1890年 明治天皇を表敬訪問し帰途についた オスマン帝国のエルトゥールル号 が熊野灘で暴風雨に遭い 串本町の大島 沖合で座礁・遭難する。
断崖を登り命からがら助けを求めにたどり着いた乗組員。
漁業の島、のどかな大島ではおそらくその時代殆ど外国人を見ることはなかったのではないか。
燈台守はすぐ村長の元に走り、そこから夜の嵐の中の救出劇が始まる。
命がけで69名の乗組員を救出、239の遺体をひきあげた。
混乱の中言葉が通じない。
彼らはどこから来たのか?
万国旗ブックを差し出すと「トルコ」の旗を指した。
自分たちの食料すらままならぬ状態であった。
島民は非常用の鶏、卵、さつま芋を惜しみなく提供した。
今とは違う。おそらく、貧窮の中での生活だった筈だ。 トルコの小学生は教科書でこれを習う。
新任のトルコ駐日大使は首相官邸の次に串本町を訪問する。
イラン、イラク戦争の時テヘランに取り残された日本人に飛行機を出してくれたのはトルコだと言うことをどれだけの日本人が知っているのか。
自衛隊もJALも行けなかった、行かなかったのに、安全の保障もないのに、助けてくれたのはトルコだ。( この時のトルコ航空機は被弾していた !)
山田寅次郎 と言う人物をご存知だろうか。
沼田藩家老の次男として生まれ、母方の茶道宗家山田家に養子に入る。
なかなか宗家を継がず、エルトゥールル号の遭難事件に衝撃を受け、義捐金をつのった。
青木周蔵 ( ペルー大使館占拠事件の青木大使の曾祖父 )に君が持っていきなさいと勧められ、皇帝 アブデュルハミト2世 に拝謁する。(この時献上した山田家先祖伝来の甲冑等は トプカプ宮殿 に展示されている)
帰国せず、陸軍士官、海軍士官学校で日本語と日本の精神について教鞭をとるこことなる。 (40年ものあいだ、家元は空席だった。跡取りとして養子に入ったのに)
その中の教え子の一人にアタチュルクがいた。
後に大統領就任後、寅次郎はアタチュルクと再会する。
1938年ここドルマバフチェ宮殿でアタチュルクは生涯を終えた。
豪華ではあるが、ベルサイユのようなきらびやかさはない。
階段の装飾にクリスタルが使われている。
この宮殿で印象的なのは数々のバカラのシャンデリアとこうした装飾。
365の部屋と22のサロン
窓から臨むボスフォラス海峡。
大理石の手洗い台
黄金のティーセット
ひとつひとつのシャンデリアがそれぞれ素敵なデザインでとても凝っている。 ベネチアスタイルとも、チェコスタイルとも違う。 全体的にはチューリップを連想させる。
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