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この年、ようやく政府により、約束より一年遅れての第一回返済が実施された。しかしこれから返済が終わるまでに四十九年もかかるのである。返済金を受け取りにきた問屋たちの恨めし気な目付きが何とも忘れられなかった。返済金を受け取っても、ありがたそうな顔をする者は誰もいなかった。『両』が『円』に変わったこともあったが、借り入れた時の貨幣価値が下がって名目は同じでも実質は下がっていた。
「今泉様に、うまくやられました」そう皮肉を言う問屋がいた。孫右衛門はそんな一人ひとりに「済まぬ」と声をかけたが、誰もが黙って帰って行った。なかには、「来年からは遅れないんでしょうな? このままなし崩しにまた伸ばされては、たまりませんからな」と強い調子で念を押して帰って行く者もいた。
また別の問屋は、「お侍さんはいいですよね。三十年々賦と言ったって利付けで公債が貰えるんですからね。しかしこれも、われわれが犠牲になったからでございましょう?」と非難めいたことを言って帰る者もいた。
「済まぬ」、孫右衛門はその後ろ姿にも頭を下げた。そして、いつか誰かに言われた「月夜の晩ばかりだと思うな!」という怒声が、胸に突き刺さっていた。
──こんな大変な世の中になって・・。カウには辛く寂しい思いをさせたが、せめてわが家に子どもが生まれなかったことは良かったことだったのかも知れぬ。若い者にとって、これからの世を生き抜くのは至難の業であろう。自分の子どもたちが、それに巻き込まれて苦労をするのを見ないで済むのは、むしろ有難いことなのかも知れぬ。
孫右衛門は、そう考えることにしていた。
「問屋共を騙す積もりではなかったのに結果として騙すことになってしまった。お前にも苦労をかける」
そう言う孫右衛門の寂しげな姿からは、あの昔日の勢いは感じられなかった。
「それにしても問屋共に、『三春藩にカネをお貸ししたということは殿様にお貸ししたと同じこと。藩が返せないというなら殿様よりお返し願いたい』と責められてのう」
もはや孫右衛門には、相談相手になる人が居なかった。カウも心細げな顔をしていた。
「わしも苦し紛れに『そう言われても殿とて自分のために使ったものではない。藩のため
しいては領民のために使ったもので殿個人とは別じゃ』と言ったが納得してくれなくてのう。もっとも今まで『殿と藩とは一心同体』などと言ってきたのだから、今更わしが『殿と藩は別じゃ』と言って通る理屈でもあるまい?」
そう同意を求められても、カウには返事が出来なかった。
「だから問屋共に、『藩の借財と言われるなら、わしや旧三春藩の役人、それに旧藩士たちが私財提供をしても連帯して返済すべきだ』と責められたが、返答のしようがなかった。大体そういう返済の仕方など、考えてもいなかった」
「・・本来なら、どなた様が取るべき責任だったのでございましょうか?」
カウは、ようやくの思いで訊いた。
「それは勿論わしに借財や返済をまかせたとはいえ、藩でありその代表者であった殿であろう。わしとて、わしの背後には殿がついておられる、と思い込み安心もしておった。しかし問屋共はわしが単に藩という組織の一員であったにも関らず、その交渉相手であったため藩そのものと取り違えてしまった。だから急に今になって、『三春藩の借財は、大日本帝国が返済する』と言われても、その大日本帝国に貸した積もりのない問屋共は、『とにかく貸したのは今泉だ、今泉が返せ』と言う理屈になる」
「しかしそれこそが屁理屈でございましょう?」
カウはムッとした顔で言った。
「それはそうじゃが・・。ところがお前も知っての通り、わしもわしの意志とは無関係に、会ったことも見たこともない大日本帝国からの一片の辞令で、また借財返済の担当者に命じられてしまった。問屋共が、わしに返せと言うのは、わし以外に文句を言える相手が目の前にはいないということもあろう」
「確かに・・。問屋さんたちは政府のお役人様とは一面識もございませんものね」
「そうであろう? わしとて、辞令の発令元が新政府の福島県という無形の組織のものでは、福島県の誰に命じられたのか、最終的には福島県の誰が責任をとってくれるのかさっぱり見当もつかぬ。それに福島県の最高責任者となる県令様でさえ新政府からの命令が来れば変わる。そのような方が、長期に渡ることの責任を取ることなど出来まい? わしも一時は少しばかりの財産や公債じゃが、これを全部差し出すことで決着がつくならば、これに越したことはない、と覚悟したこともあった。だがそれとて藩の全ての返済が済む訳でもないし、と言って全ての問屋を納得させられるものでもない。例え自己満足や気休めで実行しても、かえって混乱だけが残ることになる」
孫右衛門は、せめてカウには自分の本心を知って貰いたいと思って話をしていた。
「それにしても用立てねばならぬ金額が大きかったからのう。そのために御家老の秋田広記様などは、借財のために葛尾村の松本家まで自ら足を運ばれた。あのときは藩のご重役様が葛尾村に来られることは滅多にないことだと申してのう。上移村と葛尾村の境の風越峠まで双方から百姓共が出て、掃き掃除をしたそうじゃ、松本家は錬鉄の製造で財を成し、葛尾大尽とまで言われた分限者じゃ。そこからの借財でも足りず、このように広く薄く借りるしか仕方がなかった。それもあって、実はいくつかの村の庄屋からも借りていた。背に腹は代えられぬからのう。それにしても潰れた問屋たちは、わしを恨んでおろう」
カウは困った顔をした。
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