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この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した 3
月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城。4月21日に安土城へ帰城した。
信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
本能寺の変
天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。
4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。
この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた。
しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった。
5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。信長の光秀に対する信頼は深かった。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。
5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49。
信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる。
本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。
〇「足利 義昭」 (あしかが よしあき、1537年12月15日〈天文6年旧11月13日〉 ‐ 1597年10月9日〈慶長 2 年旧8月28日〉)は、室町幕府第15代(最後の)将軍(在職:1568年〈永禄11年〉 - 1588年〈天正16年〉)。
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利氏22代当主。
足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って 覚慶 (かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して 義秋 (よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。
信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。
天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。
天文11年(1542年)11月20日、千歳丸は跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って、外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を 覚慶 と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。
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