おしゃれ手紙

2014.05.11
XML
カテゴリ: 映画
ワレサ連帯の男:あらすじ

「時に私たちは、自由のために闘わなければならない。」

1980年代初頭のポーランド、グダンスク。
レーニン造船所で電気工として働くレフ・ワレサ(ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ)の家に、イタリアから女性ジャーナリスト、オリアナ・ファラチ(マリア・ロザリア・オマジオ)が取材に訪れる。
ワレサは、1970年12月の食料暴動の悲劇を語り始める……。

物価高騰の中、労働者の抗議行動を政府が武力鎮圧。
ワレサは両者に冷静になることを叫び、検挙された際、公安局に協力するという誓約書に署名を強いられる。
ワレサと妻ダヌタ(アグニェシュカ・グロホフスカ)は、アパートで質素な生活を送っていたが、この事件以降、歴史的転変期の真只中に深く関わり、ワレサは次第に類まれなカリスマ性と政治的感性を発揮していく。

   恥ずかしながら、私はワレサという人をよく知らない。
しかし同じ時代を生きたものとして、知らないというのはいけないと思い映画で知ることにした。

ワレサが活躍した時代は、1970年代から1980年代。
私は、1970年の前半に結婚したが、その時には、洗濯機は全自動だった。
(当時は、全自動はまだ珍しかったけれど・・・。)
しかし、ワレサの家の洗濯機の絞り機は、なんと手廻し!!

ポーランドがいかに貧しい国だったかということが分かる。

■ワレサの歴史■
*1980年8月、彼はレーニン造船所のストライキ指導部のトップに。


*1981年12月、戒厳令布告直後、ワレサは住宅から連れ去られ、1年間の軟禁生活を強いられる。

*1982年11月、ソ連のブレジネフ書記長が死去。
その直後、ワレサは軟禁から解放され、グダンスクで民衆の熱狂的な歓迎を受け、再び運動に身を投じていく。

*1983年10月、ノーベル平和賞を受賞、出国を許されないワレサに代わり、ダヌタがノルウェイで行われた授賞式に出席、スピーチを行った。
奥さん、美人。

*1989年、政権側と反体制である「連帯」、カトリック教会が参加した「円卓会議」で、ワレサたちは勝利する。
1989年11月9日、東西ベルリンの壁が崩壊。

その6日後、ワレサはアメリカ・ワシントンの米国議会に招かれ、スピーチを行う。

大統領なみの扱いを受けている。

彼のような指導者になるには、どうしたらいいのかとイタリアから女性ジャーナリストが聞くと

「腹をくくること」といっていた。


先見の明、ユーモアのセンス、何事にもこだわらない人柄と、バランス感覚、
人を魅了する演説などなど必要なことは多いだろう。
そしてなにより正義感!!

貧しいポーランドだけれど、人々は連帯してストライキをすることが出来た。
日本は、今、ストライキは、おろか組合すらない。




ワルシャワ労働歌 VARSHAVIANKA

【作詞】ヴァツワフ・シフィエンチツキ
【作曲】グルジシャノフスキー
【ロシア語訳詞】KRZHIZHANOVSKIJ GLEB MAKSIMILIANOVICH
【日本語訳詞】鹿地 亘

暴虐の雲 光をおおい
敵の嵐は 荒れくるう
ひるまず進め 我らが友よ
敵の鉄鎖をうち砕け

自由の火柱輝かしく
頭上高く燃え立ちぬ
今や最後の闘いに
勝利の旗はひらめかん

起て はらからよ ゆけ闘いに
聖なる血にまみれよ
砦の上に我らが世界
築き固めよ勇ましく

You tube
・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

・・・・・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2014.05.11 15:25:21
コメントを書く
[映画] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Favorite Blog

読書レビュー 「お… New! キメジマさん

まだ熱帯 New! 歩楽styleさん

貰ったナデシコとコ… New! dekotan1さん

ブレックファースト New! 桐山陶子さん

秋夕(旧盆)の連休 … New! はんらさん

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: