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遠 い 海 鳴 り
お 手 討 ち
遠くでドドドッと腹の底に響くような雷の音がする中、会所の廊下をいささか荒々しく走って来る足音が聞こえた。その足音を聞いた勘定方下役の今泉孫右衛門は、なぜか胸騒ぎを覚えた。そしてその御用部屋の前に姿を見せたのは、勘定方上役の片桐駒之進であった。
「今泉! たった今、殿よりご沙汰があった。その方、即刻登城致せ」
廊下寄りの入り口に、うっすら汗ばんだ顔で仁王立ちになったままの彼はそう言った。孫右衛門は、忙しく立ち働いていた同輩たちの算盤や筆の音が一斉に止まり声の主を凝視している気配を背に感じながら「即刻と申されまするか?」と鸚鵡(おうむ)返しに訊いた。
「うむ即刻じゃ。すぐに参られぃ」
「・・と申されましても、どなた様のお供にて?」
孫右衛門は、まだ筆を持ったままだった。
「誰の供でもない。その方への直々のお沙汰じゃ」
孫右衛門の困惑した目が大きく見開かれた。
「私に、でございまするか? いったい、どのような御用で・・」
筆を置きながら慌てて問いかける孫右衛門に、
「うむ・・。理由はわしにも分からぬ。とにかく早急に登城されよ!」
駒之進は畳み掛けるように言うと、今度は静かに廊下を戻って行った。
孫右衛門は駒之進の去った後の周囲のざわめきを、呆然として聞いていた。「殿のお沙汰」と知らされた彼は、極度に緊張していた。登城するのははじめてではないが、藩主に直接お目通りを命じられたのは、はじめてのことである。職掌柄、藩の財政のことであろうとの推測はついたが、その推測を越えた何かがあるのではないかという思いが彼の胸を締め付けていた。
奥州三春藩は阿武隈山地にへばりついたような耕地が多く、冷害の合間あいまに大凶作が来るような災害常襲地帯であった。山間(やまあい)から流れ出る冷たい清水は、必ずしも水稲の生育に適したものではなかった。これもあって三春藩財政は慢性的な赤字に喘いでいた。未曾有の災害となった天明の大飢饉の際には、幕府に拝借金を願い出て認められた見返りに、江戸城への出仕停止という藩主としてあり得べからざる恥を天下にさらけ出していた。その上、天保二年には、三春舞鶴城下の中町・大町・北町のほとんどが焼失するという大火もあった。
困窮した三春藩は経済学者の石田小右衛門を西本願寺より招き、藩財政再建の指導にあたらせることにした。そこで藩は小納戸役であった中村匡を抜擢して御政事調役とすると同時に勘定奉行を兼ねさせ、小右衛門の直属とした。それ以後、次々に新政策が実行されることになる。
先ず、借財のお断り(債務不履行)があった。これは藩の借財がなかったことにするという処置であるから、貸付人である問屋たちの反発は大きかった。しかしこれほどの厳しい方策も、藩財政再建の切り札とはならなかった。そこで小右衛門は会所勤務者の人員削減や赤子養育手当の制度を廃したがそれも抜本的対策とはなり得ず、この状況打開のために増税を行った。そのため領内に高まった不評や不満に対応しようとして困窮村を指定し、そこの年貢を減らすことにした。しかし年貢を減らされたとは言っても、根幹となる作柄が悪いのであるから救援策とはならなかった。また町方に対しても、奉公人の雇用禁止の政策などを矢継ぎ早に打ち出したため不景気が追い打ちをかけた。そこで小右衛門は御借財の係をおいて財源を確保しようとした。貸付金を放棄させた問屋たちから、再び借り入れをしようとしたのである。
「貸した上また帳消しにされては、たまったものではない」
そう言って問屋たちは強く反駁した。新規借財の交渉は遅々として進まず、藩財政は二進も三進も行かなくなっていた。このような中で孫右衛門は下役ではあったが、勘定方として収入の増加をはかっていた。彼は三春駒としての伝統のある馬に目をつけ、藩の駒付役と博労(ばくろう)を仙台藩や盛岡藩に派遣して良種の種馬を導入し、それを百姓に貸付けて子馬を生ませた。そして毎年十月には番所を立てて馬の市を開いて三百~四百頭以上の売り上げをあげ、さらに他藩からも馬を持ち込ませて売買したため、やがてその名声は全国に及び、近国の諸侯はもとより、筑後久留米藩などは毎年、江戸屋敷より馬役を派遣して買い上げていた。その上で馬の競り売りを藩営として代金の三割を天引きして藩の収入としたから、藩財政上も有益となっていた。
そんなことを考えながら孫右衛門は、雨を含んだ生暖かい風が咲いた桜を散り急がせるように揺らせている城への坂道を上って行った。勘定方下役に過ぎない孫右衛門が藩主に呼び出されたのは、藩が財政再建のため腐心していた天保十二年、三十一歳の春であった。
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50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。