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寛永十八年(1641年)正月二十九日夜の十二時頃,日本橋桶町(現・中央区八重洲二丁目辺)から出火し,三十一日の夜になって鎮火しました。桶町火事と言われたこの火事で、焼失した町は97町、家屋1924戸、そのうち武家屋敷が121、同心屋敷が56で、数百人の焼死者を出しました。そこで幕府は、6万石以下の大名から火消し役を選んで『大名火消し』を編成する一方で、大名たちは自分たちの屋敷を守ろうとして、自衛組織を立ち上げました。これは『各自火消し』と言われました。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言われていましたが、考えてみれば、当時の生活の多くが火に頼っていたのです。明かり、炊事、暖房の全てが火であり、その上、家屋が木と紙で出来ていた江戸の町並みであれば、どこの家が火元になっても、おかしくはなかったのです。
ところで「火事だ!」ともなれば 当の屋敷内からの出火であれ、隣接の屋敷からの失火であれ、火消し衆が自由に屋敷内に立ち入る必要があります。ところが、当の屋敷の門番は他の介入を拒んで、あくまでも治外法権という自律性を守ろうとしたのです。それでも、ボヤ程度の火事であれば、『各自火消し』の活動によって屋敷内で消し止め、外部を騒がせることもなく終るのですが、問題は外部に延焼するような火事や、外部から類焼の恐れがある場合です。当然、自分の屋敷内だけでは収まりませんから、『大名火消し』が駆けつけて来ます。そこで『大名火消し』が屋敷内の火事の現場に入ろうとすると、これを門の中へ入れまいとする屋敷の番人が棒を持ち、槍襖を作って構えるという緊迫した状況になることもあり、火消し側と屋敷側との間で、まかり間違えれば戦闘状態にまで発展することがあったのです。例えば、元禄三年(1690年)三月のある武家屋敷の火災の夜、『大名火消し』が現場の屋敷に入ろうとしたところ、屋敷を預かっていた松平小太夫の家来たちは門を閉じて中に入れず、仕方がなく『大名火消し』の一隊が門を打ち破ろうとすると、門内から槍が突き出されたと言うのです。小太夫の家来は、後日手打ちになったと記録されているそうですが、同じような緊張状態は程度の差こそあれ、しばしば見られたというのです。
明暦の大火後、下町(中央区)の23町が自主的に火消し組合を作りました。『大名火消し』は、江戸城や武家屋敷を守ることには熱心でも、町方の火災には冷淡であったことを身に滲みて感じていたからです。亨保五年(1720年)南町奉行の大岡越前守忠相 ( ただすけ ) は、名主たちの意見を参考にしながら、いくつかの町を『組』としてまとめ、『いろは47組』を設けたとされます。各組では独自の纏 ( まとい ) と幟 ( のぼり ) が作られ、火事場での目印にするとともに、組のシンボルとして扱われるようになります。『いろは47組』が担当したのは隅田川の西で、本所や深川などの隅田川の東には別に16組設けられました。当初は町屋に限り出動していた『いろは47組』でしたが、やがて武家屋敷や江戸城の消火にまで出動するようになり、消火後の火事場には、組名を書いた木札が竿の先に吊り下げられました。これはあとで、報奨の出る時の証拠となったのです。
前の年に起こった、いわゆる『八百屋お七』の大火の記憶も生々しい天和三年(1684年)になると 門を隔てて内と外とのやりとりにおいて変化が現れます。すなわち火災が生じた場合、門を閉めるというのは前の通りですが、その後『大名火消し』がやってきたら 門へ迎えに出て、「早々に入れ申すべきこと」と定められたのです。火事を理由とした幕府の屋敷内に対する介入の強化は、放火犯の検挙にも現れます。この年、幕府から放火犯およびそれと紛らわしい者が 屋敷内を徘徊していた場合には、例えそれが、どこかの藩の家来であったとしても、幕府が直接、取り調べにあたる旨が達せられたのです。藩による自分仕置きが、否定されたのです。こうした傾向は、次第に強化されていったのです。
延宝四年(1676年)四月十一日の早朝、守山藩の屋敷の坊主部屋脇の雪隠から、 煙が細く立ちのぼっているのを祐筆が発見しました。祐筆は坊主に知らせたのち 横目方に注進、横目の当番が立ち合って消火に当たりました。失火といってもほんのボヤだったのですが それ以後は 雪隠に灯りを置くことを固く停止するとの札が建てられ、ただでさえ暗い雪隠には、防火という最重要テーマのために灯りを消して用を足すことになったのです。これより先の寛文十年(1670年)にも、台所の竃が焼けて板敷き6〜7寸四方焼けるという失火事件が起きたのですが、いち早く消火にあたった足軽には、褒美が与えられました。ところがその前年、手代の堤仁左衛門は、自分が管理責任を負っていた厩舎用の藁置場から火が出たことを気に病み、屋敷の塀を乗り越えて逃げ出し、旦那寺に駆け入りしました。ボヤを消し止めて褒美をもらう者が居れば 不注意で火を出して夜逃げ同様に屋敷を立ち去る者もいたのです。ところで屋敷の側は、屋敷の内の失火にだけ注意すればよいというのではもちろんありません。近所で火の手が上がって火災が広がれば 屋敷も類焼をまぬがれないであろうし そうでなくても守山藩の屋敷のある地域は、護国寺(文京区大塚)、傳通院(文京区小石川)、白山御殿(文京区白山)など、将軍家ゆかりの施設が散在していたため、いわば防火重点地区の指定を受けていたのです。
その後、守山藩の屋敷には、『火事有る時の次第』という文書が残されているそうです。現代文に直してみます。『大名火消し』がやってきたら、ひとまず屋敷に立ち入ることはお断り申し上げ、それでも、どうしても入ろうとするなら、大層取り込んでおりますので、外から表長屋へ梯子をかけてくださるよう、かねてより藩主より申し付けられております と挨拶するようにというのです 表長屋へ梯子を掛けて人を上げるということ自体の 具体的情景が 今一つ明瞭ではないのですが 要は『大名火消し』が屋敷に入ろうとしても体よく断り、入れないようにせよと定めたものと思われます。ここには、屋敷内空間の自律性と不可侵性を守り抜こうとする姿勢が 顕著に現れていると思われます。(氏家幹人著・江戸藩邸物語より)