検証等の対応が後ろ向きな印象を与えてきたことも大きく影響していると思われる。このため、どうしてもモヤモヤが晴れない、あるいは、行政の姿勢に憤懣やる方ないという感覚に覆われているのではないだろうか。3 我々が対応すべき課題と裁判の関係では、裁判とは何を明らかにしようとするものなのか。国家賠償法に基づく訴訟であることから、公務員の故意又は過失が要件となり、民事責任(賠償)を公務員の雇用主である石巻市と宮城県(給与負担者)に問うという構造だ。国賠法上の救済を受ける権利が原告にあるかどうかを裁判所が決する。そして、原告がこの訴訟で問題にしているのは、校長以下の教職員の過失(市教委や市役所の職員ではない)のようだ。従って、上記の諸議論の中では、(1)や(2)については、ある程度対応されるとは言える。ただし、法的な過失を認定できるかの限りで必要な真実の認定にも努めるだろうが、あくまでその限りだ。地裁判決では、津波襲来の予見可能性を認めて、さらに、裏山に登るべきをそうしなかったことで結果回避義務に反した、と構成した。たいへん微妙な判断であると思われ、津波に対する認識レベルと、地区の住民も多数避難していたことなどの事情もあり、どちらに判断が分かれても、誰もが100%納得するとは言えないように思われる。いずれにしても、本質的に重要なことは、裁判は損害賠償義務を認めるかどうかの判断しか行わないのであって、(もちろん裁判官はできるだけ当事者が納得できる結論をめざすだろうが)教訓や対応を示す場ではないということだ。私は、おそらく多くの人が感じているように、現場の教員(大人)は、背中を押して腕を引っ張ってでも山に引き上げれば良かったのに、と思う。その意味で、結果として子供たちを守るべき教員(大人)や地域に相当な問題はあったと言うべきだと思うし、これを絶対に後世に伝えて対策を講じねばならない。だが、それが裁判所が判断する法的な責任かどうかは別の話だ。かりに仙台地裁が訴えを認めなくても、市教委や県教委は、必ずや教訓を活かして今後の対応を検討して行かねばならないことは当然である。他方で、実は別の点で、法的な過失の認定いかんは重要な意味を持つ。それは、全国の学校や教員にとって、施設管理や職員の行動の基準として、災害時にどの程度の注意義務が求められるかという点である。さらに言えば、学校施設や催事に関する責任保険制度の関係で、保険会社は注目しているだろう。その意味で、社会的に見ても、控訴して過失の有無をさらに検討する「利益」はあると言える。市教委・県教委としても、事態の対応のまずさはあるとしても、事故の時点での「法的な」過失を争うと提訴されれば、司法の場で判断を求めることは、自然な話であって、特段に非難されるべきいわれはない。(繰り返すが、仮に過失がないとして、だから許される、何も対応しなくて良いということではない。児童や教職員の命を救うために教訓を今後に活かすあらゆる努力をすべきことは当然だ。)以上から、裁判は、今回の場合、問題の本質の解決には基本的にならない。原告遺族の方々は、おそらく、我が子がどのように被害に会ったのかを知りたいという切実な思いをお持ちだろう。その点では、一つの判断が示されたと受け取るのだと思うが、もとより問題の解決の大切なところは、教訓をどう活かすかであって、それは裁判で決すると考えていないだろう。もっとも、もどかしい行政を突き動かす意味もあっての提訴だったのかも知れない。判決の直後に、原告団は、「先生の言うことを信じていたのに」「教員を断罪」などの横断幕を示していたようだが(記憶が不正確)、私には、弁護士や背後の関係者の行政(教育)批判主義や行き過ぎた達成感の発露のように思えて、見るのが非常に嫌だった。教員組織(多くが犠牲者でもある)の過失が法的に認定されたからといって、そこに全てをなすりつけるかのような風潮は、さして健全でないし、(逆に先生方も被害者だという感情論をかき立てることはあっても、)事態の解決になるわけでもない。4 和解について和解すべきだとの見解がある。私もそう思う。天災があらゆるものを引き裂いた。それをどう立て直すかは、みんなの責務だが、政治や行政が率先すべきことは当然だ。大川小学校の事故をどう検証して対策を行うか、これまでの対応はじゅうぶんだっただろうか。私は適切に評価できるほどの材料を持っていないのだが、報道に接してきた限りでは、市教委の対応に主体性が感じられないと思うことは多々あった。あえて対立しようという構えではなかろうが、隠蔽や事なかれ的な行政体質が出たとも感じられた。あの日のあの現場でもそれがあったのではないか(適切な判断ができずに右往左往、とか)との連想も働いてしまい、一層無念さが募る、と一般の人たちも感じたのでは。ことに当事者の方々にとっては、逆撫でされる局面もあったのかも知れない。まずは市教委がもっと主体的に関わるべきだと思う。できないのなら、県教委が率先して動くべきでないか。もちろん、政治家が中に立って動いても良いが、そのような話はあったのだろうか。そして、その延長として、遺族や保護者や地域住民が納得する説明や対策が出てくる。もちろん、個人個人の思いのあらゆる点に合点や満足がいくことはないだろうが、今後の学校と地域のために何を残していくべきかの点で力を合わせていくことが求められる。それが、我々の務めだろう。いま、裁判になったから、裁判の局面で言えば、その第一歩が和解だ。最低限の納得があって、初めて今回の事態と対策が進み出すのであって、和解は必要条件というべきだ。そして、提訴していない遺族も多いのであって、裁判の和解を契機に、さらに課題への対応が進むことを期待しているだろう。行政側にとっては、和解を機に(本当は裁判や和解があってもなくても)、更に対応を前に進めなければならない。今回の大震災は長く歴史に残るし、そうしなければならない。その際に、大川小の惨事を、一部遺族と裁判で対立したという形で残すのではなく、裁判はあったが和解し、地域の皆で対応を考えたとの歴史にしておきたい。5 「控訴するな」論の問題控訴すべきでないという見解がある(例えば河北新報)。控訴しない場合、まず原告の方々はある程度納得する可能性はある。また、真相を知りたいという一般人の思い、或いは犠牲となった児童に報いたいという世間一般の気持ちが、ある程度晴れる、のかも知れない。だから、教員の過失を認めたのだから、もういいんじゃないか、というのが「控訴すべきでない論」だということになる。たしかに、学校の体制の問題、事後の石巻市教委の対応のまずさがあり、遺族の不満も高まっただろう。原告の立場からすれば、控訴を望まないのも自然だろう。一般にも多様な意見があって良いが、メディアがこの見解を大きく振りかざすことは、大きな問題をはらんでいる。なぜかというと、真相が晴れないモヤモヤ、行政への不信感、あるいは児童や原告遺族に寄せる一般人の感情を追い風に、「責任逃れの果てに訴訟でまで反論するのはけしからん」とばかりに、すべて控訴判断の是非の点に集約(すり替え)てしまい、課題の本質をかえって見誤るおそれがあるからだ。これを公器たるメディアが採るのは、かなり不健全で見識の狭い態度である。いま、教員の「法的」過失が認定されたとして、それで教訓の伝えや対応の方向が切り替わるものではない。また、真相解明は裁判では限度がある。市教委を中心に皆で検証すべきだが、分からないことはわからないで終えるしかない。その先が大事なのだ。裁判は早く終わらせて、今後の対策に注力すべきだという見解もある。これは一理ある意見だと思う。行政が「裁判中は様子を見る」という態度とも見えるからだ。だが、行政の主体性を促すべきであり(もう行政は動かないと決めつけるのもおかしい)、また、今後の和解も視野に入れるなど、大局的に見るべきであり、地裁判決の一時点で思考すべきではない。また、河北新報の言い方だと、遺族に負担を強いるべきではないから控訴するな、という。原告からすれば控訴を望まないのは自然なことだ。たしかに、行政の対応が悪くて裁判に踏み切る「しかなかった」面があるかも知れないから、いわば二重の被害者であって、これ以上苦しめるなということだろう。だが、間違ってはいけないのは、提訴したのは遺族側なのである。石巻市が訴えたのではない。こんなことを書くと、遺族に失礼とか不謹慎とか言われるだろうか。しかし、控訴の当否は、あくまで裁判という限局された世界に過ぎない。そして、当事者主義と三審制という訴訟制度を否定するのでない以上、訴訟当事者としての動きを非難や牽制する積極姿勢をマスコミが取るべきではない。なお、控訴は権利だとしても、行政側として「すべきでない」議論が適当な場合もありうる。例えば、ハンセン病隔離政策をめぐった国賠訴訟で、小泉内閣は国の長年にわたる国策の誤りを認めて控訴を見送った(2001年)。現在から見ても、この判断は歓迎すべきものと言えるだろう。もちろん、この場合も、訴訟がすべての問題を解決するプロセスではないが、国会の立法不作為も含めて国の非行が明らかとなっており、患者の権利回復のための少しでも早い対応が求められており、さらに言えば、法的な争点として時効の起算点などの問題があったが一審判決が明確に権利救済の側の姿勢を示したこともあって(人生被害判決)、実務的にも控訴すべき事情が薄らいだこともあったようだ。6 控訴しないとどうなるかところで、河北新報が主張するように、市・県が控訴を断念するとどういう事態になるのか。(1)議会を招集しない → 代表を通じて民意を問う機会がないが、河北新報はそれでいいのか。(2)賠償が確定する → 14億円と法定利息が市民(県民)の負担で行われることになるが、本当にそのことに市民県民の合意があるか。河北新報は住民全員が賛同しているという前提だろうが。(3)和解の機会は実質的に奪われる → 控訴審で裁判上の和解の可能性がなくなる。7 地方自治との関係石巻市議会は賛成多数で控訴議案を可決した。河北によれば控訴は誤りなのだから、賛成した議員は誤っていることになる。だが、そんな一面的な見方で良いはずはない。少なくとも、住民の代表である議員たちが、それぞれの立場で、さまざまな次元の問題を総合的に考えて投じた姿勢である。反対した議員も賛成した議員も、苦悩しただろう。地方自治は二元代表制と、よく言われる。かなり誤用もされる用語なのだが、今回の議決について言えば、まず、市長は議案を出す(このような場合、絶対控訴したいという姿勢から、議案として出して議会の判断を待つ姿勢まで、幅が許されよう。なぜなら控訴断念の場合、控訴すべしという議会の意思表明ができないから)。そして、議員は、市民の百人百様の意見を反映し、今後の地域のためのどんな論点があるかを、提示したり整理(討論などを通じて)したりする。この過程が重要なのだ。これが議会制を軸とした団体自治の本道であって、そのような過程を踏みつぶして、結論だけを声高に主張するメディアの姿勢は、通常は許されない。8 河北新報の社論最後に、河北新報の社論を確認して、上に述べた点も含めて、その誤りを改めて整理しておく。河北は、社説を二度掲げたようだ。その骨子は以下の通り。(1)2016年10月27日(判決翌日)「大川小訴訟で賠償命令/災害弱者守る責任は重い」・判決は過失を認定。ほぼ遺族側の主張を取り入れた内容。・この判断はうなずける点が多い。予見可能性は司法の場でも判断が分かれやすいが、今回の判決は実質的で理解しやすい。(広報車がきた時点、裏山が最善、などの判断内容を評価しているようだ。)・石巻市などは控訴せず判決を受け入れる方向で検討進めるべきだ。これ以上遺族に負担を強いるべきではない。・学校に厳しいようにも見えるが、守るべきは子供たちだった。自分の判断で避難するのは困難だし、それは許されなかった訳だから、学校側の責任は格段に重くなる。・判断の基礎は、子供たちには責任を負わされず、周囲の役割が厳しく問われるということ。子供たちのような災害弱者を守るために、忘れてはならない。(2)2016年11月6日(市議会可決、県知事専決処分の後。控訴状提出の前日)「大川小訴訟の控訴/「代表機関」の看板が泣く」・自治の根幹をゆるがす事態と当事者は理解しているのか。・石巻市議会には議論を尽くして、不満は残るがやむを得ないという住民の納得につなげる役割が求められていたが、多数決で早々に可決したのは拙速。熟議なき議決をどう住民に説明していくのか。・代表機関としての自覚の欠如と、自らの権能の理解不足。・会期延長して住民対話の機会を確保できた。傍聴席に意見を聴くこともできた。・議会基本条例のすべてに、命の代償が問われる局面で、自ら反していた。・宮城県は、議会も招集せず知事の独断。二元代表制の本旨に照らし疑問。時間的余裕がなかったとは言い難い。・震災の被災自治体では、専決処分の拡大が続く。議会が譲歩。この風潮に便乗して、例外的であるべき専決処分を安易に行使する傾向が首長側にあるのでないか。・議会が軽んじられるとき、背後に控える住民も軽んじられているのだということを忘れてはならない。(1)は、控訴すべきでないと踏み込んだ社説だが、その不適当なことは、上に述べた。子どもを守る責務は当然あり、絶対に我々は教訓を伝えていくべきだが、それと裁判は本質的に別。市議会の前に一方的に訴訟態度を主張するのも団体自治に対して攻撃的だ。(2)については、私の感覚では、社論を守るためのいい訳のようで見苦しい。河北の主張(1)のように控訴断念するならば、議案提出不要だから市議会も開催されないが(市議会を招集した市長の判断が誤りのはず)、今度は市議会の審議が不足だ(審議すべきことが前提なのか)、と矛盾しているようにも見える。河北は控訴した議決は誤りだと言うべきはずだが、こんどは、市議会の議論の「過程」に非難を浴びせている。「不満残るがやむを得ないという住民の納得」を得られる審議がない、拙速だというのだ。ここで、住民は控訴すべきでないという民意が絶対にされている(河北の決めつけ)。私は、実際に市議会のネット中継を視聴していたが、通常の感覚としては、かなり時間を割いて集中的に審議しているという受け止めだろう(議員の発言のほとんどは控訴すべきでない立場)。時間が少ないとか、傍聴席に意見を聴く議会があるとか、議会基本条例に反しているとか、あれこれ並べているが、ならば(結論でなくて)具体的にどういう議会運営なら河北がいう「住民の納得」が得られるというのか。他の案件の審議は納得されているのか(これまで他の案件でこのような批判や指摘を河北がしたか)。「議会が軽んじられると住民も軽んじられる」とまとめているが、宮城県の専決処分については、いわゆる議会軽視として成り立つ議論だが、専決処分の是非は、そもそも本題の控訴当否とは別の論点。他方で、石巻市議会については、ともかくも臨時会を開いたことは「議会を軽んじて」いない。市議会のやり方(熟議がない)が、議会自らを軽んじたという論法だろうが、本件に全く関係のない多用される専決処分まで持ち出して、「風潮」としてまとめて、自論を支えたに過ぎない。「民意」を絶対視した河北新報の自縛だ。というより、「民意に仮託して」河北が形成しようとした社論なのだ。何にせよ、異常に踏み込んだ社論で、河北が報道を持って県民の世論を束ねて、市議会を誘導しようとしたのは明らか。重大なミスリードの責任はどう果たすのか。どのような経営的判断があってのことか不明だが、県内に圧倒的なシェアを誇る一大メディアとして、このような姿勢が許されるだろうか。
2016.12.18
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朝の各紙に出ている。参院宮城選挙区選出の和田政宗議員が、日本のこころを大切にする党を離党した。自民党入党を希望しているという。和田議員の方は、毎日新聞がやや詳しく書いており、自民との間で来年の通常国会から参院統一会派を組む方針が決まった「こころ」は、和田氏が離党して中山恭子代表と中野正志幹事長だけになるが、2人は比例選出のため法律により政党を移動できない。また、和田氏の自民入党に際しては、宮城選挙区でともに当選した愛知治郎氏と競合するため(次の改選からは定数が1になる)、「一定の調整が必要」と記事では書かれている。各紙とも、和田氏の記事に先だって、無所属議員の自民復党問題(18日の党紀委で先送り決定)をめぐる二階氏(みずからの勢力伸長を図りたい)と選挙区で競合する議員を抱える派閥の長たる岸田氏や石破氏(子分を守るべき立場)らの確執などを報じている。期せずして、自民入党なるか、という共通項を持つ問題が同日に報道されたわけだ。ところで、その和田氏、記者団に対して、「私の力が及ばないところもあり、党勢拡大ができなかった。党に貢献できるものはだいぶ限られ、区切りをつけた」と語ったという(産経新聞)。宮城の選挙民はどう見るだろうか。和田氏は2013年の参院選の宮城選挙区(定数2)で、愛知治郎氏に次ぐ議席をめぐり、民主党現職で知名度もある岡崎トミ子氏との接戦を振り切った。その後、「次世代の党」に移り、同党が現在の「こころ」に党名変更していた。最近の第三極の変遷は、非常にわかりにくい。大まかにいえば、次のようになろう。●みんなの党 →(離党)結いの党(*) →(みんなの党→)(解党)日本を元気にする会・無所属クラブ●*結いの党 →(合流)維新の党**●たちあがれ日本 →(合流)日本維新の会 →(分離)次世代の党***・維新の党**●**維新の党 →(合流新設)民進党●***次世代の党 →(党名変更)日本のこころを大切にする党どうしても、ややこしい。複雑な流れに、宮城の議員の固有名詞を当てはめていくと、実感が出るだろうか。●中野正志氏 もと自民党衆院議員。2012年から「たちあがれ日本」に属し、2012年衆院選で維新の会から出馬(落選)、2013年参院選で同党比例区で当選。2014年、分党により次世代の党に。●林宙紀氏 元キャスター。2012年みんなの党公認で衆院選宮城1区立候補、比例復活当選。2013年、江田憲司氏らと離党、結いの党を結成。2014年、日本維新の会との合流により、維新の党。2014年総選挙では民主党との選挙協力で宮城2区に回るも次点。●和田政宗氏 元アナウンサー。2013年みんなの党公認により参院選宮城選挙区で当選。2013年同党の解党の際に、次世代の党に加わる。和田氏は、第三極「みんなの党」から斬新なイメージを従えて颯爽と登場し、ベテラン岡崎トミ子氏を破った。みんなの党で、自民寄りの渡辺代表と江田氏との党内対立が先鋭化した際には、江田氏や林宙紀氏、柿沢未途氏らが「結いの党」を結成したのに対して、和田氏はみんなの党に留まっていたが、渡辺代表のDHC献金問題では公然と代表辞任を要求。その後、みんなの党の解党に際しては、江口克彦氏や松沢成文氏とともに、次世代の党に加わる。短い間の第三極の離合集散の中で、宮城県議、自民党代議士、国土交通政務官などを歴任したベテラン中野正志氏と、期せずして少数会派で籍を同じくしていたわけだ。昨日までだが。和田氏が自民党に入るとなると、どうだろう。愛知氏との関係で政治的にはニュースになるだろうが、それもそうだが、和田氏を議員に選んだ有権者たちが、同氏のこれまでの主張と実績などをしっかり見ていきたい。何よりも、和田政宗氏が宮城の有権者に、どう説明するのかが問われるのは当然だが。
2016.11.19
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雑学本の新しいやつで読んだ。身体測定ではかっていた「座高」は、戦前は徴兵のために内蔵の成長度合いを見る目安にしていたのだが、実際は無関係とわかり、もともと活用もされていない指標だから、平成27年度から文部科学省では測定をやめたという。ところで、宮城っ子は座高が全国でもトップクラスだったはず。平成27年度の学校保健統計(宮城県)をみる。たぶん、座高のデータがある最後の年なのだろう。宮城県は、幼稚園から高校3年まで、男女ともすべての学年で全国平均値以上。女子の幼稚園、中2、高2の3階級(学年)で堂々全国第1位だ。男子も13階級中の11で順位ヒト桁。なお、平成26年度(宮城県)では、女子の中1を除き、幼稚園から高3まで各学年、男女とも全国平均を上回る。男子小3、女子幼稚園が堂々全国第1位など、男子で7つの学年、女子で8つの学年で順位ヒト桁だ。(ちなみに身長はバラツキあるが、体重は全階級で10位以内!)ちなみに、座高の低い県はどこだろう。平成27年度の17歳男子でみると、全国92.1cm、宮城92.5に対して、栃木91.4が最低。17歳女子は全国85.9、宮城86.2に対して、最低は沖縄85.1cmだ。座高測定の導入の経緯からすれば、全国でトップクラスの宮城っ子は、内臓の健全な成長を誇って良いのかも知れない(?)が、そんなこと考えたこともなかった。それより、宮城など東北は、肥満傾向が指摘されており、こっちの方を色々な角度から検討したり対策を考えたりすることが必要だと思う。ともあれ、(小さい声で→学力、進学率、不登校など全国的にあまり芳しくないわが宮城県が)全国に誇る(数少ない?)高順位データの「座高」が、測定廃止で、まぼろしとなる...の巻。■関連する過去の記事 肥満児割合の高い東北(2015年1月24日) 宮城っ子の体格(08年12月15日) 体格の良い東北っ子たち(07年7月19日)
2016.10.31
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昔ばなしの結句(語り納めの語句)は、仙北にあって仙南にない。仙南に固有の結句は皆無で、理由は定かでない。たまに知っている人もいるが、仙北出身者が嫁入り道具と一緒に持ち込んだものだ。仙北では、地区毎に、「こんで、えつこ、さげだ」「よつこ、さげだ」「えつこ、まあんま」「土瓶こさげでお茶飲まれねえ」など核となる結句があって、それぞれ伝承圏を形成。昔ばなしの伝承度も仙南より高く、50話や100話クラスの語り手も仙北に偏在する。宮城独自の昔ばなしは少ないが、他県のものと大筋は共通しながらも細部にはかなりの差異がみられて、そこに宮城の独自性もある。日本昔話の型は約700種もあるとされるが、本県には全国的に分布のまれな古く光った昔話も、ほぼ完璧な形で幾つか残存している。■参考 佐々木徳夫『みやぎ昔ばなし百選』本の森、2006年(まえがき部分から)
2016.10.24
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黒川郡富谷町(とみやまち)があと2時間で消滅します。いや、「消滅」は正しくなくて、普通地方公共団体である同町が、その公法上の法人格を維持したままで、町から市に名称を変えるというのが正確な説明でしょう。ところで、富谷市になると「黒川郡」からも外れるのですが、新市の中での住所の表記も変わるようです。例えば、富谷町役場(市役所)の所在地は、こう変更されます。●(従来)宮城県黒川郡富谷町富谷字坂松田30番地●(今後)宮城県 富谷市富谷 坂松田30番地つまり、従来の「大字」に付いていた「字」の表記を消すというやり方を選んだようです。なお、「大字」は町のサイトによると以下のものがあります。明石(あかいし)、石積(いしづもり)、一ノ関、今泉、大亀(おおがめ)、大童(おおわら)、穀田、三ノ関、志戸田、富谷、西成田、二ノ関「小字」の方は従来のものを大字の後に直接(「字」の文字を挟まずに)続ける事になるのですが、市制施行を機に小字名を変更するところがあり、●富谷町富谷字町...番地 →富谷市富谷新町...番地●富谷町富谷字町北裏...番地 →富谷市富谷北裏...番地などとされるようです。単に「字」の文字を消すと「富谷市富谷町...番地」となってしまうからでしょう。ところで、「字」の呼称を消すのはなぜか。おそらくは、「字(あざ)」という響きが田舎臭いから、市昇格に合わせて取ってしまおう、というシティ派感覚なのでしょう。簡単に言えば。■関連する過去の記事市町村合併と住所の表記(2007年8月25日)この「アザ消し」は、平成の合併でも一部に見られたようです。昭和の合併の際にも全国的には結構あったかも知れません。例えば、次の住所の表記をみてみましょう。●栗原市金成小迫高見山35番地の3(金成小学校、中学校)かつては、(栗原郡)金成町津久毛字小迫高見山 と称したものが、「字」表記を消すとともに「津久毛」まで取り去っています。しかし、どこが地域名の単位の区切れなのか、地域を知らない人にはよく分からない可能性もあります。もっとも、これならまだ、金成、小迫、高見山、の3つに分かれるとおおよそ見当がつきます。実は、同じ旧「津久毛」地区でも「小迫」以外の地域(岩崎、平形)は、津久毛の名称を冠したままです。そこで、こんな表記になります。●栗原市金成津久毛岩崎東谷地...番地(猿田彦神社のあたり)何とか切れ目は想像できそうではありますが、「津久毛」を知らない前提で、金成、津久(ツヒサ)、毛岩崎(ケイワザキ)なのか、と首をかしげる人もいるかも知れません。手書きで年賀状を書くときに、どこで改行するか心配しそうです。平成の合併前の表記は、「栗原郡金成町津久毛字岩崎東谷地...」ですから、昭和の合併か(或いは明治の合併か)の経緯で、既に「岩崎」と「東谷地」がシームレスになっています。平成の合併では、旧金成町を含めて、4段の地域階層(金成/津久毛/岩崎/東谷地)がすべて切れ目なく繋がってしまった事例です。シティ派思考でアザ消しをしたのかどうかは分かりませんが。私自身は、富谷の場合も含めて、せめてもの区切りの符号として「字」があった方が落ち着くという気がするのですが、この辺は地域の皆さんの考え方なのでしょう。
2016.10.09
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昨日NHKのニュースを聴いていたら、栗原市で軽トラックがトンネルの入り口に衝突して、運転していた方が亡くなったという。トンネルの幅が車一台分で狭いということだが、気になったのは、栗原市瀬峰新田沢という場所の説明だったが、あの辺りに「トンネル」はあっただろうか。トンネル事故というと、天井板落下や壁の崩落、あるいは換気の問題などの安全性が問われてきた。それほど長大トンネルが瀬峰にあるはずはなく、今回は入り口というから、道路の構造上の問題や誘導や案内標識に欠点はなかったのだろうか。瀬峰といえば、中心部の中学校や県立病院などは確かにうず高い場所にあり、南に行けば渡辺採種場などがある丘陵の美しい田園地帯。また北には東北新生園付近のなだらかな丘陵が広がる。しかし、道路にトンネルを掘るほどの場所はあっただろうか。東北本線は瀬峰駅の北で切り通しになっており、長沼や佐沼に至る県道はこれをオーバーパスする。■関連する過去の記事 我らが準秘境駅 梅ヶ沢駅(2011年8月14日)今朝の河北新報の記事。見出しは、「高架下の壁に衝突、軽トラックの男性死亡」とあり、JR東北本線高架下のコンクリート壁に衝突したという。栗原市瀬峰新田沢の市道。見通しの良い直線道路という。なるほど。市道が線路のガード下をくぐる場所なのだろう。確かに地図で見ると、上述の県道のオーバーパス(サンドビックや介護施設のあるあたりが新田沢というようだが、それよりやや南(瀬峰駅方向)で、土地が低くなっている場所で市道が線路をアンダーパスするようだ。五輪堂山公園にやや近い。そして、道路の幅員に対して、ガード下部分は狭くなっているように見える。高架下の許容幅以上に道路を拡幅した経緯があるのだろう。対向車があるときは、手前で待たねばならないようだ。さて、これをトンネルというだろうか。いわゆるボックスカルバートで形成されたアンダーパスのようだ。東北本線は土盛りされた上を走っており、道路との交差部分だけは土盛り部分の代わりにカルバートの上を線路が走り、カルバートの中が道路だ。たしかに、内部から見れば、両端以外は密閉された空間であって、幼児ならトンネルと言うかも知れない。よく「ガード下」という場合は、典型的には鉄道の高架橋梁の下を指しており、橋の金属構造物を天井に仰ぐような場合だろう。ガタガタと鉄道の音が響いてくるイメージだ。カルバートの密閉空間まで、「ガード(下)」と呼んで良いかどうかは微妙な気もする。それにしても、(大人が)「トンネル」と呼ぶにはやはり隔たりがあるように思われる。トンネルというからには、どうしても、自然の山をくり抜いたり、地下を潜行する場合だと思う。今回のように、人工構造物による立体交差に過ぎず、距離の点でも数メートルしかないものは、トンネルというべきではないと思う。事故の社会的影響の点からしても、道路構造の問題や運転上の事情などが検証されるべき可能性があるが、その意味でも、(通常の)トンネルの場合と一緒にはできないだろう。たぶん、NHKのライターは、消防か警察から取材した情報で、そのままトンネルと流したのでないか。高架、ガード、トンネル、アンダーパス、などなど様々な表現が考えられるが、たまたま取材源の人物がトンネルと表現して、ライターは(通常のトンネルを想起しつつ)トンネルと書いたのでないだろうか。かりに現場を見ていたら、ライター氏自身がトンネルと書いたかどうか。これも想像だが、土地勘がなくて、気にも留めなかったのだろう。せめて地図くらい確認する想像力が欲しいと言いたいが。なお、今日は日曜で時間があって図書館で各紙を読んでみた。朝日や毎日には出ていないが、読売の県内面にはこうあった。(見出し)軽トラが壁に衝突/運転の85歳死亡(現場の表現)JR東北線の下をくぐるトンネル入り口の壁に衝突した...読売の場合は、東北線の下をくぐる、としているからイメージが具体的にわく。本来「トンネル」は一定の長さを伴うものだとしても、「鉄道の下をくぐる」だけの、トンネルみたいなやつのことだな、と合点がいく。「アンダーパス」では解らない読者もいるだろうし、都市部のような橋梁ではないから「高架下」もピッタリ来ない、ということで、こういう表現にしたのだろうと推察。
2016.07.31
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定員が1に減って現職2人の決戦となった、わが宮城選挙区。若い自民現職が押し切るか、知名度の高い民進現職が野党統一の力で逃げ切るか。現職梅雨明け前の熱戦。結果は、民進候補の勝利。だいぶ水をあけた。事前評では、民進が先行、共産などの野党の助勢も効果が生じているなどと伝えられたが、一時的には自民公明中心に保守系組織がテコ入れで、横一線とされた。しかるに、事後のマスコミ評では、民進候補の逃げ切りには終盤のフル回転と巧妙な共産色隠しがあったとか、自民の敗退には、候補者自身の浸透の薄さや組織のバラバラ感など、「やっぱり」感が出ている。結果をみて書ける要因を探す式の論評のようにも思えるが、いずれにしても、接戦だったことは間違いない。1週間たったが、ここで当ジャーナルとしても振り返ってみたい。■宮城県選挙区 投票率(%)県計52.39(前回50.75)市区町村別 最高七ヶ宿町69.84 最低南三陸町46.61(投票者数1,020,380 投票総数1,020,370 有効投票数998,847(無効21,523))■同 得票数桜井充 民進党 510,450くまがい大 自由民主党 469,268他に1人あり■比例代表 投票率(%)県計 52.38(前回50.75)(投票者数1,020,293 投票総数1,020,276 有効投票数980,294(無効39,982))■同 得票数(得票総数、得票率)1 自由民主党 359,528 36.68(得票数のうち政党等273049 名簿登載者86479)2 民進党 248,990 25.40(政党等200119 名簿登載者48871)3 公明党 131,545 13.42(政党等52776 名簿登載者78769)4 日本共産党 97,890 9.99(政党等92055 名簿登載者5835)5 おおさか維新の会 38,950 3.976 社会民主党 35,483 3.627 生活の党と山本太郎となかまたち 22,363 2.288 日本のこころを大切にする党 11,685 1.199 支持政党なし 10,363 1.0610 新党改革 9,218 0.9411 国民怒りの声 7,525 0.7712 幸福実現党 6,743 0.69単純にいえば、100万人のうち、比例で自民と公明に投票したのが50万人。これに対して、民進、共産、社民の計は、40万人に満たない。比例では、自民、公明、維新などに入れている層が、選挙区では桜井に投じた行動が少なくなかったと言えるのではないか。〔仮説1〕別の見方。共産支持層が野党共闘で桜井に入れたと考えて良いだろうが、もし共闘なかりせば、熊谷がトップになったという可能性はたしかにある。〔仮説2〕この仮説を検証するには、客観データを集めなければならない。(前回との変動を動態比較することも有用かも知れないが、まずは、)市区町村別の投票結果をクロスセクションで比較することになる。■以下はまもなく記します(現在作成中)
2016.07.16
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鈴木重雄(1911-1979)は唐桑町鮪立に生まれ、ハンセン病回復者の社会復帰に尽力した。回復者の社会復帰にさまざまの問題を抱えていた中で、患者であった鈴木は地元に戻り受け入れられ、高度成長期の漁業の町を、地域振興や障害者政策などで大きく変える力となった。■松岡弘之「ハンセン病回復者の社会復帰と宮城県本吉郡唐桑町」 荒武賢一朗編『東北からみえる近世・近現代-さまざまな視点から豊かな歴史像へ-』(岩田書院、2016年)所収(本文中は敬称を略しております。)鈴木重雄は東京商科大学在学中にハンセン病を発し、1936年、岡山県の国立療養所長島愛生園に入る。田中文雄の名で入所者の処遇改善のため自治会活動を支えた。隔離政策への反対運動にもかかわらず、隔離を継続し退所規定ももたない「らい予防法」が制定され、鈴木自身も自殺を図り一命を取り留めるが、その後は個人の立場からハンセン病に関する啓発や社会復帰に関心を寄せるようになる。戦後日本のハンセン病問題は、プロミンの登場などで転換を迎え、1953年の経口薬DDSの開発で外来治療の途が開かれる。昭和24年から50年にかけて3357人が療養所を後にした。また、療養所にいながら園外の高度成長期の建設労働に従事した人も多かった。しかし、住まいや仕事の確保、再発リスクや社会の視線などの複雑な問題について、社会復帰策は不十分であった。鈴木は、全国ハンセン氏病患者協議会(全患協)や藤楓協会(旧らい予防協会)、社会復帰研究会などの活動に関わっていく。藤楓協会の浜野規矩雄は、昭和15年に浜野が軍事保護院課長として愛生園を訪問した際に鈴木と面会しているが、その後、厚生省予防局長を退職して藤楓協会理事長となって、再び鈴木と浜野の関係が続いていく。退所者の増加は、それまで入園者の作業に依存した療養所の存立基盤にも影響したことから、療養所のあり方も検討された。昭和38年の東京YMCA会館でのハンセン病回復者宿泊拒否事件、昭和39年の簡易宿泊施設「交流(むすび)の家」建設建設反対問題などに際して、学生達とも交流を深めている。故郷との再会は思いがけない形で訪れた。気仙沼湾は昭和23年に県立自然公園に指定されており、市や唐桑町はこれを陸中海岸国立公園に編入させる陳情を行っていたのだが、厚生省の国立公園審議会で追加指定は見送られていた。地元の市町の陳情先のひとつが、国立公園審議会委員でもある浜野規矩雄だった。浜野を訪ねた鈴木が市長や町長の名刺を目に留めたことで、鈴木ははじめて唐桑出身であることを浜野に明かし、編入問題を知ることになった。巻き返し方法を尋ねる鈴木に、浜野は知恵を出し、鈴木は景観調査のために、自身は二度と訪れることはないと考えていた故郷を27年ぶりに訪れるのである。それ以降、鈴木は田中文雄を名乗って、気仙沼市長に陳情方法などを助言、昭和38年5月、審議会委員による御崎・巨釜・半造など景勝地の視察を実現させた。その結果、翌年6月1日、唐桑半島は陸中海岸国立公園に編入が決定する。いったんは否決された要望に再審査の途が開かれて編入が実現したことについて、市長が浜野に礼を述べたところ、浜野は陰の功労者である田中が実は唐桑町出身のハンセン病回復者鈴木重雄であると明かした。昭和39年8月4日、気仙沼市で開催された国立公園編入記念の祝賀会に、鈴木は鈴木重雄として招待され、翌5日には唐桑町で浜野とともにハンセン病に関する講演会を開催した。会場の公民館には100名以上がつめかけ、浜野や鈴木は懸命に取り組んできた社会復帰運動の結実を実感した。(同じ鮪立地区に生まれた村上正純(後出)は、かつて地区に患者がいたことを知っていたこと、過去の病気や後遺症よりもスケールの大きな鈴木の言葉に惹かれたこと、発汗障害のため手ぬぐいで汗をぬぐう鈴木のさま、などを2013年に証言している。)昭和40年に東京で開催された汎太平洋リハビリテーション国際会議で鈴木はハンセン病回復者として初めて日本代表に推され報告を行い、かつて大学ボート部員として接した東京都の東知事とも再会。ところで、国立公園とさらた観光資源を唐桑町の産業として活かしていくために、鈴木は個人の立場で宿泊施設の整備を町に持ちかける。しかし、町は過大な財政負担を理由に慎重な姿勢でいた。一方で、丘陵地で水源に恵まれない地域からは上水道整備の要望も出されており、各家庭で水瓶に水をためるのは女性や子どもの仕事だった。そこで、鈴木は、国民宿舎をあえて半島突端に設置し、施設営業に不可欠なインフラとして上水道を敷設する構想を練り上げる。浜野(昭和41年死去)の後任の藤楓協会理事長となった元厚生省環境衛生局長の聖成稔であった。聖成は鈴木の活動を後押しし、昭和43年2月、国民宿舎からくわ荘が1億8千万円を投じて建設され、同年10月竣工。また、総延長30kmで町内12地区1万人を対象とする上水道は昭和44年度から3か年継続事業として昭和45年10月に竣工。総工費は3億5千万円に達した。いずれも国の長期低利融資を獲得して実現された。昭和44年には藤楓名誉総裁の高松宮が、からくわ荘を訪問。回復者が後続を案内して会食するということは地域におけるハンセン病問題の啓発と、鈴木の力量を印象づけるできごととなった。その後も、昭和46年の船員保険保養所「南三陸荘」の定員拡充(80名で日本最大規模。船員が次の出港まで家族と宿泊する施設)、気仙沼し尿処理場、昭和47年には気仙沼港の検疫出張所設置の決定(出漁時の予防接種や帰港時の検疫など、これまで大船渡や塩竈の検疫官の出張を待つ必要があり不便だった)、など鈴木の貢献は続いた。検疫出張所の件は、昭和45年にはじめて宮城県に陳情を行ったが、県は当時仙台新港への検疫所新設を計画したためか厚生省への取り次ぎを保留していたため、直接厚生省に働きかけ、検疫課長が後にらい予防法廃止を打ち出す大谷藤郎であったことなど、鈴木の厚生省に対する交渉力が武器となったものである。また、鈴木の力に目をつけたダイキン工業に招かれ、昭和46年4月鈴木は同社の顧問に就職する。唐桑町の船主たちはダイキンの冷凍機を次々発注し、子会社のナミレイはアフターサービスのため気仙沼に出張所を開設した。この頃の鈴木は、愛生園、ダイキン大阪本社・東京支社、唐桑町に、それぞれ1週間づつ滞在する生活。地域の有力者や企業だけではなく、旧軍人軍属、船員の遺族年金などの個人からの相談を受けると、厚生省や社会保険庁に照会し、必要な書類を整えさせるなど、感謝する者は後を絶たなかった。(おだずま注:原典では「からくわ民友新聞」の記事が出典とされている。)やがて、鈴木の識見と実行力に期待を寄せる人々が、昭和48年の唐桑町長選挙への出馬を促す。船主の小野寺淳一など。要請を固持していた鈴木が翻意した契機は、陸前高田市が昭和45年に策定した新総合計画で広田湾を埋め立て大規模臨海工業地帯を造成する構想を盛り込んだことである。同市内では漁業組合から市民全体に反対運動が広がろうとしており、唐桑町でも昭和47年10月に町、議会、漁協等の4者が反対協議会を設立して町ぐるみの反対運動を開始した。12月には小型漁船250隻余りが海上デモを行うなどした。岡山に長く暮らした鈴木は、水島コンビナートの事例を見聞きしており、埋め立ての断固反対のために出馬を決意する。立候補表明は投票日2か月前の2月23日。一部を除いて知名度はまだ低く、町内をまわって住民の対話を繰り返した。対立候補は一年上で助役を退いたばかりの鈴木重美(しげよし)であった。両候補とも広田湾埋立反対、福祉充実、教育振興など公約は共通していたが、重雄は、重美の地盤の小原木中学校での立会演説会で、医師不在のままの小原木診療所への医師招聘を厚労省医務局長の理解を得て必ず実現する、広田湾埋立阻止は環境庁大気保全局長に働きかけている、などと国や県の協議過程なども盛り込んで説明。療養生活で親交を重ねた人々も全国から手弁当で応援に駆けつけた。これに対して、重美は、町勢発展基本計画を丹念に説明するとともに、重雄候補に埋立反対の熱意があるならばなぜもっと早く行動しなかったのかと責めたという。選挙公示当初は町内12地区のうち10地区でリードできる見込みだった重美陣営は追い上げを受け、人身攻撃やデマも流れる泥沼の激しい「南北戦争」とも表現された。(おだずま注:原典では「三陸新報」記事が出典とされている。)4月14日の選挙は投票率80.11%(女性は98.58)に達し、重美2957票、重雄2774票で決した。昭和49年4月、選挙を支援した船主らは鈴木のため町内に住宅を建て、鈴木は妻佳子とともに、38年余りを過ごした長島愛生園を退園した。故郷に戻った鈴木は再び選挙に出ることもなく(町長選挙は無投票が続いた)、地域住民の相談に応じていた。鈴木が最後に手がけたのが、知的障害者のための施設建設であった。町長選の際も実現を訴えたことだが、父親が漁で家を空けるなかで母親がひとり障害を抱えた子を育てていくことへの支援はほとんどなかった。また、当時、知的障害者の施設は県北に存在せず、県南の施設に預けても交通費の負担が大きかった。だが、選挙戦に敗れて施設誘致の芽はなくなり、結果として鈴木は独力で社会福祉法人を設立して施設を建設する道を選び、それを遠洋漁業の船主たちが後押しした。昭和51年1月、唐桑愛の手をつなぐ親の会ら7名によって、社会福祉法人設立準備委員会が発足し、事務所は唐桑遠洋漁業協同組合に置かれる。準備委員長には鈴木が就き、役員予定者には、小野寺淳一、三浦政勝、三浦勉、亀谷寿一、畠山禎治郎、村上正純、昆野庄一、神白叔夫、馬場充朗、畠山啓一など、漁業関係者が名を連ねた。4月10日、馬場地区7100m2に100名の知的障害者を収容する、社会福祉法人愛生会(仮称)精神薄弱者更生施設椿園(仮称)設立趣意書が発表された。事業資金2億円、自己資金5千万円の他は、日本船舶振興会、社会事業振興会からの助成を得るとした。その後、用地は馬場地区が不調で、支援者の畠山啓一が所有する浦地区(宿、宿浦とも)の山林2500坪を賃貸することで決着。資金の面では笹川良一の日本船舶振興会に働きかけるため高松宮にまで紹介を依頼し、土地造成費用がその対象にならないと判明すると、船主たちが不足分を負担するとして支えた。資金計画は、船舶振興会からの助成金2億1200万円、社会福祉事業振興会長期低利融資5140万円、自己資金2千万円、特殊寄付金6百万円と変更された。法人名称は山田無文が洗心会と命名し、施設名は高松宮の許可で高松園とした。ところが、施設建設は地域社会の厳しい反対を受けることとなった。高松園のふもとの浦地区や藤浜地区では、昭和51年夏に集会所での懇談会で洗心会側の協力要請に対して反対意見が出された。表向きは施設の汚水処理を理由としたが、これには当時の漁業をめぐる環境も関係する。唐桑町の昭和45年7月時点の全1991世帯のうち水産業には1456世帯が従事し、季節的で不安定な自然漁業から比較的安定した養殖業に転換する傾向があり、また、かきむき、わかめ養殖など、労働力確保に姻戚関係や本家分家、地縁関係などが主要な意味を持っていた。オイルショックによる燃油価格の高騰、魚ばなれ、200カイリ宣言(昭和52年)などで町を支える漁業は三重苦にさらされていた。鈴木を後押しした遠洋漁業関係者に対して養殖業者が反発したのは、唐桑の漁業構造を反映した一面もあり、選挙戦の激しい対立の再燃ともみなされたものであった。町議会でも高松園建設の賛否が問題となり、昭和51年8月に親の会から嘆願書が、また9月には浦地区の建設反対期成同盟会からは反対の陳情が提出される。議会では全議員の特別委員会に付託し、昭和52年2月には10対7で反対陳情を不採択、推進の嘆願を採択とした。その後も反対論はくすぶり、6月には反対派が県議畠山孝(元町長で昭和46年以降県議)に対して説得工作が行われた。また、再び町議会に対して浦地区建設の反対陳情が提出され、7月に教育民生常任委員会で3対2で不採択されるが、議論は収まらなかった。11月の臨時会では、選挙で争った鈴木重雄の功績になることに消極的だと目されていた町長が見解を問われて、決して消極的ではないと反論する場面もあった。反対の声が静まらない中で、着工を前提とする助成申請は見送られ、計画は遅滞した。昭和52年4月には洗心会理事会で定員を100から50名に半減を決定。これは全国での施設建設が進む中、船舶振興会の助成申請を確実にするためであり、予算は1億496万円(うち振興会助成67百万円)に減額した。洗心会の職員たちは町内各地域で上映会を開催して施設への理解を広げていた。宿浦地区の養殖業者の家に生まれた熊谷眞佐亀は、父が町長選で鈴木重雄を支持したことで加工場を別にされるなど地域で孤立した経験があり、高専卒業を控えて実際に鈴木に会ってみたところ感銘を受け、父や鈴木の反対はあったものの高松園職員となった(2013年の証言)。昭和53年に洗心会は社会福祉法人の設立を認可された。この設立認可の「ごあいさつ」では、設立趣意書の際とは力点が異なっており、知的障害者の隔離のためではなく、地域の理解を得ながら社会復帰の拠点とすることを前面に押し出している。昭和53年3月に入札が行われナミレイ仙台市店が受注、しかし反対派は実力での工事阻止を示唆し、緊迫していた。地元の「三陸新報」は、反対の理由である汚水による漁業の影響については、し尿は水洗でなく気仙沼し尿処理場に運ぶこと、生活汚水も浄化設備を設けて放流することなど、計画には修正が加えられたことを述べて、反対同盟の執拗な反対を批判し、「その執拗な反対の底には何か強い理由がなければならず、もしそれがあるならば、堂々と表明、社会の批判にかけるべきである」と断じて、知的障害者への偏見を非難した。昭和54年4月1日ついに高松園は開園したが、鈴木の姿はなかった。職員の採用手続を終えた同年1月末に、鈴木は突如自ら命を絶った。長く秘書を務めた者さえ予兆を感じなかったという。法人は三浦政勝が理事長を引き継ぎ、4月には高松宮が園の視察に訪問した。妻の佳子は理事に迎えられ、愛生園にもどることなく唐桑で亡くなったが、佳子にとっての社会復帰でもあった。地域への貢献を讃えて、平成2年には、国民宿舎を見守るように鈴木重雄の胸像が建てられている。------------以上は、松岡氏の著作をもとに記載したものである。さて、唐桑の地域はどう受け止めていたのか。公式な町史にはどう出ているのだろうか、と思い、確認してみた。■唐桑町史編纂委員会『唐桑町史』唐桑町発行、昭和43年(1968)12月「観光」の章に、昭和37年国立公園に編入されてからは一躍天下にその名が知られ、来町する観光団が激増している、と記述されている。さらに、観光に関する近年のできごとが年表的に綴られており、昭和38年5月28日に自然公園審議会委員団が来町、御崎・巨釜半造を撮影、とある。同年8月6日には県観光課長が来町し、やはり御崎・巨釜半造を撮影。39年6月1日には国立公園の編入指定。この前後には、施設の整備やテレビ局の放送などが随分と記されている。39年8月の国立公園編入祝賀会も項目だけはあるが、出席者などはなく、鈴木重雄氏の名もみえない。最後の方で、昭和42年12月22日に国民宿舎からくわ荘建設の町議会議決。昭和43年2月27日着工、同年9月30日竣工。事業費9千2百万円余、とある。当時はさながら観光開発ラッシュだったのだろう。町史の記述も具体的で、当時の地域の期待を担った「動き」を感じさせる。町史自体が昭和43年末の発行だから、記述もこの辺が最新だったのだろう。ちなみに、町長は畠山孝が「現任」である。鈴木重雄氏については、観光の章以外でも、触れられていない。
2016.06.19
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女川町の江島について。下記の文献で、江島中学校校長や江島漁協組合長などを経て地元のコミュニティ推進協議会会長をされている方が説明している。■『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)無人島が大小7つある。足島は、人が近寄れないこととヘビがいないことがウミネコの繁殖に役立っている。ウトウは海に潜って魚の群れを水面に浮かせてくれる。笠貝島の球状斑れい岩は、持ち去られたりして少なくなった。世界でもイタリアとここにあるだけと言われる貴重なもので大切にしたい。このような説明の後に、交通の解説。「女川港から丸中金華山汽船の女川-金華山航路。足島を回るのは4月以降の日曜祝日と7月からの夏休みの毎日5便。所要時間約50分。」とある。もちろん、昭和62年当時のものだ。足(あし)島と笠貝(かさがい)島は、無人島だが、女川町の公式サイトには、次のような説明がある。------------足島 江島の南東約1.2kmにある無人島。ウミネコ・ウトウの繁殖地として有名。国内のウトウ繁殖地の南限で、また、オオミズナギドリの巣もあり、この両種が同じところで繁殖する、ほかにはない珍しい島です。国の天然記念物「陸前江ノ島のウミネコおよびウトウ繁殖地」に指定されています。笠貝島 江島の北約2.5kmにある無人島。島の北西部では、世界的にも珍しい球状班れい岩が産出され、県の天然記念物に指定されています。東日本大震災の津波では、島の一番高いところまで波が遡上しました。また、数年前からラッコが住んでいるとも言われてます。------------笠貝島では津波の遡上がコメントされている。枯れた木などから計算して、島の周囲の浅い海を渡った津波が島に集中する形となって、何と43.3mの高さまで登ったと考えられている(東大地震研究所)のだそうだ。球状斑れい(糲)岩とは、県の天然記念物(説明)。このため、島への出入りは制限されているという。
2016.06.14
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加美町(旧小野田町)、漆沢ダム沿いの林道を昇と左手に見えるのが黒森。森は山の意だ。更に進むと右に見えるのが前森。この山の南東斜面に、前森風穴がある。岩場の間の地表からヒヤッとした風が吹き上げている。標高570mに位置し、ブナはなく、森林限界の植物であるダケカンバが目に付く。それだけ温度が低いということ。ここは標高1400mと同じ気温で、1000mもの植生のズレが生じている。ナナカマド、ハクサンシャクナゲ、岩の間には風穴特有のウサギシダなど、亜高山帯の植物が見られる。風穴を取り囲んで守ってきたブナ森は、その外側から伐採の心配がある。昨年3月(おだずま注、1988年ということだろう)に風穴付近の123haの伐採は中止になったが、いまは前森西側の唐府沢付近のブナが切られる心配。■『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)から (当時古川高校の先生(山岳部顧問)で船形山のブナを守る会会員の方が説明しておられる。)前森風穴。夏でもひんやりとした風を吹き上げるのか。いままで、知らなかった。宮城県公式サイトでは、県立自然公園船形連峰の説明として、鏡ケ池、鈴沼、桑沼、白沼などの湖沼や大倉川の渓谷、色麻の大滝、三光宮の溶岩流、前森の風穴、さらに薬莱山や七ツ森の火山岩頭など、変化に富んだ特色ある風景地があると、解説されている。
2016.06.14
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歌枕の小黒ヶ崎(おぐろがさき)は、大崎市の旧鳴子町と旧岩出山町にまたがる小黒ヶ崎山のこと。地図で見ると、大崎市岩出山池月上宮(かみみや)小黒崎(おぐろさき)と、同市鳴子温泉黒崎(くろさき)が、小黒ヶ崎山の南と西のそれぞれ麓に位置する形で国道47号沿いに並んでいる。並んでいると言ったが、厳密にはその間に、鳴子温泉竹原という地名が挟まっているようだ。『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)には、アカマツの景観がすばらしいと、地元鳴子町黒崎の中鉢さんが紹介している。家の真ん前にあるので毎日眺めている。古来紅葉の名所で、急斜面にナラ、ヤマモミジ、カエデ、ツツジ、イチョウなどが露出した岩肌を避けるように生えている。その斜面を引き立てるのがアカマツで、すばらしい景観をつくってくれている。昭和初期には紅葉時にわざわざ汽車を臨時停車させた風流機関士もいた。江戸時代に芭蕉も歩いて通ったが、新緑の初夏だった。紅葉の時期に通ったら小黒ヶ崎を必ず詠んだと思う。残念だった。古今和歌集にも読み人知らずで載っている。自慢だが、息子の嫁が俳句で小黒ヶ崎を詠い朝日新聞の俳壇で最優秀賞(昭和61年)に選ばれた。「立春の雑木林がふとちがふ」このような事を書いておられる。古今和歌集巻二十の「東歌」の「陸奥歌(みちのくうた)」には、阿武隈、塩釜の浦、塩釜のまがきの島、をぐろ崎、宮城野の木の下、最上川、末の松山、のみが載っている。(細川純子『菅江真澄の見た仙台』国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書58、2013年、から。)■関連する過去の記事 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日)
2016.06.05
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