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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(6)
イチコ ワタナベさんとシツコ アベさんとの取材は、ホノルル近郊ワイパフのファミリーレストラン ジッピイで行われた。一人で会うのは恥ずかしいということから、二人一緒の取材となった。窓からはシュガーミルだったという工場の煙突が見えていた。
「私(イチコ)の父は伊達郡茂庭村の農家出身でした。十九歳でハワイに行っていた叔父の呼び寄せ移民となり、キビプランテーションで働いたそうです。同じ村で生まれた母は、そのような父のピクチャーブライドとなり、一人でハワイに渡って来ました。母は日本語しか分からず、黙って出来る仕事を選んだと言っていました。1917年、私はオアフ島エワで生まれ、エワ エレメンタリースクールの三年、十歳のとき祖母危篤の電報を受け、両親と弟の四人で茂庭の実家へ戻ったのです。そのとき母は身重の身体でした。福島には祖母の亡くなる三日前に着きました」
「それでは間に合ったのですね?」
「はい。三月七日に祖母が死亡したのですが、四月十日、私が三歳のとき弟の次男が生まれました」
「それは大変でしたね」
「ええ。それからしばらくして母は父と離婚し、私と直ぐ下の弟の二人を残してハワイの知人を頼って帰っていきました」
「それは寂しかったでしょうね」
「ええ。何とも言えぬ寂しさでした。とにかく十歳だったのですから・・・。しかし弟は三歳でしたからよく覚えていなかったようです。しかし夜には母親を慕って、よく泣いていたそうです」
「そうですか・・・。それであなたがエレメンタリースクール三年の時ということは、日本でも三年生に編入になったのですか?」
「いいえ、一年遅れて長岡国民学校に入りました。それから高等国民学校を卒業して福島市瀬の上にあった実践女学校に入りました。その後研究科(裁縫)に二年通いました」
「すると随分長く福島にいたことになりますね」
「そうですね。私は学校を卒業したらハワイの母の元へ帰る積もりでいましたが、私の家(吉田家)の跡取りとなる弟が重い病気のため、周囲に帰らないように説得されたのです」
「それで長くなった・・・」
「はい。1941年の7月になってハワイへ行く手配をしましたが、日米関係の悪化で船がストップしてしまいました。そして12月、日米開戦のためハワイへ行けなくなってしまったのです。なんとも言えない惨めな気持ちでした。それにハワイの母からは何も送られて来なくなり、音信も不通となってしまったのです」
「そうですか。それは辛い立場になりましたね」
「それでも戦争開始後に日米交換船が第一次(1942年6月から8月)と第二次(1943年9月から11月)の二度実施されました。第一次の帰還者は千四百二十一人、第二次帰還者は千五百十七人にもなったそうです。私は二回目の交換船に乗ろうとしたのですが弟の病気が今か今かの状態となってしまい、横浜にまで行ったのですが結局は福島に戻ってしまったのです」
「・・・」
「祖父は私の弟が亡くなると私だけを頼りとしましたので、結局、私は祖父の世話を続けることになってしまったのです。しかし母の姉が父と再婚したので、四人で生活を続けたのです。辛いことも多かったのですが、それでも親類がいっぱいいたから助けられました」
「そうですか。そうするとハワイに帰ったのはいつになりますか?」
「戦争後の四年後になります。五歳年下で八歳であった下の弟を福島に残してハワイに帰りました。現在、その弟が福島市太田町に住み、吉田家の当主となっています。今年六十九歳になります」
「そうですか。弟さんが福島にね」
「私ね、時々ここのレストランで日本食を食べるのね。日本食を食べるということは、私にとって日本人としての血を確かめるということなの」
シツコ アベさんの父は松川町の農家の出身であった。
「父が先にハワイへ来た後、祖父と叔父を呼び寄せました」
「そうですか。子が父を呼び寄せたというのでは、普通の人と逆のケースになりますね」
「ええ、そうですね。私は1920年1月にハワイで生まれました。二歳の時、四歳の姉と父母、それに祖母とで福島に行っているのですが、その辺りの記憶はまったくありません。幼いときのことでしたから・・・。まもなく父母は私と姉を置いてハワイに帰っていきました。ですから私は、日本生まれの日本人とまったく同じに成長しました」
「学校はどうされました?」
「1932年、私が十二歳の時、両親が福島に一度戻ってきました。この年私は、水原小学校を卒業しました。その後の一年、渡利にあった家政女学校へ通い、その後二年制の養蚕学校へ通いました。このようなこともあって移民二世にはお婆ちゃんっ子が多かったのです。私もそのまま、福島で暮らすものと思っていました」
「それが違った?」
「実は後に私の夫となる人は、二〜三年の出稼ぎで日本へ戻るつもりでハワイに来たのです。ところが戦争が始まって戻ることができなくなってしまったのです。パールハーバーのことはラジオで聞いて、はじめて知ったと言っていました。戦争中はハワイの電気会社に勤務するかたわら農業(花を作っていた)をしていました。日本語の使用が禁止されたので、話をしないでもできる仕事を選んだらこうなったそうです。そこでアメリカの兵隊検査を受けましたが国籍が日本であったし、英語ができなかったので第100大隊に入隊することができなかったそうです。とにかく一般人との接触は極力避けていたそうです」
「そうですか。あなたのご主人は一世だったわけですから、また別の意味で苦労があったのですね」
「私は戦争の終わった翌年の1946年、この人と結婚するために一人でハワイへ渡りました」
「その後の生活はどうでしたか?」
「日系人に対する態度は、第100大隊の活躍もあって、よほどよくなったと夫が言っていました。そういった意味では、私はいい時期にハワイに帰って来たのかも知れません」
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