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ウパシクマ
郡山市西田町根木屋字立石に、『根木屋水道通水記念之碑』などに混じって、『⑤優婆夷(うば様)根木屋字立石縁起 アイヌ語の産婆(ウパシクマ)お産の神 ( ウワリカムイ ) に当たる民間信仰。したがって、全国に文献をさぐっても見当たらない。この石像は、県内の一部にしか見られないもののようである。御祭神 産婆神 子育て神 仏教では優婆夷(うばい) 御神徳 子育て神 子ども養育神』『⑥二十三夜の遅い月の出を待つ月供養の女性の講で、仏を精進供養し健康な子どもの出産を祈る石碑』という案内板が立てられていました。その背後には古い民間信仰に使われたと思われる大きな岩があり、頂上には、 どこかで見たような仏像が 祀られていました。 この他にも、 二十三夜塔や庚申塔などを、ここに集中的に立てられていったような感じもします。しかし何故ここに、アイヌ語のウパシクマという文字があるのか、とても興味をかきたてられました。

私は、郡山市歴史博物館を訪ねました。これらの掲示板は、資料館が立てたと思ったからです。ところが資料館では、それを立てていないと言って、西田町史談会長の今泉五郎さんを紹介してくれました。私は早速、会いに行きました。彼ら夫妻は、現地で私を待っていてくれました。今泉さんは、「根木屋は自分の住む木村とは集落が違うので、ウパシクマ案内板建立のいきさつは知らなかった。しかも私自身 この道は通っていたのに、裏通りに向いていたので今日はじめて知った。 しかもそれを立てた人たちは亡くなってしまったので、事情はまったく分からない」と言うのです。しかも今泉さんは現在九十歳、自らが立ち上げていた西田町史談会唯一の生き残りとなり、「会は消滅寸前です」と言うのです。
ところでアイヌ語と言われれば、北海道です。昔、 蝦夷と言われたのは、現在の東北地方に居住する『まつろわぬ民』つまり朝廷に従わぬ民を示す言葉でしかなく、現代で言ういわゆる『民族』とは、本質的にことなります。ところが東北には、アイヌ語の地名、それも語呂合わせではなく、地形と意味が北海道のそれと一致するものがあるのです。 ウパシクマとは、それと関係があるのでしょうか。
そこで私は、ウパシクマで検索してみました。するとウパシクマについて、樺太アイヌは説話のことを指すと言うのですが,北海道アイヌは、先祖の教えを基にしたものや住んでいる地名にまつわる伝承など、事物の由来や起源に関する知識を説明した言葉や説話を言い、他の『語られるもの』と区別したのです。『他の語られるもの』、つまりアイヌの叙事詩の一つであるユーカラにもウパシクマという単語がたびたび現れ、「ウパシクマにあるから……」と言って、人間としての行動指針とされることも多かったとされます。ユーカラとはアイヌに口承されてきた叙事詩で、棒で拍子をとり、節をつけて語られるものです。江戸時代になると、ユーカラは蝦夷浄瑠璃などと呼ばれ、物語を神秘的にし、幾晩にもわたって語られたのですが,この長大なユーカラも変容を重ね,従来の形を保持している伝承者は数えるほどになってしまいました。
北海道の沙流郡(さるぐん)平取町に、二風谷(にぶたに)という所があります。二風谷は、2010年10月1日現在の人口が395人で、人口の過半数をアイヌの人が占めており、北海道内でアイヌの人の比率が最も高い地域とされています。アイヌ語による地名はニプタニですが、19世紀初頭の史料においても確認できる地名です。このアイヌの最後の伝統的シャーマンと言われたのが、今は亡くなりましたが、アイヌの人で、日本名・青木愛子さんです。 ところがこの 愛子さんが述べ、長井博氏が記録した『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ〜伝承の知恵の記録』という本が出版されていたのです。
この本によりますと、驚くべきことに、この愛子さんに継承されてきたというウパシクマの秘伝は、宝暦六年(1756)、フィリピンのパギオに住んでいたイゴロット族の聖地アシュラム(精神的な修行をする場所)から始まったものというのです。愛子さんは、1914年に生まれ、1995年に亡くなっています。彼女は、古代から継承されてきた産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そして何でも見えるウエインカラ、千里眼を持ち、シャーマン的な役割を担ってきた方です。彼女のウエインカラは、初対面の人と対座した時ばかりでなく、電話での話し相手でも、その人の過去と未来がわかる特殊な力を持っていました。 現代でも、フィリッピンにトニー・アグパオア (1932〜1982) という人が現れて、彼の行うメスを使わず素手での手術の様子が、TVでも放映され、その手術の真偽が世界的な話題になったこともありました。
この南の島からの秘伝と聞くと、ハワイ先住民の呪術師、カフナたちが行っていた秘術として知られているホ・オポノポノ、 告白による和解と許しの習慣 と、アイヌ人の間には何か共通点があるのかも知れません。ハワイ先住民の間には、エジプトのピラミッド文明時代、国内情勢が悪化したため、『呪術の秘法』を守るためエジプトを脱出してポリネシアに辿り着いた民だという伝説があるのです。またこの説によると、カフナ12部族のうち10部族が、インド洋経由で各地に秘術を広げたのですが、途中で日本にも渡り、古神道の呪術の基礎を教えたというのです。時代が異なる話ですが、イスラエルの12部族のうち失われた10部族のことを考えると、この数字はただの偶然なのか、それとも何らかの意味があったのかも知れません。また環太平洋文化圏、そしてここに広がる刺青の風習も気になります。
この『 アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ 伝承の知「恵の記録」』から、一部をそのまま転載してみます。
『青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて来た産婆術、診察、治療のための特殊な掌、薬草、整体手技、あるいはシャーマンとしての技量をも駆使して、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍した。本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見て、その言葉の一つ一つを丹念に記録した、アイヌの信仰と文化の実態に迫る伝承の知恵の書です。
初代の産婆は1756年(宝暦6年)頃、現在のフィリピン共和国・バギオシティー、ラクナムの地、ルソン島北部山岳地方を支配したイゴロット族の聖地アシュラムで生を享けている。この初代に産婆や薬草等の治療の技術、及び信仰について授けたのは、アシュラムの開祖であるティエンチンイー(天静一)という名前の男性であった。降霊現象であるツスの中で、初代が名乗っている。天静一の名は、実は初代その人の名前ではないことがはっきりした。初代はツスの中で、自分の名前を名乗っていないというのが事実である。天静一は、中国人名のようだが、現在までの筆者の調査によっても、その出身地は不明のままになっている。現在までに判明していることは、船でルソン島に渡りついた異国人である。薬草その他の治療の技術にすぐれた男で、彼が瞑想の地と定めて住みついた場所が、後にアシュラムと呼ばれるようになったようだ。この地方はイゴロット族の居住域で、天静一はイゴロット族を中心にして周辺の少数民族の畏敬を集めた人物であったようだ。
初代の産婆はそのアシュラムから北海道まで渡って、シトシというアイヌレヘ(アイヌ語名)の日本人と結婚している。シトシはコタン(村)の人々をトバットミ(強盗集団)から護る役目等を持ち、初代の方は産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしながら、夫婦で北海道各地のアイヌコタンを巡回した。
初代が81歳の時に訪れたヤマモンベツコタン(現・沙流郡門別町庫富)が最後の地となる。初代は、アトイサムという名のシャモの老婦人のチセ(家)に身を寄せている内に急に容体が変化し、お世話になったその老婦人にテケイヌ(診療・治療のための特殊な能力を持つ掌)を継承して他界した。この時、初代を追って来ることになっていた夫のシトシは、まだコタンに到着していなかった。この時の老婦人、シャモの女性が二代目継承者になるのであるが、初代との間には血縁関係のないことを、念を押しておきたい。
この二代目アトイサムは出生地不明、1775年頃に生を享け、1855年頃に他界したようだ。初代からの教育的伝承はほとんど受けておらず、カムイノミ(神儀)の儀式的な継承のみであった。アトイサムは自分の子供に継承せずに、1851年頃に生れたまだ幼ない孫に三代目するカムイノミを行ない、他界している。やはり実践教育的な継承の期間が、ほぼなかったといえる。
三代目ハイネレの夫はアイヌ語名・門別アンリケチュウという名で、比較的若くて他界したと伝えられている。シャモであったようだ。四代目は、三代目ハイネレの第二子長女・ウコチャテクが継承して、20歳頃に13歳年上の貝沢ウトレントクと結婚している。ウトレントクの父親はウカリクン、母親はシュトラン、祖母カシテクン、二風谷地方の古いニシバの家系であったようだ。
五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。以上を簡単に整理すると、青木愛子に伝わるアイヌイコインカル、助産術などは、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになる。アシュラムの方にはヒーリング(心霊技術)が歴代継承され、既に他界したが、トニー・アグパオアが現れて、その手術の真偽が世界的な話題になったようだ。真偽の問題を論ずる趣味は筆者にはないが、聴診器も注射もメスも使わずに手当てを行なう特殊な掌をアイヌ語でテケイヌと呼ぶことを報告しておきたい。
二代目、三代目はヤマモンベツコタンに、四代目、五代目は二風谷に定住した。初代以降五代目まで、アイヌの信仰と文化の中で人生を送っている。しかし、アイヌと結婚した者は、現在までの調査では四代目ウコチャテク一人が判明しているだけである。』ここまでが、『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ 伝承の知恵の記録』からの引用です。
以上を簡単に整理してみると、青木愛子さんに伝わるアイヌイコインカル(助産術)やテケイヌなどは、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになりますが、判りにくい点がありますので、私なりに整理してみます。
最初にウパシクマを初めた人の名は明確になっていませんが、天静一 (テンシンイチ) を名乗っていて、初代に教えたのかも知れません。天静一は、その名からしてフィリピンに渡った中国人らしいのです。
初代の名は分かりませんが、宝暦六年(1756)フィリピンに生まれ、北海道に渡りました。そしてシトシという人、しかしアイヌ語名アイヌレヘという日本人と結婚、1837年に奇遇していたアトイサム家で81歳で死去したとされます。ところがこのような話が、日本にありました。『 伊豆諸島は造物主事代主命の一族と、その八人の妃によって領有された。事代主命は三宅島に宮居を定められたが、その地で崩じた。妃の一人、八十八重姫(やそやえひめ)は八丈島に渡り宝明神を生み、この二方が八丈島を繁栄させた』というものです。この八十八重姫は、 事代主神の妃で、またの名が 優婆夷大神というのだそうです。
二代はアトイサム(1775〜1885)が継承しましたが、初代との血縁関係にはありません。
三代のハイネレは1851に生まれていますが、亡くなった年は分かりません。日本人のアンリケチュウと結婚しましたが、二代アトイサムの孫と推測されます。
四代のウコチャテクは1875年の生まれですが、やはり亡くなった年は分かりません。三代ハイネレが24歳の時の生まれと推測されています。ハイネレは13歳年上でアイヌ伝統工芸の名工と言われた、日本人の貝沢ウトレントク(1862〜1914)と結婚しています。
五代 青木愛子1914〜1995、四代ウコチャテクと貝沢ウトレントクとの娘で、ウコチャテクが39歳の生まれと推測されます。
このように出産の技術が、あたかも父子相伝のようにして現代にまで伝えられてきたということは、ウパシクマは、特殊な出産の技術を持った人の称号であったようにも見えます。
これらの状況を見てみますと、 ウパシクマそのものの 疑問は、初めの段階からあったと思われます。時代が違うとは言いますが、 初代が フィリッピンから どうやって北海道を目指し、 しかもどうやって辿り着いたのかが分かりません。但しこのフィリッピンから来たという話が、ユーカリ、つまりアイヌ民族の神話、もしくは話を神秘的にする伝承であったと考えればいいのかも知れません。 しかしこれらの疑問が解決されたとしても、 何故ウパシクマの説明文が根木屋に書かれたのか、という疑問が残ります。北海道から根木屋までは、遠いのです。しかもこの周辺に、アイヌが住んでいた、という記録はないのです。
さて現代に、話が飛びます。いま 長野県安曇野市穂高有明に、『 助産院ウテキアニ』を開いている 高橋小百合 ( たかはし さゆり ) さんという方がおられます。 助産院ウテキアニ は、 アイヌの伝統的な産婆でシャーマンの青木愛子さんから 小百合さんが 頂いた名前です。 青木愛子さんは、お産のことを述べた『ウパシクマ〜伝承の知恵の記録』という本の『あとがき』で、こういうことを言っています。「ウパシクマっていうのは、ほんとうに本当の話なんだからね。昔からアイヌが現実にやってきたこと、起きたことの話なのよ」と。ユーカラとか、 アイヌに伝承される口承文芸の ウエペケレみたいな創作されたものではないんだと、愛子さんは言っているのです。 いずれにせよ、 宝暦六年(1756)の頃 アイヌ民族に伝わったとされる 産婆や子育ての技術が 、現在の 長野県安曇野市に伝えられているのです。するとこのように、その昔、根木屋の誰かが 、北海道のウパシクマを知って習いに行ったと考えたいのですが、しかしそれもあり得ないことです。 このようなとき、西田町史談会長の今泉さんから、小林剛三先生著、『郡山地方の奪衣婆及び閻魔像』という論文のコピーが送られてきたのです。
それによりますと、ウパシクマの案内板のある所の像には、文政十一年(1828)子十月吉日に建立された奪衣婆とありました。しかも郡山市内だけで26体もの奪衣婆があるのですが、ウパシクマの表示があるのはここだけなのです。では奪衣婆とは、何なのでしょうか。奪衣婆とは、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆で姥神(うばがみ)とも言われ、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆で獄卒の鬼よりも大きく、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏とされています。剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんいおう)という鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられ、その亡者の衣の重さによって生前の業(ごう)が現れ、死後の処遇を決めるとされています。
奪衣婆は、女性講中によるものですから、安産、子安祈願によるものであることが推測できます。しかし奪衣婆は、三途川で服を剥ぎ取るという立場にあるにも関わらず、安産・子育ての福をもたらす姥神と習合していったものと思われます。そして根木屋の縁起には、『優婆夷(うばい・うば様)』とあるのです。このような優婆夷の像は、当時の各村や集落に一体ずつあったのではないかと考えられ、それは郡山という比較的狭い地域にこれだけ多くの像が作られていたことで、証明できるのではないかと思われます。中田町高倉にある奪衣婆が、享和元年(1801)に建立されていますから、これが市内最古のものと思われるのですが、数が多い割にはほとんどの人に知られず、聞き取りも得られず、判断に苦しみます。
仏教において、出家をした男性信者を比丘と言い、女性信者を比丘尼と言うのですが、在家信者の場合、男性がウパーサカ、女性がウパーシカで、それぞれの漢語の音訳は、優婆塞 ( うばそく ) と優婆夷 ( うばい ) です。意訳は信士 ( しんじ ) と信女 ( しんにょ ) になりますが、これらの文字は、戒名に使われます。
ところで根木屋の案内板に出ていた優婆夷(ウパシクマ)は、サンスクリット語のウパーシカの音を写したものとされ、語音の似ているのが面白く感じられ、またウパシクマのウパは姥神に通ずるのではないか、と思えるのです。そこで立石の案内板を再読してみました。そこには、『アイヌ語の産婆(ウパシクマ)お産の神 ( ウワリカムイ ) に当たる民間信仰』とありますから、ウパシクマが根木屋に来たと言ってはいない、と思いました。するとこれから考えられることは、ウパシクマはアイヌ語としてではなく、仏教によるものと考えた方がいいのかも知れません。この優婆夷が安置されている大きな 岩は、地元の人たちの信仰の原風景であったのかも知れません。
この結果を持ち、再び今泉さんを訪れたときに、今までに感じてきた疑問を投げかけてみました。すると今泉さんは、「恐らくあの案内文は、誰かの思いつきで書かれたのでしょう。それで間違いはないと思います」と言われたのです。どうぞ皆さんも、考えてみて頂けませんか。
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