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賭 け
当時の問屋に対する免許は、単に商売が大きく集荷・出荷・卸をする者に対して発行する目的だけではなく、商業活動やその仕組みを捉え、押さえる狙いもあって与えられたものである。したがってだれにでも自由に営めるものではなく、藩から指定された特定の商人たちだけであり、今日でいう問屋つまり卸屋とは意味合いが違っていた。藩御用の特権階級、御用商人となっていたのである。その半面彼らは、運上役金、つまり営業税が毎年上納させられていた。
弘化四(一八四七)年、孫右衛門は賭けに出た。
彼は藩へ融通していた問屋の主人たちを呼びつけると、さらに借り増しを要請し、無利子とした上で元金のみの五十年の割賦返済を切り出したのである。その裏には、幕末日本の不穏な情勢があり、また三春藩も江戸の中屋敷に砲術調練場を設けざるを得なくなったこともあった。
「前の融通金のご返済もされないままに、またカネを貸せとは・・。私どもは以前から、莫大な上納金も出しております」
「その上、借りる前から金利をタダにせいとは・・。商人の実状をあまりにも知らなすぎるのではございませぬか。それでは過酷に過ぎまする」
「そうです。カネを藩に差し出すということは、私どもが手持ちせねばならぬカネが外部に流出するということになり、しいては商業活動を沈滞させることに繋がります。これは将来の上納金の額にも悪い影響を与えます」
「私ら商人は、一度の売買で一~二割を儲けます。それを年に五度ほど回転させれば、七割くらいになるのです。私どもは、その利益で生活しているのでございます。その貴重なカネを無利息で、しかも五十年も貸せとは余りにもむごすぎませぬか?」
「そうです。それにこれでは返済が終わるのに孫子の代までかかります」
「その上先年のように、貸付金の放棄でもさせられるものならもうどうしようもありませぬ。そうなったらわが店が将来どうなるものやら、皆目見当がつきませぬ」
「辰巳屋さん。それを言われたらウチも同じこと」
会議は紛糾した。
しかし孫右衛門は借財の保証となる新たな担保を考え出していた。それは三春問屋組合に、海運のための港を持ち三春藩の米蔵がある幕領・磐城小名浜の五十集屋(いさばや)組合と荷駄賃協定を結ばせ、その運賃に独占権を与えようとすることであった。これを問屋たちの特権とすることで、決着をつけようとしていた。それこそが孫右衛門の賭けであり、問屋のみを限定して呼びつけた理由でもあった。荷駄賃協定を持ち出したことで、流石に問屋たちは利にさとく、強硬論も下火となった。孫右衛門は、ここを先途と説得した。そしてようやくその会議が終わった。
「大変なことが起きた!」
城から会所に戻った孫右衛門は、そこへ呼ばれた直記が座るのをもどかしげに待ちながら言った。年号は変わって嘉永元(一八四八)年の三月のことである。
「江戸からの早飛脚によると、わが藩の御徒目付で代官所下役であった永沼運暁が、幕府老中・阿部伊勢守正弘様の御屋敷に訴状を投げ入れたそうじゃ!」
直記も息を飲んだ。あってはならないことが起こったのである。
「うむ、ただし訴状は即刻却下。本人は捕らえられて網乗物手鎖腰縄で三春藩に引き渡されることになったそうじゃ。藩ではどう対処するかと大変な騒ぎじゃ。あ奴、しばらく行方が分からなかったが江戸へ行っていたとはな」
──なにもこんな時期に騒ぎを起こさなくとも。
そう思ったか、直記も憮然として聞いていた。
「わが藩に対する訴訟もあったからと言われて、前の老中様が知らせてくれたのじゃ。もっとも前老中の安藤様は隣藩・磐城平藩の藩主でもあらせられるからのう」
「しかし、もしかして、その訴訟には私どもに対する誹謗や中傷も書かれておりませんでしたか?」
直記が心配そうに言った。
「うーむ、たしかにそれはわしも気にはなっていた。わしとて世間の恨み言を知らぬ訳ではないからな。しかしいかにわしが批判されても、執行する側としての責任もある。反対されたからと言って簡単に引っ込められない事情も多い。まあ、その時はその時と覚悟して知らせの内容を見せて頂いたが、幸いそれはなかった。それにしても、何故わしらに一言の相談もなく江戸に行ったものか。その上幕政に対しても借財の廃棄、新銭鋳造まで訴え出たとあっては・・」
「新銭鋳造でございますか? それでは以前に、石田様がやられた紙幣の発行と同じことでございませぬか。折角の財政建て直しも駄目になってしまいます」
「まったくじゃ。それにしても永沼も一寸やり過ぎじゃったな。たしかに幕府を批判したい気持ちも分からぬでもないが・・」
翌年、三春藩は徳川家の廟所・日光にある大猷院様(三代家光)の二百回忌御法事勤番を命じられた。それに伴い、数名の重役が御法事の打ち合わせに江戸へ上って行った。孫右衛門にも勘定奉行の中村匡より、「いずれ御重役様御帰藩の折、明確にはなろうが、相応の金子の準備を為すように」との指示が入った。
「二百回という御遠忌ではあるが、将軍家の御法事ともなれば全国の大名が集まられる。徳川家の格式もあるし、大名方の目にも恥ずかしくなくとなればこれは大変な物入りじゃな」
「はて、で今泉様。どの位の費用になるものでしょうか? 私にははじめてのことですので皆目見当もつきませぬが・・」
「うむ、わしにも経験がないのでのう。相応と言われても何が相応なのか、考えようもないわ。返済に悪影響が出るのではないかと心配じゃが、それにしても直記、今になってみれば、その方が三十年で済む返済を五十年返済に長くしていて良かったのう。いくらかの手持ち金が残されておるわ」
思いがけぬ孫右衛門の褒め言葉に、直記は思わず嬉しそうな顔をした。
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