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10「義昭の追放、室町幕府滅亡」しかし、勝者である信長は敗者である義昭を殺害したり、将軍であるその地位を剥奪したりはしなかった。信長は「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌った、などの説がある。信長は「怨みに恩で報いる」と言ったとされるが、20日、羽柴秀吉に命じ、義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に送り届けさせた。現在の歴史学では、この際に室町幕府は(実質的に)滅亡した、と解釈されることが多い(但し前述の通り、義昭自身はなおも征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階すらも保ったままであった)。11月16日に若江城の戦いで義継が信長に討たれた後、義昭は僅かな近臣と共に堺、次いで紀伊へと流浪・亡命し、後に毛利輝元を頼って備後鞆(鞆幕府)にまで落ち延びることとなる。 〇若江城の戦い(わかえじょうのたたい)は、天正元年(1573年)に河内国若江城で行なわれた織田信長軍と三好義継軍の合戦である。 元亀4年(1573年)4月に武田信玄が死去すると、信長包囲網は織田軍の反攻を受 て一気に瓦解し、朝倉義景や浅井長政らは信長に討たれ、信長包囲網の黒幕である 町幕府第15代将軍・足利義昭は京都から河内の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追 放された。 しかし義昭は追放されたにもかかわらず、諸国の大名に対して信長討伐令の御内書を乱発し、義継も義兄に当たる義昭に次第に同調する動きを見せた。このため、信長は天正元年(1573年)11月4日に上洛し、義継の討伐を決めたのである。 若江城の戦い三好氏ではこの頃、内紛が起こっていた。義昭に同調して信長に反抗的な姿勢を見せる義継に対して、家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆らは信長の実力を恐れて信長に誼を通じ、義継にも信長への従属を勧めていた。このため義継はこの3人を遠ざけ、寵臣の金山駿河守武春を家老にして反信長の姿勢を固めていた。 そして信長が派遣した佐久間信盛率いる大軍が若江城に攻めてきた。義継は籠城して迎え撃ったが、肝心の義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡したために士気が奮わず、さらに主家が滅ぼされることを恐れた若江三人衆が金山駿河守を殺害し、佐久間の軍勢と内通して城門に引き入れてしまった。このため、義継の敗戦は決定的となった。 義継は妻子一族を自ら殺害し、10日以上も奮戦したが、11月16日に近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自害した。 「三好左京大夫(三好義継)殿非儀を相構へらるるに依つて、家老の衆多羅尾右近(常陸介)・池田丹後守(教正)・野間佐吉(長前)、両三人別心企て、金山駿河万端一人の覚悟に任せ候の間、金山駿河を生害させ……(中略)……天主の下迄攻逃候処、叶ひ難く思食し、御女房衆・御息達皆さし殺し切て出、余多の者に手を負せ、其後左京大夫殿腹十文字に切、比類なき御働き、哀れなる有様なり」(信長公記) この後、信長は8月に淀城で三好三人衆の1人岩成友通を討ち取り(第二次淀古城の戦い)、越前に出陣して朝倉義景を討ち取り(一乗谷城の戦い)、直後に北近江へ向かい浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。武田信玄は死亡し武田軍は撤退、三好三人衆の残る2人三好長逸、三好政康は行方不明、松永久秀、本願寺の総帥たる顕如は信長と和睦し、ここに信長包囲網は瓦解した。了
2024年08月31日
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8「再挙兵までの出来事」信長はそのまま岐阜城には帰らずに近江・百済寺付近へと向かい、近辺の六角義賢が立てこもっていた鯰江城を攻撃した。信長は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家に命じて六角氏を城に追い詰めると、周囲に砦を築いて包囲した。このとき「百済寺が鯰江城を支援している」という情報を聞いた信長は、4月11日に百済寺に放火して全焼させると、その日のうちに帰還して岐阜城に到着した。翌日の12日、武田信玄が信濃駒場で病死、信玄の死は伏せられていたが、武田軍は本国の甲斐に退却帰還した。4月13日、義昭は二条城は安全でないと考え、自身は内藤貞勝の丹波の城(八木城)に移り、内藤如安を二条城に入れようと考えた。 〇「内藤 貞勝」(ないとう さだかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。丹波国八木城主。 丹波内藤氏は代々丹波守護の細川氏に仕え守護代を務めていた。 天文22年(1553年)、香西元成・三好政勝が内藤氏の八木城を攻め父・内藤国貞を討ち取った。この時、湯浅宗貞が千勝丸(貞勝)を園部城に匿い松永長頼が来るまで持ちこたえたとされる。その後、八木城は松永長頼により奪還され、その後見の許、内藤家の跡目は貞勝に継承された(湯浅文書)。 永禄8年(1565年)8月に松永長頼が戦死すると、長頼の子である内藤如安こそ城主とすべき派と、貞勝の擁立を目指す一派とで内紛が起こったという。最終的に貞勝が八木城主となり、如安は執政の立場となる。 天正元年(1573年)3月、織田信長と将軍・足利義昭との間で起こった槇島城の戦いでは、内藤如安が幕府方として2千の兵を率い入城している。天正3年(1575年)6月には織田信長は、内藤や宇津討伐の兵を挙げ、並河易家、川勝継氏、小畠左馬介らが動員されたが、同年10月の黒井城の戦いで明智光秀が敗れてこの討伐は失敗した。 しかし、天正7年(1579年)に八木城は落城し、戦国武将としての内藤氏は滅亡した。如安は「軽々しく動くことは怯懦」で義昭の評判を傷つけると意見し、一方で再び信長を敵とするべきではないと進言。義昭はこの意見を受け入れず真木島昭光の槇島城に移ろうとしたが、如安が説得して取りやめになった。5月22日、信長は「義昭が再び挙兵した際には瀬田のあたりで道を塞ぐ」と予想し、大軍を湖上輸送するため、佐和山で大船の建造を開始した。全長30間×幅7間(約54m×約12m)、艪が100挺、船首と船尾に櫓(やぐら)を備えた頑丈な船、という日本史上にも過去に例を見ないほどの巨船であった。信長が大工の岡部又右衛門を棟梁に任命し、自身も佐和山に滞在した。 〇「岡部 又右衛門」(おかべ またえもん、生没年不詳)は、室町時代から安土桃山時代の番匠。正七位上修理亮の官位を得たという。諱は以言、吉方とも伝わる。 尾張の大工で、熱田神宮の宮大工の棟梁。『岡部家由緒書』に拠れば、岡部家は室町幕府将軍家の修理亮を勤めた家柄とされる。 天正元年(1573年)に近江・佐和山の山麓で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍船を建造(『信長公記』巻六)。天正3(1575年)、信長の熱田神宮造営に被官大工として参加した。 安土城築城では大工棟梁として、5重7階の天守造営を子の岡部以俊(岡部又兵衛)と共に指揮し、その功により織田信長より「総大匠司」の位と「日本総天主棟梁」の称号を与えられ小袖を拝領した。 本能寺の変の際、本能寺に信長と同宿しており、以俊と共に戦死したとの説があるが、変後は織田信雄に仕え、天正11年(1583年)8月27日に尾張国中島郡赤池郷を、さらに9月17日に熱田にて200貫文の地を宛がわれている(張州雑志・分限帳)。没年は不明だが、死後に以俊の子の宗光が相続し、「岡部又兵衛」を名乗った。 なお、現在の名古屋市熱田区にあった岡部屋敷跡には名古屋市教育委員会によって史跡表札が立てられている。 9「槇島城の戦い」7月3日、義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)、伊勢貞興らの他日野輝資、高倉永相などの武家昵近衆を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。 〇「三淵 藤英」(みつぶち ふじひで)は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。異母弟に細川藤孝。初名は藤之、のち藤英。「藤」の字は将軍・足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったもの。 永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が永禄の変で三好三人衆に暗殺されると、藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡・覚慶(足利義昭)を、監禁されていた興福寺から一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に救出し、擁立して近江国矢島にて還俗させる。そして越前国の朝倉義景を頼り、ついで織田信長を頼った。 義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられた。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政・伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となる。永禄11年(1568年)に大和守に叙任。 だが、義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝の居城である勝竜寺城を襲撃する計画を立てるが失敗する。元亀4年(1573年)7月3日に義昭が挙兵するとこれに従った。義昭自身は巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、藤英は二条城を任されて、奉公衆の伊勢貞興らの他、日野輝資・高倉永相などの武家昵近衆などと共に籠城した。しかし、信長の大軍に囲まれると7月8日には藤英以外の主要な人物は皆退去してしまい、一人藤英とその軍勢だけが二条城に籠る事態となり、ついに柴田勝家の説得を受け入れて7月10日に降伏した。 降伏後、藤英は居城の伏見城に戻ったが、その目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落し(槇島城の戦い)、降伏した義昭は信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。これにより藤英も信長に仕えることとなり、早速、いまだに淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に言われ、藤孝と共にこれを陥落させ8月2日友通を討ち取った。 翌年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、嫡男の秋豪と共に坂本城で自害を命じられた。 次男の光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕える。後に田辺城の戦いにおいて、光行がよく叔父を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて旗本として召しだされた。一方、弟の長岡義重は三淵の名跡を継ぎ、細川氏に仕えた。対する信長は5日に大船が完成した機会を捉え、翌6日に大船で琵琶湖を渡って坂本城に入り、7日には京・妙覚寺に布陣して二条城を包囲。翌8日には信長の勢威を恐れて三淵藤英を除く武将や公家衆は皆退城してしまい、藤英のみが立て籠もっていた。しかし、10日藤英は柴田勝家の説得を受け入れ、二条城を開城した。7月16日、信長は続いて槙島城へ進軍し、五ケ庄の柳山に布陣。眼前を流れる宇治川の水量はかなりのものだったが、信長は「引き伸ばすようなら自分が先陣を切る」と言い、宇治川の戦いの先例にならって二手に分かれて河を渡ることと決めた。7月18日午前10時頃、織田軍は作戦通りに川を渡ると、しばし休息し、槙島城のある南向きに隊列を整えた。城から足軽が出てきたが、佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、織田軍は城を包囲した。城は壁を破られて放火され、義昭は嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。
2024年08月31日
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7「上京焼き討ち」信長は和睦交渉を続けつつも、上京と下京への焼き討ちを命じた。驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京の市民を気遣い、銀を受け取らずに焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さなかった。4月2日、信長は柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・中川重政・明智光秀・荒木村重・細川藤孝ら7人に7000~8000の軍勢を預け、市外に放火させた。 〇「佐久間 信盛」(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。 尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれ、織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時を守山城に置く際に城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。 信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦に参戦した。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、戦後に鳴海城を与えられた。永禄11年(1568年)の近江国の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげた。 吏僚としての活動も見られ、永禄10年(1567年)に徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任された。翌永禄11年の信長上洛後には畿内の行政担当者の1人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方に付けている。浅井長政が信長に敵対した直後の元亀元年(1570年)5月、近江永原城に配置され、柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い、志賀の陣にも出陣している。 元亀2年(1571年)8月、松永久秀が白井河原の戦いで敗死した和田惟政の居城・高槻城を接収しようとしたが、信盛が交渉を行い撤兵させている。9月、比叡山焼き討ちで武功を上げ、知行地として近江国栗太郡を与えられた。11月には松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させたという。 元亀3年(1572年)4月、三好義継と松永久秀・久通父子が畠山昭高の交野城を攻囲したため、交野城の救援として派遣され敵勢を退散させた。7月には小谷城の城下町を攻撃。10月、武田信玄が織田家への敵対を露わにした際には、岐阜城に2,000余りの兵と共に留守居として入り美濃の守備を固めている。11月には平手汎秀・水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に派遣されるも、信盛は27,000の武田軍を目の当たりにして、ほとんど戦わずして、遠江と三河の国境にある浜名湖付近の今切まで退却した(三方ヶ原の戦い)。 天正元年(1573年)4月、信長の名代として織田信広、細川藤孝と共に二条御所に派遣され、将軍・足利義昭と和睦の交渉を行った[5]。同月、柴田勝家、丹羽長秀、蒲生賢秀と共に、六角義治が籠城する鯰江城攻めを命じられ、四方に付城を築いて攻囲した。 8月、一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。その際、信盛は思わず涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と口答えをしてしまった為に信長をさらに怒らせ、厳罰を命じられそうになる。他の家臣達の取りなしでその場では辛うじて処罰は免れたものの、信長からは相当根に持たれる事となり、後に突きつけられた折檻状の19ヶ条の中に上記の一件も加えられている。 その後は六角氏の菩提寺城を攻略し、続いて六角義賢が籠る石部城を包囲。11月には足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を攻め、自害に追い込んでいる(若江城の戦い)。 天正2年(1574年)2月、武田勝頼が軍勢を率いて明知城を包囲した際には、尾張・美濃衆を率いて援軍として派遣された。この時期、信盛は対武田氏における司令官であったと考えられている。4月、前年から包囲を続けていた六角義賢の石部城を攻略、信盛の軍勢が入城した。7月には長島一向一揆攻めに参陣、松之木の渡しを押し渡り、馬上から数多くの一揆勢を切り捨てた。 天正3年(1575年)3月、徳川家康のもとへ派遣され、長篠城等の武田・徳川領国の境目の城々の検分を行った。4月、信長に従って三好康長が籠る高屋城や新堀城を攻撃し、降伏に追いこんだ(高屋城の戦い)。5月には長篠の戦いにも参陣した。6月、奥三河の武節城を陥落させ、奥平定能・信昌父子に城を預けて織田信忠の岩村城攻めに援軍として加わった。8月には転戦して越前一向一揆征伐に参加。11月、嫡男・信忠に家督と岐阜城を譲った信長を自らの館へと迎え入れている。 12月、信盛は与力の水野信元が、前月に降伏して処刑された武田氏の秋山虎繁と内通し、兵糧を密かに虎繁が籠っていた岩村城に流していたとして信長に訴えたという。信長はこれに怒り、信元の甥である家康に信元を殺すように命じた。これにより信元は石川数正に三河大樹寺に誘い出されて平岩親吉によって養子の信政共々暗殺された。こうして信元の所領と居城であった刈谷城は信盛の直轄領に組み込まれた。 天正4年(1576年)1月、織田信忠が千秋季信に熱田大宮神職を与えた文書に息子の信栄と連署で副状を発給している。ほかに同様の事例が見られないことから当時、信忠を補佐する立場にあったことが指摘されている。5月には石山合戦の一環であった天王寺の戦いで石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政が戦死したことを受け、信忠の補佐役を離れて対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。 天正6年(1578年)、与力の若江三人衆・多羅尾綱知が三箇城主の三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じて謀反を企んでいるとの噂を広めた。これを知った信長は激怒して三箇頼連を捕縛させたが、信盛がその無実を訴えたため頼連は許された。しかし多羅尾綱知は執拗に三箇父子を讒言したため、信長は信盛に頼連を誅殺するよう命じたという。この時も信盛が信長を説得して翻意させたため頼連は救われた。 同年9月30日、信長は堺に赴いて第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破った大船を見物し、その帰りに津田宗及邸での茶会に参加した。
2024年08月31日
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6「二条城の戦い」ここでついに足利義昭自身が松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と信長と戦う姿勢を見せた。これを受けて、京には次のような落首が立てられた。「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」(信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(=花の御所。将軍を暗示)を打つ音がすることだ)3月11日には、高山友照に斬られた高槻城主の和田惟長が三淵藤英の伏見城に逃げ込むという事件が起きている。3月25日、信長は足利義昭の兵を討つため岐阜を出陣した。しかし京では「武田信玄は3~4万人を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は"もし信長が京にくれば2万人を率いてその背後を襲う"と公言している」「三好軍と石山本願寺勢の計15000人が京に向かっている」「赤井直正が義昭方として京に出陣する」などの風説があり、京の人々は信長が京に進軍して来ることが可能であるとは思っていなかった。3月27日、京に「信長はすでに近江に来ており、近いうちに京にやってくる」との報が伝わり、京の町は混乱に陥った。義昭はすぐに奉公衆など5000人(うち鉄砲兵1000人)、摂津衆、丹波衆、宇津頼重、内藤如安等1700~3000人[7]を二条城に引き入れた。3月29日の午前9~10時頃、信長は自ら10~12騎ほどの供を連れて先陣を切った上で、5,000~6,000騎を率いて京の市外4分の1里ほどの地点に現れた。正午頃、信長と明智光秀の調略を受けた荒木村重・細川藤孝が到着。両名は逢坂で信長を出迎えた。こうして信長の軍勢に約10000人(荒木勢4000~5000、細川勢、および後続の織田勢)が加わり、織田軍は合計15,000~16,000人ほどとなった。信長勢は東山・知恩院に布陣し、配下の諸隊は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・竹田などに布陣した。信長は到着後、内裏に黄金5枚を贈り「安心されたし」と伝言した。敵対はしたものの、義昭は名目上とはいえ征夷大将軍であるため、世評を考慮した信長は、光秀と藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪および人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。しかし義昭はこれを拒絶し、30日には信長方の京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払った。 〇「松永 久秀」(まつなが ひさひで)は、戦国時代〜安土桃山時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(貞徳の父)。 初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。 茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。 出自と登場 永正5年(1508年)生まれ[5]。出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。長江正一は西岡出身の商人の生まれで、斎藤道三と同郷であったと断定している。 しかし、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかと思われる資料が発見[7]されたことから、同郷だと当てはめるのは困難だとされ、2012年頃からは摂津国五百住の土豪出身の説も大きくなっている。阿波国説は、同国市場犬墓村(現・徳島県阿波市市場町犬墓)旧家の由緒書に基づくが、長慶父の三好元長が阿波国から渡海し畿内入り戦闘時の史料に松永姓の武将はいないし、その諸将は後にほとんどが、三好実休に従い、阿波へ帰国しているので、史実性はなくなっている。 天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃より細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。史料における初見は天文9年(1540年)と言われている。天文9年(1540年)6月9日、長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀が弾正忠の官名で伝達している。同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったとみられる。 史料上の初見の時期からも、三好長慶が、それまでの三好勢のように、畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、越水城主として摂津下郡半国の守護になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取りたてられ活動していたと見られる。天文11年(1542年)には三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があり、この頃には官僚だけでなく武将としての活動も始めていた。長慶が細川晴元の部下であった頃から、仕えていたようだが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からである。 久秀の抜擢 松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の特殊さを表していると指摘される[。低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は他の大名家でも見られるが、上杉家は樋口兼続に直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承させ、北条家は福島(櫛間)綱成に北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与えている。滝川一益や明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、家格という観点から秩序維持の為に、光秀や丹羽長秀に惟任氏、惟住氏の名跡を継がせている。 信長の場合、彼らの出世が従来の織田家譜代を中心とする家格秩序と齟齬をきたすであろうと信長が予測し、その齟齬を未然に防ぐための措置と指摘される。 これらと比較して、三好長慶は久秀や岩成友通を登用し、彼らは三好政権で枢要な地位につくほどの重臣となったが、彼らが阿波時代からの三好譜代の名跡と家格を継承した形跡はない。これは三好家の人事登用が従来の家格秩序にとらわれないものであったことの証左と言われる。 三好長慶の寵臣時代 天文18年(1549年)、三好長慶が細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配すると、公家や寺社が三好家と折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになった。例えば、同年、公家の山科言継が今村慶満から所領の利益を押領されたため、これを回復する為に長慶らと交渉を開始するが、その際に度々交渉先の相手として久秀が登場している[16]。同年12月には久秀は本願寺の証如から贈り物を受けている。 久秀は長慶に従って上洛し三好家の家宰となり、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは永禄3年(1560年)からともされる)。 上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551年)7月14日には等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている(相国寺の戦い)。しかし、この戦で両軍の放火の為に相国寺の塔頭、伽藍などが灰燼に帰してしまう。長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年(1556年)7月とも)。同年9月には長頼と共に丹波国の波多野秀親の籠る数掛山城を攻めるが、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成に背後から奇襲を受け惨敗を喫する。この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、内藤家に混乱が生じる。その後は長頼が国貞の遺子である千勝の後見人をするという形式で内藤家を継承、丹波平定を進めていった。
2024年08月31日
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5「今堅田・石山の戦い」2月20日、信長は柴田勝家(長光寺)・明智光秀(坂本)・丹羽長秀(佐和山)・蜂屋頼隆(安土)ら四将を派遣、24日に勢田から琵琶湖を渡り、石山砦に攻撃をかけた。 〇「柴田 勝家」(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。 大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。 若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。 織田信行時代 天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し織田信長の排除を試み、弘治2年(1556年)8月に勝家は1,000人を率いて戦うが、信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前とともに、信長に礼を述べた(『信長公記』首巻)。以後は信長の実力を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用し勝家を軽んじるようになったこともあって、信行を見限った。弘治3年(1557年)、信行が又も信長の排除を目論んで謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。 織田信長時代 信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。ただし、永禄8年(1565年)7月15日付と推定される尾張国の寂光院宛に出された所領安堵の文書には丹羽長秀・佐々主知(成政の一族)とともに署名しており、この頃には信長の奉行の1人であった。 永禄11年(1568年)の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の最精鋭として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。 元亀元年(1570年)4月、浅井長政が信長から離反すると5月には六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶った。信長は南岸確保のため各城に6人の武将を配置することとし、まず江南に4人が置かれた。勝家は長光寺城に配属され、同月下旬には六角勢と戦闘となったが、佐久間信盛、森可成、中川重政と共に撃退した。6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍する。 同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し、混戦となる。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍した。『言継卿記』によると、勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻されたが、勝家が事態を重大視して信長に進言し、23日に総軍で野田・福島から退却し強行軍で同日夜半に京都に戻り、志賀の陣となる。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込む。 元亀2年(1571年)5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かう。退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、大河と山に挟まれた狙いやすい箇所で一揆勢が襲い掛かり、傷を負い勝家は旗指物まで奪われた。 すぐ、氏家直元(卜全)が交代したが小勢であり対応できず、氏家と多くが戦死する。9月の比叡山焼き討ちでは殺戮戦に加わる。 元亀4年(1573年)2月、信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻する。このため4月、信長自ら出陣し、義昭への脅しのために上京に放火させた際は勝家も参加している。なお、この時に信長は下京に対しても矢銭を要求した。この際に下京側が作成した矢銭の献金予定リスト(「下京出入之帳」)には信長個人へ献上する銀250枚に続いて勝家個人とその配下に合計銀190枚を送ることが記載されている。また、同月に信長と義昭が一時的に和睦した際に交わされた起請文には織田家の重臣として勝家は林秀貞・佐久間信盛・滝川一益ならび美濃三人衆とともに署名し、勝家と林ら3名は当時の織田家の年寄(重臣)の地位にあったことをうかがわせる。7月、義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英は二条城にそれぞれ立て籠もったが、勝家は藤英を説得し二条城を開城させた。なお、7月1日には信長は4月に下京に命じていた矢銭の献上を免除しているが、勝家は4日付でこの内容を保証する副状を下京側に発給している。その後、勝家は自身も加わった7万という人数で義昭が籠る槙島城を総攻撃し、降伏させた。義昭は追放され事実上室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国・摂津国など各地を転戦する。 天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参加したが、その際の先鋒は羽柴秀吉が務めた。 同年9月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城、酒井城を落とす。長島は大湊の船が十分確保できず退却する。2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死する。天正2年(1574年)に多聞山城の留守番役に細川藤孝に続き3月9日から勝家が入る。同年7月、3度目の最終戦の長島攻めに参軍し総員7万の大軍で兵糧攻めで助命を約束に開城したところをだまし討ちで殲滅する。三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮した。 天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取った。しかしその後の富田の態度から一揆勢は富田と手を切ることとし、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こして富田に襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となった。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を殲滅戦で平定した。9月、信長は越前国掟全9条(原書には「掟条々」)とともに勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権が与えられるが信長が帰陣すると、一揆が蜂起し、小身の簗田は抑えられず信長に見限られ尾張に戻される。 天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている。
2024年08月31日
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友通の出自は不明とされる。室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和国石上神社の摂社に「石成神社」があることから、大和出身ではないかという見解がある[3]他、備後国品治郡石成郷といった地名があることから、それらの土地の土豪との関係を推察されることが多い。『史略名称訓義』には「岩成古〔原文ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。また、京都郊外の西九条の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされる。『東寺百合文書』所蔵の三好元長の家臣・塩田胤光が発給した文書に「岩成」の名字が見える他、同所蔵の文書には、下司の「岩成」が西九条の荘園を押領したという記述も見られる。今谷明は「阿波出身でないのは確実」と断言しており[3]、いずれにしても、松永久秀と同様に畿内で登用されたと思われる。 史料における初見は天文19年(1550年)であり、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることが確認される[1]。翌天文20年(1551年)11月には、堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕えた。永禄元年(1558年)の将軍山城占拠に参戦(北白川の戦い)しており、この従軍が軍事行動における友通の初見とされる。永禄5年(1562年)に六角義賢が京に侵入した時は室町幕府13代将軍・足利義輝の警護を行った。 長慶の死後、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸、三好宗渭)として甥の三好義継の後見役を務めた。永禄8年(1565年)の足利義輝暗殺(永禄の変)を初め他の三人衆と行動を共にし、松永久秀や畠山高政としばしば戦った。 また永禄9年(1566年)には、土豪の中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城国勝竜寺城を攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出し、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えた。同時に勝竜寺城を居城とし、山城西部の西岡を支配した。これは、勝竜寺城を拠点に西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される。また、勝竜寺城も、戦の際に土豪が立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城・整備して拠点とすることで、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった。友通はそうした点から、勝竜寺城の「最初の城主」とも評される。 永禄10年(1567年)に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北(東大寺大仏殿の戦い)。翌永禄11年(1568年)に織田信長が上洛してくると、三好長逸、三好宗渭、篠原長房らと連携し、それまで敵対していた六角義賢と手を組んで強く抵抗したが、守城の勝竜寺城を攻撃され退去した(勝竜寺城の戦い)。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝竜寺城と池田勝正が籠る摂津国池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配が一定の奏功をし、土豪達が彼の下に結束していた証とされる。敗退の推移について、『多聞院日記』『言継卿記』によれば、永禄11年9月27日に友通は信長に抵抗して勝竜寺城へ籠城したとあるが、9月29日には落城している。言継卿記の翌永禄12年(1569年)の1月8日の記述によれば、勝竜寺城には細川藤孝が入城している。友通が勝竜寺城主であったこの時期には、光源院から勝竜寺城主である友通に礼物が送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている。永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。 最期 この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊頭義元、諏訪飛騨守三將)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。 三好長逸は行方不明となり、三好宗渭は既に死去していた。結果、三好三人衆は完全に崩壊した。 信長は義昭に朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、娘を人質にすることを条件に和睦しようとしたが、義昭はこれを認めなかった。信長側は「もし和解せずば兵力を尽くして来たり、都を焼き、火と血に委ねん」として、今堅田・石山砦を攻撃することを決めた。当時、京にいてこの様子を目撃したルイス・フロイスは次のように記している。「彼ら(京の市民)は、彼(信長)が公方様(足利義昭)を討伐するために軍勢を召集していると聞くや否や、急遽、わずかの地所を隔てていた上京、ならびに下京から立ち去った。一里にわたる市街の混乱や動揺する情景を眺めるのは恐ろしいことであった。すなわち、日夜見るものすべては混乱以外の何ものでもなく、人々は家財を引き、婦女子や老人は都に近接した村落に逃れ、あるいは子供たちの手を引き、腕に抱いて、どこへ行くべきか途方に暮れ、泣きながら市中を彷徨するのであった」
2024年08月31日
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4「足利義昭の篭城」一方、義昭は二条城の周囲に新たな堀を巡らし、弾薬を運び込むなどしていた。この頃、伏見城の三淵藤英が織田方についた異母弟細川藤孝の勝竜寺城を襲撃しようとしたとされる。 〇「細川 幽斎」(ほそかわ ゆうさい) / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗る。雅号は幽斎。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を逐われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。 幕臣時代 天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生。天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子となったという。しかし、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広を養父と見る説も近年有力視されている(#系譜)。天文15年(1546年)、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、藤孝を名乗る。幕臣として義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される。 永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英を始め一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。 その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。藤孝は山城国勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国や摂津国を転戦した。 信長家臣時代 義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱く節があることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡 藤孝と名乗った。 8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。 天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。 信長は正月12日付の藤孝宛ての黒印状で、知多半島で取れた鯨肉を朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝に裾分けする旨を述べており、鯨は多くの人に分ける習慣があったことが指摘されている[1]。 本能寺の変以後 天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしないところがあったとされる。 その後も光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。 幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。 慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。 幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。 忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前国小倉藩39万9000石の大封を得た。この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 また、淀城には足利義昭の重臣となった岩成友通が入っており、近江の今堅田・石山には山岡光浄院、磯谷久次、渡辺昌(宮内少輔)らを入れ砦を構築していた。 〇「岩成 友通」(いわなり ともみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。 元亀元年から「長信」の名乗りを使用している。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。
2024年08月31日
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上杉謙信へのけん制 詳細は「越中の戦国時代」を参照 元亀3年(1572年)8月には、上杉謙信を牽制するため、武田信玄は顕如に要請して越中に加賀一向一揆を侵攻させ、越中一向一揆と合流させた(越中一向一揆、尻垂坂の戦い参照)。このときの越中一向一揆は大規模なもので、勝興寺顕栄・瑞泉寺顕秀ら本願寺坊官のほかに椎名康胤ら越中の武将も参加して上杉謙信に敵対した。このため、上杉謙信は一揆の鎮圧に専念することとなり、武田氏領に侵攻する余裕は無かった。 武田信玄は同年10月には浅井氏・朝倉氏に織田信長への牽制を要請し、三河徳川領国への侵攻を開始している。 戦役[編集] 出兵・序盤 元亀元年(1570年)12月28日に秋山虎繁が東美濃の遠山氏の領地を通って、徳川家康の本拠地の三河へ攻め込もうとした。そのため遠山氏と徳川氏の連合軍との間で上村合戦が勃発した。この時、延友佐渡守は岩村城が武田方になったにも関わらず忠節を尽くしたことを信長に賞され、美濃国日吉郷・釜戸本郷を与えられた。 元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景と秋山虎繁(信友)に3000の兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の領国である三河に侵攻させた。そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日には青崩峠(または兵越峠)から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。 三河に侵攻した山県昌景は新たに指揮下に組み込んだ北三河の国人領主で、“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞に道案内(実際には貞勝の代将が奥平貞能、正貞の代将は菅沼満直)をさせて浜松方面へ進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を攻撃した。柿本城から逃れる重時を逃亡途中で討ち果たした山県勢は、さらに越国。遠江の伊平城を落として11月初旬、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流した。 一方、東美濃では同年5月に岩村城城主遠山景任が後継ぎが無いまま病いで亡くなったため、景任の未亡人で信長の叔母・おつやの方が実質的に女城主となっていた。岩村遠山氏の後継ぎとして信長は実子の御坊丸(織田勝長、当時3歳)を養子として送り込んでいたが、秋山虎繁に岩村城を包囲されて危機に陥ると、おつやの方は秋山虎繁から婚姻を条件として開城を求められ、それに応じて武田氏の軍門に下り、御坊丸を武田氏に引き渡した。11月14日に信玄は配下の下条信氏を派遣して岩村城を接収した。このことは『三河物語』にも「信玄は上方へ手引きをする者がいたので三河から東美濃へ出ることにした」と記述されている。 そして遠江に信玄本隊が侵攻すると、北遠江で勢威を振るっていた家康の与党・天野景貫は信玄の勢威を恐れて即座に降伏し、信玄の道案内を務めた。10月13日、信玄は本隊を2隊に分け、5000ほどの1隊を重臣の馬場信春に預けて只深城を攻略させて二俣城に進撃させ、残る1万7000の信玄本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城など北遠江の徳川諸城をわずか1日で全て落とした。 一言坂・二俣城の戦い 詳細は「一言坂の戦い」を参照 徳川家康としては、三河からは山県昌景が侵攻しているためにここの兵力は動かせず、遠江の兵力である8000だけで対抗するしかなかった。武田軍の半数以下である。しかし信玄の侵攻に対してこのまま動きを見せなければ味方国人の動揺は必至と見て、10月14日に家康は信玄と戦うべく出陣した。しかし太田川の支流である三箇野川や一言坂で武田軍と衝突した徳川軍は、兵力の多寡により敗退する。しかし家康の重臣・本多忠勝や大久保忠佐らの活躍もあって家康は無事に浜松城に撤退した。このときの本多忠勝の活躍は、信玄をして感嘆させるものであったと伝えられている。 詳細は「二俣城の戦い」を参照 10月15日、信玄は匂坂城を攻略した。10月16日にはすでに只深城を攻略して二俣城を包囲していた馬場信春の部隊と合流した。二俣城は遠江の中央部に位置する要衝であった。しかもその名前の如く、天龍川と二俣川が合流する二俣の丘陵上に築かれた堅城であった。城主の中根正照は兵力で圧倒的に不利な立場でありながら徹底抗戦を行ない、武田軍を苦しめた。しかし信玄の策略によって行なわれた水攻めにより水の手が断たれ、さらに三河に侵攻していた山県昌景の部隊が信玄本隊に合流するなどした。 11月下旬、織田に「武田軍が二俣城を囲んだ」という報が届いた(信長公記)。信長はすぐに佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを派遣した。 12月19日に正照は城兵の助命を条件にして開城し、浜松城に落ちていった。これにより、遠江の大半が武田領となり、また遠江の国人・地侍の多くも武田軍の味方となった。織田の援軍が到着した時、二俣城はすでに落ちており、武田軍は堀江城を攻めていた(信長公記)。 三方ヶ原の戦い 詳細は「三方ヶ原の戦い」を参照 信玄は信長と戦うまでは兵力の損耗や長期戦を嫌った。家康の居城・浜松城は東西420メートル、南北250メートルに及ぶ巨郭であり、多くの曲輪に仕切られた堅城であった。さらに徳川方には佐久間信盛・平手汎秀ら織田の援軍3000(織田軍記)~2万(甲陽軍鑑)が合流し、総勢1万1000~2万9000に増加していた。 このため、信玄は浜松城の北5キロの地である追分に進出して家康を挑発して城から誘い出した。そして12月22日に行なわれた三方ヶ原の戦いは、連合軍不利な状況で開戦され、2時間で武田軍の勝利で終わった。武田軍の死者は200人。連合軍は平手汎秀をはじめ、中根正照・青木貞治・石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このとき、家康は山県昌景の攻撃を受け、家臣の夏目吉信が身代わりとなっている間に浜松城に逃げ込んだとされる。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。 三河侵攻 三方ヶ原で勝利した信玄は、すぐには三河に侵攻せず、浜名湖北岸の刑部で越年した。刑部は三河・遠江国境から20キロ手前に位置する地点である。 詳細は「野田城の戦い」を参照 年が明けて元亀4年(1573年)1月3日、信玄は進軍を再開、遂に三河へ侵攻した。そして東三河の要衝である野田城を包囲する。 野田城は小規模な城であり、400ほどの城兵しかいなかった。城主の菅沼定盈は信玄の降伏勧告を拒絶して徹底抗戦を選択した。信玄は野田城攻めは力攻めで行わず、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させるという水攻めを行なった。2月10日野田城は降伏した。 撤退 野田城攻城戦に時間がかかった理由は、信玄の持病(肺結核、胃癌、甲州における風土病である日本住血吸虫症などの説あり)が急速に悪化したためとされるほか、松平記では信玄が野田城を包囲している際に美しい笛の音に誘われて本陣を出たときに鳥居半四郎なる者に狙撃されて負傷したという説などがある。 このような信玄の遅々とした動きに疑念をもった織田信長は、2月から反攻に転じる。重臣の柴田勝家や丹羽長秀・蜂屋頼隆・明智光秀に命じて2月26日に近江石山城の山岡景友を降伏させ、2月29日には今堅田城の六角義賢らを討った。
2024年08月31日
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元亀2年(1571年)1月、信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通を遮断・妨害した。6月11日、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させた(『顕如上人御書札案留』)。7月に六角承禎が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を送っている(『田川左五郎氏所蔵文書』)。8月、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き討ちした。 元亀3年(1572年)7月、信長は小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備しはじめた。これを見た浅井氏は朝倉氏に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と虚報を伝え、義景はこれを信じて支援に赴いた。しかし義景は攻勢には出ず、織田軍から散発的な攻撃を受けると、前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返った。9月には砦が完成。信長は再び日時を決めての決戦を申し入れてきたが、義景はまた無視した。9月16日、信長は砦に木下秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。 10月、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍は次々と城を奪われた。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている。これを受けて信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。12月3日には部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる(伊能文書)。 元亀4年(1573年)2月16日、信玄は顕如に対して義景の撤兵に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。3月に義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが(耶蘇会日本年報)、義景は動かなかった。 4月12日、朝倉家にとって同盟者であった武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった。 一乗谷炎上 詳細は「一乗谷城の戦い」を参照 天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に侵攻する。これに対して義景も軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。 8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。信長の奇襲により、朝倉軍は敗退して砦から追われてしまう。8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になった。このため、義景は越前への撤兵を決断する。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。この田部山の戦いで朝倉軍は敗退し、柳瀬に逃走した。 信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。義景自身は疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延らの武将が戦死した。但し、斎藤龍興に関しては生存説が複数存在している。 義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。8月15日、義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は出陣してさえ来なかった。 このため義景は自害しようとしたが、近臣の鳥居・高橋に止められたという。8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れた。8月17日には平泉寺の僧兵に援軍を要請する。しかし信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じずに、東雲寺を逆に襲ったため、義景は8月19日夕刻、景鏡の防備の不安ありとの勧めから賢松寺に逃れた。 一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火した。この放火は三日三晩続いたのである。 従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃する。ここに至って義景は自刃を遂げた。享年41。 元亀3年(1572年)10月、これに武田信玄が加わったが(西上作戦)、信玄の体調が悪化し、元亀4年(1573年)1月頃に武田軍の攻勢が停止している。 〇「西上作戦」(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。 戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢 武田信玄は戦国期に天文10年代から信濃侵攻を行い、駿河の今川氏・相模の北条氏と三国同盟を結び越後国の上杉謙信と対決し北信一帯まで領国を拡大した。一方で尾張国の織田信長は永禄年間までには尾張を統一し、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いにおいて駿河の今川義元を打ち取り、美濃への侵攻を行っていた。武田氏では川中島の戦いを契機に上杉氏との抗争が収束し、駿河では当主交代による領国の動揺で三河の松平元康(徳川家康)が独立し、独自勢力として台頭した。こうした情勢のなかで武田・織田両氏は領国が接しはじめた永禄年間から外交関係が見られ、当初は武田氏では今川氏の当敵である織田氏に対して敵対を示しているが美濃情勢への積極的介入は行わず中立的立場をとっている。 今川氏の当主交代後も武田と今川は同盟関係を継続しているが徐々に関係は悪化し、永禄8年(1565年)には今川当主氏真妹を室とする武田氏の嫡男義信が謀反により廃嫡される事件が発生している(義信事件)。義信の廃嫡により武田氏の世子は信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)となるが、この前後には信長の養女(信長の妹婿・遠山友勝の娘)が勝頼正室に迎えられており、武田・織田間では関係改善が図られている。永禄10年(1567年)に松姫(信松尼・信玄の6女)と織田信忠(信長の嫡男)を婚約させることで同盟を維持していた。 一方、武田・織田両氏と京都権門の関係では、武田氏では越後上杉氏との抗争において将軍義輝からの紛争調停を受けており、永禄年間には本願寺との関係も強めている。一方、織田氏では永禄11年(1568年)9月26日に信長が将軍足利義昭を奉じて上洛を果たし両者は連携しているが、永禄13年(1570年)1月に信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟を義昭に突きつけて強制的に承認させた。これにより信長に不満を抱いた義昭は、信玄をはじめ本願寺顕如・朝倉義景・三好三人衆らに信長討伐を命じる御内書を発しているが、信玄は織田氏との関係上これには応じていない。 駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化 永禄11年(1568年)に武田と今川氏は手切となり、武田氏は三河の徳川家康と共同し駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。駿河侵攻は武田と相模後北条氏との甲相同盟も破綻させ、後北条氏では越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国に圧力を加え、さらに武田は徳川氏とも今川領国割譲をめぐり対立関係となった。武田氏の駿河侵攻に際して、信長は同盟関係にある家康に武田との協定再考をもちかけているが家康は独自勢力として動いており、信玄は信長を通じて将軍足利義昭を介した越後上杉氏との和睦(甲越和与)を行っている。 元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉義景の討伐のため越前遠征を行うも妹婿・浅井長政の裏切りにより大敗する(金ヶ崎の戦い)。これを皮切りに、各地の反信長勢力が決起し第一次信長包囲網が形成される。この後、姉川の戦いや野田城・福島城の戦いが行われるも、まだ信玄に動きは見られなかった。しかし、同年12月、信玄の義理の弟にあたり、信長包囲網の一角も担っていた顕如より援助を要請する書状が送られている(また翌年5月には大和の松永久秀からも同様の書状が送られている)。 元亀2年(1571年)10月の北条氏康の死によって甲相同盟が再締結されたため、武田氏は駿河を確保し、三河徳川領国への侵攻も可能となった。
2024年08月31日
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天文21年(1552年)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。この頃、左衛門督に任官した。将軍の「義」の字を与えられ、一等官である左衛門督の官途を与えられたこと(それまでの朝倉当主は左衛門尉などの三等官)は歴代朝倉家当主の中では異例のことで、これは義景の父・孝景の時代に室町幕府の御供衆・相伴衆に列して地位を高め、また義景が正室に管領であった細川晴元の娘を迎えたことにより幕府と大変親密な関係を構築し、また衰退する室町幕府にとっては朝倉家の守旧的大名の力をさらに必要として優遇したためという。庭籠の巣鷹を義輝に献上して交流を深めていたことも知られている。 弘治元年(1555年)、宗滴が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。 永禄2年(1559年)11月9日には、従四位下に叙位された。永禄6年(1563年)8月、若狭国の粟屋勝久を攻めた。この頃の若狭守護である武田義統は守護として家臣を統率する力を失っており、粟屋勝久や逸見昌経らは丹波国の松永長頼と通じて謀反を起こしていた。このため朝倉軍は永禄6年以降、主に秋に粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(『国吉城籠城記』)。永禄7年(1564年)9月1日、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が加賀国に出兵。9月12日には義景も出陣して本折・小松を落としたのを皮切りとして、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出した後の9月25日に一乗谷に帰陣している。 好機を逃す 永禄8年(1565年)5月19日、将軍・足利義輝が三好義継らによって暗殺された。義景は義輝暗殺を5月20日に武田義統の書状で知っている。8月に朝倉軍は若狭に出兵している。また、8月5日に義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状によれば、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が7月28日に幽閉先の奈良を脱出して近江国に移ることになった背景には朝倉義景の画策があったとしており、この段階で義景は義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政ら脱出に関わった人たちと連絡を取り合っていたとみられている。9月8日、松永久秀に矢島御所から追われ、若狭武田家を頼っていた覚慶、還俗して改め義秋が越前敦賀に動座したため、義景は景鏡を使者として遣わし、その来訪を歓迎した(『上杉家文書』『多聞院日記』『越州軍記』)。 義秋は朝倉家の後援を期待して朝倉・加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。しかし両者の長年の対立は深刻ですぐに和睦できるものではなかった。また、永禄10年(1567年)3月、家臣の堀江景忠が加賀一向一揆と通じて謀反を企てた。加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、義景は山崎吉家・魚住景固に命じ堀江家に攻撃をしかける。景忠も必死に抗戦をするが、結局、和睦して景忠は加賀国を経て能登国へと没落した。これは朝倉景鏡の讒言による内乱であったと『朝倉始末記』は記している。 11月21日、義秋を一乗谷の安養寺に迎え、11月27日に義景は祝賀の挨拶を行なっている。義秋の仲介により12月には加賀一向一揆との和解も成立している。 義秋は上杉謙信など諸大名にも上洛を促す書状を送っているが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。そのため義秋は義景に上洛戦を求め、12月25日には非公式ながら義景の館を訪問している(『朝倉始末記』『越州軍記』)。また義秋が発する御内書に義景は副状を添えており、この時の義景は実質的には管領に相当する立場にあり、「朝倉系図」では義景の地位を管領代として記している。 永禄11年(1568年)3月8日、義秋により広徳院が二位の尼に叙せられた。4月には義秋が朝倉館で元服し義昭と改めた。その後も義昭は朝倉館を訪問して義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深めて上洛戦を求めた。6月には義景の嫡男である阿君丸が急死する。 このように義景は義昭が望む上洛戦には冷淡であったため、7月に義昭は美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って動座しようとした。義景は止めようとしたが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して越前から去った(『足利季世記』)。 信長包囲網 詳細は「信長包囲網」を参照 永禄11年(1568年)8月、若狭守護・武田氏の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を保護という名目で小浜から連れ去り越前一乗谷に軟禁し、若狭も支配下に置いた(『国吉城籠城記』)。ただし武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗し、若狭を完全に平定したとは言い難い。この若狭侵攻は当時上洛作戦を展開していた織田信長と浅井長政の援護が目的であったとの説もある。しかし義景は、次第に政務を一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、自らは遊興に耽るようになったと言われている。 永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。上洛した信長は義昭を将軍とし、さらに義景に対して義昭の命令として2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。これは朝倉家が織田家に従うことを嫌ったためと、上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否したとされ、また信長も越前は織田領である美濃と京都間に突き出された槍という位置から義景を服属させる必要があったためとされる。 このため永禄13年(1570年)4月20日、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることになる。連合軍の攻勢の前に旧若狭武田家臣の粟屋氏・熊谷氏らは信長に降伏した。また支城である天筒山城と金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城した。義景は後詰のために浅水(現在の福井市)まで出兵したが、居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。 だが浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた木下秀吉に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がした(『革島文書』『信長公記』)。このため、信長に再挙の機会を与えることになった。 元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。しかし朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健であり、兵力も8,000人(一説に1万5,000人)だった。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川の戦いは敗戦に終わり『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとされる。この戦いで信長は浅井方の支城の多くを落とすことになり、戦略的に非常に不利な立場に陥った。 8月25日、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して9月20日に織田領の近江坂本に侵攻する。そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに大津で焼き働きし、9月21日には醍醐・山科に進駐した。 しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが無視された。また10月20日に織田・朝倉間で小規模な戦闘があり、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景は無視した(『言継卿記』『尋憲記』『信長公記』)。11月25日、信長は義景の退路を断つために堅田に別軍を送った。11月26日に朝倉・織田間で合戦になり痛み分けとなる。11月28日、足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なった。さらに信長は朝廷へ工作を行なったため、12月に信長と義景は勅命講和することになる。なおこの勅命講和の対象が延暦寺だけに限定されていたとする指摘もある。
2024年08月31日
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織田信長と同盟 1560年代、織田信長は、美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論あり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、織田・朝倉は互いに挑発を繰り返していた。 同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。永禄10年(1567年)9月頃に、長政は信長の妹の市を妻とした。 なお、長政と市の婚姻時期については諸説ある。永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)とする説などいくつかの異説がある。 織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名したともされる。 さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作った。 永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより、長政の敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護した。 同盟破棄・信長包囲網 元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた木下秀吉らの働きにより、近江国を脱出した(金ヶ崎の退き口)。 信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。 同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。先鋒の磯野員昌が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す攻撃を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑性は薄い。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。なお、当時浅井軍の足軽だった藤堂高虎は、姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し武功を上げて長政から感状を送られた。 姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた本願寺(野田城・福島城の戦い)が、反信長の意志を表した(信長包囲網)。9月には朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成や織田信治らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになる。また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまった。 武田信玄との連携 元亀3年(1572年)7月、信長が北近江に来襲した。長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。 遅れること同年9月、将軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄がやっと甲斐国を進発する。信玄はこの時、長政・久政親子宛に「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候 」という書状を送っている。 同年10月宮部城の宮部継潤が羽柴秀吉の調略で降伏、その後信玄の参戦を機に北近江の信長主力が岐阜に移動した隙を突き、虎御前山砦の羽柴隊に攻撃を仕掛けるも撃退されてしまう。その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。 同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国した。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じず、黙殺的態度を示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、翌年2月には進軍を再開し、家康領の野田城を攻め落とす。しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。 浅井家滅亡 天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始めた。撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、取って返して全軍を浅井氏に向けた。 浅井軍は、信長の軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が、織田軍に囲まれる。信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。 8月27日父の久政が自害。『信長記』には翌28日に長政は小谷城内赤尾屋敷にて自害したとされるが、29日に出された長政の片桐直貞に対する感状が発見され、命日は9月1日であることが判明した。この感状において長政は、同年7月末に信長主導で行われた改元後の元号「天正」ではなく、足利義昭が主導して改元された前の元号「元亀」を使用している。これを信長に対する抵抗の意と解釈する説がある。ただし改元の同時期に浅井勢は既に小谷城に籠城しており、外界の情勢に疎かっただけとも考えられる。 享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。 『信長公記』には、天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。また、『浅井三代記』にはこれらの髑髏を杯(髑髏杯)にしたとある。 〇「朝倉 義景」(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。 天文2年(1533年)9月24日、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。生母は広徳院(光徳院)といわれ、若狭武田氏の一族の娘で武田元信か武田元光の娘とされる。 このとき、父の孝景は40歳であり、唯一の実子であったとされる(しかし出生については異説がある)。幼名は長夜叉と称した。義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんどない。 天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため、16歳で家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行っている(『御湯殿上日記』)。 当初は若年のため、弘治元年(1555年)までは、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。
2024年08月31日
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元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する。 信長は続いて、義昭と共に三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)、途中で石山本願寺および浅井氏・朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭い、12月には信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。元亀2年(1571年)4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死するが、後難を恐れた光宣が出奔してしまう。これに激怒した義昭が同28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。 信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意]し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。 元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した。 この意見書は義昭の様々な点を批判している。 これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている(『牧田茂兵衛氏所蔵文書』天正元年2月29日付義昭文書)。 元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。 信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。 しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資・高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。 信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。 義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して信長を攻撃し(信長包囲網)、 〇「浅井 長政」(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。 天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。 下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、北近江を維持していた。家臣の中には久政の政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。 15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって賢政と名乗らせた。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いた。 浅井家の成長と六角家の衰退 永禄3年(1560年)8月中旬、賢政(新九郎)は15歳で軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦い振りを披露した。これによって重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。 六角氏に服従する状況に不満を持っていた家臣達は賢政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続した。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻した。 野良田の戦いの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできる。合戦後は、朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。 永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、500の兵で見事な働きを見せた。 この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続いた。
2024年08月31日
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殿中御掟追加5か条 永禄13年(1570年)1月23日、信長は殿中御掟9か条を制定した後も政治への影響力を保とうとする義昭に対して、殿中御掟追加5か条を突きつけ、これも承認させた。 諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事 御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事 公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事 天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事 天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事 現代語訳 諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。 これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。 将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。 天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。 天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。 この追加5か条は、前年の16か条よりはるかに厳しい将軍権力・政治権限規定だった。特に重要なのは4条目であり、将軍の許しなく信長が何でもできるということである。つまり露骨な将軍を傀儡とした信長による独裁を行おうという姿勢が示されていた。義昭はこれも承認したが、1条目、2条目については義昭がこれを遵守した形跡がない。また、後述のようにむしろ信長の方が室町幕府の秩序の中に統制されたとする解釈も出されている。 影響 この殿中御掟21ヶ条は信長と義昭の不和を顕在化させたが、両者の仲に決定的な悪化をもたらしたものではない。 臼井進は殿中御掟の条文を分析した結果、殿中御掟の条文が信長が一方的に定めたものではなく、そのほとんどが室町幕府の先例や規範に出典が求められることを指摘し、さらに殿中御掟追加に関しても将軍の御内書が余りにも濫発された結果として社会的混乱が起きかけていたこと(義昭の場合には大名の家臣に対しても大名の頭越しに御内書が出され、天正2年(1574年)には義昭の京都追放後も義昭を支持していた島津義久から義昭に対して御内書の発給の規制を求める申し入れがされている)や、将軍家家臣が寺社領を押領する事態が頻発しているなど問題が発生したことを指摘し、これらの規定が義昭を傀儡化するものではなく、信長が義昭による権力行使を規制しなければ、「天下の静謐」を維持する役目を担う幕府の存立にも関わる事態になっていたことを指摘している。臼井は信長による殿中御掟やその追加が幕府法から逸脱するものではなかったからこそ、その後の「十七箇条意見書」や義昭追放が一定の正当性を持ちえたとする。 水野嶺は五か条の条書(殿中御掟追加5か条)についても、足利義昭の将軍就任以来、副将軍や管領などへの就任を出自を理由に拒んできた信長が准官領(管領代)に就任するのに同意した文書の一環であるとしている。第1条を義昭が遵守していないというのは事実ではなく、大名への官途授与や大名間の和平調停の際には信長の副状が出されており、後年問題になったのは義昭が御内書の形式を用いて諸国から物品献上を強要したことであったとする。第4条は信長からすれば副官領として義昭を補佐することを明言した文言であり、義昭からすれば信長が室町幕府の身分秩序の中に位置づける代わりに天下静謐のための権限を委任したもので、義昭と信長の主従間の合意が前提にあるとする。そして、残りの3か条も副官領就任にあたっての要望事項であったとしている。また、原本には義昭の黒印が袖に捺され、義昭と信長に両属している立場と言える明智光秀と朝山日乗に充てられていることからも信長から義昭への一方的な文言ではなく、両者の交渉内容を記した文書であるとしている。水野は信長が准官領に就任したと直接言及した史料は無いものの、この条書が出された元亀元年1月以降、信長の書札礼が変更されて関東管領(上杉謙信)と同格のものに改められていることから裏付けられるとしている。なお、准官領の立場は実際的には儀礼的な存在に過ぎなくなっていた実際の管領と異なって、より大幅な権限が認められた存在であったことはこの条書から推測されるとされる。 浅井長政や朝倉義景、顕如、三好三人衆らによる第一次信長包囲網が結成された際には義昭と信長は一体となって行動しており、両者の対立が決定的なものとなるのは元亀年間に入ってからのことである。 織田信長との対立 新将軍として幕府を再興した義昭はまず信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。 信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために義昭は信長を和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。 この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政・三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城国には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として真木島昭光)となる。後に山岡景友が守護に任ぜられたともされるが、実質は義昭と信長によって共同統治された。 しかし、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。永禄12年(1569年)8月に信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲して攻撃したものの北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で10月に和睦が成立した(大河内城の戦い)。ところが、両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている。 信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている。また、5箇条の承認とほぼ同じくして信長の書札礼が関東管領である上杉謙信とほぼ同格になっており、信長が「准官領」(管領・管領代に准じるものと位置付けられた幕府官職)の就任を受け入れた代わりに信長の方も義昭に求めた要望の結果が記されたもので、信長を幕府の秩序体制に組み込んだという意味では義昭の権力基盤の安定化につながったとする見解もある。また、義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。
2024年08月31日
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(『上越市史』)。北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の戦いの敗戦によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。11月、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に信長が任官してしまう。 天正4年(1576年)、義昭は毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移った。鞆はかつて足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木嶋昭光・一色昭孝(唐橋在通)クラスの重臣ですら吉見氏や山内首藤氏など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている。 とはいえ、近畿東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。義昭はこの地から京都への帰還や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下している。6月12日には、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下した。前年とは違い、この時は毛利輝元の副状付きであった。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏や龍造寺氏に大友氏討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、日向国の伊東義祐を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年(1578年)の耳川の戦いの一因になったとする説もある。 天正5年(1577年)9月の手取川の戦いで織田軍を破った上杉謙信も天正6年(1578年)3月に死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏した。天正10年(1582年)3月には武田勝頼が信長によって滅ぼされた(甲州征伐)。また、毛利氏も義昭のために全く動いていない訳ではなかった。天正4年(1576年)に三好長治が自害に追い込まれて阿波三好家中が混乱すると、天正6年(1578年)には毛利輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦、連合して織田氏に対抗しようとする。義昭自身は最初は和睦には反対であったが、最終的には同意して真木島昭光に仲介を命じている。だが、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって計画は失敗してしまった。 しかし、義昭がまだ鞆に滞在中であった天正10年(1582年)6月2日に信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる。 信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583年)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。 同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正13年(1585年)7月、秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。 京都への帰還 義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀を鹿児島に送って和議を勧めている。 天正15年(1587年)、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。同年4月、義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている。 島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する。その後、天正16年(1588年)1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち受戒し、名を昌山(道休)と号した。また、朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。 秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。 晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。 慶長2年(1597年)8月、大坂で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。義演は日記の中で「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了」と感想を記している。享年61(満59歳没)。 3「足利義昭と織田信長の対立」永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府第15代将軍に就任した義昭は当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、元亀3年(1572年)9月には信長から義昭に17条の意見書が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。 〇「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府将軍・足利義昭に承認させた掟である。永禄12年(1569年)1月に16か条、永禄13年(1570年)1月に5か条が追加され、21か条の掟となった。 殿中御掟9か条 永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立した。しかし信長は「天下布武」をかかげて自らの天下統一を目指し、一方の義昭は上杉謙信や毛利元就らにも上洛を促して幕府政治の再興を目指すという、両者には考えの食い違いがあった。そのため、次第に両者の関係は冷却化していく。永禄12年(1569年)1月14日、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟9か条を義昭に突きつけ、承認させた。内容は以下の通り。 不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事 公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事 惣番衆、面々可有祗候事 各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事 公事篇内奏御停事之事 奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事 公事可被聞召式目、可為如前々事 閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事 諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事
2024年08月31日
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元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。 信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。 しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資・高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。 信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。 京都から追放 信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。続いて7月28日に天正への改元を行う。8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く天正2年(1574年)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた。 ただし、『公卿補任』には、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞する天正16年1月13日(1588年2月9日)まで義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されている。200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、そのため、信長も義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めず、朝廷も積極的に義昭の解任の動きを見せなかったともいわれる。 また、義昭が京都から追放されたとは言っても、かつて10代将軍であった足利義稙が明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際に義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(『公卿補任』)には記されている。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏・高氏・一色氏・上野氏・細川氏・大館氏・飯尾氏・松田氏・大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた。そのため、近畿周辺の信長勢力圏以外(関東・北陸・中国・九州・奥州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また、京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。 その一方で、義昭が京都にいた時期の奉公衆のうち、追放後も同行し続けたのは2割に過ぎないとする研究もあり、その原因として義昭の在京中から満足に所領が与えられず(与えることができず)に困窮したり義昭が一部の側近ばかりを重用したりすることに対して信長に救済を訴え出る奉公衆がいたことから、義昭の奉公衆に対する扱いへの不満が幕府を見限って信長に従わせる原因になったと考えられている。所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所開闔を務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰・小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられ、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。 こうした一連の流れは、室町幕府の幕臣達は信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るかの判断に分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった。 また、これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。ところが、今回の義昭追放においては烏丸中御門第で信長に抵抗した日野輝資や高倉永相のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は久我晴通・通俊父子のみ[注釈 27]で、この父子も義昭が紀伊に滞在中の天正3年(1575年)には共に病死しているため、義昭に従った公家は皆無になった。これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。そして朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった。 備後国への下向 京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊、林就長もあたっている。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。 翌・天正2年(1574年)には紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。天正3年(1575年)、信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対して和睦をするよう呼びかけた(甲相越三和)。これに対する上杉家重臣・直江景綱と河田長親の回答は、甲州(武田)との和睦はやぶさかではないが相州(北条)が加わるのは承服しかねるというものであった
2024年08月31日
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永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠が松永久通や三好三人衆らによって暗殺された。このとき、覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された[注釈 2]。 しかし、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所とした(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄・北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている。 永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。 矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政と織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている[4]。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。 この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。 しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退し、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、義秋は妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。 9月には若狭から越前国の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったとする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参する。 なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。他の大名からも積極的な支援の動きは見られず、血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である従兄弟の足利義栄よりも有利な環境にありながらいつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束するなど朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けた。 永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した加冠役は朝倉義景が務めている。 やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。 幕府の再興 永禄11年(1568年)9月、北近江の浅井氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。途中、六角義賢の抵抗もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。また、9月30日には病気を患っていた14代将軍・足利義栄も死去した(『公卿補任』)。 10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された。なお、当時の人々の間では新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)。 将軍に就任した義昭は義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させた。近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。 また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の摂関家である二条昭実に偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国の御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を弟の貞興に代えさせて義昭に仕えさせたとされる。 このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている。 義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津国の池田勝正・和田惟政・伊丹親興・三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。なお、この変事の直後である1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を勧め、13日には互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしたが、この計画は実現しなかった[注釈 16]。 義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。
2024年08月31日
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この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。 信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。 4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城。4月21日に安土城へ帰城した。 信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。 本能寺の変 天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。 この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。 こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた。 しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった。 5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。信長の光秀に対する信頼は深かった。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。 5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49。 信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる。 本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。 〇「足利 義昭」(あしかが よしあき、1537年12月15日〈天文6年旧11月13日〉‐ 1597年10月9日〈慶長2年旧8月28日〉)は、室町幕府第15代(最後の)将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利氏22代当主。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。 天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。 天文11年(1542年)11月20日、千歳丸は跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って、外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。
2024年08月31日
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大坂本願寺との講和 天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した。 同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)。ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた。 この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく。この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある。 その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった。 天下静謐 京都御馬揃えと左大臣推任 天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。 2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。 3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。 3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。 8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。 高野山包囲 天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。 信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。 天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。 甲州征伐 詳細は「甲州征伐」を参照 天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。 武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。 天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する。 武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた。
2024年08月31日
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6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。 7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた。 越前侵攻 この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。 信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された。 越前国は再び織田家の支配するところとなる。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた。 第三次信長包囲網 詳細は「信長包囲網#第三次包囲網」を参照 天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。 4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた。しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。 この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する。謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。 天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。 このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった。 織田右府 天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した。 天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した。天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという。しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた。 11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。 尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。 中国侵攻 天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。 4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった。 7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの、まもなく信長に帰順した。 11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した(第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)。 天正7年(1579年)6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した。 一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した。 翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した。 天正7年の政治状況 11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した。 この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる[176]。これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
2024年08月31日
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第二次信長包囲網 詳細は「信長包囲網#第二次包囲網」を参照 元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た。 5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した。 同年9月、敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。 一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている。 元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した。 7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。以後の戦況は織田軍有利に展開した。 11月14日、織田方であった岩村城が開城し、武田方に占拠された(岩村城の戦い)。病死した岩村城主・遠山景任の後家(信長の叔母)は、秋山虎繁(信友)と婚姻し、武田方に転じた。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した。 同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している。この異見書は、従来、『永禄以来年代記』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた。しかし、柴裕之によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い。柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる。そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする。 元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。 こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した。信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。一方、武田軍は信玄の病状悪化により撤退を開始し、4月12日には信玄は病死する なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている。 室町幕府の「滅亡」 足利義昭の没落 しかし、その後も義昭は信長に対して抵抗し、元亀4年7月には再び挙兵して、槇島城に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放した。 通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている。一方、義昭はその後も将軍の地位に留まったまま、各地を経て備後国鞆へ移り、毛利輝元の庇護を受ける。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある。このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる。 幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった。 義昭の追放後、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、7月28日にはこれを実現させた。 長島一向一揆の制圧 詳細は「長島一向一揆」を参照 7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた。これは、信長の「不意討ち」と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた。 これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。 天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。 長篠の戦い 天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。 その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという]。 そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した。武田方は有力武将の多くを失う。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている。
2024年08月31日
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二重政権 一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣している。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した。 永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。 更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。 もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。 足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。 幕府再興 永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。もっとも、細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所を築いた。 同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた。また、(現存する文書では)同年1月以降に南近江に対して出される信長発給文書の書式が尾張・美濃と同一のものが採用され、同地域が織田領国に編入されたことが明確となった。 一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある。 同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。 永禄13年(元亀元年・1570年)1月23日、信長は義昭に対して更に5ヶ条の条書を発令して、これも義昭に認めさせた。この条書についてもかつては将軍権力を制約をより強化するものとするのが通説であったが、これと前後して信長の書札礼が関東管領(上杉謙信)と同じ様式に引き上げられていることから、義昭の上洛以来一貫して幕府における役職就任を拒んできた信長が管領に准じる身分(「准官領」)を得て正式に幕府高官の一員として義昭を補佐することに同意してそれに伴う信長側の要望を述べたものに過ぎない(元々、信長が幕府役職に就いてより積極的に「天下静謐」に参画するように求めたのは義昭の方である)と言う、通説とは全く異なる評価も出されている。 伊勢侵攻 一方、稲葉山城攻略と同じ頃の永禄10年(1567年)、信長は北伊勢に攻め寄せ、滝川一益をその地に配した。さらに。その翌年の永禄11年のより本格的な侵攻により、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を、長野氏に弟の織田信良(信包)を養子とさせ、北伊勢八郡の支配を固めた。 南伊勢五郡は国司である北畠氏が勢力を誇っていたが、永禄12年(1569年)8月に信長は岐阜を出陣して南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲する。信長は強硬策を用いて大河内城の攻撃を図るも失敗し、戦いは長期化した。攻城戦の末、10月に信長は北畠家方と和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。天正4年(1576年)になると、信長は北畠具教ら北畠家の一族を虐殺させている(三瀬の変)。 なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている。 第一次信長包囲網 詳細は「信長包囲網#第一次包囲網」を参照 元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍する。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという。 6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。 8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。さらに、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する。 しかし、9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還する。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。 11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。そして正親町天皇の勅命を仰ぎ、12月13日、浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱した。
2024年08月31日
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家督継承から尾張統一 家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった。そして、弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・信勝(信行)などの競争者がいたのである。 一説には信秀の最晩年に行おうとした今川義元との和睦に信長が反対したことなどから信長の後継者としての立場に疑問符が持たれ、信秀も信長と信勝の間で家督の分割する考えに転じたのではないか、という説がある(実際に信秀の死の直後に信長は直ちに和議を破棄している)。ただし、この和平の仲介には信長の舅である斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場からすれば道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性のあるこの和議に賛同できなかったとする見方もある。 天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした。信長は萱津の戦いで勝利し、これ以後、清洲方との戦いが続くこととなる。 ところが、天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。天文23年(1554年)には、村木城の戦いで今川勢を破った。 この年も、清洲との戦いは、信長に有利に展開していた。同年7月12日、尾張守護の斯波義統が、清洲方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた。 こうして、信長は、清洲の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた。そして、数日後には、安食の戦いで長槍を用いる信長方の軍勢が清洲方に圧勝した。 天文23年、衰弱した清洲の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清洲城を奪われ、守護代・織田彦五郎も自害を余儀なくされた。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる。 他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している。この死は暗殺によるものであったと考えられる。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという。 永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる。一方天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる。 桶狭間の戦い 詳細は「桶狭間の戦い」および「清洲同盟」を参照 翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻する。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った。 信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣した。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った(桶狭間の戦い)。 桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。 永禄8年(1565年)、信長は、犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた。 美濃斎藤氏と足利義昭 斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。 一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた。 これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた。こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった。 ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斎藤氏との戦闘を再開する。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、河野島の戦いで大敗を喫してしまう。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる。 そして、永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』) 同年11月には印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものであった(→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。
2024年08月31日
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2「槇島城の戦いの起因」(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)2月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦い。義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。この戦の後の7月28日、元亀から天正への改元が行なわれた。 〇「織田 信長」(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。 織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。 永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。 一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。 翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。 元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。 将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた。 天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。 天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男・信孝に出兵の準備をさせている。そして、信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)。 一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる。 政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた。天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている。 江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。 とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている。第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる。 尾張・美濃の平定 天文3年(1534年)5月、尾張国の戦国大名・織田信秀と土田政久の娘の間に嫡男として誕生。生まれた場所については勝幡城、那古野城、および古渡城の3説に分かれるが、勝幡城であるとする見解が有力である。幼名は吉法師(きっぽうし)。 信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた。 信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から大うつけと呼ばれたという。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない。 天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する。天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった。 天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた]。 斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった。そして、おそらく天文21年(1552年)3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)。
2024年08月31日
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「槇島城の戦い」1、 「槙島の戦いの概略」・・・・・・・・・・・・・・22、 「槙島の戦いの起因」・・・・・・・・・・・・・・73、 「足利義昭と織田信長の対立」・・・・・・・・・・674、 「足利義昭の籠城」・・・・・・・・・・・・・・・1075、 「今堅田・石山の戦い」・・・・・・・・・・・・・1186、 「二条城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・1447、 「上京焼き討ち」・・・・・・・・・・・・・・・・1678、 「再挙兵までの出来事」・・・・・・・・・・・・・1819、 「槙島城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・18510、「義昭の追放・室町幕府滅亡」・・・・・・・・・・18811、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・191 1、「槙島の戦いの概略」元亀4(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。信長と義昭の対立の経緯、永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任をする。以後、信長と義昭は非常に良好な関係であった。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのでである。確執の始まり、永禄12年(1569)10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまった。どうやら二人はケンカ別れをしたようである。ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されている。将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くない、義昭にとってみれば、将軍として軽んじられたと受けられた。信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのである。水面下で信長包囲網を形成する義昭、元亀3(1572)には反信長勢力が拡大をみせる。(信長包囲網)この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられている。しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしている。信長と義昭は、お互いにもはや敵であることを知りながら、表面上は穏やかさを保っていた。その後、17か条の異見書で義昭を非難した信長、同年9月、信長は義昭に全17か条からなる異見書を提出している。その内容といえば、義昭のことを痛烈に批判しているものばかりである。この頃になると、二人の対立は誰の目にも明らかになっていった。武田信玄の西上、一方、10月3日には武田信玄が本拠地である躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた/現山梨県甲府市)を出陣した。信長を追い詰めたい義昭にとって、信玄の出陣は待ち望んでいたものであった。とはいえ、このときの信玄の目的が一気に「上洛」を目指していたのか、それとも単に徳川・織田領の侵略だったのかという点は、専門家の間でも意見が分かれるところである。義昭ついに挙兵、年が明けた 元亀4(1573)は、信長の周りは敵だらけとなり、畿内では、義昭方につく者が続出したのである。同年2月13日、義昭は各方面に御内書を出し、ようやく反信長の立場を鮮明にした。今堅田・石山の戦い、一方の信長は、義昭との和睦を望んだが、ところが義昭はこれを拒否をする。信長がいくら下手に出ようとも、義昭は首を縦に振らなかった。2月20日、義昭のこの行動に対し、信長は兵を動かします。これは義昭に多少のダメージを与え、講和に持ち込もうとしたものと考えられます。同月24日には柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆が、石山・今堅田の砦に攻撃を仕掛けた。両砦とも長く持ちこたえることはできず、26日には石山、29日には今堅田が開城してしまった。信長、上京に放火、4月2・3日、信長軍は京都の郊外に火を放ち、目的は義昭を脅し、和睦交渉に応じさせるためである、すぐに信長の使者が義昭のもとを訪れましたが、それでも義昭は和睦を拒否をした。翌4日、信長の軍勢は、かねてから信長に反抗的であった上京にも放火。同時に二条城を包囲し、義昭に和睦を迫り、しかし、これでも義昭は信長との和睦に応じませんでした。なぜだと思います? 義昭は、信玄や浅井・朝倉が助けてくれると、まだ期待していたからである。一時的な和睦の期間、しびれを切らした信長は、正親町天皇に働きかけます。4月7日、関白の二条晴良が義昭を説得。こうして、ようやく二人は和睦したのでした。大船の建造、和睦したとはいうものの、義昭が再び反旗を翻すと踏んでいた信長。5月に佐和山を訪れ、大船の建造を命じました。7月5日に完成した大船は、長さ30間(54メートル)・幅7間(13メートル)という、当時としてはかなりの大きさ。そしてこの大船、すぐに使われることになるのである、義昭、執念の再挙兵(福島の戦い)しぶしぶ信長と和睦するに至った義昭は、信長が岐阜に戻る頃には怪しい動きを見せていた。5月になると反信長連合の結成を呼び掛けるため、諸国の大名たちに書状を送っています。朝倉・毛利・顕如・武田信玄など、 信玄? 信玄は先月に亡くなったのである。元亀4年(1573)7月3日、義昭は信玄の死を知ってか知らでか、槇島城(現京都府宇治市)に立て籠もりました。報せを聞いた信長は、造っておいた大船で琵琶湖を渡り、9日には京都の妙覚寺(みょうかくじ・現上京区)に着陣をする。二条城には、幕府奉公衆の三淵藤英や武家昵近(じっきん)公家衆の日野輝資・高倉永相らがいましたが、すぐに降伏。三淵藤英は降伏を拒否したものの、説得に応じて7月12日に開城をされた。七月16日には義昭の立て籠もる、槇島城に軍勢が派遣されました。織田軍はなんと、主だった武将たちが率いる総勢7万もの大軍勢! 翌17日には信長本人も京都を出陣している。そして7月18日、織田軍は二手に分かれ、槇島城への攻撃を開始した。槇島城は巨椋池(おぐらいけ/かつて存在した周囲約16キロメートルの湖沼)の中に築かれた水城。難攻不落にも思えた槇島城でしたが、この日のうちに開城を余儀なくされた。反信長包囲網の黒幕から一転、義昭は敗軍の将となります。ところが、信長はそんな義昭を殺すことなく、“追放”としたのである。これは信長が、世論を気にしたからとも考えられています。義昭の槙島城の退去をもって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡した。信長は7月28日、それまで義昭の存在によって実現できなかった、天正への改元を行った。義昭の追放によって、信長は改元の権限をも握ることができたのです。かつては蜜月関係だった二人。明暗がくっきりと分かれた。一方、京都を追放された義昭は、枇杷庄(びわのしょう)(現京都府城陽市)、津田城(現大阪府枚方市)を経て、若江城(現大阪府東大阪市)へと移ります。その道中、「貧乏公方」と民衆から笑われたのだとか……。若江城で義昭を匿ったのは、義昭の妹婿に当たる三好義継でした。義継にしてみれば、義昭を受け入れないわけにはいかなかったのです。しかしこの行動が、同年11月の若江城の戦いへとつながっていった。
2024年08月31日
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「槇島城の戦い」1、 「槙島の戦いの概略」・・・・・・・・・・・・・・22、 「槙島の戦いの起因」・・・・・・・・・・・・・・73、 「足利義昭と織田信長の対立」・・・・・・・・・・674、 「足利義昭の籠城」・・・・・・・・・・・・・・・1075、 「今堅田・石山の戦い」・・・・・・・・・・・・・1186、 「二条城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・1447、 「上京焼き討ち」・・・・・・・・・・・・・・・・1678、 「再挙兵までの出来事」・・・・・・・・・・・・・1819、 「槙島城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・18510、「義昭の追放・室町幕府滅亡」・・・・・・・・・・18811、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・191 1、「槙島の戦いの概略」元亀4(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。信長と義昭の対立の経緯、永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任をする。以後、信長と義昭は非常に良好な関係であった。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのでである。確執の始まり、永禄12年(1569)10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまった。どうやら二人はケンカ別れをしたようである。ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されている。将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くない、義昭にとってみれば、将軍として軽んじられたと受けられた。信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのである。水面下で信長包囲網を形成する義昭、元亀3(1572)には反信長勢力が拡大をみせる。(信長包囲網)この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられている。しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしている。信長と義昭は、お互いにもはや敵であることを知りながら、表面上は穏やかさを保っていた。その後、17か条の異見書で義昭を非難した信長、同年9月、信長は義昭に全17か条からなる異見書を提出している。その内容といえば、義昭のことを痛烈に批判しているものばかりである。この頃になると、二人の対立は誰の目にも明らかになっていった。武田信玄の西上、一方、10月3日には武田信玄が本拠地である躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた/現山梨県甲府市)を出陣した。信長を追い詰めたい義昭にとって、信玄の出陣は待ち望んでいたものであった。とはいえ、このときの信玄の目的が一気に「上洛」を目指していたのか、それとも単に徳川・織田領の侵略だったのかという点は、専門家の間でも意見が分かれるところである。義昭ついに挙兵、年が明けた 元亀4(1573)は、信長の周りは敵だらけとなり、畿内では、義昭方につく者が続出したのである。同年2月13日、義昭は各方面に御内書を出し、ようやく反信長の立場を鮮明にした。今堅田・石山の戦い、一方の信長は、義昭との和睦を望んだが、ところが義昭はこれを拒否をする。信長がいくら下手に出ようとも、義昭は首を縦に振らなかった。2月20日、義昭のこの行動に対し、信長は兵を動かします。これは義昭に多少のダメージを与え、講和に持ち込もうとしたものと考えられます。同月24日には柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆が、石山・今堅田の砦に攻撃を仕掛けた。両砦とも長く持ちこたえることはできず、26日には石山、29日には今堅田が開城してしまった。信長、上京に放火、4月2・3日、信長軍は京都の郊外に火を放ち、目的は義昭を脅し、和睦交渉に応じさせるためである、すぐに信長の使者が義昭のもとを訪れましたが、それでも義昭は和睦を拒否をした。翌4日、信長の軍勢は、かねてから信長に反抗的であった上京にも放火。同時に二条城を包囲し、義昭に和睦を迫り、しかし、これでも義昭は信長との和睦に応じませんでした。なぜだと思います? 義昭は、信玄や浅井・朝倉が助けてくれると、まだ期待していたからである。一時的な和睦の期間、しびれを切らした信長は、正親町天皇に働きかけます。4月7日、関白の二条晴良が義昭を説得。こうして、ようやく二人は和睦したのでした。大船の建造、和睦したとはいうものの、義昭が再び反旗を翻すと踏んでいた信長。5月に佐和山を訪れ、大船の建造を命じました。7月5日に完成した大船は、長さ30間(54メートル)・幅7間(13メートル)という、当時としてはかなりの大きさ。そしてこの大船、すぐに使われることになるのである、義昭、執念の再挙兵(福島の戦い)しぶしぶ信長と和睦するに至った義昭は、信長が岐阜に戻る頃には怪しい動きを見せていた。5月になると反信長連合の結成を呼び掛けるため、諸国の大名たちに書状を送っています。朝倉・毛利・顕如・武田信玄など、 信玄? 信玄は先月に亡くなったのである。元亀4年(1573)7月3日、義昭は信玄の死を知ってか知らでか、槇島城(現京都府宇治市)に立て籠もりました。報せを聞いた信長は、造っておいた大船で琵琶湖を渡り、9日には京都の妙覚寺(みょうかくじ・現上京区)に着陣をする。二条城には、幕府奉公衆の三淵藤英や武家昵近(じっきん)公家衆の日野輝資・高倉永相らがいましたが、すぐに降伏。三淵藤英は降伏を拒否したものの、説得に応じて7月12日に開城をされた。七月16日には義昭の立て籠もる、槇島城に軍勢が派遣されました。織田軍はなんと、主だった武将たちが率いる総勢7万もの大軍勢! 翌17日には信長本人も京都を出陣している。そして7月18日、織田軍は二手に分かれ、槇島城への攻撃を開始した。槇島城は巨椋池(おぐらいけ/かつて存在した周囲約16キロメートルの湖沼)の中に築かれた水城。難攻不落にも思えた槇島城でしたが、この日のうちに開城を余儀なくされた。反信長包囲網の黒幕から一転、義昭は敗軍の将となります。ところが、信長はそんな義昭を殺すことなく、“追放”としたのである。これは信長が、世論を気にしたからとも考えられています。義昭の槙島城の退去をもって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡した。信長は7月28日、それまで義昭の存在によって実現できなかった、天正への改元を行った。義昭の追放によって、信長は改元の権限をも握ることができたのです。かつては蜜月関係だった二人。明暗がくっきりと分かれた。一方、京都を追放された義昭は、枇杷庄(びわのしょう)(現京都府城陽市)、津田城(現大阪府枚方市)を経て、若江城(現大阪府東大阪市)へと移ります。その道中、「貧乏公方」と民衆から笑われたのだとか……。若江城で義昭を匿ったのは、義昭の妹婿に当たる三好義継でした。義継にしてみれば、義昭を受け入れないわけにはいかなかったのです。しかしこの行動が、同年11月の若江城の戦いへとつながっていった。
2024年08月31日
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「槇島城の戦い」1、 「槙島の戦いの概略」・・・・・・・・・・・・・・22、 「槙島の戦いの起因」・・・・・・・・・・・・・・73、 「足利義昭と織田信長の対立」・・・・・・・・・・674、 「足利義昭の籠城」・・・・・・・・・・・・・・・1075、 「今堅田・石山の戦い」・・・・・・・・・・・・・1186、 「二条城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・1447、 「上京焼き討ち」・・・・・・・・・・・・・・・・1678、 「再挙兵までの出来事」・・・・・・・・・・・・・1819、 「槙島城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・18510、「義昭の追放・室町幕府滅亡」・・・・・・・・・・18811、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・191 1、「槙島の戦いの概略」元亀4(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。信長と義昭の対立の経緯、永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任をする。以後、信長と義昭は非常に良好な関係であった。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのでである。確執の始まり、永禄12年(1569)10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまった。どうやら二人はケンカ別れをしたようである。ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されている。将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くない、義昭にとってみれば、将軍として軽んじられたと受けられた。信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのである。水面下で信長包囲網を形成する義昭、元亀3(1572)には反信長勢力が拡大をみせる。(信長包囲網)この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられている。しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしている。信長と義昭は、お互いにもはや敵であることを知りながら、表面上は穏やかさを保っていた。その後、17か条の異見書で義昭を非難した信長、同年9月、信長は義昭に全17か条からなる異見書を提出している。その内容といえば、義昭のことを痛烈に批判しているものばかりである。この頃になると、二人の対立は誰の目にも明らかになっていった。武田信玄の西上、一方、10月3日には武田信玄が本拠地である躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた/現山梨県甲府市)を出陣した。信長を追い詰めたい義昭にとって、信玄の出陣は待ち望んでいたものであった。とはいえ、このときの信玄の目的が一気に「上洛」を目指していたのか、それとも単に徳川・織田領の侵略だったのかという点は、専門家の間でも意見が分かれるところである。義昭ついに挙兵、年が明けた 元亀4(1573)は、信長の周りは敵だらけとなり、畿内では、義昭方につく者が続出したのである。同年2月13日、義昭は各方面に御内書を出し、ようやく反信長の立場を鮮明にした。今堅田・石山の戦い、一方の信長は、義昭との和睦を望んだが、ところが義昭はこれを拒否をする。信長がいくら下手に出ようとも、義昭は首を縦に振らなかった。2月20日、義昭のこの行動に対し、信長は兵を動かします。これは義昭に多少のダメージを与え、講和に持ち込もうとしたものと考えられます。同月24日には柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆が、石山・今堅田の砦に攻撃を仕掛けた。両砦とも長く持ちこたえることはできず、26日には石山、29日には今堅田が開城してしまった。信長、上京に放火、4月2・3日、信長軍は京都の郊外に火を放ち、目的は義昭を脅し、和睦交渉に応じさせるためである、すぐに信長の使者が義昭のもとを訪れましたが、それでも義昭は和睦を拒否をした。翌4日、信長の軍勢は、かねてから信長に反抗的であった上京にも放火。同時に二条城を包囲し、義昭に和睦を迫り、しかし、これでも義昭は信長との和睦に応じませんでした。なぜだと思います? 義昭は、信玄や浅井・朝倉が助けてくれると、まだ期待していたからである。一時的な和睦の期間、しびれを切らした信長は、正親町天皇に働きかけます。4月7日、関白の二条晴良が義昭を説得。こうして、ようやく二人は和睦したのでした。大船の建造、和睦したとはいうものの、義昭が再び反旗を翻すと踏んでいた信長。5月に佐和山を訪れ、大船の建造を命じました。7月5日に完成した大船は、長さ30間(54メートル)・幅7間(13メートル)という、当時としてはかなりの大きさ。そしてこの大船、すぐに使われることになるのである、義昭、執念の再挙兵(福島の戦い)しぶしぶ信長と和睦するに至った義昭は、信長が岐阜に戻る頃には怪しい動きを見せていた。5月になると反信長連合の結成を呼び掛けるため、諸国の大名たちに書状を送っています。朝倉・毛利・顕如・武田信玄など、 信玄? 信玄は先月に亡くなったのである。元亀4年(1573)7月3日、義昭は信玄の死を知ってか知らでか、槇島城(現京都府宇治市)に立て籠もりました。報せを聞いた信長は、造っておいた大船で琵琶湖を渡り、9日には京都の妙覚寺(みょうかくじ・現上京区)に着陣をする。二条城には、幕府奉公衆の三淵藤英や武家昵近(じっきん)公家衆の日野輝資・高倉永相らがいましたが、すぐに降伏。三淵藤英は降伏を拒否したものの、説得に応じて7月12日に開城をされた。七月16日には義昭の立て籠もる、槇島城に軍勢が派遣されました。織田軍はなんと、主だった武将たちが率いる総勢7万もの大軍勢! 翌17日には信長本人も京都を出陣している。そして7月18日、織田軍は二手に分かれ、槇島城への攻撃を開始した。槇島城は巨椋池(おぐらいけ/かつて存在した周囲約16キロメートルの湖沼)の中に築かれた水城。難攻不落にも思えた槇島城でしたが、この日のうちに開城を余儀なくされた。反信長包囲網の黒幕から一転、義昭は敗軍の将となります。ところが、信長はそんな義昭を殺すことなく、“追放”としたのである。これは信長が、世論を気にしたからとも考えられています。義昭の槙島城の退去をもって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡した。信長は7月28日、それまで義昭の存在によって実現できなかった、天正への改元を行った。義昭の追放によって、信長は改元の権限をも握ることができたのです。かつては蜜月関係だった二人。明暗がくっきりと分かれた。一方、京都を追放された義昭は、枇杷庄(びわのしょう)(現京都府城陽市)、津田城(現大阪府枚方市)を経て、若江城(現大阪府東大阪市)へと移ります。その道中、「貧乏公方」と民衆から笑われたのだとか……。若江城で義昭を匿ったのは、義昭の妹婿に当たる三好義継でした。義継にしてみれば、義昭を受け入れないわけにはいかなかったのです。しかしこの行動が、同年11月の若江城の戦いへとつながっていった。
2024年08月31日
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「江戸時代」吉統の嫡子大友義乗は早くより父のもとを離れ、遠く江戸の徳川家に預けられていたので連座させられることはなく、戦後は徳川家の直臣である大身旗本として取り立てられたが、その子義親の代になって大友氏は無嗣絶家した。肥後熊本藩で細川家に仕えていた義乗の異母弟松野正照(熊本藩士)の子松野義孝をもって家門を再興させることが許され、高家として存続した。 15、「おわりに」天正16年(1588)2月に秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した。また従四位下、侍従に叙され、後の文禄の役の年の正月には参議ともなった。天正18年(1590)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している。天正20年(1592)、文禄の役に黒田長政勢5000と共に第三軍として兵6000を率いて参戦。長政に同行して金海城の戦いなどで活躍した。同年2月には嫡子・大友義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。「豊後府内改易」文禄2年(15933年)、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れ、軍目付の熊谷直盛、福原直高が派遣されて詰問されて名護屋城に召還を命じられる。吉統は剃髪して宗厳を号し、大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの、石田三成らの意見を聞いた秀吉から5月1日に改易を言い渡された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。「改易の後」吉統は、江戸(徳川氏)、水戸(佐竹氏)、山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして、世をしのいだ。慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死により、慶長4年(1599)に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。「関ヶ原の戦い」慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康から嫡子義乗が徳川家預かりの身で嫡男徳川秀忠の近侍を許されていたことから絶対に東軍に味方すべきだと言う忠臣吉弘統幸の諫止を退けた。それは大坂城下に側室と庶子の松野正照が西軍によって軟禁されていたためだとされている。西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。9月の石垣原の戦いでも、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実際は豊後杵築城の細川家の重臣松井康之)らの連合軍に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。今度は徳川家から幽閉される身となった。関ヶ原の後、東軍配下の細川家領の豊後杵築城を攻めたという咎で、吉統は出羽の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。この流刑地で大友氏に伝わる文書を「大友家文書録」にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。吉統は慶長15年(1610年)に死去する。享年53歳。戒名は中庵宗厳。大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。「人物・逸話」『九州諸家盛衰記』では「不明懦弱(ふめいだじゃく)」と書かれている。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味である。天正遣欧少年使節が帰国した際、宣教師たちに棄教のことを謝罪したが、この中で「もとより自分は意志薄弱で優柔不断な性分なので」と言及している。(フロイス日本史)相当、酒癖の悪い人物であったらしく、多くの宣教師の資料に「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。自身も自覚していたのか前述の通り、子・義乗に残した家訓に「下戸である事」と戒めを記している。父・宗麟がキリスト教に傾倒し神社仏閣を破壊したという話が知られているが、大友氏の本拠である豊後国内や筑後国内での破壊は、当時次期当主であった義統が積極的に行っており、義統が主導した可能性もある。島津氏の一軍が豊後府内に侵攻してきたとき、義統は府内の大友館を捨てて逃亡している。さらにこのとき、寵愛する愛妾を置いていたことを思い出して、家臣の1人に救出を命じた。家臣の1人は命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞を与えようとすると、「私は女を1人助けたに過ぎません。このたびの戦いで多くの同朋が死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞を与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて、逐電したという。この家臣の名は「臼杵刑部」といい、のちに毛利輝元に仕えたという。文禄の役の失態に関しては、同じように小西行長からの救援要請が小早川秀包や黒田長政にも出されており、両者ともこれを拒否している。にも関わらず、黒田・小早川は何の処罰も受けず、義統(当時は吉統)のみが改易処分と厳しい処置を取られたのは、秀吉家臣の讒言を受けた為とも、梅北一揆に大友氏の一族が加担していたとの風説があった事などにより秀吉が不信感を前々から抱いていたという説がある。父・宗麟との対立は、隠居後、自由奔放にキリスト教へ極端に傾倒していった宗麟に対し、反感を抱いていた反キリスト教の家臣団と、離別後も強い影響力を持った実母・奈多夫人の影響が強かった為とされる。特に奈多夫人は義統に対して影響力が強かったようで、宗麟と後妻との間に子が出来た事を知ると、その子供が男・女に関わらず殺すようになどと進言し、関係はさらに悪化したとされる。耳川の戦いは父・宗麟主導によるものとされているのが通説であったが、宗麟は隠居後の天正5年(1577)や天正6年(1578)は領国関係に関する文書・史料が発見されていないため、義統主導によるものとされている。いずれにせよ、九州を島津氏とキリシタン大名、大友氏が二分して、覇権を競って押され気味の大友氏は秀吉に救いを求めた。関ヶ原に戦いに西軍につかなければ大儀があったわけだが、結局敗軍の西軍の制裁は改易以外の何物もない。同じ西軍に着いた島津藩はしたたかに江戸・幕末時代まで生き残る事が出来た。了
2024年08月30日
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そして島津氏と大友氏の争いの中で種実は大友領を次々に侵食してゆき、最終的には筑前、豊前、筑後国北部に36万石にも及ぶ広大な所領を有し、秋月氏の最盛期を築き上げる。天正13年(1585)には島津氏の大友領侵攻に従って岩屋城を攻めた(岩屋城の戦い)。「日向へ移封」天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍しようとした際は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。秀吉は恵利へ、降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与えるとした。復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利へ退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなった。このとき、種実は剃髪し、楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された。種実はその際、「10石でもいいから秋月に居たい」と嘆いたとする。失意の種実は、家督を嫡男・種長に譲って隠居した。岩石城が1日で陥落し、秋月種実が3日にして降伏したことは、抜群の宣伝効果をともなって戦況に決定的な影響をあたえることとなった。これ以降、それまで秀吉に敵対の構えを示していた島津方の在地勢力は戦わずして続々と秀吉に臣従した。事前の黒田孝高の地ならしが功を奏したとはいえ、想像を超えた秀吉の大軍に殆どの武将は強烈な印象を受け、戦意を喪失してしまったものと考えられる。4月10日、秀吉は筑後高良山、16日には肥後隈本(熊本県熊本市)、19日には肥後八代(熊本県八代市)に到着した。この時、肥前の龍造寺氏は家臣の鍋島直茂が秀吉と早くから内通していたこともあって豊臣軍に帰参した。また島原方面では、有馬晴信が秀吉方となった。秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた島津忠辰はこれを放棄して薩摩国の出水(鹿児島県出水市)にまで撤退した。*「有馬 晴信」(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている[3]。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴の偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名した。元亀2年(1571)、兄の義純が早世したため5歳の時に家督を継承した。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、天正12年(1584)に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州平定においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。家督を継いだ当初はキリシタンを嫌悪していたが、天正8年(1580)に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。天正15年(1587)に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。 15、「九州平定戦後処理」「戦後処理」義久が降った後も、飯野城に籠った島津義弘、婿養子忠隣を失った島津歳久らの抵抗が続いた。5月22日、義弘は義久の説得により子息島津久保を人質として差し出すことを条件に降伏した。川内の泰平寺から北に向かった秀吉本隊は6月7日、筑前筥崎(福岡市東区箱崎)に到着、筥崎八幡宮で九州国分令を発した。5月13日 秀吉は羽柴秀長へ全11ヶ条の「条々」を下す。大隅・日向両国の「人質」解放を命令したこと、長宗我部信親の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、島津義久降伏の様子、黒田孝高を添えて毛利輝元、小早川隆景、吉川元長を薩摩国に移陣させること、志賀親善の忠節に報い大友宗麟の判断で日向国内に城を与えること、大友義統と談議し豊後国内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は大友宗麟の覚悟次第とすること、宇喜多秀家、宮部継潤、蜂須賀家政、尾藤知宣、黒田孝高に日向国、大隅国、豊後国の城普請および城わりを命令、豊前国の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。「大友家文書録」島津氏に関しての沙汰は、筥崎での九州仕置発表に先立つ5月中にすでになされていた。島津氏は、最終的に、九州において新たに獲得した地域の大部分を没収されたが、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩・大隅の2国に日向の諸県郡が安堵された。義久(龍伯)に薩摩一国、義弘に大隅と日向諸県郡、義弘の子島津久保には諸県郡のうち真幸院があたえられた。家久は佐土原城を明け渡し、秀長とともに上方へのぼろうという矢先の6月に急死した。病死とも毒殺ともいわれているが、家久の嫡子島津豊久には日向の都於郡(西都市)と佐土原が安堵された。秀吉は秀長に、大友宗麟に日向一国を与えて伊東祐兵をその与力とし、伊集院忠棟領一郡を除く大隅を戸次川の戦いで嫡男信親を失った長宗我部元親に与える計画を伝えた。これは、秀吉が秀長に充てた天正15年5月13日付の書状に残されているが、宗麟と元親はともに固辞したため実行にうつされなかった。なお、宗麟はこの年の5月23日、隠居の地とした豊後津久見(大分県津久見市)において死去している。肥後国は大半が佐々成政に与えられ、肥後国人衆がその家臣団として旧領を安堵された。肥後人吉(人吉市)は相良氏家臣深水長智の交渉により相良頼房に安堵された。そして、小早川隆景には筑前・筑後・肥前1郡の約37万石、黒田孝高には豊前国のうち6(5・5)郡(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐半郡)の約12万5000石、森吉成には豊前企救郡・田川郡の約6万石、立花宗茂には筑後柳川城(福岡県柳川市)に13万2000石、毛利勝信には豊前小倉(福岡県北九州市)約6万石をそれぞれあたえた。小早川隆景は、みずからにあたえられた領地のうち筑後3郡を毛利秀包に割いた。宗麟の子大友義統には豊後一国と豊前の内で宇佐半郡が安堵された。龍造寺政家、純忠の子大村喜前、松浦鎮信は、それぞれ肥前国内の所領が、宗氏には対馬国が安堵された。さらに、大規模な蔵入地も設定されたが、これには九州地方を「唐入り」の前進基地とする意図がこめられていた。
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その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫した。義久・義弘は都於郡城に退却し、家久も佐土原城(宮崎市佐土原町)に兵を引いた。さらに、豊臣秀次が都於郡城を攻略し、三ツ山(宮崎県小林市)・野尻(小林市)の境界にある岩牟礼城(小林市)まで侵攻した。義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠った。後に、宮部継潤が日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、この働きに「法印(継潤)が事は巧者のものにて、天下無双」(川角太閤記)と秀吉をうならせた。 この戦いは、豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦戸次川の戦いに望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った戦いであった。 14、「豊前の戦い」秀吉は、赤間関での秀長との軍議のあと、そこから船で九州に渡って筑前へと向かった。3月28日、小倉城に到着し、翌29日には豊前馬ヶ岳(行橋市大谷)まで進軍し、島津方の秋月種実が本拠とする筑前古処山城(福岡県朝倉市秋月)・豊前岩石城(福岡県田川郡添田町枡田)を攻めることとなった。*「古処山城」(こしょさんじょう)は、福岡県朝倉市野鳥にあった日本の城である。秋月氏の本拠地であった。建仁3年(1203)、秋月氏の先祖である原田種雄が築城した。弘治3年(1557)、大友氏による猛攻により陥落し、城主秋月文種は自害、次男秋月種実は毛利元就のもとへ落ち延びた。その後は大友氏が城を守っていたが数年後に秋月種実は城を取り戻し、12郡36万石を治める大名となり最盛期を迎える。しかし天正15年(1587)、豊臣秀吉による九州征伐に敗れ、秋月氏は日向国高鍋3万石に移され廃城となった。元和9年(1623)に黒田氏が秋月5万石を所領し、古処山城麓に秋月陣屋を築いた。 3月29日の軍議では、秀吉は岩石城堅固とみて、豊臣秀勝・蒲生氏郷・前田利長らを押さえとして留め、細川忠興・中川秀政・堀秀政を古処山城攻めにあてようとした。しかし、氏郷・利長は岩石城攻めを主張し、みずから攻城担当をかって出たので、秀吉は豊臣秀勝を大将に先鋒の蒲生氏郷・前田利長隊に命じて岩石城を攻撃させた。戦いは4月1日にはじまり、蒲生軍が大手口から、前田軍が搦手口から岩石城を力攻めし、一日で攻略した。城兵3000のうち約400が討死するという激しい戦闘であった。秋月種実は、この戦闘のようすを筑前益富城(福岡県嘉麻市大隈)から窺っていたが、敗色濃厚とみて益富城を破却して放棄、兵を集中させるため本拠の古処山城に撤退した。*「益富城」(ますとみじょう)とは、福岡県嘉麻市中益にあった日本の城である。永享年代、九州征伐の際に大内盛見が築城したといわれている。その後は日田街道と長崎街道を結ぶ町交通の要衝である大隈に築城された当城は争奪戦の的となり、永禄期(1560年頃)には毛利元就が領有し、城番に杉忠重を置いた。戦国時代末期には、古処山城を本拠とする秋月氏の支城の一つとなった。安土桃山時代、豊臣秀吉による九州の役(天正14年(1586)- 天正15年(1587))で秋月氏が敗れた後は早川長政が城番となったが、早川氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため、領地を召し上げられた。その後は関ヶ原の戦いの功績により筑前国一国を与えられた黒田氏が筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つとして位置づけ、家臣を居城させた。一時後藤基次が城主を務めたが、慶長11年(1606)に基次が出奔した後、六端城の一つであった筑前国鷹取城より母里太兵衛が移されたが、 元和元年(1615)に発布された一国一城令により、他の六端城とともに廃城とされた。豊臣軍が九州征伐で秋月氏が守る岩石城をわずか1日で陥落させたことにより、秋月氏は当城を破却して本拠の古処山城へ退却した。が、翌日の夜、古処山城から見下ろした大隈は火の海であった。そのうえ夜が明けると益富城は見事に修復されていた(一夜城ともいう。岐阜県の美濃攻めの一夜城とは違う)。実際は火の海にもなっておらず、村人が一斉に篝火を焚かせたものであり、城も村人の障子などを貼ったものであった。さらに、益富城に十分な水が溜まっているように見せかけるために白米を滝の如く流させたという話が残っている。(流した跡も残っている)これに騙された秋月氏は戦意喪失し、降伏した。なお、この作戦に協力した村人に豊臣秀吉は陣羽織を与え、永世貢税を免除した。 秀吉は、古処山城攻めに5万の軍勢を送り込み、夜中に農民に松明を持たせて周囲を威嚇、さらに、翌日には秋月方が破却したはずの益富城の城壁を奉書紙を用いて1日で改修したように見せかけて、秋月方の戦意を喪失させることに成功した。4月3日、秋月種実は剃髪し、子の秋月種長とともに降伏した。このとき種実は、茶器「楢柴肩衝」と「国俊の刀」および娘竜子(後、城井朝房正室)を秀吉に差し出した。*「秋月 種実」(あきづき たねざね)は、戦国時代末期から安土桃山時代前期にかけての武将・戦国大名。秋月氏16代当主。「大友家への反抗」天文17年(1548)、筑前国の国人である秋月氏15代当主・秋月文種(種方)の次男として誕生したといわれる。弘治3年(1557)、父・文種や長兄・晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて古処山城落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防国山口に落ち延びた。永禄2年(1559)1月、秋月氏の旧臣・深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、種信は長野氏を継いで豊前馬ヶ岳城主となり、元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。秋月氏の名が史上もっとも現れるのは、この種実の代からである。永禄10年(1567)、高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと種実も同調し、9月3日の休松の戦いでは夜襲を敢行し大友軍の精鋭を大いに討ち破った。この戦いで戸次鑑連(のちの立花道雪)の一族は大打撃を受け、鑑連の弟・鑑方らが討死した。これにより毛利元就の九州侵攻も始まり、永禄11年(1568)には立花鑑載が大友氏に反旗を翻すなど、一時は反大友勢力が優勢だったが、7月23日に立花山城が大友軍によって陥落され、永禄12年(1569)5月28日に毛利軍も多々良浜の戦いで大友軍に敗れたため、8月に種実は大友宗麟に降伏した。天正6年(1578)に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに宗麟の暴悪「十ヶ条」を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者達同士で連判し合った。天正8年(1580)2月には豊前の猪膝にて大友方の首級800を討ち取るなどした。しかし、種実の侵攻は立花道雪と高橋紹運によって悉く退けられてしまう。天正12年(1584)に隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、代わって勢力を伸ばしてきた島津義久に従属する。大友軍の立花道雪が島津氏と龍造寺氏を挟撃しようという使者を出す前に、いち早く龍造寺と島津の和睦交渉の橋渡し役となり、なおも大友氏に反抗、島津氏と龍造寺氏の争いを回避し、島津氏が大友攻略に戦力を絞る役割を果たした。
2024年08月30日
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12、「秀吉九州へ出陣」天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)宗麟は秀吉に出馬を何度も促した。天正14年(1586)12月1日、秀吉は小西隆佐など4人の奉行に30万人分の兵粮米・馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じ、各地より尼崎へ輸送させた。天正15年(1587)元旦、秀吉は年賀祝儀の席で、九州侵攻の部署を諸大名に伝え、軍令を下した。以後、正月25日の宇喜多秀家を嚆矢として、2月10日には弟秀長が、3月1日には自らも出陣した。秀吉の出陣に際しては、勅使・公家衆・織田信雄などが見送った。秀吉の出陣当時の戦奉行黒田孝高あて朱印状には「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と記されている。肥後方面軍を秀吉自身が、日向方面軍を豊臣秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。なお、豊臣軍の陣立は、以下の通りである。*肥後表陣立((天正15年)三月二十五日付秀吉朱印状より)一番隊 毛利吉成、高橋元種、城井朝房二番隊 前野長康、赤松広英、明石則実、別所重宗三番隊 中川秀政、福島正則、高山長房四番隊 細川忠興、岡本良勝五番隊 丹羽長重、生駒親正六番隊 池田輝政、林為忠、稲葉貞通七番隊 長谷川秀一、青山忠元、木村重茲、太田一吉八番隊 堀秀政、村上義明九番隊 蒲生氏郷十番隊 前田利家十一番隊 豊臣秀勝(総大将 豊臣秀吉)*日向表陣立((天正15年)三月二十一日付秀吉朱印状より)一番隊 黒田孝高、蜂須賀家政二番隊 小早川隆景、吉川元長三番隊 毛利輝元四番隊 宇喜多秀家、宮部継潤因幡衆(亀井茲矩、木下重堅、垣屋光成、南条元続)五番隊 小早川秀秋(番外 筒井定次、溝口秀勝、森忠政、大友義統、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆、長宗我部元親)秀吉の家臣である石田三成、大谷吉継、長束正家が兵糧奉行を務め、兵糧の確保や輸送にあたった。また、上方からの輸送に際しては摂津尼崎港(兵庫県尼崎市)が主に用いられた。秀吉と秀長の九州同時侵攻を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄したため、豊臣軍は瞬く間に島津氏方に属していた城の多くを陥落させた。島津氏は、薩摩・大隅・日向の守りを固める方針に変更した。 13、「日向の戦い」秀長は3月上旬には小倉に達した。このころ、島津家久が豊後松尾城(大分県豊後大野市三重町松尾)にうつり、府内城には島津義弘が入っていたが、豊臣方はすぐに豊後を攻めるのではなく、高野山の僧木食応其を使者として府内城に送って秀吉との講和を勧めた。しかし、義弘はこれを拒否した後、家久と共に豊後から撤退。豊臣方はこれを追い、3月18日に島津軍は豊後・日向国境で大友家臣・佐伯惟定の追撃を受けた(梓越の戦い)。19日、義弘は高城(宮崎県児湯郡木城町高城)にうつり、3月20日には家久とともに日向の都於郡城(宮崎県西都市都於郡)に退いて、義久も含めて兄弟3人はこの城で軍議をおこなった。一方秀吉はかねてより日を定めていた3月1日に大坂城を進発し、山陽道を悠然と下って3月25日に赤間関に到着した。赤間関では秀長と九州攻めに関する協議をおこなった。このとき、上述のとおり、秀長が東九州の豊後・日向をへて薩摩に進軍すること、秀吉が西九州の筑前・肥後をへて薩摩に向かうことが約された。秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。*「松尾城」(まつおじょう)は、日向国縣(あがた、現在の宮崎県延岡市松山町)にあった城。別名「縣城(あがたじょう)」。文安元年(1441)から土持宣綱が築城にかかり、文安3年(1443)に西階城から居城を移したという。以後、土持宣綱・全繁・常綱・親栄・親佐・親成の6代134年間、縣土持氏の本城として機能した。天正6年(1578)4月10日、大友宗麟・義統により落城して縣(延岡)は大友領となるが、同年11月9日から同12日の「高城川原の戦い」(正確には小丸川の戦い、通称では耳川の戦いと言われることが多い)で島津氏が勝利した後に島津領となった。同14日には土持氏は島津氏へ被官し(「川上久辰耳川日記」 / 「都城島津家文書」)、天正7年(1579)からの9年間、島津義久配下の縣地頭として土持高信がこの城に在番した(『上井覚兼日記』)。天正16年(1588)、豊臣秀吉の九州仕置により豊前国香春岳城から17歳の高橋元種が入城し、慶長8年(1603)秋に縣城を築城して移るまでの15年間在城した。この時期には、この松尾城を「縣城」と呼ぶ史料もみられる。一方、現代においてはこの城を延岡城と誤認した記述の間々見られることがあるが、これは全くの誤りである。とくに、一の城は縄張りが最も複雑であり、天正6年(1578)4月の大友合戦とその後の島津氏配下の縣地頭土持久綱による修築、および天正15年(1587)3月の豊臣秀長との合戦時、およびその後の高橋元種の修築によるものと考えられる。高橋元種は北九州の雄として、また、豊前国の要衝であった香春岳城主として、天正14年(1586)に、九州仕置を進める豊臣秀吉配下の毛利・小早川・吉川・黒田軍との激戦を経験しており、縣移封後に修築した松尾城には、当時の築城技術の粋が投入されているとも言える。現在の松尾城跡はその時の遺構である。ただ、この城はもともとは石垣造りであり、高橋元種が縣城(後の延岡城)築城時にその石垣の石を運んで転用したとの伝承もあるが、現地での複数の縄張り調査ではそのような確証は全く得られておらず、当時の築城技術の粋が投入されているとは言え、これは信憑性に乏しく疑問である。 高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった。砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅であったが、逆に包囲される形勢となった。このとき、藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景が後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。
2024年08月30日
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これにより、豊前はその殆どが秀吉方に屈し、豊後での戦線がのこされた。12月1日、秀吉は諸国に対し、翌年3月を期してみずから島津征討にあたることを伝え、畿内および北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道などの約37か国に対し、計20万の兵を大坂に集めるよう命令を発した。また、小西隆佐・建部寿徳・吉田清右衛門尉・宮木長次の4名に軍勢30万人の1年分の兵糧米と軍馬2万疋の飼料の調達を命じ、秀吉家臣石田三成・大谷吉継・長束正家の3名を兵糧奉行に任じて、その出納や輸送にあたらせた。また、小西隆佐には、諸国の船舶を徴発して兵糧10万石分の赤間関への輸送も命じた。豊後鶴賀城(大分市上戸次)は、宗麟の重臣利光宗魚の居城であり、宗麟の2つの居城、すなわち府内の上原館(大分市上野丘西)と丹生島城(大分県臼杵市臼杵)を繋ぐ要衝であった。11月、家久は宗魚の嫡子利光統久の守る鶴賀城を攻めたが、当時、宗魚は肥前に向けて出陣しており手勢は700ほどにすぎなかったため、統久は講和して父と連絡をとった。報せを受けた宗魚は兵を引き返し、11月25日、鶴賀城に戻って家久本陣に夜襲をかけた。12月6日、島津家久は鶴賀城攻撃を開始し、その日のうちに三の曲輪、二の曲輪を攻め、本曲輪一つをのこすのみとなった。利光の軍はよく守り、府内を守る宗麟嫡男大友義統に対し、後詰の兵として援軍を差し向けるよう要請した。しかし、家久は鶴賀城を府内攻めの拠点にすべく昼夜を分かたず攻めつづけ、途中宗魚は流れ矢にあたって戦死した。このとき、府内城には、土佐の長宗我部元親・信親父子、讃岐の十河存保、そして軍監の立場で讃岐高松城主・仙石秀久らの四国勢およそ六千が詰めていた。四国勢は、持久戦により島津軍を食い止めておくよう指示されていたが、利光宗魚の死によって、府内が家久・義弘双方から挟撃される危険が出てきたため、家久軍を戸次川で食い止める必要にせまられ、12月11日急遽出陣することとなった。翌12月12日、戸次川の戦いがはじまった。家久は鶴賀城の囲みを解いて撤退し、坂原山に本陣をおいたが、その軍勢は1万8000にふくれあがっていた。ここで軍監仙石秀久は、長宗我部元親の制止も聞かず、また十河存保も秀久に同調したため、戸次川の強行渡河作戦が採用された。島津勢は身を伏せて川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走、兵の少なくなったところを家久軍主力が寄せた。この戦いで豊臣方は四国勢6000のうち2000を失い、元親の嫡子である長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫した。12月13日、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した府内城を陥落させて、隠居した大友宗麟の守る丹生島城(臼杵城)を包囲した。*「臼杵城」(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。ちなみに丹生島の「丹生」とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。義鎮は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。城には3重の天守と31基の櫓が上げられた。総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。 廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。現在、城郭主要部は都市公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。「戦国時代」15世紀後半、大友氏の16代当主である大友政親が一時的に臼杵に本拠を置いたことが知られている。政親は後に大内義興によって処刑され、本拠地も府内に戻されているが、その菩提寺である海蔵寺は現在の臼杵市内にあった(現在は遺構のみ)。通説では永禄4年(1561)、毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮は、翌永禄5年(1562)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされている。だが、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡(『耶蘇会士日本通信』)には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、その後永禄年間初頭までの大友氏関係文書を分析しても義鎮が要人との会談や家臣の呼出を臼杵において行っており、そのまま「在庄(庄=丹生島がある臼杵庄)」していた可能性が高いことが裏付けられる。従って、具体的な時期を断定する史料は存在しないものの、義鎮自身は弘治3年(1557)前後には臼杵へ拠点を移していたと考えられている。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったとしている。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられている。天正14年(1586)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。その翌年、大友義鎮は死去した。 丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、なんとか持ちこたえた。その後北上する島津軍は杵築城(大分県杵築市)を攻めたが木付鎮直の激しい抵抗を受け失敗、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。肥後の阿蘇から豊後に攻め込んでいた島津義弘の軍勢は12月14日、豊後山野城(竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した。家久は豊後の府内城で、当主島津義久は日向国塩見城(宮崎県日向市塩見)で、それぞれ越年した。
2024年08月30日
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11、「豊前・豊後の戦い」天正14年4月15日に毛利輝元に対して九州への先導役を命じた秀吉は、8月6日には吉田郡山城(広島県安芸高田市)へ使いを送り、輝元に九州出陣を促した。8月16日には輝元自身が安芸国より、月末には小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ九州に向けて進発した。8月26日、神田元忠(三浦元忠)率いる3000の毛利先遣軍は、豊前門司城(北九州市門司区)を出て島津方の高橋元種の支城豊前小倉城(北九州市小倉北区)を攻略しようとして進軍したが、大里(北九州市門司区)周辺で高橋勢の伏兵に苦しみ、秋月種実の攻撃もあって門司城に引き返した。これは、秀吉方と島津方の最初の交戦であった。毛利軍の到着により、西方から筑前を攻略して大友方の城を一つずつ落とすことによって自領を拡大していこうとしていた島津側のもくろみは、見直しをせまられた。9月、秀吉の命によって十河・長宗我部の両氏も豊後に出陣して大友氏と合流した。9月9日、秀吉は朝廷より豊臣姓を賜ったが、このころ、秀吉陣営は豊前国の花尾城(北九州市八幡西区)・広津城(福岡県築上郡吉富町)・時枝城(大分県宇佐市)・宇佐城(宇佐市)、筑前国の龍ヶ岳城(福岡県宮若市)を帰服させた。10月初め、毛利輝元は軍監黒田孝高、叔父の吉川元春・小早川隆景をともなってようやく九州に上陸し、高橋元種の小倉城、賀来氏が守る豊前宇留津城(福岡県築上郡築上町宇留津)を攻撃した。小倉城攻めは当主輝元みずから指揮にあたり、元春・隆景も攻め手に加わった。隠居して元長に家督を譲った吉川元春にとっては久しぶりの合戦であった。10月4日、小倉城の城兵は元種の本城である豊前香春岳城(福岡県田川郡香春町)へと逃亡して陥落、また、豊前馬ヶ岳城(福岡県行橋市大谷字馬ヶ岳)、豊前浅川城(北九州市八幡西区浅川)、筑前剣ヶ岳城がそれぞれ落城して毛利勢に帰服した。ここにいたり、島津義久は、東九州に進軍して大友宗麟の本国である豊後を直接攻撃し、そのことによって雌雄を決するという方針に転じた。九州に乗り込んだ黒田孝高は、翌年に予定されている秀吉本隊の出馬に先だって敵対勢力を除去するため、豊前および筑前地方の島津方武将に対し、寝返りの調略をおこなった。ただし、このときの孝高の調略を仔細に検討した場合、武将が完全に豊臣方に寝返って旗幟を鮮明にした事例はむしろ乏しいという。これについては、秀吉軍進軍の際、味方すれば本領を安堵するが、敵対すれば攻撃するという降誘文書を前もって送付することによって各自身分保障、安堵の決断を迫ったといわれており、秀吉の調略は敵対すれば滅亡、協力すれば身分に褒賞もあることの敵側への揺さぶりである。日本史学者は「これは、秀吉本隊が九州の地に足を踏みいれたとき、秀吉の威に恐れて帰服してくる形にしたからだと思われる」、「秀吉に花をもたせるための、官兵衛苦心の演出だったのではないだろうか」と推測している。10月22日、島津義久は、すぐ下の弟の島津義弘を大将とする兵三万余の大軍で肥後国の阿蘇から九州山地を越えて豊後に侵攻させた。義弘軍は24日には豊後津賀牟礼城(大分県竹田市入田)を落とし、その城主だった入田宗和に案内させて岡城(竹田市竹田)を攻めた。小松尾城(竹田市神原)、一万田城(大分県豊後大野市朝地町池田)などは島津氏にしたがったが、岡城の城主志賀親次の激しい抵抗に苦戦し、停滞を余儀なくされた。*「岡城」(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。伝承では、文治元年(1185)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。天正14年(1586)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。 義久は一方では弟島津家久に兵一万余をつけて、日向表から北上して豊後に侵攻する計画を立てた。家久軍は10月、豊後松尾城(豊後大野市大野町宮迫)、豊後小牧城(豊後大野市緒方町野尻)を落とし、10月23日、大友氏の有力家臣である豊後の栂牟礼城(大分県佐伯市弥生)の佐伯惟定に使者を送ったが、惟定は多数の支城をきずいたほか、佐伯湾の海上警備もおこなうなど徹底して防備につとめ、11月4日には栂牟礼城を出て堅田(佐伯市堅田)で交戦、島津勢の侵攻を阻止した。*「「島津家久」、義久の弟、豊臣との戦い大友軍とも戦いに目覚ましい働きを見せた。九州制覇を目指す島津氏は、豊後国の大友氏を攻めようとしていたが、上洛して秀吉に謁見していた大友氏の援軍として天正14年(1586)、仙石秀久を大将に長宗我部元親・信親父子、十河存保など、総勢6000余りの豊臣連合軍の先発隊が九州平定のために上陸した。家久はこれを迎え撃ち、敵味方4000余りが討死する乱戦となったが、長宗我部信親・十河存保らは討死し、豊臣連合軍は総崩れとなって島津軍が勝利を収めた(戸次川の戦い)。「謎の急死」その後、上方での封土を条件に、島津義久・義弘が降伏する前に4兄弟の中では最も早く豊臣秀長軍と単独講和したが、天正15年(1587)6月5日、佐土原城で急死する。病死説や豊臣側あるいは島津側による毒殺など、様々な説があるが定かではない。ただ、豊臣・島津双方にとって家久を毒殺する意義が少ないことや、秀長の側近である福地長通が義弘に宛てた書状(同年5月13日付)に家久が病気であることが記されていることから、一般には病死したものとされている。享年41歳。 吉川元春は島津方の宮山城を攻略したのち、小早川隆景とともに高橋元種の支城豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)を攻め、11月7日に賀来専慶の守る宇留津城、15日にはさらに元種の支城障子岳城(福岡県京都郡みやこ町)を攻撃した。元春はこの陣のなかで病没したが、吉川勢は元種の本城香春岳城(香春町)を20日間にわたって猛攻を加え、12月上旬、元種を降伏させた。*「吉川元春」の最期、天正10年(1582)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585)、隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。天正14年(1586)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州平定に参加した。しかしこの頃、元春は化膿性炎症(癌とも)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57歳。
2024年08月30日
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「臼杵城の戦い」宗麟の臼杵城は、丹生島城ともいう城であった。その名のとおり、草履型の丹生島にある城で干潮時にだけ対岸と陸続きとなる城だった(現在の臼杵市丹生島の公園は埋め立てられたものである。)。つまり、干潮時か水軍がないと攻められない城というわけである。家久軍は兵力で優勢だったがこれでは攻めようがなく、また宗麟は国崩と名づけたポルトガル伝来の大砲を使って家久軍を翻弄した。結果的に家久は臼杵城を落とせず、撤退を余儀なくされた。「鶴崎城の戦い」家久は臼杵城を落とすにあたって、その支城である鶴崎城の攻略を伊集院久宣・野村文綱・白浜重政に任せている。当時の鶴崎城主は吉岡統増(鎮興の子)であったが、統増は臼杵城に詰めており、守っていたのはその母である妙林尼という尼僧であった。ところが妙林尼は落とし穴戦法など巧みな戦術で島津軍に多大な損害を与えた。が、兵糧が尽きて降伏する。このとき島津軍と城方は宴会を開いて久闊を祝したが、天正15年(1587)3月に家久から撤退命令が届いた。秀吉は前年末に徳川家康を上洛させることで臣従させており、畿内の大軍を九州に派遣したのである。このため、島津軍は撤退することになったが妙林尼は反撃の機会を待っていたため、島津軍が乙津川あたりに到達したときに奇襲をかけた。この奇襲で久宣と重政が戦死し、文綱も戦傷を負いながらも味方の撤退を助けたが、後にこれがもとで死んだ。「日出生城の戦い」義弘本隊は山野城を落とした後も繁美城、阿南郷の船ヶ尾城、松ヶ尾城などを落として大分郡・玖珠郡などの平定を行なっていた。ところが、岡城の志賀親次が巧みなゲリラ戦を行なって義弘本隊を足止めし、やむなく義弘は新納忠元に別動隊を編成させて両郡の平定を行なわせた。結果的に乾城や玖珠城、城ヶ尾城などを陥落させたが、角牟礼城では宿利外記という弓矢の名手に苦しめられて撤退した。日出生城では城主の帆足鑑直が妻の鬼御前と出撃し、角牟礼城で敗れて休憩していた忠元軍を奇襲した。鬼御前の活躍で圧倒的兵力を誇っていた忠元軍は狼狽して忠元自身も負傷して敗走した。「秀吉への敵意」天正14年(1586)末、秀吉は家康を上洛させて臣従を確認すると、翌天正15年(1587)から大軍を九州に差し向けた。 そんな時に島津義久は、源頼朝以来の名門島津が秀吉ごとし「成りあがり者」と朝廷より関白の称号を贈られた秀吉に「関白として礼遇しない」と憎々しげに周りの者に吐き捨てた。このため、豊後を完全に平定できなかった島津軍は3月には撤退をすることになり、その撤退においても島津軍の侵攻で落城させられなかった親次や惟定らの追撃を受けて大きな損害を出した。 10、「筑前の戦い」秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は天正14年(1586)6月、筑前への侵攻を開始した。6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代に到着した。そして、島津忠長・伊集院忠棟が先陣を勤め、これに島津忠隣・新納忠元・北郷忠虎・川上忠堅らが続く形で、大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城(佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。7月6日、筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した。秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として先ず黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。ただし、秀吉は国分執行が順調に進まない場合も想定して、輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利勢のほか讃岐国高松城主の仙石秀久、土佐国岡豊城主の長宗我部元親にも軍勢を率いての九州渡海を命じている。一方、島津軍は7月12日に本陣を筑前天拝山(福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運の守る筑前岩屋城(福岡県太宰府市太宰府)、紹運長男で19歳の立花宗茂の守る立花山城(福岡県糟屋郡新宮町立花)、紹運次男で13歳の高橋統増(のちの立花直次)の守る宝満山城(太宰府市北谷)を攻撃目標に定めた。7月13日以降、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の強い抵抗によって攻めあぐねた。立花宗茂は立花山城への合流を勧めたが、父紹運はわずか700名の兵によって島津勢をひきつけ、これを持ちこたえて秀吉の援軍を待つべしと主張した。島津軍は、7月27日にようやく岩屋城を陥落させたものの、上井覚兼は負傷、死者数千名の損害を出すという大誤算であった。大友方は、紹運が自刃、千余名にふえた城兵はすべて討死という壮絶な戦いであった。島津勢は8月6日には宝満山城も陥落させたものの、立花山城については立花宗茂の守りが堅固でなかなか攻め落とせなかった。攻め手の将である島津忠長と伊集院忠棟は宗茂を寝返らせるよう降伏勧告をおこなったが、宗茂がこれを断り調略が奏功しないなか、毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍したとの報に接した。そこで8月24日、島津勢は、立花城攻めをあきらめて包囲を解き、立花城近くの高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町上須恵)に星野鎮胤・星野鎮元はじめ押さえの兵を割いて撤退を開始した。こののち、宗茂は翌8月25日に高鳥居城を奪取、8月末までには毛利先遣軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した。
2024年08月30日
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*「朽網 鑑康」(くたみ あきやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。法名は宗暦(そうれき)。大友氏一族入田氏の入田親廉(ちかかど、表記は親門とも)の次男。大友義鑑より偏諱を賜り、最初は入田鑑康、後に、朽網親満の謀反により絶えていた大友氏譜代の藤原姓古庄氏嫡流の朽網氏を継いで朽網鑑康と名のる。天文19年(1550)の二階崩れの変の際に義鑑や兄親誠が亡くなったが、鑑康は義鑑の跡を継いだ義鎮(宗麟)に引き続き仕え、永禄12年(1569)からは大友氏の加判衆を務める。門司合戦、菊池義武、秋月文種、土持親成、立花鑑載等の討伐に出陣。永禄12年(1569)の多々良浜の戦いでは一萬田鑑実親子と共に毛利方の乃美宗勝、桂元重を撃退した。天正6年(1578)、日向国耳川の戦いでは、志賀親守と共に肥後国方面軍の総大将を勤める。天正14年(1586)の豊薩合戦の際は、既に隠居の身で病床にあった。居城山野城の支城・三船城を固めはじめたものの、兵が降伏しようとしたことに激怒、病をおして戦いに臨んだ。しかし三船城を守っていた嫡子鎮則は山野城へ撤収。共に篭城したものの、病死した。一説には、和睦を考えた鎮則の態度に憤って死んだともいう。「キリシタンになりたかった鑑康」鑑康は宣教師らの教えを聞き、嫡子鎮則と共にキリシタンに入信しようとしたが、一族と菩提寺の僧侶の猛反発にあい、断念した。代わりに家督に関係がうすい次男と三男(四男もいたとされる)を入信させた。さらに自分の領地の布教活動を許可し領民300人が入信した。このことは歴史の教科書の資料集に時折出てくる。さらに朽網家の家老2人もキリシタンとなった。鑑康、鎮則親子はキリシタン信者がもつコセッタという玉をいつも持っていたことが宣教師の記録にある。このことは日本側の資料には書かれていない。*「朽網 鎮則」(くたみ しげのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友義鎮(宗麟)より偏諱を賜り鎮則を名乗る。天正6年(1578)、大友氏の日向国攻めに参陣せず、父・宗暦と肥後国に駐留。天正14年(1586)末、島津氏の豊後国侵攻(豊薩合戦)に際しては、当初は三船城で戦うが、抗戦しきれずと判断し密かに居城山野城へ撤収。そこで篭城したものの、父の死もあって将兵の士気は低下、翌15年(1587)1月、開城し島津軍と和睦した。その後河内山へ移って父の骸を岳麓寺に葬っている。同年秋に豊臣秀吉の九州平定が始まった際、大友義統は島津に降った者を許さず討伐を決定した。対象の一人となった鎮則は、岳麓寺住職の進言で佐賀関経由で上方へ逃れようとするも、途中の大分市乙津で徳丸筑前守の追手に包囲され、切腹入水した。子の統直は国東郡都甲で討死、他の一族は肥後方面へ脱出したという。「朝日岳城・栂牟礼城」日向路から豊後に攻め入った家久軍の最前線である朝日岳城を守るのは大友氏の重臣である柴田紹安であったが、この紹安は戦わずして降伏した。このため、佐伯惟定(惟直の子)の栂牟礼城が最前線となり、その惟定は11月4日に八幡山で家久軍と野戦で戦い、兵力で不利ながらも勝利した(堅田合戦)。大友氏では戦わずして降伏した柴田紹安に対して*佐伯惟定を差し向け、また家久も紹安の翻意を疑って重用せず、紹安が居城の星河城に援軍を差し向ける要請をしても応じなかった。もともと、島津氏への降伏自体が紹安の単独行動だったようであり、12月4日に佐伯惟定に内応した武将によって星河城は落城して柴田一族は殺戮された。紹安は援軍を送らなかった家久を恨み、島津氏に叛旗を翻したが、すぐに鎮圧されて殺された。「穴囲砦の戦い」穴囲砦は囲ヶ岳砦とも因尾砦ともいう。砦といってもただの洞穴だが、その洞穴を島津軍は落とすことができなかった。家久は大野郡の要衝である松尾城を落とした後、番匠川沿いに北上して栂牟礼城を目指した。ところが、在地の百姓が島津軍の到来を知ってこの砦に立て籠もって抗戦。島津方は砦を落とせず撤退に追い込まれた。「鶴賀城の戦い」佐伯惟定の奮戦で栂牟礼城の攻略をあきらめた家久は、鶴賀城に兵を向けた。この鶴賀城は大友宗麟の臼杵城(丹生島城)と義統の府内城の中間に位置する要衝で、守るのも大友家で勇将の誉れ高い利光宗魚であった。利光宗魚は兵力で圧倒的に不利でありながら、11月26日には家久軍に夜襲をかけるなどして島津軍を翻弄した。家久も12月3日に総攻撃をかけて宗魚の腹心である佐藤美作守を討ち取るなど、一進一退の攻防が続いた。12月6日には家久軍の猛攻で三の丸・二の丸を落とされて利光方の朝見景治が戦死。12月7日には残る本丸の攻防戦で宗魚が戦死する。しかし利光方は宗魚の弟の成大寺豪永が徹底抗戦して落城はひとまず免れた。鶴賀城の援軍要請を受けた義統は、直ちに援軍に赴くことにした。このとき、府内城には大友軍のほか秀吉が援軍の先発隊として送り出した讃岐十河城の十河存保、土佐の長宗我部元親・信親父子、そして軍監の讃岐高松城の仙石秀久などの軍勢が集結しており、総勢では家久軍を上回る大軍となっていた。12月12日、大友軍は鶴賀城の西にある戸次川(大野川)の対岸にある鏡城に陣を置いた。ところが、ここで開かれた軍議で秀久が強硬に出撃を主張した。それに対して、存保や元親父子らは慎重策を主張して両者は対立した。もともと、仙石氏・十河氏・長宗我部氏らは四国でそれぞれ戦った面々でしこりが残っており、団結など望めず結果的に鶴賀城を救援したい義統の主張や秀吉直臣の軍監という権威があった秀久の強硬論により大友軍は出撃する。だが、家久は島津氏お得意の釣り野伏せ戦法で伊集院久宣に殿軍を任せてわざと退却していった。その一方で自らと新納大膳、山田有信らの部隊を伏兵として控えさせており、大友軍が久宣を追撃して応当村まで到達するとここに伏せていた家久・大膳・有信らが一斉に打って出た。しかも退却していた久宣軍も引き返して反攻したため、大友軍は四方から取り囲まれて大敗を喫した。主だった者では存保・信親・戸次統常らが戦死した。この大敗で、鶴賀城は家久に降伏した。府内城の戦い戸次川の大勝で勢いに乗った家久は鏡城や小岳城を落として北上し、12月13日には大友家の府内城を落とした。わずか1日で落とせたのは、義統が戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたからである。(当時、豊前には毛利輝元と軍監の黒田孝高がおり、これらに援軍を要請している。)
2024年08月30日
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ところが、こうしたことから主君・吉統(義統)からはかえって疎まれることになった。なかでも、宗麟の死後にキリスト教は禁教とされるも、親次は棄教を拒否し豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていたが、親次が義乗の大阪訪問に随行中に吉統によって宣教師達は豊後から追放される仕打ちをうけている。天正20年(1592)の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため戦況を見誤り撤退を義統に進言してしまい、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。なお、「フロイス日本史」の大友氏に関する記述は、このときに親次が仕官先を求めて上京するところで終わっている。その後は、蜂須賀家政に仕え日田郡大井の荘一千石を領有し、関ヶ原の戦いの際には九州で大友義統に石垣原の戦いに支援、のち福島正則、小早川秀秋(九百五十石)、再び福島正則、毛利輝元にそれぞれ仕えた。95歳で(一説93歳)で死去、宇部市小野に墓が現存し、子孫は同地に残っている。一部の子孫は九州に戻って細川氏に仕え熊本藩士として明治まで続いたという。*「岡城」(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。伝承では、文治元年(1185)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。天正14年(1586)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺められるところに建てられている。大野川を挟んで岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城からでもその音を聞くことが出来る。周辺は整備され毎年4月に「岡城桜まつり」が開催され、大名行列が再現されている。城址の保存状態に対して評価が高く、多くの見学者が訪れる観光地となっている。晴れた見通しのいい日は城山から祖母山、傾山、阿蘇山、および九重連山を望むことができる。「駄原城の戦い」岡城には押さえの兵を残し、義弘はその支城の攻略を行なった。だが、騎牟礼城攻略には失敗し駄原城では朝倉一玄の奇略(どんな装置なのか史料がないので不明だが、留守の火縄という城が突然燃え上がるような装置を作り出したとされる。)で島津軍の逆瀬豊前守が戦死した。笹原目城では阿南惟秀の謀略にかかって白坂石見守が戦死するなどした。「山野城の戦い」義弘本隊の主力を指揮する*新納忠元は南山城を落として直入郡に入り、山野城の*朽網鑑康を攻めた。鑑康はすでに85歳の高齢だったが、島津軍に果敢に立ち向かった。支城の三船城が島津に落とされてもひるまなかったが、高齢で采配したのが災いして12月23日に*鑑康は死去した。山野城は12月24日に鑑康の遺児・鎮則が降伏して開城した。*「新納 忠元」(にいろ ただもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。大永6年(1526)、新納祐久の子として誕生。新納氏は島津氏の一族であり、忠元の家系はその庶流にあたる。天文7年(1538)、13歳で父に連れられ島津忠良にお目見えして出仕。以降、島津貴久と島津義久の2代にわたって仕えた。天文14年(1545)に入来院重朝を攻めた際には、入来院氏の家臣を一騎討ちで倒して勝利に貢献している。永禄5年(1562)には横川城攻めに参加し、永禄12年(1569)には赤池長任の後に入った菱刈隆秋の拠る大口城を攻め、負傷しているにも関わらず戦場を駆けて「武勇は鬼神の如し」と評された。その後は薩摩国大口の地頭を務めた。元亀3年(1572)の木崎原の戦いでも活躍し、天正2年(1574)には牛根城にて1年以上も籠城を続ける敵将を降伏させるために、自らの身柄を人質として差し出したりもしている。天正9年(1581)の水俣城攻め、天正12年(1584)の沖田畷の戦いなどでも活躍し、豊臣秀吉の九州征伐時も徹底抗戦を主張し、主人である島津義久の弟義弘が降伏するに及んでようやく秀吉に降伏した。朝鮮出兵のときは、薩摩の留守居を任された。関ヶ原の戦いの際は、島津義弘の帰国後に加藤清正が葦北に侵入してきたと聞き及び、当時詰めていた鹿児島から大口城へと急遽帰城して、敵の来攻に備え国境を固めた。慶長15年(1610)の冬頃に危篤状態となり、義久、義弘、家久(忠恒)の平癒の願いも虚しく大口城にて死去した。享年85歳。
2024年08月30日
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落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。「戦後」紹運以下の徹底抗戦は、最終的には玉砕で終結した。ただし、島津軍への打撃も大きかったため、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃が鈍化した。立花山城攻略に時間を費やしている内に、豊臣軍20万が九州に上陸。島津軍は薩摩本国への撤退を余儀なくされた。紹運の命を引き換えにした抵抗は、結果的に島津軍の九州制覇を阻止することにつながった。 9、「島津の猛攻」豊後侵攻、義弘の3万は肥後路から豊後に攻め入った。この島津氏の侵攻で大友氏重臣の*入田義実と*志賀親度が寝返り、義弘の先導役を務めた。10月22日に*志賀親次の家臣である佐田常任が守る高城を水の手を断ち切ることで陥落させたのを手始めに、鳥岳城(堀相模守は戦死)・津賀牟礼城(戸次統貞は降伏)・高尾城(堀中務は降伏)など大野郡における諸城を攻略した。他にも片ヶ瀬城・田中城・小牧城などが陥落するが、親度の嫡男である太郎親次の守る岡城のみは島津の大軍の攻撃を受けても陥落しなかった。 *岡城が大野川と稲葉川と玉来川という天然の堀に守られた標高80メートルの山城であるという利点と親次の奮戦に、島津軍も手を焼いたのである。*「入田 義実」(にゅうた よしざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏、島津氏の家臣。入田氏11代当主。直入郡入田荘領主。天文2年(1533)、大友氏の重臣・入田親誠(親実)の子として、豊後国入田神原城で生まれる。天文19年(1550)、大友氏の内紛である二階崩れの変において父・親誠が殺害され没落。一時は流浪の身となるが、天正8年(1580)頃に変の際は若年だったことが考慮され、大友宗麟から帰参を許される。筑前国鞍手郡若宮荘350町など一部の所領を回復したが、その後は冷遇されたため、耳川の戦いにおける大敗で大友氏が衰退して島津義久の侵攻を受けるようになると、天正13年(1585)志賀親度(道易)と連携して新納忠元を介して島津氏と内通した(ただし、大友義統と対立して戸次統貞に攻められたため、やむなく内通したという説もある)。天正14年(1586)から島津義弘による豊後侵攻(豊薩合戦)が始まると、義実は島津軍の案内役を務めた。翌15年(1587)に宗麟の援軍要請に応じた豊臣秀吉による九州平定が開始されると、島津軍は豊後を放棄して薩摩国に撤退し、義実もこれに従った。以後は島津氏の家臣として仕え、義久から日向国に30町の所領を与えられている。慶長6年(1601)に死去。享年69歳。子の氏虎(氏隆)は島津義弘に従い関ヶ原の戦いに参戦し、以後は高岡(現・宮崎県宮崎市高岡町)衆中となる。*「志賀 親度」(しが ちかのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親守の子。志賀氏は、田原氏、詫摩氏と並ぶ大友三家の一角である。のちに北志賀家と南志賀家に分かれ、それぞれ隆盛した。天文19年(1550)、二階崩れの変後、父と共に大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。しかし天正6年(1577)、宗麟の後を継いだ義統と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。これに恨みを抱いた親度は、薩摩国の島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、天正14年(1586)島津氏が侵攻(豊薩合戦)すると、南志賀家(志賀鑑隆・鎮隆父子ほか)と共に島津軍に味方することとなる。この戦いで、北志賀家の惣領である子親次はただ一人、大友氏に忠誠を尽くし、居城・岡城を守り抜いたため、大友氏は滅亡から免れることとなる。このため翌年、九州平定が為されると共に南志賀家は滅ぼされ、親度もまた義統によって自害させられた。なお、義統と不仲になった理由については、主君・義統の愛妾であった「一の対」という女性を奪い取り、囲っていたことが露見し、蟄居させられたため、これを長年恨みに思っていたと『上井覚兼日記』に記されている。また、熱心な仏教徒であり、反キリスト教の人物であったため、子・親次の受洗にも猛反対したもされる、これも義統や大友家へ対しての反逆心の理由となったとされる。*志賀 親度(しが ちかのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親守の子。志賀氏は、田原氏、詫摩氏と並ぶ大友三家の一角である。のちに北志賀家と南志賀家に分かれ、それぞれ隆盛した。天文19年(1550)、二階崩れの変後、父と共に大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した。その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。しかし天正6年(1577)、宗麟の後を継いだ義統と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。これに恨みを抱いた親度は、薩摩国の島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、天正14年(1586)島津氏が侵攻(豊薩合戦)すると、南志賀家(志賀鑑隆・鎮隆父子ほか)と共に島津軍に味方することとなる。この戦いで、北志賀家の惣領である子親次はただ一人、大友氏に忠誠を尽くし、居城・岡城を守り抜いたため、大友氏は滅亡から免れることとなる。このため翌年、九州平定が為されると共に南志賀家は滅ぼされ、親度もまた義統によって自害させられた。*「志賀 親次」(しが ちかつぐ/ちかよし)は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親度の子。豊後国岡城主。豊後の大友氏の家臣・志賀親度の子として誕生。北志賀家は大友三家の一角である志賀氏の嫡流であり、祖父親守や父親度の時代には南郡衆の筆頭であった。親次は武勇に優れ、養母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。天正12年(1584)7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父親度が主君義統と不和になって失脚すると、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌13年(1585)にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。天正14年(1586)、薩摩国の島津氏が豊後国に侵攻して来ると(豊薩合戦)、父親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元が指揮する島津方の大軍を寡兵で何度も撃退した。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし父を自刃させる。この戦いで見事な采配を振った親次に対し、豊臣秀吉に厚く絶賛され、敵将の島津義弘からも「天正の楠木」と絶賛された。その後は祖父親守の後見を受け、岡城を拠点に日田にも所領を拡大し、島津侵攻で多くの家臣を失った大友氏家中において、抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は発言力を強めていたようである。
2024年08月30日
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「筑後遠征」天正12年(1584)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死。島津方の圧力が強まる中、3月、紹運と道雪は大友義統からの出兵要請を受け、両家合わせておよそ5000の兵で黒木家永の筑後猫尾城へと出陣。筑後川や鷹取山、耳納連山などを越え、秋月、筑紫、草野、星野らを撃退した。19日、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着。道雪は城将・椿原氏部を調略。高牟礼城を開城させ、川崎重高の犬尾城を攻落した。28日は、酒見・榎津・貝津を掃討したが、城島城では西牟田家親の頑強な抵抗に遭い多数の死傷者を出して高良山へ退却した。9月1日には猫尾城を落城させた。8日、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城、田尻鑑種の鷹尾城など筑後諸城を降伏、攻落。龍造寺家晴の柳川城とその支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城を攻めたが、いずれも難攻の城で、攻略できずに転進、10月3日に筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあったため、道雪・紹運は軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木城を攻落した。4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、星野吉実の鷹取城、福丸城、11月14日に問註所康純の井上城を攻めた。その後田原親家は豊後に引揚げたが、紹運、道雪や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山から筑後川に沿いに布陣したまま越年した。天正13年(1585)2月上旬から4月23日にかけて、肥前・筑前・筑後・豊前連合軍(龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信など)およそ3000余の軍勢と、小森野、十三部、祇園原などの地で激戦を重ねる(筒川合戦や久留米合戦)。 道雪と紹運、鑑康ら大友軍は9800の劣勢ながらも、局地戦ではしばしば勝利したが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。天正13年(1585)9月、道雪が病没。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた。「岩屋城の戦い」天正14年(1586)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上。紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。半月に及ぶ戦いの末、敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落した。享年39歳。「激戦の様子について」、『筑前続風土記』には「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし」『北肥戦記』には「合戦数度に及びしかども、当城は究意の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり」『西藩野史』には「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」などと記されている。紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『上井覚兼日記』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。苛烈かつ激戦であった攻城戦と言われている。天正12年(1584)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、大黒柱を失った龍造寺氏を軍門に降らせたことで、その勢いを急速に伸長した。この年、龍造寺氏からの離反や大友氏への対立方針を採るなどの様々な思惑から肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、東肥前の筑紫広門といった小勢力らが、服属や和睦といった形で島津氏との関係を強化していった。翌年には肥後の阿蘇惟光を降した島津氏にとって、九州全土掌握の大望を阻む勢力は大友氏のみになっていた。島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢2万余人が出陣。まず出兵直前に大友側に寝返った筑紫広門を勝尾城で下した。筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子・立花宗茂といった大友氏の配下だけであった。「合戦の経過」岩屋城には763名の城兵が籠る。天正14年(1586)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。「逸話」紹運は敢えて島津勢が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城した。主将である紹運が敢えてこのような行動を取ったのは、島津勢に迂回されて立花城を衝かれるわけにはいかないからである。立花城には紹運の実子、立花宗茂がいた。また宝満城には、紹運の妻や次男の高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員(女・子供)もいた。豊臣軍が来援するまで紹運は自らを囮として徹底抗戦する。篭城軍は全員玉砕するが島津軍にも甚大な被害が出たため軍備を整えるため一時撤退する。結果、主家大友家・長男宗茂は豊臣軍来援まで持ちこたえる事に成功した(次男、統増は島津軍の策略により捕虜になるが後に釈放される)。長男で立花氏の養子になった立花宗茂は、父高橋紹運が篭城する岩屋城に援軍を派遣したいと家臣に告げた。他家からの養子のため賛同者が出ないのではと考えたが、吉田兼正(吉田左京)を始めとする多数が援軍に赴きたいと願い出た。吉田左京は「武士の道は義に順ずることだと思う」と率先して岩屋城に援軍に向かった。援軍に向かった吉田左京ら二十余人は、紹運と共に玉砕したと伝わっている。彼らの遺族は後に宗茂によって厚遇されている。島津軍諸将は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度も送ったが、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切った。このとき、敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われている。ちなみに降伏勧告は計5回、島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っている。
2024年08月30日
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前後左右から伏兵が大友軍に襲いかかり、高城の島津家久、根白坂の島津義久も攻撃に参加した。包囲された大友軍は崩れて敗走、一部の部隊は竹鳩ヶ淵へと逃走、多くの兵が溺死した。ここで佐伯宗天も戦死している。川原、野久尾の陣が陥落、本陣も制圧されると大友軍は耳川方面へと逃走。島津軍は敗走する大友軍を追撃し多くの首を挙げた。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。敗報を知った宗麟は単身豊後へと逃走。耳川の合戦は島津家の勝利に終わった。 7、「大友氏の反撃」伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周・佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。天正8年(1580)、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、天正10年(1582)後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、本能寺の変で信長が倒れたことにより実現はしなかった[。天正9年(1581)には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。これに対し大友家では、領内で反乱が相次いでいるため単独で対抗できなかったので、当時中央で勢力を広げていた織田信長に接近していく。天正7年(1579)には信長を通じて義統の官位を叙任してもらい、天正8年(1580)には信長の仲介のもと、義久との間に「豊薩和睦之儀」を成立させた。だが、天正10年(1582)6月に本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自害すると豊薩和睦は消滅、天正12年(1584)3月には隆信が島津軍に敗れて戦死し(沖田畷の戦い)、嫡男の政家が島津家に降り耳川以降に成立していた大友氏・龍造寺氏・島津氏の九州三者鼎立時代は終焉した。大友氏と島津氏が九州の覇権を争う二者並立時代となった。隆信の戦死後、宗麟は島津家の勢力伸張を抑えるため、立花道雪・高橋紹運らの筑前勢を筑後に進出させた。これに対して義久は大友家に従属する肥後の阿蘇氏を滅ぼし(阿蘇合戦)、また種実や龍造寺家晴らを筑後に進出させて道雪らと高良山で対陣させた。だが、この対陣中の天正13年(1585)9月11日、道雪が高齢のために陣没し、大友軍は筑前に撤退する。道雪の死は家運が傾いた大友家の大黒柱の崩壊であった。このため、宗麟は中央で信長の天下統一事業を受け継いでいた豊臣秀吉に臣従を誓うことで援軍を要請。だが、秀吉は三河の徳川家康と交戦状態だったため、当時は援軍を派遣することは不可能な状態にあった。そのため、秀吉は信長と同じように政治的に仲介することで豊薩和睦を行なおうとしたが、義久はこれを断った。島津家では道雪の死を契機に筑前進出を行なった。大友家の本国である豊後に攻め込むには筑前には有力な大友方である立花山城の立花宗茂(統虎)や岩屋城の高橋紹運、宝満城の高橋統増(立花直次)らが存在しており、これらを討たなければ豊後攻略の際の妨害になる可能性があったためである。義久は従弟で老中かつ大隅串良地頭を務める島津忠長を総大将とした島津軍に岩屋城を攻撃した。岩屋城は紹運の奮戦空しく落城したが、島津軍はこの城攻めでかなりの死傷者を出し(岩屋城の戦い)、宝満城は落としたものの、立花山城は宗茂の奮戦により落とせず、また島津軍の消耗も激しく薩摩に撤退した。紹運の死で大友家の筑前勢の脅威は払拭され、軍を立て直した島津家は天正14年(1586)10月中旬に島津義弘(義珍)の3万が肥後路から、島津家久の1万が日向路からそれぞれ侵攻を開始した。 8、、「岩屋城の戦い」岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。 目の上の邪魔者、大友軍側の重臣高橋紹運の岩屋城の陥落を目指す薩摩軍は意を決した・【高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。「高橋家相続」天文17年(1548)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊前国筧城に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から一字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は一三歳で永禄4年(1561)の第四次門司城の戦いと考えられている。永禄10年(1567)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。永禄12年(1569)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の二城を継ぎ、名を鎮種と改めた。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる。「北九州各地を転戦」その後、鎮種含む大友の筑前五城将(道雪、鎮種と鷲ヶ岳城主・大鶴鎮正、荒平城主・小田部紹叱、柑子岳城主・臼杵鎮続、木付鑑実)は筑前、筑後、肥前、豊前の諸勢力(秋月種実、筑紫広門、原田隆種、原田鑑尚、鳥飼氏勝、龍造寺隆信、宗像氏貞、麻生元重、問註所鑑景、城井鎮房、長野助盛、千手宗元)と戦を繰り返す。天正6年(1578)耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が戦死。肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始した。同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。天正9年(1481)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした。これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。
2024年08月30日
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6、「耳川の戦い」「耳川の戦い」(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。薩隅日(南九州)の支配者である島津氏と豊筑肥(北九州)の支配者である大友氏の関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。国内情勢が不安定な状態が続いた島津氏にとっては自国の安全を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1583)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。また、永禄3年(1560)に室町幕府将軍・足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝(政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は薩摩・大隅・日向の統一事業に専念することができ、大友氏も北九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる。「大友家の日向侵攻」ところが、天正5年(1577)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、大友氏に身を寄せた。大友宗麟は伊東家主従に300町を与えて庇護した。また伊東家の旧臣であり島津家に降伏した門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内が大友家の重臣佐伯紀伊入道宗天に日向侵攻時の先導役を申し出た。 こうした状況の中、天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる軍を率いて日向への遠征を決定する。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれ、志賀道輝、朽網鑑康、一萬田鑑実らが肥後口を、大友宗麟親子は豊後口を担当した。天正6年(1578年)2月21日大友軍の先鋒は日向国門川城に入った。豊後に亡命していた伊東家の家臣団も先鋒に加わり日向の国衆へ調略を行った。伊東家旧臣長倉佑政は耳川を越えて島津家の勢力圏に侵入、石ノ城で挙兵をした。それに呼応して内応を約束していた米良四郎右衛門、右松四郎左衛門、米良喜内が挙兵し島津方の縣城主土持親成を攻めた。3月18日には佐伯入道、田原親賢、田北鎮周らが土持親成攻撃に参加し、大友軍による日向侵攻が本格化した。土持親成は松尾城に籠城したが、4月15日に陥落し行縢への撤退中に捕らえられ斬殺された。大友軍は耳川以北の日向制圧に成功し、島津家の勢力は耳川以南に後退した。一方島津義久は6月に島津忠長ら7000の軍を日向へと派遣、長倉佑政ら伊東家の残党が籠る石ノ城攻めを命じた。島津軍は7月8日に総攻撃を開始したが500人以上の死傷者をだして撃退され、日向佐土原へと撤退した。大友義統は石ノ城籠城軍に手紙を送り、勝利をねぎらっている。大友軍は土持領への侵攻時、領内の寺社仏閣を徹底的に破壊している。その背景にはキリシタンだった宗麟の意向が影響している。一説によると宗麟は日向でキリシタン王国の建設をめざしたという。宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団との間に不協和を生じさせた。宗麟は8月に宣教師とともに日向国に入り、無鹿に本営を置いた。「島津家の反撃」島津義久は大友家との決戦に専念するため伊東家残党の掃討を開始した。島津征久らの諸将が8月に伊東家残党の籠る日向国上野城と隈城を攻撃、9月に両城を攻略している。上野城攻略から4日後、将軍足利義昭の使者が島津家の下を訪れた。大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、9月に島津氏に大友領に侵攻して大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する。義久は島津征久ら1万の軍を北上させ再び石ノ城を攻撃した。攻城戦は9月19日から開始されたが、29日には島津方の猛攻に屈し籠城軍が講和を申し出た。島津軍は城兵の生命を保証し、長倉佑政は石ノ城を明け渡すと豊後へと撤退した。「合戦経過」10月20日耳川以北に布陣していた大友軍が南下を再開、島津方の要衝高城を包囲した。佐土原城主の島津家久は高城に急行し、高城城主山田有信とともに守りを固めた。大友軍は数千丁の鉄砲と国崩しと呼ばれる大筒を使用して3度にわたって攻撃を行ったが、島津家久と山田有信は城を守りぬいた。10月24日島津義久は薩摩・大隅の軍勢を動員、3万の兵を率いて鹿児島を出陣した。島津軍は紙屋城を経由して佐土原城に入ると日向各地の守兵をあわせ4万の軍になった。11月9日島津義弘、島津征久、伊集院忠棟、上井覚兼らの諸将が財部城に入り軍議を開いた。松原に布陣する大友軍を撃破するため陽動部隊と3つの伏兵部隊が小丸川を渡河して出立し、島津義弘は小丸川の南岸に布陣し戦況を見守った。300の陽動部隊がまず松原の大友軍を襲撃、荷駄を破壊し75人を討ち取った。事態に気付いた大友軍が松原の陣に急行すると、陽動部隊は伏兵の埋伏地点に退却した。また伏兵を支援するため高城の島津家久が出撃、大友軍本隊を牽制した。3つの伏兵部隊は埋伏地点におびきだされた大友軍を殲滅、敗残兵を追って松原の陣に突入し火を放った。島津義弘、島津征久、島津忠長、伊集院忠棟らの主力部隊も混乱に乗じて渡河し、高城川の南岸に布陣した。島津軍は大友軍の陣に火矢を放ち、伏兵によって各陣地を寸断した。前哨戦の敗北により大友方は田原親賢ら16人の使者を島津の陣へと派遣、講和を申し出た。一方で大友軍は主戦派と講和派に割れ方針が不明確だった。軍議では主戦派の田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周と佐伯宗天がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至った。佐伯宗天は当初慎重論を唱えていたが、軍議の席で田北に侮辱され、それが原因で田北とともに攻撃を仕掛けた。 一方大友方の軍議を知った島津義久は決戦に備えて諸将を埋伏させ、自らは1万の兵を率いて根白坂に布陣した。島津征久の馬標が攻撃の合図となり、馬標がたてられるまで攻撃は禁じられた。11月12日の朝、田北・佐伯の軍勢が小丸川北岸に布陣する島津軍前衛への攻撃を開始した。大友軍の本隊も二人に続き、島津軍前衛部隊は壊滅、北郷時久、北郷久盛らが戦死した。勢いにのった大友軍は小丸川を渡ると島津義久本隊へと殺到した。島津義弘、島津歳久、伊集院忠棟らが大友軍をむかえうち、伏兵部隊を指揮する島津征久が大友軍の陣形が伸びきった段階で馬標を立てた。
2024年08月30日
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今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送って、また子・政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱(「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っている。隆信が周辺の国人を滅ぼしたり、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。元亀3年(1572)、少弐政興を肥前から追放する。天正元年(1573)には西肥前を平定し、天正3年(1575)には東肥前を平定する。天正4年(1576)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577)までに大村純忠を降し、天正6年(1578)には有馬鎮純の松岡城を降して肥前の統一を完成した。天正8年(1580)4月に家督を嫡男・政家に譲って、自らは須古城へ隠居する。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。天正6年(1578)、大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲し、大友氏からの完全な自立を果たし、それまで対等な関係であった国衆を服属化させ戦国大名化した。天正8年(1580)までに筑前国や筑後国、肥後国、豊前などを勢力下に置くことに成功している。しかし天正8年(1580)、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年(1583)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになる。天正9年(1581)、龍造寺軍は龍造寺政家を主将として肥後へ侵攻、4月までに山鹿郡の小代親伝、菊池郡の隈部親永、大津山資冬、戸原親運、益城郡の甲斐宗運、合志郡の合志親為、飽田郡の城親賢、隈府の赤星統家、球磨郡の相良義陽が参陣した。また先陣の鍋島信昌は、隈府の赤星親隆、山本郡の古閑鎮房を下し、肥後計略は完了、龍造寺軍は帰陣した。同年8月、島津忠平(義弘)が北上し相良氏の水俣城を攻めたため、相良氏、阿蘇氏、甲斐氏らは南関に陣する龍造寺家晴に救援を求めた。家晴は直ちに援兵を差し向けたので、島津忠平は八代に退いた。 天正11年(1583)、家晴は筑前、肥前、筑後並びに肥後の味方の兵を自ら率い(『北肥戦誌』では37000余)、島津は伊集院、新納、樺山、喜入等の手勢を集め、高瀬川(現・菊池川)を挟んで対峙したが、秋月種実の仲裁により、高瀬川より巽(東南)を島津領、乾(北西)を龍造寺領と定めて、天正12年(1584)に両者和睦に至った。これを聞いた隆信は、島津と一戦もせずに講和したことを憤ったという。もっとも、島津氏の家老・上井覚兼の『上井覚兼日記』天正11年9月27日の項には、秋月種実の使者が隈本(熊本)に参じて、龍造寺との和平及び、共に大友を討つことを島津方に周旋した上で、隆信および種実は島津義久を九州の守護と仰ぎ奉ると述べたとし島津側に立った記述がなされている。最期の龍造寺隆信は島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実検された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否したため、願行寺(玉名市)に葬られたと言われる。現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。豊薩興亡で優位に立った、島津義久は経歴を見てる。「島津 義久」(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。天文2年(1533)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。元服した直後は祖父と同じ忠良(ただよし)を諱とし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱(「義」の一字)を受け、義辰(よしたつ)、後に義久と改名している。「三州統一」天文23年(1554)、島津氏と蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570)には東郷氏・入来院氏が降伏、薩摩統一がなった。この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と対峙していた。元亀3年(1572)5月、伊東義祐の重臣・伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)らを大将にした3000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟・島津義弘が迎え撃った。義弘は300人を率いて出撃し、木崎原にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。義弘が先陣を切って戦い、伊東祐安、伊東祐信、伊東又次郎など大将格五人をはじめ、名のある武者だけで160余人、首級は500余もあったという。この合戦は寡勢が多勢を撃破したものである(木崎原の戦い)。また、これと並行して大隅国の統一も展開しており、天正元年(1573)に禰寝氏を、翌年には肝付氏と伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たしている。最後に残った日向国に関しては天正4年(1576)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退をする。こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一が達成された。
2024年08月30日
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宗麟は、親宏から没収した国東・安岐の所領を親宏に返還した際に、田原紹忍と謀って、子の大友親家を田原宗家に送り込み、親宏の跡目を相続させようと画策した。親宏はこれに結論を出す前に病死し、その死後にこの策謀を知った親貫が謀反に至ったとされる。親貫は軍船を率いて、府内襲撃を行ったが、嵐のために府内に上陸することができず、引き上げた。その直後に田北紹鉄も謀反を起こし、両者の軍勢が府内に襲来した場合、大友氏の敗北は疑いなしとされ、府内は大騒ぎとなった。このため宗麟も調停を行うべく嫡男の大友義統に和平工作を命じたが、不首尾に終わった。親貫は引き続き、大友氏との対決を続け、安岐城と鞍懸城を中心に大友軍を迎撃する作戦に出た。拠点を鞍懸城に据えたのは、出身である筑後の秋月氏や豊前の長野氏、安芸の毛利氏の支援を得る目算があったためである。この頃、大友氏家中でも当主・義統の指導力に不安を覚えた重臣・立花道雪らが、義統の引退とその側近の追放、宗麟の復帰を訴えた。これに対し宗麟は義統の引退は認めず、宗麟が義統の後見を行うことで意見がまとまり、ようやく親貫の謀反に対処することになった。大友軍は宗麟が指揮を取り、2月に大友親家に柴田礼能を付けて雄渡牟礼城に入れ、義統を速見郡へ出動させた。自らは日出荘辻間に出陣して、全軍の指揮を取った。天正8年(1580)7月には安岐城への攻撃が開始される。大友義統・親家軍は城を攻めるも激しい抵抗を受け、攻略は難航する。また、安岐城には海路での補給が行われており、これを封じるために同年8月、宗麟は村上水軍に救援を求めた。これに対して親貫は、重臣・如法寺親並に命じて、安芸国の毛利輝元と小早川隆景に救援を求めた。毛利氏の救援が決定したことに及び、交渉の成功させた如法寺親並父子に田原を称することをした。ところが、同年8月末頃、安岐に上陸しようとした毛利の軍船は、若林鎮興の率いる大友水軍の攻撃によって撃退された。また、同年9月に安岐城が落城し、豊前国国人衆城井氏や長野氏は鞍懸城に救援に向かうも、田原親賢、佐田鎮興らの軍によって敗北。孤立無援となった鞍掛城も、10月、大友軍の総攻撃によって落城した。秋月種実も豊後国への援軍を派遣したが、鞍懸城陥落の報を聞き、撤退した。親貫の最期については、鞍懸城落城とともに自害、秋月種実を頼って逃亡、逃亡の途中に宇佐郡の時枝氏によって殺害(「大友家文書録」)など諸説ある。実際に大友義統も親貫の死を確認できておらず、親貫が逃亡したと見て捜索を命じている。親貫はこの時10代後半であったと推測され、この謀反は親貫本人だけではなく、田原宗家全体の意向であったと思われる。親貫の妻もこの謀反の最中、鞍懸城で病死したという。この戦いの結果、田原宗家には大友親家が入り、田原親家と称することとなる。*田北紹鉄、大友氏の家臣・田北親員の子として誕生。田北氏は大友親秀の三男・親泰から始まる有力庶家であり、豊後国直入郡田北村(大分県直入郡直入町)の地頭職を得て在地化していた。ただし紹鉄の頃には大分郡や速見郡日差村などに居を移し、熊牟礼城を居城としていた。大友義鑑に仕え、兄ら同様に主君・義鑑から偏諱を賜り、初めは鑑富、のちに鑑重を名乗る。出家してからは紹鉄と号した。宣教師のロレンソ・メシアの記録では「紹鉄は豊後の領主中最も強く、策略ありと認められし人」と記されている。実際、弘治2年(1556)の小原鑑元の反乱を鎮圧し、永禄4年(1561)からは豊前国で毛利氏と戦った。同5年(1562)からは門司に出兵して毛利軍と戦い、同8年(1565)には豊前長野氏と規矩郡で戦い戦功を挙げた[2]。しかしこれらの戦功に対して主君・大友宗麟が報いることは少なかった。策略家で有力国人だったことを宗麟が恐れており、大友家の年寄役などにも任命されず中枢から排除されて不遇だった。宗麟からは実弟で養子の鎮周のほうが信任されて重用されている。天正6年(1578)11月、耳川の戦いでは弟の鎮周が参戦して戦死。これを機に大友家が衰退すると、田原親貫、秋月種実らと共謀して同8年(1580)に謀反を起こした。この謀反は讒言説が強く、田原親賢によるものと言われている。他の南群衆(一萬田鑑実、志賀氏等)は紹鉄に同情的で、討伐に積極的ではなかった。しかし4月、直入郡阿曾野で義統軍の攻撃を受けるが、宗麟に取り成しをするのでひとまず逃げるよう勧められて筑前国の秋月種実を頼って逃亡したが、その途上である日田郡五馬荘松原で80人の部下と共に大友軍に殺害された。 5、「龍造寺の最期とその後」天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去する(大寧寺の変)と、後ろ盾を失った隆信は、(密かに大友氏に通じて)龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣・土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。天文22年(1553)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に小田政光が恭順し、土橋栄益は捕えられて処刑され、龍造寺鑑兼は隆信正室の兄であり佐嘉郡に帰らせて所領を与えた。その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559)にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や犬塚氏などの肥前の国人を次々と降し、永禄3年(1560)には千葉胤頼を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄4年(1561)には川上峡合戦で神代勝利を破り。永禄5年(1562)までに東肥前の支配権を確立した。このような急速な勢力拡大は近隣の有馬氏や大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563)に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は千葉胤連と同盟を結んでこの連合軍を破った(丹坂峠の戦い)。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後国の大友宗麟が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援し、これに馬場氏や横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年(1569)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、毛利元就が豊前国に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した(多布施口の戦い)。その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570)に弟の大友親貞を総大将とする3千の軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の鍋島直茂)による奇襲策によって撃退した。その後、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功したが、隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、局地的な勝利に過ぎなかったので、この時点で大友氏の肥前支配を排除できなかった。
2024年08月30日
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*秋月 種実(あきづき たねざね)は、戦国時代末期から安土桃山時代前期にかけての武将・戦国大名。秋月氏16代当主。「大友家への反抗」天文17年(1548)、筑前国の国人である秋月氏15代当主・秋月文種(種方)の次男として誕生したといわれる。弘治3年(1557)、父・文種や長兄・晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて古処山城落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防国山口に落ち延びた。永禄2年(1559)1月、秋月氏の旧臣・深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、種信は長野氏を継いで豊前馬ヶ岳城主となり、元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。秋月氏の名が史上もっとも現れるのは、この種実の代からである。永禄10年(1567)、高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと種実も同調し、9月3日の休松の戦いでは夜襲を敢行し大友軍の精鋭を大いに討ち破った。この戦いで戸次鑑連(のちの立花道雪)の一族は大打撃を受け、鑑連の弟・鑑方らが討死した。これにより毛利元就の九州侵攻も始まり、永禄11年(1568)には立花鑑載が大友氏に反旗を翻すなど、一時は反大友勢力が優勢だったが、7月23日に立花山城が大友軍によって陥落され、永禄12年(1569)5月28日に毛利軍も多々良浜の戦いで大友軍に敗れたため、8月に種実は大友宗麟に降伏した。天正6年(1578)に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに宗麟の暴悪「十ヶ条」を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者達同士で連判し合った。天正8年(1580)2月には豊前の猪膝にて大友方の首級800を討ち取るなどした。しかし、種実の侵攻は立花道雪と高橋紹運によって悉く退けられてしまう。天正12年(1584)に隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、代わって勢力を伸ばしてきた島津義久に従属する。大友軍の立花道雪が島津氏と龍造寺氏を挟撃しようという使者を出す前に、いち早く龍造寺と島津の和睦交渉の橋渡し役となり、なおも大友氏に反抗、島津氏と龍造寺氏の争いを回避し、島津氏が大友攻略に戦力を絞る役割を果たした。そして島津氏と大友氏の争いの中で種実は大友領を次々に侵食してゆき、最終的には筑前、豊前、筑後国北部に36万石にも及ぶ広大な所領を有し、秋月氏の最盛期を築き上げる。天正13年(1585)には島津氏の大友領侵攻に従って岩屋城を攻めた(岩屋城の戦い)。「日向へ移封」天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍しようとした際は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。秀吉は恵利へ、降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与えるとした。復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利へ退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなった。このとき、種実は剃髪し、楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された。種実はその際、「10石でもいいから秋月に居たい」と嘆いたとする。失意の種実は、家督を嫡男・種長に譲って隠居した。慶長元年(1596)9月26日、高鍋で死去。享年49歳。「大友氏を裏切った重臣」*田原 親宏(たわら ちかひろ)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。初名は親実(ちかざね)。田原親述の子で、同母兄・田原親董(ちかただ)の養子になった。大友義鑑の時代から大友家に仕えており、天文3年(1534)の勢場ヶ原の戦いで大内義隆配下の陶興房と戦った。田原家は大友家の庶家で実力も大きく、「豊後の大身中最も有力」「豊後の最も勢力ある大身」(天正7年のフランシスコ・カリアン書簡より)と言われるほどの実力者であった。そのため歴代の大友家当主をはじめ、義鑑・宗麟(義鎮)も親宏の実力には警戒しており、年寄から解任して中枢から排除したり豊後国外へ追放したりした。天文12年(1543)に出雲、その後に大内義隆を頼っているのは義鑑により追放されたためである。だが二階崩れの変で義鑑が死去し、義鎮が跡を継いだ2年後に帰参を許されて国東郡安岐郷や国東郷政所職を与えられている。その後は大友家の主な合戦に参加し、弘治3年(1557)に大内義長が毛利元就に敗れて自害すると豊前など北九州の旧大内領制圧に貢献。永禄年間には大内氏を滅ぼして北九州にまで進出してきた毛利氏と豊前など各地を転戦して戦った。その戦功は大きく、永禄10年(1567)には宗麟より豊前における戦功を賞されている。以後も永禄11年(1568)の高橋鑑種攻め、永禄13年(1570)の毛利軍との決戦(多々良浜の戦い)などに参加して戦功を挙げた。しかし宗麟は親宏の戦功を賞しながらも実力を警戒し、親宏の所領を奪って武蔵田原氏という庶流の田原親賢に与えたりして田原家の内紛を誘ったりした。天正6年(1578)11月の耳川の戦いで大友軍が島津軍に敗れて衰退すると、12月に親宏は豊後府内から出奔して居城のある国東郡の安岐城に戻った。そして宗麟・義統父子に対してかつて宗麟が奪って親賢に与えた旧領を返還するように強要する。一方で縁戚の秋月種実らと共謀して挙兵の準備も進めるなどした。このため大友父子は死の覚悟を決めて家臣団を慰撫する一方、親宏に対しても要求を容れて旧領を返還した。だが親宏は挙兵して豊後府内を攻撃し、大友父子を討とうとした。当時、親宏が挙兵して府内を襲撃すれば大友家は必ず滅亡すると宣教師などに判断されていた。だが挙兵直前になって病に倒れた親宏は、天正7年(1579)に急死した。跡を婿養子の親貫が継いだ。*田原 親貫(たばる ちかつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後国大友氏庶流・田原氏当主。大友氏の家臣。父は豊前長野氏の一族か長野助盛と伝わる。大友氏の家臣・田原親宏の婿養子となって田原氏を継いだ。天正6年(1578)、同族の田原親賢(後の紹忍)とともに日向国への遠征に参加するも同年の耳川の戦いで敗北を喫し、退却した。天正7年(1579)9月に養父の親宏が死去すると、同年末に大友家に対して謀反を起こした。その原因として田原紹忍が主君・大友宗麟から寵愛を受け、家中での勢力を拡大させていたことが大きな理由であった。
2024年08月30日
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だが、この対陣中の天正13年(1585)月11日、道雪が高齢のために陣没し、大友軍は筑前に撤退する。道雪の死は家運が傾いた大友家の大黒柱の崩壊であった。このため、宗麟は中央で信長の天下統一事業を受け継いでいた豊臣秀吉に臣従を誓うことで援軍を要請。だが、秀吉は三河の徳川家康と交戦状態だったため、当時は援軍を派遣することは不可能な状態にあった。そのため、秀吉は信長と同じように政治的に仲介することで豊薩和睦を行なおうとしたが、義久はこれを断った。島津家では道雪の死を契機に筑前進出を行なった。大友家の本国である豊後に攻め込むには筑前には有力な大友方である立花山城の立花宗茂(統虎)や岩屋城の高橋紹運、宝満城の高橋統増(立花直次)らが存在しており、これらを討たなければ豊後攻略の際の妨害になる可能性があったためである。義久は従弟で老中かつ大隅串良地頭を務める島津忠長を総大将とした島津軍に岩屋城を攻撃した。岩屋城は紹運の奮戦空しく落城したが、島津軍はこの城攻めでかなりの死傷者を出し(岩屋城の戦い)、宝満城は落としたものの、立花山城は宗茂の奮戦により落とせず、また島津軍の消耗も激しく薩摩に撤退した。紹運の死で大友家の筑前勢の脅威は払拭され、軍を立て直した島津家は天正14年(1586)10月中旬に島津義弘(義珍)の3万が肥後路から、島津家久の一万が日向路からそれぞれ侵攻を開始した。「合戦の経過」島津家久が豊後に侵入し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。12月11日、秀久と信親はこれを救援しようと戸次川に陣を敷いた。戦略会議において秀久は川を渡り攻撃するべきと主張したが(『土佐物語』)、これに対して元親は加勢を待ちそれから合戦に及ぶべきであるとして、秀久の作戦に反対をしたが(『元親記』『土佐物語』)、秀久は聞き入れず存保も秀久の主張に理がありとして同調した。このため、ついに川を渡って出陣することになり戦闘は12月12日の夕方から13日にかけて行われた。先陣の秀久の部隊が不意をつかれて真っ先に敗走したため、長宗我部軍の3千の兵が新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になったが、元親と信親は乱戦の中に離ればなれになってしまった。元親は落ちのびることができ、伊予の日振島に退却した。信親は中津留川原に留まったものの、鈴木大膳に討たれた。享年22。信親に従っていた700人も討死、存保も戦死し鶴ヶ城も落城した。秀吉は秀久の敗戦を怒り、その領地の讃岐を没収し尾藤知宣に与えた。しかし日向高城川(小丸川)で島津義久軍に大敗して佐伯惟教・惟直父子や吉岡鎮興ら多くの将兵を失って大敗し、宗麟らは豊後に後退した(耳川の戦い)。この大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の*龍造寺隆信が離反して自立した。また、筑前でも*秋月種実や筑紫広門らが離反して島津家に転じた。さらに大友庶家の重鎮である*田原親宏や田原親貫、*田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こった。一方、島津家は耳川の大勝を契機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。 大友氏は家臣だけではなかった。九州の島津に敵対する大名は大友氏に接近し和睦を結び、豊薩合戦に加ったが次々と造反、離脱する者が続出した。 *龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。「家督相続」享禄2年(1529)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ヶ江城の東館天神屋敷で誕生。幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。天文5年(1536)7歳のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)とした。円月は、12.13歳の頃より、20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされる。まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていた。これを領民6.7人がこじ開けようとしていたのを円月が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民4.5人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという。天文14年(1545)、祖父・龍造寺家純と父・周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国の蒲池氏の下へ脱出した。天文15年(1546)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残した。それに従って翌年、円月は、重臣石井兼清の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗り、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった。しかし胤信が水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れた。そこで八幡宮に詣でて籤を三度引き神意を問うたが、籤は三度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したという。その後、龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。天文17年(1548)、胤栄が亡くなったため、胤信はその未亡人を娶り、本家(村中龍造寺)の家督も継承した。しかし胤信の家督乗っ取りに不満を持つ綾部鎮幸等の家臣らも少なくなく、胤信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、翌天文19年(1550)には義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられて7月1日に隆胤と改め、ついで同月19日に隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣らの不満を抑え込んだ。また、同年、祖父・家純の娘である重臣・鍋島清房の正室が死去すると、隆信の母・慶誾尼は、清房とその子・直茂は当家に欠かすことができない逸材として、押し掛ける形で後室に入って親戚とした。
2024年08月30日
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4、戦国時代・「豊薩合戦」「豊薩合戦」(ほうさつかっせん)は、戦国九州は島津氏・大友氏・龍造寺氏の三つ巴の熾烈な攻防に、九州の半分を支配下に修める島津氏と大友氏は犬猿の仲、大友氏六国の豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後支配下に浸食されつつある大友氏に大きな焦りと危機感が、信長に支援を切望を訴え続けた。 所が信長は本能寺で横死、頼みは秀吉に注がれ、九州平定に秀吉は従属の意を示す大友氏に好意的でった。そこに勃発した「豊薩合戦」である。天正6年(1578)10月、大友家当主・大友義統と隠居の父・宗麟は日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始した。しかし日向高城川(小丸川)で島津義久軍に大敗して佐伯惟教・惟直父子や吉岡鎮興ら多くの将兵を失って大敗し、宗麟らは豊後に後退した(耳川の戦い)。この大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立した。また、筑前でも秋月種実や筑紫広門らが離反して島津家に転じた。さらに大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こった。一方、島津家は耳川の大勝を契機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。これに対し大友家では、領内で反乱が相次いでいるため単独で対抗できなかったので、当時中央で勢力を広げていた織田信長に接近していく。天正7年(1579)には信長を通じて義統の官位を叙任してもらい、天正8年(1580)には信長の仲介のもと、義久との間に「豊薩和睦之儀」を成立させた。だが、天正10年(1582)6月に本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自害すると豊薩和睦は消滅、天正12年(1584)3月には龍造寺隆信が島津軍に敗れて戦死し(沖田畷の戦い)、嫡男の政家が島津家に降り耳川以降に成立していた大友氏・龍造寺氏・島津氏の九州三者鼎立時代は終焉した。大友氏と島津氏が九州の覇権を争う二者並立時代となった。隆信の戦死後、宗麟は島津家の勢力伸張を抑えるため、立花道雪・高橋紹運らの筑前勢を筑後に進出させた。これに対して義久は大友家に従属する肥後の阿蘇氏を滅ぼし(阿蘇合戦)、また種実や龍造寺家晴らを筑後に進出させて道雪らと高良山で対陣させた。*「阿蘇合戦」(あそがっせん)は、天正12年(1584)から天正13年(1585)にかけて肥後で行なわれた島津義久軍と阿蘇惟光軍の合戦である。阿蘇氏当主の相次ぐ死阿蘇氏は肥後の阿蘇郡を支配する大宮司で、いわゆる神主大名であった。戦国時代には大友氏、菊池氏など周辺諸国の干渉を受けながらも、その都度、時勢を見て離合集散を繰り返して独立を維持してきた。しかし、天正6年(1578)に耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗し、肥後に島津氏の勢力が拡大した。島津氏は名和氏、城氏、天草五人衆らを従属させる一方、大友氏に同調していた阿蘇氏との合戦を開始する。島津氏はまず天正8年(1580)、宇土半島にある阿蘇氏の家臣・中村惟冬の矢崎城及び惟冬の弟・中村二大夫の綱田城を攻めた。惟冬は城より打って出て城兵共々討ち死に、二大夫はその翌日に降伏し開城した。翌天正9年(1581)になると、島津氏に従属した相良氏の八代勢1000余が、益城郡御船城主・甲斐親直(宗運)を攻めるべく進軍、堅志田城下を放火し出て来た城兵を退けた。これに対し、甲斐親直の500余は、濃霧の響野原に陣を布く相良勢を奇襲、総大将の相良義陽、八代奉行・東左京進らを討ち取った。義陽と親直は相互不可侵を約していたのであるが、その相良氏による島津氏への防波堤が消滅、また合志氏が島津氏に降伏するなど肥後に於ける島津氏の影響力は肥大化する一方であった為、時の当主・阿蘇惟将は大友氏に代わって台頭してきた龍造寺氏に従属して島津氏に対抗する。ところが、天正11年(1583)に惟将が死去すると大宮司は惟将の弟の阿蘇惟種が継いだがその惟種も相続してわずか1ヶ月で病没してしまい、遂には大宮司に惟種の子でわずか2歳の阿蘇惟光がなる有様だった。このため、幼少の惟光を甲斐親直が補佐する体制がとられたが天正12年(1584)3月には沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死し龍造寺氏は島津氏に屈服、龍造寺氏に従属していた隈部氏ら肥後国人も続々と島津氏に靡いていった。このため阿蘇氏は肥後で孤立状態となり、さらに9月には親直までもが死去(異説があり、親直は豊臣秀吉に反乱を起こして殺されたという説もある。したため、遂に10月には島津軍による阿蘇領への本格侵攻が開始されることとなった。「阿蘇氏の反撃」島津軍は新納忠元や稲富新助を大将に任じ御船城を攻めた。御船城は堅城というほどの城ではなかったが、親直の子・甲斐親英の反撃で落とすことができず、城の押さえを残して阿蘇氏の居城・岩尾城を攻めた。わずか3歳の幼主では対抗できるはずも無く、惟光は家臣に連れられて脱出してしまう。これにより阿蘇氏は滅亡したが、なおもその旧臣は島津軍の侵攻に抵抗した。岩尾城の北東に位置する南郷城では、長野惟久が徹底抗戦して玉砕した。長野惟久は甲斐氏と並ぶ阿蘇家の重鎮で、南郷城も阿蘇氏がかつて居城としていた(阿蘇氏はかつて南郷大宮司と呼ばれていた時期がある)ため、周辺の諸城は動揺し、長野城や下田城が島津軍の侵攻で陥落した。そしてその長野城の東南に、阿蘇家の重臣・高森惟直が守る高森城があった。惟直は島津軍の調略を拒絶し、さらに寡兵でありながら城外決戦に及んだが討ち取られてしまった。その惟直の子・高森惟居は父が討ち死にしたことを知ると、島津軍に降伏する。だがこれは惟居の謀略で、密かに大友氏に援軍要請をしていた惟居は、高森城で休息していた島津軍に突如として襲いかかった。このため、油断しきっていた島津軍は壊滅してしまう。このため、大友軍と高森軍の反撃を受けることを恐れた残余の島津軍は、御船城攻略を放棄してその南にある花の山城に撤退した。天正13年(1585)8月10日、親英が阿蘇氏の旧臣を糾合して花の山城を攻め落とした。このとき、木脇祐昌と鎌田政虎ら島津氏の諸将及び、救援に向かった深水長智の嫡子・摂津介、犬童刑部、牧野勘解由ら相良の諸将が戦死している。「島津氏の反攻」撤退した島津・相良連合軍は、今度は肥後国守護代として八代にいた島津義弘を総大将にした主力部隊を、同月13日に阿蘇領へ後詰として侵攻させた。この島津・相良連合軍の前に堅志田城、花の山城、御船城は相次いで陥落し、親英は剃髪して降伏した。御船城の北にある赤井城や木山城も陥落した。木山城の東にある津森城も陥落し、その北にある今石城も石原吉利が徹底抗戦した末に玉砕、今石城の北に位置する竹迫城も陥落した。こうなると前年の戦いで高森惟居が奪回していた岩尾・長野・南郷・下田の諸城も島津勢の侵攻を恐れて次々と開城する有様だった。高森城の高森惟居は再起を図るため豊後へ向かう途中、家臣の裏切りにより島津勢の追撃を受け討死した。高森城の落城により、島津氏の肥後平定は完了したのである。
2024年08月30日
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幕府軍は水源を絶とうとしたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果はなかった。楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなった。「六波羅攻略」播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。中でも赤松則村は周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられた。「鎌倉攻略」 5月8日、新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた足利氏の高氏(尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、義貞の軍勢は勢いを増し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、御家人らの離反も相次ぎ、小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助は化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは一旦は膠着し、新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉へ突入した。幕府要人が数多戦死した市街戦ののち、生き残った北条高時ら幕府の中枢の諸人総計800余人は5月22日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した(東勝寺合戦)。「九州」同じ頃、鎮西探題北条英時も、少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らに攻められて5月25日に博多で自刃した。後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始する。だが元弘の乱の論功行賞において、後醍醐の側近が優遇されたのに対して、赤松則村をはじめとする多くの武士層が冷遇された。こうしたことが新政への支持を失わせ、足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていく。「多々良浜の戦い」(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、建武政権から尊氏追討を命じられた新田義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破り、さらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、1336年、楠木正成や北畠顕家らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し、途中播磨国の赤松則村(円心)らに助けられ、再興を賭けて九州に下った。尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられる。一方、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能など、九州の諸豪族の大半は宮方に味方し、その軍勢は2万騎以上まで膨れ上がる。勢いを増した宮方の軍勢は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、少弐貞経を自害させた。足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区多々良川付近)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。多数の裏切りを出した背景には、九州の諸豪族を軒並み味方につけて大軍を組織してはいても、その大半は宮方有利の情勢を見て是非なく菊池武敏に味方した者であったという事実が存在する。確かな宮方と呼べるのは阿蘇惟直ぐらいで、その他のほとんどはもともと日和見、もしくはむしろ尊氏よりの武将達であった。また、圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法を取り、一度宮方に付いた者の寝返りを誘った尊氏の戦略も見逃せない。この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、尊氏は体勢を整え直した。尊氏は一色範氏や仁木義長などを九州の抑えとして残して再び上洛し、摂津国湊川の戦いで楠木正成を破る。 しかし、この戦いの後も菊池氏は頑強に抵抗を続けた。「古戦場」当時の戦場の多くが福岡流通センターの敷地となっており、その一角の県道福岡直方線流通センター西口交差点(西鉄バス浜田バス停・JR九州バス直方線筑前浜田バス停付近)に記念碑が建てられている。そこから南東に進むと戦死者を祀った兜塚の跡があり「兜塚由来記」の碑が建てられている。備考、『太平記』の記述では、菊池勢4~5万騎に対し、尊氏勢は500騎(100倍差)と誇張表現が見られる。一色範氏が九州に残ったことで、その後、室町幕府体制下の九州探題の先例となり、初代九州探題とされるようになる。】
2024年08月30日
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3、「南北朝・室町時代」元弘3年(1333)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、九州では第6代当主・貞宗などが少弐貞経らとともに鎮西探題の北条英時を滅ぼす功績を挙げた。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されるが、後醍醐の新政から足利尊氏が離反し、尊氏は摂津地域の戦いで敗れ、九州に逃れる。尊氏を迎えたのは少弐氏であり、多々良浜の戦いで宮方の菊池氏に勝利するが、大友氏も足利方にくみした。足利氏は九州統治のために一色範氏を九州探題として残して上京し、京都を占領して武家政権を成立させる。なお、九州では南朝勢力が強大化していたため、第9代当主の大友氏継は御家存続のために南朝にくみするも、家督を弟の大友親世に譲って第10代当主となし、北朝方に味方させた。これにより、大友家は氏継系と親世系に分裂することになる。大友氏は当初は九州探題とは一定の距離を置いたが、南北朝時代には応安3年(1370)に九州における南朝勢力の懐良親王の征西府を討伐するために足利幕府が今川貞世(今川了俊)を派遣すると、親世は貞世に接近して所領を拡大し、九州が平定されると大内義弘とともに讒言(ざんげん)を行い、今川貞世を失脚させている。大内氏は応永の乱で一時没落するが、室町時代から戦国時代まで大友、大内、少弐の抗争は続くことになった。 永享3年(1431)に第12代当主・持直は大内盛見を討ち、九州の権益をなおも確保した。しかし、大内持世の反撃を受け、さらに親直と敵対する親綱が持世にくみして反抗したため、大友家の内紛が深まることとなる。この頃の大友家惣領の座は氏継系と親世系が交互に着いた。大友親綱は京都の将軍足利義教により肥後から呼ばれて大友家当主となった。この内紛は、文安元年(1444)に親世系の親隆の娘を娶り、その娘が産んだ男子を次期当主にするという条件で氏継系の親繁が第15代になったことにより収まった。しかし、親繁の死後、第16代当主の政親と第17代当主の義右が対立して内紛を起こし、一時的に大友家は衰退する。明応5年(1496)5月には大友政親が実子の大友義右を毒殺し、6月には政親が大内義興により自害に追い込まれて大友家は滅亡の危機に立たされる(義右の母は大内氏の出身で義興と義右は盟友関係であった)。*「元弘の乱」(げんこうのらん)は、元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。正中元年(1324)の正中の変は六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。「笠置山・赤坂城の戦い」元弘元年(1331)、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、元弘2年/正慶元年(1332)、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐を隠岐島へ配流した。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。「千早城の戦い」護良親王と楠木正成の両者は各々潜伏し、機会を伺っていた。元弘2年/正慶元年(1332年)、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。正成は12月に赤坂城を奪回し、元弘3年/正慶2年(1333)には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。これに対し幕府は再び大仏家時・大仏高直兄弟、名越宗教らが率いる大軍を差し向けた。金剛山系に籠城する楠木勢に対し、先ず幕府軍は正成の悪党仲間の平野将監入道・正成の弟楠木正季らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃、吉野では護良親王が敗れた。これにより、正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなったが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった策により、再び幕府軍を翻弄した。
2024年08月30日
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「鎌倉時代」初代当主・大友能直の時代に大友家は豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任された。※「鎮西奉行」(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれる。文治元年(1185)、源頼朝が天野遠景をこの職に任じて、九州の御家人の指揮統制にあたらせたのが始まりである。平家の残党及び源義経一党らの追捕がもともとの任務であったが、その後全九州の御家人の統轄にあたるようになり、大宰府の機能も継承した。頼朝は、治承4年(1180)に鎌倉に侍所を置き御家人を統制し、さらに1185年には、義経の追捕を理由に、各国へ守護・地頭を設置し、全国の支配権を確立した。そして地方には、京都守護を、九州には鎮西奉行を、奥州には奥州総奉行をそれぞれ設置して統制させた。遠景の後について、中原親能・武藤資頼が継いだとする説もあるが、瀬野精一郎は、遠景後の後継者について諸説あることをまとめた上で、「鎮西奉行は一般的呼称にすぎず、鎌倉幕府の正式な官職名ではなかったとする説(佐藤進一説)もあるごとく、その性格がなお不明瞭な点が多いことに起因しているといえる」[1]と指摘している。元寇の後、鎮西奉行に代わり新たに鎮西探題が設置された。】しかし、能直と第2代当主・親秀の時代には豊後に下向したという記録は残されていない。九州に下ったのは能直の宰臣の古庄重吉(古庄重能)とされる。ただし、大分県豊後大野市大野町藤北に能直のものと伝えられる墓がある。大友氏が豊後守護に補任されたのは、少弐氏や島津氏の場合と同じく、かつては平家の基盤であり、平家の家人だった武家の多い九州に対する源頼朝の東国御家人による抑えの役割があった。第3代当主・頼泰の代に豊後に下向する。文永の役を前にした異国警固のためとされるが、また大友氏の興隆は初代の能直の源頼朝との個人的な関係に基礎を置くため、源家滅亡後の北条氏の執権体制の東国では微妙な位置に置かれたことにもよる。頼康は元寇における戦いで武功を挙げて活躍し、大友氏興隆の基礎を築き上げた。以後、大友氏は分家とともに豊後に定着し、一族庶子を在地豪族の養子として所領を収奪し、勢力を拡大していく。親時の庶子から入田氏・野津氏がおき、貞親から松野氏、貞宗から立花氏がおきた。
2024年08月30日
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2、「大友氏の出自」1、大友能直 - 出自には異説がいくつかある。2、大友親秀 - 先代(能直)の長子。3、大友頼泰 - 先代(親秀)の長子。4、大友親時 - 先代(頼泰)の三男。5、大友貞親 - 先々代(頼泰)または先代(親時)の二男6、大友貞宗 - 先代(貞親)の弟または長子。7、大友氏泰 - 先代(貞宗)の嫡男。8、大友氏時 - 先々代(貞宗)の八男(または七男先代(氏泰)弟。9、大友氏継 - 先代(氏時)の嫡男(四男)。10、大友親世 - 先々代(氏時)の五男、先代(氏継)の弟。11、大友親著 - 先々代(氏継)の子。12、大友持直 - 先々代(親世)の長子。13、大友親綱 - 先々代(親著)の次男。14、大友親隆 - 先々代(持直)の弟、第10代(親世)の三男。15、大友親繁 - 先々代(親綱)の弟、第11代(親著)の四男。16、大友政親 - 先代(親繁)の長子。17、大友義右(材親) - 先代(政親)の長子。18、大友親治 - 先々代(政親)の弟、第15代(親繁)の三男。19、大友義長(義親) - 先代(親治)の長子。20、大友義鑑 - 先代(義長)の長子。21、大友義鎮(宗麟) - 先代(義鑑)の長子。22、大友義統(吉統) - 先代(義鎮)の長子。23、大友義乗 - 先代(義統)の長子。24、大友義親 - 先代(義乗)の次男、または先々代(義統)の五男。絶家。大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現・大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。出自は藤原氏初代当主の大友能直は、相模国愛甲郡古庄の郷司の近藤能成(古庄能成とも)の息子として生まれた。父の能成は、藤原秀郷の子の藤原千常の6代後の近藤景頼の子とする系図があるが、藤原利仁の9代後の近藤貞成の子であるという説もある。· 秀郷流説藤原魚名……秀郷━千常━文脩━文行━近藤脩行━行景━景親━景頼━能成━大友能直· 利仁流説藤原魚名……利仁━叙用━吉信━伊博━公則━則経━則明━惟峯━惟重━近藤貞成━能成━大友能直中原氏(頼朝公落胤伝説)· 御子左流説藤原真楯……道長━長家━忠家━俊忠━(?)━光能━(?)━中原親能能直は、幼児の頃は古庄能直と名のり、次いで父の苗字から近藤能直と名のり、その後、伯母婿で源頼朝の側近だった中原親能の猶子となり中原能直と名のったとする説が有力である。また、家紋も中原一族を象徴する杏葉紋であることから能直自身は、中原氏を自認していたと思われる(中原一族には摂津氏など幕府の要職に就く者が多かった)。苗字については転々とさせていたが、母(利根局)方の生家の波多野経家が相模国足柄上郡大友荘(現在の神奈川県小田原市西大友・東大友の辺り)を支配していたことから大友能直と称した。能直の母方の波多野氏は源氏の家人として有力な相模の豪族であり、源頼朝の父・義朝は波多野氏の娘との間に源朝長(頼朝の兄)をもうけている。郷司の近藤氏という無名に近い一族の子孫が能直以降において興隆したのは母方の波多野氏と源氏の深い関係にあり、また初代大友能直が源頼朝の寵愛を受けたことにあるが、それは母が源頼朝の妾でもあったことや(ゆえに能直は頼朝の落胤であったとする説もある)、また何よりも源頼朝の信任が非常に厚かった中原親能の猶子となった(家紋である杏葉紋は中原一族であることを示す)ことに拠るところが非常に大きいとされる。なお、弘安9年(1286)に作成され、嘉元2年(1304)に筆写されたと伝えられる大友氏系図の一番古い形態とされる野津本「大友系図」では秀郷流説のみが記載され、利仁流説や源頼朝落胤説に関しては全く記述されていない。対して後年の『寛政重修諸家譜』は源頼朝落胤説を採用している。また、ほぼ無名の一族でありながら源頼朝による抜擢がその後の一族の興隆の因となった点で、同じく守護として九州で栄えた島津氏、少弐氏と共通しており、この鎌倉時代に九州で勃興した三つ有力御家人を九州三人衆と呼んだ。通字・主たる通字は「親」(ちか)で、嫡流の守護家のみならず、大友家支流の家柄でも多用されている。嫡流家では、室町時代になると代々足利将軍家から偏諱の授与を受けるようになったが、戦国時代の歴代当主(17代義右(初め材親)、19代義長(初め義親) から22代義統)が将軍家の通字である「義」(よし)を賜るようになってからはそれが実質的に通字化し、江戸時代(23代義乗)以降も引き続き「義」を通字として用いるようになる。
2024年08月30日
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「大友氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「大友氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「南北朝・室町時代の大友氏」・・・・・・・・・・94、 「戦国時代の「豊薩合戦」・・・・・・・・・・・・205、 「龍造寺の最期とその後」・・・・・・・・・・・・416、 「耳川の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・487、 「大友氏の反撃」・・・・・・・・・・・・・・・・548、 「岩屋城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・589、 「島津の猛攻」・・・・・・・・・・・・・・・・・6610、「筑前状の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・8511、「豊前・豊後の戦い」・・・・・・・・・・・・・・8712、「秀吉九州へ出陣」・・・・・・・・・・・・・・・9913、「日向の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・10114、「豊前の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・10615、「九州平定の戦後処理」・・・・・・・・・・・・・11416、「おわりに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・125 1、「はじめに」相模国足柄上郡大友郷を本拠とする中世九州の武家。相模国古庄の郷司近藤能成と波多野(大友)経家の娘との間に生まれ、源頼朝の家臣中原親能の養子となった。大友能直を初代としする。能直以降、中世を通じて豊後国守護職を保有。能直と2代親秀の庶子らは、各各地頭職を得て豊後を中心に下向土着した。惣領家も、3代大友頼泰(1222~1300)のとき蒙古来襲に供えるために下向し、豊後高田府に守護所を定めた。6代貞宗(?~1334)は、少弐貞経と共謀して鎮西探題赤橋英時を滅ぼした。南北朝には基本的に足利方に属し、在地領主層には家督継承を廻り大友親綱、または16代大友政親(1444~1496)と17代大友義右(1484~1496)などの間で内紛が生じるが、戦国期に入っても20代義鑑が家督問題で、家臣に襲撃され死亡している。それを「大友二階崩れの変」。子の21歳の大友義鎮(大友宗麟)の代には豊後・筑後・肥後・豊前・筑前の6各国の守護職と九州探題職を獲得し、全盛期を築くが、島津藩との軋轢が深く耳川合戦で大敗し、高城合戦でも大敗し衰退してった。また藩主の大友宗麟はキリシタン大名で有名、家臣団との間で反キリシタン派との対立内紛を抱えていた。22代大友義統は豊臣秀吉から豊後一国を安堵されるが、文禄の役で苦境に有った小西行長を助けなかったため秀吉に怒りを買い、徐封された。滅亡するが、子孫は江戸幕府の高家となる。
2024年08月30日
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12、「大内氏の傍流・庶流」清和源氏義光流の大内氏周防国の大内氏多々良朝臣姓、石見の大内氏豊前国の大内氏豊後国の大内氏佐伯氏流の大内氏。佐伯系図に佐伯弥四郎惟直の子惟篤が大内次郎と名乗ったとある。紀伊国の大内氏紀伊国の牲川氏が、源姓大内氏または多々良姓大内氏の後裔とする。秀郷流藤原姓結城氏流の大内氏下野国安蘇郡大内邑が発祥。『尊卑分脈』によると結城氏第3代当主結城広綱の子、宗重が大内邑を拠点として大内弥三郎、大内新左衛門尉と名乗った。下野芳賀の大内氏下野国芳賀郡大内荘が発祥。専修寺の建立に関わった真岡城主の大内国行がいる。『姓氏家系大辞典』では同郡出自の芳賀氏と同じ清原氏の一族ではないかと述べている[1]。越智宿禰河野氏流の大内氏伊予国和気郡大内郷が発祥。『越智系図』に河野親清の子、盛家の子、家則が大内太郎と名乗ったとあり。同系図には他に家則の子、大内家澄、大内家資、大内信資を乗せる。また『河野系図』には河野親清の子、盛家が大内氏また福角氏と名乗り、子に信家、家重、増栄、盛資とある。『予章記』には南北朝時代の人物として、大内大蔵少輔、大内式部少輔、大内九郎左衛門尉をあげている。『予陽記』では平田村にあった大内城が大内氏の居城であるとする。『河野分限帳』に大内伊賀守信泰が見られる[1]。摂津国の大内氏但馬国の大内氏丹後国の大内氏丹後国与謝郡大内郷が発祥。清和源氏佐竹氏族の大内氏桓武平氏相馬氏族の大内氏陸奥国行方郡大内邑が発祥。相馬氏一族、泉氏の庶流[2][1]。陸奥国菊池氏流の大内氏陸奥国安達郡小浜城主の大内氏。多々良宿禰を称する。陸奥国四本松石橋家重臣、のちに伊達仙台藩家臣。大内義綱・定綱父子が知られる。『伊達世臣家譜』の説によると大内持世の子、太郎左衛門義世の子孫であるとする。また別の説として、安達郡戸沢の『菊池系図』に「11代武政、永正元年(1504)田向城に生る。菊池大阿弥丸のち大内太郎左衛門尉、丹波守、菊池を改めて、外祖父の氏をもって大内と称す。永禄11年(1568)正月卒す」「15代顕綱、天文4年(1535)田向城に生る、はじめ武時、大内大阿弥丸、左京進、太郎左衛門尉、四本松主石橋家に属し、数々軍功あり、石橋松丸・四本松城を逃れ、その後三春の主田村清顕に属す」。『積達館基考』には「往古、田向の菊池が氏族分かれて、月山に住し、南方を押さえて大内次郎左衛門、大内掃部などを称せしが、田村清綱に攻落さる」とあるように菊池氏の一族であるとする説がある。他の由来として『奥相茶話記』には「大内は昔の公方の庶流のものとて、召し連れ下り給う、京家の者なり」とあり、『相生集』には「大内氏は大崎家の旧臣にて、はじめ若州小浜を守居たりしに、大崎家の勘気を受け、石橋家の臣下となり、当所小浜に城を築いて移る。今の名は若州小浜を移したるべしと大権記に見ゆ」とある。この大内氏に関係する人物として、木幡山治隆寺弁財天文明14年(1482)10月の棟札に「大旦那源朝臣(石橋)家博、大内備前守宗政、大内備後顕祐」。戸沢村羽黒権現延徳2年(1490)4月8日棟札に「大旦那源氏(石橋)、大内備前守宗政建立」。治隆寺永正10年(1513)4月2日棟札に「大内左京亮乗義」また天正5年(1577)棟札に「当旦那大内備前守、同太郎左衛門顕徳」という名前が記録されている。陸前伊具の大内氏陸奥国伊具郡大内邑が発祥。胆沢の大内氏陸奥国胆沢郡の柏山氏家臣。出羽国の大内氏秀郷流藤原姓田原氏流の大内氏武蔵国埼玉郡の鷲宮神社社家。陸奥国田村郡の大内氏儒学者の大内熊耳が知られる。駿河国の大内氏駿河国庵原郡大内邑が発祥。庵原氏の一族であり、『吾妻鏡』正治2年(1200年)1月23日条には「大内小次郎」が見られる。室町時代の応永年間に大内安清が西山本門寺を建立している。尾張国の大内氏 了
2024年08月29日
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