『福島の歴史物語」

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    吉田松陰の東北遊日記より

 文政十三年(1830)、吉田松陰は、長州の萩城下松本村、いまの山口県萩市で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。天保五年(1834)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修めています。しかし翌・天保六年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。そして九歳という幼いときに萩藩・藩校明倫館の兵学師範となり、天保十二年(1841)、十一歳のときには藩主・毛利慶親(たかちか)への御前講義を行い、その出来栄えが見事であったことから、その才能が認められました。さらには天保十三年(1843)、十三歳のとき、長州兵を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施しています。そして弘化二年(1845)、十五歳のときには長沼流兵学の講義を受け、江戸時代の兵学、山鹿流と長沼流の二つを収めていました。

 当時の清国国内では重要視されなかったのですが、清の思想家の魏源による海外事情紹介をも兼ねた地理書である『海国図志』がすぐ日本にも伝えられ、吉田松陰や佐久間象山、橋本左内ら幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を担っていました。西洋列強への危惧は、清国でではなく、日本において活かされることになったのです。『海国図志』は、当時の世界情勢を知ろうとする人々にとってバイブル的役割を果たし、海防と開国の難問に直面するわが国にも最新かつ豊富な情報をもたらしたのです。また幕府も、アメリカの情勢等をより正確に把握するために本書を活用しています。また天保十四年(1843)には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えています。

 阿片戦争で清が西洋列強に大敗したことを知った吉田松陰は、山鹿流や長沼流の兵学が時代遅れになったことを痛感し、嘉永三年(1850)、西洋兵学を学ぶために藩の許しを得て、九州に四ヶ月にも及ぶという勉学をしました。九州の平戸では砲学にも触れ、長崎では砲学の高島塾に出入りをし、長崎の台場を見学したりして多くの蘭学者を訪れています。熊本では山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵など様々な人物に会って、見識を深めていきました。中でも熊本藩の兵学師範の宮部鼎蔵とは、国の防衛などについて意気が投合しています。宮部は松陰より10歳以上年上でしたが、生涯の親友となったのです。

 次いで江戸に出た松陰は、佐久間象山や郡山出身の安積艮斎などに師事する一方で、南部藩士の江幡五郎と知り合います。嘉永四年(1851)、対馬などへ出没する外国船や北方に現れるロシア船からの防備力などの様子を確かめるため、松蔭は交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と東北遊学を計画したのですが長州藩からの許可が遅れ、彼との出発日の約束を守るため長州藩からの通行手形の発行を待たずに出発したため、脱藩者とされてしまいました。しかし強大な軍事力を持つ欧米列強によるアジア植民地化の動きが、いよいよ日本のそば近くまで迫ってきたことを理解した松陰は、東北遊学の旅に出ることを決意しました。当時異国船が頻繁に出現すると言われていた東北地方をめぐり、海防の現状を視察しようというものだったのです。この旅を書き記した日記が、『東北遊日記』です。

 江戸から水戸に出た松陰は、文政七年(1824)に、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見した水戸藩士で水戸学藤田派の学者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)と面会し、ここで熊本から来た宮部鼎蔵と江戸から来た江幡五郎と落ち合いました。ところが江幡は、兄の仇を討つため南部に戻ることになってしまいました。しかし松陰は、尊王攘夷の地である水戸で、多くの水戸藩士と尊王思想を語り合っています。一月二十日、三人は、いまの北茨城市磯原から『いわき市』泉まで、海岸沿いを北上しました。

 嘉永四年(1851)、満21歳となった松陰は『東北遊日記』の冒頭にこう記しています。「東北・北陸は土地広く山峻(けわ)しくして、古(いにしえ)より英雄が割拠し、悪者の巣窟となっている。西は満州に連なり、北はロシアに隣する。東北は国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗を有する歴史の地である。だが残念至極ながら、自分はまだ東北を知らない。だから行くのだ」と・・・。

 水戸を出発し、いまの茨城県の磯原・大津浜・平潟を経由して、いまの『いわき市』勿来から内陸部に入った松蔭と宮部は、『いわき市』植田・泉・田人、そして古殿町の竹貫を経て白河に入りました。そしてこの白河の久下田屋旅館で、三泊もしたのです。それというのも、ここで仇打ちするという江幡と別れることになっていたからだとされているのですが互いに別れ難く、四日目になってようやく別れたと言われています。白河からは次の会津若松に行っているのですが、この間の距離が長いので、記述はされていませんが、途中で一泊しているものと思われます。

 二十九日、松蔭と宮部は、雪の深い会津若松に入りました。会津若松では藩校・日新館の見学をし、さらには会津藩が樺太出兵の経験をもっており、またその記録である『終北録』を編んだ学者の高津平蔵から意見を聞いたのち、新潟に向かいました。新潟までには、いまの会津坂下町塔寺を経由した記録しかありません。しかし塔寺から新潟までは遠いのです。恐らく2〜3泊を要したものと思われます。

 新潟に入った松陰は、当初、1ヶ月も滞在する気はなかったようです。しかし新潟は、会津藩にとって重要な海の連絡路でした。大きな船で運ばれて来た荷物は新潟で小さな舟に積み替えられて阿賀野川を遡上、会津領の津川を川の港として使用していたのです。それもあって、樺太警備に出兵した会津藩が、ロシアによって報復攻撃をされるのではないかと危惧し、会津藩兵をここへ派遣していたのです。会津藩の防備の様子などを視察した二人は、北海道函館近くの松前まで北前船で直行する積もりでした。陸路を行ったら十数日はかかり、しかも雪のために交通を妨げられるかも知れないのです。しかし船であれば、箱館まで三昼夜で行けるのです。ところが荒天続きで、船が出なかったのです。二人はただいたずらに待っているのももったいない、その間に佐渡に渡ってみようと新潟県の出雲崎に行ったのですが、ここからの佐渡行きの船も天候が悪く、あしかけ十三日も待って、やっと船が出る始末でした。しかし乗ってみれば、佐渡は、たかだか三時間位のところでした。

 佐渡に渡った松陰は、佐渡の役人を訪ねて島の概況を聞き、真野の順徳天皇御火葬塚を参詣して相川へ向い、広間役蔵田太中を訪れました。蔵田は国学者、また歌人で『鄙の手振』などの著書がありました。松陰と宮部は蔵田の二男の松原小藤太の案内で、佐和田町沢根の屏風沢銀山へ登り、坑内もつぶさに見学しています。「吾が輩は衣を脱ぎ、一短弊衣を着、縄を以て帯と為し、竪に短刀を帯ぶ」といった服装で入坑しました。屈強な人でも、十年ともなれば「気息えんえん、或は死に至る」と、労働者たちの短命であることなどを記しています。異国船が日本の近海に接近して、緊張していた時期でした。それでも二人は上陸地小木港に戻ったのですが、またまた船が出ません。四日目になって、やっとの思いで出雲崎に帰りました。ところが松前行きの船に乗るというときになって、船頭が侍を乗せるのを嫌って、いろいろと文句をつけられたので、二人は仕方なく陸路を行くことにしたのです。

 佐渡から出雲崎に戻った松陰と宮部は、山形県酒田から本庄を経て秋田に入りました。秋田藩もまた、樺太警備に出兵していたのです。恐らくここでも、松陰は有力な情報を得たものと思われます。秋田を出た松陰は、秋田県の大館、北秋田市の阿仁鉱山からさらに北の弘前領に入りました。弘前では、藩の儒学者で兵学にも詳しい伊東広之進を訪ね、津軽半島の海防について細かく尋ねています。弘前から北上し、竜飛岬の小泊港で津軽海峡近くに達した二人は、ここでも目と鼻の先の松前へ渡ることができませんでした。やむなく青森県の藤崎・金木・中里を通り、船で青森に行きました。

 松蔭は、以前より交際のあった薩摩の兵学者肝付七之丞と海防の事を論じていました。肝付は松前・佐渡の地方を調査していて形勢のあらましを知っており、近頃の西洋の船は、壱岐、対島の間を抜けて北上し、津軽海峡を通って、東に曲がるものが非常に多いと説明していました。二人は本州最北端の青森で、津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしたのですが、それは果たせなかったようです。しかる津軽で松陰は、数々の義憤に駆られています。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいること、そして津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりをしていることなどでした。その後、青森県の野辺地・五戸・八戸と海辺を巡った松蔭は、金山・二戸・三戸を、そして岩手県の沼尻・簑ヶ坂・金田一を過ぎて盛岡に入りました。

 盛岡藩もまた、樺太警備に出兵していました。盛岡藩では、領内の太平洋沿岸と津軽海峡、そして内海である陸奥湾側などの広い沿岸要所に、遠見番所10ヶ所以上と砲台場33箇所以上を配置していました。盛岡藩はこの御台場に土塁をめぐらし、砲台場、火薬庫詰め所を配置して打ち方と手伝い人6名を常置させていたのです。その盛岡を出た松蔭は、花巻・平泉の中尊寺を経て宮城県の石巻、そして塩竈に着きました。塩竈での逗留は短時間でしたが、塩竈の歴史や風土を詳細に記録しています。その後、やはり樺太警備に出兵していた仙台藩を経由して宮城県の大河原そして米沢へ向かいました。そしてなぜか、二人は、米沢から再び会津に入ったのです。会津からの先の行程は、会津田島〜今市〜日光〜足利〜館林〜江戸というものでした。この旅の総日数は、嘉永四年十二月十四日の江戸出発から翌五年四月五日の江戸到着まで、140日にも及んでいます。

 松陰が行った東北遊学の具体的目的は、国防上の見地から実地踏査をし、砲台をどこにつくり、守備兵をどこに配置すればいいかを丹念に調べ歩いていたのです。ですから彼はこの旅で、樺太警備に出兵した会津、秋田、弘前、盛岡、仙台の、すべての藩を巡っています。これら北方の藩から兵士が樺太へ送られたのは、樺太に近い、という理由もありましたが、もう一つ、これらの兵は寒さに強いと考えられたからだといわれます。恐らく松陰の脳裏には、これらの各藩の経験から、軍事的にどう外国に対処すべきかを学ぼうとしていたのではないでしょうか。

 旅行後松陰は、友人に送った書簡に、東北遊学によって「雪や浪や野や亦以(またもって)て気胆を張り才識を長ずるに足れり」とした上で、「人皆曰く、博(ひろ)く学んでしかる後、遠遊すと。僕は則(すなわ)ち遠遊して後に学を博す。」と、自分の旅を総括しています。見て、聞いてその身に体感することでこそ、自分の学問・知識を深める事ができるのだと確信していたのです。『東北遊日記』は、慶応四年(1868)に出版されました。

 ペリーの航海記から引用しますと、「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた2人の教養ある日本人の激しい知識欲は興味深い。この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来には、何と夢に満ちた広野が、何と希望に満ちた期待が開けていることか! 」そして安政六(1859)年十月二十七日、松蔭は安政の大獄に連座して江戸に檻送され、評定所で取り調べを受けた時、幕閣らは松蔭の暗殺計画が実行以前に頓挫したことや、素直に罪を自白していることから、『遠島』が妥当と判断していたといわれます。しかし松蔭自身が死罪が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れて斬首刑に決せられたとされます。その評定所から伝馬町牢屋敷に戻された松蔭は、辞世の句を残しています。

 一つ目の辞世の句は、父百合之介、兄梅太郎、叔父玉木文之進に向けて書かれたお別れの手紙の中に記されています。『親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん』(子が親の事を想う以上に、親が子を想う気持ちは深いもの、私がこのような状況になって両親はどんな思いだろう)というものですが、死の直前に書かれたものではないので、厳密には辞世とは言えないという説もあります。その中で松蔭は、「自分が処刑されたら首は江戸に葬り、位牌には『松陰二十一回孟子』と書き、自分が愛用していた硯と手紙を魂の依り代として供養してほしい」と頼んでいます。

 吉田松陰が沼崎吉五郎に託した『留魂録』は、松下村塾の塾生たちに向けて書かれたものなので、塾生に残した辞世の句と言えると思います。『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』。私の体は江戸の地で朽ち果ててしまっても、私の魂だけはこの世で生き続けるという意味です。このとき松陰は伝馬町の獄舎につながれており、自分の最期を覚悟していました。だから、自分の意志を継いで、塾生たちにも日本のために行動を起こしてほしい。というメッセージが込められていました。これが、松陰が塾生たちに残した辞世の句です。

 死を直前にした松陰の率直な気持ちが表現されている辞世の句があります。これは漢詩で、評定所で死罪の判決を受けた後に大声で吟じたものだと言われています。『吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり』。私はこれから国のために死ぬ。それでも主君や両親に対して恥ずべきことは何もない。今となっては全ての事を悠々とした気持ちで受け入れている。私の人生は神の御照覧に任せます。

 松陰は伝馬町牢屋敷で二冊の留魂録を書き終えた後に、最後の呼び出しの声がかかります。すると松陰は、「十月二十七日 覚悟を決めていた死の旅路の呼び出しを聞くことができて嬉しくてならない」と書き残し、判決が言い渡される評定所へと向かいました。この時の松陰は髭や髪が伸びていましたが、眼光は鋭く、近寄りがたいオーラを放っていたと、その場に居合わせた長州藩士が語っています。そして、評定所で役人から『死罪』という判決が言い渡されたのですが、この時、松陰はとても穏やかな様子だったようです。一度、評定所から伝馬町の牢屋敷に戻った松陰は、獄舎の人たちと別れの挨拶をしました。

処刑された松陰の遺体の引き渡しの交渉には、門下生であった飯田正伯と尾寺新之丞が奔走しました。伝馬町の役人が松陰の遺体をなかなか渡さないので、飯田らは賄賂(わいろ)を使うなどして、粘り強く役人と交渉していました。そこで出た結論は、現在の荒川区南千住にある回向院というお寺に一度遺体を運んで、そこで飯田たちに引き渡すというものでした。飯田たちは桂小五郎と伊藤利助(博文)にも声をかけ、4人で松陰の遺体を引き取る事になります。しかし、罪人という事もあり、松陰の遺体は裸のまま無造作に樽に入れられており、その扱いは酷いものでした。この変わり果てた師の姿を見た塾生たちは師の体を水で清め、それぞれの衣服を脱いで着せた後、松陰の遺体を用意しておいた甕に移し、回向院(えこういん)に葬って墓石を建てました。享年30歳でした。ちなみに熊本藩士であった宮部は、松陰との東北遊学の後に、京都で討幕運動に没頭するのですが、池田屋での会合中に新撰組に襲われて重症を負い、自刃しています。また江幡も脱藩して南部に向かったのですが、結局仇討ちは行われませんでした。維新前に非業の死を遂げた松陰や宮部らより、江幡はずっと長く生き伸びたことになります。

 幕府も藩もあてにはならず、在野の人が立ち上がらなければ変わらないという、松蔭が唱えた『草莽掘起』が共感を呼んだのであろう。長州藩でのその後の松蔭の評価は大きく変わることになります。松蔭は尊王攘夷を唱えながら、貿易による富国強兵の構想も持っていたのですが、反幕府の考えも有していたことから毛利家の藩政を乱す『乱民』といわれたのです。しかし藩論が反幕府の尊王攘夷一色となると松蔭はシンボルと祭り上げられ、刑死したわずか数年で、松蔭の著作が藩校明倫館の教科書に使われるようになったのです。(萩博物館主任学芸員・道迫真吾)

 吉田松陰は、はじめは革命家として位置付けられたのですが、日露戦争を境にして、大東亜共栄圏の先駆者として祭りあげられました。しかし第二次大戦後は一転、再び革命家として評価されるようになったのです。このように変転した松陰の評価には、皇国史観が、深く関わっています。現在、福島県内にも、吉田松陰に関して、次のような碑が残されています。

 殉国 吉田松陰先生遊歴之地碑 いわき市植田町後宿公園・東北第一夜の記念碑。碑の
                裏側には「東北遊日記抄」の該当部分が刻まれていま
                す。
 吉田松陰遊跡記念碑 古殿町・碑文は嘉永五年正月竹貫に一宿した時の日誌。
 吉田松陰逗留の宿 白河市中町久下田屋旅館・詳細は未確認です。
 清水屋旅館跡碑 会津若松市・松陰の説明文があります。東北遊日記に
               記された七日町の宿が、この清水屋でした。
 吉田松陰東北遊日記の碑 会津坂下町心清水八幡神社・碑には、東北遊日記から
               の該当部分が刻んであります。

 なお松蔭と宮部の旅程は、次のようなものでした。
江戸〜水戸〜磯原〜大津浜〜平潟〜勿来〜植田〜泉〜田人〜竹貫〜白河ー会津ー塔寺(会津坂下町)〜新潟ー佐渡(相川〜春日崎・旧相川町の西南海岸)〜新潟〜酒田〜本庄〜秋田〜大館〜阿仁鉱山(北秋田市)〜弘前〜藤崎〜金木〜中里〜小泊(今別)〜(船で)青森〜野辺地〜五戸〜八戸〜金山〜二戸〜三戸~沼尻~簑ヶ坂~金田一〜盛岡〜花巻〜中尊寺〜石巻〜塩竈〜仙台〜大河原〜米沢〜会津〜田島〜今市〜日光〜足利〜館林〜江戸

 松蔭が残した名言として、
  『夢なき者に理想なし』
  『理想なき者に計画なし』
  『計画なき者に実行なし』
  『実行なき者に成功なし』
  『故に夢なき者に成功なし』
というものがありますが、この言葉の出典が見当たりません。また、この言葉の発言者を渋沢栄一だとする説もありますが、やはり澁澤の言葉であるという確証もありません。





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最終更新日  2018.07.01 14:14:39
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