三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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参 考 文 献一八八一 謹上諫死奉呈文 永沼運暁 松本登氏所蔵一八八五 熊田嘉膳履歴書 松本登氏所蔵 不 詳 飛田昭規履歴 飛田昭蔭氏所蔵一九〇九 三春小学校同窓会報告書 第七号 松本登氏所蔵一九一一 仙台戊辰史 藤原相之助 荒井活版製造所一九二七 二本松藩史 戸城伝七郎 二本松藩史刊行会一九三四 二本松藩士人名事典(全) 古今堂書店古典部 〃 水戸烈公の国防と反射炉 松本登氏所蔵一九三八 大島高任行実 松本登氏所蔵一九四一 戊辰白河口戦争記 佐久間律堂 堀川古楓堂一九五八 田村の小史 影山常次 石橋印刷所一九六六 会津若松史 会津若松市 凸版印刷 〃 磐城百年史 荒川禎三 いわき市 〃 幕末の思想家 中沢護人 筑摩書房一九六八 戊辰役戦史 大山柏 時事通信社一九六九 郡山市史 郡山市 大日本印刷一九七〇 福島県史 福島県 小浜印刷一九七二 維新変革における在村的諸潮流 鹿野政直 三一書房 高木俊輔一九七三 郡山戦災史 郡山戦災を記録する会 不二印刷 〃 二本松藩史 二本松藩史刊行会 歴史図書社一九七五 いわき市史 いわき市 平活版所一九七七 郷土史事典 佐藤次男 昌平社一九七八 城下町に生きた人々 二本松市商店街連合会 松屋印刷所 〃 三春の歴史と文化財 三春町教育委員会 〃 鳥羽伏見の戦いとその史跡 小林専一一九七九 茨城県幕末史年表 茨城県史編纂幕末維新史部会 理想社印刷所一九八〇 会津戦争のすべて 会津史談会一九八二 二本松市史 二本松市 明和印刷 〃 棚倉町史 棚倉町 歴史春秋出版一九八三 歴史(みちのく二本松落城)榊山潤 叢文社 〃 鏡石町史 鏡石町 第一法規出版一九八四 三春町史 三春町 凸版印刷一九八五 理由なき奥羽越戦争 渡辺春也 シナノ印刷 〃 都路村史 都路村 ぎょうせい一九八六 秋田県の歴史 今村義孝 山川出版社 〃 宮城県の歴史 高橋富雄 山川出版社 〃 船引町史 船引町 山川印刷所 〃 三百藩主人名事典(一)藩主人名事典編纂委員会 大日本印刷 〃 戊辰落日 綱淵謙錠 文芸春秋社一九八七 植田町史 雫石太郎 第二巧版印刷一九八八 三百藩家臣人名事典(二) 家臣人名事典編纂委員会 大日本印刷 〃 戊辰東北戦争 坂本守正 新人物往来社 〃 小野町史 小野町 大盛堂印刷所 〃 藩史大事典 雄山閣一九八九 江戸城総攻め 日本放送出版協会 〃 ・六月 歴史と旅(徳川三百藩大崩壊) 秋田書店一九九〇 幕末維新人名事典 奈良本辰也 新人物往来社 〃 滝根町史 滝根町 歴史春秋出版 〃 白虎隊と榎本艦隊 日本放送出版協会 〃 ・六月 歴史読本(勤王・佐幕、幕末諸藩の運命) 新人物往来社一九九一 三春城 総合調査報告書 三春町教育委員会一九九二 天狗党が往く 光武敏郎 秋田書店 〃 霊山町史 霊山町 大盛堂印刷所一九九五 反射炉 金子功 法政大学出版局一九九六 明治維新の再発見 毛利敏彦 吉川弘文館一九九七・十一月 天皇の伝説 メデイアワークス一九九八 二本松少年隊 星亮一 成美堂出版 〃 三春滝桜 長尾まり子 集賛社 〃 戊辰戦争全史 菊池明 新人物往来社 伊東武郎 〃 ・十二月 歴史読本(戊辰大戦争) 新人物往来社一九九九 浅川町史 浅川町 日進堂印刷所 〃 近代三春の夜明け 三春歴史民族資料館 平電子印刷所二〇〇〇 本宮町史 本宮町 平電子印刷所二〇〇一 大越町史 大越町 平電子印刷所 〃 歴史春秋 五四号 会津史談会編 歴史春秋社 〃 日本の戦争 田原総一朗 小学館 〃 明治天皇 ドナルド・キーン 新潮社
2008.02.07
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I 三春狐 *会津猪 仙台狢(むじな) 安部(棚倉藩主)の兎はよく逃げた 会津猪 米沢狸 仙台兎で 踊り出す 会津猪 米沢猿で 新発田狐に 騙された 会津桑名の腰抜け侍 二羽(二本松藩主・丹羽氏)の兎はぴょん とはねて 三春狐に騙された 会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで 了見違い棒 (違い棒は丹羽氏の家紋) これらの動物について、三省堂の大辞林には次のように記載されている。 猪:「思慮を欠き向こう見ずにがむしゃらに突進する」 狢:アナグマの異名。「毛色がアナグマに似ているので」タヌキの こと。 兎(兵法):実際の役には立たない策略。 狸:(比喩的に)表面はとぼけているが、裏では策略をめぐらす悪 賢い人のこと。 猿:小利口な者をののしっていう語「・・真似」「・・知恵」 狐:狐は人をだましたりたぶらかしたりすると俗にいうことから、 悪賢い人、他人をだます人。 解説・動物になぞらえられたこれらの歌は、内容から言っても同 盟側が自嘲的に歌ったとは考えにくい。新政府側が敗れた 奥羽越列藩同盟諸藩を揶揄して作ったものであろう。それ にもかかわらず「三春狐」のみが悪くそして長く伝えられ たのは、三春藩の周辺のすべてが奥羽越列藩同盟であった ことから村八分的な立場に追い込まれ、なおかつ敗戦の憂 さを、この戯れ歌に託されたからではあるまいか。そして より小さな守山藩は、大水戸藩を後ろ盾にしていたのであ る。それらを考えれば、三春藩は同盟側諸藩が受けた侮蔑 を相殺するのに、丁度よい地域と規模でったということか も知れない。 J 二本松藩の苦衷 *二本松藩は仙台藩に疑われながら、何のために戦ったのか。 仙台戊辰史 六〇七ページ (仙台藩の)増田曰ク 二本松ハ大垣ト婚ス 故ニ毎ニ密謀ヲ通ズ 丹羽丹波ノ敗ノ如キ最モ怪シムベシ 解説・仙台藩は二本松藩をも疑い、新政府軍とともに会津を攻撃 すべきであったとも考えていた。 仙台戊辰史 五九六ページ 矢吹ニ陣セル(仙台藩)伊達将監ノ軍ハ六月廿三日ヲ以テ軍議ヲ開キシニ(中略)元来本藩ハ本来ヲ誤テリ(中略)即チ官兵ト議ヲ合シテ会津ヲ挟撃スルコト第一ノ策ナリ 本宮町史 七三〇~七三一ページ 文久三(一八六三)年将軍家茂の上洛にともない、二本松藩は(中略)家老江口三郎右衛門が、番頭二名と兵一〇〇〇余を率いて江戸警衛に出役した。この任務は五月に解除されたが八月には京都警衛を命ぜられ、(中略)御所の建春門の警衛の任に就いた。藩は一〇〇日の勤務を終え、翌一八六四年二月末二本松に帰着した。(中略)京都警衛は慶応元(一八六五)年にも命ぜられた。 二本松市史 八一七~八一八ページ 江戸湾警備や京都警衛等、江戸・京都政権動向の近辺に身を置き見聞し時流の赴く所を知りながら世襲門閥制の重臣層と公儀第一とする藩祖以来の伝統による時代認識、脱藩して尊皇討幕運動に走る気力のある藩士もなく、このような藩の体制と山鹿流軍学とで戊辰の戦争がなされたのである。二本松藩の戊辰戦争ほど悲惨を極めたものはない。 藩財政は枯渇し領内農商の献金を当てにして周囲の情勢に処することもできず、止むなく戦争に加わり元亀・天正の藩祖以来の兵器と戦術とで西洋式兵器と訓練を受けた西軍と戦い、戦いば必ず負けて敗走を繰り返す、余りにも勝利なき無益な戦いを続けた。 二本松藩は戊辰の戦乱の主導権も握られないままに奥羽越同盟の最前線兵火の災いを最も多く被り、領内を焦土と化し領民を苦難の途に投じたのみであったことと、犠牲の大きさを銘記しなければならない。 解説・二本松藩は、江戸や京都警衛を通じて会津藩との関係が密 接になったのではあるまいか。また預かり地であった白河 城の守備において、各藩の援助協力の義理を受け、それぞ れの思惑に翻弄されてこの戦いに巻き込まれた。二本松藩 の苦衷が、隙間見える。 K 三春戊辰戦争の総括 戊辰戦争における最大の悲劇は、奥羽越列藩同盟が攻守同盟に変質し、明治天皇に抵抗する賊軍・朝敵と目されたことにある。しかしこの戦いは、歴史として総括されていない。 明治天皇 三〇ページ 孝明天皇が、外国人(或いは、もっと厳密には西洋人)の出現を神々の国に対する許しがたい侮辱と考えていたことは間違いない。 明治天皇 二四九ページ 北における政府軍の数々の勝利は、常に事態が収拾されたという保証を伴って天皇に報告された。或いはこの時期、天皇の関心はこれら軍事的問題から逸らされていたかもしれない。間近に迫る即位と江戸下向の旅、いずれも遠隔地での戦闘より直に心に響く出来事が控えていた。しかし明治天皇が紛れもなく気づいていたように、幕府復活の脅威が永遠に葬られるためにも、相次ぐ反乱はことごとく鎮圧されねばならなかった。 解説・この明治天皇二四九ページの記述こそが、戊辰戦争に於け る新政府軍の本音を表しているのではなかろうか。そう考 えると、福島で暗殺された世良修蔵が持いた密書「奥羽皆 敵と見て進軍の大策」と本質的に合う。それなのにこのよ うな朝廷での大きなうねりを知らずに、三春藩は御稜威と いう大いなる幻想を追っていた。その中で辛うじて領内の 安定を確保した三春藩には、二足の草鞋(三春町史 第三 巻五ページ)をはけるほどの積極的な力量などある筈もな く、双方の合間に沈んでいった。これを意識することこそ が、世上言われている「三春狐」「裏切り」から具体的に 脱却することになるのであろう。 L 同盟側・新政府側一覧 *奥羽越に於ける、同盟側と新政府側の一覧表。 歴史読本(勤王・佐幕、幕末諸藩の運命一六〇ページより) (同盟側) (新政府側) 仙台藩 六二・五万石 秋田藩 二〇・五八万石 会津藩 二八 高田藩 十五 南部藩 二十 新発田藩 十 米沢藩 十八 弘前藩 九・四 庄内藩 十六・七 新庄藩 六・八二 二本松藩 十 三春藩 五 棚倉藩 十 松前藩 二 長岡藩 七・四 守山藩 二 中村藩 六 本庄藩 二 山形藩 五 秋田新田藩 二 村上藩 五 与板藩 二 一関藩 三 黒石藩 一 平 藩 三 下手渡藩 一 福島藩 三 椎谷藩 一 上山藩 三 糸魚川藩 一 村松藩 三 矢島藩 〇・八 松山藩 二・五 八戸藩 二 泉 藩 二 亀田藩 二 天童藩 二 湯長谷藩 一・五 七戸藩 一・一 三根山藩 一・一 米沢新田藩 一 長瀞藩 一 黒川藩 一 三日市藩 一 解説・この一覧表に基づいて、奥羽越状況図を作成した。なお状 況図中、黒点は同盟側、白丸は新政府側、▲は中立を表し ている。ただしこの整理は、戦争終了の時点である。また 白丸は、一ミリで一万石を表現した。
2008.02.06
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H 小野新町の戦い *笠間藩領・小野新町において、味方である二本松藩兵を三春藩兵が背攻したとされる口伝。 二本松藩史 一七〇ページ 七月二十六日、払暁西軍四方より来り、三春藩(実際は笠間藩)領内、小野新町を攻撃す。時に我が藩兵、三春藩応援として銃士隊長大竹與兵衛等卒える所の約二個小隊同地に在り。衆寡敵し難く、苦戦して三春の応援を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を教導して我が隊を包囲す。我が兵驚愕、軍遂に潰ゆ。 二本松市史 1 八〇八ページ (西軍の)作戦に惑わされた東軍は、三春を引き払い須賀川に向かったため、三春はがら空きとなり、板垣軍は労せずして七月二十六日、三春に達した。三春藩は恭順に議論を決していたので、直ちに城を明け渡した。 同日平から進み上三坂まで来ていた海軍は、谷津作・田原井を経て払暁小野新町明神山陣地の二本松勢攻撃を行った。二本松大谷隊は衆寡敵せず苦戦となり、三春藩に援軍を求めたが、三春はかねての計画通り西軍に降り、西軍を教導して大谷隊を包囲した。これにより二本松勢は潰走し、海軍は同日大越に宿陣、翌二十七日板垣軍の後から三春へ入城した。 三春町史 第二巻 (二十六日の)昼ごろ、柴原道より政府軍先発隊がはいってきたが、御殿庭前・大門に家中の姿はなく会所に二~三人の番人がいるのみであった。 一方、平城を攻略した西軍の平潟口隊は、二十三日三春攻撃の命令を受け、翌日平を出発して二十六日午前中に仁井町まで進み、ここから二手に分かれた。一手は岡山・薩摩・佐土原藩兵で三春領広瀬村通りに向かい、一手は岡山・大村・柳川藩兵で、浮金村から柳橋村に入った。いずれも途中で三春藩降伏を知り、二十七日三春に繰り込んだ。 七月二十六日三春に繰り込んだ西軍の一部、薩摩・土佐藩兵は、その日のうちに二本松領に向かった。二本松領では西軍の三春入城を知って大騒ぎとなり、三春領に接している諸番所に猟師・農兵が集まっていたが、これを探知した西軍は、平沢・御祭・七草木の百姓の案内で、これらの番所を急襲した。二十七日明け八ツ半(午前三時頃)時に松沢番所が破られ、間もなく糠沢上ノ内番も破られ、続いて塩崎役所も急襲され五ツ時(午前八時頃)ころ堺番所が打ち破られて農兵たちは逃げ去った。 翌二十七日、参謀局より後見秋田主税と重臣荒木国之助・小野寺舎人らが呼び出され、嘆願を認められ、「追って御沙汰まで城地・兵器・人民を預り置く。また出兵を申しつけるので功を立てよ」との口達があった。(七六六ページ) 解説・なお三春町史には、小野新町の戦いについての記載がない。 小野町史 五九七ページ 二本松藩隊長大谷與兵衛、平嶋孫左衛門物頭役ニて上下弐百人余宿陣三春藩隊長渡会助右衛門物頭赤松兵太夫二小隊宿陣仙台角田藩八十人程三春藩加勢トシテ同より宿陣之処官軍・・・谷津作田原井口より進撃シテ発砲二本松藩明神山(塩釜神社)ノ内新社地江仮台場ヲ造リ・・・双方打合候・・・奥州勢五~六人即死三春ハ赤沼村番兵之処官軍着陣ニ成ト小戸神辺ニて敗北帰城ニ相成候由仙台角田藩も戦争始ルト直ニ広瀬村江逃去候由直様廿六日四ッ半(午前十一時)頃二本松敗北ニ相成 大越町史 六五七ページ 七月二六日朝、小野仁井町ニテ官軍方、二本松・会津・仙台戦有、奥州勢敗ス。三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦・・・・・薩摩藩届(太政官日誌九〇)によると山道軍渡邊清左衛門隊は、渡戸・上三坂に宿営し二六日暁二時出発、仁井町手前の賊徒台場を砲撃し七時より八時の間に乗取り、賊徒を広瀬関門まで追撃する。最早夕六時頃になり、大越村に宿陣する。 各市町史などを参考に、時系列的に整理すれば次のようになる。 七月二十六日 1 早 朝、笠間藩領・小野新町で、戦闘開始。 (二本松藩史、二本松市史・大越町史) 2 「仙台角田藩も戦争始ルト直ニ広瀬村江逃 去」(小野町史・時間は特定されていない) 3 (三春兵が)「西軍を教導して我が隊を包囲 す。我が兵驚愕、軍に潰ゆ」 (二本松藩史・時間は特定されていない) 「三春藩に援軍を求めたが、三春はかねての 計画通り西軍に降り西軍を教導して大谷隊を 包囲した」 (二本松市史・時間は特定されていない) 4 「三春ハ赤沼村番兵之処官軍着陣ニ成ト小戸 神辺ニて敗北帰城ニ相成候」 (小野町史・時間は特定されていない) 5 「三春勢繰出シ候得共降参ニテ不戦」 (大越町史・時間は特定されていない) 6 七時~八時 (新政府軍が)「仁井町手前の賊徒台場を砲 撃し七時より八時の間に乗取り、賊徒を広瀬 関門まで追撃する」 (大越町史) 7 午前十一時 「四ッ半(午前十一時)頃二本松敗北」 (小野町史) 8 午 前 中 仁井町まで進み、ここから二手に分かれた。 一手は岡山・薩摩・佐土原藩兵で三春領広瀬 村通りに向かい、一手は岡山・大村・柳川藩 兵で、浮金村から柳橋村に入った。いずれも 途中で三春藩帰順を知り、二十七日三春に繰 り込んだ。 (三春町史) 9 昼 頃、 柴原道より政府軍先発隊が(三春に)入って きた」(三春町史)「板垣軍は労せずして七 月二十六日、三春に達した」(二本松市史・ 時間は特定されていない)この二つの記述 は、同一の部隊を指している。 午 後、 「三春に繰り込んだ西軍の一部、薩摩・土 佐藩兵は、その日のうちに二本松領に向かっ た」 (三春町史) 解説・ここで問題になるのは、矛盾する(3)と(4・5)であ ろう。まず、戦いがはじまって間もなく、三春兵の加勢に 来ていた仙台・角田兵が戦線を離脱(2)した。仲間の逃 亡に浮足だった三春兵は、小野赤沼や小戸神での戦いに敗 れて、もしくは戦わずして(4・5) 三春へ敗走した。しかしその三春には、敗走した彼らが着 くか着かぬかの頃、新政府軍が入城してきたのである。こ のような状況にあった三春兵が、新政府軍を教導して (3)再び小野新町に戻るなどということが出来たであろ うか? またもし戻ったとしても、それは明神山の台場が占領さ れる七~八時(6)以前でなければ時間が合わない。何故 なら、明神山台場陥落後は二本松兵による組織的な抵抗が 終わり、十一時頃(7)までの戦闘は散発的であったと考 えられるからである。 ところで三春での状況を見ると、昼頃(9)に三春に進 駐してきた新政府軍はさらに主目的である北の二本松領に 進撃をはじめている。そのような時に、つまり新政府軍三 春入城後の午後、三春兵が新政府軍を教導して、しかもす でに平から攻めてきている西の小野新町に逆進することが あるだろうか? それでも小野新町へ行ったと考えても、 そこでの戦いは終わっている時刻(7・8)となっている のである。 するとここのところは、小戸神で三春兵を破った新政府 軍が、引き返す形で明神山へ向かった。結果として挟み討 ちになったが、小戸神から来た兵を見た二本松兵は、三春 兵と新政府軍との共同作戦と勘違いをしたと考えてはどう であろうか。なおこれと関連する地区の滝根町史には、三 春兵の動きについての記述がなく、また二本松市史6近世 3資料編4にもその資料がない。これらのことからの結論 として、三春藩が敗れ(4・5)仙台藩が戦線離脱をした (2・6)ため二本松藩が孤立した、というのが真相では あるまいか。 つまり、二本松藩史が伝えているように、三春兵が明神 山の二本松兵を背攻したとは考え難い。
2008.02.05
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F 二本松勢、舞鶴城攻撃の動き *三春駐留の二本松兵が、舞鶴城攻撃のため馬頭観音山に集結した事件。 前掲の年表より 二本松藩は、兵を三春城下に進めて荒町馬頭観音山に屯させ、将に三春の町を一炬にせんとして伺った。このことに対して、老臣細川可柳が自ら出て折衝の任に当り、この難局を解決した。 三春・松本登氏(八十四歳)談 二本松兵がネ、馬頭観音山に集まったんですよ。そして舞鶴城を攻撃しようとしたんですネ。何とか落ち着いたからよかったんだが、三春兵は殆ど城外に出て、町には居なかったんですネ。だからお城は、本当に危なかったんだという話を、子どもの頃聞いてネ。 解説・不確実ではあっても、二本松藩は出先の部隊にまで、三春帰順の情 報を流していたことを示唆する事件であった。 G 二本松藩へ恭順の使者を派遣したこと* 三春藩は、自己の帰順以前に、二本松藩へ恭順勧告の使者を派遣してい る。この使者を二本松藩が殺害していることから、三春が二本松を裏 切ったことにはならないと考えられる。 1 城下町に生きた人々 七六ページ @font-face { font-family: "Times"; }@font-face { font-family: "MS 明朝"; }@font-face { font-family: "MS ゴシック"; }@font-face { font-family: "@MS ゴシック"; }@font-face { font-family: "@MS 明朝"; }@font-face { font-family: "平成明朝"; }@font-face { font-family: "@平成明朝"; }p.MsoNormal, li.MsoNormal, div.MsoNormal { margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 10pt; font-family: "Times New Roman"; color: black; }div.Section1 { page: Section1; } 二本松城下戦の直前に、三春藩の使者四名が、三春街道付近で斬殺された有名な事件がある。彼らは、帰順の勧告を行うため、七月二十七日に二本松に来て、その夜は松岡の茗荷屋という旅篭に旅装を解いた。 別に、大山巳三郎という三春藩士も、ただ一人で松岡の三春屋に泊まった。この時、三春藩はすでに降伏しているので、二本松では知っているし、彼らも追い駈け使者の報告を受けている。 二十七日の夜は、世相不安の由をもって、三春屋と茗荷屋の両旅籠は、藩命によって松岡、若宮の町人が警備に当たっていたが、藩の真の意図はどうであったかはわからないが、三春の裏切りを知った町人は、軟禁と解したらしかった。 藩は三春の使者に二十八日早々に帰国の途につくよう要請し四名の者は早々に出立した。ところが四名とも、出立直後に三春屋の裏手の桑畑で殺害されてしまった。 田村小史には、 『七月二十八日二本松に於いて、仙台よりの帰途に在りし不破関蔵、渡辺喜右衛門及び大山巳三郎は同藩士の為同地に於いて斬せらる』 と書いてある。彼らの最後を見ていた町人{本町・松坂庄八談}は、 「三春の使者の三人は、掌を合わせて、命ばかりはと嘆願した」と語り、家中の人(士族)は、 「立派に割腹している。町人は割腹する姿を遠くから見ていたので、見誤ったのだろう」と弁護している。 【解説】三春藩は、棚倉から蓬田を進んできた新政府軍と平から進んできた新政府軍、それに加えて二本松藩攻略に備えた新政府軍は、7月20日、すでに三春藩の北12キロメートルにある小浜を長州藩兵3小隊で占拠していた。三春藩は、北、東、南と包囲された情況にあった。三春町史によれば、7月26日の昼頃、平からの兵が三春に到達、三春藩はこれに帰順を願っている。これに対して、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられている。また三春藩の帰順願に対しての返答のないままその日の夕方、新政府軍は二本松領に侵攻、とある。しかしこれには戦いとなった記述がないので、小浜の長州藩兵と合流したものと推測できる。 7月27日、参謀局軍務局より秋田主税・家老の荒木国之助・小野寺舎人が呼び出され、嘆願書を聞き届けるとの返答があった。その上でここの記述にある27日の二本松藩の動きであるが、三春藩からの帰順の使者が二本松に入ったのは、将にこの日であった。 ここに時間的には問題が残るとは思われるが、それでも使者を斬殺してしまうのは、どういうものであろうか。また『城下町に生きた人々』に『三春の裏切りを知った町人』とあるが、果たしてこの時点で、情報の少ない町人が、『裏切り』と判断し得たであろうか。この記事を載せる時点での加筆とは考えられないだろうか。 2 二本松市史 第六巻 七三九ページ 三春家より本町辺へたんさくの御方三春ニ而ハよほと大しんニ而たんさく方相分候利口なる御士方弐三人参りおり候処此砌ハ二本松ニ而も農兵町兵槍に鉄炮よとけいこさい中ニ付いかゝの次第ニ候や町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子ニ御座候残の御士方ハほうほうにげくきニ御座候 3 二本松市史 第六巻 九三五ページ 三春藩の使者が「町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子に御座候」とある。この使者は三春藩の使者の中の大関兵庫の事かと思われるが明らかではない。 4 明治維新三春藩殉難諸士事跡概況調書 (三春・佐久間真氏所蔵) ●大山巳三郎 奥羽列藩同盟の関係上藩命により二本松藩に使したるものな らん。七月二十七日三春藩帰順するを知るや、その故をもって二本 松藩のために虐殺せらる。● 不破関蔵 奥羽列藩同盟の関係上藩命により数士と共に仙台藩に使した るものならん。時局逼迫するや数士を残置し渡辺喜左衛門と共に帰 藩の途につき 偶々二本松城下において大山巳三郎と会す 七月二 十七日三春藩官軍に帰順するを知るや、その故をもって大山・渡辺 両氏と共に遭難 戦死す。● 渡辺喜左衛門 不破関蔵に同じ高野村 農民 橋本周次 三春藩官軍に 帰順した旨を、二本松城下に使者として派遣、叡感勅書せられたる 藩士に通達すべく任せられたる使者なり 大山・不破・渡辺と共に 戦死したるものの如し 解説・1による四名は、3の調書に記載されているように、三春藩帰順の 何日か前から二本松に恭順勧告のために滞在していた大山と、仙 台から帰る途中の不破、渡辺、それと三春藩の帰順を連絡しに行 った橋本と思われる。 2によると、殺害されたのは一名であとは逃亡したとあり、1とこ の死者数の点で一致しない。ただし、これを書いた人から見えな い場所に逃亡後、そこで殺害されたとも考えられる。なお同書に、 「たんさくの御方・・・弐三人参りおり候処」(傍点筆者)と記述 されていることは、二本松藩は三春藩による恭順勧告を、三春藩 帰順の何日か前から受けていたことを示唆していよう。なお1に ある7月二十七日は、三春舞鶴城無血開城の日である。「城下町に 生きた人々」と「二本松市史」との間には、二本松藩を訪れた日 に若干の齟齬がある。いずれ調査の必要もあろうが、二本松での 戦争以前であることでは一致する。 5 歴史 みちのく二本松落城 二一ページ 同盟直後において三春藩は奇正隊の意見に屈服し隣藩守山並びに二本松に降順の誘いをかけた。守山は暗に賛意を表したが、硬論の多い二本松ではそれをしりぞけた。しりぞけざるを得なかった事情にあった。もし同盟の義約を脱すれば一挙会津と米沢のために叩きつぶされるのは火を見るよりもあきらかである。(中略) (片倉)新一郎は河野(信次郎・広中)を通じて、もっともよく三春の内情を知っていた一人である。二本松を恭順に誘った時、使者となった三春家老細川孫六郎を、密かに上層部にとりついだのも新一郎だ。【解説】これは榊山潤氏の小説の一節である。小説ではあるが、ここの行動はノンフィクションであると考えてもよいのではないか。 ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2008.02.04
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C 仙台藩の対応 *この仙台藩の態度が、奥羽越諸藩の行動を規制したと推測できる。 矢面に立たされた会津藩と庄内藩は、自衛の立場として会庄同盟を結んだ。その上で会津藩は、仙台・米沢両藩に仙米会庄同盟を持ちかけた。しかしこの同盟が会津藩主導となることを恐れた仙台藩は、自らを盟主とする奥羽列藩同盟を立ち上げた。のちに奥羽越列藩同盟に拡大した同盟である。 表面的には会庄同盟と一体の行動を示しながらも仙台藩は会津藩を見捨てて降伏する。本来この会庄同盟と奥羽越列藩同盟は別のものであったのであるから、別の行動をしても不思議ではなかったのかも知れない。ここのあたりの状況が、『宮城県史 二〇二ページ』の記述につながると考えられる。 “二面両舌”まことによく仙台藩の立場を浮き彫りにしている。幕末維新にあたり、公武のあいだに立って去就を決しかね、ついにもっとも恐れた朝敵として崩壊していった仙台藩の中間外交は、こうしてもう矛盾をあらわしはじめていた。”あれかこれか”の選択がせまられた最後の段階でも、この藩は”あれでもない、これでもない”といった。それを”あれもこれも”という形式に表現したのが奥羽越列藩同盟であった。それが、本来幕府党ではないはずのこの組織を、幕府党として機能させ崩壊させていく理由にもなる。そして仙台藩のこの道がそのまま北日本一円の諸藩の進路ともなった。その点で、幕末維新の政治史においてこれ以上に罪の深い両面外交はなかった。 解説・私には、これまた随分厳しい表現と思えるが、これが戊辰戦争の本 当の姿であったのかも知れない。 D 外部から見た三春藩の動静 *三春藩の新政府寄りの姿勢は、早くから二本松藩や仙台藩に知られていた。 二本松市史 第六巻 七三六ページ(閏四月)廿四日白坂ニ相たゝかい候趣扨奥羽の内ニも表ハどふめいと見せ内ニハ官軍方なるハ秋田津軽天童三春なと之申事ニて至而むつかしき事共也此事壬四月十四日頃也 仙台戊辰史 七三〇ページ六月廿三日、矢吹陣中ナル軍議所ニ於テ・・・軍議ニ日ヲ送リ兵ヲ野ニ曝シ国論ニ統一ナク軍略定マラズ守山、三春反盟ノ色アルモ之ガ為なり。 解説・二本松市史に記載されている情報が、二本松藩から仙台藩や会津藩に 流れたか、また逆に仙台藩や会津藩から二本松藩へ知らされたか? い ずれにしても閏四月二十四日の段階で、二本松藩は三春藩の本意をす でに知っていたということになるのではあるまいか。またこれらの文 書により、同盟側はその後長期に渡って三春藩の反盟を疑っていたこ とが分かる。 E 浅川の戦い *新政府軍と浅川で対峙していた会津・仙台・二本松勢を、背後から三春勢 がだまし討ち的に攻撃したとされる事件。 仙台戊辰史 六一五ページ 七月十六日仙藩塩森主税ハ棚倉城ヲ恢復セントシ三春、二本松、会津、棚倉ノ兵ヲ併セ石川郡浅川古舘山ヨリ兵ヲ進メ浅川ノ渡ヲ隔テヽ射撃ス西軍釜ノ子ヨリ出テ会津ノ兵ヲ破リテ浅川ノ後方ニ出ヅ 然ルニ三春ノ兵中途ヨリ離反シテ西軍ニ投ジ反撃ス 為ニ列藩ハ非常ノ苦戦トナリ辛ジテ兵ヲ収メ帰ル・・・之ヨリ列藩ハ三春ノ不信不義ヲ怒リ、三春狐ニ誑カサレタルハ不覚モ亦甚ダシ必ズ彼ヲ屠ラズンバ己マジト切歯セリキ。 解説・この仙台戊辰史では、三春兵が新政府軍とともに同盟軍を攻撃した、 と伝えている。 戊辰戦役史(上)四七〇ページ 仙藩の大隊長塩森森主税は、棚倉城を回復せんとし、会津、二本松、棚倉の残兵を併せ、先ず棚倉の外郭陣地たる浅川を取ろうと決心した。その兵力は仙藩の伊達筑前の手勢たる登米の一大隊と砲隊、二本松四小隊、会津三小隊であった。・・・なお本戦闘に関し「仙台戊辰史」は、三春兵が離反し、官軍に投じて同盟軍を撃ったため、同盟軍が敗退したように書いてあるが、官軍の諸藩報には、いずれも背面攻撃の効果を述べ、また背攻に当たった薩、黒羽藩の戦況報告、「土持日記」「東山新聞」にも記されているから間違いはない。また三春兵については何も述べていない。ただし三春の離反は「仙台藩記」に「官軍、会津の兵を破り浅川の後に出ると三春藩中途にして反覆する」とあり、官軍が浅川の後に出たのと、三春の中途反覆の両因をもって敗戦したようにみえ、これが誤解を生じたものと思われる。而して三春離反についての記録は見ないが、恐らく浅川攻撃の出兵を拒否したか、あるいは出兵しても攻撃を拒否した程度で、積極的に官軍と合し、または単独で仙、会軍を攻撃、戦闘したとは認め難い。 小藩が両強軍の衝に在りて存亡の危機に際し、進退の節を変ずるは多少憫察すべきの事情なきにあらずと雖も、初は深く秘して其の進退を明らかにせず両軍に均しく狐媚を呈し、一朝決意するや、忽ち反噬の毒を逞しうせる者、東に三春あり、西に新発田あり。と筆誅を加えたのは、会津戊辰戦史である。『山川健次郎を監修者とし、旧会津藩士を編纂委員とした同書の立場からは、この発言も無理からぬところであったろう』 解説・この戊辰戦役史では、三春兵の不参戦と、三春兵が参戦したとされ た事情を述べている。『』内は筆者。 戊辰戦役史(上)四七一ページ この戦闘で彦根兵は戦死が二、傷四、薩兵は傷二を出したに過ぎず、仙兵は死十六、傷八、二本松兵は傷七、会兵は未詳であり、長時間戦闘した割には両軍ともに死傷者は少なかった。 解説・ここでは死傷者数を、具体的に示している。 二本松藩史 一六九ページ 十六日、丹羽(右近)、奥野、野沢ノ諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊ト合シテ浅川ノ敵陣ヲ攻ム。戦闘終日、東軍利アラズ。死傷者五名] 解説・この二本松藩史では、三春兵の離反について言及していない。これ は三春兵の不参戦を示唆しているのではあるまいか。 二本松市史 解説・二本松市史には、浅川の戦いに関して三春兵についての記載がない。 つまり、三春兵は参戦していなかったということか? 浅川町史 第一巻 六八〇ページ 同盟軍の中に、機を見て棚倉を占領しようという動きが見られた。浅川陣屋は土佐、彦根兵約二〇〇名が警備していた。同盟軍は、仙台、会津、二本松、棚倉の残兵約四五〇名が城山を占領した。城山同盟軍と浅川の新政府が対峙した。三春兵は、同盟軍への出兵を拒否したと思われる。 解説・この浅川町史では、三春兵が浅川に到着していないことを故意に書 き出している。しかし、なぜ戦闘に不参加の三春の名を明確に書き 出したのか? 浅川町史は、少なくとも発行の時点で「三春藩・狐」 の疑惑を知り、否定する意味で三春の名を書き出したとは考えられ ないだろうか。 三春町史 第九巻 七三〇ページ○ 十七日昼後風聞ハ 棚倉口石川並ニあさ川ニて 昨十六日暁天之大合戦有之奥羽方何れも敗軍ニて 御当家様御人数抔ハ何方へさんらん致候哉 相分り不申由之風聞なり○ あさ川石川辺之御合戦 追々ニ承候所 御当家御人数討死けか等壱人も無御座 よもき田村迄御引取ニ相成候由也 尤十八日朝之内二本松勢七拾人程繰込也 解説・戊辰戦役史はこの戦いで、仙台藩二四名の死傷者と砲五門、二本松 藩は死傷者七名の損失を伝えている。しかし三春町史においては、 三春兵に怪我人一人出なかったと言っている。ということは、三春 兵が戦わなかった傍証と思われる。 三春町史 第三巻 四ページ 棚倉の戦いで七月十六日浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問を受けると、外事掛不破幾馬らが弁明して事なきを得た。 解説・塩森主税は、仙台兵が浅川の戦闘に参加して戦況を知っていながら、 何故三春藩が離反したと詰問したか、そこには、何らかの作為が感 じられる。また仙台藩の氏家兵庫が三春に反盟の意志の確認に行っ ているが、もし三春藩を怒らせれば、新政府側に押しやることにな ると恐れていた。そのために強く出られなかったとも考えられる。 三春町史 第三巻 五ページ 複雑微妙、藩論を内外に明らかにし得ず、ついに政府軍の三春入城まで疑心暗鬼は続くのである。“会津猪仙台むじな 三春狐にだまされた 二本松丸で了簡違いぼう”(違い棒は二本松丹羽氏の紋所)“会津桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんとはねて 三春狐にだまされた”この歌にある“三春狐を”をどうみるか。激動する戦乱の中で歴史の大河に竿さし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であれば、それでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。 会津若松市史 第五巻 この書には、浅川の戦いについての記述がまったくない。 Eの総合的解説・まずこの戦いの前哨戦として、棚倉の戦いがある。同盟 軍は須賀川攻撃を陽動作戦とした新政府軍に乗せられて敗退した棚 倉戦を隠蔽するための、理由付けを必要とした。このため、会津兵 が浅川において、三春兵の裏切りによる背攻を主張すれば都合がよ いことになる。またもし、会津兵が三春兵の裏切りによる背攻を受 けて敗退したとすれば、『会津戊辰戦史』を参考にし得る会津若松史 が、これを無視するであろうか。また二本松藩史についても、同じ ことが言えるのではあるまいか。それに攻撃されたとする会津兵が、 攻撃したとされる三春兵ともども三春へ引き上げている。つまり会 津藩や二本松藩としては、少なくとも記憶に留めておくほどの三春 兵の動きではなかった、ということなのであろうか? これまで調べた書の中で、「仙台戊辰史」ただ一書が「三春離反」 を主張しているのみで、「戊辰戦役史」「二本松藩史」「浅川町史」「会 津若松史」「三春町史・第九巻・近世資料二」ともに三春離反を誅し ていない。また「仙台戊辰史」のいうように、「然ルニ三春ノ兵中途 ヨリ離反シテ西軍ニ投ジ反撃」したとすれば、当然、新政府軍と事 前に挟み撃ちの打ち合わせがなされていなければならない。もしそ れをしないまま攻撃し、「東軍」が敗れるか逃げるかしたら、新政府 軍と三春兵が正面切って対峙することになる。そうなれば新政府軍 は戦っていた会津兵の背後にいる(三春)兵たちを敵と認識する可 能性が非常に高い。つまり事実ではないと考えられる。 またもしその打ち合わせが出来ていたとすれば、三春恭順の際の 交渉がスムーズであった筈というのが更なる傍証となろう。ただし、 ここの点の記述を明確にしなかった「三春町史 第三巻 五ページ」 は、史実としての限界を示すものであろうか・・・
2008.02.03
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資 料 と 解 説 付録として、この「資料と解説」を載せた。 特に三春藩が、「裏切り者」「三春狐」と謗られる原因になったと思われるのが「浅川の戦い」であり「小野新町の戦い」であった。しかしその間にも、三春藩が裏切っていないと思われる傍証に「二本松藩へ恭順の使者を派遣」したことがある。 小説という形を採りながら無粋な「付録」を書き加えた理由は、単に筆者のフィクションのみである、と思われるのを避けたかったことと、読者がこの本に記載されている文献を参考としてもう一度探し出す煩雑さを避けることにあった。 ご了承を頂きたいと思います。 A 年 表(抄) 『』は筆者加入 *明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際しての報告書慶応三年十月二四日 徳川慶喜が征夷大将軍を辞し、全国各藩に朝廷に恭順な るべきと布告。三春藩は直ちに之を藩士に達し、藩主後 見の秋田主税は、各重役を会して勤皇の藩議を決した。 これによって江戸詰役小野寺市太夫を上洛させ、次いで 秋田廣記を藩主御名代として急行上洛させ、同年十二月 二十六日京師に達し、三春藩の所信を表明する。『慶応四年一月 一日 幕府より、西国討伐令が発せられる』 『一月十六日 朝廷より、徳川慶喜追討応援令』 一月二二日 朝廷より征東の朝命下るや、三春藩は勤皇の初志貫徹の ため、秋田右近(浪岡)を江戸詰として出府させる。 (資料B) 『二月十七日 仙台藩に錦旗二旒が下賜された』 四月十一日 江戸無血開城。 在府の勤皇の各藩は橋本、柳原の両参課に相携えて其の 命を乞い、其の分に及ばずの返答に、更に本国の急に赴 くに先だって、秋田右近は大総督有栖川宮を芝山内真乗 院に伺候し、池田参謀に面接して藩の意志を通じ、同月 二十日一同江戸を発して帰国するこれより先、朝廷は会 津、庄内両藩の追討のため、三月下旬鎮撫使の一行を仙 台に入らせ、着々征東の策を講じており、会津藩の赦免 嘆願書を提出したが容れられず。(資料B) 閏四月二二日『前日の夜、世良参謀が福島で斬殺される。この事件を契 機として新政府と対峙する奥羽列藩同盟が結ばれた』こ の同盟は三春藩の本意でなく、事の真相を報告するため、 山地純之祐及ぴ熊田嘉膳の二人を京都に派遣した。 (資料B) 『閏四月二四日 各藩の京都御留守居に「徴兵可能の人数を守護屋敷に報 告し、七月中に人数を差し出すよう」との指示があった』 『五月 一日 越後の六藩が加盟、奥羽越列藩同盟が成立した』 『五月二六日 同盟軍は、白河城奪還作戦を決行。三春藩も参加』 五月三一日 熊田嘉膳ら、京都にて秋田廣記に会し、翌日、参議穴戸 五唖、副総裁岩倉具視に謁して藩の本旨を明らかにした。 岩倉は、三春藩の苦裏を諒とし、勤皇の大義を固守する を歎賞された。 (資料B) 六月 三日 「叡感勅書」を賜る。 『京都で叡感勅書を賜ったものの使者が三春へ帰着する以 前であったため、つまり認められるかどうかが分からな かった。それらもあって、同盟軍として白河、棚倉へ出 兵せざるを得なかった。しかしこの行動と叡感勅書を得 たことが矛盾する結果となった』 『六月十五日 大政と改元した東部皇帝は、仙台に、北部政府を樹立し た』 七月 二日 三春兵が、白河の攻防戦に同盟軍側として参加していた ため、在京の藩士らに禁足令が出された。 『この頃、秋田・秋田新田・弘前・黒石・本庄・矢島・亀 田・新庄・天童藩など各藩が、奥羽列藩同盟を離脱』 『七月 六日 河野広中ら、独自の嘆願行動を起こす』 『七月十五日 河野広中は、三春藩主脳をともない、棚倉へ』 七月十六日 同盟軍、棚倉の官軍を攻めんとして浅川で敗れ、兵を須 賀川、郡山に退かせた。 (資料E) この頃三春より、二本松藩へ恭順勧誘の使者が派遣され た。 (資料G) 七月二四日 この時、三春藩の行動に反盟の形跡ありとした二本松藩 は、福島に在った同盟軍軍事局に急報して其の命令を待 った。軍事局はその真相を探知するため、之を福島藩に 命じて内偵をはじめた。又二本松藩は、兵を三春城下に 進めて荒町馬頭観音山に屯させ、将に三春の町を一炬に せんとして窺った。このことに対して、老臣細川可柳が 自ら出て折衝の任に当り、この難局を解決した。 (資料F) 『七月二六日 柴原口より、新政府軍先発隊入城』 (資料H) 七月二七日 三春無血入城。 七月二九日 二本松落城。 (資料J) 解説・この年表は、明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際し、旧三春 藩の勤王事跡を一覧に供するため記述されたもので、薄田精一執筆、 県視学志賀兼四郎、郡視学宇田徹事、郡書記秋田東次郎、同佐藤亥四 郎らの周到な調査によるとされている。 (三春・松本氏所蔵による年表より抽出) B 三春藩勤王の対応 *三春藩の動きは、次のようなものであった。 明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際しての報告書 (前掲A年表)より 慶応三年十月二四日、徳川慶喜、征夷大将軍を辞し、全国各藩に朝廷に恭順なるべきと布告。朝廷より、列藩主召集の命が下る。三春藩は、直ちに之を藩士に達し、藩主後見の秋田主税は、各重役と会して勤皇の藩議を決した。 同 左 慶応四年一月二二日、三春藩は勤皇の初志貫徹のため、秋田右近(浪岡)を江戸詰として出府させる。 同 左 四月十一日 江戸城引き渡し終結。在府の勤皇の各藩は橋本、柳原の両参課に相携えて其の命を乞い、其の分に及ばずの返答に、更に本国の急に赴くに先だって、秋田右近は大総督有栖川宮を芝山内真乗院に伺候し、池田参謀に面接して藩の意志を通じた。 三春町史 第二巻 七五四ページ (閏四月)二十二日に御用人秋田右近を出府させた。「遂に征東の師を起こさるるに当りて、各藩其向背に関し、大に物議を生じたりしも、我藩は専心飽くまで初志を貫徹せんと欲し、殊に江戸における相応の労役に当らん為、急遽出府せしめぬ」 解説・三春藩は、慶応三年十一月初旬に勤王の藩議を決定し、同年十二月 二十六日秋田廣記を藩主名代として急行上洛させ、参与屋敷に三春 藩の所信を表明した。この時期、三春以外にも表明した藩は多いと 思われるが、それについては調べていない。四月十一日、秋田右近 は大総督・有栖川宮に伺候して、池田参謀に藩の意志を伝達した。 閏四月二十二日、奥羽越列藩同盟が結成され参加するが、これは藩 の本意ではないとして山地純之助、熊田嘉膳が京都に派遣された。
2008.02.02
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お わ り に ものを書くことで歴史を辿ってみると、今までに理解していたこととは逆のことに突き当たることや、新しいことに遭遇することは決して珍しいことではない。例えば私は、こんなことを経験した。 私の会社は家庭用品の卸売業を営んでいた。それもあって、二本松市のお得意先の小売店の結婚式に招かれることが多かった。そこでたまたま隣に座った二本松商工会議所の方と雑談をしていたが、私が三春出身であることを知ると、「二本松藩は馬鹿だった。もし三春藩と一緒に帰順していたら、あんなひどいことにならなかったろうに・・・」と言われた。 ──二本松なのにそう考える人もいるんだ。 そう思うと私は返事に詰まり、黙っていた。 またこれに関連することで、神山潤氏著 「歴史│みちのく二本松落城│」の「田舎武士の目」に、次のような記述がある。[いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った] 次にもう一つ、中島欣也氏著 「裏切り│戊辰、新潟港陥落す│」の「あとがき」から引用させて頂く。[しかし裏切りとは何なのか。戊辰戦争の新発田藩は、それに該当するものだったのか。それは、「けしからぬこと」で一刀両断できるものなのか。またそれが、けしからぬ裏切りだったとしても、それを責めることのできる人がいるのか。 非難というものは、その相手の立場に自分の身を置いてみる│とまではいかなくても、最小限相手の物差しを知り、その行動を検証したうえで、行なわれるべきものであろう。それを避けて通っていながら先入観や固定観念だけで非難が定着するのはおかしい。そう私は思うのである] ──確かに自分に都合の悪い事を誰かのせいにすると、複雑な物事でも簡単に説明できる。そのようなことから「先入観や固定観念だけで(三春への)非難が定着」したのではあるまいか。これはどうにかしなければいけない。 私はそう強く思った。 「会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」 戊辰戦争の後期から歌われたこの戯れ歌に、どれだけ多くの歳月、そして多くの三春の人々の心が痛めつけられたか? それが今に至るまで続き、さらに今後も歴史的事実として継承されて行くとすれば、これほど悲しいことはない。そんなことを考えているうちに、この戦いの本質と思えることが、「二〇〇一年 ドナルド・キーン著 明治天皇・上巻 二四九ページ」に記載されているのを見つけた。次に転載する。[北(奥羽)における政府軍の数々の勝利は、常に事態が収拾されたという保証を伴って天皇に報告された。或いはこの時期、天皇の関心はこれら軍事的問題から逸らされていたかもしれない。間近に迫る即位と江戸下向の旅、いずれも遠隔地での戦闘より直に天皇の心に響く出来事が控えていた。しかし、明治天皇が紛れもなく気づいていたように、幕府復活の脅威が永遠に葬られるためにも、相次ぐ反乱はことごとく鎮圧されなければならなかった] この記述から考えられることは、戊辰戦争の現場でちょうど起こった三春狐や新発田狐という中傷が、結果として新政府本来の意図を隠蔽することになり、さらに戦いの総括をしなかった結果として「官軍・賊軍」という未了の課題を今に引きずらされた、ということなのではあるまいか。 さらに私はこれを書いているうちに、奇妙な事実に遭遇した。 慶長七(一六〇二)年、関ヶ原の戦いで徳川方に味方をしなかったとして、温暖の常陸から寒冷の秋田の地に追われた者に佐竹氏がある。そしてこのため、先祖伝来の秋田の地から押し出される形で国替えとなった氏族に三春・秋田氏、新庄・戸沢氏、本庄・六郷氏、矢島・内越氏、それと由利五人衆の仁賀保氏など奥羽の五藩がある。 この戊辰戦争の際にそれら五藩と秋田藩を含む六藩が、まるで話し合いでもしたかのように新政府の側についた。もちろん時期は一致しないが新政府側に付いたのは、これらの藩ばかりではなく都合十六藩にも及んだ。(一九九〇年 歴史読本 勤王・佐幕、幕末諸藩の運命 一六〇ページより。 なお本書二八一ページ参照)しかしその中にあっても、これら六藩の統一したような行動は、単なる偶然であったのであろうか? もっとも私としては、それ以外に考えようもないが・・・。 それにしても、慶応から明治、大正、昭和、平成と戊辰戦争後一三〇年も経った今の世に、なぜ長尾まり子氏が言うように三春はこんな風に責められ、苦しめられなければなければならないのか? なお、過日、茨城県古河市に住むわが友・山口篤二氏と裏磐梯に遊んだ。戊辰戦争の戦場の跡である母成峠に至ったとき、碑文を読んでいた彼が尋ねた。「ここでは、西軍、東軍と言うのかね?」 奥羽越の人たちが、「賊軍」と言われることを嫌った表記ではあるが、彼には違和感があったらしい。なお古河藩は、新政府軍としてこの戦争に参加している。「やはり、『官軍』『賊軍』の感覚かね?」 この私の逆襲に、彼は戸惑ったような表情を浮かべながら言った。「そうはっきりではないが、それに近いものを感じていた。なぜなら東軍・西軍では関ヶ原の戦いと勘違いされそうだし、その上に東西ではどこからが西でどこからが東なのか、抽象的で分かり難い。真綿でくるんでしまうような甘さを感じさせられる」 なるほどそう言われてみると、私にも東軍・西軍という名称が全国的に認知された名称、とも思えなくなってしまった。 これらのこともあって、私はこの小説の中で「官軍と賊軍」、さらに「東軍と西軍」に変えて、あえて「新政府軍と同盟軍(北部政府軍)」の文字を使用した。あの戦争で賊軍とされた地に住む者の一人として、やはり「賊軍」という文字は使いたくなかったのである。 私は小説家でも歴史の専門家でもない。だからこの二点から追求されれば返答に窮することもあるはずである。しかしこの小説が、三春を「狐よ裏切り者よ」と責めた側にもそして責められた三春の側にも、なんらかの考慮の材料になることがあるとすれば、望外の幸せである。そして今後この仮説を覆す資料が出た場合、修正するにやぶさかではないことを付け加えさせて頂く。つまり歴史とは、そんなものかも知れないのだから・・・。 二〇〇二年十二月
2008.02.01
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「トク、呉服屋へ行くぞ」 先ほどから考え事をしていた嘉膳は、枯れ葉を一面に撒き散らしたような庭に立ったまま突然声をかけた。「えーっ、いかが致しましたか?」 驚く妻を目で制すると、外に出た。トクは慌てて夫に従った。 ──これは三春に戦争を持ち込まずに済ませられたことに対しての、自分自身へのご褒美よ。 彼はいつもの真面目な顔をしながら、そう思っていた。 呉服屋ののれんを分けて店に入ると、丁稚が、「これはこれは、熊田様・・・。いらっしゃいませ」と声をかけてきた。 帳場で帳付けをしていたらしい番頭が、覗首をする格好で嘉膳と目が合うと、奥に大きな声をかけた。「旦那様ぁ 熊田様がお越しになられましたぁ」 ──この声を聞くと気分がいいわ。それにしても何年振りかしら。 トクはそう思った。 嘉膳が腰の大小を外し、店の上がりがまちに腰を下ろしているところへ店の主が腰を屈めて籾手をし、相好を崩しながら現れた。「これはこれは熊田様。それに今日はまた、奥方様とご一緒とはお安くない」 そう言って座ると、小さな煙草盆を押し出した。「うむ亭主。今日はな・・・、特別にまけてくれよ」 嘉膳も照れ笑いを隠しながら煙草盆を引き寄せた。「それはもう、熊田様のことですから、勉強をさせて頂きます」 亭主も如才なく応じた。 店内は閑散として、客は誰も居なかった。大体このような不安な情勢が続いていたときに、着物など買いに来る客などなかったのである。亭主は、トクが番頭と反物を広げて話をしている様子を横目で見ながら、愛想を言った。「ところで熊田様。お陰様で、三春は周辺の町々のように、戦火に焼かれたり町民も命を失ったりせずに済みました。また領内も荒らされなかったので、私どもも安心して早く元の生活に戻れました」「む・・・。そう言われればわしも悪い気はせぬが、しかしこの頃小さな子どもまでが、『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで 了見違い棒(違い棒は、二本松・丹羽氏の家紋)』とか、『会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ねて 三春狐に騙された』などと言って戯れているのを見ると、心の臓を突き刺されるような思いがしてのう・・・。息苦しいわ」 嘉膳は煙草盆に、煙管からポンと火を叩き出した。 「いや、しかし熊田様。その他にも新政府の悪い奴らが言っておりますよ。『会津猪 米沢狸 仙台兎で 踊り出す』とか、『会津猪 仙台むじな 安部(棚倉藩主)の兎は よく逃げた』、『会津猪 米沢猿で 新発田(新潟県)狐に 騙された』などと、偉そうなことを言っております。まったく藩の御重役様方のお気持ちも知らず、手前勝手なものでございますな」 亭主はそう言うと精一杯の愛想笑いをした。「むふっ・・・」 嘉膳は、思わず飲みかけの茶碗を危なく口から離した。「なんだなんだ亭主。新発田藩も狐などと言われている戯れ唄を知っておったのか? もっとも『勝てば官軍、負ければ賊軍』とも申すからのう。新政府軍から見れば、単に三春は負けた賊軍の一員じゃ。負けたわれらは言われるがままで、何の反論も出来ぬがの? しかし新政府は、どういう方式をこの国にもたらすつもりなのか、とんと分からぬ」 そう言いながら嘉膳は、亭主の耳元に口を近づけて囁いた。「もしこの戦いで、北部政府の奥羽越列藩同盟が勝っていれば、薩摩や長州藩は賊軍になって、明治ではなく大政の世になっていたろうの・・・?ん?」 いたずらそうな目でそう言うと身体を離し、大きな声で笑った。 亭主は驚いて、目が顔から飛び出しそうな顔をした。 それを見ながら嘉膳は、すました顔で静かに茶をすすった。 ──わしの今度の行動、何かがどこかで、どう間違えてしまったのか! これからの奥羽越の諸藩は、辛く厳しい思いを長くさせられるのであろうな・・・。三春藩は三春藩で、周囲の皆んなに「三春狐」などと揶揄されて、後世の領民たちにわだかまりを残すことになってしまったかも知れぬ。わしは子孫に対して、本当はとんでもなく相済まぬことをしてしまったのかも知れぬ。それにしてもこの平和の代償が、三春狐という負の、しかもこんなに高価なものであったとは・・・。この思いもかけぬ結果に、たじろぐような想いがする。これでよかったのであろうか? 嘉膳は、妻が番頭と反物の柄行などを話しているのを聞きながら、また煙草盆の火をつけた。いろんな思いが、嘉膳の喫煙量を増やしていた。「熊田様。奥方様は、この柄行がお気に入られましたようで」 番頭が反物を、トクの衿元に沿わせて見せながらそう言った。 トクは、はにかんだような顔をしていた。「おう、そうか。それがよいか・・・。亭主、それにしてくれ」 嘉膳は嘉膳で、大照れに照れていた。番頭が「あの~、これに合わせた帯は・・・」と薦めるのを無視し、煙管の雁首から煙草盆に燃えさしを叩き出して立ち上がった。「へい。毎度ありがとうございます」 亭主は鷹揚にそう言って笑った。 嘉膳は、トクと番頭が仕立てについて話し合っているのを聞きながら、考えていた。 ──わしも三春藩の行動を秘するために、随分と饒舌でごまかしてきた。もっとも町方でも、陰ではわしのことを『嘉膳囃し』などと言って茶化していたらしい。それにしても、新政府軍出先参謀の板垣退助というは、大した男だった。新しい日本の先行きを、しっかり見据えておった。新政府があの思想を取り入れれば、新しい日本という国は立派な国になるに違いない。わしも日本という国を憂いていたつもりであったが、結局、三春藩を越えることが出来なかった。自分が思った以上に人間が小さかった。それに事がここまでになれば、この大きな歴史の回り舞台はすでに回り切ってしまったのかも知れぬ。わしもいつまでも観客の目に見えぬところで、六方を踏んで見得を切っている訳にも参るまい。そろそろ身の引き時だな・・・。「どうもありがとうございました」「またのお越しを」 店の前まで見送りを受けて呉服屋を出た嘉膳は、後ろからついて来るトクを振り返りながら言った。「また寒い冬になるな」 道に落ちていた枯れ葉が冷たい風に煽られ、乾いた音を立てて転がって行った。「はい。これからは、また雪がたんと降るのでございましょう」 嘉膳はまだ考えていた。 ──それにしても、「三春狐にだまされた」とは、同盟側もひどいことを言うものだ。この戦争の裏でなにが起きていたか・・・。われらがそれをいくら主張しても、結局、歴史の波の中に溺れてしまうのであろう。周囲から責められ、苛まれて孤独の境地に追い込まれた「三春狐」は、波間に漂う藁に掴まって浮かび続けて行くだけなのかも知れぬ。と考えればわが藩は、同盟側から敗退の口実とされても抵抗する力量もなく、また同盟が敗退した理由の矛先を向けるのに、ちょうどよい位置と規模の存在であった、ということなのかも知れぬ。 そう思いながら嘉膳は、ひょいと振り返った。伏し目がちに付いて来るトクの顔が、気のせいか上気して若やいで見えた。 ──愛しい。 そう感じながら妻の顔を見たとき、嘉膳は、はっ、とした。 ──ん・・・? ところで、あの朝廷から戴いた叡感勅書とは、いったい何であったのであろうか? あれは単にわが藩を信頼させ、場合によっては利用するだけのためであって、もともと新政府は、叡感勅書そのものに、われらが思うほどの価値など認めていなかったのではあるまいか? ということは、あれは・・・、ひょっとして、新政府のやり口であったのではあるまいか? そう考えてきたとき、嘉膳は自分の頭の中を、何かの塊がよぎるのを感じた。 ──結局あの戦いで戦火を城下に入れまいとした弱みを、三春藩は双方の側にうまく利用されただけであったのではないか? もしかしてあの戦争が、「日本国家という大きな組織が、それ自体を護らねばならなくなったときには、小藩や個々人の犠牲はやむを得ない」ということの前兆にならなければよいが・・・。 嘉膳は歩きながら、あの困ったときの癖が出て思わず腕を組んだ。 ──どうも違う、何かが違う・・・。今までわしは、無我夢中で戦いを避けてきたが、そう考えてみれば、会津藩や庄内藩のような大藩でさえ、新生日本のためという口実で攻め滅ぼされてしまった。今後の日本は、国家の保全のためとあれば、個々人をも圧殺するようになるのかも知れぬ。あの戦いは、その前例となるのではあるまいか。日本という国の新しい出発にこういう戦いという形をとったことは、よくない方への方向づけになるのではあるまいか。そうだとすれば、単純に「新しい日本はいい国になる」とばかりは考えられあのかも知れぬ・・・。「わーっ」 鬼ごっこでもしているのか、子どもたちが歓声をあげながら、二人の横を走り抜けて行った。 ──そうか。三春藩が朝廷に勤王の所信を奏上して間もなく、戊辰戦争が勃発した。奥羽はその戦禍を避けるため、会津救解のための奥羽列藩同盟が結成された。平和のためのこの結成に、わが藩は何のためらいもなく調印した。ところがその後この同盟は攻守同盟・奥羽越列藩同盟に変質してしまった。これに参加せぬことは、同盟側に潰されることになる。と言って同盟側として戦えば朝廷を裏切ることになる。ここが問題だ。つまり新政府は、自己の権威づけのため人を殺め、また人を殺めて見せることで、国民を押さえつけようとしたのか。天朝様の威光と武力で、国民を恫喝しようとしたのか・・・? これでは[石が流れて木の葉が沈む]時代だな。戊辰戦争とは、所詮そんなものだったのか・・・。 空の雲は重く、雪の到来を予感させていた。 (完)
2008.01.31
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「うむ。それに無謀と言えば、徳川慶喜様であろう。会津の容保様とは京都、大阪、江戸と同一の行動を要請していながら、江戸無血開城と引き換えに会津を見捨ててしまった。会津藩としても、もともとは孝明天皇様のためであり、徳川幕府のための献身であったろう。しかし一度は取り消された密勅とは言え、出してしまった密勅が一人歩きをしてしまったのだろう。それにこのような形での実質的奥羽越列藩同盟の瓦解は、各藩それぞれが自己保身のために行動をしなければならなくなってしまったということでもあったのであろう」「・・・」「もともと会津救解に動いた奥羽列藩同盟の政治的立場は、不戦であり、朝廷への忠誠であった。しかるにそれを無視し密勅を背景に、奥羽征伐に出てきた新政府軍とはいったい何だったのか。結局、慶喜様の大阪城逃亡が、この戦いの初期から各藩をバラバラにしてしまったのであろう。すでに見捨てられてしまった会津が、今だに慶喜様に忠誠を尽くしている姿が、悲惨だ。今に至るも、慶喜様は何を考えておられるか、まったく分からぬ。何も表明されぬ。自分は謹慎を認められ、駿河に隠退されたから、それはそれでよかろうが、その後、会津藩には、何らの助言も何らの協力もしていない。それはもちろん、戦いだけではない。会津救解に協力してもよかったのにだ。そこのところが明確でなかったために、新政府軍に攻撃され、戦場に取り残された奥羽越の我々諸藩は、ただ右往左往して分裂。結局、一人会津のみが逆賊、賊軍として矢面に立たされたことになってしまった」「賊軍・・・?」「そうよ。もっとも結果として、会津には新選組や彰義隊、凌霜隊やその他の幕府の残党が集結してしまったから、戦いも先鋭化せざるを得なかったこともあろうが、今度は品川沖で様子を見ていた榎本武揚様の艦隊が仙台に回るのを潮に、会津から脱出してこれに合流し、蝦夷に篭る動きも出ておる。その艦隊は、軍艦開陽をはじめとして、回天・蟠竜・千代田形・咸臨丸・長鯨丸・美嘉保丸それと神速丸という大船団だという。戦いは、会津だけでは済まぬのかも知れぬ」「それでは・・・。ようやく戦いが収まり、静かになるのかと思いましたのに・・・」 トクは顔に、陰を見せた。「それに噂によると、榎本武揚様は蝦夷地に新しい国を造ろうとしている、という話も聞く」「新しい国・・・、でございますか?」「うーん。この国とは別に、ちょうど日本や清国そして朝鮮国とあるように、蝦夷国とでも申すのかのう、国が一つ増えることだな」「それでは一体、この先どういうことになるのでございましょう?」「うむ。その国も新しく共和政体になるというのと、徳川慶喜様を奉じて新幕府を作るという噂が乱れていて、どちらになるのか訳が分からぬ」「新しい幕府? それはどういう」 ちょっとの間、沈黙が流れた。「うーむ・・・。それにしても、わしは今の幕府の制度では駄目になると思い、二本松藩を恭順にさそった。しかし内密に出した佐久間玄畏は守山で二本松兵に闇討ちに会い、ぎりぎりに二本松藩に出した大山巳三郎もまた犠牲となった。その上、会津藩は今、勝ち目のない戦いを続けておる。それなのにまた新しく幕府を作るとはな。わしは、戦いを起こさぬように思ったが失敗し、奥羽越列藩同盟が結成されてからは、戦争の早期終結を働きかけてきたにもかかわらず、これも駄目。さらに今度は戦いが蝦夷地に移り、もし榎本武揚軍が勝てば、国を二分する戦いとなって長期化する恐れも出てきた」「戦いは、長く続くのでございますか?」「それは、まだ分からぬ。ただ今わしが一番悔やんでいることは、わが藩の得ていた叡感勅書を、奥羽越列藩同盟の北部政府へ正式に開示する時期を見失ってしまったということだ。しかしあの叡感勅書は、本来わが藩にとって無意味であったのに、我らが意義あるものと単に誤解をしたのみかも知れぬ。『わが藩が新政府軍に帰順』ではなく、『新政府軍に降伏』させられたということは、その証拠かも知れぬ。この戦いにおいて、叡感勅書は何の力にもなり得なかった。このことが何とも後ろめたく、心残りと言えば心残り。誤算と言えば最大の誤算であった」 嘉膳は腕を組むと、妻の顔を見つめた。「お前様・・・!」「こたびの戦い、誠に悲惨なことではあるが、今というのはこれからの長い長い未来へつながる一瞬に過ぎぬ。いつかは良いことが、あるに違いない。いや、必ずある」「私はお前様を、信じています。ですから決して、ご無理をなさらないで・・・」 嘉膳は立ち上がると、腕を組んだまま、また庭の方へ向きを変えた。「ただ物事として、この世に存在するには存在するだけの理由がある。それは幕府とて同じこと。徳川幕府がこうなったということは、すでに日本という国に徳川幕府が存在する理由がなくなってしまった、ということなのであろう。これから一番大事なことは、『以後の日本がどこへ向かって行くか』ということであろう。いや、『どこへ向けて行くか』ということであろう。わしには残念ながら、その明確な方向付けをする能力がなかった」 それを聞くトクの目に、涙が潤んでいた。 九月二十二日、会津藩降伏。 九月二十三日、庄内藩降伏。 そして、会津藩と庄内藩の降伏とともに、慶応四年と並立していた北部皇帝の大政元年は、四カ月をもって、あっけなく消え去ってしまった。そして慶応は、新たに明治と改元された。明治天皇は江戸城に入城し、江戸は東京と改められた。東の京都、という主旨であった。 三春でも、御宸翰が紫雲寺で読み上げられ、一般に告知された。 その後、仙台の政紀より、 [仙台藩降伏の決定が、東部皇帝に伝えられた時、皇帝は大いに怒られた。 その後、皇帝は京都伏見宮邸に謹慎させられた。側近にあった僧の義観は、 東部皇帝の行為の全責任を自分に課し、『俗人なら切腹するところだが、法 衣をまとう身で、それはできぬ』と、絶食のまま獄死した。仙台藩の若生 文十郎と玉虫左大夫は牢前で切腹、坂英力と但木土佐は刎首にされた]との報告が入った。それを聞いた嘉膳は、 ──輪王寺宮による東部皇帝・大政天皇様も、この戦争の犠牲者の一人であらせられたのではなかろうか?そう思った。 三春藩では、季春が、次第、不同以上の全員を集めると藩存亡の危機の際の礼を言い、「他藩は虚脱状態にあろうから威張るような態度をとってはならない」と訓示し、御酒、御吸物、御赤飯を下付した。なお小物以下には、御酒を下された。 十一月末、全国の旧藩主たちは、東京へ移住して行った。彼らには新たに、華族という称号が与えられるのである。 [本日五ツ時 殿様御馬にて御出発なり。御先大太鼓二十、鉄砲五十丁、 次に殿様、次に士砲隊三十計なり] 日本は新しく変わろうとしていた。そこまでは理解ができた。それでは日本はどう変わるのか? それから先が、嘉膳には読めなかった。 ──政紀もせっかく最先端の技術を身につけながら、僻地の小藩に身を置いたばかりに活躍する場面が少なかった。随分とわしに協力してくれたのに、可哀想なことをした。 そう思った嘉膳は登城の身支度をした。 季春を訪ねて、政紀を藩校・明徳堂の教授として迎えてくれるよう、依頼しようと考えたのである。せめてそれが政紀にやってやれる、たった一つのことであった。すでに戦火は遠のき、秋が深まっていた。
2008.01.30
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いつしか時期は、夏の盛りを過ぎていた。嘉膳は、さして広くもない裏庭に立っていた。その庭はこの騒ぎで、手入れも行き届かず雑草が生い茂っていた。 妻のトクが、嘉膳の背後に座って話し掛けた。「朝の内はともかく、この夏はいつになく暑うございました」「うむ、『夏の暑い年の冬は寒い』と言うからのう。ともあれ、今年の作柄は悪くないようじゃ」 嘉膳は、乱雑になった庭を見ながら言った。「このところ、不作が続いておりましたので、そうなるとようございますね・・・。ところで戦いの方は、どうなるのでございましょう」 トクは、端座したままで訊いた。「うむ・・・。やはり仙台藩は動いたのう。前に心配していた通り、結局は錦旗を掲げて新政府に恭順しおったわ」 嘉膳は振り返るとトクを見た。「その上に、米沢藩もひどいものじゃ・・・。こういう時勢、矛を収めたのも分からぬでもない。しかし、藩主の上杉弾正大弼斉憲様のお子の茂憲様は、自ら越後口の総督府に出向き、『会津を攻めましょうか?』というお伺いを立てていたそうじゃ」「まあ・・・、あの米沢藩が?」 嘉膳はまた目を庭に戻しながら、独り言のように言った。「うむ・・・、今になって尻尾を振ってのう。その後はお前も知っての通り、仙台藩も恭順した。この仙台藩と米沢藩は、奥羽越列藩同盟の中心にありながら、積極的に戦わずさらに自分を軽傷にとどめながら会津に苦汁の入ったお鉢を回したようなもの。これらから思い返せば、わが藩が仙台に救援依頼の使者の琴田半兵衛を出したとき、一兵の援軍もよこさず、ぎりぎりになってから寄こしたことがあった。すでにこの時、仙台藩は恭順の意志を秘していたのであろう」「・・・ところで、お前様。二本松藩が降伏し、福島や村松藩(新潟県)も降伏したと聞きましたが?」 嘉膳は、妻の方に向きを変えた。「うむ。福島藩主の板倉内膳正勝尚様も米沢藩に逃れたが、二~三の家来を除いて、全員が米沢に入るのを拒否されたというわ。新政府軍の世良参謀の暗殺に福島藩士もかかわっていたことを恐れた米沢藩が、わが身を守っての話ではあろうが、これもまた酷な話。板倉内膳正勝尚様も踏んだり蹴ったりじゃ」「それでは、御家来衆は・・・、いかがなされましたか?」 トクが心配そうな顔をして訊いた。「うむ。米沢に入るのを断られた御家来のうち、近習頭の鈴木六太郎、物頭役の内藤魯一らが同士約二十名とともに脱藩して逃走し、二本松の新政府・彦根藩の陣営に出頭して降伏したという。藩を守るという大義の下、個々の命が軽いのう。結局は、藩士という名の弱者の破滅には、目をつぶられてしまったのよ。藩がなくなったあげく米沢に入るのも断られ、行く所がなくなってしまった福島藩士も、不憫なことよ」 トクは目をしばたたいた。「そうしますと、残るは、会津と庄内藩のみでございましょうか?」「うむ。その会津も、鶴ケ城での篭城戦になっておる。今しばらくの戦いであろう」「それにしても、二本松藩の少年隊が全滅し、会津藩では白虎隊という少年たちや娘子隊という女たちが戦っている、と噂されておりますが・・・」 それを聞いた嘉膳は、しばらく黙っていた。そして話し出した。「そうか、お前も聞いていたか・・・。戦いとはむごいものよ。わが藩の帰順で須賀川から兵を動かせなくなった二本松藩は、少年たちまでも動員したらしい。この少年隊も、悲惨な最後だったという・・・。相手が少年たちとは知らなかったとはいえ、わが藩兵の嚮導による新政府軍と戦っていたのだから、心が痛むのう・・・。しかも二本松藩主の丹羽左京大夫長国様は米沢へ、奥方様は会津に逃れたそうじゃが、結局は二本松に戻られた。それにしても大藩の都合に振り回される小藩とは、辛い立場よ。三春藩とて同じことであった。とにかく新政府軍は冬に入らない前に決着をつけようとして、攻勢を強めておるわ。彼らは南国育ちが多く、冬を恐れておるのよ」「すると、まだまだ犠牲者が出るのでしょうか・・・。いったいこの戦争は、なんのためだったのでしょうか」 嘉膳は、妻の前に胡座をかいた。「わしにも分からぬ。最初は単に、薩長による幕府からの権力奪取の戦いであったと思う。しかるに、新たな政治思想が起こり、そこへ諸外国の思惑がからんだこと、それが幕府制や天朝様のあり方、つまりは日本のあり方を探る争いになったのかも知れぬ。しかし結局は、最初の『薩長による幕府からの権力奪取』の部分のみを引きずったのが、この戦争であろう」「それだけが、理由だったのでしょうか?」「うむ。たしかに事はそう単純ではない。しかし大きな声では言えぬが、薩長両藩に倒幕の勅が密かに出された後に、つまり幕府が大政を奉還した後にもかかわらず、姑息にも帯地などで錦の御旗などを作って幕府軍を脅かした。恐れ入った幕府は江戸城を明け渡し、将軍が寛永寺に謹慎した。そして会津が謝罪を嘆願し、奥羽の諸藩がそれの後押しをした。これらのことでも分かるように、これで済めばこの戦いはしなくて済んだ筈。そうすればこの戦いに、意味はまったく無かったことになる」「それなのに、武力で攻めてきたと・・・?」 嘉膳が妻とこのような話をしたのは、最初であった。 ──いろいろ考えていたのだな。 その思いがトクに理解されるようにと、丁寧に言葉を選びながら話していた。「そうよ。薩長両藩が新政府と称し、無理矢理攻めてきたのは、会津藩主が京都守護職についたことや、庄内藩が薩摩屋敷を焼き討ちにしたことに対する私怨と言っても間違いあるまい。しかしそれとて、会津藩が自分勝手にやった訳ではない。会津藩は孝明天皇の信任を得た上に幕府の命令、また庄内藩も将軍が留守とは言え留守幕閣の命令による行動であった。しかも会津や庄内への攻撃が将軍の謹慎後であるということは、薩長の方が無謀であったと申してもよかろう。ただ新政府としても、『同盟方に強力な兵力を残したままで、新国家が成立させられるか』という危機感を持ったのも、事実であろう。さすれば無謀、とばかりは言えぬのかも知れぬ。とは言っても別の方法があったのではないか? それにこれほどの人を殺め、財貨を失う意味があったのか? そう疑問に思う」「そうしますと、せめて三春藩が最小の犠牲で済ませられたかも知れないことは、ありがたいことなのでございますね」 そう言われて、嘉膳は思わず微笑んだ。久しぶりの微笑みであった。
2008.01.29
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平 和 の 代 償 翌日、ついに二本松藩は降伏した。旧幕府から預かっていた白河城を守ろうとしたばかりに、この戦いの先鋒となってしまい、結果として戦いに巻き込まれてしまった二本松。そして、その意志とは無関係に、戦火の坩堝に投げ込まれた二本松。少なくとも二本松は、この戦いにおいて主導権を持つことはなかった。 [二本松藩へ不戦恭順勧告の使者として出されていた大山巳三郎と翌日大 山への伝令として行った橋本周次、それに仙台から帰藩中の不破関蔵と渡 辺喜左衛門などの四名の方々が、二十八日の早朝、二本松よりの帰路の三 春街道で、二本松藩同心の渡辺幸一郎らの介錯により切腹させられました] [藩の主力が須賀川に出て兵力が不在の二本松霞ケ城では、藩主の丹羽左 京大夫長国様が米沢に、ご夫人が会津に逃れ、城を守っていた少年隊も全 滅したそうです。また、家老の丹羽一学様、重臣の内藤四郎兵衛様、服部 久左衛門様、丹羽和左衛門様、安部井又之丞様、千賀孫右衛門様らは、本 丸に火を放ち、自刃致しました] [三春藩より仙台に派遣されていた琴田半兵衛、畑静馬、町田政紀が、仙 台藩に捕らわれて投獄されました] [福島の北部政府の軍事局に派遣されていた大関兵吾ら二名は、福島藩に 捕らわれ、投獄された上、斬殺されました] それらの報告を、嘉膳は黙って聞いていた。 ──あいつは、死んだか・・・。あれは捕らわれたか・・・。こうならないようにと、頑張ったのだが。 多くの顔が浮かんでは消えていた。そして報告は、ひっきりなしに続いていた。「政紀! なんとしても戻って来い! どうやってでも帰って来い!」 嘉膳は、声にならぬ声をあげていた。 [神官の先崎伊織と小泉伊賀は、新政府軍参謀局に、神官による義勇隊編 成を願い出、すぐに許可になったので護衛隊と称しました。参加人数及び 所属藩は、守山藩十一名、三春藩三十七名、笠間藩二名、二本松藩十二名、 長沼藩十三名、幕領より三名、その他の所属不明の藩から二十五名、その 他合計百三名であります] [郡山で大村藩兵と会津藩兵が交戦しましたが、会津藩兵は如宝寺付近に 火を付けて逃げたため、民家四百十六戸が焼失しました] [相馬藩の使者が、相馬大膳亮充胤様の御開城嘆願書を持ち、三春の新政 府軍参謀局に出頭して参りました] [本宮と郡山が会津藩兵により夜襲を受け、本宮は全焼、郡山も焼け残っ ていた町家や寺々まで全焼しました] [仙台藩領の新地の駒ケ峰の戦いで、仙台藩は大敗軍となりました] [新政府軍による二本松城下での略奪は、目を覆うものがあります。彼ら は町家や足軽屋敷を皆な打ち壊し、土蔵を壊して金目のものを持ち出し、 宿舎とした表通りの商家に山のように略奪品を運び込んでは喜んでおりま す。あげくに略奪しすぎて故郷に運べず叩き壊したりしているのですから、 略奪された領民どもは誠に哀れな様子です] 当時の戦場では、兵はもちろん人足として出た者にも、落城して三日の間、分取勝手御免が許されていた。略奪などが勝手気ままに繰り広げられたのである。このために二本松の領内は、荒れに荒らされた。 季春と嘉膳は、苦汁の面持ちでこれらの報告を聞いていた。「三春はこの目に合わずによかったが、こうなると、いったい二本松は何を守ろうとしたのであろうか? と考えさせられまする」 今日はあの池のそばでなく、季春の部屋にいた。「うむ。負けた側とすれば、それを問われても返答は出来まい。ただ二本松藩が敗れた後の仄聞として、仙台藩は二本松藩が大垣藩と密謀していたと疑っていたらしい。二本松藩はその疑いを晴らすためにも、戦わざるを得なかったという。それにしても残されたのは、失われた人の命の儚さと生き残った者の大きな悲しみ、そして修復不能なほどの大きな傷口であろう。敗戦ということは、『それまでのすべての努力に、意味がなかった』と言われるようなものであろうからのう。二本松藩は、いままでの全てが否定されたようなものじゃ」 季春はじっとして、身体をこわばらせていた。「そうですか。二本松藩が恭順出来なかったのは、仙台藩に疑われていたこともあったのですか。辛いことであったでございましょう。それにしてもわが藩としては、北部政府に対して、叡感勅書の存在を明確にする時期を、逸してしまいました。いま思い返せば、仙台藩の塩森主税殿来藩の折が、最後の時期であったのでなかろうかとは思っておりまするが・・・」 嘉膳は、季春から目をそらしたまま言った。どうしても嘉膳は、あの「降伏」と「三春狐」にこだわっていた。そしてその責任を感じていた。「なにを言う嘉膳。あのときは、どうしたら攻められぬかと考えていたときであろう。そう自分を責めるな。あのときの状況判断は、それはそれで正しいことであった。わしはそう信じておる。もしあの時に叡感勅書を明確にしていたら、恐らく三春藩は北部政府軍に叩き潰され、御城下は火の海になっていたであろう。例えば長沼藩を見よ。笠間藩を見よ。そして戦火に焼き払われた多くの町々を見よ。それを思えば、今後起きることは、これから考えればよいではないか。いまさら時を遡って、変える訳には参らぬ。すでに結果として起きた今を原点として、先を考えるべきであろう」 嘉膳は拳を強く握りしめ、季春の話を聞いていた。「それにのう嘉膳。わしも奥羽が会津救解に動いていたときに、叡感勅書を明らかにすべきかとは思った。しかし考えてもみよ。あの時点で申さば他の大藩の鼻をあかし、自慢したようにも見えよう。それに三春藩はたかが五万石、しゃしゃり出る訳にも参らなかった。それを言えば、逆に『力もないくせに、よくもあんな大事(おおごと)が出来たものよ』と嘲笑されるのが落ちであったろう」 嘉膳は黙って下を向いていた。 新政府軍参謀の命令で各地に出兵し、藩内の治安維持のための兵力にもこと欠いた三春藩は、[修験者どもは申し合わせて、城下の火の番夜回りを厳しくおこない、怪しい者がおれば切り捨ててもよい]と藩の祈願所・宝来寺宛に命じ、各村修験にも通達した。 八月十六日、三春藩の所領安堵が許され、藩主の謹慎が解かれた。 ──ようやく、ここまでもって来れたか。 嘉膳はそう思った。 最大の命題であった三春領内の安泰は守れた。晩夏らしい青い空が、嘉膳の心を少し明るくしていた。しかし会津での戦争は続いていたし、新しい日本の姿はまだ見えて来なかった。この同じ日、彼の手元には、また別の報告が入った。 [城内の婦女子を三春の庚申坂に避難させ、新政府に帰順しようとしてい た下手渡藩を、仙台藩が二百の藩兵をもって襲撃した。下手渡藩は応戦し たが多勢に無勢、翌日には落城した。三春に進駐していた大村藩と柳川藩 兵が、下手渡藩奪還戦のために出陣して行った] ──もし三春藩も叡感勅書を明確にしていたならば、こうなったのではなかろうか? そして、嘉膳は考えていた。 ──もし相馬藩が下手渡藩を帰順に勧誘しなかったら、こうはならなかったのではあるまいか? それではやらない方が良かったのか? それにしても、どこの藩も、結局は無傷で済ませられなかった、ということには違いない。 [八月十八日、須賀川に滞在していた彦根藩兵が三春に到着し、翌日、二 本松へ出発して行った] そんな報告も、届いた。 [町方では、売女が復活した] そんなつまらない報告まで、届けられていたのである。嘉膳の頭にはいろいろのことが一挙に押し寄せ、混乱の極にあった。 八月二十日、新政府の総督府が、白河より前線に近い三春に移って来た。赤沼まで迎えに出た嘉膳らに案内させて、総督代行の鷲尾隆聚と阿波の徳島藩兵の行列は美々しく、白地に「奥羽追討師」という旗を掲げて御殿に入った。鷲尾隆聚総督は、さっそく郡山・本宮・二本松・福島に兵を展開し、会津攻撃の背後を固めはじめた。 三春の龍穏院には、野戦病院が開設された。医者は佐倉藩より二名、薩摩藩より一名で、荒町の大阪屋に止宿した。ここには手負怪我人が収容され、看護には若い女性二十人ほどであたった。病院の布団や着物は二日ほどで新しい物と変えたので、一日三百両の費用とも言われた。しかしその多くは、新政府の役人の賄賂になったり、大阪屋が不用の布団や着物を安く買い占めて大儲けをし、医者の遊女料になったりした。この病院で死去した者は、六~七十名に上った。 八月二十四日、三春藩は、旧二本松領の本宮警備を命じられ、赤松則雅の小隊を派遣した。 八月二十五日、白河より正親町総督が三春に入り、御殿の門前には、[正親町殿本陣]の看板が掲げられた。 秋田万之助右不得止情実より而、一旦賊徒一味の形跡を成し候得共、賊を掃攘し、官軍を迎、降伏候段、被聞食届、格別の思食、謹慎被免、城地是迄通、被下置候條、爾後闔の方向確定し、王事勤労可相励旨御沙汰候事 八月 八月二十六日、大山巌は鶴ケ城の戦いで右股に貫通銃創を受け、龍穏院の病院に入院、のち白河に移された。 八月二十九日、三春藩は、旧二本松領東安達の警備を命じられ、中村多仲の一隊を派遣した。 九月四日、米沢藩降伏。 九月七日、仙台藩が戦線離脱。米沢藩は、自らが北部政府軍を妨害した。 九月十日、正親町総督は、総督府をさらに前線の二本松へ移した。これには、徳島藩兵がお伴をし、三春藩重役の細川次郎太夫が賄方として付き添った。 さらに三春藩は、伊達郡内警備を命じられた。
2008.01.28
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河野広中は、郷士や町人による義勇軍としての奇正隊を編成すると、新政府軍の傘下に入った。間もなく奇正隊は、土佐軍の一翼として本宮方面に出兵し、その手前の高木村(いまの本宮市高木)での戦闘に参加した。この高木村から本宮への阿武隈川の渡河作戦で、断金隊々長の美正貫一郎は戦死した。このとき本宮の戦いで捕らえられた仙台兵五名は、平沢村(いまの三春町平沢)の担橋の下の八島川河原で斬殺された。 三春町内でも、北部政府兵の捜索がはじまった。中町の井筒屋の前では、仙賊(仙台兵)が一人切られ、七~八人が捕らえられた。また荒町では、北部政府兵を見つけ、鉄砲を放ったが逃げられた。「季春様。河野広中からの報告によりますれば、当舞鶴城の無血入城に際し、美正貫一郎殿は、新政府軍の内部で『卑怯者』とか『命惜しみ』などと、大分謗しられていたそうでございまする」「なに・・・それは三春との戦いを避けた、ということのためか?」「それもありましょうが、『寄せ集めの隊長は、寄せ集めらしい考えしか出来ぬわな。今度は三春も寄せ集めたか』などとも言われたそうで、また言いにくいのでございまするが」「ん・・・?」「・・・『三春は裏切り者ぞ、狐ぞ。今度は裏切り狐で軍隊を作ったか』と」 季春は呆然とした。「・・・裏切り! そんなことまで美正貫一郎は言われたのか?」「はい。それもあってか、『美正殿は、あえて自らが死地に飛び込んだような、壮烈な戦い振りであった』との報告が入ってきておりまする。裏切り狐、三春狐なぞという責め言葉を聞いて、広中も涙をこぼしておりました」 嘉膳はその状況を思い浮かべながら言った。「そうか、広中もそれを聞いて、さぞ悔しかったろうの・・・。たしかに美正貫一郎は、土佐藩が甲府に進軍したときに、板垣退助殿の宣撫工作によって甲斐国の農民で義勇軍の断金隊を組織し、土佐藩付属の別働隊として預けられて参戦していたと聞いている。土佐藩の正規軍ではなかったのに武勲を立てたことの妬みか? それにしても、われらが狐とは・・・」 季春もまた、絶句した。「まことに断金隊の戦いぶりは勇敢であった、と聞いておりまする。もっとも、その構成員は、甲斐国の出身者が大半でございましたが、しかしその他にも、尾州・相州・下総・野州、それに白河などの者も参加しておりました。さりながら、狐の寄せ集めとはあまりにも酷な中傷・・・。それを言ったら、尾州・相州・下総・野州・白河、これら全部が狐になるではありませぬか」「うむ。それを申さば、仙台藩とて錦の御旗と大政天皇を担ぐ二股膏薬の二枚舌。嘘つき狐の大親分ではないか。うむ・・・、まったく悔しいのう。賜っている叡感勅書を、あの奴ばらの鼻先に広げて見せてやりたいものじゃ」 季春は語気荒く言った。「はい。それが出来ますれば、少しは溜飲が下がりましょうに。それに新政府軍といえども、内部では主導権争いや何やらで、結構醜いものもあるそうでございまする。それの一つの表われかも知れませぬ」「そうか。それにしても美正貫一郎。不憫なことであった。壮烈な戦死とは、誠に申し訳がないようじゃ。彼こそは三春藩不戦の恩人と申しても過言ではあるまい」 それを聞きながら、嘉膳は三春無血開城の日を思っていた。叡感勅書があるのに、新政府軍に無視され、「降伏」とされたのである。 ──なぜ降伏なのか! 朝廷は出先の新政府軍に、三春の意志を連絡してくれなかったのか! その思いは、深刻であった。「それにしてもこの汚名。残念でなりませぬ。しかしこう言われるようになったは私の責任。誠に申し訳なく思いまする」「ん・・・? 嘉膳、何を申すか。三春へ迫ってくる戦いの中で、われらが最後まで守ろうとしたのは、藩はもちろん領民の安寧ではなかったか。それが守れたのじゃ。わしは今、それ以上を望む気はない。その方はよくやった、と思っておる。いずれ領民共にも分かる時が来よう」 唇を噛みながらそれを聞く嘉膳の目に、涙が溢れた。「本当にそういう時が来るのでしょうか」 そう言いながら嘉膳は、命をかけた戦場の中で、そのような中傷の起きることを切なく思った。「三春狐か・・・。戦争とは、所詮、憎しみを増幅させる何ものでもないのかも知れませぬ」 嘉膳は独り言のように言った。 季春は、・・・黙っていた。 それは嘉膳にとって、夜も日もない多忙な日の中の一つであった。それでも、恭順勧告の使者を二本松藩に出してあることが、せめてもの救いであった。 ──どうか、戦いを止めてくだされ。刀を置いてくだされ。戦いは勝ってこそ意味のあるもの、負ける戦さを何故続けられる。恭順の方針さえまとまれば、三春藩とて力になりましょうぞ。 心の中で、そればかりを祈っていた。 七月二十九日昼頃、三春より「西北之辺(二本松方面)]に、黒煙が見えた。二本松は、地理に明るい三春兵に先導された新政府軍に、攻撃されていたのである。三春の町中には、人がそこここに集まり、不安げな顔でひそひそ話をしていた。「二本松では大戦争になっているそうだ」「うん。ここからでも見えるあの煙では、大きな火事になっているのだろうな?」 暑い夏の日が続いていた。 嘉膳はそれでも祈っていた。 ──どうか戦いが早く終わりますように。どうか戦いの被害が軽くて済みますように。二本松藩も、思い切ってくだされ。早く鉄砲を置いて下され・・・。 仙台藩が引き揚げ、二本松が攻撃にさらされていたこのとき、福島藩は浮き足立っていた。仙台と二本松の間にあった福島三万石、この小藩が奥羽越列藩同盟へ参加したことはやむを得ない選択であったし、世良修蔵暗殺に福島藩士がかかわったことで、この戦争から離脱する理由を失っていたからである。
2008.01.27
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藩庁に入った塩森は、「浅川の戦いに於て、南の新政府軍と戦っていたわが仙台や会津兵の北側から、挟み撃ちにするとは何事か!」と、強く詰問した。「何と。三春藩が仙台や会津、二本松兵を攻撃した、と申さるるか」 三春側は強く反駁した。「それは、誠に塩森殿の錯誤にございます。小藩は母畑辺より南の浅川に向け進軍中、前方に敵影らしき者を発見、物見を発して接近したところ会津兵と判明したものにて、小競り合いどころか、同盟の兵に、背後より襲いかかるなどというようなことはしておりませぬ。それに挟み撃ちをするとすれば、新政府軍と連絡が取れていなければなりませぬ。それがないのですから、する筈がございませぬ」「では三春兵は、何故、誰何をしなかったのか? 戦場の常識ではござらぬか」「それはやっておりまする。だからこそ会津兵と確認できたのでございます。それに仙台兵は、会津兵と一緒に戦っておったと聞いておりましたが? そのとき仙台兵は、そこにはおられなかったのでございますか?」「いや、わが藩兵は、三春兵を見ておらぬ」「それは当然でございましょう。わが兵の報告によりますと、その時点でわが三春兵は浅川への途上でございました。現に浅川の激戦で仙台兵二十四名、二本松兵が七名、会津兵は不明でございますがこれだけ多くの死傷者を出したにもかかわらず、わが藩に一名の負傷者もございませぬ。そしてその会津兵ともども、母畑村(いまの石川町)の北の蓬田村(いまの平田村)に引き揚げているのでございます。それを見てもわが藩が挟み撃ちにして戦闘があったなどとは、とんでもない言いがかりでございます」「なに言いがかり? 何を言うか。その方どもの言う通りに会津兵が敵中突破をして来たとすれば、その後方にいる兵をまだ敵、と思うのは当たり前ではないか。もし仙台兵とてその状況であったら、敵と思ったであろう」「なんと・・・。それでは塩森様は、『三春兵がそこにいたこと自体が悪い』と言われるのでございますか? あのとき仙台兵は、会津兵と一緒に戦っていた筈。戦いの様子を知っていながらそう責められるのでは、『弊藩に応援を命じた同盟軍の参謀が悪い』と言われるのと同じでございませぬか」「なに? 三春藩は、『同盟軍の参謀が悪い』と言われるのか! わが参謀を、愚弄するのか!」「いやいや、さようではございませぬ。例えばの話でござる。言葉が過ぎたは、お詫び仕る」「しかし、その言だけでは信用ならぬわ」「嘘ではございませぬ。引き揚げて来た会津兵に聞きましたところ、『南の新政府軍と戦闘中、北側より狭撃された。やむを得ずその東側に退路を開いたが、相手の袖章により北側から挟撃してきた兵は黒羽藩兵であったことが分かった』と申しておりました」「なに! 黒羽藩だと! 間違いなくそう言えるか?」「このこと、決して間違いはございませぬ。我らはそれを、会津兵から聞いたものにございますれば」「会津兵に・・・?」「さようでございます。わが三春兵が会津兵と出会ったのは浅川の戦いの後、それも北の母畑村周辺のことでございます。挟撃したのが三春兵ではない何よりの証拠と思われまする。確かとお調べ頂きたい」 三春藩側も負けてはいなかった。しかし居丈高な塩森の態度に、三春藩は恐れを感じていた。 やがて塩森主税は帰って行った。三春藩では、そのまま会議が続けられていた。季春が、口火を切った。「塩森殿は、信用したかのう?」 嘉膳が答えた。「浅川の戦いについては実際にあったこと。塩森殿とて、信用せざるを得ないと思われまする。あの白石城の奥羽諸藩会議のとき、それへの不参加を表明して座を立った黒羽藩に、同じ思いのわが藩が助けられたようなもの。不思議な縁でございまする・・・。それはそれとして政紀からの知らせによりますると、二本松藩は、わが藩が早い時期から新政府側に向いていたことを知っておりました。もっとも二本松藩の秋山次郎左衛門に、二本松藩重役への仲介を依頼していたのでございますから、そのことが二本松藩から仙台藩に流れたことは、充分に考えられまする」「しかし嘉膳。考えてみれば不思議ではないか。仙台藩は会津藩とともに浅川で戦っておった。さすれば塩森殿とて状況を踏まえて来ている筈、しかるに塩森殿が来られてのあの責めようは。どうも合点がいかぬ」「確かに。あの責めようは尋常ではございませぬ。富沢村の黒禰宜が白河で捕らわれたときにも、取り調べは仙台藩の、しかもあの塩森主税殿でございました。その塩森殿が派遣されて来たとは・・・我らを無理にでも罪人にしよう、としているとしか思えませぬ」「恐らく仙台藩は、三春兵が挟撃していないことを知っていながらこのような嫌疑をかけて来たのは・・・、何かの策略があってのことではあるまいか?」 年寄の秋田実当が、おずおずと言った。「もしかして実当様・・・。仙台藩はわが藩を攻撃する積もりではありませぬか? それのための最後通牒と・・・」 嘉膳は自分の考えを思い切って言った。「なに? 最後通牒? 攻撃?」 季春の鋭い声に、冷たい空気が流れた。「確かに塩森殿のあの最後まで高飛車な態度。それは考えられることかも知れませぬ。本当は納得して帰った訳ではないのかも知れませぬ」 大浦帯刀が心配気な顔つきで言った。「いずれ氏家殿も仙台の軍務局に戻られる。さすれば、軍務局にもこの報告が行く筈。そうなればわが藩の釈明に、同盟側も納得をせざるを得まい。ただ仙台藩も会津藩と一緒に浅川で戦っていながら、塩森殿が来られるのを軍務局がなぜ黙って見過ごしたのか。そこが問題じゃ」 そう季春が言った。「はい季春様。私は恐らく、氏家様は軍務局内部とは話し合った上で、裏の確認のために塩森殿を寄こされたのではないかと思いまするが」
2008.01.26
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(三春町内) 三春藩は馬頭観音でこの交渉をしながら、「いいか。時間がかかり過ぎたが、これが二本松を戦火から救う最後の機会ぞ。隣藩として新たな災禍を見たくない。この説得が出来れば、わが藩も平和裡に開城が出来、会津領もまた戦火を免れる機会を得よう。心してかかれ!」と言って恭順の使者を二本松藩に送っていたのである。 そして季春のこの言葉を胸に、使者の大山巳三郎が、すでに出発していた。嘉膳の手配で動いていた二本松藩穏健派の秋山次郎左衛門の働きにより、ようやく二本松藩上層部との連絡が取れたからである。 これらの手配をしながら、秋田季春はまだ釈然としていなかった。「叡感勅書では、『官軍諸道より進撃救援可有之に付』と申しておるのに、なぜわが藩はここで降伏せねばならぬのか! 降伏願を提出することは、わが藩が賊軍である、と認めることになるではないか!」 嘉膳は季春が言うのを聞きながら、声も出なかった。 ──三春藩降伏では、わが藩の恥辱ではないか! 彼自身、痛切にそれを感じていた。 ──あの必死で得た叡感勅書に、何の意義もないというのか! 七月二十五日、新発田藩(新潟県)が奥羽越列藩同盟を離脱、新政府軍と共に会津攻撃に参加した。三春には、伝令が引きも切らず城に入っていた。 [応援の会津勢は船引に出陣、第二戦線の構築をはじめました] [蓬田の新政府軍は、三春より南へ二里の赤沼に迫っております。わが藩 兵は、新政府軍との連絡に成功いたしました] [須賀川の同盟軍は、自ら須賀川の町に火を放ちました。須賀川陥落は、 目前かと思われます] それらの情報を聞きながら、季春は時間のないことを悟っていた。 ──もはやこれまで。 季春はそう思うと叡感勅書と降伏願を持ち、赤沼方面に出発した。もはや「降伏」という言葉に対する面子に、こだわっている時間がなかった。しかもそれを提出した場所は、貝山村であった。貝山村は、三春の隣の村で、城から一里ほどの所である。河野広中らの嚮導による新政府軍の一部は、既にここまで進出していたのである。 七月二十六日の払暁、新政府海軍は小野新町を攻撃した。ここの明神山を守備していた二本松兵は勇敢に戦ったが、三春兵と共にここの赤沼を守備していた仙台兵は突如、広瀬村(いまの滝根町広瀬)に退却、残されて少数となった三春兵は戦わずして三春へ逃げ帰った。 そしてこの日の早朝、三春にいた福島藩兵や残っていた同盟軍が北の二本松方面へ逃れて行って間もなく、舞鶴城下には緊急事態を告げる三ツ打ち太鼓が乱打された。城には、二十人位の徒士が登城して来た。もはやそのくらいの兵しか、町には残っていなかったのである。嘉膳はそれらをまとめると、大手門に仁王立ちになった。城に逃げ込んで来る領民も多く、城下は騒然としていた。 またこの日、大政天皇を擁して北部政府を標榜した奥羽越列藩同盟は、同盟軍つまりは北部政府軍自らを官軍と称し、新政府軍を西賊と呼ぶことを決定した。しかし、名前だけをいくら取り繕っても、その官軍側では敗退や脱落が相次ぎ、すでに満身創痍の状況であった。 一方このとき、嘉膳の頭を中をよぎっていたのは、 ──叡感勅書を、北部政府側に明確にする機会を失ってしまった。 という辛い思いであった。 [官軍大勢柴原道より入りきたる。太鼓笛にて行列を立て、二千人余、人 足荷物多く用物玉薬沢山なり。貝山道、鷹巣道よりも入りきたる。家中町 家は皆人多く市の如く賑ひけり。守山筋よりも入りきたる。惣軍は五~六 千人なり。外に人足千余人なり] このとき三春の領民は、新政府軍の鼓笛隊が打ち鳴らす軍歌をはじめて耳にした。 宮さん宮さんお馬の前に ひらひらするのはなんじゃいな トコトンヤレトンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ 長い刀は伊達には差さぬ 朝敵征伐するためよ トコトンヤレトンヤレナ 薩摩轡で止まらぬ時は 長州鉄砲で攻めてやる トコトンヤレトンヤレナ 軍をする身と生まれたからにゃ どこのいずこで果てるやら トコトンヤレトンヤレナ 国の土産に生首下げて 白河発つときゃお目出たい トコトンヤレトンヤレナ やがて新政府軍の幹部十人ほどが舞鶴城西殿に入ってきたが、三春藩家老・秋田作兵衛はただ一人出ると帰順の御礼を申し上げ、人々を集めて役所を立てて御用を務めた。そのときの新政府軍は、薩摩・長州・人吉・土佐・彦根・柳川・大村・忍・佐土原・大田原・細川・烏山・黒羽・笠間・佐倉・備前・館林・古河・阿波の諸藩で、町家に分宿した。その夜の三春は、[今日の御繰込ニて御用多事筆ニ尽くしかたし]という状況であった。しかし嘉膳は、これらの混乱の中で、気の利いた農民の橋本周次を召し出すと、二本松藩へ恭順の勧告に行っている大山巳三郎を追わせた。大山に、三春藩帰順の事実を知らせなければならなかったのである。橋本周次は、翌二十七日の早朝、二本松へ出立して行った。 この七月二十七日、船引に撤退していた北部政府軍は、小野新町から三春へ入ってくる新政府海軍に押し出されるようにして、二本松へ逃走した。 この日、秋田季春らが新政府の参謀局に呼び出され、守山藩とともに正式に帰順が認められた。この無血開城が認められたのは、新政府軍の断金隊々長である土佐藩の美正貫一郎の奔走によるものが大であった。今度は三春から守山に、新政府軍の柳川・大村の藩兵が防衛のため進駐して行った。そして三春兵も錦旗印章を与えられ、新政府軍に組み込まれていった。
2008.01.25
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七月十七日、激論と不安の内に眠れぬ夜を明かした三春藩は、[弊藩危急ナリ、請フ、救援セラレヨ]との仙台への使者を、藩士・琴田半兵衛に託した。 しかし、直ぐの返事はなかった。 嘉膳は、憮然として考えていた。 ──もしかして、仙台藩はわが藩を潰す気であったのではあるまいか。只、汚名を着せれば事足れり、つまり三春のような不埒者がいたからやむを得ず恭順する、との論法であったかも知れぬ。さすればあの使者は、余計なことであったか! 嘉膳の頭の中では、強気と後悔とが交錯していた。 七月二十一日、同盟軍側の援軍は、五日経っても来なかった。それはそれで、嘉膳の気持を楽にしていた。このような中、棚倉の新政府軍と交渉していた秋田主計と佐久間儀門は、河野兄弟を棚倉に残して帰藩すると、即刻登城して報告した。「当藩より差し上げておりました御進軍御救助嘆願書に対し、叡感勅書を賜っていることを申し上げて帰順のお願いを致しましたが、はじめのうちはなかなかご理解を頂けなく、苦労をいたしました」「何故、何故叡感勅書の下付のお話を申し上げても、承知して頂けなかったのか?」「はい。新政府側は、当藩が白河での戦いに出兵いたしましたることの不審を、払底できなかったようでございました」「なに、いまだに白河への出兵が隘路となっておるのか? あれはもう、京都で了解を得ていた筈ではないのか?」 季春は、あきれたような顔をした「とは申しても季春様。戦いの現地ではいろいろな話が乱れ飛んでおりまする。それでもようやく、三春藩は新政府軍を蓬田村まで迎えに上がるとのことで、談合が相成りました。新政府軍が蓬田に陣を敷いていることは、小野新町と三春の双方、どちらも攻撃出来るということでございましょう」「そうか。ところで平にいる廉蔵より、『新政府軍の増援部隊が平に到着したなら、兵を浜街道と山街道の二手に分け、山街道の兵で三春を攻める予定』であると言ってきておる。さすれば小野新町は山街道の兵にまかせ、蓬田の兵は三春に直接攻めて来るつもりかも知れぬの?」「さようでございますな。白河の新政府軍も、須賀川に向けて進軍を開始致しました由。一方同盟軍は、須賀川防衛のため、南下をはじめたそうにございます」 季春は主計の緊急事態の話に、少し腰を浮かせた。「うむ・・・。新政府軍が須賀川を陥とせば、三春は須賀川と蓬田、さらに小野新町の山街道の軍に、三方を包囲されることになる。それにしても、あれからしばらくになるのに、仙台の軍務局は何も言ってきておらぬ。気が急くのう。援軍が来ぬということは、同盟側としては三春藩を捨てた、ということにならぬか? とすればわが藩としては、もはや余裕はない。談合の通り、蓬田村まで新政府軍を迎えの兵を早急に出すことに致そう。それにしても嘉膳、わが領内にいる同盟軍は、舞鶴城を攻めるかのう」 ──これは最後の決定となる。 季春は慎重になっていた。「それに対しては、北方の二本松や福島方面の道を開けておいては如何でしょう。退路を遮断せぬが得策か、と思いまするが・・・」 (三春攻撃) 七月二十三日、河野広中が連絡のために三春へ戻って来た。そして、「新政府軍が、蓬田村で三春兵の出迎えを待っておりますが、いかが致しましたか?」と季春に食い下がっていた。「しかしな、広中。困ったことに、同盟側は、ようやく今になって仙台や二本松より援軍をよこした。しかも、この援軍の仙台と二本松の兵は、わが藩兵を伴って広瀬に出陣しておる。わが藩が救助の依頼の伝令を出していた手前、いまさら兵を出さぬ訳にはいかなかったのじゃ。つまり同盟軍は、小野新町で防衛をするようじゃ。しかし一方、二本松兵は、御城下の荒町の馬頭観音に兵を集め、舞鶴城攻めの勢いを示しておる。細川可柳をこれの交渉に派したが、委細はまだ不明じゃ」 二本松兵は、馬頭観音の隣の曹洞宗の寺院、龍穏院に宿泊していた。その龍穏院は、中世以来、舞鶴城の出城の一つとして建てられていたものであり、万が一のために備えられていた寺院であった。「とにかく広中。馬頭観音に集結している二本松兵に三春領駐留の諸藩兵が呼応すれば、守備のいない舞鶴城は、確実に落城しよう」「馬頭観音から攻められては、どうしようもありませぬ。御城下も、厳しい状況でございまする・・・。しかし季春様。すでに守山藩は蓬田に進出した新政府軍に使者を送り、戦わずして恭順が認められておりまする。しかるにわが三春藩には、攻撃の命令が出ております。何としてもこの話、急がねばなりませぬ」 季春は、藩主の後見人として、決定の断を下ろした。「分かった、広中。わが藩は絶対に新政府軍に敵対しない。早急に蓬田に行き、動きのとれない現状だけは正確に伝えてくれ。早急に必ず迎えに行くと」「ははっ」「いいか広中。城下町とは危険な場所じゃ。戦いとなれば戦火にも晒される。白河・棚倉・湯長谷・泉・平、皆そうじゃった。今はせめて、三春に戦火を招かぬことじゃ。分かったな広中。頼んだぞ」 嘉膳は正座をしてそれを聞きながら、目を閉じていた。 一方、町内の馬頭観音では、三春藩の老臣・細川可柳と二本松兵との話し合いが続いていた。「町人どもにも、『二本松兵が城を攻める』という噂が流れて恐慌状態になっている。何とか、山を下りて頂きたい」「何を言うか! 三春藩はすでに降伏したではないか!」 二本松兵は強硬であった。もしここで三春藩が新政府側となれば。彼らは危機の淵に立たされることになるからである。しかしそれは分かっていても、可柳は今の時点で、二本松藩に恭順の使者を送ったことを言う訳にはいかなかった。しかもその使者から、三春藩帰順の意志が二本松藩を通じて、三春に駐留している二本松兵に漏れていないという保証もなかった。可柳としては、強硬に出ざるを得なかったのである。「降ってはおらん。もし降るとすれば、わが藩もその意志を明確にする筈。現に何も言っていないではないか」 彼はそう主張した。「それ、その言葉が動かぬ証拠。何事も無かったら、『もし』などと言うものか。町人どもにも、三春藩降伏の噂が出ておる」「それは単なる噂。噂を信じられては困る」 可柳も必死であった。ここから城攻めされれば、城も町も致命的であったのである。「[火のない所に煙は立たず]の例えもある。噂が出るにはそれなりの根拠があろう」「と言われても、ないものはない。三春は今、戦場ではないが、最前線。こういう時と場所なら、何も知らない町人どもが何を言い出すか、分からぬ訳でもありますまい」 可柳とすれば、二本松藩への使者のことを言わずに、何とか矛を納めさせなければならなかった。「だいたい三春藩は、どうもこの戦いに積極的ではない。おかしいではないか!」 二本松兵が気色ばんで言った。「お言葉を返すようだが、いったい誰が、そのようなことを?」「同盟の皆が申しておる」「同盟の皆? それはどこの藩でござる? 同盟全部の藩が申しておるのでござるか?」 可柳は一歩も引けなかった。「いや、それは・・・」「お手前だけの考えで『同盟の皆が申しておる』とは片腹痛い。とにかく兵を馬頭観音から出て町人の安寧をはかって頂きたい。武士たるもの、藩を守るは当然だが、領民の生命財産を守るのも大事であろう」
2008.01.24
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嘉膳の言に、季春は即座に反応した。「裏の確認・・・? 嘉膳。裏の確認とな?」 帯刀が尋ねた。「嘉膳。確認と申さば、先日、富沢村の神官が二本松領に入り、『新政府軍が三春に入り、二本松に攻めてくる』と言いふらし、不埒なこととして牢に入れてことなきを得たことがあった。そのことが関係すると言うのか?」 季春が、嘉膳に代わるかのように言った。「うむ。あの黒禰宜の言はまずかった。なまじわが藩の本意を含んでいただけに、えらい心配をした。結局同盟軍の手前、家宅捜索をしてお茶を濁したがのう」 実当が言った。「それを言えば、棚倉落城の折、棚倉藩よりの援軍の要請を断ったこともございました」「いや、しかしあのときは、仙台藩も断わりました。わが藩ばかりが責められるのば、やはりおかしいことと思いまする」 そう嘉膳が、答えた。 季春が尋ねた。「ところで、塩田村でわが藩の町医者の佐久間玄畏が、二本松兵に後方から斬殺されたこともあった。あのこともあるのかのう」 帯刀が独り言のように言った。「それにしても、仙台藩はわが藩の監視役として、何名かの探索方をを派遣してきておった。それなのに、重ねて塩森殿まで来られたのは、わしにはやはり、腑に落ちぬ」「さようでございまする帯刀様。何故半月も経ってから文句をつけにきたのか。考えてみれば、私も不思議に思いまする」 この嘉膳の返答に、季春が尋ねた。「これも、政紀よりの報告であるが、同盟側では、『三春反盟は明らかだとして、わが幼い藩主を人質に取るか、三春藩を攻め滅ぼすか』の討論がなされていたという」 実当が唸った。「うーむ。すでにわが本意が仙台藩に流れていたにしても、同盟側はそこまで考えておったか?」「季春様。ご存知の通り、もはやわが藩内には多くの同盟軍が散開しておりまする。それに叡感勅書や御進軍御救助嘆願書のこともございまする。これらの勅書が今、同盟側に知られますれば、わが藩内に駐留している同盟側の兵と藩外にある同盟諸藩の兵に呼応されれば、わが藩はいつでも攻め潰される状況にありまする。推定でございまするが、軍務局はその強力な軍事力を背景に、わが藩に言いがかりを作らせに塩森殿を派遣してよこしたのではありますまいか?」「言いがかりを? 作りにだと? 嘉膳、三春藩を攻めるための言いがかり、と申すか? そうだとすれば、氏家殿が仙台に戻られてから軍務局にどう報告するか、それが問題ではないか・・・。わが藩を攻撃させぬ方法を早急に考えねばならぬ」 季春は、救いを求めるかのように嘉膳を見据えた。「しかし季春様、議論を蒸し返すようでございまするが、どうにも私には、塩森殿の来訪が腑に落ちませぬ」 帯刀がまた言った。季春は返事ができないでいた。しばらくの沈黙の後、嘉膳が言葉を選ぶようにしながら言った。「もしかして仙台藩は、わが藩の反盟の意志が分かったからこそ、『わが幼い藩主を人質に取るか、三春藩を攻め滅ぼすか』の討論をしたのではないでしょうか。それにもかかわらず、わが藩をあんなにしてまで責めるということは、会津や二本松藩がわが藩をどう評価しているのか、それらを確認した上で来られたのではありますまいか。さすればわが藩の返答がこうなるのを、予測していたとも思われまする」「予測? 嘉膳! それはどういう意味か?」「ははっ。いま申した通り、同盟軍は内外呼応をすれば、いつでもわが藩を潰せる状況にありまする。その攻撃をせずに、あえて確認の使者をよこしたということは・・・、仙台藩は、大変なことを・・・考えたのかな・・・? と。何か裏が感じられまする」「なんじゃなんじゃ、嘉膳! 気をもたせず早う申してみい」 季春の顔が、興奮で赤くなった。「はい・・・。どうも私の考えでは、仙台藩は同盟に内密にして、恭順を考えているのではないかと・・・」「なに? 仙台藩が新政府に恭順?」 嘉膳の顔に、鋭い視線が集中した。「はい。すでに仙台藩は、浜街道で敗退を続けておりまする。と言ってここで白旗を掲げては、奥羽の盟主の名が廃りましょう。それでは伊達の名が泣きまする。それに仙台には、大政天皇様もおられます。ここは一番、三春藩を悪者に仕立て、『不逞の輩、裏切り者が居たから、仙台藩はやむを得ず矛を収めた』という論議立てかも知れませぬ。もし仙台藩が、慎重に新政府軍と干戈を交えぬ相馬藩が、わが藩の意志と同じと知ってのこととすれば。なおさら三春や相馬が裏切ったため、やむを得ぬという理由で・・・」「恭順するか・・・。しかし仙台藩が錦旗を掲げて錦旗に恭順するとは、間尺に合わぬ。どういうことか?」 そこにいた誰もが、季春の呻きにしゅん、とした。 「むろん私も、仙台藩の本意については推定の域を出ませぬ。しかしすでに、錦旗は東部皇帝・北部政府より戴いたもの、と考えているのかも知れませぬ」「だから仙台藩は新政府軍と戦ったと?」「はい。その結果として、同盟軍の防衛線はすでに小野新町や守山にまで引いてきております。そして現在、三春には領外に応援に出ているわが藩兵に代わって、他藩の兵が守備しておりまする。この状況を利用して、向こうから来た使者に対しての返礼ということにして、また事を穏便に収めるためにも、こちらから改めて仙台の軍務局に弁明の使者を出しては、いかがでございましょうか」「うむ。それは考えられるが、使者を出してなんと言わせる。結局、塩森殿に言ったことの繰り返しになろうが? 仙台の軍務局としては二番煎じ、なにも目新しいものはないではないか?」「そこででございまする」 そう言いながら、嘉膳は季春に少し躙り寄った。「季春様。二番煎じでも構いませぬ。こちらの主張は何度やっても構いませぬ。ただ使者の口上の最後に、『わが藩救助のご依頼』を加えたら、と思いまする。同盟側がわが藩を信用せぬとなれば、せめてこれが、同盟側を納得させ得る最後の口上、となりましょう」「なに、それでは同盟軍の攻撃を避けるために、同盟軍そのものを三春へ引き入れよというのか?」「さようでございまする。しかしそれでも同盟軍は救助には来ないとは思いまするが、ただそうしておけば救助には来なくても、助けを求めているわが藩への攻撃は致し兼ねると思いまする」 嘉膳は平伏した。なんとしても使者を送りたいと思ったのである。「嘉膳! 本当に同盟軍は救助には来ないと申すか!」 季春は、叱責するような声で言った。「ははっ。そう思いまする」「しかしそれでは、同盟に嘘をつくことになるではないか? それにもしこのことが露見すれば、わが藩は平藩に吉見廉蔵を軍使として出しておる。それに仙台にもわが藩士が出向させられておる。それら藩外におる全員の、いや藩兵どもも含めた命にもかかわる問題。嘉膳、これは危険な賭けじゃ。」 季春の顔は、こわばっていた。「とは申せ季春様、平からの新政府海軍が東から、また南の蓬田から陸軍が攻めて来ておりまする。三春に到達するのは、もはや時間の問題。棚倉には、帰順の使者として秋田主計殿や佐久間儀門殿らも参っておりまする。こうなれば、次の命題は、この町にいかにして戦火を引き入れぬか、ということでございましょう。江戸の例もありまする。いまは藩と領民の命を守ることに、全力を揚げるべきでございましょう」「それは分かる。しかしこれは・・・一歩間違えれば、三春領内に予期せぬ戦いと、いらぬ詮索を持ち込むことにもなろう!」「しかし、もはや三春藩がどちらの側に立とうとも、戦いそのものは避けられませぬ。かくなる上は、いま町での戦いを避けられる可能性の高い方に賭けるべきでございましょう。もしそれでも戦いが起こるとすれば、それはそのときのこと、三春藩は最初からの意志の通りに新政府の錦の御旗に依り、新政府軍とともに全力をあげて同盟軍と戦うべきでございましょう。領民どもは、その前に新政府軍側となっている棚倉や浅川に避難させましょう。とにかくわが藩は、なんとしても賊軍になる訳には参りませぬ。仙台藩の策に、うまうまと乗せられる訳には参りませぬ」「仙台藩は秘密理に、そして本当に恭順という策を立てたであろうか?」 季春の顔は、まだこわばっていた。「恐らくは、間違いございませんでしょう」 嘉膳は断定的に言った。
2008.01.23
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七月六日、仙台兵が三春より南下して行った。 ここにきて守山藩は、重臣を新政府軍の本営の置かれた棚倉に派遣し、恭順の意を表明した。守山藩とすれば、守山城からたかだか一~二里の南あたりの所が最前線となっていた。もはや猶予ならぬ事態であったのである。 ──守山藩とすれば、この戦いの初期に、会津藩に攻められた同じ水戸藩係累の長沼藩を受け入れている。それを思えば充分に考えられる。われらと同じようにその時期を探っておったのであろう。よく今までわが藩にまで本心を隠してきたものと。身につまされる。 守山藩の意を知った三春藩も、帰順の行動を起こした。この帰順の使者には、河野広中が当てられた。ただいくら帰順を表明しても、新政府軍が守山領か三春領に進駐して来ないうちは、三春藩としては実効が見えないことになる。そのため同盟側に対しては、内密にせざるを得なかった。もしこの時点で帰順を公表すれば、藩の内外に充満している同盟軍に潰されることが充分に考えられた。それらを恐れたために、下級の郷士である河野広中兄弟らが派遣されたのである。 河野広中兄弟とその同行者は、三春を出るとすぐ山道に入った。むせるような草いきれの中を、今のところ味方である筈の同盟軍の目を逃れながら、無言で歩いていた。ともすれば体力の差から、列が長くなりがちであった。そうなって分散しないよう、若い広中は心を配っていた。それでも思いがけぬ所に同盟軍の兵を見つけると、目配せをして、音を立てぬようにして山中を迂回した。本来ならたった三里の道を、ほぼ一日かけて歩いていた。ようやく守山の陣屋に着いた彼らの顔は汗まみれになり、目ばかりを光らせて疲れきっていた。 守山軍の勢力下に入った広中らは、守山藩の協力を得ると釜子村(いまの東村)の長州や薩摩の最前線を経て棚倉の土佐藩の本営に達した。そこで彼らは、土佐藩の美正貫一郎の指揮する土佐断金隊に入隊させられ、「軍用地図」作成に協力させられた。 ──戦いを避けられぬ場合は新政府側として立ち、それでも被害を少なくするよう努力せよ。 彼らは、その三春藩の命令に忠実であろうとしていた。 七月九日、五百人ほどの仙台兵が三春に入り、そのうちの七十人ほどが三春より東へ約三里の三春領の船引方面に、残りは守山方面へと出発して行った。嘉膳は苦慮していた。結果として、双方に顔を立てるようなことになってしまっていたからである。 ──ここまでになったら綺麗ごとにはいかぬ。先ずなんとしても、どうあっても藩内に戦火を入れぬこと、そして領民の命を守ること、それが第一だ! 嘉膳はそう覚悟を決めた。山の上の城から見る町は、強烈な太陽の下で、静かにたたずんでいた。暑さと草いきれの熱気で、汗が吹き出ていた。 ──あの多くの家々の中で、それぞれが不安の中に生計を立てておろう。「守らねばならぬ」 嘉膳は呟いた。 江戸では徳川家が駿府七十万石に格下げされ、一大名となって駿河(静岡県)の宝台院に謹慎して行った。敬忠から手紙が届いた。 [安政五年、日米修好通商条約の調印をひかえていた幕府は、天皇に条約 の勅許を仰いだ。理由は、天皇から勅許を得ることで条約反対論を緩和で きると考えたこと、そして勅許を口実にして時間を稼ぎ、ハリスから迫ら れていた早期調印を引き延ばそうとした苦し紛れの策であったこと、にあ った。もともと、幕府が条約を調印することに勅許は不必要であった。現 に日米、日英、日露、日蘭の諸条約は、勅許なしで立派に成立していた。 幕府を存続させるという立場からいえば、そのことは大失策であった。し かし今となれば、新しい日本を造るためにはそれも良かったのか、とも思 う] そしてその文面の最後には、 [ただ、幕臣である自分は、最後まで徳川家に尽くすことで武士道を全う しようと思う。身辺の整理がつき次第、慶喜様を追って駿河に移住するつ もりである] という意志と、 [もはや戻ることもあるまいが、故郷が懐かしい。その三春に戦火が迫っ ているようだが、何も出来ぬ自分が悔しい] との気持ちが綴られていた。 ──そうですか。先輩は慶喜様と行動を共になされますか。三春藩も日本も、私には先行きがまったく読めませぬ。このようなときに駿河に行かれるとは・・・、なにか私は取り残されるようで、淋しい限りでございます。戦いが済んで折がありましたら、また政紀と三人で明徳堂の裏山にご一緒しましょう。あの頃のことが懐かしく思い出されます。 そう思った途端、不覚にも嘉膳の瞼に涙が浮かんだ。 世上静謐天下太平を祈祷していた東部皇帝(大政天皇)は、大政元年七月十三日、白石城に移り、十万石以上の大名を集めて御令旨を賜った。事実上ここに、京都朝廷に対する新たな朝廷が誕生することになった。ただし五万石の三春藩は、出席していない。この御令旨伝達の雰囲気は、旧幕閣着座の上で伝達されたという形のため、諸藩にとっては、「我々はすでに、自己の意志とは関係なく、新しい朝廷の動員体制に組み込まれてしまった」という切迫感でみなぎっていた。旧幕閣が事実上の指揮者だ、と宣言したようなものであったからである。 二本松藩よりその状況が伝えられ、その決定事項が命令された。三春藩としては、いまのところ上部機構、つまり新しい仙台の朝廷の命令を、受けるだけであった。しかしそうすること自体から、またも三春藩は同盟側から仙台の朝廷側として動かざるを得ない状況に追い込まれていった。叡感勅書の下付を明確にするなどということは、したくても出来ない相談となっていた。 一方、河野広中兄弟が棚倉より帰藩すると、今後の行動について藩首脳と談合した。この往復は、戦線をどう突破するかが大問題であった。兵のいない山林を、道から離れて歩かざるを得なかった。 七月十二日には、仙台兵が三春に宿泊した。動きはさらに、内密にせざるを得なくなった。その日の夕方、何があったか、三春の北町にて、船引村の作左衛門が下目明役の新野屋徳兵衛に頭を切りつけられ、重傷となって北町の祐蔵宅で治療を受けた。町の中にも、不安感が高まっていた。 七月十三日、泉藩と湯長谷藩に次いで平城が陥落し、笠間藩の神谷陣屋が回復された。三春にいた仙台兵は笠間藩領小野新町に出発し、入れ替わりに新たな仙台兵や二本松兵が三春に入って来た。 七月十四日、今度は米沢兵が三春に宿泊した。町内は騒然としていた。何が起こっても、おかしくない状況であった。 七月十五日、米沢と二本松の兵が、小野新町に出発して行った。平藩の陥落に伴い、奥羽越列藩同盟軍は田村東部の防衛に力を入れていた。 この間隙を縫い、河野広中兄弟が、三春藩重役の秋田主計や佐久間儀門、佐久間昌言、昌吾兄弟、舟田光暢、田村蔵之助、安積儀作らと共に、再び棚倉へ潜行していった。新政府軍は、藩の重役の派遣を要請していた。郷士たちだけでは、三春藩の意志として確認し得なかったのである。 七月十六日、河野広中・秋田主計ら帰順使は、棚倉城の板垣退助に接触した。しかし、新政府軍に帰順の嘆願をしていたこの日、仙台、会津、二本松の兵は、浅川郊外の城山を橋頭堡として確保した。浅川陣屋の奪還作戦である。三春藩に対しても、これへの応援命令が同盟側より下された。浅川の町にある陣屋は、土佐や彦根の兵が警備をしていた。この命令への対応に苦慮しながらも、三春藩は兵を浅川に南下させた。その浅川のすぐ南には、新政府側の主力のいる棚倉城があり、そこには三春藩からの帰順使たちが滞在していたのである。棚倉城へ派遣していた帰順使はまだ帰っていなかった。その間の、同盟側の命令なのであった。 ──正しい選択とはどういうことか。 嘉膳は呻吟していた。右に決めても左にも決めても、問題が大きかった。浅川へ出兵しなければ、同盟側に叩き潰されるかも知れなかった。三春藩としても、微妙な立場に立たされていたのである。 同盟側も感づいていた。三春と守山両藩の挙動が怪しいということで、仙台藩の細谷十大夫に命じ、その部下に偵察させたのである。その上で、「三春と守山両藩の反盟の形跡、明らかなり」との報告が、同盟側に伝えられた。 そこで同盟軍は、三春および守山藩の討伐を決定した。 そのとき、「反盟の形跡明らかならざるに、徒に私闘をすべきではない」と言って慎重論をとなえたのは、仙台藩の将・氏家兵庫であった。彼は腹心の部下、塩森主税を三春に派遣したのである。
2008.01.22
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疑 惑 嘉膳は、秋田季春の名で、藩内に厳命した。「難民どもを城下に入れるな。もし戦いともなれば、彼らの命の保証が出来ぬ。また、もし同盟他藩の兵が紛れ込むと、それも迷惑。難民は周辺の村にて収容せよ」 この日、泉藩の植田が、平潟港に上陸した新政府軍海軍の猛攻を受けて灰塵に帰した。そして三春藩は、京都よりの叡感勅書を奉じながら、どうしようもなく迷っていた。状況は、さらに厳しくなっていた。何故なら同盟側では、「いまこの時期に、三春藩重役の熊田嘉膳ともあろう者が、敵方の京都に行って戻ってきたとは、一体どういう了見か。その内容を明確にせよ」と言って、三春藩を疑い、「明確に出来ぬなら、三春藩の責任で、嘉膳を処刑せよ」と迫ってきていたのである。 同盟側では、三春藩に対し、探索方を放っていた。そして嘉膳の策が、今になって周囲に滲み出し、同盟他藩よりの不審を招いていたのである。 翌日、同盟の命令に従い、秋田帯刀の指揮による六十人ほどの三春兵が、須賀川方面へ出陣していった。とりあえず、同盟の命令に従ったのである。同盟側からの不審感を解くには、こうする以外に方法はないと考えられた。領内の三春藩兵の数は、払底していた。そして、岩法寺から引き上げて法蔵寺に泊まっていた仙台兵は、今度は守山に出陣していった。 六月二十八日には、植田を攻撃した新政府海軍が、泉藩を陥とした。多くの難民が、切れ草履や足袋裸足で、乞食のような姿で逃げてきた。ゴザや風呂敷を被ったりの、哀れな姿であった。領内の沼沢や高倉にも、二百人ほど逃げて来た。三春藩では当初の計画通り城下には入れず、難民へは炊き出しを行った。「三春兵が白河の攻防戦に同盟軍側として参加していたことについて、秋田広記ら在京藩士らが京都の重役非蔵人口に呼び出され、禁足令が出されたそうじゃ。わが藩は新政府に、疑惑の目で見られているようじゃ」 そう言った季春は、深いため息とともに禁足の沙汰書を開いた。 其藩事 賊中ニ孤立し大義を重し候事本月三日御褒詞被賜候処豈図らん や棚倉ニ於て賊軍を助候哉ニ相聞不届之至ニ候依之御処置可被迎出候得共 追々事実御検査被為在候迄京詰之家来屋敷ニ於て禁足他藩へ出入差止候旨 被仰付候事「わが藩としては、率先して新政府支持を打ち出しておったからのう。これは苦しいところじゃ。それと六月二十九日には、湯長谷藩と幕領の小名浜陣屋が陥落した。また白河で敗れた同盟軍は、途中の矢吹の町家に火を放ち、須賀川に集結しておるそうじゃ」「はい。わが藩も叡感勅書を奉じながらも新政府に疑われ、同盟側にも新政府軍と戦うよう迫られて動きがとれませぬ。それにしても仙台藩が朝廷より錦旗を二旒奉戴していることは誰もが知っている事実。その新政府の錦旗の返還もせずに北部政府の長であるということは、どういう了見でございましょうか? どう思われましょうか、季春様」 嘉膳は悔しそうに言った。 季春はそう訊かれても、返事をすることが出来なかった。「また三春兵は同盟軍とともに藩外各地に散開させられ、またわが領内には、同盟軍各藩の兵が展開しております。その上に難民が押し寄せてきておりまするのですから、これではどうにも、対応のしようがありませぬ」「うむ、それにしてもこうなってくると、藩内に展開している同盟軍の動きが、恐ろしいのう・・・。とにかくそれらも含めて、ただちにこの地の状況説明のため、急使を京都に出発させようと思う。その上で難民の対策もせねばならぬし・・・」「それはそうですが季春様・・・。この錦旗の件を、仙台藩に向かって問い質しとうございます。いずれ大藩は、自分の思ったように行動致しましょうが、我ら小藩は課せられたものに黙って耐えるのみでございまする。それ故叡感勅書のことを知らせれば、同調する藩もありましょうに」「まあ嘉膳。そう怒るな。わしとてそう思う。しかし今は・・・、いまはその時期ではない。口論で勝って藩を潰す訳には参らぬ」 今は、夏の暑い盛りである。寝苦しい夜が続いていた。 翌日、藩庁より、[太鼓の合図があれば、老人や女・子どもは城下より立ち去り、十七歳以上の男子のみ残留。ただ今のところ、騒ぎ立てなどしないように]との触れがあった。「守山藩が新政府軍に降参し、三春藩の領地に侵入した」との噂が町に流れ、大騒ぎとなっていたのである。 そして城では、あの池の端で、季春と嘉膳の二人が話し合っていた。「物見の報告では、守山藩は今のところ何の動きもしていないそうじゃ。ただしこの噂、塩田村でわが藩の軍医として行動を共にしていた町医者の佐久間玄畏が、二本松兵に後方から暗殺されたことから出たというが」「ああ・・・、佐久間玄畏が。何故でございましょう」 嘉膳が呻いた。 目の眩むような日の下で、木陰とはいえ風の止まっている今は蒸し暑く、じっとしていても汗が流れた。「うむ。『守山藩の農家に急病人が出て、それを診た帰りの夜に歩いているところを後ろから』という供の者の話だけで、それ以上は分からあ」「本来なら町人とは言え、わが藩の領民の殺害という重大な主権侵害でございますれば、抗議をするのが順当でございましょうが・・・」 嘉膳はそこまで言いかけて、「実は」という言葉を飲み込んだ。「うむ。ただこの時節、二本松藩へは手探りではあるが非戦の申し入れの最中でもある。今ここで二本松藩との間で波風を立てるのは、いかにもまずい。そうであろうの?」「さようでございまする。それでなくとも今日あたりは、仙台兵が法蔵寺と紫雲寺に宿泊したりして城下への同盟軍の圧力が一段と強うございまする。やむを得ませんでしょう」 木々の間では、蝉の鳴く声が聞こえていた。そして一刻、静かな時が流れた。「ところで、同盟から離脱した秋田藩に説得のために派遣された仙台藩の使節団が、秋田兵に襲撃され全員刺殺されたという。そこで仙台藩は秋田討伐の軍を進めたが、その間に弘前藩も同盟を離脱したそうじゃ」「弘前藩も、でございまするか? しかし、秋田藩も使節団を殺害するとは・・・。これは穏やかではございません。もっとも秋田藩は、その昔、温暖の常陸の国より寒冷の秋田に、それも減封されて移され、徳川家を恨んでいたとの噂もございました。そんなことも、あって離脱したのでございましょうか」「それを言えば、西南諸藩が関ヶ原の敗戦の恨みを晴らすために攻めている、という噂もある」「ところで、天童藩も脱盟の動きがあったと聞きましたが、何かご存じでしょうか?」「天童藩? いや、それについては知らぬ。何かあったか?」「いや、そのような噂も聞きましたので・・・。だんだんに、周囲の情勢が明確になって参りまするようで・・・。わが藩も、いずれは叡感勅書を公にし、立場を明確にせねばなりませぬが、今のところは公表する状況にはございませぬ。ところで、勘定方より、戦費が払底して参ったとのことでございまする。町方に六千両、在方に九千両、合わせて一万五千両の軍資金を申しつけたいと申してきておりまするが」 周囲の静かなたたずまいと、悠々と泳ぐ鯉を見ながらしばらく黙っていた季春は、独り言のように呟いた。「そうか。また領民共に難儀を掛けるが仕方がない。勘定方に指示せねばなるまい」 その眉間には、深い縦皺が刻まれていた。
2008.01.21
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仙台藩兵が二百人ほど、三春の町家に宿泊した。ところが旅籠代を支払わず、困った町方では藩庁に善処を要請した。やむを得ず三春藩は、[大払いと申して殿様より相払い]して処理をした。「嘉膳。町方が騒々しいようじゃのう」「はい、季春様。六月十九日には二本松藩兵が、六月二十日には会津からも兵が進駐して来ましたが泊まるところがなく、町家の町割りに苦心しておりまする」「そうか。苦労をかけるのう。ところで平潟港に上陸した新政府海軍の動きも心配じゃが、その新政府海軍の来攻に備えて、奥羽越列藩同盟より、わが藩領の大越に出陣の命令が来ておる。それが困ったことに、三春に居る二本松兵ともども出発せよ、とのことでのう」「・・・」「そこまで言われて出兵せぬままに済ます訳には参らず、ここのところはわが意を隠しても、出兵せざるを得まい」「はい。確かに言われる通りでございましょう。すでにわが領内は、同盟軍に深く蚕食されておりまする。ここで新政府に旗幟を鮮明にすれば、藩の内外から一挙に攻め潰されかねませぬ」「力がないということは、辛いことよのう。町内では、町家の女五~六人を山の中に担ぎ込まれ、『仙台勢逗留中乱暴狼籍ノ沙汰アリ、不法至極ノ行為』という事件が発生したにもかかわらず、助けもならぬ。建前と本音の乖離が、大きすぎるわ」 季春は苦々しげに言った。その姿から、悔しさが滲んでいた。「ただ耐えるのみというのは、誠に残念なことでございまする。しかしこれも大事の前の小事。しばらくは隠忍自重が必要かと、思いまする」 それを言う嘉膳の目は、疲労で血走っていた。 六月二十二日、秋田広記を京都に残し、三春へ帰る途中の嘆願使の村田岐らは、ようやく岩法寺村(いまの玉川村)の三春藩の秋田太郎左衛門の陣に至った。岩法寺村は三春より六里ほど南にあった村で、三春兵は仙台兵と一緒に駐留していた。仙台兵に内密にして叡感勅書の帯同を知らされた秋田太郎左衛門は、兵をまとめると三春藩よりの命令として仙台兵に後を託し、村田岐ともども帰藩の途についた。ところが間もなく、その仙台兵も岩法寺村を空にして三春に引き揚げ、法蔵寺に泊まってしまったのである。 岩法寺村の同盟側がこのような不審な動きをしていたとき、新政府軍は夏の土砂降りの大雨による洪水にもかかわらず攻勢に転じ、守備兵三十余人しか残っていなかった棚倉城を陥して浅川まで急進出してしまったのである。「季春様。仙台藩は、岩法寺の陣地を棄ててまでわが藩を見張っているのではないか、と心配でございまする」「うむ、確かに・・・。仙台兵までもが岩法寺より撤収したこと、腑に落ちぬのう。そのために新政府軍は、手薄になった棚倉城や浅川陣屋を奪ってしまった。その上、いまわが領内には、仙台・会津・二本松、それにわが意を通じた相馬の兵も入り混じっている。これではどうにも、身動きがならぬな」 嘉膳は季春と城内の池のかたわらに立って、話し合っていた。岩法寺に同盟側の兵がいないということは、浅川から守山まで空になったということを意味していた。「はい。他の藩はともかく、相馬藩はわが意を通した味方。とは言え、いまここで叡感勅書のご下付を明確にすると、何も知らぬわが三春兵や相馬兵への対応のさせ方が、困難となりましょう」「そうよの。とにかくわが兵も相馬兵も、これについては何も知らされてはおらぬ筈。いまのところは漏れぬよう、神経を尖らさねばなるまい」 このような内密の話は、この池のように、周囲に人が来れば分かる所で話した方がかえって安全なのであった。鯉が一尾、ぴしゃりと跳ね、池に波紋が広がっていった。「まことに・・・。ところで、棚倉城を陥とされた藩主の阿部美作守正静様は、飛び領地であった保原(伊達郡保原町)へ逃れたそうでございまする」「いよいよ、棚倉も陥落したか・・・」「はい。一戦にも不及逃申侯由とのことで、ございまする」「一戦にも及ばず・・・か」「さらに棚倉や釜子の難民が、わが領内に逃げ込んで来ておりまする」 周囲の静かなたたずまいと、悠々と泳ぐ鯉を見ながら、季春はつぶやいた。「そうか、町家騒々敷事共也じゃ」
2008.01.20
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そしてこの日、輪王寺宮は、内藤長寿丸内唯を先触れにして、朝五ツ頃、三春を出立した。天気の良い日であった。三春藩では、「とにかく、とにかく何事もなく」と、首をすくめる思いで見送った。 ──京都に使者を送ったことが知られたら、ただでは済まぬことになる。 裏には、その思いがあったのである。 この晩、輪王寺宮は、二本松領の本宮に一泊した。そしてこの頃、守山の方角では、毎日のように鉄砲を撃つ音が聞こえていた。 ──やれやれ、よかった。 季春は大仕事が終わって、胸を撫で下ろしていた。 この六月四日、輪王寺宮は会津領に入り猪苗代に一泊した。そして三春には、仙台藩の指令により、相馬藩兵二百人ほどが入ってきた。相馬藩は三春藩と同じく、まだ同盟側を装っていた。 六月六日、輪王寺宮、会津若松に着く。 輪王寺宮は江戸脱出の際、 [過日、思わぬ敗戦を得て、君臣離散し悲嘆涙を流す泉のごとしである。 いま、我は孤独にしてここに埋伏し、ただ開運の時を侍っていた。しか し、幸いにして今日、時を得て軍艦にて海上万里を片時に走り、奥羽に 脱して、まもなく錦旗を青天に翻し、仇討ちし、恥辱をそそぎ、すみや かに仏敵、朝敵を退治したいと思う。群臣みな埋伏し、必ず身命をまも り、必ずや身命を全うせよ。きっと再会の時がある]という書き置きを残していた。 六月十五日、ついに新政府海軍が、輪王寺宮を追うように平潟港に上陸した。この平潟港は常陸の松岡藩(茨城県高萩市)に属しており、奥羽越列藩同盟に参加している泉藩とは、境界線を接していた。この作戦は白河戦線の膠着状態の打破と、相馬と仙台を陥して会津に回るのを目的として、兵員や物資の集積基地としたのである。 六月十六日、この新政府海軍々艦に便乗して平潟港に上陸した吉見廉蔵は、三春に戻って来た。「嘉膳や廉蔵の聞いて参った叡感勅書は、あくまでも内示である。信用せぬ訳ではないが、公文書として拝見せぬ内は、わが藩としての政策は打ち出せぬ。もし何らかの重大な齟齬あったら、それこそ取り返しがつかあことになろう」「はっ、季春様。それは仰せの通りでございまする。ただし内示とは申せ、主旨については間違いございませぬ。それ故にわが藩は、会津救解の策が潰いえた今は、戦争の早期終結に尽力したく思いまする」 ここの事態に至っても、嘉膳は自説に固執していた。「ところで、廉蔵。平潟港の様子はどうであったか」「ははっ、ともかく季春様。新政府軍の軍艦、兵員、軍備、糧食とも、その膨大さには言葉もございませぬ」「・・・」 三春藩では石橋を叩いていた。しかし白河ではあれほど避けていた戦いに、三春兵も巻き込まれていた。「とにかくなんとか、戦いに巻き込まれぬようにすることでございましょう」 嘉膳はそう言った。 三春では祭礼のすべてが中止させられた。 [至ってさびしきこと也] どこから聞いて覚えてきたか、子どもたちが歌う歌を大人たちが叱っていた。 ねえさんねえさんお前の腰に ひらひらするのはなんじゃいな トコトンヤレトンヤレナ あれは官軍騙して金取る 緋チリメンの湯もじじゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ 六月十七日、相馬藩兵が三春を通って南下して行った。 ──平潟に新政府軍が集結しているのに、相馬藩は兵を自領に集約しなくても大丈夫なのであろうか? 嘉膳はそう心配をしながら相馬兵に話すこともならず、歯がゆい思いをしていた。 この日、輪王寺宮は、仙台藩による「大政天皇擁立」の乞いを入れ、米沢を経由するため会津若松を出発した。そして仙台に入ると慶応四年を大政元年と改元し、仙台藩主の伊達陸奥守慶邦を征夷大将軍に、会津藩主の松平肥後守容保を征夷副将軍に任じて同盟々主の役に就任した。さらに同盟軍政総督府の名義で、「北部政府」として外国との外交交渉をはじめた。開港場である新潟港がこの北部政府の管轄下にあったため、外国公使団も、日本には南北両政府が並立していることを認めざるを得なくなった。北部政府は、天皇として皇族の一人を擁したことにより、その権威を海外にも高めることになった。「仙台藩は大政天皇様を擁立することで、奥羽越列藩同盟を幕府から切り離して北部政府を樹立することに成功したようじゃが、それにしても天子様が京都と仙台のお二方、というのは困るのう」 季春は、そう嘉膳に言った。「季春様。誠にご尤もでございまするが、考えてみますればいま京都におわすは孝明天皇様の御子、それに対して大政天皇様は、孝明天皇様の弟君であらせられます。わが国の伝統として長子が跡を嗣ぐのが筋でございますれば、わが藩としては新政府、つまりは京都におわす天子様をご支持申し上げるのは、至極当然のことでございましょう。」「うーむ。その方の申す通り、確かにここで大政天皇様をご支持申し上げることは、かえって朝廷を二つに分裂させることになるのかも知れぬ。さすれば、三春藩は不忠、の謗りは免れまい」 それを聞いて、嘉膳は黙っていた。もし季春の言う通りだとすれば、奥羽越列藩同盟は不忠者たちの同盟になると思ったからである。彼の頭の中は、目まぐるしくそれらのことを考えていた。「ところで嘉膳。笠間藩(茨城県・笠間市)は、鳥羽伏見の戦いのとき、幕府の大阪城代であったが、まもなく新政府に恭順しておった。ところが、平藩の隣にあったその飛地(いわき市から小野にかけての領地)の神谷陣屋(いわき市)が、平藩の攻撃を受けて敗れてしまったそうじゃ」 それを聞いて、嘉膳はひやりとした。下手をすれば、三春藩も同じ轍を踏みかねないのである。「やはりそうなりましたか。神谷陣屋はご本藩の意志もあって、奥羽越列藩同盟に参加せず、また飛び地のために防衛力も弱く、ひたすら中立を守っておりました。どうなるかと心配はしておりましたが、そういうことであればなおさらのこと、わが藩としましてもここで主旨を明らかにして潰されてしまってはどうしようもありませぬ。会津藩に攻め滅ぼされた長沼藩の前例もありまする。ここはわが藩としましても、慎重に事を運ばねばならぬと思いまするが・・・」「そうじゃな嘉膳。今ここで筋を主張すれば、藩と領民に大きな危害を及ぼすことのなろうしのう。わが藩は地理的にも、黒羽藩のような位置にはない。それにしてもこの多難な時局の最中に、江戸の中屋敷にいた小野寺市大夫が渡田虎雄一味に襲撃され斬殺されたという。多端の折りに困ったことよ」「はい。渡田虎雄は、あのフランス人事件の後始末に不満を持っての犯行、と聞いておりますが・・・。あのときは残念ながら、三春藩の江戸屋敷総引き揚げのときで、警備が手薄のときを狙われました。ご高齢の小野寺様が剣のたつ虎雄の刀にかかり、愛妾とともに無惨な最後を遂げたと聞き及んでおりまする。それにしても、上屋敷の濃秀院様(先代藩主・秋田肥季正室)などがご無事であったのは、不幸中の幸いでございました」「うむ。熊田嘉膳! 小野寺市大夫亡き今、さらに励めよ」
2008.01.19
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大 成 元 年 秋田季春は、嘉膳らが京都に行って留守にしている間、頭を抱えていた。「なあ、右近。五月十五日の上野の戦争で彰義隊が敗れた後、輪王寺宮様は上野の寛永寺から辛くも脱出されたが、行方知れずとなったそうじゃ」「輪王寺宮様といえば、孝明天皇様の弟君。一時的にせよ、幕府が天朝様に奉ろうとした御方、そのような方が行方知れずとは、只事ではございませぬな」 右近は、季春の目を覗き込むようにして言った。「うむ。戦いの中で亡くなられたとは聞かぬ故、京都へでも出られたのであろうかの? ところで新政府海軍は、相馬藩領に敵前上陸をしたそうじゃ」 季春は、届いたばかりの知らせを伝えた。「・・・では相馬藩は、どちらの側と戦っているのでしょうか?」「仙台兵が相馬領にも入っていたから、仙台藩の手前、恐らく新政府海軍と戦っているのであろう。それにもう一つ、難しい問題が起きた」「・・・」「仙台におられた新政府の九条総督が、秋田藩を本拠とするために逃れられていたが、今度は秋田から、海路にて京都に戻られるということじゃ」「では新政府は、奥羽を見捨てたと・・・」 二人の口は、重かった。奥羽の地から新政府軍が撤退すれば、三春藩が頼りにしていた勤王の意志という綱が、切れてしまうことを意味していたからである。「今までに何度も勤王の志を新政府に申し上げてきたが、これではかえって、自縄自縛になってしまったな」「とは申しても季春様。以前より秋田藩には、反盟の噂が強うございました。それなのに九条総督様が京に戻られるとは・・・、何か裏があるのではございませぬか?」「うーむ。とにかくわが藩の周囲は、全てが同盟側と覚悟せねばなるまい。下手には動けぬな」「どうも季春様。残念ながらわが藩の主旨は生きませぬようで。恐らく相馬藩も、苦しい立場でございましょう。白河では攻防戦がまだ続いておりまする。ところでこうなれば、最悪の場合、わが幼い殿をどこへお連れすべきでしょうか?」「うむ・・・、それも考えねばならぬか・・・」 そうは言ったが、季春にはその当てがなかった。同盟側に頼れば人質になりかねず、といって新政府軍側もどう出るかまったくの未知数であったのである。 五月二十八日、行方知れずとなっていた輪王寺宮は、榎本武揚艦隊の長鯨艦で平潟港(茨城県北茨城市)に突然上陸し、慌てふためく泉藩の慈光院に一泊した。船により、江戸を離脱していたのである。その際、会津に行くことが明示された。会津藩主の容保が忠誠を尽くしていた孝明天皇の弟君であり、上野で敗れた彰義隊が会津に合流していたことを考えれば、当然のこととも思われた。 ──会津に行かれるとすれば、必ず三春を通られる・・・。 季春は、その対応に困惑を隠せなかった。もし三春藩領で何か事が起きれば、只事では済まされないのである。 一方、この日、上洛した嘉膳と純之祐は、京都堀川の藩邸で留守居役の秋田広記に会い、三春の実情を告げた。それを聞いた広記は、御救助嘆願書と共に、[幼主の危難]を太政官に報告した。 五月二十九日、輪王寺宮は泉藩の北の平藩の飯野八幡神社に一泊した。この日、新政府軍参謀の板垣退助が白河の小峰城に入城したが、白河では同盟軍による再度の白河小峰城の奪還作戦が行われていた。しかし、城を回復するには至らなかった。新政府と幕府。この両者の戦闘の影響が、三春に向かってひたひたと寄せてきていた。 五月三十日、輪王寺宮は中寺(笠間藩領飛地・いわき市)に宿泊した。 同じ日、三春藩の嘆願使は、新政府の参議・穴戸五位や副総裁の岩倉具視と会見して歓待を受け、その上で弁事役所に、御進軍御救助嘆願書を提出した。新政府の三春藩に対する憶えは、良いように思われた。 六月一日、輪王寺宮は小野新町(笠間藩領飛地・小野町)に一泊した。早馬にて、輪王寺宮が三春御止宿の前触れがあり、三春藩はこれの受け入れのために[大取込]となった。 ──いよいよ来られる。 季春には、輪王寺宮の旅程での安全確保、宿舎の警備方法などを考え、眠られぬ夜が続いていた。思考が泥沼に入り、何度も往復するのである。 京都では、嘆願の主旨が漏れれば奥羽越列藩同盟にこの隠密行動が知られる恐れがあり、役所の日誌なども書き込まないようにとの再嘆願を行なった。 ついに、六月二日、輪王寺宮は[上り藤紋]の小幡、剣付鉄砲三十人ほどの護衛と百五十人ほどの供揃いで、さらに船引よりは剣付鉄砲三十人ほどの三春藩兵の先触れで、緋の衣で朱塗りの駕篭に乗り、三春に入った。「拝見相成らぬ」との強いお達しに、町家は表戸を閉め切り、息をひそめていた。[宮様、御年二十二~三歳位と拝見致し侯] この一行は、龍穏院と光善寺に分宿した。なんらかの出来事の発生を恐れた季春は、宿舎に多くの藩兵を差し向け、万全の警護に当たらせた。 (輪王寺宮行程図) この日の夜、京都では嘉膳や純之祐らが、岩倉邸で酒肴の待遇を受けた。その席で朝廷から、叡感勅書下付の内意を受けたのである。三春藩邸は喜びに沸いた。これで正式に三春藩の尊皇の意に、お墨付きを得たことになったからである。 六月三日の朝、嘉膳は京都を出立すると東海道ではなく美濃路に入り、木曽より日光道に回り、それから東の水戸へ迂回して三春へ帰った。途中の道は戦乱のために皆閉塞し、敵味方の兵が入り乱れて往来を遮っていた。やむをえず山川に分け入ったり、その艱難辛苦たとえようもなかった。嘉膳は叡感勅書下付の感触を早急に三春へ知らせようと、その旅路を急いでいた。 嘉膳が、三春へ出立して間もなく、京都では、三春藩の御進軍御救助嘆願書に対して、太政官より叡感勅書が下付された。 叡感勅書 秋田万之助映季 奥羽諸藩順逆不弁、賊徒へ相通し官軍に抗衡候者も不少趣に候処その方 小藩を以敵中に孤立、大義を重し方向を定従来勤王志君臣一意徹底致居候 段神妙の至りに候、百折不撓大節を全可致候不日官軍諸道より進撃救援可 有之に付この旨相心得可申候条御沙汰候事 六月
2008.01.18
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やがて白河城は、陥落した。 まさにこの日、長岡藩を盟主とした北越六藩がこれに加盟し、奥羽越列藩同盟が成立した。奥羽列藩同盟に代わり、新たに奥羽越列藩同盟の盟約書の起草を委嘱された仙台藩の案は、「薩長は朝廷の姦敵である。虚名を張り、策謀を巡らし、陰に大権を盗み、暴動をほしいままにしている国賊である。奥羽越諸藩に対し、すみやかに国賊追討の綸旨を頂きたい」というものであった。 余りに過激な文言に列席者は驚き、「これでは、宣戦布告文だ」と言って論争となったが、誰かが大きな声で、「これでよし!」と叫ぶと、出席者の多くがそれに雷同した。 奥羽列藩同盟からの流れもあり、結局三春藩も、藩主の秋田万之助映季名で奥羽越列藩同盟に賛成せざるを得なかった。いまさら「会津救解・不戦論」など持ち出せなかったし、反対論を唱えればその場で斬殺されかねない雰囲気であった。勤王の主旨を声高に言えない状況であり、反対意見はくすんでしまってまったく生彩を失ってしまっていた。帯刀は押し黙ってしまった。このように殺気だった中での穏健派の発言は、かき消されてしまったのである。さらに会場には酒が持ち出され、大宴会となってしまった。そして会議場全体が、異様な雰囲気に包まれていったのである。その宴会の乱れを見ながら帯刀は、奥羽越列藩同盟の本質を感じて慄然としていた。 それでも、その後に修正された文言は、積極的に新政府に対抗したものではなく、時局の推移に加盟諸藩共同で対処すべきであると述べられているに過ぎなかった。 今度奥羽列藩会議於仙台告鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室下 撫恤人民維持皇国而安宸禁仍条例如左 一、以仲大義于天下為目的不可拘泥小節細行事 一、如同舟渉海可以信居以義動事 一、若有不虞急要之事此隣各藩速援急可報告総督府事 一、勿負強凌弱勿計私営利勿泄機事離間同盟 一、築造城堡運搬糧食雖不得止勿謾令百姓労役不勝愁苦 一、大事件列藩集議可帰公平之旨微細則可随其宣事 一、通謀他国或出兵隣境可報同盟 一、勿殺戮無辜勿掠奪金穀凡事不義者可加厳刑事 一、右之條々於有違背者則列藩集議可加厳刑事 慶応四年五月 仮にこの内容が建前であったとしても、この文面から穏便であることを確認した三春藩代表の大浦帯刀は、藩主の映季の名で奥羽越列藩同盟に参加の署名をした。「いよいよ、恐れていたことになったな。文言はともかくとして、同盟が気負い立っている今、わが藩としては朝廷、つまりは新政府支持の主旨を公にし得ないのう」 季春が言った。「はい。しかしどうもこのままでは、わが藩は、新政府に抵抗する側に組み込まれてしまいましょう」 嘉膳がそう言うのを聞いた明徳堂学長の山地純之祐も、「しかし嘉膳殿。奥羽越列藩同盟が新政府と戦うと決めた以上、同盟はすなわち国の賊となるということではあるまいか。天朝に背かずというのがわが藩是なのに、このままでは国賊の名を後世に残すことになってしまう。これは大変なことだ。わが殿は幼く、事のご理解が難しい。これでは訳も分からぬまま、藩を挙げて賊軍となってしまう」と厳しく言った。 嘉膳も苦渋の色を顔に浮かべていた。「私も、心を痛めておりまする。情報によれば、秋田・秋田新田・本庄・矢島・亀田・弘前・黒石・新庄・天童藩などがすでに反盟を明確にしており、あげくに本庄・矢島・新庄などは同盟軍に押しつぶされ、亀田藩などは再び同盟側に転向したそうにございまする。どうしたらよいか・・・」 そう言いながら季春に向きを変えると、「とにかく季春様。すでに秋田藩も同盟軍に領内深く侵攻されておるそうでございまする。このような状況の中で、奥羽越の主導者である仙台と米沢藩がわが藩より遠くない北にあることは、まるでわが藩は同盟という海の中の孤島のようなものでございまする。守山藩はわが案に同意はしたものの、奥羽越列藩同盟の方針が明確になった今、あのときのような意気込みは感じられませぬし、相馬藩も地域的に離れておりまする。二本松藩は、白河の攻防戦で、奥羽越の諸藩に莫大な借りを作ったようなものでございましょう。借りを返すためにも、二本松は戦わざるを得ないのかも知れませぬ。とすれば、先に話した二本松藩士の秋山次郎左衛門も、動けぬかも知れませぬ」「秋山次郎左衛門も動けぬとなると、これは困った。秋田藩の例もあること。こうなればわが藩としても、新政府との戦いに引きずり込まれる危険性が高いということになるな」 季春は山地の顔を見ながら言った。「はい。それにわが藩領内には、仙台・会津・二本松・平などの各藩が兵を送り込んで来ておりまする。戦いが始まれば、重要な位置にあるからでございましょう」「もはや、引きずり込まれてしまったも同然か?」 季春は憮然とした面持ちで言った。 嘉膳が答えた。「いや。それでも、なんとかせねばなりますまい。ここはともかく、私と山地様の二人で、新政府へ御救助嘆願書の提出のために上洛したく思いまする。くどいと思われてもわが藩の主旨を何度でも申し上げ、忠誠の意を明らかにすべきかと思いまするので・・・」「うむ、そうか、行ってくれるか。しかしこの辺りには、奥羽越列藩同盟の兵が散開しておる。嘆願書を帯同しての旅は危険じゃ。内密に常陸を経て、東海道を上るように」 季春はしばらく考えていたが、そういう助言をするのを忘れなかった。 嘆願書 先般御届申上置候通・・・扨当藩之儀者僅々一藩ニ御座候得者如右四方 之大藩を引受及接戦候儀難計当惑至極仕候・・・勤王之赤心動揺不仕官 軍御到着奉待尽力仕候外他念無御座万之助始家来共迄決心罷在申候奉迎 望候者右之赤心御憐察被成下早々御進軍御救助奉嘆願候 以上 五月晦日 秋田万之助家来 秋田広記 弁事御役所 このような微妙な時期に、三春領のある神官が二本松領に入り、「新政府軍が三春に入り、二本松に攻めてくる」などと言いふらし、騒ぎを大きくした。そのため二本松や本宮は恐慌状態となり、二本松藩は三春との国境の稲沢村に陣屋を新設し、二本松と会津の両藩兵を進駐させた。さらに本宮に宿営していた仙台兵のうちの百人ほどが三春に入り、紫雲寺や法蔵寺に分宿した。 やがてこの神官は捕らえられ、牢に入れられた。 嘉膳は町で噂を聞いてきたトクに、「これは三春藩の本意故、秘密を守るように」と言いながら、この状況を説明した。「三春藩が白河に出兵した際、あの黒禰宜も加わっておった。その黒禰宜が、勤王の志を泉、湯長谷、相馬の士に言ったのが漏れて、白河が落城したのは黒禰宜の手引きだと言われてのう・・・」「黒禰宜でございますか? ああっ・・・」そう言うとトクは、思わず口を手で隠した。「黒禰宜って、あの富沢村の禰宜様でございましょう? まぁー、本当にあの方は、赤銅色の黒い顔をしておりますものね」トクはそう言うと、今度は声を出して笑った。 しかし嘉膳は、不謹慎と思えるその笑いを無視して話を続けた。「そこで白河の三春陣所に引き立てられた黒禰宜は、仙台藩の塩森主税様など、各藩立ち会いの上で詮議を受けた」 今度はトクは、笑わなかった。「そのとき黒禰宜は、大声で叫んだそうじゃ。『この度一天万乗天子、王政復古の勅を垂れさせ給い、我等勤王の士相はかりて力を添え奉りかりそめにも錦旗に抗せん輩にはいちいち天誅を加えん決心なれど運命つたなくしてかく捕えらるる上は、一時も早く斬らるべし』とな。さすがにそこに居合わせた者は、皆な驚いたというわ」「・・・」「こういう考えの持ち主であったから、二本松領に入って騒ぎを起こし、三春藩を早く新政府の側に付けようとしたのであろう。黒禰宜も気がもめたのであろうな」 五月十三日、黒禰宜の問題を水に流すかのように、三春藩の秋田太郎左衛門指揮の三春兵は、舞鶴城の大手前にて剣付鉄砲や槍の隊列で閲兵を受け、盃を下げ渡されて仙台藩兵ともども白河攻防戦加勢のために出陣して行った。 嘉膳の意志に反して、情勢は悪化の一途をたどっていた。
2008.01.17
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京都において、軍務局より徴兵の達があった。 今般被迎出候徴兵軍資金之儀 左之通可相心得候 一 歳十七八より三十五歳頃迄強壮之者相撰可指出候事 一 当分之内小銃並要具蒲団持参之事 一 軍資金上納之儀ハ三分一ツツ正月五月九月可為上納事 一 軍服並日給御賄等朝廷より被下候事 一 在所ニ備置候兵隊之儀ハ御沙汰次第出兵之覚悟勿論ニ候事 閏四月二十四日 軍務局 白坂で勝った会津兵が、休息のためと称して三春領・赤沼に入った。 ──早々に引き揚げた三春藩の動向を、この会津兵の部隊に監視させるためなのではないか。 そう憂いた季春は草川五三郎を呼び、使者として会津に出立させた。奥羽列藩同盟が成立した今、相手として戦っている会津兵は一部の不心得者である、ということだけでは藩内への説明がつかなくなってきていた。「会津藩の本心を見極めて参れ」 これが季春の密命であった。 ──いま会津兵が三春領の赤沼に駐留している。あそこから攻められたら舞鶴城も危ない。このような同盟とは、三春藩にとって何なのか? 季春はそう思っていた。 三春の町は、[以之外騒敷事共也(ことのほか騒々しい)]という状態であった。「白坂で敗れていた新政府軍は、兵力を増強して白河に迫っておる。そのため、わが藩には仙台藩より、白河防御に備えて棚倉へ出兵することと、福島軍務局詰めとして三名を出向させよとの命令が来ておる」 季春は嘉膳と会津から戻った草川五三郎を呼んで、そう言った。季春は軍務局詰め人員は人質ではないのかとの疑念を払いきれないでいたが、さすがにそのことは口にできなかった。「そういうことだが五三郎。会津藩の動向は如何であったか?」「はい。会津藩は、謹慎しても下手に出ても強硬な新政府の態度に、中堅以下の家臣たちは気負い立っておりまする。そのような中でたび重なった白河周辺での戦いに加え、新選組や彰義隊、さらには遠くの美濃の郡上青山藩(岐阜県)の凌霜隊なども駆けつけ、もはや容保様独自の穏健な政策は打ち出しにくくなっている状況のようでございまする。その上、他藩の者は修羅場をくぐって来た者ばかりのため、考え方は先鋭化しており、地元の家臣たちもこれに感化されてきておりまする」 嘉膳が尋ねた。「五三郎。会津は藩として新政府軍と戦う、ということを決めたということか?」「いや、嘉膳様。まだそこまでは見えませぬが、私はその気配は濃厚である、と見ました。ともかく先日、奥羽の同盟が白石城で成りました故、会津藩士の意気は高うございまする」「そうか。会津藩はもはや、あの会津の救解同盟の主旨は終わったと考えている、ということだな五三郎」「いや季春様、そこまでは明確ではございませぬ。上層部の本心が漏れて参りませぬ。硬軟両様の構え、というところでございましょうか」「それでは探索にならぬではないか」 そう不快気に言ってしばらく黙っていた季春が言った。「うーむ。これは・・・、仙台藩がいい加減であるからではないか。先日、仙台藩は皆に黙って撤退した白河に、今度は会津応援の兵を出した。下世話にも、『九丈(九条奥羽鎮撫総督)はしごに半鐘掛けて、火(非)のない合図(会津)を、撞(討)たりょうか』などと言われて平和のうちに解決する筈じゃったのに、仙台藩はそれをひっくり返してしもうた。もっとも『同盟が発足したから方針が変わった』と言われればそれまでじゃが、しかもその同盟とて、仙台藩の主導で結成された筈・・・」 五三郎は小さくなっていた。「ところで季春様。仙台藩は朝廷より錦旗を受けていながら、同盟が成立したからと言って会津側として立って新政府側と戦う。私にはここのところの意味が、どうにも合点がいきませぬ? 錦旗を返上したのでしょうか?」 嘉膳の顔がこわばっていた。「うむ、そこのところよ。奥羽諸藩の先導者たる仙台藩は、いったい何に拠って戦おうとしているのか? 奥羽をどこへ導こうとしているのか? そう考えると、わしにはどうも仙台藩は両面外交をしているような節も見え隠れするのじゃが・・・。現に、錦旗を返上したとは聞いておらぬ」「両面外交でございまするか? もし言われる通りとすれば季春様。わが藩が棚倉出兵と福島軍務局詰めを受けることは同盟側としての立場を明確にすることになり、朝廷を刺激することにはなるのではありますまいか。それにわが藩も、両面外交と謗られることになるのではなりますまいか」 五三郎もまた、苦しい顔をして言った。「うむ・・・。しかし今、仙台藩の意志が明確でないにしても、それは仙台藩内部のこと。わが藩としては、すでに朝廷に恭順を明確にしていることでもある。これを変える訳には参らぬ。その上、仙台藩と、つまりは奥羽列藩同盟と行動を共にすれば、朝廷への恭順を足蹴にすることになる。そうは言っても、今ここで、『三春藩は新政府側である』との旗幟を明確にして、奥羽列藩同盟からの攻撃をかわせるか、ということもある。ここが問題じゃ。ここは一つ、しばらく様子を見守るより他はあるまい」「まったく困った状態に追い込まれました。しかし今まで頑張ってきたわが藩に、この期に臨んで賊軍の名を冠する訳には参りませぬ。ただわが藩が新政府側であることを、どの時点で明確にするか、それが問題でございましょう」「うむ・・・。そこが微妙じゃ」 季春は、嘉膳の言うのを頷きながら答えた。 五月一日、白河城防御戦において、同盟軍の被害は甚大であった。たった一日の戦闘で二百十七人(三百~六百人の説もある)の戦死者、それに対する新政府軍は十四人であったという。すでに旧式の人海戦術では、近代兵器の標的となり、文字通り死屍累々のありさまであった。同盟軍は、敗れて町へ逃げ込んできた。町人たちは老幼をかばい、狭い道を逃げ回った。まるで大河の水が流れるようであった。後ろを振り向く暇もなく、つまずくものなら倒れる。その狼狽ぶりは、何とも言いようがなかった。
2008.01.16
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この戦いの翌日、三春兵は白河から撤兵した。以前に、仙台・米沢・秋田藩が兵を引き揚げて手薄になっていたこともあったが、会津兵が白河に入城してきたこともあった。八人の戦死者は、駕篭に乗せて運ばれた。この撤兵に際して三春兵は、[今朝北須釜役宅より口上申来候は、右御人数三百余人通行被致侯間、村役人五人斗境目へ羆出侯様]と通過する各村に命じ、さらに狸森村には、人馬の負担を要求した。重苦しい隊列であった。若干の戦死者は出したが、今の時点で、辛うじて戦いから手を引くことができた。 その翌日、三春の町中に噂が駆け抜けた。「白河城は陥落し、三春兵は大負けに負け、鉄砲や武器を捨てて逃げたそうだ」「いや、三春兵ばかりじゃない。出兵していた各藩とも逃げたというぞ」「三春藩からも多くの戦死者が出たそうだ。敗れた兵たちは、赤沼に向かって逃げて来たというわ」「なんでもそのとき、敵前逃亡をした斉藤与市郎という者が捕らえられたが、大小を取り上げられただけで命だけは助けられてどこかに逃げ延びたそうだ」という噂が広がった。 それでもやがて実状が分かって落ち着いてきたが、今度は「会津の回し者が、引き揚げ兵に紛れ込んで三春の町に入ったそうだ」とか「白河に応援に来ていたすべての兵が、国元へ帰ってしまった」という噂が流れ、「いったい会津は、敵か味方か?」と町内は騒然となっていった。 領民たちの情報は、噂しかなかった。 この噂から出た騒ぎを収めるため、藩の全役人が徹夜で警戒し、その後も治安維持のために夜回りや番所改めが厳しく行われた『端午の御祝儀、登城中止』の命令も出された。 ここにきて会津藩は、ようやく『恭順謹慎、降伏謝罪之義、只管嘆願申出』た。この申し出に仙台藩は喜んだ。仙台藩より早速、『会津藩が降伏嘆願をしてきたので衆評したい。貴藩重役を白石に派遣ありたい』という廻状が、奥羽諸藩に送付された。 この廻状により、奥羽諸藩の重臣たちが続々と白石城に集まってきた。 三春藩も喜んだ。平和的解決の燭光が見えてきたのである。さっそく藩の代表として、大浦帯刀と小堤広人を出席させた。会合には呼びかけ人である仙台・米沢をはじめ、盛岡・二本松・中村・三春・棚倉・福島・守山・上ノ山・亀田・一関・矢島・黒羽、それに会津が参加した。 そしてこの会合で、次の三点が決定された。 1 会津藩の嘆願書提出 2 仙台藩、米沢藩による会津藩救解書提出 3 列藩家臣による、嘆願書提出 さすがに、「首謀者の首級提出」のことは外されていた。この決定は、奥羽諸藩全員によるものである。実に平和的提案であった。それにこれだけ多くの藩がまとまれば、いかな新政府といえどもこれを認め、平和裡に事が進むと思われた。会津藩としても「嘆願書提出」で事が済むのであれば何も問題がないと思われた。その後さらに、この会合に欠席した次の各藩が、署名人として参加した。すなわち、秋田・新庄・平・本庄・泉・湯長谷・下手渡・米沢新田・八戸、そして弘前の各藩である。 代表となった仙台、米沢の両藩主は、新政府の奥羽鎮撫総督の九条道孝にこの連署の嘆願書を提出し、口頭で、「奥羽人民、塗炭の苦しみに陥る」と付け加えて、平和的解決を強く求めた。九条総督は、「嘆願書の主旨はもっともなれど、下参謀と相談の必要あるため、預かりおく」と答えた。 ──新政府としても、この全奥羽の意志としての嘆願書は無視出来まい。これでようやく平和になるかも知れぬ。 そう思う嘉膳の胸は、安堵感で溢れていた。 ところがこの奥羽諸藩の嘆願書に対する奥羽鎮撫使下参謀・世良修蔵の返書は、厳しいものであった。それには、『会津は朝敵、天地に入るべからざるの罪人だ。何を今更言っているか。早く会津攻略成功の報告を持ってこい』という意味のことが書かれていた。 ──いったい新政府は、話し合いということは考えぬのか? 戦うこと自体が目的のように見える。内戦という負担が、庶民に重くのしかかってくることを考えぬのか? 嘉膳は愕然としていた。 全奥羽は、世良修蔵の向こう気の強さに、鼻白んでいた。 世良修蔵がこの返書を出したとき、まだ白河城にいた。そして新政府軍としての白河防衛軍増強依頼のため、奥羽総督府のある仙台へ行く途中の福島に向かっていたのである。そのときの白河を守っていた防衛軍は、仙台(三小隊)、米沢、秋田、二本松(人数不詳)、棚倉、三春(二小隊)、湯長谷、泉、平の諸隊であった。 世良が福島の旅館・金沢屋に着いたとき、福島藩の鈴木六太郎を呼び、「仙台藩に漏らすな」と命じて密書を託した。世良を付けねらっていた仙台藩士が、これを入手した。密書には、世良が、奥羽諸藩嘆願書を却下した理由と、『奥羽皆敵と見て進撃の大策に致候に付、乍不及小子急に江戸へ罷越、大総督につき西郷様へも御示談致候上、登京仕、尚大阪までも罷越、大挙奥羽へ皇威赫然致様仕度奉存候』と記されており、なおかつ、このために明日には仙台の奥羽鎮撫総督府に到着する、と書かれていた。この世良こそが平和にとっての癌であるという認識が、福島の旅館・金沢屋での仙台藩士と福島藩士による世良修蔵暗殺となって表れた。 白石城では、奥羽諸藩代表の協議中にこの暗殺の報らせが届いた。満座の人みな万歳を唱え、「悪逆は天誅逃れることができないものだ。愉快、愉快」の声が、止まなかった。このため会議は、集団的興奮状態に入ってしまった。しかし、「天朝様の参謀を殺したままでは、賊名をまぬがれず、総督府との交渉も不可能となる。ここは気を新たにして、平和的解決の道を探るべきだ」との意見もあったが、すでにその発言は、はばかられる状態であった。会議に参加していた黒羽藩の代表の三田弥平は、同盟への加入を強く求められたが、これを拒否して帰って行った。黒羽藩は、その主張をなし得る、関東の地にあったのである。 閏四月二十三日、会津藩も加わって、奥羽列藩同盟が成立した。この同盟は、新政府軍と戦うことが決定された。 三春藩の代表の大浦帯刀もこれに調印した。奥州の全藩が参加の調印をする中で、表面切ってこれに参加しないことは、三春藩の存立を自らが否定することにつながったのである。勤王の主旨を新政府に明らかにした後でのこの調印は、苦汁の決断であった。 この調印の報告を受けた嘉膳は、 ──これでは朝廷を裏切ることになる。と考えた。ところが一方で同盟に加入しないことは、三春藩の存在を否定することにもなりかねなかったのである。大浦帯刀の決断を、認めない訳にもいかなかった。「うーん」 嘉膳も考えていた。 ──この奥羽列藩攻守同盟が、新政府軍と戦うということは分かった。しかしその戦いは何のための戦いなのか? そこがはっきりせぬ。すでに幕府が瓦解し、会津も謹慎しているにも拘わらずその会津と共に同盟として戦うということは、会津救解のための同盟という主旨はすでに失なわれた、ということか? さすれば奥羽は、奥羽のためのみに戦うということになるのか? もしそうだとすれば、その奥羽とはいったい何なのか? それにこのような重大な問題を、こんな決め方でいいのか? 嘉膳は頭の中で反芻していた。 その後宇都宮を再び陥していた新政府軍は、二十四日、出来たばかりの奥羽列藩同盟の会津兵の守る白河城奪還のため、大田原(栃木県)を進発し、塩崎・油井・関谷で会津兵を破った。 翌二十五日、白河の南に二里ほどの白坂で、新政府軍と会津兵の戦闘がはじまった。この戦いは、会津側の勝利に終わった。このとき、新政府軍の死者十三人の首が四寸割りの板に五寸釘で打ち付けられ、白河城の大手門にさらされた。町方では、「ソレッ、新政府軍の首を取った」と見に行く者が多く、黒山のような人だかりであった。首には、藩名が付けられていた。 秋田季春は、何とか戦いを避けようとしていた。「これはまずい。どうしたらよいかの?」「はい。奥羽列藩同盟が成立したとはいえ、反対論もくすぶっておりまする。まとまりは表面的なものと思いまするが?」「うむ、そうは思うが、当藩内での強硬論者の台頭も心配なこと。同盟内の反対論者に、不戦を働きかけることは出来ぬか?」 彼は嘉膳に言った。「私もそうは思いまするが、同盟内での反対論は、水面下に沈んで見えなくなってきておりまする。見えてくるのは威勢のいい強硬論ばかり。反対論者は本心を隠し黙してしまったのでございましょう」「そうか・・・。ではせめて、わが藩と会津藩の間にある二本松藩を誘って、一緒に帰順するというのはどうか? 二本松藩とて、白河の戦いで困惑しておろう」 季春は、そう嘉膳に提案した。 いま二本松藩は、白河藩をも預かっている大藩である。その白河で二本松兵は会津兵と対峙し、今度はその会津兵と共に新政府軍と戦っているのである。この奇妙な立場から二本松藩は白河での攻防戦の主役となってしまい、苦慮していることが間違いなく想像された。「二本松藩がわが藩の意向に沿うかどうか、それは分かりませぬ。ただ季春様が言われるように、わが藩の態度を伝えてもし恭順させることが出来ますれば、戦いを完全に避けられないまでにも被害は少なくできると思いまする」 そう答えながらも、嘉膳は一つの問題に突き当たっていた。 それは三春藩が五万石である、ということであった。十万石、いや二十万石にもなる二本松藩にこういう申し入れをすることは、不遜と非難されても仕方がないと思えたからである。「より被害を軽くするという意味で、それもよかろう。ただ恐らく、二本松も藩論が割れていよう。そこで、穏健派の上層部を見つけねばなるまい、と思う。なにか良い手だてはあるまいか?」 そう言われても、嘉膳はどう返事をしたものか考えていた。そして「まだ具体化しておりませぬので、申し上げなかったのでございますが」と、前置きをした上で言った。嘉膳は二本松藩の下層の者から動かすことで、その隘路を打開しようと考えていたのである。「実はわが藩の郷士の河野広中と申す者が、二本松の商家へ丁稚見習いに行っていたとき二本松藩士の秋山次郎左衛門と昵懇にしておりましたそうです。その次郎左衛門が、現在二本松藩の穏健派となっておるそうでございまする。次郎左衛門は、『薩摩・長州の尻馬に乗って、何の恨みもない会津と戦って、たった一つしかない命を無くするのは愚の骨頂。戦争だけは、まっぴら御免』などと申していた男でございますれば、この者を通せば、何らかの手だてがあるかも知れませぬ。」 それを聞いた季春の顔が明るくなるのが、嘉膳にも分かった。「そうか。それはありがたい。なんとか二本松藩の上層部に取り次がせてくれ。もしうまくいったら、わが藩からそれなりの者を使者としよう。そのときは嘉膳。その方にも頼むぞ」
2008.01.15
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「はい。それは分かりませぬが・・・。守山藩も思い切ったことを言ったものでございまする」「ところで、仙台の政紀から手紙が届いた」 季春はそう言って内容を話した。それによると、 [既に結成されていた会津と庄内藩の同盟は、いよいよ仙台と米沢藩を加 え、会庄仙米四藩同盟を中心とした抗戦体制を作ろうとしている。そし てこの四藩が核となって奥羽諸藩同盟を成立させ、江戸城を奪回して『 君(天皇)側の奸を祓い清める』というのがその名目である。しかし仙 台藩にすれば、自分に代わる政治勢力が会津・庄内を中心として形成さ れることになると考え、大藩の面目にかけてもこれを阻止する必要があ る、と考えている。そのために仙台藩は、無理でも矢理でも、会津を降 伏させようとしている。そこで仙台藩は、庄内藩抜きで会津、米沢と三 藩で重臣会議を開き、 1 会津鶴ケ城の開城 2 会津藩領の削封 3 首謀者の首級提出 という三項目を飲み込ませ、会津藩に降伏を迫っている]というものであった。「そうですか。仙台藩はそこまでやりましたか・・・。しかしそのような条件では、会津藩としては納得する訳がございませんでしょう」 嘉膳は断定的に言った。「うむ・・・。しかし政紀によると、会津藩の重臣は、『早速、帰藩して降伏嘆願書の草案を練りましょう』と言ったそうじゃ」「なるほど。しかしそれは、面と向かって反対する訳にはいかなかったからではありますまいか。会津藩領の削封など、余りにも会津藩の分が悪うございます。それにだいたい首謀者と言っても、何をやった首謀者か分からないではございませぬか。ただそれはともかくとして、現実として戦いがなければ、わが藩としても我々の主旨に沿った一つの成果と見ることが出来ましょう。ところが先日、新政府軍は会津藩攻撃の命令を下だしたため、各方面で戦端が開かれておりまする。攻勢に曝されている会津藩には、そんな屈辱的な降伏嘆願書を書く積もりなどないのではございませぬか?」「うむ、そこが妙なのじゃ。と言うのはその新政府側で戦う仙台兵には、なぜかまったく戦意が見られないという。会津救解に徹して戦わぬというなら分かるが、戦意もなく戦うとは・・・」 首を小さく横に振りながらそう言う右近に、嘉膳が尋ねた。「仙台藩は、戦場に錦旗を掲げたのでしょうか?」「うむ、そこまで確認はしなかったが、もし掲げていれば仙台兵の士気は高い筈。それが見られず戦線が膠着状態というのであるから、掲げたとは思えぬが」「仙台藩も何を考えているのかのう」 そう季春が言った。「奥羽最大の仙台藩がこれでは、新政府が三春藩を含めた奥羽全藩を信用しないのも分かるような気が致しまする」 そう嘉膳が言うと、三人は、黙ってしまった。 しばらく考えていた季春が言った。「右近。現場はこのような状況じゃ。急ぎ出府してこの状況と、わが藩初志貫徹の意を伝えて参れ」 江戸引き揚げの許可を得ていた三春藩では、海路による江戸藩邸引き揚げのために、中の作港(いわき市)まで運搬の人足を出した。中の作港は、平藩の領内にある。三春藩のそのときの人足の数が千四百人というから、大変な作業であった。 それからまもなく、新政府より仙台および二本松藩を通じて、三春藩の呼び出しがあった。二本松に出頭した秋田太郎左衛門に、[三春藩は、庄内藩征討軍へ編入された。出羽国本庄へ出兵せよ]との命令が出されたのである。このために鬼生田村の兵を撤収し、出兵準備に忙殺された。ところが三日後、庄内藩征討軍編入の予定が会津藩征討軍編入に変更された。「何だ、この命令の変更は」「その上、白河にも出兵も命じられたそうだ」 三春藩内に、動揺が広がった。 ──白河への出兵は、会津と対抗することになる。新政府の麾下ということであれば納得出来るが、それにしても成り行きだけで戦争に巻き込まれるというのは困る。 嘉膳は不安を感じていた。新政府もその下の仙台藩も、そして二本松藩の動きもまったく当を得なかったのである。 白河に出兵をした三春兵は、白河市中の警備と会津街道口の防備にあたった。この出兵に際し、嘉膳は次のように訓示した。「今回の出兵は、新政府の命令による会津征討軍としての出兵である。現在、各地で会津兵との戦いが起きているが、これは一部理を弁えぬ者どもとの戦いであって、会津藩そのものとの戦いではない。諸士は宜しくこの者どもを押さえ、仙台藩の錦旗の下、松平容保様をお助けせねばならぬ。重ねて言う。これは平和のための出兵である。戦いが目的ではない。心して事に当たるよう」 嘉膳はここに至っても、三春藩を戦いから避けさせようとしていた。 [三春様御軍勢一番手御繰出事、但行列なくぬけぬけの事。此節御城下にても所々の 騒ぎに大心配の事に付逃したく到居侯事、誠に心配の事なり] ところが閏四月十九日、仙台・米沢・秋田藩は、白河に出兵中の諸藩に連絡することなく、兵を引き揚げてしまった。「仙台・米沢・秋田藩の兵が、堂々と隊伍を組んで帰ってしまった」「何! 何故だ!」「分からぬ。しかし仙台藩は、新政府からこの城を預かった筈ではないか?」「米沢・秋田藩とて無断でいなくなるのは論外だが、こうなれば、命令権はどこにある?」「白河は二本松藩の預かり地だ。当然それは・・・、二本松藩しかあるまい」 これら大藩の白河派遣の兵の引き揚げに、二本松藩はもとより、残された各藩は慌て、その対応に追われていた。 その翌日、仙台藩などの撤兵を見透かしたかのように会津藩および彰義隊の兵が、白河の会津町、道場小路に放火をし、白河城に進入してきた。 未だ会津救解同盟の下にあり、命令権の確立していないまま白河城を守備していた二本松・棚倉・三春・平・泉・湯長谷の中小の各藩兵は、抵抗の姿勢を見せなかった。何故なら、会津藩が会津救解同盟の仲間である以上、戦うことは同士討ちになると思われたからである。司令官ともあるべき大藩・仙台と米沢藩がいないのであるから、残された藩はどうしたらよいか、分からなかったこともある。しかし後に分かったことであるが、この撤兵は、嘆願不許可のときの措置として、仙台藩が中立を保つということで、会津藩と黙契を交わしていたことによるものであった。このとき奥羽の主導権を有していた仙台、米沢の両藩は、自らの保身のため局外に立ち、中小諸藩に火中の栗を拾わせようとしたのである。 [この時、白河城は空城で、磐城平様は市中回り、三春様は木戸見張りの 役であった] この戦いのとき、小峰寺の住職が梵鐘を衝いて町に急を知らせたため、新政府軍に狙撃されて死亡した。町方では、大砲の砲丸がキュウキュウと頭の上を飛び、呆然として声も出ずただウロウロするのみで、腹が減っても飯は喉を通らず水を飲むにも震えて茶碗の水が飛び出してしまったという。 このような中で、戦うべきかどうか迷っていた各藩からなる白河の守備兵は、根田方面に総退却した。このとき、二本松藩の和田右文は、兵を指揮して貯蔵していた弾薬に火をつけて爆破し、千両箱を井戸に投げ入れて敵の手に落ちるのを防いだ。この千両箱を、後年の白河町長の大竹貞幹と川崎弥八郎が担がされている。この二人の話しによると、大砲の音で腰が抜け、前の者が立つと後ろの者が立てず、後ろが立てば前が立てず、といったありさまであったという。 会津兵が白河に入城して戦火が鎮まると、多くの人々が消火に駆けつけた。この人たちは御米蔵より米を貰い、酒屋では只酒を振る舞ってくれ、質屋は質草をみな戻してくれたという。 [朝六ツ時白川城せんそう会津勢くり込み(中略)三春方さんさんニにけ さる(散々に逃げ去る)御城ニハ松はん(二本松藩)勢(中略)皆々ほ うほうの体ニてにけさる(中略)三春勢八人ほとの討死]という結果に終わった。 仙台の政紀からは、秋田藩が急使を仙台に派遣し、「[御同盟ノ儀ハ決シテ背キ不申候]と申し入れた」との報告が届いた。 ──同盟設立の話し合いの最中の、この仙台と秋田藩の奇怪な行動は何か?と考えたとき、嘉膳は、秋田藩の同盟そのものへの不参加を予感し、頭から血の気の抜けるような気がした。 ──仙台と秋田藩は、この拡大するかも知れない戦いから、身を引こうとしているのではあるまいか。それにしても、これは奥羽有数の大藩だから出来ること。わが藩は戦火に近い上五万石に過ぎぬ。こんなことをしたら、周囲から一挙に攻め滅ぼされかねぬ。
2008.01.14
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迫 り 来 る 軍 鼓「嘉膳! ついに幕府は、戦わずして江戸城を明け渡したぞ。それにしても新政府側は、東海道先鋒隊を池上本門寺に、東山道先鋒隊を市ヶ谷に、東山道総督府本隊を板橋に置いての交渉であったそうじゃ」 季春は晴れ晴れとした顔で言った。「新政府軍も江戸城を囲んでの交渉・・・ですか。それは際どうございました。江戸の無血開城は良い知らせではございまするが、それにしても季春様。新政府は白石城(宮城県)に会津征討本営を置き、仙台藩はその下で、土湯峠(福島市)の会津藩と戦闘状態に入ったそうでございまする」「うむ、そこよ。仙台藩が福島領内で会津藩を攻めるということは、仙台藩と福島藩は明確に新政府の旗下に入ったということになる。こうなると江戸無血開城のこともあるし、会津藩も強く出る訳にも参るまいに、何故か戦線は膠着状態だと言うわ。不思議じゃのう」「もしかして季春様。仙台藩は手加減をしているのではありますまいか?」「うむ。わしもそれを考えた。もしかして仙台藩ばかりか、双方が慣れ合いの戦いをやっているのではないかと・・・」「慣れ合い・・・でございますか? さすれば季春様。この戦いは止どまるかも知れませぬ。そうなれば良いのですが」 今度は、嘉膳の顔が明るくなった。「うむ、そこのところよのう・・・」 先ほどの話し方と違って、季春はゆっくりと話した。「ところが薩長を主力とした軍勢が山形、上ノ山藩を加えて庄内征討軍を編成し、上ノ山藩領の采女ケ原で訓練を行った上で庄内藩領の新清口で戦いを仕掛けたというわ」 そう言う季春の顔が曇っていた。「なんと! 庄内でも戦いがはじまったのでございますか?」「うむ。どうも新政府軍は江戸無血開城で関東以北を押さえ込んだと見たか、一挙に会津・庄内への締め付けを強めておる。会津藩としても、抵抗せざるを得ない状況に追い込まれておるようじゃ。それにしても仙台藩主の伊達陸奥守慶邦様は、会津藩救解の運動を進めていた筈なのに会津と戦うとはおかしい、と思っておる。そうすれば、やはり慣れ合いかも知れぬ」「そうですか。それにしても仙台藩は、どっちつかずでございまする・・・。こうなるといったい、何を考えているのでございましょう? 情勢が掴み切れませぬ」 嘉膳は、首を小さく横に振りながら言った。「うむ。仙台に派遣された新政府軍の中には、『奥州仙台腰抜け侍 刀抜くとて腰抜けた』とか、『竹に雀(伊達家紋)を袋に入れて あとで俺いらの ものにする』などと揶揄する者がいるそうじゃ。仙台藩士が怒るのも無理はないがのう。ただこうなると、会津藩の救解に、仙台藩は頼れぬのではないか。どうも心配じゃ。わが藩はどう動くべきか・・・。こうなると、江戸にいる右近を増上寺の有栖川宮様に伺候させ、藩状を報告して、その指揮を仰ごうと思うておる。それに江戸には平山敬忠がおるからまだしも、仙台には町田政紀を派遣しようと思っておる。ともかく仙台藩の動きは、よく見守る必要があろうからのう」 白河では二本松藩応援の平兵と会津兵との間で、また二本松領大槻村(いまの郡山市大槻町)では二本松兵と会津兵との間で小競り合いが起こった。 翌日にはこの大槻村に二本松兵の応援のために、仙台兵が進駐してきた。大槻村と郡山村は、目と鼻の間である。二本松藩は、まるで奥羽諸藩に尻を叩かれるようにして戦いにのめり込みはじめていた。自己が自己の領内に留まっているのにかかわらず、他藩から応援の兵が入り込んで来て、勝手に戦争を拡大しているようなものである。驚いた郡山の住民の一部は、三春へ逃れてきた。三春は、その噂でもちきりだった。 [郡山の海老屋の後家と子供三人が、縁戚関係にあった三春の大川屋大吉 方に、荷物三駄を持って、逃げてきた] [大槻村には、合わせると二千からの兵がいる] [白河の東にある幕府領の塙の代官所も、仙台藩に引き渡された。という ことは、幕府には維持する力がないということか?] [郡山や二本松では、商家は大戸を下ろし、土蔵には目張りをしている] [百姓家にも人が居なくて、昼でも化け物が出そうな感じだ] [二本松領の岳山(安達太良山)から会津兵が押し寄せて来て、岳の湯治 場を焼いて引き揚げてしまったそうだ] [二本松藩は、会津藩境の安達太良山から中山峠、それに御霊櫃峠にかけ て五千近い兵を展開しているそうだ] [二本松領の中山村(いまの郡山市熱海町)を会津兵が焼き討ちにして、 守備していた二本松藩兵八名を生け捕りにしてなぶり殺しにしたそう だ] [白河に行っていた三春兵は、昨日の夜のうちに三春に引き揚げてきたそ うだ]「いや~こう不穏では、白河はともかく、三春を守ってもらわなければ大変だ」 町中は、大騒ぎであった。 三春藩は会津兵の攻勢を恐れ、二本松藩との国境の阿武隈川警備のため、急遽、その東畔の鬼生田村(いまの郡山市西田町)に防衛隊を派兵した。そこへ二本松領の中山村から逃げて来た難民の内、気の狂った者が脇差で自分の腹を切ったため、応急処置をして三春に送る事件が発生した。 上野で敗れた彰義隊や京都を逃れていた新選組を中心とした旧幕府軍は、大鳥圭介を総督として、新政府側に恭順していた宇都宮を占領した。一方で江戸に滞在していた秋田右近は三春藩の指示により、橋本、柳原両参謀の指図を仰ぐため増上寺の有栖川宮に伺候し、池田参謀に面接して、この宇都宮での敗戦とは関係なく三春藩は新政府の側であることのを意志を通じた。その後右近は戦乱の宇都宮を避け、水戸、棚倉を経由して帰藩した。 右近の報告によると、池田参謀から口頭により、「会津藩は、天朝に刃向かう逆賊である。救解などはあり得ない。仙台藩とともにこれを撃て」という命令であったという。「あれでは有栖川宮様も現地派遣の者の意見を聞き置くだけで、新政府としては、奥羽の情勢をまったく理解していない」 右近は、まだ奮然としていた。「右近。わが藩の新政府支持、奥羽に戦いに持ち込まぬことの不戦の決意は、間違いなく話したのであろうな?」「それはもう懸命に話しましたが、宇都宮や白河、そして大槻や土湯峠での会津兵の抵抗を理由にして、『会津藩に反抗の意志あり』としてまったく無視されました。それにわが藩の意向に対しても、疑惑があるような感じでございました」「なんと右近様。わが藩は頭書から新政府支持を表明しておるのにでございますか?」 嘉膳もこちらの主旨がまったく伝わっていないことに驚いて、尋ねた。「とにかく会津藩も容保様に倣って、藩として謹慎をしてくれれば様子が変わろうとは思いまする。しかしここのところの各地での会津藩との戦闘もあってか、奥羽は全面的に信用されていないものと思われまする」「うーむ、それは困った」「しかし季春様。良い話も一つ聞いて参りました」「ほう、良い話?」 季春は思わず右近の顔を見た。「はい。実は内密に聞いた話ですが、守山藩が新政府に、『会津御追討先鋒』の再嘆願をしたそうでございます」「守山藩が再嘆願? ということは、以前にも嘆願をしたということか?」 季春は、信じられないといった顔で尋ねた。「はい。しかも四月の十五日と言いますから、江戸無血開城ののちの間もなくのことでございまする」「うーむ。それは驚いた。それにしても二万石の守山藩に会津を攻めるほどの兵力のある筈がない。されば長沼藩の奪還が目的なのではあるまいか。それにしても、守山藩は水戸のご本藩とは相談したのであろうか?」 季春は傍らの嘉膳を見た。
2008.01.13
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三月二十三日、相馬藩の使者が三春を訪れた。 嘉膳は相馬藩の使者に引見し、自分の意見をつぶさに述べた。包み隠さず話すことで、何らかの方策の気配だけでも得ようと努力していた。話し合ってみると、相馬藩も嘉膳とは近い考えであったのである。「しかし、我々二藩だけでは意見としての力がない。意見として取り上げられるだけの単位にもなれまい。このままでは、我々は単に、『その他大勢』で終わってしまおう。何とかこの考え方を広めたいものだ」「まったくその通り。それもあってわが藩は、筑後・柳河藩ご分家の下手渡藩に声をかけた。下手渡藩としては、本藩の御意向もあって、喜んでおられた。そこで私見ではあるが、相馬藩に戻って相談の上、平・湯長谷・泉藩など海道の諸藩に声をかけてみたいが・・・」 相馬藩の使者が、声をひそめながら言った。「うむ。しかし・・・。平藩主の安藤対馬守信正様は、五年前の坂下門外の変で失脚したとはいえ、幕府老中を務めておられた。湯長谷と泉藩は、その平藩とは余りにも近い関係。貴藩の西の下手渡藩はともかく、磐城の三藩については、相当の慎重さが必要であろう」「うーむ、なるほど。熊田様、つまり、こちらの態勢が整なわぬうちに事が露見すれば、押し潰されてしまうということですな?」 使者が困った顔を見せた。「私も、わが三春の南隣の守山藩には、いささか抽象的にではあるが意志を漏らしている。しかし守山藩は水戸の支藩。立場は難しかろうが反応は悪くない。なんとか説得出来る、と思われる」「ほう、さすれば今の四藩、つまり三春五万石、相馬六万石、守山三万石、下手渡一万石の合計、それに長沼藩の三万石を加えれば、十八万石になりまするなあ」 使者の顔が、ちょっと明るくなった。「しかしそれらの藩だけでは、まだ力不足。どうしたらわが方に二本松藩を取り込めるか、が問題でござろう」「とは言っても、熊田様。二本松藩は十万石。しかも白河十万石は、今は空城。ここを、幕領として民政は幕府の小名浜代官が預かっておりますが、軍事は二本松藩が預かっております。いわば二本松藩の実質は、二十万石にもなります。我々全部を会わせてもまだ足りませぬ。これを味方にすることは、難しいのではありますまいか?」「さよう。だからこそ欲しいのだ。石数がすべてではないが、二本松藩の預かっている白河藩は関東との接点。ここさえ取り込めれば、奥羽に不戦の輪が広がる転機ともなるのだが・・・」「確かに・・・。二本松藩が加われば、力強いですな」 使者は腕を組んだまま言った。「しかし表面的にはともかく、周辺の帰趨が明確でない今、各藩の情勢の把握が大事。余り具体的には動けますまい。ただこれら今日の話し合いの内容については、お互いに報告は上層部のみにとどめ、対外的には、『現今の状況に鑑み、仙台藩の指導の下に、新政府、幕府のいずれとも武力衝突を避ける』ということの表現でお茶を濁すか」「それはうまい表現ですな」 相馬藩の使者が皮肉ともつかぬことを言うと、苦笑の輪が広がった。 嘉膳は三春藩が新政府支持で藩論を統一し、意志伝達のために、秋田右近を江戸・芝山内の真乗院に留まっていた池田種徳参謀の元に伺候させ、その指揮を仰いでいることを話した。そして、「なるほど。それでは相馬藩としても、事は急を要しますな」という言葉を聞いたとき、 ──しまった、早まって言ってしまったかな。もし池田参謀が受け入れてくれなければ、これは失言だ!と思った。 まだ、ためらいがあったのである。 奥羽越の小藩は、天皇への忠誠を強く意識していながら、新政府からも、やがて結成される奥羽越列藩同盟からも過小評価され、総合的な力となり得ず埋没して行くことになるのである。「季春様。『長沼藩を占領した会津兵が、白河に攻めて来る』という噂が、頻々と立っておりまする。そのためにか、白河城を守備していた二本松兵を応援するためとして、増援の水戸藩兵が白河城に入ったそうでございまする」と、嘉膳が報告した。「おう、ついに水戸藩が入ったか。それでは水戸藩は、本音としては長沼藩奪還の準備をしておるのかも知れぬ。しかしもしそうだとすると、二本松藩は白河藩を預かったばかりに、自分の意志とは無関係に戦いの渦に巻き込まれるのではないのか?」 季春と同様、嘉膳もそれを心配していた。もし水戸藩が長沼藩奪還戦を実行すれば、それが会津藩との全面戦争に発展するきっかけとなることを意味し、三春藩の戦略が根底から崩れることになるからである。「まこと難しい事態じゃのう。さればこの際、わが藩としても、出来れば江戸の屋敷の総引き揚げ、または最悪でもわが藩兵だけでも引き揚げが叶わぬか? これからは江戸が騒乱の中心となろう。もし江戸での戦いとならば、そこに兵を置くことだけでも危険なこと。それこそわが藩としても戦乱に巻き込まれる。そうなればその時の状況にもよるが、江戸に兵を置くということ自体が、三春藩は新政府を支持するのかそれとも幕府を支持するのかと、いらぬ憶測をまき散らすことになろう。それにもし、わが藩兵が戦いに巻き込まれれば、江戸にいたということだけで幕府側であると思われる危険性がある。さすれば新政府支持を朝廷に表明したわが藩が、苦しい立場になる」 ──江戸と三春は、むしろ近い。 その思いが、季春の口調を強くしていた。「御意。ここは何らかの理由を考えてでも、藩の統制が効かなくなる前に若干の屋敷見回りの要員を除き、すべての兵を引き揚げるべきかと思いまする」 その間に京都では、大きな出来事が起きていた。 三月二十一日、天皇は建礼門から御所を進発し、大阪へ向け新政府軍の最高司令官として親征の旅に出たのである。天皇は直衣を着け、略式の乗物である荵華輦に乗御した。内侍所(神鏡)を奉じて進む天皇の行列の先頭には、「錦の御旗」がひるがえった。あの戦場でのものと同じものである。 そして新政府は、庄内藩征討の本陣を天童城(山形県)に置くことを命令した。危機を感じた庄内藩は、会津藩と攻守同盟の交渉に入った。「嘉膳。どうも難しいことが耳に入った。上洛中の仙台藩若年寄の三好監物様が、『長州征伐の対象となった長州も寛典にあずかっている以上、会津だけが責められる理由がない。そういう無理押しは、奥羽全体を敵とする覚悟がなければ達成できまい』と言ったため、新政府の硬派を痛く刺激をしたそうじゃ。この言葉が、奥羽に災禍をもたらさねばよいのじゃが・・・」「それはまた・・・。仙台藩も錦旗を背景にしての発言であったのでしょうが、いらぬ強がりを申されました」 季春はにがい顔をしていた。「うむ。このことを知れば、会津藩が新政府の動きに不信感を持つ気持ちが分からぬでもないが、自らが敢えて泥道を選んでいるように見えるのう。困ったことだ」 季春がそう言った。「とは言え、ここは何とか会津の主戦派の気持ちを落ちつかせ、容保様の意志である謹慎恭順を天下に知らしめる方法が、ありませんでしょうか?」 嘉膳は、なんとかしなければという気持ちに突き動かされていた。「うむ。確かに会津藩の動きとして、容保様が滝沢本陣に謹慎蟄居していることと、長沼占領は辻褄が合わぬ。会津藩としても、藩論が二分されているということでもあろうがのう」「はい。私もこれが三春藩ならばと思うと、主戦派の気持ちも分からぬでもありませぬ。容保様が如何に謹慎なされていても、薩長は攻勢の態度を変えてはおりませぬ。事情をよく知らぬ下々の家臣たちとしては、容保様を守り、藩を維持するための戦いと思うのも無理はございませぬ」 会津藩の苦衷を思い、嘉膳は目を閉じた。「ところで嘉膳。以前の話の通り、『奥州筋が乱れ、会津に近いため何が起きるか分からない』という理由で、京都弁事役所から江戸藩邸よりの撤兵の許可を得た。それはそれでよいのじゃが、実は朝廷は、この二月に白河城を仙台藩に交付しておった。そのためもあってか、仙台藩より直接わが藩に、白河防衛の応援の兵を出すようにと言ってきておる」「すると仙台藩は、間違いなく新政府側であるという態度を明確にした、ということになりまするか? しかし直接ということになりますると、二本松藩の立場はおかしくなりましょう?」 きっとして嘉膳が言った。その眉間には、深い縦皺が寄せられていた。「急に朝廷が白河城は仙台藩に交付すると言っても、もともと白河領内は軍事的には二本松藩の管轄。その上に、民政は幕府直轄の小名浜代官というのだから、これでは命令系統は三本となる。かえって難しいことになるのう」「そうしますると、白河に応援に入っている水戸藩兵の立場は、変なことになりませぬか?」 嘉膳は、できるだけ論理的に考えようと努力していた。「うむ。水戸も大藩ながら、こうなれば形式としては仙台藩の下にならざるを得まい。ただ実質的には従うかどうか、そこが問題じゃのう」「どうも風聞によりますれば、水戸藩兵は独自に長沼城奪還に進撃する、とも噂されておりますようで」「うむ、その話、わしも聞かぬではない。いずれ水戸、仙台、二本松藩は、それぞれの思惑も異なろう。面倒なことにならねばよいが・・・。ただ、もともと我ら、幕府からの命令は仙台藩より二本松藩を通じ、三春藩へという命令系統の中にあった。その流れに従えばよい筈、と思うておったが、こたびは仙台藩が直接、『白河藩校の修道館に、陣を敷くように』と場所まで指定してきた。これでは二本松藩とて、顔が立つまい?」 確かにそうなれば、白河での三春藩の立場が難しくなることが、目に見えていた。「それはまた・・・。仙台藩もご丁寧なことで」 嘉膳は仙台藩に、皮肉を込めて言った。「しかしどうも仙台藩は、今のところ明確な方針を出しておらぬ。それに新政府と仙台藩の間も、一枚岩ではなさそうじゃ。もっとも仙台藩としても、幕府と新政府という二つの頭を持っている訳じゃから、右せんか左せんか、困っておるのであろう。ここは何とか、戦いを避けたいのじゃが。わが藩としても、舵取りの難しいところじゃのう」 三春の領内では、新たな触れが出された。そして不安感が高まっていた。[通行、止宿共に鑑札が必要。止宿は一泊。木戸開門明け六ツ、閉門暮れ六ツ。毎夜宿屋改め、無鑑札者は取調。一季奉公人、他所者召し抱え無用。他所者は、諸職人も町外立退き。庚申坂宿屋の他所者の止宿禁止。他所者商人の行商無用。寺院に旅僧を置く事無用。病気の節は、その筋に願い出て指図を受ける事] 四月十日、危機を感じていた会津藩は、同じく賊徒と目されていた庄内藩と会庄同盟を結んだ。この二藩同盟は、近い将来[会津と庄内藩が、仙台と米沢藩を説得して四藩で同盟を作る。そして、この四藩が核となって奥羽諸藩同盟を成立させ、江戸城を奪回して、君(天皇)側の奸を祓い清める]というのがその名目であった。 それを聞いた嘉膳は、懸命に考えていた。 ──仙台と米沢藩はどう対応するのか?
2008.01.12
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二月十四日、山形藩が仙台を訪れた。将軍の謹慎は、奥羽諸藩を不安に落としていたのである。江戸の様子が分からないから、仙台藩を頼らざるを得なかったこともある。幕府の命令系統が、まだ残っていたこともある。このため、各藩が次々と仙台を訪れ、自藩の行動の指針としようとしていた。このことから仙台藩は、己の意志とは無関係に奥羽の盟主となって行くのである。 このような中、細川縫殿助の報告を受けた三春藩は、吉見廉蔵を京都への使者として派遣し、太政官より要求されていた兵備人数書を提出する一方で、軍備困難の窮状を訴え、兵力派遣の延期を嘆願した。しかし、このことは、新政府側への傾斜を、さらに強めたことになった。 この頃、嘉膳は、兵学修行という名目で仙台にいた。そのために、次のような仙台藩の動向は、すぐ三春に知らされた。[二月十七日、精兵をひきいて上洛していた仙台藩の若年寄の三好監物を出頭させた太政官は、『仙台藩単独でも会津藩を討伐せよ』との命令とともに、二旒の「錦の御旗」を下賜した。そこで三好監物は、京都探索に来ていた仙台藩士の坂本大炊に錦旗の護送を命じたのである。坂本大炊は、これを奉戴すると仙台に走った。 錦旗を拝領した仙台藩は、すみやかに出陣し御征討のためただちに上洛しようとする考えと、幕府の動きを注視するという考えとが拮抗している。 二月十八日には盛岡藩、米沢藩が仙台を訪れた。その折り米沢藩は、仙台を盟主とし、奥羽列藩連合を結成して会津藩救解の努力をすることが確認されが、仙台藩には特に積極的な様子が見られない。 二月二十二日には庄内藩・相馬藩が、二十七日には二本松藩が仙台を訪れ、意見を打診している。 江戸では、幕府の若年寄兼国内御用取扱となっていた平山敬忠が幕閣と意見が合わず、仮病を使って登城しなかった。そのために彼は免職となり、なおかつ新政府によって逼塞を命ぜられた。 すでに新政府は、幕臣にまで命令権を行使している] それらの情報を得た三春藩は、三月十二日、奥羽の諸藩に遅れてようやく仙台を訪れた。しかし仙台藩そのものが、方向を明確にしていない今、三春藩としてもその意志を明確にし得なかった。そして三春藩は、最後の訪問者であったのである。 嘉膳は、三春からの使者とともに、仙台を離れた。 ──仙台藩は朝廷より錦旗を賜っている。それだからこそ奥羽諸藩は、陸続として仙台を訪れているのではないか。それにもかかわらず仙台藩には、新政府と行動を共にする意志は見られない。何故か? これが嘉膳にとって、最大の疑問であった。朝廷が錦旗を仙台藩に下げ渡したのは、仙台藩が奥羽の要と目した証拠、と思えたからである。 ──しかし仙台藩の本意を知らぬまま、三春藩が新政府支持を明確に宣言するには、いかにも状況が悪い。しかし仙台藩が戦わないとすれば、平和のうちに新しい日本を造ることが出来るかも知れぬ。 そうは思ったが、奥羽の地では、幕府と新政府の微妙な二重権力状態が続いていた。 ひたすら恭順の姿勢をとる会津藩主の松平容保。一方でこれを諒としない会津藩の主戦派は隣の長沼藩に攻め込み、これを陥してしまった。そして会津に至る勢至堂峠に土塁を築き、大砲を備えたのである。その報告を聞いた嘉膳は、 ──やはり。と思った。しかしそれは、予想していたからではなかった。起きてみてはじめて、それは確かに考えられることであり、起きてみてはじめて、それは、やはり、と感じるものであった。 長沼藩は、守山藩と同じく、水戸の支藩であった。そして藩主も、江戸常住であった。そのために、両藩とも代官を置いて支配していたのである。長沼藩の悲劇は、会津藩の隣の小藩であったために起きたものである。 長沼の代官は、同じ係累にあたる守山藩に逃げてきた。水戸藩としても、心穏やかならぬ状況となった。そして会津藩も、一枚岩でなかったことになる。今後会津が、藩としてどのような行動をとるのか、水戸藩はどう出るのか、嘉膳はそれが心配であった。 三春藩は『甚心配居侯事』であるとして、次のお触れを出した。『八幡町、荒町、北町、新町、清水に御番所を建て、旅人の通行を、厳重に取り締まる』ことになった。このためもあって、町の中では不穏な噂が飛んでいた。「三寒四温とは申せ、妙に気候が柔らかじゃのう」 トクは、嘉膳が言うのを言葉少なに聞いていた。この春は気候が不順で、三月というのに暖か過ぎる日が続いていた。それよりもトクは、戦いの様子の話でも出るかと思っていたが、それは出なかった。彼女としても、長沼藩の敗北とむしろ今後の三春藩が心配だったのである。 嘉膳は、季春の元に登城した。「敬忠から『新政府軍による江戸城総攻撃が、西郷隆盛と勝海舟との交渉により中止され、その無血開城と慶喜の水戸隠退が約束された』という情報が入ってのう。江戸の情勢も、急激に変化しているようじゃ」 しかしそう言う季春の顔は、すぐれなかった。「ええっ! 慶喜様の引退が決定したのでございまするか? ということは、幕府が消滅したということになるのでございましょうか? もしそうならば、会津は長沼藩から手を引かざるを得ませんでしょう」 嘉膳の顔も険しくなっていた。「うむ。そうなればいいのじゃが・・・。ただ江戸無血開城と慶喜様の水戸への隠退の話は、いまのところ単なる口約束、実行に至ってはおらぬ。しかし実行されたとしても、わしは会津が長沼より手を引くとは思えぬが・・・」 嘉膳は意外そうな顔をした。 かまわず季春は、話を続けた。「よく考えて見ると、もし会津が長沼から手を引いても、新政府は会津藩を叩くのではあるまいか。われらが上部機構である幕府の存立が微妙な状態にある今、それ故会津藩は長沼領有を既成事実としてしまうのではあるまいか」「・・・」「と申すのは、長州の会津に対する恨みは尋常ではない。容保様が京都守護職についた後からでも、[長州の七卿落ち][新選組の池田屋事件][蛤御門の変][長州征伐]そして実行には至らなかったが、[第二回の長州征伐]と枚挙に暇がない。長州藩は、それらのすべてに会津藩がかかわったと思っておろう。その反面、会津藩は、松平容保様が新政府に恭順の嘆願をしたにもかかわらず却下され江戸所払いになったのは、長州藩の所為と思っておろう。恐らく双方とも、相手方に、してやられた、と思い込んでおろう。それであるから、猜疑心にかられた主戦派が、会津領から戦線を離そうとしているのではあるまいか? 主戦派は戦線を会津から遠くに離せば離すほど、会津本領は安泰と考えたのではあるまいか。むしろ会津は、さらに郡山か白河に進出して来るもの、とも考えられる」「そうですか・・・。郡山は二本松領。戦火は隣にまで拡がるということでしょうか・・・」 嘉膳は、気落ちしたような顔をした。「うむ。遺憾ながら、その危険性が高い、ということであろうのう」「それでは季春様。戦いはなし、という訳には参りませんでしょうか?」「うむ。そこのところじゃ。敬忠からこんな知らせも届いておる。肥前の唐津、伊予の松山、宇和島そして讃岐の高松藩は、幕府側と見られて新政府軍に押し潰されたというのじゃ」「・・・宇和島藩は仙台の、高松藩は水戸の支藩。それは分かる気が致しまするが、四国や九州にも幕府側がおったのですか?」「うーむ。どうもこれから考えられることは、先日、新政府支持の報告を持って秋田右近を上洛させたが、もしこのことが奥羽諸藩に知られれば、わが藩もあの西国の諸藩のように押し潰されるかも知れぬ。確かにこれは、容易ならざる状況じゃのう」 嘉膳は、脇の下に冷や汗が流れるのを感じた。その後の情勢の変化にどう見極めをつけるべきか、その対応策が見つからないのである。
2008.01.11
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ようやく、新政府支持で再び藩論を統一した三春藩は、用人の秋田右近を、その意志伝達のために上洛させた。一月二十二日のことであった。しかしこれは、その後の動きを考えれば、この同じ方針の再確認は早過ぎたのかも知れない。何故なら、この後の奥羽の動きは、この三春藩の主旨とは逆の流れとなっていくのである。その上、藩論の統一とは言っても、一枚岩で決まった訳ではなかった。藩内における幕府支持の意見は水面下に沈み、見えなくなっただけである。 嘉膳は家に戻っても、頭はこの問題で充満していた。 ──一日の決定の遅れは一日の損となる。そう思って急いでああは決めたが、これで藩内の意見を強固にまとめられるかどうか、それが問題だ。それに、もし周囲の各藩が徳川方に付けば、三春藩は独り、新政府側として押し潰されることになりかねぬ。おおっぴらに声を掛ける訳にはいかぬが、どこかわが藩と同じ考えの藩はなかろうか? 嘉膳はそう考えていた。単独で行動するには、三春藩の五万石だけでは、確かに力が弱かった。兵力も少ない。強力な仲間が欲しかった。 ──もしかして、藩内の強硬派が武力蜂起せぬとも限らぬ。 嘉膳はそれを最も恐れていた。 ──本当はどちらに付くべきなのか。 嘉膳にしても、藩の存続を主に考えれば、迷いがあった。しかし国の将来を考えれば、それは確信でもあった。このようにどこの藩でも、上級の侍たちは、右に落ちるか左に落ちるか、将に綱渡りの状況であった。どちらかに決めざるを得なかったのである。 ──すでにわが藩は、朝廷に勤王の趣を申し上げておる。やむを得まい。 そんなことを考えているところへ、トクが、話をかけてきた。「この冬は、どうしたというのでしょう。今年に入ってからの方が、たびたび雪が降りますわね」 嘉膳はトクの話の急転回について行けず、黙っていた。「それに、雪の晴れ間に洗い張りをしても、寒さが厳しくて、すぐ板のように凍ってしまいます」「それでは・・・、乾く暇があるまい?」 嘉膳はようやく、話題を妻に合わせた。「はい。それでお目障りでしょうが、少しでも早く乾くようにと、廊下にも干していますので・・・」「わしも先夜、夜中にミシッミシッと小さな音がして人の気配を感じてのう。それで思わず刀を掴んで、音のする方に聞き耳を立てながらそーと行ってみた」 嘉膳は、茶目っ気に目を大きく見開いて言った。「あらっ。私、気がつきませんでしたわ。誰か泥棒でも居りまして?」 トクは驚いて尋ねた。「いや、誰もいなかった」「まあー。だって音がしたんでしょう?」 嘉膳は柔和な顔に戻っていた。「うむ。あの晩は風呂から上がって掛けておいた手ぬぐいが凍みていた音じゃった。手ぬぐいが凍みる時には、音がするのじゃのう? わしは思わず一人で笑い転げておった」「まあー旦那様、そんなこともご存知なかったのですか?」「なに? お前は知っておったと申すのか?」 嘉膳がそう言うと、思わず二人は顔を見合わせて笑った。しかし笑いながらも、嘉膳の不安な気持ちは、どうしようもなかった。 二月三日、新政府は東征大総督に有栖川宮熾仁親王を任命し、東海・東山・北陸三道の征討軍を編成して、東征の大号令を発した。この戦争は、天皇親政の建て前から、皇族の派遣という形で進められた。 二月四日、五箇条の御誓文が提示された。 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦ザラシメン事ヲ 要ス 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ この五箇条の御誓文が、近い将来に議会制民主主義を打ち立てようとするものであるという解釈は、正しくないと言われている。しかし参列した公家諸侯等は、 [天子の志を謹んで仰ぎ、死を賭して全力で勉め励み、願わくば天子の心 を安んじ奉る所存である]という誓約書に署名した。その上で二条城に於いては、全国大小名に対して、 [各軍旅用意過有之侯] [御沙汰次第奉命駆集ルヘク侯]との命が下された。 江戸にあった会津藩主の松平容保は、輪王寺宮と諸藩に、謝罪嘆願の依頼をした。しかし、その諸藩のほとんどが薩長の威勢をはばかり、たった一通が朝廷に達したのみであった。しかもこの嘆願は通らず、官位を召し上げられ、江戸城への登城禁止と府内立ち退きを命ぜられた。そこで松平容保は会津に帰国すると鶴ケ城に入らず、滝沢本陣に入って謹慎の意を示した。その上で、会津藩の関係者の帰国は婦女子にはじまり、傷病者と続いた。途中での死亡者は渋紙で包まれ、駕篭で運ばれた。それが終わってから藩士や江戸詰めの諸役の帰国が続き、総引き揚げが完了した。 会津藩は、藩を挙げて謹慎したかに見えた。 しかしこれを追うようにして、新政府は、東海道・東山道・北陸道の他、海路で仙台へ東征軍を進軍させた。奥羽には暗雲が、押し寄せようとしていた。 この重大な局面に際して動揺を来たした奥羽諸藩は、みな仙台藩と連絡をとり、その指揮を仰ぎ、援助を請おうとしていた。 二月九日、天童藩が仙台を訪れた。その情報はすぐに流れた。 二月十二日、三春藩は、嘉膳と藩士の細川縫殿助を江戸に派遣した。新政府から要求されていた兵備につき、協議するためであった。嘉膳には、東征軍進軍の情報収集と戦争回避のために、東奔西走の日々が続いていた。 その日も雪が、ちらついていた。狸穴にある三春藩の中屋敷に入った細川縫殿助は、ようやく嘉膳と膝を交えた。「嘉膳殿。徳川慶喜様が江戸に戻られてからしばらくになられます。新政府は着々と軍を進めはじめているのに、幕府からは何も指示がありません。幕府は一体、どうしようとしておるのでございましょう?」「うむ。徳川慶喜様は上野の寛永寺に謹慎なされておる。すでにこの時点で、幕府は機能しなくなったと考えてもよいのではあるまいか」「ということは嘉膳殿。すでに日本は新政府の世の中になった、ということになりまするか?」「いや、まだそこまでは断定出来まい。敬忠様からの知らせによると、慶喜様が大阪城を脱出するとき、『自らが出陣する、最後の一兵になろうとも後に退くな』、と命令しながら、夜中に女装をして小舟で城を出て、幕府の軍艦に乗り換えて江戸へ逃げ帰ったという。それが幕府として、賊軍という汚名を雪ぐ方法であったという。ところがその反面、『関東や奥羽の全藩は勿論、京都以西の幕府派諸藩の力を結集した上で、改めて上洛を果たし、天子様の安寧を願う』と言っているそうだ。幕府とてどちらが本音か、理解が出来ぬ」 嘉膳は腕を組んだまま言った。「とすれば、嘉膳殿。幕府の政策が確定していないうちのわが藩の新政府への協力表明は、早まったということになりませぬか?」「いや、そうはなるまい。すでに慶喜様の行動も一貫せず、天子様は明確に新政府側の後ろ楯になっておる。もはや変更はあるまい。それに亡き殿の奥方様の御実家、鳥取藩からも西方の情勢が知らされて来ておる。それを聞けば、早まったとばかりは言い切れぬ」「とは言え嘉膳殿、全国の諸藩は、神君家康公以来の徳川家に恩顧がある筈。もし慶喜様が立てば、西国の大名といえども幕府側につくのではありますまいか?」「うむ、縫殿助。お前ともあろう者が、まだそれを言うか」 そう言いながら嘉膳は腕を戻した。今度は説得の体勢である。「いいか縫殿助。幕府側の人間が神君家康公以来の徳川家の恩顧を振りかざしたい気持ちは分かる。それが問題の先送り、とりあえず無難であるからだ。しかし西南諸藩は、地理的にも江戸より清国の方が近い。その外国の方が近い西南諸藩が行なってきた長い間の海外貿易と、それに伴う海外情勢の把握、そして薩英戦争や四国連合艦隊の下関砲撃による強大な外国勢力との対決などの体験から、領民に至るまで幕府の政治には疑問を持っている」 嘉膳は、分かったかと言わんばかりに断定的に言った。「なんと、領民どもまでが幕府の政治に疑問を? そんなことを、下々の者にまで言わせておいてよいのですか?」「なにを言うか縫殿助。関東や奥羽は幕府の鎖国政策を守っていたため、海外との交渉がまったく出来なかった。それがこの意識の差を生んだのだ」「我々は遅れていると?」 縫殿助は不満そうな顔をした。「ふくれるな縫殿助。特に関東以北は、思想と武器が遅れている。西南諸藩の兵器と軍制は、全面的に改められているぞ。新政府軍は、鳥羽・伏見の戦い以後だけでも、最新鋭の銃器が十五万七千挺も輸入したと言われている」 それを聞く縫殿助の目は、驚きで瞬きもしなかった。「十五万七千挺・・・?」 その数の多さに、縫殿助は唸った。「そうだ。そこのところを知らねばならぬ。それを知った上での問題がある」「問題が?」「そうだ。何と言っても、新政府は天子様を背負っている。それに幕府が大政を奉還して将軍が謹慎し王政が復古された今、幕府は滅亡して徳川家は一つの大々名に過ぎなくなってしまったということになろう。このことは、わが藩について言えば、今までは徳川家の下についていたが、今度は徳川も含めて天朝様の下につくことになる。ここが問題だ」 縫殿助は理解に苦しみ、押し黙った。「いいか縫殿助。ここのところを良く考えよ。つまり禄高に差はあっても、天朝様の下という意味に於て、徳川家はわが秋田家と同列であるということよ」「同列・・・と申されますと?」「いいか。私らが長崎で学んだ政治学では、それを共和政治と呼んでいた。日本にその政治を当てはめると、先ず四民を平等とし、士農工商の別をなくす。そうしておいて、会議を起こし、全国の藩主と公卿で上院を平民で下院を構成し、上下両院で議論を尽くし、最善の方法を天子様に建議して政治を行うことだ。日本を徳川幕府の古い桎梏から解放し、新生日本を作ろうとする考え方からすれば、新政府への協力表明は正しいことなのだ」 そして嘉膳は声を潜めると、次のように言った。「もしここで戦いの有る無しは別としても、徳川幕府が残れば日本は古いままになってしまおう。そうなれば、日本の先行きは暗い。下手をすれば、清国と同じく、植民地にされてしまう可能性が強い。それを防ぐには、この混乱を機会に新しい共和制の日本を作るべきである。ただし、共和制を作ることと戦争はまったく別。戦いなしで幕府制を止めるのが一番の得策。今回の幕府の大政奉還と将軍の謹慎は、その新しい一歩となろう。事は、良い方に流れておるな」 嘉膳は、まごつく縫殿助を尻目に、大きな声で笑った。
2008.01.10
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嘉膳を迎えた三春藩も困惑していた。とにかく主だった者を城に集め、急遽、今後の対応策を協議した。幕府から出ていた薩長連合討伐のための出兵の命令と、この新政府による徳川家と会津藩追討応援令という矛盾した命令が、二カ所から出たことにどう対処すべきか、がその議題であった。幼い藩主に代わり、後見人の秋田季春がこの会議を仕切っていた。 家老の一人が、おずおずと季春に尋ねた。「これはわが藩としましても・・・、今すぐにどちらかに決めねばならぬ、ということでございましょうか?」「うむ・・・。ただわが藩は、すでに朝廷にわが意を明らかにし、しかも江戸からは離れておる。矛盾した命令が二ケ所からと言っても、朝廷の命令に従うが筋であろう。ただし周囲の各藩の動きが分からぬ。しばらく様子を見る時間はあろうとは思う。しかし早急に、わが藩の趣意だけでも明確にせねばなるまい」 その季春の言葉を突破口にして、それぞれの意見が錯綜した。「それならわが藩としては、新政府の意に従うことを周囲にも明確にした方が、はっきりして良いのではありますまいか?」「いや、そう簡単には行きますまい。関東以北の諸藩の動きを確認せぬままそんなことをして、孤立でもしたら如何がする。攻め滅ぼされてしまうのではありますまいか?」「なるほど、しかしどちらに決めたとしても、わが藩も戦いに巻き込まれるかも知れません」「もし朝廷につくことを明確にすれば、会津藩と戦わねばなりませぬか?」「それにしても、天朝様の新政府にはもちろん、今さら江戸の上様にも矢を向けられましょうか? しかし会津藩と戦うということは、江戸の上様に逆らうということでございましょう?」「そういうことになるのかも知れぬが、天朝様の新政府からは、仙台・秋田・盛岡・米沢の四藩に対して会津征討令が出されておりまする。また徳川家追討令とは、つまりは幕府ではなく、徳川慶喜様を討てということと考えれば、会津藩ではなく松平容保様を撃てということになるのではございませぬか?」「幕府も、そう言ってきておるのでございましょうか?」「何を申すか。幕府がそんなことを言う訳があるまい?」「しかしそれなら、会津様なら矢を向けてもよい、と言われるか」 すでに誰がどう発言しているか分からない程、座は紛糾していた。「いや、そうではござらぬ。会津藩は隣のようなもの。言ってみれば、一軒おいた隣家といざこざを起こすようなものではないか。そんなことの出来る訳があるまい」「京都においては朝廷のために会津も幕府も一体の行動をしていたではないか」「だからどうした!」 議論はさらに沸騰していた。「まあまあ、ここは一つ論点を整理してみてはいかがでしょうか」 そう言って嘉膳が話に割って入った。「先ず最初わが藩は、朝廷に勤王の趣旨を奉上をいたしました。ところが幕府から薩長連合討伐のために、諸藩出兵の命令が出されました。さらに新政府から徳川慶喜様追討応援令が出され、間もなく会津藩征討令が出されました。ここから話が、おかしくなりました。と申すのは徳川慶喜様追討とは言っても、それは徳川慶喜様個人ではなく、幕府や会津藩という組織への追討命令でございましょう。この徳川慶喜様追討令と会津藩征討令を、仙台・秋田・盛岡・米沢の四藩が受けたとすれば、とりもなおさずこれら四藩は、幕府による薩長連合討伐の出兵命令を拒否したことになりましょう。つまり四藩は、徳川幕府および会津藩の征討を受け入れたことになりまする。それに四藩が新政府に組み込まれたということは、即ちわが藩も新政府の下につくということになり、わが藩の初志に変更はないということになるのではありますまいか? そこで一つ注意せねばならぬことは、今まで幕府の命令は、仙台藩と二本松藩を通じてわが藩へ来ることになっておりました。それを考えれば、幕府と仙台藩の間がどうあれ、また薩長連合と仙台藩の間がどうあれ、わが藩としては、二本松藩より伝達される命令に従うのが筋でございましょう。」「嘉膳殿、それは詭弁だ。その二本松藩が矛盾する二つの命令を伝達してきているのであるから、詭弁としか申しようがないではござらぬか」「なに? 詭弁と言われても、嘉膳殿が言われるのは道理でござろう。たしかに矛盾することは問題だが、物事が複雑なら、先ず筋道を立てて整理してみなければなりますまい」「そうは言っても、世の中理屈だけでは通りませぬ。貴殿はいったい、徳川家三百年の恩顧をどう考えられるのか?」「三百年の恩顧? それを言うなら、我々とて幕藩体制を支えてきた一員ではないか。考えようによってはお互い様ではござらぬか」「待て待て。しかし案外、仙台藩とてどうしたらよいか分からぬ、というのが本音かも知れぬ」「なんと! それが本音ということは、わが藩の敵はどこになるのでござるか? 新政府でござるか、それとも徳川と会津でござるか!」「だから、そうなるから困っているのではないか。わが藩としては、新政府も徳川も会津も、敵とする訳には参るまい。なんとか戦わずに済む道はござらぬのか?」「そんなうまい話のある道理があるまい。もしあれば、どこの藩とて困らぬわ」 また議論が混雑した。 その混乱を、それまで黙って聞いていた季春が手を挙げて制止した。「まあまあ、そう結論を急がず、嘉膳の話も聞け!」 話に入れないでいた嘉膳を促し、季春が間に入った。 再び嘉膳が、話をはじめた。「皆様。話を前に戻すようですが、ここはよく考えていただきたい。先ず慶喜様は、現在、上野の寛永寺に謹慎なされておられます。それはつまり、幕府そのものが謹慎したと同じことでございましょう。すると、幕府の下の我々三百藩はその全部が天朝様になびいたことになり、それで問題は無くなる筈。それなのに天朝様の下の新政府が徳川家と会津藩に征討令を出したのは、白旗を掲げたにもかかわらずこれを討てということになりまするから、この点は私にも合点が参りませぬ。しかし新政府によるこれらの追討令の言わんところは、徳川家と会津藩を全国の三百藩で討て、という話になりまする、そうでございましょう?」「それでは嘉膳殿。戦う前にもう勝ったも同然ではございませぬか」「何を言うか! 新政府は、徳川と会津は敵、と言っているではないか。会津だけが敵、と言っているのではない!」「とは申しても、三百藩で討つということになると、幕府軍は現実には無くなってしまったということになるのではないのか?」「と言うことは、会津藩のみを討てということか?」 会議は、また紛糾をはじめた。 これらの意見を聞きながら、嘉膳は議論をなんとか収拾しようとしていた。「一寸お待ち下さい皆様。ここはよく考えてみる必要がございます。先ず、長い今までの幕政のしがらみの中で、幕府がその政策を明快に打ち出せなくなっている、という面があります。それを取り除くためにここで政府を変え、西洋式の政治形態に変更しようとする薩長連合は、それはそれで正しいことと思われます。しかし、なびいている幕府や会津藩をなぜ討たねばならぬのか、ここに問題が残りましょう。ただこの国では、天子様のおられる側が正義である、という考えがあります。現に今までは、幕府が天子様を背負っておられました。それ故三〇〇年もの長い間、秩序が保たれてきておりました。それを考慮すれば、新政府の側についている我らは、国の分裂にもつながりかねぬ内戦を起こさぬように、天子様の側について動くのが最善である、と思われます」「なるほど嘉膳殿。それはそれで立派なご意見。しかしどうやってそれを具体化するのか? どうやって戦わずに済ませるのか? いかにわが藩ばかりがそう思っていても、周囲の各藩もそう思わねば事は成らぬのではありますまいか?」 嘉膳の説は、熱を帯びていた。「今や日本は、新しく生まれ変わる途中なのです。この大事な時期に、古めかしい幕府の考えでは事は成りませぬ。いまや幕府は、自己を保身することのみに汲々としております。幕府軍が鳥羽伏見で敗れたからといって、ただ一戦の敗北で将軍が江戸へ逃れたということを考えて頂きたい。もしあのとき将軍が、難攻不落の天下の名城たる大阪城に踏みとどまっていたら、それだけでも情勢はまた違っていたでございましょう。それをしなかったのは、天子様に手向かえないこともさることながら、『逆賊・倒幕』と言われるのを恐れたからであると思います。その点、幸いわが藩が勤王の意志を申し述べた朝廷の下の新政府には、新しい日本を造る勢いがあります。この勢いのある新政府の側に会津を含めた全国の藩が付き、それをより強固にし、それをより大きくすることこそが、平和のうちに新しい政体を造ることになりましょう。これは例えてみれば、朝廷は父、幕府は兄でございましょう。兄にして父に背くは不幸の子。不幸の兄に従って父に背くは、人の道ではありませぬ。それらをよく考えれば、自明の理でございましょう」 しばらくの沈黙を、季春が破った。「ところで、江戸の平山敬忠から連絡があってのう。つまり新政府は、幕府締結の条約の遵守を条件に諸外国に局外中立を要請したそうじゃ。それを受けて、メリケン、エゲレス、フランス、イタリア、プロシア、オランダの六カ国が、[日本の内政に、干渉せず]という声明を発表したそうじゃ」「すると新政府は、諸外国の影響力を排除することが出来る、ということでございまするか?」 今度は嘉膳が訊いた。「そうは思われるが、今までの武器の輸入が問題じゃ。すでに各藩が、それぞれがバラバラに輸入しておる。これらへの弾丸の補給や修理などを通じて、結果的に諸外国の影響を、それぞれの藩が別々に受け入れることになりかねぬ。そこが、今後の日本の進路を難しくするかも知れぬ」 季春はそう言いながら、目を閉じた。 またしばらく沈黙が続いた。皆が、季春が話すのを待っていた。「すでに薩摩と長州藩を核とする新政府軍は多くの武器を輸入し、洋式の訓練を施しておる。そのために新政府軍の軍事力は、思った以上に強大であると考えられよう」 家老の一人が問いかけた。「しかし季春様。全国の幕府軍の力を合わせれば、新政府軍などものの数ではありますまいに」 たまらず嘉膳が口を開いた。「いや御家老様、そんな兵の数の問題とは問題の質が違いまする。各藩の軍事力もさることながら、今後は諸外国を恐れず、侮られぬ強い国にしなければなりませぬ。そのためには各藩の軍事力を統合し、指揮権を統一した一つの日本の軍隊を編成するのが理想でありましょう。今までのように各藩がバラバラに外国と戦っていては軍事力が分散され、力が発揮されませぬ」 季春が驚いた顔をして訊いた。「嘉膳。それは、新しい日本国軍の創設、ということか・・・?」「先ほどから嘉膳殿は、新政府、日本国軍と声高に申されるが、結局は、薩長が幕府に変わるだけの話ではござらぬか。そう嘉膳殿が申されるように、うまくいきますかどうか」「いや、そういう考えでは困ります。先ほどから申しておりますように、もはや藩単位でものごとを処理する時代ではなくなりました。三春藩とて同じこと。皆様。どうかこの辺りまで、思いを致して頂きたく存じまする!」 そう強く言うと、嘉膳は皆の前に平伏した。
2008.01.09
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布告なき宣戦 慶応三年十二月二十八日、庄内藩による江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを知った大阪城の幕府軍は、倒薩論一色となっていた。もはや誰もが理性を失い、強硬論が声高に主張されていた。 慶応四年一月一日、この時点で、将軍徳川慶喜は、まだ戦いの意志を持っていなかった。しかし、江戸の薩摩藩邸焼き討ちを理由付けとした幕府軍の強硬論は、ついに彼の意志を潰してしまった。慶喜は全国の諸藩に対し、薩長連合討伐のための出兵の号令を発したのである。 一月二日、市中騒然としていたこの日、三春藩御年寄役の秋田広記は、大阪城に退いていた慶喜に上洛の報告をするため、大阪に赴いた。今回の全国の藩主に対する召集令は、朝廷からではあったが、幕府を通じて発せられていたためである。 その夜、朝廷は仁和寺宮嘉仁親王に錦旗と節刀を与え、新政府軍を指揮させることとした。つまりこの時点から、新政府は官軍に、旧幕府は賊軍になってしまったことになる。しかし徳川慶喜は、まだそれを知らなかった。それに、この戦いで重要な位置を占めることになる[錦の御旗」は、薩摩藩の大久保一蔵、公家の岩倉具視らがそれらしい帯地を西陣から買い揃え、京都の薩摩藩邸に隠しておいたものであった。 三日、秋田広記は大阪城に入り、三春藩主名代として正式に上洛の報告をした。そしてまさにこの日、大阪城の徳川慶喜は、淀城に幕府の本陣を置き、会津藩を伏見街道へ、桑名藩を鳥羽街道へ出陣させた。その総数一万五千、[鳥羽伏見の戦い]が勃発したのである。 四日、戦況が一進一退する中で、突如、新政府軍の最前線に、菊の御紋の入った錦旗が立った。あの内密に作られていた錦旗が、遂に日の目を見たことになった。このことはあの密勅もまた、公然たる勅となったことを意味していた。これを見た幕府軍は困惑し、劣勢に転じた。この敗戦で騒然としていた大阪城を後に、秋田広記らは、戦争のために閉塞された本街道を避け、住民の逃散などで誰も人の居なくなった異常事態の中を、奈良経由で京都に向かった。 五日の昼過ぎ、千両松に敗れた幕府軍は遂に淀城に引き、態勢の立て直しを計ろうとした。ところが淀藩は、朝廷の命令を楯に、幕府軍の入城を拒否してしまったのである。その上、新政府側に転じた津藩が幕府軍の側面に銃撃を開始し、彦根藩もこれに同調して発砲したため、幕府軍は総崩れとなって牧方、守口方面に敗走した。これらの大藩が一転、新政府側に転じてしまったのである。 六日の深更、今度は徳川慶喜が行方不明となった。居る筈の大阪城に居ないのである。将を見失った幕府軍は、混乱の極みにあった。 十一日、秋田広記らは、ようやく京都に辿り着いた。この戦乱の中、大阪・京都間を七日もかかったことになる。 十二日、朝廷に対し、着京の届け出をなした。 京都に戻った広記は、嘉膳と話し合っていた。「ついに、一番恐れていた内戦がはじまってしまいました。大変残念なことでございまするが・・・」 その日は、京都特有の底冷えのする寒い日であった。「うむ・・・。で、嘉膳。その方は[鳥羽伏見の戦い]においての淀・津、そして彦根藩の動きを、どう思うか?」 広記は大きな火鉢に手をかざしながら尋ねた。 嘉膳はしばらく考えていたが、「結局、三藩ともに、幕府を見限ったのではありますまいか? 特に井伊大老を擁していた彦根藩は、ここで新政府側であることを明確にしておきませぬと、薩長連合という海の中で孤立するのではないかと思ったでありましょうし、やはり天子様の象徴である錦旗に対し、弓矢を向け得なかったのではないかと思われまする」と答えた。とにかくこの情勢について、早急に江戸の屋敷や三春に報告をせねばならなかったのである。二人の間に、しばらく静かなときが流れた。そして広記は、嘉膳に火をすすめながら尋ねた。「会津や桑名藩の立場はどうなるかの?」 これが重要な問題であったのである。 「はい。以前より幕府および諸藩とも、天子様を中心として新しい政府を作るということでは合意しておりました。それが今回の戦いで、両藩とも天子様に反抗・反乱ということになってしまいますと、新しい国家建設に参加出来ないことになってしまいます。ですから幕府はもちろんのこと、会津や桑名藩とて[鳥羽伏見の戦い]で朝廷に弓を引いたつもりはなく、あくまでも薩長連合との私闘であったと認識していたと思いまする。だからこそ、会津・桑名藩一万五千の大軍をもって出陣しながら、錦旗を押したてられた新政府軍の前に、脆くも崩れたのでございましょう。両藩ともに立場は微妙になりましたが、孝明天皇の御代から朝廷の側に立っていた、という主張は成り立ちましょう」 思わず腕を組もうとした嘉膳は、さすがに広記の前であることに気がつき、思いとどまった。「うむ。さすれば、淀・津・彦根の三藩は、前もって薩長連合側と話し合いがついていたということであろうか?」 広記は鋭い視線を嘉膳に注ぎながら尋ねた。「はい。私は前もってかどうかは分かりませぬが、何らかの話し合いはあったものとは思いまする。ただし、話し合いがついていたとは思えませぬ。現に淀城は鳥羽伏見の初戦では幕府側の本営が置かれた城、また淀藩主の稲葉長門守正邦様は、庄内藩に江戸の薩摩藩邸に焼き討ちを掛けさせた方、完全に幕府側でございました。淀・津・彦根の三藩は、錦旗の翻るのを見て、はじめて薩長連合軍が天朝様の側にあるとの恐れを感じて幕府の側から寝返った、と思いまするが・・・」 嘉膳も困惑の色を隠せなかった。「うむ。たしかに淀・津・彦根藩のあの行動は、猪突ではあった。会津や桑名藩も、あの三藩の寝返りは不本意であったろうに」 広記は、嘉膳の顔を見つめながら言った。「はい。むしろ恨んでいるかも知れませぬ。ただ私は、今、徳川慶喜様と会津の容保様や伊予松山藩主の板倉周防守勝静様が行方不明になっている、という方が気がかりでございまする。大阪城にいた幕府軍は、算を乱して江戸に戻っているとも聞いておりまする。これは、京畿から幕府勢力の敗退、とみることも出来ましょう。いずれ慶喜様が大阪を去るとすれば、行く先は江戸しかございませぬ。もしかしてすでに、慶喜様は江戸に着かれているのではありますまいか?」「ということは、幕府は江戸で新政府軍を迎撃するつもりじゃろうか?」 広記もまた、困惑していた。「それは考えられまする。慶喜様は容保様がご一緒なるが故に、『関東が一丸となり、奥羽諸藩をまとめれば、天下を二分する力は充分ある』と考えられたとしても、不思議ではないと思いまする」「そうなると問題になるのは朝廷の動きじゃな。しかし、ことがここまでに至れば、今さら天子様が大政奉還をした幕府の側になる訳がなかろう。しかるに、その徳川慶喜様が、全国の諸藩に対して薩長連合討伐の出兵の命令を出された。これでは幕府による朝廷への、実質的な宣戦布告になるのではないか。さすれば、昨年の暮れ、とは言っても鳥羽・伏見の戦いまでたかだか八日。この間に、こんなに情勢が変化するとは・・・。朝廷に意を通じた三春藩としての立場は、微妙なことになるのう」「さようでございまする。しかしわが藩としましても朝廷の意に沿った所信の開示でございますから、本質的な間違いはないと思われます。ただ問題は、戦いの帰趨でございましょう。幕府、薩長連合ともに天下を二分する力を有するとはいっても、それは兵員の数としての問題。今まで長崎などで勉強をさせて頂きましたが、薩長のみならず、西国の軍備の質は関東の数段上。戦えば薩長連合の勝利は確かかと思われまする」 嘉膳は広記に、強い視線を返した。「うーむ。確かに薩長の動静については、殿の御母堂様の御実家の鳥取藩からも情報がもたらされて来ておる。」 広記は嘉膳の強い視線を避けるかのように、火鉢に目を落としたまま言った。「さようでございますか。私どもはその内容については知りませぬが、この戦いは日本の今後を問う戦いになると思いまする。それにしても幕府には、これからの日本を造り変えることは出来ぬと思いまする。なぜなら幕府は、開闢以来自らの支配の正当性の論拠を確立することをせず、天子様の権威をもって代用して参りました。そのために幕府は、天子様を己が意志で支配出来た今まではともかくとして、今回はすでに、天子様の方が、自らを幕府の統制から切り離されたものと思いまする。それに幕府はこれまで朝廷より得ていた白紙委任を、つまりは幕府存立の決め手を自ら捨ててしまったように、私には思われまする」「うーむ嘉膳、そこまで言うか・・・」 広記は灰をいじっていた火箸の動きを止めると、嘉膳の目を見つめた。 嘉膳は端然と座して言った。「はい。すでにわが藩は朝廷に意を通しておりまする。その朝廷の側、つまり薩長連合の側に立つことが、わが藩を守る意味でも戦争を避ける意味でも、有利かと思いまする。それに第一、朝廷に刃向かえば、逆賊になりかねませぬ。それにしても、ただ今の問題として兵の持たぬ我ら、ここでどう身を守るべきでしょうか?」「うむ。それもそうじゃ。しかし薩長としても、丸腰の我らを攻めることもあるまいと思うが・・・。もしもの場合は、参与屋敷に当方の意志を説明して頂くことで、どうにかなるであろう。それにしても、薩摩や長州とは、随分と遠い国じゃのう。日本の南の端の国じゃからのう」 幕府の軍艦・開陽丸で大阪から逃亡した徳川慶喜は、供に連れだした会津藩主の松平容保や松山藩主の板倉勝静らとともに、江戸の御浜御殿に到着した。そこから江戸城に入った慶喜は、さっそく善後策を練ったが、榎本武揚や大鳥圭介ら主戦論者は、輪王寺宮公現法親王(孝明天皇の弟)を奉戴しての抗戦を主張していた。 三春の人々の耳にも、この国内の情勢が、いろんな噂として入っていた。しかしそれは、遠くの大事件であり、かかわり合いのないことであった。[鳥羽・伏見の戦い]の噂は一月十二日頃、徳川慶喜の大阪脱出の噂は一月十九日頃、流布された。京都と三春の間の情報の流れには、十日から二週間近くかかっていた。そして町方でも、暗い噂がしきりであった。 やがて朝廷より奥羽諸藩に対し、[徳川慶喜追討のため官軍が東海道、東山道、北陸道を進撃する。尊皇之大義のため協力するよう]との応援令が出された。広記は、京都御留守居役の湊宗左衛門とともに参与役所に出頭し、この御沙汰書を受け取った。 [就徳川慶喜叛逆為追討 近日官軍自東海 東山 北陸可令進発之旨被仰 出候 附而者奥羽之諸藩宣和 尊皇之大儀 相共謀援六師征討之勢旨 御沙汰候事] さらに二日後、仙台・秋田・盛岡・米沢の四藩に対し、会津藩征討令が出された。 ──いったいどうしたものか。 広記も嘉膳も、不戦への対応策を見え出せないでいた。幕府からは薩長連合討伐の命令が出、朝廷からは会津藩征討令という矛盾した二つの命令が出されたのである。嘉膳は、それらの状況報告と藩の意志確認のため、三春に戻ることになった。
2008.01.08
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一橋慶喜が第十五代将軍徳川慶喜となって間もなく、孝明天皇が亡くなった。 そしてこの慶応三年春の彼岸の頃、三春藩の幼い当主秋田万之助映季の母の濃秀院が、里帰りをしていた実家の鳥取より、鳥取藩士の護衛を受けながら帰ってきた。その帰り道、彼女は自分が深く信仰していた江戸・久品仏延命地蔵尊に参詣し、そこで五穀成就の御祈祷水を頂いてきた。 藩庁から領内の各村々に、「御祈祷水を下げ渡す」との触れが出された。 その御祈祷水を受け取るために、各村々の役人たちが正装で登城して来た。これを一目見ようと近郷近在から大変な人たちが出て来た。そのために大町や大手前は、見物の人垣が動かず、人が通れないありさまであった。 三春領内は、まだ安穏の中にあった。 ところがこの同じ頃、三春藩で重大な事件が発生した。フランス人事件である。この事件は、藩重役の秋田斉・奥村清酒・小野寺金兵衛らが藩を代表して、郷士の渡田虎雄の周旋でフランス商人と蚕種紙の取り引きをしたが、そのフランス商人から『契約不履行である』として、幕府に訴えられて、国際的訴訟事件に発展したものである。 国際問題化を懸念した三春藩は、藩費をもってこれを弁済し、藩の関係者を厳重に処罰した。奥村清酒は最も重く知行召し放し永蟄居、兄の奥村権之助預けとなった。しかし権之助も、この事件に連座して、閉門となった。この縁座法は、多数の処罰者を出した。これら一連の扱いは、三春藩年寄役の小野寺市大夫が担当した。 この事件の内容は次の通りである。当時の蚕種は、種紙一面につけたヒラツケが一般的であった。蚕種から幼虫に孵すには、細かい配慮と慎重な技術がいる。それを前提として売り渡した三春側と、どこへ運んでも幼虫を孵せると考えたフランス側との間の齟齬が、問題となったのである。その配慮と技術を知らずに、または教えられずに、中国に輸出された種紙から「幼虫が孵らなかった」、というのが争いの原因であった。このような訳で、海外に運び出すこと自体が論外であったのである。とにかく資金は、また出ていった。 十月十四日、徳川慶喜は政局収拾のために大政奉還を行い、二条城を離れて大阪城に引き篭った。幕府は、自らの手で終止符を打ったかのように見えた。しかし慶喜は、こうしておきながら、一方で、江戸から幕府の陸軍兵力と艦隊を呼び寄せ、米英仏伊普蘭六カ国の公使を引見して、外交権は幕府にあることを承認させていた。慶喜の策略の中で、幕府はまだ命脈を保っていたのである。 敬忠から江戸へ出た嘉膳に、密かに手紙が届けられた。 [薩長両藩に徳川慶喜討伐の勅が、幼天子から内密に出された。その上もう一つの別の 密勅では、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬の誅殺をも命じていた。し かもこの密勅は、正二位権大納言・中山忠能の他、二名の副書も同一筆跡、花押もな い偽勅であり、下された場所も岩倉具視の私邸で、薩摩藩の大久保一蔵と長州藩の広 沢真臣に手渡されたという。それもあってか、薩摩藩士の率いる浪人たちが江戸城の 二之丸へ放火したり、江戸市中の警備にあたる庄内藩屯所へ発砲したりしている。そ こでそれを追えば犯人たちは薩摩藩邸へ逃げ込み、犯人の引き渡しの要求に応じない など、江戸や京都・長崎などで示威活動が起きている。幕府側は、『これは薩摩や長 州藩による挑発活動であり、孝明天皇亡き後の幼天子を擁して私利を謀るものだ』と 言って憤激している。そこで淀藩主の稲葉美濃守正邦を主席とする江戸の留守幕閣は、 庄内藩に江戸の薩摩藩邸に焼き討ちを掛けさせた。このために、薩摩藩と庄内藩の間 は険悪な動きとなっている。また各地で『いいじゃないか』が起き、世の中は不穏に なってきている] これらの情報は、すぐ三春に発せられた。そしてさらにそれらを踏まえ、嘉膳は次のような自分の予測を付け加えることを忘れなかった。 [これほどの騒ぎになれば、将軍がどうあれ幕府や旗本衆が黙っていないだろう。そ のために、幕府と薩長側との間で戦いが起きるのではないだろうか。どちらが国のた めになるか? それはしばらく様子を見る必要があろう。ただ密勅ということが気に なるが、天朝様を背負った方に勢いがあるのは事実。その天朝様が慶喜様、容保様、 定敬様の誅殺を命じられた以上、薩長側に分があるのではなかろうか・ 嘉膳は暗に、戦争の場合は三春藩が薩長側につくように、と示唆したつもりであった。「なあ政紀。どうも胸騒ぎがする。孝明天皇様が全幅の信頼を与えていた慶喜様、容保様、定敬様らを、新しい天朝様が誅殺せよと言われる。これでは天朝様が変わることで、基本方針が逆になることになる。信じていたことが逆になるのでは戦争になるのではないか?」 嘉膳はまた腕を組んでいた。「はい先輩。私もそう思います。・・実は・・、言いにくうございますが、先日の三春への書簡の中の、『天長様が慶喜様、容保様、定敬様の誅殺を命じられた以上、薩長側にも分があるのではなかろうか』という文面は、いささか不穏当であったのではありますまいか?」「不穏当? どこが不穏当か!」 嘉膳は思わず気色ばんだ。「いや、余計なことを申しました。相済みませぬ」 政紀は慌てた。そして慌てて、両手をついた。今まで怒った顔を見せたことのない温厚な嘉膳を、怒らせてしまったのである。「政紀! どこが不穏当か言ってみい!」 ——しまった。とは思ったが覚悟をした。言ってしまった以上、責任は自分にある。「いや、薩長側に肩入れするということは、京都守護職の会津藩、江戸湾防衛の二本松藩、そしてこの会津と二本松の近くにある三春藩としては誠に言い出しにくいこと、と単純にそう思っただけでした。言葉が過ぎました。平にご容赦を」 政紀が畳に額をすり付けるのを見ながら、嘉膳の顔は平静に戻っていた。「なあ政紀・・」「はい」 政紀は両手をついたままで返事をした。「俺はいつも言っていた筈、日本に内戦を起こしてはならぬと。もし起こせば諸外国の思う壷。日本は清国の後を追うことになる、植民地になってしまう。単純に薩長側に肩入れをしている訳ではない」「はい。お聞きしております。先輩の理論、その通りと思っております」「いや、まだお前の思いが足りないようだ。今から言うことをよく考えよ」「はい」 政紀は頭を、まだ上げられなかった。「今、日本国中が二つに分かれ騒ぎになっている本当の理由は、頭が二つあるからだ」「頭が二つ・・?」 政紀は思わず手を膝に戻すと、居ずまいを直した。「うむ。頭の一つはフランスに支持された幕府、もう一つはエゲレスが後押しをする薩長だ。ところがそのどちらもが、幼い天子様を背負おうとして躍起となっている。その上、この両者の力が拮抗しているから、我々はどうすべきか迷うのは当然ではないか? そのために国中が右往左往しているのが現状だ。それにもう一つの側面として、薩長土肥を中心とした集合体から指導者を一人選出しようとすれば、これはこれで大事。ようやく作った薩長連合も崩れかねぬ。その点、天子様を担ぎ出せれば、まず問題がない。それに丁度よいことには、日米修好通商条約のとき、幕府が朝廷に条約の勅許を求めたことがあった。あのことが結果的に天子様の権威を高めることになり、天子様の利用価値が上がったということになってしまった。そのことこそが、天子様の争奪戦になっている」「・・」「ただし、これからの日本を造り変えるとすれば、幕府では駄目だ。幕府は、余りにも長く続き、古い因習と無気力なしがらみの中にある。その点、薩長側には新しい日本を造る勢いがある。今のところ密勅ということが気になるが、事が公になれば密勅が密勅でなくなろう。それならこの勢いのある側につき、それをより強くし、それをより大きくすることが平和裡に新しい政体を造ることになる。それに天子様が薩長側につけば、当藩としてもわが意と同じとなる。三春藩をその試金石にしたい。それがあの文面だ。孫子も言っておる。『兵の起こらぬ先に戦わずして勝てば也』と」 十月二十四日、幕府より全国の藩主に対し、召集の令が下された。三春藩は勤王の藩議を決し、直ちに江戸に滞在していた江戸詰家老の小野寺市大夫、近習目付の湊宗左衛門、それに熊田嘉膳を京都に先発させた。三春藩の三名は、招集日とされていた十一月十五日に京に着いていた。しかし朝廷と幕府の関係に気を遣っていた多くの藩は、参加しようとしていなかった。 十二月九日、新政権が樹立した。そして約一ケ月後、大阪城に退いていた将軍・徳川慶喜により、日本駐在の外国使節は次の文書を受け取ることになる。 [日本の天皇は各国の元首および臣民に次の通告をする。将軍徳川慶喜に対し、その 請願により政権返上の許可を与えた。今後、朕は国家内外のあらゆる事柄について最 高の権能を行使するであろう。したがって天皇の称号が、従来条約締結の際に使用さ れた大君の称号に取ってかわることになる。外国事務執行のため諸々の役人が朕によ って任命されつつある。条約諸国の代表は、この旨を承知してほしい] 京都に着いた湊宗左衛門は、十二月十六日、参与屋敷に、[藩主・万之助映季病気につき、名代重臣が近く上洛を致します]との届け出を提出した。その上で三春藩は、年寄の秋田広記を上洛させた。そして間もなく、三春より広記らが京都に着き、小野寺市大夫らと交替をした。そして十二月二十六日、広記らは参与屋敷を通じ、三春藩勤王の所信を朝廷に奏上した。しかし朝廷の召集に応じた藩は、多くの大名が動こうとしなかった。全国で三百藩と言われていたから、二割ということはわずかに六十藩ということになる。ちなみに福島県は十藩であったから、参加したのは一~二藩ということになる。三春藩以外どこが参加したかは、不明である。あまりの少数のため、朝廷は不参加の各藩に対しての疑念もあり、大名会議を主催できないでいた。この時点での朝廷への所信奏上が、のちのち三春藩に、大きな負担を強いることになる。 一方、慶喜とともに大阪に退いた会津、桑名の兵に代わって、薩摩・長州・土佐の兵が京都に入った。政治や社会情勢は、混乱を極めていた。 ブログランキングに参加しました。 50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2008.01.07
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増派されていた三春藩兵は、日光からようやく撤収した。三春に戻った秋田肥季は、隊長の赤松則雅に、日光への出張に対して槍一筋と金五百両を与えた。しかし、それでなくても苦しかった藩財政が、日光警備のために更に出費がかさんでいた。 肥季はそれの立て直しのために人事の一新をはかった。不破関蔵を番頭格の用人に、中村多仲を政治方調役に、湊宗左衛門を近習目付とする新人事を発表した。なおこの人事で、熊田嘉膳は政治外事方とされたが、藩外には秘密とされた。 しかし周囲の者は気づかなかったが、肥季はこの問題で疲れ果てていた。そしてこのこともあってか、慶応元年に急に病死してしまったのである。この葬送と八歳の万之助映季の相続はさらなる出費を強い、どうにもこうにもやりくりのつかない状況となっていた。肥季の弟の秋田季春は、幼い万之助映季の後見人となって、三春藩の家督相続を済ませた。このときの人事は、嘉膳を科学者としてより、さらに政治家としての色合いを濃くしていった。 この年、第二次長州征伐が行われた。幕府軍が長州に進軍している間に、摂津沖に現れた英仏米蘭四ケ国の戦艦九隻が兵庫開港を要求した。やむを得ず開港しようとする幕府と、強く反対する朝廷の間に立って苦慮した家茂は、小御所に在京諸藩の重臣三十余人を召して意見を求めた。孝明天皇も簾中に出御し議論に耳を傾けた。薩摩、土佐藩士らは、強硬に開国論を展開し、鎖国を斥けた。しかしまぎれもなく、この時点での会津藩は、官軍であった。 第二次長州征伐は翌年まで続いたが、幕府軍の戦意が低い上いくつかの藩が出兵を拒否したため、負け戦が続いていた。そんな折り、将軍家茂が死去したのである。幕府軍はそれを口実に撤兵した。しかしこれらにより、幕府の権威は地に落ちた。たかが一藩の反抗さえ止める力のないことを天下に知らせてしまったことになったからである。「十四代将軍家茂様が亡くなられた。このため幕府の力が弱まり、将軍なき今、印度、清国の例にも見られるように日本も危ない」 嘉膳はそう言って、藩に対して警鐘を鳴らし続けていた。政紀もまた、「三春藩も、もっと長距離を撃てる大砲を鋳造すべきである。藩のためもあるが、ひいては国のためである」と言って奔走していた。しかし何と言っても、三春藩は貧乏藩である。これ以上の出費は困難であった。「政紀には言いにくいが大砲は無理じゃな。金策がつかぬ」 そう言う嘉膳の顔は、科学者のものではなく、政治家のそれに変わっていた。「済まぬな。お前のせっかくの業を生かせぬ」 政紀も嘉膳に面と向かってそうに言われれば、黙って引き下がらざるを得なかった。政治家になった嘉膳は、経済政策も立てなければならなかった。そのため嘉膳は、あらゆる機会に百姓に対して、「お前たちを捨てて、何を宝と言うか。百姓以外に、国の宝はない」と説いて収穫を上げようとしていたが、これまた早急に成果の上がる話ではなかった。「なあ政紀。敬忠先輩は江戸城二の丸留守居役であったがそれはうわべの話で、実際は外国作事方に出仕して外国御用を取り扱っていたそうだ。その後、目付に取り立てられたそうだが、その敬忠先輩から『薩長接近』の知らせが入ってきた」 嘉膳は政紀に国内情勢の話をした。「えっ、それはまた、どういうことでしょうか」「どうもあの仲の悪い二藩が接近するとは、何か裏があろう。敬忠先輩は、『将軍不在で弱体化した幕府を、あの二藩が追い落とそうとしている』と推測しているが、何故そうしたか」 嘉膳は腕を組んだ。 ──たしかに薩長接近の根底には、薩長をはじめとする西南雄藩の幕府からの自立が目的なのかも知れぬ。それにしても国内に二つの政府が出来るとすれば、これは始末が悪い。 難しいことが起こると、腕を組むのが癖になっていた。「しかし、実際に戦いを起こしたとして、幕府の軍を破れますか?」 何も言わずにいる嘉膳に、政紀が訊いた。「うむ。二次に渡る長州征伐の例もあろう。それにこの二藩、対外戦争の敗北を教訓として諸外国と手を結び、大量の新兵器を輸入し兵制を洋式としたという。その上、西国の諸大名もそれに続くとなれば、大勢力となろう。こうなれば幕府といえどもあなどれまい。あげくに米価の高騰に憤った庶民が、江戸や大阪で[打ち壊し]などを起こし、治安が悪くなってきている。これを幕府が抑え切れるかどうかが問題であろう」「とすれば、三春藩はどうすれば?」 政紀が聞いた。嘉膳は腕を組んだまま返事をしなかった。 それからしばらくして言った。「幕府の動きが分からぬ。私はまた江戸へ行かせていただこう。政紀、そのときはお前も一緒にな。藩への申請はわしがする」「・・・」 そして嘉膳は独り言のように言った。「もし内戦が発生すれば諸外国に付け入られる。そうなれば日本は清国の二の舞い、何としても戦争は避けねばならぬ」 政紀は口を歪め、下を向いて聞いていた。
2008.01.06
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十月二十五日、天狗党は大子(茨城県大子町)に入った。大子は水戸徳川氏歴代の墓所の地である。 十一月一日、ここを参拝した天狗党は、西の黒羽の町(栃木県)へ向かった。しかし、その手前の明神峠で黒羽藩兵の抵抗を受けた天狗党は北に折れ、川上村に一泊した。 二日、川上村を出た天狗党は、山を越えて寺泊に入った。ここで待ち伏せしていた黒羽藩兵は、逆に戦死者二名と多くの負傷者を出して敗退した。勝った天狗党は、河原村から両郷村にかけて分宿した。 その河原村から黒羽藩の役人の下に、勝った天狗党から行動趣意書が届いた。趣意書とは言っても、実質的には黒羽藩内の通行許可の要請書である。 それに対し黒羽藩は、「城下に入らない限り通行を妨害しない」と、口頭で返事をした。一応、戦った実績があり、これ以上の犠牲を出すことを恐れた黒羽藩は、幕府への言い訳も立つと考えて実損を増やさぬようにしたのである 三日、黒羽藩の意向を受けた天狗党は、両郷村を出発すると、伊王野より芦野・越堀を通って鍋掛で宿営した。この行程は、黒羽藩の外周部を迂回した遠回りの道であったが、戦いを避けたい天狗党は、その道を選んだのである。 そこで、黒羽藩は日光奉行に対し、[天狗党はわが藩との交戦で大きな被害を受け、北方へ逃げた]との偽の報告をした。 日光警備の三春藩兵にも、緊張が走った。北方へ逃げたとすれば、三春藩の方角になる。三春はどうなる、大丈夫か? そのことが心配であった。 四日、大田原藩(栃木県)には、前日、天狗党より、[大田原より先宿々]という宛名で、[わき道を通り、各藩に迷惑をかけない]という主旨の書状が届いていた。 黒羽藩から、とんでもないお荷物を受けた形の大田原藩は、一万一千石の小藩であった。堂々と城下を通られては面目が立たず、さりとて戦う力もなかった。大田原藩は軍資金を提供し、道案内をすることを条件として、鍋掛より更に北の高久本郷に宿泊させた。天狗党としてはまたしても回り道である。 六日、大田原藩より日光奉行へ、[五日の夕方、天狗党は間道を通り、下石上より山田方面に向かった]との報告が届いた。 大田原藩は、うまく隣の旗本領に、つないでしまったことになる。山田に隣接する旗本の大友氏や堀田氏の代官たちには戦う兵力もなく、突然現れた天狗党に狼狽しながら、何事もなく通過するようにと軍資金を提供して祈るのみであった。 これらの報告を受けて、日光の三春藩兵は極度に緊張していた。 七日、宇都宮藩より日光奉行へ報告が届いた。[六日、天狗党は小林に宿営したが、本日は鹿沼(栃木県)に向かっている]というものであった。しかし実際は、天狗党との衝突を避けたいと思っていた宇都宮藩が、[水戸を出た常野追討軍が、笠間(茨城県)に到着し、宇都宮に向かっている]と教え、間道へ逃がしたのである。 日光奉行は、手元に来る報告が一日遅れであることにヤキモキしながらも、小林より南下したのを聞いて喜んだ。小林から日光へは、五里ほどの道のりであったのである。それでも三春藩主・秋田肥季は、まだ気を許すことが出来ないでいた。 そんな八日、館林藩の増援部隊が日光に入った。秋田肥季の本陣のあった実教院に、若い館林藩隊長が到着の報告に訪れた。「大儀」 そう言った秋田肥季は、隊長の後ろに控えた嘉膳を見て驚いて言った。「嘉膳! 何故ここに・・・」 あれから館林に行った嘉膳は、日光警備に出発しようとしていた館林藩に頼み込み、同道させてもらったのである。 隊長と嘉膳は、大柿村で天狗党と遭遇した様子を報告した。「我ら館林を出ると北上し、佐野・足利を通って栃木の町に入ったところ、『天狗党が栃木に押し寄せて来る』と大騒ぎをしておりました。そこで我らは栃木から日光へ向かわずに、尻内より大柿へ迂回して日光に向かったのです。ところがその大柿で、宇都宮から西に来た奴らに面と向かってしまったのです。お互いが迂回していたのです」「しかし館林隊は五十名ほど。天狗党は約千名と聞いておるが、いかが致した?」 肥季は身体を乗り出した。「はい。どうも風評が不安でしたので、我らの行軍に先立ち、先行の物見を立てておりました」「ふむふむ・・・」「ところが相手も物見を立てていましたので、物見同士が遭遇してしまったのです」「それで?」 秋田肥季は気ぜわしげに聞いた。「はい。天狗党の物見は、『このまま黙って通してくれれば、何もしない』と言ったのです」「ふーむ」 肥季は一瞬、息を呑んだ。「我らは無勢。急に遭遇した千名の多勢を相手に、勝てる戦は出来ません。とは言ってもこのまま引いては、館林藩の威信にもかかわります」 嘉膳が口を挟んだ。「実は私は、このとき館林隊から離れ単独行動を取ろうかと思いました。しかし私としても館林隊に恩義もあり、もし死ぬなら一緒、と覚悟致しました」 肥季はちょっと嘉膳の顔を見たが、すぐ隊長に視線を戻した。「私も一度は熊田殿に単独行動をすすめましたが、『ここで敵前逃亡は出来ぬ』と言われました。そこで、わが隊はそのまま前進し、大柿にてすれ違ったのです」「・・・」「千人は、さすがに大軍。しかし天狗党の軍律は、しっかりしているようでした。『何もせぬ』とは約束をしましたが、こちらはいつ囲まれるかと冷や冷やものでした。それでも彼らは我らの意志を知ると、通り易いように道を開け、罵声もなく、会釈してくれる者さえありました」「ほおー」 肥季はちょっと気の緩んだような表情を見せた。「ただ天狗党の中には、女や子どもも何人か見られました。まあ隊員の食事の世話などもあるのでしょうが、何人かの家族連れもいたのかと思われます」「うーむ、女や子どもがのう。で、奴らはどこへ行くつもりかの?」「はい。おそらく奴らは、尻内から栃木か葛生に行くかと思われます」「そうか。小林・徳次郎・鹿沼を通っていたときは、日光へ攻めてくるかと心配したが、もう安心してもよいかのう?」「はい、大丈夫かと思います」 嘉膳は、黙って隊長が報告するのを聞いていた。 ところが九日、安心していたにもかかわらず、天狗党の一部が日光周辺に入ってきた。町田政紀の造った三春藩の大砲が、初めて実戦で火を噴いた。それもあってか、小競り合いで追い返すことが出来たのである。 嘉膳は政紀の肩を叩きながら言った。「殿も喜んでおられた。よかったな政紀。しかしお前が対外国戦用に造った筈の大砲が、ここでの戦いの役に立つとはな・・・」「はい。私も本来なら外国との戦いに備えた積もりでしたが、同じ日本人に向かって筒先を向けてしまいました。それにしても、大砲の効果のほどには驚きました」 政紀の顔は上気していた。しかしその半面、政紀の気持ちに水をかけるかのように暗い顔をした嘉膳が言った。「実はな政紀。わが藩を脱藩した久貝波門が天狗党に加わり、本隊の使番五名中の一人となっておった」 政紀は、驚きの色を隠さなかった。「それがこの四日、下総国猿島郡の岩井村(いまの茨城県岩井市)で自刃しおった。私はその報告を殿にする積もりもあって日光に来たが、それを聞かれる殿の心中を察すると、遂に申し上げることができなかった」「・・・」 十三日、天狗党の本隊は太田(群馬県)を通って行った。そして間もなく、[天狗党は利根川を渡り、本庄(群馬県)に至った]との報告が入ってきた。「奴らは、日光参拝をあきらめたようじゃ」 肥季は傍らの、三春隊々長の赤松則雅に言った。「もう戻ってくることはあるまい」 十二月二十日、この天狗党は越前新保(福井県敦賀市)に至ったとき、禁裏守衛総督一橋慶喜(のちの将軍)の率いる幕府軍の総攻撃のあることを知り、加賀藩に投降した。そして翌年二月、八二三人が斬罪、遠島、追放などの刑に処せられ、壊滅した。結果として頼って行った筈の慶喜に滅ぼされるという、彼らとしては予想外の悲劇に終わったことになった。
2008.01.05
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元治元年、幕府は蝦夷地へのロシアの進出に備え、函館奉行を置き、津軽藩と南部藩に宗谷海峡の守備を命じた。しかし、さらにロシアの樺太・択捉への侵略が伝えられたため、秋田・庄内藩をはじめとする奥羽諸藩に、津軽と南部藩への応援令が発令された。このため三春藩も、新しい武器をたずさえて蝦夷地への出動の準備に入ったが、幸い事件が落ち着いて、中止となった。 ──よかった。 三春藩の誰もが、そう思った。 文久三年八月十八日、京都で[八・一八政変]が起きた。これは会津・薩摩藩を中心とする公武合体派が、長州藩を中心とする尊王攘夷派を京都から強制的に追放した事件であった。この事件は孝明天皇の勅に基づき、公武合体派の公卿たちが計画し、会津と薩摩藩の武力を利用し行使したものである。混乱した長州藩士は、三条実美・三条西季知・沢宣嘉・東久世通禧・四条隆謌・錦小路頼徳・壬生基修の七卿とともに長州に逃亡した。いわゆる[七卿落ち]である。 孝明天皇は、松平容保に建春門外での練兵を命じた。勝利宣言を、形として表したのである。容保は手兵三千余人を率い、天皇や准后、睦仁親王、女官、公卿、諸藩主の前で練兵を繰り広げた。数日後には、鳥取、徳島、米沢、岡山の四藩が練兵に参加した。この間にも薩摩藩は、生麦事件の後始末を巡って英艦隊と砲撃戦を演じていた。 孝明天皇は、薩摩藩主・島津茂久に[嘉奨]の勅書を賜った。 その翌年、[池田屋騒動]が起きた。新選組は、尊王攘夷派の志士が池田屋に集合することを知り、京都守護職の会津藩と京都守護代の桑名藩に報告した。しかし、一緒に踏み込む計画であった会津・桑名の藩士が約束の時間が過ぎても来なかったので、逃亡を恐れた新選組が独自の行動に出たものである。 さらに[禁門の変]が起こった。長州軍が巻土重来を謀って京都へ攻め上って来たのを、幕府側の会津・桑名・薩摩兵と蛤御門の辺で迎撃、長州軍は完敗した。[蛤御門の変]とも言う。京都は三日の間、火の海になった。これを理由に長州征伐の勅命が下ったが、これが不発に終わってしまった。しかしこれらの事件の連続は、長州藩の会津藩に対する、強い恨みを植え付けることとなってしまったのである。 朝廷が攘夷の策に決定したことを知った長州藩は、長門の海岸沿いに砲台を築いた。長州藩は他藩に先駆けて外国船を砲撃することで、尊王攘夷の先鞭をつけようとした。そのため、長州藩は米仏蘭の軍艦を砲撃し、これの報復のために来襲した米仏の軍艦と交戦することになってしまったのである。 ところが、それと同時に大きな事件が水戸藩内でくすぶっていた。水戸藩政を巡って、公武合体派と尊王攘夷派との間で内乱状態が発生したのである。問題は、水戸藩がのちの将軍・一橋慶喜の実家でもあることもあって、日本の政治に大きな影響力を持ってしまったということにあった。 水戸藩の尊王攘夷派が天狗党を結成し筑波山に集結したのは、この年の三月も末であった。彼らは、幕府の始祖の徳川家康の墓所である日光東照宮の参拝を日光奉行に願い出たが、許されなかった。そのため日光へ実力で入ることを公言し、また、たびたび筑波山周辺の富豪を襲っては軍資金を調達していた。このため公武合体派との対立は、先鋭化していた。 幕府は、水戸藩に彼らの行動の鎮静を命じたが、大きな勢力となった天狗党は、逆に宇都宮に進出した。驚いた幕府は関東各藩に警戒体制を発令すると同時に、日光警備の担当であった三春及び上州の館林藩(群馬県)に、日光警備隊の増強を命じたのである。 ここに至って、三春藩主の秋田肥季は、自らがあの政紀の造った大砲を持って兵を率いて日光に赴いた。ここは、三春藩の面目をかけても、無傷で守らなければない神君の墓所であったのである。責任の重い、失敗の許されない仕事であった。 このとき嘉膳は日光へ行こうとしていた。 ──日光におられる殿の、何らかのお役に立ちたい。 単純にそう思ったのである。日光へ行ったら何が出来る、ということではないことは充分に承知をしていた。ただともかく殿のそばへ行き、手助けをしようとしていた。しかし嘉膳も、道中の危険を感じていた。太平洋岸の那珂湊から日光までの広い範囲に、天狗党が跋扈していたのである。そこで嘉膳は、館林に向かった。 一方、宇都宮に侵入した天狗党は、 [日光東照宮の廟前に詣でる目的は、『京都におられる一橋慶喜様の下へ、 我々が尊王の主旨を持っているということを報告するための挙兵であ る』と述べることにある。それであるから、日光参詣の斡旋を願いたい]と宇都宮藩に依頼した。しかし幕府に厳戒の命令を受けていた宇都宮藩がそれを断ると、天狗党は徳次郎(宇都宮市)および今市(栃木県今市市)に武力進出をした。 そこで日光奉行は今市で天狗党と直接会談し、結局、東照宮参拝は十人単位で、かつ宇都宮藩士の案内で行うことでようやく決着した。しかしその間にも天狗党は、宇都宮周辺で富豪を襲って軍資金を集めていた。その上で天狗党は、日光東照宮奉幣使を待ち伏せして訴えるなどの噂が飛んでいたこともあって、恐れた宇都宮藩は幕府に鎮撫兵力の応援を依頼した。 六月、宇都宮藩の抵抗で日光に入れぬまま筑波山に戻った天狗党は、逆に水戸攻めを計ったが失敗して霞ヶ浦に退いた。この機に天狗党の壊滅を狙った幕府は、関東全藩で常野追討軍を編成し、これに福島・二本松・守山・棚倉・平、越後新発田それに三春の応援兵力を加えて出陣させた。三春藩としては、日光警備と対天狗党戦の双方に兵力を割くことになってしまった。 両軍は、那珂湊で激戦となった。ところがこの戦いで、せっかく嘉膳や東湖らが心血を注いで造ったあの反射炉が、完全に破壊されてしまった。「父の東湖が造った反射炉を、いかに戦いのためとはいえ、子の藤田小四郎が壊すとは何の因果か・・・。あれの喪失は国家の損失!」 そう言って嘉膳は嘆いた。藤田東湖の子の藤田小四郎は、天狗党の幹部になっていたのである。 その後も天狗党は各地に出没し、陣屋を襲い、火を市街に放ち、カネを奪って幕府側諸藩と攻防戦を演じていた。三春藩は、幕府に願い出ると常野追討軍を離脱し、日光にその兵力を集結した。 この年の十月、常野追討軍の軍事力に押されていた天狗党は、ついに那珂湊を離脱して北に向かった。奥州に来襲するとの噂に驚いた白河藩は白坂宿で、また幕府の塙代官(福島県塙町)は真名畑村で若干の天狗党員を捕らえ、斬首の刑に処した。会津藩も天狗党の侵入を恐れて、国境の警備を厳重にした。
2008.01.04
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安政の大獄が起こった。 このとき、嘉膳は、三春に早飛脚を立てた。 [秋の頃から、江戸の彦根藩桜田屋敷に切り込み事件があったという噂が 飛んでいたこと。幕府の書物奉行に転じていた敬忠を目に掛けていた目 付の岩瀬忠震が、一橋慶喜擁立に連座して免職させられたため敬忠も同 罪とされ、甲府の勝手小普請に左遷されて赴任して行ったこと] そのため、今後の幕府の情報の入手が困難になるのではあるまいか、という不安なども込められていた。せっかく三人が江戸に集まったのに、今度は敬忠が甲府に行ってしまったのである。 ──思うままにならぬ世の中か、昔の人はうまいことを言ったものよ。 そう思うと、嘉膳は一人で苦笑した。 やがて「尊皇攘夷」の合言葉が、憂国の志士の口に上るようになった。しかし孝明天皇自身は、「攘夷」のみを望んでいた。孝明天皇にとって将軍からの実権奪取は、思いもよらぬことであった。もし実権を奪取しても、天皇や朝廷にはそれを行使するに足る実力も経験もまったくなかったのである。しかしその「尊皇」という単語の追加が、天皇の意志とは無関係に、別の方向に進展していくことになる。 万延元年、安政の大獄に反発した水戸や薩摩の浪士たちにより、桜田門外の変が起こった。これは譜代筆頭である彦根藩主・井伊掃部頭直弼の暗殺であったため、彦根藩が仇討ちをしに水戸へ攻めて来るという風評が立った。幕府は内乱状態なるのを恐れ、彦根藩には動揺しないようにとの使者を送りながら、水戸の斉昭に対しては条約勅許妨害の首謀者として幽閉の処分をした。外桜田門の警備にあたっていた三春藩としても、薄氷を踏む思いであった。 一方、和宮の降嫁と引き替えに攘夷を誓った幕府は、その舌の根も乾かぬうちにアメリカへの最初の使節団を派遣した。幕府は自己が定め、二百余年も続いた鎖国にもかかわらず、初めて海外に使節を派遣するというもはや引き返しの出来ない一歩を踏み出していた。 続いて坂下門外の変、寺田屋事件、生麦事件などが起こっていた。またこの頃、立て続けに起こっていた攘夷派による外国人襲撃は、幕府を困らせるのが目的ではあったが、むしろ外国には有利に働いていた。そしてこれらの事件の続出は、一般の庶民の間にも政治、外交へ興味を持たせ、幕府不変の意識を揺るがしていた。 三春藩は、水戸藩と親密な関係にあった嘉膳の身の安全を考慮して帰藩させると、藩校・明徳堂の教授として迎え、長沼流兵法を講義させながら政治向きの顧問とした。 会津藩主の松平肥後守容保が、京都守護職となった。この職に就くについては、会津藩家老の西郷頼母らが猛反発、容保自体も辞退に辞退を重ねたが朝廷の意志は強く、ついにこれを受けることとなった。 容保の、「政治は利害にあらず、道理を以って為す」との藩祖・保科正之以来の家訓の引用が、その議論を終結させた。とは言え朝廷側は、容保の教育方針を受け継いだ優秀な会津の家臣団、さらにその強力な軍事力に魅力を感じ、無理矢理引き出して利用したという一面も否めない。この京都守護職とは、京都所司代、大阪城代及び近国の大名を指揮する権限を持つ役職で、京都の治安維持のため特別に設置された役職であった。 このような情勢の中で、全国の浪士たちが江戸に集結して、さらに不穏な空気を増幅させていた。危機を感じた幕府は、これら浪士たちにまとめて禄を与え、幕府の援兵として京都へ送った。一石二鳥の策であった筈であった。というのは、この浪士隊の指導者であった清河八郎が反幕に転じたため、内部分裂してしまったのである。そのため浪士隊の一部は江戸に戻され、新徴組として庄内藩に預けられた。一方、京都に残った一部は、新選組として京都守護職であった会津藩に預けられたのである。 坂下門外の変のほとぼりが少し冷めた頃、すでに三春藩の政治に深くかかわっていた嘉膳は、江戸屋敷に出仕していた。三春藩は、中央の情勢を見極める必要を感じていたため、再び嘉膳を江戸に派遣したのである。 そこへ、久しく岸和田藩(大阪府)に行っていた政紀が、江戸へ戻ってきた。「おう、岸和田藩では何を学んでおった?」という嘉膳の質問に、「はい。エレキテルを学び、電気地雷の実験をしておりました」と政紀はこともなげに言った。「エレキテル? 名は聞いたことがあるが、具体的にはどういうものか?」 嘉膳もまた、興味深か気に尋ねた。「はい。具体的にと言われましても目に見える物ではありませんので、説明しにくいのですが・・・。エレキテルとは、つまり、電気と申して目に見えない気のようなもの。それを人工的に発生させ、小型の雷を作る実験でした。私どもは電気地雷と申しておりました」「小型の雷? ほほう政紀。これは大砲の代わりになるものか?」 嘉膳は膝を乗り出した。「はあ・・いやそれは・・・。本質的に無理かと思います。ただ私も実験中に一度触れたことがありましたが、激痛が身体を貫き、それこそ死んだかと思いました。二度と触れてみたいとは思いません」 そう言うと政紀は、右の手を嘉膳の前に出した。その広げられた手の人差し指の第一関節から先が、にぶい黒色に変色していた。「どうもそのエレキテルの気が、この指から入って足に抜けたようなのです。ただこれは目の前で起こったことで、これを空中に飛ばす方法は無いと思われます」 政紀はそのにぶい黒い指を屈伸させて見せながら、くったくなく笑った。「うむ・・・。それで痛くはないのか?」「はい。今は痛くはありません。痛かったのはほんの一時でした。それに、先輩が考えられているようになるための、弾丸にあたる物がありません。兵器として使うのには、ちょっと方向の違う研究かと思います」 嘉膳は少しがっかりした。「そうか。するとそのエレキテルの気は、何に使えるのものかな?」「はあ、まだ大変な力を秘めているなということだけで、具体的には分かりませぬ」「うーむ、そうか・・・。ところで敬忠先輩のその後だがな」「はい」「甲府勝手小普請から幕府の主流に戻され、函館奉行支配組頭に任ぜられて、函館奉行の小田様とともに蝦夷地に赴任したわ。ちょっと遠隔の地だが、その内、また幕府の情勢を知らせてきてくれるだろう」 嘉膳は話題を変えた。「しかし、敬忠様も蝦夷地とは、随分と遠うございますね・・・。遠いといえば、薩摩藩と英国の間で戦争が起こったりしていますがどうなるのでしょうか?」「うむ、薩摩藩も外国と戦争とはな。少し早まったかとも思われる。外国勢は兵力こそ少ないが武器は強力だ。いずれその武器で、薩摩藩も手痛い目に合わされるのであろう。ただこの戦争は、下手をすれば諸外国それぞれが自分の都合の良い諸藩に干渉する口実を与えることになるかも知れぬ。さすれば、敵味方の見極めもつかぬ内乱となるやも知れぬ。蝦夷も薩摩も同じ日本。遠いとばかりも言ってもおれんぞ。それにしても政紀、お前の電気地雷が武器になればなあ」 嘉膳は政紀の指に視線を落としながら言った。「いやあ、それは・・・」 そう言うと、思わず政紀はどす黒く変色した指で頭を掻いた。 (注:電気地雷とは、低電流高電圧を発生する感応コイルで、その放電現象による音や光からそう呼んだものと思われる)「しかしそれなら、鉄砲は作れぬか?」 嘉膳は以前から考えていたことを尋ねた。「はい。鉄砲については長崎でいささかの経験もあります。それは可能ですが、原料の鉄をどう手に入れるか? それが問題です」 それを聞きながら、嘉膳は考えていた。 ──鉄・・・。これは水戸藩にある。しかし三春藩が、この鉄を買うカネと製造のための資金を出してくれるであろうか? そうは思ったが、嘉膳はすぐに動き出した。江戸家老に根回しをし、三春藩には建白書を提出した。やがてそれが功を奏したか、三春に呼び戻された政紀は水戸藩の提供してくれた鉄を使い、須賀川の鋳物師の内藤順次の協力を得て大砲四門と鉄砲二十挺を造った。これは三春藩の、新しい戦力となった。
2008.01.03
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争乱の序曲 嘉膳は、三春藩の兵器の近代化を考えていた。日本が諸外国と対等な立場に立つには、軍事力の強化が絶対必要であると思ったのである。 そこで嘉膳は藤田東湖の理論を背景に、三春藩に大砲鋳造の必要性を進言した。その上で自分が長崎留学中に同門であった盛岡藩の大島高任を、東湖は薩摩藩の竹下矩方を推挙して重火器の材料となる製鉄のため反射炉建設を建言したが、入れられなかった。もっとも三春藩は不作や火災が相次いで財政破綻の寸前でもあったが、なによりも海が遠く、膨大な原材料を運び込む港が無かったのである。 そこでこんどは、藤田東湖が水戸藩に同じ申し入れをした。三春藩主は鳥取藩主と縁戚関係にあった。そして時の鳥取藩主は、水戸藩主の斉昭の子であったので、三春藩主と水戸藩主が縁縁の関係にあったことも幸いした。 藤田東湖の進言を受けた水戸藩主の徳川斉昭は、嘉膳を呼び出して尋ねた。「現在の様相から諸外国と戦争が起これば、日本は大砲が少なく、戦っても敗れよう。しかし作ろうにも、わが国では銅の産出量が少ない。銅銃を多く得るには、どうしたらよいか?」「御老公様。もはや今は西洋においても銅の銃はまったくなくなり、みな鉄の銃に代わっておりまする。これからは反射炉を築造して大量の良鉄を鋳造し、鉄銃を作るべきと思いまする。そのためにも、先ず反射炉の築造が急務と思いまする」 嘉膳は懸命に説明した。 そしてこの建言後まもなく、嘉膳は東湖に手紙で呼び出された。「御老公は、反射炉の説明について大いに喜んでおられた。貴殿のご建言、まことにありがたく礼を申す。しかし御老公は、『反射炉を築造するのに良き人材が考えられぬ。誰か人がいないか』と苦しんでおられた。さきに三春藩に推挙した盛岡藩の大島高任、薩摩藩の竹下矩方を水戸藩に推挙した。貴殿も推挙しておいたが、異存はあるまいな」 東湖はそう言った。 この反射炉の築造は嘉膳にとっても夢の実現となるものであり、異存など、あろう筈もなかった。「ところで東湖様。実は・・・、新渡来の蘭書、三書を、江戸の洋書屋より二た時ばかり借用いたしました。[鉄大銃][台場ならびに海岸土手の築立方][海岸攻め方守り方]の三書でございます。ぜひ御老公にご高覧頂いた上で、莫大な金子ではございまするが、お買い上げ頂きたく思いまする。水戸藩にて翻訳致せば広く神国のためになりますが、江川(伊豆・韮山反射炉の建設者)の手にでも入れば折角の内容が秘密にされてしまい、国の役に立たなくなってしまいましょう」「なるほど、それでは日本国のためにも困る。さっそく御老公にお願いしてみよう。ところで先日、薩摩藩から当藩への書簡の中に、『反射釜が完成したので、試しに鉄を溶かしたところうまくいった』とあった。薩摩藩はすでに一歩進んでおる。羨ましいのう。我々も、何とか早く作りたいものだ」 やがて水戸藩より、三春、盛岡、薩摩藩に、それぞれの出向が要請された。そして間もなく彼らは、建設予定地の水戸藩那珂湊(茨城県)に集まり、反射炉の築造がはじめられた。もはや彼らの頭の中からは、藩意識など消滅してしまっていた。ここでは、日本という国のために、藩を越えた協力体制が出来はじめていたのである。 (茨城県ひたちなか市に復元された反射炉と、その案内板。案内板には熊田嘉膳の名が記されている) ところが、安政二年の十月に起こった江戸の大地震で、水戸藩の江戸屋敷にいた藤田東湖が崩れ落ちた建物の下敷きとなり、圧死してしまった。 その知らせを、嘉膳は玄関先で呆然として聞いた。反射炉の建設予定は大打撃を受けた。東湖は崩れる家屋から一旦は逃げ出したものの、母が逃げ遅れたのを救おうとして戻ったところに建物が倒壊してしまったという。 ──たしかに、その行為は親孝行ではあったが・・・。 嘉膳をはじめ関係者は、その後の進捗体制を思って愕然としていた。 しかし水戸藩主導の資金援助は、その後も続けられた。そのため反射炉築造の協力体制は、微塵も揺るがなかったのである。嘉膳らは耐火煉瓦の製造に腐心したり、つぎつぎに起こる技術的困難を、試行錯誤によって一つひとつ克服していた。そしてようやく完成するに至ったのである。火入れの日、嘉膳ら関係者たちは、水戸藩主の徳川斉昭よりの完成の賞与として、大日本史百巻と白銀百八十枚を贈られた。 次に反射炉に入れる大量の鉄鉱石の採取が問題となった。大島高任が仙人峠(岩手県釜石市)、嘉膳が中小坂(群馬県小坂村)を調査した。その結果、仙人峠の鉄鉱石が有望とされた。 水戸藩での反射炉建設と稼働を確認して江戸に戻った嘉膳は、仙人峠の鉄鋼石の原料に近い釜石に、この経験を生かして大がかりな製鉄所を造ろうとした。さっそく幕府・書物奉行に転じていた平山敬忠を通じて、幕府を説いた。しかし彼からもたらされた返事は、[幕府は横浜に製鉄所を、また横須賀に造船所を作るため、フランスに六百万ドルの借款を申し込んだ]というものであった。釜石製鉄所建設の夢は、あえなく挫折した。 本来、嘉膳らのこのときの計画には、すでに三春藩とか水戸藩とかの思いはなかった。であるから幕府のためではなく、日本国の製鉄所を造ろうとしていたのである。しかし幕府は、自己のために製鉄所を造ろうとしていた。その違いから、嘉膳らは横浜製鉄所建設の話に参加することが出来なかった。嘉膳には、科学者としての苦悩が続いていた。 一方、幕臣である敬忠の身分にも、大きな変化が起きていた。 敬忠は幕府目付に従って、浦賀の外国艦船や江戸湾岸を巡視したり、さらに奥羽・松前・蝦夷地・樺太の沿岸まで視察したりしていた。その後も、日米・日英・日露和親条約成立のときには、幕府の岩瀬忠震に従って下田に出張して応接し、下田・函館の開港にも立ち会っていた。その上、長崎奉行の荒尾成允との協議のため、勘定奉行の水野忠徳や岩瀬忠震に従って長崎に行ったりもしていたのである。 また政紀も活躍をしていた。彼は一関藩(岩手県)の南蛮櫟木流銃火両術師範の免許皆伝を受け、さらに幕府の合武三当流砲術、松代藩(長野県)の直微流早込銃術、幕府砲術、薩摩藩砲術などの西洋流砲術を学び、江戸に居ながら、三春及び各藩の指導にあたっていた。 ──政紀もやるのう。 嘉膳は子どもの頃の政紀を思い出して、頬が緩んだ。いつのまにか、三人は活躍の場を江戸に移していたのである。 ──政紀の技術力も生かしてやりたいもんだ。 嘉膳はそうも思っていた。(反射炉の前に保存されている大砲。この形式ではなかったとの説もある。)
2008.01.02
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浦賀から江戸に戻った嘉膳は、敬忠を訪ねた。「おう、よく来たな。三春の様子はどうだった?」「はい・・・。残念ながら、決してよいという状況ではありません。不作が続いて困っているところへ、大火が多くて困っていました。藩内は、町方も在方も大変です。ところで先輩、ここに来る前に浦賀へ行って、黒船を見てきました」「おっ、お前も見て来たか」 敬忠は驚いたような声を発した。「はい。まるで、海の中の山のように見えました。大海を渡るのには、あれでなければならぬのでしょうね?」「そうか嘉膳、それはよかった。『百聞は一見に如かず』と言うからな。とにかく西洋では、我々の考えの及ばぬほど、いろいろなものが進歩している。それに一番怖いのは、西洋諸国がわが国に牙を隠していることだ。清国の次は日本だろう。清国より小さい日本では、攻められたら一たまりもない」「はい。ところで先輩。浦賀で私も、ペロリの奴が『伊豆の大島を租借したい』と言ったと聞きました。私も、租借という言葉に危機感を感じます。ペロリの帰った後の江戸の様子はどうですか?」 嘉膳は、ペリーの名を敢えてペロリと変えて言うことで憤懣をあらわした。「ははは、ペロリなー。しかし町方でもそんな噂が流れているのか。実はペリーとの会談のとき、私は筆頭応接の林大学頭様のお付きの海防係・岩瀬忠震様に付いて、つぶさに見学しておった」「えーッ、先輩。それは本当ですか?」 嘉膳は目を丸くした。「まあ、そう驚くな。この私自体が驚いているのだから」「いや、これはこれは・・・。そのようにお偉い方とご同席などとは、私ごときが、はばかられまする・・・」 嘉膳はわざと平伏した。「こら! 嘉膳! そう冷やかすな。ところでその話し合いの内容だが、今のところ、いかに親しくしているお前にでも話す訳にはいかぬ。しかし、その牙の幾つかは見えてきた。例えばお前も聞いたように、『伊豆の大島を九十九年間租借したい』などと言っておるが、九十九年という数字に意味はあるまい。つまりは永久に、ということであろう。内実は、『伊豆大島をメリケンに割譲せよ』という意味と同じ、と思っている」「やはりそれでは・・・。香港やマカオと同じではないですか。それに大島は江戸の喉元です」「その通りだ。しかし、さすがに林大学頭様は凄かった。綿密に逐条毎に吟味して対応し、ペリー側もたじたじのときが何度もあった。例えばな。いよいよ困ったペリーが、今まで隠していた問題を持ち出した。『交易については、どうですか? 通商関係を結べば、お互いに利益が上がります』とな。そこで林様が反論をした。『それはおかしい。そちらからは難破船の船乗りの救助問題と、薪水の補給の話だった筈。通商とは何の関係もござらぬ』とな。さすがのペリーも、反論できなかった」「それは・・・、凄いところをご覧になりましたね」「ただその後の問題は、もともと外国との条約の成立に勅許は不要であったにもかかわらず、日米修好通商条約のとき、幕府が天朝様に条約の勅許を求めてしまったことだ。だいたい天朝様から全権を委任されていた幕府が、個々の政策について、いちいち相談をする必要などはなかったのだ。にもかかわらず、幕府は勅許を口実に時間をかせぎ、迫られている早期調印を引き延ばそうとして、とんでもない愚行を犯してしまった。今後の日本は、今までのやり方ではどうしようもない」 敬忠は拳を握りしめて言った。「幕府のやり方がまずかったと・・・?」「そうよ。大間違いのこんこんちきよ。その上、異国船打払いの可否を諸大名に諮問したりしたから、力のある諸藩主はそれを前例として、無理矢理にでも政治に嘴を入れてくるだろうよ」 今度は敬忠が、江戸っ子の口調でおどけてみせた。しかしその顔は、すぐに引き締まった。「いずれここで天朝様と協議をする先例ができてしまった今、今後は日本の政治を行うのに、いままでのように天朝様の意志を無視することが難しくなろう・・・。ところで嘉膳。江戸に居る間に、藤田東湖様を紹介しよう」「藤田東湖様? あの水戸藩の?」「おう、知っていたか。彼は今、水戸の藩主とともに海岸防備定江戸勤として江戸にいる。彼の人格は高邁、形骸化した幕藩体制の倫理を批判し、在野の人材登用と官僚体制の簡素化集中化を計っておられる。その彼を信奉した越前藩の橋本左内や薩摩藩の西郷吉之助(のちの西郷隆盛)などに、その思想の影響を与えている方だ」 それを聞いた嘉膳は、体内に熱くたぎるものを感じた。 嘉永七年一月、ロシアのプチャーチンが春の再訪を約して長崎を出航した。ここにきて有力大名たちも、これ以上鎖国政策を継続できないことに気がついていた。一方、かねてから大型艦建造を主張していた幕府老中首座の阿部正弘は、ついにその禁を解いた。幕府はオランダに軍艦や大型艦船を発注し、各藩も大型艦船を幕府に献上したのである。 この年の七月、幕府は、これら幕府の艦船の鑑旗を決定した。 白地に赤の「日章旗」であった。
2008.01.01
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これらの様子を知りたくて、嘉膳は志願すると再び江戸に出た。藩は藩医の任を解き、政務につかせてくれたのである。 江戸に戻った嘉膳は、その足で浦賀に向かった。二度目に来たペリーが七隻の軍艦を従え、日米和親条約を結んで帰った後であったが、その後の様子を知りたかったのである。 陰暦の六月、季節は今の八月初旬である。早朝、涼しいうちに出発した嘉膳は、大森海岸から舟に乗った。宿の女中から、「黒船見物用の乗合舟が出ている」と聞いていたからである。 十二~三人位しか乗れぬ小さな舟で待っていると、まもなく一杯になったらしく、船頭が二人、乗り込んできた。「間もなく舟を出させてもらいます」とその内の一人が言うと嘉膳のそばに近づき、「お武家様、やはり黒船見物ですか?」と声をかけてきた。「ああ・・・」と返事をすると、「ここ二~三日前から、エゲレスの船が入っております。刀を持っておりますと、役人が何かとうるそうございます。浦賀の舟宿に昵懇にしている者がおりますので、何なら声をかけましょう。お腰のものを預かってくれます」と言った。「そうか、よしなに」 事情を知らぬ嘉膳は、船頭にゆだねた。刀をその辺に置いたまま、見に行く訳にはいかなかった。 やがて浦賀港の裏の浜に着いた嘉膳は、船頭に言われた船宿に入り、貰った木札を差し出した。それを受け取った番頭は嘉膳を見て腰を屈めると、「お武家様、如何が致しましょう。お腰のものをお預りして、今行った者たちと同じく、『黒船見物無用』の立て札のある砂浜から見物するのと、私どもの丁稚のご案内で丘に登り、高い所から良く見物する方法がございます。これは・・・、お腰のものはそのままでよろしゅうございますが、お値段の方が一寸・・・」と言って見上げた。「黒船見物無用の立て札? それは何か?」「はい。黒船を見物しておりますと、お役人が見回って来て、追い立てられることがございます。別に見たからといって、減るものじゃございませんのにねえ」 そう言うと番頭は、しかめ面をしてみせた。 ──秋田淡路守季穀様が浦賀奉行のときならば、近くで見学できたろうに・・・。 一瞬そう思ったが、やむを得なかった。「そうか・・・。では丘の方を頼む」 案内に付いた丁稚と二人、嘉膳は息をはずませていた。林の中の、それも人の背丈ほどもある熊笹をかき分けながら、しばらく歩いていたのである。「お武家様、着きました」「おう」 嘉膳の目は、高い崖の上で、急に開けた視界の真ん中に黒船を捕らえていた。「五隻か・・・。聞いてはいたが大きいものだ・・・。まるで山のようだ」 嘉膳は思わず感嘆の声を上げた。 丁稚は快活に説明をした。彼は何度も見て慣れていたのである。「お武家様。あの黒い丸太のようなものが大砲でございます。あれが一斉に火を噴いたら、浦賀の町など吹き飛んでしまいます」「見たのか。あれが火を噴くのを?」「いいえ、とんでもない。しかし昨年ペリーが来たとき射ちましたが、それはすざましいものでした。まるで雷が落ちて来たかと思うような音で、私などは驚いて身動きも出来ませんでした」「そうか。驚いて腰でも抜けたか?」 そう言われた丁稚も、さすがに奮然とすると、「とんでもない、驚いただけです。町の人たち皆んながそうでした。それでもあのとき数えていた者がいて、それの話では、全部で五十五発射ったそうです」と言った。「そうか、五十五発もか・・・。しかし浦賀の町は、なんでもないではないか」「はい。そのときは空砲とか言って、弾丸は入っていなかったそうです。もし入っていたらもっと大きな音がするのでしょうかね?」 今度は丁稚は心細そうな声を出し、不安そうな目で嘉膳を見た。そして、「なんでも人の話しでは、ペリーは、『伊豆の大島を租借したい。不承知なら江戸を砲撃する』と言ったそうです」と説明した。「うーむ・・・」 唸りながら嘉膳は、丁稚の手前『知らぬ』とは言えず、驚きを隠しながら考えていた。 ──もしこの大艦隊がこのまま奥の江戸湾に入ったら、小さな番舟の群れなどではどうしようもない。大砲を放たれたら、それこそ江戸の町など一たまりもあるまい。清国の香港島の例もある。すでにペリーは、わが大島に目をつけているのであろうか? あり得ることだ。 そう考えた嘉膳は、「うーむ・・・」と思わずもう一度、深く低く唸った。その唸りは、先年ペリーが艦隊を率いて最初に浦賀に入港したとき、幕府の退去命令に対して「武力を行使しても江戸に上陸し、国書を直接将軍に手渡す」と発言し、その上、短艇を放って江戸湾の水深を測量し、それを制止する幕吏を振り切って本牧あたりまで進入した事件を思い起こしたからである。
2007.12.31
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翌年、平山敬忠は予定の勉学のため、琴田政紀もまた用向きを終えて、三春に帰って来た。敬忠は政治と算学を、嘉膳は医術を施しながら政治と科学を、そして政紀は藩主・秋田安房守肥季の近習を勤めながら科学を学んでいた。 政紀は間もなく、三春藩士の町田太介の長女千嘉と縁組して婿養子となった。そして同じ年、嘉膳はトクと祝言をあげた。 ある日、平山敬忠、熊田嘉膳そして町田政紀の三人は、あのお気に入りの場所、藩校の明徳堂の裏山に登っていた。町の喧噪がさわさわと聞こえて来ていた。「ようやく相手が見つかってな。私もお前のように若ければよかったんだが」 そう言って嘉膳は、敬忠と政紀の前で大いに照れていた。なにしろ三十歳に手の届こうとする年齢の縁組みである。当時としては晩婚であった。「こう二人の出発点が一緒だと、どちらが先に子が出来るか・・・、この競争は楽しみだな」 敬忠が笑いながら、二人を茶化して言った。「困ります。そういう目で見られては・・・。嘉膳様は大先輩なのですから」 今度は政紀が大いに照れた。「おうおう、政紀は先輩の嘉膳に勝ちを譲るというのか。もっとも政紀は十八だ。歳で勝負は決まったようなものか? 暑い暑い、誰か扇子の持ち合わせはないか?」 こうなると敬忠の一人舞台である。あとは敬忠のいいように、なぶられるだけである。「城が淋しいですね」 政紀は話題の転換に必死であった。「城まで焼くような大火が続いたからな。とにかく木造りの家屋に障子や襖、それなのに炊(か)しぐのも温(ぬ)くまるのも、まして明かりまで火となれば火事の条件が揃っている。これも何とかしなければならない問題だな」 嘉膳もまた政紀の話題に便乗して話を変えようと懸命であった。 今度は敬忠もこの話題に乗ってきた。「『火事と喧嘩は江戸の華』と言うが、これは江戸の話ばかりではない。どこの御城下でも火事は付きものだ。だが西洋では家が石や煉瓦というもので出来ているそうだ。だから火事があっても一軒か二軒、せいぜい内部だけで鎮火してしまうそうだ」 それらについて政紀も知らない訳ではなかった。しかし、あえて感心したような顔をして話題を煽った。「へーえ、石で家が出来ているんですか。それでは火事の心配がなく、いいですね」「うん。だから一軒一軒の家が、わが国とは比較にならぬほど大きいらしい。その上で、いろいろな商品が飛躍的に大量に出来る産業革命というものが起こり、人々の生活も格段に良くなってきているらしい。しかしそれらのことのために、商品を作る原料とその商品の売り先を求めて東洋に進出しておるのだそうだ。その流れがわが国にも及んできた、ということらしい」 話題が変わったのに、嘉膳も内心ほっとした。「うん。それにそれを動かすための機械、つまり蒸気機関というものが作られて水車がいらなくなり、その蒸気機関が船に乗せられて帆もいらなくなったという訳だ。そのために軍艦は、風などに関係なく動き回れるし、大きな大砲などを積んで圧倒的に強力な海軍になったのだそうだ」 敬忠は持論を展開していた。 ──やれやれ、ここまでくればもう安心。敬忠先輩も言うからな。 そう思って、政紀も内心胸を撫で下ろしていた。「ところで政紀、先年の阿片戦争のことだが知っているか? エゲレスが清国に綿や毛織物を売り込み、清国から絹や茶を買っていたのだが、買い付けの方が多くなり過ぎて清国に莫大な借りを作ってしまった。そこでエゲレスは植民地の印度に阿片を栽培させ、それを清国に売りつけた。そのためエゲレスは黒字となったが、清国では多くの人々が阿片の中毒に犯されてしまった。驚いた清国政府はこれの輸入を取り締まり、広東のエゲレス商人から阿片を没収して焼却してしまった。するとエゲレスはこのことを口実にして軍艦を派遣し、大砲で打ち負かして香港島を奪ってしまった、というのが大筋らしい」「それは不当だ!」 政紀が叫んだ。「それはそうだが、エゲレス以外のオロシヤ、フランス、プロシア、ポルトガル国なども、それを見て清国に難題を突きつけ、領土獲得競争となって大変な騒ぎだという」 政紀が尋ねた。「うーん、先輩。あの大清国がそんなに弱いのですか?」「いや、そうではない。軍艦や軍隊が強いのだ。近代の兵器が強力なのだ。あの大国をたった二~三千人の兵で負かしてしまう国が一斉に攻めかかるのだから、これでは清国に限らずたまったものではないぞ」「そのうち、その軍事力を背景に、わが国にも難しいことを言ってくるのではないでしょうか?」 政紀が心配そうに尋ねた。「うーむ。確かに奴らはわが国も狙っているだろう。現に浦賀、下田をはじめ、蝦夷地などにもいろんな国の軍艦が来ている。これの対応を一歩間違えると、わが国も清国の二の舞いになりかねぬ」「それだけは、どうしても避けねばなりませんね」「うむ。それには先ず、進んでいる西洋に追いつかねばならないな。そして軍備を強化せねばな・・・。そしてそのようなことは、黒羽藩(栃木県)主の大関肥後守増昭様も言っておられる。つまり富国強兵だな」 嘉膳が尋ねた。「富国とは民・百姓の生活が良くなる、ということですかね?」 二人は気づかなかったが、嘉膳は岩井沢村の実家のことを考えていた。「うん。それもあろうが、まず国が豊かにならねば、西洋に負けない強兵を育てることも出来まい?」 しかし三春藩に限らず、当時の各藩は常に幕府の政治に左右され、藩の主体性が見られなかった。 ──もう三春藩など小さなことは言っておれぬ。これからは日本という国のために働かねばならぬ。 これが三人の無言のうちの共通認識であった。一しきり話に花が咲いたところで、「話が変わるが、狂歌とは面白いものよ。いくつか覚えてきたので披露しよう」と敬忠が言った。「上喜撰という銘柄のお茶があるのを知っているだろう? それに引っかけたのだが、[太平の 眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯(隻)で 夜も眠れず]というやつ、それから[陣羽織 異国から来て洗い張り ほどいてみれば 浦賀大変]というのもある」 皆んながどっと笑った。 それに続けて嘉膳が言った。「こういうのもあるぞ。[武具馬具屋 メリケン様と そっと言い ペロリ]」「ははは。ペロリか。ペロリとは面白いですね。私も別のものを聞きました」 政紀も言った。「[いにしえの 蒙古の時と阿部(幕府老中首座・備後福山藩主の阿部伊勢守正弘)こべで 波風立てぬ 伊勢の神風]それから、まだあります。[日本を 茶にして来たか蒸気船 たった四杯で 夜も寝ささん][阿部川餅 評判程の味も無し 上喜撰には 落ちた御茶菓子]」「いや、まだあるぞ[貰っても 貰い足りぬか伊勢乞食 皆な阿部なりと 言うも知らずに]」「いやはや参ったな。庶民というものは、結構よく見ているものだ」 しかし、この三人が一緒に活動することは、何年も続かなかった。敬忠には幕府から江戸への帰還命令が、政紀には新宿(現在の渋谷区、文化女子大学)にある三春藩下屋敷に設けられた砲術調練場での修行が、命ぜられたのである。ここでは江戸在勤の三春藩士に砲術を教え、カノン砲で実弾射撃の訓練などが行われた。 その後も諸外国の船が来航していた。幕府もその処置に困って、異国船打払いの可否を諸大名に諮問したり、洋式大砲六門の鋳造を開始したり、その上、将軍がオランダの甲比丹を引見したりと、その場しのぎの政策が繰り広げられていた。そうしている内にも、アメリカやロシアの軍艦が来航して通商を要求するなど、外国の動きに対して国内は騒然としていた。
2007.12.30
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江戸に出た嘉膳は、狸穴(いまの港区のロシア大使館)にある三春藩の中屋敷に入った。そこには黒田敬忠も住んでいた。 江戸屋敷は、現在の言葉でいえば旅館や大使館のような性格を持っていた。例えば嘉膳のように藩命により江戸に出てきた者の宿泊や、なんらかの理由で江戸に出てきて困った領民が保護を求めて駆け込む場所でもあった。屋敷の方でも、彼らの便宜を計ってやっていたのである。「わが三春藩の支藩である三春新田藩の藩主の秋田淡路守季穀様が、浦賀奉行をされておられる。そちらからも西洋の事情についての知らせは入る。しかし世界の情報は長崎を通じて浦賀に来る。浦賀奉行からでは遅くて勉学にはならぬ。それで藩に願っていたが願いが通って長崎の鳴滝塾へ行けることになった。せっかく一緒になれたのにまた離れるのは残念だがな」と言いながら、敬忠は嘉膳に、医術も重要だが諸外国の動きも学ぶようにと助言した。「分かりました、先輩! 私もいつか長崎へ行ってみたいです」 嘉膳は身を乗り出すようにして、自分の希望を言った。 しかしその反面、江戸に来て学ぶのさえ大変なのに長崎までは・・・。第一、義父様が許してくれないだろう、という思いはあった。 それを知ってか知らずか敬忠は屈託なく言った。「おう、それは良い。俺の方からも藩にお願いをしてみよう。私塾は身請人と添え状さえあれば、入門者を拒むことはない筈だ。お前が来るとなれば楽しみだ。長崎で待っているぞ」「もう私が行けるような話ですね」 嬉しそうな顔をしている嘉膳に敬忠は、自分の頭をつつきながらニヤリとして言った。「しかしな嘉膳。そうするには、ここのいい人間でないと難しいぞ!」「いやはや、それを言われますと弱ります」 嘉膳が頭を掻きながら心細そうに言うと、二人は声をあげて笑った。 ところが漂流した日本人漁師を浦賀に届けに来たアメリカのモリソン号を、発令されたばかりの「無二念打払令」に基づき、浦賀奉行であった秋田淡路守季穀の命令で砲撃する事件が発生した。やむを得ず薩摩に回ったモリソン号は、ここでも砲撃を受けることとなってしまった。いわゆるモリソン号事件である。 やがて嘉膳は、藩の許しを得て長崎へ出発した。この間に嘉膳は、熊田自看、小此木利弦、江戸の坪井信道、そして長崎と師を変えたことになる。嘉膳がこのように師を移ったのは、洋学への手順が整っていなかったこの時代としては、やむを得ないことであった。例えば嘉膳に限らず、漢学を学んでいる内に洋学へ目を開いていく若者にとっても、師が変わっていくというこの過程は至極当然のことであった。また当時、洋学を志した者の経歴をみると、比較的多くの私塾を経て巡り歩いている。つまり学ぶ者に選択されていく私塾はばらばらに存在したのではなく、一つの順序とつながりをもつものとなりつつあった。漢学塾に入門した者が結果として漢学の領域に留まることは少なく、洋学や国学の方向に変わっていく可能性は、私塾の世界では大いにあり得たのである。そしてこのような私塾の世界では、各藩校での政治教育の禁止もあって、多くの他国他藩の遊学者が含まれていた。このため私塾は閉ざされたものとしてではなく、むしろ藩や地域を超えた人々の大いなる交流の場となっていたのである。 長崎で再会した嘉膳と敬忠の二人は、勉学にいそしんだ。しかし私塾に入った二人は、日本の状況を憂える周囲の影響もあって、次第に政治に傾斜していった。それはまた、この時代の趨勢でもあった。渡辺華山や高野長英が獄につながれたのも、この頃である。 清国では阿片戦争が起こった。あの巨大な清国の敗戦が、国の内外を揺さぶっていた。 ──これからの日本は一体どうなるのか? いや、それよりもどうすべきか。 それらは、嘉膳ら塾生たちの最大の関心事になっていた。自分たち若い者がしっかりしないと、日本が諸外国によいようにされてしまうのではないか、という危機感が漲っていた。「どうも清国が敗れたのは、西洋との軍制と武器の差にあったらしい」 敬忠は嘉膳に言った。「そうですか。それなら先輩。日本を守るためにも、三春藩も武器や軍制を近代化しなければなりませんね」「うむ、嘉膳。確かにこれはもう国家の大事だ。外患を取り除くにはその原因を把握し、それを取り除かねばならぬ。弓、矢、鉄砲ではもう遅い。大砲を持たねばならん」 話し込めば込むほど、恐怖感に苛まれていった。それは居ても立ってもいられないという気持ちであり、塾生たちにも共通した恐れであった。嘉膳は追われるようにして、長崎を発った。二人の相談の結果、嘉膳が長崎で学んだことを背景に、大砲鋳造の建議のため三春に戻ることになったからである。若いということは、こわいもの知らずということでもあった。そして、なにごとにも純粋で積極的であるということでもあった。 嘉膳は三春に戻った。しかし三春で見たものは不作に打ちひしがれた領民と、まだ復興に至らぬ大火の跡であった。その上、山中町の火事の後、また荒町の不明院門前より出火して、荒町全部が焼失していたのである。被害はもっと増えていた。 嘉膳は建議はしたが、受け入れられるような藩の経済状況ではなかった。 ──軍事、経済、政治・・・。それら単独では問題の解決は出来ない。全部含めて考えねばいい結果は出てこない。 それらのことを痛切に感じ、失意のまま明徳堂に恩師を訪ねた嘉膳は、三春藩士・琴田半兵衛の子の政紀を紹介された。 ──これは利発な子だ、こうしている間にも次の世代が生まれている。将来が明るい。俺も、もっと勉強しなければ、こいつらに負けてしまうわ。 嘉膳は期待に膨らむ自分を感じた。 ──なに、負けてなるものか。「薩摩藩では反射炉を造り、大砲の鋳造をはじめるそうだ。よその藩では、近代化が着々と進んでいるな」 再び長崎へ戻った嘉膳に、敬忠が言った。しかし嘉膳より三春の状況を知らされた敬忠も、ただ腕を組むばかりであった。 弘化元年、三春藩主・秋田孝季の死去の知らせとともに、嘉膳は三春へ戻るようにと命じられた。蘭方医学も学んでいた彼は熊田家を継ぎ、十人扶持で医術をもって藩に出仕することになったのである。 続けて二度の長崎往復は、若い嘉膳でも流石にこたえた。三春に戻った彼は、政紀を自宅に通わせて自分の見聞を教えていた。自分もさることながら、意識して後輩を育てようとしていたのである。政紀の明晰な頭脳は、それらをよく吸収していた。 やがて敬忠も長崎を離れ、江戸へ戻った。 そしてそのころ、琴田政紀は三春藩年寄の細川孫六郎に従って江戸へ行くことになった。挨拶に来た政紀に嘉膳は言った。「政紀。これは滅多にない良い機会だ。江戸に行ったらよく見聞を広げて来い。俺の知り合いに紹介状を書こう。わが藩の黒岡敬忠様、あっと違った。そのお方は今は幕臣・平山家のご養子となってこれを継ぎ、しかも幕府御徒目付に抜擢された。今は平山敬忠様となっている。平山様は優秀な上、顔も広い。懇意にして頂いて、多くの立派な方々を紹介して頂き、自分を磨いて来い」 遊学や遊歴は、他国の藩校や私塾で学ぶことばかりではなかった。むしろ有名な人物に紹介を求めて訪問し、面会し、談論をすることにあった。つまり遊学の主要目的は、課程より大家先生の訪問にあり、読書より名士との談話によって学問は進むものとされていた。 政紀らが江戸へ立って間もなく、敬忠から書簡が届いた。それには、外国からの侵略を恐れた孝明天皇が石清水八幡に、「もし外国船(西洋船)が再び日本を訪るることあらば、南無八幡大菩薩、風波を起こして敵を打ち払い、国の安泰を守りたまえ」と祈願したこと。それにもかかわらずアメリカ人のピッドルという者が浦賀に来てわが国との通商を求めている、などということを知らせてきた。その上で、来年には三春に戻り、三春藩最上流算術師の庸軒佐久間続について算法や測量術を学ぶ予定だとも言って来た。 三春新田藩の藩主の秋田季穀は、すでにこの時点で浦賀奉行を辞し、西城書院番頭に転出していた。
2007.12.29
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「嘉門、山へ行くぞ」 彼は二歳年上の黒岡敬忠に声をかけられた。 敬忠は三春藩剣術師範の黒岡矢柄の子である。身分には差があったが、嘉門とはうまが合った。あれから嘉門は熊田家に奉公をしながら、明徳堂で学んでいたのである。二人が登った明徳堂の裏山からは、舞鶴城がよく見えた。ここはまた、二人のお気に入りの場所であり、議論の場所でもあった。 敬忠はよく武士道について話した。「武士は武士らしくあれば、その余はいらぬ」 彼はよくそう主張していた。彼によると、弓馬の道を第一義とするのが武士道であり、主君に対する道である。それであるから、武士らしさとは主君に対する忠誠であり、家にあっては親に対する孝行である、と。 しかし嘉門は、少し違うと考えていた。もっとも山間痩せ地の百姓の出であり、その苦しい生活の中にあった嘉門とすれば、当然であった。 ある日、いつものように二人がその山で仰向けになり、足を投げ出して話をしていた。柔らかく萌えたつ新緑に覆われた城山の上に、舞鶴城が屹然と立っていた。 春はまた、山国の美しい季節の一つである。「ところで話が変わるが、今度、俺は藩の命令で江戸へ勉学に行くことになってな」 そう言って敬忠は話題を変えた。「えっ、江戸へ・・・? それはおめでとうございます。それにしても急な話」 嘉門は思わず起き上がり、眩しい思いで敬忠を見つめた。大体このころ、江戸への留学など簡単に出来る時代ではない。それに藩の命令ともなればなおさらのこと。三春藩にとっても大事件である。 敬忠も身体を起こすと嘉門を見ながら言った。「いや、実は前から内々にあった話。俺にとっては急なことでもなんでもない。ただ俺は江戸もいいが、いずれ長崎へ行って外国の事情も学んでみたいと思っている」「長崎・・・ですか?」 嘉門には望むべくもない、夢のような話である。敬忠は続けた。「お前も知っていようが、オランダ人のシーボルトという先生が長崎に鳴滝塾という学校を開かれた。ただ、何やら事件を起こして国外追放になったが、学校は残されたと聞いている。そこには、全国の諸藩から大勢の秀才が集まっているそうだ」 当時は三春藩の明徳堂に限らず、各藩ともに現実的な政治の議論を禁止していた。幕府や藩に対する政治的な批判や反抗の芽を、伸ばさぬようにするというのがその目的であった。そのためもあって統制もなく、自由に政治論を展開できる私塾には、多くの若者たちが引き付けられてきた。これらの若者たちは、各々の藩の統制から離れたこれらの私塾を拠点にして、やがて幕末の政治的決起の計画を練っていくことになる。吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適々齋塾などは、そのよい例である。「それは素晴らしい。江戸留学だけでも驚くのに長崎とは・・・。羨ましいようでございます」「ありがとう。淋しくはなるが、お前も明徳堂学長の倉谷鹿山先生の覚えも良い。いずれ良い風が吹こう」 やがて黒岡敬忠は、江戸へ旅立って行った。 半鐘がジャンジャン鳴ると同時に、「火事だ火事だあ! 八幡町が火事だあ!」 遠くから叫び声が聞こえ、周囲が急に騒がしくなってきた。 怒鳴り声や大きな物音の合間にも、半鐘の激しい音が響いている。刻は、そろそろ寝につこうか、という時刻であった。「様子を見て参ります」 嘉門は自看の寝室に続く廊下で片膝をつきながら言うと、屋敷の裏山にある紫雲寺の境内に駆け登った。強い風が嘉門の頬を打った。町家の屋根が黒い波のように続く向こうに、赤いぼんやりとした明かりが確認できた。 ──ん。あそこか。 そう思ったとたん、そこから一瞬はじけたように火の手が上がり、火の子が飛び散った。多くの火消したちが駆けつけるのが見えた。火柱が見るみる大きくなっていく。すぐに隣の家を飲み込んだように思えた。萱ぶき屋根の町屋が建て込んでいるのである。火元は城から、一町と離れていないように見えた。 ──これは危ない 嘉門はそう判断すると、転がるように境内を駆け下りた。「旦那様! 大変です! 火元はますます盛んです。強い風がお城の方に向かって吹いております! 大火になるかも知れません!」 自看はすでに妻に手伝わせ、衣服を整えていた。「慌てるな嘉門! わしはこれから城に詰める。後を頼むぞ」 そう言うと、供の治助を連れて急いで出て行った。 町は在方から手伝いに来た人を指揮し、土蔵の中に水を張った二~三個の桶を入れて大戸を下ろしたり、土戸の観音開きを閉めてその扉の隙を味噌で目張りをする商家や、大八車に家財を積んで逃げる家族とか、身一つで逃げる者などで阿鼻叫喚の騒ぎとなった。 翌日、ようやく消し止めた大火の爪跡は大きかった。嘉門は焼失した明徳堂の横を通って、あのお城のよく見える裏山に登ってみた。黒岡敬忠がいなくなった今、その山には、嘉門が一人しかいなかった。 舞鶴城も御殿の跡にも、黒こげになった梁や柱が塁々と折り重なっているのが見えた。町でも幾つかの土蔵は残っていたが、町家の半分が焼け落ち、所々に燃え残った煙が細々と立って火事場特有の臭いが町中に充満していた。焼け出された人たちであろうか、幾つかの塊となって佇んでいるのも淋しく見えた。 城を失った藩主は、馬場の下屋敷に避難していった。 この火事の責任を問われた火元の一家は、裸馬に後ろ手に縛られて引き回され、家宅を没収されて落合新田の開拓地に追放されていった。 敬忠から大火見舞いの手紙が届いた。その中で敬忠は、諸外国の動きが江戸にも波及して不穏な空気が流れているとか、『お蔭参り』などという妙な騒ぎがあったり、鼠小僧次郎吉なる者が逮捕処刑されたとか、はたまたそれを知った町方では、『弱い者の味方、義賊を処刑するとは何事』などと言って奉行所へ押し掛けたり、といったことを知らせてきた。 その後、御殿はどうにか復興されたが、あの壮麗な舞鶴城は無くなってしまった。天守閣は復興されたといっても、三階櫓程度で済まされてしまったからである。その上、農作物の慢性的な不作が、藩財政を圧迫していた。 間もなく、嘉門は二本松に出た。二本松は丹羽左京大夫長国の十万石の御城下、さすがに町も大きかった。そしてこの地方で名医として名を成していた二本松藩医の小此木利弦に就いて、医術を学びはじめた。当時の二本松藩は蘭方医学の先進地であり、利弦は奥羽でも著名な蘭方医であった。奉公先の熊田自看の推薦によるものであった。ここで何年か学んで三春に戻った嘉門は、正式に自看の養子となり、名を熊田嘉膳と改められた。「やがてはわしの後を継いで、三春藩の藩医となる身じゃ。気を張って病気と闘うのじゃぞ」 跡継ぎを得た自看は、嬉しそうにそう諭していた。 このように全幅の信頼を得た嘉膳は、やがて熊田家の好意で江戸に出ることになった。小此木利弦の師・坪井信道について蘭方医術を極めるためである。坪井信道は、当時江戸随一の蘭方医学の大家と尊敬されていた。 江戸に出る前、何年か振りで岩井沢村に戻った。遠くへ行く嘉膳に、自看が里帰りをさせてくれたのである。 トラは、医者になり江戸へ行くという息子に、ただ「ありがたいことで、ありがたいことで」と手を押し頂いて繰り返すばかりであった。 嘉膳は父母や弟妹、そして親戚の誰れ彼れに見送られて三春に戻った。「漢方が駄目とは言わぬが、これからは蘭学じゃ」 自看はそう言って嘉膳を送り出してくれた。
2007.12.28
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旅 立 ち 奥州の阿武隈山脈は屹立した山塊ではない。むしろ穏やかに起き伏す山並みが南北に連なった、高原地帯である。その阿武隈山脈とその東にある太平洋との間には、気候の温暖な磐城や相馬の平原が続く。また西の会津磐梯山を主峰とする奥羽山脈との間には、大河・阿武隈川が流れ、白河、二本松、郡山、そして福島の平野が続いている。そのいずれもがこの地方の穀倉地帯である。三春藩は、東西をこれらの沃野に挟まれた、阿武隈山脈の中にあった山国である。 そして三春藩領の岩井沢村(いまの田村郡都路村岩井沢)は、この阿武隈山脈の分水嶺にも近く、痩せた農地が山間に点在する高冷地にあった。そのためもあって、労力の割に収穫が上がらず、ひとたび冷害や不作ともなれば、その被害は周辺の村とは比較にならぬほど大きくなった。 嘉門(嘉膳の幼名)は九歳になっていた。子どもとはいえ百姓の倅である彼は、常に父の与四郎に駆り立てられ、野良仕事などを手伝わされていた。それでも彼は、暇が出来るとよく近所の寺に出かけて行った。いつの頃からかそこの和尚の手ほどきで、書を読み算を習いはじめていたのである。それであるから暇のあるときは、子どもたちと遊ぶというよりは、寺に居るか近所の岩井沢城跡の草むらに寝転がっている方が多かった。岩井沢の城跡とは、中世・鎌倉時代に建てられた館の跡である。 そういう彼を見て、与四郎は気が気ではなかった。子どもは彼を入れて四人いたが、何といっても嘉門は跡取り息子である。 ──家の跡を取る以上、野良仕事はしっかり覚えてもらわなければならぬのに、暇さえあれば寺に行って書などを読んでばかりいて。いずれそのうち言い聞かせねばなるまい。 そう思っていた。 今日もまた、嘉門は父母が鍬を振るう畑にいた。そばの畦道で弟や妹を遊ばせながら昼食の湯を沸かたりして手伝っていたのである。仕事も大分進み、日も高くなっていた。 ──そろそろ午だな。 嘉門はそう思った。いつも和尚は、午の時間を空けて待っていてくれるのである。そわそわする気持ちを隠しながら嘉門が言った。「父ちゃん。お寺に行って来る」 それを聞いて与四郎の怒りが爆発した。「嘉門! 百姓の倅に学問はいらぬ! 一体何が面白くて寺に行く。もう行くな!」「そんなこと言っても父ちゃん、俺は仕事はちゃんとやってるよ。仕事の合間くらいなら、いいばい」 嘉門は精一杯の反抗を示した。「何だこの野郎! 親に口答えすんのか!」 同時に与四郎の鉄拳が飛んだ。 嘉門は頭を抱えて、その場にうずくまった。「この馬鹿野郎! 仕事というものは探してでもするもんだ。寺に行く暇があったら次に何をするか考えろ!」 結局その日は寺に行けなかった。怒鳴りつけた与四郎は、仕事を早仕舞いにして家に帰ってしまったのである。嘉門にしてみれば、それはそれで面白くなかった。 ──なんだ。こんなに早く仕事を終わるんならお寺に行ってもよかったではないか。 そう思ったのである。嘉門の顔には不愉快さが出ていた。それに殴られたことがなんとも不満であった。「嘉門! いつまでぶすくれてる!」 そばに来た与四郎は、また手を振り上げた。思わず頭を抱え込む嘉門との間に、母のトラが割って入った。「そう言うけど父ちゃん。嘉門はほんとに良く手伝うよ。隣の婆ちゃんだって感心してんだから。それに遊んでばかりいるならともかく、仕事はやっての上だから少しは大目に見てやんないと」 トラはそう与四郎をいなしながら、嘉門に外へ行け、という目配せをした。 嘉門は家を飛び出した。とはいっても行く先の当てはなかった。結局、あの岩井沢の城跡への丘を登り、その草の上に寝転がった。そして気が落ちついてみると、父ちゃんが怒るのも無理がないなと考えていた。ここ何年か続いている不作による貧乏が、父を不機嫌にしているのを彼もまた充分に承知していた。 三春藩は不作による困窮度に応じて、百姓を五階層に分けていた。岩井沢村やその周辺の村は、最下層の不作村として指定されていたのである。そのために年貢の軽減はあったが、作物の出来が悪いのだから各戸の困窮度に変化はなかった。 やがて西の空が、夕焼けで赤く染まっていった。そして彼の頭の上には、いろんな形の雲が浮いていた。いつしかその雲が形をくずし、また形を変えて流れて行くのを飽かず眺めながら考えていた。 ──三春か・・・。和尚さんが言っていたな。三春には秋田様というお殿様が居て、舞鶴城という城があって、それは賑やかな町だと。それに明徳堂という藩校もあるというし・・・。そういえば、隣の二本松藩より村瀬主税という先生を招いて、明徳堂の先生にしたとか言っていたな。二本松は十万石だから三春の町より大きいのかな。大きいと言えば、徳川の将軍様の居る江戸は、日本一大きい町だと言っていたな。 こんなことを考えはじめると、あとはもう、嘉門の空想は膨らみ続ける一方であった。その間にも頭の上の雲は、ゆっくりと集まったり大きく裂けたりしていた。 ──江戸は日本一大きいというが、世界一大きい町はどこかな。オランダ・ポルトガル・オロシヤ・エゲレス。ああ、エゲレスと言えば何度も日本に来て、『商売をさせてくれ』と言って来ているらしい。ことわっても断ってもしつっこく来るので、もう来ないように異国船打払令というものを出したら、今度は常陸の大津浜(茨城県北茨城市)に上陸したというな。異国船打払令と言えば、三春新田藩の殿様が浦賀奉行になっていたな。それに大津浜は泉藩(福島県いわき市泉)のすぐ南だというから、これは大変なことだなぁ。 長い間そんなことを考えていたら、すでに日はとっぷりと暮れ、夕闇が迫っていた。そしてその日の最後の太陽の淡い朱が、鼠色の雲に隈取りを与えていた。 ──父ちゃんはまだ怒っているかな。 そうは思ったが行く当てがなかった。嘉門はゆっくり立ち上がると、着物の塵を払った。 家に戻り、そーっと裏口から入ると、気がついた母のトラが小さくうなずいて見せた。土間から囲炉裏の父を窺うと、一瞬目が合った。ハッとしたが、父は黙って下に目を落として囲炉裏の火に火箸を突っ込んだ。一瞬、小さな火花が飛んだ。嘉門はどきっとしたが、何喰わぬ顔をした。 ──母ちゃんがうまく言ってくれたんだ。 嘉門はそう思った。 ある日、十歳になっていた嘉門に、突然、父が言った。「嘉門。和尚の所へ行って来い」「・・・?」「すぐにだぞ」 父はそう言うと、慌てて返事をする嘉門に背を向けた。 ──何んだなんだ、父ちゃんは。あんなに毛嫌いしていたお寺に行けとは・・・。 そう思いながら嘉門は、父の目から見える所をゆっくり歩いた。父が言うほど嬉しくはない、と思わせようとしたのである。それであるから見えないところに来ると、あとは一目散に走った。走って走って、寺に着いたときはぜいぜい息を切らしていた。和尚がニコニコして待っていてくれた。「おう、来たか来たか。まあ、上がれ、こっちへ来い」 そう言って庫裏へ招き入れた。その柔和な顔を見た嘉門は嬉しかった。「先日来、与四郎と話し合ってな」 和尚はそう切り出したが、それからの話に嘉門は驚いた。 三春に熊田自看様という立派な藩医が居る。彼は子どもがいないために養子を探している。そのことを三春の殿様の菩提寺の高乾院で聞いた。高乾院には、以前から嘉門のことを話していた。自看様が言うには、「そんな優秀な子なら是非欲しい。とりあえず奉公ということではどうか。その上で様子を見て明徳堂に入れてもいい」、ということだった。「橋渡しをしてくれ」と頼まれた、ということであった。「『嘉門は、百姓をさせるには惜しい子ども。この際三春にやるのが得策ではないか。あの子のためにもなるし、百姓を継ぐには弟も居るではないか』ということで、ようやく与四郎を承知させたのじゃわ。あとはお前の納得だけじゃがの? どうじゃ?」 嘉門は、この話に目を輝かした。「しかし和尚さん。明徳堂にはお侍の子しか行けないのではありませんか?」 和尚は笑いながら答えた。「嘉門。それは心配するな。藩医ともなれば武士も同然の待遇じゃ」 それを聞きながら嘉門は思った。 ──そうか。もし父ちゃんがよいと言うなら俺は行きたいな・・・。「まあ、一カ月のちほどに、わしは三春の高乾院に行く。決まれば一緒に連れて行こう。わしには、またとない機会と思える。よく考えるようにな」
2007.12.27
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主人公たちの横顔 一九八八 三百藩家臣人名事典二 (三春藩)より。 熊田 嘉膳 江戸に出て、(二本松藩医・小此木)利弦の師・坪井信道について蘭方医学を学び、また長崎に赴いて蘭学を修めた。(中略)嘉永六年、ペリーが来航すると、藩命によって出府し、洋式兵学を学ぶかたわら、諸藩名士と交わった。ことに水戸藩藤田東湖と交わり、巨砲鋳造の必要を論じ、反射炉の建設を主張し、南部(盛岡)藩大島高任、薩摩藩竹下矩方を推挙。これは、水戸藩主徳川斉昭に採用され、安政元(一八五四)年五月水戸藩が反射炉建設に着手すると、大島、竹下とともに建設に参加。安政四(一八五七)年、竣工すると「大日本史」を賞与された。(中略)慶応四年五月、(明徳堂)学長・山地純之祐(立固)、村田岐とともに上洛し、新政府に対し小藩の立場を嘆願し、進軍救助の勅書を入手。また、西軍が棚倉城を攻略すると、致仕していた秋田宮人を説得し、その嫡子主計を出張させ、西軍教導の折衝を成功させた。(中略)阿武隈山地の最も深い所で生まれ、水戸藩反射炉の建造に参加し、また藩の命運をかけた最も緊迫した場面に登場し、三春藩の存続に奔走した嘉膳は、平山敬忠と並ぶ風雲児であった。 平山 敬忠 江戸に遊学し、幕臣平山氏を嗣ぐ。(中略)嘉永四年、(幕府)御目付役に抜擢された。(中略)嘉永六(一八五三)年六月、ペリーが来航すると、目付堀利忠に従って、浦賀の艦船および江戸湾岸を巡視し、同七年一月、ペリーが再び来航すると、目付岩瀬忠震に従って、下田に出張し、応接にあたった。また同年二月、目付堀利忠に従って、松前、蝦夷地、唐太、奥羽の沿岸を巡視し、安政四(一八五七)年四月、勘定奉行水野忠徳、目付岩瀬忠震の長崎出張に随行し、長崎奉行荒尾成充との協議に加わった。同五年七月、書物奉行に転じたが翌六年八月二十七日、忠震が一橋慶喜擁立に連座して免職、扶持召し上げとなったのにつづいて、九月十日、敬忠もまた免職となり、甲府勝手小普請におとされ、安藤与十郎組下となった。文久二年十月二十二日、箱館奉行支配組頭に任じられ、箱館奉行小出秀実とともに赴任した。(中略)慶応元年十一月十一日、二の丸御留守居に転じたが、実際は外国役所に出仕して外国御用を取り扱えとの命令を受け、十一月二十八日、わずか一か月余で目付に転じた。同二年二月、大阪目付を命じられ、同年八月二十九日、在阪のまま外国奉行に転じた。さらに同三年四月二十四日、若年寄並、外国惣奉行に栄進し従五位下図書頭に叙任され、柳の間詰めとなる。(中略)同四年正月二十三日、若年寄のまま国内御用取り扱いとなり、幕府権力の存続を主張したが容れられず、病と称して登城しなかったため、二月九日免職となり、さらに同月十九日、新政府により逼塞を命じられた。七月にいたって、徳川慶喜が静岡に移住するのに従って、静岡に移住。明治三年赦免されて東京に戻った。(中略)東北の山中に生まれ、和洋の学に通じ、禄百石の御家人から身を起こして、幕末の難局を一気に駆け抜けた一代の風雲児であった。「平山省斎遺稿抄」を著している。昭和三年十一月、御大典にあたって従四位を贈られた。日本赤十字社社長平山成信は、敬忠の子息である。 町田 政紀 文久二(一八六二)年には、岸和田藩で行っていた電気地雷の研究に着手し、その実験に成功した。文久三年二月、三春藩もようやく軍制改革を進め、政紀に百石を給して西洋流砲術師範に迎え、大砲を鋳造させた。しかし小藩のため軍備増強は望めず、戦争を極力回避する方針をとったので、技術者として政紀の活躍する場面は、少なかった。(中略)幕末最先端の技術を身につけながら僻地小藩に身を置き、夢想流や中島流の間にあって、次第に時代の進運に遅れ、兵制の統合とともに使命を終えた。しかし、電気技術における先駆的業績は、技術史上特筆に値する。
2007.12.26
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2003年1月 福島民報社出版 売れ切れ 三春戊辰戦争始末記 はじめに 私は最近、「三春滝桜」という本の二五一ページを読んで愕然とした。そこには、次のように書いてあったからである。 [永い間奥羽に君臨していた阿倍(福島県三春の秋田氏は、その祖を阿倍 氏としている)の名声と功績は、この(戊辰戦争の)一日の行為で崩壊 した。三春というだけで、平成に入った現在でも、車のガソリンさえ売 却しない店が、東北全般にまだあるといわれる。二千五百年間たえまな く流れ続けた阿倍の大河は、ここに終わったのである。 人間の無情と稚拙さ。歴史の悠久と変遷の激しさに、あらためて人間 の生き方を問われる気がする。] ──なんと! 今でも三春は東北全般でそんな風に言われているのか? 三春は本当に東北全般の人たちから疎まれているのか? ところで著者は、想像だけでこういうことが書けるのであろうか? しかも著者は断定こそしていないが、普通なら知られていない筈のものを書いたのであるから、どこかでしっかりした明確な話として取材なされたのであろうと考えざるを得ない。 そんなことを思いながら、私は奥付を見た。そこには「平成十年 長尾まり子 集賛舎発行」とあり、略歴には多くの著書とともに青森県弘前市に生まれ、千葉県館山市に住む歴史作家と記載されていたのである。 ──青森県・・・? 三春狐とはそんなに悪い意味で有名なのか? 私は、国民学校(太平洋戦争中の小学校)に入って間もなく、次のようなことを聞いたことを思い出した。 上級生たちが国民学校の行事として会津若松連隊に慰問に行ったとき、市内で会った笑顔の中年女性に、「ご苦労さん。あんたたち、どこから来たの?」と尋ねられ、「三春から来ました」と答えたとたん、「何だ、三春狐か」と嫌な顔をしてそっぽを向かれた、ということである。そのとき私はその意味も知らず、妙に後ろめたい、暗い気持ちになったのを覚えている。 それにしてもこんな話を聞いてから半世紀以上、戊辰戦争からもすでに百三十年を経ているのである。そして私はこの五十有余年の間、この地方に於ける戊辰戦争関連の本は随分読んできた積もりである。しかしそのほとんどが、三春の裏切り(三春狐)を責めていたのである。だから私は、周囲から「三春狐」と揶揄されることになった理由は充分に承知していた。 その理由とは、次のようなものであった。 慶応四年七月十六日、棚倉を陥とし、さらにその北の浅川の町を占領した新政府軍と、町の北郊の城山(古舘山)に拠った会津・仙台兵とが、戦闘状態に入った。同盟軍軍務局は三春藩に会津・仙台兵への応援を命じた。ところがその命令に従って城山の北辺に到着した三春兵は、なんと南から攻める新政府軍に呼応して会津・仙台兵を挟み撃ちにし、これを破ったというのである。 大同小異とは言え、このことが多くの文献で語られてきたことが、やがて歴史そのものと誤解され流布されていったことは、想像に難くない。 では、三春町史(第三巻五ページ)はどう主張しているのか。 [二足の草鞋をはいた三春藩は、棚倉の戦いで同盟諸藩とともに政府軍に 抵抗した廉で、在京の秋田広記らは禁足他藩出入差し止めを命ぜられた り、七月十六日浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森 主税の詰問を受けると、外事係不破幾馬らが弁明して事なきを得た。み ずから矛盾を求め、薄氷を踏む演出は御家安泰のためになおも続くので ある。(中略)複雑微妙、藩論を内外に明らかにし得ず、ついに政府軍の 三春入城の日まで疑心暗鬼が続くのである。「会津猪 仙台むじな 三春 狐にだまされた 二本松丸で了簡違い棒(違い棒は二本松藩主・丹羽氏 の家紋)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽)の兎はぴょんとはねて三春狐 にだまされた」。この歌にある「三春狐」をどうみるか。激動する戦乱の 中で歴史の大河に竿さし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸 させた所が安全であれば、それでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方 の見方で、百年後の町民が判断すればよいことである。] この内容から気がつくことは、三春狐と言われたことに対して三春町史は、否定も肯定もしていないということである。そしてこの玉虫色の記述こそが結果として、三春町の人を含めた人たちを「三春狐は三春が認めた歴史的事実である」と誤認させ、さもありなんと思わせる原因を作ってしまった、ということであろう。 戊辰戦争後百三十年、百年後の一町民が非力をも省みず立ち向かい、三春狐とはなんであったかを探ってみたのが、この小説である。 なお調査の過程で知った資料を、解説とともに「付録」として巻末に記載した。 大方のご批判を賜れれば幸いである。
2007.12.25
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