三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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八 丈 島 八丈島は伊豆七島最南端の御蔵島より更に遠く、尚且つその間を親潮という強い海流に阻まれた絶海の孤島である。『鳥も通わぬ八丈島』と言われたこの島は、かって流刑の島であった。政治犯はもとより、神官、僧侶、商人、渡世人……、江戸末期にはあらゆる罪人がこの島に流された。そこに男女の区別はなかった。『当人勝手次第に渡世すべきこと』それが流刑者にとって唯一の掟であり、島の中に九尺二間(六畳)の小屋を建て自活するのが習わしであった。村人、流人、混然となっての暮らしの中、台風によってたびたび飢饉に見舞われ、島民の半数が餓死するのも決して珍しい事ではなかった。 (奥田瑛二独談より) 食べる物もままならぬ荒れ果てた土地、しかし目に痛いほどに日差しの強い八丈島の、たおやかに立つ高い椰子やヘゴシダの林と澄み切った海の水、そして眩しいほどの白い砂の深い入江に一個の水死体がひっそりと打ち寄せられた。 そこには故郷を棄てたのではなく、故郷を失いしかも自らの意志で己を流罪に処した孫右衛門の、変わり果てた姿があった。 これを見つけた島民たちが、その死体の主を特定するのに、さして時間はかからなかった。彼は何年も前から罪人でもないのに来島し、苦労して開墾に従事し、率先して嫌な仕事に精を出し、子どもたちに読み書き算盤を教え、そして島民たちの尊敬を受けていた老人であったからである。 きれいに片づけられてはいたが、彼の住んでいたあばら屋の机の上には、繊細な細工を施された簪(かんざし)と達筆にしたためられた遺書らしき短歌が一首、丹念に写された般若心経の上にそっと置いてあった。 何故に捨つる 命なるやと 人問わば 民易かれと 祈るのみなり 島に嵐でも近づいているのであろうか、遠くから鈍い雷のような海鳴りが聞こえていた。 (終) ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.10
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あれから数年が経っていた。それはカウにとっても失意の日々であった。ものを思う年月であった。そして過ぎ去った日への想いでもあった。 ──お前様のあの自信に満ち輝いていた日々は、いったいどこへ消えてしまったのでしょう。お前様が命をかけていた三春藩は、いや福島県は、お前様に何をしてくれたのでしょう。藩とは所詮、お前様のように利用をするだけして、終われば打ち捨ててしまう所なのでございましょうか。だって藩財政のことは決してお前様や伊藤直記様だけの責任ではなかったのですから。 カウはぽっかりあいた心の空洞の中で、孫右衛門の出奔先を探し歩いていた。その探していた行き先に、あの古い記憶の浜辺があった。若い嫁入り間もないカウを連れた孫右衛門が、波の荒い磐城の浜辺に立っていたのである。 海のない山国の三春を発ってから二日目の夕方、旅籠に入る前に見に来た海は遠雷にも似た音を響かせていた。カウが孫右衛門と連れ添ってからはじめての、そして唯一の旅がこのカウが望んでいた海を見る旅であったのである。「お前様・・、この海は唐天竺までも続いているのでしょうか?」 そう言って振り返ったカウの顔を、孫右衛門は黙ったまま優しく見返していた。薄暗がりの中を押し寄せてくる波が一瞬のうちに立ち上がるとまるで大きな壁となり、前のめりに落ちて砕けるとすぐ返す波とが交錯して出来る、白い泡立ちが走っていた。孫右衛門の熱い視線を感じながらもカウは、寄せては返す波を、息を詰めて見ながら言った。「海とは怖いような音のするところですね」「うむ、これが海鳴りというものじゃ。恐らく嵐が近づいているのであろう。波も荒い」 そう言いながら孫右衛門は、カウの腰に手を軽く回した。強い波の音と潮風の匂いの中に身を固くするカウを、磯の香りに混じって男の体臭が微かにくすぐった。「お前様・・」 そう言いながらも、「強く抱いて・・」という言葉を、カウは恥ずかしくて口にすることができないでいた。孫右衛門の腕にそー、と倒れ込みそうな思いに胸を高鳴らせ頬を火照らせながら、結ばれた幸せというものを身体いっぱいで感じ取っていた。 それらのことを思い出していると、カウは孫右衛門の行方が分からないことが無性に悲しく、独り身の生活が余りにも哀れに感じられた。無意識のうちに足が仏壇に向かった。そっと障子を閉めると、今は居ない孫右衛門と二人だけの空間が、あのときの海のように心の中に拡がっていった。カウは優しかった孫右衛門にそっと声をかけた。「どうして、何故お前様だけが私に黙って三春を出られなければならなかったのですか? そして、どこへ行ってしまわれたのですか? できれば私もお前様と一緒にどこへなりとも連れて行って頂きたかった。だって私たちは幾千代をかけて約束した夫婦だったのでございますもの。私を連れて行って下さらなかったのですから、私を連れに必ず戻って来て下さいませ。もしこのままお戻りにならなかったら、私は結局お前様の何であったのかが分からないではありませんか」 そう呟くカウの脳裏に、孫右衛門がぼそっと言ったことのある「このようなわしを、長い間良く支えてくれた」という言葉が甦っていた。 ──そんなにも気を遣って下さっていながら、どうしてこの私一人を置いてきぼりになさったのですか? そう思うカウもまた、この世への未練がまさに消えようとしていた。「お義父さま、お義母さま、ご先祖さま。どうか孫右衛門を私に戻してくださいませ。私とてこれ以上、たった一人で生き延びることにどんな意味があるのでございましょう。離縁されたままで彼の世に行くのでは余りにも悲し過ぎましょう?」 ついにカウは、孫右衛門が戻って来ないなら自分の方から行こうと思った。手向けられた香の煙が一本、細くすー、と立ち上がり、途中から小さな渦を作ってたなびいていた。「お父さま、お母さま。カウはもう疲れ過ぎました。どうぞ孫右衛門の元へ、あの人の元へお導き下さいませ」 一瞬、あの磐城の浜での雷の音にも似た海鳴りが耳元で聞こえ、目の前に黒い壁のような大きな波が忽然と立ちはだかった。そして香煙が、密(ひそ)やかに頽(くずお)れていった ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.01.05
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「それにのう。これも言わなかったが百姓どもからも借りておった」「えーっ・・。お百姓からまでも?」 今まで孫右衛門は内緒にしていたことをつい口にし、驚いたカウの顔を見てうろたえた。「それでも以前の借財のお断りのときには、庄屋や百姓どもにカネを返さぬかわりに苗字帯刀を許した。つまりは武士の格をカネで売ったのよ。こうなると、口では侍などと言って威張ってみても、落ちぶれたものよ」「しかしそこまでなさるのでしたら、なぜお百姓の年貢を上げなかったのですか? 年貢さえあげれば、これほどまで苦労をしなくても済んだでしょうに・・」「うむ、それも考えぬではなかった。しかし百姓は藩の基。これを追い詰めたのでは藩そのものが成り立たなくなる。と言って借財を増やすと子や孫にツケを回すことになり、返済のため何れかの時点で年貢を上げざるを得なくなる。するとそれを嫌う領民たちが一揆や逃散をすることも考えられ、藩そのものが潰れてしまう」「まあ・・。でもそれはそれでお前様が考えられたこと、仕方のないことであったのでございましょう。ただ今後あの人たちは、どのように生活をしていくのでございましょう」「いや、わしとてもそれは心配じゃ。もし、わしがこの仕事をお受けさえしなかったら、あの何軒もの問屋や多くの藩士たちに犠牲者が出なかったかも知れぬと思ってのう。それに今後、問屋や百姓たちもどうなるか・・。わしはこの件について殿か藩かが最終的な責任を持ってくれるものと思い込んでおった。そうなるのが当然だと思っていた。どこからか助っ人が助け舟に乗って来てくれるという安心感が、わしに藩財政再建の厳しい仕事を行わせたのだと思う。しかしそれも今になれば単なる自己保身の言い訳にすぎぬ。自殺者や倒産店を出したことは完全にわしの失政、わしの失策に他ならぬ」 孫右衛門は深いため息をついた。「あのとき殿の剣幕に恐れをなしたのは事実じゃ。確かにわしは自分から進んでこの仕事を受けた訳ではない。しかし経緯はともかくとして、お受けした以上わしにも責任の一半があるのもまた事実であろう?」「お前様、それは考えすぎでございましょう。もし、お前様がやらなければ他の誰かがやらされていたでしょう。そうすれば人間のやることですもの、お前様のやり方以外に格別に良い方法があったとも思えませぬ。私も、いずれは藩が最終の責任者だと思っておりました。だって良く考えてみて下さいませ。お前様は自分のためにではなく、藩のために仕事をしていたのでございましょう? それなのに気がついてみたら、後ろ楯であった殿様も藩もなくなってしまって、そして周囲で支えてくれていた誰もいなくなってしまって、お前様だけが借財の後始末に取り残されていて・・、そうなれば、お前様も被害者の一人ではございませぬか?」 そう慰めながらも、カウは涙声になっていた。長く勤めていた下女も辞めさせてしまっていた。それも仕方のないことであった。しかし一番苦痛だったのは、外に出ることが辛くなったことであった。もちろん出掛ければ出掛けられないことはなかったが、周囲の目が痛かった。町で会う人の見る目が、彼女を責めているようにも感じられたからである。 孫右衛門は寡黙になっていた。「出かける」とだけ言って行く先も告げず、家を留守にすることが多くなった。しかし行き先に当てはなかった。だから行き先は決まっていた。子どもの頃よく遊び回っていた近所の不動ヶ丘であった。あまり人の来ないところに身を投げ出して考えることは、『生きる』ということの意義であった。自分が誠実に処理してきた仕事の結果が悪である、という現実であった。何人かの人の自殺を誘い、何軒かの店の倒産を招いたのである。その罪の意識が、孫右衛門の心を惨めに押さえ込んでいた。 ──結局のところ、現実に起きた自殺や倒産そして夜逃げは、みんなわしの責任だ。藩士たちや領民どもにしてもしかり。とすれば、その責任をどう取れば良いのか? 孫右衛門はこの結果に苛立っていた。何度考えなおしてみても、ここのところを納得しかねていた。 ──自分を殺さなければ三春では生きられなくなってしまった。と言って、ここを離れてこの年齢になって、新しい生き方が見つかるのか? しかもここを離れることは逃亡になるのではないか? そしてここから逃げたとして、楽になれるのか? そしてその堂々めぐりのたどり着くところは、「心底疲れた」ということのみであった。勤務先となった田村郡役所に行くにも、カネを借りた二、三軒の問屋の前を通らなければならなかった。また町を歩けば知り合いにも会った。それらの人と目が会うのが息苦しかった。彼らと会った時に交わす単なる時候の挨拶でも、痛烈な皮肉を言われたように思えた。誰かが立ち話をしているのを見ただけで、自分が責められているように感じた。 もう誰にも会いたくない、会えば言い訳や愚痴を言うようになると思った。そしてこの地で生き恥を晒したくないとも思った。それは、孫右衛門が目先のことしか考えられなくなったということであったし、問題を忘れたいという気持でもあった。ある朝起きてみたらあの出来事は夢で、自分は全く関係がなかったと思いたかった。生きる虚しさと抗い難い大きな渦が、孫右衛門に襲いかかっていた。孫右衛門は、カウにこんなことも言っていた。「人間が生きるということは、お互いが恕し合うということかも知れぬ」と。そう言いながら孫右衛門は、自分を恕せないでいた。 ──もともと夫婦は他人であった。離縁とは単にもう一度他人に戻るということではないのか。 孫右衛門の考え方は必ずしも明るい方向ではなかったが、確実に一つの集約に向かっていた。彼はこの人生の岐路に立って、そこにある筈の正しい選択を見失ってしまっていた。 ──これから自分はどう生きていったらよいのか。妻を実家に帰せないか。しかし既に実家もカウの弟の代に変わっている。そういう所に今さら年老いた妻を戻す訳にも参るまい。しかし、もしそれができれば、わしの負うべき責任を夫婦であるという理由だけで妻であるカウに負わせる必要はなくなる筈。 そのどうしようもないイライラから、孫右衛門は妻に当たることも多くなった。そしてカウは、孫右衛門の態度に心穏やかならざるものを感じていた。 それから何日か後のある早朝、孫右衛門は出奔した。 彼の使い古した書見台の上にただ一つ、きれいに畳まれた離縁状が残されていたのを見つけたとき、カウは胸を刃で突かれたかのように思った。出奔と離縁状は二重の悲しみとなってカウを襲った。藩の借財については孫右衛門がどうにもしようもない立場にあったことは、カウも十分に理解していた。それなのに孫右衛門はカウを離縁して、黙って家を出てしまったのである。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.12.31
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この年、ようやく政府により、約束より一年遅れての第一回返済が実施された。しかしこれから返済が終わるまでに四十九年もかかるのである。返済金を受け取りにきた問屋たちの恨めし気な目付きが何とも忘れられなかった。返済金を受け取っても、ありがたそうな顔をする者は誰もいなかった。『両』が『円』に変わったこともあったが、借り入れた時の貨幣価値が下がって名目は同じでも実質は下がっていた。「今泉様に、うまくやられました」そう皮肉を言う問屋がいた。孫右衛門はそんな一人ひとりに「済まぬ」と声をかけたが、誰もが黙って帰って行った。なかには、「来年からは遅れないんでしょうな? このままなし崩しにまた伸ばされては、たまりませんからな」と強い調子で念を押して帰って行く者もいた。 また別の問屋は、「お侍さんはいいですよね。三十年々賦と言ったって利付けで公債が貰えるんですからね。しかしこれも、われわれが犠牲になったからでございましょう?」と非難めいたことを言って帰る者もいた。「済まぬ」、孫右衛門はその後ろ姿にも頭を下げた。そして、いつか誰かに言われた「月夜の晩ばかりだと思うな!」という怒声が、胸に突き刺さっていた。 ──こんな大変な世の中になって・・。カウには辛く寂しい思いをさせたが、せめてわが家に子どもが生まれなかったことは良かったことだったのかも知れぬ。若い者にとって、これからの世を生き抜くのは至難の業であろう。自分の子どもたちが、それに巻き込まれて苦労をするのを見ないで済むのは、むしろ有難いことなのかも知れぬ。 孫右衛門は、そう考えることにしていた。「問屋共を騙す積もりではなかったのに結果として騙すことになってしまった。お前にも苦労をかける」 そう言う孫右衛門の寂しげな姿からは、あの昔日の勢いは感じられなかった。「それにしても問屋共に、『三春藩にカネをお貸ししたということは殿様にお貸ししたと同じこと。藩が返せないというなら殿様よりお返し願いたい』と責められてのう」 もはや孫右衛門には、相談相手になる人が居なかった。カウも心細げな顔をしていた。「わしも苦し紛れに『そう言われても殿とて自分のために使ったものではない。藩のためしいては領民のために使ったもので殿個人とは別じゃ』と言ったが納得してくれなくてのう。もっとも今まで『殿と藩とは一心同体』などと言ってきたのだから、今更わしが『殿と藩は別じゃ』と言って通る理屈でもあるまい?」 そう同意を求められても、カウには返事が出来なかった。「だから問屋共に、『藩の借財と言われるなら、わしや旧三春藩の役人、それに旧藩士たちが私財提供をしても連帯して返済すべきだ』と責められたが、返答のしようがなかった。大体そういう返済の仕方など、考えてもいなかった」「・・本来なら、どなた様が取るべき責任だったのでございましょうか?」 カウは、ようやくの思いで訊いた。「それは勿論わしに借財や返済をまかせたとはいえ、藩でありその代表者であった殿であろう。わしとて、わしの背後には殿がついておられる、と思い込み安心もしておった。しかし問屋共はわしが単に藩という組織の一員であったにも関らず、その交渉相手であったため藩そのものと取り違えてしまった。だから急に今になって、『三春藩の借財は、大日本帝国が返済する』と言われても、その大日本帝国に貸した積もりのない問屋共は、『とにかく貸したのは今泉だ、今泉が返せ』と言う理屈になる」「しかしそれこそが屁理屈でございましょう?」 カウはムッとした顔で言った。「それはそうじゃが・・。ところがお前も知っての通り、わしもわしの意志とは無関係に、会ったことも見たこともない大日本帝国からの一片の辞令で、また借財返済の担当者に命じられてしまった。問屋共が、わしに返せと言うのは、わし以外に文句を言える相手が目の前にはいないということもあろう」「確かに・・。問屋さんたちは政府のお役人様とは一面識もございませんものね」「そうであろう? わしとて、辞令の発令元が新政府の福島県という無形の組織のものでは、福島県の誰に命じられたのか、最終的には福島県の誰が責任をとってくれるのかさっぱり見当もつかぬ。それに福島県の最高責任者となる県令様でさえ新政府からの命令が来れば変わる。そのような方が、長期に渡ることの責任を取ることなど出来まい? わしも一時は少しばかりの財産や公債じゃが、これを全部差し出すことで決着がつくならば、これに越したことはない、と覚悟したこともあった。だがそれとて藩の全ての返済が済む訳でもないし、と言って全ての問屋を納得させられるものでもない。例え自己満足や気休めで実行しても、かえって混乱だけが残ることになる」 孫右衛門は、せめてカウには自分の本心を知って貰いたいと思って話をしていた。「それにしても用立てねばならぬ金額が大きかったからのう。そのために御家老の秋田広記様などは、借財のために葛尾村の松本家まで自ら足を運ばれた。あのときは藩のご重役様が葛尾村に来られることは滅多にないことだと申してのう。上移村と葛尾村の境の風越峠まで双方から百姓共が出て、掃き掃除をしたそうじゃ、松本家は錬鉄の製造で財を成し、葛尾大尽とまで言われた分限者じゃ。そこからの借財でも足りず、このように広く薄く借りるしか仕方がなかった。それもあって、実はいくつかの村の庄屋からも借りていた。背に腹は代えられぬからのう。それにしても潰れた問屋たちは、わしを恨んでおろう」 カウは困った顔をした。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.12.25
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孫右衛門は寝床に入ってからも考えることが多かった。薩摩・長州藩兵の提供による御親兵(近衛兵)の制は、三春県存亡をかけた危機として映っていた。 ──もはや、われら小県は不要なのか? それでも殿の権威が新政府により保障されるようであるから、それについての大問題は解決する。しかしいったい、これから先の三春県はどうなるのであろうか。それに借財の返済は・・。 そんなことを考えはじめると後は取り留めもなかった。 ──三春県の発足と同時にお役御免とされ、自らが決めたことだからと割腹自殺のあった五軒村の開拓に行った伊藤直記は、今ごろ何をしているのであろうか? 慣れぬ野良仕事に妻女とともに難儀しているであろう。野に朽ちらすには惜しい男だった。 次々にそんな妄想に襲われ、眠れぬ夜が続いていた。そして明け方の淡い光で、枕元の障子が白じらと浮き上がってくるのを見ながら早く眠らなければと気ばかりが焦っていた。孫右衛門の気持ちは追い詰められていた。 この年の十一月、三春県は他の県とともに平県に集約された。平県は即磐前県(いわさきけん)「と改称され、県令として旧姫路藩士の少外史・武井守正が赴任してきた。姫路藩主は佐幕派であったが、守正は勤王派として活発に動いていた。 ──同じ勤王の三春藩士が、なぜ勤王派とは言え姫路藩士の下で働かなければならないのか! 孫右衛門は自暴自棄の気持ちにもなったが、『磐前県三春支所』が新しい勤務先となった。しかしその建物も、そして役人の顔ぶれも、そして仕事の内容も旧三春県をそのまま受け継いでいた。ただ大きく変わったのは、仕事が本庁の指示に従うことになったことであった。何としても返済しなければとは思っても、返済の資金を自由に動かせなくなった孫右衛門にとっては胃の痛むような日が続いていた。新しい明治の世になったとは言っても、一般庶民や農民にとって貢租は依然として重く、天災には見舞われ、その生活の惨めさは藩政時代と少しも変わらなかった。孫右衛門が前の藩主に藩財政再建の大命を受けたのは三十一歳の時であった。あれからもう三十年にもなるのである。 ──それにしても返済がはじまって二十二回。あと二十八回の返済で終わる筈であったのがまた五十回にもなってしまった。その上返済の再開までに、あと四年も待たせねばならぬ。「長いのう」 思わず辛い独り言が口をついた。 ──直記もいなくなったことだし、このわしが死んだら、あとを誰がどう返済を続けるのか。 その思いと脱力感が、孫右衛門の活力を萎えさせていた。 ──そう言えば昔、永沼は、『世の中はなんとか静かでないと困る』と言っていた。あ奴には、こうなることが分かっていたのであろうか・・? ともかく世の中の安定が今の孫右衛門の最大の関心事であった。何らかの理由でまた返済が延期されたら、もう自分は生きていられないと覚悟した。 明治七年、旧三春藩の象徴でもあった舞鶴城、そしてその城地の売却が終わった。このことで孫右衛門は、全ての自分への支えが外されたと感じた。胸に大きな穴がぽっかりと開いてしまったような気がした。 ──せめて城地売却のあのカネを返済に回せたら、いくらかは問屋にも喜ばれたであろうに。 そうは思ったが売却と同時に城が取り壊され、その瓦礫が運び出されてしまったことで自分の居るべき場所が無くなったことを実感した。そして城を失って『磐前県三春支所』も、大町の町屋を一軒借りて移転した。「寂しいのう・・。城が無くなってしまったことで気持ちが滅入って仕方がないわ」 孫右衛門は傍らの妻に言った。「本当でございますね。ただ私は城が無くなってしまった今よりも、壊していた時の方が辛うございました」「ほう。では、もう何とも感じないと申すのか?」「いいえ、勿論そんなことはございません。しかし何となく諦めたと言うか、吹っ切れたと言うか、そんな気が致します」「うーむ。しかし女とは強いものよのう。わしなどは何か頼りにしていたものがどんどん無くなってしまって、足元がガラガラと崩れて、身体ごと地の底に引きずり込まれてしまうような気がしてならぬわ」 そういう不安感もあって、孫右衛門は妻との対話に心のなごみを感じていた。しかしその安心感がうっかり孫右衛門に、「わしはもう、用無しになってしまったのかも知れぬ」とうっかり口を滑らせてしまった。「とんでもございませぬ。もし仮にそうだとしても、お前様は私にとって、かけがえのないお方です」 カウは気色ばんで言った。 二人の話はどうしても深刻になりがちであった。一方、孫右衛門は、このような言葉を口にすることで、なんとか自分自身を納得させようとしていた。 明治九年、それまでの福島県と若松県、そして磐前県の三県が合併して新しい福島県が誕生した。そして新政府から家禄奉還規則が公布された。これは言わば士族の首切りと退職金支払の規定である。ただし半分は現金、残りは三十年々賦の利付けの公債で交付するというものであった。その上希望者には官有地を時価の半額で払い下げるという優遇処置が加えられた。それはまたそれで問屋たちの反発を食うことになった。 ──ようやくこれでお役御免となるか。これからは先は、多分、福島県のお役人様が処理するようになるのであろう。問屋共は無責任だと言うかも知れぬが、わしもこれで肩の荷が下りる。ようやく自由の身になれる。 孫右衛門は本当にそう思って、ほっとした。しかし犠牲者まで出したこの大変な仕事から、解放されたという安堵感はなかった。ところがその複雑な気持ちの孫右衛門の元に、新たな辞令が届けられた。『返済担当ヲ命ズ 福島県』「何と・・」 孫右衛門はこの問題から逃げられぬと悟らざるを得なかった。「また泥沼が続くのか・・」 その言葉には政府の返済の態度が杓子定規となり、問屋たちに対する自分の思い入れなどというものが考慮されなくなる、という危惧が含まれていた。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.12.20
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遠 い 海 鳴 り 年の暮れ、孫右衛門は問屋たちを集め、その年の分を返済した。ようやく二十二回目を返済したことになった。ところが明治三年、思わぬ事態が発生した。政府により全国一律とした旧藩債の償還計画が発表されたのである。その内容は従来の藩債金は明治七年まで据置き、明治八年より五十年々賦とする、というものであった。これは新政府の命令である。藩主もその統治力を剥奪され、問屋たちへの返済は勝手に出来なくなった。つまり孫右衛門の権限では、どうにもならなくなったのである。しかし孫右衛門はその意思に関らず、借財の責任の矢面に立たされることになってしまったのである。 一方的通達に問屋たちも混乱していた。良くなるのならともかく悪くなるのである。 孫右衛門が頼りにしていた中村匡でさえ、「新政府の上意である」としか言わなくなってしまった。藩の上層部は、単に政府命令の取り次ぎ役に過ぎなくなっていた。孫右衛門もまた、為すべき権限を失ってしまっていた。「いずれ余裕が出来れば期間を短縮する」などと言っていたことも、今では孫右衛門の夢物語に過ぎなくなっていた。「ようやく二十二回の返済にまでなったものを、さらにまた『五十年も待て』などと言われるのではないでしょうな!」「今泉様もご存知の筈ですよね。昔から『借りるときの恵比寿顔、返すときの閻魔顔』と言われますが、まったくその通りではないですか!」「そうです。今泉様は、『新政府の命令だからどうしようもない』と言って逃げられるからようございましょうが、私どもはここで生きるしか方法がないのです!」 そう言って問屋たちは、いきり立った。「今泉様は嘘つきだ! むかし借財のお断りをさせられたことがあったが今度はこれだ。偉い人は皆な嘘つきだ!」「そうだそうだ。今泉様は『借財のお断りについては前任者のやったこと、ご自身は知らぬ』とお思いでしょうが、私らにとっては一貫した問題だ!」 問屋たちの反論には、凄まじいものがあった。「いや、そんなことは考えもせぬ。皆みなにとっても大変なことになったと十分に承知しておる」とは言ったが、「言葉だけなら何とでも申せます。前任の石田小右衛門様とて、結局、三春藩財政を壊して逃げてしまったようなものでございましょう? 今度は今泉様が逃げる番でございますか? 私らは実害を被っているのでございます。今泉様は、私共にとって裏切り者でございます」と追及されれば、言い訳をする余地がなかった。 政府との間に立たされた形の孫右衛門は、問屋たちに謝る以外の方法を知らなかった。殿や藩の権威が脆くなっていくのを感じていた。 ──いったい自分が今まで努力して来たことは何であったのか? 命をかけてきた三春藩はどうなってしまうのか? 残されている返済は、どうなるのか? 新政府は間違いなく藩に代わって返済してくれるのか? 孫右衛門は、悶々として喘いでいた。 ──新政府が借財の肩代わりをするなら新政府が対応すべきであろう。藩の上層部が逃げ腰なのに何故自分だけがやらなければならないのか? 問屋共は、この今泉孫右衛門がこの借財の最終責任者である、と思っているのであろう。しかしこれはおかしい。自分は単に一人の担当者にすぎぬのに、いつの間にか最終の責任者にされてしまった。何故? どうして? それらの疑問に、孫右衛門は苦しんでいた。何日か部屋に籠もったままの日があった。また食事をとらない時もあった。カウはそんな夫の様子を見て心配していた。もともと痩せ形であった孫右衛門が、さらに痩せてきたような気がしていた。問屋の誰かに返済の請求を受けたら孫右衛門がどう反応するか、もしかしてその身体が崩折れてしまうのではないか、カウはそういう思いに捕らわれて怖かったのである。それなのに催促に来る問屋たちがあった。今は返済される時期ではないということを知っていてである。そんな問屋にもカウは丁重に応対し、頭を下げて何とかお引き取りを願っていた。それがカウに出来る唯一の夫のための役割であった。そういう妻の姿を部屋に隠れるようにしながら見ている孫右衛門も、妻の身体が何とはなしに小さくなってきたように思われた。 明治四年、廃藩置県が実施され、三春県が発足した。いよいよ返済を危惧した問屋たちは、「三春藩が廃止となって三春県になりましたが、明治八年から返済するとのお約束は間違いなく実行して頂けるのでしょうな」と言って孫右衛門の所に押しかけて来た。 孫右衛門は、「皆様方、御心配なさるな。三春県になったとて、旧三春藩の人事は三春県知事となられたお殿様以下、下々までも変更なしじゃ。わしも三春県の会計幹事と名は変わったが、返済については最後まで責任を持つ。ましてや今回は大日本帝国政府が決められたこと、期限の延びたことは重々相済まぬとは思うが、後ろ楯としては大きくなった。それはそれで、かえって皆には安心であろう。わしも年じゃが後任者にはしっかり引き継ぐ」と言って引き取らせた。 しかし問屋たちは誰もが納得して帰った訳ではなかった。またそう言う孫右衛門にしても確証があって言っている訳ではなかった。後任者とは言ったが、仕事を継がせ得る何人(なんびと)もいなかった。政府が三春藩の頭越しに勝手に決め、三春県の上層部が見て見ぬ振りをして孫右衛門に押しつけたものである以上、すでに彼の才覚を越えていた。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.12.15
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「なんと! ようやく十七年経ったのに、またカネを追加して五十年のやりなおしでございますか?」「そうは申しても、ここで幕府とともにわが藩も生きねば、この先の返済は誰がする。まさかに藩はなくならぬ。長年にわたるとは言え、わしが死んでも藩は約束を守る。藩は永遠に続くものじゃ」「とは申されても今泉様、私どもとて左団扇で暮らしている訳ではございませぬ。毎日必死で働いているのでございます」「それは重々承知しておる。しかし今度の騒ぎは国内だけの騒ぎではない。外国との騒ぎじゃ。お主らも清国での騒ぎを知らぬ訳でもあるまい。だからこそ藩も大砲を作ったりして必死で対処しておる。その大砲とて作っただけでは役に立たぬ。この調練だけでも費用がかかるのじゃ」 孫右衛門らの顔は必死の形相であった。「しかし徳川の将軍様がお江戸に居られる以上、日本は清国のように無様(ぶざま)なことにはなりますまい。それは杞憂でございましょう」 その話になると、実状を知らされていないということもあってか、問屋たちは意外に明るく反応をした。「杞憂であるかどうかは別としても、外国から日本を守らなければならぬことは間違いない。三春藩とて腕をこまね拱いている訳には参らぬのじゃ」「ただ今泉様がそう言われるには困る事情がお有りの筈。さすればわれらとて何もかも駄目とは申しませぬ。しかしどちらかの一方は飲めませぬ」「そうきついことを申すな。藩が生きるということは、幕府が生きることでもある。ということは、その方らも幕府と一緒に生きるということにもなろう? さすれば結局、その方らも自分のためではないか。自分のために投資してくれ。三春藩に投資してくれ。 これこそがその方共にも出来る忠義というものだ。頼む!」 問屋たちも貸さずに済ますことは出来ないと感じ、妥協案を提示した。「分かりました。投資は致しましょう。されど期限の延長は飲めませぬ」 この提言に孫右衛門は渋い顔をしながら、心の中でほくそ笑んでいた。 ──しめた! うまくいった。 明治二年、返済をはじめてから二十一年の歳月が経っていた。背を丸め、縁側に腰を下ろして茶をすすっている孫右衛門の後ろに、カウが座った。「来年はわしも還暦、六十じゃ。お互いに年をとったものよのう。わしも頭が禿げてきたがお前の髪にも白いものが多くなってきたの?」「あれっ、嫌でございます。私とて気にしておりましたのに・・」 カウは思わず髪を手で隠す仕草をした。孫右衛門は小さく笑った。「まあ幸いにして三春は戊辰戦争の戦場にならなくてよかった。しかし戦費は思いさまかかってのう。その上での財政の建て直しであるからこれは大変じゃった。とは言っても返済を開始してまだ二十一年、終わった訳ではない。あと二十九年もの間の返済を思うと気が滅入るばかりじゃ」「そうでございますね。特にこの一、二年は大騒ぎでございました。それなのに、さらに二十九年先などと考えますと気が遠くなるようでございますね」「まったくじゃ。それにその時にはわしらは共に死んでいて、もうこの世には居らぬわ」 孫右衛門は言い過ぎを感じ、思わず黙ってしまった。その言葉の気まずさに、二人の間にはしばらく沈黙が続いた。庭では鳥のさえずる声が聞こえていた。孫右衛門は茶を置いて縁側に立ち上がると目で樹の間の鳥の姿を追いながら、照れ隠しにカウに訊いた。「水戸に天狗党の乱が起き、今は亡きわが殿おん御自ら兵を率いて日光警衛に赴かれた。その殿があの時のご心労が元でお亡くなりになられたのは慶応元年であったかのう」「はい。あれからお殿様の葬送、幼い万之助様の御相続・・。ああ、あの頃火事もありましたわね」 思わず孫右衛門は小さく舌打ちをしながらカウを振り返った。「まったく、河尻新兵衛め。出火などしおって。あれは慶応二年のことじゃった。続けて町屋の蔵田健蔵も火を出しおって……、あの後始末も大変じゃった。しかし大変と言えば、何と言ってもあの戊辰戦争よのう」「はい。あの戦争の頃は私も生きた心地が致しませんでした。お前様も夜を日についでの忙しさで、お城に詰め切りの日が多うございました」 孫右衛門はもう一度縁側に腰を下ろした。そこには弱い陽が射し込んでいた。「うむ、そうであったかのう。過ぎてしまうと忘れてしまうわ。しかし思い返してみると幕府は大政を奉還なさるわ、永沼運暁が捕らえられるわ、朝廷より列藩主召集の令が来るわ、わが藩が幕府より仙台藩、二本松藩を経て下された命令で白河に出兵させられるわ、新政府軍が三春に入城してくるわ、あげくに明治新政府の樹立じゃから目が回るようじゃった」「そうでございました。私は直接お前様のお役には立てませんでしたけれども、せめてお身体だけはと思って随分気を遣っておりました」「そうであったか。それは気が付かず済まぬことをした」「いいえ、そんな……」 孫右衛門は、カウの顔に淡い朱の差すのを見て取り、慌てて視線を逸らせた。「うーむ、カウ、まだあったぞ。フランス人事件じゃ。無いと思った外国人の事件に三春藩も巻き込まれてしまったからのう。直記の言った通りになってしまった。それにあのフランス人事件が原因で、戊辰戦争の最中に江戸家老の小野寺市大夫様が暗殺されたのじゃから、寝る暇などなかったわ。それでも去年、会津藩が降伏し、つい今年の五月には函館が陥落した。これでようやく平和になろう。」 (注)フランス人事件*三春藩がフランス商人と蚕種紙の取引をした際、フランス商 人から契約不履行とされ、国際的訴訟事件に発展しかけたものである。 そしてこの二月頃、上方では『大名様方地禄差上・・世上穏やかならず』との噂が飛んでいたが、三月になると三春藩でも、版籍奉還の決定が報じられ、『此度封土人民を差上げるよう』との命令が下された。その受諾報告のために、藩主の秋田映季、五月には御後見役の秋田主税が上京して行った。「ああ、それででございますか? このたび殿様が、三春知藩事様となられて、お帰りになられたと申されるのは」「さよう。しかしどうも『今度、殿は三春知藩事様になられた』と言われてものう? 三春藩領もわれわれ人民ともども差し上げるということは天子様のものになるというのであろうが、御本城が閉め切りになったと申すから、藩そのものも幕府から代わった新政府のものになるのか、するとその後、殿様はどうなられるのか理解に苦しむわ」 ──それでも借財の返済計画は、このまま進行することになろう。 孫右衛門は本当にそう思っていた。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.12.10
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「こたび、会津の藩主・松平容保様が京都守護職になられたそうじゃ。会津藩もとんだ大役を背負ってしまったのう」 孫右衛門は直記に言った。「三春藩にも何か大事が仰せつけられないでしょうか?」 孫右衛門は思わず息を飲んだ。ドキッとしたのである。「うむ。まあそれはない、大事ないであろう」 努めて平静を保ちながら孫右衛門は続けた。「考えてもみよ、三春藩は五万石じゃ。これ以上の石高の大名は全国には多い。それに多くの譜代の大名もおられる。そこへいけば三春は外様じゃ、京にも遠い」「とは申されましても、こたびの騒ぎの元は外国でございまする。外国対日本となれば、譜代だ外様だなどと分けておられましょうか? まして石高など・・」 平静を装っていたが、直記の鋭い指摘に孫右衛門はハッとした。「すると直記。その方・・、三春藩も騒ぎに巻き込まれると?」「もちろん私とて、そのようなことを考えたくはございませぬ。しかし先日、外桜田門で変事が起きました。あの日わが藩は、内桜田門(桔梗門)の警備を担当しておりました。もしあの事件が内桜田門で起きていたら、どうなったでございましょう」「たしかに・・。そう言われてみれば、あの事件が外桜田門でよかったのう」 そう言うと孫右衛門は首をすくめた。「さようでございましょう? それにあのとき襲った水戸浪士の陰の参謀が、三春藩を脱藩していた小野寺傭斎であったとの噂もございます」「ん? 傭斎だと?」 この直記からの報告に、孫右衛門は驚いた。知らなかったのである。確かに藩内でも勤王と佐幕の議論が沸いている。ただそうは言っても、三春は江戸や京都からは遠い。そういう事件などはあり得ないと思っていた。「それに私は、このようなことが領内でだけ起きる、ということを申しているのではございませぬ。三春藩からも多くの商人などが藩外に出ておりまする。領外で事件に巻き込まれることも、あるかも知れませぬ」 なるほど、と思いながらも、孫右衛門は心の動揺を隠していた。「それにしても、今度は町田政紀が大砲の鋳造を藩に申し出てきた。借財の返済を考えれば出来ぬ相談じゃが日本の現状を憂い、藩の武備を考えれば無下に断れぬし・・」 今度は直記が黙る番であった。「のう、直記。随分手を打ってきたが、どうしてもカネが足りぬ。勘定奉行の中村様とも相談したが、やはり領内よりカネを借りる他はあるまい」 江戸上屋敷の再建も、孫右衛門の考えたほどの質素さにならなかった。藩の財政がさらに逼迫していた。 孫右衛門は藩の会所に問屋たちを呼んだ。集められた問屋たちは、落ち着かなかった。また「カネを貸せ」と言われることを予想していたからである。そのため問屋たちは孫右衛門が、「薩摩藩とイギリスとの間で戦争が起き、長州藩が下関通過中のアメリカ軍艦を砲撃し次いでフランス軍艦を砲撃した。そのため四国連合艦隊が下関を砲撃してこれを占領した。京都では池田屋事件や蛤御門の変が起き、さらに幕府は長州征伐の兵を興した。そして徳川慶喜様が新たな将軍となられた」と言う話の導入部を、上の空で聞いていた。「藩の財政は逼迫を極めている。このような状況の中、無理を承知で頼む。今までに返済したカネをまた貸してもらいたい。頼む」 孫右衛門と直記は必死の思いで頭を下げた。 問屋たちは一斉に反駁した。「今泉様、あれからようやく十七年。それでもまだ元金の三割も戻っておりませぬ」「それなのにもっとカネを出せとは・・、非道でございましょう」「分かっておる。無理も非道も承知しておる。それを承知の上で頼んでおる。この気持ち分かってくれぬか」「いーや、分かりませぬ。十七年は長うございました。それでも、あと三十三年残っていることになります。三十三年もですぞ!」「あえてこれが理由とは申しませぬが、越後屋さんなどは倒産して行き方知れずでございます。藩としては『その分返済しないで儲かった』とお思いでしょうが、商人にとっての資金繰りは命がけでございます」「・・」「今泉様。真砂屋さんなどは先代が亡くなって、すでに親子二代に渡ってご返済を受けておりまする。いったい、これから何代後の子孫に関ることになると思いまするか? これからまた、倒産する店が出るかも知れませぬ」「うむ、その方らの苦労、わしとて十分に分かっておる。しかし考えてもみてくれ。その方たちが出し渋ることによって藩が幕府に忠誠心を見せられず、もし藩がお取り潰しにでもなったらどうする。そうなれば返済も叶わず、結果として今までに借り入れているその方共の財産をドブに捨てさせることになろう。そこのところをよく考えてみてくれ」「今泉様! 今度は脅しでございますか? それでも私どもがカネを出さなかったら、如何致しまするか?」「いや、脅しではない。このままでは本当に藩が潰れてしまうのだ。何とか曲げてお願いする」 孫右衛門と直記は、机の面に頭を擦りつけるように頭を下げながら頼んだ。「ところで今泉様。その脅しに乗ってまたカネを出したとして、それを含めた今後のご返済は、残りの三十三年でよろしいのでしょうな?」 問屋の一人が語調も強く言った。問屋たちはこわばった顔を互いに見合わせ、「そうだ」とでも言うように、うなずき合った。「それが誠に相済まぬが、また五十年にしてもらいたい」 これが大問題であった。しかし孫右衛門は、ここを落とし所にしようと思いながら切り出した条件であった。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.12.05
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嘉永三年二月九日、江戸において『晴天(彼岸の入りなり)、乾(北西)大風土砂を飛ばす。巳刻(午前十時頃)麹町五丁目続き岩城升屋の後なる、高田放生寺の拝借地に在る見守番人の家(炭団屋・たどんや)より出火して』大火となった。七ッ時頃というから、いまの午後四時頃には愛宕下の三春藩上屋敷にも火の粉が降って危険となり、藩主は、内藤新宿の三春藩下屋敷(いまの文化女子大学)、つまり前藩主の末亡人のところに避難した。上屋敷には、鳥取藩池田氏,会津藩松平氏の家中が火防に駆け付けてくれたが、結局全焼してしまった。この火事で、四月に予定されていた大献院殿の御法事から三春藩の日光出勤番は免除された。 ──それにしてもとんだ散財だ。御法事勤番の方が余程安くすんだかも知れぬのに。 孫右衛門はそう思った。「周辺の各大名方もその格式に応じて御屋敷を復興されましょう。わが藩としても恥ずかしくない建物を建て直す必要がございまする」 会議に呼び出された席上でのこの意見に、孫右衛門は藩財政の窮状を訴え、質素で小さな建物を主張した。しかしこの意見は、ややもすれば押し潰されそうであった。「今泉殿の意見も分からぬでもないが、上屋敷は参勤交代の際、殿の住まわれる御屋敷、四千三百坪の敷地にこれでは、あまりにも貧相ではないか。他藩との釣合い、ということもござる」 この意見が会議の大勢を占めていた。「いや、そう言われれば返す言葉もありませぬが、それではせめて人の目につく門のみを他藩並とするのは如何なものでございましょう。質素な建物にするということは幕府に対してそれとなく三春藩の窮状を訴えることにもなり、今後においても幕府からの過分の要求を避けるという意味合いもござる」 孫右衛門は天明の大飢饉のとき三春藩が幕府に拝借金を願い出、それの実施のための条件として藩主が登城出仕停止されたことがあったということを言外に臭わせながら、説得に努めていた。やがてこの議論は、「余は勘定方の意見に依るぞ」という藩主の決断で幕が閉められた。やがて乏しい藩財政の中から建築費の捻出がはじめられたが、何としても足りなかった。とは言っても、またの借財は無理である。そこで各町村に布令を回した。今度は寄付金を割り当てたのである。この孫右衛門の行動に、藩全体は暗黙の同意を与えた。 返済がはじまって十年、あの江戸の大火からも六年が経った。馬の競市も軌道に乗り、博労たちの馬の代金の他、各地から集まる買付人が町内にある馬場の湯(温泉)や旅籠屋、それでも足りず臨時に使用された民家や百姓家に泊まる宿泊賃、そして庚申坂遊郭に落とすカネは結構大きなものとなっていた。このため、領内はここしばらく落ち着いていた。その上天候にも恵まれて農作物の作柄もよく、気分は明るくなっていた。「どうにか返済も滞りなく進んでいるが、あと四十年もかかるか」 孫右衛門には、そう言って笑う余裕が戻っていた。「長いなあ」 思わずそう直記に言うと空を見上げた。雲がゆっくりと流れていた。「しかしどうも世の中の風向きがおかしいのう」「はい。上方では大変なことが起こっておりますようで・・」 直記はいつもの几帳面な顔をして言った。「うむ、このことは国を揺るがしかねぬ。それに藩の御重役様の動きも慌ただしいしのう」「はい。わが藩でも軍制を洋式化したり、江戸の中屋敷ではカノン砲の実弾射撃訓練もはじまりました。これに費用がかかりますので返済計画が狂うかも知れませぬ」「うむ、そこよのう。なんとか穏便に過ごせれば少しは返済の期間も短縮出来るのじゃが」 直記が話題を変えた。「先日、私、南陽寺に行って永沼殿に会って参りました」 あれからすぐに牢に入れられていた永沼運暁は、嘉永六(一八五三)年、徳川家定の第十三代将軍就任の大赦で出獄していた。牢を出た永沼は、三春領土棚村(郡山市西田町土棚)南陽寺の住職となっていたのである。「ほう。で、何か申しておったか?」「いやそれが・・。何か考えてはおられるのでしょうが、『平穏が大事じゃ』と言うだけで、まるで禅問答。のれんに腕押しでございました」「のれんに腕押し・・? ははは、永沼も坊主になって油っ気が抜けてしまったか。しかし、まだ奴もそんな年でもあるまい。いずれ何か申して来よう。ただ確かにあの永沼が申すように、今は平穏を祈るだけじゃな」 孫右衛門は、返済への自信を匂わせながらそう言った。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.11.25
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賭 け 当時の問屋に対する免許は、単に商売が大きく集荷・出荷・卸をする者に対して発行する目的だけではなく、商業活動やその仕組みを捉え、押さえる狙いもあって与えられたものである。したがってだれにでも自由に営めるものではなく、藩から指定された特定の商人たちだけであり、今日でいう問屋つまり卸屋とは意味合いが違っていた。藩御用の特権階級、御用商人となっていたのである。その半面彼らは、運上役金、つまり営業税が毎年上納させられていた。 弘化四(一八四七)年、孫右衛門は賭けに出た。 彼は藩へ融通していた問屋の主人たちを呼びつけると、さらに借り増しを要請し、無利子とした上で元金のみの五十年の割賦返済を切り出したのである。その裏には、幕末日本の不穏な情勢があり、また三春藩も江戸の中屋敷に砲術調練場を設けざるを得なくなったこともあった。「前の融通金のご返済もされないままに、またカネを貸せとは・・。私どもは以前から、莫大な上納金も出しております」「その上、借りる前から金利をタダにせいとは・・。商人の実状をあまりにも知らなすぎるのではございませぬか。それでは過酷に過ぎまする」「そうです。カネを藩に差し出すということは、私どもが手持ちせねばならぬカネが外部に流出するということになり、しいては商業活動を沈滞させることに繋がります。これは将来の上納金の額にも悪い影響を与えます」「私ら商人は、一度の売買で一~二割を儲けます。それを年に五度ほど回転させれば、七割くらいになるのです。私どもは、その利益で生活しているのでございます。その貴重なカネを無利息で、しかも五十年も貸せとは余りにもむごすぎませぬか?」「そうです。それにこれでは返済が終わるのに孫子の代までかかります」「その上先年のように、貸付金の放棄でもさせられるものならもうどうしようもありませぬ。そうなったらわが店が将来どうなるものやら、皆目見当がつきませぬ」「辰巳屋さん。それを言われたらウチも同じこと」 会議は紛糾した。 しかし孫右衛門は借財の保証となる新たな担保を考え出していた。それは三春問屋組合に、海運のための港を持ち三春藩の米蔵がある幕領・磐城小名浜の五十集屋(いさばや)組合と荷駄賃協定を結ばせ、その運賃に独占権を与えようとすることであった。これを問屋たちの特権とすることで、決着をつけようとしていた。それこそが孫右衛門の賭けであり、問屋のみを限定して呼びつけた理由でもあった。荷駄賃協定を持ち出したことで、流石に問屋たちは利にさとく、強硬論も下火となった。孫右衛門は、ここを先途と説得した。そしてようやくその会議が終わった。「大変なことが起きた!」 城から会所に戻った孫右衛門は、そこへ呼ばれた直記が座るのをもどかしげに待ちながら言った。年号は変わって嘉永元(一八四八)年の三月のことである。「江戸からの早飛脚によると、わが藩の御徒目付で代官所下役であった永沼運暁が、幕府老中・阿部伊勢守正弘様の御屋敷に訴状を投げ入れたそうじゃ!」 直記も息を飲んだ。あってはならないことが起こったのである。「うむ、ただし訴状は即刻却下。本人は捕らえられて網乗物手鎖腰縄で三春藩に引き渡されることになったそうじゃ。藩ではどう対処するかと大変な騒ぎじゃ。あ奴、しばらく行方が分からなかったが江戸へ行っていたとはな」 ──なにもこんな時期に騒ぎを起こさなくとも。 そう思ったか、直記も憮然として聞いていた。 「わが藩に対する訴訟もあったからと言われて、前の老中様が知らせてくれたのじゃ。もっとも前老中の安藤様は隣藩・磐城平藩の藩主でもあらせられるからのう」「しかし、もしかして、その訴訟には私どもに対する誹謗や中傷も書かれておりませんでしたか?」 直記が心配そうに言った。「うーむ、たしかにそれはわしも気にはなっていた。わしとて世間の恨み言を知らぬ訳ではないからな。しかしいかにわしが批判されても、執行する側としての責任もある。反対されたからと言って簡単に引っ込められない事情も多い。まあ、その時はその時と覚悟して知らせの内容を見せて頂いたが、幸いそれはなかった。それにしても、何故わしらに一言の相談もなく江戸に行ったものか。その上幕政に対しても借財の廃棄、新銭鋳造まで訴え出たとあっては・・」「新銭鋳造でございますか? それでは以前に、石田様がやられた紙幣の発行と同じことでございませぬか。折角の財政建て直しも駄目になってしまいます」「まったくじゃ。それにしても永沼も一寸やり過ぎじゃったな。たしかに幕府を批判したい気持ちも分からぬでもないが・・」 翌年、三春藩は徳川家の廟所・日光にある大猷院様(三代家光)の二百回忌御法事勤番を命じられた。それに伴い、数名の重役が御法事の打ち合わせに江戸へ上って行った。孫右衛門にも勘定奉行の中村匡より、「いずれ御重役様御帰藩の折、明確にはなろうが、相応の金子の準備を為すように」との指示が入った。「二百回という御遠忌ではあるが、将軍家の御法事ともなれば全国の大名が集まられる。徳川家の格式もあるし、大名方の目にも恥ずかしくなくとなればこれは大変な物入りじゃな」「はて、で今泉様。どの位の費用になるものでしょうか? 私にははじめてのことですので皆目見当もつきませぬが・・」「うむ、わしにも経験がないのでのう。相応と言われても何が相応なのか、考えようもないわ。返済に悪影響が出るのではないかと心配じゃが、それにしても直記、今になってみれば、その方が三十年で済む返済を五十年返済に長くしていて良かったのう。いくらかの手持ち金が残されておるわ」 思いがけぬ孫右衛門の褒め言葉に、直記は思わず嬉しそうな顔をした。 ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.11.20
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当時の藩の収支勘定は、大福帳で行っていた。大福帳では勿論かね金(かね)を扱ったが、米や荏油(えのあぶら)やそれに類する現物の一切も、一種類の帳面で処理されていた。そのため内容が分かり難く、なおかつ年度末の残高が不明確となった。このことは年初の繰越にも悪影響を及ぼし、結局、帳面全体の正確を期すことは難しくなっていた。 もう一つの問題に、各業務ごとに決められた予算があった。予算とは支出可能の限度額を明示したものである。それであるからその限度額いっぱいを使い切る者が能吏、という変なことになってしまった。そのために余った予算を内緒で他に流用して使い果たすと慣例ができ、ひいては公金の私用という不正の温床ともなっていた。 直記はイタリア式の記帳の導入に腐心していた。これは直記が大阪に洋算の遊学をしたとき、師の福田理軒より学んだものであった。現在の複式簿記のことであるが、イタリアから広がったためこう言われていた。この方式にまとめ替えをするために、直記は過年度の大福帳を洗い直していた。現物の相場が時期により変わるという難しさはあるが、その現物に期末の実勢価格を設定して帳面にまとめ、過去の収支の決算をしてみたのである。今までと違うところは、資産と負債の勘定(貸借対照表)と収入と支出の勘定(損益計算書)の二つに分けたことにあった。それはまた、イタリア式記帳の真髄でもあった。 孫右衛門は実務家としては実績があったが理論家ではなかった。それが直記の研究の結果、今まで分からなかった藩の資産が有効に生かされているか、また借財の具合がどうなっているかが良く分かることになった。 内心、孫右衛門は喜んでいた。 ──直記はよくやっておる。わしの目に狂いはなかった。 その翌年の春は暖かく、寒明け六十七日目に桜が開花した。ところがその後急に寒くなり、降霜があって桑の葉が壊滅的被害を受けた。このために春の養蚕は不可能となった。その上、八月には石明院門前より出火して荒町が全焼するという事態となってしまった。またも大火災である。それら被災者に対する補助や炊き出しなどで、孫右衛門らの努力はなかなか目に見えることにならなかった。しかし、かえってこれらの天災や被災が、ようやく問屋たちに借財を認めさせることになった。 ──やれやれ、問屋共からの借財には手こずったが、これで焦眉の急を開いたな。 ようやく安心して出勤してきたある朝、直記が待ち構えていたように言った。「今泉様。一昨日の夜、軽輩が二名、入植していた開拓地の五軒村で割腹自殺したそうにございます!」 それを聞いた孫右衛門の顔から、血の気が失せた。 五軒村は、もともと村のいりあい入会地であった所を禄を切られた者たちに開拓させようとした土地である。そのため軽輩たちは、入会権を失うことになる百姓たちの強い反撥を受けた。藩の要請と村の掟の狭間で苦しんでいたのである。その上それらの土地は高冷地に加え地味も痩せていたことを孫右衛門は十分に知ってはいたが、彼らを働かせる場所はそのような開拓地しかなかった。さらに、この不順な天候である。割腹した軽輩たちは孫右衛門を弾劾する遺書を残していた。このようなことも覚悟していたとはいえ、頭上から冷水を浴びせられた気持であった。孫右衛門がぽつねんと言った。「今般、殿の御意向でのう。わしとそちに警護役が付くことになった。ご辞退は申し上げたが、われらとて危害を受けるかも知れぬでのう」 直記もそれを聞きながら、憮然とした面持ちをしていた。事態は、孫右衛門たち個人の命までにも差し迫っていたのである。 弘化元(一八四四)年、隠居をされていた先代藩主が亡くなられた。この葬儀にも、格式に則った膨大な費用がかかった。さらに秋田家菩提寺の高乾院に、御霊屋を建築しなければならなかった。「まるでこれではザルで水を汲むようなものだな。こう経費ばかりがかさんでは、なかなか返済が進まぬ」 孫右衛門は直記に愚痴をこぼした。 孫右衛門はそうめん策麺や煙草、蓑や菅笠までも専売品とし、その専売権を一年一期の入札制にして問屋に売り渡し、さらに売上高に応じて課税することで収入を増やした。しかし問屋たちは価格の談合をしてそれに対応し、利益を確保しようとした。このために、また物価が上がった。景気も上向かず、財政事情は少しもよくならなかった。「直記、また商人共に頭を下げねばならぬな。しかし下げただけで、ことが済めば良いが・・。そう簡単には参るまい」 孫右衛門は借財を重ねねばならぬ後ろめたさを感じたが、それでも紙幣の増刷だけは絶対にやってはいけない、と心に決めていた。「はい。借り入れはやむを得ないこととしても、借財を返済するための借財、とならぬようにすることが肝要でございましょう」「うむ、分かっておる」 そうは言ったものの、背に腹は代えられなかった。三春藩は、借財をしても資金を必要としていた。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.11.15
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「いずれにせよ石田様の時の経験を踏まえて考えれば、江戸の商人より借財をすると、三春藩財政の悪化が大っぴらに取りざたされて幕府に知られる危険がある。ここは一つ、なんとしても領内での手当を考えねばなるまい。そのためもあって、まずは殿に範を示して頂かぬことには新たな借財は不可能であろう。その上で会所の人数削減をして、経費を減らさねばならぬ。それから残った者に支給する扶持を減らすために職制の格下げを含め、効率的な藩組織に改編をせねばならぬ」 孫右衛門の顔からは、先ほどの冗談めいた表情が消えていた。「はい、今泉様の言われることは良く分かりますが、これらの全ては実行出来るものなのでしょうか?」 直記が気弱そうな声を出した。「さよう直記。これからは過去の計算だけでは相済まぬ。まず今までのしがらみをすっぱり切って藩の組織を解体し、もう一度白紙から考えなおして再構築をせねばならぬ。つまり新しい三春藩に作りなおすのだ。それには新しい産物を作り出して経済の拡大を考えねばならぬ。倹約だけで財政の建て直しにはならぬ。また経済の拡大のためには今までのように家柄や世襲制にこだわらず下層からも有用の人材を登用し、仕事そのものにも良い意味の刺激を与えねばならぬ。必要とあらば町人でもよい。考えてもみよ、その方自体が人材の登用であろう?」 そう言われて、直記は返事が出来なかった。「これからは筆墨紙の類まで節約するのは勿論、あらゆる面で藩の費用を詰められるだけ詰めること。それをしながら収入を考えること。しかしながらわれらとて、いまのところ財政の建て直しに関する全権を殿より委任された訳ではない。まず中村様に手順についての了承を得ておかなければなるまい」「しかし今泉様。このように重箱の隅をつつくような施策では、人心の掌握は難しいのではございませぬか?」「とは申してものう、綺麗ごとで済ませる問題ではない。細(たま)かに細かに節約し、詰めて詰めることが大事、『塵も積もれば山となる』の例えもある、憶えておけ」 直記は、頷きながら聞いていた。 ──しかし殿にお願いのこと、中村様には何としても受けて頂かねば。 孫右衛門は、心に深く思うものがあった。 孫右衛門は藩政の改革と藩財政再建の最終案を作成すると、上役である中村匡に提出した。それには藩主一族の費用削減実施の提言も含まれていた。 ──藩組織の根本に及ぶ大問題を明らかにした以上、もう後には引けぬ。 原案を受け取ったときの匡の難しい顔を思い浮かべながら、孫右衛門はそう考えていた。 ──どうなるのであろうか? うまくいくだろうか? 孫右衛門は落ち着かなった。これほどの厳しいことを藩主に要請したのであるから、その反動が恐ろしかった。 ──多分、殿にはご理解をして頂けるとは思うが、はたして御隠居様や皆様方はどうであろうか。中村様が殿をうまく説得してくれればいいが、もし駄目だったら・・。 最悪の場合の覚悟はしたが、孫右衛門には眠れぬ夜が続いていた。 そのようなある日、考えもしなかったことが耳に入った。匡の父の中村多巻が自身への扶持を返上し、かつ自分が所有していた具足・馬具・鉄砲を売り払ってその代金の上納を申し出、さらに多くの家臣からも献金が相次いでいる、というのである。 孫右衛門は、わが耳を疑った。多巻が、わが子・匡の立場を考えて上納したことは容易に理解ができた。しかし多くの家臣からまでとは想像もしていなかった。涙の出る思いであった。孫右衛門はそのことを聞いて、これを機に藩財政再建の機運の高まることを期待していた。しかしまだ、殿がこの経費削減の提案を受け入れてくれるか、という心配は残っていた。 孫右衛門は状況の推移に目を凝らしながら沈黙を守っていた。これからの厳しい政策の実行を考えると、身銭を切って献金をしている家臣たちが哀れでもあった。孫右衛門は、匡から提出されている筈の藩主からの返事を、一日千秋の思いで待っていた。それであるから、『殿および御隠居様方御承知』の意を知らされたときは正直胸のつかえが取れたような気がした。そして折り返すかのように孫右衛門は再び藩主に匡を通じて、『藩財政建て直しの権限の一切を中村匡に与えられますように』との要望書を提出した。この大仕事を完遂するためには命令系統を短くして部外者からの干渉を断ち、結論を早く出して早急の実施が肝要である、と考えた結果であった。 間もなく孫右衛門は匡に呼び出された。「殿より『依願の趣、相分かった。以後、事があれば上意と申せ。報告は直接余に致せ』とのことであった。その方も殿の意を体し、格段の努力をするように」 匡はそう言ってから急に顔を和らげると、「この話、殿にお願いするのは容易なことではなかったぞ」と付け加えた。それを聞いた孫右衛門は、思わず腰の力が抜けるような感じがした。「誠に私の身勝手なお願い、お礼の言葉もございませぬ。以後、中村様のご下知の下、懸命に努めさせて頂きまする」 そう返事をするのが、やっと、であった。 藩主と中村匡の信任を得ることで強い自信を得た孫右衛門は、積極的に動きだした。 孫右衛門は百姓・町人の衣食にまで節約を命じた上で、前任者からの懸案であった新たな借財を問屋たちに申し入れた。しかし直ちに実行されるという訳にはいかなかった。問屋たちの抵抗は予想以上に強かったのである。この借り入れの申し入れと並行しながら、孫右衛門は藩の組織改革を断行し、家臣の格下げと減給を実行した。人員の削減は必然的に残った者への業務負担の増加となって表れた。それもあって藩士たちの中には、孫右衛門に対して面当てがましく辞職を申し出るものまで出てきたのである。それを聞いて慌てる直記に、孫右衛門は悠然として言った。「なに、こちらから辞職するようにと言う前に自分たちから言い出したこと、扶持を省くに手間も省けて大いに結構、捨ておけ! 代わりの人は、いくらでもおる」 しかしそう強く言い放ちながらも、本音では人が辞めていくことを心細く思っていた。自分に対する抵抗と映っていたからである。しかしいまさら、後戻りはできなかった。とにかく藩財政の再建のためには、出来る全てを行う積もりであった。少なくとも直記に、弱みを見せる訳にはいかなかった。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.11.10
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翌日から孫右衛門は、勘定奉行の中村匡の指揮下に入って現状把握の調査をはじめた。その中の全体的な問題として、藩の運営そのものが全て前例、事勿れ主義に終始していたことがあった。それは以前から孫右衛門も気になっていたことであったが、どうしようもないことと思い込んでいた。その上に賄賂の横行があった。「扶持米が少ないから仕方がない」と大目に見られていたものが、長い間のうちにいつのまにか慣例化し、肥大化し、権益化して、家臣の間に想像以上に蔓延していたのである。それと関連して公金の流用があった。そしてそれらの事実は、物品の私用持出しなどを当然視させていたのである。このような家臣を多く抱えていたのであるから、無駄な費用もまた多大なものであったのである。それであるから、先ずこの藩の組織を有効なものに変える必要があると考えた。 ──駄目になるには駄目になるだけの理由があるわ。それにしても成り行きとは言いながら、とんでもないものを背負い込まされてしまった・・。 調べが進むほどに孫右衛門は呻く思いであった。 確かにこれら贈収賄や物品の私用持出禁止、そして人件費の削減が藩財政の健全化に大きく寄与することは理解できた。しかしこれらの改善に、とても一人で太刀打ち出来るとは思えなかった。この調査の過程で誰か協力者が欲しいと思った孫右衛門は、三春藩の和算家・佐久間纉の弟子であり、三春新田藩の足軽である伊藤直記に目をつけた。とは言っても扶持の削減を言い出しながら如何に支藩とはいえ、御徒士格として他藩から人を採用しようと言うのであるからその反発は大きかった。しかし孫右衛門は、それらの声にめげる訳にはいかなかった。それに一旦実施発表したことを妥協して中止してしまえば、次々に妥協を余儀なくされることを知っていたからである。中村匡に意を通し、ようやく直記を部下とするのに成功した。「まず『入るを計って出るを制す』じゃ。とにかく出入りを明確にせぬとな」 そう直記に言ってはじめた仕事であったが、出てきた数字は二人を唖然とさせていた。一寸やそっとでは支払不能の資金不足の数字が並んでいたのである。「それにしても直記、これは思った以上の大鉈が必要なようじゃ。いったい石田様は、わざわざ江戸から来られて、今まで何をしておられたのか……」 孫右衛門の眉間には、深い縦皺が寄せられていた。 藩の財政は年貢米による収入が基本である。そのため収入そのものの拡大は、すぐには望めなかった。そうなると次に考えられるのは支出の抑制である。 その支出の最大の項目は扶持であった。特に士族への扶持が、その最大の割合を占めていた。次には民政に関する役人たちの扶持があった。とは言っても人を減らすだけでは仕事の負担が増大し停滞する。そこで考えられるのは仕事の内容を見直して無駄な仕事を省き、少ない人数で執行出来る体制にすることであった。この人を減らすということは、結果として藩全体に大きな刺激を与えることになり、そのことが活性化につながると孫右衛門は考えていた。 二人は業務の簡素化と人員の削減の検討をはじめた。それにしても扶持の削減のために人を辞めさせれば、反対者などの抵抗が強くなると考えられた。そしてさらに大きな問題は、辞めさせた者をどうやって食わせるかということであった。しかしそれを言い出せば、扶持の削減はできないことになる。それについては孫右衛門も承知はしていた。しかし孫右衛門には、また別の考えがあった。家臣たちに苦労を押し付ける以上、藩の上層部にもある程度の犠牲を覚悟してもらわねばと思っていたのである。そこで孫右衛門は、中村匡に相談をかけた。藩主一家に対する莫大な出費の削減が急務と考えたからである。しかし匡の反応は、意外に良くなかった。 ──そこをどうするかだな。 そう思って孫右衛門は、腕を組んだ。そして独り言のように直記に言った。「やはり殿やご一統様にもご協力を頂き、もって下に見せつけねば事はうまく運ぶまい。さもなくば領民に皺が寄せられると考えられ、大騒ぎとなりかねぬ」 直記は呆れた顔をした。その顔は、「そんなことが出来るのですか?」と言っているかのように孫右衛門には見えた。しかし孫右衛門は、あの「手討ち」と言われたときのことを思い出して覚悟していた。 ──一ときは殿の手討ちにされかけた身。それなら、わしとて・・。 その思いが孫右衛門の語気を強くした。「考えてもみよ。御隠居様や殿をはじめとして奥方様、この他にも殿のご姉弟様や御いとこ様などへの分知や賄料、それに合力金など全部を足すと膨大な額になる。これでは殿ご一統様への支出があまりにも大き過ぎるではないか」 直記は黙ってしまった。藩主ばかりではなくその一族までもとなると、言葉が出てこなかったのである。それを見透かしたかのように孫右衛門は続けた。「わしとてこれは危険な策とは思う。しかし殿のお身回りの方々に自粛をして頂いた上で殿に費用を減らすようご下命頂けぬことには、財政建て直しの目処が立たぬわ」 ──今泉様は本気だ。 そう思った直記はようやく言葉を返した。「はい。その主旨は分かりまするが、はたして殿様方が、われらの言うことをお聞き届けになられますかどうか?」「うむ。どちらにしても中村様にお縋りして、殿にお願いする他はあるまい。それこそ直接では、お手討ちになってしまうわ」 孫右衛門は右手で首の付け根を軽く叩くと苦笑いをしながら言った。「ははっ・・、それで、もし御隠居様やご一統様の御了承が頂けなかったら、われらはいかがに相なりましょう?」「うーむ。良くて解任、御隠居様の御不興を被れば・・、切腹ものかも知れぬ」 孫右衛門は腕を組んだ。直記の緊張した目が大きく開かれていた。「切腹・・、でございますか?」 思わず小さな声になった直記は、首をすくめた。「うむ、計算をしていただけで切腹とは割に合わぬの? しかし大丈夫、責任はわしがとる。その方に累は及ばせぬ。心配するな」 孫右衛門はいつもの柔和な顔に戻っていた。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.11.05
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その夜、家に戻った孫右衛門は寡黙になっていた。湿気を含んだ空気が、どんよりとしていた。夕食後、彼は逃げるかのように自室に籠もって書を開いたものの、気が散って同じ所を幾度も読み返すばかりで少しも前に進めなかった。それとなく察したのか、妻のカウが思いあまったように暗い廊下から声をかけてきた。「お前様。いつもとご様子が違うようでございますが・・、なにか御用向きで困ったことでも?」 孫右衛門は妻からの突然の問いかけに口ごもり、思わず廊下との境の障子を見た。「何故かいつもと違って、お口が重うございます」「む・・。いや、別に・・」 そうは言ったが、たしかに気は重かった。 しばらくの時が流れた。「まあ、入って参れ」 そう言われて入って来たカウの動きが風になったのか、傍らの行灯の火が小さく揺らいだ。「実は今日、殿に呼び出されてのう・・」 孫右衛門はカウが座るのを待ってから、ゆっくりと言った。 カウは驚いたようであったが、黙っていた。「それが・・、殿に拝謁した時は殿と御重役様方、そして石田小右衛門様などのお歴々に対して、わしはたったの一人であった」 カウが心配そうに、少しく膝のにじり出すのを感じた。孫右衛門はしばらく黙っていたが、やがて思い切って今日の城での話をはじめた。「殿は石田小右衛門様に、今の三春藩の財政の状況を説明させた」 異物でも吸ったか、行灯の火がチチッと小さく跳ねた。 石田小右衛門は、天保七年よりすでに五年にわたって財政再建の指導をしていた。彼の最大の政策は藩札の発行であった。藩札とは領内のみで流通する紙幣で、全国的に流通するものではない。まさにその流通が領内において強行された。紙から小判や貨幣への錬金術であった。この藩札に代えて集められた金銀貨を、藩外への支払いに当てよう、という発想であった。藩札の発行原価は非常に安い。藩の権威で藩札の流通を強制したため、それはそれで大成功であった。ところがこの一時的成功の代償は、金から紙への信用失墜による領内物価の騰貴となって表れた。このため経済好転の兆しが見出せないまま石田小右衛門の年季が明けようとしていた。小右衛門はこの年季明けを理由に、辞任を申し出た。そしてこの動きの取れない状況の打開のため、藩主は孫右衛門を呼び出したのである。「わしはかち徒士の身分であること、藩の財政を司るほどの力量のないこと、他に立派な人材が居られること、などを述べて必死に辞退申し上げた。ところが殿は、わしが行った馬政での成功をあげられ、『他に人材が居ない』とまで言い切られた。それでも平伏したまま辞退を懇願していたわしに、殿は急に怒りをあらわにされるといきなり刀を持って立ち上り、『その方! これまでに申す余の頼みを聞けぬと申すか! さすればその方、三春藩にとっても不忠不要の者。手討ちに致す。庭へ出ろ!』と言われて柄に手をかけられた。突然『手討ち』と言われて、わしの頭の中は何も考えられなくなった。御重役様方も慌てて駆け寄られて制止なされたのでどうにかこと無きを得たが、そこまで言われたわしは只ただ恐れ入って、お受けせぬ訳にも参らなかった」「・・」「とは言っても、江戸から招かれた大学者でさえうまくいかなかったものを、急にこのわしに『やれ』と言われてものう・・。わしとて困惑致した。しかるにわしがお受けしたのは、殿の剣幕に恐れをなしたことも大きな一因であった。だから、やむを得ずお受けはしたものの成算があってのことではない。どうしたものか・・」 孫右衛門は腕を組んだ。「たしかにわしも、長年勘定方の仕事をしておった。殿の申された馬政についてもわしが中村様にご提案申し上げたこと。しかし中村様がこれをお取り上げにならなかったら、成功ということにもならなかった筈。この仕事、全く分からない訳ではないが藩全体のことともなれば話が大きい。まして財政の建て直しともなれば・・」 話を聞きながら、カウは孫右衛門の困惑した顔を見ていた。「とにかく、大変なことになった」 孫右衛門は腕を組んだまま軽く目を閉じた。 いつの間にか雷が止み、しとしとと降りはじめた雨の中に夜が静かに更けていった。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.10.30
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遠 い 海 鳴 り お 手 討 ち 遠くでドドドッと腹の底に響くような雷の音がする中、会所の廊下をいささか荒々しく走って来る足音が聞こえた。その足音を聞いた勘定方下役の今泉孫右衛門は、なぜか胸騒ぎを覚えた。そしてその御用部屋の前に姿を見せたのは、勘定方上役の片桐駒之進であった。「今泉! たった今、殿よりご沙汰があった。その方、即刻登城致せ」 廊下寄りの入り口に、うっすら汗ばんだ顔で仁王立ちになったままの彼はそう言った。孫右衛門は、忙しく立ち働いていた同輩たちの算盤や筆の音が一斉に止まり声の主を凝視している気配を背に感じながら「即刻と申されまするか?」と鸚鵡(おうむ)返しに訊いた。「うむ即刻じゃ。すぐに参られぃ」「・・と申されましても、どなた様のお供にて?」 孫右衛門は、まだ筆を持ったままだった。「誰の供でもない。その方への直々のお沙汰じゃ」 孫右衛門の困惑した目が大きく見開かれた。「私に、でございまするか? いったい、どのような御用で・・」 筆を置きながら慌てて問いかける孫右衛門に、「うむ・・。理由はわしにも分からぬ。とにかく早急に登城されよ!」 駒之進は畳み掛けるように言うと、今度は静かに廊下を戻って行った。 孫右衛門は駒之進の去った後の周囲のざわめきを、呆然として聞いていた。「殿のお沙汰」と知らされた彼は、極度に緊張していた。登城するのははじめてではないが、藩主に直接お目通りを命じられたのは、はじめてのことである。職掌柄、藩の財政のことであろうとの推測はついたが、その推測を越えた何かがあるのではないかという思いが彼の胸を締め付けていた。 奥州三春藩は阿武隈山地にへばりついたような耕地が多く、冷害の合間あいまに大凶作が来るような災害常襲地帯であった。山間(やまあい)から流れ出る冷たい清水は、必ずしも水稲の生育に適したものではなかった。これもあって三春藩財政は慢性的な赤字に喘いでいた。未曾有の災害となった天明の大飢饉の際には、幕府に拝借金を願い出て認められた見返りに、江戸城への出仕停止という藩主としてあり得べからざる恥を天下にさらけ出していた。その上、天保二年には、三春舞鶴城下の中町・大町・北町のほとんどが焼失するという大火もあった。 困窮した三春藩は経済学者の石田小右衛門を西本願寺より招き、藩財政再建の指導にあたらせることにした。そこで藩は小納戸役であった中村匡を抜擢して御政事調役とすると同時に勘定奉行を兼ねさせ、小右衛門の直属とした。それ以後、次々に新政策が実行されることになる。 先ず、借財のお断り(債務不履行)があった。これは藩の借財がなかったことにするという処置であるから、貸付人である問屋たちの反発は大きかった。しかしこれほどの厳しい方策も、藩財政再建の切り札とはならなかった。そこで小右衛門は会所勤務者の人員削減や赤子養育手当の制度を廃したがそれも抜本的対策とはなり得ず、この状況打開のために増税を行った。そのため領内に高まった不評や不満に対応しようとして困窮村を指定し、そこの年貢を減らすことにした。しかし年貢を減らされたとは言っても、根幹となる作柄が悪いのであるから救援策とはならなかった。また町方に対しても、奉公人の雇用禁止の政策などを矢継ぎ早に打ち出したため不景気が追い打ちをかけた。そこで小右衛門は御借財の係をおいて財源を確保しようとした。貸付金を放棄させた問屋たちから、再び借り入れをしようとしたのである。「貸した上また帳消しにされては、たまったものではない」 そう言って問屋たちは強く反駁した。新規借財の交渉は遅々として進まず、藩財政は二進も三進も行かなくなっていた。このような中で孫右衛門は下役ではあったが、勘定方として収入の増加をはかっていた。彼は三春駒としての伝統のある馬に目をつけ、藩の駒付役と博労(ばくろう)を仙台藩や盛岡藩に派遣して良種の種馬を導入し、それを百姓に貸付けて子馬を生ませた。そして毎年十月には番所を立てて馬の市を開いて三百~四百頭以上の売り上げをあげ、さらに他藩からも馬を持ち込ませて売買したため、やがてその名声は全国に及び、近国の諸侯はもとより、筑後久留米藩などは毎年、江戸屋敷より馬役を派遣して買い上げていた。その上で馬の競り売りを藩営として代金の三割を天引きして藩の収入としたから、藩財政上も有益となっていた。 そんなことを考えながら孫右衛門は、雨を含んだ生暖かい風が咲いた桜を散り急がせるように揺らせている城への坂道を上って行った。勘定方下役に過ぎない孫右衛門が藩主に呼び出されたのは、藩が財政再建のため腐心していた天保十二年、三十一歳の春であった。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2009.10.25
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