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大 成 元 年
秋田季春は、嘉膳らが京都に行って留守にしている間、頭を抱えていた。
「なあ、右近。五月十五日の上野の戦争で彰義隊が敗れた後、輪王寺宮様は上野の寛永寺から辛くも脱出されたが、行方知れずとなったそうじゃ」
「輪王寺宮様といえば、孝明天皇様の弟君。一時的にせよ、幕府が天朝様に奉ろうとした御方、そのような方が行方知れずとは、只事ではございませぬな」
右近は、季春の目を覗き込むようにして言った。
「うむ。戦いの中で亡くなられたとは聞かぬ故、京都へでも出られたのであろうかの? ところで新政府海軍は、相馬藩領に敵前上陸をしたそうじゃ」
季春は、届いたばかりの知らせを伝えた。
「・・・では相馬藩は、どちらの側と戦っているのでしょうか?」
「仙台兵が相馬領にも入っていたから、仙台藩の手前、恐らく新政府海軍と戦っているのであろう。それにもう一つ、難しい問題が起きた」
「・・・」
「仙台におられた新政府の九条総督が、秋田藩を本拠とするために逃れられていたが、今度は秋田から、海路にて京都に戻られるということじゃ」
「では新政府は、奥羽を見捨てたと・・・」
二人の口は、重かった。奥羽の地から新政府軍が撤退すれば、三春藩が頼りにしていた勤王の意志という綱が、切れてしまうことを意味していたからである。
「今までに何度も勤王の志を新政府に申し上げてきたが、これではかえって、自縄自縛になってしまったな」
「とは申しても季春様。以前より秋田藩には、反盟の噂が強うございました。それなのに九条総督様が京に戻られるとは・・・、何か裏があるのではございませぬか?」
「うーむ。とにかくわが藩の周囲は、全てが同盟側と覚悟せねばなるまい。下手には動けぬな」
「どうも季春様。残念ながらわが藩の主旨は生きませぬようで。恐らく相馬藩も、苦しい立場でございましょう。白河では攻防戦がまだ続いておりまする。ところでこうなれば、最悪の場合、わが幼い殿をどこへお連れすべきでしょうか?」
「うむ・・・、それも考えねばならぬか・・・
」
そうは言ったが、季春にはその当てがなかった。同盟側に頼れば人質になりかねず、といって新政府軍側もどう出るかまったくの未知数であったのである。
五月二十八日、行方知れずとなっていた輪王寺宮は、榎本武揚艦隊の長鯨艦で平潟港(茨城県北茨城市)に突然上陸し、慌てふためく泉藩の慈光院に一泊した。船により、江戸を離脱していたのである。その際、会津に行くことが明示された。会津藩主の容保が忠誠を尽くしていた孝明天皇の弟君であり、上野で敗れた彰義隊が会津に合流していたことを考えれば、当然のこととも思われた。
──会津に行かれるとすれば、必ず三春を通られる・・・。
季春は、その対応に困惑を隠せなかった。もし三春藩領で何か事が起きれば、只事では済まされないのである。
一方、この日、上洛した嘉膳と純之祐は、京都堀川の藩邸で留守居役の秋田広記に会い、三春の実情を告げた。それを聞いた広記は、御救助嘆願書と共に、[幼主の危難]を太政官に報告した。
五月二十九日、輪王寺宮は泉藩の北の平藩の飯野八幡神社に一泊した。この日、新政府軍参謀の板垣退助が白河の小峰城に入城したが、白河では同盟軍による再度の白河小峰城の奪還作戦が行われていた。しかし、城を回復するには至らなかった。新政府と幕府。この両者の戦闘の影響が、三春に向かってひたひたと寄せてきていた。
五月三十日、輪王寺宮は中寺(笠間藩領飛
地・いわき市)に宿泊した。
同じ日、三春藩の嘆願使は、新政府の参議・穴戸五位や副総裁の岩倉具視と会見して歓待を受け、その上で弁事役所に、御進軍御救助嘆願書を提出した。新政府の三春藩に対する憶えは、良いように思われた。
六月一日、輪王寺宮は小野新町(笠間藩領飛地・小野町)に一泊した。早馬にて、輪王寺宮が三春御止宿の前触れがあり、三春藩はこれの受け入れのために[大取込]となった。
──いよいよ来られる。
季春には、輪王寺宮の旅程での安全確保、宿舎の警備方法などを考え、眠られぬ夜が続いていた。思考が泥沼に入り、何度も往復するのである。
京都では、嘆願の主旨が漏れれば奥羽越列藩同盟にこの隠密行動が知られる恐れがあり、役所の日誌なども書き込まないようにとの再嘆願を行なった。
ついに、六月二日、輪王寺宮は[上り藤紋]の小幡、剣付鉄砲三十人ほどの護衛と百五十人ほどの供揃いで、さらに船引よりは剣付鉄砲三十人ほどの三春藩兵の先触れで、緋の衣で朱塗りの駕篭に乗り、三春に入った。
「拝見相成らぬ」との強いお達しに、町家は表戸を閉め切り、息をひそめていた。[宮様、御年二十二~三歳位と拝見致し侯]
この一行は、龍穏院と光善寺に分宿した。なんらかの出来事の発生を恐れた季春は、宿舎に多くの藩兵を差し向け、万全の警護に当たらせた
。
(輪王寺宮行程図)
この日の夜、京都では嘉膳や純之祐らが、岩倉邸で酒肴の待遇を受けた。その席で朝廷から、叡感勅書下付の内意を受けたのである。三春藩邸は喜びに沸いた。これで正式に三春藩の尊皇の意に、お墨付きを得たことになったからである。
六月三日の朝、嘉膳は京都を出立すると東海道ではなく美濃路に入り、木曽より日光道に回り、それから東の水戸へ迂回して三春へ帰った。途中の道は戦乱のために皆閉塞し、敵味方の兵が入り乱れて往来を遮っていた。やむをえず山川に分け入ったり、その艱難辛苦たとえようもなかった。嘉膳は叡感勅書下付の感触を早急に三春へ知らせようと、その旅路を急いでいた。
嘉膳が、三春へ出立して間もなく、京都では、三春藩の御進軍御救助嘆願書に対して、太政官より叡感勅書が下付された。
叡感勅書
秋田万之助映季
奥羽諸藩順逆不弁、賊徒へ相通し官軍に抗衡候者も不少趣に候処その方
小藩を以敵中に孤立、大義を重し方向を定従来勤王志君臣一意徹底致居候
段神妙の至りに候、百折不撓大節を全可致候不日官軍諸道より進撃救援可
有之に付この旨相心得可申候条御沙汰候事
六月
参考文献 2008.02.07
資料と解説 I~L 2008.02.06
資料と解説 H 小野新町の戦い 2008.02.05