温故知新 0
徐福 0
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「最期」 慶長三年(1598)三月十五日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。各地から七百本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。 この頃、洛中の屋敷として御所近くに京都新城を構えたが、参内の宿所として使用したのみでついに移居することはなかった。 五月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。五月十五日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。 自分の死が近いことを悟った秀吉は七月四日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。 八月五日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は八月十七日に信濃へ向けて京都を出発したが、八月十八日、秀吉はその生涯を終えた。死因については現在も不明である。 秀吉の死はしばらくの間は秘密とされることとなったが、情報は早くから民衆の間に広まっていたと推察され、後に豊国社の社僧となる神龍院梵舜は『梵舜日記』八月十八日条で秀吉の死を記している。 秀吉の遺骸はしばらく伏見城中に置かれることになった。九月七日には高野山の木食応其によって方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に寺の鎮守と称して、八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築され始めた(『義演准后日記』慶長3年九月七日条)。 慶長四年(1599)四月十三日には伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された(『義演准后日記』『戸田左門覚書』)。 四月十八日に遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。これに先立つ四月十六日、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられた(『義演准后日記』)。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものとの見方がある。四月十九日には正一位の神階が与えられた。神として祀られたために葬儀は行われなかった。 豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制が合意されている。また、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。 秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。また、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、後に滅亡する一因となった。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。 了
2023年08月24日
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「説話」 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。 両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした。 賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。 また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという。 小田原征伐の際、鎌倉の鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという。 秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。 一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し七人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女六十三人を磔、最終的には百三十人に刑罰を下している(『鹿苑日録』)。 人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀二年(1571)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正五年(1577)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして二百人以上処刑している(同年十二月五日の羽柴秀吉書状)。母・大政所への孝養で知られる。 小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒したという。 秀吉が自分が天皇の落胤である噂を広めようと、自分の母がかつて上洛した際に、当時の天皇が手を付けた事があり、その結果生まれたのが自分だと吹聴した事があったが、当の大政所が激怒したため、取りやめたという話もある。 戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたとき秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。などと記している。」 上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った。 また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。「文化・芸事」人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。 文化的修養を積むことに努力し、古典文学を細川幽斎、連歌を里村紹巴、茶道を千利休、有識故実を今出川晴季、禅を西笑承兌、儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだ。 能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。和歌もよく詠んだ。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田重然でもなく、秀吉であるとする評価もある。 一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。 呂宋助左衛門が献上し、高額な茶器(茶入れ)として珍重されたルソン壷が、現地では便器として使われていると知り激怒したという逸話もある。能筆家であった。 北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。 囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海(後の本因坊算砂)に指導を受けており、伊達政宗の家臣・鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい。
2023年08月24日
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二十四、「太閤秀吉の「容姿」と「説話」「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から猿と呼ばれたことは有名である。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には七本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、 秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。「禿げ鼠」「禿げ鼠」の呼び名は、信長がおねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)。ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。「六本指」秀吉は指が一本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』)。 当時は(現在もそうだが)多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。 そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い。 なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した三上参次は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」と記載している。その他身長は小柄であったが、詳しい数字は不明。百五十cm以下から百六十cm余まで諸説ある。髭は薄かったため付け髭をしていたが、当時の武将は髭を蓄えるのが習慣であり、髭の薄い者は付け髭をすることもあった。「死因」 様々な説が唱えられており、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)、尿毒症説、脚気説、腎虚、感冒で亡くなった(そのため藤堂高虎と同様、桔梗湯を処方された)説などがある。五十代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている。沈惟敬による毒殺説もある。
2023年08月24日
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前述のように、院の諒闇や比叡山の禁を犯した話については、期日が不明であったり、他に矛盾する史料があったりして、すでに疑議が上がっている。秀次は公家と親しくし、古典教養の豊かな文化人であったことから、宮中のしきたりを敢えて破ったという話にはそもそも不自然さがあることも指摘される。稽古で人を殺したり、北野天神で盲人を殺したということなどは、太田牛一ですらその後に「よその科をも関白殿におわせられ」と他人の犯罪が秀次の悪行・乱行として濡れ衣がきせられたかもしれないと示唆しており、最初から実際にあった事なのか、ただの流言飛語なのかはっきりしない記述であった。 これが具体的な内容に加筆されて秀次の所業とされたのは後世になってからであった。またルイス・フロイスの日本年報での弓鉄砲の稽古で人を殺した話の箇所は「或時はまた果報拙き者どもを生きたる的となして、矢又は鉄砲を以て射殺したり」という一行のみで、彼の主旨はネロやカリグラ、ドミティアヌスといったローマ皇帝との対比にあった。同時代人であるフロイスが秀次を自ら人殺すを好む青年として描いたことは歴史証言として一定の価値を持つが、全体の論調としては秀次に同情的に記述されている。 また多くの歴史学者は当時の宣教師たちがどのようにして情報を得ていたのかわからないとしており、情報の出所について疑念も残っていて、僅かだが意味不明の箇所もあることから、巷説・風説を集めて書いたものであるという説もある。 最も強く秀次暴君論を否定するある学者は、殺生関白を説明するために多くの逸話は創作されて追加されたものであるとして、殺生関白の史実性を明確に否定する。秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘する。「確執説」 秀次の死は、どのような所業が理由であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。また武家とはいえ、関白は天子の後見人として殿下と敬称される地位であり、その関白秀次が朝廷の外で失脚したのみならず早々に切腹を申し付けられて梟首にまでなったこと、一族郎党までも尽く処刑されたことは、公家社会に衝撃を与えた。秀次の痕跡すら消し去ろうというような苛烈な仕置には明らかに秀吉の強い意志が感じられ、当然のことながら二人の間に根深い確執があったことが考えられた。 ルイス・フロイスは1595年中に秀次の死という一大事をヨーロッパに伝えたが、その際に独自の分析から事件は太閤と関白との不和から起こったものであるとして原因を三つ挙げている。 これは文禄四年という最も早い時期に出された説であるが、フロイスは秀吉が三人の甥(秀次・秀勝・秀保)に天下を分け与えたことを述べた上で、そのいずれもが相次いで亡くなったことを指摘し、秀吉は天下を譲り渡したもののその実権を渡す気は無く、支配権を巡る争いがあったことを第一の理由として述べた。第二の理由としては秀次が再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかったことを挙げ、日本を領すれば事足りると考える秀次が外征に対して内心不満を持っていたと述べた。 第三の理由としては実子・秀頼の誕生を挙げ、秀吉は秀頼を秀次の婿養子とするという妥協策を発表したものの、その本意は秀次に関白の地位を諦めさせることにあったとし、これらのわだかまりから発した不和と不信が数年の間に高じ、後の事件につながったというのが彼の解釈であった。 フロイスが提示した原因はそれぞれ後世の歴史学者が主張した説とも符合するところもある。三鬼清一郎は秀吉と秀次政権との間に統治権の対立があったと主張しており、秀次切腹事件によって育っていた新体制が壊されたことが、結果的には豊臣政権そのものの崩壊へと繋がることになったとも言う。太閤と関白の権力闘争が秀次失脚の要因として、蒲生氏郷遺領相続問題に結びつけた朝尾直弘の説もある。 ただこの朝尾説は、宮本義己により政策の決定権を有する太閤と、自主権を備えずに太閤の忠実な執行機関でしかない関白では同格形態での権力闘争は成立しないと反論されている。そして秀吉が我が子を可愛く思う余りに、秀頼の誕生によって甥の秀次が疎ましくなったが、関白職を明け渡すことに応じなかったため、口実を設けてこれを除いたという説は、従来より通説(溺愛説)として語られてきた。またこの溺愛説には、秀吉の意思というものと、淀殿の介入を示唆する石田三成讒言説と合わさったものとがある。 この他には、秀次は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えた諸大名に対して聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを行っていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説、この借財で特に毛利輝元に対して秀次はかなりの額を貸し付けており、秀次と秀吉の関係悪化を見て、輝元は秀次派として処分されるのを恐れ自衛のために秀次からの借金の誓書を謀反の誓約書として偽って秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説もあるが、これらは前述の石田三成讒言説に出てくる話の一部を採用したものである。 ※秀次切腹事件には謎がついて回る。確たる証拠も乏しく、推測の域は出ない。秀吉の秀次への制裁は常軌を逸し、残虐で情け容赦のないものであった。明らかに、秀吉の憎悪を感じられ、秀頼への継嗣の思いも重要な要因と考えられる。この身内の粛正によって豊臣家の血脈は断絶していくことも考慮することの出来ないほどの狂気じみた秀次切腹事件であり、天下人としての秀吉の名声を汚す「晩期を汚す愚行だった」。
2023年08月24日
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「北野天神で座頭を殺害」『甫庵太閤記』によれば、北野天神に行った際に一人の盲人(座頭)が杖をついているのに遭遇した秀次は、酒を飲ませてやると騙して手を引かせて、その右腕を斬り落してしまった。その盲人は周囲に助けを求めて「ならず者め、人殺し」「勇気ある人は助けてくれ」などと叫んだが、(秀次の家老)熊谷大膳亮から盲人でも助かりたいと思うのかと尋ねられたので、殺生関白がこの辺りで辻斬りを行っていたという話を思い出して、自らが悪業の犠牲になるのかと嘆きつつも、「我が首を取って殺生関白の名を後代まで成さしめよ」と罵り、なぶり斬られたと云う。また『太閤さま軍記のうち』によれば、これが(同様に何年かは不明)六月十五日の出来事であったとして月違いの七月十五日に秀次は自害したことから、「天道恐ろしき事」として結んでいる。会話は『甫庵太閤記』による“加筆”であり、演出じみているが、『太閤さま軍記のうち』ではどんな経緯だったのか詳しく書かれていない。フロイス指摘「秀次の一大不徳」『日本西教史』によれば、秀次には「人を殺すを嗜む野蛮の醜行」があり、罪人が処刑される際には自ら処刑人を務めるのが常であったという。関白の居館の一里ほど先の高地に刑場が設けられ、周囲に土塀を築き、中央に大きな案板を置いて罪人をこれに寝かせて切り刻んで楽しんだり、あるいは立たせて両段に裂下ろしたりし、最も快楽としたのは罪人の四肢を一つずつ切断することで、恰も鳥獣を裁くのと同じようなやり方で人間を解剖したと云う。また最も惨酷な振る舞いは妊婦の胎を剖い見たことであったと云う。 著者のジャン・クラッセは、実際に秀次と会ったことがあるという“ブロヱー(フロヱー)師”が話したものとしているが、同書をつぶさに目を通すと、この人物はワリニヤン大師に随伴してインドに一旦帰ったと書いてあることから、ルイス・フロイスのことを指していると思われ、フロイスがイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに送った1595年日本年報で書いた内容が上記と同じで原典であると確認できることから、ほぼ断定できる。 フロイス(=フロヱー)は秀次切腹という日本での一大事を受けて1595年中に書簡を書いたとしているので、少なくとも当時すでに流布していた悪評なのであろう。ここでは割愛しているが、前述の人間を生きる標的として弓や鉄砲で撃ち殺した話も含まれていた。 またこの話は、微妙な違いはあるものの、他の宣教師の書物にも繰り返し引用され、ルイス・デ・グスマンの『東方伝道史』やアルノルドゥス・モンタヌスの『モンタヌス日本誌』にも同様の内容が登場するが、これらは別々の証言というより、フロイスの書簡記事が転載されていったものである。 ただしフロイスの原典を見れば、斬っていたのはあくまでも「死罪の者」であり、描写の内容は、特殊な刑場は「土壇場」を指し、処刑の様子は「生き胴」のような方法を指していると思われる。日本刀の試し切りに人体を用いていたことも併せて、これらの刑罰や習慣は江戸時代の日本にもあったもので、宣教師の目から見た当時の日本人の異習に過ぎず、フロイスの記述は史料的価値は高いものの、必ずしも秀次の残虐性を示す証拠や特異な奇習とまでは言えないことには留意すべきである。「殺生関白について」正親町上皇崩御の諒闇中に狩りをしたことが不道徳であるとして落首されたという話を元にして、“せつせう関白”、つまり摂政と殺生をかけて、殺生関白と呼ばれるようになったと言うが、『太閤さま軍記のうち』におけるこの記述が唯一の出典となっている。しかしながら落首が実際にあったかどうかは不明であり、狂歌は他に出典を見いだせず、句も後世の作ではないかという説もある。 また注意して読めば、秀次が殺生した対象は“鳥獣”であり、言及されたのは仏教的な破戒であって、歌に詠まれた内容は厳密には喪も明けないうちに狩りをしたことを非難されたに過ぎないのである。しかしほかの悪行と列記されることで読み手には拡大解釈が促された結果、後年の『甫庵太閤記』になると“せつせう”が座頭殺しの場面でも登場し、その後『太閤記』では殺生の意味がより人殺しに近い意味に置き換わって、いつの間にか殺生関白は秀次暴君論へと発展した。 これは、悪行非道の人物であれば誅されても当然、あのように眷族すべて皆殺しになったからにはとんでもない大罪を犯したのであろうとの思い込みであり、秀次の文化人としての側面を評価する小和田哲男はこれを太田牛一による“呪縛”と表現している。「評価」 殺生関白、つまり秀次暴君論の評価については、現在、専門家の間でも意見が分かれている。 戦前の歴史学者は、概ね秀次の性行および態度に不良な面があったという説を受け入れていた。徳富蘇峰などは太閤記をそのまま信用し、秀吉の家族の研究でも業績を残した渡辺世祐も粛清の原因の一つとして上げて、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている]。しかしその後の研究で史料分析が進むと、太田牛一の『太閤さま軍記のうち』以前には、秀次の暴虐・乱行を記した史料が一つも存在しないことが複数の歴史学者に指摘されて明らかになった。 以後の史料は太田牛一の著作の影響を強く受けたものと考えられたので。、江戸時代に成立した史料は内容の信憑性が疑問視され、史実性について再考がなされるようになった。
2023年08月23日
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フロイスは、これは太閤が「残酷絶頂に至り」「その憎悪は甚だ強く、その意思は悪魔の如く、関白に係有る一切のものを根絶」しようと決心したからであるとし、秀吉の狂気の表れとして説明する。 他方、矢部健太郎は、別の観点で新説を発表して、無罪である秀次が腹を切ったのは、命令によってではなく潔白を訴えた秀次自らの決断であったとし、「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」と主張した。 秀次が腹を切った青巌寺は、大政所の菩提寺として秀吉が寄進した寺院であり、神聖な場所を汚されたと思った秀吉は逆に激怒して、秀次の妻子を皆殺しに及んだと説明する。矢部は、太閤記の『秀次に謀反の動きがあった』という記述も、「事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか」と推測している。「石田三成讒言説」『太閤さま軍記のうち』では、「御謀反談合」の風聞が秀吉の耳に届き、七月三日に四奉行が派遣されて「子細御せんさく」があった後、八日に伏見木下吉隆邸に預かりとなった秀次がすぐに高野山に入るという展開になるが、それでは余りに話を省略し過ぎているので、『太閤記』以後の書物ではこの間のくだりが大幅に“加筆”された。 元和年間に成立したとされる『川角太閤記』は、秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰されていた菊亭晴季の娘である一の台を、秀次が見初めて、晴季に請うて秀吉には黙って継室としたが、石田三成の讒言でそれを知った秀吉が嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする話を載せている。 『甫庵太閤記』では、七月五日に石田三成が、一年前に毛利輝元と秀次が交わした誓紙を今になって咎めて、(秀次には謀反心は)「聊以(いささかもって)なかりし」ものの、反逆者の行為に似ていると別の嫌疑を取り上げて言い掛かりをつけてくる。同記は「秀次公讒言にあひ給ひし」は天罰であったという論調であるが、讒言者を石田三成と増田長盛の二名としている。 木村重茲(木村常陸介)の役回りが変わって、彼は秀吉の重臣・木村定重の嫡男として本来なら豊臣家の執政となるべき立場であったが三成にその地位を奪われた者であり、両者の対立関係を描くことで、三成に陰謀に関与する動機を与えている。三成は、関白の宿老として将来のある常陸介を陥れようとしていて、木村家に内偵を入れて見張り、讒言の口実を伺っており、三成による讒言という構造がはっきりしている。 以後、陰謀の主体者に石田三成を当て嵌めた“讒言説(讒構説)”の筋書きに追随する書物が続出し、寛永年間の作で『太閤記』と同じ頃に書かれた『聚楽物語』では、それぞれの役割分担はさらに明確にされる。 木村重茲はもはや忠臣として扱われ、物語の中心は、石田三成と秀次の宿老衆とのせめぎ合いであり、田中吉政が三成の謀略によって讒言に協力するように迫られて、吉政が日々子細な報告を繰り返すうちに情報を集めて、三成は「御謀反はうたがいなく候」と秀吉に報告するに至る。三成はさらに孝蔵主を使者として秀次をおびき出そうとする。 重茲は追い詰められたからにはいっそ謀反を起そうと提案するが、粟野秀用が反対して、秀次は弁解に伏見に向かうが、すべてが筒抜けの状態であったからまんまと捕らわれてしまうという展開である。 これが『武功夜話』(成立年代不明だが江戸中期以後)になると、田中吉政の役回りが前野長康に替わっている。ここでは前野家が主人公だが、これまで不明だった謀反とされた内容がさらに具体的に加筆された。それによるとそもそもの発端は毛利秀元が秀吉に直接訴え出たことであり、秀元が聚楽第に来た際に連判状を示されて秀次への忠節を誓うように催促されたのを、謀反の疑いとして注進したが、連判状には前野景定(出雲守)の名前もあったのだと言う。 そこで六月末、前野長康と木村重茲が伏見に召還されて石田三成・増田長盛・長束正家の審問を受け、両名はそれぞれ秀次の所業を弁護するが、連判状の存在を突き付けられて観念して、聚楽第に急行して秀次に恭順の意を諭すことになる。連判状がなぜ謀反と繋がるのか疑問に思うわけであるが、これについては弁明する秀次に「この書物は別儀相無く、余への忠義の心を相確かめるため、家来ども始め諸上に書物に連署墨付け願いたる事、太閤殿下に聊かも他意これなし、如何様に殿下に讒言候哉」と言わせて、奉行衆が秀吉と秀次の間が引き裂いたことだとして描かれている。 ここまで詳しく書いたが、これらの資料ごとの相違からも考察できるように、石田三成讒言説については「秀次の粛清は何者かの陰謀の結果であろう、そしてそれはきっと石田三成に違いない」という、後世の人の憶測と考えられる。主体的に三成が動いたということがわかるような史料は存在せず、三成による讒言があったことを示す史料もない。 また、上記の例に挙げた後世に書かれた「軍記物」はもとよりフィクションを多く含んでいると考えられている。事件後に、使者となって関わった奉行衆がそれぞれ加増されているという史実はあるものの、秀次旧家臣らの中にも加増を受けているものも存在することなどから、「三成ら奉行衆は秀吉の命を遂行したに過ぎない」というのが現在は有力な説で、ある学者はなどは讒言説を否定し、石田三成は「秀次追い落としの首謀者ではなかった」としている。
2023年08月23日
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「謀反説とその否定」 謀反説は当時から世間では懐疑的に見られていた。『言経卿記』の記述によれば文禄四年七月八日「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ不和也、此間種々雑説有之、今日殿下伏見御出也」、一三日「昨日殿下禅定於高野山御腹被云々、言語道断也、御謀反必定由風聞也」とあり、山科言経は謀反は単なる噂にすぎないのにそれで切腹とは言語道断だと怒っていて、「不可説」と説明できない事態の展開に憤慨していた。『御湯殿上日記』にも、七月八日、「今朝関白殿へ太閤より御使いありて。謀反とやらんの沙汰御入候て、太閤機嫌悪く御断り候まてとて、関白殿高野へ尾登りのよし申」、七月一六日「関白殿昨日十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申。無実ゆえかくの事候由申すなり」と書かれ、秀次は謀反の疑いで高野山に入ったが、無実であったので切腹になったのであろうと端的に説明する。 『川角太閤記』では「御謀反は毛頭おぼしめし寄りなき事、後々、只今までも御座なく候と、承り候。太閤様御分別には、御存命の時さへ、か様に乱りに御行の義候は、御他界後は、義理五常も御そむきなさるべきこと必定と、おぼしめされ候故、半分も大きりも、右の様子は、御りんきと相聞こえ申し候事」として、冤罪であったと断言しつつも、秀次の素行の悪さを憂いて将来の禍根を断ったのであろうと秀吉の意思を説明する。 『当代記』では「関白秀次太閤江頃日御謀反の企露之由あって、七月八日関白聚楽第退出、即出家於高野山、同十五日腹を切御、秀次若君二人、一二歳の孩児、并近習女房卅餘輩、渡洛中切捨らる、誠は秀次逆心之儀虚言と云へ共、行跡不穏便飢故、治部少依讒言如此、」と、謀反を明確に否定しつつも、それを石田三成讒言説へと展開している。 『太閤さま軍記のうち』では木村常陸介と粟野木工頭が「陰謀をさしはさみ」と秀次を唆したというものの、何れの話においても漏れ聞こえてきたという謀反の風聞そのものについて少しも具体的ではなく、鹿狩夜興で武装していたことが野心の表れと咎められたというぐらいで、謀反の実体を書いた物はなかった。それどころか多くの書物では疑われた謀反はなかったと否定されたのである。「秀次の罪状」 そもそも本当に謀反を起こしたのであれば切腹は許されず、斬首や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識であった。よって秀次は謀反によって死を賜ったわけではないと解釈するのは自然で、前述の『御湯殿上日記』七月一六日の記述「御腹切らせられ候よし申。むしち(無実)ゆえかくの事候由申すなり」を根拠にして、謀反では無罪になったから切腹になったのであり、謀反の疑いが晴れなければ磔になったのではないかと主張した。 秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔を自宅によびよせた一件が、天皇診脈を怠ることになり、秀次には秦宗巴という侍医がすでに存在していただけに関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している。これがいわゆる天脈拝診怠業事件である。 いずれにしても『御湯殿上日記』と伊達家文書にある『太閤様御諚覚』は、“謀反”に言及する数少ない一次史料であるが、『太閤様御諚覚』に「今度秀次様御謀反之刻…」という記述があるものの、その続きは「…政宗事も一味之由種々雖達上聞候」で、その後の内容で秀次の謀反騒動における伊達政宗の弁明を聞いてそれが誤解であったとしているのであり、前者が謀反の沙汰があったが無罪となったと書いているのであるから、謀反が“あった”と書いている史料はほぼ皆無ということになる。 『太閤さま軍記のうち』ですら列挙される罪状のなかに謀反の文字はなく、忘恩・無慈悲・悪業の三点が責められたに過ぎない。つまり謀反の企ては存在せず、嫌疑が晴れたにもかかわらず切腹させられたということなのである。 断罪した側がどのように事件を説明したかというと、『吉川家文書』の中に七月十日付で秀吉と奉行衆がそれぞれ吉川広家に送った2通の手紙が残っているが、この中では高野山に秀次が送られた理由を「相届かざる子細(不相届子細)」や「不慮之御覚悟」があったとする。 のみで、具体的な内容は明記されず、口実すら記さない、言うのは憚られるという状態であった。ある学者はは、「不相届子細」は秀吉が「秀次は自分の思い通りにならなくなってきた」と考えていたことであるとし、ある学者の論文を思い起こして、謀反などはなく、これは専制政治が起した悲劇で、独裁者秀吉には秀次を粛清するのに理由など必要としなかったことを示唆する。 宣教師ルイス・フロイスは、1592年十一月一日付の書簡で、すでに秀吉と秀次の不和から「何事か起こるべしと予想」していたが、『日本史』の第三十八章では、秀次は「(老関白から)多大な妄想と空中の楼閣(と思える)書状を受理したが、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。 彼は幾つか皮肉を交えた言葉を口外したものの、叔父(老関白)との折り合いを保つために、胸襟を開くこともなく自制していた」と書き、老いて誇大妄想に陥った秀吉と、賢明で思慮深い秀次の人物像とを対比して描き出した。フロイスは「この若者(孫七郎殿)は叔父(秀吉)とは全く異なって」いたと評していて(後述する悪行はあったとするものの)暴君は秀次ではなくて秀吉そのひとであったという立場をとっている。 一方で、39名もの眷族が皆殺しとなったのであるから、谷口克広はやはり罪状は秀吉に対する謀反であったのは確かであるという。それでも谷口も謀反そのものはなかったと否定し、溺愛説を取っているが、秀次が切腹したにもかかわらず、眷族にまで罰が及ぶというのは確かにちぐはぐであり、依然として謎は残る。
2023年08月23日
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事件が明らかになると(同じく懇意としていた)施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明するのが良いと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京した。すると前田玄以・施薬院全宗・寺西筑後守・岩井丹波守からなる詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の二代目たる関白に誠心誠意に奉公しようとしただけであると弁舌巧みに自己弁護したので、秀吉はこれを許して、八月二十四日、秀頼への忠誠を命じる朱印状を出し、伏見城下に伊達町をつくるので、そこに屋敷を構えて家老や妻子、一千名の家来を常駐させるように命じた。 最上義光は娘を秀次の側室に差し出していたことで咎められた。この駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家、徳川家康らが助命嘆願したが、ほかの妻妾と同じように三条河原で処刑された。これが憐れであるというので、義光も結局は許された。十丸の祖父にあたる北野松梅院も、娘と孫を処刑されたが、北野天満宮祠官という地位のために本人は死を免れた。 秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘・小督局との娘で生後一ヶ月であったというお菊は、母の従兄弟・後藤興義に預けられて助かり、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れた、と言い伝えられている。 縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構が殆んど全く残っていないのはこのためである。 近江八幡山城は、当時は親族大名の京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。この際に近江八幡山城の部材の一部を大津城に移築したという説もある。 秀吉は、事件が諸大名を動揺させないように、特に朝鮮に出兵中の諸将を安心させるために(高野山入り後の七月十日頃)書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。 その上で、秀次切腹の前である七月十二日、今後は拾(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている。 さらに眷族皆殺しの翌日である八月三日には、五大老の名で御掟五ヶ条を発令して、事件の発端となった秀次と輝元の誓約について、以後は諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止されるとした。また時期は不明だが、綱紀粛正が目的と思われる御掟追加九ヶ条も定められた。 このように秀吉は、秀次に関係したものを抹消した一方で、事件の影響を最少に収めようとも努めたが、藤木久志は、政権内部の対立が秀次事件を機としてさらに深刻化したと評している。 秀吉の晩年、秀次は豊臣家の二世世代では唯一の成人した親族であった。秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える藩屏が全く存在しない危険な状態とした。 また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は、総じて徳川家康の助けを受けて難を逃れたので、関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することにもなった。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件は、豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因となったと指摘している。「粛清の理由」 慶長年間に成立した太田牛一の『太閤さま軍記のうち』は、事件の全貌を最初に描いた作品であったので後世に強い影響を与え、最初の“通説”を形成する上での底本となった。この軍記は非常に曖昧な謀反の風聞を粛清の口実としながらも、秀次がこのような憂き目にあったのはその暴虐な行いに原因があったという、「因果歴然の天道思想」に則って事件を描くことで、むしろ天然自然の道理である天道を説くことに重点を置いたところに特徴があるが、これでは秀次の滅亡を勝者の論理で正当化したのと変わらない。 この軍記における暴虐行為の描写は、江戸時代の『絵本太閤記』になるとさらに話に尾鰭が付けられ、“殺生関白”という言葉の説明のために悪行はエスカレートして加筆されて、その後も長期に渡って秀次暴君論がまかり通る原因となったのである。 謀反説はその後の他書においては讒言説へと発展するわけであるが、完全には無くならず、殺生関白の悪名はほぼそのまま残った。一方で、『太閤さま軍記のうち』は「天道の恐ろしき次第なり」で片付けてしまったので、結局のところ何も解明されず、どのような理由によって粛清されたのかという真相の部分は曖昧なままとされてきた。よって現在でも断片的な説明となる幾つかの仮説が存在するのみである。
2023年08月23日
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秀次の妻妾公達らは八日の晩に捕えられて家臣の徳永寿昌宅に監禁され、監視役として前田玄以と田中吉政が付けられていたが、十一日に丹波亀山城に移送された。十二日、秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図し、監禁に近い厳しい指示を出した。 七月十三日、『太閤さま軍記のうち』によれば、四条道場にて秀次の家老の白江備後守が切腹し、その妻子も後を追って自害した。同じく嵯峨野二尊院で熊谷直之が切腹。摂津国の大門寺で木村常陸介(重茲)が斬首され、財産没収となった。重茲の妻子は一旦は法院の預かりとなったが、後に三条河原で磔にされた。 他の家臣については、一柳右近(可遊)は徳川家康に、服部采女正(一忠)は上杉景勝に、渡瀬繁詮は佐竹義宣に、明石左近(則実)は小早川隆景に、羽田長門守は堀秀政に、前野長康・景定親子は中村一氏に、それぞれ身柄を預けられた。 粟野木工頭(秀用)は自邸にて切腹(または三条河原にて斬首)。縁者である日比野下野守(清実)と山口小雲(重勝)は北野で、丸毛不心斎は相国寺で切腹。吉田修理亮は逃亡した。木下吉隆、荒木安志(元清)、曲直瀬玄朔、里村紹巴は遠流とされた。 七月十五日、高野山に福島正則・池田秀雄・福原長堯の三名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死の命令が下ったことを告げた。 ところが、『甫庵太閤記』によれば、木食応其が仏教寺院内では寺法により無縁の原理が認められており罪人すら保護されると抗議した。木食応其は衆徒と対応を評議すると言って引き伸ばし、切腹を何とか阻止しようと食い下がったので、衆徒との間で一触即発の事態となる。 しかし秀吉に逆らえば高野山の寺院そのものが失われるという恫喝に近い福島の説得があり、秀次も切腹を受け入れたために対決は回避された。b秀次は名刀を多数所持していたが、山本主殿助、山田三十郎、不破万作の小姓衆は名だたる刀匠の脇差を賜ると、次々と腹を斬り、この三名の殉死者は秀次が自ら介錯した。 虎岩玄隆は太刀で自ら腹を切って果てた。五番目についに秀次の番となり、雀部重政の介錯により切腹して果てた。享年28歳。法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士とし、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意とされている。 辞世は「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。 雀部重政もすぐに自害して後を追ったが、秀次の介錯に用いた彼の刀、南都住金房兵衛尉政次は、兄の雀部六左衛門の子孫に受け継がれて、現在は博物館「大阪城天守閣」に寄贈されている。また青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間は、現在では“関白秀次自刃の間”として知られる。 秀次及び同日切腹した関係者の遺体は、高野山奥の院の千手院谷、光台院の裏の山に葬られ、福島正則は首だけを検分のために伏見に持ち帰った。「その後」 七月十六日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。七月三十一日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、八月一日、翌日に処刑されると通達されたので、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをした。 八月二日早朝、三条河原に四十メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。 その首が見下ろす前で、まず公達(子供たち)が処刑された。最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら三十九名の全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたという。 数時間かけて行われた秀次の眷族の処刑が済むと、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような殺生関白の悪評もあって、人々はこれを「畜生塚」や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。慶長十六年(1611)、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている。 大名預かりとなっていた家老7名(前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田)は全員死を賜り切腹した。他の家臣にも遠流になった者がかなりおり、遺臣の中で許された者の多くは(石田三成陰謀説に反して)石田三成や、前田利家、徳川家康らに仕えた。 事件では多くの連座者を出した。相婿の関係にあった浅野幸長は、秀次を弁護したこともあって能登国に配流となり、その父・浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。細川忠興は、切腹した家老の前野景定の舅であり、秀次に黄金二百枚の借金もしていた。 忠興は娘をすぐに離縁させ、徳川家康に取り成しを頼んで、借財を何とか弁解し、結局、借金は秀吉に返すことで難を逃れた。伊達政宗は日頃より秀次と懇意にしており、秀次家老の粟野秀用が元は政宗の家臣であったことなどからも、謀反の一味の可能性があると見なされた。
2023年08月23日
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『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている。翌年正月十六日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった。「切腹事件」 文禄四年(1595)六月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。秀次切腹事件を最初に描いた太田牛一『太閤さま軍記のうち』では、これを「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」と描写している。秀次を中心とする”反秀吉一派”が、鷹狩りを口実にして、山中で落ち合って謀議を重ねているという噂があったというのであるが、これは当時の人々にとっても雲を摑むような話であり、俄かに信じがたいものであった。 しかしながら、七月三日(または六月二十六日)、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近など秀吉の奉行衆が訪れて、巷説の真偽を詰問し、誓紙を提出するよう秀次に要求したのである。秀次は謀反の疑いを否定して、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として七枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無きことを示そうとした。誓紙提出については『家忠日記』にも記されており、史実性は高いと考えられている。他方で『御湯殿上日記』によると、秀次は七月三日に、朝廷に白銀三千枚、第一皇子(覚深法親王)に五百枚、准三宮(勧修寺晴子と近衛前子)に各五百枚、八条宮智仁親王に三百枚、聖護院道澄に五百枚を献納している。そのため、何らかの多数派工作を行ったか、または、(仮に同日であれば)偶然の一致が疑いを招き、粛清の口実になったのではないかとも考えられる。※聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後八年で取り壊されたため、不明な点が多い。聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正十四年(1586)二月に着工され、翌1587(天正十五年)九月に完成した。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。天正十六年四月十四日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。天正十九年十二月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、天正二十年一月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ場所に二度も行幸が行われたのは稀有なことである。文禄三年ごろには北の丸が秀次により増築された。しかし、秀吉は文禄四年七月に秀次を高野山に追放して切腹させ、翌八月から聚楽第を徹底的に破却した。のち、御所に参内するための利便上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。 七月五日、前年の春に秀次が家臣・白江備後守(成定)を毛利輝元のもとに派遣し、独自に誓約を交わして連判状をしたためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成は秀吉に報告した。このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭を命じた。 しかし、この報告の内容は事実無根であり、秀次はすぐには応じなかったようである。『続本朝通鑑』には、五日黎明、当時聚楽第近くの館にいた徳川秀忠を秀次が人質としようとしたので大久保忠隣と土井利勝が相談して秀忠を伏見へ脱出させたという記述があるが真偽のほどは定かではない。三日間どのようなやり取りや出来事があったかは明らかではない[51]が、事態は思いがけぬ方向に急転した。 七月八日、再び、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名からなる使者が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう重ねて促した。使者の面々は、秀次の元養父や元宿老達で、秀吉の直臣に戻った人々であった。『甫庵太閤記』では、堀尾吉晴がなかなか言い出せないでいると、吉田修理亮(好寛)が割って入って、もし疑われるような事がないのならすぐに伏見に立つように、もし野心があって心当たりがあるのならば一万の軍勢を預けていただければ先陣を切って戦うと啖呵を切ったので、秀次はその忠勤の志に安心したが、それには及ばないと出頭を了承したとされる。『武家事紀』ではこれに加えて、秀次は自ら積極的に冤罪を晴らすとして伏見に向かったとされる。一方、宣教師達の所見をまとめた『日本西教史』では、この五名が五ヶ条の詰問状を示して謀反の疑いで秀次を弾劾したことになっていて、清洲城に蟄居するか伏見に来て弁明するかを命じたので、秀次は観念して慈悲を請うために伏見に向かったとされている。 他方、『川角太閤記』や『利家夜話』ではこれらとは異なり、秀吉によって使者を命じられた比丘尼の孝蔵主が秀次を騙して、侍医や小姓衆など僅かな供廻りだけを連れて伏見にくるように謀ったとされ、もともと秀吉には直談する意思はなく、おびき出すための謀略であったとされている。 秀次は伏見に到着したが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれた。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」とだけ告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣の姿となり、午後4時頃、伏見を出立した。 監視役として木下吉隆、羽田長門守(正親)、木食応其(木食興山)が同行した。その日は玉水に泊まったが、そこまでは二、三百騎の御供が従っていたので、石田三成から多すぎると指摘され、九日からは小姓衆十一名と東福寺の僧である虎岩玄隆(隆西堂)のみが付き従った。移動する途中で秀次左遷の御見舞いの飛脚が次々とやってきて賑わいを見せたので、駒井重勝および益田少将と連絡をとって見舞いを送らないように通達を出させた。この夜は興福寺中坊に泊まった。十日、高野山青巌寺に入り、この場所で秀次は隠棲の身となった。この出家の際に道意と号したとも言い、以降は豊臣の姓から豊禅閤と呼ばれることがある。
2023年08月23日
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十二月二十八日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった。関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執ったが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤秀吉が依然として統括的立場を保持して二元政治のようになった。 天正二十年(1592)一月二十九日、左大臣に補任された。二月には二回目の天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えた。これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている。 三月二十六日に淀殿を伴って名護屋城に出征した秀吉が唐入りに専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構の整備は進んでいったようである。朝尾直弘は「いったん譲ってしまうと、関白を中心とする国制機能は独自に発動され、太閤権力の制御の枠をこえる動きをみせようとした」と説明するが、『駒井日記』の四月七日の条によると、前田利家、前田利政、佐竹義宣、里見義康、村井貞勝、真田昌幸らの官位授与・昇叙に対して秀吉は秀次の同意を求めて、その上で上奏するように指示しており、制度上の関白・秀次の地位が、独自の権力を生む余地を生んだとされる。 秀吉の隠居地とされた伏見城月城の築城作業も、結局は秀次の管理下で行われた。五月十七日、従一位に叙せられた。八月の大政所の葬儀も、喪主は秀吉であったが、葬儀を取り仕切ったのは秀次であった。 十二月八日に元号が文禄に改元されるが、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制の統治権の移譲に関係した改元であったと考えられている。「秀頼誕生後」 ところが、継承が済んだ後になって、肥前国から戻った淀殿の懐妊が判明した。当初、平静を装っていた秀吉であったが、文禄二年(1593)八月三日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた八月十五日には名護屋城を発ち、二十五日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。 『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君様御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉公御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中ヲ表裏候由見ヘ候」とあり、この話の史実性にはやや疑問があるが、通説のように秀吉が関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。 山科言経の『言経卿記』によると、九月四日、秀吉は伏見城に来て、日本を五つに分け、そのうち四つを秀次に、残り一つを秀頼に譲ると申し渡したそうである。この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった。 ところが、『駒井日記』の十月一日の条によると、駒井重勝は、秀吉の祐筆の木下半介(吉隆)から聞いた話として、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と当時一歳の秀次の娘(後の露月院もしくは八百姫を婚約させるつもりであり、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせる考えで、秀次が湯治より帰ったらそう申し渡されると書いている。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れるが、このような重大な決定が不在中(帰還は十一月)に頭越しに決められては秀次の感情も変わっていったと思われる。 宮本義己は、典医・曲直瀬玄朔の診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は喘息の症状が強くなるなど、心身の調子が不安定であったと指摘。それは失われるものに対する恐怖心のなせるわざで、すなわち秀次の権力への執着心の強さを示していると主張した。 先の熱海温泉への湯治も秀次の喘息治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化したようだ。小林千草は、秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかと言う。 しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄三年(1594)二月八日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、九日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。十三日から二十日までは二人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、二十七日には一緒に吉野に花見に行っている。三月十八日には、滋養に利くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである。 秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷も多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。 四月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿が二歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年三月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。 またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する。 他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』によると、秀次は文禄二年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである。
2023年08月23日
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二十三、「秀次切腹事件」 長宗我部元親が降伏して四国平定が成ると、その後の評定によって大掛かりな国替え・加増が行われた。結果、秀次の本人分としては二十万石、宿老(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては二十三万石が与えられ、併せて三十四万石の大名とされた。領地は東西交流の要となる近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の五郡で、秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることとし、安土を見下ろして琵琶湖にも近い場所に、八幡山城を築いた。 縄張や築城工事の都督、作業工程まで具体的な指示が書状で示されているところを見ると、諸将の配置、場所の選定なども含めてすべて秀吉の指図であったと思われる。 八幡山城は後の事件で破却を命じられたために現存しないが、日牟禮八幡宮の上宮を移築して山頂の尾根に三層の天守閣が築かれた山城は、所謂、詰の城で、山麓の居館との二つに分かれていた。城下町の町人は主に安土から転居しており、計画的に造られた町並みは、八幡堀として現在もその姿を留めている。上下水道も整備され、地名に残る「背割」とはもともとは下水のために掘られた溝を指す。 秀次は、領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁き」の逸話などが語り継がれている。これは宿老の田中吉政の功績が大きいとも言われているが、まだ十七歳であったことを考慮すれば、輔佐を受けつつも徐々に家来衆を使いこなして順調な統治を進めたのであろう。悪政を敷いた代官を自ら成敗したり、名代を任せた実父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっている。また同年十月頃、秀次は従四位下右近衛権少将に叙任された。 天正十四年(1586)の春頃、秀次はさらに右近衛権中将に叙され、十一月二十五日、豊臣の本姓を秀吉から下賜され、同時に参議にも補任された。 天正十五年(1587)、九州征伐では、前田利家を輔佐として、秀吉の名代で京都留守居を命じられて、秀次は出陣しなかった。十一月二十二日に従三位に昇叙して権中納言に任ぜられた 天正十六年(1588)四月十四日に聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えた際、忠誠を誓う署判の序列では、徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)、豊臣秀次、宇喜多秀家、前田利家の順で署名したが、この時までに秀次の家臣内序列は四番目に上がっていた。四月十九日には従二位に昇叙。 天正十八年(1590)の小田原征伐には出陣し、秀長は病気であったために秀次が副将とされ、今度は徳川家康の指南を受けるように指示された。山中城攻撃では秀次が大将となって城を半日で陥落させ、守将・松田康長の首を取ったが、一方でその戦闘で家老の一柳直末を失っている。小田原城包囲では、秀次軍は荻窪口に陣取り、七月五日、北条氏の降伏まで在陣した。 小田原城開城が一段落した直後である七月十八日、秀次はそのまま奥州平定に出発して、八月六日には白河に到着。九日には黒川に至った。伊達政宗から没収して蒲生氏郷に与えられた三郡の内、会津郡の検地の監督を秀次は命じられていたが、秀吉が京都に帰還した後、葛西大崎一揆が起こった。 当初、氏郷が一揆は政宗が扇動したものであると秀吉に報告したため、秀次と家康に出陣が命じられたが、後に誤報として処理されて、一旦取り消しとなった。しかし天正十九年(1591)二月には九戸政実の乱が起きて、鎮圧に手こずった南部信直より援軍要請を受けた秀吉は、葛西大崎一揆の裁定と九戸征伐の両方を進めるために、改めて諸将に出陣を号令した。伊達政宗、蒲生氏郷、佐竹義宣・宇都宮国綱、上杉景勝、徳川家康、そして秀次の六番の隊が出征し、総大将は秀次が務めた。 このように秀次は奥州にいて不在であったが、小田原攻めの論功行賞で、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易されたので、信雄領であった尾張国・伊勢国北部五郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて百万石の大大名とされた。これに伴って、秀次は居城を清洲城に移した。年寄衆の所領も東海道に転封された。 同じ天正十九年の一月二十二日に秀長が、八月五日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去した。通説ではこの年の十一月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前に養子とされていたという説もある。 しかしこの頃に秀吉は関白職を辞して、唐入り(征明遠征)に専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せると言い出しており、後継者にすることが決まったことは、ほぼ確実のようである。関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ、十一月二十八日には権大納言に任ぜられ、十二月四日には内大臣に任ぜられた。 十二月二十日、『本願寺文書』および『南部晋氏所蔵文書』によると、秀吉は五ヶ条の訓戒状を秀次に出している。【前四条は天下人としての一般的な心得を述べたものだが、最後の条で「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」と個人的な行いについて特に“自分のように振る舞うな”と戒めて、神明に誓わせた。】
2023年08月23日
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「慶長の役」自分の要求がまったく無視されたことを怒った秀吉は、翌1597年ふたたび兵を朝鮮に出し、第二次侵略(慶長の役)を起こした。第二次侵略の目的は征明でなく、朝鮮南四道の実力奪取にあった。それゆえ、残虐行為も惨を極め、朝鮮民衆の虐殺、鼻切り、捕虜の日本強制連行などが行われた。しかし、明・朝鮮側の抵抗も強く、朝鮮南部に侵入した日本軍はほとんど海岸線に釘(くぎ)づけとなった。このときの戦いとしては、南原城(なんげんじょう)の戦い、蔚山(うるさん)の籠城(ろうじょう)、泗川(しせん)の戦い、順天(じゅんてん)の戦い、露梁津(ろりょうしん)の海戦などが知られている。その間、1598年八月秀吉の死去により、日本軍は朝鮮からの撤退を始めるようになり、同年十一月、島津勢の撤退を最後に、七年間にわたる戦争は終わった。 ※文禄・慶長の役の総論文禄一年~二年(1592~1593)と慶長2年―3年(1597~1598)の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争。朝鮮役とも。秀吉は朝鮮に入貢を求め,さらに征明(みん)の案内を命じたが拒否されたため,1592年小西行長・加藤清正・小早川隆景ら十五万余の大軍を渡海させ,漢城(ソウル)を落とし北上し明の援軍を碧蹄館に破ったが,沈惟敬(しんいけい)との和議交渉で撤兵。1597年講和交渉が決裂し再度出兵。しかし遠征軍は朝鮮勇軍と明の援軍のため苦戦し,水軍も敗退を重ね,秀吉の死により1598年停戦協定を結び帰還。日本にとって、七年も成果の上がらない、国民は疲弊し、秀吉のアジアへの覇権だけが拡大し苦しい、地獄のような戦いであった。 秀吉の描いた東南アジアの覇者になる為の国運を掛けるに値しない無意味な太閤秀吉の道楽の戦争であった。この戦いの為に、戦国を生き抜いた大名は疲弊し、気力も財力も疲弊し、豊臣政権の弱体化を招き、豊臣家の衰退と消滅を速めたと言えよう。 朝鮮半島での戦いは、当初破竹の勢いで進んでいったが、朝鮮では当初より日本と戦争を好んでおらず、明への使者として、交渉者の役割に、中国に従属していた朝鮮は統制も戦意もなかった。水軍での戦いで明の介入もあってやや持ち直したが、日本側も朝鮮側も決定打を欠いた曖昧な戦況に陥った。戦況報告がどれだけ真実味があるか不明だが、朝鮮半島まで兵士を進めた日本軍の検討は見受けられる。
2023年08月23日
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*日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する*日本軍は釜山まで後退*明軍は開城まで後退*明から日本に使節を派遣する 明側では宋応昌・沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装して日本に派遣することにした。一方、日本の秀吉には、この勅使は「侘び言」を伝える者だと報告されていた。 この講和交渉は日本と明との間で行われ、朝鮮は交渉の場から外された。朝鮮側は国王以下一貫して講和に反対していたが、明軍は朝鮮の立場を一切無視して日本側との交渉を始めた。 朝鮮政府は交渉に口を挟む権利がなく、ただ明にすがっているだけだった。李如松は表向きは朝鮮側の意向を体して日本軍征討を約束するが、実際には朝鮮軍に日本軍への攻撃を停止させる命令を出すというありさまであった。。 四月十八日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子(臨海君、順和君)とともに釜山まで後退した。 朝鮮側は李如松に日本軍を追撃するよう嘆願したが、李如松はこれを無視し、日本軍を攻撃することはなかった。 五月一日、秀吉は大友義統・島津忠辰・波多親を改易処分にする。表向きの理由は戦闘中の失態ではあるが、現実には秀吉が掲げた「征明」方針の挫折が講和交渉によって明白になった以上、誰かに責任を負わせる必要があったのである。 五月八日、小西行長と石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行は明勅使と共に日本へ出発。 五月十五日、明勅使は名護屋で秀吉と会見。秀吉は以下の7つの条件を提示した。*明の皇女を天皇の妃として送ること*勘合貿易を復活させること*日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと*朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること*朝鮮王子および家老を一、二名、日本に人質として差し出すこと*捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること*朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言。六月二十八日に小西行長の家臣内藤如安を答礼使として北京へ派遣することとした。七月中旬、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡された。一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の降伏を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄三年)の十二月に北京に到着した。 「第二次晋州城の戦いと戦線膠着」 一方、この頃、秀吉も朝鮮南部の支配確保は必須として、晋州城攻略を命じる。戦闘要員四千三百四十九人の陣容であった、近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊が存在した。当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画であった。 日本軍は六月二十一日から29日に掛けわずか八日(戦闘開始から三日)で攻略する(第二次晋州城合戦)。陥落した晋州城では、指揮官の倡義使・金千鎰、その子・金象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死し、軍民二万人が全滅した(朝鮮史では死者六万人とされる)。六月には明軍も南下しており、李氏朝鮮軍は救援を要請したが「城を空にして、戦いを避けるのが良策」との返答を得た。 日本軍の晋州城包囲中、明軍は一時前進したが、日本軍の勢力が強大だと聞くと、恐れて晋州城を救援しようとはせず、早々と撤退した。日本軍は晋州城を攻略するとさらに全羅道を窺い各地の城を攻略、明軍が進出すると戦線は膠着し休戦期に入った。 日本軍は全羅南道において、七月五日には求礼、七日には谷城まで進出し、明軍及び朝鮮軍を撃破した。しかし、南原の守りが堅いと見ると九日には晋州城へ撤退した。以後、日本軍は恒久的な支配と在陣のために朝鮮半島南部の各地に拠点となる城の築城を開始し、築城が始まると防衛力の弱い晋州城は無用とされ破却された 秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたためである。 結局、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。 文禄六年(1596)九月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。なお、沈惟敬は帰国後、明政府によって処刑される。地震と改元 ただし、清正が地震の二日後に出した書状では清正は伏見邸の未完成により自分が無事だったと記しており伏見にはいなかったことが判明しており、地震加藤の逸話は史実ではなかったとみられる。 また、同じ時期に他の武将にも帰国の動きがあったことから、清正の帰国は和平の進展と明使節の来日に対応したもので、謹慎処分によるものではなかった可能性が高い。
2023年08月23日
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「日本軍・明軍休戦」八月二十九日、沈惟敬と小西行長との間で五十日間の休戦が約束された。李氏朝鮮はこの休戦に反対したが、宗主国である明に押し切られた。他方、明の李如松はこの期間中に日本軍の殲滅作戦を進めている。「碧蹄館の戦い」名将軍として誉れ高い李如松の軍は総兵力四万三千人で、李家の子飼の私兵によって構成されており、精鋭無比の軍として知られていた文禄元年一二月二三日、鴨緑江を渡って朝鮮に入り、平壌に向かった。翌文禄二年(1593)正月、李将軍は、使いを平壌郊外の順安に派遣し、明朝廷が講和を許し、使者がやがて到着することを小西軍に伝えた。これに喜んだ小西は三日、竹内吉兵衛ら使者二十名を順安に派遣するが、この講和そのものが罠だった。竹内らは途上で伏兵によって生け捕りにされる。一部が突破に成功し小西に伝える。当時、平壌城には、小西ほか宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄ら配下の一万五千の兵がいた。1月6日より戦闘が開始された(第三次平壌城の戦い)。明軍には朝鮮軍八千人が加わり、明・朝鮮軍は合計五万一千人余りとなっていた(明軍四万三千、朝鮮軍八千)。明軍は仏狼機(フランキ)砲、大将軍砲、霹靂砲などの火器の攻撃によって平壌城の外郭守備は破られ、小西軍は内城に籠った。しかし、日本軍の鉄砲火器が予想外の装備であったため、李将軍は無理攻めによる自軍の犠牲を考慮し、包囲の一部を解いて、小西軍の退却を促し、追撃戦とすることにした。 一月七日夜、小西軍は脱出した。翌日、明軍は精騎三千人で追撃を開始、日本軍は三百六十余が討たれた(異説あり)。第三次平壌城の戦いでの日本側の死者は合計一千五百六十人あまりという。また、朝鮮王朝実録によれば、第三次平壌城の戦いで明軍が得た一千二百八十五の首級の内、半分が朝鮮人の民の者であり、戦闘中に焼死したり溺死した一万人も皆朝鮮の民だったという。 小西軍の撤退時、黄州にいた大友義統は明軍襲来に際し、小西軍の収容もせずに退却するという失態を演じた(後改易)。小西軍は落胆したが、さらに退却を続け、龍泉山城に在陣する黒田長政に迎えられた。会議では、ひとまず開城まで撤退し、漢城に集結することとした。漢城では石田三成らは篭城戦を、小早川隆景ら六番隊は前進迎撃戦争を唱えた。兵糧不足のため、大勢が迎撃戦を選んだ。 「一月十八日、明軍、開城入城。」一月二十五日、明軍と日本の斥候軍が接触。翌二十六日未明、立花宗茂隊二千兵が進軍開始した。午前六時より十一時までの激戦を経て、通報を受けた宇喜多秀家が指揮する日本軍四万が漢城郊外の碧蹄館で迎撃、一大決戦となり日本軍が勝利した(碧蹄館の戦い)。 この戦いで明軍は大きな損失をだし(戦死者六千人)、総司令官・李如松は危うく討ち死に寸前まで追い込まれたが、平壌まで退却した。この戦いの敗北によって李如松は戦意を喪失して明軍の勢いはそがれ、武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉へと転換する。 二月十二日、幸州の戦い。朝鮮軍は1日目の攻撃を撃退したものの、権慄は日本軍の攻撃を危惧して城を放棄し、坡州まで退却した。懲毖録によれば、権慄はこの戦闘後、日本兵の死体を集め、「肢体を裂いて林の木のあちこちに掛けさせ、その憤りをはらした」という。「加藤清正の漢城帰還」 その一方、九月中旬、二番隊の加藤清正は安辺まで、鍋島直茂は咸興まで戻り、吉州から安辺までの間の城々に兵を置き、清正・鍋島直茂・相良頼房らは今後の咸鏡道の統治方針を協議していた。 清正らはこの時点で他の方面軍の作戦が順調に進んでいないことを知ったようである。特に明への侵攻路である平安道を任された小西行長に対する不満は強く、九月二十日に織田信雄や木下吉継に対して宛てられた書状でも憤りを表明している。それまで隣国でもあり、対立を避けてきた加藤清正と小西行長の確執の萌芽がみられる。 十月になると、吉州などで日本軍に対する反乱が起き始めたが、他の方面での戦況の悪化や雪が降り出したために討伐に向かうことが困難な情勢であった。支配領域を縮小しつつあったものの、清正は咸鏡道の平定に自信を見せていたが、平壌での一番隊の敗走の報を聞いた漢城の奉行衆であった石田三成・大谷吉継・増田長盛は二番隊に咸鏡道からの撤退を厳命、やむなく加藤清正らは漢城への撤退を受け入れ、二月二十九日に朝鮮王子二名(臨海君、順和君)を連れた加藤清正が安辺から漢城に帰還し、鍋島直茂は咸興から漢城に帰還した。清正は王子を日本へ連行して秀吉に謁見させる意図を有していたが、日本の秀吉およびその周辺では講和交渉の進展とともに日本には連行せずに朝鮮側に返す方針が固まり、四月下旬には清正に対して尚州防衛に専念させるために王子を伊達政宗に引き渡すことを命じたのであった。「日本・明講和交渉」 碧蹄館の戦いの後、後退した明軍が開城に入りしばらくすると、軍糧が尽きた。朝鮮側は明軍のために各地で食料をかき集めたが足らず、情勢は緊迫していた。 明軍の李如松提督の部下の諸将が、軍糧が尽きたことを理由として、軍を撤退させることを提督に要請した。 提督は軍糧を用意できない朝鮮朝廷に怒り、柳成龍ら朝鮮朝廷の要人を呼び出し庭に跪かせ、大声で叱責し処罰しようとし、柳成龍は涙を流し謝罪した。戦乱により朝鮮の国土は荒れ民衆は飢えていたが、朝鮮朝廷は集めた食料の殆どを明軍の軍糧として提供した。 文禄二年(1593)三月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣、小西・加藤の三者で会談を行い、四月に次の条件で合意した。
2023年08月23日
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「朝鮮水軍の動向」 五月七日、海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍九十一隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった五十隻の日本輸送船団は昼夜戦で十五艘が撃破される(玉浦の戦い)。 五月八日、朝鮮水軍は赤珍浦にいる日本輸送船13隻を攻撃、日本船十一隻は撃破される。 五月二十九日、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本輸送船団を攻撃。泗川海戦。 六月二日、唐浦の海戦。 六月五日、第一次唐項浦海戦。 六月七日、栗浦海戦。 七月七日、海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務に当たっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。しかし、脇坂安治の抜け駆けが主な原因となり一千五百人の日本水軍が敗北する(閑山島海戦)。 長年の倭寇対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であった。七月七日の閑山島海戦で日本水軍が敗北すると日本軍は海戦の不利を悟って、出撃戦術から水陸共同防御戦術へ方針を変更した。 当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備え付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備えて、水陸併進して活動するようになった。 この方針転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山浦攻撃、熊川攻撃など、朝鮮水軍は被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、朝鮮水軍の出撃回数は激減した。 日本軍は巨済島にも城郭を建設し、そこに豊臣秀勝の軍勢を置き、日本水軍との連携を深めさせた。当時の船は航海力も未熟で、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能した。 中でも釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以来、日本の肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。 朝鮮水軍の李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。」として、九月一日、朝鮮水軍は総力を挙げ釜山奪回を目指したが、日本軍に撃退され、朝鮮水軍は鹿島万戸・鄭運が戦死するなど損害を多く出して撤退した(釜山浦海戦)。 これまで連続的に出撃を繰り返してきた朝鮮水軍は、この戦いを境に目立った活動を停止する。ようやく活動を再開するのは翌年二月の熊川への攻撃である。李舜臣が釜山前洋に現れたのはこの時が最初で最後となった。これにより釜山は日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。「明軍参戦」 七月十六日、明軍が到着し、明軍副総裁・祖承訓率いる遼東の明軍五千兵が平壌を急襲したが、これを一番隊の小西行長らが大いに破った(第一次平壌城の戦い)。 明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなった。他方、明朝廷は祖承訓の七月十六日の平壌戦の敗北という事態に、沈惟敬を代表に立て、日本軍に講和を提案。以降、日本と明との間に交渉が持たれることになる。 七月二十九日、朝鮮の将金命元(都元帥)率いる朝鮮軍一万人あまりが平壌を攻撃したが、これを一番隊の小西行長らが大いに破り、朝鮮軍は多くの損害を出し撤退した(第二次平壌城の戦い)。「オランカイ侵攻」 七月下旬から八月中旬までの期間、加藤清正は、「オランカイ(女真族)」の戦力を試すために、豆満江を渡って満州に入り、近在の女真族の城を攻撃した。 現在の局子街付近であるという。それまで女真は度々国境を越えて朝鮮を襲撃していたため、咸鏡道の朝鮮人三千人もこれに(加藤清正の軍勢八千人に)加わった。まもなく連合軍は城を陥落させ、国境付近に宿営したが、日本軍は女真からの報復攻撃に悩まされた。依然優位には立っていたものの、撤退した。二番隊は東へ向かい、鍾城、穏城、慶源、慶興を占領し、最後に豆満江の河口のソスポに達した。この後、清正は秀吉に「オランカイから明に入るのは無理である」と秀吉に報告しており、ただ戦っただけではなく、明への進攻ルートを探す目的があったと思われる。 この女真侵攻を受けて、女真族の長ヌルハチは明と朝鮮に支援を申し出た。しかしながら、両国ともこの申し出を断った。特に朝鮮は北方の「野蛮人」の助けを借りるのは不名誉なことだと考えたといわれている。「日本軍の軍評定」 明軍の参戦を受け、朝鮮奉行である石田三成・増田長盛・大谷吉継、ならびに秀吉の上使・黒田孝高らは、漢城に諸将を呼び、軍評定を開いた。 この評定で「今年中の唐入りの延期」「秀吉の朝鮮入りの中止」、この二つを秀吉に進言することが決まった。 黒田孝高は、漢城から北へ一日以内の距離に砦を築き、漢城の守備に力を注ぐことを提案。しかし、小西行長は明軍の救援などありえないと主張し、平壌に戻ってしまった。 なお、加藤清正はオランカイに行っていたため、この評定に参加できなかった。後に石田三成らは清正を訴えた際、理由の一つとしてこの件を挙げている 。一方、清正からすれば咸鏡道派遣の際に最も危惧して八道国割に反対の理由としてきた事態(緊急の合流に間に合わない事態)が起きたことに反発し、三成との関係が悪化するきっかけになった。 八月二十二日、延安の戦い。 八月二十九日、長林浦海戦。
2023年08月23日
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六月、鉄嶺の戦い。毛利吉成らの日本軍が、李渾率いる朝鮮軍一千を鉄嶺で撃破する。 六月、平昌の戦い。毛利吉成は平昌郡守権斗文に降伏の使者を送ったが、権斗文の部下が使者を切り殺し、権斗文らは山中に逃亡した。毛利吉成は激怒し、秋月種長に彼らを攻めさせた。八月、秋月の兵は逃れた朝鮮軍を掃討し、使者を斬った者を殺し、権斗文を捕虜とし引き揚げた。 七月、麻田の戦い及び漣川城の戦い。鉄原に陣を張っていた伊東祐兵率いる日本軍が、麻田に集結していた義兵を攻撃して数百人を討ち取った。敗残兵が漣川城に入ったことを知り、伊東祐兵が漣川城を攻め落城させた。 八月、延安城の戦い。この頃、三番隊の黒田長政は黄海道をほぼ平定していた。しかし、李廷馣が義兵を集め、延安城で軍民二千五百人で籠城を始めた。長政は三千の兵で城を攻めたが、城は落ちそうになく、日本軍は兵を引き揚げて去った。 八月、小川の戦い。柳宗介らが率いる朝鮮軍が毛利吉成らの日本軍を迎え撃つべく伏兵を敷いた。しかし、日本軍はこれを察知し朝鮮軍に奇襲、朝鮮軍は破れ柳宗介も戦死した。 十月十九日、胡寧の戦い。京畿道巡察使の沈岱は漢城奪回を狙い、胡寧城で兵を集めていた。十九日、伊東祐兵が襲撃し、胡寧城は落城し沈岱は殺された。 十月、春川の戦い。江原道の助防将元豪がまたも兵を募り、数千人を集め、原州の朴渾と共に春川城を攻めた。春川城を守る島津豊久率いる兵五百人が門を開き出撃すると朝鮮軍は混乱、日本軍は奮闘し朝鮮軍を撃退、朴渾は戦死し、元豪は逃亡した。 十二月、金化の戦い。島津義弘が金化に陣を移すと、またも元豪が数百の兵を率いやって来た。義弘の子の久保がこれを攻撃し元豪らを討ち取り、首をさらした。これにより江原道方面は平穏となった。 九月十五日、鏡城の戦い。 十月十六日、咸興の戦い。 十一月十五日、吉州長坪の戦い。「五番隊」 一月、竹山の戦い。辺以中率いる朝鮮軍が福島勢の守る竹山城を攻めるが、福島勢が逆襲し朝鮮軍は大敗した。「全羅道と六番隊」小早川隆景率いる六番隊が、全羅道制圧の任に当たることとなり、六番隊はすでに三番隊が通過していた日本軍の移動ルートを通って尚州へ行軍し、忠清道の錦山に達した。小早川隆景は、ここを守備して全羅道での作戦の出撃基地とすることにした。 七月五日、九〜十日。第一次錦山の戦い。高敬命らの朝鮮義兵七千が小早川隆景、立花宗茂ら六番隊の根拠地錦山を攻撃するが逆襲を受け壊滅、高敬命は戦死した。 七月七日、熊峠の戦い。小早川隆景ら六番隊は熊峙で鄭湛(金堤郡守)率いる数千の朝鮮軍を撃破。鄭湛は戦死した。またこれと並行して六番隊の一部部隊二千人が梨峙に向かったが、権慄らに撃退された(梨峙の戦い)。 七月三十日、清州の戦い。この頃、日本軍の一部部隊が清州に向かって進撃していたが、防禦使李沃の朝鮮軍は逃走し、日本軍が清州城を占領した。朝鮮の義兵趙憲と霊圭は二千六百の兵を集め、七月三十日、清州城を攻めたが、日本軍に撃退され、趙憲ら朝鮮軍は後退して城の西の高地に陣を布いた。この夜、日本軍は多数の敵を警戒して、その夜密かに城を出て退却した。翌日、趙憲らは城に入った。 八月九日、梁丹山の戦い。立花宗茂が南平県監韓楯五百兵を撃退。 八月十五日〜十八日、第二次錦山の戦い。趙憲・霊圭らの義兵一千三百錦山を攻撃するも逆襲を受け敗退、趙憲・霊圭は戦死した。六番隊は、龍仁の戦いから退却した五万の兵を加えた各地からの敗残兵十五万を擁して全羅道の守りを固めた権慄によって攻略を阻まれ、錦山において李朝軍を破るが、南下する明軍の攻撃に対応するため、七月中旬には主将の隆景が漢城へ向かった、その際に李朝軍は夜襲を掛けたが察知していた六番隊に準備万端で迎え撃たれ大敗を喫した。9月中旬には残っていた立花宗茂らも漢城へ向かった。「慶尚道と七番隊」 六月五日 茂渓の戦い。前僉使で武勇の人と言われる孫仁甲率いる朝鮮軍が毛利勢の村上景親が守る茂渓の砦を攻めたが、日本軍が奮戦して撃退し、さらに追撃し数百人を倒した。 六月五日 醴泉の戦い。毛利の武将吉川広家の兵が、醴泉に集まった朝鮮義兵数千を攻撃し撃退した。このころ、安国寺恵瓊らの一千五百の日本軍が咸安方面から宜寧に入ろうとしていたが、郭再祐は鼎津に兵を置いて渡河を阻んだ。日本軍は渡ることができず引き揚げた(鼎津の戦い)。 五月、亀井茲矩の軍は泗川付近に上陸し、泗川城を攻略し、さらに昆陽城と河東城を攻略した。朝鮮軍の金時敏は、一千の兵で泗川城に近づいたが、日本軍の守備が厳重なのを見て、攻撃を止めた。その後、亀井茲矩の軍は日本軍上層部の命令で機張城に移った。朝鮮の官僚の金誠一は、日本軍の撤退を金時敏の功績として朝鮮朝廷に報告したので、朝鮮国王は金時敏を晋州牧使に任じた。 十一月 機張城の戦い。数千の朝鮮軍義兵が機張城に攻め寄せたが、日本軍はこれを撃退し、八百の首を得た。 八月七日 善山・仁同の戦い。細川忠興・長谷川秀一・木村重茲らが率いる一万二千日本軍が、善山に立て篭もっていた朝鮮軍義兵を掃討した。その後、南条元清と合流して、仁同の朝鮮軍義兵の根拠地を撃破した。 八月二十日 第一次星州城の戦い。朝鮮軍数千人が毛利勢の依る星州城をとり囲む。開寧で報告を受けた毛利輝元はすぐに援軍を送り、朝鮮軍は側背を衝かれて撤退した。 九月十日 第二次星州城の戦い。兵を集めた一万五千の朝鮮軍が再び毛利勢の依る星州城に迫り、毛利輝元の武将らが救援に駆けつけた。毛利の武将は金泉駅で朝鮮軍を破った。さらに日本軍は知礼城を攻め落して帰還した(知礼城の戦い)。 九月二十三-二十六日、昌原の戦い。細川忠興・長谷川秀一・木村重茲ら二万の日本軍が金海から晋州城に向かう途中、昌原城から出撃して露峴で迎撃にあたった慶尚右兵使・柳崇仁ら数千の朝鮮軍を撃破し、三日後には昌原城を攻め落して一千四百人を討ち取った。柳崇仁は逃走し咸安を守ったが、十月一日、日本軍はこれも攻略し、柳崇仁は晋州方面へ逃げ延びた。 敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使・金時敏は日本軍の突入を怖れて城門を開くことを拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。 十月六-十日、晋州城の戦い(第一次晋州城攻防戦)。日本軍は、釜山西方の制圧を画策して、晋州城の攻略を図る(細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)が、朝鮮軍が防衛に成功した。朝鮮軍指揮官金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負い、攻防戦の後に傷の悪化によって死亡した。 十二月七-十四日、第三次星州城の戦い。金沔率いる五千の朝鮮軍が星州城を包囲するが、日本軍に撃退される。
2023年08月23日
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「大同江の戦い」 七月二十四日(西暦)、一番隊と三番隊はすでに放棄されていた平壌へ入った。朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。十二月一日、中和の戦い。平壌の小西勢が、平壌近郊の中和の砦に立て篭もった林仲樑らの朝鮮軍を殲滅する。 「咸鏡道と二番隊」 二番隊・加藤清正らは六月一日に開城を出発すると、六月十七-十八日に安辺に到着し、そこから東海岸に沿って北へ進撃を開始した。この間に占領した城の一つが咸興である。ここで二番隊の一部は防衛と民政に当たることとなった。清正はさらに北上する意思を固めて安辺に留めていた鍋島直茂を咸興へ呼び寄せる。直茂はこれを受け七月一日に安辺を出発した。 七月十七日-十八日、二番隊の一部一万人はさらに北進を続け、七月十七日には韓克諴(咸鏡北道兵使)が率いる咸興道の北軍および南軍と、城津(現在の金策)にて戦った。朝鮮の騎兵部隊が騎射戦法により城津の平地で優位に立ち、日本軍は穀物倉庫を盾にしてこれを防いだ。 日本軍は倉庫にあった米俵を用いて障壁を作り、騎兵の突撃を火縄銃で撃退した。朝鮮軍が翌朝に再度の攻撃を掛けようと計画している間に、加藤清正は伏兵を潜ませて朝鮮軍を待ち受け、二番隊は沼地に面する部分を除いて完全に朝鮮軍を包囲し、撃破した(海汀倉の戦い)。敗北した朝鮮軍では元喜(富寧府使)らが戦死し、韓克諴は死傷者を捨て鏡城へ逃亡した。「海汀倉の戦い」 七月十七日には鍋島直茂が清正の留守を守るため咸興に入った。 逃げた朝鮮軍の兵士が他の守備隊に敗報を伝えたため、他の守備隊は日本軍を恐れるようになった。 そのことも手伝って日本軍は容易に吉州、明川、鏡城を占領した。七月二十三日、二番隊は会寧に入り、そこで加藤清正は、日本側に寝返った朝鮮の府使鞠景仁や地元住民によって既に捕らえられていた二人の王子(臨海君、順和君)、さらにその従臣である金貴栄、黄廷彧、黄赫(黄廷彧の子)、李瑛(会寧府使)、李銖(穏城府使)、李弘業(鏡城判官)、文夢軒(会寧府使)、柳永立(咸鏡道観察使)等二十余人を捕虜として受け取った。 李渾(咸鏡南道兵使)の首も地元住民から日本軍に送られた。海汀倉の戦いの朝鮮軍指揮官で敗北後に逃亡していた韓克諴(咸鏡北道兵使)も日本軍に捕らえられ、ここに咸鏡道は尽く平定された。 七月二十三日、朝鮮のニ王子を捕縛するために、九千の兵で北進していた加藤清正は、会寧で王子らを捕縛。 咸鏡道では、以前から、中央から派遣された官僚と地元民(朝鮮人+女真族)との間がうまくいっておらず、しばしば争いが起こっていた。咸鏡道はまた左遷地・流刑地でもあり、左遷人・流刑人たちは中央に不満を抱く地元民と結び付いた。さらに咸鏡道出身者は科挙に受かっても官職に就けないという差別があり、咸鏡道は李氏朝鮮に不満を抱く者たちの温床になっていた。加藤清正は咸鏡道を「日本にては八丈が嶋、硫黄が嶋などの様なる流罪人の配所」と報告している。 清正は咸鏡道北部の地質の悪さと物産の少なさを見て、長期間留まる土地ではないと判断し、明川とそれ以北からの撤退を決めた。九月、清正は安辺へ、鍋島直茂は咸興へ入った。吉州・海汀倉(金策)・端川・利原・北青・洪原に、それぞれ五百人から一千五百人の兵を置き、安辺には清正の兵三千余りを置いた。咸興・永興・徳原には鍋島直茂の兵一万二千を置いた。転戦の後、日本軍は内政に努めた。清正は、撤退後の土地を寝返ってきた朝鮮人に管理させるなど、一部地域に朝鮮人の自治を認めた。十一月、日本軍の吉州守備隊の一部が、租米を徴収するために城外に出ていた。これを知った朝鮮義兵鄭文孚率いる三千の兵が日本軍を攻撃、吉州守備隊は吉州城に撤退、朝鮮軍は吉州城を包囲した。 十一月十日、咸興の戦い。咸鏡道巡察使尹卓然は咸鏡南道で兵を募り、鍋島直茂本陣を攻撃しようと企て、独山のふもとに集結し陣を構えたが、鍋島勢が先手を打ってこれを襲撃し一千人を討ち取った。朝鮮軍の敗残兵は元平の山地に逃れ、再び兵を募り、一万五千人に膨れ上がったと豪語した。鍋島勢は出撃し再び朝鮮軍を破り営舎を焼き払った。その後、咸興付近では住民の蜂起は起こらなかった。 十二月、海汀倉(現在の金策)の日本軍守備隊四百が臨溟駅に向かったが、双浦で鄭文孚らの義兵が迎え討ち、吉州守備隊は海汀倉へ退いた。 文禄二年(1593)一月二十三日、端川の戦い。鄭文孚らが率いる朝鮮義兵が端川の日本軍守備隊を襲うが、援軍が到着した日本軍が鄭文孚ら朝鮮軍を撃破した。 文禄二年(1593)一月二十八日、白塔郊の戦い。文禄二年正月、吉州城の日本軍が南へ撤退を始めた。これを知った鄭文孚率いる朝鮮軍三千人余りが日本軍を攻撃したが、吉州の南方約8kmの白塔において日本軍が迎え討ち、朝鮮軍を撃退した。「江原道と四番隊」 毛利吉成が率いる四番隊は七月に漢城を出発して東へ向かい、朝鮮半島東岸の城を安辺から三陟まで占領した。 その後、四番隊は内陸へ向かい、旌善、寧越、平昌を占領し、江原道の都であった原州に駐留した。 ここで毛利吉成は民政を行い、日本に準じた身分制度を導入し、さらに国土調査を行った。四番隊の大将の一人である島津義弘は梅北一揆のために遅れて江原道へ到着した。島津勢が春川を占領して江原道での作戦は終了した。 六月、原州の戦い(鴒原山城の戦い)。江原道の助防将元豪が日本軍の小隊に攻撃を加えると、毛利吉成らが兵を向け、元豪は逃亡した。日本軍は原州に向けて出発したが、牧使金悌甲らは士卒四千人とともに鴒原山城にこもり阻止しようとした。城は四方が絶壁に囲まれ前方に道が一本あるのみという難攻の地であった。しかし、毛利吉成らは険しい崖をよじ登り攻略し、金悌甲らは戦死した。
2023年08月23日
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「臨津江の戦い」 五月十九日、一番隊・小西行長らが臨津江へ向け出発した。二十七日、一番隊と二番隊が合流し、臨津江の下流から渡河すると、この地を守備していた李薲らの朝鮮軍は遁走し、一矢も放たずに駆逐された。 臨津江の戦いでの敗北後、残兵を集めていた都元帥金命元と李陽元らも平壌へ逃走した。日本軍は開城を占領し、二番隊が金郊駅から右折して咸鏡道に向かい、一番隊と後続の三番隊が平壌に向けて追撃を続けた。「龍仁の戦い」 日本軍が漢城へ進撃している間、全羅道長官李洸(巡察使)は軍を首都へ派遣して日本軍を食い止めようとしたが、首都陥落との報に接し、退却した。 しかし、志願兵を集めたことにより軍隊は五万〜十万人に上っていたため、李洸と民兵の指導者たちは目標を漢城奪還と定め、漢城から42km南方の水原に軍を進めた。 六月四日、勇将として選ばれた白光彦(助防将)・李之詩(助防将)らが率いる、精兵として選ばれた数千九百人の朝鮮兵が龍仁の城を奪取しようと攻撃したが、脇坂安治家臣配下の守備隊六百人は、脇坂安治本軍の援軍が到着するまで朝鮮軍との交戦を避けた。 脇坂安治本軍一千人が到着すると、日本軍は反撃を開始し朝鮮軍を破り、十万人の朝鮮軍は崩壊し武器を捨てて退却した(龍仁の戦い)。 朝鮮軍では、白光彦、李之詩、その弟李之礼ら勇将が戦死し、李洸(全羅道巡察使)、尹国馨(忠清道巡察使)、金睟(慶尚道巡察使)、権慄(光州牧使)ら朝鮮軍指揮官らは各地へ逃走していった。この後、全羅道・忠清道の朝鮮軍は二度と動き出さなかった。 なお、六月一日付で朝鮮の陣から日本本国に充てられた発給者・宛所不詳ながら、内容から加藤清正によるものと推定可能な書状が残されており、発給者(清正)は明への進軍を急ぐべきとの考えから、(後述の八道国割を定めた)諸将の談合を「迷惑」と糾弾して、韃靼との境界(=咸鏡道)に派遣されることで渡海した秀吉が明の国境まで進軍した時に合流が間に合わないことを憂慮する内容となっている。 また、小西行長と協力して敵軍を撃退したことにも触れており、発給者が清正であるとすると、この段階で加藤清正と小西行長の確執はまだ存在しなかったことになり、ここまで触れてきた確執のエピソードについては疑問が呈されることになる。「八道国割]開城陥落後、日本の諸将は漢城にて軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた。*平安道へ一番隊小西行長他、*咸鏡道へ二番隊加藤清正他、*黄海道へ三番隊黒田長政他、*江原道へ四番隊毛利吉成他、*忠清道へ五番隊福島正則他、*全羅道へ六番隊小早川隆景他、*慶尚道へ七番隊毛利輝元、*京畿道へ八番隊宇喜多秀家。平安道と一番隊 「平壌の占領」 小西行長が率いる一番隊が北進し、黄海道の平山、瑞興、鳳山、黄州を占領し、さらに平安道に入って中和を占領した。 中和にて黒田長政率いる三番隊が一番隊と合流し、大同江の北岸にある平壌へ進軍した。三万人の日本軍に対して、尹斗寿(左議政)、李元翼(都巡察)、宋慎言(平安道巡察使)、金命元(都元帥)、李鎰(巡察使)、韓応寅(諸道都巡察使)らの率いる一万人の朝鮮軍が平壌を守備していた。 朝鮮軍の防戦準備によって、日本軍が使える船は全くなかった。日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請した。 六月十四日夜、朝鮮軍は密かに川を渡り日本軍宿営地を奇襲したが、他の日本軍部隊が駆け付けて朝鮮軍の背後から攻撃し、さらに河を渡りつつあった朝鮮側の援軍を撃破した(大同江の戦い)。ここで、残っていた朝鮮軍部隊は平壌へ退却したが、日本軍は朝鮮軍の追撃を停止して、朝鮮軍がどのように川を渡って帰るかを観察した。 翌日、昨晩に朝鮮軍が退却する様子を観察した結果に基づいて、日本軍は川の浅瀬を使って整然と部隊を対岸へ進め始めた。この状況を受けて、その夜に朝鮮軍は平壌を放棄した。 朝鮮軍指揮官の尹斗寿・金命元らも順安へ逃走した。 六月十五日、一番隊・小西行長らが平壌を制圧する。立札を立て民を安心させ、その一方で城内の兵糧数十余万石を押収した。
2023年08月23日
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「豊太閤三国処置太早計」【加賀藩第四代藩主の前田綱紀が残した文書の中に『豊太閤三国処置太計と彼が表題したものがある。これは天正二十年(1592)五月十八日付の関白豊臣秀次宛の朱印状で、二十五箇条からなる覚書であった。 ほとんどの条項は、来年(1593)の正月か二月頃には出陣することになるとした秀次への、非常に細々とした指図が書かれていたが、中には驚くような計画が披露されていて、明国を征服したら秀次を大唐関白の職に任ずるとか、大唐都(北京)に遷都して明後年(二年後)には後陽成天皇がその地に行幸できるようにするとか、天皇に北京周辺の十カ国を進呈して(同行する)諸公家衆にも知行を与えること、天皇が北京に移った後の日本の天皇としては若宮(良仁親王)か八条宮(弟の智仁親王)のいずれでも良いから即位してもらうことなどが書かれてあった。】 人事構想に関しては、八月までに羽柴秀俊(丹波中納言)も出征させるとして、彼は朝鮮に配置するか名護屋の留守居役とするとし、朝鮮の補佐役は宮部継潤。日本関白の職には、羽柴秀保(大和中納言)か羽柴秀家(備前宰相)のどちらかを任ずるとか、朝鮮を羽柴秀勝(岐阜宰相)か備前宰相に任せるならば、丹波中納言は九州に置くことにするなどとも書いていた。 前田綱紀が「早計(=早まった考え)」と題したのは、彼が後世の人物で、このようなことは実現するはずもなかったことを知っていたからに他ならない。この文書は、具体的かつ仔細な指示と、空想に近い漠然とした指示が混在しているのが特徴である。 この書簡が書かれた前日に名護屋城では戦勝を祝う大祝宴があったので、徳富蘇峰などは秀吉はまだ酔いが醒めていなかったのではないかと指摘したほどである。 「組屋文書」【組屋文書とは、若狭国小浜町の組屋氏宅に所蔵されていた文書で、元は屏風の下張であったものを、江戸時代の国学者伴信友が発見して著書『中外経緯伝』に載せたことから世に知られるようになった。 仮名文字で書かれたこの文書は、名護屋陣中にいた秀吉の右筆山中長俊が、大坂城にいた女中(東殿局と客人局)に宛てた五月十八日付の手紙で、先の豊太閤三国処置の裏付となっただけでなく、補完するような内容であったため、両文書はしばしば同一のものと混同される。 この文書にも驚くべき内容がいくつかあり、秀吉は当月(五月)中に渡海して朝鮮に向かう意向で、少なくとも年内(1592)には北京に入城するつもりであったと明記されているほか、北京に拠点を築いた後は誰かに任せて自らは寧波に居を構えるとあり、これは豊太閤三国処置の内容と合わせて考えれば、北京に天皇と秀次を置いて京都のようにし、自らは交通の要衝である(と当時の日本人は考えていた)寧波を根拠地として大坂のようにしようと考えていたと思われる。また(小西行長や加藤清正といった)先駆衆は天竺(インドの意味)に近い所領を与えて、天竺の領土に切り取り自由の許可を与えるつもりであるとも書かれていた。天竺に関する言及は豊太閤三国処置にはない。】 二文書から明らかなる外征計画について、安国寺恵瓊のような楽観的な賛同者がいた反面、(星州で恵瓊から十一カ所もの秀吉用宿泊施設の普請命令を伝達された)毛利輝元などは一貫した悲観論者であった。 前述の組屋文書にも、毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘、大友吉統らは、国替えして朝鮮で十倍二十倍の知行増を約束されたが迷惑がったと書かれていて、輝元は十倍もの加増があれば現在の領地の統治も覚束なくなると辞退したとする内容があったが、異国の所領に魅力を感じた大名はむしろ少数だったようである。 輝元は身内の宍戸覚隆に宛てた五月二十六日付星州からの手紙ではさらに具体的に書いていて、朝鮮は弱いが土地が広く言葉も通じず統治するには困難だと指摘し、意思の疎通に一々通訳がいる煩わしさは格別であるとした。 また十万人の朝鮮兵は五十人の日本兵で打ち崩せるほど弱く、中国兵は朝鮮兵よりももっと弱いと聞いているが、中国の土地は朝鮮よりももっと広大であるので明の統治はより困難であろうとし、敵は日本軍が来るとすぐ山に逃げるが、少人数で通行していると弓で狙撃して襲ってくるとなど困難な相手で、城も国内に無数にあると長期化する恐れも示唆していた。 侵入した日本軍が現地の兵糧を奪って食を賄っていることで、朝鮮人の間で飢餓が広がりつつあることも指摘した部分もあったが、これは後に起こる農民反乱の原因ともなった。 さらに朝鮮の都は蠅が異常に多く、水はけも悪いうえに、やたらと牛が多く、衛生環境が劣悪である様子も書いており、自身も健康を害していると綴っていた。これらの点は、後から考えれば、すべて遠征が失敗した原因であり、当初より予想されていたことであったと言えるかもしれない。「進撃の再開」 朝鮮側は、漢城の少し北を流れる臨津江を次なる防衛線とするため、臨津江南岸の一帯を焼き払って、日本軍が渡河の資材を得られないようにした。 そして都元帥金命元将軍は川沿いに一万二千人の兵を五箇所に分けて配置した。 五月十八日、都元帥金命元率いる一万三千の朝鮮軍は開城を防衛すべく臨津江に防衛線を張るが、二番隊・加藤清正らが臨津江の戦いで朝鮮軍を撃破した。 朝鮮軍では、申硈(防禦使)、劉克良(助防将)、洪鳳祥(督軍官)ら諸将が戦死した。なお、戦いの前に小西行長が朝鮮側に書簡を送り、交渉を開始しようとしたが拒否されている(この後、六月一日と六月十一日にも書状を送っているが、いずれも拒否された)。 朝鮮国王は勝利を信じて楽観していたが、金命元の敗報を接して、一転して色を失った。国王は第四王子信城君と第五王子定遠君を寧辺へと先に避難させ、平壌の防備を厳重にさせた。
2023年08月23日
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「梅北一揆」 五番隊は四番隊に続いたとされ、道程や期日などはよく分からないが、五月中旬には忠清道と慶尚道の境に展開して、福島正則は竹山に、蜂須賀家政は忠州に、長宗我部元親は開慶に陣を布いた。 六番隊は釜山と東莱の近辺にいて集結中であったが、しばらく後、五月十日になって玄風に進んで、慶尚右道に展開した。 十八日に毛利輝元は星州に、小早川隆景は善山に、立花統虎・高橋統増・筑紫広門は金山に配置された。毛利輝元は六月十二日になって開寧に陣を進めた。こうして六番隊と五番隊は連携して前述の日本軍連絡線の守備に就いた。この段階では日本軍の配置は釜山から漢城府の街道上に集中していた。八番隊と九番隊の詳細は分かっていない。「朝鮮水軍との遭遇」 日本水軍は釜山上陸の際、積極論の加藤嘉明と慎重論の脇坂安治とで仲違いして、巨済島の元均の艦隊を取り逃がしたが、結果的には前述のように慶尚道水軍は勝手に自滅したためことなきを得た。九鬼嘉隆、加藤嘉明、藤堂高虎らは、四月下旬に陸に揚げた部隊が釜山を発して漢城府を目指していたあいだも、鎮海湾、巨済島、加徳島、蔚山湾で敵船を捜索して、特に抵抗を受けずに七十隻余を拿捕して、慶尚道沿岸の掃討を完了させた。 しかし、分限を墨守していた李舜臣と李億祺も、日本軍の破竹の進撃という状況もあってか、五月四日、ようやく慶尚道水域への進入を決断して迎撃を開始した。六日、元均も単船でこれに合流した。七日、この朝鮮水軍は加徳島に向かう途中、斥候の報告で巨済島の東側の玉浦に停泊する藤堂高虎らの水軍と輸送船団を発見し、南に転じてこれを攻撃した。 不意を突かれて日本側は十分に防戦できず、李舜臣・李億祺・元均の三将は朝鮮側でこの戦役初めての勝利を得た。また同日、帰途に合浦に向かっていた日本軍船に遭遇して攻撃。翌日も赤珍浦に停泊していた日本水軍と交戦して戦果を挙げ、そのまま麗水へと撤収していった。「玉浦海戦」 ただし、この戦勝の知らせは、逃避行の最中の朝鮮朝廷にはすぐには届かなかった。開城の宣祖は、漢城府が占領されたこともまだ知らなかったが、右承旨申磼を軍民の鎮撫に派遣したところ、すでに陥落していたことを知り、坡州から引き返して報告。朝鮮朝廷は狼狽し、五月四日夕方に慌てて出立した。 韓応寅を巡察使として扈衛軍(王宮警護)を率いらせ、夜に金郊駅に野宿し、五日、平山府、六日に安城、鳳山、七日に黄州、そして八日に平壌に到着し、平安道巡察使宋慎言に迎えられた。 出立の前に、金命元が漢江防衛を放棄した罪は寡兵のためであったと許され、引き続き臨津の固守が命じられた。京畿道、黄海道で徴した兵が与えられ、申硈を防禦使として遣わし、劉克良や李薲も後に領兵を率いて合流した。 また、李元翼は都巡察使に任命された。兪泓も都体察使として援兵に向かわせようという案もあったが、兵力が分散し過ぎるという異論があって向かわなかった。「朝鮮半島を席巻・秀吉の支配計画」 五月十六日、漢城府攻略と朝鮮国王逃亡の知らせを受けた秀吉は、同日付で、通事(通訳)を渡海させ、使者を派遣して(朝鮮国王が)叛逆して逃亡した理由を聞き、堪忍分を与えるので、諭示して連れ戻すようにと命じた。 そして、自らの渡海の準備を急がせている。先駈勢が一旦止まり、すぐに追撃しなかったのは、秀吉の指示や出陣を待っていたからであろう。朝鮮国王の逃亡は、漢城府で降伏を迫れると期待していた日本軍にとって残念なことであったが、遠征の目的はあくまでも明征服であり、準備段階の一つに過ぎなかった。特に動揺などはなく、むしろ秀吉は意気昂揚したようで、次なる計画を夢想したことが二つの文書から分かっている。
2023年08月22日
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「漢城府の占領」 四月二十九日、一方で日本軍も忠州より行軍を再開していた。しかし、朝出たときは晴れていた天候が悪化し、午後に朝鮮国王が遭遇したのと同じ大雨となって、行く手を遮った。 一番隊は雨によって道に迷い、結局、丸一日を浪費した。驪州に到着したのは五月一日だった。そこから驪江を渡ろうとするが、川は増水して馬では渡れず、北岸に江原道助防将元豪率いる数百名の小部隊が現れたことから、小西行長と宗義智は先発隊だけを船で渡らせ、両岸に滞陣して一夜を過ごした。翌日、元豪の部隊は戦わずに撤退したが、増水は依然続いていたので、行長らは先発隊だけを連れ、楊根を経由して龍津で漢江を渡って午後八時に漢城府に到達した。本隊の大部分はまだ驪州あり、渡河作業を続けた。 二番隊(脇坂安治隊も陸上部隊として同行)は、陰城、竹山、陽智、龍仁と別路を進み、五月日正午に漢江までたどり着いたが、大河を前にして船がなかった。 加藤清正は対岸まで泳いで船を奪ってくる者を募り、曾根孫六なる者が敵船を奪って帰還。これを使ってさらに敵船を奪い、渡河を実行した。 都元帥金命元は僅か千名を率いて漢江北岸の済月亭(京城府普光町)で待機していたが、日本軍の数を一望して戦意喪失。火砲を川に遺棄させ、自らは服を変えて遁走した。 申恪も山中に逃れ楊州へ逃げたので、指揮官が居なくなった軍は崩壊した。事従官沈友正が金命元に追いつき、号泣し馬にすがってこれを止めると、西行した国王を守るために臨津に向かうのだと言った。李陽元は漢江防衛の軍が霧散したと聞いて、都を放棄して楊州へ撤退した。このため守備兵はいなくなった。 五月二日、朝鮮の首都・漢城府は陥落した。これは開戦からわずか二十一日での出来事であった。午後八時、東大門の城門は堅く閉じられていたものの、小西行長らは城壁にあった小さな水門を壊して入り、内側から城門を開いて入城した。加藤清正は南大門から入城した。 秀吉への報告では「五月二日戌刻(午後八時)」とあるが、一番隊の記録である『西征日記』では二番隊の入城は「五月三日」で「辰刻(午前八時)」とされており、清正は先陣の手柄を得るために1日早めて報告したという説もあるが、早めたにしても同日同刻の到着に過ぎない。他方で太田牛一の『高麗陣日記』では、日付時間の記述はないものの、斥候より戻った木村又蔵が遠方の山に行長隊を見つけてまだ都には到着していないと報告、これを聞いた加藤清正は四、五人を連れて急ぎ馬を駆り、都一番乗りを果たしたので、太閤に注進したとされている。 漢城府は、一番隊が接近した段階で(前述の朝鮮乱民の放火により)煙を上げていた。日本軍が入城した頃には景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮はすでにほとんど焼け落ちていた。 『宣祖実録』によると、朝鮮の民衆は李朝を見限り、いわゆる叛民なって、日本軍に協力する者が続出したという。 また同じく朝鮮の史書『燃藜室記述』にも、日本軍が敵の伏兵を恐れて容易に城内に入れないでいると、宗廟宮闕を掠奪して家々を放火した朝鮮人の叛民が門を開けて、日本軍を迎えたと書かれている。 ルイス・フロイスも、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している。 日本軍は朝鮮国王の追撃を行わず、『吉野日記』によると一番隊は禁中に割拠して、残っていた珍品財宝・絹布を分捕り、休息場所とした。 五月五日、小西行長の宿営に加藤清正が来て協議し、城外に宿営を移して、城門に木札を立て、逃亡した朝鮮都民の還住を促すことになった。秀吉の十六日付の命令でも、城外野営と住民の還住という全く同じ指示がなされており、もともと事前の訓示があったものと理解される。 日本軍は明国境に進むのが目的であり、後方の拠点とすべき都を荒らす意図は最初からなく、秀吉はさらに宮殿内に御座所を設けるように矢継早に指示をしてくることになる。逆にいえば、一番隊は秀吉の命令を徹底させていなかったので、清正に是正を求められたということだろう。 朝鮮都民はしばらくすると京城に戻って通常の生活を始めた。『燃藜室記述』では朝鮮都民が日本軍の統治に服した様を「賊に媚び相睦み、嚮導して悪を作すものあり」と書かれており、都民の変節を批判する一方、誣告された人々の髑髏が南大門の下に山積みにされていたという記述があるものの、『西征日記』にも(しばしば乱民となった)民を鎮撫する高札の話があり、治安を保とうという最大限の努力を日本軍は行った。 別路を進んでいた三番隊の黒田長政は、五月七日に京城に到着した。釜山=漢城府間の日本軍連絡線には数十里毎に関所が設けられて兵士が常駐することとされ、夜は火が焚かれて、狼煙台も造られつつあった。 七番隊の宇喜多秀家と奉行衆は秀吉に漢城府の守備と統治を命じられたので、五月二日に釜山に上陸すると、この道を急ぎ強行軍して、六、七日には京城に到着した。 四番隊の毛利勝信、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊らは、(道程はよく分からないが)十日頃に相次いで京城に到着した。四番隊の中で遅参していた島津義弘は、隊の一部がようやく五月二日に釜山に到着したが、領国の近くで梅北国兼と国人衆が起こした一揆の後処理で国許を離れることができなくなって、後続が熊川に着くのは六月二十七日と、まだ参戦できない状態だった。
2023年08月22日
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大臣らはもはやしばらく平壌に朝廷を行幸させて明に救援の兵を求めるしか手がないと協議し、宣祖の膝下にすがって哭く頑なな反対者もいたが、西行は決定された。 金命元が全軍の指揮を執る都元帥に任命され、申恪は副元帥となって、漢江の守備についた。邊彦琇は留守大将として開城に派した。初め左議政の柳成龍が留都大将とされたが、都承旨李恒福が彼の才能が必要だということで取り止めさせ、代わりに右議政の李陽元が留都大将として漢城府の防衛に残ることになった。李誠中と丁胤福が新たに左右統禦使に任命された。 深夜、忠州の戦いから生還した李鎰が状況を報告し、日本軍は今日明日にも漢城府に来ると言うので、宮中の衛士は尽く逃げ去った。京城はすでに無政府状態で、宣祖は金応南に標信を与えて衛士を集めさせて治安を回復させようとしたが、一人もこれに応じようとはしなかった。 四月二十九日、宣祖は暁と共に出発することを決断した。小雨の降る中で李恒福が灯燭を掲げて先導して、国王、王妃、淑儀、信城君(四男)や定遠君(五男)は轎(かご)に乗り、世子(光海君)は馬に、後の李山海や柳成龍などの 朝官、侍女、奴婢など百余名は徒歩で敦義門をくぐって西に向かった。日が昇り、沙峴まで来たところで後ろを振り返ると、漢城府からはあちらこちらから火炎と煙が上がっていた。 朝鮮乱民は、まず囚人や奴婢の身分記録を保存していた掌隷院と刑曹に放火して、次に内帑庫(王室財産保管庫)を金品財宝を奪った。 さらに国王の住居である景福宮が荒らされて、掠奪と放火で昌慶宮と昌徳宮の二つの別宮も焼失した。大倉庫も燃やされた。弘文館、春秋館の古典や歴史記録、承文院の外交文書も灰となった。王室の畜舎にいた家畜を盗んで逃亡した家臣もいた。 漢城府から逃げ出した宣祖の一行は、村々で住民と出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。 逃避行は、沙峴を過ぎて石橋に至る辺りで雨に遭い、ずぶ濡れとなった。京畿道巡察使権徴が追いかけてきて国王にだけ雨具を渡した。大雨となったので、轎で移動していた者は降りて馬に乗り換えた。碧蹄駅の駅舎で王族らは休息をとったが、雨に打たれ意気消沈した衆官の多くが京城に引き返した。 侍従や台諫も落伍してどこかに居なくなった。金応南は泥濘を這いずり回ってこれらを制止しようとしたが無駄だった。恵陰嶺を過ぎる頃に雨は益々強くなり、宮女達は馬に乗り顔を覆って泣きながら進んだ。臨津江に着くが、船が少なく下の者は我先にと争った。 日本軍の追手を恐れるあまり、渡った後に船は引き返さずに焼かれたので、半分が渡れずにそのまま東岸に取り残された。日暮れに東坡驛に着いた。坡州牧使許晋と長湍府使具孝淵が一行のために食事を作らせていたが、飢えた衛士らが厨房に乱入。食物を奪い合って滅茶苦茶にしたので、国王に供する食事も出せなくなった。 具孝淵は罪を咎められるのを恐れて逃げ出した。 四 月三十日の朝、宣祖は近臣と善後策を協議した。李恒福は義州へ赴き、そこでも踏み止まれないなら天朝(明)に赴き窮状を訴えるべきと言った。宣祖は自分で判断しかねたので柳成龍に問うと、彼は「大駕東土を一歩離れれば、朝鮮は我々のものではなくなります」と国外脱出を否定した。宣祖が明に服属するのは元以来だと反論すると、柳成龍と尹斗寿の両名が国を棄てる行為だと諫めて、尹斗寿は咸鏡道に向かうべきだと言った。李山海は意見を言わずにただ泣いていた。 京畿の士卒が逃げてしまい開城に向けて出発できないでいると、黄海道巡察使趙仁得が数百名を連れて合流していたので、ようやく出立した。豊徳郡守李隨亨が途中で幕舎を設けて一行に初めてまともな食事を提供した。夕方に開城に到着した。 その夜、開城では多数の百姓が集まってきて痛哭したり涙を流して朝鮮国王を非難して騒ぎになった。 国王が後宮に入り浸り、金公諒を寵愛したことを怒って、石を投げるものも現れたが、衛士の数も少なく制止することもできなかった。宣祖は尹斗寿を御営大将としたが、尹斗寿は国内で国王に対する不満が高まっていることを勘案して、人事の刷新と、己を罰する書を八道を下すように献言した。 五月一日、領議政の李山海が国を誤り外寇を招いたとまず弾劾された。宣祖はそれならば左議政の柳成龍も同罪であると庇ったが、兵曹正郎具宬は李山海が討たれないのは台諫に知り合いが多いためだと、官職にある一族郎党の追放も含めてさらに糾弾した。 副提学洪履祥は金公諒を斬るべきだと宣祖に迫ったが、無辜の者を殺すことはできないと理由をつけて寵臣を庇い拒否した。結局、宣祖は李山海を追放し、柳成龍を領議政に、崔興源を左議政に、尹斗寿を右議政に任命することにした。ところが、その日の午後に宣祖が南大門から出て人民を鎮撫していると、鄭澈の復権を求めるものがあり、これが許された。 また柳成龍も国を誤った同罪であるからこれも辞めさせるべきだという意見があり、議論になった。李恒福がこれに異を唱えたが、批判を受けた柳成龍は辞職したので、まさに朝令暮改となって、夕方には崔興源を領議政に、尹斗寿を左議政に、右議政には兪泓を任命することになった。
2023年08月22日
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「小西行長と加藤清正」 加藤清正と二番隊は、慶州城を占領した後、平戸出身の漂着民の徳五郎と言う者に出会ったので、彼を嚮導者として進撃を早め、四月二十一日に永川を占領し、新寧、比安へと進んだ。このまま東路を進むならば竹嶺を目指すわけであるが、龍宮河、豊津と来た後は龍宮県には進まずに、聞慶に進み、小西行長の消息を聞くと忠州城に向かったというので、急ぎ鳥嶺を越えて後を追った。 清正の到着と合流は忠州の戦いの前であったという異説もあるが、四月二十九日朝に忠州に到着したとき、一番隊はまだ弾琴台で首実検を行っていて、一日後れを取ったことを清正は大変残念がった。忠州城で一番隊と二番隊が合流したので、軍議が持たれた。 軍議の内容には異説が多く、古典には登場人物や日付に辻褄が合わない点が散見されるが、小西行長が率いる一番隊が孤軍で直入したことに対して諸隊はもともと快く思っておらず、不満があった。『征韓偉略』の記述はかなり誇張されていると思われるが、その内容では、漢城府への進撃路を割り当てる際に、加藤清正は、まず行長の出自をからかい、武功を誇る行長に対して、密かに出発して単独で功を成したが、その成功も宗氏が地理に通じていたからで、自分の力ではなかったと喧嘩を売る。 さらに、太閤は清正と行長に隔日で先鋒を務めるように命令されたのだから、今日より隔日で先鋒を替えて優劣をはっきりさせようと挑戦するのであるが、行長が拒否すると、軍令無視であり私利私欲の商人根性だと侮蔑。行長は激怒して刀を手にしたので、鍋島直茂に止められる。 そこで松浦隆信が、両将が先鋒に命じられたに協力して敵に臨まずにお互いで相争って敵に利するようでは万死に値すると諭されて、両人が反省して、結局は進路を分かつことになる。 南大門を目指す百里の行程と、東大門を目指す百余里の行程があったが、河口の近くで漢江を渡らねばならないが直線距離が短い前者を加藤清正が選び、道程は長いが渡河の苦労の小さい後者を小西行長が進むことになった。「朝鮮国王の都落ち」 戦々恐々とする朝鮮朝廷では漢城の防衛について議論して、右議政の李陽元を京城都検察使に任命し、李戩、邊彦琇を左右中衛大将とし、商山君朴忠侃を都城検察使とし、漆溪君尹卓然を副使、李誠中を守禦使、丁胤福を東西路号召使とすることにした。 これらの処置は首都の治安を維持し、必要な人員を集めて、騒乱を防ぐのが目的だった。李陽元はすぐに城の士民に対する募兵を始めたが、そこに尚州の戦いの敗報が届いて人心が乱れ、都から避難しようとするものが続出した。 四月二十七日、熒惑が南斗を犯し、大臣や台諫が一同に集められ、初めて遷都が発議されたが、群臣が皆号泣して言葉を尽くして諌止するので、それ以上議事を進められなかった。 他方で、吏曹判事の李元翼を平安道都巡察使との兼任とし、崔興源を黄海道都巡察使として派遣することを決定した。これらは京城を脱出した場合、その後の下準備をする意味があった。ま た建儲(世継)問題も議論されていた。鄭澈の失脚原因となったこの問題はタブー視されており、誰も口に出したがらなかったが、日本軍迫るという状況で万が一も懸念された。領議政李山海や左議政柳成龍を召して意見を聞くと、国王がお決めになるべきことだと暗に決断を迫ったので、宣祖は結局は以前拒絶した次男光海君を王世子に選び、国本を定めて人心の安定を図ることになった。四月二十八日、光海君は王世子となった。 首都の漢城府を放棄することは官民が挙って反対していたが、この都は防御に不向きであり、そもそも守ろうにも兵士が足らなかった。 都の住民をかき集めて守りにつかせようとはしたが、集まったのは七千名だけで、多くは儒生や胥吏、公私奴婢であって烏合の衆で頼みにならないとの考えられていた。 以前より王子を地方に派遣して勤王の士を集めようという建言が度々なされていたが、ようやく、尹卓然に臨海君(宣祖長男)を奉じて咸鏡道に向かうように命じ、戸曹判事韓準には順和君(宣祖六男)を奉じて江原道に向かうように命じられた。 四月二十八日、尚州の戦いで捕虜となり解放された倭学通事(通訳)景応舜が、小西行長の手紙と国書を持って京城に達した。小西行長は宗氏と面識のある礼曹参判(外務次官)李徳馨と忠州城での講和会見を求めており、和暦との差により手紙の期限は前日二十七日ですでに過ぎていたものの、宣祖は日本軍の進撃を遅らせられることを期待して会見に応じることを許可した。 この命令を聞いて礼曹判事(外務大臣)権克智は驚愕して卒中死したので、李徳馨がこの大任を担うことになった。ところが中間地点の竹山まで行ったところで忠州城がすでに陥落したのを知った。李徳馨は、日本語のできる景応舜をまず行かせて改めて日本側と交渉を持とうとしたが、彼は途中で捕まって殺されたのか帰ってこなかった。それで李徳馨も空しく引き返すほかなく、講和の最初の試みは失敗した。 同じ二十八日の夕刻、三人の奴僕が申砬の死亡と忠州の戦いの敗報を京城に伝え、市中にパニックを引き起こした。頼みとしていた申砬までもが出征後わずか数日で命を落としたことは大きな落胆を誘った。井
2023年08月22日
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四月十八日、小西行長は密陽を占領した。同じ頃、漢城府一番乗りの功を争っていた加藤清正(二番隊)は梁山に達した。行長が密陽から清道、大邱、尚州に進む中路を取ると伝え聞いた清正は、自らは東路を取ることにして道を転じ、翌日、彦陽を占領した。 四月十九日、三番隊の黒田長政と大友吉統は海路から安骨浦を攻撃した。朝鮮軍も港から軍船を出して迎撃し、初めて海戦が発生した。しかし、日本軍は押し返して五隻を奪い、上陸して城に迫った。金海府使徐礼元は金海城の城門を閉ざして抗戦したが、日本軍は城外の藁を刈って堀に投げ入れ、埋め立てて城壁をにじり上った。 これを見た草溪郡守李惟倹が西門を開けて逃亡し、それを見た朝鮮城兵も持ち場を捨てて逃げ出したので、止む無く徐礼元も城を脱出して晋州へ落ち延びた。城はたちまち日本軍の占領することとなり、日本軍が斬った首は数千といわれる。 また同じ日、六番隊の小早川隆景が釜山に上陸。五月上旬に後続が上陸を完了するまで同地にあった。また、二番隊の加藤清正と鍋島直茂は連名で長束正家ら秀吉側近の奉行衆に対し、現地は豊富に兵粮が蓄えられていること、小西行長と協議しながら別経路で漢城を目指したいと報告している。 他方、漢城府では、左議政・吏曹判書を兼任する柳成龍が、自身を都体察使に、兵曹判書に腹心の金応南(都体察副使兼任)を任命して、募兵体制を強化した。 また申砬を呼び、策を請うた。申砬は「御身は武人ではない。此の際は只速やかに李鎰の後援として、他の猛将を続発せしむべし」と言い、暗に自分を推挙したので、柳成龍は国王に上奏して申砬を三道都巡察使(慶尚道・忠清道・全羅道の三道の陸軍を統括する官職)に任命した。申砬は名将として誉れ高かったが、人殺しの評判でも恐れられ、一緒に従軍するのを忌避されるほどに人望がなかった。それで柳成龍が集めた部下を連れていくことなって、宣祖も李鎰以下誰でも命令に従わぬものはこれで斬れと剣を授けて送り出した。 四月二十日、二番隊の加藤清正と鍋島直茂は慶州城を攻撃した。朝鮮城兵は弓で抗戦したが、新任の慶州府尹邊応星はまだ到着しておらず、次官である慶州判官朴毅長は敵の猛攻に恐怖に駆られて逃亡。これで城兵は大混乱に陥り、城内に乱入した日本軍は一千五百余の首を取った。(慶州城の戦い) 小西行長は四月二十日に大邱城を占領し、二十二日に仁同城を占領。金睟(慶尚道巡察使)は「制勝方略」という事前計画に従い、聞慶以下周辺の守令に檄を飛ばし民を避難させ、大邱に軍兵を集結させ待機していた。 ところが、日本軍の急速な進撃を前に招集されたばかりの朝鮮将兵は動揺し、夜の間に脱走して戦う前に軍は潰散してしまった。 これによって慶尚道の中路を守る部隊がいなくなった。行長は、二十三日に浅瀬で洛東江を渡って善山に至った。同じ日、李鎰は尚州城に入ったが、尚州牧使金澥は、出迎えを口実に城を出てそのまま逃亡。城には尚州判官權吉が一人取り残っていたが、一兵もいなかった。 李鎰は、結局、九百-六千名程度の農民を集めて即席の軍隊を造らざる得ず、二十四日、城外で練兵中に敵襲を受け、包囲攻撃されて壊滅した。李鎰(巡察使)は衣服を脱ぎ捨て裸で逃走、金澥(尚州牧使)も逃走、倭学通事(通訳)景応舜が捕虜となり、李慶流(防禦使兼兵曹佐郎)、權吉(尚州判官)、朴篪(校理)、尹暹(校理)ら諸将が戦死した。 漢城府を出立した申砬は、忠清道で八千-一万名を招集して、四月二十六日、丹山駅に軍を進めた。しかし鳥嶺を偵察し、この要害地は騎兵の使用に適さないという理由で放棄して、忠州へ後退した。 四月二十七日に無人の鳥嶺を突破した一番隊は安保駅から丹山駅に至った。二十八日、申砬は忠州城より出て、漢江に面した弾琴台に陣をしいた。小西行長らは偵察でこれを知り、三方から攻撃した。朝鮮軍は大敗し壊滅、敗れた申砬は、馬で川に入って自決し、李宗張(忠州牧使・助防将)とその息子李希立、金汝岉(前義州牧使・副使)、邊璣(助防将)ら諸将も乱戦の中で戦死した。この日、忠州城も陥落した。柳成龍の懲毖録によれば、宮廷では来る日も来る日も申砬の勝報を待っていたという。 一方、三番隊の黒田長政は昌原城を攻略して首級五百を挙げて北上し、昌寧、玄風を経て、四月二十四日に星州に達し、金山を経て、秋風嶺を越えようとしているところで、四月二十八日、趙儆(右防禦使)と李睟光(従事官)ほか別将鄭起龍、黄潤、義兵張智賢の連合軍が立ち塞がって交戦したが、撃破した。趙儆らは黄澗に後退、張智賢は戦死した。三番隊はこれを追って忠清道に入り、青山を経由して(五月三日頃)清州を占領した。
2023年08月22日
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さらに『懲毖録』では元均は李英男の提言を入れて隣接する管区である全羅左水使李舜臣に救援を求めたが、李舜臣は管轄外であり朝鮮朝廷の命令がないので越権行為でもあるとして五-六度も頑なに拒否したとある。 『燃藜室記述』では、李舜臣だけでなく全羅右水使李億祺も全羅左水営(麗水)に集っていたが、共に元均の救援要請を無視。光陽県監魚泳潭は諸将が国難を前に協力しない態度に憤慨してこれを諫めたが、李舜臣は答えなかったという。 いずれにしても、慶尚道水軍は消滅し、全羅道水軍が救援を拒否したことで、日本軍の後続隊は朝鮮水軍に煩わされることなく上陸できるようになった。朝鮮水軍は以後半月間ほど沈黙して目立った行動を採らなかった。 慶尚左兵使李珏は兵営城(蔚山の北方)より来て、一旦、東莱城に入ったが、釜山鎮陥落の悲報を受けて怯え、城を逃げ出しそうとした。 東莱府使宋象賢は押し留めて一緒に戦おうと説得したが無駄だった。李珏は僅かな手勢と城を抜け出し蘇山駅に陣を敷いた。 四月十四日-十五日、日本軍が東莱城に次々と到着した。小西行長は「戦わば即ち戦え、戦わざれば即ち道を假(か)せ」と書いた木札を投じたが、宋象賢は木札を投げ返して「死ぬは易く、道を假すは難し」と伝えて、要求を拒絶した。 日本軍は二十五日の明け方に襲撃し、二時間で東莱城は落城、朝鮮軍は三千人が戦死し、五百人が捕虜となった。宋象賢(東莱府使)は殺害され、洪允寛(助防将)、趙英珪(梁山郡守)、宋鳳寿(代将)、盧蓋邦(東莱教授)ら諸将も戦死し、李彦誠(蔚山郡守)が捕虜となった。 四月十五日、日本軍はこの日さらに無人の慶尚左水営と機張を占領した。慶尚道巡察使金睟は晋州から東莱に向かっていたが、落城を知って北の大邱に向かった。 日が暮れてから宗義智隊は梁山に到達し、偵察中に鉄砲を射かけたところ、朝鮮城兵は驚愕して城を捨てて潰走した。無人となった梁山城を翌朝早くに小西主殿助率いる小西・宗両隊先発隊が占領した。城内にそのまま残されていた大量の酒と食事に兵士達は群がり、貪り食って休息した。(梁山城の戦い) 四月十六日早朝、釜山から逃げ続けた朴泓がついに漢城府(首都)に達して朝鮮朝廷に日本軍襲来(外寇)を報じた。大臣や備辺司の一同は国王宣祖に面会を求めたが、機嫌が悪くて許されなかった。 それで国王抜きで体制を協議し、後日上奏する形として、巡察使に名将李鎰を任命して中路を、左防禦使に成応吉、右防禦使に趙儆をそれぞれ任命して西路と東路を防備させることとし、助防将に劉克良と邊璣を任命して竹嶺と鳥嶺を守らせることにした。 また慶州府 尹の尹仁涵が臆病者だというので罷免し、邊応星を新たに任命した。しかし、派遣すべき兵士はおらず、諸将は軍官だけを連れて兵は追々集めることになったが、文官偏重の国是のために軍官として登録されていた者すら儒生や官吏などばかりで出征を辞退するものが続出した。 李鎰は三日間も出立が遅れ、結局、三百名の精兵は後日別将が率いて後から来ることになり、六十名の軍官だけを連れて南下した。「慶尚道制圧」 四月十七日、日本軍の二番隊、三番隊、四番隊(島津隊は遅参)が相次いで釜山に上陸した。早速、二番隊は陸路と海路で梁山と蔚山に向かい、三番隊はそのまま廻航して洛東江の河口の竹島(竹林洞)に着いた。 十七日午後、小西行長と松浦鎮信隊は鵲院(じゃくいん)に迫った。密陽府使朴晋は兵を集めて、洛東江左岸に雲門嶺山地が迫る鵲院関の隘路で待ち伏せ、初めて野戦で迎え撃ち、日本軍の進撃を阻止しようとした。 しかし、日本軍の斥候がこの敵兵を発見。二手に分かれ、行長の八代衆が正面から攻撃する間に、鎮信の平戸の鉄砲衆が右側面に回り込み、山手から狙い撃った。 朝鮮軍は伏兵に驚き、散々撃たれて遁走した。日本軍は追撃して三百名余を討ち取った。朴晋は密陽に戻り、兵器倉庫に火を放つと城を捨てて山中に逃れた。 他方、李珏は蘇山駅の陣を引き払って兵営城に戻り、まず自分の妾と綿布(税金の代わりに徴収するもの)財産を後方に送った。 町は恐慌状態で、住民を斬って鎮撫しようしたが無駄だった。城内も戦々恐々としており、敵襲の誤報が日に何度もあった。李珏は暁に乗じて一人で逃げ去ったので彼の軍は崩壊した。
2023年08月22日
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「秀吉の征明遠征の動機」戦役の本編に入る前に動機に関する諸説について述べる。主なものだけで以下のようなものがある。○鶴松死亡説(鬱憤説)○功名心説(好戦説/征服欲説)○動乱外転説○領土拡張説○勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)○国内集権化説(際限なき軍役説)○国内統一策の延長説○東アジア新秩序説○キリシタン諸侯排斥説○元寇復習説、○朝鮮属国説(秀吉弁護説) 秀吉の大陸侵略構想は、天正十三年(1585)の関白(かんぱく)就任直後からみられたが、1587の九州征服を契機として具体化した。この年、秀吉は対馬の宗氏に対朝鮮交渉を命じた。その内容は、朝鮮が日本に服属し明征服の先導をすることであった。 しかし、旧来から朝鮮と深い交易関係をもっていた宗氏は、秀吉の意向をそのまま朝鮮に伝えず、家臣の柚谷康広(ゆたにやすひろ)を日本国王使に仕立て、秀吉が日本の新国王になったので統一を祝賀する通信使(親善の使い)を派遣してほしいと要請した。これに対し朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を纂奪(さんだつ)したものとみなし、これを断った。 しかし、秀吉の強硬な命令により、1589年、宗義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇(けいてつげんそ)、博多の豪商島井宗室らとともに朝鮮に渡り、通信使の派遣を重ねて要請した。その結果、黄允吉(こういんきつ)、金誠一(きんせいいつ)らが通信使として来日し、1590年十一月、聚楽第(じゅらくだい)で秀吉の引見を受けた。その際、秀吉は彼らを服属使節と思い込んで「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明征服の先導)を命じた。これが朝鮮国王のもとに報告されることになるが、秀吉は翌1591年から肥前名護屋(なごや)(佐賀県唐津に征明の基地の築城普請を始めた。一方、宗義智と小西行長は、秀吉の命じた「征明嚮導」を「仮道入明」(明に入りたいので道を貸してほしい)という要求にすり替えて朝鮮側に交渉したが、それは拒絶された。 [序盤戦・釜山と東莱城の攻略」 文禄元年(=天正二十年)四月十二日午前八時、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は七百艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後二時過ぎに釜山に上陸した。 絶影島にいた釜山僉使鄭撥は偶然この船団に出くわして慌てて城に戻った。義智は「仮途入明」を求めるという内容の書を投じて、念のために服従の意思を再度確認したが、無視された。 翌十三日朝、義智は釜山鎮の城郭への攻撃を開始し、昼までに城は落城した。鄭撥(釜山僉使)は戦死し、日本軍が斬った首は一千二百余りにのぼった(甫庵太閤記では斬首八千)。同じ頃、行長も多大鎮の砦を攻撃したが、これは一昼夜かかり、夜襲して翌日に陥落させた。多大鎮守備隊指揮官(多大浦僉使)尹興信は戦死した。時を同じくして、西平浦の砦も陥落した。これによって釜山周辺の鎮圧が完了した。朝鮮軍は緒戦で衝撃的な大敗をして釜山周辺の沿岸部分を失った。 朝鮮水軍の方でも、慶尚左水使朴泓が慶尚左水営(釜山佐自川)を棄てて山中へ逃亡。巨済島の慶尚右水営から急行した慶尚右水使元均は、地域一帯に混乱が広がって為すすべがないまま、敵に奪われるのを恐れ、ほとんど全ての水軍船舶(主力艦の板屋船を含む)を戦わずして沈めると、玉浦万戸李雲龍、所非浦権管李英男、永登万戸禹致績らを連れて、四に分乗して昆陽へ撤退した。 なお、朝鮮の史書『懲毖録』では元均は自重して交戦を控えたとされるが、元均は巨済島から出撃したものの地元の漁船を敵船と誤認して自ずから潰走し、彼が留守にした慶尚右水営ではパニックが起こって逃げ惑って圧死する者があったり、倉庫に火をつけて逃げる者があって、営が焼失して帰る場所がなくなっため加徳島に撤退したと書かれている。
2023年08月22日
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道中、緩々と厳島神社に参拝して、毛利氏の接待を受けていた秀吉の大行列が名護屋城に着陣したのは、すでに戦端が切られた後の四月二十五日であった。 天正二十年三月十五日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は一万石に付き六百人、中国・紀伊は五百人、五畿内は四百人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は三百五十人、遠江・三河・駿河・伊豆までは三百人でそれより東は二百人、若狭以北・能登は三百人、越後・出羽は二百人と定めて、十二月までに大坂に集結せよと号令された。 ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの八割程度ともいわれる。 主として西日本方面(西海道、南海道、山陰道、山陽道)では全面的に兵が動員されたが、東日本方面(畿内以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、徳川家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した。 兵は諸侯の石高の大小に比例して動員されたため、数万人を出す大身者から、数百人を出す小身者まで様々で、これらを組み合わせて一隊が編成され、主としてその中の大身者を指揮者とした。 また豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとした。加藤清正や小西行長らが鍋島直茂・宗義智・松浦鎮信らを指揮下に置いたのはその例である。 全体としては概算で、名護屋滞在が十万、朝鮮出征が十六万〜二十万となった。ただし、この数字には人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員(補助員)が含まれていた。 非戦闘員の割合は各隊でまちまちで、文禄の役における島津勢では約四割であったが、立花勢では約五割で、五島勢では約七割にも及んだ。なお、 非戦闘員から兵員に転用されたという記述が後に出てくるため、これらが完全に戦闘に関与しなかったわけではないようである。 当時、日本全国の総石高は約二千万石であり、一万石あたり二百五十人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約五十万人であった。文禄の役で動員された二十五万〜三十万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。 軍の構成は以下の通りであった。脚注のない数字は主に毛利家文書と松浦古事記による。実際に出陣したことが分かっている武将の中に表記がないものがある毛利家文書は明らかに省略されており、七番隊以後や名護屋在陣衆(旗本含む)はより詳しい松浦古事記を参考にした。 先駆衆の毛利輝元までは順次出立したが、宇喜多秀家より後の部隊は戦況に合わせて出陣しており、順番も異なって、隊として行動していたようにも見えない。 首都漢城の行政を任された奉行衆や、占領地の統治を命じられ各地に分散した八番隊、あるいは伊達や佐竹など在陣衆からの増援もあった。渡海時期のよく分からない部隊もある。当初は秀吉や家康を含めた全軍が渡海する予定であったが、何かにつけて周囲が出陣を押しとどめたので、実現しなかった。 日本水軍の規模は九千人から一万人ほどであった。陸上部隊の数字の中にも若干の水軍衆が含まれていたと思われるが、それらを含めても水軍の総数は多くとも約一万数千人程度で、その主力は淡路水軍と紀伊水軍であった(来島系以外の村上水軍は小早川・毛利隊の中に含まれる)。日本軍(征明軍改め征韓軍)○統監軍・総計十万一千三百十五人(名護屋城滞陣) 秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐つまり「唐入り」を行った動機については古くから諸説が語られているが、様々な意見はどれも学者を納得させるには至っておらず、これと断定し難い歴史上の謎の一つである。
2023年08月22日
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「名護屋城築造」 天正十九年八月二十三日、秀吉が「唐入り」と称する征明遠征の不退転の決意が、改めて諸大名に発表された。 宇喜多秀家が真っ先に賛成したといわれ、 五大老のうち徳川家康は関東にいて不在であったが、他の大老、奉行は秀吉の怒りを恐れて不承不承の賛意を示した。 このために秀家は、後に秀吉の名代として総大将を任じられることになる。決行は翌年春に予定され、(秀吉は帰順したと考えていた)朝鮮を経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように促された。 十二月二十七日には秀吉は関白職を内大臣豊臣秀次に譲って、自らは太閤と称して外征に専心するようになった。※黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。 秀吉は遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示した。黒田孝高に縄張りを命じて、浅野長政を総奉行とし、九州の諸大名に普請を分担させた。また壱岐を領する松浦隆信にも、勝本に前哨基地となる風本城の築城を命じた。 名護屋城の建設予定地は、波多氏の領土で、フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した場所であったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記したほど活況を呈し、唐入りの期間は日本の政治経済の中心となった。※名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった日本の城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。平成十八年には日本百名城(八十七番)に選定された。名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。 年明けて天正二十年(1592)、すなわち文禄元年正月、総二十一軍(隊)に分けられた約三十万よりなる征明軍の編成が始まった。 二月に渡海し半島を伝って明に攻め込む予定で、四軍までを先発させることまで決まったが、速い展開に焦った小西行長と宗義智がまず朝鮮帰服の様子を確かめるべきだと進言して、計画は急遽、停止を強いられた。 行長は嘘を取り繕うために帰服した朝鮮が変心したと新たな嘘で説明し、征明軍に道と城を貸すのを拒否していると言ったようである。 朝鮮交渉の不首尾に面目を失った行長であるが、責任は朝鮮側に転嫁し、平伏して最後の交渉と相手が従わぬ場合には、自らが先鋒を務めることを願い出た。 一月十八日、秀吉はそれを許し、両名に三月末までに様子を見極めて復命するように指示。もし朝鮮が従わないのならば、四月一日になったら(まず朝鮮から)「御退治あるべし」と出征開始の号令が出された。これによって征明軍は征韓軍となった。 秀吉が配下の将に伝達した文書に「高麗国の御使」として両名が派遣されたことは確認できるが、一月から三月末までの間、再び玄蘇を派遣した以外は特に行動した様子はなく、行長と義智は朝鮮には赴かなかった。それはすでに無駄であると分かっていたからに他ならない。結局、仮途入明の要求なども平和のためなどではなく、欺瞞を重ねた結果に過ぎなかった。 二月二十七日、京都で秀吉は東国勢の到着を待っていて、徳川家康の手勢が少ないのを怒り不機嫌となったと言うが、これが俗説としても、出陣の延期が続いて人々は不安がっていたようだ。 秀吉が吉日である三月一日に出陣の儀をするつもりだったが、眼病を患って延期した。三月十三日、「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」の軍令が発表され、日本軍の先駆衆が九隊に再編成される陣立てが新たに示された。 ようやく二十六日早朝、秀吉は御所に参内して後陽成天皇に朝鮮出兵を上奏して、京を出立した。この間も第一軍(隊)は三月十二日に壱岐から対馬へ移動し、後続も渡海を開始。二十三日からは第一軍は対馬の北端の豊崎に移動して待機していた。 他方、最後通牒の役目を担った玄蘇は、改めて朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するように協力を交渉していたが、朝鮮側の返事は要領を得なかった。すでに期日が過ぎた四月七日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた。
2023年08月22日
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その内容は、秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説を披露して帝王に相応しい人物であると主張したうえで、大明国を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に中国に植え付けるという大抱負を述べ、先駆けて「入朝」した朝鮮を評価して安堵を約する一方で、「征明嚮導」つまり明遠征軍を先導をすることを命じ、応じるならば盟約はより強固になるとするものだった。 そして全ては「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と秀吉個人の功名心を誇示してもいた。文章を一読した通信使は属国扱いに驚愕して宗義智と玄蘇に抗議した。玄蘇は秀吉の本意とは異なる嘘の説明で誤魔化していたので、それを信じた金誠一は誤字であると考えた「閣下」「方物」「入朝」の文字の書き換えを要求して食い下がったが、もはや一刻も早く帰還すべきと考えていた黄允吉はそのままで出立した。天正十九年(1591)一月に対馬に到着。二月に朝鮮に帰国し、玄蘇と柳川調信が同行した。 天正十九年(1591)三月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の鄭澈が失脚して東人派の柳成龍が左議政となっていた。 黄允吉が「必ず兵禍あらん」と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。 通信使に同行した軍官黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立ったが周囲に止められた。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。 「倭軍」の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった。 玄蘇と柳川調信が東平館に滞在中、宣慰使(接待役)呉億齢らは日本の情勢を聞き出そうと宴席を設けた。すると(秀吉ではなく宗氏の意向を汲む)玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。 秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。朝鮮がまず(このことを)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。※景轍玄蘇(けいてつげんそ、天文六年(1537~1611)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗中峯派の僧。字は景轍。号は仙巣。門人に規伯玄方がいる。対馬宗氏の外交僧として活躍した。 そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる」と主張した。しかし、これは朱子学の正義に合わないため、金誠一は大義に背くと批判し、口論となった。 玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ」と熱くなって反撥したので、朝鮮側はこれに対して何も言い返さなかった。※蒙古大襲来。朝鮮は元の手先になった。 五月、朝鮮朝廷は「日本は朋友の国で、大明は君父である」として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った。 同年六月、玄蘇の復命を受けてすぐに宗義智は再び渡海し、釜山の辺将に対して「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国は平和は破られるだろう」と警告を発し、再交渉を要望した。 辺将はこれを上奏したが、朝鮮朝廷では先の玄蘇らの言動を咎め、秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事も与えなかった。 義智は十日間待ったが、断念して不満足のまま去った。これ以降、日本との通信は途絶えた。釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこのことを不審に思っていた。 朝鮮半島経由の理由、秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも「地乗り航法(沿岸航法)」であったことが説明として挙げられる。「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であったため、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかった。このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋(現唐津市と玄海町)などから出航して、壱岐(勝本)→対馬南部(厳原)→対馬北部(大浦)→釜山と順次進んで海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったのである。最短ルートから外れた済州島は無視された。 天正十九年一月二十日、秀吉は(明の)遠征準備を始動した。常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名に号令を発して、十万石に付き大船二艘を準備するように命じ、港町は家百軒につき十人の水主(かこ)を出すこと、自分の蔵入地(筑前・摂津・河内・和泉に集中)には十万石に付き大船三艘、中船五艘を造ること、建設費は半額を奉行より支出し、残額は竣工の上で交付するとした。また水主は二人扶持とし、残される妻子にも給金を与えることを約束し、船頭は給米を与えて厚遇するとした。 また船等は摂津、播磨、和泉に翌年までに集合することを命じた。また大船の大きさは長さ十八間(三十三メートル)で幅六間(十一メートル)と定められていた。 同年末にかけて軍用軍資金として通貨を大量に生産させた。金貨は花紋があるため太閤花降金と称し、銀貨は花降銀とも石見銀とも呼ばれた。糧米は四十八万人分が集積され、秣も相応に準備された。各地の街道や橋の整備修復も命じられ。 また朝鮮の地図が作製され、八道を五色で塗り分け、慶尚道を白国、全羅道を赤国、忠清道・京畿道を青国、江原道・平安道を黄国、咸鏡道を黒国、黄海道を緑国と命名し、諸将に配られた。
2023年08月22日
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「日朝交渉の決裂」(日本側と朝鮮側の思い違いと勘違い) 天正十五年(1587)五月初旬、薩摩川内に在陣中に(すでに秀吉に帰順していた)宗義調の使者として佐須景満と家臣の柳川調信、柚谷康広の三名が来て、秀吉に拝謁を願い出た。 彼らは秀吉が前年に予告した朝鮮出兵(高麗征伐)を何とか取り止めてもらい、貢物と人質を出させることでことを済ませることはできないかと請願に来たのである。 秀吉の周りの者が、秀吉を過剰に持ち上げて、気に入れられようと、強気にけしかけした節がある。 しかし、九州征伐を成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球、朝鮮だと考えており、聞き入れなかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し、それが無い場合は征伐するとした。 そして彼ら宗氏を朝鮮との交渉役に命じて、入朝を斡旋させる任務を与えた。六月七日、帰路の箱崎で宗義調と宗義智の親子に謁見して、直にその旨を重ねて厳命した。 このように宗氏に強い態度に出た背景としては、琉球が島津に従属したように、朝鮮も対馬に従属していると秀吉が誤解していたためである。 ルイス・フロイスも「朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いていて、このような認識は秀吉に留まらず、当時の一般的なものであったことが分かっている。 ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か一千石に過ぎず、対馬・宗氏は朝鮮貿易に経済を依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。 九月、宗氏は柚谷康広を日本国王の偽使(橘康広)として渡海させ、秀吉の日本統一を告げたうえで、新国王となった秀吉を祝賀する通信使の派遣を朝鮮側に要請した。 これは通信使を朝鮮国王入朝の代わりとして事態を収めようという配慮であったが、朝鮮側は書簡の文言が傲慢であると主張し、朱子学に凝り固まった宣祖も「これまでの国王を廃して新王を立てた日本は簒奪の国であり」大義を諭して返せと命じた。それを受けた大臣らは「化外の国には礼儀に従って」接する必要はないとして、水路迷昧を理由に要請を断った。 日本側には記録はないが朝鮮側の記録によると、報告を受けた秀吉は激怒し、交渉失敗は裏切りの結果であるとして柚谷康広を一族共々処刑したといわれる。 期限を越えても一年間進展なかったので、天正十七年(1589)三月、秀吉は朝鮮国王遅参を責め、入朝の斡旋を再び宗義智に命じた。 六月、宗義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇を正使として自らは副使となり、家臣の柳川調信や博多豪商島井宗室など二十五名を連れて朝鮮へ渡った。 漢城府で朝鮮国王に拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣を要請し、宗義智は自らが水先案内人を務めるとまで申し出た。 ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡しを要求した。 宗義智はこれに応えてすぐに柳川調信を対馬に帰し、沙乙背同と数名の倭寇を捕縛して連行させたので、断る理由がなくなった朝鮮側はついに通信使の派遣に応じた。返礼に宗義智は孔雀と火縄銃を献上した 天正十八年(1590)三月に漢城府を発した通信使は、正使に西人派の黄允吉、副使に東人派の金誠一、書状官許筬(許筠の兄)ほか管楽衆五十余名という構成で、四月二十九日に釜山から対馬に渡って滞在一ヶ月した。 このとき金誠一が宴席に轎(駕籠のこと)に乗って後からやってきた宗義智を無礼と怒ったので、謝罪に轎夫を斬首にするという事件があった。 京都に到着したのは七月下旬で、大徳寺を宿とした。しかし秀吉は小田原征伐と奥州仕置のために九月一日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。 十一月七日になってようやく秀吉は聚楽第で引見したが、宗義智とその舅小西行長が共謀して通信使は服属使節であると偽って説明して、秀吉は朝鮮は日本に帰服したものだと思い込んでいたようである。 それで秀吉は定められた儀礼もほとんど行わずに、国書と贈物(入貢)を受け取っただけで満足し、中座して赤子の鶴松を抱いて再び現れて、使者の前で小便を漏らした我が子を笑い、終始上機嫌だった。 対等な国からの祝賀の使節のつもりだった通信使一同は侮辱と受け取り憤慨したが、正使と副使にはそれぞれ銀四百両、その他の随員にまでも褒美の品々が分け与えられ、功が労われた。もちろん返答の用意もなく、儀礼に反すると通信使が抗議した後で、僧録西笑承兌が起草し、堺で逗留していた一行に国書が届けられた。
2023年08月22日
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「秀吉の唐国平定構想」 秀吉は、日本の統一を完成させるよりもかなり前から海外侵攻計画を抱いていた。これは秀吉が仕えた織田信長の支那征服構想を継ぐものだったと広く信じられているが、実はこの説は根拠に乏しい。信長の夢に従って朝鮮に近い筑前守を請うて拝命したというのも俗説である。 『朝鮮通交大紀』に現れる明との貿易を開こうと通交の斡旋を朝鮮に仲介を依頼した者(右武衛殿)を信長であるとするのは人物誤認であって、これを基に信長の遺策を秀吉が受け継いだという説がかつてあったが、それは辻褄が合わないのであり、信長の影響については想像の域を出ない。 しかしながら秀吉本人が海外進出の構想を抱いていたことを示す史料は、天正十三年(1585)以降のものに存在し、史学的には1585年が外征計画を抱いた初めであろうとされる。 関白就任直後の同年九月三日、子飼いの直臣一柳市介(直盛の兄)の書状で「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という記述がそれである。 同年四月、毛利輝元への朱印状十四カ条のなかの「高麗御渡海事」という箇所で外征の計画を披露し、六月の対馬宗義調への帰順を促す書状でも九州のことが終わり次第、高麗征伐を決行すると予告した。 また八月五日の安国寺恵瓊と黒田孝高への朱印状でも、九州征伐の後の「唐国」ついても沙汰があったと記述があった。 天正十五年(1587)になると登場頻度は増え、話も徐々に具体化した。 九州征伐の後、泰平寺で相良家家臣で連歌師の深水宗方に謁見した際、秀吉は「もはや日本もすでに統一した。この上兵を用いるならば高麗、琉球ならん」と述べて和歌を所望。宗方はこれに応えて、「草も木もなびきさみだれの 天のめぐみは高麗百済まで」と詠んで、大いに気に入られたという出来事があった。 五月九日、秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において、「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している。六月一日付で本願寺顕如に宛てた朱印状の中にも「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している。 妙満寺文書によれば、秀吉は北政所に宛てた手紙で、壱岐対馬に人質を求めて出仕を命じただけでなく、朝鮮に入貢を求めて書状を出したこと、唐国まで手に入れようと思うと述べていた。 秀吉の唐国平定計画は、長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性があった。明への入朝要求はことごとく無視されたことから、その道中の朝鮮は前段階となった。 九州征伐の後に日朝交渉は始まっていて、鶴松の誕生や小田原征伐、大仏建立などで中断はあったが、以後はもはや遠征は単なる構想ではなかった。 天正二十年(1592)六月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書には「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されているが、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。※この秀吉の唐国平定の話はすべてが嘘で重ねられているとは思えないが、秀吉が秀次に関白を譲ってからは、朝鮮半島から中国に目が向けられていたことは確かで、秀吉の老いと体力の衰えとの朝鮮半島の状況や交渉で、大きな齟齬を生じて、構想は頓挫していった。秀吉の気宇壮大な豊臣秀吉の支配下の拡大を夢見たことであろう。実際に朝鮮半島への侵攻も思いに任せず苦戦し、秀吉の死後は戦後処理に各大名は大きな代償を払わなければならなかった。無謀と言えば無謀、稚拙と言えば稚拙、現実とかけ離れた秀吉の構想は「夢の夢」に終わってしまった。
2023年08月22日
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二十二、「文禄・慶長の役」(朝鮮出兵」 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦二十年/宣祖二十五年(1592)に始まって翌文禄二年(1593)に休戦した文禄の役と、慶長二年(1597)の講和交渉決裂によって再開されて慶長三年/万暦二十六年/宣祖三十一年(1598)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である。 なお、文禄元年への改元は十二月八日に行われたため、四月十二日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正二十年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。 明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、十六世紀における世界最大規模の戦争であった。 双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。 戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。 豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。 豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。 秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。「朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年『朝鮮征伐記』において見られた。 この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではないし、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる。 堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判したが、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた。※秀吉は対馬などを通じて、日本に従属するように朝鮮半島に半ば強制的に明に伝える役目を負わせようとして、実際の状況は知らずに、事を進めようとしていた。いわば上から目線外交で日本の実力を過剰判断していたようだ。 ※加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。
2023年08月22日
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利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」とする説が知られているが、その他にも様々な説があり、詳しくは分かっていない。○安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれたという説。○二条天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使ったことが秀吉の怒りを買ったという説。○秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説。○秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、利休が信楽焼の茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉はその茶碗を処分するよう利休に命じたが、利休が全く聞く耳を持たなかったために秀吉の逆鱗に触れたという説。○秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にその事を恨まれたという説。○豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたという説。○秀吉の朝鮮出兵を批判したという説。○権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果と言う説。○交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説。○利休が修行していた南宗寺は徳川家康と繋がりがあり、家康の間者として茶湯の中に毒を入れて、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説。○茶会で秀吉に茶をこぼしたという説。 千利休の自害後、聚楽城内にあった利休聚楽屋敷は、秀吉の手によって取り壊された。 利休七哲の一人である細川忠興創建の大徳寺高桐院にはこの利休屋敷の一部と伝えられる書院が遺る。十数年後、この屋敷跡地は、忠興の長男・長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。 茶の湯の後継者としては先妻・宝心妙樹の子である嫡男・千道安と、後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。 ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、その他にも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。利休の死後数年を経て文禄四年(1595頃)、徳川家康や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免された。道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。 このため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期に姻戚関係が生じる。 三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の喝食であったその息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。 その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。件の木像は今日庵に現存する。
2023年08月22日
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二十一、「秀吉と利休」 千利休(せん の りきゅう、)大永二年(1522~1591)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。 幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。広く知られた利休の名は、天正十三年(1585)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。 考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。 宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の十七年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は諱(いみな)の「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文四年(1535)四月二十八日から天文十三年(1544)二月二十七日以前に宗易と号したと考えられる。 後に宮中参内に際して字(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の二年前、天正十一年(1583)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。 号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗る。 和泉国・堺の商家の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、十七歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。 堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。 本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正十三年(1585)秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。 天正十五年(1587)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。 秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。 天正十九年(1591)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年七十歳 。 切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。 利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。*人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)*吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)*提ル我得具足の一ッ太刀(ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)*今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)意味・わが人生七十年「えい」この知恵の剣で祖師(一宗一派の開祖)も仏も皆なくし全てのものから解脱してしまえ・上手く使えるこの太刀を引っげて]”今まさに我が身を天に放つのだ”利休忌は現在、三月二十七日および三月二十八日に大二十八で行われている。
2023年08月22日
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「小田原開城へ」 五月九日には後北条氏と同盟を結んでいた奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請に応じて本拠から小田原へと向かった。 開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。 六月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。 包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条氏側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と六月二十五日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに包囲中の五月二十七日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。 そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。四月八日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し、さらに一門で玉縄城主の北条氏勝も弟(繁広、氏成)らと共に秀吉方へ「走入」って降伏した。 六月初旬には家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している。 六月には、松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを政晴の弟の松田直秀が氏直に報告して発覚、政晴は氏直により成敗された。 また、その数日後に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しており、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。 さらに六月二十三日に北方隊が落とした八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条氏側の士気低下に拍車をかけ、六月二十六日には石垣山一夜城が完成したことも後北条氏側に打撃をもたらした。 このとき、後北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は月二回ほど行われていた後北条氏における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。 六月に入ると、氏房、氏規、氏直側近が家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講話交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、この頃には後北条領は家康に与えられることになっており、伊豆は四月中旬には家康の領国化が始まっていた。 鉢形城は六月十四日に氏邦が出家する形で開城となり、韮山城も6月24日に開城した。八王子城の落城に続いて鉢形城・韮山城と津久井城も開城し、氏規が秀吉の元に出仕したため、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした。 七月五日、氏直は滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。 この小田原征伐に関して、豊臣氏と北条氏との間では、戦いについての認識で大きなズレがあった。「関八州の太守」を自称する北条氏にとって、この戦いは「天下」を賭けた「公儀」と「公儀」の戦いであった。 しかし、天皇を推戴し、「天道」に従い、「日本国」の唯一の「公儀」として政治を執り行っている豊臣政権にとって、この戦いは「西国征伐」と同じ「征伐」であり、「公儀」を蔑み、「天道」に背き、「勅命」に従わないものを処罰する「成敗」に過ぎなかった。 戦後、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして切腹を命じた。 七月七日から九日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政の三人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。七月九日、氏政とその弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動した。 七月十一日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。その氏規と当主・氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。 一方、小田原城開城後、忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られ七月十六日に開城した。これにより、戦国大名としての後北条氏は滅亡した。 秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。後北条氏の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。 ※石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。永禄三年(1560)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。※直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。以下のように諸説あるが、これらを立証する信憑性のある史料は確認されていない。越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。
2023年08月21日
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「岩槻城」(岩付城)天正十八年(1590)五月十九日から二十二日まで続いた。○岩槻城攻撃軍の編成 計二万人・浅野長政 約三千人・本多忠勝●岩槻城守備軍(北条氏房(太田氏房)の配下。宿老の伊達房実など) 約二千人●氏房の留守軍 城方は城主の氏房が小田原城に籠城したため主力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが衆寡敵せず、籠城側は兵のほぼ半数である一千余人の死傷者を出したのち降伏した。「鉢形城」天正十八年(1590)五月十四日から六月十四日まで続いた。○鉢形城攻撃軍の編成 約三万五千人・前田利家 一万八千人・上杉景勝 一万人・浅野長政 三千人・木村重茲 二千三百人・真田昌幸 三千人・(大道寺政繁)先に松井田城開城で降伏し、道案内となっていた。●鉢形城守備軍(藤田氏邦(北条氏邦)) 約三千人 城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立、氏邦は大規模な野戦を主張したが容れられず、自城に帰還して籠城した。 彼我の差は十倍以上であったが家臣らと籠城戦を戦った。約一か月の戦いの末、開城した。鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許され、利家の領国内の能登津向(今の七尾)に知行一千石を得た。「忍城の戦い」天正十八年(1590)六月5五から七月十七日まで続いた。○忍城攻撃軍の編成 二〜五万人・石田三成 一千五百人・直江兼続 三千人・真田昌幸・信繁 三千人●忍城守備軍(成田氏長の配下) 五百余の兵と城下の民合計三千・成田泰季・成田長親・甲斐姫 忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。 当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。 攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。 秀吉は三成に対し、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。 しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であったため、水攻めの効果は薄かった。その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。 結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは七月に入っても続くことになる。鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。 その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城開城により降伏した氏長の説得により、開城した。城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。「八王子城の戦い」天正十八年(1590)六月二十三日。○八王子城攻撃軍の編成 総勢一万五千人・上杉景勝・前田利家・真田昌幸●八王子城守備軍(北条氏照の配下) 総勢三千人 八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約一万五千人が動員された。当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵、中山家範、近藤綱秀ら約三千人が立てこもっていたとされる。 先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。
2023年08月21日
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●韮山城守備軍 約三千六百四十人(城主・北条氏規)韮山城では攻撃側の十分の一の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。 籠城方は四ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康を交渉役として派遣し、領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。「下田城」○下田城攻撃軍の編成 約一万人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家))●下田城守備軍 約六百人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)清水康英は手兵六百余で約五十日に渡って籠城抵抗した後、開城した。 後北条氏配下の伊豆水軍の最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上を封鎖した。※佐竹 義重(さたけ よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏第十八代当主。北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。天文十六年(1547)、常陸国の戦国大名で佐竹氏第17代当主・佐竹義昭の子として誕生。 ※北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第五代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。※堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天文二十二年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄八年(1565)に十三歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。十六歳で、室町幕府十五代将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らがいる。 「玉縄城」先に山中城の落城の際に脱出し、落ち延びた北条氏勝はこれを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の直重・繁広らに説得され、手勢七百騎を率いて居城の玉縄城に逃げ戻り籠城した。 この際に小田原城の北を迂回し玉縄に戻り、すなわち小田原籠城軍に加わらなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。 その後、徳川麾下の本多忠勝らを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である都築秀綱・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・龍寶寺)住職の良達による説得に応じ、四月二十一日に降伏開城。以降氏勝は、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。「小田原城」 小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山城を築いた。また茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じた。「北方軍」(北国勢・信州勢など) 北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木常林(相木昌朝の子)、伴野信番(元・佐久野沢城主)を信濃国に潜入させ、佐久軍の白岩城で挙兵させたが、これは松平康国が派遣され即座に鎮圧されている。また碓氷峠に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。 前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻した。松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、先方の真田勢(真田信幸)と激戦になり、総じて兵力で圧倒的に劣勢であったため、松井田城に退却し籠城した。「松井田城」天正十八年(1590)三月二十八日から四月二十日まで続いた。○松井田城攻撃軍の編成 約三万五千人○西部(追手)上杉景勝 約一万人○東部(搦手)前田利家・前田利長 約一万八千人○北部 約七千人(松平康国・康勝 約四千人、真田信幸 約三千人)
2023年08月21日
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●韮山城守備軍 約三千六百四十人(城主・北条氏規)韮山城では攻撃側の十分の一の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。 籠城方は四ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康を交渉役として派遣し、領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。「下田城」○下田城攻撃軍の編成 約一万人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家))●下田城守備軍 約六百人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)清水康英は手兵六百余で約五十日に渡って籠城抵抗した後、開城した。 後北条氏配下の伊豆水軍の最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上を封鎖した。※佐竹 義重(さたけ よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏第十八代当主。北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。天文十六年(1547)、常陸国の戦国大名で佐竹氏第17代当主・佐竹義昭の子として誕生。 ※北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第五代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。※堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天文二十二年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄八年(1565)に十三歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。十六歳で、室町幕府十五代将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らがいる。 「玉縄城」先に山中城の落城の際に脱出し、落ち延びた北条氏勝はこれを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の直重・繁広らに説得され、手勢七百騎を率いて居城の玉縄城に逃げ戻り籠城した。 この際に小田原城の北を迂回し玉縄に戻り、すなわち小田原籠城軍に加わらなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。 その後、徳川麾下の本多忠勝らを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である都築秀綱・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・龍寶寺)住職の良達による説得に応じ、四月二十一日に降伏開城。以降氏勝は、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。「小田原城」 小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山城を築いた。また茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じた。「北方軍」(北国勢・信州勢など) 北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木常林(相木昌朝の子)、伴野信番(元・佐久野沢城主)を信濃国に潜入させ、佐久軍の白岩城で挙兵させたが、これは松平康国が派遣され即座に鎮圧されている。また碓氷峠に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。 前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻した。松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、先方の真田勢(真田信幸)と激戦になり、総じて兵力で圧倒的に劣勢であったため、松井田城に退却し籠城した。「松井田城」天正十八年(1590)三月二十八日から四月二十日まで続いた。○松井田城攻撃軍の編成 約三万五千人○西部(追手)上杉景勝 約一万人○東部(搦手)前田利家・前田利長 約一万八千人○北部 約七千人(松平康国・康勝 約四千人、真田信幸 約三千人)
2023年08月21日
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豊臣側の主だった大名は以下の通り。○主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀次、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、石田三成、宮部継潤、堀秀政、池田輝政、浅野長政、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、加藤清正、福島正則。約十七万。○水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約一万。○北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸。約三万五千。推定総計約二十一万。 後北条側の主だった諸将●小田原城:北条氏直、北条氏政、北条氏照、成田氏長、垪和康忠、松田憲秀、笠原政晴、笠原政尭●その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城) 豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。 一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も五万余の精鋭部隊を小田原城に集め、そこから最精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。 主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。 野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。「小田原城包囲北条支城攻略」天正十八年(1590年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着し29日に進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。山中城○山中城攻撃軍の編成 合計六万七千八百人右軍 計一万八千三百人(池田輝政 二千五百人、木村重茲二千八百人、長谷川秀一三千六百人、堀秀政 八千七百人、丹羽長重 七百人)中軍 計一万九千五百人(豊臣秀次 一万七千五百人。家老中村一氏など)左軍 徳川家康 三万人その他、渡辺了、仙石秀久など●山中城守備軍 四千人(城主 松田康長、援軍 北条氏勝、援軍間宮康俊、松田康郷、蔭山氏広等) 秀吉は山中城攻撃軍の大将を兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していた。 山中城では間宮康俊勢により攻め手の一柳直末が討死したものの、小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの城は豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城し、主将の松田康長は北条氏勝兄弟を逃したのち、手勢を率いて玉砕した。間宮康俊ら多くの将兵が討ち取られた。 その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に鷹之巣城を落とした。足柄城は佐野氏忠(北条氏忠)が守備していたが、山中城の陥落を知ると氏忠は主な兵を率いて城を退出して小田原城に合流したため、翌日に徳川麾下の井伊直政隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、四月一日に落城した。経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。「韮山城」天正十八年(1590)三月二十九日から六月二十四日まで続いた。○韮山城攻撃軍の編成 合計四万四千十人○右軍 計八千四百人蒲生氏郷 四千人、稲葉貞通 一千二百人)○中軍 計九千七百人(筒井定次 一千五百人、生駒親正 二千二百人、蜂須賀家政 二千五百人、福島正則 一千八百人、戸田勝隆 一千七百人)○左軍 計九千人(細川忠興 二千七百人、森忠政 二千百人、中川秀政 二千人、山崎片家・岡本良勝等 二千二百人)○旗本 織田信雄 一万七千人
2023年08月21日
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北関東の領主たちは家康から離れ、一斉に羽柴秀吉に書状を送り、秀吉に関東の無事の担い手になることを求めた。 秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの、政権内での東国についての関心は低く、十月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった。 そしてそれさえも翌天正十二年(1584)に小牧・長久手の戦いが始まると無化してしまった。 天正十一十一1月末、沼尻の合戦が起こり北条氏と北関東の領主たちは全面戦争に突入した。天正十二年になると北条氏は宇都宮へ侵攻し、佐竹氏も小山を攻撃した。 両者は四月から七月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した。 天正十三年(1585)から十五年(1587)にかけて秀吉が西国計略を進める裏で関東の無事は放置され、北関東の領主たちは苦境に陥った。 北条氏は天正十三年一月に佐野を攻撃し、当主の佐野宗綱を戦死させ氏政の六男・氏忠を当主に据えることに成功した。また同月までに館林城の長尾顕長を服属させた。 館林は南関東と北関東の結節点に当たり、館林攻略によって北条氏の北関東への侵攻が容易になった。九月には真田領・沼田に侵攻し、十四年四月にも再度侵攻した。 北条氏は並行して皆川氏にも攻撃を加えた。天正十四年五月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した。皆川氏は上杉氏の助力を得て撃退に成功するが、天正十五年に講和し北条氏の支配下にはいった。 また、天正十三年閏八月には家康が真田を攻撃し、翌十四年(1586)にも再度侵攻を計画したが、秀吉が間に入って未遂に終わった。 天正十五年十二月、秀吉は北関東の領主たちに北条氏の佐野支配を認めることを通知し、現状を追認することを明らかにした。 天正十六年(1588)二月、北条氏直は笠原康明を上洛させ沼田領の引き渡しを条件に豊臣政権に従属を申し入れた。 「五畿内同前」と重要視していた九州の平定を天正十五年中に終えた秀吉は、天正十六年四月、後陽成天皇の聚楽第行幸を行った。この後陽成帝の行幸は秀吉が創り上げた新秩序承認の場として重要な意味を持っており、東国の領主たちも使者を派遣したが、北条氏は使者を派遣しなかった。 五月、東国取次の家康は北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め、八月には氏政の弟の氏規が上洛し、十二月に氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えたがこの約束は履行されなかった。 宇都宮周辺部では壬生城および鹿沼城の壬生義雄がもともと親北条であり、宇都宮家の重臣で真岡城城主の芳賀高継も当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正十七年(1589)終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。 さらに常陸南部にも進出し、奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなど、一族の悲願である関東制圧は目前に迫った。しかし、追い詰められた義重、国綱、佐野房綱らは秀吉に近づくこととなる。豊臣政権側としても、以前から後北条氏を警戒していたようである。天正十七年七月、秀吉は北条氏が従属の条件としていた沼田領の割譲について裁定を行った。秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内三分の二を北条氏、三分の一を真田氏のものと裁定した。 秀吉は天正十三年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことは天皇の意思に背くことを意味した。 しかし、北条氏は十一月に沼田の内、真田領となった名胡桃に侵攻しこの裁定を覆したのであった。秀吉は十一月二十四日付けに5ヶ条からなる朱印状を発給し最後通牒を行った。 秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。 秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し、天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした、と述べている。 十一月、秀吉は関東の領主たちに、氏政の十一月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行うことを通知した。また、家康に対しても北条討伐の意向を言明し、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は十二月に上洛して秀吉に同意の意向を伝えるとともに対北条戦の準備を開始した。 天正十八年(1590)一月、北条氏は小田原で籠城することを決定した。また、家康は三男の長丸(後の秀忠)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた。 後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ[要出典]、その頃から万が一の時に備えて十五歳から七十歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。 また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。 一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。 また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀二十万石あまりを徴発し、天正大判一万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親や宇喜多秀家、九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送に宛がわせた。 毛利輝元には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく二つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力二十万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊三万五千である。 これに秀吉に恭順した佐竹氏、小田氏、大掾氏、真壁氏、結城氏、宇都宮氏、那須氏、里見氏の関東勢一万八千が加わった。
2023年08月21日
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二十、「小田原征伐」 小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正十八年(1590)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。 後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており[信頼性要検証]、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。 ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正十八年)とも呼ばれた。 戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康は武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政や足利晴氏などを排除し、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。 戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。 信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。 武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。 なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正八年(1580)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。 氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。 武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、織田信長とも和睦を試みているが天正十年(1582)に信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。 この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの戦後の恩賞は皆無であり、後北条氏は織田家へ不満を抱くようになっていった]。 しかし、同年末の本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃した直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。 織田氏家臣の滝川一益の軍を敗退させた神流川の戦いを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間に天正壬午の乱が勃発した。 この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からも水野忠重が援軍として甲斐に出兵していた。 また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された。 家康は北関東の佐竹義重、結城晴朝、皆川広照、水谷正村らと連携しながら北条氏打倒を目指した。北条氏は一時は東信濃を支配下に置いたが、真田昌幸が離反。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、十月に織田信雄、織田信孝からの和睦勧告を受け入れ、後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。 だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった。後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見氏を事実上の従属下に置いていた北条氏は、北関東に軍勢を集中させることとなった。 北条氏は翌天正十一年(1583)一月に早速前橋城を攻撃すると、三月には沼田にも攻め込んだ。 六月、北条氏と家康の間で婚姻が成立した。この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条の後ろ盾になってくれることを期待していた北関東の領主たちに衝撃を与えた。
2023年08月21日
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「長宗我部と織田・徳川との同盟」 天正十年六月の清洲会議で伊賀・伊勢・尾張南半を配分された信雄は、勝家と結んだ信孝の最期をみて不安を感じ、家康のもとを頼った。 家康は当時小田原に本拠をおく後北条氏と同盟していたので、秀吉と対決することになった場合、背後から衝かれることのない点が戦略上の強みであった。 天正十二年三月、信雄は伊勢長島城にみずからの有力家臣で秀吉に内通した疑いのあった津川義冬・岡田重孝・浅井長時を招いて殺害した。家康の指示によるものであった。 この事件を契機として小牧・長久手の戦いが始まったが、当時、長宗我部氏は未だ四国内の各所に敵を抱えており、渡海して秀吉の勢力圏を攻撃することは現実的ではなかった。にもかかわらず、長宗我部氏は渡海計画を掲げ続けた。 津野倫明によると、現実味の乏しい渡海攻撃を喧伝し続けたことは織田信雄・徳川家康との同盟関係を維持するためであり、長宗我部氏にとってこの同盟には三つの利点があった。 第一は、東予の金子氏との同盟維持である。金子氏は中予の河野氏及びその同盟者の毛利氏、ひいては秀吉とも敵対しており、天正十二年(1584時点では毛利勢の伊予上陸もあって大きな脅威を感じていた。長宗我部氏は自陣営の優勢を伝えることで、金子氏の離反を回避しようとしていた。 第二は、毛利氏の攻勢を抑止することである。毛利氏と秀吉は和睦していたものの、当時なお中国における両勢力の境界線確定(中国国分)は解決しておらず、また先に毛利氏から織田氏に寝返り、現在は秀吉の傘下にある来島通総の伊予帰国を巡って対立していた。 秀吉が反秀吉陣営に敗れれば、中国国分・来島氏問題は毛利氏優位の解決が期待できたため、毛利氏は反秀吉陣営の一員である長宗我部氏への攻勢に出なかった、と津野は述べている。 第三は、秀吉による四国出兵の抑止である。長宗我部氏の渡海攻撃に備えるため、秀吉は和泉方面の防備を増強しなければならず、また織田・徳川氏への対応や帰趨の明らかでない毛利氏への警戒もせねばならず、その分十河氏などへの支援に振り向ける兵力は減少した。長宗我部氏にとっては、秀吉による本格的な四国攻撃を回避することが同盟の最大の利点であった。 小牧・長久手の戦闘に先だって、家康は長宗我部元親のみならず紀伊の畠山貞政、越中の佐々成政らに檄を送り秀吉の背後を衝くよう要請して秀吉包囲網を形成した。 秀吉は、成政に対し上杉景勝・真田昌幸・丹羽長秀らをあて、和泉および淡路には仙石秀久・中村一氏・蜂須賀家政らの軍勢を派兵させて長宗我部勢に備えさせた。 「羽柴と毛利の同盟」 信長の時代には毛利氏との関係は対決基調であったが、毛利輝元は天正十一年の賤ヶ岳の戦いののち、祝勝の品を届けて秀吉に接近し、叔父(ただし輝元より年少)にあたる小早川元総(のちの毛利秀包)や従兄弟の吉川経言(のちの広家)を差し出して秀吉との同盟関係に転じた。 元総は秀吉より「秀」の字を賜り、小牧・長久手の戦闘にも秀吉勢として参加した。天正十三年三月の紀州攻めでは、輝元は秀吉の命令により小早川隆景率いる毛利水軍を送っているので、この頃毛利氏は明確に秀吉の軍事行動に動員される服属大名となった。「長宗我部による四国統一について」 秀吉による四国攻めが始まる以前、元親が四国統一を達成していたかについては統一は完成していたとするのが通説である。しかしながら統一は完成していないとする研究者も複数おり、見解は分かれている。※毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。
2023年08月20日
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「引田城落城」 その頃、阿波白地で兵を整えた元親は二万の軍勢を率いて讃岐へ侵攻。寒川郡田面山に陣を敷き、虎丸城攻めを開始する。 同月二十一日、秀久は長宗我部軍の香川信景率いる讃岐勢及び、大西頼包率いる阿波勢の計五千が引田に向け進軍中であるとの報を受け、奇襲をかけるため手勢を三つの隊に分け仙石勘解由、仙石覚右衛門、森権平をそれぞれ将とし、入野山麗に伏兵をおいた。 秀久の読みは的中し、入野原にさしかかった阿讃勢に対し鉄砲を浴びせ、奇襲を受けた阿讃勢は一時退却をせざるを得なくなった。秀久本隊も追撃をかけ優勢に戦いを進めていたかに見えたが、数に勝る阿讃勢はすぐさま隊を立て直し次第に戦を優位に進めるようになった。 阿讃勢が会戦しているとの報を受けた元親は配下の桑名親光、中島重勝隊らを救援に向かわせた。土佐勢の増援が駆けつけたことで長宗我部勢が仙石勢を完全に圧倒するようになり、完全に隊を乱した仙石勢は多くの将兵を失いながら引田城への退却を余儀なくされた。 この戦いで仙石勘解由は前田平兵衛に討たれ、殿をしていた森権平は稲吉新蔵人に討たれてしまう。また、混乱の最中に秀久は幟を取られる失態を見せたという逸話もある。 一方の長宗我部勢は中島重勝、桑名藤十郎等が討死した。長宗我部勢はそのまま引田へ進撃、布陣した。翌日秀久の籠もる引田城を取り囲み総攻撃をかけたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を出来ずに城を逃げ出さざるを得なかった。 四月には長宗我部氏に服さず自立の姿勢を見せていた木津城の篠原自遁が、香宗我部親泰に追われて淡路に敗走した。同年冬から翌年にかけては、毛利氏が秀吉と和睦したことにより毛利・長宗我部の関係が冷却化し、毛利氏と友好関係にある伊予の河野通直・西園寺公広への長宗我部方の攻勢が再開された。 一方、天正十一年(1583)の末に長宗我部氏と秀吉の間で和睦が協議されたとする説がある。 天正十一年十二月に毛利氏の重臣である安国寺恵瓊と林就長が連名で同じく重臣である佐世元嘉に充てた書状の中に長宗我部元親が秀吉に対して讃岐と阿波を放棄して伊予を渡して欲しいと申し入れているという文言がある。天正十二年(1584年)正月、長宗我部氏の伊予侵攻に対応して、毛利氏は河野氏援助のため伊予に派兵したため、織田政権時代からの長宗我部・毛利の関係が崩れた。 三月から始まった小牧・長久手の戦いでも元親は徳川家康・織田信雄と結び、紀伊の根来・雑賀衆と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。 六月、元親は長期の攻城の末に讃岐十河城を攻略した(第二次十河城の戦い)。この年の後半には伊予における長宗我部氏の攻撃は激しさを増し、十月十九日には長宗我部方が西園寺公広の黒瀬城を攻略した。 これに対抗して毛利氏も伊予に児玉就英らを増派し、河野・西園寺氏への支援を強化した。だが、十一月に入ると、家康・信雄と秀吉の間で和議が結ばれることになる。 天正十三年(1585)三月から四月にかけて秀吉は紀州攻めを行い、元親の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。これによって長宗我部氏は軍事的に孤立した。
2023年08月20日
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※三好 康長(みよし やすなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。阿波岩倉城主、河内高屋城主。三好長秀の子で元長の弟、康俊の実父。三好長慶の叔父。諱は康慶ともする。剃髪して咲岩(しょうがん)と号した。三好氏の一門衆で、甥に当たる宗家当主・三好長慶に従い、その弟で阿波国主の三好実休に仕えて、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。三好の本貫地である阿波を拠点とする。 これらの軍は六月二日に四国へ向けて出航する予定だったが、当日朝に本能寺の変で信長が自害したため作戦は立ち消えになった。 集められた軍勢のなかには、本能寺の変の報を受けて動揺し、逃亡したものも少なくなかった。また光秀の女婿にあたる信澄は信孝・長秀によって野田城(大阪市福島区)で殺害された。 しかし、秀吉東上の大行軍(中国大返し)の報によって動揺は沈静化し、六月十二日、摂津富田(大阪府高槻市)に着陣した秀吉軍に合流した。 このとき、信孝は名目的にではあるが総大将に推された。翌六月十三日の山崎の戦いにも光秀討伐軍として参戦した。 後ろ盾である信長を失った康長は勝瑞城を捨てて逃亡した。長宗我部氏は存亡の危機を脱し、一転して阿波・讃岐侵攻の絶好の機会を迎えた。 「羽柴と長宗我部の対立」 天正十年(1582)六月、長宗我部元親は東予・西讃の諸将を動員し、香川信景三千、長尾・羽床・新名氏ら三千の兵力を西長尾に集結させて香川親政を総大将となした。七、月、これらの兵はまず那珂・鵜足郡へ侵攻し、聖通寺城(現宇多津町)の奈良氏を敗走させた。 次いで香西佳清の藤尾城を攻めて降伏させた。さらに十河氏の名代三好隼人佐が守る十河城を攻めた(第一次十河城の戦い)が、攻略はできなかった。また、淡路国の菅達長が長宗我部氏に呼応して淡路国内の羽柴軍の拠点を襲撃している。 三月、元親は中富川の戦いで十河存保を破り、阿波勝瑞城・岩倉城を攻略した。さらに同年、虎丸城に逃れた存保を追って讃岐に侵攻した。 同年十月、元親は親政勢と合流し、合計三万六千の軍勢で十河城を包囲したが攻略には至らず、冬にはいったん帰国した。この間に存保の救援要請に応じて、秀吉から仙石秀久が小豆島に派遣された。仙石は屋島を攻撃したが攻めきれず退却した。 天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際し、元親は柴田勝家・織田信孝と結んで秀吉を牽制したため、秀吉は秀久を淡路洲本城に配置してこれに備えた。 同年春、元親は再度讃岐に出陣して十河城・虎丸城を包囲したため、秀久を援軍に送ったが敗退して小豆島を維持するにとどまった(引田の戦い)。※引田の戦い(ひけたのたたかい)は、天正11年(1583年)、讃岐国大内郡(現:香川県東かがわ市)の引田城附近で行われた長宗我部元親と羽柴秀吉の命により派遣された仙石秀久らとの戦いである。 「信長から秀吉に引き継いだ四国攻め」四国統一に向け阿波・讃岐へと兵を繰り出していた元親は両国の一大勢力であった三好氏を駆逐し、天正八年(1580)までに両国をほぼ制圧した。一方、中国攻略を進めていた織田信長は元親の台頭をよしとせず土佐・阿波二国の所領安堵を条件に臣従するよう元親に迫るが、四国統一を悲願とする元親はこれを拒否し、これまで良好な関係を築いてきた信長と敵対する道を選んだ。 信長と元親の敵対に乗じる形で、かつて信長と敵対していた三好一族の十河存保は失地回復を目論み信長に接近し、その後ろ盾を得ることに成功。存保らは天正九年(1581)、再び讃岐へと反攻を開始した。 天正十年(1582)、信長は三男の神戸信孝を総大将に丹羽長秀、津田信澄らを中心とする四国討伐軍を編成し、堺にて元親討伐の準備を整え始めた。しかし、同年本能寺の変により信長が横死すると、信孝と長秀は明智光秀の娘婿である信澄が明智方へ内通していると疑い野田城にて信澄を討ち取るなど、討伐軍内部に混乱が生じたため四国討伐は立ち消えとなってしまった。 本能寺の変が起こると三好康長は近畿へ逃避し、三好側の反攻勢力は勢いを失ってしまった。 元親はこれを機に阿波・讃岐の反攻勢力の一掃を図り両国の完全掌握を目指した。中富川の戦いにて存保を破り、さらに八月には雑賀衆の助力も得て存保の立て籠もる勝瑞城を攻め落とすことに成功。阿波に留まることが出来なくなった存保は讃岐虎丸城へと遁走し、秀吉に救援を求めた。 「秀吉、仙石秀久を派遣」 天正十一年(1583)、中央では秀吉と柴田勝家による主導権争いが日増しに激化し賤ヶ岳の戦いが起ころうとしていた。そのため存保の要請に対して多くの軍勢を割くことはできずにいた。 秀吉の命を受けた仙石秀久は小西行長、森九郎左衛門等と二千の軍勢を率い、高松頼邑の守る喜岡城や牟礼城等、諸城の攻略に向かうもこれらを落とせず、一旦小豆島へと撤退する。同年四月に秀久と九郎左衛門は再度讃岐へ侵攻し、海上からすぐに着岸できる引田城に入城した。 ※仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。天文二十一年(1552)一月二十六日、美濃国の土豪・仙石治兵衛久盛の四男として美濃国加茂郡黒岩(現在の加茂郡坂祝町)に生まれた
2023年08月20日
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十八、「四国攻め」 四国攻め(しこくぜめ)は、安土桃山時代の天正十三年(1585)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。「秀吉の四国攻め・四国平定に諸説があって詳細には分かってはいない。信長からの四国攻めから、本能寺で信長の横死下では状況ががらりと変わって、信長の時とは四国攻めの情勢は変遷した」 資料によっては四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。その前段階である、本能寺の変によって中断された天正九年(1581)から一年間ににかけての織田信長による四国進出の過程についても説明する。※長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第二十一代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和三年には正三位が贈られた。長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた十五代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。 「友好から対立へ」天正三年(1575)、土佐を統一した長宗我部元親は家臣の反対を押し切り、中島可之介を使者として織田信長の元に派遣した。 目的は元親の長男弥三郎の烏帽子親を信長に引き受けてもらうことだった。 交渉は成功し、信長は弥三郎に一字を与えて信親と名乗るよう返書を出した。この時信長は元親に阿波での在陣を認め、また「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したとされる。 天正八年(1580)六月、元親は香宗我部親泰を安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。 また阿波征服のために、康俊の父三好康長が長宗我部氏に敵対しないように信長から働きかけてくれるよう依頼し、いずれも了解を得た。この頃は明智光秀が取次役として、元親・信長の交渉窓口となっていた。 なお、この時のことを記した『信長公記』天正八年六月二十二日条において、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現していることが注目される。この「捕佐(=輔佐)」の意味については不詳とされてきたが、この当時の土佐国は長宗我部氏によって統一されていたものの、土佐一条家の当主である一条内政が未だに元親の庇護下に置かれており、信長は内政=国主・元親=輔佐すなわち陪臣と位置づけたと解する説が浮上した。つまり、信長は長宗我部氏の土佐支配そのものを暗に否認して元親の行動に一条家の家臣として織田政権の秩序に従属するように求めたというのである。 なお、一条内政は天正九年(1581)二月に反乱に連座して、元親によって土佐から追放されているが、これは単なる土佐国内の問題ではなく、天正八年六月以後の状況の変化によって元親の織田政権政策が強硬寄りに変更されて「信長ー内政ー元親」の秩序を拒否した結果とされている。 同じ頃に康長と秀吉が接近しはじめていた。秀吉の目的は、当時交戦中だった毛利氏に対抗するため、三好氏の水軍を味方につけることにあった。 両者の提携に際し、遅くとも天正九年(1581)二月までに秀吉の甥・孫七郎(後の豊臣秀次)が康長の養子となっていたと藤田は推定する。 天正九年(1581)三月、康長は讃岐から阿波に入り、三好康俊を長宗我部氏から離反させた。同年六月、信長から香宗我部親泰に朱印状が与えられた。その内容は長宗我部氏と三好氏が協力することを求めるもので、信長の四国政策が三好氏寄りに変更されたことを示すものだった。 長宗我部氏から圧力を受けた阿波の三好氏、伊予の河野氏や西園寺公広らは信長に救援を求めたため、信長は元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。 しかし元親は、四国征服は信長が認めたことであり、また獲得した領地は自力で切り取ったものであり信長の力を借りたものではなく、指図を受けるいわれはないとはねつけた。 光秀は石谷頼辰を派遣して元親を説得したが、おそらく天正九年(1581)後半頃には織田・長宗我部の交渉は決裂した。 一方、長宗我部氏は信長と対立関係にあった毛利氏とも協調関係にあった。両氏に関係が生じたのは、阿波の親長宗我部勢力であった大西覚用が遅くても天正五年(1577)二月までに毛利方に通じたために四月に長宗我部氏が大西氏を攻めたものの、同年七月までに毛利氏が現状(大西氏の長宗我部氏への服属)を認めて以降のことであり、大西氏や讃岐の親毛利勢力で天正七、年(1579)以降長宗我部氏の傘下に入った香川信景を通じて協調関係にあったと考えられるが、長宗我部・織田の決裂に伴い、天正九年(1581)八月までには讃岐天霧城にて対織田同盟を結んだ。また東伊予の金子元宅とも天正九年(1581)中には同盟を結んだ。 同年九月までに、篠原自遁や東讃岐の安富氏も小寺(黒田)孝高を介し、当時中国攻めの任にあった秀吉に人質を差し出して従属した。 これに伴い、秀吉は孝高に淡路攻撃を指示した。十月、秀吉は当時淡路志知城に進出していた孝高に、長宗我部氏に抵抗する篠原の木津城及び森村春の土佐泊城への兵糧・弾薬の補給を命じた。 十一月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡り、まず由良城の安宅貴康を降した。次いで岩屋城を攻略して生駒親正に守備させ、仙石秀久に淡路の支配を命じた。 また安富氏の秀吉への従属により、安富氏の勢力圏であった小豆島も同年中には秀吉の支配下に入った。天正十年四月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。 天正十年(1582)五月上旬、信長は三男の織田信孝を総大将、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として四国方面軍を編成し、四国攻めの指示を下した。 三好康長はその先鋒として勝瑞城に入り、阿波の親三好勢力を糾合して一宮城(徳島市一宮町)・夷山城(徳島市八万町)を攻略した。長宗我部方の野中三郎左衛門・池内肥前守らは一宮城主一宮成祐・夷山城主庄野和泉守を人質に取って牟岐(徳島県海部郡)に退却した。 五月二九日には信孝の軍は摂津住吉(大阪市)に着陣し、また信澄・長秀勢は摂津大坂、頼隆勢は和泉岸和田に集結し、総勢一万四千の軍が渡海に備えていた。
2023年08月20日
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十七、「豊臣氏の刀狩令」豊臣秀吉が発した刀狩令は次の三か条からなる。第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。 また、没収された武器類は方広寺大仏殿の材料とすることが喧伝された。この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と淡路国の加藤嘉明などの近侍大名・武将の一部、畿内・近国主要寺社に限られる。 だが、豊臣政権の法令は、天正十八年(1590)八月十日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた。 秀吉は、関白就任三か月前の天正十三年(1585)三月から四月に根来衆・雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第一条、第三条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている。 同年六月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、十月実行させた。『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ天正十五年)1587)にバテレン追放令が出された肥前国(佐賀県、長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後百人近い役人を投入し一万六千本の刀を没収した。 ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されるなど、刀狩後も農村には大量の武器が存在したままで、完全な武装解除がされたわけではない。 刀狩りは、1人当たり大小一腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い。 秀吉は、刀狩に先行して、天正十五年(1587)ごろ、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。 それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあった。この施策は江戸幕府にも継承された。 さらに、天下統一後の天正十八年(1590)「浪人停止令」で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出したが、その第三条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示した。一方、武家奉公人の農村内での武器の所持を例外として認めていた。 以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。 そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んでおり、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。
2023年08月20日
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「和議と直春の死」 四月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。九月二四日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。 だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。 翌天正十四年(1586)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説と病死説がある。「国人衆その後」 湯河氏は直春の子湯河光春(勝春)が三千石を安堵された一方で、山本・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は一万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは三千五百石だった。生き残った熊野の諸将はおおむね堀内氏に統括されたが、色川氏などは堀内氏との因縁からその指揮下に入ることを嫌い、朝鮮出兵の際には藤堂氏の指揮下に入った。 天正十九年(1591)に秀長が没すると、養子の秀保が後を継いだが、秀保は文禄四年(1595)に急死した。以降の紀伊は秀吉の直轄地となり、大和郡山城主の増田長盛が代官として支配を行った。 「紀伊国一揆」 この戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたが、各地の地侍はその後も蜂起を繰り返した。守護の支配さえ名目に過ぎなかったのが豊臣秀長領、次いで秀吉直轄領となり、天正検地や刀狩が行われた。次の浅野氏の統治下でも慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られるだけでなく社会的地位まで否定された。こうした急速な近世的支配に対する反動が土豪一揆という形で噴出した。 天正十四年八月、熊野から日高郡山地郷(現田辺市龍神村)にかけての山間部で一揆が起こり、吉川平介らによって鎮圧された。慶長三年(1598)九月、前月の秀吉の死に乗じて再び日高郡山地郷で一揆が起こり、増田長盛の指揮のもと堀内・杉若氏ら日高・牟婁郡の諸将によって老若男女の別なく撫で斬りにするといった弾圧の末に鎮圧された。 慶長十九年(1614)十二月、大坂冬の陣に乗じて奥熊野の地侍・山伏らが蜂起し、新宮城を攻撃した。 一揆勢は熊野川で敗退し、浅野勢の奥熊野侵攻によって二十日足らずで鎮圧された(北山一揆)。この一揆で三六三人が処刑された。翌二十年(1615)四月、大坂夏の陣の勃発に伴い、日高・有田・名草の地侍が浅野長晟が留守の和歌山城を狙って蜂起したが、再度鎮圧された。処刑者は四四三人に上った。浅野側はこの2回の一揆を紀伊国一揆と称した。紀伊国一揆の敗北によって、土着勢力の抵抗は終息した。 紀州征伐はその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。 比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。 またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない ―― このような寺社の思想を「無縁」と呼ぶ。 織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。 これは外部に対する独立・中立性の放棄であり、無縁の思想からすれば受け入れられないものだった。こうして比叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。 羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長ほど苛烈では無かったものの、基本的には信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。 天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の思想は相容れないものだった。 もっとも、この時代以前にも、例えば平清盛は朝廷より比叡山攻めを命じられており、また南北朝の争いにおいては比叡山は南朝方を支援するなどしている。 不可侵性が犯されたり、非中立的に外部権力との関わりをもったりしたのは、戦国時代が初めてというわけではない。「一揆と地侍」 戦国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。 両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかった。信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、単なる被支配者である農民とに国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。 その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり、惣国一揆が再び芽生えることはなかった。 やがてこうした体制は、徳川政権の時代に入ると士農工商による強い身分制度や藩制度などへと強化された。
2023年08月20日
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「高野山降伏」 四月十日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。 高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、十六日に客僧の木食応其を使者に立てた。 応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された。その後、十月二十三日までには高野山の武装解除が完了した。。 「太田城水攻め」 雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら五千人が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。三月二十五日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。「小雑賀の戦い」 太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた。佐武伊賀守は的場源四郎と共に小雑賀の城に籠城し、三十二日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。 「太田城攻防戦」 太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である。 この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎるために水攻めに変更した。 強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。 これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために1日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。 また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長七、二km、高さ四mに及んだ。 上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった。 三月二八日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守重友は所領を没収された。 ※中川 秀政(なかがわ ひでまさ、永禄十一年(1568)は、戦国時代の武将。中川清秀の嫡男で、中川秀成の兄。妻は織田信長の娘・鶴姫。右衛門尉。はじめ父と共に織田信長に仕えた。信長没後は羽柴秀吉に仕え、1583年に父が佐久間盛政の攻撃を受けて賤ヶ岳の戦いで戦死すると、家督を継いで摂津国茨木に五万石を領した。※宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨三郡の五十七万四千石を領していた。 四月五日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。 四月八日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌九日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。 籠城側はこれを神威とみなした。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、十三日までには修理を完了させた。十七日に織田信雄、十八日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる。 秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。 四月二十一日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌二十二日、主だった者五三人の首を差し出して降伏した。 五三人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻二十三人を磔にかけた。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。 秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。 これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された。 日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。 紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。 また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正十三年閏八月から始まり、翌々年の同十五年(1587)秋以降に本格化する。
2023年08月20日
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「根来・雑賀衆の敗因」 根来・雑賀の鉄砲衆は、その質量両面において戦国時代随一の鉄砲隊だったと言ってよい。だが、彼らが守りを固めていた和泉の前衛城砦群は、上方勢の攻撃開始から三日間で崩壊した。これは紀州側にとって完全に見込み違いの結果だった。 戦うたびに大きな犠牲を払うような不経済なことは極力避けたいというのが戦国大名の心理であった。 ゆえに戦闘において前衛が大損害を被れば、それ以上無理押しをしないのが彼らの一般的な対応だった。そのため、根来・雑賀衆は、相手がどれほどの大軍であっても、先陣を切って攻めてくる敵の精鋭さえ撃ち倒してしまえばそれで敵を退けることができると考えていたと思われる。 だが、この時点で既に他大名を圧倒する国力と兵力を有していた秀吉は、兵力の損耗をさほど重んじなかったため、根来・雑賀衆側の思惑が外れた、との見方がある。 「根来・粉河・雑賀炎上」 三月二十三日、和泉を制圧したのを見届けて秀吉は岸和田城を発し、根来寺に向かう。根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった。 残っていた僧侶は逃亡し、根来寺はほぼ無抵抗で制圧された。その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。 根来寺は三日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという。根来寺炎上の原因については、根来側による自焼説、秀吉による焼き討ち説と兵士による命令によらない放火または失火説がある。同日、もしくは翌二四日には粉河寺が炎上した。 少しさかのぼって二十二日、有田郡の国人白樫氏に誘われて上方勢に寝返った雑賀荘の岡衆が同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。 同日土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た。 翌二十三日に上方勢の先鋒が雑賀荘に侵入し、24日には根来を発した秀吉も紀ノ川北岸を西進して雑賀に入った。同日、上方勢は粟村の土橋氏居館を包囲した。 また上方勢は湊・中之島一円に放火し、他の地域もおおむね半分から三分の二は焼亡したが、鷺森寺内及び岡・宇治は無事だった。こうして雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」と評される最期を遂げた。そんな中、二十三日には秀吉は紀三井寺に参詣する。 「紀南の制圧」 雑賀衆残党が太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久・中村一氏・小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。 上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春は抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した。 このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町)を攻囲した(坂ノ瀬合戦)。 有田郡は紀伊守護の家格を持つ畠山政尚・貞政父子の本拠である。畠山氏は実権はないものの、秀吉との抗争に当たっては根来・雑賀衆に名目上の盟主として担がれており、上方勢の攻撃対象になった。 そして畠山被官の白樫・神保氏は前述の通り上方勢に寝返った。三月二十三日以降二十五日以前に、上方勢は畠山氏の支城鳥屋城(現有田川町)を攻め落とし、さらに本拠の岩室城(現有田市)も陥落して畠山貞政は敗走した。 日高郡でも三月二十三、二四日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。 直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。 しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、二八日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。 田辺に入ってきた上方勢三千余人は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。 牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ千人を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は千五百人の兵で湯河勢を追った。 四月一日、仙石ら三将は潮見峠(田辺市中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。 一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が四月十三日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。
2023年08月20日
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