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2023年08月23日
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カテゴリ: 太閤の夢の夢」



朝鮮水軍の動向


 五月七日、海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して 李舜臣 率いる朝鮮水軍九十一隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった五十隻の日本輸送船団は昼夜戦で十五艘が撃破される( 玉浦の戦い )。


 五月八日、朝鮮水軍は赤珍浦にいる日本輸送船 13 隻を攻撃、日本船十一隻は撃破される。


 五月二十九日、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本輸送船団を攻撃。 泗川海戦


 六月二日、 唐浦の海戦


 六月五日、 第一次唐項浦海戦


 六月七日、 栗浦海戦


 七月七日、海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務に当たっていた部隊から急遽 水軍 を編成して対抗した。しかし、 脇坂安治 の抜け駆けが主な原因となり一千五百人の日本水軍が敗北する ( 閑山島海戦 )


 長年の 倭寇 対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であった。七月七日の 閑山島海戦 で日本水軍が敗北すると日本軍は海戦の不利を悟って、出撃戦術から水陸共同防御戦術へ方針を変更した。 当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備え付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や 大鉄砲 を備えて、水陸併進して活動するようになった。


 この方針転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山浦攻撃、熊川攻撃など、朝鮮水軍は被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、朝鮮水軍の出撃回数は激減した。 日本軍は巨済島にも城郭を建設し、そこに 豊臣秀勝 の軍勢を置き、日本水軍との連携を深めさせた。当時の船は航海力も未熟で、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能した。


 中でも釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以来、日本の肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。


 朝鮮水軍の李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。」として、九月一日、朝鮮水軍は総力を挙げ釜山奪回を目指したが、日本軍に撃退され、朝鮮水軍は鹿島万戸・ 鄭運 が戦死するなど損害を多く出して撤退した( 釜山浦海戦 )。


 これまで連続的に出撃を繰り返してきた朝鮮水軍は、この戦いを境に目立った活動を停止する。ようやく活動を再開するのは翌年二月の熊川への攻撃である。李舜臣が釜山前洋に現れたのはこの時が最初で最後となった。これにより釜山は日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。


明軍参戦


 七月十六日、明軍が到着し、明軍副総裁・ 祖承訓 率いる遼東の明軍五千兵が平壌を急襲したが、これを一番隊の小西行長らが大いに破った(第一次平壌城の戦い)。


 明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなった。


他方、明朝廷は祖承訓の七月十六日の平壌戦の敗北という事態に、 沈惟敬 を代表に立て、日本軍に講和を提案。以降、日本と明との間に交渉が持たれることになる。


 七月二十九日、朝鮮の将 金命元 ( 都元帥 ) 率いる朝鮮軍一万人あまりが平壌を攻撃したが、これを一番隊の小西行長らが大いに破り、朝鮮軍は多くの損害を出し撤退した(第二次平壌城の戦い)。


オランカイ侵攻


 七月下旬から八月中旬までの期間、加藤清正は、「オランカイ(女真族)」の戦力を試すために、 豆満江 を渡って 満州 に入り、近在の 女真 族の城を攻撃した。


 現在の 局子街 付近であるという。それまで女真は度々国境を越えて朝鮮を襲撃していたため、咸鏡道の朝鮮人三千人もこれに(加藤清正の軍勢八千人に)加わった。まもなく連合軍は城を陥落させ、国境付近に宿営したが、日本軍は女真からの報復攻撃に悩まされた。依然優位には立っていたものの、撤退した。二番隊は東へ向かい、 鍾城 穏城 慶源 慶興 を占領し、最後に豆満江の河口の ソスポ に達した。この後、清正は秀吉に「オランカイから明に入るのは無理である」と秀吉に報告しており、ただ戦っただけではなく、明への進攻ルートを探す目的があったと思われる。


 この女真侵攻を受けて、女真族の長 ヌルハチ は明と朝鮮に支援を申し出た。しかしながら、両国ともこの申し出を断った。特に朝鮮は北方の「野蛮人」の助けを借りるのは不名誉なことだと考えたといわれている。


日本軍の軍評定


 明軍の参戦を受け、朝鮮奉行である 石田三成 増田長盛 大谷吉継 、ならびに秀吉の上使・ 黒田孝高 らは、漢城に諸将を呼び、軍評定を開いた。


 この評定で「今年中の唐入りの延期」「秀吉の朝鮮入りの中止」、この二つを秀吉に進言することが決まった。


 黒田孝高は、漢城から北へ一日以内の距離に砦を築き、漢城の守備に力を注ぐことを提案。しかし、小西行長は明軍の救援などありえないと主張し、平壌に戻ってしまった。


 なお、加藤清正はオランカイに行っていたため、この評定に参加できなかった。後に石田三成らは清正を訴えた際、理由の一つとしてこの件を挙げている 


。一方、清正からすれば咸鏡道派遣の際に最も危惧して八道国割に反対の理由としてきた事態(緊急の合流に間に合わない事態)が起きたことに反発し、三成との関係が悪化するきっかけになった。


 八月二十二日、延安の戦い。 八月二十九日、長林浦海戦。






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最終更新日  2023年08月23日 08時04分33秒
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