全238件 (238件中 51-100件目)
私が子ども時代をおくったのは、今から60年以上前。私が暮らした岡山県の山奥の村は、昭和30年の初めは、テレビなどなくて(あったかも知れないが、私はまったく知らなかった。)映画館もない時代だった。 それでも、七夕や盆踊りなど夏休みは楽しいことでいっぱいだった。楽しいことのひとつに、夏の夜、小学校の校庭での映画会があった。平屋の校舎が3棟並ぶ小学校の校庭で映画会は開かれた。校舎の壁を利用して白い布が掛けられ、それがスクリーンになった。木をカタカナのコの字に組んでそれに筵(むしろ)をかけたけ、壁にした。座席となる場所には、筵(むしろ)が敷かれていて、客は座布団を持参するのだった。小さな入り口には、入場料を取るところを作った。入場料のことを「木戸銭」と言った。 昼には、映画会を知らせる車が拡声器で「今晩、7時より、小学校で映画があります。2本立てです。皆様、お誘いあわせの上、お越しください」と言いながら通った。それを聞いて父と母は「青年団が映画をふれて(告知)いる」言ったが、映画を見に行くことはなかった。木戸銭が無いので行けなかったのだろう。私は、子ども同士で見に行って、大人に交じってさっと入場した。木戸銭の係りも見逃してくれることを知っていたのだ。 映画は、2本立ての他にニュースがあった。先にニュースがあり、次にドラマだ。ドラマの内容は、「母子もの」、「お笑いもの」、「時代劇もの」が好まれたのかよく見た記憶がある。特に時代劇は人気があったと思う。物語が始まると、みんなが拍手を送った。次に、弱い者が悪人にいじめられると、子どもは、激しくののしった。そこに、正義の味方が馬で現れると、一気に会場は沸いた。「ええモン(良い者)じゃぁ、ええモン(良い者)が来た!!!」子どもは、各自大歓声を上げ、大人も拍手喝采した。映画の終わりには、大人も子どもも、拍手をした。あの頃は、すべてのものをみんなで分かち合った。映画もまた、みんなで時間と空間を分かち合っていた。昭和も半ばになると、少しずつテレビが入ってきて校庭の野外映画会は無くなった。夏の野外映画会は、子どもの頃の数年間だけの貴重な思い出だ。 先日、■映画・ニュー・シネマ・パラダイス■を見た。そこでも夏に野外映画会があった。■2019.4月16日(火)ギリシャ・サントリーニ島■で野外映画の案内が!■■2018.4.24(火)クロアチア・ロヴィニ■約600年間ヴェネチアに支配されていた歴史をもつロヴィニ。この路地にスクリーンを吊り下げて映画を見るのだとガイドさんは言っていた。■2016年7月エディンバラ■駐車料金を払って車を止めて、入場料を払い中に入ると、野外映画の案内が貼ってあった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.08.26
コメント(4)
私は、今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を送った。その頃の七夕は、ひと月遅れの八月七日だった。この日は、朝からいそがしかった。 ラジオ体操から帰ると、お盆と茶碗を持って、家を出て、近くの田んぼに行く。田んぼの稲に残っている朝露をお盆にすくい、茶碗に入れる。 田んぼの隅に植えてある里芋の葉に残っている玉のような丸い露も茶碗に受ける。茶碗にたまった朝露を家に持って帰って、その露で墨をすり、その墨で短冊に願い事を書く。 その間に、父は家の横にある竹藪に入り、小さめの竹を2本切ってくる。2本の竹は、裏の縁側に立てられ、縁に■小さな机■を置いた。 ナスビにマッチを4本さして、牛のあしとした。 キュウリにマッチを4本さして、馬のあしし、トウモロコシのヒゲをつけて尻尾にした。 その、牛と馬を机に置いた。一方、2本の竹には、色紙を切って、墨で願い事を書く。短冊の一方の端に、河原で採ってきた雑草をつけて笹につけた。この日のおやつは、焙烙(ほうろく)で焼いた■「流し焼き」■。鍋の中に、水でといた小麦粉に砂糖を加えたのをいれ、タネをつくる。しゃもじにすくって、焙烙に流すとすぐ、焼きあがる。小麦粉を流して焼くから流し焼きというのだろうか。夜、天の川を見上げて、過ごした。 次の日の暗くなると、手火(てび)という行事があった。長い竿に麦わらで作った三角錐の「もじ」をつけ、その中に花火を沢山入れておく。その下では、火のついた松の薪を持って、合図と共に、手火に投げ入れる。高い竿なので中々届かず、何度も手火が空に舞い、その都度、悲鳴が上がった。手火(てび)が、「もじ」に届くと花火が上がった。見ている大人からも子どもからも大きな歓声があがった。あっという間に花火は終わった。来年まで、七夕も手火(てび)もない。けれど、まだまだ夏休みの楽しみはあると思った。七夕と手火は、夏休みの前半を彩る楽しい行事だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.26
コメント(0)
私は、今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした。当時、ほとんどの家は、農業をして、ほとんど自給自足、買い物は、めったにしなかった。とはいえ、時々、買い物に行った。その時持っていく、買い物かごを、「やみかご」とよんでいた。イグサを使った、小さな「やみかご」。これで十分だった。野菜などは自分の家で作っていたから・・・。例えば、ちくわを一本買いに行くと、紙袋にちくわを入れて、それを「やみかご」に入れた。買うものは、それだけだった。それさえも、いつも買えるわけではなかったから・・・。小さな紙袋が残るが、それは風呂の焚き付けとなった。 大阪で生活するようになってからは、小さな買い物籠を持って近くの市場に行った。スーパーが出来て、いつの間にか、買い物かごを持って買い物に行かなくなった。レジ袋が当たり前になって、何の疑いもなく使っていた時代があったが、ここ何年かは、エコバッグを持って買い物に行く。そのエコバッグの大きさは、やみかごの何倍も大きい。自分の家で作ることをしないから、ネギ一本からスーパーで買わなければならないからだ。小さな「やみかご」一つで生活出来る夢のような暮らしを私はしていたと今は思う。元々いかごは、「やみかご」と呼ばれており、戦後の闇市での買い物かごに使用していた為と言われています。やみかごは、どの地域にもあり、その地域で採れる素材を使用し作られていました。倉敷ではいぐさ製品の製造の際に、捨ててしまういぐさの部分を撚って縄にし、内職としてやみかごを織っていました。■レジ袋の有料化■が決まった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.26
コメント(2)
岡山県の田舎に住んでいた60年以上前の話。うちの家の敷地の西側に、細長い竹藪があった。篭や笊、火吹き竹、竹帚、洗濯竿などの生活道具として、建材として、昔の生活は、なにかと竹を使っていた。 竹の種類は、マダケだったかハチクだったかは、覚えていないが、タケノコの旬は今頃だった。今頃は、毎日のように竹藪に入って、タケノコを採ってくるのが私の役目だった。西側にある竹藪は、夏になると、強い西日を遮る格好の日よけになった。夏、洗濯の物干し竿や、稲を干す竿を切り出し、七夕になると二本の竹を切り出し笹に願い事を書いた。竹藪にいる翅の黒いトンボを私は飽きずに眺めていた。竹を利用することで、竹藪の面積は維持されていた。 タケノコをありがたがらず、日常に竹を使わない今、竹藪が拡大し「竹害」という言葉が生まれている。竹と共に暮らしていた藪のある暮らしが懐かしく思い出される。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.26
コメント(2)
(▲2007年中国で見た牛。)私はベジタリアン。私が、ベジタリアンになったのは、わが家に飼っていた牛が原因。私が小学校に入る前の話。昔から私は、食い意地のはった子どもだったみたいで、それは今も変わりません。当然、お肉も大好きだったそうです。そしてその好物のお肉を食べながら父に聞きました。「お肉は、なにで出来てるん?」その頃は、どこの家でも、たいていの物は自分の家で作るのが普通でした。味噌や漬物は言うに及ばず、うどんやそばをうったり、干瓢(かんぴょう)を作ったり・・・。それも、小麦やそば、干瓢など、種蒔きから始めるのです。家で作らないものも父が材料と作り方を教えてくれました。豆腐は、油揚げは、チクワは・・・。幼い私が理解しようがしまいが教えてくれたのです。それで私は聞いたのです「お肉は何で出来てるん?」と。「ボウじゃ」と父は答えました。ボウとは牛の幼児語。「ボウ?」私は、ビックリしました。今の今まで自分がボウを食べているなんて思っていなかったからです。その日以来、私は肉を食べなくなりました。隣村に、猟が趣味の人がいて、よくイノシシを撃っては家の前で、解体していました。小学生になった私は、その家の前を目をつぶって、走りぬけていました。川でドジョウやカワニナをとって、グラグラ煮える鍋に入れる。それをおいしい、おいしいと言って食べる人間がいやでした。「人間て野蛮。平気で動物を殺して食べるもん」と私。すると父が言いました。「動物はみな、何かを食べにゃ、生きられん。草を食う虫も、鳥に食われるし、その鳥をもっと大きな動物が食う。人間も同じじゃ。それに生命という点では野菜も同じように生きとる。野菜も人間に食べられるようにと思うて、大きくなっとんじゃない。みな、自分の子孫を残そうと思って生きとるんじゃ。」以来、少し心が軽くなったものの、やっぱり肉は食べられず、先日、乗った飛行機の機内食は、ベジタリアンコースだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.26
コメント(4)
▲(■昭和レトロの鶴の皿■)岡山の田舎から、兵庫県の西の方にあり揖保川(いぼがわ)が流れる、古い城下町龍野市に家族で引っ越したのは、私が中学2年の夏。今から50年以上前のことだ。岡山の田舎にいる時は、食器など数多くなくて、大事に大事に使っていた。食器を買おうにも、家には買うお金が無かったし、村には食器を売る店もなかった。龍野に引っ越してしばらくして、母が食器を買ってきた。龍野橋のひとつ上流に架かる、旭橋、その近くに、水神様の社があった。母が食器を買ったのは、その水神様の境内。そこで、「茶碗ざやし」という陶器市が開かれていたのだ。陶器市といっても、小さな焼き傷が入ったりした二級品ばかりの市だ。少しお金がたまると、母はそうして食器を増やしていった。「茶碗ざやし」で家族の食器を揃えるのが母の楽しみであり、ストレス解消だったのかもしれないと今は思う。先日、■大阪・天満の天神様■で食器を売っているのに出会った。久しぶりに、水神様の「茶碗ざやし」という言葉を思い出し、「ざやし」を調べたが分からなかった。■「やし」■は、*野師、露店人等にて商ふ人。*縁日又は夜店に出ていかものを売つて居る者のことをいふ。そうだ。■国民食器か?緑の二重線の皿■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.26
コメント(2)
私の子ども時代、今から60年以上前は、よく火を焚いた。食事を作るにも、風呂を沸かすにも火を焚かなくてはならない。山に薪を取りに行っても、そこに簡単な石の炉を作り、飯盒でご飯を炊くために火を焚いた。 冬になると、毎日のように焚火にあたった。■当時の冬服■は、貧しいもので、とても寒かった。毎朝、学校に途中で、焚火をしている家を見つけると、火に当たった。大人も子どもも「寒い、寒い」と言いながら手を火にかざした。突然、バンッ!!と大きな音がして、私はビックリして飛び上がった。 それは、竹の破裂する音だった。竹が温まると、節の中の空気が膨張して、破裂すると父が言った。それは分かっていても毎回驚いた。時々、藁を焚いたら、白いポップコーンのようなものを見つけることがあった。藁に残っていたモミが火によってはじけたものだ。もちろん、当時、ポップコーンというものを見たこともなければ言葉さえ知らなかったのだが・・・。焚火の中にポップコーンのようなものを見つけると、木の枝を使って、さっと拾って食べた。 寒くてたまらない日は、一斗缶に薪を入れ、家の中で火を焚くこともあった。そんな時父は、火掻き棒で火を調節しながら、昔話や、笑い話をした。 休みの日に、たまに、餅を焼いたり、サツマイモを焼いたりしたのをもらうことがあったが、それは本当に稀なことだった。最近は、火を焚くことが出来ないので、冬になっても焚火を見ない。足止めてあたらせて貰ふ焚火かな 能村登四郎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.02.26
コメント(0)
今から60年以上前の岡山県の田舎で私は子供時代を過ごした。当時は、どの家も貧乏で農家をしていた村人が食べるのは、自分の家で作った野菜を中心にしたものだった。そんな中で、少しのクジラ肉とたっぷりの水菜に醤油、みりんの代わりのほんの少しの砂糖で焚く■「クジラと水菜のたいたん」■は冬のご馳走だった。それともうひとつ、「煮ぐい」というご馳走があった。「煮ぐい」は、サバなどの魚と冬野菜のなべだ。肉の代わりに安いサバを、そしてその中に、白菜など野菜を入れて醤油で味をつけて炊く。 畳の上に、板を乗せ、七輪を置着き鍋を置いて炊きながら食べる。サバの出汁で野菜が美味しい。部屋の中も温かくなりし、「煮ぐい」は冬のご馳走だった。 「煮ぐい」には、もう一つのお楽しみがあった。それは翌朝。マイナス近くまで冷えた気温は、そのまま家の中を冷やす。すると昨夜の鍋の残った汁が凍り醤油味のする■煮こごり■になっている。熱々のご飯の上に煮凝りとなった出汁を乗せて、大人も子どもも大喜びで食べた。いつ頃からだったか、煮ぐいは、「水炊き」になってポン酢で食べるようになったのは・・・。熱々のご飯の上に煮凝りとなった出汁を乗せて大喜びで食べていたのも私の世代で終わった。子どもたちは、「煮ぐい」も「煮こごり」も知らない。■煮凝(にこごり)やちちははの世が透けてゐる■ 山田弘子・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.26
コメント(2)
今から60年以上前の、岡山県の田舎での子供時代。正月三が日をゆっくり休むために、父と母の師走は、忙しかったと思う。秋祭りがすむと、 薪用の木を山に採りに行った。その木をヒマを見つけて薪用に短く切るのだ。 几帳面な父は、同じ長さにするために、30センチくらいに切った木を用意し、それをあてて、ギコギコギコギコ・・・。そして、家の西側の軒下にそれを積み上げる。 ピッタリとサイズの揃った薪が西側の軒いっぱいになると 「タキモン(薪)がこんなに、仰山あるのを見るのは、気持ちが豊かになるなぁ。」と言った。母は、私たちの服を洗濯し、繕った。そして、正月用には、せめて下着の新しいものを一つでもと貧しい家計からやりくりした。27日には、もち米を洗い、臼や杵、餅板を用意し、「もろぶた」という名の「餅箱」を用意し、あんこを炊く用意をした。 28日には餅つき。餅を搗いたら、重箱にいれて隣に持っていく。お隣からのお返しは、いつも■マッチ■だった。 もちろん、その間にも畑仕事はしなければならない。30日には、水ガメにいっぱい水を汲んで、風呂にも水をはった。31日には、母は早めに風呂に入るように言った。着替えを、年内に洗いたいというのだ。洗った下着などは、道の反対側の西の軒下に干した。こうして、12月は終わる。早めに風呂に入り、晩御飯を食べると、後は寝るだけだった。岡山のいなかで暮らした時には、テレビもラジオも無かったからだ。大晦日には「紅白歌合戦」を見るという風習は、龍野市に引っ越した中学2年生以降になってからだ。クリスマスの無かった時代、正月は一番大きなイベント。「今のうちに、よう働かんと、ええ正月が来(こ)んからな。」父と母の口癖を思い出す年の瀬である。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.12.26
コメント(0)
■1■戦後まもなく、岡山県の田舎に生まれた私の家は、農家だった。山間の村だったので、棚田が多く、私の家も、なだらかな山頂近くに3~4枚の田があった。 小さな子どもの手を引いて、お茶や弁当を持って、田んぼまで行き、農作業をする父や母は大変だっただろうと今は思う。しかし、まだ学校に上がる前の私には、いい行楽だった。■2■田んぼで働く父や母の近くで、遊びながら、周りを眺めると、高い所にある棚田からは、遠くまでよく見えた。田んぼの畔を滑り降りたりして遊んだが、しかし、子どもはすぐに退屈する。そこで、田んぼから続く山への細い道を歩いて行った。私が歩いて山の奥に行くのを見た、叔父が、「何処へ、行きょうんじゃぁ。そっち行ったら、よーちゃんが出てくるぞ。」と言った。叔父の田んぼもうちの田んぼの隣にあって、よく一緒に仕事をしていた。叔父は、姪っ子の私がかわいくて仕方がない。 時々、ポケットから氷砂糖を出して、ひとつくれた。その叔父がいう「よーちゃん」とは、山にいる男のことで、私は見たことがなかったが、髭も髪の毛もボウボウで、汚い着物を着、荒縄で帯の代わりに着物を縛っているという話だ。子どもがなにか悪いことをすると、大人は、「ほら、よーちゃんが来るぞ」と脅した。叔父に、そっちに行ったら、よーちゃんが出ると言われた私は、慌てて、父母のいる田んぼに帰った。3~4枚の田んぼのうち、一番小さい田んぼは、畳2~3枚くらい。三角のその田んぼを、私たちの家では、「握り飯の田」とよんでいた。それでも、丁寧に田植えをし、田草を取り、稲を刈った。といっても、私は見ていただけで、父や母と一緒に弁当の握り飯を食べた。 この棚田は、私が小さい頃に売られたのだ。父や母は何も言わなかったけれど、長患いした祖母の為にお金が必要で売ったのではなかったかと思う。今では、村の過疎化が進み、便利な平地の田んぼが統合されて、大きな区画になり、全てが機械化されている。棚田を作る人はいない。■3■小さな三角の「握り飯の田」、見たことがないけれど、恐れていた、よーちゃん、叔父のくれる氷砂糖、田んぼで食べる弁当とお茶、棚田から見た村の風景・・・。そこに出てくる私は永遠に幼子だ。◎写真は、全て、九州旅行の時のもの。1■筑前の小京都・秋月■2■八女の棚田■3■黒木の川■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.11.26
コメント(2)
私の小学生だった昭和30年代は、学芸会というのがあった。学芸会は、子どもたちが劇をしたり歌を歌ったり・・・。当時は、テレビもない時代。学芸会は、運動会と並んで大人も子どもも楽しみにしていた大イベントだった。ある時、私たちは、劇をした。劇の前後は覚えていないのだが、たった一つ覚えているセリフがある。 それは、「サッチョウは手を結んだのだ!」話の前後は全く覚えていないのに、私のセリフではないのに、なぜか覚えている。その後、私たちは、皆で歌を歌いながら、舞台で歌った。♪菊の香りに葵が枯れる、枯れて散る散る風の中 変る時勢に背中を向けて侍たちよどこへゆく(先生が変えたのか「侍たちよ」と覚えている部分が「新選組は」だった。)その後、「宮さん宮さん」を舞台をぐるぐる回りながら歌った。 ♪.宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じやいなトコトンヤレ、トンヤレナあれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じや知らないかトコトンヤレ、トンヤレナ 「サッチョウは手を結んだのだ!」の「サッチョウ」は、薩摩、長州の事だと知ったのは、後のこと。 大河ドラマは、江戸時代の終わりから明治維新のものが多く、今年は、「西郷隆盛」。平凡な子どもだった私も父や母にとっては、特別に見えたのか、熱心に学芸会を見に来てくれた。「薩長」という言葉を聞くたびに、学芸会が地域の大イベントだった、昭和30年代の初め頃の暮らしを思い出す。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.26
コメント(2)
今から60年以上前、私が子どもの頃の岡山のいなかの話。 子どもの頃、私は、台風が好きでした。いつもと違う緊張感に、つつまれて過ごす夜。そして台風の去った後のお楽しみ。大水の出た、台風の翌日、川原に近い畑に行きます。川原の近くの畑は2枚。そのうち低い方は、昨日の雨がまだ溜まっています。 ひとりがソウケ(目の細かいザル)を受けて、もうひとりが、水溜りをバシャバシャと音をたてて、歩きます。すると、魚がおもしろいようにとれるのです。 大水は川を越え川原を越えて、近くの畑まで入り込み、それにつられて魚が畑まで入ってきたのです。 子どもたちが、魚を追い込んでいる間に、上の畑で、父が鎌でサトウキビをきってくれます。噛めば、ジワッと甘い汁が出るサトウキビは、子どもの大好きな夏のおやつ。魚が食べられるし、サトウキビは甘いし・・・。 川原や田畑という*遊水地*があった頃、台風の残して行くものは、負のものばかりではなかったのです。**遊水地(ゆうすいち)**降った、雨の一時預かりのような所。田畑、池、川原、などなど。 現在それらは、埋め立てられたり、「開発」されて家が建ったりしています。 川原も、草が生えている方が、今の3面コンクリート張りの川よりも保水能力が大きい。■2002.8.20■を少し変えて書き直しました。温暖化であの頃よりも、台風の数が増えたような・・・。あの頃は、台風の後には、魚をとる他に、強風で落ちた■あたり梨■を買いに行ったりまだ青い■椋の実を拾ったり ■・・・。田んぼの被害など、大人たちには、決して喜んでいられない台風も大人たちに守られ子どもだった私は、台風さえも楽しく暮らした。■「小屋が潰れとる」 ■*台風の被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.26
コメント(2)
今から60年以上前に、私は子供時代を岡山の田舎で過ごした。子どもの頃は、冷蔵庫のある家は、村には一軒もなかった。朝、炊いたご飯は、朝ごはんを食べた後、どうしたのか・・・。竹で出来た「飯そうけ」に入れて土間の北側にある裏口にかけていた。当時は、村のどの家も藁ぶきの屋根で土間のある昔ながらの家だった。南に面した表戸と北に面した裏戸を開けて風を通す。その北の裏口の戸の上の方に「飯そうけ」をかけておけば、涼しい風が吹いて冷蔵庫などいらない。飯*そうけ(しょうけ)*に入れて、風通しのいい所に吊るしておく。これがご飯の保存方法だった。でも、たまに、ご飯の様子が変な時があった。ギラギラとした、ぬめりが見られる。母は、「ありゃりゃ、ギラをうっとる」と言ってた。腐る一歩手前の状態なのだ。 母は、バケツに井戸水を汲んで、「飯そうけ」の上からざっとかけ、洗い流す。もう一回、今度は、水を掛けながら、ご飯を混ぜる。それを数回くりかえす。こうすれば、ギラギラが洗い流され、食べられる。茶碗にこのご飯を入れ、水を入れて食べると、ひんやりと美味しい。■「そうけ」とは、竹で編んだ籠。■ ザルのこと。ご飯を入れるから、飯そうけと言う。「しょうけ」という地方もあるが私たちは「そうけ」と言っていた。 昔は写真のそうけの下に、15cm程の長さの竹を半分に割ったものが付いていた。それが、そうけの足で、直に底が着かないようにという工夫。このそうけを実家で見つけて、持って帰った。もう、たぶん、これにご飯を入れて保存することはないだろう。でも、これは子どもの頃の思い出がある道具なのだ。 捨てることは出来ない。 飯そうけ、それは、冷蔵庫がなかった頃の夏の暮らしの思い出につながる・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.08.26
コメント(2)
夏休みになると昼ごはんを済ませると、川に泳ぎに出かけた。小学1年、2年の頃は、村の橋の下の浅瀬で水につかっていたが、3年生になると、川が深くなっている所、淵まで、歩いていった。山の真下に川が流れる、■合歓の木のある淵■で薄紅色の花と優しげな葉っぱ、花咲く合歓の木を見ながら漂うか、いきなり深くなっている所に行くか、高い岩があって、そこから飛びこむことが出来る淵にするか・・・。その日の気分しだい、人数次第、子どもの年齢で場所を決めていた。 友達と、生のナスビをかじりながら、家から川下を目指す。川下の浅瀬があるところに、「下(しも)の飛び」と呼ばれる飛び石があった。私たち、子どもは、飛び石を注意深く渡り、小さな坂道を上がるとバス道を通り、目的の淵に向かった。その飛び石を渡るのは、子どもが泳ぎに行くときだけ。いや、大人が田んぼに行くときにも使ったのかもしれないが、渡っているのを見たことがなかった。時々、大水が出て、飛び石が流されている時があったが、そんなときは、橋を渡り遠回りして、行くしかなかった。でも、いつの間にか、もとの位置になおっていたのは、大人がなおしてくれていたのだと大きくなってから思った。「下(しも)の飛び」に対して、「上(かみ)の飛び」とよばれる飛び石もあったが、これは、学校に行くときに使った。今、「下の飛び」も「上の飛び」もない。子どもたちは、川で遊ばないし、川の姿も変わってしまった。写真は、どれも6月23日、イギリスで見た飛び石。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2018.07.26
コメント(2)
今から60年以上前の子どもの頃、今の時期、はったい粉というものをよく食べた。はったい粉は、新麦を炒って石臼などで引き、粉にしただけの素朴な食べ物。どんぶりに、はったい粉を入れ砂糖をほんの少し入れて、湯を注ぎ、混ぜる。湯をそそいで、混ぜることを、「はったい粉をかく」と父はいっていた。「かく」とは「掻く」と書き、そば粉に湯をいれたものを「そばがき」というし、田植えの出来るように田んぼを耕すことを「代掻き」という。 畳の上に、大きな紙を敷き、その上に石臼を乗せる。炒った麦を石臼の上に乗せ、穴に落としていきながら、石臼を回す。のんびりと歌を歌いながら、ゴロゴロと臼を回していた母。しかし、当時、私の家は、食べる米にも事欠いていて、歌どころではなかったのではないだろうかと思うが、根っからの楽天家の母は、そんなことを感じさせたことがなかった。 大阪に来て知ったのだが■「半夏生(はげしょう)」■という日がある。半夏生(はげしょう)は、夏至から11日目にあたる日、 田植えが終わる頃の骨休めの日だ。この日は、ポチ団子というものを作って、食べるという。こごめと小麦を臼でひいて蒸し団子にした。麦を使うのは、この頃が麦の刈り上げ時で新麦を供える風習からきているようだ。昔は、どこも貧しく、でもいろいろな工夫をして暮らしていた。そのひとつが、はったい粉だ。 ■亡き母の 石臼の音 麦こがし■ 石田波郷*はったい粉を「麦こがし」ともいう。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.06.26
コメント(2)
あたたかな春の陽ざしの中、たぶん、3歳か4歳の私は、この小さな(サイズを表すためレモンをそばに置いた。)かごを持って、家の周りを散歩していた。この直径12センチほどの小さなかごの中には、家で作ったアラレを炒ったものが入っていた。アラレの他に、大豆を炒ったのが入っている時もあった。「はるなちゃん、いいフゴを持っとるんじゃなぁ」と大人たちが声を掛けてくれる。「ふん」と答えて自慢げに、フゴを声かけてくれた大人に見せる幼い私。フゴというのは、竹や藁でつくったかごのことをそうよんだ。3歳くらいの私が、当時のことを詳しく覚えているはずはないのに、何度も父や母からその頃の様子を聞いているうちに、今見ているように、当時を思い描くことが出来るようになった。今でこそ、色あせている、この小さなフゴ。買った当時は、濃い赤や緑の色鮮やかなものだった。これは、今から40年ほど前、小さかった私の娘たちに私の父と母が買ったもの。孫に買いながら、父と母は、私の幼かった頃を思い出していたのではないだろうか・・・。岡山県の山間部の小さな村の小さな家、小さな私、見守る父、母、村の人たち・・・。これが私の原風景だ。このフゴが「花籠」とよばれると知ったのは、ずいぶん後というか、ここ数年前だ。 ネットで湯かごを見つけた。花籠とサイズがよく似ている。花籠も湯かごとして使えるかも。(^-^*) ■どこかで見た花籠の写真と文章■この直径12cmほどの小さな手提げ籠は、かつて春のこの季節に花籠と呼ばれ、子供たちが野遊びに行くときに持って行った子供用の籠でした。 当館が開館した昭和49年頃には、春先になると、この花籠を自転車の荷台いっぱいに積んで売り歩く、行商人の姿があり、風物詩のひとつでした。 子供たちは買ってもらった花籠にアラレやお菓子を入れ、野原や田んぼに野遊びに出かけたのです。この花籠は当館から北東約20kmほどの西脇市水尾という農村で作られましたが、明治42年生まれの作者が亡くなると後継者もなく、姿を消しました。 子どもたちが野遊びに使う小さな籠は全国各地にあります。 当館は滋賀県水口、兵庫県西脇、香川県観音寺、福岡県柳川などで作られた花籠を所蔵しています。なかでも水口は麦藁、観音寺のは経木が使われ、編み方や形、色あいなどに特色があります。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.26
コメント(2)
私が岡山県の田舎の小学校に入学したのは、今から60年以上前のことだ。幼稚園にも通うことなく小学校に入ったので、 花壇のチューリップを見るのも初めて、ブランコや滑り台、シーソーなどの遊具を使うのもはじめてのことだった。そんな中で「給食」が始まった。「給食」といっても最初は、コップ一杯の「ミルク」だけ。私は、それまで「ミルク」を飲んだこともないばかりか、コップも使ったことがなかった。 「ミルク」は大きな、アルミのやかんに入れて6年生が運んできて、給仕してくれた。後に知ったことだが、2年生には5年生が給仕をして、3年生以上は自分たちの中の当番の子どもが給仕をしていたのだそうだ。「ミルク」を入れる「コップ」は、のちに知ったことだが「アルマイト」というもので軽く、中には、漢字の「山」という字を横にしたような「ヨ」という印があった。1年、2年は「ヨ」の一番下の2年、3年は真ん中、5年、6年は、一番上のラインまで「ミルク」を入れた。「ミルク」を入れる懐かしいコップを20年ほど前、手に入れたが、私が小学校の時のコップは、もっと長さがあったと思う。私たちの飲んでいた「ミルク」が悪名高き「脱脂粉乳」だと知ったのは、大きくなってからだ。本当の牛乳を知らない私は、それが不味いとも思わず、「ミルク」だけの給食は、すぐ終り「ミルクとコッペパン」に変わった。そして、「ミルクとコッペパンとおかず」の時代が小学校4年生の時から始まった。今では当然の米飯給食は、ついぞなかった。給食は、どんな貧しい子どもも同じように栄養が取れるというのは、画期的だが、貧乏な私は、給食費で苦しんだ。私以外にも、かわいそうな子どもがいたが、それは、またのお話・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.26
コメント(2)
■記念の木■ 村の学校のげんくわんの 向つて右の落葉松(からまつ)は、 わたしの子どもが植ゑたので、 其の子はとうに戦死した。 あの学校がたつた時、 うちの畠にあつたのを 死んだあの子が掘取つて、 かついで行つて植ゑたのだ。 あの子は十二、落葉松は あの子のせいより低かつた。 それが今では学校の 二階のまどにとゞいてる。 あの子がいくさに行く時に、 学校の前でふりかへり、 「わたしの植ゑた落葉松が あんなに高くなりました。」 昨日学校で校長に、 あの木の事を話したら、 はじめて聞いた記念の木、 大事にするとおつしやつた。 今から60年以上前、子どもだった私たちに、明治生まれの父は、よく「記念の木」という、上の詩を暗唱してくれた。七五調で気持ちよさそうに暗唱するその詩を私は、覚えていた。私が特によく覚えているのは「 はじめて聞いた記念の木、 大事にするとおつしやつた。」というフレーズだ。 なにか、新しい物を買ってもらったりした時、母が「大事にせにゃぁ・・・」と言いながら、私たちに渡した。すると父は「大事にせよとおっしゃった」と少し変えて暗唱するような言い方で言った。そして、はははと笑い、私たち家族もつられて笑った。悲しい思い出など何も思わなかったこの詩。しかし、今読むと、戦争で子供を亡くした親の思いが伝わる。父は、この詩をどんな思いで暗唱していたのだろうか・・・。父が暗唱してくれたので習ったことのない詩を私たちも覚えることになった。まもなく、四月になり学校が始まる。学校を卒業後も、子どもに伝えたいような授業は宝物だ。■おまけ■「・・・日本中の小学生 四列になって歩かんか・・・」という詩もよく暗唱していたが、分からない。ご存知の方は教えてください。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.03.26
コメント(2)
今から60年以上前、岡山の田舎で私は育った。冬は、ことのほか寒く、暖房は、火鉢と焚火と寝るときのこたつで、着るものも、粗末なものだった。その頃のことは、そんなにはっきりと覚えていないのになぜか、当時はいていた、足袋のことはよく覚えている。 私が、靴を買ってもらったことを覚えているのは、5歳の時が最初。■小学校に入学する前■の年の村の運動会に出るために買ってもらったのが最初だと記憶している。私は幼稚園には行っていないないので、その前には、靴を履いていなかったのだと思う。 では、何を履いていたのかというと、それは草履だ。草履は、藁で出来ていて、うちには、藁が、沢山あり、祖母が草履を作っていた。祖母の作る鼻緒に赤い布を巻いた草履には、ソックスではなく足袋が合うのだ。当時、女の子は、エンジ色の、男の子は青の色足袋は、中が白いネルで暖かかった。 学校に行くようになると、靴を履いていたが、それでも、私の思い出には色足袋が多い。田舎の家は、土間があり、台所も土間だった。畳と土間を上がったり、降りたりするには、靴より草履が便利だからだったのだろうか?それとも、お金のかかる靴を大事に履く為に、家にいるときは、草履をはいていたからだろうか? 足に合わなくなったのは、誰かに譲り、破れて捨てるまで履いた。いや、捨てる時にも、コハゼだけは、取ってから捨てた。 コハゼをお手玉に入れると、チャリン、チャリンといい音がするのだ。今の時期、エンジの色足袋に、コハゼをとめて、暖かくして春を待った。土間も、色足袋も、お手玉も懐かしい思い出になったが、春を待つ心は今も健在だ。■春を待つ■ ■コハゼ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.02.26
コメント(2)
家の前の貸農園の野菜に霜が降りている。窓越しにのぞきながら、私は60年ほど前、小学校で行われていた野菜の品評会を思い出していた。品評会の前の日、畑から選んで抜いてきたホーレン草を父は、束にした。つややかな大きな葉といい赤くて太い根といい、父が丹精をこめて作っただけあって、それは申し分ない出来栄えだった。「この分なら、今年は入賞するかもしれない」私はそう思うと心がときめいた。入賞すれば、名前がよばれ、賞状をもらった上に火ばしや五徳などがもらえるのだ。父はワラでたばねたホーレン草に名前を書いた紙をはさんだ。そして私が学校に持って行きやすいように細い縄で輪を作ってくれた。品評会の会場は、小学校の運動場で、朝早くから、むしろがひかれ、子どもたりの持ってきた野菜が地区ごとにならんでいる。私も自分の分をならべるとぐるりと見てまわる。よく巻いたキャベツ。ひとかかえもありそうな水菜。白くつややかな大根とカブ。 真っ赤な人参、その他どれをみても各々自慢の物だけに、みなみごとなものばかりである。うちでは、あれほどりっぱにみえた父のホーレン草も、ここにくると影がうすい。結局、私は入賞することもなく、参加賞の餅アミをもらって家の帰るのだった。 今、スーパーには、ありとあらゆる野菜が売られている。それら、ラップに包まれ、ピカピカ光る野菜には、季節がまったくない。これを作った人たちは、あの品評会の時ほど、誇らしげに出荷しているのだろうか。父たちが持ったと同じ愛情で育てられているのだろうか。パックに入れられ息苦しそうなトマトやキュウリを見るたび思い出すかじかんだ手をこすり合わせながら学校まで持っていった父とホーレン草。人々が本物の野菜を食べていたあの頃、冬は今より寒く、人々は今よりあたたかかった。 1987年の■ひととき■175号の転機。年数は、かえました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.26
コメント(2)
子供の頃、岡山の田舎に住んでいた。今から60年以上前のことだ。その頃、野菜は全て、自分の家で出来たものだった。茸など野菜以外のものも、自分たちで山からとってきた。魚や貝は、川からとってきた。 そんな暮らしだったから、卵を得るために、みんな、自分の家で鶏を飼っていた。家の南にある縁側が鶏小屋の屋根になり、その下に金網をはって、鶏小屋にした。よその家の縁側に座ると、鶏に足をつつかれないように気を付けなければならなかった。我が家は、南に縁側がなかったので、昼間は、放し飼いにし、夜になるとものすごく大きな籠を伏せて鶏が逃げないようにした。 ある時、父は「鶏小屋を作る」と言った。家の南の一角に、細めの角材を何本も地面に打ち付けた。そこに、金網を張って、トタン板を屋根にした。細めの角材を地面に打ち付けている時、妹が「お父ちゃん、全部で何本?」と角材を見て言った。「●●本じゃ」と父。「じゃあ、今●◎本じゃから、後、〇本じゃ!」と妹が言った。妹は、まだ小学校にも行ってないのに、二桁の暗算が出来ると父がたいそう喜んだ。 鶏が生んだ、たった一つの卵を、わずかなお金を得るために、近所に売った。自分の家で食べることもあったが、一つでは卵焼きは作れず、ゆで卵には、けんかになるので、溶いて味噌汁に入れ食べていた。小さい頃がそんなだったからか、今、冷蔵庫の卵ポケットに卵がいっぱいだと豊かな気持ちになる。お正月には、卵焼きや、ゆで卵をたくさん作ろうと思う。あの頃の思いを満たすように、私は卵が好きだ。■とり年ですから■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.12.26
コメント(2)
先日、岡山県の山間部にある、剣豪■武蔵の里・大原■に行ってきた。幼い頃の武蔵は、大原の里から鎌坂峠を超えて義母に会いに佐用(兵庫県)に行っていたという。今は、大原から佐用には智頭(ちづ)急行智頭線で行くことが出来る。その佐用駅から姫新線に乗り換え3つ目に美作江見(みまさかえみ)駅がある。江見は、祖母の実家がある所だ。その縁だろう、父の妹が嫁いだ所でもある。祖母は結婚して実家に帰る時、峠を超えて歩いて帰っていたという。祖父は、天秤棒を担ぎ、前の籠に父を入れ、後ろの籠に着替えなどを入れ祖母と一緒に行ったのだそうだ。明治45年生まれの父の話だから、大正時代のことだろう。(☚大原の宿)私たち一家が、岡山県から姫新線沿いの龍野に引っ越したのは昭和30年代の後半、私が中学2年生の時だった。龍野に住んで何年もしてから、父は「ちょっと佐用に行っていとこを探してくる」と言って出掛けた。父の母、私の祖母の女きょうだいが作用に嫁いでいるというのを父は思い出し、探しに行ったのだった。探し当てて、何回か行き来したが、車のない時代で簡単に行き来できなかったからか、私は会ったことがない。祖母のこと、そのきょうだいのこと、父のいとこのこと・・・。私の家族の歴史に繋がる歴史が佐用にあったのに・・・。(☚武蔵の生家近くの風景)あの時、父から名前や住所を聞いておけばよかったと残念に思っている。岡山県・備前の山あいに、美作の山あいに、播州の山あいの里に私の思い出があり、父の思い出、祖母の思い出が残っている。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.11.26
コメント(0)
私が子どもの頃、今から60年前の岡山のいなかの話だ。 アケビ、椋(むく)、柿、栗・・・。秋は、食べ物が沢山手に入った。子どもだった私は、秋になると大喜びで、柿やクリなどをとりに筈(はず)を持って山に行った。 筈は、高いところになっている、柿やイチジクなどを採るのによく使った竹の道具。長い竹の先端を割り、棒を挟んで作る。棒を挟むことによって、竹は少し開いる。その開いたとこに、お目当ての柿の枝を入れてねじってとる。家にはイチジクの木があって、それもとった。昨日、映画を見に、大阪駅にある映画館に行った。映画を待つ間に見た、アケビを見ながら60年以上前の、豊かな秋の思い出を懐かしく思い出した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.10.26
コメント(0)
■黄金色に実った田んぼで稲刈り■が終わり、しっかりと乾燥させた後、稲の束は、家に持って帰り、稲の茎からモミを落とす作業、脱穀をする。■乾燥させた稲の穂先から籾を落とす作業■が脱穀 (だっこく) でその作業に必要なのが、足踏み脱穀機だ。■足踏み脱穀機での脱穀:動画(音が出ます!)■私が子どもの頃、昭和30年代の前半には、動力でする脱穀機がすでにあった。しかし、それは、沢山の田畑を持つ裕福な家が持っているのであって、私の家のような零細農家には、足踏み脱穀機で十分だった。足踏みミシンのように、下の板を踏むと、木の板で作ったドラムが回る。ドラムには、U字型の太い針金が並んでいて、ここに稲穂をおいて、籾を落とすのだ。私も、廻っているドラムに手を挟まれないように、気をつけて脱穀した。しかし、だいたいは、父が脱穀をし、私は、後ろに積んである稲の束を渡す役目をした。作業を少し休んでいる時に、明治45年生まれの父が言った。「ワシが子どもの頃には、足踏み脱穀機は、まだ、持ってない家のあって(大八)車に積んで、貸す商売があった。」私はビックリした。足踏み脱穀機は、大昔から使われていたと思ったからだ。そこで、「足踏み脱穀機が家に無かったら、昔は、なにで脱穀してたん?」と父に聞いた。「千歯扱き(せんばこき)じゃぁ」と父が答えた。そして「櫛の歯を大きゅうしたようなのに、稲の束を引っ掛けて、脱穀しょうたんじゃあ」と続けた。「足踏み脱穀機が普及したと思うたら、今度は、動力の脱穀機になったなぁ。時代の進み方は、早い」と言った。「でも、私は、足踏み脱穀機が好きじゃぁ」と小学生の私は言った。「音がなんか楽しいわ」と言うと「そうか?ワシには、エライ、エライ(しんどい)に聞こえるがなぁ」と父は笑った。■田植えにも■、稲刈りにも、脱穀も、子どもの頃の思い出は楽しいものばかりだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.09.26
コメント(0)
今から60年ほど前の岡山県の田舎の夏休み。 ■朝顔の思い出■■合歓の木(ねむのき)の下の水遊び■ ■カワニナひろい■幼い日の夏休みの■思い出は、ボロボロ■とこぼれてくる。ラジオ体操もその一つだ。眠い目をこすりながら、ラジオ体操に行った。ラジオ体操の会場は、Kさんの家の庭だった。Kさんは、父より10歳ほど年上で当時50半ばだったのではないかと思う。会場となった家の庭には、タタミ一畳ほどもある縁台が家の影になる場所に置いてあった。子どもたちは、持ってきたラジオ体操のカードを、その縁台の上に置く。すると、Kさんがハンコを押してくれた。私の家には、この大きな縁台がなかったので、羨ましくて仕方がなかった。 この縁台があれば、夕涼みの時、花火をすることが出来る。 ここで、スイカだって食べられる。Kさんは、ラジオ体操の後、この縁台で将棋をすることがあった。タタミ一畳の大きさの縁台が、何でもできる魔法の場所のように思われた。■縁台の写真■大阪で暮らし始めた40年ほど前、この大きさの縁台を何度も見たが最近は見なくなった。クーラーの出現で夕涼みという言葉とともに縁台も消えたのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.08.26
コメント(0)
子どもの頃、小学校から帰りに歌を歌いながら帰っていた。「月の法善寺横丁」、「有楽町で逢いましょう」、「南国土佐を後にして」・・・。今も歌える曲ばかり・・・。 そんな中に■星は何でも知っている■■ミヨチャン■もあった。世の中にテレビもない時代に、うちにはラジオもない時代に、なぜこの歌を知っていたのか、今思えば不思議だ。中学2年の後半に家にテレビが来た。テレビで歌の番組を見るようになった。大人になったある日、平尾昌晃氏がテレビで作曲家として出ていて「この人があの『ミヨチャン』や、『星は何でも知っている』を歌っていた人なのかと知った。先日、平尾昌晃氏の訃報を知った。1966年:霧の摩周湖 布施明 全作詞:水島哲1968年:恋のしずく 伊東ゆかり 作詞:安井かずみ1971年:よこはま・たそがれ 五木ひろし 作詞:山口洋子1971年:わたしの城下町 小柳ルミ子 作詞:安井かずみ1972年:瀬戸の花嫁 小柳ルミ子 作詞:山上路夫1973年:草原の輝き アグネス・チャン 作詞:安井かずみ私の生きてきた時代にいつも平尾昌晃氏の曲があった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.07.26
コメント(4)
今年の春、今は誰も住んでいない岡山の実家に行った。50年以上前に、一家で兵庫県龍野市に引っ越してから、あまり来ることはないのだけれど、今も親戚の家がある。その親戚の家に挨拶によると、「今度、納屋を、壊してしまうことになった」とこの家の女主人から聞いた。彼女いわく、納屋は明治36年に母屋と一緒に建てたという。明治36年といえば、明治45年生まれの父より長生きしている。父の弟が入り婿に来て、私たちの伯父や伯母が住んでいた家の納屋だ。この家は、村の真ん中にあって、どこに行くにも目にする。松の木のそばに、立派な井戸があった。納屋の横に、藁で出来た蓑(みの)が掛けてあった。私が小学生の時には、雨の日に蓑などつける人はいなかったが、なぜか掛けてあった。いつの間にか、蓑が無くなっていた。いつの間にか、井戸も埋められていた。伯父と伯母が亡くなり、父が2002年に亡くなった。母も2010年に亡くなった。(▲京都府美山の藁ぶき屋根)懐かしいものがどんどんなくなり、そして、今度は納屋が無くなるという。松の木は残るのだろうか・・・。■蓑画像■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.06.26
コメント(2)
私の小さい頃、今から60年近く前のことだ。その頃、岡山県の田舎の藁ぶき屋根の家の住んでいた。雨漏りがするようになったので、屋根替えをしたのは、私が4年生の5月。うちの家の土間の上の屋根には、空間があって、麦刈りをし、麦の穂を落とした後、麦わらを、土間の上の屋根裏に置いていた。その麦わらを使って屋根を葺く。 小学校の近くに屋根を葺く職人がいた。彼のことを父は「のうやん」とよんでいた。「屋根屋ののうやん」ともよばれていた。のうやんには、孫娘がいて、私と同じ学年だった。のうやんが手伝いの人と一緒にうちに来て、父と3人で屋根を葺いた。私は、その時、自転車のけいこをしながら、ちらちら見ていた。しっかり見ておればよかったと思う。その時が、家の屋根を葺く最後になったのだから・・・。それから4年後の中学2年生の夏、一家で、岡山から兵庫県・龍野市に引っ越した。空き家になった家を村の人に請われて貸した。 草屋根の家の寿命は、カヤ40年、麦わら15年、稲わら7年という。何年か経って故郷に帰った時、麦わら屋根の上にトタンがまいてあった。その時、すでに小学校4年生の時から、15年以上たっていたのだろう。今年の4月、茅葺で有名な■京都・美山■に行った。日本の伝統的な家屋の美しさに見とれ、懐かしい昔を思い出した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.05.26
コメント(2)
昭和34(1959)年4月10日。皇太子(現天皇)と正田美智子さんの結婚式があった。テレビで「ご成婚パレード」があるというニュースは、大人も子供の知っていた。私たち子どもは、テレビで放送される「ご成婚パレード」を学校に見に行った。当時、テレビは珍しくて学校に一台あった。そのテレビは、金持ちが寄付したもので、学校の「テレビ室」にあった。この日は休みだったと記憶しているが、沢山の子ども見に来ていて宿直の先生が一緒に見ることになった。テレビには、4頭立ての馬車のパレードが映っていて、それは同じ日本のことだとは思えなかった。道の両脇に旗を振る人々が映っていたのを思い出す。あれは、当時の思い出なのか何回も見たニュースなのか・・・。これを機にテレビは普及したというけれど、うちまで普及するのには、これから4年以上かかった。■昭和のニュース・1959.4.10■■動画■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.04.26
コメント(2)
今から60年以上前の話。小学校に入学する少し前に、父は、私に字を教えた。今では、小学校に入学する前から文字を読んだり書いたりするが幼稚園に行っていなかった私は、まったく文字を書くことも読むことも出来なかったのだ。絵本が一冊もなかったから、子どもの私に文字は必要ではなかったのだった。小学校から、「自分の名前をひらがなで、書けるようにしておいてください」といわれたので、父は私に文字を教えたのだった。 しかし、うちには、万年筆もペンも、鉛筆もなかった。そこで父は、細い木の枝を持って地面に字を書いた。書いた字は足で消し、また次のひらがなを描いた。私もそのまねをして、自分の名前のひらがなを覚えたのだった。当時、緊急の用事があれば、電報を打つし、手紙などかくこともなかったので文房具は必要なかったのだった。 筆と硯、墨などはあったのだが、 私の家で鉛筆が使われるようになったのは、私が小学校に入ってからだった。鉛筆からボールペン、万年筆、ワープロ・・・。時代と共に筆記用具はかわり、いまの私はPCで文字を書く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.03.26
コメント(2)
私の子どもの頃、現金収入を得るためにうちでは母が時々、働きに出ていた。うちの家の前の■ふーちゃん■も母と同じく働きにいく主婦だ。二人は、早朝に家を出て、■レンガ工場■に行った。「自転車で風をきって行ったら、手が冷とうなってな・・・。どうしても途中で焚火にあたらにゃぁいけん。」と母は、言っていた。続いて母は言った。「ふうちゃんの自転車にゃぁ、ハンドルカバーがついとるから、いいんじゃあ。私の自転車にゃぁ、ハンドルカバーがついてないもん。」いつも陽気で明るい母も、あまりの朝の寒さについ泣き言を言ったのだった。 ハンドルカバーは、自転車のハンドルに覆いをして防寒対策としたものだ。昔はあったものに、最近、防寒のための自転車のハンドルカバーを見ない。母は、自転車のハンドルカバーがどんなに欲しかったことだろう。しかし、自分の働いたお金は、私たち子どもの食べ物と学校の費用に消えた。ハンドルカバーどころか、自転車も伯父の家から借りているものだった。私が子どもの頃の冬は今よりももっと寒かったような気がする。暖房といえば、炬燵と火鉢くらいだし、着るものも今のようにコートやフードなども、私の周りにはなかった。母は懸命に働きに行き、ほんの少しだが、お金を稼いだ。父は、せっせと木を伐りに行き、薪を作った。そのおかげで私は、心豊かな子ども時代を過ごすことができた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.02.26
コメント(2)
私は、岡山県の山奥の小さな村で子どもの頃を過ごした。今から60年以上前の正月は、静かだった。■暮れに忙しく仕事■をしていたので正月は、ゆっくり休んだ。特に大人は日曜も祭日もなく働くので、正月は、気兼ねなく、ゆっくり休める時だった。だから、父は三が日が過ぎて、七日になっても「まだ、正月気分が抜けん」と言っていた。「小正月(こしょうがつ)が来にゃぁ、正月気分が抜けん」とも言っていた。「小正月」とは1月15日のことを言った。この日は、消防の初出(はつで)があった。私たちの住んでいた集落の一番北の端、隣村との境に火の見櫓があり、火の見櫓の下には小さな小屋があって、その中には消防自動車が置いてあった。火事の時には、勇ましくサイレンを鳴らして出動し、火の見櫓の半鐘がカンカンと鳴った。消防が活躍するのは、火事の時と1月15日の初出だった。青年団などからなる消防団員が河原に集まり、消防自動車が河原に出て、川の水を一斉に放水する。放水した水に太陽が当たってきれいだった。虹が見えると、見物人は大喜びだった。当時は、テレビもなかったので、消防の初出は、いい娯楽だった。初出が終わると、大人たちは、長い正月休みから、我に返ったように、本気で働き始めるのだった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.01.26
コメント(2)
1972年4月、23歳の私は、ひとりヨーロッパに向かった。姫路から横浜まで新幹線で行った。新幹線に乗ることが私にとっては、はじめての体験だった。横浜からは、船でソ連のナホトカに行き、そこから陸路列車でハバロフスクに行く。ハバロフスクから空路、モスクワへ。そこから、陸路、列車でフランスに行き船でドーバー海峡を渡るという「ナホトカ航路」での旅だった。 地図でしか見たことがない、町の名前に、心細かったが、横浜からの船の中で不安は消えた。★関西弁の賑やかな、N村さんとその友人が同じ船室になったからだ。彼女たちは、賑やかだった。二人連れだったから、不安などなかったのだろう。★私たちの隣の船室は、関西の私立大学生・Y口氏とその友人N田氏。Y口氏とその友人は、同じ大学の友人で、休学してヨーロッパに行く所だった。Y口氏は、フランス人の彼女を作って、フランス語を習得し、大学で教えるということを真顔で語っていた。N村さんとY口さんは、同じ尼崎出身ということが分かり、大いに盛り上がった。彼らのおかげで、私までひとりでも無敵だった。しかし、お互いの行き先が違うため、モスクワでみんなバラバラに別れた。★ひとりぼっちで、ロンドンに着くと、私は、姫路の英語学校で知り合った友人に電話した。彼女は、ロンドン在住のカナダ人の家で、住み込みで家事の手伝いをしながら、英語学校に通っていた。彼女とカナダ人家族の好意で私は、2~3日、居候を決め込んだ。その後、セントポールに近いユースホステルで、一人いたら声をかけてきた人がいた。★東北出身で、東京の私立大学生、S倉クンだ。彼は、一人でブライトンから自転車でやってきたといった。さっそく、友達になった。私が、絵葉書を出して帰ると、船で部屋が隣同士だったY口氏がそこにいたのには、ビックリした。船と列車で数日間一緒だっただけなのに、懐かしかった。その後、S倉クンとY口氏は、フラット(アパート)をシェアし、日本人がよくたむろしていた。私も、そのうちのひとりだった。そうそう、ひとりで、列車の旅をしていた時、Y口氏の友人N田氏にバッタリ会った。彼は親切に、彼は、ユースホステルが予約できていたが、女性部屋が満室のため、宿のなかった私に、自分の寝袋を貸してくれた。★フィレンツェでは、東京のS井氏にお世話になった。体調を崩した私は、駅でぐったりしていると、付き合ってくれた。体調が回復してからも、市内を案内してくれた。他にも、沢山の人にお世話になった。一人旅の私は、みんなのおかげで、楽しく過ごせた。いい思い出が作れた1972年だった。その旅は「ナホトカ航路」から始まったが帰りは、飛行機だった。たった一回しか乗ったことがないけれど、沢山の思い出が今も残っている。 横浜港とソ連のナホトカ港を連絡していた「ナホトカ航路」の旅で出会った人々・・・。お元気ですか?私は元気で、今年、夫と■イギリス■に行ってきました。時々、ナホトカ航路で行ったはじめてのヨーロッパ旅行であった人々を懐かしく思い出す。■ナホトカ航路■・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.26
コメント(4)
■銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。■アイヌのユーカラのように、父は私たちに、色々なことを何回も話してくれた。そんな中に父の子どもの頃の話があった。 私の父は、明治45年、岡山県の田舎の貧乏人の子として生まれた。小学生になったのは、大正時代。「その頃の、学校の教師は、あからさまに、えこひいきをしたり差別をした」と父は、話すたびに怒りをあらわにした。貧乏で、右手、右足が不自由だった父も、その対象だったのだろう。子どもの頃からお喋りで「口上でこ」と呼ばれていた父は、小学校も上級生になると集落の子どもたちの、リーダー格だったようだ。そんな中で、小学生の父は、ある日、仕返しをしたという。それは、集団下校の時のことだった。小学生のリーダー格の父は、同じ集落の子どもたちに、馬場という集落を通る時「馬場のかじや~!!」と叫びながら、帰るようにと言った。父を先頭に集落の小学生が「馬場のかじや~! 馬場のかじや~! 馬場のかじや~!」と叫んで帰った。「馬場が火事などと嘘をつくのは、けしからん!」と翌日、教師は父に怒った。「先生、馬場の鍛冶屋の前を通る時に、『馬場の鍛冶屋』、言(ゆ)うただけです。とワシは言(ゆ)うてやった。わはは・・・。」話終わると、父は、いつも愉快そうに笑った。 アイヌは文字を持たない民族。彼らの伝説や神話は、全て、ユーカラで、人から人へ、口から口へと伝えられた。■人間(=アイヌ)を中心として語られるユーカラ■は、主にポンヤウンペと呼ばれる少年が活躍する冒険譚だという。父の活躍する話の終わりは、それが、口惜しさから始まっても、いつも、笑いで終わった。父が私に、伝えてくれた、温かなぬくもりのある思い出話・・・。それを私は、ネットという、はかないものの上で語り継いでいこう。銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに・・・。先日の旅先には■鍛冶屋■があった。火の見櫓もあった。私は、この話を思い出し、心の中で笑った。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.11.26
コメント(2)
■私の祖母■は、私が小学校1年生の時に亡くなった。今から60年以上前のことだ。当時としては、珍しく、祖母の亡骸は岡山大学に献体された。これからは、科学の時代だと固く信じて疑わなかった父らしい行いだった。しばらくして、父は、岡山大学に遺骨を引き取りに行った。その時、まだ3歳になったばかりの妹を連れて行った。その帰り道、岡山市内で、妹は、フラフラと車の通る道に出て行った。 「危ない!」と父は、とっさに、持っていたコウモリ傘の柄を妹の服に引っ掛けた。妹は転び、父も体制を崩して、転んだ。目の前に車が急停車し、事なきをえたのだった。車に乗っていた人が降りてきて、「大丈夫ですか?」と聞く。もちろん何事もなかったと父は答えたのだけれど、名前と住所を聞かれたので答えたという。父が妹を連れ、家に帰って、その話を母にした。「お婆さんが守ってくれたんじゃ」と母は、言った。その後、車がうちの家の前にとまった。車に乗っていたのは、岡山市内でぶつかりそうになった人だった。その人は、箱に入ったものを持ってきた。 車が帰ってから開けてみると、お汁粉が数個入っていた。はじめて見るものに、家中、興奮して、さっそっく食べた。父は、お汁粉を持ってきてくれた紳士に、気の毒がったが、私はその時は何とも思わず、甘いものが食べられるという幸運に喜んでいた。3歳になったばかりだった妹も、もう60歳を過ぎた。彼女は、このことを覚えていないかもしれない。今度、会ったら、話してみよう。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.10.26
コメント(2)
2002年に■89歳で亡くなった父は■生前、よく私の子どもの頃の話をしてくれた。父は、生まれつきか、生まれてすぐか、右半身は不随だった。そんな、父は結婚をする事は、ないだろうと思っていたという。だから、私が生まれ、成長するのを見るのことが、他の誰よりも嬉しかったのだろう。私が大きくなってからも乳幼児の頃のことをよく話してくれた。 ある時、父は、いつものように話しはじめた。月夜に、あんた(私)と二人で、歩いて■もらい湯■から帰りよった時のことじゃった。あんたは、歩くのをとめて『ねんね、ねんね』ゆうて、地面を指さしたんじゃぁ。」そして父は嬉しそうに、「わはは」と笑った。月の光で地面に映し出された、幼い私のシルエットをみて、「ねんね、ねんね(赤ちゃん)」という幼い私。そして、それを慈愛に満ちた目で見守る、父の姿・・・。そんなシーンが父の話を聞くたびに思い浮かぶ。そして、それは父が亡くなった今も、何歳になっても、忘れることはない。今月、中秋の名月を見た。「お父ちゃん、月がきれいですね。」・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.09.26
コメント(2)
私が、岡山に住んでいて、まだ本当に小さいころ、母の下着は、腰巻だった。母意外にも、ほとんどの人が腰巻をしていたのだと思う。いわゆる、パンツも持っていたのかも知れないけれど、ほとんどの人は着物だったので腰巻が印象に残っている。ある日、母は、白い布を買ってきた。端切れを安く買ったのだろう。それで、自分の下着を作っていた。型紙もなく大雑把に形を決め2枚に布を切り、それを縫い合わせた。私は、それを見ていた。母は、裁縫は得意ではなく、いつも「三針(みはり)一寸じゃ」と笑いながら縫っていた。「三針(みはり)一寸」とは一寸、約3センチくらいの間隔に3針で縫うということだ。そんな、苦手なことにも、母は立ち向かった。 私たちには市販の下着を着せてくれたが、時々ゴム紐が切れたりゆるくなった。そんな時には、ゴム通しでゴムを入れてくれた。ゴムは、私が「ゴム飛び」の時に使っていた。うちは貧しかったから、母は「パンツ」を自分で作っていたのかと思っていたが、朝ドラの「とと姉ちゃん」でも「下着の作り方」を特集した本を出していた。あの頃は、みんな、なにもなかったけれどなんでも、自分で出来る能力を持っていた。「とと姉ちゃん」の中の暮らしは、私の幼いころの暮らしに通じて懐かしい。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.08.26
コメント(0)
子どもの頃、岡山の山間の田舎に住んでいた。夏休みになると、西大寺市に住んでいた母のきょうだいの家、つまり叔父、叔母、いとこの家に数日泊まりに行った。私たちが■はじめて食べたクリスマスケーキ■を持ってきてくれた叔母の家だ。西大寺はまちなので、私の家とまったく違った。うちには、井戸があったが、叔父の家にはなく、その代わり共同の水道があった。そこで、米をとぎ、野菜を洗うのだ。もっとも、叔母は、家事が好きではなかった。そこで、いつも、おかずは買ったものですませていた。けれども、うちでは食べられないものなので、私は楽しみだった。風呂もなかったので、銭湯に行った。銭湯も、私にとっては、ここでしか経験できないこと。母は、8人きょうだいの末っ子だったので、いとこといっても、大人だった。しかし、近所には、私と同じくらいの子どもが何人もいたので、一緒に遊んだ。一緒に遊んだひとりの男の子は、叔母の家の隣に住んでいた。 その子の家に行くと冷蔵庫があった。木でできた、冷蔵庫で氷を入れて冷やすものだった。今から60年ほどまえ冷蔵庫のある家は、私の住む村にはなかった。しかし、私は、その子を羨ましいと思わなかった。彼は、お婆さんと二人で暮らしていたのだ。両親は、どうしたのだろう?そう思っていたが、聞くことはなかった。そして、数日して、家に帰る・・・。次の年に、また叔母の家に行く・・・。その繰り返しの後、いつの間にか行かなくなった。夏になると、時々、西大寺で遊んだ時のことを思い出す。あの男の子は、今、何歳になったのだろう。 スコットランドにて■西大寺市■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.07.26
コメント(0)
小学校の頃、岡山の田舎で子ども時代を過ごした。その頃、というかずっと私の家は貧乏だったので、傘が買えなかった。そこで、学校に行く年になると母が親戚の家から私に赤い傘をもらってきてくれた。親戚でも長い間、大事に使っていたのだろう、その傘は、色があせていた。でも、傘には間違いなくて、それをもって学校に通った。ある日、傘の骨が折れた。しかし私は、新しい傘を買ってとは言えなかったし、母も買ってやるとは言わなかった。いや、言えなかったのだ。その骨の折れた傘をさして、学校に通った。前から人が来ると、折れた骨の方をクルリと後ろに回した。通り過ぎると、また折れた方をま前に回した。そうやって学校に行った。家に帰ると、土間で遊んだ。遊びながら、母とよく歌っていた歌がある。■雨(あめ)■雨がふります 雨がふる遊びにゆきたし 傘はなし紅緒(べにお)の木履(かっこ)も緒(お)が切れた■父の麦わら帽子■■傘の行商■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.06.26
コメント(0)
私が小学生の頃、岡山の田舎に住んでいた頃のことだ。父は、歯が弱かったせいからか、胃が弱かった。農作業の途中で、地下足袋をはいた足は、部屋の外に出したまま、うつぶせになっていた。胃の痛みに耐えていたのだろう。 そんな父が、「ジヤスターゼが含まれているから大根は消化にええんじゃぁ」と言いながら食べていた。また、ある時は、「昔、『タカジヤスターゼ』いう胃薬があった」と言っていた。なぜか、「タカジヤスターゼ」という言葉は半世紀以上たっても覚えていた。 今年、4月から朝日新聞の連載で夏目漱石の「吾輩ハ猫デアル」が連載されはじめた。その2回目に、猫の家の主が「タカジヤスターゼ」を使用しているという。実際に夏目漱石も飲んでいたそうだ。父は明治45年生まれだけれど、物心がつくころまで、「タカジヤスターゼ」はあったのだろうか。それとも私の祖父から聞いたのだろうか。もし、売っていたとしても、貧しかった父の家ではなかなか買えなかっただろう。もう父はいないから、その事実を知ることはない。「タカジヤスターゼ」は、その後も研究を重ね、改良され現在も『第一三共胃腸薬』などに配合されているというから、父も飲んだのかもしれない。父は兵庫県龍野市に引っ越して10年くらいしてからだっただろうか、胃を半分、切除した。以来、胃が痛いとは言わなくなった。私も今年になってから、ずっと■歯と胃■の痛みに悩まされていたが、やっと、最近よくなった。私の胃と歯が悪いのは父譲りかもしれない。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.05.26
コメント(0)
■「小学校に入学した時に、■洋服だったのは、私と町長の娘さんと、お医者さんの娘さんだけだったのよ」と夫の母親は得意げに言った。 夫の母、私の姑、真知子(仮名)は、93歳の今も一人で暮らしている。彼女の父親が官吏だったので、真知子は子どもの時から、お嬢様として暮らしていた。 そんな恵まれた彼女に不幸が訪れたのは、彼女が女学校に入る前のこと。彼女の父親が突然、病気になったのだ。だんだんと悪くなる父親の病気。真知子は心配になった。「それで、私は、父に聞いたの。『お父さん、私、女学校に行けるの?』と。」彼女は続けて私に言った。「そしたら、父がね『心配せんでもいいよ。女学校には行けるようにしているからな』と言(ゆ)うてくれたの。」今の大学に行くよりも、当時の女学校は、経済的にもゆとりがないと行けない所だったのだろう。才気煥発だった彼女は、女学校で勉強したいが、家の事情も気になり、病床の父親に聞いたという。その後、真知子の父親は亡くなった。彼女は、1900年創立という名門の女学校に入学した。「私の行った女学校は、いい先輩と後輩がいるの」と彼女が言った。 先輩は歌人の与謝野晶子で 後輩は、脚本家の橋田壽賀子だ。「勉強が出来たんでしょうね」と私が言うと「負けず嫌いだったからね」と彼女は言う。姑、真知子の女学生時代は、80年近く前のことだ。今、朝の連続ドラマ■とと姉ちゃん■が放送されているが、同じ時代ではないだろうか。彼女の人生で一番輝いていたのが女学校時代だろう。女学校の話をする時の真知子は、嬉しそうだ。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.04.26
コメント(4)
8人きょうだいの末っ子で可愛がられて育っただせいか、母は、人に頼み事をするのが上手だった。いや、恥もプライドもかなぐり捨て私たちのために、頼み事をしたのかもしれない。岡山の田舎から兵庫県の龍野市という小さな町に引っ越してからもそれは続いた。引っ越して、最初の年、私が中学2年の冬、テレビを買った。以来、もらったものもあったのかも知れないが、炊飯器、洗濯機と少しづつ、家電が増えて行った。そして、当時、「ホーム炬燵」とよばれていたものが家に来た。冬には、それまでは、炬燵は■炭火■と決まっていたが、突然、電気で暖まる炬燵にかわった。ホーム炬燵の上に布団を置き、天板を置けば、そこで食事をすることも、読書をすることもできた。家電の月賦を払っていたので、うちは相変わらず貧しかったけれど、炬燵は、うちにとってなくてはならないものとなった。ある日、母は、「○○さんは、上手に編み物をする。うちの炬燵掛けを編んでもらおう」と父と話していた。○○さんというのは、父母の職場の同僚で休み時間にも編み物をしていた。 母は、すぐ行動に移す人で、頼んだ。そして、○○さんが作ってくれたのが、10センチ平方くらいの毛糸のモチーフをつないだ炬燵掛けだった。余り毛糸で編んだのだろうか、青、茶色、緑で編んだモチーフの炬燵カバーは美しいもので、私もたいそう気に入った。「こりゃあ、ええ。」と父は喜んだ。「これを掛けたら、炬燵がぬくい」と母も喜んだ。炬燵に入って、食べる夕食、その後、テレビを見たり、本を読んだり、ある時は、うたた寝をしたり・・・。 そんなことを思い出したのは、■赤い薔薇ソースの伝説■という映画を見たから・・・。主人公、ティタは、辛さを紛らわすために、毛糸でモチーフを編む。それをつなぎ合わせて大きな作品を作る。 肩にかけた毛糸の肩掛けは、どこまでも長い長い毛糸のモチーフ。 彼女の悲しみの深さがこのシーンにあらわされている。そのモチーフつなぎの色合わせが、遠い日、母が頼んで手に入れてくれた、炬燵掛けにあまりにも似ていたのだ。ティタのモチーフつなぎは、悲しみの大きさをあらわしていた。しかし、うちにあった、炬燵カバーは、幸せの思い出だけが残っている。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.03.26
コメント(0)
私は、中学2年まで岡山の田舎で育った。遊び友達の親も祖父母も、皆顔見知り。同じように貧乏で、同じように農業を営んでいた。話す言葉も岡山弁だった。そんな中に、ひとり、大阪弁を話す女性がいた。それは、うちの2軒裏のAさんの妻だった。Aさんは、村の出身で若いうちに大阪に働きに行った。そこで、知り合った女性と結婚し、大阪の今里という所で暮らしていた。しかし、戦争で食べるものもなく、焼け野原になった大阪から、Aさんの故郷、岡山の田舎に帰ってきたのだった。村には、同じ姓の人が多いので、屋号が必要だ。そこで、村の人たちはAさんのことを「今里」と呼び、それがAさん宅の屋号になった。 Aさんの妻は、大阪生まれなので、いつも大阪弁だった。うちに来る時は、「裏から、ごめんやす」と言って、裏口から入ってきた。村では誰も使わない大阪弁なので、子どもの私は、「裏から、ごめんやす」と裏口から入るとき真似をして、親を笑わせた。母は、「もう、何年も、こっちに住んでいるのに、いつまで、大阪弁を使うんじゃ」と言うことがあった。「今里の奥さんは、『私は、こんな田舎者ではありません』といいたいために大阪弁を使うんじゃ」とも言った。そんな母も、岡山から兵庫県・龍野市に引っ越しても、岡山の言葉が抜けなかった。私も、岡山から関西弁エリアの龍野に引っ越した時、言葉の違いに、カルチャーショックを受けた。50年以上、関西弁エリアで暮らしているが、いまだに、イントネーションが違うと自分でも気づく。 今、NHK朝の連続ドラマ■あさが来た■をやっている。その中で、たびたび聞く「ごめんやす」のはんなりとした響き。失われた美しい大阪弁に、今里の奥さんを思い出す。■方言:食べり■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.02.26
コメント(0)
私の子どもの頃、今の季節の野菜は、■白菜■大根、ニンジン、■ホウレンソウ■、春菊そして水菜を思い浮かべる。特に、みんな水菜が大好きだった。家の前の畑に霜が降りると「霜が降りたから水菜が美味しゅうなる」と喜んだ。 寒さが厳しくなって、霜が降りると、水菜は柔らかくなる。寒さの今が食べ時というわけだ。そこで、クジラの肉を買い、ナベをする。少しのクジラ肉とたっぷりの水菜に醤油、砂糖、水を加えて焚く。 畳の上に、板を乗せ、七輪を置いて、水菜の鍋を置き家族で、それを囲むのだ。妹は、小さいので、少しでも届くようにと枕に座らせたり、一升ますをひっくり返し、座らせた。大人も子どもも「霜が降りて、水菜が美味しゅうなった」と言いながら食べた。 先日、30年前に写した子どもと私たちのナベを囲む動画が見つかった。長女10歳だと思う。当時流行していた「なんてたってアイドル」を歌っていた。6歳と思われる次女は、髪の毛を自分でまとめていた。昔からあの子は、おしゃれだったのだ。30代の私たち夫婦も喋りながら、鍋を囲んでいた。この動画を見て、30年前、子どもたちが小さい頃を思い出した。60年前の私の子どもの頃は、動画がないけれど、鮮明に覚えている。どちらも、遠い昔の冬の食卓の風景・・・。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.01.26
コメント(2)
先日、花屋の店先にヤドリギが吊るしてあった。■ヤドリギはクリスマスに飾るもの。■あまり売っていないから一枝、買った。子どもの頃、私は、ヤドリギによく似たマツミドリという植物の実を食べていた。松の木に寄生したそのマツミドリが食べたいと時々むしょうに思う。ヤドリギも、マツミドリと同じで食べられるのかもしれないと思い買ったのだ。 ヤドリギの実をひとつ食べて見たが、マツミドリとは、まったく違うことに気が付いた。 子どもの頃、近くの子どもたちで山に行った。それは子どもの仕事で「マツゴかき」というものだった。松の葉が枯れて落ちたそれをマツゴといい、子どもたちは、それを山かごという籠に入れ背負って帰るのだ。松の枯れ葉だから軽いので子どもの仕事だった。持って帰ったマツゴは、風呂の追い炊きに使ったりした。マツゴかきは、マツミドリを食べることが出来るので、私は喜んで行っていた。いつの間にか、山に間伐材を伐りに行かなくなり、マツゴをとりに行くこともなくなった。それは、私が岡山県の山奥の田舎からから兵庫県・龍野市に引っ越した頃に重なる。今でも時々、無性にあの、マツミドリの実が食べたくなることがある。マッチ棒の先くらいの小さな実を割ると、薄い黄緑色の柔らかなねっとりとしたものが出てくる。その小さな実を沢山集めて、口に入れる。「ああ、美味しいな。」「チューインガムより美味しいな」と口々に言って食べた。チューインガムなど、滅多に食べたことがないのに、そういった。マツミドリが食べたいと思っても、かつて、私がマツゴをかいた山は今、がらりと変わって、面影さえもない。60年近く前のあの懐かしい思い出の食べ物は、懐かしい思い出の景色と共に消えた。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.12.26
コメント(6)
私が子どもの頃、家には冷蔵庫がなく、いろんな保存食や保存方法があった。梅の実を干して梅干しを作ったり、■むいた、かわまで干して食べた柿、■■保存食ではあるがおやつに作った「やっこめ」。■サツマイモの保存は■いも穴で・・・。■そして、大根も漬物として保存した。11月も中頃から大根がとれだし、それを少し干してから漬物樽に並べて漬け込み重石に大きな石を置いた。母が漬物を作る時、私は手伝おうともしないで、近くで遊んでいた。漬物樽は、家の裏の軒下に置かれていた。 大根が、「こうこ」になると母は「つかった、つかった」と嬉しそうに樽から出してきて切り、食卓に出した。ちなみに、「こうこ」とは「香の物」が変化したもの。 たかが、「こうこ」と思うけれど、当時は、とても大切な食べ物だった。というのは、我が家は、耕作する畑が少なく、(といっても、4枚もの畑があったが・・・。)作る野菜は、ニンジン、水菜、白菜、ホウレンソウ、菊菜、ネギなどなどすべてを作っていたので、大根を作る面積は限られていたのだった。「こうこ」にまわす大根は限られていた。畑を多く持つ、裕福な家は、こうこに使える大根も多くとることができたのだが・・・。もちろん、大根以外にも、白菜の漬物を作ったりしていたけれど、それも、大事に食べても、無くなってしまう。そんな時、母が「こうこが減っとる」と言い出した。誰かが取って行ったのかもしれないと言い出した。家の裏に置いてあるので、誰でも持っていくことは出来る。 ある日、今度は母が怒りながら私に言った。「おばちゃんとこに、漬物をもらいに言ったら、『漬物もただじゃないからなぁ』と嫌味を言うんじゃ。あそこは、金持ちで、私ら(貧乏人)の気持ちが分からん。」とプンプン怒った。おばちゃんとは、父の弟の嫁、私にとっては叔母にあたる人。叔母の家は沢山の田畑があって、村で一番の金持ちだった。今思うと、彼女は、言葉数の少ない人だったが嫌味を言うタイプには思えない。しかし、私たちに食べさせるためにプライドをかなぐり捨て、親戚ということを頼りに漬物をもらいに行った母にとって、どんな言葉も嫌味に思えたのだろう。大根の漬物さえ、悲喜こもごもの思い出がある・・・。そんな時代だった私の子どもの頃は・・・。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.11.26
コメント(0)
今から60年くらい前の秋祭は大人も子どもも年間でも最大級の楽しみだった。御神楽が舞い、笛がなり神社は賑やかだった。普段は静かな小さな村にも、祭になるとお宮の参道に多くの出店がならんだ。綿菓子売りに、ヨーヨーつり・・・。おもちゃの刀や人形を売る店と狭い参道の両側に出店が並び、活気があった。普段は、私たちきょうだいは、親からこづかいをもらったことがなかったが祭の日は特別で、ひとり50円のこづかいをもらった。うちが貧しいということを知っていたので、それ以上を望まなかった。まだ小学校に行く前の妹と一緒に参道を歩くと、妹が「これを買う」と人形を指さした。その人形は50円だった。「それを買(こ)うたら、綿菓子やヨーヨーが出来んようになる」と私は止めた。それでも妹は買うというので、私は許可した。人形を手にして、妹は嬉しそうだった。私は、自分の50円の中から綿菓子を買って、妹と食べた。祭が賑やかではなくなったのは、いつからだっただろう。50円は今の貨幣価値でいくらぐらいだったのだろう?500円くらいなのかもしれないが、当時、私の家では、祭だけに許された贅沢だった。賑やかな祭が終わると待ち遠しかった分、さびしかった。母がよく■「待つが祭■と言っていたのを思い出す。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.10.26
コメント(0)
■10月10日は岡山の田舎の祭だった。■祭の前の準備には、どぶろく作りがあったが道普請(みちぶしん)もそのひとつでした。道の草を刈ったり、邪魔になる木の枝を払ったり、階段を直したり・・・。道普請とは、道を整備すること。私は、子どもだったから、道普請には参加しないまま、他の土地へと移り住みました。父に、なんで、この季節に道普請をするのかと聞いくと 「この時期は、祭の客が来るので、その人らに、歩き良いように道を直すんじゃ。それに、この時期、草を刈っておけば、正月までもつからなぁ」と父。 昔は、食べるのがやっとこさ。ご馳走なんて、食べられるのは、盆と正月と祭。で、親戚の間で、○日は、どこの祭、□日はどこの祭と、かわるがわる、お客になったり、お客になったり・・・。 招く方も、招かれる方も、この日ばかりは、ご馳走にありつけます。だから、皆が、通りやすいように、自分が歩きやすいようにと、道を直すのです。皆で、道普請を済ますと、もう、すぐ祭がやってきます。***言葉のものおき***人々が一緒に仕事をすることで生まれるコミュニティは真の文化を生み出す源泉なのです。そして、自然とともに生きるということは、真の文化を復活させることなのです。 ゲーリー・スナイダー (アメリカの環境詩人)■2002.10.7■を書き直しました。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.09.26
コメント(0)
私が小さい頃、岡山のいなかの川で水遊びをよくした。そんな時、祖母は、「ごんごがおるから深いとこにいちゃいけん」と言っていた。祖母は私が小学1年生6歳の時に亡くなったので、それ以前の記憶だろう。「ごんご」とは、「河童」のこと。作州(岡山県の山間部、津山市のあたり)から嫁に来た祖母は、「河童」と言わず「ごんご」と言っていた。「ごんごは、子どもを深いとこに連れて行って、内臓を食うんじゃ。じゃぁから、浅いところでも気をつけにゃぁ、いけん」と祖母は言った。 昔の川は、大人でも背のたたないような深い淵があって、周りには、山が迫っているようなところだった。だから小さい子どもは、泳げるようになるまでは、近くの浅瀬で水浴びをしていた。私は、ごんごのことが頭から離れなかったので、大人たちが洗濯をしている近くで泳いだりしていた。少し大きくなって■川遊び・・・花咲く合歓(ねむ)の木の下で■で泳ぐようになってもみんな気を付けていた。もし、溺れている子どもがいたら、その子に向かって差し出す竹竿のあることは、みんな知っていた。祖母の「ごんご」は、今も頭にあって、昨年、■岡山県・津山市■に行った時も、写真を写してきた。この夏、川で溺れ、死亡というニュースを何度も聞いた。たぶん、彼は、親からカッパのことを聞いたことがない世代だと思う。カッパをはじめとした魑魅魍魎、もののけなどを忘れた現代人。それは自然への畏敬を忘れたことにもなる。 ■カッパの出ている映画■■河童のクゥと夏休み■■荒川アンダーザブリッジ■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.08.26
コメント(0)
「ワシのおとう(父)は、いつも、京都から種物(たねもの)の広告を送ってもろうとった」と父が話し始めた。おとうというのは、明治10年生まれの私の祖父。祖父は、京都から取り寄せた、今でいうところのカタログを熱心に見ていたそうだ。明治45年生まれの父の子ども時代の話だから、大正10年までの頃のことだろう。「今年は赤ナスを作ってみよう。」と種のカタログを見ながら祖父が言った。「それで、赤ナスの種を買(こう)て、おとうが作った」と父が語る。「実がなったんじゃけえど、においがきつうて食べられなんだ。」 赤ナスとは、トマトのことだ。「トマトのことを赤ナス、ゆいよったん?」と私が聞くと父は、「唐柿(とうし)ともゆいよった」と言った。はじめて、トマトを食べた父は、そのあまりの生臭さに食べられなかったそうだ。生まれてからずっとトマトを食べている私たちには理解しがたいが、大正時代といえばそういうものだったのだろう。「それで、ワシは、トマトに砂糖醤油をかけて食うようになったんじゃ」と父は笑いながら言った。 昔の夏のおかずは、茄の塩もみ、焼きナス、 キュウリの酢味噌和えそれに、輪切りにしたトマトに醤油をかけて、父はそれに砂糖を入れて食べるというのがよくあるおかずだった。赤ナスの話を聞いた子どもの頃は、マヨネーズもケチャップも家にはなかった。あるのは、塩、砂糖、醤油、酢と家で作った味噌。それに父が作った新鮮な野菜・・・。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.07.26
コメント(0)
全238件 (238件中 51-100件目)