全235件 (235件中 101-150件目)
子どもの頃の雛祭は4月3日だった。だから、今頃は、雛祭の準備を皆でやった。*掛け軸をかける。うちには、一対の雛を描いた掛け軸があったがそれを床の間にかける。この掛け軸は、雛祭の時のみかけられた。*家の中にある、たった一つの■机■を床の間に置く。その上に、オレンジ色や金色など派手な布を敷いた。この布は、最近分かったのだが、仏壇用の布だった。 *一対の雛を飾る。雛は木で出来ていて、10センチにも満たない小さなものだった。木の箱に入っていて、うやうやしく取り扱われた。小さなぼんぼりと、小さな菱餅も木で出来ていた。それらを、キンキラの布をかけた机に載せる。*ママー人形お腹を押さえると「ママー」と泣くのでママー人形と呼ばれる人形がうちにもあった。そのママー人形を雛の横に座らせた。人形は、それしかなかった。*ワケギの酢味噌和えこの時期、必ず出てくるのが、このワケギの酢味噌。私の中では雛祭の前後といえば、この料理。*甘酒。父が甘酒を作ってくれた。 そして、4月3日、雛祭、当日となると■近くの神社に出かけた。■子どもは、学校が春休み。大人も、田植え前の貴重な休み。母の作った蒔き寿司を持って、大人も子どももその日は、満開の桜の花の下で、日がな一日のんびりとした。その神社の桜はもう、随分前に無くなった。昔ながらの雛祭も、もうない。しかし、60年近く前の雛祭の思い出は、今もくっきりと甦る。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.03.26
コメント(0)
今から60年近く前のこと。岡山の田舎の私の村の大人の男たちは、自分のことを「ワシ」といっていた。老人たちは「ウラ」と言う人もいた。相手のことは、「○●さん」と名前でよんでいたが、「あんた」ということもよくあった。父も同じように、「ワシ」を使っていたが、家では、「僕」と言っていた。学校の先生との会話などでは、「私」を使っていた。子どもに対しても、「君はどうするんですか?○○ちゃん」と言ったり「○○君は、そうするんですか?」と言ったりした。本をよく読む父は、僕や君という言葉が当たり前のように使えていたのだと思う。当時は、僕、君という呼び方は珍しかったらしく、父は、よく知り合いの話を笑いながらしてくれた。「この村で、君じゃぁ、僕じゃぁ、言うのは ウラと村長だけじゃぁ」と父の知り合いは言ったのだそうだ。「僕」という言葉を使う進歩的な人間に見せながらも、つい、会話の中に「ウラ」という普段の言葉が出るという笑い話だ。 今、NHK大河ドラマで「花燃ゆ」をやっている。山口県は、私の育った岡山県と同じ中国地方ということで、懐かしい言葉が出てくる。そこで吉田松陰が使うのが「僕」という言葉。この言葉も、父の話を思い出して、なぜか懐かしい・・・。自分のことを「ウラ」という人はもういなくなった。昔の言葉が無くなっていくのはさびしい・・・。 ・・・・・・・・・・・・
2015.02.26
コメント(0)
私が子どもの頃住んでいた、岡山の家には、典型的な農家だった。入口を入ると土間があった。私たちは、土間を「ニワ」とよんでいた。ニワは、作業をする場所だった。私たち一家は、そこで餅つきをした。■縄ない機が置いてあって、■縄をなった。■亥の子■の藁で出来たつちもニワで作った。私が6歳の時に死んだ祖母が私の草履を作ってくれていたのも、かすかに覚えている。 父は、「ここにカラウスがあった」とニワの端を指さして言ったことがある。かつて精米は、カラウスを使って各家で行っていたのだ。作業だけではなく、寒い時には、一斗缶を使って焚き火をした。夏の暑い日や雨の日の子どもの遊び場になった。私は、友だちと手まりや石なんごをしてあそんだ。ボールが床下に転がり込んで這いながら探しに行ったことがある。客の応対の場でもあった。靴を脱がなくてもいいニワは、気楽に人が入ってこれるのだ。そんなニワを見ながら父が言った。「このニワは、ワシとお父(とう)が作ったんじゃ。」私たち家族の家は、父がまだ17歳の頃、古材を買って、作ったものだった。出来る所は全て、自分たちでやったのだが、ニワもそのひとつだったのだ。「どうやって?」と私が聞くと座敷の高さまで手を上げた父が「このくらいまで、土を入れて、お父(とう)と叩いてしめたんじゃ。」ただの土だったものが、叩くことによって、固くしまり、土埃の立たないニワにとなったのだ。もともとはセメントがなかった時代に、地面を固めるために使われたとされる、三和土(たたき)。父と祖父が作ったのは、その三和土(たたき)だった。他の家では、セメントで作ったニワもあった。明治10年生まれの祖父と明治45年生まれの父が昔ながらのやり方で作ったのは、最後の三和土(たたき)だったのかもしれない。■三和土(たたき)■三和土(たたき)は、「敲き土(たたきつち)」の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。土間の床に使われる。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.01.26
コメント(0)
クリスマスケーキをはじめて食べた日を私は鮮やかに覚えている。小学3年生の時。12月25日を過ぎてから、母方の伯母が商売の残り物のケーキを持って来てくれた。 箱を開けてみると、白い丸いケーキ。その上にピンク薔薇の花が5個咲いていた。薔薇の花には、露が降りているように、銀色の丸い小さな玉が光ったいた。生まれて初めてケーキというものをみた私は、ため息をついて、しばし呆然とした。母が、ケーキを切ってくれた。薔薇の花がついた、その一切れを母から貰って、手にすると私は、うちの 前の「のんちゃん」の家へ行った。私が持ってきたケーキを「どうしたん?」と私より3歳年上ののんちゃんはビックリしながら聞いた。「伯母ちゃんにもらった。」と私。のんちゃんの家の皿にケーキを置いて、2人でしばらく眺めた。「きれいなぁ。」と二人でケーキを見つめながら、ため息をついた。「はるなちゃん、これ、私にも、ちょっと、ちょうだい。」とのんちゃんは言った。「うん、いいよ。」と私は言ったが、薔薇が壊れるのが惜しかった。 半分に分けたケーキを二人は無言で食べた。 食べる、喜びと、薔薇が無くなる哀しみが二人を無言にした。そして村で食べたケーキは、これが最初で最後だった。クリスマスの習慣が無かったしクリスマスケーキを買うお金もうちにはなかったからだ。 その次にクリスマスケーキを食べたのは、中学2年生だった。私が中学2年の時、家族で龍野市に引っ越した。その頃には、クリスマスケーキをどこでも買えるような世の中になっていた。 今でもクリスマスには、ケーキを買う。子どもたちは成人して、家にいないし、私は肥りたくないから、少しづつ食べる。そして、食べながら、いつも思い出すのは、あの時のクリスマスケーキである。■2002.12.25に加筆・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2014.12.26
コメント(0)
「風呂を直そう!」ある日、父さんが言いました。私の家の風呂は、風呂桶も、洗い場も、窯も壊れていたのでした。だから、近所で「もらい湯」をしていたのですが、父さんが直すことにしました。 「山へ行くから準備をしなさい。」と父さんは言います。さっそく、家中みんなで、行く用意をしました。 車力(しゃりき)と、父さんの呼ぶ、荷車を引っ張って、家から30分ほどのところにある山に着きました。この山の土は、粘りがあって、窯を作るのに、いいのだそうです。 「さあ、掘ろう。」 父さんは、さっそく、鍬で土を掘り起こします。私たちは、それを、集めて、持って来た、紙袋に入れます。これで、壊れている風呂の窯を父さんが直すのです。しばらくすると父さんは、木の枝を採りにかかります。 父さんの親指とひとさし指を丸めたくらいの太さの木の枝をきります。この木の枝で、体を洗う場所を直すのです。 土と木を車力(しゃりき)に積み込みました。「さあ、家に帰って、風呂を直そう。うちにも風呂が沸かせる。」と父さんが嬉しそうに言いました。 父さんの嬉しそうな顔を見て、みんなも、思わず笑いました。 家に帰ると父さんは、持って帰った土で、風呂のクドを直します。クドとは、かまどのことで、うちでは皆、クドと呼んでいました。父さんは、どうやれば、火がよく燃えるクドになるのか知っています。台所のクドも父さんが作ったものです。クドが出来ると、洗い場を作ります。洗い場になる地面にトタン板を敷きます。お湯を使う時、地面にしみ込んでしまわないようにです。トタンに落ちたお湯は、太い竹を割った樋(とい)を伝って流れるのです。トタン板の少し上に山から切って来た細めの木を並べ体を洗う場所を作ります。こうすると、体を洗った時のお湯が、木と木の隙間からトタン板に落ちるのです。こうして、父さんはクドと洗い場を作りました。木の風呂桶は、桶屋さんが、修理してくれました。これからは、寒い夜に風呂をもらいに行かなくてもいいのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「大きな森の小さな家」にはじまって、 「大草原の小さな家」・・・・と続く ローラ・インガルス・ワイルダーのお話は大好きです。で、今日は、ローラ風に書いてみようと思ったけど、はぁ・・・。これから、仕事が忙しくなるので、今日は、家のこともしなきゃ。その前に、ゆっくり、お風呂に入ろう。 昨日は、仕事から帰ったのが、遅かったので、お風呂に入る気もしなかったもん。寒い日のお風呂は、ご馳走。■2002.11.23に加筆しました。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2014.11.26
コメント(0)
私の子どもの頃は、どこの家も米を作っていた。水がぬるむ頃、田植えがすみ、秋が来ると稲刈りをした。田んぼの畦(あぜ)には、アゼマメ=大豆を作った。アゼマメというと、塩ゆでにして食べるというイメージだが、昔は違った。 石臼(いすうす)でひいて、砂糖を混ぜてきな粉を作ったり、味噌を作ったりした。 時々、焙烙(ほうろく)で炒(い)って、おやつとして食べた。こんなありがたい大豆だが、子どもの私が一番好きなのは、大豆そのものではなく、豆のなっていた木で、豆がらという。豆をとったあと、木は乾燥させ、風呂の追い焚きとして使うのだ。風呂に入っていると母が、追い焚きをしてくれる時に使う。その音はパチパチと賑やかだった。わざわざ、山に行かなくても追い焚きに使える豆がらは、なんだか得をしたようで嬉しかったのだ。半世紀以上も前の、どんなものも、無駄にしないあの頃の暮らしを思い出すと、懐かしくなる。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.10.26
コメント(0)
秋は柿の季節。私の実家にも、柿の木があります。今から、7年ほど前のこと。すでに、80歳を越えていた父の手伝いで、家から少し離れた畑に行きました。そこで、見つけてしまったのです実生(みしょう)の柿の小さな小さな木。実家の前の畑に植えようと、持って帰ったら、思いがけず、父の反対にあいました。 家の前の畑は、老人にとって、野菜の世話も、収穫も便利。場所をとる成木はだめ。これが、父の言い分。 それに、負けじと私も言い返しました。子どもの頃、よその子が、柿を食べているのを家に柿の木のない私は、どんなに、うらやましかったか。食べ方にも、そのまま食べる他に、干し柿、合わせ柿などがある。柿の渋で作る柿渋の美しさ。俳句や、物語「猿かに合戦」などなど・・・。そして、なによりも、実家のわらぶき民家に柿は、よく似合う。柿は、日本の文化そのもの。 父は途中から大笑いして、聞いてましたが「植えても、ええよ。」と言いました。「やったー。あんまり、場所をとらないように、スミの方に植えるね。」と私は、畑のすみっこに、実生の小さな柿を植えました。「水をやっといてね。」といつものクセで、またもや、親のすねをかじる私。次に行った時、柿の木は、立派な苗木に代わって、位置も少しゆとりをもった場所に変わってました。「実生の苗は、いい実が成らんから、柿の苗木を買った。場所も、ここなら、のびのび、育つと思って・・・。」と父。「桃栗3年、柿8年」と言うけれど、それから、2~3年で、大きな、甘い実をつけるようになりました。 今は、誰も住んでない家の畑に、今年も柿は、律儀に成ってることでしょう。~骨だけになるまで、しゃぶった親のすね~ byはるなの父■2002.09.28 ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.09.26
コメント(0)
私がまだ、小学校に上がるかどうかという頃の話だ。その頃、私たちは、岡山県の山あいの、小さな村に住んでいた。30軒ほどの集落が、かたまってあったが、父は、裏の家の主人と仲が良かった。父の友人の名は、ハチローさんといった。その家には、私より一つ下の私と同じ名前の女の子がいた。ハチローさんが、仲の良い父の娘と同じ名前にしたのだと父が言っていた。ある時、ハチローさんが来て父の言った。「○○(妻の名前)が白血病になって・・・。」その後、どんな言葉が交わされたのか覚えていない。ハチローさんが帰った後、父が母に言っていた。「○○さんは、広島で原爆を浴びていたから・・・。」「かわいそうに・・・」と母も言った。ハチローさん一家は、戦争の犠牲者だったのだ。それから、いつの間にか、ハチローさん一家は引っ越した。奥さんの病気のため、病院の近くに引っ越していったのだろうか?ハチローさんの親戚が村にいなかったので、その後の様子を知ることは出来なかった。ハチローさん一家のことは、忘れていたが、今年の夏、■広島■に行ったことでふと、思い出した。私と同じ名前の小さな女の子は、どんな大人になったのだろうか?母親がいなくて、淋しい思いをしたことだろう。ハチローさんは、今も健在なのだろうか?私が5歳の時の夏、生まれてはじめて写真を撮ってもらった。父が幼い妹を抱き、側に私が夏のワンピースを着て立っている写真がある。あれを撮ってくれたのは、ハチローさんですか?もし、会えたら、聞きたい事が、話したいことが山のようにあるのに・・・。 ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.08.26
コメント(0)
高校生の夏、姫新(きしん)線に乗って友人と津山に行った。その頃、私が住んでいたのは、兵庫県・龍野市。最寄りの鉄道は、JR姫新線の「本龍野」。友人は、同じく姫新線の「佐用」に住んでいた。津山に行こうと誘ってくれたのは、友人だったのだろう。当時、私は、アルバイトをし、楽しみは読書というおとなしい子どもだったので、遠出をしようなんてことは思いもつなかなった。どこで、待ち合わせたのだろう。私が、「本龍野」から「佐用」まで行き、そこで彼女と合流したのだろうか?彼女が撮ってくれたと思われる白黒の写真には、白いシャツの15歳の少女が写っている。友人も白いシャツの制服だ。隣に5歳くらいの男の子が一緒に写っているが、この子は、彼女の甥っこだろうか?それとも、10歳くらい年の離れた弟だったのか・・・。今では、どこに行くにもバスや車を使い姫新線の本数は、極端に少ない。しかし当時は、姫新線は、交通の姫路と山間部をつなぐ大切な交通手段だったのだ。「本龍野」から「津山」まで電車でどのくらいかかったのだろうか。いや、はたして、電車だったのだろうか?まだ電化されていなかったのかもしれない。友人だった友人とは、高校卒業以来あっていない。それどころか、名前も覚えていないのだ。けれども、津山の名前の入った写真が、高校生の夏に津山に行った事実を伝えている。調べて見たら、「本龍野」から、「津山」駅まで17駅だった。友人の家は佐用だったので「佐用」駅からは、10駅だった。少女たちのちょっとした冒険旅行に、ほどよい長さが津山だったのだろう。7月15日、■夫と津山に行った。■写真を撮った。しかし、写真に、50年前の少女の面影は無かった。思えば遠くに来たんだ、人生という名の旅は・・・。■姫新(きしん)線駅名■■姫新線のトリビア■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.07.26
コメント(0)
子どもの頃のおやつは基本、自分でとるものだった。春にはイタドリやグミを探して山に行ったし、夏には、畑にあるナスビをちぎって食べた。秋には柿の実に椋の実、エノキの実を食べた。しかし、家で作るものもあった。冬は餅で夏には流し焼きだ。鍋の中に、水でといた小麦粉に砂糖を加えたのをいれ、タネをつくる。しゃもじにすくって、焙烙に流すとすぐ、焼きあがる。小麦粉を流して焼くから流し焼きというのだろうか。当時、フライパンは無かったので、焙烙(ほうろく)という平たい素焼きの陶器で焼いた。この焙烙、豆を炒る時にも使い、どの家にもあった。田植えもやっと終わり、ほっと一息。餅でも搗きたいところだが、もち米は、秋までまたなければないのだ。そこで、小麦粉を使った流し焼きということになるのだろう。美味しい、美味しいと皆で食べるので、何枚も何枚も作っても、作っても、すぐなくなる。「流し焼きをしよう」と言いだすのは酒も好きだが甘いものも大好きな父だった。皆大好きな、流し焼きは、夏の食べ物。秋や冬に食べた記憶が無い。やっぱり、米がない時期のつなぎだったのだなと大人になって分かった。いや、秋や冬には小麦粉がなかったのかもしれない。 ■六月捨(す)てえ■7月1日のことを「六月捨(す)てえ」と言い、農家では、焼餅を作り神仏に供える習慣があった。6月中は田植え等によって農家は、大忙し。やっと、田植えも終わり、畦豆も蒔いて、農作業も一段落。ほっとひと息、くつろぎのひとときです。 何事かの節々にしか作らない餡餅(あんもち)を作ります。「夏餅は犬も食わん」といわれるので、その餡餅を焼餅(やきもち)にして神仏に供えます。その後、一族の者でいただきます。また、手作りの「うどん」を食べたり、「流し焼き」と言われる、ホットケーキのようなものに、*白下(しろした)*といわれる黒糖をつけて食べて祝います。 参考資料:「わが町 和気」・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.06.26
コメント(0)
父は、小柄で痩せていた。右半身が不自由だったが、普段は忘れているくらいに、皆と同じように働いていた。私が中学校2年生の夏休み、一家で岡山県から兵庫県・龍野市に引っ越してきた。今から半世紀以上も前になる。慣れない土地で、慣れない仕事に、父は必死で働いた。母も同じ仕事をしていた。仕事から帰ると、「ああ、しんどい」と言って父は、毎日、倒れこむように畳にうつぶせになった。「ちょっと、休んで・・・」と母は父を気遣って言った。母も同じように働いているのだから、疲れているのだろうが、手を抜かない父の仕事ぶりにせめて、家ではゆっくりとと思っていたのだろう。私は、母を手伝って晩御飯の支度をした。支度が出来ると、母は「晩御飯の用意が出来たよ」と父に声をかけた。父は「まず、子どもが先で、それからでいいから」と言う。母は、「あんたが、一番先じゃ、えれえ目(大変な仕事)をしているのに・・・」とゆづらない。「そんなら、いただこうか・・・」と父。風呂も食事も、いつも父が一番先にと母はいう。父は子どもの進学を考えて、岡山の田舎から龍野市に引っ越してきたというくらいの子煩悩な人だから、いつも「まづ、子どもたちに・・・」と言っていたが、母はそれを許さなかった。私たちも、母に賛成だった。父がどれだけ疲れているか、私たちのためにどれだけ、働いているかを知っているからだった。「ありがたい!毎日が父の日じゃ・・・」と父はよく笑っていた。父は私たち子どもと母を、一番に思い、母は、父と私たちを一番に思い、私たちは子どもは、父と母のことを一番に思った。皆がみんなのことを思っていた家族は、貧しいけれど、幸せだった。あの頃の我が家は、毎日が父の日で、母の日で、子どもの日だった。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.05.26
コメント(0)
子どもの頃の私の仕事に水汲みがあった。家の西側に、竹藪があり、そのそばに小さな井戸があった。屋根もない井戸の口の円は小さく、地面に大きめの石が円を囲んでぐるりと並べていた。その石の上の立って、ブリキのつるべを落とし水を汲むのだ。しかし、石はぐらついていた。私は、気をつけて石の上にそっと立つ。もし、井戸に落ちたら、命がないかもしれないという思いだった。それは教えられたものではなかった。そんな危険ともいえる水汲みをする家は、今から50年以上前でも少なかった。井戸に滑車をつけている家や手押しポンプでくみ上げる家もあった。台所に置いてある、大きな水がめにいっぱい水を汲む。風呂をわかすために水を汲む。生活のために必要な水を汲むのが私の子どもの頃の仕事だった。冬には、風呂の残り湯で洗濯をしたり、夏には、水まきをした。野菜を洗っても、洗った水を畑にかけた。水が完全にリサイクルされていたのは、水が今のように蛇口をひねると出てくるというのではなく、力のいる仕事だからだ。あの井戸はどういう風にして作ったのだろう?なんでもしゃべっていた父のことだから、井戸についてもきっと喋っていたのだろうが覚えていない。父に聞いておけばよかったと悔やまれることが沢山あるが、井戸もそのひとつだ。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.04.26
コメント(0)
昔、私の子ども時代には、今のような服はなかった。それで、冬になると、沢山の服を着こんで、綿入れの羽織やちゃんちゃんこを着ていた。パッチとよばれるズボンの下にはく白い、今でいう、スパッツのような下着をはいて、足元は、男の子は、紺、女の子は赤い、コール天の足袋をはいていた。ストーブもホーム炬燵もなく、寒さを防ぐためには、ころころと着こんでいたのだ。春は、そんな重苦しい服装から解き放たれる時だった。だから、今か今かと春を待った。3月の今頃になると、もうスカートをはこうかと思う。しかし、はいてみると、春とはいえ、やはりまだ風が冷たい。まだ、本当の春にはなっていないのだった。コール天のズボンよりも、スカートの方が軽いため活動的だったのだ。それに、スカートの方が子ども心に、かわいらしく思えた。月刊誌で読む漫画の世界では、女の子は、真冬でもスカートをはいている。子どもが見たこともない、コートやマフまで持っていた。だから私も早くスカートがはきたい・・・と思った。いつもいつもそんなことを考えていた私は、ある日、とんでもないことを思いついた。それは、スカートをはいて、その下にパッチをはくということだった。 今なら、なんでもありのことだけれども、その時は、スカートをはきたいために、下着を見せるという暴挙なのだ。そんなことをやったのは、たった一回だけれど、それほど春は待ちどうしいものだった。あの頃、スパッツやマフラーやコートやダウンジャケットがあったらな・・・と思う。しかし、だったらあんなにも春を待つ気持ちは無かっただろうと思う。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年3月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・
2014.03.26
コメント(0)
子どもの頃の冬の衣類のことを考えてみた。どんな服を着ていたのか、忘れたが、服の上に綿入れか、ちゃんちゃんこと呼ばれる、袖のない綿入れを着ていた。 セーターは、手編み。古いセーターを編み直したものだった。セーターをほどいて、両手を開いて腕に巻き付かせ「かせ」とよばれる状態にする。編んだくせがついているるので、湯のしといって、お湯につけてり、蒸気でくせをとるのだそうだ。母は、編み物が好きだったが、現金を得るために仕事に行かなくてはならず、お金を出して編んでもらった。そして、そのセーターの糸が弱ったら、ベストに編み直した。セーターを沢山もっている着ている子どもは、少なかった。セーターの上に、「うわっぱり」と呼ばれる綿の服を着て寒さをしのいだ。寒いから鼻水が出て、それをうわっぱりの袖で拭いた。今から50年あまり前の子どもの冬服は、どの子もどの子も袖口が、鼻水の渇いたのでカピカピになっていた。だから春が来るのが待ちどおしかった。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年2月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・
2014.02.26
コメント(0)
私の父は、話が好きな人だった。初対面の人とでも、まったく頓着なく、昔からの友人のように話していた。母は、歌が好きで陽気でよく笑った。だから、うちには、よく客が来た。岡山から龍野市に引っ越しても、新しく住み始めた村の住人と親しく話した。当時は、古くから住んでいる人たちは、道普請などを一緒にやることで、地域の意識が強かった。そんな中で、新参者の父と母はすぐ打ち解けて仲間に入った。それどころか、新年会は、うちでした。参加者は、父の世代の男たち。うちに負担をかけまいと、肉や野菜、酒を持参でうちで新年会を毎年やっていた。彼らは口々に、「この家は、夫婦揃って、おもしろいから・・・」と言っていた。客が好きな父と母は、子どもの頃から私たちにいつも言っていたことがある。「この家に来たら、誰の客でもない。みんなの客だ」と・・・。父は好きな酒をたらふく飲んで大笑いしながら喋りまくった。母も話に入ってよく笑ったし、請われれば、歌った。そんな時、私と妹は、宴会が楽しくいくようにと、下働きをした。父や母ほどの社交性は、ないものの、私が宴会やもてなしが好きなのは、その頃の思い出があるからかもしれない。■上の写真は、酒好きの父がもらった「酔仙」という酒の空き瓶。今年はうま年なので、一輪ざしとして使おう。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年1月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・
2014.01.26
コメント(0)
私の子どもの頃は、クリスマスなど飾っている家はないし、誕生日も祝わない時代だったから、正月は一大イベントだった。正月を迎えるために、数々のことをやってしまわなければならないからだ。●溜まっているツケを払う。農家だから現金がない。そのため、店ではツケで買っていた。そのツケは、12月には払わなければならないという決まりがあった。そのため、父や母はどんな苦労をしたのだろうか。子どもの前では、そんな話を聞いたことがないが、大変だったのだろうと思う。 ●餅搗き。正月の御馳走といえば、雑煮だった。他には、なにもなかった。もち米を蒸す蒸籠、きねとうすも家にあったし、搗いた餅を並べる木の箱「もろぶた」もあった。搗いた餅を隣に、持って行くの重箱も・・・。■おつりはマッチ ■●ショウガツゴを買う。普段から粗末な服や下着を着ていたが正月になると、母は奮発して、なにか一つ新しいものを身につけさせてくれた。そのためにどれだけ、お金の苦労をしたことだろう。その他、正月の間、ゆっくり出来るように、薪を作っておくこと。カメに井戸水をいっぱい汲んでおくこと。洗濯機も水道もガスもない時代にゆっくり休もうと思うと大変だったのだ。その分、ゆっくりできる正月を待つ心は今も何倍も強く、大人も子どもも、待ち望んでいたのだった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年12月26日*父の麦わら帽子:麦藁帽子:目次*・・・・・・・
2013.12.26
コメント(0)
私が子どもの頃は、食べるもののほとんどは自分の家で作るのが当たり前だった。いろいろあったけれど、秋は、干し柿を作った。私の家には柿の木が無かったので、山に柿を採りに行った。甘い柿は、そのまま食べるが、しぶ柿は、ヘタの部分の枝をT字に残して皮をむく。剥いたら、T字の部分を■自分の家でなった■縄の間にはさんだ。皮だった捨てたりしない。筵(むしろ)という藁(わら)で作ったマット状のものの上に干すのだ。日光に当たると、皮はパリっとして甘くなる。最近の家には、薔薇が植えてあっても柿の木がない。渋柿でも干し柿にすれば、太陽が甘くしてくれる。干し柿を作る楽しさや、甘くなるのを待つ楽しみ、食べる悦びをもっと知るべきだ。特に子どもたちは・・・。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年11月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・
2013.11.26
コメント(0)
私の子どもの頃には、四季折々に色々な楽しみがあった。この時期の楽しみは、「亥の子(いのこ)」だった。亥の子の日が近くなると父が藁で野球のバットのような亥の子鎚(つち)というものを作ってくれた。父は、その亥の子鎚の先端に輪を作ってくれた。私が使いやすいようにということだろうが、他の子たちはどうだったのだろうか?作りながら、「こっちじゃあ、これを使うけど、わしのお母(かぁ)の里(岡山県・津山方面)じゃあ、いのこ石という、丸い平たい石に縄を何か所もつけたのを使う」と教えてくれた。 夜になると村の子どもたちは、手に手に、亥の子鎚を持って村の広場に集まった。一番大きな子で小学6年生くらい。一番下は、小学一年生だったろうか。一番下だった私は、上級生の後をついて歩いた。家々の前で♪いのこの夜ーさぁ~、ボ~テボテ餅(もち)ゅう~、搗かん家にゃ/鬼産め、蛇産め/角のはえた子産めといのこの歌を歌いながら手に持った亥の子鎚で家の前を叩いた。その家に人がお菓子の入った紙包みを持って子供たちに手渡した。30軒ほどの家をまわると、最初に広場に集まって、もらったお菓子を分ける。お菓子などめったに口にすることのなかった、私の小さい頃、それはどれほどの楽しみだったことか。60年近くたった今もよく覚えている。 *亥の子(いのこ)*亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の上の(上旬の、すなわち、最初の)亥の日のこと、あるいは、その日に行われる年中行事である。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年10月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・
2013.10.26
コメント(0)
私の子どもの頃、大人と幼児の使う言葉が分かれていた。大人は、きちんとした言葉を使い、子どももそれにならった。しかし、幼児は、幼児特有の言葉を使った。●べべ服のこと。(着るもの全てに使った)江戸時代から使われていたようで、たまたまつけたテレビの時代劇で使っていた言葉。当時は普段着とよそゆきがきちんと分かれていたので、いつもと違う服を着ていると「ええ、べべ着てどこ行くん?」と大人は幼児に語りかけた。●とっと鳥全般をいった。●こっこ鶏のこと。鳴き声からか。 ●てんてん手ぬぐいのこと。タオルもてんてんと言っていた。京都に■てんてん■という手ぬぐい屋さんがある。てんてんは京ことばと言っているが、全国的なものだと思う。 ●ぽんぽんおなかのこと。「ぽんぽんを冷やしたらいけん」と親たちに言われ、幼児たちは、暑い時にも、母親の作った腹掛けだけはしていた。●ぽん大便のこと。おなかが痛いというと「ぽんをしてみぃ」(トイレに行って来い)と言われ、■へんなれぽんなれ(屁になれ大便になれ)■と背中をさすってもらった。「へんなれ、、ぽんなれ??」娘が聞く。 「おまじない。『屁になれ、ウンチ(ぽん)なれ』ってね。」 「じゃあ、『へんなれ、ぽんなれ、へんなれ、ぽんなれ・・・』」と娘は言いながらおなかをさする。「へんなれ、ぽんなれ・・・」。 私が、小さい頃、おなかが痛いというと、父がそう言いながら、さすってくれた。 父もきっと小さい時、そう言われたんだろう。 父の父もきっと、そう言われたんだろう・・・。「へんなれ、ぽんなれ・・・」には、まだ続きがあると、コメントをいただきました。「へんなれ、ぽんなれ、おおばたけのこえなれ」というそうです。 「屁になれ、ポン(大便の幼児語)になれ、大畑の肥になれ」という意味。 「ポンジュース」という有名なジュースがあるが、社長が命名した時、社員は大反対だったそうだ。「ポンジュース」のポンは、日本のポンから。この他にも沢山の幼児の言葉が使われていたが、それは大人や子どもたちから暖かく守られているかのような優しい言葉だった。そして、幼児が子どもになると、自分より下の子どもたちを大切に守っていた。最近、幼児の虐待をよくテレビのニュースで耳にする。貧しかった昔、より今の方が幼児を大事の出来ないのは、なぜなのか・・・。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年9月26日*父の麦わら帽子:目次* ・・・・・・・・・・・・・・
2013.09.26
コメント(0)
私の子ども頃は、ガーデニングなどという言葉はなかった。けれども、夏になるといろんな花を見かけた。■朝顔■私の子どもの頃の夏の花の代表は、なんといっても朝顔だ。村に疎開をして来ている家族があったが、その家の朝顔を見るのがラジオ体操の帰り道の楽しみだった。■:朝顔の思い出 ■■ノコギリソウ■ピンクの小さな花が寄り集まって咲いている花。うちの家の前の家族が作っていた。のこぎりの様なギザギザの葉っぱは、その名前の由来なのだなと思っていた。葉は歯痛、偏頭痛対策に使われる他、乾燥して粉にし、タバコの代用品にすることもあったというが、使っているのを見たことがない。■アメリカ草■おなじく、うちの前の家に毎年咲くのがこの花。1m足らずの高さに黄色い花を咲かせていた。私も植えたことがある■キクイモ■の花に似て、キクイモのことを「アメリカイモ」というらしいから、これだったのだろうか?「アメリカ草」と呼んでいたあの植物の本当の名前はなんというのだろう?最近、黄色い花を見たが「アメリカ草」はこれだったのだろうか。■アオイ■アオイもよく見た。ゼニアオイという花が小さい地味なアオイばかりだったが・・・。ゼニアオイは、ハーブティとして使われるらしいが、ハーブという言葉を知ったのは20代になってからだった。■ケイトウ■近所に植えている家があった。この花は、墓参りの際、供えていた。日本でも食用植物として栽培されていた時期があるというが、食べたことはない。■ネムノキ■ネムノキも懐かしい夏の花だ。夏休みの間中、毎日、川で泳いでいたが疲れるとあお向けに川の中に漂った。その時、 目に映ったのが、薄紅色の花と優しげな葉っぱ、花咲く合歓の木・・・。■川遊び・・・花咲く、合歓(ねむ)の木の下で ■山が川まで迫っている大きなネムノキの花の咲くあの場所は、今は車が通れるようになって、変わってしまった。年年歳歳花あい似たり歳歳年年人同じからず毎年美しい花は同じように咲くが、この花を見る人々は毎年変わっているのだ。という詩があるが、現代では、半世紀以上たつと、花同じからずだ。最近、見かけなくなった昔の夏を彩った花は、今も心にしっかりと咲いている。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年8月26日*父の麦わら帽子:目次 *・・・・・・・・・・・・・・
2013.08.26
コメント(0)
子どもの頃の夏休みには、朝から晩まで川で泳いでいたが、家の手伝いもよくした。そのひとつが布団の洗いはりだ。夏になると掛け布団がいらなくなる。当時、うちには布団カバーや毛布などがなかったので、一年の汚れを洗って落とす必要があった。これを布団の洗いはりと言い、暑い間の仕事だった。「手伝(てつどぅ)て」と母に言われると、私はすぐ、手伝った。「布団のガワと綿を分けて」と母が言う。ガワというのは、布団の生地だ。そこで母は握りばさみを使って、縫い目を切り、私はそこから糸を抜いていった。バラバラになった布団のガワと綿。綿は、洗濯竿にかけ日光にこれでもかというほど当てる。綿がふっくらするし、日光消毒というわけだ。ガワは、たらいに入れ、洗濯石鹸をつけて丁寧に洗う。あらった布団のガワは、両端に針のついた40cmほどの細い竹棒でひっぱりながら干した。こうすれば、皺がないのだ。これを伸子張りというが、子どもの頃にはよく見なれた風景だった。■伸子張り写真■ほかにも、糊をつけ布を板に貼って、干すという家もあったが、私の家は伸子張りだった。アイロンの無い時代には(この時代、アイロンはあっても、炭火を入れるもの)この方法しかなかった。布が乾くと、それを布団に縫い直す。母は裁縫は得意ではないから「三針(みはり)一寸じゃ」と笑っていた。今で言えば3センチ内に3針ということだが、そこまで荒くはなかった。私も母と一緒に縫っていた。長方形の布団の一辺だけは、縫わないでおいた。布団の形に縫い直された布を表裏にして部屋の真ん中に置く。そこに、たっぷりと日光を含んでフワフワになった布団綿を置く。ここからが、布団の洗いはりの一番楽しい時だった。布団の角の綿とガワをまとめて掴み、対角線状にクルクルと巻きこむ。端まで行くと、母がクルリとまわして、綿を布団のガワ(布)の中に入れ、表と裏をひっくり返した。これまでは、布団綿とガワだったものが一気に布団になるのだ。そして、布団の縫い残した一片を縫えば、ふかふかした綿の入った清潔な掛け布団が出来あがった。こうして母は、家族全部の布団を洗いはりした。掛け布団が全部終わると、敷布団にと母は休むことなく続けた。何日もかけてやっと全部の布団が縫い終わると、清潔で太陽のにおいのする布団に私は嬉しくてわくわくした。掛け布団は寒くなるまで、押し入れに仕舞い、秋になると日光に当て使った。今から50年以上前の夏、布団カバーがなくても、いつも太陽にあて風を通すので、布団は清潔だった。そしてそれを保つために母は懸命に働いた。しかし、悲壮感はなく、鼻歌を歌いながらの作業に私も一緒に歌いながら手伝ったのだった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年7月26日*父の麦わら帽子:目次 *・・・・・・・・・・・・・・
2013.07.26
コメント(0)
今では考えられないことだけれど、私の子どもの頃、田植えの季節になると2~3日、学校が休みになった。村のほとんどの家が農業をしていたからだ。田植えは、大仕事で、子どもも大切な仕事の担い手なのだ。教師も家に帰ると農業をしなければならないので、学校が休みになることが内心はありがたかったのかもしれない。父と母の間に私が入って3人が並んで田植えをした。私より4歳下の妹は、畦で遊んでいた。一列植えるごとに、下がって、父と母は、細い紐に印の付いた田植え用の道具をずらして行く。その印に添って苗を植えるのだ。沢山の田んぼを持っていたわけではないが、大人2人と子どもの私での田植えは、結構大変だった。田植えという目に見える仕事。頑張ればいつかは終わるという結果の出る仕事・・・。なによりも、親が生きていくために、働いているという場面を見られたのは、親への感謝と家族を大切にという気持ちが自然にうまれたような気がする。まなこには母と田植えのなつかしき風景ありて吾を支へる 母衣崎 健吾・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年6月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2013.06.26
コメント(0)
買い物の帰りに、いつもと違う道を通ったら、道端にたわわになった、グミを発見したのは去年のこと。小さな通りで、家からはみ出していたのをいいことに、自転車を降りて、食べた。何年ぶりだろう、グミを食べるのは・・・。子どもの頃、現金収入のない私の家では、おやつなどなく、おなかがすいたら、山や川で木イチゴをとったり、スカンポを採ったり、カワニナをとったりした。椋の実は、台風の頃の楽しみだった。そんな中で、ほとんどの家にグミの木はあった。うちにも、家の前の畑の隅に、グミの木が植えてあった。田植えの頃になると、真っ赤に色づくグミ。しかし、真っ赤に色づいたグミを食べたことはなかった。少しオレンジ色になると、私たちが食べるのだった。まだ、渋く、酸味があって、とても美味しいとはいえないのだけれど、真っ赤になるまでおくと、誰かにとられると思うと熟れるまで待てないのだった。 岡山では、「グイビ」といっていたが、それは木に「グイ=トゲ」がある実というところからきたらしい。あの頃の子どもたちは、本当に野性的だったなと、誰も採らない甘く熟れた実を食べながら思った。種を植えようともっと帰ったが、発芽しなかった。今年も、真っ赤に熟れたグミが食べたいと思う。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年5月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2013.05.26
コメント(0)
私が子どもの頃に住んでいた村は山に囲まれた盆地のような土地だった。真ん中に川が流れて、30戸くらいの家がひとつの集落としてかたまっていた。私の集落は、その盆地のような地形の中にあって、一番川下にあった。その川のもっと川下に町があった。川沿いの道をバスが通るが、その道は、農閑期には、男たちが自転車で町まで働きに行く道でもあった。私たちの集落のバス停前には、子どもたち相手の駄菓子を売る小さな店があった。私は1枚50銭の渦巻きのかりんとうのような硬いお菓子が好きで、たまたま運よく5円を手に入れると渦巻きのお菓子を10枚買おうか、それとも6枚買ってあと2円で他のお菓子を買おうかと悩んでいた。その小さな店は子どもたちにとって、楽しみな店であったが、現金稼ぎに町に自転車で出かける大人の男たちにとっても、楽しみな店だった。その店は、盆地の入口にあったので、ここまで帰ればあとは家はすぐという位置にあった。そこで、男たちは、その日の労働と自転車で帰る通勤の労をねぎらうために、その小さな店で、いっぱい飲んで帰るのだった。小さな手に5円だの10円だの握りしめて行ったあの店は、きつい男たちにひとときの安らぎを与えてあの店は、とうの昔の無くなってしまった老夫婦でやっていた店で、子どもの私にとって、とてつもなく年よりに思えたあの老夫婦は、ひょっとすると今の私より若かったのかも知れないと思ったりしている。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年4月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2013.04.26
コメント(0)
子どもの頃は、どんなものでも遊べた。そのひとつが椿だ。近所に赤い花をつける椿の大木があって、今の季節になるとポタポタと落ちた。花は散るというが、椿に限って落ちるのだ。その椿の花も私たち子どもは見逃さない。家から稲の藁を1本持ってくる。落ちた椿の花をその藁に通すのだ。あっという間に椿の花が藁1本分を覆う。するとそれを輪にした。自分の首にかけて、椿の首飾り・・・。長さが足りない時は、頭につけ、花の冠とした。それを椿の花が落ちる度に何年、何回繰り返しただろう。椿の冷たい感触とズシリとした重みを今も思いだす。 今、もし、庭があったら、椿が植えたいと思うのは、あの頃の思い出があるからだろうか。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年3月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2013.03.26
コメント(0)
子どもの頃、この時期になると川のほとりに*ネコヤナギ*にを採りに行った。 手折って、そのふわふわした、銀色の小さな毛皮のような芽?を撫でていた。 なぜ、ネコヤナギを採りに行ったんだろう・・・。 他の植物を採りにいくにはそれなりの理由があった。 例えば、筍やスイバ、チガヤ、グミ・・・。いろんなものを採ったけど、それは食べるためだった。 ヘクソカズラの花は、「天狗」になって遊ぶために、 笹の葉は「笹舟」を作るために・・・。 それぞれ、用途があったのに、ネコヤナギは、目的もなく採った。 今思えば、それは、春が来たことを確かめるためだったのかもしれない・・・。 **ネコヤナギ** ネコヤナギは北海道から九州に分布する落葉の低木。 山間渓流や中流の流れが急な場所などに生育する。 雌雄異株であり、春に葉の展開に先立って花序を出す。 若い雄花序は葯(やく)が紅色なので、全体が紅色に見えるがやがて葯が黒色になって長くなる。 雌花序は絹毛が目立つのでふさふさとした感触であり、これをネコの尻尾にみたてて、ネコヤナギの和名が付いた。 渓流の春を知らせる植物である。■グイビ(グミ)■■サイシンゴ(イタドリ)■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年2月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2013.02.26
コメント(0)
私の子どもの頃の暖房器具といえば火鉢だ。どの家にも陶器の大きな火鉢があった。しかし寒さは防げるわけもなく、いっとかんと呼ばれるブリキの缶の上の部分をとってその中で火を焚いた。もちろん、家の中でだ。子どもたちは寒くても外で遊んだ。家は隙間だらけだったのでちょっとやそっとでは、間に合わないのだ。夜には、ほとんどの家が櫓炬燵(やぐらごたつ)で寝ていた。■櫓炬燵(やぐらごたつ)■は、木でできた箱のようなものの中に炭火を入れて暖をとるものだ。その炭も自分の家で使った火の残りを消し壺に入れて作った。うちには櫓炬燵がひとつしかなくて、それを家族中で使っていた。八畳の部屋の真ん中に布団を敷き櫓炬燵を置く。櫓炬燵を囲むように数組の布団を敷き寝るのだった。私たち家族は、冬の夜は、きびしい寒さの中、春が来るのをじっと身をひそめて小動物のように待っていた。■昔の生活道具■ 陶器の湯たんぽ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年1月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2013.01.26
コメント(0)
クリスマスという行事がなかった私の子どもの頃の暮は、皆、お正月へとまっしぐらに進んでいた。なかでも、餅つきは、お正月も近づく28日頃のあわただしくも、うきうきとした日だった。餅つきの日は前日からもち米を水に漬けて用意をしていた。この水に漬けることを父や母は「かす」という言葉を使っていた。水にかしてから、ざるに上げ、水きりをした後、蒸篭(せいろ)で蒸す。蒸篭(せいろ)で蒸しあがった、もち米を、石臼に入れ、餅つきをする。 ♪ペッタン、ペッタン・・・。手水をつけて、石臼の中の餅を返すのが母の役目。餅つきは、搗く人とかえす人の呼吸が大事。 「ホイ」とか「そりゃ」とか掛け声を掛けながらやる。搗きあがると、大きな板の上に粉をふって、その上にあげ母が手際よく、ちぎる。 子どもの私たちは、それを、丸い餅の形にするのが仕事。 何臼も搗く。 正月の雑煮用、大豆を入れた、塩味の餅、砂糖が入った餅、中にあんこをいれた餅・・・。搗きたての柔らかな餅にあんこをつけて食べるのをなぜか「おていれ」と言っていた。 搗いたもちは、もろぶたという薄い餅専用の箱に入れて重ねる。 重箱に入れて、前と後ろの家におすそ分け。 持って行くと、おばちゃんが 「はるなちゃん、ありがとう。はい、おつり。」と言って、 空になった重箱に マッチ棒を一つまみ、入れてくれた。 近所からペッタン、ペッタンという音が聞こえると、父が 「さあ、餅が来るぞ。餅は、内緒じゃ、搗けんからな。」と笑いながら言った。 うちに貰ったときも、必ず、「おつり」はマッチ棒一つまみのマッチ。 ♪ペッタン、ペッタン・・・・。 餅つきの音は、お正月を、迎える音だった。 ■追記■「おつり」情報!! ★四国・りょうこ。さん おかえしのこと、「おつり」っていうんですか。 うちでは「おとめ」と言ってました。やっぱりマッチでした。 ★南予・おフジさん お使いに行くと「おとみ」といって何か(忘れたけどマッチ棒もあったかも)もらいました。「だんだん」というのが礼■2002.12.28に書いたものに手を加えた。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年12月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.12.26
コメント(0)
私が子どもの頃、住んでいた村は、どの家も農業をしていたので現金収入といえば、限られていた。■筆軸作り■と共に、「縄ない」も大事な現金収入のひとつだった。どの家にも■縄ない機■があった。縄ない機の前に箱を置いて座る(当時、椅子などなかったので)。縄ない機の先端についている、ふたつのラッパのような管に藁を数本ずついれ、両足で足元の二本の板状のもの(仮にペダルとよぼう)を踏む。すると、からからと音を立てて、両方のラッパ管の藁が送られ、なわれて縄となる。ラッパ管の反対側に、送られた縄が糸巻き状のものに巻きつくという仕掛けだ。母がペダルを踏みながら手前のラッパ管に藁を数本入れた。私は、もう一方のラッパ管に藁を入れる役を進んでかってでた。次々にラッパ管に藁を送り続け、糸巻き状のものが、いっぱいになると、巻き取り機で形よく整える。これを「ひとまる」とよんだ。「ひとまる」を4つで「いっぽん」とよんだ。「いっぽん」なうと、ふたつ隣村の縄買いの善やんという人の所まで売りに行っていた。母が忙しい時は、私ひとりで縄ないをした。縄の重みでペダルを踏むのが重くなったが、それは到着点に近いという喜びでもあった。小学4年生(だったと思うが)の夏休みには、ひとりで「ひとまる」なった時もあった。 山での木を伐る時、作物を束ねる時など自分の家でもよく縄を使った。今では、生活の中に、縄を使うことがなくなった。今でも小学校などでは、田植えや稲刈り体験をさせるところがある。子どもたちに縄ない機の体験をさせてやりたい。藁を使うこと、米作りの終点は、そこにあるような気がするのだ。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年11月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.11.26
コメント(0)
子どもの頃の秋の仕事の思い出は、稲刈りだ。今と違って、機械など使わず、全てが手作業。多くの人でが必要となる。当時は、子どもといえど、小学4年生くらいになると、労働力として期待されていた。もう少し小さい子どもでも、それより幼い子どもの子もりをする。だから学校は「稲刈り休み」となる。学校の先生の家も米を作っているので、「子どもには勉強を!稲刈り休みなど、とんでもない」とならないのであった。私の家では、父と母と私が朝早くから、田んぼに行った。私より4歳年下の妹は、いとこと遊んでいた。 田んぼに着くと、父と母、それに私は、少し間隔をあけてならんだ。右手に鎌を左手に実った稲を掴んで刈り取った。3~4回分を一か所にまとめる。そうして、刈り取ると、今度は、3~4回分の稲を藁でくくる。くくった束を「一束=いっそく」といった。全てを束ねると刈り取った稲の束を天日干しにするためにはざ架け用をする。そのためには、ひとにぎりくらいの太さの3本一組になった棒を何組も立てる。3脚になったその3本一組の棒に洗濯物を干すような竹竿を乗せる。その竹竿に稲の束を架けるのだ。 もちろん、この一連の仕事の合間には、ひと休みがあり、昼休みがあった。しかし、時間が来たら帰れるというような仕事ではなかったので、子どもの私も、必死で働いた。父は右手が不自由だったが、左手で稲刈りをし、左手で稲を束ねた。私は鎌で手を切ったこともなく、稲刈りを手伝った。しかし、いつ頃からか、稲刈り休みはなくなってしまった。その頃からだろう、人々は工場や会社で働き始めた。そうして、皆で豊作を祝うことがなくなって秋祭りが衰退していった。私は、稲刈り休みのあった頃、子どもでよかったと思う。楽ではない作業だったけれど、その先に必ず、米のご飯が食べれるというあの満ち足りた思いを経験できたからだ。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年10月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.10.26
コメント(0)
ここ数年、連絡がなかった人からメールがきた。以前、もらったサツマイモの茎の料理を教えてというものだった。■父と母は、勤めをやめた後、岡山のいなかに帰った。■父は家の近くの小さな畑を耕して暮らした。母は、父の作った野菜を使って、日々の惣菜や漬物を作った。苺の季節になると、来るようにと言ってくれたし、余ると苺ジャムを作って送ってくれた。サツマイモの茎の佃煮も、母が作る味だった。大きな入れ物にいれ、食べきれないほど送って来るので私は、毎年、空き瓶に詰め、友人に食べてもらった。毎年のことだったので、友人は今でも覚えていてくれたのだった。■「サツマイモの茎の佃煮は・・・」■と私はネットで検索して友人に作り方を教えた。1・株分のつるから茎を摘んで葉を除く。1時間近くかかるので音楽をセットし、ひたすら無心に皮をむく。 2・3cm長さに切って水にさらす。熱湯で5分ほどゆでて再び水にさらす。 3・小鍋にサラダ油を熱してサツマイモの茎を炒め、油が回ったらしょうゆ、酒、みりんを入れる。4・水分がなくなるまで煮詰めたらできあがり。「なかなか、簡単にはいかんなぁ」と友人は電話の向こうで笑っていた。買えば何でも手に入る時代に、野菜を作り、味噌、漬けもの、ジャムを手作りし、サツマイモの茎さえ捨てずに暮らした父と母。そんなふたりは、隠居してからも老夫婦が退屈することがなかった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年9月26日*父の麦わら帽子:目次 *・・・・・・・・・・・・・・
2012.09.26
コメント(0)
ゴールデンウィークだの週休2日制だの、なかった頃。 日曜日でも休みではなかった頃の父母達は、お盆は、しっかりと休んだ。 「墓参り」という口実で、実家に帰る人も多くいた。 うちの家の前の「ふーちゃん」というおばさんもその一人。 毎年、お盆には、岡山市内の実家に帰った。 そして、家に帰ってくる時には、必ず、油の入った一升瓶を2本持って帰った。 ふーちゃんの実家は、岡山で、食べ物商売をしていた。 天婦羅など、揚げ物を作るから、大量にてんぷら油を使った。 けれども、何回も使うと、カラッとした天婦羅があがらなくなる。 そこで、使用した油を持って帰り、近所で売るというわけだ。 母は、一合瓶を持って行って、その油を買った。 それだけあれば、充分だった。 天婦羅などしないし、卵焼きだって、めったにしない。 散らし寿司の錦糸玉子も特別な日だけ。 ナスビとピーマンの味噌炒めなど、用途は限られていた。 だから、一合瓶で一年間使える。 ふーちゃんの実家も、喜んで持って帰らす。ふーちゃんは、それを村で売って、小銭を稼ぐ。うちも、市販より安い、てんぷら油が手に入る。 みんな貧しかったから、喜んで使った。 こうして、油を捨てることなく使い切った。 一升瓶を担いで、実家から帰っていた元気者のふーちゃんも、 先日の伯母の葬式には、よる年なみには勝てず、来ていなかった。■2005.08.17に書いたものですが、再度アップします。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年8月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.08.26
コメント(0)
私が子どもの頃の夏服は、男の子も女の子も小さい子は、パンツのみ。 少し大きくなると、男の子は、ランニングシャツに、半ズボン。 女の子は、ノースリーブのワンピース。 真夏になると、小さい子の寝巻きは、*腹掛け*とパンツのみ。 腹掛けとは、四角な布を首から吊るして、「腹にかける」もの。 浴衣の残った布などで、母親が作っていました。 腹さえ冷やさなければ、いいといってました。 少し大きくなると、ゆかたのお古でした。 私の一番小さい時の写真は、5歳の夏。 その時私は、木綿のワンピースを着ていました。 妹は、上半身、裸で、これまた、上半身、裸の父に抱かれています。お盆の夜、子どもは誰もが浴衣を着ていた。浴衣は、夏の晴れ着といえる。子供の服はすぐ、ほとんど、もらったり、あげたり、つまり、完全にリサイクルされた。 *腹がけ*寝冷えを防ぐため、子供の胸から腹にかけて布で覆い、背中と首とで紐を結ぶもの。腹当て。 ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年7月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.07.26
コメント(0)
私の子どもの時代に住んでいた岡山の家には、前と裏に庭があった。ただし、農家では、ニワというのは土間のことで、一般にいう庭は、カドと呼ばれていた。うちでは、裏庭を単に、ウラと呼んでいた。そのウラには、道に面した東に、スモモの木とナンテンの木。西には、竹林があり、毎年、ハチクを食べたり、竹を切ったりしていた。竹林の傍には、井戸があり、のぞくと石組が見えた。小さなバケツのようなものに、竹にとりつけ、私たちは、それで、飲み水、風呂水など、全ての水汲みをしていた。井戸の近くにイチジクの木があった。その下に、消し炭を入れる壺があった。消し炭とは、燃えている薪をその壺に入れ、蓋をして空気を遮断することによって、消し、炭にするのだ。山から伐ってきた木を無駄に使わないというためのものだ。消し炭の壺の横に、刃物を研ぐ台があった。鎌や包丁などは、ここで丁寧にとがれ、いつでも使えるように待機していた。研ぎ台の隣の小さな入れ物には、灰が少し入っていた。これは、食器を洗うためのものだった。日々の惣菜はほとんど油を使わないで作られたが、たまには使うこともある。その時、食器に灰をつけると油分が落ちるのだった。このように、うちのウラには、必要なものがあるだけで、花などは、植えてなかった。飾りらしいものといえば、たったひとつ、誰にもらったのか、誰が作ったのか、イチジクの枝に、かけられた、「つりしのぶ」。つりしのぶのある、ウラの景色・・・。それは、今も夏が来ると思いだす、懐かしい思い出の夏の景色だ。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年6月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.06.26
コメント(0)
父の子どもの頃、「端午の節句」には、ヨモギを採ってきたという。そのヨモギを束ねて屋根の上に「屋根替え」と言って放り投げるというしきたりがあったそうだ。 「日本の民俗学」によるとショウブとヨモギを採取してきて、邪気を払うためさまざまなことが行われていた。 軒先にさしたり屋根に上げたりする「葺き籠り(ふきこもり)」というのがあったそうだ。父の子どもの頃にやっていた「屋根替え」は、「葺き籠り(ふきこもり)」のことだろう。また、陰暦五月五日を薬日(くすりび)と言い、この日の午の刻(正午前後)に降る雨を「薬降る」と呼んでいる。このようにヨモギは大事な草だった。 私の子どもの頃には、「屋根替え」という風習はもう残っていなかった。しかし、ヨモギ餅という形で残っていた。今では、ヨモギを利用することなく雑草と呼んでいる。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年5月26日*大阪しぐれ:スジもコンニャクも・・・/父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.05.26
コメント(0)
今から半世紀以上前の4月3日には、村の子どもたちは、弁当を持って、歩いて30分余りの「芳嵐園」に花見に行った。子どもだけでなく、大人も一緒だった。重箱に入っているのは、母の作った巻きずしと茹で卵。たったこれだけかと思われれるかもしれないが、巻きずしは、遠足や運動会など特別な時でないと食べられない。茹で卵も、巻きずしを同じくらいに貴重だった。そんな御馳走を食べ終わると、ゴム飛びや鬼ごっこをして遊んだ。遊び疲れると、芝生の上に寝転んだ。親も子も、仕事や勉強などを忘れて、一日中、春を楽しんだ。半世紀以上前のことだ。私たちは、「芳嵐園に行く」と言っていたこの花見の行事は、大阪では、「春ごと」と言うことを知った。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年4月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.04.26
コメント(0)
私の子どもの頃は、電気といえば、家の電球のみだった。田植えも稲刈りの稲こぎも人力だった。稲を干すのは天日。刈り取った稲を家まで運ぶのはリヤカー。脱穀は、足踏みでし、その後は、唐箕(とうみ)というので選別した。精米は、精米所で行ったけれど、それも、私が産まれたころは、「からうす」で精米していたそうだ。米をとぐ水は、井戸の水を汲み上げたものを使い、山から伐ってきた木で焚いた。ご飯は、精米以外、全ての作業が人力だった。ご飯を炊く以外にも掃除は箒で、洗濯はたらいや川にで、。寒い時の暖房は、山から切り出した木を燃やし、暑さの夏は、うちわ、打ち水などでしのいだ。去年の3月11日、日本に大きな被害をもたらした地震と津波と原発事故。過去にもこのような大きな地震や津波があったことだろう。しかし、今回は、原発というものが加わった。便利な生活が電気を必要とし、原発を容認した。あれから1年たち、便利な生活を考え直そうという空気はトーンダウンした。どこまでを電気に頼り、どこからは、人力にした方がいいのだろうか。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年3月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.03.26
コメント(0)
季節がいつだったか覚えていないが、子どもの頃、筆軸を作る手伝いをしていた。農業の合間に現金を得るための副業に村の大人はやっていた。筆軸というのは、筆の持つ部分の竹のことだ。私たちがオナゴダケとよぶ筆軸用の細い竹を父が採ってきた。それを、家に持って帰り、専用の台に乗せ、決まった寸法に切り揃えるのだ。専用のノコもあった。私も手伝ったが案外簡単に切れる。竹が沢山切れたら、それを束ねる。竹軸を買う人が置いて行った、決まった大きさの針金の輪に切り揃えた竹を通した。その後は、どこに持って行くのか、子どもの私は知らなかった。しかし、数年前に新聞で、集められて竹軸は、冬の間、吉井川の川原で干すということを知った。その後は、筆作りの盛んな広島に持って行かれることも・・・。私の故郷では、もう誰も筆軸作りをする人はいない。それどころか、若い人は、そんな仕事があったことすら知らないだろう。筆軸のためのオナゴダケを採りに行っていた■父が死んで10年がたった。■■筆軸■岡山県赤磐(あかいわ)市の吉井川河川敷で、筆軸の原料となる竹の天日干しが行われている。全体を均一に乾燥させるため、熊手で竹を転がす「天地返し」が週に1度あり、一帯に「カラン、カラン」と乾いた音が響く。少子化のほか、竹以外の材質や外国産の輸入増加の影響を受けて竹筆軸の生産高は減少しており、業者は全国で3軒のみ。赤磐市の「南部千代松商店」では、岡山、熊本両県産の竹を長さ22~25センチに切り、釜で煮沸して油分や汚れを落とし、河原で約70日間乾燥させる。筆軸は広島県熊野町などの筆の産地に出荷する。最盛期だった1960年代後半には年間1億本を生産したが、今年は約100万本を予定している。同社の南部千代徳専務(48)は「今年は雨が少なく、寒さも厳しいので引き締まったいい竹筆軸ができそう」と話している。■毎日新聞■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年2月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2012.02.26
コメント(0)
今から50年以上前、私が子どもだった頃、父も母もよく働いていた。そんなきびしい労働の中、正月は、長い休みだった。正月を休むため、12月には、誰もが大忙しだった。おせち料理などないけれど、正月の食べ物の用意をしなければならない。餅つきをしなければならない。だから、煮炊きや風呂用の薪は、早くから支度しておかなければならなかった。うちでも■秋祭りが終わった頃から■薪を作るために山に行ったものだった。■山人(やまど)はもどるし・・・■という歌も、この頃の忙しさを歌ったものだったのかもしれない。子どもの私もたきつけ用の■マツゴ■をかきに、子ども連れで山に行った。12月31日のことを父はよく、大晦(おおつごもり)と言ったが、この日は、もう休みだった。私が生まれる10年ほど前の大晦の話だ。大晦に、一人の小さな子どもが、背負い台を背負って、うちの前を通った。「おテル、どこに行くんなら?」父の母親、りょうが声をかけた。「山で、たきもんをとって来る」と、おてると呼ばれた女の子が答えた。「大晦に、山になど行くもんじゃない。たきもんが足らんのじゃったら、うちのを持って行け」とおりょうは言った。「嬉しかったよ、あの時は・・・」とおてると呼ばれた女性は、いつだったか、私たちに話してくれた。おてる=テルエは、私より、20歳ほど年上の女性。彼女は、父より数年先に亡くなった。おてるに薪を与えた私の祖母、りょうは、私が小学1年のとき亡くなった。母も去年死んだ。2002年に父が死んで、10年がたつ。これをもって、毎月26日書いてきた父の思い出を終わります。これからは、26日を気にしないで時々書きます。■父の麦わら帽子■***大晦には、ゆっくりするくらいでないといけないとよく父や母が言っていたので私も正月の段取りをしている。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年12月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.12.26
コメント(0)
「小学校に入学した時に、洋服だったのは、私と町長の娘さんと、お医者さんの娘さんだけだったのよ」と夫の母親は得意げに言った。夫の母、私の姑、真知子(仮名)は、満88歳だから今から80年前のことだ。真知子が入学したのは、兵庫県姫路市からまだ山奥に入って土地だったそうだ。当時は、まだ電気も通っておらず、電気を広めるのが役目の国家公務員だった真知子の父親は、仕事で一家揃って、数年間その地に暮らしたのだそうだ。今、NHKの朝の連続ドラマ■「カーネーション」■にはまっている。主人公の糸子は、コシノジュンコ、ヒロコ、ミチコ姉妹の母親、小篠綾子さんだ。ドラマを見ていると、モダンの象徴のようなデパートの店員や職業婦人のさきがけのような、看護婦が着物姿だ。真知子が、少し得意げに、洋服を着ていたのは、たった3人というのが良く分かる。真知子は、当時としては、随分モダンな暮らしをしていたようだ。彼女は、おしゃべりが大好きだから、時折、話を聞いて書きとめておこうと思う。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年11月21日*「昭和恋々」:縁側/スグキでぶぶ漬けを!/父の麦わら帽子:目次 *・・・・・・・・・・・・・・
2011.11.26
コメント(0)
■祭■の翌日は、運動会です。小学校、中学校が同じ場所にあったので、合同。それに、村の青年団や、地区対抗リレーもあるし、そりゃあもう、村を挙げての一大イベント。ムシロが敷かれた運動場には、朝早くから、人が来ます。ダンス、騎馬戦、借り物競争、応援合戦、玉入れ、玉転がし、リレーに仮装行列・・・。見る方も、みんな知ってる人ばかりなので、応援に、熱が入ります。私の運動会デビューは、来年の春から、入学という、5歳の時でした。私は、その日、初めて靴を履きました。それまでは、祖母が作ってくれたワラ草履を履いていたのです。「おもちゃとり」は、来年から小学校に通うという子どもが、向こうにある、風車をとりに行くという簡単なもの。靴は、ブカブカだし、こんなに、大勢の人の前に出たことが無い。用意、ドンの笛の合図と共に、私は、走りました。その間中、歓声、声援・・・。麦わらの筒に風車が刺してある、それを引き抜いて、元の所に帰りました。来年入学という子どもの恒例の行事。この、運動会デビューの「おもちゃとり」は、運動会仲間として、村から認められる、大切な「儀式」だったのです。■2002.10.11に書いたものを再度アップしました。■父の麦わら帽子タグ■ ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年10月26日*ハロウィンといのこ /台風のあと・・・椋(むく)の実ひろい/父の麦わら帽子:目次 *・・・・・・・・・・・・・・
2011.10.26
コメント(0)
子どもの頃は、台風の後は、梨が食べられた。台風の次の日、父は私たち子どもに言った。「さあ上見(うあみ・地名)へ、梨を買いに行こう!」父が荷車の用意をしている間に、私たち、子どもも大喜びで、すぐ用意した。荷車を引いて、登り坂を30分あまり。峠の途中に、梨を作っている農家があった。父は、この家の主人と友達だったので、いろいろ話をしていた。その間に、私たち、子どもは、梨の木の下で、台風で落ちた梨を拾い集めた。集め終わると、持ってきた林檎箱にいれ、荷車に乗せ、ロープをかけた。「早(はよ)う、帰って、梨を食べよう。」皆、そう言いながら帰りを急いだ。帰りは、下り坂なので、子どもが荷車に乗っても平気。途中、誰からともなく、「梨、食べよう、一個だけ・・・。」荷車を止めて、父が、梨をくれる。前歯で、上手に皮をむいて、ガブリとかぶる。「おいしいな~。上見(うあみ)の梨は・・・。」皆、わらった。 渋い脇役の、沢村貞子が書いた「あたりみかん」と言うエッセイを、随分前に読んだ事がある。値段の安い、キズもののみかんを「キズみかん」とよばず、「あたりみかん」というやさしさ・・・。そんな内容だったと記憶している。私たちが、食べたのは「あたり梨」ということになろうか。「ヤーリー」という品種の名とともに、あの時の味は、今も忘れられない。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年9月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.09.26
コメント(0)
子どもの頃の夏休みの思い出は、いろいろあるが、そのひとつにラジオ体操がある。そして、ラジオ体操からの帰り道に咲いていた朝顔がある。農業を営む私の家も他の家と同じく米や野菜を作っていたが花は育てていなかった。そんな中、村に一軒だけ、毎年、朝顔を育てている家があった。その家は、たった一間だけの小さな小屋だった。田畑はもちろん、他の家のように、家の前の「カド」とよばれる空間もなかった。だから縦に育つ朝顔しか育てることが出来なかったのだ。私は、ラジオ体操の帰りにその粗末な家を通りながら、きれいに咲いた朝顔をちぎっていた。この家の家族は、戦時中に大阪から疎開してきたと父は言っていた。皆が田植えをする時、稲刈りをする時、道普請、寄り合い、祭、葬式・・・。村で行う行事は沢山あったけれど、その家は、どれにも参加していなかったと思う。稲作の共同作業から生まれた村の行事に田畑を持たない人は、入る必要もないし、入れないのだ。それは、どんなに寂しいことだったろうか・・・。その家の人たちは私が中学生になった頃、気がつくといなくなっていた。今、東北の3.11の震災で疎開している人が沢山いる。彼らは寂しい思いをしていないだろうか・・・。彼らの夏に朝顔は、咲いているだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年8月23日*サルビア歳時記:8月の三箇条/ 器歳時記:金魚の絵皿*・・・・・・・・・・・・・・
2011.08.26
コメント(0)
私たち一家が岡山から兵庫県・龍野市に引っ越したのは、私が中学2年生の夏休みに入ってからのことだった。家を去る日、「はるなちゃん」と言う声。外を見ると中学校の友達が数人来てくれていた。別れに来てくれていたのだ。その時、急に引っ越すという実感が湧いてきた。もう、この人たちと一緒に学校に行けないのだ。この人たちと一緒に勉強することも遊ぶこともないのだと思うと私は、泣き崩れた。百姓では、食べていけない。子どもたちのためにという親の気持ちは、よく分かっていた。これからの暮らしの不安を思えば親だって泣きたかったのだと思う。鍋、釜と学用品、服を持って引っ越した、あの日からもう、半世紀近くたつ。この夏、何十人、何百人の子どもたちが震災のために故郷や友人と離れなくてはならなくなったことだろう。胸が痛む。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年7月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.07.26
コメント(0)
会社勤めをしていなかった父は、農業の合間に行商をしていた。若い時は、祖父母と一緒に焼いた炭を売っていたという。私の子どもの頃は、雨傘の行商をしていた。今のカラフルな傘と違って、黒一色の傘だ。私の住んでいた村は、国鉄の駅からバスに乗っていかなければならない、山奥の村。山奥と言っても、交通の便の悪かった半世紀以上前は、豆腐屋、荒物屋、郵便局、文房具屋などなどがあった。しかし、私たちの村のもっと奥にも点々と家があった。その山奥の村を目指して歩いて行った。背中に傘を入れた籠を背負って・・・。 決して高く売っていたわけではないと思う。けれど現金はもらえない。客は米が出来たら、麦が出来たら払うと言う。父はそれを承諾した。私の家でもそうだったからだ。前回の掛けをもらおうと訪ねると、「もうちょっと待って」と家計の苦しさを訴えたという。そうやって、父は傘は売れどもお金をあまり持って帰ることがなかった。「仕方がないじゃろ、困っとる言われたら・・・」と父は言い、母は、自分の身にその家を当て、納得した。お人よしの父と母のおかげで、うちは、いつも貧しかったが、私はなぜか納得できた。父や母は、働いているのだ。働いているけれど、お金がないだけだと思ったからだ。長い間歩き疲れて、持って行った弁当と水筒で昼食をとったのだろう。暑い日も寒い日も急に雨が降って来た日もあっただろう。雨の季節には、ふと父の傘を行商していたことを思いだす。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年6月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.06.26
コメント(0)
「田植えの終わった後の楽しみは、『やっこめ』じゃった」と父がいつものように語り始めた。やっこめとは、焼き米。米を、焙烙(ほうろく)で炒って作る。焙烙(ほうろく)は、素焼きの平たい土鍋で私の子どもの頃は、やっこめ以外にも豆を炒ったりするのにも使われていた。出来上ら、茶碗にやっこめを入れ、上から熱いお茶を注ぎ、塩を適量入れるのが一般的な食べ方。田植え用に使う、種もみを少し残しておいて作る、やっこめは、「種やっこめ」と言って、この季節の楽しみだったと父は言っていた。私は、子どもの頃、やっこめを食べた記憶がある。女たちが、一握りづつ持ち寄って作ったと言われる、昔の種やっこめ。それは、この時期の待ち遠しい味だったことだろう。そして、今ではだれも作らなくなり、その味は、50年以上前に消えてしまった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年5月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.05.26
コメント(0)
私の子どもの頃のトイレは、便所とよばれていた。家の外に建てられたもので汲み取り式だった。今のようにトイレットペーパーなどなく、代わりに新聞紙を切って使っていた。新聞紙を便所紙に切るのは、もっぱら私の仕事だった。新聞をを半分に切って、1面にする。それを半分に切る。またその半分に切って、また半分に切る。1面から8枚の便所紙が作られる。それを籠にいれて、便所の隅に置くのだった。便所は、粗末な板と、粗い土壁で出来ていて、もちろん鍵などついていない。ノックということも知らなかったので外から「入っとんか?」と声をかけるのが習慣となっていた。「わしの、子どもの頃は・・・」と父が言った。「便所には、エヘンの神様がおる。じゃあから、便所に入る時にやぁ、『エヘン』と咳払いをせにゃぁ、ならんのじゃ言われとった。」私の子どもの頃でさえも、早、半世紀以上がたった。それよりも何十年も前の話だ。今や、日本中の便所はトイレになった。鍵もついたので、エヘンの神様もいらないのかと思っていたら、「トイレの神様」という歌が流行っている。●写真は中国のトイレ。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年4月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.04.26
コメント(0)
生まれつきか、生まれてすぐか、父の右半身は不随だった。明るく口の達者な父は身体障害者の会の会長をやっていた。そのつながりだと思うが、30代後半の聾唖者(ろうあしゃ)のKさんもうちによく来ていた。陽気な彼は、身振り手振りで、いろいろしゃべる。難しいことは、土間に棒切れで字を書いての筆談。内容は、たぶん、愉快なことだったのだろう。声にならない声で、Kさんは笑った。父も陽気な彼の身振り手振りを大笑いしながら答え、同じく難しい言葉は、左手で土間に棒きれで字を書いた。父は選挙運動なども活発にやっていたので、政治の話をするなどして、Kさんは、父のいい友達だった。ある日、突然、Kさんの死を知った。聞けば、盲腸が手遅れになったとのこと。「戸板に乗せて運んだそうな・・・。」「かわいそうに・・・。痛かったろう・・・。」「ものさえ言えてたら助かったのになぁ・・・。」「かわいそうに、Kさんの嫁は・・・。」父と母は、代わる代わる、そう言いながら、涙を流してKさんの死を悔しがった。今なら、ファックスで知らせることもできる。Eメールで誰かに助けを求めることもできる。しかし半世紀以上前は、知らせ手だてもなく手遅れになった聾唖者たちが、どれほどいただろう。最近、手話を学習する人が増えた。私も英語を習うように、手話を習ってみたいと思いながら、もう10年以上たった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年3月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.03.26
コメント(0)
生まれつきか、生まれてすぐか、父の右半身は不随だった。そのためか、どうかは知らないが、父は結婚をする事は、ないだろうと思っていたという。しかし父は結婚しようと決心した。わずかばかりの田んぼと母親との貧しい暮らしで、妻や子供を養えるのか・・・と父は考えたことだろう。しかし、その不安よりも、家族を持ちたい。自分も妻や子どもとの賑やかな暮らしをしたいというおもいの方が強かったのだろう。その強い思いが父に結婚を決意させた。8人きょうだいの末っ子として、大切に育てられ家事を母親や兄嫁にまかせ、好きな歌や踊りで陽気に暮らしていた母。何不自由のない、のびのびした暮らしから、姑のいる農家、しかも貧乏な農家に嫁ぐのには、そうとうな覚悟がいったことだろう。結婚してすぐ、母は気難しい姑に泣かされる日々が続いた。その姑が病気で長患いし、もともと貧しかった家計は、火の車となった。ふたりは、死ぬまで貧乏だった。しかし、ふたりは、死ぬまで幸福だったと私は確信している。ふたりでよく笑い、子どもを愛した。家の仕事も楽しそうにやっていた。貧乏ではあっても、愛する家族がいて共に生きる人がいた。最近、孤族という言葉をよく聞く。貧しくて結婚も出来ず、たったひとりぼっちで暮らす人の多いこと。男性は、「こんな安月給では、結婚できない」と諦め、女性は、「金銭的に安定した人がいないから結婚できない」と言う。父や母の結婚した戦後すぐと今は違う。それを分かってあえて思う。貧しくとも誰かと共に生きることはできないのだろうか。結婚し、家族が増えることの喜びを知ってほしい。父と母がそうであったように・・・。ひとりで生きるには、人生は長すぎる。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年2月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.02.26
コメント(2)
子どもの頃、村の子どもたちは、ウサギを飼っていた時期があった。父に家の軒下に小さなウサギの小屋を作ってもらって、私もウサギを数匹飼っていた。子ウサギは、1年もすると大きくなり、子どもを産むこともあった。数匹のネズミのような小さな産まれたてのウサギを親と一緒に育てた。餌は、大根の葉などを食べさせたが、足らないので私が草をとりに行った。学校から帰ると、真っ先に、籠を持ってウサギの餌となる草をとりに行く。ウサギが喜ぶと聞いていたのは、レンゲ、クローバなど。その他にも、マメ科のカズラの葉を採ってかえった。学校から帰ると遊びたいという誘惑に負けて、ウサギの餌を採りに行かない時もよくあった。そんな時は、父が大声で怒った。「ウサギの餌を採りに行け!」父は、ウサギを飢え死にさせるつもりか怒っているのだった。私は慌てて、籠をもち、草をとりに走った。雨が降りそうな時に遊んでいる時も怒られた。ウサギに雨に濡れた草を食べさせてはいけないというので、雨の降る前に草を刈り取っておかないといけないからだ。そんな思いをして1年間育てたウサギを、子ウサギを残して、村に来た商人に売った。彼は、私以外の子どもからもウサギを買っていた。売れたわずかなお金は、私のこづかいとなった。この日から、また子ウサギを育てる日が続く。こうして、数年、私はなんの疑いも抱かずに、ウサギを育てていた。あのウサギたちは、毛皮として売られていたのだろう、と今頃になって思う。 昭和30年代の前半、村には、ウサギの毛皮を身にまとった、人間などいなかった。みんな、着ものを縫い直して、ちゃんちゃんこや、綿入れにしたもの、何回も編みなおしたセーターで寒さをしのいでいた。■父の麦わら帽子■■ウサギネタ■■毛皮は必要ですか?■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年1月26日*左義長/父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.01.26
コメント(0)
全235件 (235件中 101-150件目)