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逸話・伝承田中愿蔵は、塙の代官所から処刑場である久慈川の河原まで連行されすがら、馬上で下記の歌を繰り返し高唱したという。みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重はまだ17歳の若さであったが、見事な辞世の句を残している。引きつれて 死出の旅路も 花ざかり天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した。この時、高島藩士・北沢与三郎(東山一作とも)はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして炙って食べた。それを聞いた同じ高島藩士の飯田守人は、「人肉を食らうとは以ての外」として北沢と絶交したという。のちに二人は和解して、赤報隊の援助をしている。敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・直弼の無念を晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させた。永原甚七郎は明治5年(1872年)に、自らの菩提寺である金沢の棟岳寺に天狗党の供養碑を建立した。これは今日「水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分の説得がなければ天狗党を無残に殺させずに済んだと激しい自責の念に駆られ、精神を病んで死んだという話が後に創作されたが、実際の永原は明治2年(1869年)から学政寮・軍政寮の副知事を務めるなど、引き続き金沢藩の重臣として政務に奔走し、明治6年(1873年)に61歳で死去している。水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。慶応3年(1867年)に起きた出流山挙兵では、挙兵した浪士たちが天狗党を連想させたため、当時の周辺住民により「出流天狗」と呼ばれた。天狗党の処刑地である敦賀市は、昭和40年(1965年)に水戸市と姉妹都市となっている。悲惨な待遇や処刑は幕府軍が行ったもので、地元の小浜藩は当時から同情的であったとされている。了
2024年07月31日
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14、「弘道館戦争」(こうどうかんせんそう)は、明治元年10月1日(1868年11月14日)に水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館において行われた、水戸藩内の保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の戦い。背景天狗党の乱鎮圧後、水戸藩は市川三左衛門ら諸生党が実権を掌握した。しかし、戊辰戦争の勃発に伴って形勢は逆転する。朝廷から諸生党に対する追討令が出され、本圀寺党や天狗党の残党など改革派が続々と帰藩する。諸生党は藩地を脱して会津へ向かい、会津藩や桑名藩と合流して会津戦争・北越戦争など東北方面での新政府軍との戦闘に参加する。9月22日(11月6日)に会津藩が降伏すると、市川ら諸生党は他の敗軍と合流して、参戦のため防備が手薄になっていると思われた水戸を目指した。一行は500人とも1,000人とも伝えられる。途中の片府田・佐良土で大田原藩や黒羽藩の兵と交戦しながら、9月29日(11月13日)には水戸城下に到達した。戦闘諸生党軍の接近を知った改革派の家老・山野辺義芸らは周辺の兵力を水戸城に集結して防備を固めていたため、諸生党一行は入城することが出来ず、三の丸にあった弘道館を占拠した。弘道館の責任者(教授頭取代理)であった青山延寿は弘道館に駆けつけようとしたが諸生党に阻まれた。10月1日(11月14日)、改革派は城への攻撃を開始、激しい銃撃戦となった。改革派側は、87名もの戦死者を出すも戦闘を有利に展開する。諸生党は戦死者約90名ほか多くの負傷者を出して、翌10月2日(11月15日)夜に水戸を脱出した。この戦闘で、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失。城内の建物のみならず、多くの貴重な蔵書も焼失した。今なお、弘道館の正門や正庁玄関には当時の弾痕が残っている。その後、改革派は新政府軍とともに敗走する諸生党を追撃した。諸生党は多くの脱落者を出しながら敗走を続け、10月6日(11月19日)の下総八日市場の戦い(松山戦争)で壊滅した。 彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』では、この時の金次郎について「無知で幼稚な彼を支配するものは、空虚な名門の思い上がりと、朝廷からの、まるで復讐をあおるような甚だふさわしからぬお言葉だけであった。五カ条の御誓文などよめもせず、読んできかされてもわかりはしなかったろうともいわれた。彼のひきいるならず者部隊のなかには、バクチですった恨みをはらすため、または酒の上のケンカから、相手に「天誅」を加えたのもあるという」と記している。水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争は他藩にも例を見ないほどの凄惨な殲滅戦となって人材のことごとくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。行程元治元年11月1日大子発 ~2日 川原 ~3日 越堀 ~4日 高久 ~5日 矢板 ~6日 小林 ~7日 鹿沼 ~8日 大柿 ~9日 葛生 ~10日 梁田 ~11、12日 太田 ~13日 本庄 ~14日 吉井 ~15日 下仁田 ~16日 本宿 ~17日 平賀 ~18日 望月 ~19日 和田 ~20日 下諏訪 ~21日 松島 ~22日 上穂 ~23日 片桐 -24日 駒場 ~25日 清内路 -26日 馬籠 -27日 大井 ~28日 御嵩 ~29日 鵜沼 ~30日 天王 ~12月1日 揖斐 ~2日 日当 ~3日 長嶺 ~4日 大川原 ~5日 秋生 ~6日 中島 ~7日 法慶寺 ~8日 薮田 ~9、10日 今庄 ^11日 新保処刑対象名前、処刑日(旧暦)、辞世の句の順に記載。斬首の後、水戸にて梟首首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)から3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。斬首武田正勝(彦衛門)・武田正義(魁介)・根本義信(新平)・川上清太郎・秋山又三郎*高橋市兵衛*小野藤五郎*芹澤助次郎*瀧口六三郎*岩間久次郎玉造清之允*安藤彦之進*桑屋元三郎*金澤要人*二方舎人*大島官壽*本田佐久之介*澤田信之介*片岡源次*楠帯次郎*高瀬秀之介*津久井衛門七*白須権次郎*堀江一壽*小泉虎次郎*小泉芳之介*津村雄二郎*栗田源左衛門*平野重三郎*荘司与次郎*寺門左太吉*鈴木秀太郎*関雄之介*黒澤新次郎*相田健之介*松崎熊之介*安藤正之介*飯村慎三郎*安島鉄次郎*篠原造酒*北川元三郎藤田秀五郎*小田部重平*高橋辰三郎*森荘三郎*阿久津蔵之介*小林蘆左衛門大高要介*小林貞七郎*加藤木総吉*加藤木勇之介*川澄善兵衛*堤三之助*谷島福次郎*中崎貞介*中庭直三郎*川津丑之介*梶山敬介*青木源之允*青木源吉*安掛藤十*安清四郎*小沼義太郎*登戸佐兵衛*幡谷善七*小貫藤介*皆川亀松*小澤弥一郎*森山勝蔵*浅野善十郎*前島竹次郎*加藤卯之介*栗又鉄之介*内藤利兵衛*卯月七之介*飯島喜介*山澤啓介*長峰寅松*藤田理兵衛*坂本勝次*鈴木荘三郎:岡野亀太郎*小松崎荘之介*小沼栄介*田村長衛門*山田才介*金澤啓蔵:坂本啓介*樽井総吉*滝平主殿(瀧平主殿)
2024年07月31日
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12、「投降・敗走離脱」12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。永原は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した[注 7]。しかし、田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。乱後天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。一方、遠島に処せられることになった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名の身柄は敦賀を領していた小浜藩に預けられていたが、家茂が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになった。小浜藩主酒井忠氏は、先代の忠義が南紀派の中心人物の一人として安政の大獄を主導したことを怨む慶喜が小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、金次郎らを若狭国三方郡佐柿(福井県美浜町)の屋敷に移して厚遇した。*武田 金次郎(たけだ きんじろう、嘉永元年8月10日(1848年9月7日) - 明治28年(1895年)3月28日)は、幕末期の志士。水戸藩藩士・武田耕雲斎の孫。母は藤田東湖の妹。来歴1848年、水戸藩士・武田彦衛門の子として生まれる。1864年の天狗党の乱には、祖父や父と共に参加する。のちに乱が鎮圧されて祖父など376人が死罪に処せられたが、若年を理由に遠島処分となる。1866年、金次郎ら110名は小浜藩に預けられ、佐柿(福井県美浜町)の屋敷に収容されて謹慎したものの、准藩士格として厚遇される。1868年、王政復古によって朝廷から罪を許され、水戸への帰藩を命ぜられた。帰藩した金次郎らは、朝廷の威光により藩の実権を掌握。通称「さいみ党」と呼ばれた金次郎らは、仇敵であった諸生党残党に復讐をすべく、白昼堂々に襲撃・暗殺し、藩内を極度の混乱状態に陥れた。版籍奉還後は藩の権大参事を務めたものの、廃藩置県後は経済的に窮迫し、やがて病に倒れる。1895年、病死。享年48。晩年の金次郎の詳細な状況を示す史料が見つかり、茨城県立歴史館研究員により2018年3月に報告されている。水戸藩出身の志士で、明治維新後、政府の要職を歴任した香川敬三が知人にあてた手紙(1894年(明治27年)12月23日付)に金次郎の貧窮した状況が記されている。香川が栃木県の塩原温泉を訪れたとき、物乞い同然のみすぼらしい小屋で暮らす、体の不自由な金次郎と出会った。驚き哀れに思い、香川が金銭を渡すと、金次郎は喜び、ひれ伏したという。このあと、金次郎は水戸に戻され、3か月後に亡くなった。 慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。
2024年07月31日
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12「追討軍との開戦」元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した。7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった。諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、小四郎ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。小四郎らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却する。小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。幕府軍による筑波勢追討が開始されると、激派の恐喝・暴行に苦しめられていた領民たちが次々と天狗党への反撃を開始する。7月10日には茨城郡友部(笠間市友部)、7月13日には結城郡中妻(常総市中妻)、7月21日には那珂郡諸沢(常陸大宮市諸沢)と、各地で恐喝に来た天狗党員が相次いで村民の反撃によって殺された。こうした散発的な天狗党への反撃は次第に大きな地域連合へと変化し、7月25日には茨城郡鯉淵村(水戸市鯉淵)など近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵した。また7月26日に諸生党が激派追討のため水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると領民が続々と参加を願い出た。両者は合流して7月29日に茨城郡下土師(茨城町下土師)で田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破した。この動きに並行する形で、各地で激派およびこれに同調していた郷士・村役人・豪農等への打ち壊しが行われた。大発勢の出陣と那珂湊の戦い江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は山横目を使って領内の尊攘派士民を小金宿(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。大発勢は₈月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊(ひたちなか市)に布陣した。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。大発勢は善戦するが、意尊率いる幕府追討軍主力が25日に笠間に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。」大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動を共にする事になる。幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。10月5日、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ切腹させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に佐倉藩や古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。天狗党の西上大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥るが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。天狗党は11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。
2024年07月31日
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11、「天狗党、筑波山挙兵」幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。小四郎は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。挙兵の報を聞いた藩主徳川慶篤は、田丸の兄である山国兵部に説得を命じたが、山国も逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団は筑波山で挙兵したことから筑波勢・波山勢などと称された。筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜万国に輝き候様致し度」と記すなど、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であると称していた。武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の動きに同調して、その圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には慶喜や在京の藩士との密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼する。幕閣側も宸翰が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために小笠原長行の復帰を求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった。小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、江戸時代後期の江戸幕府の老中、外国事務総裁。肥前国唐津藩小笠原家初代・小笠原長昌の長男。唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。老中就任まで文政5年(1822年)5月11日、肥前国唐津藩主小笠原長昌の長男として唐津城二の丸で生まれた。幼名は行若(後に敬七郎)。文政6年(1823年)に長昌が死去する。後継の藩主には信濃国松本藩主戸田光庸の長男の小笠原長国まで4人続いて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われた。長行は幼少から明敏であったので、天保9年(1838年)に江戸に出て、そこで朝川善庵に師事した。安政4年(1857年)に長国の養嗣子になり、藩政にも携わって名声を高めた。図書頭と称する。文久2年(1862年)には世嗣の身分のまま、奏者番から若年寄、9月11日老中格、そして間もなく老中となった。文久2年8月21日に発生した生麦事件に対しては、事態を早急に終結させるために翌文久3年5月9日(1863年6月24日)、幕府に無断で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った。武装上洛、長州征討文久3年(1863年)5月、イギリスから借り入れた2隻の汽船を含む5隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京した。このころ、将軍徳川家茂は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた尊王攘夷派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている。 長行一行は6月1日に大坂に上陸するが、在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよんで、上京計画を断念した。長行は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。一行には元外国奉行水野忠徳、南町奉行井上清直ら、攘夷反対を強硬に主張していたグループが同行しており、一連の計画の首謀者は水野であったとも言われている。元治元年(1864年)に謹慎を解かれ壱岐守となり、慶応元年(1865年)9月4日に再び老中格、さらに老中に再任される。元治元年7月の第一次長州征討後、幕府は再び長州征伐に取り掛かる。慶応2年(1866年)2月、長行は長州処分の幕命を伝えるため広島に赴き、広島藩を通じて、長州藩家老と支藩藩主らに召喚命令を出したが病として拒絶された。 翌月、長行は更に、藩主父子、家老、支藩藩主らが出頭するように命令を出したが、長州藩側は命令に従わなかったため、幕府は6月5日を以て諸方面から進撃すると決定し、長行は6月2日に広島を発ち小倉へ向かい、征討に備えた。 慶応2年6月7日に周防大島で戦闘が始まり(第二次長州征討)、17日には小倉口でも戦闘が開始される(小倉戦争)。長行は小倉口の総督として幕府陸軍歩兵隊や、小倉藩、熊本藩など九州諸藩の軍勢を指揮し、関門海峡をはさんで長州藩と戦うこととなった。小倉藩は小倉口先鋒として戦意は高かったものの装備は旧式であり、幕府歩兵隊、他の九州諸藩兵とも戦闘に消極的で、長行は諸藩をうまく束ねることができず、優勢な海軍力を有しながらも渡海侵攻を躊躇している間に、長州軍が6月17日に田野浦に、7月2日には大里にも上陸して攻勢を掛け、戦闘の主導権を奪われた。 7月27日の赤坂・鳥越の戦いでは熊本藩兵が善戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せたが、長行が援軍を拒否したことなどから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国した。長州軍は優勢に戦闘を展開し、幕府側の敗色は濃厚となり、長行は将軍家茂の薨去を機に、事態を収拾する事なく戦線を離脱した。孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わった。この敗戦責任を問われた長行は10月に老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。
2024年07月31日
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天狗党首領格*藤田 小四郎(ふじた こしろう、天保13年(1842年) - 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。水戸天狗党の首領格。贈従四位。生涯常陸国茨城郡水戸(茨城県水戸市)で当時水戸藩主・徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の四男として生まれる。名は信(まこと)、字は子立(しりゅう)。東海を雅号とし、一時期小野贇男(おの・あやお)と変えたこともある。母は東湖の妾であった土岐さき。2歳の時、母さきが暇を出され藤田家を出る。原因は東照宮の例祭でさきが妾でありながら正妻の里子と同じ帯を仕立てて出席したことによる。これは身分を弁えない無作法な振る舞いであると世間から見咎められ、夫である東湖も批判の対象となったことから、家内の混乱を心配した里子により放逐されたものである。小四郎には二人の兄(長男は早世)がいたが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われる。父東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。安政2年(1855年)、安政の大地震により父を失う。この頃から弘道館館長の原市之進に師事する。文久3年(1863年)3月、藩主・徳川慶篤の上洛に随従。京都では長州藩士の桂小五郎、久坂玄瑞を始めとする志士と交流したほか、公家に周旋活動を行う。これにより更に尊皇攘夷の思想を深くし、水戸藩過激派の首領格として台頭する。同年5月、将軍後見職・一橋慶喜に従って江戸に下る。同年8月、八月十八日の政変により長州藩勢力が京都から一掃され、急進的尊攘派は衰退した。一方で孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、幕府に対して横浜港鎖港の早期実行を要求した。これを受けて幕府は鎖港交渉を開始したものの、首脳部内の意見対立も相まって交渉は遅々として進まなかった。元治元年3月27日(1864年5月2日)、小四郎は即時鎖港の要求・支援のため同志など60人余りとともに筑波山にて挙兵する(詳細は天狗党の乱に記述)も失敗し、越前国新保(現在の福井県敦賀市)にて加賀藩に捕縛される。小四郎らは鰊(にしん)倉に監禁された後、加賀藩から幕府へ出された処分寛大の嘆願も空しく元治2年2月23日(1865年3月20日)敦賀の来迎寺にて処刑された。享年24。なお、この来迎寺は元々町人を処刑する場所であった。処刑後、小四郎の首は武田耕雲斎らの首と共に水戸に送られ、罪人として晒されている。墓所は処刑場所となった福井県敦賀市松原町の来迎寺、および茨城県水戸市松本町にある常磐共有墓地。辞世の歌は後に『義烈回天百首』(明治7年(1874年)発行)に掲載されている。兼て与梨 思ひ初にし真心を けふ大君に 徒希て嬉しき(かねてより おもいそめにしまごころを きょうたいくんに つげてうれしき) しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった[3]。小四郎は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、耕雲斎の強い慰留にも関わらず、遊説や金策に奔走した。この頃、小四郎は武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、江戸で二度に渡り会見している。渋沢は自身も天狗党に参加しようとしたが、周囲に止められ果たせなかった。文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸侯と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸侯と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷から禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月には水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。挙兵とその後の経過
2024年07月31日
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10、「薩英戦争と長州藩兵の入京」薩摩本国では、文久3年6月27日に7隻のイギリス艦が錦江湾に現れ、4日後に交渉が決裂すると薩摩側の砲撃が開始された。山内容堂は、家臣を派遣して戦争の詳報を得た後、8月2日付の伊達宗城(前宇和島藩主)[注釈 9]宛の書簡で、「わが国体を辱めず、感服の至り」「長州の暴挙これとは天地の相違」と感想を述べた。島津久光も、8月5日付の宗城宛書簡で、下関の件は「笑止之事」とし、薩英戦争については「あくまで開諭(示談)するつもりで再三応接したが、蒸気船3艘を奪取されたため(を敵の襲来と認めて)砲撃した」と伝えている(書状到達は9月16日)。薩摩側は、敵が襲来すれば撃ち払えという幕府の通達に則って砲撃を開始したのである。また8月6日、長州の使者から攘夷実行について協力を求められた宗城は、「外国への対処は征夷府(幕府)に委任されており、その命令によって対処すべき」として断っている。幕府の方針を前提とする限り、薩英戦争は称賛されても、長州の武力攘夷は他藩の理解を得られない。長州は、いよいよ攘夷委任から攘夷親征への転換に活路を見出そうと 攘夷親征案に対して朝廷では、7月5日に近衛忠熙・近衛忠房父子、右大臣二条斉敬、内大臣徳大寺公純が、諸大名を招集し、衆議の上で決定すべきであると具申。攘夷派の因州藩主池田慶徳(一橋慶喜の実兄)も11日に上書して、親征以前に尽くすべき手段が数多くあると主張した。7月12日、長州藩家老益田右衛門介(弾正)らが率兵入京して御所の周辺を固めると、18日に長州は朝廷に正式に申し入れ、鷹司関白は攘夷派の因州・備前・阿波・米沢の4藩に諮問したが、4藩主は攘夷は衆議によって行うべきで、当面は幕府の攘夷の成否を見守るよう答申した。攘夷派諸藩も、長州の暴走にはついていけない。長州は馬関海峡対岸の小倉藩に挟撃用の土地の借用を申し込み、それが断られると、6月18日に奇兵隊が海峡を渡り用地を占拠していた。さらに、7月23日に幕府の問責使を乗せた軍艦が沿海に入ると、長州はこれを砲撃・捕獲し、使者を軟禁するという挙に出た(使者は後に脱走したところを殺害された)。8月4日の朝議は、長州の攘夷実行に非協力的であったとして、小倉藩の処分[注釈 10]を幕府の頭越しに決定したが、攘夷派4藩主はこれにも強く反発した。7月に入り、近衛忠熙から薩摩への上洛催促はますます頻繁になっていた。天皇が越前藩の計画を支持しているとも知らせている。ところが、越前の挙藩上洛計画は、藩主の江戸出府をめぐって議論が紛糾する間に遷延し、中根雪江ら藩内の保守派の巻き返しや京都からの情勢報告により7月23日に中止が決定した。すでに7月5日に藩船で三国港をたっていた越前の由利公正(三岡八郎)らは、そうとは知らぬまま肥後藩の協力を取り付け、続いて鹿児島に赴き薩摩の協力を求めたが、薩英戦争を乗り越えてもいまだ島津久光が率兵上洛できる態勢は整っていなかった。久光は8月14日付返書で、「東西一時に上京し、身命を投げうち周旋したい」と決意を述べている。薩会同盟しかし、事態は急迫する。8月13日、大和行幸の詔が渙発された。大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するということだったが、もとよりこれは天皇の真意に出たものではなかった。行幸の間に御所を焼き払い天皇を長州に迎えるのだとか、横浜の征伐に向かうのだといった風説が流れた。因州・備前・阿波・米沢の4藩主が参内し、親征中止を天皇に直接述べたいと強く求めた。同じ日、薩摩の高崎正風(左太郎)が会津藩公用方秋月悌次郎を訪れ協力を求めた。時が無いため、京都の薩摩藩邸は本国からの出兵を待たず、越前に代わる新たな提携相手として会津藩に接近したのである。両藩はその日のうちに急進派を一掃する反クーデターを計画した。8月15日、高崎と秋月が中川宮を訪れて計画を告げ、宮も同意。16日未明に宮が参内し奏上し たが、天皇はすぐには決断を下せず、夜になってから「兵力をもって国の災いを除くべし」との宸翰が宮に伝えられた。そして17日深夜、中川宮・近衛忠熙・右大臣二条斉敬・内大臣徳大寺公純・権大納言近衛忠房と京都守護職松平容保・京都所司代稲葉正邦(淀藩主)らが参内し、最終的な相談が行われた。政変決行文久3年8月18日午前4時頃、会津・淀・薩摩の藩兵が禁裏の六門を封鎖し、配置が完了した。在京の諸藩主にも参内が命じられた。8時過ぎから諸藩主が参内し、諸藩兵が御所の九門を固めた。会津はちょうど国元から交替の藩兵が上洛した時期で、帰国の途にあった藩兵も呼び戻して計約1800名を動員し政変の中心となったが、会津に次いで動員が多かったのは阿波・備前・因州・米沢・淀藩で(薩摩藩兵は150名)、攘夷派を含めて30近い藩が兵を動員した。こうした状況の中、大和行幸の延期、三条実美ら急進派公家の禁足と他人面会の禁止、国事参政・国事寄人の廃止が決議された。その頃、決起を知った長州藩兵が堺町門東隣の鷹司邸に続々と集まってきた。長州勢はそこから堺町門の内側に繰り出したが、堺町門西隣の九条邸前に陣取る会津・薩摩両藩の兵とにらみ合いになった。
2024年07月31日
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9、「京都制圧計画」小笠原長行は鎖港通告に対する列国公使の抗議を5月12日に幕議に報告した。そして急進的な攘夷論を一掃するため、武力をもって京都を制圧する計画を打ち出した。構想は前年からあったし、3月には英仏公使からも提案されていた。軍制改革によって洋式武装した騎兵・歩兵・砲兵1千余を横浜で幕府艦とイギリス艦計5隻に乗せ、29日に兵庫に上陸、6月1日淀まで進み、京都の情勢をうかがった。将軍直率の兵と京都守護職の会津藩兵などが合流すればかなりの力になる。朝廷は騒然となり、将軍にこれを抑えさせ、東帰も認めることとした。結局武力制圧は空振りに終わり、小笠原ら幕兵の幹部は罷免・蟄居の処分を受けたが、ようやく将軍を取り戻すことはできたのだった。家茂は6月8日に下坂し、13日に海路で関東へ向かった。これより先、越前へ帰国した松平春嶽は、破約攘夷が実行されれば、反発する列国が艦隊を大坂湾に送り込み朝廷を威圧する事態を招きかねないと危機感を抱いていた。そこで横井小楠が挙藩上洛計画という思い切った献策を行う。不測の事態が起こる前に越前が藩を挙げて上洛し、暴論を抑え、将軍・関白から草莽まで含めて主だった者を一同に集め、各国公使の主張を聞き取り、互いの条理の理解を究め尽くした上で、後は鎖港か開港か、和親か戦争かいずれに決しようとも一致して進めようという。これは越前全藩が身も国も捨てあたらねばならぬ大難事であり、隣国加賀、横井の故郷肥後、旧一橋派の同志薩摩などに呼びかけ、ともに決行しようというのである。その成功の先には、朝廷が政府を任免し、幕府に限らず有能な諸侯、諸藩の人材を登用する新体制も構想していた。5月26日に藩議は決定し、6月1日に計画が家中に布告された。ところがその後将軍が江戸に帰ることになり、これまで将軍の上洛中を理由に延期していた藩主松平茂昭の江戸参勤が議論になった。姉小路殺害この間の5月20日夜、京都では国事参政の姉小路公知が殺害されていた(朔平門外の変)。その翌日、御所の九門の警備が、長州(堺町門)、仙台(下立売門)、水戸(蛤門)、因州(中立売門)、薩摩(乾門)、備前(今出川門)、阿波(石薬師門)、土佐(清和院門)、肥後(寺町門)の各藩に命じられた。姉小路は、三条実美とともに急進的な攘夷派公家の代表格であったが、4月の将軍下坂時に監視役として随行した際、積極開国論者の幕府軍艦奉行並勝海舟から海岸防御について意見を聞き、幕府艦にも乗り込んで摂津・播磨・淡路など大坂湾岸を巡視し、勝の説に感化を受けて帰京した。そのため、土佐の武市瑞山、肥後の轟武兵衛ら尊攘派の失望をかっていた。5月22日に土佐脱藩浪士の那須信吾が、現場に遺棄されていた刀は薩摩藩士田中新兵衛のものだと証言した。田中は幕末の四大人斬りの一人に数えられ、武市瑞山と義兄弟の契りを結び、岡田以蔵などと徒党を組んで「天誅」を繰り返した過激尊攘派である。だが、田中は京都町奉行永井尚志の尋問に対して口をつぐんだまま隙を見て自害したため、その背後関係は究明されなかった。関与を疑われた薩摩藩は謀略だと抗議したものの、結局九門警備から外された上、九門内の藩士の往来も禁じられ、京都における地歩をさらに後退させることとなった。政変へ攘夷親征策外国艦船に砲撃を加えた長州藩に対し、幕府は「もはや戦端を開いた以上、穏便に事を運ぶのは不可能だと申してきておるが、先に異国拒絶について布達した際、不明な点は逐一問い合わせることになっていたはず。ところがそれもせず、横浜の交渉が決裂してもいないのにみだりに戦端を開いたことは(世界に対して)国辱を生ぜしめたに等しく、もっての外である」との問罪書を6月12日に交付した。長州は幕府の穏健な攘夷(鎖港交渉)方針に従うことはできないが、外国艦船砲撃に同調する藩はなく孤立し、幕府から譴責を受けてしまった。幕府があくまで武力攘夷を非とするなら、長州としては、3月の勅書で確認された将軍への攘夷実行の全権委任を解除し、直接的な親征の方式に転換して攘夷戦争を断行するしかなかった。久留米の尊攘家真木和泉は、前年の寺田屋事件で捕えられ国元で幽囚の身となっていたが、長州藩の働きかけによりこの5月に赦された。そして長州で藩主毛利慶親に拝謁し、長州一藩のみが列強を相手に攘夷をしても勝ち目はない、全国一丸となって事に当たるには天皇が攘夷親政を進められる以外に道はない、と意見具申して採用された。真木は京都でも木戸孝允(桂小五郎)ら在京の長州藩士らに攘夷親征策を提案する。攘夷親征を天下に布告して石清水に行幸、そこから勅使を関東に下すというのである。毛利慶親は6月18日、石清水行幸・攘夷親征勅命の工作、違勅の幕吏・大名は長州一手でも討伐すべきことなどを家老らに命じた。しかし、孝明天皇は熱心な攘夷論者ではあるものの、暴走する急進派公家や長州を嫌悪し、攘夷戦争も望まず、将軍に対する委任を止めるつもりもない。島津久光が帰国して以降、天皇は国事御用掛の中川宮朝彦親王や前関白の近衛忠煕らに久光への期待をたびたび漏らし、近衛もまた久光に上洛の催促を繰り返した。6月9日には、叡慮を妨げ偽勅を発する「姦人」(三条実美ら)を排除せよとの密勅が薩摩藩にもたらされる。しかし、久光側近の大久保利通は機はまだ到来していないという意見で、越前藩の挙藩上洛計画との調整や、生麦事件の賠償を迫るイギリス艦隊の襲来への備えもあり、上洛は7月下旬頃がよいということになった。
2024年07月31日
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急進派の朝議掌握京都守護職の松平容保が会津藩 兵を率いて上洛、着任したのは12月24日である。一橋慶喜は翌文久3年1月5日に入京し、東本願寺を宿舎とした。山内容堂は1月25日、松平春嶽は2月4日に入京した。10年後の攘夷実行から即今攘夷への転換を強いられた幕府にとっては、彼らの朝廷工作で将軍上洛までに状況を好転させておくことが必要だった。薩摩からはすでに島津久光に代わって大久保利通が12月20日に入京しており、関白近衛忠煕、青蓮院宮(政変後に還俗して中川宮朝彦親王)、議奏の中山忠能・正親町三条実愛と接触し将軍上洛見合わせの勅命降下を工作していた。この話は進展せず、大久保は容堂・春嶽を通じて幕閣の調整を行い、上洛見合わせの結論を得てから再び京都の工作に入ることとし、1月3日に江戸に下った。しかし、幕府はすでに将軍上洛を布告しており見合わせは難しいという。そこで将軍上洛を1か月延期し、その間に容堂・春嶽が国是を定める朝議を働きかけることになったのである。だが、朝廷では朝議のあり方が大きく変わっていた。従来の朝議は関白・左大臣・右大臣・内大臣・議奏・武家伝奏・権大納言および青蓮院宮までの参加が一般的だったが、12月9日に新設された国事御用掛には彼らを含む29人が任命され、朝議に参与できる廷臣の範囲が拡大した。そしてこの国事御用掛では三条実美・姉小路公知ら急進派公家の発言力が強く、青蓮院宮や近衛関白、左大臣一条忠香などは早速辞意を漏らす有様だった。さらに1月22日、儒学者池内大学が暗殺され、切り取られた耳が同26日に中山・正親町三条両議奏の屋敷に投げ込まれるといった状況で、近衛忠煕が23日に関白を辞任して親長州の鷹司輔熙に替わり、中山・正親町三条も27日に辞任に追い込まれた。1月28日には千種家の雑掌賀川肇が暗殺された。賀川は以前岩倉具視と京都所司代を連絡していた人物で、その左腕は洛北に隠棲する岩倉のもとに届けられ、首は慶喜の宿舎の門前に脅迫状を添えて晒された。攘夷方針での交渉を押し付けられている慶喜は、攘夷実行の期日決定を迫る公家や尊攘志士に対し、将軍が到着してからと逃げ続けていたが、2月11日に長州の久坂玄瑞・寺島忠三郎、肥後の轟武兵衛が鷹司邸を訪れて建白を行い、続いて姉小路ら13人の公家が鷹司関白に迫り、その結果朝廷は三条ら8人を遣わし慶喜に期日の即決を要求した。勅諚とあっては拒み切れず、慶喜は将軍の江戸期間後20日と回答した。2月13日、久坂らの建白に基づく国事参政4人、国事寄人10人が朝廷に設けられ、急進派公家が独占した。20日には草莽の者でも学習院に出仕させ建言を聴くこととなり、尊攘派の影響力が一段と強まることになった。過激な尊攘派が多数をもって決する朝議は、もはや天皇といえどもその一存で覆すのは困難であった。攘夷委任と攘夷期日将軍徳川家茂は3千の兵を率いて文久3年3月4日に着京した。3代徳川家光以来229年ぶりの将軍上洛である。翌日、将軍後見職一橋慶喜が参内し、「これまでも将軍へ一切御委任されていたことではあるが、(確認的に)今一度御委任くだされば天下に号令して攘夷を行いたい」と勅諚を求めた。慶喜は徹夜で粘り、孝明天皇は「従来どおり庶政は幕府に委任するつもりである。攘夷の実行に励むように」と答えたが、慶喜はさらに関白に求めて文書化したものを得た。ところが、将軍が7日に参内しあらためて受け取った勅書は、征夷大将軍のことは従来どおり委任するが、国事については直接諸藩に命じる場合もあると書かれていた。これでは「征夷将軍儀」はその文字どおりの職掌である征夷(攘夷)に限られ、他の国政の最終決定権は朝廷にあるようにも解され、幕府への庶政委任は骨抜きにされた格好であった。だが、とにかく何をもって攘夷としそれをどう行うかはその裁量に委ねられた。それだけでも幕府にとって意味はあった。3月11日、長州藩世子毛利定広の進言によって攘夷成功祈願の賀茂行幸があり、関白以下の廷臣に加え、将軍家茂、慶喜他在京の諸大名は徒歩で随行した。江戸時代の天皇は、観念的には将軍の上位にあっても、実際はさまざまな面で幕府の支配を受けていた。その関係が逆転したことを可視化し、攘夷を祈願する天皇に将軍・諸大名が随従する様を天下に示すデモンストレーションであった。その3日後、島津久光が京都に入った。前年12月に春嶽に上洛を求められてのことで、山内容堂を加えた3人で公武合体の実現に努めるということになっていた。幕府もこれに形勢逆転の期待をかけていたが、当の久光は急進派の追い落としに手を尽くすも成功せず、早々と18日に帰国してしまう。春嶽はもはやこれまでと将軍職返上を勧めて自らも政事総裁職辞任を申し出、承認も待たず21日に、容堂も26日に帰国する。帰国後、越前藩は次の行動の準備に取り掛かり、土佐藩では長州に通じる藩内の過激尊攘派から容堂が実権を奪回すべく動き出す。ただ薩摩藩は、次の段階に進む前に、生麦事件の賠償交渉という難事を控えていた。将軍家茂も再三にわたり東帰を願い出たが、イギリス艦隊が大坂湾に襲来するという噂もあってことごとく差し止められ、4月11日の石清水行幸を迎えた。予定されていたパフォーマンスは軍神とされる八幡宮の神前で将軍に節刀を賜うというもので、これは兵権を委ねて朝敵の征伐を命じることを意味したが、慶喜は将軍には病気を理由に供奉させず、自らも名代として男山の麓まで行ったところでにわかに眼病を発して引き返した。欠席に激した攘夷派から慶喜は天誅の脅迫を相次いで受けることになった。
2024年07月31日
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文久の改革文久2年4月、幕府は安政の大獄で処分を受けていた一橋慶喜や松平春嶽(慶永、前越前藩主)、山内容堂(豊信、前土佐藩主)ら旧一橋派の諸侯を、朝廷から要求される前に赦免した。彼らは開国派だったから、むしろ朝廷を開国論に転じさせるのに一肌脱いでもらおうというわけで、幕府は春嶽に朝廷への入説を依頼する。春嶽が条件として将軍家茂の上洛を要求し、幕府は受け入れて6月に将軍上洛を予告した。薩摩側では久光側近の大久保利通(一蔵)らが岩倉具視など要路への運動に奔走し、5月に岩倉の「三事策」が朝廷に採用された。これは、(1)将軍が諸大名を率いて上洛し、攘夷について朝廷と協議する、(2)沿海5大藩主(薩摩・長州・土佐・仙台・加賀)を大老として幕政を担わせ、攘夷を行わせる、(3)一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を大老とするという内容で、(1)案は長州の主張、(2)案は雄藩のバランスをとるもの、そして(3)案が薩摩の主張であった。久光一行は勅使大原重徳の護衛として6月に江戸に下り、(3)案を幕府に迫った。交渉の結果、7月に慶喜の将軍後見職、春嶽の政事総裁職が決定し、8月には山内容堂も幕政への参与を認められた。こうして改革はスタートを切り、久光は8月21日に京都へ向かったが、途中東海道の神奈川宿近くで起こした生麦事件が後に困難な事態を招く。政事総裁職となった春嶽は、政治顧問として招聘した横井小楠の献策「国是七条」の実施を求めた。幕府はこれを容れ、参勤交代の緩和、江戸の大名妻子(人質)の帰国許可、幕府・幕閣への進献や礼装の軽減などを進めた。長州の巻き返し長州は航海遠略策の入説に失敗し、久光の率兵上洛で盛り上がった尊攘運動に呼応するように攘夷方針に転換したところ、その薩摩が急進派を鎮圧して勅命を得たため、公武周旋の主導権を奪われる形となった。その焦慮と対抗意識から尊攘運動への没入を深め急進化していくことになる。勅命は長州に薩摩への協力を求めていたが、それに不満な藩主毛利慶親は勅使到着の前日に江戸を離れ、7月に入京すると勅使と薩摩がもっぱら久光の本意である「三事策」の(3)案を主張していると非難した。朝廷はこれを容れ、(1)案と(3)案を合わせて一案とみなすとした。長州は10年の猶予を待たない即時の破約攘夷を主張し、その工作で朝廷内の急進派も勢いを増した。また、土佐勤王党を率いる武市瑞山(半平太)が藩主山内豊範に続いて8月に入京し、幕政参与となった前藩主容堂とかかわりなしに、長州の久坂玄瑞とも連絡を取り周旋の勅命を得て幕府に攘夷を突きつけ追い込もうとしていた。浪士が全国から次々に京都へ流れ込んで「天誅」が頻発し、京都所司代は勢いを盛り返した尊攘派に対処できなくなった。松平春嶽は対策として同じ徳川一門大名の会津藩主松平容保に新設の京都守護職への就任を要請し、容保は再三の懇請に負けて閏8月1日に就任した。容保が京都に入り、黒谷の金戒光明寺に本陣を置くのは12月に入ってからである。島津久光が閏₈月7日に京都に戻ったときには、先の滞在時から雰囲気一変して急進派が圧倒する勢いで、久光は即今攘夷不可を朝廷に工作するも成果はなく、10日余りで帰国した。薩摩派の岩倉具視も朝廷内で三条実美・姉小路公知ら急進派公家の弾劾を受けて辞官落飾し、引退を余儀なくされた。薩摩は長州など過激攘夷派の猛烈な巻き返しによって事実上追い落とされた。攘夷奉承文久2年9月21日、土佐と長州に薩摩の尊攘派も加わった運動が奏功し、幕府に即今攘夷を迫る新たな勅使を江戸に遣わすことが決まった(攘夷別勅使)。土佐藩主山内家の縁者で急進派公家の代表格である三条実美[注釈 4]を正使、姉小路公知を副使とし、山内豊範が随行することとなった。その約半月前の9月7日、幕府は先の勅使下向で沙汰止みとなっていた将軍上洛を翌年2月に行うと布告した。その後環境を整えておく必要から将軍後見職の一橋慶喜がまず上洛して朝廷に入説することも決まり、では次にどういう国是(対外方針)で臨むかの議論となった。松平春嶽は必戦の覚悟で条約を破棄すべきことを主張した。勅許も得ず押し付けられて結んだ条約はいったん破棄した上、全国の諸大名を集めた会議を経て天下一致しあらためて開国に進むべきであるという、一種の折衷案である。幕閣は到底不可能だと反対し議論は紛糾したが、その真意は天下の賛同を得た上での開国であるという横井小楠の説明により、やっと破約攘夷でまとまりかけた。ところがここに来て入説の任を担う慶喜が、政府間で正式に結ばれた条約を国内の不正(無勅許)を理由に破棄してはならない、また破棄してから大名会議の賛同を得られなければどうするのか、それよりも自分が理を尽くして天皇を説得する、幕府のことはもはや無いものと思って顧みず、ただ日本全体のためを考えてのことである、と主張した。横井はこれこそ「卓見と英断」「第一等」の案であるとして姑息な「第二等」の案を撤回することとし、10月1日に幕議は開国入説で決着した。だが同じ日、朝廷は勅使下向を理由に慶喜の上洛見合わせを申し渡してきた。春嶽は、慶喜が幕府を顧みぬ覚悟を示したことから賛成に転じたが、その後の慶喜の言動からその覚悟が疑わしくなり、攘夷論に戻ると再び引きこもってしまった。そこで幕政参与の山内容堂が調停に乗り出したが、復権して日も浅いため攘夷の勅命を奉じている自藩を抑えることもできず、奉勅攘夷の方向で幕閣を説得するしかなかった。すでに和宮降嫁のときに将来の攘夷は約束している。いまさら開国論を主張すれば、この勅使は議論に及ばず帰京し、関西は大混乱、攘夷運動は攘将軍(討幕)に発展するとの容堂の説に、幕閣も慶喜も折れた。折れたが、やはり攘夷の入説は不本意だからと慶喜は後見職辞任を申し出、驚いた老中や春嶽・容堂の説得でようやく撤回した。
2024年07月31日
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文久3年5月、小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、日本の江戸時代末期(幕末)にあたる文久3年8月18日(1863年9月30日)に発生した政変。孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(通商条約の破棄、再交渉)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企て朝議を牛耳る三条実美ら急進的な尊攘派公家およびその背後の長州藩を朝廷から排除したカウンタークーデターである。堺町御門の変(さかいまちごもんのへん)、文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)などとも呼ばれる。この政変が生じた背景として様々な事情があった。ひとつは江戸幕府が安政5年(1858年)に異勅の不平等条約を欧米列強と締結して三百諸藩を鎖国下に置いたまま5港を治外法権で屈服開港するという植民地化されかねない危機を、「破約攘夷」「即今攘夷」「大攘夷(開国攘夷)」で解決しようとしている志士達と、異勅の不平等条約による屈服開港を安政の大獄以降弾圧で凌ごうとし続けている江戸幕府とが、逆の方向性で天皇および朝廷の歴史的権威を借りようとしていたということ。また、このような事態に対し、幕府や志士達とは違って情報不足過ぎる孝明天皇は、鎖港による破約攘夷すなわち鎖国攘夷という非現実的な外交を江戸幕府に求めるのみであったこと。さらに、孝明天皇は譲位の希望すら度々漏らしており、幕閣酒井忠義]や佐幕派公卿九条尚忠らに不本意な和宮親子内親王の降嫁を迫られ、自ら勅許や和宮への脅迫などで推進し、文久1年(1861年)には和宮を江戸幕府に人質として差し出したも同然の「和宮降嫁」を自ら実現させてしまうというような孝明天皇個人の問題があったこと。そしてこの頃の朝廷では、開国攘夷・破約攘夷の長州藩、幕政改革・破約攘夷の薩摩藩、老中間部詮勝以来江戸幕府が度々孝明天皇に鎖国攘夷を約束し続けて来たために、表面上「攘夷」「勤王」を主張する佐幕派の中川宮朝彦親王・公家・会津藩が朝廷内で主導権争いをしていたこと、などが挙げられる。八月十八日の政変直前まで朝廷の実権を掌握していた長州系の公家達と長州藩などの志士達は、破約攘夷派であるため、遅くとも安政5年以降は江戸幕府を武家の棟梁としては失格であると見做さざるを得なかった。しかしそれでも江戸幕府が孝明朝廷に何度も攘夷の決行を約束している以上、江戸幕府に攘夷の決行を迫らないわけにはいかなかった。これに対し、佐幕派宮家の中川宮朝彦親王、佐幕派公家の近衛忠熙・二条斉敬ら、京都守護職の会津藩、および、孝明朝廷内で勢力挽回を図っていた幕政改革派の薩摩藩は、孝明朝廷のそれまでの数々の破約攘夷の詔の内容や江戸幕府が既に日本の防衛という面ですら信用不可の存在と世間から受け止められているという現実を踏まえ、孝明朝廷が「大和行幸の詔」(孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征を内容とする詔勅)を実行する過程で江戸幕府を見限るという形で自ら率先して天下に攘夷の号令を下すのではないかと恐れていた。この、江戸幕府が破約攘夷の志士達からだけでなく孝明朝廷からも、そして世間からも存在意義のない機構であると世間一般に認識され、長州系の「破約攘夷」かつ「公武一和」の政権が誕生するという事態、即ち江戸幕府と佐幕派の更なる回復不可能な権威失墜という危機的事態を防ぐために、佐幕派と幕政改革派とが結託し、大和行幸計画に反対する形で「八月十八日の政変」というカウンタークーデターを実行した。しかしながら、和宮降嫁同様、江戸幕府と佐幕派の一時的な勢力回復で終わる。孝明天皇にとっては、慶応1年に一会桑・佐幕派公家たから異勅の不平等条約への勅許を強要された事、慶応2年(1866年)の第二次長州征討で長州藩が勝利し江戸幕府が敗北したことなどにより、完全に裏目となった。政局の動向長州と薩摩の公武周旋桜田門外の変の後、幕府は公武関係の修復を図り、文久2年(1862年)2月に孝明天皇の妹和宮親子内親王を将軍徳川家茂の正室に迎えた。そして幕府は和宮降嫁と引き換えに攘夷(ここでは日米修好通商条約などを破棄して和親条約に引き戻すこと)を朝廷に約束した。攘夷の実行まで7〜8年から10年の猶予を設ける約束だったが、本音は天皇が攘夷の不可能を認識して開国に転ずるのを期待した時間稼ぎであった。こうした対外方針についての動向をめぐって長州藩と薩摩藩が政局を主導しようと争い、翌年の政変につながっていく。この時期、長州は長井雅楽の開国論(航海遠略策)をもって朝幕間の周旋に乗り出し、幕府も歓迎していた。だが、文久2年3月に京都に上った長井の入説は不調に終わる。同じ頃、薩摩の島津久光(藩主の実父、後見)が藩兵1千を率いて進発し[注釈 1]、攘夷・討幕・王政復古の好機と見た過激な諸藩士や浪人らが京都に集まり、尊王攘夷の気運が盛り上がったためである。薩摩ではかつて島津斉彬(前藩主、久光の兄)が一橋派の有志大名らとともに幕府の体制改革、雄藩の国政参加を実現して開国路線を進めようとしたが、安政の大獄以前に死去しており、久光はその遺志を実現するため朝廷から幕政改革を命じる勅諚を引き出し幕府に実行を迫るつもりだった。しかし、薩摩と交流のある尊攘家の筑前藩士平野国臣(次郎)がかねてより挙兵討幕を献策していたことから、久光が討幕の兵を挙げるとの噂が広まっていたのである。長州藩においても久坂玄瑞ら尊攘派が台頭して長井の開国論を攻撃し、やがて藩論を攘夷に転換させるに至る。尊攘派は薩摩と連携して蜂起する計画であったが、久光は自藩の急進派を寺田屋事件で粛清してその企てを潰した。
2024年07月31日
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8、「横浜鎖港路線の成立」水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、小四郎らは京都において、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。武田 幸運債(武田 幸運さい、享和3年(1803年)- 元治2年2月4日(1862年3月1日))は、幕末の人。水戸藩の天狗党の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社 (敦賀市)の祭神。靖国神社合祀。家系武田耕雲斎の家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系である跡部氏の一族であるという。跡部氏は室町時代後期に甲斐守護・武田氏を補佐する守護代となり武田氏に滅ぼされた一族のほか、戦国時代の甲斐武田氏家臣となった一族や、武田遺臣として存続した一族が知られる。跡部氏はもともと武田氏と同じ甲斐源氏であるが、祖は武田氏とは別流の小笠原氏であった。しかし、姻戚関係によるつながりのためか、耕雲斎は武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。祖先とされる跡部勝資が『甲陽軍鑑』において「奸臣」とされていた為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓への「復姓」(改姓)をしたという。経歴水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房(跡部家の宗家・300石)の養嗣子となった。文化14年(1817年)、家督を継ぐと同時に武田氏に改姓。戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称される。徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、天保11年(1840年)には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし弘化元年(1844年)、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。嘉永2年(1849年)、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、安政3年(1856年)には執政に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。しかし万延元年(1860年)、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、慶応元年(1864年)には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀(越前国新保)で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首された。享年63。その後、妻・2人の子・3人の孫も斬り殺された。耕雲斎は斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であったが、過激な攘夷には消極的だった。天狗党の首領とされた時、彼は既に死を覚悟していたらしい。墓所は水戸市所在の妙雲寺にある。また、斬首された天狗党員353名とともに埋葬された墳墓が、福井県敦賀市松島町にあり、武田耕雲斎等墓の名称で国の史跡に指定されている。家族武田延子 耕雲斎の妻。人見姓。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年40。靖国神社合祀[1]。武田彦衛門 耕雲斎の長男。水戸藩士。500石。書院番頭。諱は正勝。武田金次郎の父。元治元年(1864年)、小川勢を率い転戦し、10月、自首した榊原新左衛門と離れて西上し、慶応元年(1865年)2月4日、越前国敦賀で斬首となる。贈従四位。享年44。敦賀松原と水戸に墓、また靖国神社合祀。武田幾子 彦衛門の妻。藤田東湖の女。藤田氏。慶応元年(1865年)9月24日、水戸獄中で絶食して死す。享年43。靖国神社合祀[1]。武田孫三郎 彦衛門三男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀。武田金四郎 慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀。武田とし 彦衛門の娘。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年11。靖国神社合祀[4]。武田熊五郎 彦衛門の五男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀。武田魁介 耕雲斎次男。諱は正義。弘化(1844年~1847年)以来国事に尽し、元治元年(1864年)、大挙して江戸に赴き、₈月、那珂湊にて合戦、そのまま西上し、慶応元年(1865年)2月4日、越前国敦賀で捕らわれ斬首となる。贈従四位。靖国神社合祀。武田桃丸 耕雲斎の六男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年9。靖国神社合祀。武田金吾 耕雲斎の七男。慶応元年(1865年)3 月25日、水戸で斬首。享年3。靖国神社合祀。
2024年07月31日
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坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件。桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこ1860反発、信正らに対し憤激した。 万延元年(1860年)7月、水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らと、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵らは連帯して行動することを約し(丙辰丸の盟約・成破盟約・水長の盟約)、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。水戸志士らは宇都宮の儒学者大橋訥庵一派と連携して、信正の暗殺計画を進めた。当初は12月15日に決行する予定であったが、諸事情から12月28日に延期になり、更に延期され、1月15日上元の嘉例の式日で諸大名が総登城し将軍に拝謁することになっていたため、その折を狙うこととなった。しかし、決行直前の1月12日に計画の一部が露見し、大橋ら宇都宮側の参加者が幕府に捕縛された。そのため計画は大きく狂ったが、水戸志士を中心とした残りのメンバーだけで実行することになった。計画計画は、野村彝之介、原市之進、下野隼次郎、住谷寅之介らの水戸藩士を中心に、宇都宮藩の儒者大橋訥庵をはじめとする下野国の志士との連合で進められた。大橋訥庵は、幕府打倒を説く王政復古論者で、当初は挙兵を画したが人数が集まらず、水戸藩の強い意向もあって安藤襲撃の計画立案の中心人物となった。安藤の斬奸趣意書を執筆したのも訥庵とされている。訥庵夫人の弟の宇都宮商人菊池教中、同じく児島強介、下野国真岡の医師小山長円(春山)、商人横田藤四郎(祈綱)とその2人の子、河野顕三ら草莽の士が参画協力した[1]。決行に当たっては桜田門外の変に倣い、それぞれが変名を用いた斬奸趣意書を携えていた。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介(細谷忠斎)、小田彦三郎(浅田儀助)、黒沢五郎(吉野政介)、高畑総次郎(相田千之助)、下野の医師・河野顕三(三島三郎)、越後の医師・河本杜太郎(豊原邦之助)の6人が行列を襲撃した。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していたが、遅刻したため襲撃に参加出来なかった(なお、黒沢と高畑は第一次東禅寺事件の参加者である)。最初に直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕篭を銃撃した。弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。遅刻した川辺は長州藩邸に斬奸趣意書を届けた後、切腹した。影響信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。この事件を契機として、信正は4月に老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減封された。更に戊辰戦争では隠居した信正が奥羽越列藩同盟への参加を決断して敗北、再び蟄居と減転封(後に献金と引換に旧領安堵)を命じられることになる。
2024年07月31日
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翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。この激派の動きに対し、正志斎は2月28日に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。8月15日の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件・坂下門外の変などを起こすに至った。第一次東禅寺事件文久元年5月28日(1861年7月5日)、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件。文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入った。この行動に対し、尊攘派の志士らは「夷狄である外人男性に神州日本が穢され田」と憤激した。水戸藩脱藩の攘夷派浪士・有賀半弥ら14名は、5月24日に常陸国玉造湊を出航し、東禅寺門前の浜に上陸すると、品川宿の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わした後、5月28日午後10時頃、東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した(警備兵2名、浪士側3名が死亡)。オールコックは危うく難を逃れたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した。両名はその後帰国している。攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し逃走、有賀半弥、小堀寅吉、古川主馬之介の3名がその場で討取られ、榊鉞三郎が現場で捕縛された(旗本・生駒親敬に預けられた後、12月に斬首)。逃げた浪士も、「虎屋」で包囲され、中村貞吉、山崎信之介の2名は切腹、石井金四郎は捕えられ、旗本・山名義済に預けられた後に処刑。前木新八郎も逃げ切れず切腹している。浪士らはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それには「尊攘の大義のため」実行した旨が記されていた。逃走した黒沢五郎、高畑総次郎はその後、坂下門外の変に参加し闘死した。岡見留次郎は西国に逃走し天誅組の変に参加、敗走後捕えられ斬首された。木村幸之助、森半蔵ら、その他の浪士たちも逃亡の末切腹・獄死及び斬首され、明治時代まで生き延びたのは渡辺剛蔵、矢沢金之助と、襲撃に参加せず、逃走・捕縛後に明治維新により特赦された堀江芳之助のみであった。事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。しかし、この交渉に基づき品川御殿山に建設中であった公使館は、翌年12月に高杉晋作らによって放火されている(英国公使館焼き討ち事件)。事件以前、オールコックは幕府が警備を口実として自分達を監視していると思っていたが、攘夷運動の熾烈さを強く認識することとなった。彼は著書で「警備兵は浪士と戦わなかった」と記しているが、実際には警備兵はその責務を果たしている。 事件当時、外国方として東禅寺にいた福地桜痴は目撃した事件の概要を記録している(『史談会速記録』)。後日、浪士らを撃退した警備の武士ら48名に対し褒賞が下された。第二次東禅寺事件文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士・伊藤軍兵衛は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生した。幕府は翌文久3年4月、生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見た。
2024年07月31日
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鎮派・激派。先に朝廷から水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。*金子 孫次郎(金子 孫次郎、文化元年(1804年) - 文久元年7月26日(1861年8月31日))は、幕末の水戸藩の郡奉行である。尊王攘夷派志士。幼名は子之次郎。仮名は孫二郎、孫三郎。諱は教孝、号を錦村といった。位階は贈正四位。靖国神社合祀。水戸藩士・川瀬教徳の第2子として生まれ、水戸藩士・金子孫三郎能久の養子となった。はじめ小普請組となる。文政12年(1八弐九年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、父・教徳らとともに徳川斉昭を擁立した。斉昭が藩主になると、その下で歩行目付、吟味役、奥右筆を経て郡奉行となった。弘化元年(壱八四四年)、天保の改革推進中の斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤運動に奔走して禁固刑に処せられた。斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となって安政の改革を進めた。民政に手腕を発揮し、郡奉行・吉成信貞らとともに徳川斉昭を助けた。安政5年(1858年)に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。翌6年(1859年)に安政の大獄が起こると、かねてから計画していた大老・井伊直弼要撃を企て、高橋多一郎・関鉄之介らとともに脱藩して江戸や京都に潜伏し、安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変を起こすに至った。孫二郎自身は、直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて、佐藤鉄三郎、薩摩藩士・有村雄助とともに大坂で後挙を謀ろうとしたが、伏見で捕らえられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。明治維新後、正四位を贈位される[2]。年譜1804年 水戸藩士・川瀬教徳の第2子として生まれる。1829年 藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立。1830年 – 1844年 郡奉行。1844年 禁固刑に処せられる。1853年 復帰して郡奉行再勤。1858年 勅書問題で奔走。1860年 桜田門外の変に加わる。1861年 斬罪に処せられる。享年58。*高橋 多一郎(たかはし たいちろう、文化11年(1814年)- 万延元年3月23日(1860年4月13日))は、幕末の武士。水戸藩士。桜田門外の変の首謀者の一人。諱を愛諸、字を敬卿、号を柚門、変名を磯辺三郎兵衛といった。妻は茅根信一の女。子に高橋庄左衛門(荘左衛門とも)、弟に鮎沢伊太夫がいる。家紋は九枚笹。位階は贈正四位。靖国神社合祀。水戸藩士・高橋諸往の長男として生まれる。藤田幽谷の門弟・国友善菴や藤田東湖に学び、尊王攘夷論に傾倒。改革派屈指の秀才と言われる。天保10年(1839年)、家督を継ぐ。藩主・徳川斉昭に抜擢され床几回組に属する。天保12年(1841年)、藩主の側近である奥右筆に任命される。天保15年(1844年)5月に斉昭が幕府から隠退・謹慎処分を受けると、高橋は江戸へ上り幕府に対し斉昭の免罪を運動した。しかし門閥派によって嘉永元年(1848年)7月に蟄居に処せられる。嘉永2年(1849年)3月に斉昭が許されると高橋も復職。安政7年(1855年)、北郡奉行となり、農兵の組織や郷校の建設に携わる。12月に奥右筆頭取に進み、改革派の中心人物となる。安政5年(1858年)、将軍継嗣問題・日米修好通商条約問題で大老・井伊直弼と対立した斉昭が蟄居を命じられると、水戸藩の改革派は朝廷工作を行い、₈月に戊午の密勅が下され、高橋は密勅の写しを江戸から水戸に届ける。高橋は金子孫二郎らとともに密勅に基づく国政改革を志し、安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すため諸藩の連携を画策し、住谷寅之介、関鉄之介らを土佐藩や長州藩などに派遣する。安政6年(1859年)、斉昭が幕府から永蟄居処分を受け、水戸藩に対し密勅の返還が命じられると、高橋は強硬に不返論を主張して会沢正志斎らと対立し蟄居させられる。この頃から密かに金子孫二郎や薩摩藩士・有村雄助らと共に井伊大老暗殺を計画し、関鉄之介らを組織する。同時に高橋は密勅が江戸へ運ばれるのを防ぐため急進派藩士らを指揮して水戸街道の長岡宿(現・東茨城郡茨城町)に屯集させた。これを危険視した幕府では水戸藩に屯集者の解散を命じ、捕縛される事を察した高橋は脱藩する。井伊大老暗殺計画では、江戸での井伊暗殺と同時に薩摩藩兵が上京し大阪から京都に入り朝廷を守護する事になっていた。高橋はこの薩摩藩士と合流するため息子・庄左衛門らと共に大坂へ向った。安政7年(1860年)3月3日、関鉄之介らが江戸城桜田門外で井伊大老暗殺に成功したが、薩摩藩は動かず京坂での挙兵計画は頓挫する。大坂に潜伏した高橋は井伊暗殺成功を知り、薩摩藩兵の上京を待っていたが、潜伏地を幕吏に探知され、四天王寺境内の寺役人小川欣司兵衛宅にて息子・庄左衛門と共に自刃した。享年47[2]。辞世の歌は「鳥が鳴く あづま健夫の まごころは 鹿島の里の あなたとぞ知れ」。息子庄左衛門の歌は「今さらに 何をか言わめ 言わずとも 尽くす心は 神や知るらむ」。維新後正四位を贈位される。
2024年07月31日
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7、「安政の大獄」安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には大老・井伊直弼が全ての命令を発した。ただし、家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間に限られる。]。江戸時代後期の日本には、外国船が相次いで来航した。清朝がアヘン戦争に敗れると、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題が議論される。老中・阿部正弘が幕政改革を行ない、黒船来航後の1854年にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国とは日露和親条約を締結した。黒船が来航した1853年には、第12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍に家慶の四男・徳川家定が就任するが、病弱で男子を設ける見込みがなかったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩主徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しく対立した。その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米通商航海条約への調印を江戸幕府に迫っていた。この時、江戸幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦が京に上った。当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。正睦が空しく江戸へ戻った直後の安政5年(1858年)4月、南紀派の直弼が大老に就任する。直弼は、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。前水戸藩主・徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して長男である藩主徳川慶篤を動かし、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永(春嶽)らと連合した。彼らは(条約調印自体は止むを得ないと考えていたが)「無勅許調印は不敬」として、直弼を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)をした。直弼は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居・謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。一橋派であった薩摩藩の藩主・島津斉彬は直弼に反発し藩兵5000人を率いて上洛して朝廷を守護した上で、違勅を正して一橋派の復権を指示する勅諚を得て、井伊専横幕府と対峙することを計画したが、同年7月に鹿児島で出兵兵の調練中の水当りが原因で急死、出兵・勅諚計画は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父・島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。1858年8月には、薩摩藩と協働して朝廷工作を行なっていた水戸藩及び長州藩に対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白・九条尚忠が辞職に追い込まれた。このため9月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛し、中心人物と目された梅田雲浜他、近藤茂左衛門、橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、評定所などで詮議を受けた後、死罪、遠島など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨や岩瀬忠震らの非門閥の開明派幕臣が謹慎などの処分となった。この時、寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる 。安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において直弼が殺害された後、弾圧は収束する。文久2年(1862年)5月、勅命を受け慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職に就任する。慶喜と春嶽は直弼が行なった大獄はなはだ専断であったとして、井伊家に対し10万石削減の追罰弾圧の取調べをした者の処罰大獄で幽閉されていた者の釈放桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦を行なった。幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。安政の大獄は、幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き諸藩の幕府への信頼を大きく低下させることとなり、反幕派による尊攘活動を激化させ、江戸幕府滅亡の遠因になったとも言われている。
2024年07月31日
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政睦は自らただ指針を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京し条約勅許に尽力したが、3月12日(1858年4月25日)の武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。また孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、3月20日(1858年5月3日)に勅許を拒否した。一方のハリスも、アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856年 – 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。正睦は事態打開のために松平春嶽の大老就任を画策したが、実際に大老に就任したのは井伊直弼であった。直弼は、条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した。直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「やむを得ないさいは調印してもよいか」と質問、直弼は「そのさいはいたしかたもないが、なるたけ尽力せよ」と答えた。その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、直弼の意向を無視して、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。この際、ハリスから、清国に展開中の英国艦隊が近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。清直、忠震もしばらくして左遷されている。この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1862年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。しかし条約締結は日本に大きな政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して王政復古に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。内容ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した[6]。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した[7]。日米修好通商条約の内容は以下の通りである[8]。第1条今後日本とアメリカは友好関係を維持する。日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。第2条日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。第3条下田・箱館に加え、以下の港を開港・開市する。神奈川:1859年7月4日(安政6年6月5日)但し、神奈川開港6か月後に下田は閉鎖する
2024年07月31日
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水戸藩への影響藩創設以来、水戸藩では藩主に忠実な改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守門閥派(諸生党)との対立が激しかったが、密勅への対応を巡り、改革派の中でも、密勅の通りに勅書を諸藩に廻達すべきとする、家老武田耕雲斎を中心とした尊攘激派(後の天狗党)と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべきとする、會澤正志斎を中心とした尊攘鎮派とに分裂して激しく対立し、三巴の混沌とした藩状のまま明治維新を迎えることとなる。幕府は水戸藩に対し勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めたが、勅書返納に反対する激派の藩士や領民は安政5年9月と安政6年5月に小金宿に集結し、勅書の返納を阻止するため気勢を挙げ、これに対して慶篤は家老大場弥右衛門、郡奉行金子孫二郎らを派遣して鎮撫に努めたが、抑え切れる状況ではなかった。安政6年8月27日(1859年9月23日)、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、密勅降下に関わったとして家老安嶋帯刀を切腹、奥祐筆茅根伊予之介、京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、京都留守居役助役同幸吉を獄門、勘定奉行鮎沢伊太夫を遠島とし、斉昭は水戸での永蟄居、慶篤は差控とした(安政の大獄)。同年12月に幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内では返納論が主流となっていたが、激派は水戸街道の長岡宿に集結し街道を封鎖して勅書の返納を実力阻止しようとした。勅書は歴代藩主の廟内で厳重に保管され、翌安政7年2月に勅書返納が正式に決まるが、城下で激派と鎮派が斬り合いとなる騒ぎが起こったり、斎藤留次郎が返納反対を訴えて水戸城内で切腹するなどの混乱があったりして返納は延期となった。長岡宿に屯集する激派に対して武力鎮圧する動きが起こると、激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年3月3日(1860年3月24日)に井伊大老を襲撃することとなる(桜田門外の変)。変後の混乱により返納問題はうやむやとなり、勅書は水戸に留められた。「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名がなされている。欧語ではアメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約とも通称される。アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、日本側に不利であり、一般に不平等条約といわれる。しかし同条約の付則第七則で定められた関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)。但し、日米修好通商条約の第二条は「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、これは日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲介することを宣言したもので、他の四カ国との条約にはこの文言はなかった。条約の第13条に1872年(明治5年)7月4日には条約を改正できる旨の条項が設けられていたが、ときの明治政府はまだ何ら組織が整っていなかったため、交渉開始の延期を申し入れ、1876年から各国と条約改正交渉を開始した。交渉は難航し、日清開戦直前の1894年7月16日の日英通商航海条約の締結により領事裁判権の撤廃が実現したが、関税自主権を回復したのは日露戦争後の1911年2月21日調印の新日米通商航海条約[注釈 2]まで待たねばならなかった。条約書の原本は、1997年(平成9年)に、歴史資料として重要文化財に指定された。経緯日米和親条約により日本初の総領事として安政3年7月21日(1856年8月21日)下田に赴任したタウンゼント・ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。同年8月3日、アームストロング代将其の他の士官とともに上陸し、下田奉行と会見した。奉行は、領事の目的や権限(治外法権やアメリカ人に対する領事裁判権)について尋ね、領事の下田駐在を渋ったが、結局、アメリカ政府へ交渉するまでの間滞在することを認めた。そこでハリスは、8月5日上陸して、日本側が提供した下田近郊の柿崎にある玉泉寺を総領事館と定めた。8月11日、下田奉行は、ハリスを下田に駐在させることを決め、その後の取締方について幕閣に指示を仰いだ。幕府・評定所の意見は極めて晦渋であり、邪教伝染がないように取締を厳重にし、宿舎の規模などもなるべく小さくするなどを命じ、喜んで駐在させるという気風は見えなかった。しかし、8月24日、ハリスの下田駐在は公然と認められたのである。8月29日、ハリス下田駐在を積極的に受け止めた目付岩瀬忠震を下田に派遣した。その間、岩瀬は下田奉行とともにハリスと会見した。ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、将軍家定に謁見し国書を手渡した。ハリスの強硬な主張によりアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府の老中首座であった堀田正睦は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させた。交渉は15回に及び、この間清直と忠震は国内の情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたがハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図した
2024年07月31日
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5、「勅書」返納問題安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)は、安政5年₈8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の参内)を経ないままの下賜であったことによる(九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた)。密勅は、幕府寄りの関白九条尚忠の参内のないまま、武家伝奏 久我建通、万里小路正房からの説明による執行奉承(事後承認)のみで、安政5年8月7日深更、武家伝奏万里小路正房の里亭にて水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門知信に下ったが、吉左衛門の持病が悪化していたため子の京都留守居役助役 幸吉知明が代わりに拝した。この際、幸吉は近衛忠煕から、この勅諚が日米修好通商条約締結後の、幕府による朝廷への度重なる非礼を戒め、謹慎中の斉昭を中心にして幕政改革を行うことを目的としている旨説明を受けた。幸吉はいったん自宅に戻り、大阪蔵屋敷手代・小瀬伝左衛門と変名し、籠担ぎに変装して空籠を担ぎながら東海道を潜行(副使の薩摩藩士・日下部伊三次は中山道より下行)、16日深夜に水戸藩駒込邸にいた水戸藩主徳川慶篤に勅諚を伝えた。これに先立ち、薩摩藩士西郷吉之助が、水戸藩家老安島帯刀に水戸藩への勅諚降下・諸藩回送の可否を打診していたが、安嶋は藩状の混乱を理由にこれを断っており、西郷が京に帰ったのと入れ違いに鵜飼が勅諚をもたらしたため、安島は驚愕したという。ただし、西郷が京都を出発したの8月4日で、密勅の話が孝明天皇周辺に発生したのが8月5日であることを考えると、西郷伝説の一環としての、後日の創作である可能性がある。 また、斉昭は勅諚が水戸藩に下ったことを聞き、降下先が一ツ橋だったのなら諸藩への回送と幕政改革をやりおおせるであろうが、慶篤では、とても無理であろう、と言ったという。 幕府には、幕府との対立を意図するものではなく、協力して対外政策に当たることを意図するものであるとの関白九条尚忠の添書き付きで、10日に禁裏付の大久保一翁を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。水戸藩から御三家、御三卿には勅書の回送が行なわれたが、その他の諸藩には幕命により秘匿された。長州藩や越前藩等の雄藩には、写しが関白以外の摂家を通じて、縁家筋から送付された。内容勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。上記2つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよという副書。以上の3つに要約することができる。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ密勅の写しを回送する指示を出したということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅諚の内容を秘匿するよう慶篤に命じ、大老井伊直弼による安政の大獄を本格化させることになった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、薩摩藩伏見挙兵計画の秘事が記されていたとされ[1]、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。草案段階では、将軍継嗣問題への言及も見られたが、奏請の結果、割愛となった。勅諚全文先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細閒部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而敕答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤敕答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右樣之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國內之治亂如何ト更ニ深被惱叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之樣ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家愼中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同樣御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪狀ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被惱宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候樣被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、內憂有之候而者、殊更深被惱宸襟候。彼是國家之大事ニ候閒、大老閣老其他三家三卿家門列藩外樣譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之樣、德川御家ヲ扶助有之內ヲ整、外夷之侮ヲ不受樣ニト被思召候。早々可致商議敕諚之事。安政五戊午年八月八日・近衞左大臣・鷹司右大臣・一條内大臣・三條前内大臣・二條大納言・ 水戸中納言・ 廣橋大納言・ 萬里小路大納言(花押なし)【水戸藩へ別紙 添書】勅諚ノ趣 仰出サレ候 右ハ国家ノ大事ハ勿論 徳川家ヲ御扶助二 思食サレ候間 會議之有リ 御安全之様 勘考 有可キ旨 以之出格 思食仰出サレ候間 猶同列之方々、三卿家門之衆以上隠居ニ至迄、列藩一同ニモ 御趣意相心得ラレ候様、向々ヘモ伝達之有可ク 仰出され候以上参考「戊午秘記」(東京大学史料編纂所データベース)、大森金五郎「大日本全史 下巻」(富山房、1922年発行)
2024年07月31日
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弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年(1853年)にはマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。安政の改革、晩年こうして正弘は積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全、松平忠優を8月4日(9月14日)に老中より罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。安政4年6月17日(1857年₈月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。なお、正弘は将軍継嗣問題(家定の後継者問題)では一橋慶喜を推していた。人物・逸話幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。『国民史』では歴史の登場人物の肉声としての様々な手紙を仮名読みに変換しているため、正弘の肉声を現代の読者が直接読むことができる構成から出発している。『国民史』に所収の書簡からは、攘夷論の正弘が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択した点がうかがえている。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながらも、自らは蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。若すぎる死因に関しては肝臓癌による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎『日本の歴史16 開国と攘夷』、中公文庫)。西洋の学問に理解を示し、勝海舟の紹介で正弘の邸宅に呼ばれた杉純道が、ドイツ版の世界地理書を用い詳しく説明した。正弘は「我が国は狭いな」と感銘し、杉のため原書を何でも買ってやろうと約束した。正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間、正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権。嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府から海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。
2024年07月31日
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逸話翠軒の弟子 小宮山楓軒は常々、師である翠軒を敬い、師の生きざまを『翠軒先生遺事』に記すという。これによれば、翠軒は幼少の折、寺門倧太郎と海浜で遊んでいたが、知らぬうちに寺門により妓楼に連れ込まれてしまった。翠軒は小用に立つ振りをして逃げ帰り、寺門との付き合いを絶ってしまった。水戸藩主 徳川治保は学問を好み長久保赤水を侍講とし、赤水の推挙で翠軒も侍講に任ぜられた。ある時、治保が翠軒に「人主には釣り合いの臣があるものだ。唐の太宗と魏徴がそれだ」といい、「自らはそこ許をもってその人としよう。どんな直諫もして欲しい」と述べた上で「どうか、俗吏などと争ったり、排斥されることのないよう気をつけてもらいたい。」という言葉をかけたという。家老山野辺義胤の養子の山野辺図書(山野辺義聚)が、養父と折り合い悪く、実家である佐伯藩毛利家に帰された。図書が何も罪がないと言いたて不平を述べると翠軒は「君自身、罪のあると知らぬというのが罪たる所以だ」と述べたという。ある時、水戸藩士に蔭山八郎右衛門という200石取りの藩士が常々、知行地の百姓を救いたいと考えていたが、実行できずに悩んでいたという。翠軒は「人を救おうというのに、自分の財産を拵えて、それができてからと思っていたら、救うことなど出来はせぬ」と述べた。これを耳にした八郎右衛門は大いに恥じ入り、直ちに年貢の収納を半減したという。また、翠軒は「人の価値というものは家庭にいるときの様子で大抵わかる。自分の妻に怒り散らしたり、時に打擲に及ぶような者があるが、そうした人間は一の上に立つ資格がない者だ」と述べたという。寛政7年(1795年)、藤田幽谷らと従者に画家の小泉斐を従え、吉原口(村山口)から富士山登山に成功している。この経験を元に小泉斐が製作した「富嶽写真」は富岡鉄斎が富士図製作に携わる際に大いに参考にされた。 斉昭と親密であった水野忠邦が失脚すると、後任の阿部正弘は、天保15年(1844年)5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正を命じた。 *阿部 正弘(あべ まさひろ、文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。出生文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになったといわれる。老中就任天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行鳥居忠耀や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった。正弘は家慶、家定の2代の将軍の時代に幕政を統括した。嘉永5年(1852年)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。さらに人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石(天領であった隣接の安那郡山野村と矢川村と神石郡上豊松ほか14 か村 ※古川村を除く)はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。
2024年07月31日
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*「藤田 幽谷」(ふじた ゆうこく、1774年3月29日(安永3年2月18日) - 1826年12月29日(文政9年12月1日))は、江戸時代後期の儒学者・水戸学者・民政家。水戸城下で古着商藤田屋を営む与右衛門の次男、母は根本氏の娘。祖父に与左衛門。子に藤田東湖。常陸水戸生まれ。名は一正。通称は熊之介、後に与介、また次郎左衛門。字は子定。水戸学中興の祖。略歴水戸城下の奈良屋町に生まれる。幼少の頃から学問で頭角を現すようになり、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎に学ぶ。侃斎の推挙を受け、彰考館編修で後に総裁となる立原翠軒の門人となる。1788年(天明8年)にはその推薦で彰考館に入る。1789年(天明9年)には正式に館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わる。水戸藩では徳川光圀の百遠忌に向けて写本を献本するため『大日本史』の校訂と浄書を行っていたが、『大日本史』の題号に国号を憚るべきとする題号問題が発生していた(史館動揺)。翠軒が藩主治保からこの問題を諮問されている間に幽谷は翠軒を差し置いて題号を『史稿』に改めるべきであるとする意見書を提出し、翠軒の修史方針や藩主治保の修学態度、さらには藩政改革の提言や対外情勢への意見などを著作で発表 し、一時は編修職を解任される。この史館動揺は党派的な対立に発展する。1807年(文化4年)彰考館の総裁に就任、150石を受ける。著作である『勧農或問』は水戸藩天保の改革の農村対策に影響を与えた。1812年(文化9年)再び総裁を専任。門人に次男である藤田東湖、豊田天功、会沢正志斎らがおり、彼らは水戸学の尊王攘夷思想を全国に広める活動を行った。著書に『正名論』など。*「立原 翠軒」(たちはら すいけん、延享元年6月7日(1744年7月16日) - 文政6年3月4日(1829年4月14日))は、江戸時代中期から後期の水戸藩士。学者として3代藩主徳川宗翰、6代治保の2代にわたって仕える。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。仮名は甚五郎。諱は万。字は伯時。号は東里。致仕後に翠軒と号する。父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の立原杏所、孫には幕末の志士・立原朴次郎や閨秀画家の立原春沙、子孫には昭和初期の詩人、建築家・立原道造がいる。延享元年(1744年)6月7日、水戸城下の武熊(竹隈)にて生まれる。幼い折は谷田部東壑に師事。宝暦10年(1760年)に荻生徂徠を祖とする古文辞学派(徂徠学派)・田中江南が水戸を訪れた折に師の東壑とともにその門に入った。同13年(1763年)、江南が去った後、江戸彰考館の書写場傭に任ぜられた。江戸にては文章を大内熊耳、唐音を細井平洲、書を松平楽山に学んだ。明和3年(1766年)、編集員を命ぜられ水戸史館に転じた。天明6年(1786年)6月、彰考館総裁に進み、以後に享和3年(1803年)に致仕するまで『大日本史』の編纂に力を注ぎ、寛政11年(1799年)には『大日本史』の紀伝浄写本80巻を、『大日本史』編纂の遺命を残した2代藩主・徳川光圀の廟に献じた。この間、混乱の生じていた彰考館の蔵書を整理、欠本となっていたものを補写する様に命じ、古器物などの修膳、光圀以来の留書、書簡などが集積されたまま、整理されていなかったため、これを補修製本した。これが『江水往復書案』、『史館雑事記』として今日に伝わっているものの原本となっている。永く停滞していた修史事業を軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績によるものであり、翠軒の尽力により後世の水戸学が結実していったといわれている。また、翠軒は藩主治保の藩政にも参与し、天下の三大患について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告した。寛政5年(1793年)、門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせたという。また、大日本史編纂の方針を巡り、弟子の藤田幽谷と対立を深めていたともいわれている。対立点としては、1点目としては『大日本史』の題名であり、幽谷は『史稿』と主張し、翠軒が反対していた。2点目としては、『大日本史』の志表の継続または廃止をめぐる対立で、翠軒は廃止、幽谷は継続を主張した。3点目としては論賛の是非であり、翠軒は可、幽谷は不可としたという。幽谷との対立は幽谷が『丁巳封事』を藩に上書し、藩政批判を行ったことで不敬の罪を問われ免職となった折に翠軒により破門されたことで表面化することとなった。これにより両者は絶交となった。享和3年(1803年)、高橋担室が『大日本史』の論賛を削除すべきである旨を上書し、藤田幽谷もこれに同調したことで、翠軒は致仕を命ぜられ、徳川家康の事績研究を命ぜられ、弟子の小宮山楓軒とともに『垂統大記』を編纂したが文政6年(1823年)3月4日、同著の完成を見ずになくなったという。享年80。書画、篆刻、七弦琴にも秀で、著書として『西山遺聞』、『此君堂文集』、『新安手簡』などがある。
2024年07月31日
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4、「鎮派・激派」この時期において天狗党への反対派の中心人物となったのは門閥出身の結城朝道(寅寿)であった。*結城 朝道(ゆうき ともみち)は、江戸時代後期の武士。水戸藩の執政。別名「寅寿」の読み方については「とらかず」や「ともひさ」とする説もある。家系本姓は藤原氏。家系は鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする小山氏の同族・結城氏の血筋。結城氏は鎌倉・室町時代から続く関東の名門であり、同じく古くから関東に栄えた小山氏、小田氏などと共に水戸藩の御三家と並び称された家柄である。結城氏が水戸藩士として仕官した後は、歴代の重役を務める1,000石の知行をもって遇され、その格式を保ってきた。家伝によれば、系譜は以下の通りである。しかし、白河結城氏の一族、中畠氏の血筋とも。≪下総結城氏説≫ 結城晴朝 - 七郎晴信(嫡子。羽柴秀康、結城家を継ぐにより逼塞。徳川光圀、500石にて召し出し) - 晴映 - 晴久 - 晴広 - 晴久 - 数馬晴徳 - 寅寿晴明(後に朝道) - 七郎種徳 = 道家(大森家から養子)≪白川結城氏庶流中畠氏説≫ 結城晴綱 - 中畠晴常 - 中畠晴時 - 相良晴倶 - 定共 - 晴定 - 光定 - 晴久 - 晴広 - 晴久 - 数馬晴徳 - 寅寿晴明(後に朝道) - 七郎種徳 = 道家(大森家から養子)生涯文政元年(1818年)、水戸藩士・結城晴徳の長男として誕生。文政7年(1824年)に家督を継ぎ、天保4年(1833年)からは水戸藩江戸藩邸にて藩主・徳川斉昭の小姓を務めた。斉昭からは若年寄、御勝手改正掛に任じられ、天保13年(1842年)からは執政となる。当初は人物聡明にして主君・斉昭や天狗党からも好感を受けていた。名門中の名門に生まれた朝道は、育ちが良く決して陰湿な人物ではなかったが、名門に生まれたが故の誇りから生来保守的な性格の持ち主であった。加えて持ち前の聡明さから、上士層により形成された佐幕派の保守層の支持を受けて次第に台頭、藩内に結城派なる一派を形成するほどの勢力を築いていくことになる。そもそも、水戸藩では上士層を中心に親幕府色を打ち出す諸生党と朝廷を信奉する天狗党に分かれ、代々藩内で闘争を繰り返してきた。8代藩主・徳川斉脩の死後、諸生党では幕府との関係を親密にするため、11代将軍・徳川家斉の庶子を養子に迎えようとするが、中下士層を中心とした一派が斉脩の舎弟・斉昭を推したため、斉昭が藩主に就任したという経緯があった。故に上士層はいわば藩主の抵抗勢力となり、斉昭はその聡明さから中士や下士であっても優秀な人材を積極的に登用した。結城は有力上士の一人として、天狗党の跋扈する水戸藩政に反発、保守層の勢力挽回のために、革新的な政策をとる斉昭や、その腹心たる藤田東湖、戸田忠太夫らを始めとした尊皇派と次第に対立を深めることとなった。結城は中士、下士層を中心に形成された尊皇派の台頭を防ぎ、藩内の親幕府勢力を回復するため、藩士、そして斉昭と改革派の失脚を実現させると、水戸藩の実権を掌握し、斉昭の跡を継いだ徳川慶篤の下では専横の限りを尽くした。しかし弘化4年(1847年)9月、老中・阿部正弘の命で結城も失脚となり、同年10月24日に隠居処分に処せられた。かつて朝道によって失脚させられた斉昭や改革派の恨みは凄まじく、彼らがやがて復権を遂げると、嘉永6年(1853年)10月16日に朝道は拘禁されることとなった。やがて朝道は水戸藩の支藩の筆頭・高松藩の藩主で、幕府内においては譜代大名の井伊直弼ら保守派との関係が深い松平頼胤が宗家の家督を欲しているのを知り、慶篤を暗殺して頼胤を藩主に迎えようと画策した。しかし計画は露見し、その3年後に死罪に処せられた。享年39。子・種徳も拘禁され、絶食のために獄死した。結城家はこれにより藩士としては滅亡の憂き目を見ることとなった。ちなみにその後の結城家は、水戸藩士大森氏から養子を迎え、水戸藩領内の久慈郡においてその家系を伝えた。 もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策を志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任に反対して弾圧された門閥層や、かつて東湖の父・藤田幽谷と熾烈な党争を繰り広げた立原翠軒派の残党など、天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、次第に勢力を増していった。
2024年07月31日
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*「会沢 正志斎」(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年₈8月27日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎、欣賞斎、憩斎。天明2年(1782年)、水戸藩士・会沢恭敬の長男として、水戸城下の下谷で生まれる。母は根本重政の娘。幼名は市五郎、または安吉。会沢家は代々久慈郡 諸沢村(常陸大宮市諸沢)の農家で、初代藩主・徳川頼房のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に士分となった。寛政3年(1791年)、10歳にて藤田幽谷の私塾(のちの青藍舎)へ入門する。師となった幽谷は正志斎の8歳年上でいまだ18歳ではあるが、すでにその突出した学識で士分に取り立てられて名声があり、観念的な学問より実社会に役立つ実学を奨励した。後に正志斎は幽谷の教育内容を『及門遺範』にまとめている。寛政11年(1799年)、『大日本史』の修史局の彰考館に入り書写生となる。また、ロシアのアダム・ラクスマンが根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に関心を寄せ、正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、享和元年(1801年)に『千島異聞』を著す。享和3年(1803年)、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。文政4年(1821年)には藩主・徳川治紀の諸公子の侍読(教育係)を命じられ、その中に後の9代藩主・斉昭もいた。文政6年(1823年)、進物番上座となる。文政7年(1824年)、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見した。その会見の様子を記した『暗夷問答』を著し、翌年に対策についての考察、いわゆる尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著して藩主・徳川斉脩に上呈したが、内容が過激であるという理由で公には出版されなかった。文政9年(1826年)、幽谷の死去を受けて彰考館総裁代役に就任した。文政12年(1829年)、藩主・斉脩の後継問題で敬三郎(斉昭)を擁立する運動に参加し、山野辺義観、藤田東湖らとともに江戸へ出て奔走した。無断で江戸に出た罪で逼塞を命じられたが、30日ほどで許されて郡奉行となる。翌年通事、調役となり、また彰考館総裁となった。以後、斉昭から取り立てられ、藩政改革を補佐した。天保3年(1832年)、禄高150石。天保9年(1838年)、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年(1840年)には小姓頭となり、藩校の弘道館の初代教授頭取に任じられた。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。弘化2年(1845年)、斉昭は江戸幕府から藩政改革の問題点を指摘されて隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた。嘉永2年(1849年)に斉昭が復帰すると同時に赦免され、のちに弘道館教授に復帰した。安政2年(1855年)、将軍・徳川家定に謁見する。安政5年(1858年)、幕府の日米修好通商条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下ると、会沢は密勅を水戸藩から諸藩へ回送することに反対して、勅諚の朝廷への返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立する。斉昭が安政の大獄で永蟄居処分となると藩内はさらに混迷し、正志斎はその収拾に努めた。文久2年(1862年)には一橋慶喜(徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』を提出する。このため、激派からは「老耄」と批判された。同年、馬廻頭上座を務める。文久3年(1863年)、水戸の自邸にて死去。82歳。墓所は茨城県水戸市の本法寺。正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、後年『時務策』を著しており開国を全面的には否定しなかった。『新論』は幕府に遠慮して出版はされず、無名氏の執筆として写され、多くの人々に読まれた。長州藩の吉田松陰や久留米藩の真木保臣が水戸を訪れ、正志斎に面会している。特に吉田の『東北遊日記』には、「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。…会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されている。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している。とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する「勅書」返納問題において鎮派・激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢・潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に限定して使用している。
2024年07月31日
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3、「天狗党の発生」文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸へ越訴した。*藤田 東湖(ふじた とうこ)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、武次郎、誠之進の通称を持つ。号の「東湖」は生家が千波湖を東に望むことにちなむという。東湖の他には梅庵という号も用いた。出自先祖は常陸国那珂郡飯田村中島の百姓。遠祖は小野篁に遡るとされているが、詳細不明であり眉唾に近い類である。ただ、賢人と名高い小野篁を先祖に持つということが勉学の励みとなったと後に東湖は述懐している。曽祖父・与左衛門の代に水戸城下に移り、商家に奉公してのれん分けを許され店を開いた。祖父・与右衛門(言徳)は水戸城下の奈良屋町で屋号「藤田屋」という古着屋を営んでいたが、学問を好んだ。その次男が東湖の父・幽谷で、幼少時より学才高く神童とうたわれ、立原翠軒の私塾に入門した。さらに彰考館の館員となって頭角を現し、水戸藩士分に列した。幽谷には2男4女があった(東湖からすると兄1人・姉1人・妹3人)。長男の熊太郎は東湖の誕生前に早世していたため、東湖は唯一の男子として育てられた。生涯文化3年(1806年)、水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者・藤田幽谷、母は町与力丹氏の娘・梅。次男であるが、兄の熊太郎は早世したため、嗣子として育つ。文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政12年(1829年)の水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11年(1840年)には側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。当日、東湖は家老の岡田兵部宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際、地震に遭遇した。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、救出に来た兵部らの助けもあって、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き、下敷きとなって圧死したといわれる。藩邸跡である東京都文京区後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている。
2024年07月31日
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その後、安政の大獄・公武合体運動・和宮降稼・第一次長州征伐・長幕戦争に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を鎖国下に置いたまま、1858年の不平等条約(「安政五カ国条約」)による5港の屈服開港を京都朝廷と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、下田→神奈川(横浜)、箱館、長崎、兵庫(神戸)、新潟であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。このような徳川幕府に対して、根本的な幕政改革を要求する薩摩藩や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な開国による攘夷を要求する長州藩が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した島津久光、幕政の主導権を握ろうとして四賢候会議を企画・周旋した小松帯刀(小松清廉)・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保一蔵(大久保利通)、1858年の時点で欧米への留学を希望していた吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)、1861年に建白によって航海遠略策を幕府に認めさせた長井雅楽、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた桂小五郎(木戸孝允)・久坂義助(久坂玄瑞)など)。ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた1865年(慶応元年)、孝明天皇はそれまで一貫して安政の不平等条約への勅許を拒否し続けていたのであるが、将軍後見職・徳川慶喜による執拗な圧力に根負けしたためか、安政五カ国条約に勅許を与えることとなり、このため「即今攘夷」が基本的に不可能となった。この時点で「攘夷」の意味は実質的に「破約攘夷」のみに変わった。即ち、不平等条約撤廃という意味だけになった(この「破約攘夷」のほうは、日露戦争勝利後の1911年(明治44年)、明治政府により達成される)。長州藩の吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)・長井雅楽、越前藩の松平春嶽、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきであるとする「大開国・大攘夷」が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「公議政体論」、「倒幕」という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の薩摩と長州という二大地方勢力が諸藩を糾合しつつ明治維新へと向かっていくこととなる。
2024年07月31日
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2、「天狗党の乱の起因」(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱(げんじかっしのらん)ともいう。尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄(中華思想における異民族。ここでは南方の楚を指す。)を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。日本でも鎌倉時代、室町時代は天皇を王と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における名分論の徹底により、幕末には「尊皇」に置き換えて用いることが多くなった。なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した徳川斉昭の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の出典はここに求められる弘道館記の実質的な起草者は、藤田東湖であり、東湖の「弘道館記述義」によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、水戸学による影響が大きい。尊王論江戸幕府が、オランダや朝鮮を除いて鎖国政策を続け、その鎖国下で封建ファシズム的な支配を続けていた約250年の間に、欧州・米国は各種の根本的な革命を成し遂げていた。1638年、清教徒革命(広義では1638年の主教戦争から1660年の王政復古まで)1688年、権利の章典および名誉革命(1688年~1689年)1776年、アメリカ独立宣言・1789年、アメリカ権利章典・1789年、フランス革命・1793年、フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)また、欧米は、大航海時代以降、世界各地に進出し、支配領域を拡大し、更に帝国主義の波に乗ってアフリカ・アジアに進出し、植民地化を行った。欧米列強は東アジア各国にとって脅威となっていた。1840年(天保11年)、清国はイギリスと戦争(アヘン戦争)となり、香港島を奪われた(1997年(平成9年)返還)。日本でも、北海道でゴローニン事件、九州でフェートン号事件といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしという思想が広まることとなった。こういう侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想が攘夷論である。また、国内では平田篤胤などによる国学の普及にともなって民族意識がとみに高まっていた時代でもあった。1853年(嘉永6年)、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが黒船で来航した際には、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。このペリーの黒船来航による外圧にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府(老中・阿部正弘)が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。1854年(嘉永7年)、それまでの異国船無二念打払令(1825年)に取って代わり、下田と箱館を開港地とする日米和親条約などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、食料、石炭、その他の便宜を与えることとなる。
2024年07月31日
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「歴史の回想・天狗党の乱」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「天狗党の起因」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「天狗党の発生」・・・・・・・・・・・・・・・・94、 「鎮派・激派」・・・・・・・・・・・・・・・・・175、 「勅書」(返納問題)・・・・・・・・・・・・・・336、 「日米修好通商条約」・・・・・・・・・・・・・・407、 「安政の大獄」・・・・・・・・・・・・・・・・・598、 「横浜港路線の成立」・・・・・・・・・・・・・・779、 「京都制圧計画」・・・・・・・・・・・・・・・・9810、「薩英戦争と長州藩入京」・・・・・・・・・・・・10311、「天狗党筑波山に挙兵」・・・・・・・・・・・・・11512、「追討軍との開戦」・・・・・・・・・・・・・・・13813、「投降・敗走離散」・・・・・・・・・・・・・・・14414、「弘道館戦争と滅亡」・・・・・・・・・・・・・・14815、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・155 1、「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。
2024年07月31日
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12「ニコライを救済した人力車夫」向畑 治三郎(むかいはた じさぶろう 1854年? – 1928年)北賀市 市太郎(きたがいち いちたろう (安政6年12月3日(1859年12月26日) - 1914年11月3日)この事件で津田を取り押さえるという功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待された。この際、ニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章(ロシア語版)を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた[2]。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。前科のあった向畑は博打と売春、怪しげな投機話に明け暮れ、勲章を没収された。日露戦争中には年金が停止される(ロシアは年金支給を続けたが、仲介する日本が停止した)。 日露戦争()は、1904年(明治37年)2月]から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の斡旋の下で調印されたポーツマス条約により講和した。 講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も得るに至った。しかし交渉の末、賠償金を得るには至らず戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。 戦争目的と動機 大日本帝国の動機 大日本帝国]はロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持することを主目的とした。開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している。 朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。 此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。 ロシア帝国の動機 ロシア帝国は満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満州還付条約不履行の維持(満州に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。 戦争の性格 日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦)であったとしている。 関与国・勢力 観戦武官 日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデン(英語版)をはじめ33名を数えた。アメリカからはマッカーサー元帥の父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。 観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に機関銃が戦場を支配していたことと騎兵が無用の長物と化していたことは、いまだにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく、東洋特有の事情として一蹴された。しかしやがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面することになった。 背景 朝鮮半島をめぐる日露対立 大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。
2024年07月30日
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11「事件後の影響」この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まった。しかし1、大津地方裁判所で扱われるべき事件を正常な手続きなしで大審院に移したこと。これは、大逆罪の類推適用を考慮していたため、皇室罪に関する裁判はすべて大審院における一審において判決が下されることから、適用可否判断を含め地裁ではなく大審院に持ち込まれることになった。判事7人は大津に出張した。2、裁判に直接関わっていなかった児島が干渉を重ねたこと。この2点は裁判官の独立等の問題として残った。権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件である。これらの問題、つまり三権分立や司法のあり方などは活発に議論されるようになった。また海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めた。このことは日本が近代法を運用する主権国家として、当時進行中であった不平等条約改正へのはずみとなった。ただしこの事件で青木が辞任したため、成立寸前の領事裁判権を撤廃した条約がまとまらず短期的には停滞した。 〇領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、外国人がその在留国において本国の領事による裁判を受ける権利をいう。日本が江戸時代に締結した不平等条約などにみられる。 不平等条約における領事裁判の管轄と適用法規については実際には必ずしも明瞭でなく、領事裁判権と治外法権はしばしば混用されている。近代の意味における国家や国民の概念が明瞭でなく、また外国人の国籍確認が不分明であるにもかかわらず、条約において領事裁判条項は容易に規定され、のちに不平等条約として問題となるのが通例であった。 外国諸法に関する知識や判例などの情報がない状況下で行われる領事裁判は(本国法や国際法に照らして)正当性のない判決がしばしば下された。本来は領事警察権が及ぶ領域(租界や居留地)を想定したものであっても当該国の全域で適用され、二重法体系を生み当該国の主権を簒奪する手段となった。 日本の場合、いかなる条約においても日本に在住する外国人に治外法権を認めたことはない。認めたのは日本人に対する外国人の犯罪に対する裁判をそれぞれの国の在住領事に委ねるということだけであった。これが治外法権であるかのように誤解され、外国人がすべて課税を免除され、日本の一切の行政権に服従しないようになったのは外国人の横暴とこれを黙認して既成事実化した日本人役人の怯懦のためであった。領事裁判権については締結の当時それが不平等条約であり、将来どのような惨禍をもたたらすかについて全く理解されておらず、むしろ日本側は進んで歓迎さえしたもので、ハリスをして意外の思いをさせるものであった。 歴史 治外法権による領事裁判権は、15世紀にオスマン帝国が、ヴェネツィアやジェノヴァに対し恩恵として与えたのに始まった。近代に入り、東アジア諸国では近代的な法制が未整備であって欧米人を東アジア諸国の裁判権に服せしめるのは適当でないことを理由に、1842年の南京条約で清に押し付けられたのをはじめ、タイ王国や日本併合以前の朝鮮でも行われた。 オスマン帝国 詳細は「カピチュレーション」を参照 日本 詳細は「条約改正」および「外国人司法官任用問題」を参照 日本では1858年に締結された日米修好通商条約に 第6條 日本人に對し法を犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。 とあり、その後安政年間にイギリス、フランス、オランダ、ロシアと締結した安政五カ国条約にすべて領事裁判権の定めがある。 領事は本来、外交官であって裁判官ではないから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下された。領事裁判権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1871年末からの岩倉使節団による予備交渉から撤廃の努力を始めた。1877年のハートレー事件や1879年のヘスペリア号事件などによって領事裁判権撤廃は国家的課題として当時の国民にも理解されるようになった。1886年のノルマントン号事件や1892年の千島艦事件もまた、領事裁判権撤廃問題と絡んで大きな政治問題となった。国内政治にはおいては硬六派をはじめとする対外硬とよばれる政治グループを生み、彼らによって現行条約励行運動という政治運動が展開された。井上馨、大隈重信ら歴代の外交担当者も条約改正に鋭意尽力した。1888年の日墨修好通商条約を皮切りに法権の回復が実現し、第2次伊藤内閣の陸奥宗光外務大臣の下、駐英公使青木周蔵の努力によって、1894年の日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が結ばれて領事裁判権撤廃が実現した。この年から翌年にかけては他の欧米各国とも同様の改正条約が締結された。改正条約の発効は、調印より5年を経過した1899年(明治32年)からであり、これにより日本では国内の外国人居留地が廃止され内地雑居が実施された。
2024年07月30日
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10「ロシアの対応」シェーヴィチ公使は、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしている。ロシア皇帝アレクサンドル3世も暗に死刑を求めていた。 アレクサンドル3世(1845年3月10日(ユリウス暦2月26日) - 1894年11月1日(ユリウス暦10月20日))は、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝(在位:1881年3月13日 – 1894年11月1日)。アレクサンドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第2皇子。兄ニコライが21歳で早世したため、皇太子となった。妻は兄の婚約者であったデンマーク王クリスチャン9世の第2王女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(ロシア名マリア・フョードロヴナ)で、ニコライ2世をはじめ4男2女に恵まれた。 帝政時代にロシア帝国銀行が発行していた25ルーブル紙幣に肖像が描かれていた。 出生 1845年3月10日、サンクトペテルブルクの冬宮殿で生まれる。幼少期のアレクサンドルは父アレクサンドル2世に似て自由主義的で優しさがあり、大伯父アレクサンドル1世のような狡猾さ、哲学、騎士道精神は持ち合わせていなかった。アレクサンドルは音楽家やバレリーナのパトロンとなったが、周囲からはパトロンとしての洗練さや優雅さに欠けていると見られていた。アレクサンドルは顔の左側にある皮脂嚢胞を周囲に嘲笑されたことがコンプレックスとなり、成長後に描かれる肖像画や写真は右側から描かれたものが多い。また、彼は身長190センチメートルの長身としても知られていた。 幼少時から軍人として教育されたものの、兄ニコライ皇太子がいたこともあり、20年間は帝位に就くことは想定されていなかった。兄ニコライは1864年にデンマーク国王クリスチャン9世の第二王女マリー・ダウマーと婚約した。 芸術家のアレクサンドル・ベノワは、アレクサンドルの印象について、以下のように記している。 マリインスキー劇場でバレエを披露した際、初めてアレクサンドル皇帝に会った。私は皇帝の人間の大きさに打たれた。皇帝の中には農民のようなものが感じられた。その明るい瞳は、私に強い印象を残した。皇帝が立ち上がった時、私と目が合ったように感じたことを覚えています。鋼のような外見を見て、脅迫的な何かを感じ、殴られたような衝撃を受けました。 皇帝の瞳!全ての者の頂点に立つ男の表情。しかし、その瞳には巨大な負担が感じられました。後年、私は幾度も皇帝に会う機会に恵まれ、そこには少しの臆病さも感じられなかった。皇帝は優しく、そして家庭的な人物だった。 立太子 1865年、兄ニコライが旅行中に薨御し、ツェサレーヴィチとなった。アレクサンドルが立太子したのは、聖務会院院長コンスタンチン・ポベドノスツェフから法律学と行政学を学び始めた矢先のことだった。ポベドノスツェフは教育を通してアレクサンドルに愛着を抱くようになり、ロシア正教会の思想を注ぎ込み、保守・反改革的な帝王学を教え込んでいった。アレクサンドルは皇太子になったものの、その保守的な考えは政府の方針と乖離していたため、重要な公務を任されることはなかった。 兄ニコライは薨御の直前、婚約者マリー・ダウマーに弟アレクサンドルと成婚するように頼んだと言われている。彼女は1866年10月28日にロシア正教会に改宗し「マリア・フョードロヴナ」と名前を変え、冬宮殿でアレクサンドルと結婚式を挙げた。政略結婚であったが非常に仲むつまじい夫婦であり、アレクサンドルは家族生活を大切にし、父アレクサンドル2世と異なり他の女性に手を出すこともなかった。 立太子後、アレクサンドルは父帝と疎遠になった。理由としては、改革派の父との政治的対立や、病弱な母マリア皇后を放置してエカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァを愛人とし、1880年に母が崩御して間もなく彼女と再婚したことが挙げられる。 皇帝 専制政治 1881年3月1日、アレクサンドル2世はテロ組織「人民の意志」の爆弾テロにより崩御した。アレクサンドルは3月13日に皇帝に即位し、1883年5月27日にモスクワ・ウスペンスキー大聖堂で戴冠式を挙げた。しかし、アレクサンドルは自身が統治者としての充分な教養を欠いていることを自覚しており、自らを「誠実なる連隊長」と自認していた。 父の暗殺後、アレクサンドルは冬宮殿では安全が確保出来ないと助言を受け、ガッチナ宮殿に生活の拠点を移し[2]、政務を執る際にはアニチコフ宮殿(英語版)を利用した。また、世界有数の富豪として知られていたが、自身は当時の王族には珍しく非常に倹約家であり、即位すると王室費を200万ポンド削減した。部屋の明かりを自ら消す癖もあった。 アレクサンドル2世は暗殺当日に諮問委員会を設立していたが、アレクサンドルはポベドノスツェフの助言を受けて即座に諮問委員会を解散した。この決定に代表されるように、アレクサンドルの治世は父が行った改革を否定することにあり、祖父ニコライ1世のような専制政治こそが安定した帝国を築く手段だと信じていた。
2024年07月30日
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9「公書問題」ロシアのシェーヴィチ公使は以前から日本に対して度々恫喝的な態度を取っており、この事件に関しても事件の対処にあたった青木外相、西郷内相らに死刑を強硬に要求した。事件後の6月4日には青木との密約を公表して抗議し、青木の責任問題となった(公書問題)。これに対して青木が「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と述べたが、伊藤はロシア側の真意を確かめよと指示しただけと反論し、もし自分が政府に迷惑をかけているなら枢密院議長を辞職するとした。重鎮である伊藤との対決は松方や山縣有朋も望んでおらず、責任は青木がとることとなった。青木は「自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ」と発言し、激怒した井上によってドイツ公使へと左遷された。またロシアの抗議自体も後任外相榎本武揚の奔走で撤回されることとなった。 〇榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)は、江戸時代末の幕臣、明治期の日本の政治家、外交官。最終階級は海軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八」という変名も用いていた。俗に「ぶよう」と呼ばれることもあった。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となる。箱館戦争で敗北し降伏後、東京の牢獄に2年半投獄されたが、敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。また、殖民協会を創立し、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。 生い立ち 1836年(天保7年)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれる。 近所に住んでいた田辺石庵に入門し儒学を学んだ後、1851年(嘉永4年)、昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった。1854年(安政元年)、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行[12]。1855年(安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学) が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年(安政4年)に第2期生として入学。海軍伝習所では、カッテンディーケやポンペらから機関学、化学などを学んだ。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。翌1858年(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う。 オランダ留学 1861年(文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄・澤太郎左衛門・赤松則良・田口俊平・津田真道・西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。 同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着。9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。セントヘレナ島でナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。 1864年(元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともに第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学した。プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した。その後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した。また、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉した[26]ほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した[27]。 1866年(慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。5月10日に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。7月8日に軍艦頭並 となり、布衣を許される。9月19日に軍艦頭となり、和泉守を名乗る。
2024年07月30日
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8「司法の動き」司法省刑事局長は河津祐之であった。 河津 祐之(かわづ すけゆき、嘉永2年4月8日(1849年4月30日) - 明治27年(1894年)7月12日)は、明治時代前期の官僚。元老院書記官、大阪控訴院検事長、名古屋控訴裁判所検事長、司法大書記官、司法省刑事局長、逓信次官[1]などを歴任。東京法学校(現法政大学)校長。通称は四郎。 嘉永2年(1849年)4月8日に三河国西端藩の藩士である黒澤家に生まれる。幼名は孫次郎(孫四郎)。長じて幕臣である河津祐邦の娘婿となり、河津家の家督を継いで河津祐之と改名。 文久2年(1862年)から江戸幕府の洋書調所(翌年開成所へ改称、東京大学の源流)で教育を受け、また箕作麟祥の門下となって学問を修め、慶応2年(1866年)、幕府の外国方翻訳掛となる。その後、『和英対訳辞書』などを出版して、語学の天才と言われた。 明治時代になってからは、明治3年(1870年)3月から大学南校(現東京大学)に出仕し、同7年(1874年)9月まで文部関係の官吏として文部中教授、文部省学制取調掛などを歴任。明治4年(1871年)12月から箕作麟祥の下で、学制の起草にあたり、明治5年(1872年)5月から教育制度調査のためフランスに留学。明治6年(1873年)以降に文部省から刊行された『仏国学制』の翻訳者を務めた。 明治8年(1875年)6月から同12年(1879年)まで元老院書記官となり、ボアソナードを援け法典調査・起草などに参与。明治13年(1880年)11月に検事となり、大阪控訴院・名古屋控訴裁判所(現在の高等裁判所)の検事長を務め、同15年(1882年)8月に退官。また、同時期には嚶鳴社に入り、民権思想を広める活動も行なった。 退官後は自由党に参加[2]。『日本立憲政党新聞』(現毎日新聞)の主幹となり、明治18年(1885年)6月まで在社[2]。 その後、再び官界に戻り、1886年(明治19年)2月、司法大書記官となり、3月に司法省刑事局長となった。刑事局長時代には、東京法学校(現法政大学)の校長に就任して、東京仏学校との合併による和仏法律学校設立に従事した。1890年(明治23年)に勅任官。1891年(明治24年)の大津事件(日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ暗殺未遂事件)に際しては、司法省刑事局長として対応にあたった[2]。同年7月23日には逓信次官となったが、1893年(明治26年)3月、病気療養のため退官した[2]。 療養に努めるが、翌年(1894年)7月12日に死去。享年46。墓は東京都台東区谷中の玉林寺にある。法名は総達院殿英倫祐之大居士。 旧刑法116条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族(王族)に対する犯罪は想定されておらず、法律上は民間人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり死亡していないため最高刑は謀殺未遂罪(旧刑法292条)適用による無期徒刑(無期懲役)までであり死刑を宣告するのは法律上不可能であった(1908年10月施行の現行刑法では未遂は裁量的軽減事由に過ぎないため殺人未遂罪に対しても死刑を適用し得る)。ただし裁判官の中でも死刑にすべきという意見は少なくなかった。時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発した。 〇児島 惟謙(こじま これかた、いけん、天保8年2月1日(1837年3月7日) - 1908年(明治41年)7月1日)は、明治時代の日本の司法官、政治家。後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候。 幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。「児島惟謙」は後述する脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。名前は「これかた」「いけん」以外にも、「これかね」などとも呼ばれる。号は天赦、字は有終。 天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の一族)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。 少年期、窪田清音から免許皆伝を認められた窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場へ入門、大阪財界の大立役者となる土居通夫と剣術修業に励む[7][8]。 慶応元年(1865年)に長崎に赴いて坂本龍馬、五代友厚らと親交を結んだ。慶応3年(1867年)に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動した。戊辰戦争にも参戦した。 1868年に出仕し、新潟県御用掛、品川県少参事を経て、1870年12月に司法省に入省。名古屋裁判所長、長崎控訴裁判所長などを経て1883年に大阪控訴院長となった。 1891年(明治24年)に大審院長に就任する。同年5月11日には訪日中のロシア皇太子・ニコライ(ニコライ2世)が警備にあたっていた巡査・津田三蔵により襲撃され負傷する大津事件が発生した。被告人である津田は大逆罪により大津地方裁判所に起訴されたが、総理大臣・松方正義ら政府首脳が大逆罪の適用を強く主張していたこともあり、大審院は事件を自ら処理することとした。これに対して、児島は津田の行為は大逆罪の構成要件に該当しない(罪刑法定主義を参照)との信念のもと、審理を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人づつ全員を説得した。
2024年07月30日
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7「日本政府の動き」当時の日本は、何とか欧米列強の植民地にならずに済んでいたものの、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧された。また事前に青木周蔵外務大臣がドミトリー・シェーヴィチ 駐日ロシア公使に対し、皇太子に危害が加えられた場合は「皇室罪」を適用すると密約していたことも混迷の原因となった。そこで日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけた。伊藤博文伯爵は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。 〇伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、明治期の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 明治時代に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣(初代:1885年-1888年、5代:1892年-1896年・7代:1898年、10代:1900年-1901年)を務めたことで知られる。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁(在職1900年-1903年)となり、政党政治に道を開いた。他、初代枢密院議長(在職1888年-1889年)、初代貴族院議長(在職1890年-1891年)、初代韓国統監(在職1905年-1909年)、元老などを歴任した。 諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。「越智宿禰博文」とも名乗った。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。 周防国の百姓の子として生まれる。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。 吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[3]。 明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)の岩倉使節団にも参加し、副使として米欧に渡る。この間に大久保利通の信任を得た[3]。 1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任した。1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した。1882年(明治15年)にドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手。 1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後[2]の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した。 1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織。1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職。 同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った。
2024年07月30日
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6「背景」津田が斬り付けた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争で戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るというデマがささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、もし西郷が帰還すれば自分の勲章も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。 〇西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦となっている。 近因(私学校と士族反乱) 明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島縣令大山綱良の協力の元で県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。 一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こった。日当山温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられたことに対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。 他方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その一つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良が中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。私学校徒達はこれを不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。 赤龍丸と弾薬掠奪事件 1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われたことが記録されている。 陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。 後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、オランダ商社を通じて、イギリス製のパトロン(薬莢)製造機械を輸入し、1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。 火薬・弾丸・雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければ銃として機能しない。 薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因の一つだった。 また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていたこともあり、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出したことに怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。
2024年07月30日
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5「ニコライ一行の帰国へ」天皇が謝罪したものの、ロシア本国からの指示もあってニコライは東京訪問を中止し、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰国の途に就くこととなった。帰国前日の5月19日、別離の午餐に招かれた明治天皇自らが神戸港のロシア軍艦を訪問する際には、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞った。小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。5月20日には、天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去ったことを知り、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。 〇畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年(1865年)12月 - 明治24年(1891年)5月20日)は、1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、被害者のロシア皇太子ニコライに謝罪の遺書を残して自殺した女性である。 1865年、安房国長狭郡横渚(よこすか)村(のち鴨川町の一部。現・千葉県鴨川市横渚)に畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は横渚の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。5歳で父を失い、17歳で朝夷郡(のち千歳村。現・南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず23歳で離婚。東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという。 5月11日来日中のロシアのニコライ皇太子が暴漢に襲われて重傷を負う事件が発生(大津事件)、日本中が騒然となった。そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った。 勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、5月20日の午後7時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を図った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ出血多量で絶命した。享年27。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計10通を遺していた。 その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた。 墓は末慶寺(京都市下京区万寿寺櫛筍上ル)にある。彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やポルトガル領事・モラエスも訪れている。モラエスはまた、リスボンの雑誌『セロエーズ』 Serões に彼女を紹介している。 このほか、郷里の観音寺(鴨川市横渚)に分骨され、有志による顕彰碑が建てられた。父親の実家が勇子の初節句を祝った際の雛人形が観音寺に奉納されている。 彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書やセンセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともになし)につながったとの評価[誰?]もある。
2024年07月30日
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明治維新後 明治政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する(1868年-1870年。慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日)。 県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保利通の評価を得、その功績、推挙で民部大丞・租税権領に就任する。日本政府は1870年10月、北ドイツ連邦に在するドンドルフ・ナウマン社に明治通宝の印刷を依頼した。 以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保の下で地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発でまかなったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った 松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から助言を得る。第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、第四に当時欧米の主要国が銀本位制から金本位制に移行しつつあったことを踏まえて、日本も金本位制を採用することを勧められた。 フランス滞在中に、松方はレオン・セイの紹介により、パリ・ロチルド家第二代当主アルフォンス・ド・ロチルドと面会している。 レオン・セイはアルフォンスの招きでロスチャイルド家の所有する北部鉄道会社に入社して役員となり、後に政治家・蔵相となって金融ブルジョワジーや鉄道会社の利益を代弁・擁護した人物であり、謂わばロスチャイルド家の家臣であった。 同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、暗殺された大久保利通の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。 その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。後の明治16年(1883年)に、松方は明治天皇に働きかけて、レオン・セイに勲一等旭日大綬章が贈られるように図っている。 松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。 なお、現在の日本に於ける会計年度「4月 – 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである[7]。 総理大臣および大蔵大臣として 詳細は「第1次松方内閣」および「第2次松方内閣」を参照 明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。1888年4月には黒田内閣で大蔵大臣、次いで12月に内務大臣を兼任。 明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年)8月8日に辞任に追い込まれた。同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる。その後第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣(総理大臣兼大蔵大臣)の大命が下るが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。 今次朕カ敬愛スル露國皇太子殿下來遊セラルヽニ付朕及朕カ政府及臣民ハ國賓ノ大禮ヲ以テ歡迎セントスルニ際シ圖ラサリキ途大津ニ於テ難ニ遭ハセラルヽノ警報ニ接シタルハ殊ニ朕カ痛惜ニ勝ヘサル所ナリ 亟カニ暴行者ヲ處罰シ善隣ノ好誼ヲ毀傷スルコトナク以テ朕カ意ヲ体セシメヨ同日宮内省告示第10号で翌日5月12日の京都行幸が発表され、翌日早朝、天皇は新橋駅から汽車に乗車、同日夜22時05分に京都に到着した。その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都御所に宿泊した。威仁親王の兄の参謀総長熾仁親王陸軍大将も天皇の後を追って京都に到着。翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。
2024年07月30日
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ニコライ極東行程の予定次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進んでおり、まさに国を挙げての一大行事であった。 5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、 ゲオルギオス・ティス・エラザス (、1869年6月24日 – 1957年11月25日)は、ギリシャ王国の王族。 生涯 ゲオルギオス1世とその王妃オルガの次男として、ケルキラ島で生まれた。1883年以降、父方の叔父でデンマーク海軍提督であったヴァルデマー王子に預けられた。後にゲオルギオスは婚約者に『この時私は父に見捨てられたと感じ、以後は叔父のために大人になったのだ。』と話している。 1891年、ゲオルギオスは従兄であるロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)の極東歴訪に同行した。日本でニコライが大津事件に遭遇した際は、彼の救助にあたっている。 1896年、アテネオリンピック開催時、兄コンスタンティノス(のちのコンスタンティノス1世)、弟ニコラオスとともに組織委員会に加わった。 ギリシャ独立後もオスマン帝国領下にあったクレタ島では、ギリシャ復帰を求めて不穏な空気が高まっていた。1898年、列強が介入しクレタ島は半独立国家となり、初代総督にゲオルギオスが選ばれた。しかしギリシャ愛国者は完全併合を求めて活動を続けた。1906年の選挙結果、ゲオルギオスは総督職を解かれ、1908年にクレタは正式にギリシャへ復帰した。 1957年、フランスのサン=クルーで死去。 威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵がいきなりサーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた(ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9 ㎝近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づくことができたのは津田が取り押さえられた後だった。 4「事件の処理」留学や軍事視察の経験から国際関係に精通していた威仁親王は、即座にこの事件を自分のレベルでは解決できない重大な外交問題と判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報で上奏するとともに、ロシア側に誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。 〇明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位:1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。 倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。在位中、国力を伸長させた英明な天皇と謡われ「大帝」と称えられた。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は10万首以上に及ぶ。 生誕から即位まで 孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師の中山邸にて生誕。8日目の9月29日、父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。安政3年(1856年9月29日)に宮中に移るまで中山邸で育つ
2024年07月30日
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事件後のニコライニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。いまだ小さい国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王海軍大佐(巡洋艦「高雄」艦長)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。 〇有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。 有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但し成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。 幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。 生い立ち 1862年2月11日(文久2年1月13日)、京都において誕生、稠宮と命名された。父・幟仁親王にはすでに熾仁親王という嫡子がいたため、稠宮は然るべき年齢に達した後に妙法院門主を相続することが内定した。しかし、明治維新による諸制度の変革で宮門跡の制度が廃されたことから、1871年(明治4年)に稠宮の妙法院相続の内定は取り消され、明治天皇によって幟仁親王が東京への転居を命じられたのに従い、稠宮も上京した。 1874年(明治7年)7月8日、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、同月13日、海軍兵学寮予科に入学した。1876年(明治9年)、前田慰子と婚約。 1877年(明治10年)、鹿児島県逆徒征討総督として九州赴任中の熾仁親王からの呼び出しにより、稠宮は船で鹿児島に赴き、熾仁親王と共に西南戦争の戦地跡を視察した。 有栖川宮家の後嗣、英国留学 1878年(明治11年)4月、40歳を過ぎて妃との間に継嗣のできない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮の後継者にしたい旨を明治天皇に願い出る。当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族の継承権問題が天皇の裁量で決められたため、5月18日に勅許が出された。これにより同年8月26日、稠宮は明治天皇の猶子となり、親王宣下を受けて威仁の名を賜った。 1879年(明治12年)、威仁親王は太政官より、イギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事した。帰国後の1880年(明治13年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、日本海軍士官としての歩みを始める。10日後の12月11日、前田慰子と結婚。 新婚間もない1881年(明治14年)1月、威仁親王は慰子を残してイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後の1883年(明治16年)6月に漸く帰国した。渡航時、外国公使として訪欧する旧広島藩主の浅野長勲夫妻も同行している。 欧米軍事視察とロシア皇太子接遇 海軍大佐として巡洋艦「高雄」艦長在任中の1891年(明治24年)、威仁親王はロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として接待役を命じられた。このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生。外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという日本外交史始まって以来の大事件となったが、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避された。 1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布後、威仁親王・同妃慰子夫妻、前田侯爵夫妻ら一行は2月16日に出発し、米国を経て欧州各国を訪問した。慰子妃を同伴させるにあたり、兄が明治天皇に対し、宮内省に経済負担をかけないことを条件の一つとして承諾を得たため、渡航費用は全て慰子妃の実家である前田侯爵家が負担した。香港、上海を経て、1890年(明治23年)4月5日に神戸港に到着し、京都滞在中の天皇・皇后に拝謁をした後、4月10日に帰京した[4] 日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時は横須賀海兵団長、その後は大本営附と、いずれも陸上勤務の日々を過ごした。黄海海戦終了後の1894年(明治27年)12月8日、ようやく連合艦隊旗艦「松島」艦長として艦隊勤務についたが、翌1895年(明治28年)1月、熾仁親王の薨去とその葬儀のために一時帰国を余儀なくされた。その直後に起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王は実戦を経験することができなかった。 有栖川宮として 熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となった。熾仁親王同様明治天皇の信任が篤く、1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されている。一方で、これ以降海軍においては籍こそ現役として置いているものの、実際の軍務にはほとんど従事していない。 日露戦争開戦時も海軍中将であったが、一時的に大本営附となったほかは戦争に全く関与しておらず、日本海海戦が行われた頃には、ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルムの結婚式出席のためヨーロッパに滞在していた。 1908年(明治41年)3月2日、栽仁王が盲腸炎を発症し、同月10日、威仁親王は實枝子(実枝子)女王とともに見舞った。手術後の経過も良好で、威仁親王父娘は20日に帰京する。ところが、4月2日に容体が急変。威仁親王は再び実枝子女王と江田島に急行するが、腸管閉塞で手の施しようが無く、翌3日午後4時10分に危篤となった。
2024年07月30日
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シベリア鉄道の東洋への布石 シベリア鉄道の計画は着々と推移していたが、チュメニを過ぎてシベリアまで延長するアムールスキーの案はいまだ停滞し、1875年、ウラジオストクよりハンカ湖に至る鉄道敷設の請願が出、政府もその必要性は認めたものの、財政の考慮から実行には至らなかった。 その間にも、本土の鉄道は随時拡張され、1877年にはオレンブルク鉄道、1878年にウラル鉄道が完成した。 1880年代 1880年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の記念工事であるボルガ大鉄橋が完成され、またエカテリンブルク・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブルク - チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるものであり、このため、もしオビ・エニセイ運河が完成されるなら、ボルガ川の水運はオビ川・エニセイ川と連なり、バイカル湖へ達する事になる。この水路の活用を見込んだ時、シベリア横断鉄道の工事は実現に明らかな展望が生じた。かくして、鉄道により水路を連結し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。 まず、第一に挙げねばならないのは、1880年の始めのオストロスキ技師の設計である。「現時の状態においては、ベルム - トボリスク間の鉄道によりカマ川とイルチシュ川とを繋ぎ、オムスク - バルナウル間鉄道によりイルチシュ川とオビ川を繋ぎ、トムスク - クラスノヤルスク間鉄道によりオビ川とエニセイ川を繋ぎ、かくして水路と鉄道を繋げる事によって廉価に交通を開発、しかる後にその輸送力をもって全通鉄道の工事に着手する事」が、大体その要点であった。 次いで、オビ川・エニセイ川間の測量を終えたシデルスチル技師は、これに更に水路を活用すべき事を述べ、「オビ・エニセイ運河の開発の後、アンガラ川下部の急流を治水する事で、チュメニからバイカル湖までの5000リベスタの長水路を開く。バイカルから湖畔に沿ってスレテンスクに至る道のりには950リベスタがあるが、最初の150はバイカルの湖水とセレンガ川の川水を用いて、中間の450は幾多の小流があるためにアレースク湖からタンシンスクへ向かうヤブロノヴォイ山地に18リベスタの鉄道を敷設するのみで事足りる、残り350はインゴダ川及びシルカ川の両流を用いる事により、ボルガより太平洋岸に至る貫通シベリア大水路を作る事」を主張した。 これらを皮切りに、路線選択に関わる様々な計画案が出始めた。シベリアの二人の提督、コルフとイグナチフもこの流れに乗り、イムスク - イルクーツク間鉄道及びバイカル・ストレンスク間鉄道の設計案を提出。次いで、ウラジオストクよりラズトロノエ・ニコラスコエ・アヌチノを経て、ブス・ボストへ至る線路の設計案が提出された。しかしながら、シベリア鉄道の建設の実行方法の選定には重要な問題があり、これらは実行に移されなかったものの、ウスリー線を第一に敷設する事は決定された。これに伴い、太平洋側の線路の起点はウラジオストクである事も決定された。 問題は西方の起点であった。この時、本土の東方の終点は3点、即ち、北のチュメニ、中央のミアス、南のオレンブルクであり、このいずれかを選択しなければならなかった。この選択は、1890年の委員会に託された。 1890 – 1891年 当時、隆盛の水路併設鉄道案はチュメニを起点とするものだった。それはおおよそ次のようなものである。 (水)カザン - ペルム2344㎞、(ウラル鉄)ペルム - チュメニ2010㎞、(水)チュメニ - トムスク7289㎞、(新鉄)トムスク - イルクーツク4060㎞、(水)イルクーツク - ムイソフスキー埠頭392㎞、(新鉄)ムイソフスキー埠頭 - ストレンスク2627㎞、(水)ストレンスク - グラフスキー5989㎞、(新鉄)グラフスキー - ウラジオストク1001㎞ 全長は約2万5715㎞、内、水路は1万6015㎞、鉄道は9700㎞程度となる。ウラル鉄道は既に開発されているから、7690km程の新設で済み、費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算されていた。欠点は運送時間の問題で、モスクワよりウラジオストクまで荷物を運ぶのに75日、旅客を運送するのには35日、これはともかく貫通鉄道までの輸送路確保であるにせよ、水路の氷結のため1年の内わずか4か月しか充分に使用できない事はこの鉄道の見通しを明るいものにはしていなかった。 委員会はチュメニ線は中央との連絡が不便であるとして否定した。またオレンブルク線は西半分は土地が荒れており、東半分は工事が困難であるとして否定した。1890年末、委員会は「サマラ - ウファ - ズラトウスト - オムスク - トムスク - クラスノヤルスク - ニジニ・チウジンスク - イルクーツク」の中央路線案を採用した。 シベリア交通幹線はこれによって大体の方針を決定した。ロシア政府は、チュメニを西方の起点とする事を否定し、この間の線はボルガの水路のみによらないことを示した後、速やかに上述の水陸併用線の欠点を踏まえてこれを否定し、シベリア貫通大鉄道の敷設を決定した。 1891年3月29日、皇帝アレクサンドル3世は次の勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコライに与えた。 「私は今日シベリア全土を貫通する鉄道敷設の詔勅を発し、天産富饒のこの地をロシアの線路に連絡させる。よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベリアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオストクに布設するところに臨行せよ。この線路は国庫の財をもって布設し、その監督もまた官の任じるものであり、まさに国家事業である。汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望切なるを世に知らしめるためである」 以上の勅諭を皇太子は5月12日、ウラジオストクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行った。
2024年07月30日
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ニコライ鉄道起工式の途中1891年(明治24年)、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは御召艦「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。 シベリア鉄道(シベリアてつどう、)とは、ロシア連邦南部のシベリア(極東ロシアを含む)とヨーロッパロシアを東西に横断する鉄道。全長は9,297km で、世界一長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。 ロシア帝国時代に建設され、2021年時点では会社形態のロシア鉄道により運営されている。 ヨーロッパロシアに位置する首都モスクワから、ロシア連邦東部のウラジオストクまでを繋ぐ鉄道である。正確にはロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州のチェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7,416㎞の区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ - ウラジオストク間9,289㎞を指す事が多い。「ロシア号」はモスクワのヤロスラフスキー駅を出発し、ウラジオストク駅まで約7日間をかけて走破する。 民間航空会社の日本とヨーロッパを結ぶ定期便が就航した1950年代初頭までは、欧亜連絡運輸において、最速の民間交通路であった。 モスクワからシベリア(オムスク駅)までのルートは幾度か変更されており、2000年代以降は南寄りのモスクワ - ウラジーミル - ニジニ・ノヴゴロド - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルク - チュメニ - オムスクの路線が使われる。従来はモスクワから北東へ向かうモスクワ - ヤロスラヴリ - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルク経由の路線を使っていた。 さらに南寄りのモスクワ - ムーロム - カナシ - カザン - エカテリンブルクの路線、モスクワ - リャザン - ペンザ - サマーラ - ウファ - チェリャビンスク - ペトロパブル(カザフスタン領) - オムスクを経由する路線もありうる。特にサマーラやチェリャビンスクを経由する路線は開業当初のシベリア鉄道のメインルートでもあった。 ロシア語では、モスクワ - ウラジオストクを結ぶ本線(広義のシベリア鉄道)を「シベリア鉄道」 と呼ぶほか、モンゴル国のウランバートル経由で中華人民共和国の北京まで結ぶ路線を "「モンゴル縦貫鉄道」 、中華人民共和国東北部経由で北京まで結ぶ路線を " 「東清鉄道」と呼ぶのが通例である。以上3つが更に広義のシベリア鉄道である。 後に、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)が建設された。バム鉄道の西の始点はシベリア鉄道との分岐点イルクーツク州タイシェトであり、東は日本海に面したワニノを通りソヴィエツカヤ・ガヴァニの港へ至る。シベリア鉄道はバイカル湖の南を通るが、バム鉄道は北を通る。 中華人民共和国と北朝鮮、モンゴルとの直通運転がある。 計画まで シベリアに鉄道を建設する案は、ロシア帝国でモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成した後の1850年代に既に生まれている。 1850年代 シベリア鉄道の計画は、1850年から始まり、その初期段階は1860年代まで続く。 ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江(アムール川)河口を占拠。その後、遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾とアムール江岬のソフィウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終わった。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルムを経て、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。同年、アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク - チタ間に鉄道を敷設する請願を出したが、精密な調査の後に廃棄された。 その他計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移されることはなかった。しかし、その中で優れたものとしては、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路――ペルムよりニジニ・タギルを経てチュメニに達するものがあった。 1860 – 1870年代 こうした頓挫にもかかわらず、1860年 – 1870年代は重要な進展を見せた。 1864年のヴャトカ飢饉の救済法を視察する為、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を大体終えた3月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を防御する唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへ鉄道を敷設する事にあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達するに及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう」と述べた。この報告はいくらかの注意を引くことになった。 貿易家リウビモフは、1869年にペルムよりクングル、エカテリンブルク及びシャドリンスクを経て、ウルガンの北49ベルスタのビエルーゼンスク村までを実測し、報告した。また、西シベリア総督クルシヨフは同年、ツァーリ(ロシア皇帝)に意見書を提出し、シベリア連結鉄道速成の必要を論じ、ニジニ・ノヴゴロドよりカザンを経て、チュメニに至る線の近い事を説明した。
2024年07月30日
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〇有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。 有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但し成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。 幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。 生い立ち 1862年2月11日(文久2年1月13日)、京都において誕生、稠宮と命名された。父・幟仁親王にはすでに熾仁親王という嫡子がいたため、稠宮は然るべき年齢に達した後に妙法院門主を相続することが内定した。しかし、明治維新による諸制度の変革で宮門跡の制度が廃されたことから、1871年(明治4年)に稠宮の妙法院相続の内定は取り消され、明治天皇によって幟仁親王が東京への転居を命じられたのに従い、稠宮も上京した。 1874年(明治7年)7月8日、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、同月13日、海軍兵学寮予科に入学した。1876年(明治9年)、前田慰子と婚約。1877年(明治10年)、鹿児島県逆徒征討総督として九州赴任中の熾仁親王からの呼び出しにより、稠宮は船で鹿児島に赴き、熾仁親王と共に西南戦争の戦地跡を視察した。 有栖川宮家の後嗣、英国留学 1878年(明治11年)4月、40歳を過ぎて妃との間に継嗣のできない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮の後継者にしたい旨を明治天皇に願い出る。当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族の継承権問題が天皇の裁量で決められたため、5月18日に勅許が出された。これにより同年8月26日、稠宮は明治天皇の猶子となり、親王宣下を受けて威仁の名を賜った。 1879年(明治12年)、威仁親王は太政官より、イギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事した。帰国後の1880年(明治13年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、日本海軍士官としての歩みを始める。10日後の12月11日、前田慰子と結婚。 新婚間もない1881年(明治14年)1月、威仁親王は慰子を残してイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後の1883年(明治16年)6月に漸く帰国した。渡航時、外国公使として訪欧する旧広島藩主の浅野長勲夫妻も同行している。 欧米軍事視察とロシア皇太子接遇 海軍大佐として巡洋艦「高雄」艦長在任中の1891年(明治24年)、威仁親王はロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として接待役を命じられた。このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生。外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという日本外交史始まって以来の大事件となったが、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避された。 1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布後、威仁親王・同妃慰子夫妻、前田侯爵夫妻ら一行は2月16日に出発し、米国を経て欧州各国を訪問した。慰子妃を同伴させるにあたり、兄が明治天皇に対し、宮内省に経済負担をかけないことを条件の一つとして承諾を得たため、渡航費用は全て慰子妃の実家である前田侯爵家が負担した。香港、上海を経て、1890年(明治23年)4月5日に神戸港に到着し、京都滞在中の天皇・皇后に拝謁をした後、4月10日に帰京した。 日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時は横須賀海兵団長、その後は大本営附と、いずれも陸上勤務の日々を過ごした。黄海海戦終了後の1894年(明治27年)12月8日、ようやく連合艦隊旗艦「松島」艦長として艦隊勤務についたが、翌1895年(明治28年)1月、熾仁親王の薨去とその葬儀のために一時帰国を余儀なくされた。その直後に起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王は実戦を経験することができなかった。 有栖川宮として 熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となった。熾仁親王同様明治天皇の信任が篤く、1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されている。一方で、これ以降海軍においては籍こそ現役として置いているものの、実際の軍務にはほとんど従事していない。 日露戦争開戦時も海軍中将であったが、一時的に大本営附となったほかは戦争に全く関与しておらず、日本海海戦が行われた頃には、ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルムの結婚式出席のためヨーロッパに滞在していた。 1908年(明治41年)3月2日、栽仁王が盲腸炎を発症し、同月10日、威仁親王は實枝子(実枝子)女王とともに見舞った。手術後の経過も良好で、威仁親王父娘は20日に帰京する。ところが、4月2日に容体が急変。威仁親王は再び実枝子女王と江田島に急行するが、腸管閉塞で手の施しようが無く、翌3日午後4時10分に危篤となった。 威仁親王、栽仁王、実枝子女王の3人は4月5日に江田島を発ち、4月6日夜に帰邸するも、翌4月7日午後4時10分に薨去した。
2024年07月30日
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責任と交渉 外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。 ドイツ文化の導入 留学生・外交官(ドイツ公使)として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。獨逸学協会にも会員として在籍し、獨逸学協会学校の評議委員も務めた。 〇西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、旧字体:西鄕 從道、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、明治期の日本の政治家、軍人。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前は「つぐみち」だが、西郷家では「じゅうどう」が正訓となっている。兄の西郷隆盛が「大西郷」と称されるのに対し、従道は「小西郷」と呼ばれている。 文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。 青年期 薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に、西郷吉兵衛の三男として生まれる(幼名竜助)。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。 文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。 文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。 維新後 明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし特に気にせず、「従道」のままで通した。「従道」は諱であり、日常使用するのは通称である「信吾」であった。 1869年(明治2年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年(明治3年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。 1871年(明治4年)7月、陸軍少将となる。 1873年(明治6年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。 1874年(明治7年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。 隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。 明治十四年の政変では、伊藤博文とともに大隈重信邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。 1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆が開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。 1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。 甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。 内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。 西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。 1892年(明治25年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。 1894年(明治27年)に海軍大将となり、1895年(明治28年)には侯爵に陞爵(しょうしゃく)。
2024年07月30日
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3「湖南事件」(こなんじけん)とも呼ばれる。当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となったが収監の翌々月に死亡した。日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。 〇青木 周藏(あおき しゅうぞう、1844年3月3日(天保15年1月15日) - 1914年(大正3年)2月16日)は、明治・大正期の日本の外交官、政治家。栄典は贈正二位贈勲一等子爵。 生い立ち 長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医・三浦玄仲と妻・友子の長男として生まれ、22歳の時に毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼の弟で後の宮廷大典医となる青木研藏の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名し、研藏の娘・テルと結婚する。 留学 明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て1868年(明治元年)、藩留学生として、土佐藩士・萩原三圭と共にドイツへ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが、来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年(明治5年)、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し、物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。 外務省勤務 1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年(明治8年)にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。翌年にエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った。この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた。1878年には、オランダ公使も兼任している。 1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正取調御用係となったが、1880年、井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任、1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をおこなっている。1885年(明治18年)にオランダ、ノルウェー公使をも兼務したが、翌年に外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長となった。1886年(明治19年)、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど、1887年まで井上外交を支えた。 1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍した。 外務大臣就任、条約改正交渉 来島恒喜のテロによって大隈が遭難したあと、1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた[5]。こののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、1891年(明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。 帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前の1891年5月大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。1892年(明治25年)、駐独公使としてドイツに赴任した。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。 1894年(明治27年)駐英公使として外相の陸奥とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任、1900年(明治33年)の義和団の乱に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。こののち枢密顧問官を経て叙勲され子爵となる。 1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。
2024年07月30日
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ニコライ帰国後 事件以来ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった反日記事を載せ続けたため、ロシアで反日世論が高まったが、天皇がニコライのお見舞いをしたことを知ったロシア政府は報道管制を敷き、反日報道を止めさせたという。 唯一禍根となったのはニコライの日本人への心象であった。日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる。ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争(とその敗北)を招いたと分析している。 帰国 日本からウラジオストクに入港した。予定行事だけこなすと、早々に不快なウラジオストクを離れ、「文明の天国」サンクトペテルブルクへ戻った。その途中、シベリアを横断した。これがきっかけでニコライ皇太子はシベリアには深い関心を寄せるようになった。シベリアはロシア領だが、シベリアを訪れたロシア皇太子はニコライが初めてであった。 帰国後、ニコライは公務に励むようになり、1891年11月には飢饉救済特別対策委員委員長、1893年2月にはシベリア鉄道委員会の議長に就任する。 〇津田 三蔵(つだ さんぞう、安政元年12月29日(1855年2月15日) - 明治24年(1891年)9月30日)は、明治時代の日本の軍人、警察官。大津事件の犯人として知られる。 津田氏は藤堂氏に藩医として仕えた家柄で、家禄は130石であった。父は津田長庵、母はきの。三蔵は次男で、兄の養順は家出をして行方不明、弟の千代吉は憲兵を経て三吉電気工場の職工となる。妹が一人おり、町田義純へと嫁いだ。津田氏は江戸下谷柳原(現在の東京都台東区)に居住していたが、三蔵が7~8歳の頃、長庵が刃傷沙汰を起こし、減封処分の上で伊賀上野へ転居、生涯蟄居の身となった。 明治3年に上京、東京鎮台に入営。明治5年3月、陸軍名古屋鎮台に転ず。翌月、越前護法大一揆鎮圧のため乃木希典少佐の部下として出動した。7月、金沢分営に転属。 明治10年(1877年)の西南戦争勃発時は金沢歩兵第7連隊第1大隊附の伍長であった。3月11日、第7連隊は高島鞆之助率いる別働第一旅団に編入され、3月20日、西郷軍の背面、日奈久(現:熊本県八代市)に上陸するが、同月26日、左手に銃創を負い熊本の八代繃帯所に入院。長崎に移され5月20日に退院後、鹿児島県の本隊に復帰し、6月1日より歩兵第1連隊第1大隊長古川氏潔少佐附書記となり、鹿児島県と宮崎県を転戦。その間に軍曹へ昇進した。10月22日、金沢に帰還。 戦後の明治11年、戦闘での疲れからか病に度々陥り入退院を繰り返していたが、その最中の10月9日、功績が認められ勲章(勲七等)を授与された。明治15年1月9日、陸軍を退役し、同年3月15日、三重県警巡査となり松阪署に勤務した。明治18年、親睦会で不和となっていた同僚に暴力をふるい免職となる。12月、滋賀県警に採用される[2]。滋賀における勤務は勤勉で、功労褒章を2度受賞している。私生活では、岡本瀬兵衛の娘亀雄と結婚し、長男元尚、長女みつの二児を得た。 明治24年(1891年)、来日中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀を経由するため、守山警察署より応援に派遣される巡査の一人に抜擢される。5月11日、皇太子の通る沿道警備の現場において、皇太子をサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件)。 犯行の動機を裏付ける供述は得られておらず諸説ある。ロシアの日本への強硬な態度に不満を持っていたからともいわれ、「一本(一太刀)献上したまで」という意味の供述をしたため、斬りつけはしたが、殺意はなかったともいわれる。津田には精神病歴があった。 事件後、津田は巡査を免職されると同時に先述の勲章も褫奪された。そして無期徒刑の判決を受け、7月2日、北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されたが、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事していた。同年9月29日に急性肺炎を発病し、翌30日未明に獄死した。 外国皇族を傷つけた犯人として政府内に死刑にすべきという意見があった津田が収監直後に獄死しただけに、他殺や自殺強要、自殺を疑う声もあった。1972年、網走刑務所の所長であった佐々木満が関心を抱いて北海道内各地の刑務所へ資料の有無を尋ねたところ、旭川刑務所に標茶分監医務所長の詳細な日誌が引き継がれていたことが発見された。津田は、取り押さえられた際に受けた傷は癒えたものの疲労と頭痛を訴えて9月上旬から食欲が減退し、牛乳や葛湯、菓子、馬鈴薯、梨、コンデンスミルクなどを与えて体力を回復させようとする努力も空しく、9月29日午前零時30分に息を引き取った。日誌の分析結果は『網走地方史研究』第7号(1974年)に「大津事件津田三蔵の死の周辺」として掲載された。津田の遺骨は遺族らに引き取られることもなく、集治監の墓地に埋葬された。
2024年07月30日
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大津事件 5月11日、大津に入り、琵琶湖や唐崎神社を見学した。しかし同日、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った(脳には届かなかった)。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。 ニコライはこの時のことを次のように日記に書いている。「人力車が人々が沿道にあふれている通りへ曲がった時、私は右耳の上に強い衝撃を感じた。振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。とっさに私は『何をする』と叫んで道路に飛び降りた。醜い顔は私を追いかけてきたが、誰も止めようとしないので、私はやむなくその場から逃げた。群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは混乱して四散してしまったので、それも不可能だった。走りながら振り返ると私を追ってくる巡査の後ろからゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。更に60歩走ってもう一度振り返ると、ありがたいことに全て終わっていた。ゲオルギオスが竹の杖の一撃で狂人を倒していたのである。私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが狂人を取り押さえていた。一人が狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉につきつけていた。群衆は誰一人として私を助けようとしなかった。なぜ通りの真ん中に私とゲオルギオスとあの狂人だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う。」。 しかし津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったという。確かに最初に津田に立ち向かったのはゲオルギオス王子であり、彼はその日お土産に買った竹の杖を武器にしていた。だがゲオルギオスの竹の杖は津田をひるませただけであり、ひるんだところを人力車の車夫たちが津田に飛びかかり、この時津田がサーベルを落とし、それを拾った車夫が津田の首筋と背中を斬りつけたのだという。ニコライも後に一応これを認めていたらしく、彼を助けた車夫の二人に勲章を送っている。だがニコライは毎年5月11日に行っていた大津事件記念礼拝においては感謝の意を日本人車夫にではなく、ゲオルギオスに捧げていた。 大津事件の影響 有栖川宮威仁親王から電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ行幸し、常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)でニコライ皇太子と面会した。皇太子への同情と事件への怒りを表明し、犯人はただちに処罰される旨を確約した。また回復した後、予定通り東京へ訪問することを希望した。これに対してニコライ皇太子は「自分は一狂人のために負傷したが、陛下をはじめとして日本国民が示してくれた厚意に感謝の意を持っている事は、事件以前と全く変わっていない」と返答しつつ、視察の継続については父母の指示を仰がねばならないとして確答しなかった。 結局ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途につくことになった。残念がった天皇はニコライ皇太子を神戸御用邸での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。1882年に李氏朝鮮で大院君が清に船で拉致された事件を引き合いに出し、外国軍艦に搭乗する危険性を進言したが、天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができた。 日本国民の世論もニコライ皇太子への同情と津田への憎しみで占められた。ニコライ皇太子の軍艦には日本中から手紙と贈り物が届いた。またニコライは日記の中で日本国民たちが許しを乞うように次々と街頭に膝まづいて合掌する姿に感動したと書いている。畠山勇子という27歳の日本人女性はこの件で自害し、国内外に衝撃を呼んだ。山形県最上郡金山村は村民に津田姓と三蔵名を禁止する条例を出している。こうした日本人の反省の態度に接してニコライは、日本を離れる直前に侍従武官長バリャティンスキーの名前で感謝状を新聞に寄せた。 内閣総理大臣松方正義はロシアとの関係を考慮して津田を死刑にするべきと考えた。刑法116条(「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」)の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかをめぐって政府と大審院院長児島惟謙の間で論争になった。松方は「国があっての法律である。法律を厳格に守って国が滅ぶのでは意味がない」と主張して刑法116条で裁くよう要請したが、児島は「ロシアは津田が死刑にならなかったからと攻めてくるような野蛮国ではない。ロシアもドイツも外国皇族の襲撃に対しては自国の皇族に対する物ほど重い罪を定めていない。むしろヨーロッパからは日本の法律の不備が指摘されているのであり、今こそ日本の法治主義を示す時である」と主張した。結局津田は刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪となり、その最高刑である無期徒刑(無期懲役)に処された。その判決はロシア宮廷やロシア政府にも伝わったが、日本政府が心配したようなロシア軍の軍事行動は起こらなかった。ロシア外相ニコライ・ギールスとしては、日本の裁判所が津田に死刑判決を下したところでロシア皇帝が減刑嘆願を行い、そのおかげで減刑されるという解決方法が両国の親善に最も良いと考えていたため、日本裁判所が津田に死刑判決を出さなかったことに不満を抱いたという。しかしアレクサンドル3世は天皇が直接謝罪したことを高く評価しており、日本政府の取った処置にも満足の意を示していたという。
2024年07月30日
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2「大津事件の起因」(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。 〇ニコライ2世は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 – 1917年3月15日)。愛称はニッキー。 皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。イギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。 日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども銃殺された。東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。 出生 1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男、後の皇帝アレクサンドル3世)とその妃マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の間の長男としてロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれる。 ニコライの誕生後、弟としてアレクサンドル(夭折)、ゲオルギー、ミハイル、また妹としてクセニアとオリガが生まれている。 世界旅行 両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することになった。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった。ニコライ皇太子本人はほとんど気乗りしていなかったが、仲のいい弟ゲオルギーが同行するという事には喜んでいたという[17]。ただゲオルギーは風邪をこじらせて途中で帰国した。 まずウィーンからギリシャへ向かい、ギリシャ王ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子(従兄弟にあたる)がニコライに同行することになった。ニコライとゲオルギー(途中まで)とゲオルギオス王子は、エジプト、英領インド、コロンボ(英領セイロン)、英領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、英領香港、上海と広東(清)を歴訪した後、最後に日本を訪問した。 訪日 1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港した。以降5月19日まで日本に滞在した。日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備していた。各休憩所で出される茶菓子の吟味にまで及んでいた。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)が任命された。また岩倉使節団の留学生としてロシアに10年滞在しロシア女性と結婚した万里小路正秀が通訳を務めた。 ニコライは長崎寄港前にピエール・ロティの『お菊さん』を聞いていたため、滞在中一時的に日本人妻を娶りたがっていたという。稲佐駐在ロシア人将校たちが日本人妻を娶っている事を知るとますますその願望を強めたが、「復活祭直前のキリスト受難の週がはじまっているというのに、こんなことを考えているとは何と恥ずかしいことか」と反省して自重した。 日本政府は復活祭を配慮して5月4日までニコライの予定を組まなかったが、その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索した。ニコライは長崎の印象について日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」という感想を書いている。ニコライはこの長崎滞在中に右腕に竜の入れ墨を入れた。5月4日に長崎県知事中野健明の歓迎式典を受けた後、有田焼や諏訪神社を見学して長崎を後にした。 ついで5月6日に鹿児島へ入った。島津忠義公爵は保守的な外国人嫌いで知られていたが、この時にはニコライを積極的に歓迎した。古風な甲冑を着けた老武士170人を集めて侍踊りを披露し、また忠義自らも犬追物を披露して見せた。皇太子に随伴していたウフトムスキー公爵(ロシア語版)はこれに不快感を覚えたが、ニコライは喜んでいたという。 5月9日、瀬戸内海を通過して神戸に寄港し、そこから汽車で京都へ向かった。5月10日に大宮御所、京都御所、二条離宮、東本願寺、西本願寺、賀茂別雷神社などを訪問した。飛鳥井家の蹴鞠や賀茂競馬も見学した。また神戸市長から楠木正成の話を聞いて、その忠義に感動していたニコライは、京都博覧会場で楠木正成の絵を購入している。ニコライは京都が気に入ったようだった。かつての日本の首都ということで京都をモスクワになぞらえていた。
2024年07月30日
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「歴史の回想・大津事件」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、 「大津事件の起因」・・・・・・・・・・・・43、 「湖南事件」・・・・・・・・・・・・・・・104、 「事件の処理」・・・・・・・・・・・・・・635、 「ニコライ一行帰国」・・・・・・・・・・・776、 「事件の背景」・・・・・・・・・・・・・・807、 「日本政府の動き」・・・・・・・・・・・・1248、 「司法の動き」・・・・・・・・・・・・・・1489、 「公書問題」・・・・・・・・・・・・・・・15410、「ロシアの動き」・・・・・・・・・・・・・17311、「事件後の影響」・・・・・・・・・・・・・18212、「ニコライを救済した人力車夫」・・・・・・18813、「著作活動・・・・・・・・・・・・・・・・197 1、「はじめに」大津事件はロシア皇太子襲撃事件。湖南事件ともいう。1891年(明治24)シベリア鉄道起工式に臨む途中、各国を歴訪していたロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(後の皇帝ニコライ2世。革命により死)は、滞日中の5月11日、滋賀県大津で警衛の巡査津田三蔵に切りつけられ負傷した。津田は当時広く蔓延していた「恐露(きょうろ)病」の影響を受け、同皇太子が、他日日本を侵略する目的でその調査のため来日したと信じ、殺害を図ったものである。事件発生によりロシアの報復を恐れる日本側は、明治天皇自らが負傷の皇太子を見舞い、招きに応じてロシア艦内にあえて赴くなど、異例の措置をとった。首相松方正義も自ら司法部に対し、犯人津田に極刑の判決を下すよう申し入れた。事の重大さに加えて、外相青木周蔵が事件発生後、駐日ロシア当局に、津田は死刑に処せられるはずであるという言質を与えていたからでもある。ところが刑法では、謀殺未遂罪に死刑を適用できず、大逆罪の適用など政府側提案は法律上矛盾を生じるので、大審院長児島惟謙をはじめ、法曹界でも政府の態度に強く反発し、大津地方裁判所内で行われた大審院による一審で終審の裁判では、政府の干渉を排除、法規どおり、5月27日無期懲役が被告に宣告され、ロシア側もこの結果に納得した。この事件は、明治憲法施行後まもないころ、明治政府側の非立憲的発想の残存に対抗して、司法権の独立が守られた意味で著名であるが、背後には「護法(ごほう)の神」児島ら非薩長(さっちょう)出身の司法部首脳による、藩閥政府への対抗意識があったことも否めない。
2024年07月30日
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16「人物・逸話」緒方洪庵の孫・緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として、益次郎の適塾時代は「伝えるところによれば、村田は精根を尽くして学び、孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。塾頭としても綿密に考えて講義をし、遊びをしない品行方正な人格であったとしている。類い稀な語学力と、医学、化学などの豊かな知識を有する益次郎であったが、医師としての素質は欠けていた。郷里では、時候のあいさつをされても「夏は暑いのが当たり前です。」「寒中とはこういうものです。」と答える無愛想な性格に加え、治療も上手でなく評判は悪かった。江戸の「鳩居堂」時代の塾生も、学識は尊敬するが「先生は藪医者」と陰口を叩いていたこともある。塾生の一人野辺地尚義が目を患った時も「決して薬をつけてはならぬ。薬はつけるものではない。爛れたら水で洗い夜中に書見することはならぬ」と診断して塾生に「先生は医者の事は知られない」と笑われた。維新後、益次郎は「今後注意するは西である」と発言し、西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷を全く評価していなかった一人であり、西郷を建武の新政後に反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。海江田らが益次郎に反感を持った原因の一つに、彰義隊の討伐に際し激戦が予想される黒門口に薩摩兵を置く益次郎の作戦について、西郷と益次郎の間で「西郷熟視し終わりていわく、薩兵を見殺しにするの朝意なるや」「大村は静かに扇子を開閉し、天を仰ぎて言なし。すでにして曰く、しかりと。西郷また言なくして退くと」と記されてあるようなやり取りがあったからというものがある。もっとも西郷は、海江田と益次郎との論争には全面的に大村を支持するなど、その軍事知識を高く評価していた。また東海道総督府参謀木梨精一郎も黒門口担当は希望者が殺到し、両者にはそのような話はなかったと証言している。若年だった西園寺公望は益次郎に師事しており、京都にいた西園寺が益次郎を訪問しようとした際、公家の旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれる。日本初の軍歌・行進曲とされる品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。この曲は有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた。明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策している。戊辰戦争時に奥州北陸に遠征する兵士の食事を気にかけ、「兵食というものは、まことに粗末なものである。兵士が頼りにするのは米ばかりだ」と絶えず米糧のチェックを行うなど細かなところに気の付く面もあった。戊辰戦争で降伏した者の中に、適塾の後輩の大鳥圭介がいたことを知った益次郎は「大鳥もやはり助けねばならぬ。どうしても官軍に抵抗して一番強いが、後日のために尽くすならば、大鳥は一番賊のうちで役に立つ。どうしても戦はあの人が一番よい。」と述べ、その才能を惜しみ減刑に奔走したという。生活は質素で、芸者遊びや料亭も行かず、酒を好む以外は楽しみはなかった。江戸の蕃書調所時代の益次郎の小遣い帳には、大好物の豆腐をはじめ、蛸、鯛、鰹、蛤、刺身など相当の食物を購入したことが記されており、実入りが良かった事もあり一時期は贅沢な食事をしていたようであるが、後年の益次郎は粗食で、兵部大輔の高位になった後も「要するに先生は非常に気力旺盛な方で、豪傑でありました。強記博聞おのれを持することが極めて質素でありました」と曾我祐準が証言するほどであった。学究肌で趣味らしい趣味もなかったが、豆腐を食べることと骨董品を買うことだけは楽しみにしていた。特に掛け軸が好きだったが、1両以上のものは決して買うことがなかった。その理由について、部下で軍務官権判事の船越衛は「『おれも軸物などを楽しむが、その代わりに額を決めておく。その決めた額より上は出さぬ』ということだった」と証言している。遭難の直前、益次郎は軍事施設検分のため大阪を訪れ、蕃書調所時代の同僚だった原田敬策を呼び、 道頓堀での芝居見物の後、料亭で会食を共にした。後日、原田も普段の益次郎には珍しい歓待ぶりに「先生自身にはもはや今生の訣別なりと考え、すでに身辺に迫りくる逃るべからざる災難を予知しておられたから」と懐旧している。妻の名前は琴子(もしくは琴)。旧姓は高樹とされるが、高実(たかざね)という説もある。琴子の愛犬の名前は角之助、大村の死後の明治8年泥棒に斬り殺され、「大村角之助」と刻まれた墓に葬られたという。 了
2024年07月29日
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14「大村益次郎の暗殺」当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であった。益次郎は事実上、近代日本の軍制建設を指導してゆく。益次郎は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、山田に下士官候補の選出を委任した。山田も山口藩諸隊からを中心に約100名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。また、益次郎は明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪城近くに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする新しい軍の建設を始めた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように益次郎が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、益次郎が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)、益次郎は軍事施設視察と建設予定地の下見のため京阪方面に出張する。京都では弾正台支所長官の海江田が遺恨を晴らすため、新軍建設に不平を抱く士族たちを使って益次郎を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、益次郎はそれを振り切って中山道から京へ向かう。益次郎は同年8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分することとなった。9月3日、京へ帰るも翌4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、益次郎の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。静間と安達は死亡、益次郎も重傷を負った。その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負ったのであるが、なかんずく右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。兇徒が所持していた「斬奸状」では、益次郎襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。益次郎は一命をとりとめたが、重傷で7日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。9月20日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。10月1日、益次郎は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。だが、手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなっていた。果して10月27日手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し5日の夜に死去した。享年46。臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した後「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ。」と遺言していた。益次郎の死去の報を受けた木戸は「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)と、その無念さを述べている。11月13日、従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下された。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれた。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)に孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。益次郎の軍制構想は山田顕義、船越衛、曾我祐準、原田一道、大島貞薫らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。益次郎の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。
2024年07月29日
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