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子どもの頃からお喋りで「口上でこ」と呼ばれていた父から聞いた話です。「ワシのおかぁは・・・」と父が言いました。「ワシのおかぁは(私の祖母)は、手八丁、口八丁じゃた。」父の話は続きます。父の母、リョウは、そろばん片手に、山から採って来る*「フシ」*の仲買をしていました。フシは農家の大切な現金収入。みんな、競って、山へ採りに行きます。そうすると、まだ大きくなってないのまで、採ることになります。だから、皆で、きまりを作り、大きくなるまで、採らないと決めます。ところが、どこにもズルイ人がいるものです。「フシのくちあけ」の前日に山に入って採り、隠しておき、さも、その日に採ったような顔をして、リョウに売るのです。でも、誰かが、見ているものです。「○○さんは、前の日に、採ってた。」「そんなことを耳にすると、おかぁは、もうその人の採ってきたフシは買わなんだ」と父が言いました。掟を破る者を許していると、山の資源は守れないのです。「フシのくちあけ」とは、フシの解禁日、その日を決めるのは、人間と自然です。**フシ**(写真)ヌルデに虫がつくるコブのようなもの。私は、小さい時は、果物かなと思ってた。フシは昔は「おはぐろ」や白髪染めに使われていたそうです。父が採りに行ってた頃、「おはぐろ」をしている人はいなかったし、何に使ってたんだろう。染料かな。聞いとけばよかった。■2002年11月02日に書いたものを加筆しました。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★10月26日*ハレとケ/父の麦わら帽子:ドンゴロスいっぱいの松茸 *UP
2006.10.26
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私の子どもの頃は、世の中、全てが貧しく、質素でした。普段の食事は、主食は、麦飯、後、ほとんどは、自給自足の野菜中心。衣類は、親戚や隣近所からのお下がり、それをまた、着られなくなったら、下に回す。そんな中で、盆、正月とならんで楽しみだったのが、秋祭りでした。その日は、祭りのご馳走が食べられます。その日は、普段のボロの服ではなく、マツリゴが着られます。だから祭りは、子どもだけではなく、大人も楽しみにしていたのでした。「どれどれ、もう、できたかな」。父が、祭用に作ったドブロクのカメの蓋を開け、出来具合を試します。「うん、旨い。」酒好きの父は、祭の日まで我慢できず「お毒見」などと笑いながら飲みます。母は、私たち子どもに手伝わせて、障子の張り替えをします。破れた、障子紙をはがして、川で、桟を洗います。乾かした後、真新しい障子紙を貼ると、急に家の中が明るくなり、ウキウキしてきます。*マツリゴ*は買ってあるし、後は、祭を待つだけ・・・。祭には、母のチラシ寿司が食べられるし、栗も食べられる・・・。みんな、ウキウキ、お祭モード。「ああ、早く、来ないかな、お祭・・・。」と私が言うと父と母が笑いながら言いました。「待つが、祭じゃ。」待つが祭・・・。祭りのために、何日も前から、家の中を整え、ご馳走を作って、服を揃え準備をします。祭の用意をする時から、待っている間から、祭はもう始まっているのです。祭りを誰よりも心待ちにしていた父と一緒に、故郷の岡山に行ったのは、2001年の秋。それが最後の故郷への旅となり、その4ヶ月後、一ヶ月足らずの入院の後、父は亡くなりました。**マツリゴ**ボニゴ、ショウガツゴと同じ祭用の新しい着物という古語。服だけでなく、靴下や下着なども「マツリゴ」です。■October 4, 2002に書いたものに加筆しました。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月26日*彼岸:彼岸篭り/父の麦わら帽子目次*UP
2006.09.26
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お盆に昨年夏亡くなった叔母の初盆をした。岡山のいなかでは、隣近所の人が集まって会食をする。母と私と妹も普段つきあいのない村の人たちと一緒に食事をした。「はるなちゃんは、小さい頃、体が弱かったよね」と私より4歳年上のTちゃんが言った。子どもの頃の4歳の年の差は大きく、私たちは一緒に遊んだことは、ほとんどなかった。私は、あまり活発でない、虚弱な、おとなしい子と思われていたらしい。「そんなことなないよ」と私。「そんなことはないよ。夏休みには、よう親の手伝いをしたわ。ひと夏で縄をひとつなったことがある」と私は言う。「そうだったの。あの頃、よう縄をなっていたよね」とTちゃん。Tちゃんの言うあの頃とは、昭和30年代。「朝は井戸水をカメにいっぱい汲んで、行水用のたらいに水を汲んで。川で洗濯をして・・・」と私。「そうじゃったね、あの頃は子どももよう働いたわ。田植えに稲刈り、稲を刈った後の株を鍬でおこしたり・・・」とTちゃん。現金を稼ぐために筆軸とよばれる、細い筆用の竹を切りにも行った。私とTちゃんがしゃべり始めたので、周りの人たちも参加して思い出話に花が咲いた。「嬉しいわ」とTちゃんが言った。「こんな懐かしい話が出来ると思わなかった・・・。」「亡くなった人が皆を会わせてくれたんやね」亡くなった叔父と叔母の写真を見ながら私の従妹が言った。叔父と叔母の写真の横には、父の写真もちゃっかりと祀られていた。+++あの頃、川で洗濯をしたが、泳いだりもした。カワニナを採って食べた。あの頃、山で柴刈りもしたが、秋になると甘いアケビを採った。グミに椋(むく)、ユスラ・・・。そうそう、マツミドリも採ったね。イタドリにスイバ・・・。あの頃は食べるものがいっぱいあったね。みんな貧乏だったけど、楽しかったね。ああ、あの頃はよかったね・・・。少年に枇杷熟れ桑熟れ椋熟れてとどめにムベの熟れゐし昭和 大野展男 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月26日*父の麦わら帽子:父のいた夏いない夏*UP
2006.08.26
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私が子どもだった頃、夏休みになると親戚の家に4~5日行っていました。行く前に、父は注意をしました。「電車の車両は必ず、まん中にしなさいよ。」父が言うには、先頭だと、衝突した時、ショックが大きい。後ろでも、追突される可能性がある。だからまん中なのだそうです。そして、何事もなく帰ってき時は「ああ、よう、帰ってこられた。また賑やかになる」笑いながら、そう言って迎えてくれるのでした。バスに乗ったり、電車に乗ったりして親戚の家に行くのは楽しい事でした。親戚の家で銭湯に行ったり、家には無かった水道を使ったりするのは楽しいことでした。でも、家に帰ることが、水道もガスもない家に帰ることが、一番楽しかったことのような気がします。父逝きて今日で5ヶ月過ぎたれば 向日葵を見て思い出にひたる はるな ■02.07.26・・・・・・・・一度書いたのに、消してしまった日記を再度アップします。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★7月26日*父の麦わら帽子:目次*UP
2006.07.26
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1912年5月20日生まれ、2002年2月26日死亡、満89歳。よく笑った。よく怒った。よく哀れんだ。よく悲しんだ。よく楽しんだ。よく喋った。よく聞いた。よく知った。よく覚えた。よく愛した。これが父の生涯である。父の人生を人は、うらやんだ。父自身も「まあ、恵まれた人生じゃったな。金には恵まれんかったが子どもに恵まれたからな」と満足気に言った。父は、記憶力がよく、快活で、なににでも興味を示した。そして、父母を妻を子どもを孫を友人を愛していた。故郷を仕事を生活を愛した。そういう、父を私たちも、故郷の人々も親戚も知人も愛してくれた。その父が死んで今日で4ヶ月がたった。今日は2月26日に死んだ父の月命日である。父が死んでから26日は特別な日になった。■2002.6.26記・・・・・・・・・・・・◎父の麦わら帽子◎のはじまりは、この文章からでした。ところが、私は、これを消してしまったのです。。・゚(´□`)゚・。復活!!4年間26日に書いてきた「父の麦わら帽子」は、来月からは、毎月ではなくなります。26日にどうしても、他の記事を書きたい時があるのです。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月26日*◎父の麦わら帽子*目次◎* UP
2006.06.26
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スミレが咲き、シランが咲き、薔薇が咲き・・・。私の小さな庭は、今年もいろんな花が咲いた。花だけではなく、ニラ、ネギ、パセリなどの鉢植えもある。この花たちの中で私が種から育てたのは、ほんの少し。父はなんでも、種から育てた。籾を蒔いて米を作り、麦を作り、野菜を作り・・・。それらをみんな種から育てた。「種がよくないと、いい作物は出来ん。じゃあから、籾を選ぶとき、塩水に漬けて選んだことがあった。」そう、父は昔、私に言ったことがあった。「まさか、塩水に漬けるなんて・・・」私は、信じていなかったけれど、最近、そんなテレビで見た。やっぱり、植物を育てることは、父には一生かかってもかなわないだろうなと思う。そんなことを思い出したのは、今年、植えてもいないのに、野生の小さなスミレの花が咲いたから。どこからか、種が飛んできたのだろう、ブルーベリーの木の鉢にちょこんと芽を出し、花を咲かせたスミレ。種って不思議。小さな芽は、生れたばかりの赤ちゃんのようでかわいい。来年は、もっとスミレの種が飛ぶようにと、咲き終わった小さなスミレを大き目の鉢に植え替えた。種浜村 真民父の名はたねじ(子司)母の名はたね(夕子)だからわたしは種を大事にする毎朝まずくこの実の粉末を飲み一日中ハブ草の実の煎じたのを飲む梅干しの種は必ず割って食べる種には生命の核があるからだ小さな大根の種にごま粒の実に宿る宇宙の生命ああ種たちが教えてくれる根本の問題それはどう生きどう死ぬかどんな花を咲かせどんな実を結ぶか一生の命題 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月26日*父の麦わら帽子:壊れた時計のように・・・。* UP
2006.05.26
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貧しかったけれども、楽しかった子ども時代。私は、家と学校、家と会社を行き来するだけで満足していた。けれども、20歳を何歳か過ぎた頃から、これでは、人間として完全ではない。いつまでも親の庇護の元にいられるのではない。そう思い始めた。「そうだ!ヨーロッパに行こう!!ヨーロッパなら、遠いから家に帰りたくても帰れない・・・」そう決心して、ヨーロッパ旅行を計画した。父母は、なんにも言わなかったけれど、持病を抱えての一人旅を心配したらしい。30数年前は、飛行機が高かったので、ナホトカ経由の船でソ連に渡り、そこから汽車で数日かかってイギリスに着いた。ヨーロッパでの半年は私に勇気をくれた。私のような、意気地なしでも、なんとか一人でやっていける・・・そんな自信がついた。日本に帰って1年後に結婚することにした。四月のある日、リュックに不安をいっぱい詰めて、私は、船に乗り込んだ。あれから、30数年がたった。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月26日*父の麦わら帽子・余滴:葉桜の下 * UP
2006.04.26
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父の葬式は、やらないと決めていた。遠くの親戚に、会社を休んでまで来てもらうのは、気の毒だ。この先、なにかあっても、お返しが出来ないかもしれない。私たちは、故郷を遠く離れて暮らしているのだから・・・。けれども、妹の夫や私の夫が、是非、すべきだと言って譲らなかった。麦わら帽子の父の 写真を飾ったささやかな葬儀をしたが、結果的には、良かったと思っている。通夜や葬儀の慌ただしさが、悲しみを紛らしてくれたのだから・・・。葬式が終わって火葬場に行く。火葬場の待合室は、ホテルのロビーのように明るく、ゆったりとしていた。そこで、待っていると、故郷の遠縁が数人、来て言った。「49日の法要を兼ねた『お別れ会』を、うちの村でやって。私らが、なにもかも用意するから・・・。いやとは、言わせんよ。」思いがけない、ありがたい申し出に、ビックリした。血の繋がった人は、誰もいない故郷・・・。家を空けて、はや5年が経つ、故郷・・・。その故郷で、村の人が「お別れ会」を開いてくれるという。百姓仕事と人と話をすることが大好きだった、なんの肩書きも持たない父・・・。人のねうちと、煙草の味は、煙にならないとわからない。そんな、諺が、頭をよぎった。::::::::::::::::::::::::::::●February 28, 2003の日記を再度アップしました。 ♪ピンポンパンポン~ピンポンパンポン~いつも、ご来店いただき、まことにありがとうございますm(_ _)m222222番をおふみのお客さま、いらっしゃいましたら、最寄のコメント、掲示板でお知らせくださいますようお願いいたします。♪ピンポンパンポン~ピンポンパンポン~写真は、年末の買い物、6666円のレシート。ねらったわけではないのですが( ̄▽ ̄) 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★3月26日*父の麦わら帽子:花ぞ昔の 香ににほひける* UP
2006.03.26
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「はるなちゃん、芹(せり)を摘んで来て」と父が言いました。「はい」と小学生の私は答えて、鎌と籠を持って、川原に行くのでした。川原には、草地があって、次に石ころがゴロゴロと転がっているところがあります。芹は水際に生えているのです。私は、しゃがんで、鎌で芹を刈るのでした。家に持って帰って、茹でて、おひたしにします。食事の時、父はそれを食べながら、満足そうに笑いながら言うのです。「ああ、美味い。芹の香りがいい。ワシの作る野菜も美味いが、やっぱり、自然の味には、勝てんな。」と・・・。苦味が美味いと未だ分からなかった、子どもの私にも、父は真剣に言いました。春の植物には、ほろ苦さがある。そして、それは、早春の味だと・・・。+++今日、スーパーで「菜の花」を見つけた。買って帰って、半分、雛の花に、残りは、茹でて、酢味噌にした。父の言った早春の味、苦味が、ほろほろと広がった。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2月26日*父の麦わら帽子:「自慢の娘です。」* UP
2006.02.26
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父は70歳になってもまだ龍野市で肉体労働をしていた。しかし、父より年下の知人が死んだのを機に言った。「わしは、もう働かん。岡山に帰る」と。そして20年ぶりに岡山の生家に帰っていった。20年間住んだ龍野市では、友達が沢山出来た。父より10歳以上年下のT氏もそのひとりだった。彼は父の仕事仲間であったし、飲み友達でもあった。2002年3月、岡山で執り行われた「お別れ会」にT氏の奥さんが来てくれた。「夫が**さんのことを書いていました。家に帰ったら送ります」T氏の奥さんは言った。そして約束どうり、送ってくれた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・子らはみな 成人なせる老夫婦 二十年ぶり出稼ぎ地を去る1月17日に故郷の岡山県**郡**町へ帰る、**老夫婦。朝、8時より荷物運搬を手伝い岡山まで行く。生涯に忘れがたき人なり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・T氏が、偶然、父と母が岡山に帰った時のことを書いて残してくれていたのだった。父達が岡山に引き上げたのは、1月17日だったのか・・・。その日も、今年の1月のように寒かったのだろうか・・・。父達が岡山に帰ってからも遊びに来てくれたT氏もその10年後に68歳で死んだ。あの日から20数年が経った。T氏が死んで、叔父が死んで父が死んで・・・。けれども、父達の岡山に帰った時の記録は、T氏の思い出と共に残っている。 人気blogランキングへ ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★1月26日*父の麦わら帽子:孫のために生きる・・・。* UP
2006.01.26
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歳末助け合い運動の赤い羽根は、私に、「貧しい人に愛の手を」という鉛筆をくれた。それ以外にも貰った物がある。貧しい農家が、まがりなりにも、年を越せたのは、いくばくかのお金が手に入ったから。赤い羽根のおかげと感謝しなければ・・・。その他にも、「?」という不思議な贈り物が、あった。それは、長方形の黄みを帯びた白いものだった。私たち家族は、額を寄せ合って考えた。「なんだろう??」考えても、考えても分らなかった。クセのあるにおいがした。「消しゴムにしては大きいな」父は笑いながら言った。食べるものなのかもしれないが、食べ方が分らない。仕方がないから、放っておいたら、その四角いものに、青いカビが生えてきた。もう、この辺で、勘のいい方は、お気づきでしょう。答は、はい、「チーズ」。それは、今から40数年前の贈り物。その頃は、クリスマスプレゼントというより、年越しの贈り物だった。家族で思い出しては、笑っていたのに、その中の一人、父は、今年はいない。。★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★毎月26日は昔の思い出を書いています。★これは父の死んだ2002年の12月に書いたものを再度アップしたものです。★参考 ◎父の麦わら帽子◎ 人気blogランキングへ ・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★12月25日*クリスマスケーキを初めて食べた日* UP
2005.12.26
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今日のうちに/遠くへ行ってしまう/私の妹よみぞれが降ってきて/表は変に明るいのだ「雨ゆじゅとて来てけんじゃ」・・・・・・・・・宮沢賢治の「永訣の朝」を習ったのは、高校生のとき。以来、時々読みます。死んでいく、最愛の妹トシに「雨ゆじゅ=あめゆき」を食べさせようと、「鉄砲玉のように表に飛び出す」賢治。「永訣の朝」を読むと、きまって、父から聞いた父の妹・シゲの話を思い出します。・・・・・・・・・・父の妹は、結婚して間もなく、稲刈りの手伝いと秋祭いう口実で、里帰りしました。電話も車もない時代。シゲも私の父も祖父母も、彼女の里帰りを、どんなに喜んだことでしょう。ところがシゲは、風邪をこじらせ、肺炎になってしまいました。肺炎は当時、死の病。祖母は、秋も深まる寒い中、*「水ごり」*をとり、必死で看病しましたがシゲの容態はどんどん悪くなるばかり。どんどん衰弱していくシゲに家族の者は「なにか、喰いたいものは、ないか?」と聞きました。「スイカが喰いたい。」熱で乾いた口を潤したかったのかシゲは、そう答えました。稲刈りが終わった季節にスイカがあるはじずもなく、けれども家族みんなで、スイカをさがして歩きまわりました。「なんとかして、シゲにスイカを食べさせとうてな。」父から幾度となく聞いた話。その度に父は、つらそうに言うのでした。「あめゆじゅ とてちてけんじゃ」と言って死んだトシ。「スイカが食いたい」と言って死んだシゲ。もちろん、私はシゲに会ったことはないのですが小さい時から何回となく聞いたシゲの話に「永訣の朝」のトシがだぶり、この時期スーパーでスイカを見ると、ふと涙が出てくるのです。見たこともない、私の叔母、シゲが死んだのは、今頃でしょうか・・・。朝夕はめっきり冷え込んできました。お風邪など、めされませんように・・・。・・・・・・・・・・**「水ごり」**水をかぶって、神仏に願うこと。●毎月26日は、昔の思い出を書いています。●今回は、以前書いたものに加筆しました。**永訣の朝 ** 宮澤賢治けふのうちに/とほくへいってしまふわたくしのいもうとよみぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ(あめゆじゅとてちてけんじゃ)うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から/みぞれはびちょびちょふってくる(あめゆじゅとてちてけんじゃ)青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた/これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に/おまへがたべるあめゆきをとらうとして/わたくしはまがったてっぽうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゅとてちてけんじゃ)蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から/みぞれはびちょびちょ沈んでくるああとし子死ぬといふいまごろになって/わたくしをいっしゃうあかるくするために/こんなさっぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだありがたうわたくしのけなげないもうとよわたくしもまっすぐにすすんでいくから (あめゆじゅとてちてけんじゃ)はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわんを………ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまってゐるわたくしはそのうへにあぶなくたち/雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち/すきとほるつめたい雫にみちた/このつややかな松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべものをもらっていかうわたしたちがいっしょにそだってきたあひだ/みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも/もうけふおまへはわかれてしまふ(Ora Orade Shitori egumo)ほんたうにけふおまへはわかれてしまふあああのとざされた病室の/くらいびゃうぶやかやのなかに/やさしくあをじろく燃えてゐる/わたくしのけなげないもうとよこの雪はどこをえらばうにも/あんまりどこもまっしろなのだあんなおそろしいみだれたそらから/このうつくしい雪がきたのだ (うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)おまへがたべるこのふたわんのゆきに/わたくしはいまこころからいのるどうかこれが天上のアイスクリームになって/おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうにわたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ 人気blogランキングへ ・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月26日*父の麦わら帽子:里山の歌:「里の秋」*UP
2005.11.26
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小さい頃から、よく喋ったので「口上でこ」と呼ばれていた父。その父が話してくれた、父が5~6歳の頃の80年以上前の話です。村の子どもたちと、山へ茸引き(きのこ狩り)に行きました。目的地に着くと、それぞれ分かれて、きのこを探します。小さい父は、偶然、*松茸*が沢山生えている所を、発見。持っていた、ドンゴロス(麻袋)にせっせ、せっせと、入れました。ドンゴロスは、見る間に、いっぱいになってしまいました。しばらくして、一緒に、行った子どもは、集まります。一番、小さな父が、いっぱい、松茸を取ったことが、皆は、おもしろくないので、意地悪な態度をとるのです。父は、麻袋を背中にかけ、肩で持ちます。体が小さいので、麻袋は、地面に届きます。地面に着けたまま、引きずりながら歩くと、松茸が地面にふれて、傷みます。そして、松茸の香りが、あたりいっぱいに漂います。家に帰る道で、出会う人が皆、「ほう、仰山、とったな」と声をかけてくれたそうです。私が子どもの頃、今頃の季節になると、父は山に入って、松茸を採ってきてくれました。コンロで焼いて、裂いて、醤油をつけて食べる。それは、秋には、必ず巡ってくる、幸せな、味と香りでした。山が、ゴルフ場になったり、荒れ方だいになった今、松茸は、姿を消しました。そして、北朝鮮からの、お土産になるほど、高価なものになったのです。~高松の この峰も狭(せ)に笠立てて 満ち盛(さか)りたる 秋の香の良さ~<現代語訳>高松のこの峰も狭しとばかりに茸が沢山でき、あたり一面に満ちあふれる秋の香りの何とよいことよ。 **松茸**万葉名:「あきのか」「秋香」。キンシメジ科。秋の味覚を代表する茸。アカマツ林に良く生えるのですが、時には、蝦夷松、シラビソ、栂(いずれもマツ科)などの樹の下にも生えことがあります。・・・・・・・・・・・・・・・2002.10.13の日記の再編です。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★10月26日*:父の麦わら帽子:父の残した薪*UP
2005.10.26
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岡山に住んでいた頃、父は麦わら帽子をかぶって作物を作った。米、麦、キュウリ、茄子、干瓢(かんぴょう)、西瓜、瓜、ナンキン、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン・・・。それらは、生きていくために無くてはならない作物だった。自給自足のようなくらしだった。兵庫県・龍野市に引っ越して工場で働くようになったのは、父が50歳を過ぎてから。近くで300坪はある大きな民家を借りて住んでいた。家に帰ってからや日曜日に父はその家の前に菜園を作った。茄子、キュウリ、トマト、葱・・・。食卓には、父の作った野菜が並んだ。それだけではなかった。夏になると、糸瓜(へちま)を植えた。それをへちまの棚にして、夏の間、日陰を作った。ある時、へちまの代わりにヒョウタンを作った。ヒョウタンも棚を作って日よけにした。へちまの棚もヒョウタンの棚も、父は目を細めて眺めながら言った。「きれいじゃなあ・・・。」ヘチマもヒョウタンも風に揺られていた。夏が終わって、庭の隅に置かれた水を大きな瓶(かめ)の中に採れたヒョウタンを沈めた。何かが腐るにおいがして私たちは鼻をつまんだ。それでも父は笑いながら待っていた。それから何日かして、ヒョウタンを引き上げてみると、中の実の部分が腐って、無くなっていた。父は、それを干して、磨いて、中に酒を入れた。「鉄腕DASH」というテレビ番組でヒョウタン作りをやっていた。ヒョウタンを作りのは難しいとアイドルグループ」゚のTOKIOが言っていた。父は、岡山では作ったことのないヒョウタンをどうやって知ったのだろうと思う。生活の必要な物を作っていた岡山の時代。楽しみのために作る龍野市の時代・・・。植物を作ると言うことは、父にとって、単に必要だからというだけでなく、生きているということだったのだ。◎地球を救う127の方法:頭の使い方・考え方◎118.生活のために働くこと、レクレーションとして遊ぶことを分けて考えずに、 労働それ自体の意味や内容を考え、充実感のある、意義のある仕事ができるよう努力する。★☆★☆★オススメblog★☆★☆★重信川の岸辺から 「早く料亭に行きたい」といったという者、運動の時だけ庶民を演出した者、縁もゆかりもない土地を愛しているここから日本を変えるなどと叫んだ者、政策など難しいことは分からないといった者、そんな候補者達が当選している。官僚のエリートや大金持ちも結構いる。別にエリートや金持ちでも庶民のことや政治のことに真摯に取り組めばいいのだろうが、余り期待できそうにない。第一、庶民の痛みや苦しみが分かるはずがない。勝ち組を謳歌している連中なのだから。+自民党の当選者のなかには、こうした議員がごろごろいる。自民党は有権者をバカにして、カズ合わせをし、有権者の中には、そういうところに目をつむり、自民党ならだれでもいいと投票したのだろうか。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月26日*父の麦わら帽子:写真 *UP
2005.09.26
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岡山の伯母(父の弟の妻)の葬式に行ったのは、お盆の前だった。焼香をする人の中に、父の親友を見つけた。「**さん、お元気でしたか?」と妹と声をかけに行くと「あんた達は、どなたですか?」と聞く。「**の娘です」と父の名前をだすと、「ああ・・・。」と顔がほころんだ。「父が大変、お世話になりました」と言うと、「いいや、あの頃は、楽しかった・・・」と、みるみるうちに、目が真っ赤になった。10年くらい前、実家に帰ると、度々その老人が遊びに来ていた。父とふたりで、酒を酌み交わしながら、ふらふらになって、笑っていた。酒に酔って、転んで、老人が頭から血を流したこともあった。自転車で来ていた老人は、自転車をうちに残して帰ったこともあった。父が老人ホームに入り、一年に何度か帰るようになっても、友情は続いた。+++今から3年ほど前に、父が死んで、久しぶりに会えた、父の親友。一生を慎ましやかに生きた、伯母が会わせてくれた、父の親友。父より10歳年下のその老人は、83歳になっていた。「いつまでも、お元気で」と言う私の声も、涙で詰まった。伯母が死んで、またひとり父を知る人がいなくなった。伯母が死んで、また故郷が遠くなった。@@@@@@郵政&選挙関連オススメブログ@@@@@★考えてみよう 今度の選挙で自民党は小泉首相が自ら自民党内の少数意見を封殺したのです。党議拘束に反したからどうこうは別問題で、少数意見を封殺したというのは間違いようのない事実です。いまさら「全党平等」に「少数政党の意見も聞かなくては」として「全ての党での党首討論しか応じない」というのでは筋が通らないと感じますがいかがでしょう???★ユグドラシル 小泉氏の年来の主張である「郵政3事業民営化」も大蔵族だからこそ遠慮なく言い続けることができたと言えるでしょう。とくに郵便貯金の民営化は、大蔵省のパートナーである銀行業界が強く求めてきたことであり、経団連の広報機関である経済広報センターは毎年のように「郵貯・簡保民営化」のパンフレットを発行してきました。小泉氏は「一匹狼の変人」ではなく、ちゃんと応援団がいたのです。 人気blogランキングへ■□■テレビしびれて■□■★電車男・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月26日*父の麦わら帽子:思い出ぼろぼろ*UP
2005.08.26
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私の子どもの頃、田植え休みや稲刈り休みがあったので、一学期の終業式は、7月25日にでした。地区ごとに集まった生徒に対して、先生が川遊びの注意をします。「泳ぐ場所には、ロープや竹ざおなどを置いて、いざという時に、使うこと。長いこと、泳がないこと。家の手伝いや宿題もすること。上級生は、下級生の面倒をよく見ること。水泳の期間は、8月31日までで、それからは、泳がないこと・・・」私たちは、「はーい」と元気よく返事はしたものの、頭の中は、今日から泳げると、いう思いでいっぱいでした。どんなに暑い7月であっても7月25日からしか泳げないし、どんなに暑い、9月でも、8月31日までしか泳げないのです。私たちは、学校から家に走って帰りました。明日から、夏休み・・・。夏休みは、いつまでも続くような気がして、嬉しくて、嬉しくて、大声で叫びたい気持ちでした。+++ラジオ体操、朝顔、川遊び、スイカの収穫、盆踊り、夜店、昼寝、*野外映画*(校舎の壁をスクリーンにする映画会)、七夕、*手火*(七夕の翌日の火祭り)、蛍、夕涼み、花火・・・。遠出はしなかったけれど、毎日が輝いていたあの頃・・・。子どもにとって、夏休みは、一年で、いや一生のうち、一番楽しい時間だったのかも知れません。 人気blogランキングへ■□■テレビしびれて■□■★スローダンス●○今日の健康○●●歯医者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★26日*父の麦わら帽子余滴:ドンブラコ、ドンブラコ・・・。*UP
2005.07.26
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美空ひばりが亡くなって今年で17年。テレビから美空ひばりの映像とヒット曲が流れる。大スターの彼女は、テレビに映画にレコードにと多くの記録がある。2002年に死んだ私の父は、明治45年に生まれた名もない庶民、スターダスト。うちにある、一番古い父の写真は、30代のもの。それ以前は、まったくない。+++「モースコレクション展」に行ったのは、もう20年近く前。明治の初めに「大森貝塚」の発見者で有名な、エドワード・モースという博物学者が日本で集めたモノたちの展覧会。E・モースは、日本に興味を持ち、日本人の生活の全てを集めた。それは、枕、算盤、筆、看板、お守り、食器、おもちゃ・・・などなど・・・。骨董品のような、けっして高いものはなく、当時の人の使っていた全てのものだった。これらの品物は、あまりに当たり前すぎて、残しておく人などなく、いつの間にか姿を消した。それら、人々から忘れ去られたものたちが、突如、「モースコレクション展」で現れた。まるでタイムカプセルを開けたように・・・。今では、まったく見なくなったそれらのものは、当時の生活をしる貴重なものとなった。+++スターに人生があるように、スターダストにも人生がある。スターの人生は、語り継がれるが、スターダストは、忘れられる。私も名も無い庶民の父の過ごした日々を日記に書いていこう。モースが名も無い庶民の使ったものを集めたように・・・。■□■テレビしびれて■□■★孫のちゅん太が来ていて、テレビが見えない( ̄- ̄;)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月26日*露天風呂の日*UP
2005.06.26
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JR西日本・宝塚線の脱線事故から昨日で1ヶ月。昨日まで、いえ、その日、家を出るまで元気だった人が突然、突然、帰らぬ人になった事実。とうてい受け入れることの出来ない事実に、泣き崩れる家族の姿が痛々しかった。父がなくなった当初、私たちもそうだったと、もらい泣きしながら見ていたテレビ。++2002年2月26日の通夜の夜、「早よう迎えに来て・・・。」と棺にすがって、母は号泣した。私たちも、なにをしても思い出して泣いた。あれから、3年と3ヶ月。月日は、傷を癒してくれる。もう泣かなくなった。今年の彼岸の墓参りにも母は、微笑みさえも浮かべていた。けれどもそれは、父を忘れることにもなる。それは嫌だと思う。父を忘れるくらいなら悲しむ方がまだましだと・・・。そう思うと涙がこぼれるのだ。いえいえ、悲しみは遠くなっても、父の面影は、父の話は、父の笑い声は、今も、私たちとともにあるのです。名前の中に春を持つ父。生きていれば、5月で93歳です。++春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに 愛をくれし君の なつかしき声がする 松任谷 由実 ●父の麦わら帽子というタイトルで父のことを書き始めたのが2002年の6月26日。今回で満3年。■テレビしびれて■□■★anego・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★5月24日*田植え:えんたえ*UP
2005.05.26
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「わしのお父(とう)は・・・」と父が言った。「わしのお父(おとう)は、兵隊にとられとった時、鳥取に行っとった。岡山に帰って来る時は、吉井川を高瀬舟で帰って来た。」懐かしいものをみるような遠い目で父は、よくそう話した。父の父、私の祖父は、明治10年生まれ。祖父が兵役に行ってた時には、鳥取、岡山間には、鉄道がなかったのだろうか。どのくらいかけて帰ったのだろうか。父の母(私の祖母)も実家に帰る時には、鉄道もバスもないので半日歩いて帰ったそうだ。父も祭りには、半日歩いて祖母の里の祭りの客になった。「子どもの頃、お母(かあ)が、人力車に乗せてくれたこともあった。」と父の話は続く。「お母(かあ)の里に行く途中に茶店があってな。まだ小さい頃、ある時、わしの機嫌が悪かった。それで、お父(おとう)が『これを飲んだら直る』言(ゆう)て甘酒を飲ませてくれた。」一度その道が通りたくて妹と父母の4人で通った。道はすっかり変わっていたが、父が言った小字の名前は残っていた。「このあたりに、茶店があったんじゃ」と父が指差すところには、今はもう何もなかった。その4ヶ月後に父は死んだ。++JR福知山線の尼崎近くで73人が死ぬという大惨事が起こった。沢山の人を早く運ぶ・・・。たった数分の遅れが取り沙汰される。私たちはわがまま。電車をよく使う私は、他人事とは思えず、夜中までテレビのニュースを見ながら父や祖父の旅を思った。早くないけれど、目的地だけでなく、途中も楽しんだ、峠の茶屋で休む旅もいいもんだ、そう思った。もっとのんびり、もっとゆっくり・・・。尼崎は、よく通るところ。母の所に行ったり、友人のところにも。3月には2回、4月に1回。いつ、私におこるかもしれない事故。たまたま来ていた娘のレイがテレビを見ながら言った。「おじいちゃんが、電車に乗る時は、一番前に乗ったらあかんってゆうとった。」なくなって3年以上たつのに娘のレイは父を忘れていない。犠牲者のご冥福をお祈りいたします。 ●父から聞いた昔話を随時、書いていきます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★4月25日*摘み草*スイバ*UP
2005.04.26
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家を7時前に出て、妹と落ち合い、母を迎えに老人ホームに行き車で2時間。家から4時間半余りをかけて、2002年2月26日に死んだ父の墓参りに行ってきました。車を運転するのは妹、助手席に私、その後ろに母・・・。母の隣の空席は父のもの。+++1912年の春、父は岡山の田舎の村にうまれました。父の父(私の祖父)も同じ土地で生まれ、村で死んで行きました。父の母(私の祖母)は、遠くの村から嫁に来て、村で死んでいきました。父の祖母(私の曾祖母)も同じ土地で生まれ、死んでいきました。父の祖父(私の曽祖父)は、近くの村から婿養子に来ました。父の妹や弟も、叔父達もいとこも、この土地で生まれ、この土地で死んでいきました。先祖伝来耕した田畑を耕し、鶏や牛を飼い、山に木を伐りに行き、キノコ、アケビなどの山の恵みを受けながら暮らしました。父の喜びも悲しみもみんな、この小さな里にあったのです。父にとって、村は魂のようなものだったのかも知れません。晩年の数年間を兵庫県の老人ホームで過ごし、葬式をホームの近くで執り行いました。その時、村の人たちが言ってくれたのです。「葬式は、村で出来なかったから、せめて、お別れ会を村でしよう」と・・・。数年、村をあけていたにも関わらず、村の人が父を村人と認めてくれたのでした。+++墓は山の中腹にあります。ウグイスの声が聞こえていました。のどかな里山の春・・・。今、父は、生まれ育った、この地の土になったのです。私は、この大地から生まれここに帰っていく。 佐藤 哲三●「父の麦わら帽子」に続く、「父の麦わら帽子余滴」は、今回で終わります。m(_ _)m■□■テレビしびれて■□■★美しき日々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★3月25日*セピア色の入学式*UP
2005.03.26
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もしもおまえが、枯葉ってなんの役に立つの?ときいたなら私は答えるだろう、枯葉は病んだ土を肥やすんだと。おまえはきく、冬はなぜ必要なの?すると私は答えるだろう、新しい葉を生み出すためさと。おまえはきく、葉っぱはなんであんなに緑なの?とそこでわたしは答える、なぜって、やつらは命の力にあふれてるからだ。おまえがまたきく、夏が終わらなきゃならないわけは?と私は答える、葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ。・・・・・・・・・・・・ネイティブアメリカンの精神や詩を書いた「今日は死ぬのにもってこいの日」という本の中に、同じタイトルの詩がある。2002年2月26日に死んだ父も「今日は死ぬのにもってこいの日」と思って死んだのかもしれない。+父は、生前、「孫のために生きる 」といっていた。その言葉どうり、孫娘が結婚して数日後に入院した。それまでは、元気だったのに・・・。そして、死んだのは、娘の結婚式からちょうど、1ヶ月たった、2月26日だった。まるで、役目を終えた古い葉が枯れて、新しく若い葉とかわるように・・・。でも、古い葉は、新しい葉となって生き続ける・・・。父のいない3度目の2月26日・・・。 ◎◎ちょっとえこ◎◎◎エコライフのヒント集◎ ■□■テレビしびれて■□■★探偵ナイトスクープ56年前の「冬ソナ」、踊る!40オトコ(^▽^)★華岡青洲の妻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・■目次■◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★2月17日*あそび唄:お手玉の唄・・・梅に鶯*UP
2005.02.26
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岡山から 誰ひとり、知りあいののない、兵庫県・龍野市に引っ越してからも、うちには、人がよく出入りしていた。龍野に来て間もない頃、正月には、村の気のあった人たちで新年会をやろうという話になった。会場は、新参者のわが家で、以後、何回も続いた。近所の父の知り合いが、鶏をしめ、野菜を持って、うちにやってきた。妹と私は、お酒のかんをしたり、料理を運んだりと、裏方をした。いつの間に、親しくなったんだろう、といつも思っていた。きっと、葬式や、道普請などの機会に、親しくなったんだろう。「この家は、いい。**(父の名前)さんの話が面白いし、それに、奥さんが楽しい。」父の知り合いは、そう言って、いつも、うちの家を利用した。母は、お酒は弱かったけれど、乞われれば、歌い、踊ったので、座持ちがいいと皆が言う。話好き父と、歌や踊りが好きな母は、いいコンビだった。それは、晩年も変わらなかった。そこに、私と妹がいなかったけれど・・・。父が死んで、もうすぐ、3年になる。とり年生まれの母は、1月15日で84歳になった。父の死後、歌うことを忘れた鳥のように、毎日を過ごす母。父という片方の翼を失った母は、飛べなくなった、鳥・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★1月15日*成人式今昔*UP
2005.01.26
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この季節になると、PCの中に元気だった頃の父の思い出のひとつの食事メニューをみる。それは、けっして、豪華なものではないけれど、父はいつも笑いながら言っていた。「ああ、ありがたい、ありがたい。」*************************************************1日目(12月30日)●夜● *ごはん*煮魚*味つけ海苔 *みそ汁 2日目(12月31日) ●朝●*ごはん*みそ汁*卵焼き*つけもの*味つけ海苔●昼●*ごはん*みそ汁*肉じゃが*味つけ海苔●夜●*巻きずし*さしみ*年越しそば3日目(1月1日)●朝●*雑煮*おせち●昼●*ごはん*スキヤキか水炊き*おせち●夜●*ごはん*ボンカレー*さしみ*おせち4日目(1月2日)●朝●*雑煮*のこりもの●昼●*ごはん*のこりもの***************************************************結婚してからも年末年始はいつも実家に帰った。父や母が老人ホームに入ってからも私と妹は、正月を故郷で迎えられるようにと連れて帰った。実家にはもう住む人がいなくて、米から調味料から全てを持って行かなければならない。私が泊まる間の食事のメニューを作って、妹にファックスして、妹が材料を買って来た。父の友人や村に人たちが遊びに来て、酒を酌み交わして、喋って、笑って・・・。帰る日には、残り物を食べてもらった。それでも父は満足そうに笑いながら言った。「ああ、ありがたい、ありがたい。」2002年の正月は、故郷に帰れなかった。私が、足をくじいて歩きにくかったから・・・。そしてその2月26日、1ヶ月も入院しないで風邪で死んでしまった。2002年の正月、あの時、父は元気だった。帰っていれば、きっと大喜びしただろう。そうすれば、風邪なんかひかずに、死なずにすんだかもしれないのに・・・。悔やんでも、悔やんでも、あの日は帰らない。~~~~~~~~~~~~■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★12月22日*松迎え* UP
2004.12.26
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里の秋作詞 ・斉藤 信夫 /作曲・海沼 実 1. 静かな静かな 里の秋 お背戸(セド)に木の実の 落ちる夜は ああ 母さんとただ二人 栗の実 煮てます いろり端(バタ)2. 明るい明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨(ヨガモ)の 渡る夜は ああ 父さんのあの笑顔 栗の実 食べては 思い出す☆。。。☆。。。☆。。。☆。。。☆。。。☆。。。☆私が中学校に入った頃から、父は、現金収入を得るために、一人で龍野市に出稼ぎに行っていた。家族が岡山の家と龍野市に離れて暮す毎日。人一倍明るい、父がいないのは、寂しかった。とはいえ、私たちには、母がいて妹がいて、学校の友だちや近所の人がいた。けれども、父は、たった一人、慣れない土地で、慣れない仕事をして、自炊をして暮していた。先祖代々、岡山の片田舎に住み、先祖代々、農業を営んできた父。父にとって、岡山の家は、百姓という職業は、根っこの生えた場所のようなもの。その根っこを自ら、引き抜いて、他の場所に移植することの大変さ・・・。50歳を越えて、慣れない仕事につくことの大変さ・・・。今なら、わかる、今なら・・・。結局、私たちは、皆で龍野市に住むようになる。その年は、里山が里山としての機能を失う、昭和30年代の後半にあたる。ああ 父さんのあの笑顔 栗の実 食べては 思い出す・・・「里の秋」は、家にいない父親を待つ歌。胸を揺さぶるような、歌詞と旋律に涙がこぼれる・・・。☆。。。☆。。。☆。。。☆。。。☆。。。☆。。。☆3 さよならさよなら 椰子(ヤシ)の島 お舟にゆられて 帰られる ああ 父さんよ 御無事でと 今夜も 母さんと 祈ります 時代の流れで、3番の歌詞は歌われなくなった。 ■父の麦わら帽子■■□■テレビしびれて■□■★黒皮の手帳★大奥◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★11月25日*食い初め* UP
2004.11.26
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「わはは・・・。小屋が潰れとる。」台風の後、家の前の小さな土作りの小屋が潰れているのを見て、父は愉快そうに笑った。私たちは、岡山から兵庫県に引っ越して来ていた。借りた家は、畑、カド(農業用の前庭)、納屋や長屋門、それに小屋のついた大きな農家だった。その中の小屋が台風のために、突然、崩れた。それを見て父は「わはは・・・。小屋が潰れとる」と笑いながら言ったのだ。台風一過の晴れた日曜日に、父は、麦わら帽子を被って、小屋を片付け始めた。柱は、切ってタキモン(薪)にする。壁土は、細かく砕いて、家の前の畑に入れる。そして、小屋の屋根瓦が残る。父は、カド(農作業用の前庭)の雨が降ったとき、水溜りの出来る部分の土を掘った。そして、そこに、瓦を立てて並べた。それから、その上に、土をかぶせた。瓦を土に、立てて入れることで、水はけをよくしたのだ。こうして、タキモンと畑の土は増え、雨が降っても、水は溜まらなくなった。私は、手伝いもせず、父が働くのを見ていた。あまりに楽しそうに働くので、うっとりと見ていたのだ。潰れた小屋を見たとき父には、新しく生まれ変わる、家の姿を見たのかもしれない。父は、過去のことを大切に話してくれたが、それと同じように未来についても、夢をもっている人だったから・・・。■参考日記■◎父の麦わら帽子◎■□■テレビしびれて■□■★西部、優勝。しかし、今回は台風23号、新潟の地震と踏んだりけったりな試合でした。ライオンズとドラゴンズの関係者も、ほんと被害甚大。伊東監督のドウブルイ、じゃなかった胴上げも心なしか寂しい。◎日本ちょっと昔話◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★10月26日*父の麦わら帽子:父の残した薪* UP
2004.10.26
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この季節に、「おひまち」という集まりがあって、父はよくいそいそと出かけていった。近所の人が少しずつ、米を持ち寄って、当番の家の集まる。当番の家は、持ち寄られた米と、油揚げやコンニャク、山から採って来たマツタケなどを入れて炊く、炊き込み御飯を振舞う。その炊き込み御飯のことを「かきまぜ」と言った。当時は、普段には、麦飯を食べていた。子どもの私は気が付かなかったけれど、麦飯さえも無かった時があったという。そんな訳で、私の子どもの頃は、かきまぜは、ごちそうだった。その上、少しばかりのお酒もつく。だから、父は、いそいそと出かけて行った。「しかし、世の中には悪い奴がいるもんじゃ」と父は言った。当番に当たった家がケチで、持ち寄った米を、くすねたいた。「じゃあから、あの家の、かきまぜは、じるかった(柔らかかった)。」それ以来、みんな、その家の主人に「カキマゼ」というあだ名を進呈した。父の友人の呼び名は、面白いが、この「カキマゼ」は、この時期になると、思い出す。←簡単にできる、「かきまぜ」。**おひまち**←マルチャンの日記。◎日本ちょっと昔話◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★9月23日*旅は:他火**UP
2004.09.26
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お父ちゃん、来月、家族旅行をします。お母ちゃんとミナとレイ、妹親子そして私の6人。それから、去年生まれた、お父ちゃんにとって初めてのひ孫のちゅんも一緒です。一緒に行こうとお母ちゃんを誘ったら、「足の悪い、この私が行けるもんか」とはじめは断っていたんです。でもね、「行けるって、ちゅんも一緒やから・・・」と言うと笑ってくれました。こうやって、お母ちゃんや妹と一緒に旅行に行くのは初めて。お父ちゃんが生きてる時は、年に何回か老人ホームから故郷の家に帰って泊まったよね、皆で・・・。あの頃は楽しかった・・・。お父ちゃんは子どものようにはしゃいでいたから、それが一緒に行くお母ちゃんや私と妹に移ってたんですね。あなたが死んでから、3回目の夏・・・。もう長いこと、お母ちゃんは、どこにも泊まりに行ってません。ずーっと、老人ホーム暮しなのです。だから今回家族旅行を企画したのです・・・。お父ちゃんも一緒だったらどんなにいいかわかりません。でも、お父ちゃんは、きっと故郷の家が一番いいって言って、どこにも行かなかったでしょうね。だからあなたの写真は持って行きません。でも、皆の心の中にお父ちゃんは生きています。父が死んで3回目の夏。少しずつ遠ざかっていく父の麦わら帽子・・・。◎日本ちょっと昔話◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★8月21日*雨乞い*UP
2004.08.26
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先日、娘のミナから電話。今週末から来ると言う。「だから、ビニールのプール出しておいて」とミナ。ミナとレイが子どもの頃、使っていたビニールのプールを使いたいと言う。私の子どもの頃は、小学生になったら川で泳いだ。幼児は、たらいで水遊びをした。「はるなちゃんをたらいに入れて、川で遊ばせたことがあったなぁ」と昔、父が母に言った。「たらいに乗せて、川上から、ドンブラコ、ドンブラコ言いながら、なぁ・・・」と母もよく覚えていた。2月生まれの私が6ヶ月になった頃のことだろうか、それとも1歳半のことだろうか・・・。それは、私が喜ぶからというより、若い父親と母親が楽しかったからかも知れない・・・。子どもといることが何よりの楽しみだったと語る二人・・・。赤ん坊の頃の写真を私は、持っていない。その頃はカメラなど、高級品で手の届かないものだったから・・・。けれども、「ドンブラコ、ドンブラコ・・・」とたらいに乗って川を下る小さな私が頭に浮かぶ。そして、それは、ちゅんの顔にだぶる・・・。夏が来るたび、故郷の川を見るたび思い出すのは、ドンブラコ、ドンブラコ、たらい、若かった父や母の笑顔、小さかった私・・・。■今日の体調■*会社の近くの歯医者 ■□■テレビしびれて■□■★ザ 鉄腕ダッシュ★新撰組◎日本昔話◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★7月26日*父の麦わら帽子4:「ないものあります」*UP
2004.07.26
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銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。有名なアイヌのユーカラの出だし・・・。アイヌは文字を持たない民族。彼らの伝説や神話は、全て、人から人へ、口から口へと伝えられた。2002年2月26日に90歳を目の前にして死んだ私の父も生まれつきか、産まれてすぐか、右半身が不随だったので、文字を書くのが苦手だった。その代わり、彼は、口が達者で、面白おかしく、昔の話をしてくれた。父の祖父(私の曽祖父)は、近くから婿養子に来たこと。三人の男の子がいたが、三男を溺愛していたこと。父の祖母(私の曽祖父)は、力持ちだったこと。名前がハナといったこと。父の父(私の祖父)は、明治10年生まれだったこと。日露戦争に行った事。その、軍事訓練は鳥取で行われたこと。鳥取から、岡山へは、屋形船で帰ったこと。おだやかな人だったこと。父の母(私の祖母)は、岡山の奥の方から、嫁に来たこと。夫が籠をつけた天秤棒をかつぎ、その片方に荷物、もう一方に、子どもを乗せて、歩いて里帰りしたこと。手八丁、口八丁で、男どもを言い負かしていたこと。そろばんを片手に、*フシ*の仲買をしていたこと。私を、溺愛していたこと。父のいとこは、母親が早く死んだこと。病状がよくないことを知らせるために書いた葉書を、親が文字が読めず、長い間、懐にあったこと。そのため、駆けつけたときは、すでに死んでいたこと。あるときは、楽しく、あるときは、悲しく、父の話は続いた。晩年、父は墓を建てた。そこには、私の先祖の名前が彫られてあった。死んだ年や出身地なども・・・。そして、こう言った。「ワシが死んだら、誰も、このことを知っとるもんが、おらんようになる・・・。」と・・・。父が見たり聞いたりしたこと、あるいは私の祖父母やそのまた先祖の語ったこと・・・。父が私に、伝えてくれた、温かなぬくもりのある思い出話・・・。それを私は、ネットという、はかないものの上で語り継いでいこう。銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに・・・。*******愛する私たちの先祖が用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものも、みんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失してしまうのでしょうか。おお、それは、あまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生まれ、アイヌ語の中に育った私は、雨の宵、雪の夜、暇ある海に打ち集って私たちの先祖が語り興じた、いろいろな物語のうち、ごく小さな話の一つ、二つをつたない筆に書き連ねました。「アイヌ神謡集」知里幸恵(ちりゆきえ)*******◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★6月26日*父の麦わら帽子:特別な日*UP
2004.06.26
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産まれて、すぐ小児麻痺になった父は右半身が不自由だった。「あれは、わしが4つの時の田植えの頃じゃった。4つになっても、歩けん、わしは、皆が田んぼに行っているのに、一人、家に居らされた。そんな時、ふっと、歩いてみたら、歩けたんじゃ。わしは、大声で言(ゆ)うた。『わしは、歩けた、歩けた!!歩ける、歩いとる』ゆうて・・・。田んぼから家に帰った、わしの、おかあ(母)がビックリしてな、ははは・・・。」笑いながら言う。「自分が立てたことを覚えているのは、わしぐらいじゃ、ははは・・・。」父にかかれば、なんでも自慢になる。それが、4歳まで歩けなかったことでさえ・・・。「じゃぁから、心配いらんて、この子も歩けるようになる。」近所に、歩くのが遅い子どもがいた。その子の母親が、「この子は、まだよう歩かん・・・」と嘆くと、父は、その話をした。通夜の席に、その母と歩けなかった子どもが来てくれた。2時間も車をとばして・・・。子どもは、中学生になっていた。26日は2002年2月26日に死んだ父の月命日。5月生まれの父、生きていれば、92歳。◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★5月23日*夕方に買物をするな *UP
2004.05.26
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今月の初めに、播磨の小京都、兵庫県・龍野市に桜を見に行った。時が止まったような、ひっそりとした、龍野も、桜の季節は、大賑わい。「赤とんぼ」の碑が立つ所から、龍野藩主の庭園までの小道、そこを歩きながら私が言った。「葉桜の頃に、お父ちゃんが、ここを歩いてる写真、あるよね。」「あれは、川柳の会で来た時のやわ。」妹は言う。2002年2月26日に死んだ父は、趣味が沢山ある人だった。川柳の会にも入っていて、時々、会に出かけた。作業着と地下足袋で川柳の会に行こうとする父に、母は「背広で行かんと・・・。ちゃんと、革靴も履いて・・・」と怒るように言った。父は、「ワシには、背広は似合わん。」と笑いながら反対したが、いつも母の勢いに負けた。葉桜の下を歩く写真は、背広姿に、あごひげという、異様ないでたちの父・・・。プロのカメラマンが、写真を撮らせてと言ったのは麦わら帽子に、綿の仕事着、そして地下足袋・・・。背広姿は、ほんとうの自分ではない・・・。父は、そう思っていたのだと思う。だから、背広は着たくなかったのだと・・・。けれども、母の言うとおりに、背広に革靴姿で出かけていた。生まれてから、いろいろなことと闘い続けた父も、母とは、闘わなかった。去年(こぞ) ともに歩きし人よ「いない」ということ思い知る葉桜の下 俵 万智 ■今日の体調■*会社の近くの歯医者■□■テレビしびれて■□■★新撰組◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★4月20日*「ねえや」と「たらい」と「産湯」と「湯かん」 *UP
2004.04.26
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私が父の暮していた老人ホームを訪ねると、父はいつも熱心に新聞を読んでいた。声をかけると、手をあげて笑った。老人ホームの職員が「娘さんですか?」と私を見ながら言うと父は言うのです。「そうです、自慢の娘です」と・・・。子どもの頃から、努力することが嫌いで、宿題なんかしなかった私。授業中もボーっと空想にふけっていた私。頭が良いというのでもなく、スポーツに才能があるのでもなく、ずば抜けて美しい容姿でもない、どこにでもいる私は普通の女の子。それなのに父は、子どもの頃から、いつも、私を自慢の子どもと思ってくれていた。そして、私が中年になっても「自慢の娘です」と言っていた父。あるがままの私を尊重してくれた父。一生、親ばかで通してくれた父。2002年2月26日、89歳で亡くなった父。私も父のように素直な性格だったら、言えたのに「あなたこそ、一族、みんなの自慢です」と・・・。生前に言えなかった「私の自慢の父です」と今、つぶやいてみる・・・。 ●今日で父が死んで、丸二年がたちました。二年の歳月は、悲しみを少しずつ和らげてくれました。 02年6月から今日まで毎月26日に書いていた、父への供養の日記 「父の麦わら帽子」を今日をもって終わります。 長い間、おつき合いありがとうございました。m(_ _)m これからは、毎月ではなく、時々、書いていきます。■□■テレビしびれて■□■★てるてる家族★その時歴史は動いた~島津、毛利、伊達藩に見る生き残り術~●レンタルビデオ「チョコレート」◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★2月21日*あそび唄:お手玉・・・梅に鶯*UP
2004.02.26
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85歳になってから、老人ホームに入所した父。80歳を過ぎて、3回も手術をしたため、父の足は、衰え車椅子を使うようになりました。そんな、父の車椅子を押してくれた人がいました。同じホームに入っていた、女性です。彼女は、本をよく読んでいて、本の好きな父と、多いに話しが弾んだそうです。ある時、父がその女性に「ところで、あんたは、何歳じゃ?」と年をききました。「95歳です。」とその女性。「そうか、ワシより10歳年上か。そんなには見えん。」と父は言い「今度、生まれて来るときは、5年ゆっくり、生まれて来てください。ワシは、5年、急いで生まれるから・・・。そうしたら、ワシらは同い年。一緒になろう」そう言ったと笑いながら話してくれました。その老人ホームの近くを通る度に「あの、お婆は、まだ生きとるじゃろうか・・・。」と言ってた父。もうすぐ、バレンタインデー。85歳と95歳の想い・・・。人を好きになるのに年齢は関係ない。父の話を思い出すたび、思うのです。 恋は遠い日の花火ではないと・・・。 ●今日26日は、父の月命日です。*以前UPした日記ですが、再度UPします。■□■テレビしびれて■□■★ザ・鉄腕ダッシュ/い草から畳を作る。★新撰組★砂の器★情熱大陸/チャーのギター★世界遺産/理想の工場村:ロバート・オーエンの残したもの◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★1月25日*朝まで生テレビ体験記「なにぬかしとるんでぇ」その5 完*UP
2004.01.26
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9月、友人と兵庫県龍野市に行った。何十年ぶりだろう・・・。龍野市は、その当時とほとんど変わらない。変わったといえば、その時が止まったような町に、観光客が来ていたことだった。農業で食べていけなくなった私たち家族が、岡山の田舎から、職を求めて引っ越して来たのは40年以上前。龍野市は当時は、どこにでもある、普通の田舎町だった。まわりの町が、大きくなっていく中で、龍野は取り残されたように、ひっそりと息をし続けた。その、時が止まったような町も、それがゆえに「フーテンの寅さん」にまで出るような魅力を持った町になった。 11月に、娘を伴って再度行った。娘とそんな古い町並を歩いた。「あっ、麹屋(こうじや)」と突然、私が叫んだ。昔と同じ場所に麹屋が今も商売をしていた。「レイちゃん、見て、見て、麹!」と私は言い、「麹?麹ってなに?」と娘は言う。「おじいちゃんとお婆ちゃんが、ここで麹を買(こ)おて、味噌を作ってたんやんか。」「そろそろ、味噌を作らにゃぁ・・・なぁ。」この時期になると、父は、よく母に言っていた。麹を買った来て、二人で味噌を作っていた。二人とも仕事で疲れていたのに、楽しそうに味噌を作っていた。売っている味噌を買った方が、手間がいらず、体も休まるのに、作るのがあたりまえのように作っていた。父や母があたりまえのようにやっていたことが、私は、しない、出来ない。けれど、龍野の麹屋さんには、いつまでもそこで店を開いていて欲しいと勝手なことを思う。もろぶた、麹、味噌、ゆったりとした時間、そして元気だった父や母・・・。なくしたものを思いながら、涙が出そうになった。麹屋の前の「もろぶた」に入った麹は、白い花のように見えた。白い花のような麹を見ながら思い出したのは父だった。■参考日記■ ◎民具:もろぶた◎●父の麦わら帽子● ■□■テレビしびれて■□■★てるてる家族◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★11月23日「小さな村の小さな家」・・・山への道 UP
2003.11.26
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先日、妹と老人ホームに母を迎えに行く。ふるさとの、岡山に帰るため・・・。「この服にしたら・・・」妹が母に、服を着替えるように言う。「ズボンはこれの方がいいわ。」「このままで、ええやろ」と母。「こっちの方がええよ。向こうで、誰かに会うかも知れんから、おしゃれしよう」と私は母に言う。「誰かに会うって・・・。会うなら、おじいさん(父)に会いたい・・・」ポツリと母が言う。母の言葉に、喉に、あつい塊がつかえた。母は、口にしないけれど、ずっと思って暮していたんだ・・・。父に会いたいと・・・。会いたくて、会いたくて、会いたくて・・・。でも我慢して暮していたんだ・・・。「会いに行くんやで・・・。今日は、お父ちゃんの、月命日やもん」口にはしなかったけれど、私は心の中でそう言った。お墓に行ったて、父の声は聞こえはしないけど、顔も見えはしないけど・・・。でも、行こう、おかあちゃん、おしゃれして・・・。 ★☆。。。☆。。。☆。。。★☆。。。☆。。。☆。。。★晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔 想い出遠くあせても さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう 会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう --------------------・涙(なだ) ・そうそう=ぽろぽろ ■参考ページ■■父の麦わら帽子■涙(なだ)そうそう ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★9月24日「竹の生まれ月 」UP
2003.09.26
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