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■2023.11.20(月)(最終日)高梁市(たかはしし)は、岡山県の中西部に位置する市。広島県と境を接する。中心部は備中松山藩の城下町であり、山城の松山城(備中松山城)で知られる。朝に霧が発生しやすく、特に秋から冬のよく晴れた風の弱い日には高い場所で雲海を見られることが多い。松山城から離れた場所にある▲雲海展望台からは、条件次第で雲海に浮かぶ松山城を望むことができ、その姿は天空の城と称される。そのため、6時10分にホテルを出た。沢山の人が雲海を見に来ていた。7時半ごろホテルに帰って朝食。駐車場からマイクロバスでふいご峠に。ここでガイドさんと待ち合わせ。約20分山道を登る。巨大な岩の岩の上に作られた石垣。その上にたつお城。上に上にと登って行くとひらけた場所があって猫が!!この猫、「さんじゅうろう」と名付けられ大切に育てられている。まちのマンホールにもさんじゅうろうの絵が!!明治、大正、昭和と時は流れ、備中松山城の櫓(やぐら)は損壊し、荒廃していました。昭和14(1939)年に「昭和の大改修」によって天守の解体修理と土塀の補修が行われました。その際、地元の小学生や中学生、女学生などが約2万枚もの瓦を山頂まで担いで上がったというエピソードをガイドさんが話してくれた。昼からは、同じガイドさんに、町中を案内してもらった。この辺りの地名はこれまで高橋であったが、高橋宗康が自分の姓を呼ばせるのを嫌ったためか、松山に改めている。また幕末から明治になる時、同じ名の伊予松山藩が早い段階で恭順したため、新政府は敵対した側の備中松山藩に藩名の変更を要請。高梁川の名から取った高梁藩に改名したことが、現在の高梁市の由来となっている。高橋→松山→高梁高梁川の水運を利用した高瀬舟による輸送が江戸時代から行われ、近代に国鉄伯備線を利用した輸送へ転換されるまで継続された。これらのことから、交通の要衝となり栄えた。高梁基督(キリスト)教会堂は明治22年の建築。現存する県下最古の教会で、県の史跡に指定されています。明治12年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、翌13年に新島襄(にいじまじょう)が来高すると急速に発展し、信者の浄財によって教会が建築されました。▲矢掛でもそうだったが、この辺りも細い路地を「小路(しょうじ)」という。▼▲「男はつらいよ」の山田洋次監督がこの家を気に入り、ロケ地に2回なっている。▼▲小堀遠州の庭園。1600年、関ヶ原の戦い以後、備中松山は、幕府の直轄地になり、国奉行の父親と一緒に小堀遠州がこの地に入った。▲平時に藩主が滞在し城跡。岡山県立高橋高校が城跡にある。▲近くに可愛らしい洋館が!!この日は、岡山県の東の端にある藩校、閑谷学校に寄る予定だったが、14時を過ぎていて、無理と判断。一路、家に向かった。途中、ナビに問題ありで、家に着いたのは夜8時を過ぎていた。岡山県、兵庫県、大阪府と越えてやっと長い一日が終わった。●7泊8日の旅の間、大浴場のないホテルが4日あったことは、特筆すべきだ。●11940歩瀬戸内海周遊、2023.11.13(月)~20日(月)ドライブ・マイ・カーの総距離は913Km。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■●11月16日(木)■広島県:重伝建・御手洗/下蒲刈島■●11月17日-1(金)■広島県:軍都・呉:入船山公園■●11月17日-2(金)■広島県:軍都・呉:海から見た■●11月18日(土)■広島県・安芸の宮島■●11月19日-1(日)■岡山県・宿場町矢掛(やかげ)■11月19日-2(日)■岡山県:吹屋■●11月20日(月)■岡山県・高梁市■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.19
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■2023.11.19-2赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された、見事な町並みが整然と続く吹屋の町並み。中国山地の山懐に抱かれた岡山県高梁市・吹屋。この町並みこそ、江戸末期から明治にかけ、吹屋の長者達が後世に残した最大の文化遺産です。豪商が財にあかせて建てた豪邸は、全国各地に見ることができます。しかし、吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州(今の島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にあります。最初は濃いベンガラ色が時とともに、落ち着いた色になる。▼▲大きな屋敷の中に入ってみると「卵部屋」が!▲当時、卵がいかに貴重だったかが分かる部屋だ。▲この形(◇に●が入っている)のなまこ壁は、初めて見た。▼▲漆喰の白い壁に模様のようにある黒いのは、なんという名前で何のためのものだろう??▲窓の白に黒のものは、なにだろう?かわいい!!▲郵便局は今も現役だ。22■吹屋小学校■旧吹屋小学校校舎は、明治33年(1900)に東西校舎、続いて同42年(1909)に本館が建築され、平成24(2012)の閉校まで「現役最古の木造校舎」として使用されました。本館は17間(30.9 m)×8間(14.5 m)の正面(南西面)中央に玄関ポーチが張り出す。竣工時、玄関ポーチは無く、建物正面の屋根にドーマーがあった。敷地内には、二階建ての本館を中央に東西校舎が左右対称に配置され、特に本館は下見板張の外壁や軒下の筋違の表現が特徴的で、小屋組みにはトラス構造が採用されています。本館の設計は、国の重要文化財(建造物)に指定されている「旧遷喬尋常小学校校舎」(真庭市)、「旧旭東幼稚園園舎」(岡山市)を設計した江川三郎八(岡山県工師、1860~1939)が担当しており、明治時代後期を代表する擬洋風の学校建築として評価され、岡山県の重要文化財(建造物)に指定されています。廊下突き当りに本館を左右に貫く幅3間の屋内運動場がある。この空間は『3間廊下』と呼ばれ床は板張りだが、かつては土間だった。二階にある講堂の床にあいた穴に子供たちは物を落として遊んだ。▲二重折上棹縁天井。四隅は、飾りであり天井を支えるトラス構造。▲明治時代、公的な建物は、灰色が使われていたとガイドさん。▼陽もかげりかけたので、高梁駅前のホテルに向かう。この日も大浴場のないホテルだった。_| ̄|○●7248歩●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■●11月16日(木)■広島県:重伝建・御手洗/下蒲刈島■●11月17日-1(金)■広島県:軍都・呉:入船山公園■●11月17日-2(金)■広島県:軍都・呉:海から見た■●11月18日(土)■広島県・安芸の宮島■●11月19日-1(日)■岡山県・宿場町矢掛(やかげ)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.18
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■2023.11.19-1江戸時代に旧山陽道の宿場町として栄えた岡山県・矢掛町。今でも当時の面影を残す街並みが残っています。矢掛は、もと「屋影」もしくは「屋蔭」の字が使われていた。今川貞世は『道ゆきぶり』の中では「屋蔭といふ里にとどまりぬ」と記しており、この地でものにした「もののふの猛き名なれば梓弓やかげに誰かなびかざるべき」の一首を書きそえている。「矢掛」の表記はこの歌からとって用いだしたという説があるが、詳細は分かっていない。そんな矢掛の町をガイドさんの案内で廻った。街道は、昔からこの広さで電柱を埋めているので余計に広々としている。街道に直角に、人ひとりが通れる細い道がある。小路(しょうじ)とよばれ、町のあちこちにある。▲小路▼近くを流れる小田川は、高瀬舟が行き交って町は水運でも賑わっていた。▲小田川は、暴れ川で、水害対策として、基礎を高くしている。▼▲また雨で漆喰の壁が傷まないようにと壁の真ん中に小さな雨よけの屋根をつけている。■高知県では水切り瓦■と言っていた。参勤交代で往来する大名が宿泊した、旧矢掛本陣石井家住宅と旧矢掛脇本陣高草家住宅は、どちらも重要文化財に指定されている貴重な建物です。本陣・脇本陣の両方が重要文化財として残っているのは、日本で唯一、矢掛町だけ!寛永12年(1635年)、参勤交代の制度が実施されると、矢掛は山陽道(西国街道)の宿場に定められ、本陣、脇本陣、問屋などが整えられた。**問屋とは**江戸時代、馬などを用意していた所でいまでいう駅だそうだ。(*^▽^*)私の好きな看板建築。*看板建築*建築家の藤森照信氏が命名した、店舗兼住宅の一形式。その多くは関東大震災後の復興期に現れた木造2~3階建ての建物で、その正面だけを銅板やモルタル、タイルなどの耐火素材で覆い、装飾した建築のことをいう。建築家の手によらない自由奔放で愛らしいデザインが今なお人気が高い。*矢掛のゆべし*江戸時代から名物として知られ、矢掛は山陽道の中でも大きい宿場町だったため、銘菓として参勤交代の大名達にも好まれた。 同地に宿泊した天璋院(篤姫)も好み大量に食した(竹皮ゆべし)という旨が、岡山県立博物館で発見された宿帳記録に記載されていた。他にも作家の武者小路実篤も好んだ(丸ゆべし)という。矢掛を出発して次の目的地に。どんどん山の中に入っていくが、途中、山の中腹まで家が建っている所があった。買い物や郵便、ゴミ出しはどうするのだろうと、他人事ながら心配した。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■●11月16日(木)■広島県:重伝建・御手洗/下蒲刈島■●11月17日-1(金)■広島県:軍都・呉:入船山公園■●11月17日-2(金)■広島県:軍都・呉:海から見た■●11月18日(土)■広島県・安芸の宮島■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.12
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■2023.11.18子供の頃は、よく意味が分からないまま使っていた言葉がある。たとえば「♪兎、おいしかの山~」というのは、「♪兎、美味しいかの山~」と歌っていた。「あきの宮島」というのは「秋の宮島」と思っていた。正しくは「安芸の宮島」で全国に約500社ある厳島神社の総本社である。平成8年(1996年)12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。宮島口という所からフェリーに乗って10分。便数も多いので便利。♪汽笛ならして客を待つ 汽船に乗れば十五分 早くもここぞ市杵島(いちきしま) 姫のまします宮どころ(鉄道唱歌)港から歩いて行くと、鳥居が。この参道は、昭和になってから出来たという。(緑の線が参道。上から江戸時代、明治、昭和)江戸時代→明治→昭和と参道は、3回、宮島を埋め立てて造られたという話をガイドさんが教えてくれた。(▲古い参道。)日本一の木造鳥居で、四脚鳥居。高さ約16m・棟の長さ24m・柱廻り約10m・重さ約60t主柱は楠の自然木、千本杭工法で置いているだけ。♪海にいでたる廻廊の 板を浮かべてさす汐に うつる燈籠の火の影は 星か蛍か漁火か(鉄道唱歌)国宝に指定される西廻廊へと渡る橋が反橋(そりばし)。名前の通りで太鼓橋で、往時は天皇からの使者(勅使)だけが許されたことから勅使橋とも呼ばれています。とても渡れるような形状ではないので、中央に階段を設けて渡ったものと推測されています。国の重要文化財に指定。▲朱塗りが多い中、かえって目立つ。▲神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。▲折り上げ格(ごう)天井。貴人の参拝の時使ったのだろう。▲床板に使っている材が太い木から取られたもので、欠けた部分は、きれいに修理してあった。▲あちこちで鹿を見た。この日は、寒く雨で強い風が吹くという最悪な日。けれどその合間に大きな美しい虹を見た。▲ホテルの部屋から。(この部屋も大浴場がなかった。( ;∀;))宮島から帰って、これから、今日の宿を目指す。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆安芸の宮島のある廿日市(はつかいち)市から呉市の山の中にある野呂高原を目指した。今朝降ったのだろうか、雪が残っている所があちこちに・・・。明日、雪が降ったらどうしようと不安になった。▲氷池▲野呂山にはたくさんの池がありますが、その中でも大きな池が氷池です。明治時代に掘られた人工池で、昔はここで天然氷の製造が行われ、船で愛媛や大分まで売られていました。昔から寒い所だったのだろう。兜岩展望所に行ってみる。▲眼下に瀬戸内海の島々が見えた。▼今日の宿、国民宿舎の隣にある▲川尻筆づくり資料館2004年(平成16)年8月に「国の伝統的工芸品」の指定を受けた呉市川尻町の筆と筆づくりに関する資料を集めて展示している。なぜここに?と夫が不思議そうにいう。ここ野呂山は、「膳棚山」と「弘法寺山」を結ぶ東西2kmの高原の総称。弘法といえば筆ということで「筆づくり資料館」がつくられたと私は推測する。子どもの頃、小遣い稼ぎに筆の材料になる竹を同じ長さに切りそろえるという手伝いをやっていた。懐かしい・・・。この日は、4日ぶりに大きな湯舟にゆったりとつかった。●9054歩●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■●11月16日(木)■広島県:重伝建・御手洗/下蒲刈島■●11月17日-1(金)■広島県:軍都・呉:入船山公園■●11月17日-2(金)■広島県:軍都・呉:海から見た■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.11
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■2023.11.17-2呉の入船山公園から海の近くに移動した。かつて戦艦「大和」が建造され、東洋一の軍港と呼ばれていた広島県呉市。現在も海上自衛隊の基地がある。また大和ミュージアムやてつのくじら館に代表されるように、これらの防衛・軍事関連施設は観光資源ともなっている。 2016年には「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~」として日本遺産に認定された。まず、「大和ミュージアム」へ。明治時代に海軍工廠が設置された呉の歴史と、その後の近代化の基盤となった造船や製鋼などの科学技術を紹介。中でも注目は戦艦「大和」を10分の1スケールで再現した巨大模型です。救命ボートが見当たらなかった。沈むことがあってはならないと、救命ボートを乗せていなかったのだろうか。太平洋戦争末期、2700余人の将兵とともに東シナ海に沈没した戦艦「大和」。「大和ミュージアム」を出て近くで昼食を。▲海自カレーは海上自衛隊の町・呉の名物グルメ。海上自衛隊では多くの部隊で毎週金曜日の昼食にカレーが食べられていることから、市内の飲食店が各艦船からレシピを教わって提供しています。私たちも食べた。偶然、この日は金曜日。●「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」●本物の巨大潜水艦がそのまま史料館として展示を見る。● 呉湾 艦船めぐり●話上手なガイドさんの案内で、クルージングで海上自衛隊の艦船を間近に見学遊覧船で潜水艦や護衛艦など呉湾に停泊する海上自衛隊の艦船に大接近します。造船所で建造やメンテナンスされる様子を見ることもできる呉ならではのクルージングで、非日常感たっぷりです。普段はほとんど見かけることがない海上自衛隊の艦船は、間近に見ると大迫力です。海側からしか見られない呉湾の景色も楽しめます。 呉は、「この世界のかたすみに」の舞台になったまち。今は平和に「戦艦大和」やゼロ戦を見ているが、「この世界の・・・」の主人公・すずさんの時代は、多くの船が沈没し、町が焼かれ沢山の人が傷ついた。すずの時代は、私の母の時代でそんなに遠くない過去である。 次の目的地に向かう。竹原、呉と風呂のないホテルが続いた。今晩こそ、風呂に入りたい。そんな願いもむなしく、この日の宮島を目の前に見るホテルも大浴場がなかった。3日続けて大浴場なし・・・。。。。_| ̄|○仕方がないから部屋についている小さな風呂に入った。●8010歩●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■●11月16日(木)■広島県:重伝建・御手洗/下蒲刈島■●11月17日-1(金)■広島県:軍都・呉:入船山公園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.09
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■2023.11.17-1(金)呉のホテルを7時半に出発し朝食をとりに。このホテルは、朝食夕食風呂なしだった。寝間着は迷彩柄(私は着なかったけど)。さすが軍艦大和のふるさと、海軍のまち呉!!呉は、地形的に天然の良港と言われ、古くは村上水軍の一派が根城にしており、明治時代以降は、帝国海軍・海上自衛隊の拠点となっている。呉の語源は、「九つの霊峰」→九霊→くれ→呉。と後で会ったガイドさんの説明。私には「何かくれ~」の「くれー」に見える呉の人形。入船山公園の前でガイドさんと待ち合わせ。▲公園の前の通りは松並木の美しい道だった。▼一緒に公園の中に入った。●旧呉海軍工廠(こうしょう)塔時計●1921(大正10)年6月、旧呉海軍工廠造機部屋上に設置され、終戦まで、呉工廠とともにその歴史の時を刻んできました。高さ約10mで、本体は一辺2.4mの立方体、四方には1.5mの文字板があり、電動親子式衝動時計としては、国産で最も古いもののひとつです。また、1日4回流れるメロディーは、毎年小中学生が作曲したものです。1981(昭和56)年呉市有形文化財に指定されています。▲歩哨が立つところ。▲その前に置いてある石は、長年にわたって歩哨が立っていたので、凹んでいる。▲「呉鎮守府司令長官官舎」この建物は木造平屋建で、東側の洋館部と西側の和館部からなり、洋館部は外観に英国風のハーフティンバー様式を取り入れ、屋根は天然スレートの▲魚鱗葺(うろこぶ)きです。官舎正面は玄関ドアの上側と左右に、玄関ドアの上側と左右にはイギリス製のステンドグラスがはめ込まれた洋館。奥は和風の建物になっています。当時の建築技術を知る貴重な資料でもあり、国の重要文化財に登録されています。▲豪華な洋室。天井は、格天井(ごうてんじょう)風。格天井は、格子(格縁)を天井面に升目に組んだ天井です。本来は真の書院や寺院・宮殿など格式を重んじる部屋に使われます。格天井であれば和の要素が入っている。(写真は■青森県■)公園内には、日露戦争・日本海海戦において、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電し、(写真は■青森県■)また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した東郷平八郎家の離れもあった。入船山公園を後に、海の近くに行った。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■●11月16日(木)■広島県:重伝建・御手洗/下蒲刈島■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.04
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■2023.11.16広島県の古い建物が残る竹原の町から大崎下島の御手洗(みたらい)地区に行くことに。四国からだと橋で繋がっているが、竹原からこの島に行くには、フェリーを2回乗り継いで行かなけれならない。そのため、 6:10起床。6:30荷物のパッキングと、車への積み込み。6:40~朝食。7:18ホテルを出発。と忙しい。7:45竹原港発のフェリー(山陽商船)~8:10白水港(大崎上島)着。島内移動で、明石港へ。明石港からのフェリーは、小さくて、積み荷の車は、わずか6台で、それで(満車)状態だった。9:20明石港発のフェリー(土生商船)~9:35小長港(大崎下島)着。 御手洗(みたらい)休憩所に着き、ここで、ガイドさん(男性)と合流し案内してもらう。御手洗(みたらい)は、安芸灘とびしま海道が通る大崎下島の東部にある港町。瀬戸内海に連なる芸予諸島の一つ、大崎下島の東端に位置する港町である。北西方向に大長地区がある。東側が愛媛県今治市の岡村島になり、安芸灘オレンジラインによって結ばれている。江戸時代より風待ち・潮待ちの良港として知られ、北前船(きたまえぶね)の寄港地の一つとして栄えました。御手洗には大小の商家・茶屋・船宿・神社・寺院などが混在した、江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて建てられた古い町並みが今も残っていて、1994年(平成6年)に国の『重要伝統的建造物群保存地区』に指定されています。奥へ歩いていくと御手洗随一のパワースポット『御手洗天満宮』があります。元々ここには、学問の神様として知られる菅原道真が太宰府へ左遷されたときに立ち寄ったとされる『菅公の井戸』があり、明治初期にその井戸の側に天満宮が建立されました。▲神社の一角に「中村春吉」の碑。彼は自転車による世界一周冒険旅行をしたという。精神的医術を生業にしていていつも「ター、ター」と言って治療していたので「ターターおっさん」とよばれていたとガイドさん。乙女座は、1937 (昭和12) 年に当時の御手洗町長が私財を投じて建てたモダンな劇場で、映画・芝居・大道芸の興業や、青年会の社交場に利用されていました。線を繰り返すアールデコの紋様が美しい。▲『若胡子屋跡(わかえびすやあと)』。若胡子屋は、かつて約100人の芸子・遊女を抱える御手洗最大の茶屋(遊郭)でした。若胡子の他にも茶屋があったが、それでも茶屋に上がれる男は限られている。■『おちょろ(オチョロ)船』は■上陸できない下級船員のために、遊女たちを停泊中の船まで運んだ小船。港に停泊する船に遊女を運んだ海上遊郭。 “おじょろう(女郎=遊女。おいらん。娼妓)”がなまって「おちょろ」とか、湾内をチョロチョロ行き交うので「おちょろ」と呼ばれたとか言われている。坂本龍馬が来た屋敷もある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆蒲刈大橋を渡って、下蒲刈(しもかまかり)島へ。ガイドさんの案内で廻る。この島は、江戸時代には朝鮮通信使の交通路であり宿泊地のひとつでもあった。朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団。通信使を見物する際には、幕府から作法についてお触が出ていた。▲作法のなかには、喧嘩や騒ぎを起こさない、2階や橋の上から見ない、指をさしたり笑ったりしないこと、などがある。▼★福島雁木(がんぎ)…江戸時代初期、福島正則が広島藩主であった頃に考案し造らせたとされる船着場。潮の干満に関係なく荷積みができるように階段状になっている。今では造られた当初の半分程の長さになっているが、当時の様子が偲ばれる趣のある港。因みに雁木というのは雁(かり)が空を飛ぶ様子から来ているもので、斜めのギザキザ模様のこと。港の場合は石段のギザギザをそう呼ぶ。大崎下島も下蒲刈(しもかまかり)島も小さな島なのに、沢山の歴史が詰まっている。瀬戸内海が当時、どれほど重要な海のルートだったかが分かる。呉に向かう。●7368歩 ●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■ ●11月15日-3(水)■広島県:重伝建・竹原の町なみ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.02
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■2023.11.16今治→大三島の後、しまなみ海道を通って江戸時代前期に塩や酒づくりで栄えた重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の広島県・竹原市に行った。▲今は、カフェやホテルになって古民家が続く町並み。▼▲こんなモダンな建物も。▲「地割」跡。江戸時代の区画整理と排水を兼ねたものもあちこちに残っていた。<塩>竹原は、塩づくりで栄えたまち。かつては、町中に塩田(えんでん)が広がっていました。塩は北前船で全国の市場へ送り出され、大きな経済効果を竹原にもたらしました。それに携わった人々によっていまの美しい町並みが形成されたんです!▲鶴竹酒造は、朝ドラ「マッサン」主人公の実家。<酒>竹原の酒づくりは、塩づくりよりも前に始められ、第1回全国清酒品評会では、竹原の酒が日本一を勝ち取りました。今でも、竹鶴酒造、藤井酒造、中尾醸造の3蔵がしのぎを削っている。 竹原は、NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルにもなった、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝氏のふるさと。▲マッサン夫妻の像が立つのは、竹原歴史民俗資料館の庭。もうひとり竹原の有名人が頼山陽。 川中島鞭声粛粛 夜河を過る曉に見る千兵の 大牙を擁するを遺恨なり十年 一剣を磨き流星光底 長蛇を逸すべんせいしゅくしゅく よるかわをわたるあかつきにみるせんぺいの たいがをようするをいこんなりじゅうねん いっけんをみがきりゅうせいこうてい ちょうだをいっす詩の意味(上杉謙信の軍は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、武田信玄方は、上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた。しかし、まことに残念なことには、この十数年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃(やいば)がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を打ちもらしてしまった。川沿いに頼山陽を記念して小さな広場があった。その囲いにタケノコが!!町の中には、竹に関するものが沢山見られる。竹原ですから~( ´艸`) 竹原産の酒「竹鶴」。▲工事場に立てる三角コーンはタケノコ!▲マンホールのデザインは、竹と姫、「かぐや姫」。▲住所表記は竹に。▲「竹」の名の看板▼▲これって犬やらい?▲漆喰で描いた竹。何をする建物だろう。第三水曜日は、竹原のガイドさんの定休日で説明が聞けなかったのが残念・・・。●11953歩●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.27
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■2023.11.15-2今治城を見た後、今治→大島→伯方島→大三島と橋が島を繋いでいる。その橋を渡って、大三島に着いた。この日2人目のガイドさんの案内で、大山祇(おおやまづみ)神社へ。▲二の鳥居。一の鳥居は、船で参拝に来る人が多かったので、海の近くにあるそうだ。斎田(神田) - 御田植祭・抜穂祭時に神事が行われる。●無形文化財:一人角力●毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事である。 「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた広義の力くらべである「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。●御棧敷殿(おさじきでん)●素木造で入母屋造銅板葺。斎田前に建てられ、御田植祭・抜穂祭時に神輿が渡御する。りっぱな山門を入ると広い空間が広がる。「ここで何をしていたと思いますか?」とガイドさんがクイズを出してきた。「流鏑馬(やぶさめ)ですか?」と私。「そうです!」とガイドさん。 疾走する馬に乗りながら鏑矢(かぶらや)で的を射る、技術であり儀式であり競技[である流鏑馬。この空間は、流鏑馬にぴったりだ。もちろん、その当時はここは石畳ではなかったのだろう。大山祇(おおやまづみ)神社の歴史は古い。どれだけ古いかというと、ここの神主さんは、白村江(はくそんこう)の戦いに行ったという。 ■白村江(はくそんこう)の戦■663年8月,韓国南西部の白村江下流で唐・新羅(しらぎ)軍と百済(くだら)・日本軍との間で戦われた戦争。この戦は,東北アジアに唐を中心とする国際秩序を構築しようとする唐と,百済との歴年の友好関係をもとに百済を従属させたかたちで国際的地位を主張する日本の対戦であった。敗戦の結果,4世紀以来の日本と百済との連盟は消滅し,日本は朝鮮での足場を失うこととなった。その後,日本国内では対外防備用の山城が多く築かれ,また律令国家への歩みが本格化した。 その時、お供をした額田王(ぬかたのおおきみ)が、途中の伊予の熟田津で詠んだ歌が有名。熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王この歌の詠まれた頃、ここの神主さんは、熱田津にいたのかと思うと教科書に出てくる白村江の戦いが現実味を覚えてくる。▲大三島の特産物は蜜柑。この後、橋を渡って広島県へ。四国と本州は、橋に寄って繋がっているので、船には乗らない。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.25
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■2023.11.15-1この日は、今治城をガイドさんの案内で見てきた。今治城は、関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。〇慶長5年(1600) 藤堂高虎、関ヶ原の戦いで東軍に属する〇戦後、伊予半国領主として20万石を領する〇慶長7年(1602) 今治城の起工〇慶長9年(1604) 今治城の普請(土木工事)完成〇慶長13年(1608) この頃、今治城がすべて完成か。高虎、伊勢・伊賀へ転封藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。この堀には、海の魚、クロダイ(チヌ)が泳いでいる。幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、筋骨逞しい身体であった。兄の戦死後、若くして家督を継いだ。堀の石垣の下が、「犬走(いぬばしり)」になっている。海に近く弱い地盤の上にある城の石垣の修理を考えて「犬走」を造ったとガイドさん。そこで私は、犬走のある城の石垣をハタと思い出した。去年行った■丹波篠山城■だ。丹波篠山城も、城の名手藤堂高虎が手がけた。この城は、堀の石垣の下に犬走(いぬばしり)という部分がある。これは、堀を掘った時に出た土を積んだところだという。また、ここに石垣の材を置くのに使ったともいう。(ガイド氏の説明)藤堂高虎は、あちこちに城を造っているが、移動手段が限られていた時代にあちこちに行くってさすが、日本一の築城の名人!!今治の地名は、「今張」、「今針」。また吹上城、美須賀城とよばれたことも。「須賀」とは、砂浜という意味で、「横須賀」などがある。静岡県にもあったが、関東の言葉だと思っていた。その後、車で、出発。今治IC~しまなみ海道から次の目的地・大三島へ向かう。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.24
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■2023.11.132023年11月13日(月)~20日(月)まで、瀬戸内海をぐるりと周ってきた。大阪南港からオレンジフェリーで四国・愛媛県の東予港へ。船内でテレビをみたり、大浴場に入ったりと船の旅は快適。●1694歩◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■2023.11.14■今年5月、四国を旅行した時は、帰り■東予港→大阪南港。今回は、反対に大阪南港を夜10時に出発し、朝6時に東予港に着いた。朝6時だとどこも開いていないので、早朝から開いていた「ガスト」で朝食をとりながら、時間つぶし。別子銅山の跡へ。別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市にあった銅山。総産銅量は日本第2位の約65万トン。日本三大銅山の一つ。「東洋のマチュピチュ」とよばれる場所には、バスで行き、ガイドさんの案内で見て回った。▲「東平(とうなる)」地区には、炭鉱で働く人や家族の家が連なっていた。そのため、資材や生活用品を背負って運搬する人を「仲持(なかもち)」といった。「仲持(なかもち)」たちは、男は45キロ、女は30キロ背負って山を登っていた。▲利用者が、かごのようだということから「かご電車」とよんだ人員の輸送車。▼▲真ん中の車両が「かご電車」で観光客の乗ることができる。▼▲「東平」と書いて「とうなる」と読む。同じ愛媛県の松山城は■「長者平」=「ちょうじゃなる」■と読む。▲胴を作る過程で出来た「からみ=廃棄物」で作ったレンガ。ものすごく重い。▼▲住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営んでいた。井桁マークは「泉屋」から。元禄4年(1691年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山まで283年間、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。 1900年(明治33年)の銅山川鉱毒事件や製錬所の煙による煙害など、複数回公害問題が発生している。銅精錬排ガスによる公害が発生。水稲が多大な被害を受けた。▲四阪島から移築した「日暮邸」そこで新精錬所の候補地を20キロ離れたの四阪島に決定。迎賓洋館を四阪島の製錬所を見渡せる高い場所に建設した。それは当主の煙害克服に対する強い関心の現れであったといわれている。その後、四阪島製錬所の設計技師たちが日の暮れるまで同館で煙害をなくする構想を練っていたことから日暮別邸と呼ばれるようになった。●9485歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.23
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■2023.5・27-2道後温泉から松山市内へ帰って行ったのは、「坂の上の雲ミュージアム」。ミユージアムからの晩翠荘が美しい。●「坂の上の雲」●明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。この時期を生きた四国松山出身の三人の男達ー日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀・秋山真之兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、昂揚の時代・明治の群像を描く司馬遼太郎の長篇小説。秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟の生家へ。秋山兄弟は、NHKドラマで放送されてから、有名になった。「司馬遼太郎先生のおかげ・・・」とスタッフが言った。日露戦争においてコサック騎兵を破った兄・秋山好古の像。弟の真之(さねゆき)は、作戦家として明晰な頭脳を発揮するだけでなく、「明治日本の文章界を作った人物の1人」と言われるほど、天才的な名文家としても有名なのです。それもそのはず。彼は裕福でない家庭に育ちながらも、共立学校(現在の開成)から東京大学予備門(東大教養学部)に進学した超エリート。あの有名な俳人、正岡子規とも親交があり、文学者になることを共に志していたといいます。(▲秋山好古(よしふる)秋山兄弟の絵が松山城のロープウェイ乗り場にもあった。経済的苦境などから海軍へ転身し、文学者の道を諦めた弟・真之ですが、当時から成績は抜群で、圧倒的な文学的センスを持ち合わせていたようです。「本日天気晴朗(せいろう)ナレドモ浪高シ」「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という言葉も、真之が作ったものである。■青森県・下北半島・北の防人■▲正岡子規▼▲秋山兄弟と正岡子規の物語「坂の上の雲」の有名な出だし▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(▲三津浜)松山の郊外にある三津浜というところに行った。帰省していた正岡子規は、明治18年8月29日には三津浜を出航し、上京の途につきました。翌日に神戸に上陸、三宮より汽車で大阪に向かい一泊します。30日に再び汽車に乗り、京都へ行き、東山で「大閣北庁の化粧殿」を見て、9月1日には神戸に戻り、蒸気船横浜丸に乗船して、横浜港に向かいました。船中で秋山真之・梅木修吉と連歌を催します。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は、いよいよ大阪に帰る日。来るときは、和歌山港から徳島港へとフェリーで来た。27日の夜、愛媛県・西条市の東予港から大阪南港までフェリーで帰る。●14783歩◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■2023.5.28朝、まだ薄暗いうちに、大阪南港に着いた。●おまけ●蛇口から蜜柑ジュースが出るという、愛媛県あるある!!●おまけ2●雨が多い高知県の隣にあるのに、愛媛県は雨が少ない。道後温泉のガイドさんは、大学は岡山で過ごしたが、川に水が流れていてビックリしたという。●2944歩■四国旅行■2023.5.14~28ドライブ・マイ・カーの総距離は1204Km。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■■5月25-3■大洲城/「お道を」/伊予市・下灘駅■■5月26-1■松山城/子規堂■■5月26-2■松山市の華麗なる萬翠荘(ばんすい)/愛媛県庁/三津の渡し■■5月26-3■漱石の足跡/三津の渡し■■5月27-1■道後温泉町歩き■■5/27-2~28■:四国へ:愛媛県:「坂の上の雲」を歩く/大阪へ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.08
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■2023.5.27-1夏目漱石の小説にも出てくる有名な愛媛県の道後温泉に行った。改装中だが営業している。●道後温泉●日本三古湯のひとつ、3000年以上の歴史を持つ愛媛県松山市・道後温泉。日本最古の温泉であり、一羽の白鷺がここの温泉で傷を癒していたのがそのはじまりとされています。『古事記』や『万葉集』にも登場し、夏目漱石の小説「坊っちゃん」の舞台にもなった場所です。公衆浴場として初めて国の重要文化財に指定され、経済産業省の「近代化産業遺産」にも認定されている道後観光の中心、道後温泉本館。増築を繰り返し現在の姿に。明治27年の改築当初は北側(写真左)の神の湯棟だけでしたが、明治32年に皇室専用浴室の又新殿(ゆうしんでん)が東側に増設。その後、南から西側にかけて浴室や札場などが増築されて現在の本館の姿になりました。 このように増築を重ねていったため、館内は廊下や階段が複雑に入り組んでおり、スタジオジブリの映画『千と千尋の神隠し』のモデルになったともいわれています。道後温泉本館前の「足湯」の屋根には有名人4名が足湯に入っています。左から夏目漱石が猫を抱いて、聖徳太子が何かを読んで、正岡子規が団子を食べています。4人目は、松山観光の基盤を築いた伊佐庭如矢。白鷺組のヘルメットかぶった鳥(多分白鷺)がいます。今回も町の案内をガイドさんにお願いした。「坊ちゃん列車」もとまる、道後温泉駅。▼レトロな味わいの駅。坊っちゃんカラクリ時計は、道後温泉本館100周年を記念して作られたカラクリ時計です。道後温泉駅前の放生園にあり、道後温泉本館の振鷺閣をモチーフにした外観となっています。8:00から22:00まで1時間ごとに、楽しい音楽に合わせて時計がせり上がり、夏目漱石の小説坊っちゃんの登場人物が次々に登場します。坊っちゃん、マドンナ、赤シャツなど、見ている人の笑いを誘い人気の観光スポットとなっています。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆●「伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)●道後山腹に鎮座する「伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)」。国の重要文化財に指定されている八幡造りの社殿は、日本に3つしかない貴重なもので、その壮麗な姿を間近で見ると圧倒されること間違いなしです。道後温泉駅前にある伊佐爾波坂を上ると、目の前に長い石段が見えます。その奥に見えるのが、伊佐爾波神社です。石段の下からも見えた朱色の楼門は、間近で見ると息をのむ美しさ…!入口前方の張り出した部分に、曲線を描く唐破風の向拝があるのが特徴です。拝殿も色鮮やかで見ごたえがあります。伊佐爾波神社は創建について詳細が不明ですが、延喜年間(901~923)につくられた延喜式に載っている古社であることから、1000年以上前から信仰を集めてきたとされています。社殿をぐるりと見まわせるのも、回廊を歩く醍醐味のひとつ。そり返るようなカーブを描く茅葺屋根が美しいですね。屋根の下には、海老のような形をした蝦虹梁(えびこうりょう)も。極彩色が施されているのが特徴で、朱色の建物の中で独特な存在感を放っています。道後には、若き日の正岡子規の姿が。野のボール=野球という名前の名付親の子規のユニホフォーム姿。上人坂(しょうにんさか)をのぼった。上人とは、ここでは一遍上人をいう。宝巌寺は、正岡子規が伊予出身の第一の豪傑と評した一遍上人の誕生地。境内には子規の句碑「色里や十歩はなれて秋の風」や斎藤茂吉の歌碑が立つ。子規と漱石が吟行に来たという。坂の途中に有名な俳人、夏井いつき氏の家が!!車のナンバープレートがさすが!!小さな場所に見どころ満載の道後は、観光客で賑わっていた。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■■5月25-3■大洲城/「お道を」/伊予市・下灘駅■■5月26-1■松山城/子規堂■■5月26-2■松山市の華麗なる萬翠荘(ばんすい)/愛媛県庁/三津の渡し■■5月26-3■漱石の足跡/三津の渡し■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2023.09.06
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■2023.5.26-3■愚陀仏庵(ぐだぶつあん)■(夏目漱石なつめそうせきの寓居ぐうきょ)跡明治28年(1895)、松山中学校英語科教師として、月給80円で赴任し た漱石は、6月下旬、城山山裾の愛松亭から松山市二番町上野義方邸内の二階 建の離れに移った。一階も二階も四畳半と六畳であった。日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した子規は、神戸で療養のあと松山に帰り、8月27日、漱石の下宿へ移り、階下の二間を居室と定め、漱石は二階に移った。10月17日までの25日間、子規はここに起居して、「俳諧大要」を書き、当地の「日本」派俳句結社「松風会」会員約三〇名を日夜指導した。また、漱石も自らを「愚陀佛」と称し、この宿を「愚陀佛庵」として俳句に 熱中した。 愚陀佛は主人の名なり冬籠 (夏目)漱石 (漱石寓居の一間を借りて) 桔梗活けてしばらく仮の書斎哉 (正岡)子規 昭和57年萬翠荘敷地内(松山市一番町三丁目)にも復元された。(ただし、平成22年に災害のため倒壊、今はない。)別るるや一鳥(いちょう)啼いて雲に入る 漱石石が愛媛県尋常中学校から熊本の第五高等学校の教授として赴任するため4月11日に松山を離れる前に、松風会会員近藤我観に送った別離の句の1つ。三津の港から、虚子と広島行の船に乗船し、松山を離れた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「三津の渡し」は約80メートルの距離を結ぶ、定員12名の小さな渡し船で、地元人の足として利用されています。愛媛県松山市の中心部から北西に位置する三津浜は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』で坊っちゃんが松山に赴任した際、最初に降り立った場所。古い町家の残る港町に、約500年ほど前から運行されている歴史のある渡し船「三津の渡し」があります。「熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮(しほ)も適ひぬ今は漕(こ)ぎ出でな」額田王(ぬかたのおおきみ)が「白村江(はくすきのえ)の戦い」に向けて詠んだ有名なうたがある。白村江の戦いは、当時、友好関係にあった朝鮮の国・百済(くだら)が滅ぼされたときに、斉明天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)が百済再興を手伝うために朝鮮に出兵した事件です。「熟田津(現在の愛媛県松山市)で月を待ち、出航の準備をしていたところ、潮の流れが良くなったから今こそ漕ぎ出そう」という意味で、戦意高揚や安全祈願のために詠んだ歌と考えられています。寛文4年(1664年)洲崎の魚市売買に御沙汰があったことにより商人などでにぎわい、また小林一茶も古深里洗心庵の句会のとき渡っている。(1795)●14132歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■■5月25-3■大洲城/「お道を」/伊予市・下灘駅■■5月26-1■松山城/子規堂■■5月26-2■松山市の華麗なる萬翠荘(ばんすい)/愛媛県庁/三津の渡し■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.04
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■2023.5.26-2松山城の城山の麓に美しく目を引く洋館がある。萬・よろずの、翠・みどりの、荘・やかた、萬翠荘(ばんすいそう)と名づけられたこの邸宅は、大正11年(1922年)に旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が別邸として建築したものである。萬翠荘は、「松山の迎賓館」と呼ばれ、平成23年(2011)11月、国の重要文化財に指定され今も壮麗な姿を残す。陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まった。▲この部屋は、天井が格天井。和のテイストである。▲階段の踊り場に設置されたステンドグラス。大きな船と波が描かれ、優雅に航海する様子が表現されています。優雅なシャンデリアや豪華なカーテン。伯爵から依頼された、木子七郎は西欧の建築をつぶさに学ぼうと数ヶ月間ヨーロッパを遍歴し、そのエッセンスを吸収しました。そこで、木子七郎は西欧建築でありながら最高のものを造ろうと決意し、デザイン、構造、調度、装飾など全てを第一級品で設えました。そのため、萬翠荘はヨーロッパの人も驚くほどのフランス風の美しい建造物となりました。■晩翠荘■萬翠荘の敷地内にかつて愛松亭という建物があり、漱⽯は松⼭中学校に赴任した際、その2 階に下宿していた時期があった。ガイドさんの案内で晩翠荘をまわり、その後のまち歩きもガイドさんが案内してくれた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆愛媛県庁舎に行った。鉄筋コンクリート3階建て(一部4階建て)、ドーム屋根を冠した玄関棟の左右にシンメトリーに建物を配し、両脇を前面に張り出します。戦前に建てられ、本館として使われている府県庁舎としては3番目に古い築年となるこの建物は、関西や地元愛媛に多くの作品を残した木子七朗の代表作となりました。(萬翠荘(ばんすいそう)を造った人)玄関を入ったら、市松模様のタイルが貼られた床。柱や梁には多用な装飾が施されています。電話ボックスがある。普段、目に留まらないような細部までデザインが行きとどいている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■三津の渡し■を見てきた。細長く入り組んだ湾を挟んで向かい合う2つの地区、三津と港山の間約80mを結ぶ渡し舟『三津の渡し』。正式名称は松山市道高浜2号線、つまり市道なので年中無休・船賃は無料だ。室町時代に物資や食料の輸送に使われたのが始まりといわれ、500年を経た現在も、地区住民の生活に欠かせない足となっている。江戸時代には俳人小林一茶も、句会に出席するために乗ったと言われています。★長州藩の百姓身分の蘭学者だった大村益次郎も宇和島藩に招聘され士分の待遇を得る。その時、(山口県)周防を出て、瀬戸内海を横切りこの三津浜に上陸。幾つもの峠を越して宇和島藩に着いた。熟田津に 船乗りせんと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな <万葉集 額田王>万葉集に、熟田津に船乗りせんと月待てば・・・のよく知られた歌がある。斉明7年、百済救援のため新羅遠征に向かった斉明(皇極)天皇が四国の熟田津に停泊したとき、額田王が詠った歌と題詞にしるされているその熱田津こそ、三津浜ではないかと言われている。古三津の入口は今日の三津浜のあたり。深く入り込んだ港は、波静かで軍船を係留し、物資の補給処としての条件に恵まれている。●14132歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■■5月25-3■大洲城/「お道を」/伊予市・下灘駅■■5月26-1■松山城/子規堂■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.02
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■2023.5.26-1 春や昔 十五万石の 城下かな 子規俳句のまち、俳都といわれる、愛媛県・松山市にキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!。さっそく、ロープウエイに乗って松山城に。ロープウエイ・「長者が平(ちょうじゃがなる)」に着いた。ガイドさんの案内で松山城を見て回る。ガイドさんは、なんと大阪出身で私たちよりも年配だった!!見どころを押さえて見学したい、松山城について詳しく知りたいという人は、松山城ボランティアガイドに案内してもらうのもおすすめです。全国的にも珍しい、「登り石垣」と呼ばれる石垣があります。現存十二天守の中で「登り石垣」が残っているのは、松山城と彦根城だけ。 あまりの石垣の素晴らしさに戦国時代の石垣集団・穴太衆をえがいた「塞王の盾」を読まれましたかとガイドさんに聞いたら、ガイドさんは、やっぱり読んでいた。ふもとの二之丸と山頂の天守を、山の斜面を登る2つの石垣で連結させたものです。彦根城のものより長く、全長は230m以上。南側にほぼ完璧なかたちで残っており、三之丸(堀之内公園)や県庁裏登城道で見ることができます。また、高さ14mを超える屏風折りの石垣や扇のような曲線美を見せる石垣も現存。(▲太鼓櫓の石垣)壮大な石垣と城郭、木々が織り成す眺めは一見の価値ありです。▲正面は、大天守。小学生のグループの見学を何度も見た。松山市の中心部に位置する山の上に天守がそびえる松山城。城からの眺めが素晴らしく、標高161mもある天守の最上階からのパノラマビューは必見です。西には瀬戸内海、南には遠く石鎚山系が望めることも。▲深さ44メートルにおよぶ本丸の井戸などが保存されている。こんな強固な門が壊れるはずがないと思うような門がいくつもある。昔の人は、城を造る時に守りやすい土地を選んだ。それだけでは足りなくて、高い石垣を造り、門をいくつも造った。(▲こんな所にも石に刻まれたマーク。)石垣をよく観察していると、さまざまな模様の刻印を見かけることがあります。この理由は、いろいろな説がありますが、一般的には、石工組頭のサインと言われています。これは、複数のグループが石積み作業に携わっていることから、責任を明確にするため、石材のグループ分けや石工達の作業範囲の区切りのために付けられたというものです。帰りはリフトに乗って帰る。▲リフトの下に、「名言」が・・・。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆松山の一番の有名人は、正岡子規だ。ロープウェイ乗り場にも子規が大きく描かれていた。そんなわけで、松山城の後、子規堂に行った。子規堂は、正岡家の菩提寺である正宗寺(しょうじゅうじ)境内に建ち、子規が17歳まで暮らした家を復元した記念堂である。子規堂内には、子規の直筆原稿や遺墨・遺品などを展示しており、筆まめで鋭敏な子規の性格を感じとる事ができる。勉強部屋や愛用の机などもみもの。正宗寺の境内墓地に入ると右手に高浜虚子の筆塚、正面には子規の埋髪塔と内藤鳴雪の髭塔があり、その後方には正岡家のお墓がある。また、子規堂の正面には夏目漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と評した通称『坊っちゃん列車』の客車もある。松山市には、ミカンの産地らしく、オレンジ色の可愛らしい電車が走っている。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■■5月25-3■大洲城/「お道を」/伊予市・下灘駅■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.22
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■2023.5/25-3大洲城は、大洲市にある日本100名城のひとつ。天守は復元されたものですが、櫓は当時のものが残っています。江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在に至る地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成往時を忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階である。中央付近に心柱が通され、それに伴い2階の床には吹き抜けが造られていた。外観は、下見板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、窓には連子窓が多用されたが、2階には華頭窓のみが並べられていた。天守は2004年、残っていた絵図や古写真をもとに、忠実に木造で復元。勿論、エレベーターはありません。2020年春には、観光PRとして天守に宿泊できる企画も始まるようだ。一日一組限定で、宿泊料は100万円以上の設定とこじんまりした天守からの、大洲の町並み、肱川の流れと富士山(とみすやま)の眺めは、まこと“伊予の小京都”です。お城の下には、ホテルがある。内子と同じく、壁が黄色い。●大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。「大洲に変えたのは、慶長14年(1609)、この地の城主となった脇坂安治。彼は、近江脇坂庄の人で、故郷の大津の地名と紛らわしいと考えたのだろう。脇坂家はのち播州龍野に移り、江戸期はずっと龍野城主だった。「街道をゆく14」より 」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆大洲を出て、海沿いに最終目的地の松山市に向かう。その前に、JR「下灘駅」に寄るが、とにかく、大洲で南伊予は終わりだ。********** (略)県境の上で、藤原さんと矢野さんに別れた。松野町の習慣では、南へ去る知人を県境まで送るという。私どももその習慣どおり送られた。まるい顔の藤原さんは、右手をすこしあげて、「お道を。・・・」と呪文のようにつぶやいた。お道を、とは南伊予のことばで、一路平安を祈る、という意味である。この優しい習慣は、江戸期からこの街道筋で伝えきているらしい。「街道をゆく14 南伊予・西土佐の道」司馬遼太郎**********「お道を」って素晴らしい言葉。この短い言葉の中に、「さようなら」と「御無事で」が入っている・・・。この言葉は、松野町の人が県境を越え南へ去る人におくった言葉だというが、全伊予、いや四国全土で流行ればいいのにと思う。お遍路さんにかける言葉として最高だ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■下灘駅(しもなだえき)■松山駅から普通列車に揺られ、およそ1時間。ホームにぽつりと佇むのは、古びた上屋とベンチ。何一つ遮るものがない、瀬戸内海の眺望。下灘駅(しもなだえき)は、愛媛県伊予市双海町大久保にある、四国旅客鉄道(JR四国)予讃線(愛ある伊予灘線)の駅である。下灘駅にあるのは、唯一無二のフォトジェニックなロケーションです。日中は紺青、たそがれ時は茜色に染まる視界。そして地元の方が育てた四季折々の花たち。いつ訪れても心ときめく情景が迎えてくれます。数々の映画やドラマのロケにも使われ、今や日本一有名な海の見える駅と言っても過言ではありません。ホームから広い海(伊予灘)を眺めることができ、駅周辺は鉄道写真の撮影名所の一つとして鉄道ファンの間に知られている。海面を埋め立てる形で国道378号が開通するまでは、ホームの下にすぐ波が打ち寄せるほど線路と海岸が近接した「日本一海に近い駅」だった(この名称は現在でも使用される場合がある)。下灘駅の目の前で営業しているオープンエアカフェスタンド。可愛らしいフォルムの白いワゴンが印象的で、写真映えもバッチリです♪国道378号線はかつて存在せず、駅のすぐ下まで海が広がっていました。駅前に置いてあるベンチの背に、四国が・・・。●隣の駅は「串」。「串」地名が「岬」の地名に多いのは、朝鮮語の「コス」(岬の意味)から来ているという説がある。西日本に「串」地名が多いのは、やはり渡来人との関係を思わしめる。▲観光客がけっこういる。▼駅の近くの家は無人が多かった。階段があちこちにあったが、山と海に挟まれた土地で、作物を作るために登った階段ではないかと思う。▲日が暮れてきたので、この日の宿、松山に急ぐ。▼途中、宮下 松山自動車道伊予灘SA(上り)で一休み。石手寺(いしてじ)へまはれば春の日暮れたり 子規明治28年作。石手寺は真言宗豊山派の古刹で四国霊場51番札所。子規はこの年、病気療養のために帰省。漱石の下宿である愚陀仏庵で50日あまり同居した。同9月20日、柳原極堂と共に石手川堤や石手寺を吟行した。SAから町が見えた。松山だろう。この日の夕食は「餃子の王将」。●16692歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■■5月25-2■大洲市:晩翠荘/臥龍山荘■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.19
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■2023.5/25-2内子町の隣の市、大洲市にやってきた。ここでは、まず、盤泉荘を見るが、大いに迷ってやっとたどり着いた。盤泉荘、(旧松井家住宅)は、フィリピンのマニラで貿易会社を経営し、マニラ、セブ、ダバオの各地で百貨店を経営する等、多角的な事業拡大を行い大きな富を成した松井國五郎氏によって大正15年に建設された別荘です。鬼瓦にはイニシャルの「K・M」を用いるなど、松井國五郎氏の国際性豊かな一面が反映されています。高台の急斜面にせり出すように建つ木造3階の建物。窓からは、柚木の町が一望でき、肱川や冨士山(とみすやま)、柳瀬山、亀山などの典雅な自然景観が眺望できる別荘としても最適な場所に建設されています。横の廊下の板は、フィリピン産の太平洋鉄木と呼ばれるくらい重さや硬度がある南洋材イピール。長大な一枚板が20枚連続している廊下は圧巻です。伝統的技術と近代的技術を駆使しながら、数寄屋造りと伝統的書院造りを組み合わせた近代和風の貴重な別荘建築として評価されるものです。縁起のいい「蝙蝠(こうもり)」をデザインした襖の引手。この扉の奥に「横井戸」がある。50メートル以上掘削された裏山の岩盤からしみ出す「横井戸」の水を利用していたことから「盤泉荘(ばんせんそう)」と称される。二階から見た近所の屋根には、雪止め瓦が・・・。一軒や二軒ではなくかなりあったので、聞いてみたら、冬は雪が降るのだそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆国指定重要文化財の■臥龍山荘■に行った。現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。昭和53年3月20日に大洲市はこの地を寅次郎の養子・陽一氏より譲り受けて保護管理することとなり、昭和55年春より大洲市の観光拠点として一般公開されるようになりました。昭和60年2月、臥龍院、不老庵が愛媛県の有形文化財として指定を受けました。また、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンにおいて一つ星を獲得しています。臥龍淵を眼下に見る崖の上に懸り造りに建てられた数寄屋造りで、庵そのものを船に見立てて作られており、天井は竹網代一枚張りを船底の形のような形にしてあります。対岸の冨士山右端から月が昇り、天井に反射して部屋を明るくする巧妙な趣向が施されています。床には2間幅の仙台松の1枚板を使用し、2間の曲がり竹を落とし掛けにし、違い棚をつけない簡潔な仕上がりです。入口縁続きに大徳寺庵孤篷庵に見るような素朴な意匠の茶室があり、外に出て裏に廻ると生きた槇の木を使った「捨て柱」が見られます。これは建築当時、懸り造りの基準に使われたもので建てられています。臥龍山荘の門をくぐれば特徴的な石積みがすぐ右手に目に入り、「乱れ積み」「末広積み」「流れ積み」と変化を持たせた石積みの中に生きた「チシャの木」が繁茂し、自然と人工の共存を感じさせてくれます。次に石垣の中に埋め込まれた石臼に目をとられます。流れ積みの中に船に見立てた石があり、何かを語りかけられているようでもあります。▲冷蔵庫のなかった時代、「氷室」として使われていた。●肱川の名前の由来●*流路が肱のように屈曲しているからという。*泥土やぬかるみを「ひじ」と呼び、「比治」などの字を当てていた。「土方」(ひじかた)などもこれに由来すると言われる。こうした「ひじ」の多い川で「ひじかわ」とも言われる。肱川は古くは、「比志川」あるいは「比治川」とも表記されていたこともこれを裏付ける(堀内統義『愛媛の地名』(2000年)大洲の鵜飼いは日本三大鵜飼の1つに数えられ、鵜飼いは観光資源として残っている。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■■5月25-1■木蝋で栄えた重伝建の町・内子、内子座■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.18
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■2023.5/25-1江戸後期から明治にかけて建てられた町家や豪商の屋敷が軒を連ね、木蝋生産で栄えた町の面影を残す内子町・八日市・護国の町並みをガイドさんの案内で見てきた。●町家や商家が並ぶ八日市・護国の町並み●江戸後期から明治にかけて建てられた町家や豪商の屋敷が軒を連ね、木蝋生産で栄えた町の面影を残す。黄土と漆喰で塗り込められた重厚な大壁や平入り造りが特徴。隣家との間に残る小道や水路は、大壁や石積などと相まって独特の路地空間を生んでいる。 ▲懸魚[げぎょ]や虫籠窓[むしこまど]など、家々の意匠も興味深い。重要文化財の大村家住宅、本芳我家住宅、上芳我家住宅を含む600mの通り一帯が重要伝統的建造物群保存地区。▲木蝋を作る道具。▼▲盗難防止用の「蝋垣(ろうがき)」。▲懸魚(げぎょ):家を火事から守るまじない。▼屋根の妻におき破風(はふ)の下にたらし,棟木(むなぎ)や桁(けた)を隠す飾板。屋敷の中に入って見学できるとことがあって、中に、懐かしいこたつが!!▼庭に大きな木があった。タイサンボクの大きな白い花が咲いていた。▼この町に残っている昔の家は、小さなところまで気を抜いていない造り。どの家も栄華の跡がみえる町だった。●内子座●道後温泉本館と並び愛媛県を代表する木造建築。正面に太鼓櫓[たいこやぐら]を据えた入母屋造の木造瓦葺2階建てで、大正5年(1916)に建てられた。昭和25年(1950)に映画館に改装され、昭和60年(1985)に建築当時の芝居小屋の姿に戻った。花道やお囃子[はやし]のいた黒簾[くろみす]など歌舞伎劇場の形式が興味深い。現在も不定期で芝居や文楽の公演が行われている。▲内子座の家紋。瓦にも「内」をデザインしたものが!!▲「芸於遊」芸に遊ぶ。かつて、内子の旦那衆は、この内子座で自ら演じて遊んでいたそうだ。▲ベランダのようなところに役者が並んで顔を見せる。これを「顔見世」という。師走の京都の南座で、役者の看板を並べることを「顔見世」というが、内子座のように役者が並んだことに由来する。内子の町には日本的な古い邸宅が残っているが、レトロな建築もあった。▲遍路道さえも古くて味がある。▼古い町並みを行くお遍路さん。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.17
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■5/24-3●苔筵●西予市にあり、四国八十八景に選ばれている苔筵。55苔庭が美しく透き通るような空気がおいしいギャラリー喫茶「苔筵」。店内でコーヒーや苔饅頭をたべることができます。ギャラリー喫茶「苔筵」からの眺めは額縁に入った絵画のようで、飲み物をいただきながら、または散策しながらとゆっくり眺めを楽しむことができるスポット。苔庭を歩くことも出来ますので、目を閉じ深呼吸をしてみてはいかがでしょうか??広さ2,250㎡のかつて棚田だった石積みに一面に広がる苔庭に樹々の間から光が差し込む瞬間は幻的で心を奪われる。カフェスペースは、テラス席と店内にもあります。テラス席は苔庭を眺めながらお茶することができますよ。お父様が棚田をされていた場所を、オーナーの村上さんが継いで5年かけて現在の状態にしたのだとか。毎日苔を植え、水をやり、手入れをして気の遠くなるような歳月をかけたこけむしろは訪れる人すべてを癒やしに包みます。●12656歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■■5月24-2■宇和島の町/宇和島橋/西予市町歩き■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.08
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■2023.5/24-2この前日、宇和島市に泊まったが、ホテル1階は、鉄道の改札口になっている。部屋からJR予讃線及び予土線の終着駅が見える。当駅は線路が途切れた形の終着駅となっている。●ワシントンヤシ通り●JR宇和島駅前のヤシ並木。街路樹の景観に優れた場所として「新・日本街路樹100景」や、宇和島市の美しい風景を指定した「うわじま新24景」の一つに選ばれている。昭和39年頃に植樹された約1m程のヤシは、現在は約16~17mに成長し宇和島市の象徴として、南国情緒溢れる景観を作り出している。駅前広場には闘牛のモニュメントや花壇、ベンチなどが設けられ、市民の憩いの場として広く親しまれている。闘牛は宇和島の名物でマンホールにも闘牛の絵が。●宇和島・牛鬼祭●のマンホール。●やつしか●仙台藩主伊達政宗の長男、秀宗が慶長20(1615)年に宇和島藩に入部した後に始められたとされるもので、江戸時代以来の伝統を持っている民俗芸能のマンホールの絵。宇和島名物「鯛めし」は、ホテルで食した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆宇和島市を流れる辰野川に架かる橋が宇和島橋。見た目からとても歴史を感じる橋です。橋の横に案内板があり、もともとは、大阪の長堀川に掛けられていた橋で、江戸時代この橋の前に宇和島藩の蔵屋敷があったことから、宇和島橋と呼ばれていたとのこと。大正15年にコンクリート造りに掛けかえられ、親橋はその時のもの。昭和45年に橋が撤去される際に、宇和島市に寄贈されたとのことです。とても雰囲気のある親柱です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆宇和町卯之町(うわちょううのまち)は愛媛県西予市にある重要伝統的建造物群保存地区をガイドさんの案内であるくことに。その前に宇和民具館を見た。亥の子の道具や「やつしか」、「牛鬼」など民族芸能が残っている。次に行ったのが開明学校。開明学校(かいめいがっこう)は1882年(明治15年)に愛媛県西予市宇和町(旧・東宇和郡宇和町)に建てられた、四国最古の小学校である。重要伝統的建造物群保存地区として選定されている宇和文化の里(宇和町卯之町)の施設のひとつ。旧開明学校校舎は、木造2階建、桟瓦葺きで、窓枠をアーチ状につくるなど、わずかに洋風の意匠を取り入れた擬洋風建築である。地元の大工によって建築された擬洋風建築であり、建築史上、教育史上に価値が高い。町のマンホールの絵も開明学校が・・・。女性ガイドさんが袴姿で先生役、私たち夫婦が小学生役。上の歌詞は、「てふてふ(ちょうちょ)」のメロデイで歌う。古い町並みにお遍路さんの休憩所がある。古い「松屋旅館」。「松屋旅館」は、前島密、新渡戸稲造・・・などなど、そうそうたる著名人が泊まった由緒ある旅館だ。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■■5月24-1■愛媛県:宇和島城/天赦園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.03
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■2023.5/24-1「いっぺん きんさいや 宇和島へ」と言われたので、愛媛県・宇和島市へ行ってきた。宇和島市の周りは、北宇和郡、南宇和郡、西宇和郡などの地名があるが、明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により宇和島藩は宇和島県となったというからこの辺りの中心的な町だったのだろう。観光案内所で「鹿踊り」の置き物を見てビックリ!!「鹿踊り」って岩手で見たけど、なぜここに?ガイドさんの案内で宇和島城へ。 伊達秀宗は戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子として育つ。後に正室に息子が生まれたので、正宗が徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願した。幕府は政宗の大坂冬の陣の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えた。そのため、「鹿踊り」という東北の文化が入ってきた。それで宇和島の伊達家の家紋は、竹に雀で仙台の伊達藩と同じ。ちなみに、向かい合う雀は、左:阿 右:吽の阿吽になっている。お城にも、仙台伊達家の使用している紋が使われている。上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」。一番上が●九曜紋(くようもん)●星といえば、★が一般的な現代だが、昔は●で表された。勝ち星などに通じるため武士の間によく使われた。竹に雀。「三つ引き両紋」。伊達家の1世である伊達朝宗が、藤原討伐の褒賞として源頼朝から下賜された家紋です。古来より「災い除け」として『古事記』などの譯(はなし)にも登場する桃の形の瓦。しかしこの天守閣、なにか変?天守の入り口には唐破風屋根で開放的な造りの玄関が用いられている。戦いのシンボル的な天守閣なのに、正面に玄関がある。敵を迎え入れてどうする!!壁には狭間や石落としなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。使い勝手や装飾が重視されていることから無防備な太平の世の建築であるといわれるが、実際はすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計であったと考えられている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆●天赦園(てんしゃえん)●宇和島藩第7代藩主である伊達宗紀が、隠居場所として建造した池泉廻遊式庭園。伊達家の家紋「竹に雀」に因み様々な種類の竹をはじめ、藤や花菖蒲などの四季折々の花が植栽されている。名の由来は、伊達政宗が隠居後詠んだ馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せんという漢詩から採ったもの。(藤の満開時はこうなる)園内には多くの藤棚があり、中でも池上にかかる太鼓橋式の藤棚にかかる白玉藤は、この園ならではの風景となっています。▲太鼓橋式の藤棚にかかる白玉藤。伊達氏の祖先が藤原鎌足で、その家紋は「藤」というところから。樹齢300年を超えるといわれる「野田藤」も。ノダフジ(野田藤)の名は、この種が植物学者の牧野富太郎により命名されるきっかけとなった、フジの名所であった大阪市福島区野田にちなんでいる。摂津(今の大阪)野田村は「吉野の桜、高尾(高雄)のもみじ、野田の藤」と言われるほどフジの名所であった。宇和島藩の参勤交代の帰り道、この美しい藤をもらい受け天赦園に移植した。いつからここにいたのだろうというくらいの松の老木が・・・。水と緑の庭園にいやされる・・・。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■■5月23-2■見残し海岸/宿毛市・林邸■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.24
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■2023.5/23-2土佐清水市の地図の左の方<6>に「竜串海域公園」<7>に「見残し海岸」というのがある。「竜串」の地名の由来は、竜を串刺したような景観から名付けられた説やアイヌ語に因む説、竜山の竜臥(たつふし)が転訛した説、など諸説が立てられている。見残し海岸は竜串海域公園の千尋岬にあります。「見残し海岸」に行くために、チケットを買って、グラスボートに乗り込む。ボートの底に、カラフルな魚が泳いるのが見える。シコロサンゴも見える。見残し湾の、シコロサンゴ群体は国内最大のもので、高知県の天然記念物に指定されている。シコロサンゴのシコロとは、兜の部位の名称でガイドさんが兜の図で教えてくれた。「見残し海岸」の船着き場にグラスボートが着いた。グラスボートの着いた場所にある石。私たちを残してボートは帰ったので、迎えに来てくれる時間でこの辺りを散策する。人がひとりやっと通れるところを通りながら行く。そうそう、このガイドさん、足摺岬を案内してくれたガイドさんのご近所さんだそうだ。▲ガイドさんの下に見えるのは、「こけし岩」。言われればそう見える。▲右側の岩は獅子の頭のように見えるから「しし岩」。▲砂岩が波食や風食を受けて形成された岩が広がりる。▼歩いて行くにはあまりにも難所なため、弘法大師がこの地を見残したことから、「見残し海岸」と名前がついたと言われているが、なかなか見ごたえがあった。地震が来たら、ガイドさんが笛を吹くことが決まっているそうだ。ボートが迎えに来てくれて無事、港に帰れたが、地震が来たら、津波が来たらと思うと怖かった。▲観光案内所などあちこちに遍路さんが接待を受ける所がある。▼足摺サニーロードを通って次の目的地へ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆宿毛(すくも)市は高知県の西の端の市。すぐ隣は愛媛県だ。その宿毛市にある「宿毛まちのえき林邸」に行った。■宿毛まちのえき林邸■林邸は林有造の邸宅として明治22年(1889年)に建設され、幡多地域における自由民権運動の本拠地として重要な役割を担いました。以来、130年以上に渡り、自由民権運動の系譜を連綿と引き継ぐ邸宅として親しまれてきました。親類の吉田茂(政治家)、竹内明太郎(小松製作所(現コマツ)創業者)らと共に近代日本の発展をリードした一家です。当時の政治家支援者の集いの場だった林邸には、連続する大きな座敷や、客座敷・客席のための「月見の間」の他にも、刺客に備える見張り番が控える正面玄関上の「見張り部屋」や、一階と二階をつなぐ隠し梯子など、独特の機能を多彩かつ優美に盛り込んだ建築となっています。▲二階の植物。▼▲古い道具に植物がおしゃれに♪▼▲「胴らん」という植物採集の時使う道具。高知県はここで最後、林邸の一部がカフェになっている。この後、いよいよ、伊予(宇和島)に入る。●6708歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■■5月23-1■足摺岬/ジョン万次郎■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.22
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■2023.5.23-1ジョン万次郎の像の前で、8:50に、ガイドさんと合流。足摺岬は、四国の最南端。足摺灯台、金剛福寺など足摺岬の観光地を歩を歩いた。弘法大師の言い伝えのあるとことがあちこちにあって、ガイドさんの話が面白かった。足摺岬といえば、灯台で、灯台の真下にも行った。金剛福寺は、四国八十八か所・三十ハ番札所で、城主山内家のあつい庇護を受けていた。灯篭などあちこちに山内家の家紋、柏が。境内の池の蓮の花が美しい。前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ジョン万次郎の生家に向かう。万次郎は、漁師だったので苗字はなかった。アメリカから帰国したさいに苗字を許され、中ノ浜村の万次郎から「中浜万次郎」と名乗った。足摺岬で見た万次郎の像は、ヘアー・ヘブンを見ている。ヘアー・ヘブンとは、万次郎をアメリカに連れて行った船長の家のある場所。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆日米の架け橋として活躍した万次郎の生涯を紹介している■ジョン万次郎資料館■へ行ってきた。高知県は坂本龍馬が一番有名だが、ここ土佐清水市では、ジョン万次郎、一択押し、市をあげて■「ジョン万次郎を大河ドラマに」■という運動をしている。万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって難破してしまう。5日半漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びた。これは、青の点線で記される黒潮の流れが、その年に限って赤の軌道で流れたからだという話だった。この流れは10年に一度だそうだ。10年後、万次郎は帰国できたのであるが、何回も取り調べを受けた。その時担当した侍が絵心のある人で絵を描いていた。それが↑の絵。 鉄道、軍艦、金鉱、教育、選挙……これが西洋というものか! 幕末の志士に影響を与えたと言われる驚異の見聞記。見残し海岸を目指す。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■■5月22-2■四万十市郷土博物館/安並水車/足摺岬■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.21
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■2023.5/22-2四万十市にある■四万十市郷土博物館しろっと■に行ってきた。山内一豊の弟、康豊の居城であった中村城跡にある城の形をした博物館。館内には、四万十川や支流と紡いできた暮らしや歴史・文化を「川と共に生きるまち」として紹介。最上階は展望台となっており、四万十川、東山、市街地を一望することができます。▲「いしぐろ漁」石を積み上げたものを「いしぐろ」という。▼(私は子どもの頃、藁を積み上げたものを「わらぐろ」と言っていた。)▲昔の四万十川では、何か所かに「向い地蔵」があった。渡る前に、無事を祈り、無事に渡れたら、無事に感謝の祈りをささげた。四万十市郷土博物館の周りは、土塁が残っている。▲スマホを見るお遍路さんに遭遇。(-人-)津波の避難タワーを見ながら、次の目的地へ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆四万十川の支流になる後川。この流れで美しき水車を見ることが出来ます。それが「安並水車の里」。遡ること藩政時代。土佐藩の家老であった野中兼山(元和元年(1615年)一寛文3年(1664年))が、四万十川の支流から潅漑用に水路を作ったのが始まりとされています。野中兼山の土木作業は土佐藩の第二代藩主・山内忠義(文禄元年(1592年)一寛文4年(1665年))から命じられたものです。水路はかつて「溝」と言われており、四つの村に利用されたことから四ケ村溝と呼ばれていました。現在は約15基となっていますが、明治の頃には約50基が回っていたのです。水車は現在、観光用となっています。安並水車の里を後に、四国の最南端、足摺岬に向かう。途中、野菜の無人販売があった。無人店舗のことを高知では「良心市」という。「出し売り」や「ダンマリ」といった名称を使用していた地域もあるそうだ。■良心市■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆足摺スカイラインを通って、四国最南端の地、足摺岬に到着。次の日、岬の最南端をガイドさんと歩くので、この日は、「万次郎の足湯」という建物に入った。中には、足湯があってガラス越しに白山洞門太平洋が眺められる。自然の力で岩場にできた神秘的な洞門と太平洋が見える。白山洞門は、高さ約16m、幅17m、奥行き15mと海食洞としては日本最大級。遊歩道から急な階段を下ってすぐ近くまで行くことができます。けど私は行かなかった。「万次郎の足湯」の近くには、「足摺亜熱帯植物園」があった。亜熱帯って、さすが南国土佐だ!●5717歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■■5月22-1■四万十川:沈下橋と遊覧船■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.19
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■2023.5/22-1四万十川の沈下橋とは、増水時に川に沈んでしまうように設計された欄干のない橋のこと。「造るのにお金がかからない、そして、増水時にはそのまま川に沈んでしまって壊れる可能性も少ない」のが沈下橋。地元の人にとって沈下橋は、生活のための橋。少し膨らんでいる所ですれ違う。緑の山々に青い四万十、そして沈下橋という風景は、もっとも四万十川らしい風景でしょう。河口からいちばん近い沈下橋は、佐田(今成)沈下橋で、橋を渡るときの気分はそう快です。他に、四万十川の本流域(四万十市内)だけでも、三里、高瀬、勝間、口屋内、岩間、長生、中半家、半家の沈下橋があり、いずれも四万十川らしい、川と人との関わりの感じられる風景が見られます。橋から飛び込んで泳いだら気持ちいいだろうなと思ったら、危険だそうだ。四万十川では、カヌーを体験できるところが何か所もある。四万十川は四国最長の196kmもある川で、そこにかけられている沈下橋は本流・支流を合わせると、実に47本にもなるのです。四万十川はその流域全体が文化庁の指定する『重要文化的景観』となっています。文化的景観とは、単なる景色や環境の良さではなく、例えば沈下橋・棚田・伝統漁法など、自然と調和し、川とともに発展してきた人々の暮らし、一種の原始的な文化が残っていることが、評価されていることの現れと言えるでしょう」■四万十川の沈下橋■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆沈下橋を何か所か見た後、屋形船に乗って、船の上から四万十川を体験することに。三里乗船場から船に乗る。大きなS字を描く航路からは民家や道路がほとんど見えないので、大自然の景色を思い切り満喫できる。三里沈下橋を潜って・・・。気持ちのいい川風を感じながら進む船。佐田沈下橋の手前でUターン。交差する屋形船の客はお互いに手を振り合って、挨拶する。観光バスも何台も見かけたが、「モネの庭」、「牧野植物園」そして四万十川は、必須の観光地だ。蛍にカヌーに屋形船・・・と楽しい四万十川は、暴れ川で、印をしている高さまで水かさがあったという。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ホテルの近くに幸徳秋水の墓があった。この地の生まれだそうだ。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■■5月21■高知県:カルスト公園・天空の道/屋根のある橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.18
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■2023.5/21高知県と愛媛県の県をまたいで建っているホテルを出てカルスト公園の中の道を行く。■まるで絵画のような日本の絶景6選:4分頃■カルストというのは、数億年前はサンゴ礁の海だった地形が隆起して石灰岩などの水に溶解しやすい岩石が、雨水、地表水、土壌水、地下水などの浸食作用で出来た地形です。 昨日、ホテルのフロントに「らんまん」の写真を飾っていたので見ていると「『らんまん』ご覧になってますか?ここに撮影に来られましたよ」とホテルの人に言われた。次の日によく見ると、テーマ曲の場面でこの辺りの景色が使われていた。四国カルストは、愛媛県と高知県との県境にあり標高は約1200~1400m・東西の幅は約25kmのカルスト台地で、三大カルストでは圧倒的に標高が高いのが特徴です。カルスト台地は水はけが良いため樹木が育たず、多くが草原であるため乳牛の放牧地になっています。県道383号はカルスト台地を東西に横断する道路で「四国カルスト公園縦断線」と呼ばれ、日本百名道にも選定されています。360度のパノラマ風景や四季折々の絶景が楽しめるとあって、四国を代表するドライブ・ツーリングコースとなっています。景色の良い場所や展望所には駐車場が作ってあったり、路肩に駐車スペースもあるので自由に停めることが出来ます。白い岩がごろごろ転がっているのではなく、地肌が見えているのです。姫鶴平(めづるだいら)は牧草地五段高原の頂上から見えるなだらかな緩斜面に作られた牧草地帯。■四国カルスト■曲がりくねった道を下へ下へと下りてゆく。この日の泊は四万十市。最期の清流とうたわれた四万十川を見に行く。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆車で四万十市に向かっていると川沿いに、不思議な橋を発見。▲神幸(みゆき)橋という名前の橋で、川の向こうにある神社の参道だそうだ。早速、渡ってみる。▲橋の真ん中は、少し広くなっている。▼橋を渡ると、三嶋神社があった。三嶋神社は、高知県高岡郡梼原町にある神社だ。創建は919年で、津野経高(つのつねたか)が伊豆の三嶋大明神を勧進したのが始まりだそうだ。坂本龍馬が土佐藩から脱藩した時に通った道がここだそうだ。神社側から見た神幸(みゆき)橋。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆四万十町(四万十市にあらず)をガイドさんと歩いた。▲ここにも雨から壁を守る「水切瓦」が。▲この日もサルトリイバラの葉に包まれた餅を発見!!そうこうしているうちに、今日のホテルのある四万十市に着いた。●8410歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■■5月20■高知県と愛媛県にまたがるホテル■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.17
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■2023.5/20この日は、高知市から、高知県と愛媛県の境目にある、「星降るビレッジ TENGU」まで行く。横浪黒潮ラインは、高知県の土佐湾に東西に細長く伸びる横浪半島の南側断崖の尾根に沿って縦断する延長約19 kmの道路で、東端は浦ノ内湾口に架かる宇佐大橋から西へ向かい、西端の浦ノ内湾の最深部沿岸まで続く。リアス式海岸を持つ横浪半島の峰に沿って東西に走る爽快なドライブコース。竜埼、ツズラ崎、帷子崎(かたびらさき)、地の鼻、甲崎・・・と海沿いの地形の名前が面白い。沿道は複雑な形をしたリアス式海岸がみられ、眼下には雄大な太平洋を臨み、北には穏やかな浦ノ内湾や四国山地を見ることができます。横浪半島の19kmに渡って走る風光明媚なコースはわざわざここを目指して来るドライバーもいるほど。須ノ浦駐車場には、武市瑞山銅像が。雛菊「月様、雨が…」月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」月型半平太は、武市半平太がモデル。武市半平太の銅像は昭和54年12月、坂本龍馬も中岡慎太郎も銅像になっているのに、リーダー武市半平太の銅像がないのはと募金によってここに建立されたものだ。その他、高知県の有名人の写真もあった。でも、吉田茂は、東京生まれですから~、残念~。▲足摺岬や桂浜のタイルがあった。▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆若葉風 県超え続く遍路道 はるな車は海沿いから山に入っていく。遍路さんが一人で歩いている。徳島県から遍路さんよく見るわぁ。どんどん山の中に入っていく。「道の駅 布施が坂」が近い。▲「道の駅 布施が坂」に車をとめて、持って行った弁当を食べた。▼▲この辺りは、茶畑が広がっている。▲「道の駅」で売っていた「かしわ餅」。四国は、柏の木がないという四国において、「かしわ餅」は、サルトリイバラの葉に包むというのは、ガイドさんに聞いたことがあるが、写真にうつしておこう。▲これは、北海道訓子府町より贈られたものだそうで、“訓子府町” とは姉妹町なのだそうです。▲過酷な地形で米が作れないので北海道に開拓に行ったのだと思っていたら、よく分からないとのこと。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆四国カルスト(しこくカルスト)は、愛媛県と高知県との県境にあるカルスト台地。標高は約1,400m、東西の幅は約25km。今夜は、愛媛県と高知県の境目にあるホテルに泊まる。▲敷地内にある県境ライン。▼ホテルの中にある県境ライン。まだ早かったのでホテルの近くのセラピーロードをちょっと散歩。▲セラピーロードには、ウッドチップが敷いてあって歩きやすい。▼●12175歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■■5月19-2■高知県:龍馬の生まれた町■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.15
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■2023.5/19-2高知城の後、行ったのは、「高知市立 龍馬の生まれたまち記念館」。龍馬の少年時代を中心とした映像や模型の展示、当時の町の様子や歴史が分かりやすく展示されています。ここから、ガイドさんの案内で、館内や市内を案内してもらった。坂本家の離れをイメージした部屋には、龍馬と龍馬の姉・乙女の蝋人形が設置されています。▲庭にも、腕組みする「乙女ねーやん」のそばに龍馬が・・・。亀山社中のメンバー・近藤長次郎(右)も座っている、ここは写真スポット。▲外を歩くと、龍馬の足跡があちこちに。▼▲この碑の筆跡は、吉田茂元総理大臣。吉田茂も高知県人だからとガイドさんの説明。▲雨の多い高知では、水害対策を沢山見た。▲これもその一つで、「水丁場の標柱」。鏡川の川べりにこの標柱が立てられ、出水時には武士、町人が協力して川から町を守った。(ガイドさん)■高知歴史散歩■▲この辺りは鏡川に近く水害を考えて石の塀で囲い、家の高さを高くしている。▲「高知市立 龍馬の生まれたまち記念館」の前の小さな水路は、江戸時代からのもの。道路が狭いのに埋め立てられなかったのかと聞くと「高知は雨が多いから小さな水路でも埋めてしまうと大変なことになるんです」とガイドさん。▲泊まったホテルの前にも同じような水路が残っていた。▲高知市には、古い町割りが残っている。この水路も江戸時代からのもので下水として活用されたそうだ。歩いていると、柏の木発見!!「四国には、柏の木をあまり見ないから、柏餅はサルトリイバラの葉に包む」と手羽島(てばじま)を案内してくれた時、お茶とサルトリイバラの「柏餅」をくれたガイドさんの話を思い出す。土佐藩、藩主・山内家の紋所は柏。柏紋は、柏の葉を模した家紋です。古来、柏は神木とされ、その葉は神事用の食器として用いられていました。また柏の古い葉は、次の春に新しい芽が出てくるまで落ちない。 家系が絶えない子孫繁栄の縁起物とされた。 ▲レトロな市電。♪土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見たよさこい、よさこい~で有名な播磨屋橋は、4か所あるというけれど、これもかな??▲(車で通っていた時に発見)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆桂浜に行った。坂本龍馬が太平洋に向かって立っていて、観光客が写真を撮っている。▲坂本龍馬と同じ目線になれるという特別展望台が龍馬像の隣にあって、▲夫が早速登った。▼♪月の浜辺で焚火を囲みしばしの娯楽の一時をわたしも自慢の声張り上げて歌うよ土佐のよさこい節をみませ見せましょ浦戸をあけて月の名所は桂浜と「南国土佐を後にして」にうたわれた「桂浜」。桂浜には、長曾我部氏時代には、城があったという。▲桂浜の地名は、勝浦からと言われる。▲龍王岬から見た桂浜。●12050歩▲翌日、土佐市で見つけた桂浜のタイル絵。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■■5月19-1■高知県:高知城■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.12
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■2023.5/19(金)-1 佐藩初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)により創建されて以来、約400年余りの歴史を持つ「高知城」は、“南海道随一の名城”と謳われる優美な姿を今に残す高知市のシンボル。日本国内で江戸時代から天守が現存している12城のひとつであり、天守や追手門など15棟が重要文化財に指定されています明治時代に発布された廃城令や太平洋戦争、南海地震など、様々な危機を乗り越えたうえに、15棟もの建造物が現存している貴重なお城であることから、日本100名城に選定されています。また、追手門と天守を1枚の写真に納めることのできる、全国でも珍しいお城としても有名です。▲手前にある門が追手門、奥に見えるのが天守。追手門と天守の両方が現存しているのは全国で3ヵ所(写真提供:高知県教育委員会)▲土佐藩初代藩主・山内一豊の像高知城は、慶長6(1601)年、山内一豊によって着工され、息子・忠義が土佐藩主を務めていた慶長 16(1611)年に、ほぼ全ての建物が完成しました。敷地内には「高知城観光案内所」があり、本丸までの無料ガイド(所要時間約50分)と、天守までの無料定時ガイド(9時30分~、13時30分~の2回、所要時間約90分)を実施。「土佐観光ガイドボランティア協会」のガイドさんが高知城の魅力をたっぷり教えてくれます。矢狭間塀の石垣の中には、ケ・シ・エ・ウという字が刻まれた石があります。「これは、どの石をどこに積むか分かるように掘ったのではないか、などと言われていますが、詳細は不明なんですよ。」と、ガイドさん。また、石垣の至る所に石樋(いしどい)という排水設備があります。これは、全国有数の多雨地域である高知県の城ならではなんだとか。(▲雨水を集める水路)雨水が城内に設けられた水路を流れて石樋から排水される際、石垣内部に排水が入って目詰まりがおきないよう、石垣から突出した造りになっているそうです。▲石樋を突出させることで、石垣に直接排水が当たらないようにしている。これらの石垣は、安土桃山時代に近江(おうみ)を中心に日本中で活躍した石工集団・穴太衆(あのうしゅう)により、自然石をそのまま積み上げる野面積みという方法で造られています。▲二ノ間と三ノ間の間に設けられた、うちわけ波の欄間。二ノ間と三ノ間の間には、名工・武市高明が黒潮の波をモチーフにして作りあげたと伝えられている、うちわけ波の欄間が配されています。シンプルですが、江戸時代に作られたとは思えないモダンなデザインが素敵!このデザインは、土産物屋の紙袋にも使われていた。▲山内家の家紋。一豊の父が戦の途中で指物(戦の間、鎧の背にさして目印にした小旗や飾り物のこと)が失われたため、代わりに近くにあった柏の枝をさして戦ったところ、勝利したという伝承に由来。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎は、この家紋と岩崎家の家紋を統合させて、会社のロゴを作成したんだそうだ。▲天守1階に展示されている築城の様子を再現した模型。高知城の木材は、同国内から石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注した、とされている。その他専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家家臣団も利用された。子供も工夫として参加させ、賃金も支払われた。一日の参加人数は1200人を超えたと伝わる。冬の寒い時期は粥などの炊き出しを行い、月の明るい夜は夜通しの工事も行われた。窓からは、青銅製の鯱(しゃちほこ)を間近に見ることができます。高知城の鯱は雄雌一対で、阿吽の相を表しているそう。青銅製の鯱は珍しいそうです。建物が火事の際には水を噴き出して火を消すという鬼瓦同様守り神とされた。▲あちこちに、ハートの形をした「猪目(いのめ)」が。▼ハートの形をした日本古来の文様。 火伏の魔除け、魔除けの装飾として神社などの建築物に設けられる。■高知城■高知県高知市丸ノ内1-2-1[開館時間] 9:00~17:00 ※最終入館16:30まで、公園内は入園自由■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■■5月18-2■高知県:弁天座・絵金・牧野植物園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.11
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■2023.5/18-2高知県・香南市にある弁天座に行った。■弁天座■明治33年ごろ、赤岡町の旦那衆がお金を出し合い、芝居小屋を造ったのが「弁天座」のはじまりです。昭和3年、一度火災で焼けましたが、すぐに再建しました。当時は毎日のように大衆演劇や映画などが興業され、芝居がはねた後は、人の波が絶えませんでした。弁天座周辺は地元は問わず、若い人の遊び場でした。しかし、時代の流れには逆らえず、しだいに客足は遠のき、惜しまれながら閉館。当時、娯楽の発信源だった「弁天座」。その頃の想いを込め、ふたたび平成の世に、装いも新たに誕生しました。多目的なスペースも兼ね備えた「弁天座」は、今後もまちの活性化と、芸能文化の向上を図っていきたいと思います。弁天座・所在地 〒781-5310 高知県香南市赤岡町795番地「弁天座」の前にあった、「絵金蔵(えきんぐら)」へ。絵師金蔵、略して絵金。 もとは土佐藩家老桐間家の御用を勤める狩野派の絵師でしたが 贋作事件に巻き込まれ、城下追放となります。野に下った絵金はおばを頼りに この赤岡の町に住み、酒蔵をアトリエに絵を描きました 。 「絵金蔵」では、町内に残された23枚の屏風絵を収蔵しています。 これらの芝居絵屏風は全て夏の祭礼の夜に飾るために描かれたものです。その後、朝の連続テレビ小説「らんまん」のモデル牧野富太郎の名前を冠した「高知県立牧野植物園」へ。■高知県立牧野植物園■は、高知県出身の世界的な植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう)博士の業績を顕彰するため開園した「高知県立牧野植物園」。園内には、牧野博士ゆかりの植物や、高知県特有の草花など3,000種類以上が咲き誇ります。JR高知駅から車で南東へ約20分。高知市街地を望む標高146mの五台山(ごだいさん)に「高知県立牧野植物園」(以下、牧野植物園)があります。この五台山は、牧野博士が青年期のころに訪れていた山で、植物園建設計画の際、牧野博士が「植物園を造るなら五台山がいい」と言ったことから、四国霊場第三十一番札所「五台山 竹林寺(ちくりんじ)」(以下、竹林寺)より土地を譲り受けて造られました。▲「土佐の植物生態園」には小さな滝や小川もあって涼しげな雰囲気▲「牧野富太郎記念館」本館から展示館へと続く回廊。▲トビカズラは常緑つる性植物。なんだか神秘的な姿「カンナ&ローズ園」のすぐ近くには、トビカズラという珍しい植物が根をおろしていました。トビカズラは、日本国内で果実をつけたという事例が多くはないそうですが、「牧野植物園」では、毎年、花と果実の両方が楽しめるそう!▲牧野富太郎像。右手には、カラカサタケというキノコを持っている▲散策ロードには、小川や池も園内でも人気が高い温室へ。熱帯さながらの室内では、国内外から集めた貴重な植物や色鮮やかな熱帯花木、熱帯果樹などを一年中楽しめます。▲オオオニバス。丸くて大きな葉が印象的大きいもので1枚の葉が直径1.5mから2mにもなるそうです。■牧野植物園HP■▲ガンゼキラン▼▲ガンゼキラン▼▲公園のあちらこちらに遍路道がある。すぐそばに、四国霊場第三十一番札所「五台山 竹林寺(ちくりんじ)」があるのだ。♪土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た・・・。という歌にうたわれた坊さんはこの寺の坊さんだ。●13382歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■■5月18-1■高知県:安芸市のシンボル野良時計等■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.10
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■2023.5/18-1「野良時計」で有名な高知県・安芸市(あきし)をガイドさんの案内で廻った。●安芸市のシンボル「野良時計」●家ごとに時計のなかった明治20年頃、この地の地主だった畠中源馬氏が、10歳の頃に父に買ってもらったアメリカ製の八角時計を分解しては組み立て、構造を理解し、すべての部品から手作りで作りあげた。以来、120年にわたって時を刻み続ました。古くから周辺で農作業をしていても遠くから時間を知ることができ、「野良時計」として現在も多くの人々に親しまれています。●弘田龍太郎(1892~1952)●大正・昭和期の作曲家弘田龍太郎は、明治25(1892)年6月30日安芸郡土居村西木戸(現在の安芸市土居)に生まれる。3歳の時に父の転任により千葉へ。その後、三重の中学校を卒業し、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学する。卒業と同時に、同校の助手を勤めますが、大正6(1917)年、作曲部の新設にあわせて再入学。その後、講師を経て、助教授となる。(▲イラストは、高知県出身の漫画家・はらたいら)本格的な作曲活動は大正6(1917)年頃から。童謡「浜千鳥」「雀の学校」「春よ来い」などの名曲を次々と発表し、童謡・歌曲作家としての地位を確立。●土居廓中(どいかちゅう)の街並み●土居廓中は、330年くらい前に5代目五藤正範が整地し、家臣の役分に応じた屋敷が成立しました。土地300坪、建物30坪が平均で、与力百石高の武士はこれ以上の土地をもらい野菜を作ったそうです。この一廓は、もとは武士だけが住むところで、農民や商人は、頬被りやはちまきは外し、木履をはいて通るのは遠慮されたといいます。特徴的なのは、ウバメガシ、土用竹の生垣や(▲土用ための生垣の手入れ)瓦と玉石を使った塀。土用竹の生垣は、夏の暑さ、冬の寒さ、強風を防ぐ役割がありますが、ここでは、いざという時、弓矢として使うために植えられたと言われています。ウバメ樫や土用竹の生垣は、土佐では武家のみにゆるされていたといわれている。また、割れ瓦を積み重ねた練り塀は瓦の産地ならではの、安芸地域ではよく見られる塀で、多くは幕末から近代中期にかけて造られました。安芸城の跡に行った。安芸市立書道美術館◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆伊尾木洞(いおきどう)へ行った。国道からわずか数十m入ったところに突如あらわれる空間。足元を浸すほどに水が流れるうす暗い洞内を進むと、急に空が開け、シダの群生と木漏れ日が美しい、幻想的な景色が広がります。シダの生い茂るこの天然の洞穴は、周辺が海だった頃、波が浸食することにより出来た天然のもの。洞の壁には貝の化石が見られるところもあり、高さは約5m、幅約3m、延長は約100mに及びます。この洞周辺の壁面と、その先の渓の岸には熱帯性シダ類を中心に、確認されているだけでも約40種類ほどのシダが自生しています。1ヶ所に多くの種類のシダが共生しているのは、とても珍しいとされており、シダ群落すべてが国の天然記念物に指定されています。▲マムシグサを沢山見た。伊尾木洞(いおきどう)を後にして車で移動していたら、津波の避難タワーが。地震がおきませんように・・・。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■■5月17-3■高知県:モネの庭■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.08
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■2023.5/17-3“光の画家”モネが描いた理想の庭「モネの庭」を再現した庭が高知県・北川村にあるので見てきた。この庭は、モネがこよなく愛したフランス・ジヴェルニーの庭をモデルに創られています。色とりどりの睡蓮とゆらめく水面、太鼓橋や藤棚、バラのアーチ、混ざり合う光と花の色…庭を散策すると、彼が描いていた風景をかいまみることができます。水鏡に映る木々や草花の美しい様子は、北川村のまぶしい光と青い山海を背景に四季折々の自然模様を描きだし、草木の成長とともにその姿を変えていきます。“光の画家”モネが描いた理想の庭印象派の巨匠クロード・モネは、列車の窓から見たジヴェルニーの景色の美しさに心奪われ、43歳でフランス北部にあるジヴェルニーに移り住みました。そして、セーヌ渓谷の肥沃な土地に、理想の家と庭を作りあげました。太鼓橋や藤棚・柳に竹、浮世絵の影響を受けたモネの日本を感じる庭は晩年彼をひきつけて止まないものでした。ジヴェルニーの庭は彼の創造の源泉となり、「睡蓮」などの多くの名作を生み出す舞台となりました。 北川村「モネの庭」マルモッタンは、この庭と家をクロード・モネ財団の指導を仰ぎながら、彼の精神と共に再現したものです。ジヴェルニーの庭は“光の画家”モネの創造の源泉とも言える存在でした。モネは自ら草花や木の種類を選んで庭に植えていました。それはまさに自分のキャンバスの上に絵を創作するのと全く同じで、後に「まるでパレットのような庭」「生きた美術館」と評されました。 彼はこの庭に3つの温室を建て、6人もの庭師を雇い、世界中から(もちろん日本からも)珍しい植物を集めるなど、大変な情熱を傾けました。実は多くの名作を生んだこの庭こそ、モネの最高傑作だったといえるのかもしれません。道楽や目の保養のためばかりでなく絵の題材として庭を作りたい。クロード・モネ池で作業している職員がいた。自然に見えて、ものすごく人の手が入っているのを感じた。雑草・イタドリがカッコよかった。あえて残しているのかな・・・?●フローラルホール●2011年にオープンした多目的ホールです。▲庭の中心部にあるギャラリー・ショップは、ジヴェルニーのモネのアトリエと家をモチーフにデザインされています。北川村「モネの庭」 マルモッタン高知県安芸郡北川村野友甲1100番地●10106歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■■5月17-2■高知県・室戸市:重伝建:雨風から家をまもる■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.07
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■2023.5/17-2国の重要伝統的建造物群保存地区、吉良川の町並みを見た。高知市から国道55号を車でおよそ1時間40分。「台風銀座」と言われたこの地域独特の土佐漆喰や、いしぐろが彩り豊かな「吉良川の町並み」をガイドさんの案内で歩いた。 ガイドさんは、「これ食べて」と言って枇杷を持って来てくれた。さすが南国土佐、枇杷がもう熟れていた。ホテルで食べたが、甘くて大きくて美味しい枇杷だった。 このまちは、備長炭で栄えた。このまちを通りかかった和歌山から来た遍路が、ウバメガシが沢山あるのを見て、炭を作ることをすすめたのが、このまちの繁栄の始まり。吉良川の民家の壁面には、土佐漆喰が多く使用されています。土佐漆喰の大きな特徴として、のりを使用せず、不純物を取り除いた消石灰に発酵した藁(ネズサ)を混ぜ、火災や雨に強く丈夫にしているという点があります。通常の漆喰の三倍も厚く塗り、一週間乾かして塗る、という工程を3~4回も繰り返し、職人技で仕上げます。最初クリーム色だった壁面は、一年間日に当たると藁の色素が抜け、輝くような艶が出て、鏡のような見事な白になるのです。土佐漆喰は、現存天守で重要文化財に指定されている高知城にも使われているんですよ!土佐漆喰に加え、吉良川の家屋を風雨から守るのは、壁面に3~5段で水平に突出す「水切瓦」です。室戸地方は「雨は横から降る!」と形容される程、暴風が吹き荒れる地域。そんな厳しい自然環境から壁面を守る工夫が、この水切瓦なんです。漆喰壁に絶え間なく吹き付け、流れ落ちる海水を含んだ雨水は、土佐漆喰にとっては天敵と言えるでしょう。水切瓦は、流れる雨水を瓦に伝わせることによって、庇から直接地面へ落ちるように考えられたもので、漆喰の雨水被害を最小限に止める役割を果たします。水切瓦によって、外壁は100年もの耐久力を発揮するのです。●「左桟(ひだりさん)」の瓦屋根。この家の場合、強い雨が左から右に吹き付けるように降る。だから、屋根瓦をこのような形=左桟にふいている。室戸地方は「雨は横から降る!」と形容される程、暴風が吹き荒れる地域。これも、そんな厳しい自然環境から壁面を守る工夫。丘地区に見られる防風石垣・いしぐろは、近隣の浜石や河原石を用い、半割にして、「ハンダ」と呼ばれる赤土と漆喰を練り合わせた接着剤で整然と積み上げた練り積みや、丸石の空積みなど、家々で積み方が違い、町並みに微妙な変化を与えています。●いしぐろ●石垣の高さも計算されつくしています。高ければ暑苦しく光が入らず、低ければ暴風を受けてしまう。絶妙な高さに築かれた石垣は、吹き付ける風を上に逃がして、光や手頃な風は入るようになっているのです。●「イシグロ」の「グロ」という言葉。「イシグロ」という言葉を聞いて、ぴんと来たのが、「ワラグロ」という言葉。子どもの頃、岡山で脱穀した藁を積み上げていたが、その積みあげた藁を「ワラグロ」と言っていた。■四国の宇和島でも「ワラグロ」という。■ 稲積の名称や形状は,各地で少しずつ異なっており,ニオのほかニゴ,ミゴ,ニュウ,ニョー,ツブラ,グロ,スズミ,ススキ,ホヅミ,イナムラ,イナコヅミなどと呼ばれ・・・。イシグロは、石を積み上げたという意味だろう。高知県は陸路が険しく船での往来が発達した関係上、古くから上方、京都、近世は江戸からの影響も強く、政治・文化的な中央への意識が高いとも言われている。近年は高速道路網の発達により、四国内指向が強まっている。<吉良川の町並み(まちなみ館)の基本情報>住所:高知県室戸市吉良川町甲2200-1電話番号:0887-25-3670アクセス:高知市内から車で約1時間40分(国道沿いに無料駐車場有)開館時間:9:00~16:00(火曜定休)●10106歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■■5月17-1■高知県:室戸岬/ジオパーク/弘法大師伝説■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.03
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■2023.5/17-1室戸岬にやって来た。室戸岬は、鯨で有名。あちこちで鯨の絵を見る。国の父さん室戸の沖で鯨釣ったと言う便りわたしも負けずに励んだ後で歌うよ土佐のよさこい節を言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ潮吹く魚が泳ぎよるよさこい よさこい▲クジラの像の近くに中岡慎太郎の像▼▲観光客は、この像を見て「坂本龍馬」というらしい。高知県は、鯨と坂本龍馬が有名。ある方向から見たら、「いるかに乗った少年」じゃなくて、「クジラに乗った中岡慎太郎」。( ´∀` )ガイドさんの案内で「室戸ジオパーク」を歩く。高知県を代表する観光スポットの室戸岬。海底が隆起して形成された奇岩の数々は、ユネスコ世界ジオパークに指定されるなど、室戸岬ならではのもの。生物の活動の痕跡が地層中に残された、生痕化石も見ることができる。遊歩道の中には巨岩に根をはるアコウなど、特徴的な植物が多数自生しています。室戸岬の植生は本州以北とはかなり違うため、どことなく南国の雰囲気を感じることが可能。▲クワズイモの伝説。お大師様が通りかかった家の軒先に山のように里芋が積んであった。軒先にいた若者に、お大師様は、こう尋ねました。「これは、美味しそうな里芋ですね。ひとつ、わけて頂けませんか?」すると若者は、「これは、里芋ではない。石だ。石だから、食べられないよ」 お大師様が立ち去った後、よく見ると、山のような里芋は、すべて石に変わっていたのでした。展望台から見た「室戸ジオパーク」。▲若き弘法大師の大きな像が道路から見えた。▲弘法大師が修行した場所も近くにあった。▲烏帽子岩。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す最御崎寺に行った。▲登り口に立つ弘法大師。■正しくは最御崎寺ですが、■普通、東寺と呼ばれており、室戸岬の突端の山の上にあります。弘法大師が十九歳の時、仏法の迷いを払わんとして、大和の国大峰山から高野山ヘ、更に阿波の太龍寺へ登りました。命がけの難行苦行をされましたが、悟りを開くことができませんでした。そして、次に来られたのが、この室戸だったのです。果てしなく広がる太平洋の自然を前にして、雨の日も風の日も勤行を続け、ついに悟りを開かれたのでした。「法性の室戸と言えど 我住めば 有為の波風 立たぬ日ぞなし」と詠まれたように、東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれました。そこで山の上にお寺を建てられましたのが、この廿四番東寺で、御本尊の虚空蔵菩薩はお寺の創建と共に大師が刻まれたものです。▲次々に登ってくるお遍路さん。▼▲下に遍路マークの車がとまっていた。この車でお遍路しているのだろうな・・・。「東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれました。」という弘法大師伝説。泊まったホテルの名前が「明星(あけのほし)」だった。鯨ミュージアムを見た後、次の目的地へ。■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■■5月16■徳島県:重伝建の島・出羽島(てばしま)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.27
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■2023.5/16この日は、出羽島(てばじま)という重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)のある島に行く。出羽島行きの船は牟岐港から乗船することができる。牟岐港から約3.7km、出羽島連絡船「大生丸」(定員70名)で15分の距離。1日6往復。出羽島は、面積は約0.4㎢、周囲約4kmの小さな島で、徒歩でも1時間ほどで一周できてしまう小さくて穏やかな離島。連絡船を降りるとすぐに昭和11年、島に訪れた野口雨情の歌碑がある。舟で廻れば出羽島一里、島にゃ大池蛇の枕 雨情漁業が中心の島で、江戸時代後期から昭和初期にかけて鰹漁のための移住者によって繁栄。鰹節工場が3箇所あったという。最盛期には1,000人を超える人が住んでいたとされています。その頃に形成された伝統的な漁村集落が今でも残されており、平成29年には国の重要伝統的建造物群にも選定されました。現在は沿岸漁業を中心に、約70人ほどの人が暮らしています。▲港の近くにある郵便局。週に3日開く診療所、出羽(てば)神社を過ぎると集落の通りに入る。出羽島の民家はミセ造りと呼ばれる特徴的な造りをしています。家の軒先に折り畳み可能な板が作られており、縁側のように下ろして作業場にしたり、腰掛けにしたりといろいろな活用ができるそうです。▲細やかな意匠の家集落を歩いていると、気になるのはこの台車のようなもの。これは、ネコ車と呼ばれる手押し車。ぱっと見たところ、一家に1台以上のペースで目に入ります。港には開放的な展望台・・・ではなく津波避難用タスカルタワー。わかりやすすぎる名前の通り、津波の際に避難場所として設置された施設です。▲オオタニワタリ出羽島・津島・大島は黒潮の影響を受けており、徳島県下では平均気温が高く、亜熱帯植物が繁茂している。牟岐(むぎ)の港にも野口雨情の詩・「牟岐(むぎ)みなと節」に「阿波の牟岐町南に向いて 春を待たずに豆が咲く」と気温が高いことを歌っていた。こちらは共同井戸。かつては、島の貴重な水源だったそう。ちなみにこの井戸にはオオウナギが生息しているそうですが、昼間は隠れており夜になると活動するとのこと。●重要伝統的建造物群保存地区●島の北部の入江を漁港とし、その周辺に形成された漁村集落、面積約3.7ヘクタールが、「牟岐町出羽島伝統的建造物群保存地区」の名称で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 選定理由は、「徳島藩の移住奨励によって形成され、江戸後期から昭和前期まで、鰹漁の隆盛に伴って拡大した漁村集落」であり、「規模や形式が揃った漁家の主屋が建ち並ぶ集落景観が発達し、我が国にとって価値が高い」とされた。▲家と家の間をこの地方独特のいい方で「あわえ」という。この言い方については、またいつか書こうと思っている。展望の開けた所で持って行ったもので昼食にした。ガイドさんが、お茶と柏餅をくれた。荷物になるのに、申し訳ない、本当にありがとうございました。 四国地方などの西日本の地域では、葉で菓子や柏餅を包む風習もあるというが、この柏餅、サルトリイバラで包んであった!!▲手羽小学校。今は廃校になっている。▼▲島をぐるりと回って、3時の船を待つ。▼▲●出羽島港口(てばこうくち)の東西の大波止(おおはと)の石積み●出羽島港口の大波止の石積みは、明治4年頃、官費半額と、住民の負担半額で築造した。幾多の風波にも耐え、現在も出羽島の島民の生活を守り続けており、防災上また、歴史的にも貴重な建造物である。●9798歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■■5月15■徳島市・眉山/藍の館他■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.23
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■2023.5/15眉山に登ろうとロープウェイの乗り場に行った。ロープウェイ乗り場の前の広場には、阿波踊りの笠をデザインしたベンチの日除けが・・・。ガイドさんと一緒に眉山に登る。徳島県の県庁所在地、徳島市の川といえば、もちろん大河「吉野川」。そして、山といえば「眉山」です。「眉の如雲居に見ゆる阿波の山かけてこぐ舟泊知らずも」万葉の歌人“船王”によって万葉集にも詠まれた眉山は、どの方向から見ても「眉」の形をしていることから、眉の山「眉山」(びざん)と呼ばれ、古く万葉の昔から今に至るまで、徳島市のシンボルとして親しまれ続けています。山の上からは徳島市全体が見える。海や沢山の川が流れているのが見えて、「徳島」の語源を実感した。 徳島県の語源・由来この地は「渭津(いつ)」と呼ばれていが、天正13年(1585年)に蜂須賀家政が渭津に築城した際、「徳島」と命名した。地名の由来は、吉野川河口で川に囲まれた三角州だったことから「島」、それに縁起の良い「徳」が冠されたと思われる。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■藍住町歴史館 藍の館■(藍住町という町の名が藍の本場らしい。)大藍商であった奥村家の旧屋敷13棟の建物と奥村家文書が、11代当主奥村武夫氏から藍住町に寄付されたのを機に、資料館を新設し、平成元年に開館しました。藍の栽培・葉藍の加工に使用されていた道具、江戸時代から残る大藍商の屋敷、藍の栽培から葉藍の加工や藍染を行うまでの工程を再現した紙人形など藍の歴史を知ることができます。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲■阿波木偶資料館■▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「人形のムラ」は、阿波木偶箱まわしの伝承と、阿波木偶文化の魅力を発信するための施設です。▲人形の材料となる鯨のヒゲ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆▲伊予は、愛媛県のこと。▲阿波銀行もある。▲傘、提灯は、阿波踊りに使うものだろう。さすが阿波踊りの本場だ。▲四国八十八か所巡りの印をよく見かけた。友人から電話があって、四国にいるというと「お遍路?」と聞かれた。▲藍場という地名は、徳島ならでは。▲「阿波木偶資料館」のそばには新町川が流れていて、川辺を少し歩いた。▼●6708歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■■5月14-2■徳島城公園と蜂須賀家■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.21
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■2023.5/14-2阿波十郎兵衛屋敷の後、徳島中央公園へ。徳島中央公園は、徳島城跡を利用した公園。■徳島城■1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、1年半後の1586年(天正14年)完成した。 以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千石の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石7千石の居城となり、明治維新を迎える。■徳島中央公園■城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。山内の城山原生林は徳島市天然記念物に指定されている。山麓では1922年(大正11年)、鳥居龍蔵により城山の貝塚が発見され調査された。現在、山腹にアオサギが繁殖し糞害で周辺の樹木が枯れる等の問題が起こっている。 夏になると阿波踊りの練習をするために有名連がここで練習する風景が目立つ。また、付近の幼稚園や小中学校の遠足としてよく利用されている。徳島市立徳島城博物館は、城山の徳島中央公園内にある博物館。徳島城表御殿の跡地に建設され、主に徳島藩や蜂須賀家に関する歴史・美術資料を収集・展示している。常駐ガイドさんに案内してもらった。蜂須賀家は、跡継ぎの男子がいない時には、養子をもらっていた。その養子の条件が、身長170㎝以上だという。当時の170㎝といえば、今の180㎝以上になるのではないか。蜂須賀家は、低身長の男子が多く、養子で挽回しようとの思いだろう。 蜂須賀家といえば、蜂須賀小六を思い出す。蜂須賀氏が用いる家紋は複数ある。足利義昭から正勝が賜ったとされる桐紋(五三桐)を、主君羽柴氏の家紋を憚って、転じた柏紋(抱き柏)。そして平氏打倒の挙兵の際に源頼政が高倉王(以仁王)より賜ったという万字(左万字)(蜂須賀万字)、稲丸などである。桐紋や万字は源姓を由来にする家紋で、特に万字紋は(少々疑わしいが)、摂津源氏頼弘流を示すものである。 明治時代、蜂須賀茂韶侯爵が明治天皇に拝謁するため宮中に参内して応接室で天皇を待っていた際、愛煙家だった彼は卓上に置いてあった煙草を一本失敬した。 その後入室した明治天皇は煙草が1本なくなっていることに気づき「蜂須賀よ、先祖は争えぬのう」と「盗賊」だったといわれる蜂須賀小六を引き合いにしたジョークを言ったという。しかし茂韶は明治天皇が蜂須賀小六を盗賊だと思っていることにショックを受け、歴史学者の渡辺世祐と喜田貞吉に依頼し、蜂須賀小六が盗賊ではないことの証明を依頼したという。 これに対して喜田は「蜂須賀小六は確かに盗賊ではありましたが、戦国時代において盗賊は一概に恥ずべき職業ではなかった、という事実であれば、歴史的に証明可能です」と伝えたが、そんなことを明言されては困ると有耶無耶になったという。▲緑が一年で一番美しい季節だった。▼●5971歩■四国へ■2023.514~5月28■5月14-1■フェリーで四国へ/人形浄瑠璃■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.19
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■2023.5/14-12023年5月14日~5月28日、今日からちょうど一か月前、四国の徳島県、高知県、愛媛県に行ってきた。家から約一時間で和歌山港に着き、和歌山港から徳島港へフェリーで渡る。鳥取県、高知県、熊本県・・・いろんな県のナンバーが並んでフェリーを待っている。この車はどのコースで四国を廻るんだろうと妄想していたら、時間が来てフェリーで四国・徳島県に着いた。■四国・徳島県■神々による日本の創造の過程を記した『古事記』の国産み神話では、四国は淡路島に続き、日本列島で二番目に創造された島であるという。徳島県北部は粟が多く収穫されたことから「粟国」(あわのくに)、県南部は「長国」(ながのくに)であったが、後に統合され、令制国では阿波国(あわのくに)と呼ばれていた。西南部除く四国全域は近畿地方の影響力を文化的に強く受けているが、東部の徳島県は政治・経済においても影響が顕著である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆まず行ったのが、阿波十郎兵衛屋敷。徳島の伝統芸能である阿波人形浄瑠璃。その代表的な演目「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」は、「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」のフレーズでおなじみですが、「どんなお話か知らない」という人も多いのでは?◆あらすじ阿波徳島藩のお家騒動に絡み、主君の宝「国次の刀」が何者かに盗まれました。主の命を受けた十郎兵衛は刀を取り戻すために、幼い娘おつるを祖母に預け、妻お弓とともに名を変え、盗賊に身をやつして大坂(現在の大阪)に移り住んでいました。そこへ訪ねてきたのが、娘のおつる・・・という話。阿波十郎兵衛屋敷では、国の重要無形文化財「阿波人形浄瑠璃」を毎日上演しています。 また、展示室では、阿波人形浄瑠璃の特色や木偶人形の展示をご覧いただけます。▲女性などが身長をカバーするために履く高下駄。■あきない世伝金と銀■という小説の中に、呉服を営む五鈴屋が人形浄瑠璃で呉服を売ろうとするところがある。五鈴屋の若い御寮さん、幸は、浄瑠璃の人形に自分の店の着物を着せるというアイデアを思いつく。そして、自分も人形と同じ着物を着て道頓堀の小屋の前を歩く・・・。それほど人形浄瑠璃は人気だった。 ●人形浄瑠璃作家を描いた小説●江戸時代の大坂・道頓堀。穂積成章は父から近松門左衛門の硯をもらい、浄瑠璃作者・近松半二として歩みだす。だが弟弟子には先を越され、人形遣いからは何度も書き直させられ、それでも書かずにはいられない。物語が生まれる様を圧倒的熱量と義太夫のごとき流麗な語りで描く、直木賞&高校生直木賞受賞作。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.14
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■4/6愛知県渥美半島の先端部分にある国民休暇村で泊まった。朝食は、ビュッフェスタイルで、天むすを食べた。天むす(てんむす)とは、海老の天ぷらを具にしたおにぎり。名古屋めしの一つとして知られる。ここ、伊良湖国民休暇村には、もう4回くらい来ている。前の日、2つもらったルームキーのうちの一つをなくした。色々さがしたが出てこなくて、朝食の後、フロントにそのことを話に行った。ルームキーを弁償しなくてはと思った。フロントにその旨を伝えると、「キーは、昨晩届いてここにありますよ」と・・・。キーにはルームナンバーが書いてあるのに、なぜ連絡してこないのだろう?連絡することがそんなに大変な仕事なのか・・・。サービス以前のことだと思うけど・・・。 もし、これが高級ホテルだと、きちんと連絡するように教育されているだろう。いや、教育されなくても、そんなことは、出来る人がスタッフになっているのだろう。腹が立った。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆伊良湖岬から鳥羽へフェリーで渡る。「潮騒」のモデルになった島が見える。▼フェリーは揺れて気分が悪くなったが、1時間ほどで鳥羽に着いた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■三重海軍航空隊■三重海軍航空隊が所在した香良洲(からす)飛行場は旧香良洲町の2/3を占める巨大な埋立地であったため、飛行場施設は完全に撤去したうえで民間に開放され、旧香良洲町・現津市の土地整備計画に基づいて活用されている。三重空の痕跡としては、津市香良洲歴史資料館(旧若桜福祉会館)の展示物が著名である。隊門や煉瓦塀などの未撤去遺構も点在している。最盛期には一五、〇〇〇人以上の予科練習生が在隊し、香良洲の町は若い活気に満ちあふれたようです。戦争、特に航空決戦が激しくなり、航空要員を養成するため設置されたものだけに、当初は「香良洲航空隊」の名称で建設が進められたのが、カラスでは勇ましさに欠けるのか、開隊のときには「三重海軍航空隊」と改称されていたということです。3月23日から始まった今回の旅は、毎日、桜を見る旅だった。4月6日になると、結構散っていた。門の中に「同期の桜」の碑があった。『同期の桜』貴様と俺とは 同期の桜同じ兵学校の 庭に咲く咲いた花なら 散るのは覚悟みごと散りましょ 国のため◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 三重海軍航空隊跡を後にして、ちょっと寄り道。その後、伊賀越え。本能寺の変の前日、徳川家康は、堺商人らと茶会を開いていた。翌朝家康は、上洛の途次、信長の凶報を耳にする。領国から切り離され、主従わずか数十人。本国三河まで、苦難の伊賀越えがはじまった。家康らは無事に本国まで帰り着くことができるのか。大坂から伊賀を越えて三河へたどり着く家康。私たちは、家康と反対に、伊賀を越えて大阪に帰る。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今回は、全国旅行支援キャンペーンの期間だった。しかし、地域クーポン券がスマホを利用しないと出来ないとのこと。私たちは、教えてもらいながら、なんとか利用できたけれど、妹は放棄したという。誰でもスマホを持っている、使いこなしていると思うのはいかがなものかと思う。私など、まだガラケーだから・・・。 東海行 2023/3/23~4/6:今回のドライブ・マイ・カーの総距離は、1053Km。●3704歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■■4月1日-2■静岡県:島田市:牧ノ原台地「ふじのくにお茶ミュージアム」■■4月2日■静岡県:SL 大井川鉄道■■4月3日-1■静岡県:御前崎灯台/清水邸庭園■■4月3日-2■静岡県:横須賀城/中田島砂丘/風車公園■■4月4日■静岡県:湖西市:浜名湖上から下から/新居関所■■4月5日■愛知県:豊橋市:東海道・二川宿■■4月6日■愛知県~三重県:伊勢湾フェリー/逆伊賀越え・ラストラン・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.06
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■4/5東海道二川宿をガイドさんの案内で見て回った。■本陣■本陣は宿場の有力者で大きな家屋敷を持つものが指定されました。しかし、長い年月是を維持することは困難で、本陣職を他に譲る場合も少なくありませんでした。二川宿本陣は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、昭和60年(1985)に馬場家より本陣の土地建物の寄贈を寄贈を受けたことを契機に、昭和63年より3ヵ年をかけて改修工事を行い、本陣建物が最も整備されてた江戸時代末期の姿を再現しました。大名などの宿泊の際には大名の定紋入りの幔幕を張り、高張提灯を掲げました。また表門脇には番所が設けられ、大名が宿泊する際には不寝番が置かれました。上段の間は、大名等の貴人が休泊する部屋で、本陣の中で最も重要な部分でした。他の部屋より一段高くなっており、大床・付書院・御簾が付けられていました。一段高い理由の一つとして、床下から襲われた時、畳一枚より2枚の方が武器が通りににくく安全だから。庭の石は、もし何かあった時の逃げ道を示している。■旅籠屋「清明屋」■「旅籠屋(はたごや)」とは江戸時代に盛んになった形式の旅館で、自炊形式の「木賃宿(きちんやど)」に対して、一泊二食付きの宿屋でした。江戸時代の二川宿には平均して30軒程度の旅籠屋があり、そのほとんどは本陣・脇本陣や問屋場のあった宿場の中心である二川中町に集中していました。旅籠屋「清明屋(せいめいや)」は、江戸時代後期から明治時代まで二川宿で営まれた旅籠屋で、当主は代々八郎兵衛を名乗っていました。本陣の東隣に位置することから、大名行列が本陣に宿泊する際には家老などの上級武士の宿泊所としても利用されました。「せいめい屋」ってどういう意味だろう?店の名前は、天守の出身地、例えば「越後屋」みたいにつけるのではないか?この店の紋は「五芒星(ごぼうせい)」。「五芒星」と「晴明」って、あの陰陽師の??!!調べてみたが、陰陽師と「晴明屋」との関係は分からない。*****************当時の暮らし向きが分かる博物館的な建物だった。朝沢山食べてので、昼は軽くコンニャクを。愛知県の名物、味噌田楽だ。二川宿を後に、渥美半島へ。明日、伊良湖岬からフェリーで伊勢に渡るのだ。●5603歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■■4月1日-2■静岡県:島田市:牧ノ原台地「ふじのくにお茶ミュージアム」■■4月2日■静岡県:SL 大井川鉄道■■4月3日-1■静岡県:御前崎灯台/清水邸庭園■■4月3日-2■静岡県:横須賀城/中田島砂丘/風車公園■■4月5日■静岡県:湖西市:浜名湖上から下から■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.05
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■4/4浜名湖は、古名は遠津淡海(とおつあわうみ、遠淡海)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。そんな浜名湖を下からと上から見てきた。まずは、観光船に乗って下から。観光客、私たちだけで貸し切りだった。船の上から、ロープウエイが見えた。日本で唯一の湖上を渡るロープウェイで山頂に登る。展望台からは浜名湖をぐるり360度見渡せる。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆新居関所へ行った。■新居関所とは■新居関所は、今切関所と呼ばれ、慶長5年(1600)に徳川家康によって創設されました。幕府は江戸を守るため、全国に53ヶ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」に対し厳しく取り締まりをしました。当関所は江戸時代中期に、自然災害で2度の移転を強いられました。現在に残る建物(「面番所」)は、嘉永7年(1854)の地震でそれまでの建物が倒壊したあと、安政5年(1858)までに再建されたものです。明治2年(1869)に関所は廃止されましたが、明治~昭和にかけて学校や町役場として使われ、当時の建物が日本で唯一そのまま残る関所としての歴史的価値が高く評価され、大正10年(1921)国の「史蹟」に、昭和30年(1955)には改めて国から「特別史跡」に指定されました。浜名湖が汽水湖になった理由は、明応地震と呼ばれる1498(明応7年)の大地震で遠州灘と繋がったからです。遠州灘と浜名湖が繋がっている部分を、「今切口(いまぎれぐち)」と呼びます。新居の女性は結婚する時、近くであっても里帰りが面倒という理由で対岸の人との結婚はなかった。かつて浜名湖は、ここまで水があって、関所の許可が下りれば、ここから船で通過した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆湖西市にある芸者置屋 小松楼(こまつろう)は、大正から昭和20年代後半まで置屋兼小料理屋を営んでおり、当時で最も栄えた置屋の一つであるといわれています。 第二次世界大戦後、空き家であった小松楼を平成18年より有志で保存のための修繕を行い、平成20年には国登録有形文化財に指定されました。道路のコーンが富士山って静岡県やな・・・((´∀`*))ヶラヶラ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆この日の夕食は、浜松餃子!!(*^▽^*)●7517歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■■4月1日-2■静岡県:島田市:牧ノ原台地「ふじのくにお茶ミュージアム」■■4月2日■静岡県:SL 大井川鉄道■■4月3日-1■静岡県:御前崎灯台/清水邸庭園■■4月3日-2■静岡県:横須賀城/中田島砂丘/風車公園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.03
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■4/3-2■横須賀城址■横須賀城は徳川家康が大須賀康高に命じて築いた城です。武田氏の高天神城に対抗するために築かれました。現在は横須賀城跡公園として整備されており、石垣や土塁などが残っています。また、横須賀城は全国的にも珍しい玉石積みの石垣(玉石垣)でした。この玉石垣は一部が現存しており、その他の部分も復元されています。ところで、「横須賀」って神奈川県にある地名では?と調べてみた。「須賀」とは 須賀は砂州という意味。このあたりには、白須賀という地名もある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆浜松は、「浜松餃子」が名物というので、ランチには、餃子と決めていた。▼このお店は、「うちは、京都系餃子です」とのこと。美味だった。美味しければどこ系でもよし!!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■浜松まつり会館と中田島砂丘■450年以上もつづく凧揚げまつり「浜松まつり」。大空高く舞い上がる勇壮な凧を展示している「浜松まつり会館」。ここにも砂の文字が!!浜松まつり会館の近くに中田島砂丘がある。中田島砂丘とは、太平洋に遠州灘海岸の一部。日本三大砂丘の一つと言われています。静岡県浜松市南区にあり、馬込川西岸から凧場公園(浜松まつりの凧揚げ会場)の東側まで、東西約800m、南北約600m、48ha(東京ドーム10個分)。域内は砂地ばかりでなく、海岸林、浜で構成されています。中田島砂丘には、堆砂垣(たいさがき)と呼ばれる施設がある。これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■遠州灘海浜公園=風車公園■遠州灘海浜公園は別名「風車公園」と呼ばれています。その名前の通り、大きな風車があり、とても存在感のある公園のシンボルとなっています。芝生広場の北側には山のようになっている津波避難場所がありますが、見晴らしがよく公園内を一望できます。天気が良くて風がある日には凧揚げをしている人がいて、見ているだけで楽しいです。▲スロープで登れる。▲中に避難に必要な品が入っているベンチが数個おいてある。▼●10090歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■■4月1日-2■静岡県:島田市:牧ノ原台地「ふじのくにお茶ミュージアム」■■4月2日■静岡県:SL 大井川鉄道■■4月3日-1■静岡県:御前崎灯台/清水邸庭園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.02
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■4/3-1■御前埼灯台■♪おいら岬の灯台守は~御前崎灯台は、木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台になった。海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマである。同名主題歌の「喜びも悲しみも幾歳月」も大ヒット。その舞台になった御前崎灯台は、1874年、イギリス人技師の監督のもとに誕生した白亜の洋式灯台。強風や地震等の被害にも屈せず、美しい姿を保ちながら海の安全を見守り続けています。日本の灯台50選に選ばれているほか、歴史的・文化的価値の高さから、「Aランクの保存灯台」に指定されています。なお地名は「御前崎(おまえざき)」だが、灯台名は「御前埼(おまえさき)」である。おお 御前崎ここの断崖で海は二つに切られている駿河の光と遠江の風に 丸山薫ここは駿河湾と遠州灘の境目海も駿河と遠州に切られていると詩人は詠う。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■浜岡砂丘■浜岡砂丘に行ってきた。(▲現在地とある場所)砂丘に堆積している砂は、天竜川が上流から運んできた土砂が遠州灘沿岸の潮流と強い西風(遠州のからっ風)に乗って、当地まで運ばれてきたもの。斜め45度に「堆砂垣」を立て西風をあて風力が衰えた砂が垣の根にすい堆積していきます。砂紋が美しい。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■清水邸庭園■清水家は江戸元禄時代に回船問屋を営み、藩の御用達を勤めるなどして栄えた旧家です。屋敷の南に広がる回遊式庭園は江戸中期に造られたものといわれ、「静岡県みずべ百選」に選出された湧水を巧みに取り入れ、水の豊かさ、清らかさが映える名園です。「湧水亭」では美しい庭園を眺めながらお茶を楽しむことができます。歴代の当主は代々「清水八十郎」を襲名しており、その繁栄ぶりは「八十様にはおよばないがせめてなりたや殿様に」と俗謡で謳われるほどであった。 お茶とお菓子が美味しかった。(有料)▲今は道路になっているが、かつては水路があり、ここに船が着いていた。よって「船着門」▼■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■■4月1日-2■静岡県:島田市:牧ノ原台地「ふじのくにお茶ミュージアム」■■4月2日■静岡県:SL 大井川鉄道■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.27
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■4/2大井川鉄道のSLに乗るため、新金谷駅に行った。大井川鐵道のSLの拠点駅でもある「新金谷駅」駅舎は1927(昭和 2)年竣工の近代建築(洋風建築)で、国の登録有形文化財にも選定されている建物です。駅前には、真黒なレトロなポストがある。大井川鐵道を走る蒸気機関車(SL)と同じ塗料で塗られたポストでここで郵便物を投函すると、消印がSL+富士山+茶畑を描いた風景印になる。大井川本線で運行されるSL列車(かわね路号)に旧型客車を使用していることや沿線の風景から、第二次世界大戦の戦前・戦中に時代設定されていて、ドラマや映画のロケーション撮影でよく使用される。▲NHK「朝ドラ・とと姉ちゃん」▼朝ドラ「まっさん」▲映画「母と暮らせば」▲駅のホームの屋根もレトロ。▲駅の外にあるベンチは、列車の車輪を使っている。大井川鉄道は、1976年(昭和51年)に日本で初めてSLの動態保存を始めた鉄道で、現在でもほぼ毎日運行されている。大井川本線用の車両現有車両は、一部の電気機関車を除いたすべてが他社からの譲受車両である。SL列車用の蒸気機関車・客車のごく一部は鉄道車両としては大井川鐵道に在籍しているが、日本ナショナルトラストが所有している私有車である。■きかんしゃトーマス号■2011年(平成23年)の東日本大震災による観光需要の低下などの影響で、SL列車の利用者が激減して経営再建問題が浮上した。2014年(平成26年)より、期間限定でテレビアニメ『きかんしゃトーマス』に登場する機関車「トーマス」や、その他のキャラクターの意匠を施したSLの運行および展示 (デイ・アウト・ウィズ・トーマス) を行っている。大井川鉄道は、令和4年の台風15号のため、一部が不通となり、現在は、SL運行区間(新金谷~家山)まで。バス代行区間(家山~千頭)で、実施されている。SL乗車は、わずか20分ほど。10:38新金谷駅発(SL列車)・・・(急行かわね路11号)・・・11:06家山駅着。11:37家山発(代行バス)・・・12:21千頭着。千頭駅から歩いて散策。桜の木の下でお花見気分で弁当を食した。▲静岡おでん=しぞ~かおでん●9288歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■■4月1日-2■静岡県:島田市:牧ノ原台地「ふじのくにお茶ミュージアム」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.24
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■4/1-2静岡県の名産物は、お茶。大井川右岸にある牧之原台地は全国有数の茶どころで、茶畑の中にある「ふじのくに茶の都ミュージアム」に行ってきた。牧之原台地は、静岡県の島田市、牧之原市、菊川市をまたいだ大井川下流域と菊川に挟まれた静岡県中西部にある台地です。 ■牧ノ原台地■江戸時代までは、麓の村(現在の大字)の入会地、いわゆる草刈り場であり、未開拓の原野が広がっていた。「牧場」があったことが地名の由来とされるが、定かではない。大政奉還の翌慶応4年、徳川慶喜は家督を田安亀之助改め徳川家達(いえさと)に譲ると、家達は静岡藩70万石に移封され、6000人もの幕臣が駿府に移った。 その中の慶喜の護衛にあたった精鋭隊(静岡転出後は新番組と呼ばれた)隊長の中條金之助、副隊長の大草太起次郎、松岡万ら約300名が明治2年、版籍奉還を受けて帰農を決意。牧之原台地で茶園の開墾に乗り出した。明治3年には彰義隊の残党数名も合流した。 また大井川の川越人足も明治3年の渡船許可によって職を失い、関係者の尽力によって100名ほどの者が牧之原への入植を許された。その後農民らによる牧之原はじめ静岡県各地での茶園の開墾も増えていった。■歴史■この庭園は、寛永11年(1634)、遠州が手掛けた後水之尾院の仙洞御所の東庭を復元しています。池の周りを歩き、舟を浮かべて舟遊びなどをした池泉回遊式・舟遊式の庭園で、自然と人工、直線と曲線といった、対立的な要素が対比されている点が特徴です。また、築地塀を隔て、『伊勢物語』にちなむ八橋が架けられ、平安時代の王朝文化に憧れを抱いていた遠州の特色が表れています。小堀遠州は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。官位は従五位下遠江守。遠州流の祖。「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。▲お茶のポット型のトピアリー。ちょっと離れた所に、▲カタクリの群生が!!大井川の橋を渡って宿に行く。●17469歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■■4月1日-1■静岡県:島田市:大井川の川越し文化■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.23
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■4/1-1江戸時代、橋のなかった静岡県・島田市の大井川は、越すに越されぬ大井川と言われた。明治になって架けられた橋が蓬莱橋。ここを今回も2人のガイドさんの案内で見てきた。■大井川にかかる蓬莱橋は■全長897.4m、通行幅2.4mの昔懐かしい木造歩道橋で、1997年に「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定されました。現在では数少ない賃取橋で、橋のたもとにいる「橋番」に通行料を支払ってから渡ります。1日250~300人、年間にすると10万人以上が訪れています。牧之原台地開墾のために生まれた橋大井川右岸にある牧之原台地は全国有数の茶園です。蓬莱橋は牧之原台地の開墾のため、明治12(1879)年に架けられた農業用の橋です。橋が架けられる前は大井川を小船で渡らなければならず、行き来するのに危険を伴っていました。現在も蓬莱橋は農道としての重要な役割を担うほか、貴重な歴史的土地改良施設で茶園を管理するために利用されています。■大井川に橋や渡し船がなかった本当の理由■江戸時代において、大井川を渡るためには川越人足とよばれる人たちに肩車をしてもらうか、蓮台と呼ばれる梯子のようなものに乗せてもらう以外に方法はありませんでした。 決められた川渡し場以外の場所を、自ら歩いたり泳いで川を渡ったりした場合には、「間通(かんどう)越し」とか「廻し越し」などといわれ、幕府より厳罰に処せられたようです。雨などによって川の水かさが増すと、川止めとなって渡ることができなくなりました。けれど 大井川に幕府が渡し船を認めてしまうと、川越人足たちが職を失ってしまうことになります。これだけの規模になってしまうと、幕府もその既得権益を保護せざる負えなくなってしまったと考えらえます。▲馬方は知らじ時雨の大井川 松尾芭蕉▼▲街道の左右に「せぎ跡」があります。河原の石が積まれ、溝に板を挟んで堤防の役目をしました。▼私は「せく」と言っていた。この「せぎ跡」より西側は河原でした。上流にダムが出来て、長い橋のほとんどは河原。▲橋の下は道路になっている。▼▲江戸期の髪型・島田。島田という名前の由来は、東海道五十三次のひとつ島田宿(現在の静岡県島田市にあった宿場)の女郎に由来すると言うもの。(諸説ある。)全国有数の茶畑のある牧之原台地へと大井川を超えて向かう。■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校■3月31日-2■静岡県:掛川市:掛川城/大日本報徳社■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.22
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■3/31-2 (▲旧見附学校)旧赤松記念館/旧見附学校を後に、掛川城へ。ガイドさんが2人。ひとりは、見習いだそうだ。(▲大手門)1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。1621年に再建された姿は、『遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図』に描かれている。それによれば、2重目以上が板壁で2重目には唐破風出窓に華頭窓をもつ層塔型の天守が描かれている。1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。復元から27年が経過し、しっくい壁の剝離や黒ずみ、高欄の腐食や退色などがみられるため、2022年6月から大規模修復工事が行われる。修復工事にかかる期間の延長に伴い、当初2023年1月31日までの予定だった施設閉館期間が3月31日までに変更された。私たちが訪れたのは3月31日だったので、天守の中に入って見ることができなかった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■地名・掛川の由来■掛川: 逆川に面して崖の欠けたところに立地しているため「崖川(がけがわ)」、あるいは崖がよく崩れるため「欠川(かけがわ)」とされ、いつしか「掛川」に転訛したという。古くは「懸川」「懸河」「懸革」とも書いた。▲掛川市のマーク。▲大手門前にある現役ポスト。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■二宮尊徳の教えを伝える大講堂■大日本報徳社は、掛川城すぐ東側、江戸時代までは掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地。~静岡県掛川市「大日本報徳社」~大日本報徳社は二宮尊徳の教えを普及させるために組織された公益社団法人で、弟子である岡田佐平治が設立した「遠江報徳社」を前身としています。掛川城のすぐ隣に位置する敷地には6つの文化財建造物が建ち並び、中でも明治36年に建てられた「大講堂」の規模と迫力には圧倒されます。反りのある大屋根を持つ外観は、一見社寺建築の本堂のように見えますが、よく見ると2階の窓には洋風の上げ下げ窓が設えられ、また柱にはギリシャ・ローマのオーダー風デザインが施されているなど、不思議な和洋折衷の佇まいを見せています。尊徳の唱えた報徳思想を教えるこの建物は、民間の講堂としては日本最初期とされ、国の重要文化財に指定されています。その他、東京・霞が関の有栖川宮邸の一部を移築した記念館や、掛川最古の鉄筋コンクリート造の図書館など、ユニークな建築群を持つ大日本報徳社。二宮尊徳の教えと共に建物の歴史も伝えています。大日本報徳社を訪れると最初に出迎えるのは、明治42年に建てられた「道徳門・経済門」と刻まれている大きな正門です。「道徳」と「経済」の調和した社会をめざす報徳の教えを象徴しているもので、企業経営におけるキーワードとして国内は勿論のこと、外国からも注目されています。次に、正門をくぐると正面に日本瓦の大屋根「大講堂」が建っています。明治36年に建てられた大日本報徳社の中心的かつ象徴的な建造物として、明治から様々な報徳教化活動が行われてきたところで、現存する公会堂としては最古の建築物として、国の重要文化財に指定されています。 道徳のない経済は犯罪である。経済のない道徳は陳腐である。 二宮尊徳●3月31日●7186歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■■3月31日-1■静岡県:磐田市:旧赤松記念館/旧見附学校・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.20
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■3/31-1この日は、近代日本の造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した海軍中将男爵赤松則良の邸宅跡を見た。明治20年代に建てられた門・塀・土蔵は県・市の指定文化財となっています。敷地内には庭園と旧赤松家記念館があり、記念館では旧赤松家ゆかりの文化財や寄贈資料等を展示しています。▲旧赤松邸の門。門番の休憩室もあった。レンガを多用した明治時代の建築物はとても珍しい。▲家紋が入った屋根瓦。▲森鴎外の写真がある。この家の娘・赤松登志子は、鴎外と結婚していた。赤松登志子の産んだ子供が、鴎外の長男、森 於菟(もり おと)。しかし、この結婚は、1年で終わった。 この結婚は、鴎外の親戚、西周(にしあまね)の紹介によるもの。鴎外と西周は、島根県津和野の近所だった。子どもの鴎外が津和野から東京に行った時、西家で世話になっていたこともある。 西周は、「哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語を作った人。この家には、母屋がない。それは、東京にあった家が関東大震災でなくなり、この家の母屋を持って行ったから。しかしその後、空襲で焼けてしまった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆見付学校(みつけがっこう)は、学制公布後の1873年(明治6年)に静岡県見附(現・静岡県磐田市見付)に開校した学校。1875年に竣工した擬洋風建築の旧見付学校は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である。隣接する磐田文庫とともに、「旧見付学校附磐田文庫」として国の史跡に指定されている。遠江国横須賀藩(現・静岡県掛川市)にあった横須賀城から払い下げを受けた石垣を基礎としている。間口は12間、奥行きは5間の木造擬洋風建築である。玄関にはエンタシスの飾り柱が配されており、左右対称の2つの入口が設けられている。玄関には初代浜松県令の林厚徳から贈られた扁額が飾られている。1922年(大正11年)には五階校舎が小学校としての役割を終えた。1953年(昭和28年)9月には磐田市立郷土資料館となり、1955年(昭和30年)12月28日には博物館相当施設に指定された。▲教科書「うさぎとかめ」▲掛川市のマーク。■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■■3月30日■静岡県:浜松市:出世城・浜松城と日本庭園・蜆塚■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.19
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■3/30浜松城は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。ガイドさん2人に浜松城の話を聞いた。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重鎮に出世したことから「出世城」といわれた。浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城(引間城とも)。当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名も地名とも「浜松」と改めた。徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。▲天守門は天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で、天守曲輪の東側に位置する。改修・改築が行われながらも、廃城時まで存続した。江戸時代初期に天守が失われて以降は浜松城で最も高い位置にあり、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であった。▲裏門(埋門)は天守曲輪の西側に位置し、西端城曲輪とを結んだ。 城の石垣や土塀、築地(ついじ)などの下方を低く切り抜いてつくった小門。裏門として用いる。逃げ時、病人や死人が出た時は、裏門を使う。野面積みによる天守創建時の天守台が残されている。1辺約21mのややいびつな四角形で、西側に八幡台と呼ばれる突出部と、東側に付櫓と呼ばれる張り出し部分がある。天守台上部は安政の大地震後と復興天守建設時に積み直されたとみられるが、創建当時の姿がよく残されている。取り壊される前の天守門の図面や古写真は見つかっていないものの、安政の大地震の被害状況を示した絵図や平成21年度から行われた発掘調査の結果をもとに、2014年に復元された。▲井戸。籠城の時に、井戸は絶対に必要なのでどの城にもある。▲NHKの大河ドラマ「どうする家康」にちなんだ▼「大河ドラマ館」。「どうする家康」が終わったら「どうする浜松」。( ;∀;)天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移すことになった。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。その間には武田信玄との「三方原の合戦」での敗戦も経験、この浜松城において間一髪難から逃れたことも。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆浜松城公園内にある日本庭園は昭和59年(1984)に築庭されたもので、名古屋の『徳川園』や東京の『北の丸公園』などを手がけた伊藤邦衛さんによる作庭。(浜松城含め、名前を挙げた3つとも徳川家に縁ある場所だ…)▲この大滝は東屋から眺められる。日本庭園には北門、東門、南門の3つの入口があるが、北門が格調高く、緩やかな曲線を描く延段が広がり、ここからの入ることをお薦めしたい。浜松の桜の名所として知られ、ソメイヨシノや枝垂れ桜、ヤマザクラなど約400本の桜の木が。桜の見頃(3月下旬~4月初旬)には夜桜のライトアップも。新緑の頃、紅葉の頃も美しい。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■蜆塚遺跡(しじみづかいせき)は、■静岡県浜松市中区蜆塚にある縄文時代後期から晩期(約3~4千年前)頃の貝塚、および集落遺跡。 国の史跡に指定されている。1959年(昭和34年)5月13日から学界では知られていたが、遺跡の存在自体は江戸時代から知られていたとされている。比較的規模の大きい貝塚があることで有名な遺跡でもあり、その多くが淡水性で二枚貝の蜆(シジミ)で構成されていたことが遺跡周辺の地域名「蜆塚」の由来である。敷地内に浜松市博物館もある。●7336歩■2023.3月23日(木)■愛知県・名古屋市・有松■■3月24日-1■愛知県:名古屋市・熱田神宮■■3月24日-2■愛知県:名古屋城■■3月24日-3■愛知県:名古屋市・四間道(しけみち)■■3月25-1■愛知県:名古屋市・徳川園■■3月25日-2■愛知県:清須市・清州城/北名古屋市「昭和日常博物館」■■3月26日-1■愛知県・運のいい城・犬山城■■3月26日-2■愛知県:明治村(犬山市)■■3月27日-1■愛知県:家康の先祖の地:松平郷■■3月27日-2■愛知県:三河松平菩提寺・大樹寺(岡崎市)■■3月27日-3■愛知県:家康の産まれた城・岡崎城■■3月28日-1■愛知県・豊川稲荷:■■3月28日-2■愛知県:吉田城と豊橋市公会堂■■3月29日-1■静岡県:浜松市・姫街道の気賀関所■■3月29日-2■静岡県:浜松市・「おんな城主直虎」ゆかりの地■■3月29日-3■静岡県:浜松市:メルヘン感がすごい!「ぬくもりの森」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.18
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