『福島の歴史物語」

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2019.05.01
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     埋もれた古文書

 先日、私は学兄・高橋亮氏から、昭和二十七年(1952)五月二日(金)付、福島民報のコピーを頂きました。その見出しは、『明らかになった神社御分霊の秘事 皇室文献が郡山へ神社本庁、佐藤家を調査』となっていました。その内容は、驚くべきものでしたが、現在から見れば、65年以上も前の記事になります。その新聞記事の全文を、再録してみます。

   『明らかになった神社御分霊の秘事 皇室文献が郡山へ 神社本庁、佐藤家を調査』
 伊勢皇大神宮の御分霊をまつる郡山市開成山大神宮は勅許により御分霊を奉斉した唯一のものとして神社本庁が当時の事情を調査することになり、一日同庁調査課長岡田米夫氏が来郡、開成山大神宮宮本宮司とともに同市小原田町77佐藤直蔵氏(71)宅で記録文献の詳細な調査を行った。佐藤家は第七代第二皇子吉備津彦命の子孫で、源平相争い安徳天皇が壇ノ浦に沈んだ当時、佐藤家八十六代の子孫が貴重な皇室文献を携えて岡山から難を奥州郡山に避けたと伝えられ、明治天皇から皇分家の称号を許された由緒ある家柄。岡田調査課長は直蔵氏と記録文書などの管理を依頼されている同市夕陽ケ丘下川達也から詳細に事情を聴取したが図らずもその場で佐藤家に伝わった皇室文献をめぐる御分霊の裏の秘事が明らかにされた。佐藤、下川両氏の話を総合すると次の通り。

『佐藤家に伝わる皇室文献は、日本歴史を「書き替える」ような力あるものと言われます、佐藤家は一切これをもらさず、当主の祖父東兵衞氏(昭和十一年、95歳で没)に至ったが明治天皇行幸に先立ち、時の開成山区会所長中条正恒氏は策を用いて同家土蔵のとびらを開け問題の記録を一見したところ、余りにその重大な内容に驚き天皇に随行した右大臣岩倉具視公に報告、岩倉公より事の次第を聞いた明治天皇の仰せで東兵衞氏もやむなくこれをご覧に入れたという。』

 当時文書は18貫、馬に積んで開成山の行在所まで運んだが、天皇は直々東兵衞氏を御座所に呼び寄せ、当時としては珍しいリンゴを手ずからもてなされた。(リンゴの食いかけを同家ではいまも保存している)東兵衞氏はそれでもあきらめ切れず再三借用書の下付を岩倉公に願い出たが聞き届けがなく、かくして東兵衞氏は当時開拓民の熱望であった伊勢神宮の御分室を願い出るべく上京し岩倉公を訪問、岩倉公も願いの趣を聞くに及んで「それは私一個人の考えではどうとも出来ない」と東兵衞氏を伴って急ぎ参内、折柄陛下は雑炊の昼食をしたためられていたが東兵衞氏にもすすめられ、十分もてなしを受けたうえ御幣料として金貨廿円、伊勢までの路銀として五百円賜った。

 その際陛下は「なんとかしてやろう」といわれたが、東兵衞氏が数ヶ月の斎戒沐浴のうえ伊勢から御幣を頂いて帰った時、すでに御分霊は実現の運びとなっており(恐らく陛下が直々のお言葉によってなされたものであろうと関係者は推測している)記録にも御分霊は二度にわたって行われたと記されている。この間陛下から東兵衞氏に対して御賜金を賜ること三度、この金(二千円)によって現在の佐藤家を新築した。『皇分家』という称号を用いてもよいと陛下からいわれたのもこのときで、現在佐藤家の墓には光格天皇(第119代、在位安永八・1780年〜文化十四・1817年)の筆になる菊の紋章が刻まれているのも、このようないきさつによっているといわれる。

 御分霊を巡るこれらの事実を証明する記録、証拠の品々等は、現在までほとんど公開されずに岡田課長も宮本宮司も初めてみる品々に驚きの目をみはっていたが、その他皇室と同家の交渉を示す記録類は相当あり、ただ問題の皇室文献だけは現在も皇室に保管されていると信じられるだけでその行方は判明していない。岡田課長は、東兵衞氏が死去前、同家の言伝え分霊のいきさつなどについて妻はやさんに病床で書き取らせた記録文書を主として調査、更に開成山開拓の祖阿部茂兵衞氏の曾孫同市中町阿部周助氏宅も調査して二日帰京する。

 岡田課長談「伊勢皇大神宮を祀る神社は全国で一万八千もありますが、勅許によって御分霊したのは開成山一ヶ所であり一体どういう手続きで勅許が得られたのかいまのうちにそのいきさつを明らかにしたいというのが今度の来郡の目的です」

 私はその後どうなったのかを知りたくて、安積国造神社を訪ねたところ、熊野福蔵神社禰宜の伊藤恒雄氏を紹介されました。彼の話は次のようなものでした。

 「藩政時代、二本松藩主の丹羽氏は、古文書を仕舞っていた佐藤家の土蔵の前に見張りの藩士を2名、交代で見張りをさせていた。如何に大事な文書であったかということを知っていたということでしょう、ところが明治天皇行幸の際、岩倉具視が預かった馬車2台分のこれらの文書を磐城の浜に運び、停泊していた軍艦の上で焼却してしまったとされます。そのとき佐藤家に残された文書は、今も土蔵に残されているが、その開示には至っていません」

 私は何とか佐藤さんと会えないかをお願いしたのですが、「折角ですが、新聞記事以上について、話すことができません」と断わられてしまったのです。というのは、佐藤家の当主の手元に残されている古文書を見せて頂きたかったのですが、佐藤さんが言うには、『あの新聞に出た時、周辺で大騒ぎになったこと、もう一度あの騒ぎに巻き込まれたくないし、また文書を貸し出して無くされては困るからです。このことについては、二度と来ないでください』と言われたというのです。

 佐藤家と親しくしている人がそう言うのでは、私ごときの出る幕はありません。私は諦めざるを得なかったのですが、当時の当主・東兵衞氏がしたためたパンフレットが、郡山図書館に寄贈されている、ということを知ったのです。早速それを読んでみましたが、それはほぼ新聞記事と似た内容でした。ただ新聞記事に出ていた『皇分家』の意味が分かりました。それは佐藤家が、天皇家の親戚、つまり分家であるという意味であったというのです。これはまた、凄いことですね。ところが私が当てにしていた伊藤恒雄氏、それから間もなく病で亡くなられてしまったのです。このことと、何か関係があったのでしょうか。気になります。

 どちらしても、約65年前であれ、すでに新聞に公開されているので、この新聞記事を再録しても、差し支えはないと思い、これをアップしました。しかし源平合戦以前からの文書であるとされるこの佐藤家の文書の解読は、素人の私が軽々にするべきではないのでしょう。いずれの日にか、歴史家の手で解明されることが望まれます。なお安徳天皇は、福岡県久留米市の久留米水天宮の祭神とされ、水の神、安産の神として郡山市久留米の水天宮にも祀られています。






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最終更新日  2019.05.01 10:57:04
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