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天正十年六月の 清洲会議 で 伊賀 ・ 伊勢 ・ 尾張 南半を配分された信雄は、勝家と結んだ信孝の最期をみて不安を感じ、家康のもとを頼った。
家康は当時 小田原 に本拠をおく 後北条氏 と同盟していたので、秀吉と対決することになった場合、背後から衝かれることのない点が戦略上の強みであった。
天正十二年三月、信雄は 伊勢長島城 にみずからの有力家臣で秀吉に内通した疑いのあった 津川義冬 ・ 岡田重孝 ・ 浅井長時 を招いて殺害した。家康の指示によるものであった。
この事件を契機として小牧・長久手の戦いが始まったが、当時、長宗我部氏は未だ四国内の各所に敵を抱えており、渡海して秀吉の勢力圏を攻撃することは現実的ではなかった。
にもかかわらず、長宗我部氏は渡海計画を掲げ続けた。
津野倫明によると、現実味の乏しい渡海攻撃を喧伝し続けたことは織田信雄・徳川家康との同盟関係を維持するためであり、長宗我部氏にとってこの同盟には三つの利点があった。
第一は、東予の金子氏との同盟維持である。金子氏は中予の河野氏及びその同盟者の毛利氏、ひいては秀吉とも敵対しており、天正十二年(1584時点では毛利勢の伊予上陸もあって大きな脅威を感じていた。長宗我部氏は自陣営の優勢を伝えることで、金子氏の離反を回避しようとしていた。
第二は、毛利氏の攻勢を抑止することである。毛利氏と秀吉は和睦していたものの、当時なお中国における両勢力の境界線確定(中国国分)は解決しておらず、また先に毛利氏から織田氏に寝返り、現在は秀吉の傘下にある 来島通総 の伊予帰国を巡って対立していた。
秀吉が反秀吉陣営に敗れれば、中国国分・来島氏問題は毛利氏優位の解決が期待できたため、毛利氏は反秀吉陣営の一員である長宗我部氏への攻勢に出なかった、と津野は述べている。
第三は、秀吉による四国出兵の抑止である。長宗我部氏の渡海攻撃に備えるため、秀吉は和泉方面の防備を増強しなければならず、また織田・徳川氏への対応や帰趨の明らかでない毛利氏への警戒もせねばならず、その分十河氏などへの支援に振り向ける兵力は減少した。長宗我部氏にとっては、秀吉による本格的な四国攻撃を回避することが同盟の最大の利点であった。
小牧・長久手の戦闘に先だって、家康は長宗我部元親のみならず紀伊の 畠山貞政 、 越中 の 佐々成政 らに檄を送り秀吉の背後を衝くよう要請して秀吉包囲網を形成した。
秀吉は、成政に対し 上杉景勝 ・ 真田昌幸 ・ 丹羽長秀 らをあて、 和泉 および 淡路 には仙石秀久・ 中村一氏 ・ 蜂須賀家政 らの軍勢を派兵させて長宗我部勢に備えさせた。
信長の時代には毛利氏との関係は対決基調であったが、 毛利輝元 は天正十一年の 賤ヶ岳の戦い ののち、祝勝の品を届けて秀吉に接近し、叔父(ただし輝元より年少)にあたる小早川元総(のちの 毛利秀包 )や 従兄弟 の 吉川経言 (のちの広家)を差し出して秀吉との同盟関係に転じた。
元総は秀吉より「秀」の字を賜り、小牧・長久手の戦闘にも秀吉勢として参加した。天正十三年三月の 紀州攻め では、輝元は秀吉の命令により 小早川隆景 率いる毛利水軍を送っているので、この頃毛利氏は明確に秀吉の軍事行動に動員される服属大名となった。
「長宗我部による四国統一について」
秀吉による四国攻めが始まる以前、元親が四国統一を達成していたかについては統一は完成していたとするのが通説である。しかしながら統一は完成していないとする研究者も複数おり、見解は分かれている。
※毛利 輝元(もうり てるもと)は、 安土桃山時代 から 江戸時代 前期にかけての 大名 。 豊臣政権 五大老 の一人であり、 関ヶ原の戦い では西軍の総大将となった。 長州藩 の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。 後述 )。
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