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宮古市には、高さ160メートルもの巨大煙突が、謎を秘めて聳え立っている。旧ラサ工業株式会社宮古精錬所跡地の標高90メートルの山の上にある。高さは160メートル。日本で二番目の高さという。田老鉱山の黄銅鉱を原料に銅の精錬をするため、昭和13年に作られたが、このように高く建設されたのは、亜硫酸ガスの発生による公害の防止のためである。できるだけ高所から排煙を拡散させようとしたのである。この巨大煙突には、謎がつきまとっている。避雷針が純金で出来ているという謎だ。直径30センチ、長さ150センチにもなるという避雷針だが、純金ならば相当な宝物である。噂の根拠は、避雷針が取り付けられる前に、数日間事務所の金庫に保管され、寝ずの番が立っていたと伝えられること。一方では、半世紀の間亜硫酸ガスにさらされたのだから、腐蝕しやすい闇の金属ではないはずだ、というもの。金の避雷針を確かめるため、クライミングを挑んだ若者もいたという。ミステリーに包まれた巨大煙突は、今でも雄姿を市民に示している。参考 : 金野、七宮、駒井編『岩手県の不思議事典』新人物往来社、2003年(宮古市大煙突の秘密(駒井健執筆部分))
2010.02.16
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以前から気になっていたこと。仙台藩の城下に物資を運び入れるため、「舟曳堀」が鶴巻(梅田川口)から苦竹まで通っていたが後に埋められ宅地になった、というのだが、一体どういうルートだったのだろう。ちょっと整理すると、南部では阿武隈川河口(納屋)から名取川河口(閖上)まで「木曳堀」がある。すでに政宗の時代に川村孫兵衛により掘削され、仙台城の建材もこの運河を利用して運ばれた。名取川・広瀬川をのぼり、その名も舟丁に蔵(若林御蔵)があった。そして北部。塩釜港から城下までの陸送に悪路や急坂があるため、2代忠宗の命で塩釜(牛生)と七北田川(大代)の間に運河を開削。さらに大代から、七北田川の流路付替え工事(岩切-福田町間)で新たに河口となった蒲生まで延長した。これが「舟入堀」である。現在は仙台港(新港)の区域に沈んだ。そして、あわせて「舟曳堀」を鶴巻と苦竹の間(5km)に完成させた。実は政宗は仙台開府の当初から、宮城野原五輪下から塩釜に向けて運河工事を始めたが、隠密によって幕府に知られ中止したという。(なお、のちに命名される「貞山堀」を構成するもう1本の大運河で「新堀」(蒲生-閖上)は明治新政府によって開削された(明治5年完成)。幅5mほどだった新堀と木曳堀も、県が大改修を施し拡幅。さらに、北上川と結ぶための北上運河(石巻-野蒜)、東名運河(野蒜-松島湾)を合わせ、政宗の気宇を今に伝える仙台湾に沿った壮大な水運ネットワークである。)蒲生(蒲生御蔵)、鶴巻(御蔵場)、苦竹(御蔵前)は米蔵が建ってにぎわったという。特に蒲生(町蒲生)は塩釜をしのぐ隆盛だったという。仙台港建設前の航空写真をみると、蒲生の町に舟入堀の舟だまりの地形が残り、密集する人家のようすがよくわかる。大崎や登米のコメが北上川を下り石巻から塩釜港に運ばれ、舟入堀で蒲生まで来る。一度蒲生で積み替え、七北田川を上って鶴巻で再度積み替える。今度は船曳堀に入るが、鶴巻では七北田川と堀は直接つながらず、藤川(地図では、幸町、東仙台を経て苦竹駅付近、国道45号の日産プリンスの北で梅田川に合流。)の水を注入した。落差があり城下への進水を防ぐためである。また、いわゆる「落し堀」とし、補修や浚渫のため、「辰の口」という地点で水を落とした。舟曳堀は幅5~8間、深さ4尺ほど。底の浅い高瀬舟で曳夫2名で米48俵など諸物資を運んだ。曳夫などの住んだ町は福田町一丁目の旧45号線北側で当時「新町」と呼ばれた。さらに、堀はわざと蛇行させて、敵の侵入や横流しを監視したという。そのため、鶴巻から苦竹まで何度か積み替えをする。舟曳堀(お舟堀)は狭い運河で、その名の通り綱で舟を曳いた。そして苦竹から原町の米倉までは、小田原牛小屋町から出てきた何十頭の牛が、原町の宿場町を通って運んだ。原町御蔵は、現在の榴岡の気象台のある場所。明治中期まで校倉造りの蔵が6棟残っていたという。さて、その舟曳堀のルートである。鶴巻御蔵から福田町南西方を経て苦竹御蔵まで、大まかに言えば、現在の国道45号線の南側で、梅田川と並行する形で、その南側を通っていたようだ。まず鶴巻。七北田川の船だまりは現在の鶴巻1丁目(鶴巻小学校のある町)で、舟曳堀の始点でもある。御米蔵3棟、御塩蔵1棟があった。鶴巻御蔵場跡地は、鶴巻小学校や仙台市ポンプ上のやや北側、梅田川と七北田川の合流する地点の南側。地図では今工場になっているようだ。そして、梅田川の南側に沿って舟曳堀が進み、運河の水を落とした「辰の口」は、45号線が梅田川を越える福田橋のたもと、ちょっと南側である。扇町六丁目、現在の仙台市動物管理センターの北のあたりだ。付近に(福住町)船小屋という地名もある。この辺から、舟曳堀は梅田川とはやや離れ、現在の45号線の南側を城下へ進んだのだろう。苦竹の御蔵だが、地図では現在の自衛隊のあたりのようだ。今朝は歴史の整理に終わってしまって時間がないが、具体的ルートの特定は、もう少し色々な資料で調べればわかるだろう。詳しく調べてネットで紹介している方もいるようだ。できれば私の地図に鉛筆でオーバーレイして、ヒマなとき(何時だろう)に自分で歩いてみたい。往事に思いをめぐらしながら。(仙台市高砂市民センター『高砂をあるく』第10集、平成10年、ほか各種資料からODAZUMA Journal編集局整理)
2006.03.12
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またまたこの話題です。ある本で取り上げていたもので。(都市生活研究プロジェクト[仙台チーム]『仙台ルール』中経出版、2013年)■関連する過去の記事 歩行者は左右どちらを通行するか 仙台のエスカレータ再論(2010年12月21日) 仙台のエスカレーター作法を考える(2010年4月9日)同書では、大阪式(右立ち。左側を歩行用に空ける。)と東京式(左立ち)の2大ルールが存在するが、大阪ルールは万博の際に世界的にメジャーな右立ちを定着させた、東京は遅れて1990年代に左立ちが定着した、としている。その上で、仙台では地下鉄は右立ち、JR(特に新幹線)では左立ちが多いが、統一されていない。むしろ、前の人に倣うことが仙台のルールと言えるのかも、との面白い解説だ。仙台がいまだに不統一なのは謎だが、それはさておき、気になったのは前段の部分。大阪の右立ちが、大阪万博の時に世界標準を取り入れたとするのは定説だ。しかし、東京は90年代に左立ちが定着、というのは初めて聞く。一体なぜだろう。俗説に江戸の侍が刀を抜きやすいように、という理由付けはともかくとしても、わが国では、大阪と仙台(地下鉄)ぐらいとされる右立ち以外には、基本的に左立ちの東京方式とされるのだから、それが90年代というのは、ちょっと意外だ。もっとも、混在していたのが徐々に統一されてきた時期が90年代ということなら、なんとなく理解もできる。もともとエスカレータは、静止して立つべきで歩いてはいけないとの教えもあったような気もするし、そうは言っても急ぐ人に道を開けてくださいというマナーも自然発生的に出てきたのだろう。不特定ならぬ特定の多数が毎朝利用するようなターミナル駅の場合は、おのずと左右どちらかに決まっていくだろう。気を利かせた駅員が誘導する場合もあったかもしれない。そうして、ローカルなルールが確立する。すると、いつしか新聞かTVが取り上げて首都圏でもあっちとこっちで違うね、という話題になって、それならヨリ都心のルールにあわせよう、という運動が起きたのではないか。それが90年代だったのではないだろうか。さて、話を本論の仙台に戻そう。私は20年近く朝晩JRを利用しているのだが、朝は確実に左立ち(右空け)になっている。東京式だ。ただし、一説には仙山線のホーム(7番とか8番とか)は右立ちというが、いくら利用集団がことなるとは言ってもそうではないだろう。仙台駅は東京ルールと言っていい。仙台駅でラッチを出て、駅建物内のエスカレータやペデストリアンデッキから地上に降りるエスカレータ(数年前にできたヤツ。ちょっと幅が狭いが。)も、左立ちだ。ロフトあたりは(高校生が並んで立っているのは別として)確かに左右混在、そして、地下鉄仙台駅は右立ち主流というぐあいだ。仙台では、地下鉄南北線開業時(1987年)に右立ちを指導したという説もある。JRが左立ちなのは、東北新幹線の影響が強いという説明も有力だ。いずれにしても、いまだに両ルールが(混在ならぬ)並立併存という、大変興味深い現象を抱える都市であることは間違いない。さて、両派併存状態を統一すべきかどうかも一応気にはなる。昨年4月に、仙台市が立ち位置を統一する条例を制定するなどとエイプリルフール記事を書いてバッシングを受けたA新聞があった。私自身は、現実には上記の書物がもう一つの仙台ルールというように、その場で前の人たちにあわせればいいだけのことで、統一の必要はないと思う。JR派と地下鉄派は、意外と毎日それぞれのルールだけを体験、実践していて、異文化理解をしていない場合が多数だという可能性もある。あるいは、地下鉄とJRを乗り継ぐ人は、すんなりと異文化を受け入れている。どっちにしても、統一の機運やタイミングは生じていないということでないか。(もっとも視覚の不自由な方への配慮の見地はあるかもしれない。ただし、そもそも安全をいうならエスカレータ上は歩くべきでないと思われるし、急ぐ人への配慮をどうすべきかというのは、本来的に、当該環境のもとで無理のない範囲での自然発生的なマナーなのではないだろうか。)東西線開通を来年に控えて、この話題、一層深まるだろうか。
2014.06.14
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1 明治15年のコレラ流行と宮城県の対応明治政府は、明治10年に虎列刺病予防法心得を各府県に達し、明治13年に「府県衛生課事務条項」「町村衛生事務条項」を整備、さらに伝染病予防規則を整備して感染症予防法令が確立した。町村衛生委員は、町村内の世話をする担当者で、住民の公選。宮城県でもおよそ200から250戸に1人選出された。明治13年5月には宮城県独自の虎列刺病予防手続(全67条)がつくられ、コレラ予防の内容が整理された。具体的には、患者の把握(医師、町村衛生委員、村長、巡査などが関わる)、船舶検査、掃除、飲食注意、検疫委員の選出(流行時)、隔離(衛生委員、警察、検疫委員)、消毒・焼却、吐瀉物処理、死体の処理(警察)、群衆禁止、である。この流れの全体について、町村衛生委員や警察が関わる。このうち、隔離に関しては、管内で患者の発生を知った場合、衛生委員は家族が感染しないよう患者との接触の仕方について説明し、警察は患者宅の門戸に病名票を貼付し、往来や出入りを取り締まる。自宅療養の患者は衛生委員と検疫委員が検分し、自宅療養が行き届かない場合は避病院(ひびょういん)へ入院を説得すること、とされた。明治15年のコレラ流行は全国で51,631人の患者と33,784人の死者を出した。明治12年の流行を免れた宮城県にとっては、維新後初めての本格的流行であった。患者数3,977人、死者は2,361人で、患者数は東京に次いで全国2位、死者数は3位であった。最初の患者は7月18日に亘理郡荒浜、伊具郡を経て間もなく仙台区に伝播し、9月初旬に最も激しく流行。宮城県の対応は、6月半ば神奈川県の流行を聞いたことから、船舶検査手続を定め、各港湾に検疫所を設け、医員や警察を派遣。6月18日船舶検査に着手する。しかし、荒浜の発生を受け、7月21日に警部長、衛生課長が出張し、巡査、村役人、衛生委員を指揮して予防消毒を実施。避病院・火葬場の設置、交通遮断などの処置。それでも封じ込めはむずかしく、仙台区に患者が発生すると、宮城郡荒巻村台原に避病院の新築を決めた。患者の吐瀉物は広瀬川に投棄し、沿川町村に川水の使用を禁止する。7月23日には、諸興行、寄席などの営業停止。7月31日県庁内に検疫事務局設置、各郡区に検疫事務所設置。8月には、各郡区のほとんどで発生を受け、臨時巡査225人、医員68年、検疫掛67人を派遣。流行衰退を受けて9月19日検疫事務局閉鎖、各郡区の事務所も10月25日までに漸次廃止。2 流行現場の実態と避病院(ひびょういん)人権を無視した警察の強引な消毒や隔離の対応が、コレラ自体とともに人々に恐怖感を植え付けた。避病院は、応対する医師や看護婦が不十分で、しかも破れた紙障子に消毒薬の臭気が鼻をつく劣悪な環境で、実態は患者の収容施設に過ぎず、自然治癒をするごく少数を除いては死を待つところであった。実際、維新後初めての全国的流行である明治12年には、住民が避病院設置に反対したり、警察や医師を襲うコレラ騒動が各地で発生した。避病院については、上述の宮城県の虎列刺病予防手続(明治13年)で詳細に定められた(第18条-第40条)。まず、位置は往来の多い路傍や井戸・川の近くは避ける。人家の少ない村落では相当の空家を用いても良い。おおよそ人口千人に患者1人の割合で設けること。構造は、重症、軽症、快復期の三種類の病室を設けること。また、従事者や患者親族への対応なども規定されている。さらに明治15年には流行の中で避病院規則が出され、具体的な取り決めの他、患者入院料は一日30銭、貧困者は免除、などとされた。明治15年における各府県設置の避病院の数は107で、そのうち宮城県は26で第1位だった。■出典竹原万雄(たけはらかずお)『明治時代の感染症クライシス:コレラから地域を守る人々』(よみがえるふるさとの歴史 5 宮城県石巻市)、蕃山房、2015年■関連する過去の記事(地域と感染症など) 仙台藩の飢饉と金勝寺、徳泉寺、願行寺(2023年09月08日) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)=黒石寺蘇民祭など 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(黒石寺蘇民祭) 黒石寺蘇民祭を考える(続)(2024年02月20日) 黒石寺蘇民祭を考える(2024年02月18日) 奥州市の蘇民祭ポスター掲載拒否を考える(08年1月10日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2024.11.01
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法制史の学者の先生が、一般向けにわかりやすく解説される下記文献から。(この記事シリーズは全10回になります。記事の末尾のリストを参照下さい。)■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年1 評定所格式帳について幕府は、キリシタン禁止令のように全国的に発布した法もあり、また、各大名にできるだけ幕府法にならうよう要求したが、決して大名領で適用を強制することはなかった。従って、外様大藩の大名には、かなり独自性の強い刑法を制定したケースがあり、仙台藩もそうであった。仙台藩は元禄16年(1703)11月28日付で『評定所格式帳』という藩の根本法典を制定。その多くは刑罰の条項で、以後藩の終末まで大枠が維持された。(評定所格式帳制定の経緯)仙台藩は、家臣に領地領民を支配させる地方知行制をとり、しかも中級家臣にまで与えており、侍総数2047人中1700人が地方知行だったとの記録がある(寛文10年=1670)。俸禄制と異なり、自身が領民を罰する意識を持つのも当然だが、江戸時代の大名は中央集権体制の一環として刑罰権を大名に集中させようとする。仙台藩は幕末まで地方知行制を維持したが、家臣に年貢徴収などは認めても、刑罰権については早い段階から藩主に集中しようと努めた。政宗時代にはまだ家臣の刑罰権を否定する動きは少ないが、二代忠宗(寛永13年ー)になると、寛永14年に奉行(他藩の家老にあたる)連名の通達で、藩主の許可なく家臣が百姓町人を成敗してはならないと命じる。しかしおそらく上級家臣に無視されただろう。三代綱宗(万治1年ー)が隠居させられ四代亀千代(綱村)が跡を継ぐと、後見役の家臣たちに権力争いが生じた(寛文事件、伊達騒動)結果、仙台藩は幕府の強力な監視下に置かれ、成長した綱村は元禄7年(1694)、寛永14年の法令をよく守れと命令を発する。この命令の中には、他国には家臣が勝手に仕置きを申し付けるところはないと述べている。家臣、特に一門衆は反発したようだが、元禄13年(1700)に至って一門衆から藩に伺いが提出される。(1.寛永14年令は一門に伝えられなかった、2.百姓が領主のいうことを守らなくなる、3.死罪以外は自分たちで申しつけたい)これに対して、藩は元禄14年奉行連名で回答している。(1)藩の裁判所である評定所の機能が充実しつつある(2)裁判が不統一では他国に聞こえが悪い(3)元禄10年(1697)幕府「自分仕置き令」などの幕府法を強く意識し、刑罰権は国主のみに認められているここで(3)は、大名が自分の領分限りで処理できる事件は幕府に伺うことなく死刑まで科してよいと現状を追認したもの(他領と関係する事件は幕府の月当番老中に伺いを出すよう命じた)。そして、家臣たちがバラバラに裁判をするのでなく藩が一元的基準で刑罰を統一するのに必要だったのが、先例集であり、そのために『評定所格式帳』が作られた。(評定所格式帳の意義)幕府の八代将軍吉宗により寛保2年(1742)に制定された『公事方御定書』より40年も早く制定された。それまで幕府がまとまった法典を制定しなかったのは、三代家光が、先例集を利用した町奉行に、どんなに似た事件でも必ず内容に違いがあるから具体的内容に即して裁判せよと語ったエピソードが尊重されて、先例集が進まなかったのではないか。もっとも、仙台藩の評定所格式帳の制定直前に、綱村は幕府に隠居願を出す羽目に追い込まれ、その具体的運用は五代吉村に任されることになる。2 刑罰体系 ー 侍と凡下武士に対する刑罰と凡下(庶民)に対する刑罰では、体系に違いがある。犯罪の内容によって、侍の身分を剝奪して凡下の刑を科する事例がみられる。その最初の例が、享保15年(1730)の2件の評定所判決。放火に対する凡下の刑罰である火罪に処するために、盗みのため放火した武士に対して下したものなど。また、享保17年判決では、凡下の死刑の一種である磔にした判決。有名なのが日塔喜右衛門の事件。宝暦2年(1752)、桃生郡女川村に在郷屋敷を持つ飯田(はんだ)能登(450石)の家来の喜右衛門が能登の妻と密通の上、能登を殺害し、盛岡領まで逃亡したとされる。喜右衛門は凡下に落とされたうえ、芭蕉の辻で3日間さらし、竹鋸で挽いて、士丁市中を引きさらしてから、七北田処刑場で磔という凡下で最も重い死刑に処している。なお、喜右衛門の父は凡下として田代浜に流罪(士分にも流罪はあるが島での扱いが異なる)、母も凡下のみの刑である奴の刑。以上のような重大犯罪でなくても、士分に不似合いの振る舞いで凡下に落とされる事例がある。例えば、元文3年(1738)、侍でありながら凡下の仕事である愛子村藩有林の材木伐り出しの人足となり、木の下敷きになって死んだのは、不届き至極とされた(子も凡下に)。寛延2年(1749)、帯刀せずに若林城下の堀で溺死したのは、士に似合わない所行として凡下に落とされ跡式をつぶされている。宝暦3年(1753)には、湯屋で刀や衣類を盗んだとして、凡下に落としたうえ切り捨てを申し渡されている。明治元年(1868)にも凡下に落とす制度が適用されている。仙台藩の判例集をみると、士(住持職、肝入、沙門)に不似合い、という言葉がよく登場する。江戸時代が身分制社会である以上、身分や分際にふさわしい行動規範が想定され、それから逸脱されると加重された処罰を覚悟しなければならなかったといえる。3 侍身分と凡下身分の違い身分侍身分凡下身分(農民)竹鋸にて挽き磔火罪(かざい)磔獄門牢前において斬罪切り捨て牢前において切腹その身屋敷にて切腹遠流(江島)遠流(江島)島奴近流(田代島、網地浜、長渡浜)近流(田代島、網地浜、長渡浜)島奴他国追放遠き川切り追放遠き川切り追放奴他人預け三郡追放三郡追放二郡追放二郡追放一郡追放一郡追放一村追放城下追放城下追放親類預け改易扶持召し放し(半分の場合あり)半地(知行の半分)召し上げ逼塞日数牢舎閉門戸結(とゆい)縄懸け(なわかけ)蟄居押し込め慎み親類預け過料(かりょう)しかり※農民に対しては、戸結と押し込めの間に縄懸けという拘禁刑が採用されていた。 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日)に続く。なお、死刑の種類、執行方法、処刑場などについては、仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日)に記しております。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.07.21
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)(1)田園の市街化昭和30年代は米産奨励の時代。水田の宅地化は嫌われた。それ故人口が膨張しても、市の東方の水田市街化はおくれ、大戦中に軍需工場の置かれた苦竹、小田原方面と、それらの従業員を含めた案内、中原、燕沢、小鶴等の東仙台方面を除けば、長く水田のままであり、昭和35年以降、市がこの方面の団地建設を初めても、七北田河畔の高砂、広瀬河畔の飯田、袋原、四郎丸等、それらの河川の氾濫による砂礫の多い畑地に限られた。水田地帯に多くの道路を縦横に通じ、鉄工団地、自動車団地、卸町団地、印刷団地等を開いたのは、主として昭和40年代、経済高度成長に伴う産業の地方分散、新産都市の運動以来で、昭和40年には中央卸売市場をもここに移し、その他の地域もそれぞれの地域の土地区画整理委員会によって市街化し、国道45号に沿っては、新興市街が七北田河畔の福田町まで連なった。一方、小田原方面に於いては、東洋製罐、凸版印刷等、軍需工場の跡地に生まれた工場のほか、農事試験場、専売局工場、ガス局等の進出に加え、中江および幸町を中心とする集団住宅街に加え、国鉄、専売局等の集団住宅も加わり、着々高層住宅街と変わりつつあるが、昭和51年なおその一部に水田を残している。芭蕉の「奥の細道」にある玉田横野の跡であろう。大正の末まで、その中央を南北に貫く射撃場を挟んで、その表面を全部畠と水田に被われ、その北側の山裾で煉瓦や瓦を焼いていた台の原も、今は全く住宅で被われ、射撃場両側の土手の外側にあった松並木の一部と瓦山の地名に昔を偲ぶのみとなり、高山樗牛の瞑想の末は薬科大学の敷地内に保たれ、展望台を設置したが、眼下は家屋の波であり、戦後の開拓時代を語る五本松奥のトタン屋根も、森林公園の一部と化した。(2)新町名の制定(抄)昭和40年 小田原一年圃を「旭ヶ丘1から4丁目」昭和42年 八幡国見方面、次いで、八木山方面、桜ヶ丘方面。それは必ずしも団地名と一致せず。例えば春日団地は「桜ヶ丘1丁目」、長町恵通苑は「恵和町」、越路恵通苑は「桜木町」、国鉄根岸は「青山1丁目」と変わった。昭和45年には市の中心部も新町名に変更し、肴町、元鍛冶町等伝統を伝える町名が大部分消えた。(3)郊外進出(略)(4)山地の造成近郊山地の住宅化は、戦後急速に加わった。中にも向山一帯、北山の背側、台の原等には、個人あるいは市営住宅が急増したが、それらの多くは個別あるいは少数戸数の集団に過ぎなかった。これを多くの戸数を含んだ集団住宅すなわち団地として造成を開始したのは、主として昭和35年、県の住宅公団(ママ)による黒松団地の開発以来で、市役所職員組合(ママ)による荒巻の共済団地、東南商事会社の緑ヶ丘等、また時を大体一にして、その前にできた三和商事の小松島住宅また名称を旭ヶ丘としてこれに加わった。少し需要が多かったので、民間企業でこれに加わるもの続出し、関兵精麦の南光台、双葉建設の中山ニュータウン、東北建設機動の桜ヶ丘等、次第に大規模のものが加わり、県は黒松団地に次いで七北田西方に将監団地、名取市の名取ニュータウン、市は小田原の北東方に鶴ヶ谷団地の大造成を敢行し、昭和40年代には南は名取市北は泉市を越えて富谷町、東は塩竈市の東部、西は宮城町に及ぶ近郊の山地は、次々に緑を失って仙台のベッドタウンと化した。以下、方面別に概述。(a)東北地区宮町、原町方面を入り口とする東北地区には、旭ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷の3大団地のほかに、東黒松、第1から3自由が丘、若葉ハイツ、東光台等の団地がある。さらに七北田川の低地を越え、利府、多賀城、塩竈の団地群がある。旭ヶ丘団地は、昭和31年の発足にかかる小松島住宅を南端とし、その北方の小田原一年圃から泉市八乙女の真美沢沼に達する大団地で、面積430ha、南から1から4丁目、堤1から2丁目に分かち、南部は初期の造成にかかって起伏激しいが北部は大体平坦。南北の幹線を中軸に規則正しく格子状の道路に貫かれる。南光台は旭ヶ丘の東に接して泉市松森に属するが、交通の上ではかえって仙台に直結し、造成以前は小松島から浦田に通ずる山道を軸に、その西側の天(あま)ヶ沢と東側の前沢の谷に分かれたが、まず西側の谷の上流から市街化し、続いてその東側の浦田山道を東に突破し、はじめはこの部分を牧場としたが今はそれらも市街化し、2万人以上を収容の予定であるが、多くは独立家屋から成り、学校以外に特別に大きな施設は少ない。鶴ヶ谷団地は南光台の東にあり、昭和42年以来仙台市の造成にかかり、鶴ヶ池大堤に注ぐ藤倉沢の本支流に刻まれた海抜80m内外の丘陵を削り、谷を埋め立てて緩傾斜とした住宅地で、その南斜面の県立三高以外には住宅一戸のみ山林緑地であったが、次々に住宅街を造り、これを1から8丁目に分かち、そのうち2丁目、5丁目および6丁目には、最高11階に達する高層集団住宅を列ね、東仙台方面から走る大道を新たに開き、それから入った中心部には市民センター、ショッピングプラザ、銀行支店等を備え、他に1中学校2小学校のほか病院、老人ホームを有し、23千人を収容の予定である。自由ヶ丘はその西北の天ヶ沢団地とともに、鶴ヶ谷と南光台との中間南部にあり、前者に先立って造成せられ、若葉ハイツは小松島からそれらに達する中間東側にある。第2から第3自由ヶ丘は、若葉の東、鶴ヶ谷一丁目の南にあって、安養寺堤群に隔てられる。東光台は鶴ヶ谷団地の東斜面に位し、鶴ヶ谷以前の造成にかかる。鶴ヶ谷団地の北方には七北田川の谷を隔てれば、松森城一名鶴ヶ城の遺跡を北から囲んで、住友商事の鶴ヶ丘団地が、大計画の一部をもって分譲を開始し、その遙か東には、歴史に名高い多賀城趾の南麓に、トーメン多賀城ニュータウンが開かれ、さらに塩竈市の東北隅に、西に松陽台、東に藤倉団地が松島湾を眼下にしてその眺望を誇り、他にも若干の団地がある。(b)北方地区国道4号を入り口とする北部地区では、昭和35年以来県の造成にかかる黒松団地があり、県営第1から第2アパート群、公団住宅アパート群を有し、人口7千を数うるうち、西側は仙台市に東側の大部分は泉市に属する。北仙台から黒松に向かえば、その東側山中に千鳥ヶ丘、その東に森林公園、西側の斜面に鷺ヶ丘、常磐団地、勝山団地、双葉ヶ丘等の諸団地あり、勝山から西に谷を越えれば、第2勝山団地があって、北仙台小学校および中学校を有し、東から、渡辺、幸福(さち)ヶ丘、南から、ひよりヶ丘、平和台、国鉄荒巻等の小団地群に囲まれる。これから北に七北田川を越えれば、西に県営将監団地が、1丁目から13丁目に23千人の人口を予定し、その北部と南部とに多数の高層集団住宅を配するほか、中央に公設市場、銀行支店等を備え、1中学校、2小学校、消防署等を有し、独立の一小都市をなすが、これまた仙台市の遊星に過ぎぬ。今からわずか10年前、大洋漁業の7万羽養鶏所が鋭い三角点峰を負った所も、今はただ紅青の鉄板屋根を列ねる平地となり、将監沼がわずかに当時の趣を留める。これと斜めに要害川の谷を隔てた東側には、名勝洞雲寺通称山の寺の谷を挟んで、南に共栄泉および泉ニュータウン、北に泉向陽台があり、後者は人口1万を予定し、かつて稜線上に並んだ東北電力の高圧送電塔がその基脚のみを残した円塔上に峙っている。これらの間を北に進めば、泉市と富谷町の界を跨ぎ、国道の西に泉ヶ丘ニュータウン、その北西の富谷町南端に、藩主の鷹狩りで名高い亀杉を擁した鷹の杜団地、さらに富谷の市街地の北方東側に、富谷グリーンパーク一名河北平和ランドの遊園地およびゴルフ場、富谷ニュータウンなどがある。(c)西北地区荒巻本沢を門戸とする西北地区では、その入り口の荒巻温泉に近い共済団地、川平団地、泉ヶ丘、春日団地等、昭和30年代後半の諸団地の後ろに、桜ヶ丘、中山ニュータウンの2大団地がある。それぞれ、人口5千人、3万人を予定する。中にも中山ニュータウンは丸田沢の支流平沢と梅田川との水稜線をなし、長く北山根白石間の本道をいただいた稜線の両側を削り、その東南麓から西北に登り、昭和41年早くもその頂上三角点に達し、その翌年にはそのすぐ下に尚絅短大、東北電力総合研究所等を誘致する一方、さらにその西方に造成の歩を進めて、丸田沢の支流を埋め、泉市実沢の南端との境に達し、2カ所の公務員住宅群、三井、藤崎、東芝等の高層住宅群を加える。中山ニュータウンの造成初期、その北側には行楽園団地の造成が行われ、その一角には小遊園地も造られたが、その後放棄の運命にあった。ところが昭和46年、第1、第2勝山団地の造成を終わった勝山企業がこれを接収するとともに、その頂上背後にある中山西部の北斜面をも造成し、第3勝山団地と称し、その東斜面に朴沢高校を迎えるとともに、その北隣には同じ朴沢学園に属し現在柴田町船岡にある仙台大学転入のための用地を建設し終わっている。この東下に位するのが桜ヶ丘で、東と北に範囲を広げる一方東側の山地を削って小学校を建て、さらに東には公苑団地、西北には東急青葉台を加えた。最近ここも新町制を施行し、桜ヶ丘1から9丁目、中山1から9丁目、西勝山、滝道、川平1から2丁目などとした。これらの北には丸田沢を隔て、泉市大谷刈の丘陵があり、東に県営加茂団地、西に大和長命ヶ丘が並んで、最近その造成を終わり更に七北田川の北には、三菱地所の超大団地パークタウンがその第1期の造成を終わり、公園を整え、小学校を建設し一部を住宅街化しているが、これを貫く計画道路北四番町丁大和町線が、未だ市内に達せぬため、市の郊外とするにはやや遠すぎる。さらにそれより西方に位する西田中、住吉台等の造成地についても同様。中山ニュータウンの西方に位する中山ゴルフ場、その西北に造成中の第2中山ニュータウン、ゴルフ場の南に接する中山吉成、その南の伊勢吉成の両団地はいずれも仙台に外接するが、前の両者は泉市実沢、後の両者は宮城町吉成に属し、いずれも仙台市外にあり、国見峠の東麓に位する半子町恵通苑のみ市の辺境に孤立する。(d)西方地区川内を門戸とする西方地区は、主として青葉山で、その大部分は東北大学、宮城教育大学、青葉山ゴルフ場に占有せられ、住宅団地としては東北突端の亀岡、武田南団地と、西方頂上部の青葉台のみである。■昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日)につづく
2012.05.22
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仙台圏の団地(ニュータウン)の通称名を集めてみた。開発や分譲の際に付けられた愛称などは、現在の町名からはわからない場合も多い。以前から、ニュータウン名、時期、造成(分譲)業者名、規模、開発手法などを一覧的に整理したいと思っていた。市史や地域史もひもといたが、横断的な整理はなかった。今回は、地図に出ている説明を片っ端から拾い集めた。■関連する過去の記事 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)これは、金港堂から昨年もらった大判のカレンダー兼用の地図(塔文社さん)に出ている「団地名」だ。おそらく、現在の町名からわかる場合は表記しないが、町名だけではわからない団地名などは、読者の便宜のために説明を付したのだろう。イメージとしては、例えば年配の方が○○○団地まで、とタクシーの運転手さんに語った場合のように、仙台人の記憶にまだまだ残っている団地名称ということだと思う。地図では、字の太い明朝体で記されている。人々の生活に根ざした情報を盛り込もうという、地図制作者の良心だと、私は勝手に思いこんでいるのだが、とにかく今回私は、それらの名称を拾い上げた。なお、この地図ではいわゆるニュータウン名のほか、アパート群も○○○団地として同様の太字明朝体で表記しているようで、これらは適宜拾った。また、団地名の名残と思われるバス停名称なども拾った。(更に、●印で、やや古い地図(1981年、1991年の2つ)の情報を補充。そして、所々に私の余計なコメントがありますことはご容赦下さい。)■仙台市北部丘陵地○永和台団地 中山二丁目○中山ニュータウン 中山六丁目(地図では六丁目付近に記されているが、中山ニュータウンの名はバス通りをはさんだ団地全体を指すと思う。永和台は、大規模なニュータウン造成に先立つ開発部分、だろうか。)(参考:中山ニュータウン小史)○行楽園団地 中山六丁目or川平二丁目○泉ヶ丘団地 滝道(やや古い地図ではバス停「滝道入口」が「泉ヶ丘団地入口」)○共済団地 水の森三丁目(なおバス停名に共済団地、共済団地入口、がある。泉ヶ丘団地も含めて、輪王寺脇から山を越えて入った丘陵部を開発した初期の団地だと思う。間もなく輪王寺(地下)から直線で新しい道路が完成する。)○平和台団地 水の森二丁目●やや古い地図では、ひばり丘団地(現在の水の森一丁目)○第三勝山団地 西勝山○東一団地 川平二丁目(桜ヶ丘と西勝山の間)○桜ヶ丘団地○春日団地 桜ヶ丘一丁目○荒巻公苑団地 桜ヶ丘三丁目(■関連する過去の記事:仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日)○第二勝山団地 東勝山二丁目○千鳥ヶ丘団地 北根一丁目●やや古い地図では、大山団地(現在の鷺ヶ森一丁目。大山神社からの名か)○向原団地 泉区上谷刈●やや古い地図では、西黒松団地(造成中)とあるのが現在の虹の丘。■宮城野区、南光台方面○自由ヶ丘団地(安養寺二丁目)○天ヶ沢団地(南光台一丁目、二丁目)●やや古い地図では、「第一自由ヶ丘団地」(現在の自由ヶ丘)。なお、南光台について下記記事を参照下さい。(■関連する過去の記事:高松と小松島(2011年10月20日))●91年地図では、「東光台団地」の名が現在の燕沢二丁目。現在でもバス停名に「鶴ヶ谷東光台団地前」。また、「鶴ヶ谷南団地」(現在の鶴ヶ谷東二丁目)、「鶴ヶ谷東団地」(岩切三丁目)■旧泉市、旧宮城町方面○泉パークタウン○ガーデニングタウン西中山○泉ビレジ(バス停名) 館三丁目から六丁目付近○ガーデンヒルズ 館四丁目○グリーンパークタウン 聖和学園短大の南側の開発区○さつき台住宅 八幡七丁目●やや古い地図では、伊勢吉成団地(現在の吉成一丁目から三丁目)、中山吉成団地(現在の中山吉成一丁目から三丁目)、など。長命ヶ丘には、長命ヶ丘ネオポリスと併記。また、南中山と北中山は双葉総合開発が「いずみ中山」の名で開発したと思うが、すでに新町名に解消されて迷いはないとの理解か、地図には付されていない。●やや古い地図で、現在の貝ヶ森に「恵通苑団地」「貝ヶ森団地」が見える(それぞれバス停名にも)。また91年版地図では、パークシティ南吉成(現在の南吉成一丁目から七丁目)。国見駅付近に「DIK国見住宅地」、八幡六丁目に「山上清水住宅」。現在の栗生一丁目から五丁目は、「グリーンタウン栗生(造成中)」。■旧泉市、富谷町方面○松森団地 歩坂町○鶴が丘ニュータウン 鶴が丘一丁目から四丁目○松陵ニュータウン 松陵一丁目から五丁目○新富谷ガーデンシティ 成田一丁目から九丁目●やや古い地図では、東向陽台に「いずみニュータウン」バス停、山の寺三丁目は「泉ニュータウン」と付され、「ニュータウン中央」バス停が見える。また、「いずみ永和台団地」「天神沢住宅」(91年地図ではその北に「青葉台」。現在の天神沢一丁目)と「住宅前」バス停、「松森団地」が見える。現在の八乙女駅や七北田付近では、北黒松団地(現在の八乙女中央四丁目)、名坂団地(現在の友愛町)が見える。 また、現在の明石台は「明石団地(造成中)」、バス停名に「野蔵団地入口」など。 現在の上谷刈五丁目には「丸田山団地」。〔次回:仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日)は、八木山など仙台の南部です。〕
2011.12.11
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山下龍夫『47都道府県ケンミン性の秘密』(幻冬舎、2014年)を読んでいたら、秋田県では「嫁は山形からもらえ」の言葉があるという。地元の秋田美人をあえて避けるのは、男女ともおおらかな県民性で家計が成り立たないからだとか。しっかり者でよく働く山形の女性が理想となるようだ。同書の山形県のページでは、庄内地方は上方との交易の歴史を持ち、明るいながらもあくまで控えめ。両親や祖父母と同居も多く郷土愛も強く、内助の功で家庭を支える理想の女性...とベタ褒めだ。私が知っている庄内出身の女性というと、(著名人は別として)今頭の中にとりあえず3人ほど思い当たる。1人は酒田出身で理知的だがちょっと我が強い人。1人は遊佐町の出身と聞いたが、表裏の有る人。もう1人は、ずっと昔の学生時代の知人で、鶴岡出身の女性。当時の印象なのだが、確かに控えめで虚飾とは無縁のような実直な人。今思えば、この人こそ、秋田人も羨むお嫁さんの理想像だったのではなかったか。思い出は美しくなるものとは言うが。上掲書では、山形女性はあまり外に出ないため、庄内美人と出会いたい場合こちらから率先して転勤していくのが良い、とある。
2014.12.25
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今日の仙台も猛暑だ。35度を下まわると穏やかに感じるほど異変の夏だ。そんな昼下がり、水の森の丘に佇む、明治15年コレラ流行の死者をまつる塚を訪れてきた。■関連する過去の記事 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日)(そのほかの関連記事は最後にまとめて記しています。)はじめて、水の森市民センターにお邪魔する。プールや児童館も併設され、夏休みの子どもたちも来ているようだ。明治のコレラや碑について、ホールに何も解説などはなかった。この市民センターは水の森公園のちょうど南端に位置する(昭和の頃はスケートリンクがあったと思う)。館を出て市道沿いの敷地の南角が、広い公園全体の南端であり、公園内の長い園路の出発点がある。車止めがされ、林の中に進んでいく散策路なのだが、そもそも古くは秀衡街道(別名を古街道、義経街道)と呼ばれ、伊達政宗公が七北田を通る新街道と七北田宿を整備するまでは重要な街道だった。江戸時代は新街道の大名行列を避けるため、そして戦前は難を逃れるため、戦後は買い出しや病院通いのため、人々は秀衡街道を往来した。(仙台市サイトの解説)(秀衡街道に関する当ジャーナルの過去記事は、最後に整理しています。)そんな秀衡街道だが、この辺は明治の頃は相当寂しく暗い峠だったろう。下の地図の赤い印の場所が、叢塚の場所だ。さっそく、散策路を進んでいく。阿曽沼先生の言うとおり(上記の前回記事です)、150歩ほど北進すると左手に叢塚が現れた。碑文は三面にわたって刻まれている(写真は一面のみ)。解読文は前回記事のとおりだが、目にすると、仙台に現実に起きた災禍の重みと、碑を建てて後世に伝えた意気に押される。(↑左が市民センター。市道から入っていく散策路の入口。往時の秀衡街道だ)(↑碑の左面の刻文)さらに緩やかに上り坂を進んでいくと、すぐに三叉路に出る。なお、東西の二本に分かれる散策路は、三共堤の外周をまわり、北のキャンプ場で合流するのだ。東(北に向かって右)に延びる園路が秀衡街道だろう。この三叉路の山側(北)斜面に、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」(コレラ塔)がある。276人の供養碑だ。吉岡方面からやってきて秀衡街道を仙台に向かう人は、この峠を経て、現在の荒巻小学校の方向へ降りて行ったのだろう。コレラ供養塔のある三叉路からは、住宅が密集する東勝山の風景を見下ろせる。秀衡街道を引き返して、市道から公園の散策路に入る地点に戻る。(↑秀衡街道が荒巻方面に下っていく。尾根沿いの山道だったろうが、今では陸橋だ)(↑同じ陸橋部分を、散策路入口地点から。市内中心部のドコモビルが見える)(↑公園散策路入口地点から、西側住宅地を望む。桜ヶ丘や中山か)(↑北に向かう市道は坂道を下っていく。右側が市民センター)(↑水の森市民センター。右側の園庭の奥の法面の上が散策路だ)■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(秀衡街道などに関して) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.03
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名生館遺跡のある民家の集積地区(名生舘、名生北舘)から、西古川駅方面に歩く。南に向かって歩くのだが、さっそく右手(西側)の畑地は昭和の小字。「戦中地名」(下記の過去記事を参照下さい)の一帯に立って気持ちが昂ぶる。(写真1)少し進んで(上の画像の先に見える)辻を過ぎるとその左手(東側)は、畑が広がるが、小字は躍進だ。しばらく進んでいくと、大字は古川斎下となり、民家の集積地に入る。なお、この集落の東側が、(大字は古川大崎)奉公だ。交差点にはマグマという名の店がインパクトある。(写真2)更に進むと陸羽東線をわたる斎下踏切。(写真3)線路を渡って進むと、写真4の止まれの赤い標識で、県道(162号、清水下狼塚線)に合流する。(写真4)その後、しばらく水田のなかを進んだ後、西古川地区に入る。(次回記事へつづく)以下は今回の探訪エリア。上記の写真撮影地点を黄色い丸で示しています。この周辺の小字には、戦中地名が随所に見えて地図好きの心を掻き立てます...■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.19
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しばらく前のことだが、妻の母が、自分からは動かず我が家を訪問した母親に湯茶の世話をさせようとした妻をさして、まったくタレカモノだと言っていた。これは仙台弁で、横着者の意味。三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によると、次のように説明されている。仙台人同士よく使うが他県人にはわからない。例えば、一緒に車を押しているとき、そのふりはするが力を入れない横着者。誰だか解らないように手を抜く。見つかれば互いににやりと笑い、このたれかものと言って片づく。軍隊用語のタレカから来ている新しいことば。身を隠して偵察にくる斥候を歩哨が見つけてタレカと誰何するタレカである。ダレガと濁らないところを見ても軍隊用語そのままである。こういう説明だ。なお、「かばねやみ」(骨惜しみ)の項では、かばねは骨のことから体を意味し、「やみ」は病みではなく休みであろう、とある。すると、「たれか」は単なる「かばねやみ」と違って、一見仕事をしたフリをする巧みさと、笑って許す軽さを伴っているもののようだ。(冒頭に記した妻の場合は、「かばねやみ」が相応しいのかも知れない。)たれか(者)の語は、他でも聞いたことはある。仙台出身の先輩が自分の親世代の言い方だとして語っていたような記憶がある。それにしても、上記のような由来とニュアンスがあるとは、興味深い。■関連する過去の記事 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.18
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猪苗代湖には魚がほとんど棲んでいない。せいぜいウグイやフナ程度。エサとなる微生物やプランクトンがほとんどいないからである。理由は、湖に流入する最大の川である長瀬川の最上流が硫黄川。その源流付近にある中ノ沢と沼尻温泉がPH1.7の強酸性の源泉だからである。このため、湖水の平均PHは4.9の微酸性なのだ。東北では十和田湖もかつては魚の住めない湖だった。奥入瀬渓流の滝が、魚を寄せ付けないと聞いたことがある。ところで、魚のいない湖とは逆に、田畑や宅地を掘り進めると地下で魚に出会えるのが会津盆地だ。会津盆地は阿賀川やその支流に広がる盆地で、地下は川原と同じような地層になっており、大小の小石や石礫で構成され、冷たい地下水が大量に流れる状態になっているのだ。地上は現在は田畑や宅地だが、土地を掘り進めると深い地下には川のように流れる地下水があり、イトヨが生息しているという。イトヨはトゲウオ科の魚で背中に3本のトゲを持ち、水草などに巣を作る。地元ではトゲチョと呼ばれるそうだ。イトヨは阿賀川の堤防周辺にも生息しているがどうやらそのイトヨの中から、堤防の下方にもぐり込み田畑の地下を流れる川にまで入り込んだものがいたようだ。■参考 ロム・インターナショナル編『教科書にも載っていない 日本地図の楽しい読み方』河出書房新社、1997年■環境省ホームページ 喜多方市の湧水群、会津の名水
2013.03.16
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宮城県教委は高校合同相談会を初めて開催し、二千人が来場した(河北新報の28日の記事)。10年度に公立高校の学区撤廃を控え、進路選択に役立ててもらう趣旨で、7月27日(会場:仙台市体育館)を皮切りに、気仙沼、大崎、白石、石巻と県内5会場で順次開催する(県教委の資料)。また、これとは別に夏休みなどに学校説明会(オープンキャンパス)を実施する高校も多い(県教委の資料)。しばらく前は宮城県では男女共学化の是非が喧しく論じられた。学区撤廃論議(宮城県では全県一学区制の語が用いられる)についても賛否両論があった。本県の場合、学区撤廃の理由について、表向きはより多くの学校から希望に応じて選択できるようにするため、と説明されている。そして今回のオープンキャンパスも、選択対象の広がった各高校を知るための機会を提供する、という位置づけだ。このことを説明している県教委の広報用リーフレットには、さらに各学校の取り組みとして、進学、資格取得、就職、スポーツなど、それぞれに特色のある学校づくりをめざす、とされている。こちらの方が、むしろ学区撤廃の理由にふさわしいだろう。上記の選択機会拡張論は、生徒側の視点を押し出したものだろう。ところで、学区撤廃は全国的な流れで、私立高校に危機感が生じているとの報道があった(読売新聞の28日の記事)。03年以降20都県が撤廃、9道府県が統合(学区減)。09年には北海道と京都が2度目の統合、10年には宮城が撤廃、熊本が統合。少子化と私立人気の中、公立高校が生き残りをかけて、住み分けから競い合いに舵を切った、という説明だ。以下、この記事から要点を拾ってみる。うまく整理されているからだ。------------○ 学区制は高校進学率アップの仕組みとして長年機能してきた。60~70年代の受験競争加熱時代には、15の春を泣かせない抑止策として使われた。特に首都圏では学区内でさらに学校群制を設けて合格者の希望とは無関係に振り分けた。○ しかし高校全入時代を迎え、今や生徒の多様なニーズにどう対応するかが求められているところ、学区制が選択の幅を狭め、優秀な生徒は私立や国立に流れてきた。都は82年に学校群制を廃止したが、都立離れに歯止めはかからなかった。○ 01年度地方教育行政法が改正され、都道府県の判断で学区撤廃が可能となり、03年の東京(14学区)と和歌山(9学区)が初の撤廃。○ この流れは広がる。東京同様私立との争奪が激しく交通網も整備された神奈川や埼玉は早期に撤廃。北海道、岩手、長野など面積の広い自治体では学区統合で対応。○ 私立を含む学校間の競争が激化。東京では都立の定員割れが、撤廃前の19校(02年)から32校(08年)に。高校の序列化や激しい受験競争が再燃する恐れも。○ ところで学区撤廃をめぐる動きも都会と地方では様相が違う。○ 都会の場合は、私立優位の勢力図が変わりつつあり私立も神経をとがらせる。▽ 60年代までトップクラスの日比谷高校は、都の学校群制度(67年)以降私立に押され気味だったが、03年学区撤廃により1.5前後の競争率は2倍を超え、東大合格者数も1桁から28人(07年)に増加。旧学区外の受験生が8割に上る。旧制中学の伝統校は同様の傾向にあるため、学区撤廃の効果とされる。 伝統校以外にも秋留台高校(基礎学力や生活面に課題ある生徒を受入れ)なども倍率が高い。他方で、特色を出せずに苦戦の都立高校も。▽ 一方で私学も打撃を受けている。大阪府では私立1校だけを受ける専願受験生の割合が低下し、定員割れの私学も。08年大きく定員割れした摂陵高(茨木市)は関西で初めて早稲田大の系列に。北陽高(大阪市)も関西大の併設校に。○ 地方都市の場合は、交通網の関係で事情が異なる。▽ 秋田県(05年撤廃)は、秋田高(秋田市)を旧学区外から受験する生徒は3~5%に過ぎない。香川県は2つの学区の存廃論議で揺れ、県議会は猛反発。第2学区の伝統校丸亀高が、第1学区の高松高に飲み込まれると心配する。------------東北の各県はどうだろうか。青森 05年撤廃(6学区)岩手 04年統合(19学区→8学区)宮城 10年撤廃(5学区)秋田 05年撤廃(3学区)山形 -福島 -山形県は現在3学区制。南学区(米沢市ほか)、西学区(酒田市、鶴岡市ほか)、東・北学区(山形市、村山市ほか)。北学区は地域の要望で統合したものだそうだ。隣接学区への枠はナシ。福島県は現在8学区制。ただし、隣接学区に越境入学枠が3%認められている。つい5年前までは、他県から仙台に来ると、おそらく多数の人の抱くのは、こんな感想だった。「男女別学高校に思い入れが異常に強くて、それを誇りに思って疑わない。そのくせ、進学率も悪くて浪人も平気。かといって私学もちょっとだし。仙台以外では伝統校でも大学進学は難しい。生活するには絶好の環境なのに高校の教育体制だけは変によどんでおり、子どもの教育環境は大いに不安。」まずは、宮城の教育界も、良い意味で「普通の状態」になってくれれば良い。共学化は実現する。その上で、特色ある学校づくりのために学区撤廃だ。もちろん何事もバラ色ばかりではない。欠点もある。反対論は、特定学校への志願集中や学校の格差助長の点に集約されるだろう。しかし、少子化を踏まえて、また宮城県の高校の実力(進学や就職の実態)を素直に直視して、これで良いと思う人はいないだろう。学区撤廃は、歴史の必然だから、という受け身の理由ではなく、沈滞を破り高校の実力を引き出すため必要なのだと思う。そして当然ながら、学区撤廃だけで終わってはいけない。教員の人事政策、中学校の進路指導、各学校での特色の認識と努力、など関係者の配慮が根付いていくことが必要だ。
2008.07.30
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アインシュタインの松島での行程について、ちょっぴりわかる資料がありました。12月3日に、仙台市の公会堂で一般講演をした後、列車で松島に向かった。そして、(以下引用します) 塩釜から県庁のモーター船で松島へ。博士は建築に興味があったため、瑞巌寺、観瀾亭、雄島、五大堂を巡り、観察眼が鋭かったと当時の河北新報は報じている。 松島はことのとき、大正2年にドイツ人レルツの設計により建てたばかりのパークホテルが地上3階の威容を誇っていたはずだが、博士は白鴎楼で休憩した後、午後8時半に仙台に戻り、仙台ホテルに泊まった。(小川澄夫『新松島ものがたり』国書刊行会、平成11年、p80)博士が松島でどこを見たのか、はわかりました。今、松島では、水族館の建て替えなど観光地としての再生の議論が活発になりました。また旧松島パークホテルを見直す運動もあるようです。私としては、日本人の心象風景として古来あこがれであった八百八島という風光そのもので勝負すべきだと思うのですが、いずれにしても活発な議論はすべきでしょう。■過去の日記 ○ アインシュタインと仙台(その4)(1月4日) ○ アインシュタインと仙台(その3)(12月18日) ○ アインシュタインと仙台(その2)(12月17日) ○ アインシュタインと仙台(12月14日)
2006.01.15
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自民党選対局長の河村建夫衆院議員(山口3区)が、昨日新潟市内での講演で、「国づくりをやり直すときがきた。その天誅とも言うものが3月11日の大震災という受け止めが当たっていないことはないと思う」と述べたそうだ。今朝の河北新報による。被災者等の反発を招きそうだ、と解説されている。最初はピンとこなかったが、麻生内閣で官房長官をやった人物だ。さて、発言だが、私自身はそんなにメディアが騒ぐ話ではないと感じる。たしかに、「天誅」という言葉を、罰を受けるべき者に対する公平な天罰と考えれば、東北沿岸部の住民にとっては不条理極まりない発言となろう。しかし、地震や津波が我が国のまちづくりや社会システムの誤りを期せずして質した、今後の国造りに向けて課題を明らかにしている、という意味であれば理解はできる。私は何も河村氏や自民党におもねるつもりは全くないが、震災直後に石原都知事が天罰発言をして撤回した。このときも思ったのだが(過去の記事:自宅に居ります(2011年3月26日))、都知事の撤回は妥当だったとしても、発言の意図が被災者や被災地の非を指摘する趣旨のはずはなく、一種の世界観や歴史観のようなものだろう。ちなみに、東京都の行政レベルでの被災地支援は非常に手厚いことは宮城県にいてよくわかっている。都知事の発言が単に当然の報いだと言い放った趣旨でないことは明らかだ。それにしても、被災者に失礼だろう的なマスコミの指摘こそ、余計なお世話で、悪く言えば被災者に名を借りた言葉狩りではないか。浮ついた世間受け狙いで政治家を批判して、それが何になる。それよりも、北九州のがれき受入反対派による宮城県を相手取った裁判。あれは何だ。単なる抗議行動ならともかく、提訴までしたとすれば本気に石巻や宮城の責めを主張するつもりなのだろう。ならば、我々宮城県民はもっと放射能に曝されて健康不安に悩まされているという理屈でなければならない。さあ、誰に損害賠償を求めようか。これこそ馬鹿げた天誅天罰騒ぎではないか。メディアはどう解説するのか。
2012.07.19
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前回(仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日))に続く...■八木山方面○八木山団地 八木山本町一丁目○八木山第三団地 八木山香澄町○青葉苑団地前(バス停名) 青山二丁目と大塒町の境界のバス通り(81年版地図だと、大塒町の西側部分に「青葉苑団地」と明記)○茂ヶ崎団地 茂ヶ崎三丁目○芦の口(81年版地図では「芦ノ口」)団地 芦の口○緑ヶ丘団地 緑ヶ丘一丁目、二丁目○萩の台団地 八木山東二丁目○八木山南団地(バス停) 八木山南一丁目から六丁目○羽黒団地(91年地図でバス停名「第二羽黒台」) 鈎取三丁目●91年版地図では、現在の桜木町に「越路恵通苑団地」と付されている。また、青山二丁目に「二ツ沢団地」、恵和町に「国鉄共済団地」、砂押町に「郵政団地」、鈎取バス通り西高前バス停附近には「紙漉城南苑」との説明が見える。●81年版地図では、砂押町に「南ヶ丘団地」の名が見える。また、第二羽黒団地バス停は西多賀からのぼるバス路線の終点で、その手前が「国鉄団地」となっている。○鈎取ニュータウン(バス停) 鈎取二丁目○太白団地(81年地図では公社太白団地) 太白一丁目から三丁目○恵通ひより台団地 ひより台○月ヶ丘(バス停名) 上野山二丁目○山田団地(81年地図では県営山田住宅) 山田北前町○羽黒台団地 羽黒台○日本平団地、日本平東南苑団地 日本平(81年地図では、「日本平東南苑分譲地」との記載。)○南(81年地図「仙台南」)ニュータウン(バス停名も) 人来田一丁目から二丁目○茂庭グリーンタウン 人来田三丁目●91年版地図では、現在の佐保山に「軽井沢団地」の記載。●81年版地図では、上野山一丁目に「上野山団地」。山田自由ヶ丘団地の名も明記。■名取市○ライフタウン名取 相互台一丁目から四丁目、相互台東一丁目、二丁目○イトーピア名取 ゆりが丘○グリーンヒルパーク名取みどり台 みどり台●91版地図で、「スカイタウン高館(造成中)」■仙台市南部、東部方面○飯田団地(バス停名も) 東郡山一丁目、二丁目○沖野団地 沖野三丁目から七丁目あたり○中田ニュータウン 東中田一丁目から三丁目○袋原ニュータウン 袋原一丁目から三丁目あたり(なお東陽苑会館という施設があるが、団地通称名か。91年版地図では、団地名と思われる「信三東陽苑」の名が見える。)●91年版地図では、ほかに、大和ネオホーム南仙台(現在の中田一丁目)。また、袋原市営住宅、袋原東市営住宅、東四郎丸市営住宅、西中田市営住宅などの名も。■西部方面●やや古い地図には「茂庭住宅団地(造成中)」とあるのが、現在の茂庭台一丁目から五丁目。------------さて、こうやって地図から拾いまくってみたが、もちろんこれだけでは済まない。南光台や中山などの山を崩した巨大開発は別としても、一般には昭和40年頃からの宅地造成は、丘陵部に中小規模の開発が先行して、やがて道路網が広がるに連れて宅地も連続していくという感じではないだろうか。とすると、山あいの地質や地盤の良いところを選んで、付近の地名や、新鮮な語感の言葉や、あるいはデベロッパーの名を冠して団地名を付けたのだろう。最初は中心部の平坦地から離れてちょっと不便に思ったけれど、静かな団地の中で家族の待つマイホームに帰るお父さんの気持ちは格別だったのでは。そんな余計なことを考えながら、高度成長を担った人と町の歴史を大切にしたいと思う。そんな時代の団地名はおそらく何十とあっただろう。今地図を開くと、まさに平面的に新町名で色塗りされて埋められてしまっていて、よほどの大規模団地でないと、団地名などわからない。しかし、町内会や会館の名前などに残っていることも多いようだ。ミニ開発地に住み込んだ家族達はもう高齢化し、子ども達は独立し、今の時代にはそんな団地名も消えていくのだろうか。藩政時代の町名も大切にしたいが、こんな昭和の足跡も、しっかり記憶に残していきたいと思う。
2011.12.11
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宮城の大地主と言えば、桃生郡前谷地村(現在は石巻市)の斎藤善右衛門家。酒田の本間家と並び立つ日本の大地主だ。現在では、ホテル仙台プラザ隣接の斎藤報恩会(自然史博物館)としても知られている。明治23年(1890年)に遠田郡小牛田町の会社の資産を買い受けて、一躍1120町歩の巨大地主になった。斎藤家の特徴は、旧来の人格的上下秩序に依拠する小作関係ではなく、近代的な対等の契約に基づく小作経営関係を先取りしていたことである。明治25年(1892年)の斎藤家の「地所管理心得書」には、家族的な親愛と尊敬の関係は昔の大名と百姓の関係と同視する時代遅れの考えであること、小作人の土地使用は権利だからその収穫は当然に小作人のものであり、小作に利益なければ地所を返付する自由もあること、などが記されている。逆に、小作人が契約を守らない場合には取り上げ、また争議化すれば裁判に訴えるのが、斎藤家のやり方だった。家族的関係や力関係ではなく、契約に依拠したのである。ところで、明治後期の凶作続きで小作人の夜逃げが続発した。しかし農民も逃げてばかりではない。小作騒動も頻発した。日本で最も小作騒動の多い県が、宮城県だったという。宮城県の特徴は、小作人同盟会という組織があったこと。小作人が合同で地主に対抗し、小作料引き下げを認めさせた。地主も地主会を組織して対抗したので、組織と組織の対抗となり、各地で争議が起きた。最大のものは、明治41年(1908年)の桃生牡鹿10カ村による「桃生牡鹿連合小作人同盟」闘争である。斎藤善右衛門の支配下にあったものだが、面白いのは、同盟会のリーダーとなった安倍(須江村)、菅原(鷹来村)、加賀(広渕村)などは小作人ではなく小地主で、村長や県会議員を経験し、小作人の窮状を理解して村民とともに村の発展に尽くそうとした特徴があったこと。小作層だけでなく村ぐるみで地主に対抗した運動だった。明治41年の2月に始まったこの闘争は、地主会と小作人同盟会の決裂を受けて、斎藤家が「現今の小作人は、言葉巧みに生活難を針小棒大に、新聞を利用して世の同情を求めるもの」と非難するなど、大事件に発展した。しかし、やがて地主側の統一がくずれはじめ、最後は斎藤家も小作の要求を認める。もっとも、小作人同盟会の組織は長続きしなかった。村の有力者を中心とした村ぐるみの運動という特徴は徐々に崩れ、村内部の対立も反映して、近代的な階級闘争に変わっていく。■参考 我孫子麟『宮城県の百年 県民百年史4』山川出版社、1999年
2007.01.25
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東北本線の仙台以南は奥羽街道(国道4号)沿いに敷設されたが、明治の建設期における白石・大河原ルートと角田・丸森ルートの関係は一応把握しておかねばなるまい。そして、角田側は昭和期に巻き返しを図ろうとしたことも。角田・丸森側の事情も調べたいが、まず今回は『白石市史』(第1巻、昭和54年)から。------------■明治期の事情昭和15年、上野方面から鉄道が建設開通されると、やがてその延長が宮城県を南から北進することが明らかになり、各地に反対運動が起こった話は周知の通りである。(略)養蚕のさかんな角田、伊具郡では、ことに反対運動が激しかった。白石刈田地方も例外ではなかったが、東京の第一銀行頭取渋沢栄一が、当時横浜に事務所を開いていた白石第一の豪商米竹清右衛門に鉄道の有利性を説得する一幕などもあって、鉄道敷地の提供も約束させ、福島-仙台間の鉄道は白石を通過することに決定を見たのである。■昭和期の事情昭和21年12月4日、白石町綜合計画審議会は、郡山仙台間の東北本線を複線電化すべきであると答申している。(略)25年6月、北海道東北一道七県知事会が開かれ、議題として初めて北海道東北地方の開発用鉄道の建設と重要幹線の複線電化の早期実現を上程し、これこそ東北北海道開発振興の必須条件であることを強調し、議決した。(略)昭和32年5月、突如として予定線である丸森線の着工の見通しが確定したが、白石地区住民にはこのニュースは晴天の霹靂ともいうべきであった。麻生市長は急遽東北本線沿いの市町村に呼びかけ、東北本線幹線絶対確保運動を展開した。(略)そもそも丸森線建設計画は既に明治末期に始まっている。(略)関係当局の大勢はこの路線は運輸技術的、距離的などの観点から白石を通る現在の本線より有利であるとの判定に傾き、その建設やさらに幹線化が地道に策定されていた。だが、丸森線の幹線化は、瀬上、槻木間の東北本線の支線化を意味するもので、白石には死活問題であり重大な関心を持たざるを得なかった。ちなみに、東北本線福島-仙台幹線化の一大ネックは白石-藤田間の勾配1000分の25の箇所であった。そのために、白石駅に転車台、給水塔の設備を特にしてあった。しかし、この幹線化確保は地元民の強い熱意と、愛知揆一代議士、国鉄総裁顧問・白石市顧問木村逸郎その他の関係者の努力で(略)福島-仙台間電化の実現を見た。34年10月下旬、北白川-岩沼の電化工事が始まり、36年2月14日福島-仙台間の電化工事が完成した。(略)7月5日複線の起工祝賀会が開催された。(略)41年7月20日、複線拡張のため城山第二トンネルを掘削した。複線工事は順調に進み、昭和41年10月1日、福島-岩沼間の複線電化は実現し、ここに東北の近代化に力強い歩みを踏み出したのである。------------なお、白石ルート選定に際して大河原町の努力も忘れてはならないだろう。記事:大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) を参照のこと。■関連する過去の記事(東北本線ルート関係) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2011.09.05
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日経新聞(東北版)の記事(11日)に、東北各県の大学進学率ランキングを掲げて、最高(46.7%)の山形県は「大正時代から長野や福岡とともに「教育3県」に数えられた教育熱心な地域だ」と評されている。知らなかった。東北人として恥ずかしい。山形県の教育といえば、給食や作文指導や、人づくりに力を入れている印象は確かにあるが。とにかく、ビッグスリーとは、東北の誇り。調べてみました。平成20年8月28日に第52回山形県市町村教育委員大会知事祝辞というのがあって(山形県公式サイト内から)、知事が、「昔から教育3県の1つ、理念の長野、施設の福岡、そして実践の山形と言われてきたわけでございますが...」と発言しているようだ。理念の長野施設の福岡そして、実践の山形ですか。
2010.03.11
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仙台藩の戊辰の戦乱を記した書物から、仙台藩の財政環境を学ぼうとしている。戊辰の混乱で悲哀の末路を迎えるが、この書物は、勤王佐幕の順逆論に終始することなく、藩政の経済基盤を考慮に入れ、この大藩の崩壊の過程を社会経済の視点から総合的に考究しようとするものだ。○橋本虎之介『仙台戊辰物語』歴史図書社、1980年 (『仙臺戊辰物語』昭和10年刊行の再刊)この書の中に、化政期の仙台藩の歳入歳出が記されている。前後の財政環境を踏まえながら記す。大藩の気風からか奢侈享楽の意識が染みついた仙台藩だが、天譴のごとく災害が続く。文化元年仙台城二の丸中奥の炎上、6年秋に蔵王山大爆発で阿武隈川の魚全滅、9年6月に旱害と七月に豪雨洪水、文政5年2月仙台大火(全焼五百余)、翌六年正月に全焼約二百戸、七年冬江戸上屋敷類焼、8年不作、など。藩の政治も、綱村吉村の中興期を経て、化政期27年間は藩主も夭折し、みるべき治績もないどころか上も下も遊楽驕奢の結果、必然的に藩の財政を加速度的に紊乱に導いた。他方で国際情勢との関係では、仙台藩は工藤平助(赤蝦夷風説考の著者)や林子平(海国兵談)を輩出し、海国日本に警鐘を打つ大きな貢献をしたが、結局この北辺の国際紛議から藩として多大の犠牲を払い財政難に拍車をかけることとなった。寛政11年幕府は松前氏の封地東蝦夷を直轄とし、津軽、南部両藩に出兵を命じ、次いで文化4年仙台藩に松前表の警固のため5百名の出兵を命じた。滞在中の食糧、武器調達に調練など、これは大変な騒ぎとなり、幕府の督促でさらに増兵を求められる。榴ヶ岡杉山台で調練を積み、文化5年、択捉国後に1,220人、次いで箱館備えの800人が進発。これら派遣兵は年内に無事帰藩するが、莫大な出兵費を捻出すべく、封内の農民に向こう5カ年で1万5千両の上納を命じ、藩士一統5年賦の貸上金を命じて、急場をしのいだ。更に領内の沿岸警備についても寛政以来度々幕府から防備を令達され、財政難からお茶を濁していたところが、文化5年に南部領田名部にロシア船が来訪したこともあり、牡鹿から気仙まで40箇所に備え組(平均150人ほど)を置いた。蝦夷出兵費ほど莫大ではないが、年々支出するため、後の安政の北海道再警備とともに藩治に過重な錘となった。化政期の財政状態はどうか。百万石の実高のうち60万石相当は他藩に比して多い家臣の知行高にとられるため、差し引き40万石内外の蔵入しかない。それに、独特の藩直営の米管理専売制である買米制度も凶作や相場下落で脅かされた。幕府からは毎年諸役を仰せつけられ、参勤交代も藩格から金がかかる。やむを得ず豪農富商には上納米御用金を仰せつけ、藩士には貸上金を命じたが、それでも常に不足し、大坂などの大商人から度々借財をした。最高職である首班奉行(執政)や、出入司(財用方総司として正保元年から設置)の苦労も並大抵ではなかった。5代吉村でやや立て直した財政は、続く宝暦、天明の飢饉、幕府の国役などによって百万両程度の借金ができ、遂に寛政2年には、向こう10年間15万石の格式で諸事節約を命じた。翌3年と4年は大豊作で江戸の米相場高直で50万両の大利潤を挙げて、享和3年までの借金もだいたい片付いた。ところが、文化元年また米価下落、その上に上記の蝦夷地警備と海岸防備に諸災厄で、臨時出費がかさみ、文化9年には40万両程が借財となって残った。文化5年の家臣貸上金、7年の節倹令などで打開を図る。文化9年、あまりの滞借ぶりに蔵元升屋平右衛門もさすがに融通を渋りだした。出入司が大坂に赴き七重の膝を八重に折って頼み入り、向こう3年に必ず返済を約してひとまず落着。しかし、幕府下命の日光山本房修営の融通などで文化14年までに新借財も36万両に達し、再び財用方が上坂し、諒解運動。ようやく20万両だけは30年賦償還、残る15万余両は5カ年で返済することで協約が成立。大藩の信用も地に落ちた感があった。片倉小十郎村典(村嗣)の財政意見書(文化12年10月)によると、当時の御領内惣高101万721石余。これより知行高57万9693石余及び支藩一ノ関田村侯分を差し引いた残りが、御蔵入高39万9450石余となるが、これから四公六民による百姓作得米を控除し、物成(年貢)御蔵入高をはじめ御家中召上金穀、御分領諸役運上、幼少長病役、御塩方利潤、江州常州總州物成等を合計し、経常収入は、米7万94万石余、大豆4467石余、金5万5321両。これに対し歳出は、玄米扶持、切米金穀として微禄者への給与が米4万7357石余、金1万2450両余、役料が米1227石、金2200両余。差し引き残りの米2万1710石余、大豆4467石余、金4万658両をもって、国元を初め江戸京大坂の三都経常費に充てねばならぬ勘定だ。この経費見込みが、米1万1830石、大豆380石、金7万7640両とあるので、結局これを控除すると、米では僅かに9880石余、大豆4080石しか余らず、金では3万6980両余を不足する。米大豆を見積もり換算して1万6、7千両を除くと、概算2万両、というのが歳入不足となる。しかし、この数字は経常費予算であり、臨時支出や借金返済を含んでいない。片倉村典もこれを認め、買米の利益では歳入欠陥の補填も難しく、さらに旧債の利息にも追いつかない。毎年借財が増加して最早愚慮も及ばない、と敏腕の国老も弱音を吐く。その上で、寛政2年の格式下げの破綻財政に「障子一重と申す御時節」と記している。この財政不如意の折、豪華を極めた藩主の参勤交代も極力緊縮し、文化12年2月の参府の際は儀衛の半分を減らしたと記録されている。次いで齊義、齊邦の文政年間も同断で、先代の借金の上に、二度にわたる関東諸川修治命で20万両に近い工費を費やし、財用はますます逼迫した。文政6年から10年頃までの予算概説書も二、三あるが、この年代も経常歳出入で以前1万両ないし2万両の歳入不足を生じ、その他の欠陥を加えると経理難となり、買い米利潤にも頼れず、借金に頼った点は同じ。当時の江戸の風評では三百諸侯で勝手元の行き届いているのは、仙台様を初め、細川、土佐、阿波、丹羽、上杉の諸大名とされた。薩摩は屈指に漏れたという。しかしその実は上記のような困窮財政であった。藩の御菓子司の大町一丁目明石屋惣左衛門が文政4年に藩に出した文書では、数十年前の菓子代まで滞借したらしく、明石屋がいくらでも良いから枉げて支払って貰いたいと出願している始末だ。歴代藩主が将軍に献上した自慢の塩瀬饅頭だが、仙台藩の内情を示すエピソードである。■関連する過去の日記(藩政改革関係) 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年7月25日)
2008.01.03
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国道346号は何度も通っているのに、じつは品井沼駅前や元禄潜穴の穴頭などのある幡谷地区の中心部は、今回はじめて訪れた。根廻の旧山線鉄道橋跡(元禄潜穴穴尻)から、ずり出し穴、旧山線の根廻トンネル、大菅踏切を経て、穴頭の位置に品井沼干拓資料館。交番、第五小学校(どんぐりころころの碑)、くぬぎ台団地などをみて回って、集落を抜けて県道大和竹谷線に沿って東北本線を渡り(第二上竹谷踏切)、吉田川沿いに下って二子屋橋で渡河し鹿島台に出たのだった。最初の写真は、根廻児童公園(おまん地蔵)付近の標識。ずり出し穴から町道を北上してすぐの場所。車を寄せて撮ってみた。悲話の伝わるおまん地蔵を、次回はお参りしたい。根廻トンネルや大菅踏切を経て、幡谷の住宅集積地に入る手前に、品井沼開拓資料館。元禄潜穴の穴頭(入口)の直上部の丘にあたる。普段閉まっていて事前に連絡して見学する方式のようだった。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.12
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕3-2 馬籠地域とキリシタン 調査隊〔当ジャーナル注、村岡典嗣氏の探索と論文(昭和3年)をもとに行われた昭和26年の只野淳氏ほかの探索隊を指すと思われるが、著者の高橋氏たちの最近の探訪かも知れない。〕が最初に入った地域が馬籠である。市明院という寺に切支丹の記述がある文書を見つける。これは、田束山の縁起について書かれた文書の中にあったものである。(田束山については前回記事に記した。)3-3 大柴佐藤家・大東佐藤家 先祖は義経の忠臣の佐藤忠信である。忠信の兄嗣信は屋島の戦いで戦死しており、兄弟の忠死を憐れんで母尼公は、父秀衡から化粧地として賜ったといわれる先祖ゆかりの地、馬籠に「信夫館」を建立し居住した。大柴、大東の佐藤はもともと兄弟である。本家分家の関係ではないが、大柴佐藤家子孫の山内繁氏(気仙沼在住)談では、大柴佐藤家が肝煎りだったので分家が大東のように記載されいてる書物があるが、それは現在の視点の解釈と思うと話している。 1772年(安永9)4月の風土記に、馬籠村肝煎り佐藤善作が「代数有之御百姓書出」として提出した文書があり、そこには「佐藤淡路の子小六郎・小六郎の子寅蔵・寅蔵の子太郎兵衛・太郎兵衛の子善作古切支丹肝煎り」と記載している。事実、1672年(寛文13)8月29日付の「本吉郡馬籠古幾里志丹近親類書付帳」に馬籠村肝煎り寿慶の名で記載されている。 寿慶は転宗を思わせる名だが、僧侶風の名にすることで過去にキリシタンだったことを世間の目からそらす目的であったのか、実際に転宗したのか不明。寿慶の父として十郎左衛門信治佐渡の名も記載されいている。佐藤十郎左衛門信治佐渡は、支倉常長と共にサン・ファン・バウティスタ号に乗ったと言われるが、遣欧使節の委細が書かれた『金城必韞』(大槻磐水、1912年)には、乗船者の中に記載がない。 大柴佐藤の子孫の山内繁氏の母山内むつ氏の著書『年輪』(1973年)に、「ローマから持ってきた宝物の話」として、山間地の馬籠に先祖が700年も住んでいたこと、ローマから持ってきた3つの宝物(金の十字架、香炉、インク壺)が長く伝えられたこと、分家の大東家には入口の分らない屋根裏に隠れキリシタンの部屋が最近まであったこと、が書かれている。 現在米川教会の台座の裏に「佐十」と墨で書いていある木造のキリスト像は、佐藤十郎座衛門のことと思われる。インク壺は大東佐藤の子孫の奥様佐藤かぢ子さんの管轄にあるとのこと。 大東佐藤家は兄の大柴佐藤家から東の方向にあることからそう呼ばれるようになった。肝煎りの大柴は役人の出入りも多く、キリシタンを隠せないので大東に隠したと思われる(山内繁氏談)。隠れ部屋にはフランシスコ・バラヤス神父が隠れていたと考えられる。佐渡の古い墓には頭部に卍のキリシタンマークが付いているが、今は倒れて草むらに覆われている。〔おだずま注、上掲書p170に大東佐藤家の図があり、仏壇の奥に隠れ座敷がある。〕3-4 馬籠小山家 大変古い家で、午王野沢という田束山に登る山道に面した山深いところにある。南蛮鍛冶屋のこの家のお嫁さんの話では、夜口笛を吹くのは幕府の役人の合図だ、日が暮れたら家の灯が外に漏れないように、との言い伝えがあったという。小山家には梵字を模った不動明王の掛図があり、Jesusの「J」が組み込まれている。3-5 三浦家文書 『本吉町小史』によると1632年(寛永9)、馬籠のキリシタンが一斉に捕縛された。村には女性子供しか残らず農業が成り立たないので、領主の三浦下総、佐藤和泉、吉祥寺の住職が、転宗を進めに城下仙台牢を訪ね、許されて帰村した史実が記されている。3-6 ポーポー様の伝承 本吉町林の沢という山奥に、ポーポー様と呼ばれる墓石がある。20年前見に行った時は、頭が欠けて三角の墓石のようだった。現在は墓は倒れて見えない。日付は消えかかっているが、町史によると寛永8年1月24日。『本吉町史』によると地域に伝わる伝承として、昔、林の沢にポーポー様が住んでいた。よそ者である吹雪の晩に太田山から下りてきて某宅に一夜の宿を求めた。村人は天狗にでもさらわれたかと温かく迎えた。ポーポー様はこの地方の言葉がわからないが、病人があると魔法のようにポーポーと息をかけて治してくれた。ポーポー様はこの地で一生を終えた。村人墓を建て病の時は墓にお願いをした。近在では、子どもたちがいまでもポーポーと息をかけてさすってやる習慣がある。ポーポー様は修行者なのか、キリシタン宣教師の落ちのびた姿ではないかともいわれる。墓に釣り針マークがあること、宣教師は他の地方でも十字らしきものを切りマメチョマメチョと言ってまじないをした様相に似ているからということだ。 寛永8年(1631)以前に馬籠付近に滞在の可能性のある宣教師は次のとおり。・ジョアン・ポルロ神父・フランシスコ・バヤラス神父(孫右衛門)・ルイス・カブレラ・ソテロ・ゼロニモ・アンゼリウス・カルワリヨ神父(長崎五郎右衛門) 仙台藩がキリシタンを厳しく取り締まるようになったのは、支倉ら遣欧使節の帰国後で、上記の中で確かに潜入していたのはバラヤス神父と推察される。たしかに、馬籠の逗留したと思われる屋敷や馬籠に通じる道筋の隠れ家と言われる家には、マリア観音に模した仏像や背中に十字の入る像が見つかっている。また、キリシタンの関わりを想起させる、葦原刑場、弥惣峠などの地名も残る。 取り壊されたが、大東佐藤家は地域でバテレン屋敷と呼ばれていた。15年ほど前、子孫の奥様で教師の方に話を聞いたら、中二階の隠れ部屋は小さな集会堂だったということから、バラヤス神父が同宿の半三郎とともに大東佐藤家に逗留して布教したのは確実でないかと思う。 馬籠小山家にも同じような隠れ部屋があった。〔当ジャーナル注。明治8年、津谷、馬籠、山田の3村が統合して御嶽村、そのまま明治22年町村制で御嶽村となり、単独で昭和16年津谷町になる。参考記事として、津谷小学校山田分校廃止裁判(2012年3月1日)〕■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.03
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最近、大崎市田尻地区を通って、気が付いて驚いた。大崎八幡神社があるのだ。地域名にも八幡があるが、明治の町村制で田尻村ができる前は八幡村だった。あ、そうか。数少ない仙台の国宝、大崎八幡様は大崎から移したというが、もとはここだったのか。大崎八幡宮のサイトには、次のようにある(当ジャーナル要約)。坂上田村麻呂が武門の守護神である宇佐八幡宮を旧水沢市に勧請し鎮守府八幡宮を創祀した。奥州探題大崎氏がこれを自領内の旧田尻町に遷祀し、大崎八幡宮と呼ばれた。大崎氏滅亡後は政宗公が岩出山城内に御神体を遷し、仙台開府後は城の乾(北西)の方角の現在地に、旧領米沢の成島八幡宮とともに、祀られた。知らなかった自分がいうのもおかしいが、もっともっとPRするべきでないか。先日、田尻の記事を書いた。蕪栗沼も有名だが、縄文の遺跡から、中世の城柵、近世では萱刈潜穴などの先人のすばらしい遺産もある。すばらしい地域だ。■関連する過去の記事(旧田尻町)●田尻の謎を解く(その2)(2026年05月12日)●田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.13
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ノンちゃん牧場が栗原市鶯沢にあったという。「ノンちゃん雲に乗る」を書いた石井桃子さんが友人の女性とともに開墾した。■『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』(2011年10月、仙台市市民文化事業団)による。1945年8月15日に、狩野ときわさんと石井桃子さんが開墾を始める。1947年に『ノンちゃん雲に乗る』が出版される。いつしか牧場はノンちゃん牧場と呼ばれる。1956年に石井さんは鶯沢小学校5年B組で読書の授業をはじめた。お昼には牧場のノンちゃん牛乳を飲ませた。卒業まで2年間授業は続いた。いま牧場だった土地は、狩野さんという方が守っている。ご主人とともに跡を継いでやってきたのだという。宮城県図書館の資料(ことばのうみ、2000年7月)に、その5年B組で授業を受けた鶯沢町教委の課長さんの話が出ている。担任の先生から、2年間読書の授業と牛乳の試飲があると知らされた。当時はまだ給食がなく、他学級に申し訳ない気持ちだったが、昼時間が待ち遠しかった。石井さんは週1回国語の時間に朗読。読書の習慣がなかったが、だんだん関心が高まり、1週間が待ち遠しくなった。平成10年に、鶯沢小学校に「石井桃子文庫」コーナーを作ることに石井さんの了承を得て、教育長とともに東京に石井さんを訪ね、40年ぶりに会うことができた。小学校の文庫には先生から送られた本も並び、子ども達が楽しく利用している。「ノンちゃん雲に乗る」というと、私には岩手県の小学校の図書室にあった記憶がある。図書室はあまり豊富な蔵書とは言えなかったと思うが、学校が子ども達のために買いそろえたり受け入れたりしてきたのだろう。先生方は読書指導にずいぶんと力を入れていたのだと思う。私も家に本など無かったから、いろんな分野の本をよく借りた。感想文の指定図書のようなものより、科学、地理、歴史やノンフィクションなどを広く読んでいたように思う。借りてきた本を自宅で祖父が読んでいて、続きを借りてこいと言われたこともあった。旧字体の本や、例えば日本がまだ国連に加盟していない段階の記述となっている書物などもあって、その分知識も広がったのかも知れない。自分にとって「ノンちゃん」の印象だが、その内容(記憶にない)よりも、「つづり方兄弟」などあの頃図書室にあった本や児童文学シリーズ的な書物らとともに、なにやらあの頃高まっていたと思う読書や作文の指導教育の代表みたいに子どもながら受け止めていた。また、「ノンちゃん」が本当はどうか解らないが、教育の自由や戦争反対を掲げストライキもあった岩手県教組の活動とも自分の感覚ではつながっている。いずれにしても、ノンちゃん牧場が宮城県にあるとは、今まで知らなかった。さて、鶯沢小学校の石井さんの授業の話だが、昭和31年には石井さんは東京で活動していたのだと思うが、毎週鶯沢まで来ていたということになるだろう。新幹線もなく、来るだけでも一日がかりだ。誰かが車で送迎したのだろうか。石井さんの熱意もあってのことだろうが、支えている人たちもいたのだろう。そもそも、学校で、そのような授業をやることも普通ではないが、5年B組の先生が前向きで、また校長や教委の理解もあったからか。「ノンちゃん牧場のこころみ」という映画が昨年、仙台で上映されたという。そう遠くない、今に繋がっている私たちの地域の歴史。■関連する過去の記事 鶯沢・文字地区の新小学校(2012年2月26日)
2016.06.04
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1 3有力紙と河北新報明治30年正月一力健治郎が河北新報を創立した当時、仙台には3つの有力な新聞があった。○ 奥羽日々新聞(須田平左衛門、怡土信吉、友部鉄軒の流れをくむ)○ 東北毎日新聞(松田常吉)○ 仙台新聞(沢来太郎)沢来太郎は栗原郡沢辺の出身。臥牛と号し僊台(せんだい)新聞を創刊。原抱一庵、佐藤東華らを記者に抱えた。31年10月に廃刊し11月黒沢十太経営の明治新聞が創刊されたがあまり振るわなかった。沢はこの後衆議院議員を5回。仙台米穀取引所理事長、産馬組合長、政友会宮城支部長。松田常吉は牡鹿郡渡波生まれ。魚の行商から刻苦勉学し維新後戸長に推され、明治11年県会議員。改進党に属したが、第1回衆議院選(登米桃生牡鹿)で遠藤温に敗れ、補欠選挙では改進党の首藤陸三をおし、犬養毅、尾崎行雄が応援に来たが、佐藤運宜に1票差で負けた。松田と首藤は改進党の機関誌仙台新聞をゆずりうけ、東北毎日新聞と改名して是々非々を旗印とした。野村古梅、富沢大一郎、桜田孝治郎など健筆青年を集め、日清戦争で紙面を増し奥羽日々新聞を圧するに至る。明治36年東北毎日の社長松田常吉は61歳で没す。奥羽日々は仙台藩士須田平左衛門が明治6年に創業した東北新聞が前身。東北新聞は、仙台新聞、仙台日々新聞と次々改題され、主筆に福岡の人怡土(いど)信吉を迎えて日刊となり、当時台頭した自由民政思想をひろめた。明治11年5月に三面記事で某商家の嫁を揶揄したので仙台日々は訴えられ、社長は出張中と偽って出頭しなかったことから投獄されて自殺。須田の没後は怡土が社長兼主筆。漢詩人国分青崖、斎藤美雄(桐陰)、高瀬真之助(真郷)ら文筆家を集め社業大いに発展、福島、山形にも支局を置いたので、明治16年陸羽日々新聞と改題した。怡土は明治18年警視総監三島通庸から求められ、新聞の検閲係として内務官僚となり36年東京で53歳で没す。明治19年に元水戸藩士の友部鉄軒が編輯長に迎えられる。友部は明治14年天皇巡幸の歳に松平県令にたのまれて奉呈分を作り有名になった人物だが、編輯長として自ら筆をとり東北文化高揚に努め、記事正確の評から奥羽日々は東北一の新聞となった。日清戦争で紙面は多くなったが東北毎日新聞の回に立つに至った。従軍記者2人を派遣して郷土兵の活躍を報じたのが東北毎日の読者を増やした原因だったらしい。明治30年原敬が大阪毎日新聞の社長に就任。原と旧知である陸羽日々の主筆友部鉄幹(おだずま注:ママ)は招かれて大阪に去る。一力健治郎は仙台大町の小間物屋に生まれ一力家の養子となり、第二高等中学校(旧制二高の前身)に入学。明治24年書店を開業、市会議員、植林会社社長、県会議員などを経て、明治30年35歳で名誉職を辞して河北新報の経営にあたる。旧制二高の土井晩翠、佐々醒雪、東北学院の島崎藤村、藤沢幾之輔などが筆をとって親しまれた。一力は藤沢幾之輔と行動を共にした元改新党員であったが、新聞創刊にあたって党を離れたと聞く。2 その他の新聞の興廃なお、これより先には仙台に種々の新聞が興廃し、またこの後も数多く生まれては消えた。明治10年代には仙台童蒙新聞、宮城日報、東北新報、東北毎日、(旧)河北新報(一力とは別人の経営)、東北自由新聞など。20年代には、東北朝日、仙台日報、東華新聞、河北旬報、東北日報、実業絵入新聞、仙台商業日報、僊台新聞、仙台毎日などがあったが、30年までつづいたものは少ない。明治29年にできた仙台毎日新聞は34年仙台週刊新聞となり、やがて夕刊平民となり、35年廃刊。この頃、五城日々、五城新聞などもあった。日露戦争の従軍記事は読者を増し、挿絵が写真に替わる。戦後、河北新報と奥羽毎日が仙台の二大新聞となるが、河北は大阪毎日、大阪朝日と共に日本の三大地方新聞と自称していた。明治41年、仙台日日新聞が創刊された。創始者は初等教育の元老で政友会の小原保固で、その子の保が経営にあたった。大正4年には県会議長まで務めた小野平一郎が東華新聞を発刊。3 大正以降大正初年は新聞攻撃で桂内閣が倒れ、次の大隈内閣が新聞人に勲章を授与するなど、自由主義と新聞の伸張期であった。このためか各地で新聞が発刊。石巻では小牛田から鉄道が通じるころで、湊生まれの小川清により東北日報ができた。河北新報から古活字と印刷機を譲り受けて始めたと石巻市史はいうが、石巻の商況振るわず休刊し、大正2年石巻日日新聞と改題して再刊。大正4年には佐藤露紅らとの共同経営となり、第一次大戦後の好況期に社勢を伸張。この間、石巻には日刊宮城という新聞もあった。仙南では、明治42年角田に笹森倉吉の仙南新聞があった。大正8年に仙南新聞を引き継いで大河原に仙南論評という小型新聞が発刊。11年には岩沼に庄司重太の名亘新聞、白石に大岡直人の東北タイムスができた。この3社は合同して11年5月に仙南日々新聞となった。仙南の農業振興、郷土文化の培養、商工振興を掲げ、以来20年間続刊された。庄司猛太郎が編輯発行印刷を担当し、蔵王登山、マラソン、青年雄弁大会、仙南振興会設立などにも努力。庄司一郎はよく筆をとり代議士にもなった。仙台では大正14年松浦天外を社主とする東北事業日報、昭和3年創刊の井上啓次の大仙台などもできたが、第一次大戦後の不況のためか紙数はたやすくは伸びなかったようだ。大正11年小野平一郎(70歳)、12年小原保(43)、昭和4年小原保固(70)、一力健治郎(67)が没すると、各社とも後継者により経営が続けられたが、発行部数は河北新報が断然頭角を抜いていた。満州事変、日華事変から戦争長期化で物資不足による統制傾向によってやがて一県一新聞だけ継続を認める政府方針が発表され、昭和15年に実施される。石巻日日の例では、昭和15年以来廃刊の交渉を受けたが敢えて続刊。しかし紙の配給を止められ涙をのんで15年10月末に8684号を最後に何の補償もなく廃刊。仙南日日新聞も昭和17年1月で廃刊。1月25日7010号には「本県に於ては、一昨年仙台日日、東北産業、石巻日日、仙台朝日等八新聞は廃刊せられ終んぬ。然るに本社丈は用紙配給の漸減の苦痛と戦い乍ら先輩同業河北と僅々二社のみとなり、健斗したが、新聞統制令の公布あり、又一面県を通じて政府の要請もあり、権益の一切を国家に奉還し、大東亜戦争の要請に応え一月末を以て廃刊に決せり」とある。かくして河北新報のみが県内の一紙として残る。戦災により廃刊を余儀なくされた新聞社の旧社屋も大方焼失。河北新報社屋は辛うじて焼失を免れ、空襲の翌日から小型新聞を配布した。■佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年
2012.11.10
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こどもの呼び方について、多くの小学校では男女平等のためか「さん」で統一する例が多いようという。全国紙のある新聞社は、幼児から大人まで原則として「さん」で統一、別の新聞社は、原則小中学生は(男女を分けて)「さん」「くん」、高校生以上は「さん」で統一しているという。ちなみに河北新報社は、小学生以上は(男女とも)「さん」、0歳から未就学児は主に「ちゃん」だ。大事なのは組織として明確な判断基準があることだという。(5月5日付河北新報から。NIEのコーナーで、前日本新聞協会NIEコーディネーター関口修司さん)そうなのか。学校や幼稚園保育園での悩みも察するが、新聞がそれぞれ基準を持っていること、そして基準を持つことが大事なのだという。いろいろな考え方があるだろう。私自身は、家族や社会のはなしであり、あまり統一や基準とかには馴染まないと考えるが、放送や新聞がみずから基準を持つことは理解できる。学校や保育などの現場も自由でいいと思うが、呼ばれる側(親でなく本人)の受け止め方は重視していくべきだろう。思い出すことがある。大学時代の友人が4年生のころ、社会人になったら同級や目下の人間も「さん」づけで呼ぶと、決意をもったように語っていた。まだ昭和の時代だが、自分はそこまで意識は高くなかった。いまは令和の世だ。ジェンダー平等の観点とあいまってか、職場の部下や同窓会の主に男性の後輩を「君」でなく、みな「さん」で呼ぶ流れがあると思う。自分も、それが良いと考えており、実践しているつもりだ。みな同じ会社や集団の仲間だ、指揮命令関係があるとしても、個性を持った人間同士、互いを尊重して付き合おう、という趣旨だろう。思えば、私の同級生の40年以上前の発言も、こうした考えだった。相手を見下してはいけない、と。本当に素晴らしいやつだ。また、「さん」統一の理由には、「君」付けで後輩や格下のスティグマを与えないという上記の理由の外に、私自身はもう一つ、「面倒がないこと」を理由に挙げたい。消極的な理由だが、少々無理して積極的に言うなら、だれでも「さん」なら敬称の意味もうすれて、組織やポストでなく生身の人間の付き合い(ファーストネームで呼び合うアメリカ社会みたいに?)を促すかもしれない。実はいまの職場で、若手職員から、上司をポスト名で呼ぶのをやめて「さん」にしたらとの意見があった。私自身は賛成だ。たぶん、一定の時間つづければ慣れると思うが、「始め方」が問題だ。上から強制や誘導は下策だろう、何気なく若手から使って広まる仕掛けがうまくできないか。こどもの話、ジェンダーの話からそれてしまったが、これも一つのポジティブアクションだろう。
2026.05.05
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東日流外三郡誌で有名な和田家文書の経緯について。下記の文献をもとに。■原田実『偽書が揺るがせた日本史』山川出版社、2020年1 東日流外三郡誌の経緯(上掲書の第5章から、適宜当ジャーナル要約)『東日流外三郡誌』に代表される「和田家文書」は、寛政年間前後、三春藩主秋田家の親族である秋田孝季(たかすえ)が、義弟で津軽飯詰(いいづめ、現五所川原市)の庄屋でもある和田長三郎吉次(よしつぐ)とともに編纂した文書だという。吉次の子孫と主張したのが所蔵者の和田喜八郎(1927-99)であった。一般に知られるようになったのは、昭和50年から52年、市浦村が『市浦村史資料編・みちのくのあけぼのー東日流外三郡誌ー』全3巻として刊行してから。NHKは、喜八郎へのインタビューを含めて複数回テレビで放送。学界では、奥野健男(多摩美術大学)、新野直吉(秋田大学)、武光誠(明治学院大学)などが好意的に扱う。(ただし新野は後年、偽書であることに気づいて取り上げるのをやめたと述べた。)その内容は、神武東征で畿内を追われた耶(邪)馬台国の一族と津軽の先住民族、中国からの渡来人が混交した荒吐(あらはばき)族が、津軽に一大王国をたてて大和朝廷と対立した。中世には、荒吐族の流れをくむ安東氏が十三湊を根拠に栄えたが、興国元年(1340)もしくは2年の大津波で安東水軍が滅亡し、歴史は忘れられた、というもの東日流外三郡誌が話題になったのは、安東水軍に関する詳しい記述があったことが大きい。安東水軍と興国の大津波については、郷土史家の間で存在が唱えられながら、実在の証拠がなかったからである。県内の自治体や観光業者によって、東日流外三郡誌に出る史跡や寺社仏閣を観光資源として売り出す様々な試みが行われた。酒蔵が「安東水軍」の銘柄を採用した。さらに、山形県や秋田県でも、和田が提供した「古文書」や遺物に基づく史跡を「発見」して町おこしを行おうとの動きがあった。1990年代に入ってから、『東日流外三郡誌』の検証が進み、江戸時代の文書にはありえない用語や、官位、暦法の錯誤が続々指摘され、さらには明治期の写本と主張されたテキストの筆跡が喜八郎のものと判明し、偽書であることが明らかになった。また、1991年から93年の国立歴史民俗博物館の十三湊遺跡総合調査では、安東水軍や興国大津波の実在を示す証拠は一切発見されなかった。むしろ、十三湊は13世紀初めから15世紀半ばまで継続して港として機能を果たしており、繁栄のピークは14世紀半ばから15世紀初めであることもわかった。・国立歴史民俗博物館『中世都市十三湊と安藤氏』1994・青森県市浦村編『中世十三湊の世界』2004・十三湊フォーラム実行委員会『十三湊フォーラム』20041990年代には古田武彦が偽書説に反論したが、その論法は詭弁の域に入っている。町おこしに使おうとする自治体もなくなった。以上の経緯は、斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』2019、原田実『偽書が描いた日本の超古代史』2018、を参照されたい。2 壁の中から偽書が出てくる理由(上掲書の第18章から、適宜当ジャーナル要約)儒教の経典の一つ、『書経』(『尚書』)は、始皇帝の焚書坑儒の難に遭ったが、ふたたび世に出た経緯は、唐の孔穎達が編纂した『尚書正義』(『尚書注疏』)序などに詳しい。まず、秦代の学者伏生(伏勝)がひそかに家の壁に塗りこめたのが漢代に発見され当時の書体に書き直されたというのが「今文尚書」で、さらに、前漢に旧宅から多数の典籍が発見され、「今中尚書」に欠けている章も含まれていた(「壁中古文本」)。漢代には他にも複数発見され、それらは「古文尚書」と総称されるが、いずれも散逸した。東晋の代に、梅賾(ばいさく)が新たに「古文尚書」を発見。前漢の学者の孔安国による注とされるものまで付されていた。孔穎達はこれを真正と信じ、『尚書正義』の底本とした。しかし、梅賾発見のテキストには南宋代の学者から疑義が寄せられ、明清代の学者の考証もあり、今では偽作が判明している。以上の『書経』伝来のエピソード、すなわち、旧家に隠されていた本、あるいは、弾圧された文献を建物に隠した、などのパターンが、のちの様々な偽書の由来となっている。和田家文書については、喜八郎の話では、昭和22年から23年頃、自宅の天井を破って屋根裏から落ちてきた長持の中から古文書がまとまって出てきたという。そして、寛政年間の人とされる秋田孝季は、その内容は津軽藩の許しが出ないので門外不出にせよと戒めており、明治の人である和田末吉は、万世一系の皇統を否定する内容が明治政府に知られると弾圧されるから、自由民権の世まで秘匿するよう誓わせた、という文書になっている。そもそも喜八郎宅には、天井裏に物を隠す空間は存在しておらず、由来譚そのものが創作であった。壁の中や天井裏などの封印された空間は、トリックの小道具としての箱の役割を果たしたといえよう。3 真贋論争(上掲書の第28章から、適宜当ジャーナル要約)1990年代初頭、東日流外三郡誌の真贋論争で、近世成立説に固執して擁護の論陣を張ったのが、古田武彦(昭和薬科大学)である。古田にとって、偽書とは、当人が偽りと知りつつ他に真実と信ぜしめる行為としての造文・成書である。そこから、著者がその内容を真実と信じている『東日流外三郡誌』は偽書ではないとする。むしろ、日本書紀こそ、7世紀までの倭国と8世紀以降の日本国の断絶という(古田が想定する)史実を隠ぺいするから偽書である、と主張した。4 偽書は体制批判として有用な意義があるのか(上掲書の第30章から、適宜当ジャーナル要約)偽書であっても内容が虚偽とは限らないとして、天皇制国家及びそれに随順するアカデミズムによって隠蔽された真実がその中に伝わっている、という擁護論が歴史ファンによって展開された。しかし、それは自分の好みに合わせて、偽作者たちの思いもよらない読み方を新たに創作したものである。更に進んで、偽書はその存在自体が権力の欺瞞を暴くものだとする考え方もある。その代表が北山耕平氏である。北山は、歴史は人の数だけあるという考えにたち、歴史は一つとするファシズム的な考え方を解体することが重要であるとする。たとえば、東日流外三郡誌は蝦夷の視点からの歴史であり、国家が押し付ける万世一系の虚構を解体する上で有効だと説く。しかし、北山のように歴史書はすべて偽書とみなして使用価値を相対化することは、結局、恣意的な解釈の横行を許すものでしかない。東日流外三郡誌はあくまで20世紀の和田喜八郎の創作にほかならず、それを忘れられた人々の精神を記したとみなすのはあくまで北山の恣意である。歴史書は、それ自体は、確かに事件の時点の当事者が書いたものではないとしても、その記述の妥当性は一次史料や金石文や考古学的資料で証拠は求められる。偽書を珍重する姿勢は、史料事実よりも自分の好みを優先する態度にほかならない。■関連する過去の記事 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日) 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十万都市だった十三湊(2014年4月29日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その4)(2013年8月18日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その3)(2013年8月15日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その2)(2013年7月25日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その1)(2013年7月20日) 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 壮大なニセ歴史ロマン(07年5月27日)
2026.08.06
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前回に続き、中世の館について。大和町の八谷(はちや)館と御所(ごしょ)館跡。下記出典に、宮城県内中世の城の代表例として紹介されている。写真が出ている城跡は八谷館で、文章で紹介されているのが、御所館だ。■関連する過去の記事 東北の「館」を考える(2011年9月25日)■佐々久編『郷土史事典 宮城県』昌平社、1977年から(「県内1000カ所に残るつわものどもの夢の跡」の項)御所館の説明だ。------------御所館は大和町の北東部にあり、仙台平野及び松島方面から大崎耕土に通じる交通の重要な地点に位置している。館は谷をとり囲む標高60メートルの小丘陵の尾根を利用した東西300南北400メートルほどの馬蹄形を成す大規模な山城的な城館である。館の内部には尾根を削って造った多数の郭があり、それぞれの郭は急峻な崖、堀切(空堀)、土塁で区画されている。それらの郭は通路や土橋によって連絡され、その入り口には門がある。発掘調査された面積は館跡全体の3分の1に過ぎないが、多数の掘立柱建物跡群、土倉(倉庫)、井戸、通路、土橋、門、空堀、土塁などが検出されるとともに、時に応じて改築された状況もよくわかり、迫力のある中世城館の姿を出現させた。また、中国製青磁や白磁をふくむ多数の陶磁器をはじめ、硯、古銭、石臼、青銅製小仏塔、鏡、漆塗椀、刀、釘など当時の生活をなまなましく伝える各種の遺物が発見された。この遺物の年代によって、御所館跡の年代も室町時代中・後期と推定することもできた。------------さて、この文章の御所館、そして写真の八谷館とは、どこだろうか。大和町のホームページに解説がある。「八谷館跡は、室町時代後期の豪族館跡です、東北自動車道建設に際して発掘調査が行われ土塁や空堀、建物跡が多数発見されました。現在では、館跡の南部が公園に姿をかえ、町民の憩いの場として親しまれています。七ツ森眺望に絶好の場所でもあります。」そして、「東日本大震災の影響により、現在、公園には立ち入ることができません。」とのことだ。
2011.09.30
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三閉伊一揆(三閉伊通一揆)は弘化から嘉永年間の藩政末期に起こり、農民側が勝利するという我が国民衆運動史上珍しいケースだ。盛岡藩は領内を33の「通り」に分けて統治し、このうち閉伊郡と九戸郡の一帯は、大槌通、宮古通、野田通の3つの通から成っていた。これらを三閉伊通と総称したことから、三閉伊(通)一揆と呼ばれる。1 弘化三閉伊一揆 天保7年(1836年)から翌年にかけて盛岡藩領北上川流域の各地で打ち壊しを伴う激しい一揆が続いた。藩は横沢兵庫を家老に抜擢して財政改革に乗り出す。商工鉱業の振興で増収を図る一方、天保14年(1843年)から五年間は一戸1貫800文の御用金を徴収する代わり他の御用金は課さないとした。ところが弘化4年(1847年)にこれに反して新たに御用金を課した。しかも、林業、鉱業、漁業、塩業などに豊かな三閉伊通に偏った賦課であったため、同年11月17日に野田通の各村から一揆が始まった。 一揆勢は20日には500余人となって大芦(田野畑村)に、さらに南下し乙茂、小本などを経て21日に小堀内(宮古市)まで進み、18日に田老村を出発した組と合流、一揆勢は千人を超えた。23日には二升石村(岩泉町)からスタートして野田通で仲間を集めた勢力とも合流。 一揆の頭取(最高指導者)は閉伊郡浜岩泉村切牛(田野畑村)の百姓で佐々木弥五兵衛。70歳近い高齢だが、肝が座り体も頑健で、小本の祖父(おど)と呼ばれた。既に天保の藩政改革の前から十数年にわたり領内を歩き村々のリーダー格の家に泊まっては一揆を説いて回ったという。三閉伊の人々が蜂起し合流したのは、弥五兵衛の事前調整による組織化のためだ。弥五兵衛はときに集団を先回りして村々に参加を呼びかけたと言われ、周到で計画的な行動力があった。 11月24日一揆勢は役人の阻止を突破し宮古通代官所のある宮古町に押し入る。ここで酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ち壊している。恨みのない隣家には手を出すななどと叫んで回る声があったとされ、統制がとれていたことを示すと思われる。若狭屋は門村(岩泉町)の山師佐藤儀助の出店で、嘉永の一揆は佐藤儀助にも押しかけているので、若狭屋に対する「恨み」とは鉱山事業に関わるトラブルのようだ。 27日に大槌通山田町に入った一揆勢は1万人を超える。29日代官所のある大槌町では1万6千に増加。大槌を出て南下した一揆勢は和山峠越え、笛吹峠越え、仙人峠越えの三手に分かれ、遠野町に向かう。遠野を目ざしたのは南部氏一門の南部弥六郎を通じて要求実現を図ろうとしたものである。一揆勢は仙台藩領への逃散を標榜していたのを遠野に進路変更したともされるが、弥五兵衛ら指導者はまず遠野南部氏に訴え、ダメなら仙台藩主に訴え、さらに失敗したら幕府に直訴するとの三段構えだったともされている。 一揆勢は12月4日までに遠野町の早瀬河原に集結。ここでは5千人ほど減って1万1千人。みぞれ降る寒さに遠野町が食事を供出したという。12月3日に盛岡から派遣された南部土佐の説得を拒否、弥五兵衛は4日、南部弥六郎の家老新田小十郎に25ヶ条の願書を提出。願書は、安家村(岩泉町)の農民俊作が書いた。願書の中心は三閉伊通の御用金約8千4百両の免除など。 意外にも南部土佐は御用金免除など12ヶ条は即座に受諾したため、5日に一揆勢は解散。 一揆勢が「横沢という沢の人を喰らう悪狼」と呼んだ藩家老横沢兵庫は免職され、藩主南部利済(としただ)も隠居せざるを得なかった。2 弘化三閉伊一揆のその後 弥五兵衛は解散直後の年の暮れから、早くも再決起に向けて村々を回って、一戸一文のカンパを募っていたという。弥五兵衛は藩の回答どおり実行されるか不安をもっていたといわれ、兼ねての三段階戦略からすれば次の段階に進んで要求実現を考えていたようである。 弘化5年(1848年)1月に果たして盛岡藩は約束を反古にする姿勢を示す。弥五兵衛は三閉伊に加えて遠野や北上川流域にもオルグ活動を広げ、藩により二子通の上根子村(花巻市)で逮捕され同年(嘉永元年に改元)6月15日盛岡で獄死する。斬首とも伝えられる。 してみると南部土佐の即決回答が、本藩に受け入れられなかったのか、或いは最初から騙して解散させた後に指導者をおびき出す作戦だったのかも知れない。 同じ嘉永元年(1848年)6月南部利義(としとも)が藩主となるが隠居した利済が実権を放さず、長男利義を一年で退位させ次男の利剛(としひさ)を藩主にするなど、院政を継続し、弘化一揆の領民の声を無視して御用金賦課を押しつけた。 安家村の俊作は嘉永元年10月に逮捕され、盛岡で投獄の後嘉永3年に北郡田名部通の牛滝(青森県下北郡佐井村)に流罪。3 嘉永三閉伊一揆 嘉永5年(1852年)三閉伊の百姓たちが仙台藩領に逃散する動きが始まる。同6年には盛岡藩が新たな御用金を村々に賦課。同年3月から4月に野田通や大槌通の村人が蜂起しかけたが、頭取である袰綿(ほろわた)村(岩泉町)の忠兵衛の急死で中断。5月19日野田通田野畑村の人々が決起。仙台領に手間取り(出稼ぎ)に行くとして参加者を募りながら進行した。 一揆勢はまず北に向かい野田の鉄山役所を打ち壊した後、内陸寄りに南下、26日に上田通の門村の佐藤儀助宅に押しかけ闘争資金5百両を貰い受ける。藩による鉄山事業関連の課役が領民の負担であったことを思わせる。 一揆勢は東進し、袰綿、岩泉、乙茂、小本と海岸部に出て南に転じる。小本村に入った28日には三千から四千に増加。29日には宮古町で佐藤儀助の出店だった商人刈谷勝兵衛宅を打ち壊す。6月2日に宮古を出る頃は1万人を数える。3日に大槌町に押し寄せたが、大槌通代官所の役人は全員逃走したという。 嘉永6年6月5日一揆勢は仙台藩境に近い釜石村に到着。大槌通の参加者を含めて総勢2万5千人。6日に指導者は参加者の約半分を帰村させ、約半数の勢力で越境し気仙郡唐丹村(釜石市唐丹町)に入る。 嘉永三閉伊一揆の中心的指導者は田野畑村の畠山太助とされる。しかし大集団をひとり太助だけが統率できたはずがなく、一揆勢は見事な指揮系統を整えていた。参加者は各村の頭取たちによる合議による作戦で、組織的に行動した。頭取集団は「小○」の大幟を掲げて、大旗本組、本陣組と呼ばれた。この指導部の周囲を、若者集団が警護に当たった。一揆勢は出身の村ごとにまとまり、それぞれの旗の下に進んだ。指揮命令が通りやすく、また不審者が紛れ込まないようにしたとされる。 参加者は叺(かます)(藁筵の袋)を背負って参加し、法螺貝の合図で出発したので、一揆のことを「貝吹き」や「叺背負い(かますしょい)」と呼んだ。 仙台藩領に入った一揆勢は、大綱三ヶ条なる仙台藩主宛願書と盛岡藩の政策の改善を求める四十九ヶ条の訴状を提出する。三ヶ条とは、藩主に南部利義を復帰させること、三閉伊を仙台藩領とすること、あるいは天領にすること。このように百姓が藩主を否定する要求を公然と掲げたのは一揆史上画期的なことである。 四十九ヶ条の訴状は、貢租納入方法の改善、御用金賦課への反対、金上侍制度の否定、など。 これを受けて唐丹村で両藩の交渉が行われ、盛岡藩は一揆勢の引渡を求め仙台藩は拒否。仙台藩としては、かつて天保8年に盛岡藩領からの越訴の百姓たちを引き渡した際に、盛岡藩が約束を破って頭取を処刑したことがあったためとされる。 おりしも嘉永6年6月のペリー来航で諸藩は警備兵の派遣を命ぜられ、仙台藩も千五百を派兵することになり仲介交渉どころではなくなる。一揆勢も大人数が留まる余力はなく、45人の代表を残して、三千人は帰村する。(仙台藩領に逃散した人数は当初一万数千から順次縮小していたことになる。)四十五人衆は畠山太助、栗林村(釜石市)の三浦命助などを含め、村々から代表を選んだ。一揆参加者は25日、三閉伊通惣百姓中の名で太助や命助らと契約を結び、もし代表者たちが命を落とせば年に十両づつ十年間遺族の養育費を渡す、などを約した。 7月になると盛岡藩も譲歩姿勢を示すが、実際には遠野の役銭取立所を再建し、南部弥六郎を要職から排除し、利済の院政下で領民負担増を進めようとしたため、三閉伊通の百姓は素早く行動し、7月8日遠野役銭取立所を打ち壊す。10日には仙台領の四十五人衆が故郷の各村に決起を呼びかける。12日に大槌通から250人が仙台領に逃散、18日には野田通で決起、宮古通と合わせ3千5百人が宮古に迫った。 盛岡藩は遂に発砲に踏み切り、一揆勢に死傷者を生じる。8月にかけて農民の不満は雫石通、五戸通、三戸通、沼宮内通、福岡通、田名部通にも及ぶ。 仙台藩も黙っておれなくなり、四十五人衆を気仙郡盛町に移し、さらに9月には仙台城下に移した。亡命指導部と南部領内の各村を断ち切ることで、南部の騒動を煽っているとの批判を避けようとしたと思われる。一方で仙台藩は幕府に報告する旨を盛岡藩に通告。動揺した盛岡藩は9月21日一揆勢の要求の多くを受諾。10月4日には負担増政策を進める石原汀と田鎖茂左衛門を罷免。翌日南部弥六郎を藩大老に復帰。さらに10月9日には一揆勢の残りの要求も受け入れた。 南部弥六郎は四十五人衆の身柄を引き取るため仙台城下に赴き、帰村を促すが、四十五人衆はさらに粘り、上納金は直納とすること、三閉伊の百姓の借金返済を30年の年賦とすること、一揆参加者を逮捕しないことなどを求める。南部弥六郎はほとんどを認め、一切咎めをしないとの安堵状を手渡す。30年年賦こそ認められなかったが、返済を督促しないよう貸し主に触れを出すと約束したので、一揆勢の全面勝利と言える。 そして南部弥六郎は約束を守った。一揆参加者に何の処罰もせず、俊作らも釈放され帰村。 他方で盛岡藩は藩役人二百数十名を処分。南部土佐、石原、田鎖のか、休職中の家老横沢兵庫なども含まれた。南部利済は幕府によって江戸下屋敷謹慎を命じられた。参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年
2008.01.07
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仙台とコレラの歴史について。阿曽沼先生の著作を読んで記す。■参考阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)1 明治15年の仙台コレラ流行と水の森の碑文緑豊かな水の森公園。水の森市民センターを起点とする散策路を150歩ほど北進すると、左手に、「叢塚」が建つ。さらに60歩ほど奥の散策路分岐部には、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」がある。276人の供養碑である。叢塚には漢文で碑文が刻まれている。以下が解読文である。明治15年7月、虎列刺(コレラ)疫が盛行し、宮城県仙台区の病死者日に十余名に上る。官は荒巻邨(村)に場を設けて死屍を火(焼)き、壇(檀家)の埋葬を許さず。蓋し伝染を防ぐなり。虎列刺疫は、印度に原出し、遂に我が邦に侵入して愈東に熾んなり。宮城県の此の疫あるや、今茲に始めと為す。疫の本は有機毒性為りて尤も酷烈にして熱度沸湯に至らざれば則ち撲滅せずと聞く。凡そ、飲水の不浄庭宇の不潔、及び魚鳥果菜、調理を失うの類は必ず其の種を遺す。故に飲食の選択、庭宇の麗掃、最も不可なるは以て心を用いざるべからざるに夫婦の愚かなるは衛生の何物為るを知らず、恬然として省みず。遂に毒を使わし焔炎々として嚮邇すべからず(向かい近づくのを止められない)。是自ら招くところの者有りと雖も豈に亦憫ならずや。今や秋気清爽、呻吟の声熄(や)むも当時を回想すれば実に人をして身戦(おのの)き心悸(おそ)れしむ。其の惨を極むと謂うべし。荒巻邨は仙台区の北に在り。場を設けて自り以来、屍276名を火(焼)く。火く毎に親戚遺骨を収めて之を葬る。然れども余骨灰中に現存する者堆積す。宮城県士族邨上左膳君之を哀れみ、叢冢を築き、遺骨を収めて合葬し、又碑を建てて永く香火の地と為す。義を好む者争って貲を捐して之を助け、余に嘱して之を記せしむ。嗚呼、君の此の挙、祭吊(弔いの祭)に礼情有りて義の尽くるに至ると謂うべきなり。死者霊有らば宜しく泉下に瞑すべし。是に於いて書す。明治15年11月 西岡逾明撰并書干時明治15年12月建之 発起人世話人8人邨上左膳なる人物の詳細は不明である。西岡逾明(ゆめい)は肥前佐賀の生まれで字は子學、宜軒と号した司法官。明治14年宮城県控訴院長に任ぜられ、のち大審院刑事局長、長崎、函館控訴院長を歴任した。西岡は文学を愛し、仙台在任中は維新後衰退した仙台文学を発揚した文人でもあった。2 過去のコレラの歴史コレラは経口感染する法定伝染病。潜伏期間は早ければ数時間から5日以内、猛烈な水様便と嘔吐で急速に脱水症状が進む。腹痛や発熱はなく、血行障害、血圧低下、筋痙攣を起こして死に至る。現在では補液などの適切な対処を行えば死亡率は1%から2%に過ぎないという。『宮城県史』の災害編には、疫病を含む多くの災害が記録される。・寛永6年(1629) 暑熱・疫病・享保19年(1734) 洪水・疫病・安永3年(1774) 気仙郡疫病・死者2,107人・寛政2年(1790) 疫病死者多し・寛政5年(1793) のどはれ流行・死者多し・享和2年(1802) 疫病流行・享和3年(1803) 麻疹流行・死者多し・文政7年(1824) 麻疹流行・死者多し・天保元年(1830) 痘瘡流行・子ども多く死す・天保2年(1831) 感冒流行・天保3年(1832) 朝鮮風邪流行・天保6年(1835) 夏中疫病流行・死者多し・天保8年(1837) 流行病者多数・安政元年(1854) 痘瘡流行・安政5年(1858) 天然痘・コレラ病流行・安政6年(1859) コレラ病激烈・文久2年(1862) 麻疹流行・死者多し・明治15年(1882) コレラ大流行・屍体は焼却病名が記載された最初は、寛政5年の「のどはれ」である。その後、麻疹、痘瘡(天然痘)、朝鮮風邪などがあるが、コレラが最初に記載されたのは安政5年である。日本のコレラ流行の最初は、コッホのコレラ菌発見の60年ほど前の文政5年(1822)とも言われる。この年は、朝鮮、対馬、九州、山口、京都や大阪の経路で流行し、朝鮮では4万人、対馬は全滅、萩583人、岸和田134人、大阪では毎日ニ三百人が死亡したという。安政5年(1858)は、九州、中国、東海道、江戸、そして仙台藩へ伝播したと考えられる。江戸の死者は30万人を越したといわれる。西岡は碑文の中で酷烈な伝染力を記し、衛生知識のないことが死を招いたと断じている。3 火葬について火葬はユダヤ教、イスラム教、ギリシャ正教やロシア正教では禁じられている。米国ではプロテスタント保守派で禁忌が強いこともあって火葬率は20%ほどだという。日本では、仏教伝来とともに伝わったという説が有力。これは仏陀が火葬されたことに因むと言われており、日本の火葬率は高いそうだ。明治政府が衛生面から推奨したことにもよるという。しかし昔は土葬が主で、火葬が主流になるのは昭和もずっと後である。何かで火葬の必要があるのに常設の火葬場がないときは、場所を決めて野焼きを行った。火葬が法律で決められた当時は、あの世に行けなくなると、施行前に自殺が相次いだそうだ。焼かれることが大変な苦痛だったからこそ、この碑を建てた人の心が顕彰され、人民の心は別に伝染防止のため集めて焼いた「官」の英断も賞賛されよう。
2022.09.19
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どうも気になっている。土曜日の朝日新聞(宮城)に、小学校の先生の紹介があって、良い内容なのだが、小学校名を誤って表記していた。富谷町の富ケ丘小学校を、「富ヶ岡」と表記していたのだ。(この際、ケとヶの区別は無視しましょう。)恐らく、紙面を手にした人は気づき、特に地元の方はガッカリしたのではないだろうか。もっと困るのは、大新聞だから誤りはないだろうと、これが正しいと信じている人がむしろ多数かも知れないことだ。私の勘違いかと思って何度も確認したが、やはり誤字だ。そして、昨日(日曜)も、わざわざ現物の紙面を読んでみたが、訂正などの説明はなかった。どこからか必ず連絡は入っていると思うのだが、敢えて訂正など書かないのだろうか。絶対に書くべきだ。義憤に駆られやすい若い頃なら、すぐ電話したところだが、さてどうしようか。
2010.01.11
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巻き貝には右巻きと左巻きがある。個体によるのではなく、種によって決まっているのだが、水生のものは右巻きが圧倒的。カタツムリなど陸生のものも、右巻きが主流だそうだ。しかし、近畿東部から東北にかけての地域には、左巻きの種が存在する。ミカワマイマイ、ムツダリマキマイマイ、ミチノクマイマイ、など。そもそも、カタツムリなど陸上に進出した巻き貝の殻は、さほど固いものではなく、捕食者から身を守るというより乾燥から身を守るためのものだ。肺で呼吸するように進化したとは言え、乾燥を避けるために殻で身を覆い、夜か、雨の昼間に活動するのである。■竹内久美子『千鶴子には見えていた!』文藝春秋、2007年 を参考にしています。検索してみると、左巻きのものでは、ムツヒダリマキマイマイ、イワデマイマイ、ナンブマイマイ、ミチノクマイマイ、エチゴマイマイ、トビシママイマイ、ヘグラマイマイ、など北陸から東北にかけて分布している。殻を作るためのカルシウムが必要のため、石灰岩地帯、城跡、社寺、雑木林などに生息地が限定されている。このような事情のために、一定の地域にのみ生息する固有種、つまり地域の名称を冠した「ご当地カタツムリ」なのか、とも思ったが、ムツヒダリマキマイマイは、秋田県や宮城県でもみられるのだそうだ。なお、ヒダリマキマイマイというのは関東から東北南部に一般にみられる左巻き種。アオモリマイマイというのがあるが、東北地方の種には珍しく右巻きなのだそうだ。カタツムリの貝の巻き方など、考えたこともなかった。
2013.09.07
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荒巻地区の宅地開発と団地の愛称について、地域の資料を読んで記した(下記12月14日記事)。秀衡街道を歩いて「うぐいす丘町内会」の看板を目にしたが、団地の愛称が町内会名に受け継がれたものも多いだろう。そこで、町内会の名前を調べてみた。(仙台市公式サイトから)●荒巻地区町内会連合会(単位町内会数35)葉山町内会,葉山親交会,荒巻みのり会,通町北裏青葉会,二月会,中才町内会,荒巻もみじ会,荒巻親睦会,荒巻北杜会,荒巻みどり会,荒巻親和会,ハイライフ北仙台町内会,神明会,山手町内会,手戸連合町内会,北山団地町内会,菊田町町内会,荒巻本沢西部町内会,荒巻本沢中区町内会,荒巻中央町内会,荒巻北区町内会,荒巻東親睦会,グリーンプラザ自治会,西あけぼの町内会,東あけぼの町内会,堤町西裏町内会,新堤町町内会,堤町共栄会,青睦会,北山泉会,北山青峯会,津々美自治会,ライオンズマンション山手町町内会,ダイヤパレスヒルズ山手森町内会,モナミすみれ会●北仙台地区連合町内会(20)荒巻泉ヶ丘町内会,水の森町内会,うぐいす丘町内会,森が丘町内会,杜の里町内会,平和台町内会,あおば自治会,ひばりケ丘町内会,幸福ケ丘町内会,白鷺町内会,第二勝山町内会,勝山町内会,こだま町内会,大山団地町内会,藤森町内会,鷺ヶ森むつみ会,双葉ケ丘西町内会,双葉ケ丘町内会,※北根地区親和会,※北根町内会(※は台原北部連合町内会にも)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史) 荒巻地区の新町名と宅地開発史(2025年12月14日) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)■関連する過去の記事(中山街道、秀衡街道、その周辺地域) 古海道東の公園たち(荒巻地区)(2025年12月07日) 中山、北中山、南中山(2025年01月07日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 人口ゼロの北根村(2015年11月8日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)
2025.12.26
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仙台地方のわらべうたを採録した本によりますと、「いろはに金平糖...」というタイトルで、例の歌が載っています。 いろはに金平糖。金平糖は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはウサギ...下の娘が気に入って、すぐに全部覚えてしまいました。上の娘(小三)は知らないというので、今は学校の友達同士で歌う遊びはしていないのでしょう。私も懐かしいのですが、実は子供の頃を過ごした岩手県では、ちょっと違いました。出だしがまず違います。 さよなら三角、また来て四角。四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ...というのが定番です。最後の「光るはオヤジのハゲ頭」は同じです。途中のパーツも共通のものもあれば、違うものもあります。この本にも2つのバージョンが収録されていて、途中のパーツが微妙に違っています。例えば、本には「怖いはオバケ、オバケは電気」あるいは、「怖いは屋根、屋根は高い」などが途中に出てきますが、私の記憶には「オバケ」や「屋根」は出てきません。おそらくは、全国共通のモト歌があって、地域ごとに子供たちが面白く修正して伝えられたのでしょう。そういえば、母親が歌っていたのも、ところどころ違っていたように思います。先日、我が家の決まりの就寝時刻である夜9時に寝るとき、子供たちと順番にしりとりのようにして、「○○は△△」「△△は□□」とやりましたが、結構盛り上がりましたよ。子供にとって言葉の世界がどう捉えられているか伺えたりして、面白いです。
2005.12.11
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登米市米川の町を、小学校のあたりで西郡街道から国道456号に分かれて、やや北に向かうと、綱木地区に出る。道脇に綱木農村公園(綱木親和会館)があり、小高い山に登ると、海無沢の三経塚がある。1720年頃処刑された殉教者の亡骸は、経文とともに3か所に埋葬され、松を植えたと伝えられている。海無沢、朴の沢、老の沢の3か所で、老の沢経塚は訪れる人もない。海無沢の小高い山上では毎年6月第一日曜日にキリシタンの里祭りが行われ、多くの信者が山上青空ミサに集い、殉教者の心に思いを巡らせる。また、この殉教地の下にある広場では地元の芸能や市が奉納される。(カトリック米川教会のパンフレットから)綱木沢の海無沢、朴の沢、老の沢(経の森)に鉱山があって、大籠、保呂羽方面から多くのキリシタン並びに類族達が来て働いていた。享保年間のキリシタン弾圧の時召しとらえ、はりつけにされ処刑された。その遺体が、40人ずつお経と共に三か所に埋められた。これが、三経塚と呼ばれていたが、朴の沢、老の沢の松は切られ、塚は掘られ、原形をとどめているのは、この海無沢の塚一つとなっている。1639年から40年、近くの大籠(岩手県藤沢町)で約300名が殉教する。大籠は仙台藩の製鉄の場で、備中から信者の千松兄弟を招いて技術指導をさせていたために、地区にキリシタンが広まっていた。その80年後に綱木地区の狼河原で120名が殉教する。密告によるものだったという。弾圧の史実は1952年に米川の旧家で古文書により判明したものである。■関連する過去の記事 カトリック米川教会(2010年11月9日)
2010.11.11
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一昨日(7月26日)は、宮城県内で初めてのレベル4となる「レベル4土砂災害危険警報」が七ヶ宿町に出たほか、レベル3大雨警報が出て、石巻市や南三陸町で避難指示が出た。また、栗原市と登米市では、川の増水情報をもとに避難指示を出している。ここで、今年5月から始まった「新たな防災気象情報」のしくみを中心に、情報提供の意味や避難行動との連携について、正しくかつ効率よく理解しておこう。今回の大雨に際して、スマホで知る防災関係情報の意味について、戸惑った人も多いのではないか。以下、当ジャーナルによる解説である。1 今年から始まった「新たな防災気象情報」について(1)気象庁のサイトから・新たな防災気象情報(気象庁サイト)・よくある質問(同上)(2)令和8年5月29日に運用開始(3)趣旨は以下の通りだ。・河川氾濫、大雨、土砂災害、高潮に関する情報等は、これまで警戒レベルとの対応がわかりにくかった。今回の改善で、避難情報の5段階の警戒レベルに対応し、避難の判断をしやすくした。例えば、従来の「大雨警報」は「レベル3大雨警報」と、レベルの数字と一緒に情報を伝える。レベル4やレベル3の情報が発表された場合は、キキクルや河川の水位情報等の情報を確認して早めの避難を心がけてほしい・河川毎に発表する河川氾濫に関する情報は、1級河川などの大きな河川に限って発表される(4)しくみ・名称を「レベルの数字+現象名+警報等」の構成で統一。例:レベル4土砂災害危険警報・レベルは5段階。・警戒レベル1(白) → 早期注意情報 =発表者は気象庁・警戒レベル2(黄) → (災害種別:河川氾濫)レベル2氾濫注意報、(大雨)レベル2大雨注意報、(土砂災害)レベル2土砂災害注意報、(高潮)レベル2高潮注意報 =発表者は、大雨・土砂災害は気象庁。氾濫は、気象庁と国or県の共同。高潮は、気象庁、または三者共同・警戒レベル3(赤) → レベル3氾濫警報、レベル3大雨警報、レベル3土砂災害警報、レベル3高潮警報・警戒レベル4(紫) → レベル4氾濫危険警報、レベル4大雨危険警報、レベル4土砂災害危険警報、レベル4高潮危険警報・警戒レベル5(黒) → レベル5氾濫特別警報、レベル5大雨特別警報、レベル5土砂災害特別警報、レベル5高潮特別警報・図 新たな防災気象情報の概要(5)避難行動との関係・住民が直観的に理解できるよう、5段階の数字(警戒レベル)とした。避難指示等の発令がなくても、(キキクルや河川水位情報をもとに)自主的に避難の判断を(6)当ジャーナル補足。タイムラインに沿った情報提供に基づく防災意識や避難行動を重視している(突然生じる津波等は対象外)(7)洪水関係での主な変更点(水防関係者向けパンフレットから)・河川氾濫のレベル5相当情報として、氾濫通報制度を新たに運用・新たな防災気象情報は、国土交通省HP、「川の防災情報」で確認可能(8)「洪水」(法令上)は「氾濫」と表現する。(9)キキクルについて。・キキクル・5つの事業者が気象庁と連携してサービス(気象庁の解説)(10)当ジャーナル補足。現実にどう情報を取得できるか・気象庁サイトの「防災情報」(気象情報、時系列情報、キキクル、雨雲など効率よく検索できる)・宮城県「宮城県防災情報ポータル」2 防災気象情報と避難情報の関係(自治体の避難指示等との連携関係)・避難情報に関するガイドライン(令和8年3月、内閣府防災担当)・避難勧告等のしくみの経緯は、上記資料の「はじめに」に整理されている・このガイドラインを参考に、各市町村が高齢者等避難、避難指示、緊急安全確保(以下「避難情報」 の発令基準、伝達方法、防災体制等を検討するもの。なお、より高度又は臨機応変に運用できる発令基準・伝達方法・防災体制等を有している市町村においては、本ガイドラインに縛られない・災害対策基本法56条 =市町村長による警報の伝達および警告・同法60条 =市町村長による避難の指示等(立退きの指示、避難場所の指示、緊急安全確保措置の指示)・市町村は、防災気象情報を、警戒レベルと関連付けられた「警戒レベル相当情報」として、これを参考として発令基準を検討する・「高齢者等避難」(災対法56条2項=市町村長が、避難に時間を要する高齢者等の要配慮者が円滑かつ迅速に避難できるよう配慮) →これを根拠に市町村長は、警戒レベル3高齢者等避難を発令・なお、以前の「避難準備・高齢者等避難開始」は「高齢者等避難」とされた・「避難指示」(災対法60条1項=災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、市町村長は、必要と認める地域の必要と認める居住者等に対して、立退き避難を指示することができる) →これを根拠に市町村長は、警戒レベル4避難指示を発令・なお、従前の「避難勧告」と「避難指示(緊急)」を、統一した・なお、(防災気象情報の4つの災害種別とは異なり)突発的に起こる津波については、「避難指示」を発する・「緊急安全確保」(災対法第60条第3項=災害が発生し、又は切迫する場合、市町村長は、指定緊急避難場所等への立退き等がかえって危険なおそれがある場合等において、必要と認める地域の必要と認める居住者等に対して、緊急安全確保を指示する) →これを根拠に、市町村長は警戒レベル5緊急安全確保を発令・図 警戒レベルの一覧表(ガイドラインp27)から3 防災気象情報(警戒レベル相当情報)と避難情報の関係 - 詳細・やや複雑(1)水位情報がある場合。・大きな河川について、「指定河川洪水予報」が、予報区域(指定河川洪水予報)ごとに発表される。予報区域は一般に数kmから数十kmと、広い区域を対象に発表されるものであるため、よりきめ細かな単位で洪水の危険度を把握したい場合には、国管理河川であれば「3.3.1(3) 国管理河川の洪水の危険度分布(水害リスクライン)」を参照・具体的には、・氾濫注意水位(レベル2水位)に到達し水位上昇見込まれる →レベル2氾濫注意報(警戒レベル2)・避難判断水位(レベル3水位)に到達し水位上昇見込まれる →レベル3氾濫警報(警戒レベル3相当情報[洪水]) ・氾濫危険水位(レベル4水位)に到達したとき、あるいはまもなく氾濫危険水位を超え上昇が見込まれる →レベル4氾濫危険警報(警戒レベル4相当情報[洪水]) ・ 氾濫が発生又は切迫したとき(氾濫発生水位(レベル5水位)に到達、施設機能の喪失、など)→レベル5氾濫特別警報/レベル5氾濫発生情報(警戒レベル5相当情報[洪水])・「水位周知河川(流域面積が小さく洪水予報を行う時間的余裕がない河川)」については、「水位到達情報(河川)」が国・都道府県から発表される。 発表区域は一般に数kmから数十kmと河川により異なる・具体的には、・氾濫注意水位(レベル2水位)に到達 → レベル2氾濫注意情報・避難判断水位(レベル3水位)に到達 → レベル3氾濫警戒情報(警戒レベル3相当情報[洪水])・氾濫危険水位(レベル4水位)に到達 → レベル4氾濫危険情報(警戒レベル4相当情報[洪水])・氾濫が発生または切迫したとき → レベル5氾濫発生情報(警戒レベル5相当情報[洪水])・他に、国管理河川の洪水の危険度分布(水害リスクライン)(警戒レベル2相当~5相当情報)、県が発するレベル5氾濫発生情報(警戒レベル5相当情報[洪水])(2)水位情報がない場合・気象庁が発表する洪水キキクル(=水位情報がないような中小河川における1kmメッシュ毎の「実況又は3時間先まで」の洪水の危険度を表示)をもとにする・「洪水キキクル」が「注意(黄)」(警戒レベル2相当情報)・「洪水キキクル」が「警戒(赤)」(警戒レベル3相当情報) ・「洪水キキクル」が「危険(紫)」(警戒レベル4相当情報) ・「洪水キキクル」」が「災害切迫(黒)」(警戒レベル5相当情報)・他に、気象警報等(大雨、警戒レベル2~5相当)、県が発するレベル5氾濫発生情報(警戒レベル5相当情報[洪水])(3)雨水出水に関する情報【抄】・気象庁が発表する浸水キキクルをもとにする・他に、気象警報等(大雨、警戒レベル2~5相当)、水位到達情報(下水道、レベル4のみ)=県or市町村が発表、県or市町村が発するレベル5氾濫発生情報(警戒レベル5相当情報)(4)土砂災害に関する情報【抄】・気象庁が発表する土砂キキクルをもとにする・他に、気象警報等(土砂災害、警戒レベル2~5相当)(5)高潮に関する情報【抄】・気象警報等(高潮、警戒レベル2から5相当)=気象庁が発表。なお、高潮予報海岸(国民経済上重要で国土交通省が指定)は気象庁・国・県の三者共同・他に、レベル5高潮氾濫発生情報(警戒レベル5相当情報のみ)=国or県から発表(6)図による説明(当ジャーナル注。原典では2段目の図が1段目の図の左に(矢印でつながるように)位置している。)4 以下、ガイドラインでは発令基準、情報伝達、避難、平時の普及啓発などについて非常に詳しく述べている。・当ジャーナル補足。今後、本記事を改訂するかも知れません。
2026.07.28
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今朝も冷え込んだ。仙台は未明からマイナス4度の寒さ。ちょっと風も出ている。県内では、米山でマイナス11度となり、駒ノ湯を上回る寒気だ。ところで、岩手県では、薮川が4時のアメダスでマイナス19.8となっている。最低気温時点では、もっと下がっているだろう。今朝の岩手県は、ほかにも、花巻でマイナス13.9(3時)、江刺でマイナス13.4(4時)など、宮城の米山が冷え込んだことと関連しているのだろうか、北上川沿いの盆地地帯で軒並みマイナス10度以下の寒さを記録した。ところで、岩手県と言えば盛岡市(旧玉山村)の薮川が冬の最低気温で有名で、ニュースでおなじみだ。盛岡市街地にも遠くなく、奥羽山脈の高地という訳でもないのに、考えてみればどうしてなのだろう。今朝もそうだが、冷え込んだ北上盆地よりさらに低く、例えば盛岡とは実に10度の差がある。ちなみに遠野はマイナス8度程度。岩手の寒さについては、「一に薮川、二に田代(区界)、三四が無くて五に遠野」と言われるそうだが、薮川は北上高地の寒さを代表する場所で、戦前には何とマイナス30度台を記録している。なぜ、薮川は寒いのか。標高が680メートル、そして、北上高地の西斜面にあり、小本街道沿いの峡谷に位置するため、両側から山が迫る。地形は盆地状で(地元では薮川盆地と呼ぶ)、夕刻頃から山頂も盆地も同時に冷却が始まり、冷気は斜面に沿って滑降する。やがて盆地内には冷気が上へ上へと積み重なり、盆地の底はますます放射冷却が強くなる。特に、この地域は風が弱く、冷気で埋まってしまう。加えて、冬季の積雪の密度が非常に小さいので、乾燥した雪面からの放射冷却によって、接する空気の低温を助長する。局地気温の変化の要因は他にもあるわけだが、薮川はそのほとんどを兼ね備えた地点である。そのため、現在のところ、本州ではもっとも低温の所となっているのだ。(金野、七宮、駒井編『岩手県の不思議事典』新人物往来社、2003年から、「岩手で薮川が最も寒い理由」(工藤敏雄さん著作部分)を参考にしました。)
2010.02.07
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今日は国連防災世界会議のパブリック・フォーラムの一環である東北大学のシンポジウムを聴いてきた。国連事務総長の潘基文氏がスピーチをされた。災害を避けることはできないが、被害を減らし、最小化することはできる。投資することで将来に備えることができる。global citizenship, global solidarity などの語が印象的だったが、国際社会や国連が災害をどう受け止めてどう行動すべきと考えているのかが多少理解できたような気がした。福島南高校を訪問したことなどの体験談もあり、また、今朝のバヌアツのサイクロン被害にも言及していた。大学のシンポジウムは、東北大学が震災後に取り組む数々のプロジェクトの報告が趣旨である。すべて聴いて、それぞれに興味深かったが、昼休みにちょっと感じたこと。かつてある先生が university の意義はなんだと思うかと話題提起された。ただ単に学科や学問が横並びに組織化しているだけではないのだ。災害科学国際研究所がめざすものは、学際的な研究による、災害、防災、復興にかんして世界をリードすることだろう。そう在ってほしい。地震や津波はもちろんだが、エネルギー、医療、産業、放射能など各分野でのプロジェクトが進んでいる。なかには、個別にニュースで聴いているものも多い。こうやって全体像として報告されると、なるほど、東北大学がこれだけ広範に関わっているのか、と実感させられる。まさに university なのだ。進め方やニーズの把握と還元という面でも、経済界や産業各分野、行政やNPOと、深く関わっている。産学官(最近は金も入ったりするが)、などと単純な横並びの一つではなくて、大学自ら産や官の足りないところに入り込み、あるいは提言し、あたらしい課題に対しては領域間の連携により研究を進め、また大学自らが世の中の縦割りを横につなぐ糸となる。東北の名を冠する名門大学として、これから一層、東北と世界に頼られる実践的な solution の拠点になってほしい。
2015.03.15
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気になったこと。今日(8月4日)の新聞朝刊で、地方選挙の結果が出ている。朝日新聞は、2日の選挙結果を報じる「新市長」欄で、下妻市について、こう記載している。菊池博氏(64)=無元=が3選。パン製造販売業=無新=を破る。私は「N選」とは連続N回当選を意味するものと根拠もなく思っていたので、元職が当選して「3選」はおかしい、と感じた。ところで、毎日新聞では「選挙」欄で、こうある。下妻市長(茨城県) 前市長死去に伴う。元市長の菊池博氏(64)=無元=が、パン製造会社代表の井上誠氏(57)=無新=を破り、通算3回目の当選。昭和のジャイアンツのV9は、9年連続優勝を意味するのだろう。いまでも、スポーツなどで「V+数字」の表現があるが、これも通算でなく連続を意味すると、私は思っている。この選挙は、ことし3月の市長選挙で、3選をめざした菊池氏に競り勝った新市長が、6月に隣町の排水路で亡くなって発見されたもの。なお、ネット情報なのだが、産経は「3選」と表現、読売は、「返り咲き」「3回目の当選」としている。日経も「3選」、地元の茨城新聞は、「通算3回目の当選」だが、「ひと」コーナーでは、「3選を果たした(菊池さん)」と紹介している。■関連する過去の記事 <a href="http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/202605050000/">こどもと「さん」「くん」「ちゃん」のルールを考える</a>(2026年05月05日)
2026.08.04
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以前の日記(仙台コンビニ今むかし)で、学生だった頃の仙台のコンビニについて書きましたが、偶然、当時のコンビニ事情を伝える非常に面白い資料を目にしました。宮城県商工労働部が昭和58年3月に出した調査報告書です。まず面白いのは、調査の趣旨の説明。大店出店規制を受けて流通王手がCVS(コンビニエンスストア)のチェーン展開に重点を置く一方、フランチャイズチェーンやボランタリーチェーンが真に消費者に受け入れられるか(コンビニエントなのか)を見定める必要もある、という趣旨です(ODAZUMA Journal要約)。当時は東北新幹線開業直後ということもあり、また、82年(昭和57年)は県内コンビニ店舗数が対前年で倍増以上(207%)と雨後のタケノコの時期であったことを反映して、中央資本と地元資本の動向、地元の小売経営者の意識、消費者の意識、など基礎データを全体的に把握しようという意図だったのだろうと思います。この後に到来する本格的な郊外型店舗立地も含めて、従来型の単立小売店と商店街を軒並み潰していく商業大変革の津波の、その第一波というところでしょうか。ライフスタイルの点でも、深夜や未明でもモノが買えるというのは、まさに画期的だったはず。いや~まさに、時代ですね。(中島みゆきの「時代」を聞いたのは小学校6年生だったかな...)以下に、調査報告書の要点をご紹介します(ODAZUMA Journal要約。なお、消費者や経営者の意識などの部分は除外)。データなのでちょっと長いですが...------------○ 83年春時点で県内に200店舗以上(何らかのチェーンを形成しているもの)。○ 内訳は(括弧内は資本)... サンチェーン(キャバレーハワイチェーン・ダイエー・ローソン)55店 サンクス(長崎屋)34店 コスモス(独立系)23店 パンプキン(オーケー(ダイエー系))16店 エイトテン(独立系)15店 マイショップ(独立系)9店 セブンイレブン(イトーヨーカ堂)21店 サンエブリー(山崎製パン)2店 YDS:ヤマザキデイリーストア(山崎製パン)42店○ 当時の全国チェーンで宮城県に参入していないのは、 ミニストップ(ジャスコ) ローソン(ダイエー) ファミリーマート(西友) サークルK(ユニー) Kマート セイコーマート コミュニティストア○ チェーンの形態別にみると、 フランチャイズ方式(FC)100%なのが、セブンイレブンとYDS。 逆にレギュラー(直営)チェーン(RC)100%が、サンチェーンとコスモス。 他はFCを基本に一部RCやVC(ヴォランタリーチェーン)を混合。------------さらに、調査報告書の中から興味深い点をいくつか。■ 店舗数ではサンチェーンが堂々第1位。仙台では、78年(昭和53年)のコンビニチェーン第1号を始めに、サンチェーンが出足が速かったようです。(78年は宮城県沖地震。私はまだ仙台におりませんでしたし、来るとも思っていなかったですが。)そのあとセブンイレブンの猛追を受け店舗数で一旦抜かれますが調査時点ではトップの座を回復。■ 82(昭和57)年には単月に約9店舗の新規開店という、物凄いペースでコンビニが拡大。この年には、セブンイレブンとサンエブリーの大手2チェーンが参入し、乱戦の幕開け! ちなみに向山高校の下に住んでいた私も向山2丁目のセブンイレブンによく行きました。■ 他方で、83(昭和58)年1月には既に仙台で2店が閉鎖しており、競争の激化の一端として注目される。(注:このコメントを書けた県の担当者はすばらしい。)■ 有名な石巻のエイトテン。15店舗全部が石巻市内。石巻では最大の店舗数を誇り、他にはサンチェーン6店、サンクス1店のみです。出足も比較的速く、70年代末には店舗網を構築したようですが、その後は店舗数も伸びず、結局大手に飲み込まれていくことになります。■ 仙台・宮城のコンビニ展開の特徴。札幌や福岡と比較して、地場のCVSが少ない。と、だいだいこんな感じ。とても興味深いですね。前の日記では確信を持てずにいた仙台の「コスモス」は、やっぱり実在した! この点は記憶が実証されたので安心。たしかこの直後に「ニコマート」(これも消滅したはず)に吸収されたように思います(この点はまだ曖昧)。それと、エイトテン。ネーミングだけで全国的に有名になりましたが、他に先駆けて地元展開したチェーンが数年であっさり大手に負けてしまったのは、一面で寂しいですね。独立系のコスモスとエイトテンが、その後東北各県に店舗展開する、なんてことにはならなかったです。まあ、それが仙台・宮城らしい、ということでしょうか。その点では、古川市に本社のあるリトルスターが注目されます。86(昭和61)年にCVSに進出、今では、岩手、山形、福島にも店舗を展開しているのだそうです。
2005.11.16
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新聞に小さく記事が出ていた。条例無効の最高裁判断。少し詳しく見たくて、山梨日日新聞社の記事を見た。その概要は以下のとおり。------------○ 高原リゾートとして知られる清里の別荘住民らが、一般住民より高い水道料金を定めた高根町(現北杜市)の条例無効などを求めた訴訟。○ 判決などによると、町は1998年に給水条例を改正し水道基本料金を改定。一般世帯を月1300円から1400円に値上げする一方、住民登録のない別荘所有者は月3000円から5000円に値上げ。 ○ 一審判決は「格差は合理的な範囲内」との町側の主張を認めたが、二審東京高裁判決は一般家庭と別荘の料金格差を「不当な差別で憲法違反」として条例の一部を無効と判断。料金格差の妥当性に対する最高裁の判断が焦点となっていた。 ○ 上告審判決が14日あり。最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は条例の一部を無効とし、格差分返還などを命じた二審東京高裁判決を支持、町側の上告を棄却。○ 最高裁は「水源や給水施設を確保するため、別荘住民に相応の負担を求めること自体は許される」と認定。その上で、今回のケースについては、一般契約者と別荘世帯の年間の水道使用量を比較した上で「一般契約者には、別荘所有者全体の四倍以上を使うホテルなどの大口契約者が含まれ、格差は合理的な範囲を超えている。条例は住民の差別的な取り扱いを禁じた地方自治法に違反する」と断じた。 法の下の平等を定めた憲法14条の判断には踏み込まず。憲法判断を下すまでもなく、地方自治法に照らして無効とした。条例の無効確認を求めた行政訴訟の部分は無効とし、高裁判決の一部を破棄。 ○ 住民側勝訴が確定で、市は判決を受けて水道料金を改定して格差を縮小する考え。○ 高根町(現北杜市)の水道料値上げをめぐる訴訟の上告審で町の敗訴が確定した十四日、同市役所は「想定外」(市幹部)の判決への対応に追われた。判決後、白倉政司市長は「大変残念な結果だが、最高裁の判決を厳粛に受け止めている」とコメントを発表。市は条例を見直し、基本料金を現行の五千円から値上げ前の三千円に戻す方針という。○ 上告審では弁論が開かれたため、市関係者の間でも最高裁が住民勝訴の二審判決を見直すとの見方が強かった。判決では既に支払われた格差分の返還を命じていて、市の試算では原告だけでも七百五十万円以上を返還する必要がある。今後は原告以外の別荘住民への対応が大きな課題となる。------------ 原審(東京高裁)は原告の条例(料金規定)の無効確認の訴え(行訴法3条4項)を適法と判断。その前提は、条例制定により以後の個別的処分を経ずして給水契約上の義務を負うから、条例制定行為が抗告訴訟の対象たる行政処分に該当すると見た。 しかし最高裁は、水道事業の料金を一般に改定するもので、そもそも限られた特定の者に対して適用されるものではなく、本件条例制定行為を、抗告訴訟の対象としての行政処分とみることはできない、としている(最高裁HPの最新判例)。 その上で、公の施設の利用に関する地方自治法244条3項に反するから条例関係規定は無効だ、という論理のようだ。(法律論については余裕あれば後日取り上げます。)事情をよく知らないが、「取れるところ(別荘所有者)から高く取ってやれ」という発想にはお灸を据えた格好か。これから精算、返還の作業を行う市の担当者は大変だ。
2006.07.16
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もともと青森市は平内町と、また浪岡町は弘前市や黒石市との合併協議を進めてきた。しかし03年2月に、青森市と浪岡町の合併協議が始まる。町の一部は、広域圏の異なる青森市ではなく、隣の常盤村に編入を求め、両町村議会で境界変更の議決までなされた。ところが合併協議はあっという間に進み、04年12月16日県議会で合併議決。その10日後の12月26日に実施の町長リコール住民投票は、賛成7037、反対4043でリコール成立。05年2月13日の町長選挙と町議補選で合併反対派が当選した。この間に住民投票条例は5度否決されていたが、新町長は専決処分で条例を制定。一方で合併推進派の町議8人は投票買収で逮捕。推進派の元町長も、消防職員採用に絡む問題で逮捕。また青森市側でも、投票条例の否決を「指導」したり、市長が8億円の分庁舎購入を専決処分で決めたり、など異例の経過がみられた。合併のわずか5日前に住民投票は行われ、賛成1097、反対6845と圧倒的に反対が上回ったが、既に合併の手続は終わっており、05年4月1日をもって合併。合併後も「分町」運動の火は消えていないというが、現実問題として新青森市の勢力関係を考えれば分町構想を議決までもっていくのは、まず不可能だろう。■関連する過去の日記(青森県の市町村合併) 市町村合併と東通村(07年12月2日) トリプル飛び地の青森・津軽地方(07年12月1日)
2007.12.04
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伊達政宗が来住する以前の仙台平野は、国分氏支配の下に名族が城館を構えていた。現在の国分町は、政宗開府以前に木ノ下の国分寺薬師堂周辺にいた家臣団(国分衆)を移住させたという。また、仙台城も、若林城ももとは国分氏の旧城を基にしているのであって、仙台は国分氏とその領民が基礎を形成したのである。木ノ下の白山神社は国分町移住後も国分衆によって流鏑馬などの儀式が運営され、国分氏滅亡後は遺臣(国分侍)が伝統に則り祭礼を執行している。国分氏は、鎌倉御家人の千葉介平常胤の五男胤通が、平泉征伐の戦功で国分荘33郷と名取郡を給与されて仙台平野に土着したという。胤通は、その前に鎌倉から下総国国分荘に移住して国分氏を称しており、国分氏の祖となっている。もっとも、国分氏の名は宮城郡の国分荘に由来するとの説もある。居城は、始め郷六城、次いで千代城、小泉城、松森城と当主により転々した。国分寺郷の名は南北朝期にも見え、国分寺周辺を指し、北は南目村、東は伊在、蒲町あたりで区切られていた。しかし、観応2年(1351年)の岩切城の合戦で吉良探題に味方し勝利した国分氏は、ライバル留守氏の勢力を削いで、仙台平野に君臨することとなる。十代盛忠は足利義持から宮城、名取、黒川の三郡の主政に任ぜられたとされ、北は泉区から旧宮城町一帯、東は岩切で留守氏と境を接し、南は増田付近まで、西は秋保峡から高館付近までを治めた。栄盛を誇った国分氏だが、室町中期以降南奥から北上する伊達氏と結んだ留守氏に、小鶴の合戦で敗れる(永正3年、1506年)。また、同年松森城主で国分氏の分家松森盛次の反乱があり、衰運に向かう。14代宗政が伊達家の後ろ盾を得て立て直すが、家中に意見の対立が続く。伊達家から入嗣した第十八代盛重が、政事宜しからずと政宗の怒りを買い、松森城を追われる。一説には、国分家老の堀江伊勢(掃部)が盛重の謀反の意と急襲の陰謀を政宗に通報したとされている。軍記には乱戦の中、盛重の身代わりに切腹させて自らは落ち延びた、とされるが、亡命先は常陸の佐竹氏。関ヶ原の後の出羽の左遷には同行し、横手城に一千石を充てられる。盛重には三男一女があり、三男の重広は姉の嫁いだ先の古内実綱の家督として、やがて岩沼に1万6千石を得る。なお、長男と次男は僧となり、盛重が横手城に移ってから、藩主佐竹義久の三男宣宗を養子とし、宣宗は国分(伊達)氏を称した。さらに、妾腹に伊賀重吉がおり、国分氏没落の際に、宮城郡桂島の馬場主殿をたより桂島(松島)に隠れ住み、やがて木ノ下に移り伊達家の安堵を受けて荒巻方面の開墾に従事したが、一族は国分姓をはばかり馬場、桂島を称したという。国分氏の家臣団としては、郷六、森田、八乙女、北目、南目、朴沢、鶴谷、松森、秋保、粟野、古内、坂元、白石、福岡、馬場、小泉、堀江、萱場、武田、横沢、小林、税所などの各氏があった。参考 紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』宝文堂、1993年
2009.08.09
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ずーっと気になっていた。同年代以上の人たちに多いように思う。人にも寄るが、ごく自然に「河北新聞」と言う人が、結構多い。今のところの私の推論は次の通り。例えば岩手日報や福島民報の場合は、通称として「日報」「民報」が定着している。何かのイベントについても、「日報○○大会」などと呼ぶのだと思う。岩手県で生まれた私だが、祖父は岩手日報をたしか「日報」と呼んでいたと思う。家で購読しているのは、日報のほかに、エリア紙もあったが、一応呼び分ける意味もあったのだろう。ちなみに、全国紙を購読している家は近所には少なく、たまに河北新報をとっている家があったが、「河北」と通称していたと思う。また、福島の場合は、県レベルの新聞に「民報」「民友」があるから、明示的に両者を呼び分ける事情があると思われる。仙台・宮城における河北新報の場合を考えると、例えば私などは自然に「河北」と呼ぶ。そして前提意識としては、全国紙とともに県内で購読されている一般紙を通称で呼び分ける一環として、「朝日」「日経」などと呼ぶのと同様に、「河北」と通呼する。実際に、学生時代は全国紙を読んでいたし、社会人になってからもしばらくは全国紙と併読していたものだ。だが、生まれながら河北新報が家の唯一の「新聞」という環境にあった仙台・宮城の人としては、新聞といえば河北、という意識が定着しているのではないか。つまり、新聞の一種としての「河北」ではなく、父親が日本中に何千万人といるのに「お父さん」とは間違いなく自分の父を指すというような感覚で、相対視することもない。自然な意識としては、あっ、あれね、「新聞」ね、という感覚なのだ。だが、あの「新聞」にあんな記事があったね、などと人に話すときには、さすがに相対視しなければならないから、「河北」と頭に付ける、ということになる。イベントや関連会社の呼び方も、「河北○○」とするのが一般的だ。「新報○○」とは決してやらない。先の岩手日報や福島両紙との対比で言えば、「日報」と呼び習わしているのなら、まさかそれを「新聞」とは呼び変えない。「河北」と呼び習わしているから、自然に、「新聞」とつなげることができる。以上が推論だ。どうでも良いことなのだが。
2009.07.17
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東一番丁が(昼の)銀座なら、稲荷小路は夜の銀座。戦後の区画整理で生まれた新しい道路で、10年前(おだずま注:1964年の10年前)に誕生したばかりの町。名称として、都通、芭蕉通、西銀座などが候補となったが、国分町にあった稲荷神社が移されたことから、この名称になった。■河北新報出版センター編『せんだい百景 いま昔 写真がつなぐ半世紀』(河北新報出版センター、2014年)からこの写真集は、河北新報が1964年に連載した「新仙台漫歩」を中心に、60年代の記事や写真を紹介して、半世紀後の現在を解説している。稲荷小路については、1964年1月6日の記事だ。同書には、半世紀を経た現在では、仙台一の繁華街は隣の国分町に取って代わられた、とある。半世紀前は、稲荷小路が堂々「夜の銀座」だったようだ。
2016.01.20
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当ジャーナルの記事(下記)を受けて(ウソ)、朝日新聞が記事を組んだ(19日)。題して、「アンテナショップ活況/東京で東北巡り」。やはり先月末オープンの「おいしい山形プラザ」が最初に紹介されている。年間3億8千万円の売上げを目指しているそうだ。各県のショップの売上高が出ているので、引用してみる。------------青森(あおもり北彩館、飯田橋) 3億3000万年岩手(いわて銀河プラザ、東銀座)5億4700万円宮城(宮城ふるさとプラザ「コ・コ・宮城」、池袋)3億9000万円秋田(あきた美彩館、品川) 2億6500万円山形(おいしい山形プラザ、有楽町)福島(ふくしま市場、葛西) 1億2000万円------------並べてみると、宮城の店名が長いのが気になる。売上げは、岩手が飛び抜けている。全国トップ3を伺うそうで、不況でも売り上げは前年を上回るとのこと。また、アンテナショップに特化した風土47なるサイトもあるそうだ。これによると、銀座・有楽町が激戦区で約30の店舗が集中するが、青森、宮城、秋田など独自の立地も。青森は県有地の活用だそうだ。また、福島はイトーヨーカドー葛西店の一角に構えており、異色だが、売りの米など農産物をPRするには生活密着が相応しいと選んだそうだ。■関連する過去の記事 好調な山形県の東京アンテナショップ(09年5月12日)
2009.05.20
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おみやげに北上京だんごのずんだ大福をもらい、早速子どもたちと食べた。袋を眺めていて気がついたのだが、法務省の人権啓発のキャラクターの人権まもる君に雰囲気が似ている。法務省のサイトによると、正しくは「人権イメージキャラクター 人KENまもる君・人KENあゆみちゃん」なのだそうだ。そして、やなせたかしさんの作と説明がある。ということは...改めて北上京だんごのサイトを見ると、キャラクターのわきに、やなせたかしの印。そして、サイト内には「ずんだ」と「もちこ」の名前も紹介され、さらに、やなせたかしさんの作詞作曲「ずんだのワルツ」のCDまであるそうだ。おみやげの袋にも、よくみると、やなせさんの印がはっきり記されている。やなせさんのお墨付きのうまさ。郷土の味。■関連する過去の記事 北上京だんご 山形に進出(08年8月28日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日)(お昼の店が北上京だんご本店の近くでしたので)
2010.05.26
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福田町の名は、福室と田子の両地名から合成した地名です。 と知ったふりをして書きましたが、仙台での生活が通算20年の私、実はこのことを今日になって知りました。まだまだ不勉強。たしかに、大字で田子と福室はありますが、福田はないですね。それにしても古くにつけた名前なのでしょう、すっかり定着しているように思います。 では、市役所の行政サービスセンター(支所)名や小学校名になっている「高砂」という地名はどうでしょう。 明治期に宮城郡の蒲生村、福室村、岡田村、田子村、中野村の5村が合併して高砂村が誕生しています。おそらく縁起の良い名前を命名したのだと思います。仙台市史を確認していないので想像ですが。そして、昭和16年の合併で、中田村、岩切村、六郷村、七郷村などと一緒に仙台市に編入されたようです。 現在のサービスセンター(支所)は基本的に昭和16年合併時の旧村単位をエリアにしているので、その名も高砂支所(現在の高砂サービスセンター)となったと思われます。また、小学校や仙石線の駅名(陸前高砂駅)も、この高砂村に関係しているのでしょう。
2005.11.10
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仙台近郊の造成団地の名称などを、渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)から集めてみた。著書の冒頭部分の略図に従い拾い出す。■関連する過去の記事 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)------------(1)仙台近郊造成地分布(*印は昭和30年代を示す。おだずま注:著書の表を正確に再現できず。)市内北半 中山ニュータウン *川平 *泉ヶ丘 第3勝山 桜ヶ丘 *公苑 第2勝山+共済、平和台、ひばりヶ丘等(*?) *黒松 *旭ヶ丘 *双葉丘、常磐 自由ヶ丘 鶴ヶ谷、東光台 *高砂 半子町市内南半 東北大 教育大 ゴルフ場 *亀岡 *八木山 *松ヶ丘+恵通苑 *緑ヶ丘 茂ヶ崎 八木山南 太白 ひより台 山田自由ヶ丘 仙台南 日本平 羽黒台 *飯田 *袋原 *四郎丸 四郎丸東泉市 三菱パーク 将監 *向陽台+泉ニュータウン 永和台 松森 鶴ヶ丘 東黒松 南光台 西田中 住吉台 中山第2 中山ゴルフ場 長命ヶ丘 加茂宮城町 中山吉成 伊勢吉成 落合・大竹利府町 神谷沢 県民の森(2)仙台北部造成地泉市 将監団地 泉向陽台 共栄泉 泉ニュータウン 泉永和台 松森団地 鶴ヶ丘ニュータウン 加茂団地 長命ヶ丘 大平西 第2中山 中山ゴルフ場 南光台 泉黒松宮城町 中山吉成 伊勢吉成 葛岡霊園仙台市 中山ニュータウン 第3勝山 桜ヶ丘 公苑団地 春日団地 泉ヶ丘 共済団地 平和台・国鉄荒巻 大和ネオポリス 第2勝山 ひばりヶ丘・幸福ヶ丘 サギヶ森(鷺ヶ森のことか) 常磐団地 勝山 双葉ヶ丘 黒松 旭ヶ丘 森林公園 自由ヶ丘 第2自由ヶ丘 ?葉ハイツ 鶴ヶ谷 東光台 北仙台グリーンプラザ 東急青葉台(3)仙台南西部造成地東北大学 青葉山ゴルフ場 青葉荘 八木山 松ヶ丘 越路恵通苑 長町恵通苑 緑ヶ丘 茂ヶ崎 西ノ平 大谷地 八光台 第2羽黒台 八木山南 国鉄鈎取 城南荘 信賑鈎取 太白団地 ひより台 月ヶ丘 山田自由ヶ丘 仙台南ニュー 日本平 羽黒台 山田住宅(4)八木山方面造成地(主要建築)上野原小 電磁気研究所 郵政研修所 八木山中 八木山小 東北工大 東北放送 電子高 向山高 向山小 愛宕中 西多賀中 東北大電子研 朝鮮人学校 恵和町(長町恵通苑) 東北電通学園------------著書では丁寧に地図に団地の分布状況を示している。おだずまジャーナルの前回記事でも出ていない団地名称もあり、何だかワクワクする。今は時間がないが、著書の図や詳細な団地造成の記述などをたよりに、現在のどの町名を指しているかなど、後日よく調べてみたい。
2012.05.20
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太平洋戦争で米軍は6大都市の空襲の後に、中小都市を標的として、仙台市と、海軍防備隊基地の女川町を攻撃した。○仙台 昭和20年3月10日、7月3日、7月10日にB29空襲。特に7月10日の大空襲は午前0時3分から約2時間半にわたり、市内中心部や川内地区が火の海。死者1,066人、負傷者1,689人、被害家屋11,933戸、罹災者57,321人(当時仙台市人口26万人)。 第二師団、仙台駅、青葉城大手門、瑞宝殿などを失う。 宮城県全体では死者1,170人、負傷者2,018人、建物12,821戸と言われている。以下に仙台市以外の概況。○亘理町 8月10日午前9時頃に、亘理駅発仙台行き列車が吹田付近でグラマンの機銃攻撃を受け、死者6人、負傷者多数。○名取市 7月9日、10日の仙台空襲で、高舘に焼夷弾が落とされ、熊野堂や川上部落で68戸が被害。○岩沼市 6月から飛行部隊104部隊が駐在した矢ノ目飛行場(仙台空港)に空襲。7月11日午前11時に、空襲による火事で玉浦・千貫地区の11戸全焼。8月10日に岩沼駅が空襲受ける。○塩釜市 昭和19年12月29日空襲、死者1名、負傷者13名、462戸(2,142名)被害。○古川市(現大崎市) 8月10日田尻方面から数機が台町に爆弾を投下。死者7名、負傷者8名。○小牛田町(現美里町) 8月9,10日の2度、グラマン十数機が小牛田駅の鉄道施設や野田橋を攻撃し、死傷者。○矢本町(現東松島市) 8月8,9日、金華山沖の米軍空母艦載機が矢本飛行場(松島航空隊)を攻撃。○石巻市 8月10日、海軍の造船所(中瀬)に艦載機が船を狙って攻撃。電話局や小学校も被害。死者数名。○女川町 8月9日早朝から10日にかけて、グラマン編隊が海軍防備隊基地である女川港から町中心部までを、機銃掃射。町民は防空壕で過ごす。乗組員など200名が死亡。日本軍が駐屯した江ノ島も攻撃され、死者19人、負傷者16人。○気仙沼市 8月8,9日の昼夜、グラマン編隊が亀山スレスレに飛行し、梶が浦、浪板、内の脇方面に爆弾投下、機銃掃射。鹿折地区で死者18名。参考:宮城県図書館協会編著『郷土みやぎの姿』1985年、宝文堂出版販売■関連する過去の日記 藤井前市長の話(06年7月13日)
2006.08.02
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