『福島の歴史物語」

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2019.01.01
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郡上藩 凌霜隊(岐阜県郡上市)

 会津若松市の飯盛山に、白虎隊でもなければ会津藩士のものでもない、「郡上藩凌霜隊之碑」があります。これは岐阜県知事 上松陽助氏の揮毫によるものですが、この他にも、昭和五十九年(1984年)九月、『郡上藩凌霜隊碑を建てる会』の建立による『道ハ一筋ナリ』の碑があります。郡上藩は、江戸時代に美濃国、現在の岐阜県郡上市八幡町に所在し、郡上郡の大半と越前国の一部を統治していた四万八千石の藩で、藩庁が八幡城にあったことから、八幡藩とも呼ばれていました。

 幕末の日本は、勤皇か佐幕かで混乱の中にありました。その結果として、265年という長い期間、実権を握っていた徳川幕府の第15代将軍 徳川慶喜 が、慶応三年(1867)十月十四日、その実権を天皇に返上する旨を上奏しました。翌十五日にこの上奏が認められ、長きにわたって続いた徳川幕府はその幕を下ろすことになったのです。この一連の出来事が、『大政奉還』であり『王政復古の大号令』でした。これは、もともと土佐藩を中心とする勢力が建白したものを慶喜が取り上げて、朝廷に上奏したものでした。なお勤皇とは、天皇のために力を尽くし、忠節に励むことを表し、佐幕とは動乱の幕末期によく使われた言葉で、『幕府を補佐する』との意味がありました。

 慶応四年一月三日から六日にかけ、『鳥羽伏見の戦い』が勃発しました。そして八日、新政府は、『鳥羽伏見の戦い』において伏見戦争で疑惑のあった伊予松山・高松・小浜・大垣・官津・延岡・鳥羽ら七藩に対して御所への出入りを禁止する処置を下し、十日には、この戦いで主導的立場であったとされる会津藩 桑名藩 高松藩 伊予松山藩 備中松山藩 大多喜藩の六藩に対し官位を剥奪した上で、藩邸の没収と京都追放が追加されたのです。これらの官位を剥奪された藩は、原則として街道の通行も禁止されたのです。

 この時期の郡上藩の藩主は、譜代大名の青山幸宜(ゆきよし)でしたが、まだ14歳の少年でした。このような事態にどう対処すべきか、判断ができる年齢ではありません。藩の行動は、家老たちの意見に頼らざるを得ませんでした。しかし家老たちも、『鳥羽伏見の戦い』の戦後処置においての新政府の強気な姿勢を見ながら恐れを感じ、藩としての一本化した政策決定には至りませんでした。郡上藩のような小さな藩は、勤皇派なのか佐幕派なのか、新政府と幕府のどちらを支持するのか、ハッキリとは判断しにくい状況だったのです。数万石程度の藩は、周囲に流されて戦うことになることもあったのです。しかし鳥羽伏見の戦いが終わり、幕府は追い詰められている状況にあるとは読めましたが、途中で逆転するかも知れないし、最終的にどちらが勝利を収めるか、極めて分かりにくい状況でした。

 郡上藩も、勤皇派と佐幕派とが対立しました。藩主の幸宜も、消極的ながら佐幕派として行動していましたが、戦争が拡大した二月には、新政府に恭順を尽くすという誓書を出しています。そんな中、藩主の幸宜の帰国を待ち、国家老の鈴木兵左衛門は生き残りの策を進言しました。それは、「新政府軍に恭順すると見せかけ、幕府を支援する部隊を組織して転戦させましょう」というものでした。これならば、どちらが政権を取っても、言い訳が出来るという二股をかけた政策でした。藩主の幸宜は当時僅か14歳でしたから、うなずく他はなかったのではないでしょうか。国家老の鈴木兵左衛門としては、藩存続のための、精一杯の妥協策であったと考えられます。

 郡上藩では、選りすぐりの精兵を密かに選抜することになりました。密命は、江戸の郡上藩屋敷に送られました。江戸の郡上藩士は、意気軒昂でした。譜代大名の武士として、幕府のために戦ってこそ武士の忠義だと、彼らは信じていたのです。江戸家老の朝比奈藤兵衛も、幕府軍が勝利した時のことを考えて、十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士39名をひそかに脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させたのです。確かに二股の策ではありましたが、秘密とは言え、藩公認の下での結成であったのです。

 彼ら39名は、『霜を凌ぐ』という、痛烈な覚悟の名前でもって組織され、戦地へ赴いたのです。なお『凌ぐ』には、困難をはねのける、また堪え忍ぶという意味があります。そして『凌霜』とは霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である青山葉菊に由来したものです。藩からもスペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲、ツルハシ、鍬、シャベルといった物資が届きました。砲術指南や軍医も従軍し、小規模とはいえ装備の充実した部隊でしたから、隊員は藩のお墨付きを頂いた脱藩者という感覚であったと思われます。郡上藩は、名目上脱藩者の集団として藩から切り離し、彼らを会津戦線に送り出したのです。

 四月十日、凌霜隊の隊士たちは、江戸の本所にある橋菊屋に集合して江戸湾を船で出発、四月十二日に、今の千葉県の行徳に一度上陸、再び船で利根川を溯って前橋に上陸、会津に向かったのです。幕府側の人々が集まる目的地が、会津だったのです。



 凌霜隊は、会津藩士・小山田伝四郎のもと、塩原温泉郷での防衛任務に就き、五月十一日から三ヶ月ほど、塩原の妙雲寺に滞在しました。しかし戦局が悪化する八月二十一日、凌霜隊は町を焼き払っての、全軍会津への退却を命じられました。そこで凌霜隊隊長の朝比奈茂吉は、三ヶ月も世話になった寺を焼き払うことに苦悩しています。茂吉は守備隊長に抗議しますが、小山田は聞き入れません。茂吉に出来たことは、名主に焼き払うことを伝え、家財道具を運び出すよう言い渡すことだけでした。塩原温泉郷は、猛火に包まれてゆきました。妙雲寺に火をかけようとしたところ、隊士が寺には見事な菊の紋章が描かれていると茂吉に伝えてきました。菊を焼けば、天皇を擁した新政府軍に責められるのではないかと懸念したのです。そこで茂吉は、寺の横に畳や薪を積み上げて火を放ち、火を放ったふりをして、寺を救ったのです。

 ここから先は、撤退戦の始まりです。今の日光市の横川に戦い、会津田島に至り、大内宿近くの大内峠の激戦では二名の戦死者を出しました。九月三日、今の会津美里町関山の戦いでは、会津藩の青龍足軽二番隊とともに苦戦を展開、林定三郎が前額部を撃たれて即死、この日は会津高田まで進んで宿泊、九月四日には大川を渡河して、若松城下に辿り着いたものの、若松の城下には既に八月二十三日に政府軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていました。凌霜隊の副隊長の速水小三郎は「敵の脇の下をくぐり股をくぐってでも城下に入れ。殺されたら魂となってでも行け。びくびくするな。平気な面をしておれば誰でも味方だと思うだろう」と叱咤しながら、城へ決死の進撃をしたのです。「グズグズしてはおられない」と疲れた身体に鞭打って進んだと言われます。そしてその日の夕方になって凌霜隊は、若松城の西口、河原町口郭門にたどりついたのです。

 河原町口の郭門にたどりついたのはよかったのですが、郭内は二十三日の新政府軍の侵攻の際焼き打ちに会い、屋敷は殆ど焼け落ちていました。それでも郭門を入った北側に辛うじて焼け残った屋敷が一軒だけあり、会津藩士小山伝四郎遊撃隊長の指図によってここに宿泊し、九月六日になって、ようやく若松城に入ることができたのです。

 籠城戦に入ったのちの八月二十七日頃、白虎士中一番隊・二番隊の生存者を中核とした再編白虎隊が編成されていました。凌霜隊はただちに白虎隊士中二番隊隊長日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らとともに開城の日まで西出丸の防衛にあたっています。しかし激しい籠城戦で、一人、また一人と、凌霜隊の隊員たちも斃れてゆきました。凌霜隊は白虎隊の生存者とともに、開城の日まで西出丸の防衛に当たりましたが、同盟諸藩の降伏が相次ぐなかで孤立した会津藩は、一ヶ月の激しい籠城戦の果てに、九月二十二日、新政府軍に降伏し開城したのです。

会津藩の降伏後、凌霜隊は猪苗代での謹慎を命じられました。雪が舞う寒い会津で、彼らは耐え忍びました。十月十一日、日向内記から東京へ移送されると凌霜隊に伝えられました。郡上藩預かりの処分となったのです。これで戦いから離れ、晴れて故郷へ帰れると、恐らく全隊員が思ったと思われます。むしろ彼らは、藩から依頼された脱藩者であり、武器など、それなりの援助を受けていたからです。ところが二十四日、郡上藩士の出迎えを受けた凌霜隊士たちは、失望したのです。同じ部上藩士でありながらよそよそしく、冷たいのです。要は、厄介者扱いでした。十一月十五日、大垣まで到着した凌霜隊は、囚人駕籠に乗せられ、荒縄でくくられました。もはや彼らは罪人扱いです。しかも郡上八幡に戻れば、牢屋に入れられるというのです。故郷で牢屋に入れられた凌霜隊の隊士たちは、帰りを待っていた家族と再会することもできません。牢屋は粗悪な環境で、病に倒れる隊士も出たほどでした。そしてその牢獄に、半年間幽閉されたのです。

 何よりも凌霜隊士は、賊として捕らわれたことで周囲の目も冷たく、郡上藩としても、『新政府に恭順』という方針で戊辰戦争に関わっていくための方便でしたから、藩にとって凌霜隊はお荷物となってしまったのです。できれば藩としては、自害して欲しい人たちであり、何なら彼らを暗殺したいほど邪魔だったのです。しかし手を下すには生存者が多すぎました。そこで彼らは、禁固の処罰を受けて入牢、死罪を言い渡されたのです。何と理不尽なことか?

 「これでは凌霜隊があまりに不憫ではないか」町からはそんな声が起こりました。明治二年の五月十一日、牢屋に近い慈恩寺に領内の僧侶が集まり、凌霜隊士解き放ちの嘆願を藩庁に直訴したことから、凌霜隊の身柄は長教寺に移されました。そして会津落城から一年目の日の九月二十三日、凌霜隊は長教寺の本堂で、藩の使者から「各自、自宅謹慎とする」と伝えられたのです。苦難の日々を乗り越え、やっと家に戻れることになりました。そして明治三年(1870)二月十九日、新政府から、ようやく正式な赦免が届きました。凌霜隊は、解散に至ったのです。しかし自由の身になったとは言え、藩が彼らに援助の手を差し伸べることはありませんでした。それもあって、郡上八幡に留まる元隊士は少なかっといわれます。山あいの小さな藩が激動の時代を乗り切るべく取った日和見主義が生んだ悲劇でした。

 藩を救うために行動し、仲間は命を落としたというのに、罪人扱いされた彼らは、そんな苦い思いを抱えた故郷に、留まりたくはなかったのかも知れません。郡上八幡は、清流の流れが美しい町です。しかしこの風光明媚な故郷も、凌霜隊にとってはあまりにつらい場所となってしまったのかも知れません。白虎隊とともに戦い、故郷から見捨てられた凌霜隊の人々。彼らの姿に思いを馳せると、戊辰戦争という内戦の悲劇が心の奥底に突き刺さります。地元では秘史としてしか語られてこなかった凌霜隊が、今は郡上の誇りとなり、郡上八幡城脇に顕彰碑が建てられています。戊辰戦争から150年、彼らの出身地である郡上八幡では、凌霜隊について見直し、顕彰する動きが高まっています。

 冒頭に紹介した飯盛山にある彼らの慰霊碑は、昭和五十九年(1984)、郡上八幡市と会津若松市の有志が協力して、建立に漕ぎつけたものです。飯盛山を訪れる機会のある方は、この慰霊碑にも目を留めていただければと思います。




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最終更新日  2019.01.01 08:38:20
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