『福島の歴史物語」

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2013.01.11
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カテゴリ: 北からの蒙古襲来


 山川出版社の『宮城県の歴史散歩』を目にしたのはこの頃であった。

その中で、仙台市の善応寺にある『蒙古の碑』が、写真入りで説明されていた。しかし私は、このような碑が仙台にあるのは不思議なことだと思った。仙台は戦国時代に伊達政宗が作った町である。それ以前の鎌倉時代、たしかに多賀城という中心地はあったが仙台という町はなかったはずである。それに蒙古は北九州を襲い、樺太や青森にも来襲したらしいが、太平洋側から攻めたという記録は残されていない。もし蒙古が仙台まで攻めたとしたら、仙台は多賀城の南であるから幕府は自己の領分と考えて捨てておけなかったはずである。だからもし仙台に攻めてきたのであれば、必ず日本の歴史に記述されていなければならないことになるが、それもない。私は仙台に行ってみる必要を感じた。行く準備としてそれを調べていて驚いたのは、『蒙古の碑』は一つだけではなかったということである。

   1 善応寺(宮城野区燕沢二丁目3〜1)に一基。

    これは『宮城県の歴史散歩』で紹介されていた碑であ
    る。この善応寺の碑は鎌倉時代の弘安五(1282)
    年の建立と言われ、もと燕沢地内の塩釜街道(県道8号
    線利府街道)沿いの廃寺・安養寺跡の門前に建立された
    ものであるが、半ば地面に埋まった状態のものが昭和
    に入ってからこの地に移された。上部に大きく梵字が
    刻まれ、その下に二十八字の本文が四行にわたって刻
    まれているが、省書が多く文意不明である。

    五行目の最後の行は、『弘安第五天(=1282)』と
    ありこれは2回目の元寇の翌年にあたる。その下に製
    作者『清俊』の名が刻まれている。

    この蒙古の碑は、弘安二(1279)年、北条時宗に
    よって招聘された南宋の帰化僧・無学祖元(鎌倉円覚
    寺開山)が、弘安五(1282)年、弟子の清俊に命
    じて戦没した元軍兵士を追善させた供養碑として伝え
    られている。

   2 牧島観音堂(宮城野区燕沢東一丁目3)に一基。

    これは『蒙古の碑』が、ここから善応寺へ移したこと
    の記念碑であるから、『蒙古の碑』そのものとは言え
    ない。

       【蒙古之碑跡】
    昭和十六年二月廿六日蒙古主席徳王仙台来訪親しく
    蒙古之碑を訪ねた際善応寺に遷す

   3 東北大学植物園(仙台市青葉区川内12〜2)に二基。

    東北大学植物園のパンフレットでは、次ぎのように紹介
    されている。

       【蒙古の碑と正安の碑】
    弘安十(1287)年と正安四(1302)年に建てら
    れた板碑(供養碑)で、『もくりこくりの碑』とも呼ばれ
    ています。またその碑の案内板には、次のようにありま
    した。

       【蒙古の碑と青葉山の碑】
    これらの板碑は鎌倉時代のもので、左は弘安十年
    (1287)に陸奥守と号した人の供養のため、右は
    正安四年(1302)に四十余人の講衆が、それぞれの
    縁者の霊を弔うために建立したものである。これらが
    建立された年代が元寇「文永十一年(1274)及び
    弘安四年(1281)の蒙古襲来」にすぐ続いているの
    で「蒙古高句麗の碑」と呼ばれてきた。蒙古来襲は、
    当時の日本では最も恐ろしい出来事で、恐ろしいことの
    代名詞にされてきた。そうした事に因んでか、これらの
    板碑は子供の百日咳を直す霊験があると言われ、永く信
    仰されてきた。

   4 来迎寺(青葉区八幡五丁目1〜8)に二基。

       【モクリコクリの碑】
    モクリコクリの碑と称されている板碑(供養碑)があり
    ました。弘安十年(1287)と延元二年(1337)
    のもので、現在は前者が所在不明になっています。もと
    もとこの付近にありましたが、道路拡幅工事で移動され、
    現在は来迎寺境内に建っています。

    モクリコクリとは蒙古・高麗のこととも言われ、市内に
    ある蒙古の碑と称されるものの一つです。弘安の板碑は
    表面が風化し、またこの碑の粉が百日咳に効くという言
    い伝えがあったことから、長年にわたって削られ、碑文
    は不明瞭です。

       『延元二年板碑』
     モクリコクリの碑の一つ、碑文は次の通りである。

       苦人求佛惠  右志者為過去悲母
       通達菩提心     大歳
       梵字(ア)
              延元二年  八月二日
       父母所生身     丁丑
       速證大覚位  亡霊乃至法界平等利益
                     仙台市教育委員会

   5 三宝荒神社(若林区南鍛冶町41)に一基。

    蒙古の兵の弔いの石とされるものがある。ただし銘はな
    い。

   6 仙台神宮(青葉区片平一丁目3〜6)。

    ここには、蒙古の碑ではないと否定された経緯のある碑
    が一基残されている。

 ともかく、これらのすべてを見て回ったが、せいぜい案内板にある説明程度のことのみで蒙古との関係や詳細を知ることはできなかったが、『蒙古の碑』については次のように想像されている。

  1 当時、北の守りとして陸奥国府の多賀城(多賀城市)が
   あり、仙台市内若林区に陸奥国分寺・国分尼寺があってこ
   の地がそれらの中間地点になること。

  2 松島が霊場として発展していて、鎌倉とも交流があった。

  3 蒙古軍の一員として戦に参加した南宋の兵士の慰霊の碑
   であるが、社会情勢を考慮し、当時僻地とされていた陸奥
   に、しかも省字(判読できない字)を彫ってカモフラージュ
   をした。

 しかしこれ以外の寺の碑にも『蒙古』とか『モクリコクリ』と明示されていることは、やはり『蒙古』と関連づけるべきであるということになるのであろうか。帰りがけに、私は弘前出身で現在仙台に住んでおられる笹森伸児氏宅に寄ってみた。彼が何かの情報を持っているかも知れないと思ったからである。

 彼は私の撮ってきた『蒙古の碑』の写真を見ながら「仙台に住んでいながら、これについてはまったく知らなかった」と驚いていた。次いで『マモー』に類する単語について、「弘前では聞いたことがなかった」と言って仙台出身の陽子夫人に聞いたところ、彼女もまた、「仙台では聞いたことがない」と言う。





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最終更新日  2013.01.11 16:43:30
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