全5269件 (5269件中 1-50件目)
****************「知りたくもない話を色々と聞かされた」 不愉快そうな声音だった。「元々赤来と付き合っていたこと、パスケースの写真を見つけて、見覚えがあるような気がするから、また探してあげると約束されたこと、赤来は野心的な男で、牟田と付き合いつつ阿倍野と言う女性とも付き合っていたこと、本命は相子だと言って、君に近づき、君のことを調べて欲しいと言ったこと……流通管理課の課長を狙っていると言ったそうだ」「そうですか…」 阿倍野は緑川と関係があった。その阿倍野と赤来が繋がっていた。 いつか会社の玄関で阿倍野と親しく話していた赤来の姿が思い浮かぶ。 赤来は京介が真崎大輔の弟だと知っていただろう。孝から聞いたのか、大輔から知ったのかは知らないが、相子を近づけ、京介の動きをじっと見ていたことだろう。 孝の死の真相を知るために相子に近づいた京介を、どうやって取り込もうかと考えていたのかもしれない、孝と同様、或いは孝の代わりとして。「刑事にあれこれ尋ねられて不安になり、君に近づいたり猫を殺したことが罪になるのかと相談しに来た」 大石は吐き出した。「君は、牟田を弄んでいなかったんだな?」「そう、ですね」「むしろ牟田が君を利用した」「…そうなるかも知れませんね」「話しておきたかったのは、今後牟田に関して君が悩むことはなくなるということだ」 大石はコーヒーを不味そうに含んだ。「他県へ引っ越し、戻ってこないことを約束させた……この事件が終わったら」 苦々しい口調には、自分の信じたものが間違っていたことへの後悔がある。「馬鹿な男だ」「…え?」「俺の目は、ずっと節穴だ」 指を上げて村野を呼んだ。「ワインを」「…よろしいですか?」 それとなく京介に振り向く村野におやと思う。大石を案じる顔だ。以前、大石はここで酒を呑んだことがあるのか。その時にひょっとすると泥酔することがあったのか。 伊吹を大石が呼び出した夜を思い出した。 あの夜、伊吹は大石の部屋に向かわず、京介の所に来てくれた。 ひょっとすると。 少し微笑んで頷き返す。「構わないよ」「付き合えとは言わん。ただ、ちょっと、その」 大石が口を濁した。 酒が入らないと言いにくい話かと察して、京介もワインを頼む。 運ばれてきたワインは大石が赤、京介はロゼだった。伊吹なら白を選ぶだろうと思っていると、数口飲んだ大石が、ゆっくり頭を下げて驚いた。「すまん」「はい?」「志賀のことで詫びたい」「…ああ」 なるほど、これは言いづらい内容だ。「志向でトラブルを起こしたことはない男だった。迷惑をかけたそうだな」「いえ」 その件は終わっていますよ、と続けると、大石は微妙な顔で応じた。「志賀からの申し出でもあるんだが、そちらにもし不都合があるなら、担当を降ろしてもいい。もちろん今後迷惑をかけることがないようには務めるが」 なるほど。 桜木通販が不祥事で揉め、『Brechen』で志賀が問題を起こしては、『ニット・キャンパス』が危ぶまれるのは必至、そう言う意味でも大石は京介と話を詰めざるを得なかったのか。 志賀を担当から外すことは『Brechen』にとって痛手だろう。先日見たホールイベントの組み立ては、ほとんど志賀一人が引き受けている。今から他の人間に任せるわけにも行かないだろうし、かと言って、問題が問題だけに引き続き担当させるのもどうかと悩んだ末の話だろう。 こくりとワインを飲んで京介は口を開いた。「大丈夫ですよ」「…しかし」 相手のその、高崎さんの気持ちもあるだろうし。 大石が言い淀む。 まあ確かにカミングアウトと言うよりアウティングの問題だったしなあと思いつつ、「大丈夫だと思います。高崎は今も志賀さんを尊敬しているし、一緒に仕事をすることを望んでいます」 この場合、問題になるのは志賀の気持ちの方じゃないかと思うけれど、とそれは口に出さない。「…では…甘えよう」 大石が低く呟いた。「とにかく『ニット・キャンパス』は成功させたい」「同感です」 京介はワインをゆっくり飲み干した。見守る大石に微笑みかける。「今後ともよろしくお願いします」「こちらこそ」 大石も何かを決めたようにグラスを空ける。 お互いにぶつける視線に弱さはない。「コーヒーを」 大石の声とともに運ばれてくる香りに、京介は久しぶりの充実感を味わった。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.11
コメント(0)
****************「顧客離れがどこまで防げるかですね。事件に関する広報は」 会議を思い返した真崎に、「任せて」 元子が微笑む。指のダイヤは元より、資産でどうにかなりそうなものは早々に売っ払ったわ、と朝第一声で聞かされていた。報道前に少しでも資本を増やし、半年間しのぐ糧にする。「あなたは『ニット・キャンパス』をお願いね」「お任せ下さい」 万が一桜木通販の名前が消えても、『ニット・キャンパス』は人々の記憶に刻めるようなものに仕上げてご覧に入れます。「…良かった」 ほ、と元子が吐息する。「伊吹さんを入れたのは、奇跡の判断だったわね」 あなたがそんなに安定してくれるなんて、想定外だった。「僕にとっては、人類史上最大の奇跡です」「……真面目な顔をして言うところが怖いわね」 元子が笑って、思い出したように瞬きした。「そうだ、大石さんから連絡入った?」「大石? 『Brechen』の?」「昨日から何度も連絡をつけようとしているのに繋がらないって」 ぎょっとして携帯を確認すると、確かに一定時間置きに着信がある。「珍しいわね、あなたが取り損ねるなん………ああ、そう言うこと」「…ご迷惑おかけしました」「真っ赤な顔して謝られてもねえ」「……すみません。急ぎ連絡します」「そうしてちょうだい。事件のことかもしれないけど、どうもね、あなたに個人的に話がしたいみたいよ?」「わかりました、では」「伊吹さんによろしくね」 からかう口調の元子に、京介は熱っぽい顔を背けて歩き出しながら、大石に連絡を入れる。 1コールも待つまでもなく、すぐに大石が出た。『大変なことになりましたね』「ご心配おかけして申し訳ありません」 噂によれば、大石もまた『ニット・キャンパス』に『Brechen』の命運を賭けているはずだ。 『ニット・キャンパス』が事件によって開催が危ぶまれることになっているかの打診かと思ったが、続いたことばは思ってもいなかった内容だった。『少しお話ししたいことがあります』 できれば、社外で。「社外?」『……牟田相子、と言えば、応じて頂けるでしょうか』 大石とは伊吹を挟んでは良好な関係とは言い難い。その相手は、なお微妙な問題を持ち出している。 相子が京介に利用されたと言い、弄ばれたと噂を流しているのは知っている。今回の事件に引っ掛けて、またもや下らないことを言いだしているのか。「応じないとは言えませんね」 声が冷えた。「お会いした方がいいんですか」 伊吹に無用なちょっかいを出される前に叩きのめしておこう。『「村野」に8時では?』「結構です。では伺います」『お待ちしています』 切れた携帯を握り締めた。 伊吹には教えるつもりはなかった。「お待ちです」 『村野』に京介が出向いたのは8時少し前だったが、大石は既に待ち構えていた。村野に頷いて奥へ進むと、意外に大石一人が座っている。「食事は?」「いえ」「結構。コーヒーをもらおう」 村野が引き下がって、それぞれの前にコーヒーを置き、すぐに離れる。わずかに衝立を動かして、奥を軽く仕切ったのは、大石が頼んでいたのだろう。「お互い時間が余りない。手短にお話ししよう」「助かります」 大石は伊吹のことさえ口にせずに、じっと京介を見た。「牟田相子は私の幼馴染だ。桜木通販を出てから、岩倉産業の私の所で事務職で雇っている」 事実だけを淡々とまとめた。「その牟田の所に刑事が来た」「刑事?」「檜垣と名乗ったらしい。向田署に所属しているのは確認済みだ」「はい」 伊吹から聞いた名前だ。有沢の部下で、入院してしまった有沢の代わりに動き回っている。かつて『羽鳥』と関係があった太田と言う刑事とも絡んでいた。となると、何を確認しに来たのか予想がついた。「相子の兄、のことですね?」 パスケースの写真を思い出す。勘違いして必要のない関係を繋ごうとした、苦い思いが湧き上がる。「難波孝。今回の事件がらみで殺害されたらしいな」 そして君の友人だとも聞いた。「…相子に近づいたのは、事件の真相を知るためか?」「…はい」「…だから利用されたと言っているのか」 大石は難しい顔でコーヒーを眺めた。 なかなか次を切り出そうとしない。ライバルとしては奇妙な沈黙だ。「檜垣刑事は何のために来たんですか?」「相子に兄のことについて何か知っているかを尋ね、なぜか桜木通販の赤来課長についても尋ねて行ったと不安がっている」 ばさりと大石は言い放った。「なぜ、赤来課長の名前が出てくる?」 この事件に絡むなら、当然京介の名前だろうと暗に仄めかしたところを見ると、大石の耳にもあれやこれやが入っているらしい。同じイベントに関わるものとして真相は確かめたいが、微妙な問題だけに控えている、そう言う気配がある。 美並が好きになっただけあって、それなりにいい男なんだよね。 悔しいが、京介も認めざるを得ない。だからと言って、甘く応じるつもりもないが。「逆にお尋ねします」 京介は穏やかに切り返した。「なぜ、牟田さんは赤来課長について聞かれたことに不安がっているんですか?」「それは…」 大石が口ごもった。「…牟田さんが、赤来課長とも関係を持っていた、そう言うことですか」 大石は牟田の後ろ盾となろうとしていた。京介に弄ばれて捨てられた、その訴えを信じたからだ。 けれど今、檜垣の介入によって、事実が違う形で見えている。それを京介に確かめに来たのだ。「…残念ながら、そうだ」 大石は渋々頷き、重苦しく息を吐いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.10
コメント(0)
**************** 朝の会議にはかろうじて間に合った。「珍しいわね、あなたが遅刻ぎりぎりだなんて」 それこそ珍しく黒のパンツスーツの元子に突っ込まれて、京介は僅かに顔が熱くなる。 まさかあんな状態で朝から二度目を挑まれるとは。「…あら」「…見ないでください」 とっさに唸って、なお赤くなったのを自覚した。「…まあ、それぐらいはいいのかもね」 元子が溜め息をつく。 会議では改めて桜木通販の今後についての報告がなされた。 現在桜木通販は、5年前緑川が関わったと同様の売春事件に関わっているとして捜査が始まっている。『ニット・キャンパス』はかろうじて続けられそうだが、元子は引責辞任し、後始末を含む後任は真崎京介を次期社長とすることで引き継ぐ。株主には説明済みで了承も得ているが、『ニット・キャンパス』終了後は自主廃業になる可能性も高い。事実、噂によって売り上げは落ち始めており、取引が続いているのは桜木通販の古くからの顧客のみとなりつつある。 『ニット・キャンパス』が不評に終われば、その責任は不快な事件を引き起こした桜木通販にあるとされるだろう。事実、喜多村会長はそのようなことを仄めかしている。かと言って、今『ニット・キャンパス』の参加を取りやめれば、現在の顧客を裏切ることになり、おそらく桜木通販の消滅は決定的になる。その際には岩倉産業が通販を引き継いでもいいと申し出ており、それを拒む理由は一つもない。株主の中には今すぐ岩倉産業に加わることで安定を図れとの意見もあるが、現状では岩倉産業もお荷物となりそうな桜木通販を引き受ける意思はないとの返答だ。「…終わり…ですか」 細田課長ががっくりと肩を落とした。「家のローンが終わってないんですがねえ」「失点は取り返せるのかい?」 穏やかな口調ながら、富崎の視線も厳しい。「皆んなで真崎さんを盛り立てていく方向だね」 赤来が微笑む。「僕は頑張るつもりだけど」「…厳しい状況だな」 高山は表情を変えずに書類を眺めている。「『ニット・キャンパス』まで保つかどうか」 数日内には報道も始まるだろう。売り上げが一気に落ちる。支払いを迫る業者が増える。信用をなくした企業がどれほど叩かれ凋落していくのか、知らない者はいない。「幸い、この5年で事業を広げるために蓄えていた資金があります」 京介はデータを示した。「無理な投資はしていなかったし、大口の資本回収も済んでいる。経理的にはクリーンな状態で、銀行もいきなりの投資取りやめはせず、状況を見てと返答があります」「風向きが変われば、すぐに態度を変えてくる。当てにならん」 高山が吐き捨てた。「離職希望者もちらほら出ている」 沈みかけた船に乗っているバカはいないということだ。 冷ややかな口調は激さない。「顧客は」 細田がすがるような目を京介に向ける。「新規はゼロ。今までの顧客が8割残っていますね。報道でどこまで減るか……6割残ればいいかと」「離職は全部認める」 元子が口を開いた。「どちらにせよ事業規模が減るから雇い続けられないわ。赤来さん富崎さんに顧客7割残で離職者との業務バランスを試算してもらってるけど、6割にしてやり直しましょう」 ここの敷地の一部売却、支店の縮小、流通網の見直し、業務構築変更。「まずは半年凌ぐのを目標で」「あ、の~」 細田がそろりと手を挙げる。「管理者の離職については…」「認めます」 元子が薄く笑った。「各自生活があるからね。ただ今回の出来事はかなり『大きい』から、どこへ再就職するにしても、いろいろなことが問われるわよ」「そうでしょうね、事件に関わったのか関わっていなかったのか、事件の時に何をしたのかしなかったのか」 富崎がさらりと応じる。「人事としては知りたいところだな、沈みかけた船を見捨てたのか、ぎりぎりまで努力して支えたのか」 高山も淡々と言い放つ。「大丈夫ですよ、細田課長。売春に加わっていたなんて噂、細田課長には立ちませんよ」 真崎がにっこり笑い、細田がびくりと体を竦め、やがて大きく溜め息をつく。「そうでしょうかねえ、それはそれで良いような情けないような」「そんなところで男の本分を語られてもねえ」 元子が苦笑いした。「で、何なの、細田さんは辞めたいの?」「いやー今のお話を聞くとですねえ、どうも自主廃業まで居た方が安全な気がしますねえ」「無難な発想だな」 高山が薄く笑う。「人生には冒険が必要だぞ」「冒険、ですかあ」 細田が情けなさそうに眉を寄せる。「人生の後半に来て、きついですなあ」「…兄のことでご迷惑をおかけして申し訳ありません。けれど以前と違い、今回は最後の一人になるつもりで努めたいと思っております」 真崎の声にそれぞれが振り向いた。「私に関しての噂も既にお聞き及びと思います。様々なご意見があるかと思います。もし、無事に桜木通販がここを乗り切り、安定した状況になるならば、その時に退任する覚悟も決めています」 無言で見返す表情は多様だった。不愉快そうに視線を外らせる富崎、表情一つ変えない高山、泣きそうな顔の細田、静かに見つめ返す元子、そして、楽しげにも見える赤来。 何をしても生き延びる。 今ここに居ない伊吹の顔を思い出す。 深々と頭を下げた。「今一度、お力を」 **************** 今までの話は こちら
2026.08.09
コメント(0)
**************** 声が蘇る。 美並が大事だなー。 …あきくん。 ずっと一人でいく気か?。いい人はいないの? …お父さん、お母さん。 知らないはずも、なかったか。 気づかぬはずも、なかったか。 見えるから背負った重荷が重すぎて、周囲の心配も不安も見ないふりをしなければ抱えられなかった。 美並はいつから『自分』を見るのを止めてしまったのだろう。ハルはとっくに指摘していたのに、自分の中にある『支配』を見ていないと動けなくなると。 それがあると知らされて、見るのが余計に怖くなった。『羽鳥』を追うのに踏ん切りがつかなくなったのも、同じ『支配』を見てしまったとき、『羽鳥』側に行かないとの確信がなくなったからだ。大輔や恵子に自分と同じ匂いを感じ取り、『支配』を望み受け入れる真崎に魅かれながらも警戒したのは、いつか真崎限定のはずの自分の『支配』が、はみ出して周囲を傷つけるのではないかと恐れたためだ。 そうなったら自分を切り捨てると決めていた、人の側から消え失せると。 だから明が案じ、宇野が背負うなと言い、真崎が繰り返し不安に陥る。 表の気持ちより底の決意を、密かに見ていたから。「美並…っ…美並…っ」(中略) なんて、綺麗な。 遠くに光の蝶が舞う。 その内側を紫から真紅の刃が跳ねて次々真崎に降り落ちていく。真崎は刃に貫かれ剥がされて、喘ぎながら声を上げる。紅の光が弾け散って、雨の雫のように美並の緑色の層に滴り落ちる。「ああ…っあ……っ」「っん……っ」 緑の層が潤う。硬質な光の重なりが紅の雫に浸され満たされ、厚みを増して膨れ上がり、唐突に剥がれ始めた。 なに? 剥かれる。 美並のこれまで纏って来た全てが、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。 命を背負い、運命を背負い、人を背負い、関わりを背負い。「美並……?」 駆け上がりかけていた真崎が不安そうに抱きしめて来る。「…どこ…行くの…っ」「どこ、にも…」 掠れた声で美並は応じた。 溢れ始めた涙が止まらなくなり、唐突に理解する。 たぶん、真崎も、同じ涙を流したのだ。 美並が大事だなー。 あのことばに含まれていた、何か懐かしい、宇野とよく似たニュアンスの、明や両親や、今まで見過ごして来た多くの人達の中、見えている、見ていると思っていたその内側、光の蝶の下の甘い紅や、紫の刃の下の緑のように存在する何か。 あなたがあなたである証。 私が私である意味。 それをただ、守りたい。「どこにも、行きません」 真崎を抱き締める、強く深く引き入れる。(中略) 『支配』が人を傷つけ苦しめる存在なのに、なぜ在るのか。 簡単なことだ、ただそれはこう訴えている。 私の居場所をここにくれ。 私はここに居たいんだ。(中略) これから『羽鳥』は居場所を失う。 少しずつ狭められた包囲網に、ただ一つと思っていた世界を奪われる。 その時『羽鳥』は、何をしようとするのだろう。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.08
コメント(0)
****************「…っ」 切なげな悲鳴を耳に蘇らせて顔が熱くなる。 ああもう、どうしよう、あんな声を聞かされたら、忘れるわけにはいかなくなる。(中略) ほんわり、と微笑まれて気恥ずかしい。「…反則だな」 唸った途端、真崎が瞬きした。「…美並…」「おはよう」「……おはよ…」 掠れた声で笑うと、真崎が体を起こした。するりと伸ばされた手に手を差し出す。そっと掴まれた指先に恭しくキスされた。「?」「何?」「いえ、こんなことをされたのは、初めてかな、と」 脳裏を走ったのは、『お姫様に求婚する王子様』の姿だ。「跪いた方が好き?」 うっすら頬を染めて真崎は笑う。「いえ…何というか」 きらきらきらきら。 真崎の周りを無数の光の蝶が飛び交っているように見える。「…何かあったんですか?」 引き寄せられるままにベッドに座った。 そう言えば枕が濡れていた。また悪夢でも見てうなされていて、疲れ切っていた美並は気づかなかったのだろうか。 けれど何度見ても、真崎の周囲を飛び交っているのは、かつての白い靄でも、砕かれたガラス片でもなく、自ら光を放って飛び交うような眩い羽ばたきだけだ。「んー…」 首を傾げながら、真崎は美並をそっと背後から抱きかかえた。「美並が大事だなーと」「…はい……?」 何だろう。 同じようなことを何度も言われた気がしたのに、背中から囁かれているこのことばは、ひどく甘くて懐かしい。 宇野のことを思い出したような感覚、そう思ってふと、自分を見下ろして目を見開いた。 何だこれは。 紫色の刃のような光が体の周囲を舞っている。その内側には幾重にも重なったような緑の光、まるで日差しを透かした葉っぱのような。「美並?」「っ」 慌てて背後を振り返った。激しい動きに思わず両手を開いた京介が、訝しそうに見返すのを、意識してまじまじと全身眺める。 きらきらきらきら光の蝶。けれどその奥深くでは薄紅の甘い光が揺蕩っていて、特に今美並と触れている足や腰のあたりは光の蝶より甘い紅の方が強い。そしてそこでは、美並の体を取り巻いている紫の刃が包まれ崩され混じり合っていて、その内側の緑の層と甘い紅がゆっくり行き来しているのが見えた。光の蝶は今や美並の周囲も包みつつあって、朝の日差しの光度を跳ね上げている。「…っあ」 差し出した美並の手が触れて、真崎が眉を寄せた。「…ひどいよ美並」 口を尖らせる。(中略)「…ごめんなさい……京介……」 囁いて抱きしめ返すと、んんっ、と甘い鼻声が返って来る。 けれど美並は周囲に広がった光に目を奪われていた。 自分の体を包む緑の光。その上を滑って真崎に流し込まれていく真紅の刃。裂かれるように光の蝶が飛び散り離れ、奥にある甘い紅の光が波打ちながら美並の刃を飲み込んでいく。血肉を腑分けするような容赦ない刃に見えるが、真崎は喘ぎながら快感を貪っていて、その甘い紅の光が美並の方に押し寄せ、緑の層に染み通って来る。 濃度のある柔らかな熱。満たされる。(中略) **************** 今までの話は こちら
2026.08.07
コメント(0)
**************** 冷たい。 美並は目を覚まして瞬きする。 あれ?「…」 周囲は薄明るい。明け方だと言うのは、空気が冷えてきているのでわかる。暖房をつけていても、今の二人は裸で毛布一枚に包まっているような状況だから、寒い、ならわかる。 けれど冷たい、頭のあたりが。 そろそろ視線を上げて、真崎の顔を見た。眠っている、けれど。「…涙…?」 そろっと身を起こしても真崎は動かない。「うわ」 ここと思った場所に触れて気がついた。枕がぐっしょり濡れている。一瞬それほど汗をかいたかと思ったが、よくよく見ると真崎の睫毛がまだ濡れているみたいだし、頬にも涙の跡がある。「泣いてた……泣かせた…?」 確かに昨夜は二人ともちょっと吹っ飛んでいた。真崎は全開で手を休めることなど考えもしてなくて、美並もまた拒もうと思わなかった。(中略) ああ、やられちゃう。 こんな真崎を見せられて、何人が正気を保てるのか。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.06
コメント(0)
****************「…」 気が付いたのは真夜中だった。「……美並?」 いなくなってしまったかと呼んでみれば、静かな寝息が届いた。起こした自分の体は丁寧に拭かれていて、伊吹はベッドの端に眠っている。「……こっちへおいで」 声をかけて手を伸ばし、腕を差し入れて抱き込みながら引き寄せると、眠そうに何かふにゃふにゃ言いながら胸の中へ戻って来た。「迷惑かけちゃった…」 寄り添う体を、そうっと包み込む。「ケダモノ、みたいだった…」 白い海ではなかった、マグマみたいな、荒れ狂う熱い怒りのような、そう言うものに内側も外側も焼き尽くされて、恵子に中途半端に煽られて放置された疼きが消えていた。「…嫌われたかなあ…」 腕の中の美並は熟睡している。疲れ切っている。きっと無茶をさせたのだ。 寂しくなって、もうちょっと強く抱き締める。寄り添ってくれる温かさにほっとして、髪に顔を埋める。「甘えさせてくれたんだ…」 少し前なら分からなかった感覚が、今はよくわかる。 こんな細くて小さい体で、荒れた京介を受け止めてくれて、今もまだここに居てくれて。「わ…」 視界を潤ませた涙に驚く。「…大事にしなきゃ」 瞬きして溢れてしまったものが照れ臭くて、伊吹を濡らしてしまうのが嫌で、枕に擦り付ける。「うんと大事にしなきゃ、伊吹さん」 もちろん、今までも大事にしてきたし守ってきたつもりだけれど、体の一部が少し離れてるみたいな、この頼りなさと切なさは何だろう。抱き締めてもまだ遠い、けれど泣きたくなるほど大切だと感じる感覚は。「…どうしよう…伊吹さん、いなくなったら…」 そんなことは今まで何度も考えてきた。 伊吹は京介にはふさわしくない、だから身を引こう、伊吹のいない京介には意味がないから死んでしまおう、そんなことは何度も何度も考えたのに、あそこにあった悔しさがこれっぽっちもなくて、ただただ、この腕の中の存在がある日突然消えてしまったら、と思うだけで切り刻まれるように胸が痛い。「…なんだろう…これ……」 今まで味わったことがない、そう思った瞬間、震えが腕を走った。 いや、京介は、知っている。「…ぼけ……?」『綺麗なところですね』 静かな声が耳に蘇る。月下の山、京介の掌から離れた伊吹の手、羽化した白い蝶のような。『そんなにこいつが大事か』 大輔に掴まれた小さな白い子猫。『ぜったいふくじゅうってのは、そうやるんだ、くつなめろ』 響く嘲笑。一瞬だけ我慢すればいい、そう思ったのに口に押し込まれた運動靴に驚いて身を引いて。『あ、手すべっちゃった』 悲鳴とともに川に投げ捨てられた体は濡れて固まって見つかった。『ちゃんとなめないからだろ!』 僕がもう少し我慢すればよかったんだ。 あんなことぐらい何でもないのに。 こんなことになるぐらいなら。「…そっか……ぼけ…か…」 涙が次々頬を伝う。 ぼけを殺したのは自分だと思っていた。 京介はぼけより強くて耐えられたはずだから、大輔の蹂躙など堪えないと思っていた。 多く抱かれれば、その間は孝を守れると思っていた。 暴くことで両親を失うかもしれない大輔の子ども達を無視できなかった。 自分が死ぬことで誰かが救われるのなら、それでもいいと思っていた。攻撃の矢面に心身晒して壊れようが砕かれようが、どうでもいい。ましてや、大好きな、愛しい女性が生き延びるなら、自分の体なんて屑でいい。大輔が弄んで捨て去るようなおもちゃでも、伊吹は綺麗なものをくれると言ったのだから。 けれど。 伊吹は、いとしんでくれた。 京介が無事でないと困ると言った。 こんなどうでもいい体でも、抱えて受け止めて守ってくれた。「…助け…たかった…なあ……」 涙が止まらない。「…ぼけ……寒かった…だろうなあ……怖かっただろうなあ……」 京介を求めたはずだ。 振り飛ばされて叩きつけられて水に呑まれて、それでもきっと、京介が抱き上げたことを覚えていてくれたはずだ。「助けたかった…よ…」 引き戻される、小さな頃に。「たすけ…たかった……よう…」 離せと叫べばよかった。 放り込まれても川に飛び込めばよかった。 冷たい体を抱えたまま、大輔に突っ込んで行けばよかった。 けれど、何もしなかった。 京介は『綺麗なもの』を自分で大輔に売り渡した、安全を引き換えに。 闘わなくてははならない場所に気づかなかった。 伊吹と一緒に行った山で泣き続けたのは、助けたかったのに助けられなかった幼い自分が受け止められなかったからだ。 伊吹が、闘う場所を教えてくれた。『綺麗なもの』を取り戻してくれた。「ふ…」 しばらく泣き続けていて、ようやく止まり始めた涙に息をついて、腕の中の伊吹を見下ろした。 くすぐったくて甘くて切なくて、そうっとそうっと壊さないように覗き込む。 伊吹は見たことのない表情をしていた。 緩んだ眉とふんわり閉じられた目、小さく開いたあどけない感じの口元。 いつもいつも鋭くて強くて、その意志に心を貫かれてばかりだったけれど。「…美並……安心してくれてる……?」 求めるばっかりの京介に貪られながら、ひょっとして伊吹もまた、何か手放したものがあるのだろうか。抱え切れなくて背負い切れないものを、京介に明け渡してくれたりしたのだろうか。 今京介が、過去の記憶の伊吹から『綺麗なもの』を受け取ったように、伊吹もまた、京介との関わりから何かを受け取ってくれることがあるだろうか。「…僕に…甘えて……くれてる…?」 じんわりと何かが湧き上がってくる。 これこそ今まで味わったことのない、背筋を震えるような痺れ。「僕を……頼りにしてくれてる……?」 ここは譲れない場所だ。 胸の深くから声が届く。 伊吹が疲れて眠りに落ちる、この場所こそは京介が守り抜かなくてはならない場所だ。「…うん……そうだ……ここは……誰にも…譲らない…」 微笑んだ。鼻声の自分がみっともないが、それでも囁いて抱きかかえる。「…おやすみ…美並」 僕の、美並。 寝息にゆっくり目を閉じた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.05
コメント(0)
お待たせしました。ひょっとすると、言ってるうちに2160000ヒットですか?(汗)やばいやばい。次の『ラズーン』書かなくちゃ(汗)**************** 戻って来てくれた伊吹は、夕飯の買い物をしていてくれて嬉しくて。準備するところから、食事中も、終わってからも、ただ伊吹がそこに居ることを確かめたくて味わいたくて、京介は触れて囁いて唇を寄せて笑いかける。 伊吹からも反射するように明るい甘い波が戻ってきて、望まれていると感じて、体がどんどん沸き立っていく。 短いシャワーの後に潜り込んだベッドでも、とめどなく限りなく伊吹に近づく。(中略) 神様、朝なんて来なければいいのに。 幼い頃に願ったことばを逆転させて懇願する。 お仕置き、は諦めたけど、そんなことばで代用されない甘くて熱い時間が重なっていくから、もう何がどうなっても構わない。(中略) よだれを垂らして極上の獲物にありついて、骨の髄まで啜り尽くして、餓えを満たし渇きを癒している一匹の獣。 一瞬で終わるなんてもったいない。これを手に入れるため、寒くて凍える風に身を伏せ、暑くて干からびる日差しにも耐えた。柔らかな肉に指先を食い込ませるだけで、体が震えるほどに煽られる。今攻撃されたら死ぬしかない、それでも構わない、この体こそ、体を引きちぎられる空腹の苦痛を贖ってくれる。(中略) 一瞬見開いた目が伊吹と合った。涙ぐんでいるのに強く煌めいた瞳が声を放つ。『どうして私以外に、そんな声を聞かせたの?』 獣から逆転する。今度は京介が貪られる肉になり、暴かれて、探られて、奥底まで啜りこまれる。ついさっきまで味わっていた激しい餓えが今美並にも広がっていて、それを京介で満たしていると理解できるから、歓びに身体中が震え立つ。 がくっ、と体が揺れた。どこから動かされているのかわからない、強い力で全身揺さぶられる。伊吹を掴んでいたはずの掌で必死に体を支え、飲み込まれている感覚から抜け出してしまわないように堪え、滲む視界で伊吹を見つめる。「…聞、かせて…ない…っ」 掠れた声で叫んだ。「こんな……こえ…っ………」(中略) 声が頼りなく上がる。絶頂を越えてしまった感覚に制御できなくて、弾けてしまって空っぽになる。仰け反らせた喉、開いた口から唾液が溢れる、自分の形が壊れていく。 押し込んだ体はなお深く飲み込まれて。「み、な…み……っ」 全てが消える。「あ…ふ…っ」 京介は意識を手放し眠りに落ちた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.04
コメント(0)
**************** カレーを煮込みながら、おじやじゃなくて玉子丼でもいけると言われたので、美並は準備を進めて行く。 以前は部屋になかった炊飯器が湯気を上げ、増えた二人分の色々な形の食器から丼を選び出し、テーブルに並べて行くと、真崎が箸を並べ始める。お仕置きはどうしたのかと突っ込みたいところだったが、美並も少し疲れて来たから、真崎の気配はありがたかった。 カレーは冷めてから冷凍にすることにして、鍋を火から下ろした。ちょうど仕上がった玉子丼をテーブルに置く。「……何かありましたか?」 いそいそと前に座った真崎に尋ねてみた。「うん。恵子さんが電話して来た……いただきまぁす」 さらりと真崎が言い放ってぎょっとした。「いつものつまらない遣り口だよ………あつっ」 急いで口に運び過ぎたのだろう、蓮華から口を離しながら、真崎が少し涙ぐむ。「……でも、もう掛けてこない」「…どうして?」 恵子のことだ、よほどのことがない限り、撥ね付けられた程度では怯まないだろう。「…ふふっ」 真崎がまたもや妙に色気のある笑い声を零した。「何?」 尋ねながら気づく。「悪いこと?」「うん」 珍しくしっかり丼を片付けていきながら、真崎が目を細め、とんでもないことを言い放った。(中略) なんでしたっけ、それ。 突っ込む気力さえ萎える。「向こうは誘惑する気満々だったけど、いい加減に恵子さんに付き合うのはうんざりだから」「……京介」 一体どうやって。 さすがに飲み込んだ一言を、真崎は察した。「…知りたい?」「…聞きたくない」「美並に教えてもらったやり方で」 唇についた卵の塊を舐めとった真崎が、これ見よがしにもう一度、ぺろりと舌で唇を舐める。「教えてませんっ」「教えてくれたでしょ? どうやって気持ち良くなればいいのか」 薄笑いする相手に理解し、続けて恵子に同情した。 何が真崎の箍を外したのかわからないが、この状態で電話の向こうで喘がれてはたまったものではない。しかも、たぶん、この物言いでは。 想像だけでも十分まずい。「みーなみ?」 熱くなった顔をうつむいて誤魔化すのは失敗した。「僕が誰を想ったか知りたい?」「いえ、わかってますから」「わかってないでしょ?」「十分わかってます」 覗き込む真崎がくすくす笑う。「わからないと思うなあ、恵子さんだってぎりぎりまでわからなかったみたいだし」 いや待てそれは。 慌てて顔を上げたが、ことばにならない。 ぎりぎりまで、だって? そんな際に、こいつはまさか。「美並の名前呼ぶまで」「っっっっっ!」 思わず立ち上がった。急いでテーブルの上の食器をまとめ、流しに運ぶ。 全身熱い。 一体何をしでかすのやら。と言うか、何だろうこの限界突破暴走傾向は。 水を流して食器を浸し、はたと気付く。 いや確かにこう言うキャラだった。むしろ、最近がいろいろなことが重なってへたっていただけで、真崎京介と言うのは元々こう言う男だったのでは?「じゃあ…本来の姿に…戻ったってこと……?」 頭が痛くなる。元気なのは嬉しいが、それにしても。「……ごめん、美並」 慌てて近寄って来た真崎が後ろから抱きついて来て固まった。「あんな人に美並とのこと聞かせちゃってごめん」 きゅううと抱きしめてくる力は強い。声が蕩けている、首筋に当たる息も熱い。それでも美並が答えずじっとしていると、やり過ぎたと気づいたのだろう、見る見る背後の気配はしょんぼりした。「でも、もう二度と掛けてこないと思うから」 それはそうだろう。誘惑しようとした相手から、別の女を想っての声を聞かされるなど、恵子にとっては屈辱でしかない。同じことを繰り返されると思うだけで、番号を見るのも不快だろう。「……はぁ…」 思わず深く溜め息をついた。 理屈はわかる、恵子の気性を知っていれば、一番効果的な方法だ、だが。「美並?」 すりすり、と真崎は抱き竦めた美並に頬をすり寄せる。「……お仕置き、諦めるから」 間違っていないか、そもそも『お仕置き』の概念が。 溜め息を重ねる。 とりあえず、真崎は真崎なりに反撃し撃退したのだ、いつも飲み込まれて良いように扱われてきた相手に対して。しかも美並の存在を主張してくれつつ。 それは単純に嬉しい。やり方に問題はあったとしても。「お仕置きは、しません」「うん」「怒ってますから」「……うん」 抱きしめる力は弱まらない。むしろ、ぴったりくっつく体から主張する熱がある。 どこが『諦めている』のか。「…京介」「はい」「私は怒ってるんですよ」 顎を上げて見上げる。見下ろした京介が目元を染めて不安そうに瞬く。可愛い。そうだ、美並もまた、真崎を欲しているし、愛したい。「どうして私以外に、そんな声を聞かせたの?」「……っ」 真崎の顔にぱああっと明るい朱色が広がった。「寂しかったから」「やっていいことと悪いことがあるでしょう」「うん」 にこにこ嬉しそうに崩れた顔がキスを求めてくるのに応じる。口を離した真崎が甘えた声でねだる。「うんと慰めて、美並」「いいえ、一人で頑張って」「…っ」「どうやって気持ちいいことしたのか、ちゃんと見せて」 一瞬強張った真崎は、微笑む美並になお濃い紅に染まりながら、はい、と小さく頷いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.08.01
コメント(0)
**************** 夕飯の買い物を済ませ、真崎のマンションに戻った。「おかえり」「…ただいま」 出迎えてくれた真崎はずいぶん早くから起きていたのだろう、玄関を入った美並を抱き寄せ、鼻を鳴らして髪にキスしてくる体に石鹸の匂いがした。「大丈夫ですか?」「うん」「一人で寂しかった?」「うん」「シャワー入ったの?」「…うん」 ワンテンポ遅れた返事におや、と訝る。ついでに玄関で美並を抱きしめたまま動こうとしない様子も、考えてみればすぐに抱きつかれたから見えない表情も。 思わず廊下に下着が落ちていないか覗いてしまうと、「美並?」 濡れた声が響いて瞬きする。「僕にお仕置きして」「はい?」 お仕置き。 危ういことばに瞬くと、耳に軽くキスされて、柔らかく囁かれる。「悪いことしたから」「何をしたの?」「ふ…ふふっ」「京介っ」 甘い声が笑って思わず手を突っ張って突き放すと、そのままに腕を開いて離れた真崎が眼鏡の奥で瞳を潤ませている。妖しげな、纏わりつく誘惑の気配。「…誘ってます?」「うん」 シャツのボタンは胸半ばまで外されていて、下は素肌だ。スラックスが出かけた時とは違うものになっている。美並が自分の様子を見定めたと確認してから、美並の手からレジ袋を取り上げ、中を覗き込んだ。「レタス、カラーピーマン、卵、葱、じゃがいも、人参、玉ねぎ、肉、カレールー……美味しそう」 入っていたものを数え上げて、乱れ落ちた髪の隙間から、またちらりと目を細めて笑う。「今夜はカレー?」「いいえカレーは作り置きで。今夜は玉子丼かおじやにします。京介はまだちゃんと食べられないかもしれないと思って」「…うん」 ちゅ。 美並の説明を聞きながら側に寄り添い、片手で美並を抱えて額にキスしてきた。「手伝うね」「いえ、京介は休んでて下さい。ご飯を食べたら話したいことがあります」 気になっていたことを確認する。「…どこへ行ってたのかって聞かないんですね?」「うん。想像はつくから」 真崎が頬にキスした後、微笑みながら離れて荷物を運ぶ。「有沢のところ。そうだよね?」「はい。入院されたそうです、岡崎病院」「病院から、君を呼び出したのか」「調査を頼んでいて」 答えた美並を振り返る真崎は、驚いていない焦ってもいない。さっきからの過剰なスキンシップは不安からかと思っていたが、そんな感じでもないようだ。「何かわかった?」「色々と。けれどまず、夕飯です」「そうだね。今夜は泊まるでしょ?」 キッチンでレジ袋から食品を取り出す真崎の様子は落ち着いている。落ち着いてはいるが、何か妙にきらきらと華やいでいる、あえて言えば艶かしい。一瞬、客を迎えた遊女のような色っぽさ、と考えてしまい、慌てて違う違うと胸の中で手を振った。「美並?」「あ、はい、泊まります」「…良かった」 薄く頬を染めて微笑む、その笑顔が幸福そうで嬉しそうで、ほっとする反面戸惑いが立つ。 なんだろう、この華やぎは。 全身で誘惑されているのは、微かに流される視線とか、繰り返し触れてくる仕草でわかりすぎるほどわかるが、今までのように抱いて欲しい抱かせて欲しいと言うよりは、ただ美並がいるだけで際どくなっていくような。「じゃがいも剥くね?」「剥けるんですか?」「ちょっとはできるよ。美並は玉ねぎ」「はい」 まずはカレーから作るつもりらしい真崎の側に並ぶと、一層よくわかった。 菜の花畑にいるみたいな気配だ。軽くて穏やかで明るくて甘い。弾む気持ちが響いてくる。 美並が居る。美並が居る。美並が僕の側に居る。 繰り返す声が聞こえてきそうだ。「…んっ」 時々堪え切れなくなるのだろう、顔を傾けて髪にキスし、動きを止める美並の唇を啄ばむように含んでいく。それからまたジャガイモを剥き、切ってボウルに入れ、人参を取り、また、キス。 手が止まる。「…京介」「はい」「そんなに邪魔したら、作れません」「じゃあさ、その分も一緒にお仕置きして」「っっ!」 くすくす笑われながら耳に囁かれて、思わず切った野菜を入れたボウルを落としかけた。「京介っ」「美並」 間髪入れず応じられ、鍋を置いてくるりと振り向かれた。生真面目な表情で訴える。「駄目」「はい?」「限界」「…何が」「もう美並が足りなくて無理」 はい、と両手を広げられる。「来て?」「京介、先に夕ご飯を」「キスだけでいいから来て」 そしたら、僕が全部作るから。「……わかりました」 美並は目を据えた。「じゃあお仕置きです」「はい?」「今はご飯作ります。作り終わるまで、あっちのソファで大人しく座っていて下さい」「えっ」「お仕置きされたいんですよね?」「え、うん、でもそれは」 薄赤くなる真崎が何を想像しているかはあからさまだから、にっこり笑って言い返す。「だからお仕置きです。一人で待ってて」「いや、あのね、僕は」「京介が気持ちいいことしてもお仕置きにならないでしょう?」「っ……」 見る見る耳まで赤くなった真崎が、しょんぼりして両手を下ろした。「いい子にしてて下さいね?」「……はあい…」 伊吹さん酷い、僕より酷いよ絶対。 ぶつぶつ言いながらそれでもソファに座りに行く真崎を横目で見て溜め息をついた。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.31
コメント(0)
****************「はい……え…?」 頷きかけてぎょっとする。だがすぐにレアナの考えに気づいた。アシャは深い眠りに落ちている。いつ目覚めるともわからない。レアナはセレドには戻れない。けれどユーノなら、長い年月はかかるだろうが、セレドに戻ることができるだろう。 レアナはラズーンでアシャの目覚めを待ち、この先の人生を共に生きていくつもりなのだ。だから、ユーノにセレドを託すと言うのだろう。セアラは残っているが、世界変動の余波はセレドにも届くだろう。セアラ1人では心許無く、ユーノが戻って支えて欲しいということなのだろう。 アシャと離れる。二度と会うことはない。 それでも、アシャも願った女性と過ごせる方が、わずかでも気持ちが安らぐだろう。「…わかりました、姉様」 ユーノは頷いた。胸の奥は依然痛いが、幸せなレアナとアシャを見る願いは果たされそうだ、不満などあるはずもない。それでも、僅かな祈りが唇から溢れた。「では…アシャをよろしくお願いいたします」「え?」 意外そうな声が戻ってきて、ユーノは瞬きする。「……えって……?」「いえ、あの、アシャはその…」 先ほどまでの口調と打って変わって、戸惑いを含んだ声で呟いたレアナが、「え? でも…私達にアシャを預ける…と言うことかしら……でも、それは…」 首を傾げながら呟いた内容に違和感があった。「私達?」 レアナとアシャ、ではない?「ええ、その実は」「……失礼」 戸口に気配が動いて、声と共にゆっくりとセシ公が姿を現す。「っ、すみません!」 ユーノは慌てて顔を擦り、ベッドから立ちあがろうとした。てっきり会議に遅れたから迎えに来たと思ったのだが、その前にレアナがさらりとドレスを鳴らして立ち上がり、セシ公の前に立って呆気に取られる。「姉様?」「…随分遅いので」「申し訳ありません」 セシ公の声にレアナが会釈する。すぐに胸を張ってまっすぐ向き直り、「先日のお話について、お返事させて頂きます」「……はい」 セシ公が珍しく緊張した顔でレアナを見下ろす。「私は今までずっと幼子でした。妹にも姉として不出来であったことを今詫びておりました。何も見ず、何も考えず、王族としての恵みだけを享受する愚かな者でした。それでもよろしゅうございますか」「…必要であると、お伝えしました」 ユーノは瞬きした。思わず立ち上がり、2人のやり取りを息を詰めて見守る。「私は今初めて、王族としての務めに気付きました。王としての在り方を…妹から学んでいる最中です。今後もご指導頂くことが度々あろうかと存じます」「私も王になったことはない。私に不足しているものを、レアナ姫、あなたこそがお持ちでしょう」 セシ公が苦笑いする。一息置いて、レアナの顔を眺め、柔らかく笑み直した。「求婚を受けて頂き感謝する」 レアナが静かに腰を屈めて頭を下げる。「幾久しくお願い申し上げます」「……え?」 ユーノは再び瞬きする。 事情がよく飲み込めない。「あの…求婚? え?……姉様は……その………?」「その辺りの反応が鈍いのはどうかと思うが」 セシ公が咳払いした。「レアナ姫に妻になって頂く。……姉君は、ラズーンの王妃となる」「……え、ええええーっっ?」 世界の状況にもこの場の雰囲気にも全くそぐわない、間抜けた叫びがユーノの口から飛び出した。 **************** 今までの話はこちら。
2026.07.31
コメント(0)
**************** 宇野みさとは『さわやかルーム』に通っていた。 一人暮らし、73歳。まだまだこれからよねと笑う顔は、子ども二人を事故で亡くし、夫を数年前に見送ったとは思えないほど穏やかで。 それでも、見えない病魔が体の中に生きていた。 デイサービス中に倒れて、病院へ搬送され、駆けつけたのはその朝自宅へ迎えに行った美並だった。静かな部屋、病衣を着せられ、ベッドに横たわる宇野の腕は思っていたよりうんと細くて。その腕に透明な袋から点滴が繋がれていた。「伊吹ちゃん」「宇野さん…」 伊吹さんではなく、美並ちゃんでもなく、そう呼ぶのは宇野だけだった。理由を聞くと、寂しいでしょと答えた。だって身内でもないのに、名前呼びなんてしたら、忘れられなくなっちゃうでしょ。「倒れちゃった」 微笑む顔はこんなに青白かっただろうか。声はこれほど弱かっただろうか。「無理しすぎですよって怒られたわ」「…悪かったんですか」「治療はしないって決めてたの。告知を受けたときに」 私は私の生き方を試して見たかった。「こんな風に迷惑かけたり………心配させるなら、受けとくべきだったかしら」 溢れた美並の涙を案じてくれた。「いいえ……いいえ!」 椅子に座って、差し伸べられた手を握った。「伊吹ちゃんのことも美並ちゃんって呼んで」「いいえ」「家に来てよって誘って」「いいえ」「苦手な料理を頑張って練習して食べてもらったり」「いいえ」「とりあえず部屋を片付けて見たり……ああ、痛み止めの頓服隠しておかなきゃならなかっただろうけど」 伊吹ちゃん、よく見てるから。「いいえ、いいえ、いいえ宇野さん!」 医師は数日持たないと『さわやかルーム』の職員に告げていた、身内はほとんどおらず、関わっているのは施設だけだったから。 折れそうな細い手を両手で握りしめて額をつける。「いいえ、宇野さん、そのままで、望むままに、どうぞ」 あなたのままに。 あなたが生きたかった、そのままに。「ああ、良かった、伊吹ちゃんで」 宇野は笑った。「伊吹ちゃんならそう言ってくれると思ってた」 楽しげに、嬉しそうに、それでも少し息を弾ませながら。「忘れてね」 静かな声で呟いた。「私が死んだら忘れてね」 死人は重荷になるものよ。「死んだ後の時間をあれこれ考えて、その分まで背負ってしまう」 先に逝く者の聡明さで、いずれ美並が関わる生死を見届けてでもいたのだろうか。 まさに美並は背負った、大石の死を、孝の死を、そして、有沢の死を。「けれど、死んだら、そこで終わりなの」 その先はあなたの世界には存在しない。「だから気にしなくていいの。あなたはあなたの人生を生きるのよ」 その瞬間に、後悔しないように精一杯。「私は後悔してないわ」 宇野は伊吹の手から自分の手を抜き、泣きじゃくる伊吹の頭を撫でた。「だから、忘れて、伊吹ちゃん」 囁いた途端、指から力が消えて滑り落ちた。微笑みながら息を引く。薄目を開けた視線が固まる。 背後でドアが鳴り、駆け去る足音が響き渡る、医師を求めるけたたましい叫びとともに。「宇野さん?」 有沢の声が美並を引き戻した。「……昔の、知り合いです」 大石を忘れず探し回ったのは、自殺だったからだけではない、愛しい人だったからでもない、過去に助けられなかったからだけでもない、きっとこの記憶が、失ったはずの過去から呼びかけていて。 忘れて欲しいから、繋がりを作らなかった老婦人の生き方もまた真実だと気が付いて。 けれど美並は忘れたくなくて。 宇野の望むようにしてやりたかった、同時に忘れたくない自分の気持ちも捨てられなかった。 苦しくて悲しい思い出だけの場所だと思っていた『さわやかルーム』の記憶が、全く別の形で蘇り笑いかけてくる。「…有沢さん」「はい?」「後悔、していますか?」「今ですか」 有沢が苦笑する。「してますよ、してるに決まっているでしょう。このままじゃ死ぬに死ねない。大輔を落としきっていない、『羽鳥』がまだ捕まっていない……あなたに愛してももらっていない」 言い放った有沢に微笑む。「死ぬからって、願いを叶えなくていいですよね」「は?」「忘れてくれと言われたって、忘れなくていい」 そうだ、確かに宇野は言った、気にしなくていい、美並は美並の人生を生きればいいと。「…伊吹さん?」「私も今、過去からの褒美と言うのを受け取りました」 もう一度背中を押される、進め、怯むな、と。「では、戻ります」 凝視する有沢の視線を浴びたまま立ち上がった。「たとえ、これが最後の別れでも?」 有沢が低く尋ねた。「次に私はあなたに会えないかも知れない」 そうやって見捨ててしまっていいんですか。今あなたのために頑張っている男がここに居る。 瞳が引き止める、いつかの夜のように、一瞬でいいから落ちてくれ、と。「…有沢さん」 優しく語りかけた。 少し落ち窪んだ目の、次第に痩けていく頬の、無精髭が目立ち出した顔に、静かに頭を下げる。「あなたに、敬意を……その、努力、全てに」「伊吹さん?」「いずれ私も世界から離れる」 顔を上げると有沢が笑みを消した。自分の手駒だった『死』を、さらりと突き返されて戸惑っている。 そうだいずれ美並もまた、この明るい世界を離れ、見知らぬ場所に踏み込んでいく。 その刻はこの一瞬後かもしれない、ただ知らされていないだけで。 有沢と何の違いがある。「忘れてください、私のことを。そして、どうか」 あなたの人生を全うして。「伊吹さん……」「失礼します。ああ、それから」 部屋を出る前に伝える。「赤来課長の指紋が取れたら檜垣さんに伝えます」「え…伊吹さんっ」 うろたえて体を起こす有沢に頷く。「もう少しです、頑張って」 閉まるドアの向こうで、有沢が叫ぶ。「待ってください、今なんて……伊吹さん、あなたまた、無茶を!」 美並は笑って歩き出した。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.30
コメント(0)
****************「…え?」「私だけではない……セレドの父母も…皇宮のものも……皆、子どもだった」 レアナが言いたいことがよくわからなくて、小首を傾げる。くすりと甘い声が笑う。「セアラは…違ったかも知れないけど」「姉様…?」「…私達が…何も知らなくても過ごせたのは……見えない大きな世界が守ってくれていたからなのね。それにずっと気づかなかった……私があなたの傷に気づかなかったと、同じように」 抱きしめているレアナの体もまた、微かに震えていると気づいて、ユーノは思わず両手を上げた。回されている腕の下から、そっと相手の体を掻き抱く。昔抱きかかえられた時よりも硬く締まり、力強く跳ね返す弾力に、少し驚いた。そう言えば、ラズーンに来てから、レアナもセレド皇宮でいるよりも多く、色々なことを手伝っていた。片付けをし、料理に加わり、子どもの相手や老人の助けになっていた。短い丈の衣服で動き回ることも増えた。体つきも変わったのかも知れない。「…ありがとう……ごめんなさい……」 囁くようにレアナが呟いた。「姉、様…わたし…」「ごめんなさい………ごめんなさい……ごめんなさいを言うのは……私の方なのよ、ユーノ」 ヒック、と小さくしゃくりあげる声が耳元に響いた。泣いていると気づいて、思わず離そうとした体を、レアナがしっかりと抱き寄せる。「ごめんなさい……気づかなくて……謝れなくて……ちゃんと……見ていなくて……」 本当にごめんなさい。「私は……姉失格だわ」 ふいに視界一杯を涙が覆った。 繰り返した眠れぬ夜、1人で手当てをし、痛みを堪え、苦しみに耐え、誰かに助けを求めたくて、誰にも声が届かなくて、誰か誰かと望みながら、誰もいないと諦め続けた暗闇に、小さく仄かな灯りが点る。「ねえ、さま…っ」 訴えれば駆け寄ってくれるとわかっていた、気づけば慰めてくれると知っていた、足りぬ力で必死に助けようとしてくれると思っていた、だからこそ。「違うの…違う……私は……姉様に……っ…笑ってて……欲しくて…っ」 痛みなど知らぬままに。汚れなど受けぬままに。悲しみなど抱えないままに。 ただ幸福に。「みんなに…っ…幸せで…いて……欲しく……って……っ」「うん………うん……っ」 レアナが強く力を込めて、傷がじぅんと痛みを増す、それでもその痛みは、今まで味わったことがないほど甘やかで。レアナの濡れた頬が首に触れて、くぐもった声が苦しそうに吐いた。「『外』を見たわ……何もなかった……何も、本当に何もなかった………あの中で生きられるわけがないって……そう思って気づいたの……あの中で、あなたはずっと、生きていたって…っ」 あなたは、ずっと、あそこに、居たのに。「私は…何も……見えていなかった………っ」 ついに堪え切れなくなったのだろう、わあああっっと激しい号泣がことばを奪う。つられて口を開いたユーノも一緒に声を上げて泣きながら、体を覆っていた重くて分厚い岩のようなものがザラザラと崩れ落ちていくような感覚を味わった。 全てが崩壊してしまって、明るい未来が何も望めなくなってしまったのに、何か見えない大きな透明な円環のようなものに包まれた気がする。 しばらくそうして2人で抱き合って泣き続けていたが、少しずつ落ち着いてきて、互いに力を緩めあい、やがてそっと体を離しながら、相手の頬を指先で拭った。「ユーノ」「はい」「1つ決めたことがあるの」「はい」「…セレドを頼みます」 **************** 今までの話はこちら。
2026.07.30
コメント(0)
****************「覚えておられますか、あのコンビニ」「あの…って、あのコンビニですか」 驚きに尋ね返す。「そうです、あなたを捕まえかけて、『羽鳥』を逃がしたあのコンビニ」 有沢が楽しそうに笑った。「ホテルの近くのコンビニの店主は、あの時期に多発したコンビニ強盗事件に巻き込まれた一人だったんです。夫婦でやって来た店が、事件のせいで資金繰りができなくなって閉店した。その後、妻が亡くなって息子夫婦と同居して、もう一度コンビニを始めることになって、店番中心になった彼は、同じ目に遭うのは二度とごめんだと決めて、何をしたと思います?」「……映像を残した…?」「ええ」 息子夫婦に意味もないことをと詰られながら、コンビニに設置されたカメラの映像を日時を付けつつ保存し続けた、10年間。「映像の中に、いつか『犯人』の姿が映るかもしれないと思って」 有沢はくすりと笑った。「思わぬ収入源にもなったようですよ」「え?」「前の道を通り、コンビニを利用し、ホテルを利用する人間の姿が長期間保存されているとして、密かに名前が知れて、情報が欲しい人間が訪れるようになった。警察もまた情報提供をお願いしたことがあったそうです。私は知らなかったが、檜垣は聞いたことがあった」 その中に。「あのDVDに該当する時間、『羽鳥』いや、赤来を含む数人がホテルに出入りしていたことが確認できました。今、それ以外の時間帯に『羽鳥』が出入りしたかどうか調べていますが、時間はかかります」 孝もまた、あのホテルで殺されていた。覚醒剤がらみか売春組織、裏社会に伸ばされた捜査の手は、おそらくは太田などの動きもあって、『羽鳥』からは巧みに逸らされ外されたのかも知れない。注目さえされなければ、『羽鳥』はどこにでもいる普通の会社員だ。勤務態度に問題もない、犯罪に関わるとも思えない。 微妙な物言いの理由はわかった。冤罪を起こしてはならないからだ。「出入りした人間を特定し、裏を取っていますが、そこからでは赤来には辿り着かないでしょう。大輔を面に立たせて、自分は裏子に徹底していた節がある。不愉快な映像は男達の顔を画像処理されて欲しいものに与えられていたらしい。お互い疚しい身の上だ、まさか『原本』をそのまま残してはおかないだろうとは、素人集団の発想です。自分の保証のために、仲間の画像を確保しておく人間もいなかったようだ」 裏社会の人間なら、当然しているバックアップですが。「だが、赤来を混ぜた写真を見せて、この中に一緒に居た男はいるか、と確認することはできます」 有沢の目が光った。「記憶があやふやでも、思い出すのはいるでしょう、『その男』だ、と」「では、その追加として」 美並はバッグからUSBを取り出した。「同じホテルだと思います。緑川と孝さん、大輔さんが関わっていた映像があります。大輔さんの顔は映っていませんが、声で確認できるでしょう。他に幾つか赤来課長に関わる画像があるので、調べてもらえれば何か見つかるかも知れません」「えええっ」 突然、ドアの外で耳を澄ませていたらしい檜垣が飛び込んで来た。「そんなものをどこでっ」 オカルト巫女にしてもやりすぎだろっ。 摑みかかるように美並に迫るから、差し出した。「檜垣っ」「…緑川課長のPCから。でも」 どうして手に入れたかは話せません。「聞きたい聞きたい、けど聞いちまうとあんたの信者になりそうだから聞かないっ!」 ひったくるように掴んだ檜垣がすぐに身を翻す。「有沢さん、行って来ます!」「頼む」 廊下を走る足音が遠ざかる。 その瞬間。「あ」 思い出した。「伊吹さん?」 問いかける有沢の声と重なる、もう一つの声。 伊吹ちゃん。「……宇野さん…」 懐かしいような悲しいような、それもそのはず、記憶の中で笑いかける老婦人は、もうこの世には存在しない。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.29
コメント(0)
****************「…敵は…もう、いないのよね…?」「……うん」 ギヌアは。 本当はアシャと一緒に連れ帰っていた。シートスに言わせれば、『アシャに比べれば、数段まともな、人』だったが、振り乱した髪を掻きむしり、がたがた震えつつ自分の指に噛みつきながら、ずっと独り言を言い続けていた。人ではない人ではない魔物(パルーク)だ魔物(パルーク)の世だ死ぬ死ぬ死ぬ全て死ぬ生きてなどいられない全て滅ぶ全て殺される全て消え失せる今すぐだ今すぐにいますぐもう。『ひあああああ!』 突然悲鳴を上げたかと思うと、ギヌアは平原竜(タロ)の背から飛び降りた。転げ落ちたと言った方がいいかも知れない。悲鳴を上げながら、跳ね起きて走り出す。外へ外へ、汚れた爛れた地面を蹴って、『氷の双宮』に背中を向けて、それほどの体力がよくぞ残っていたと呆れるほどに、倒けつ転びつ逃げ去っていく。『捨ておけ』 眺めたシートスは冷ややかに指示した。『もう何もできん。そのうちに野垂れ死ぬ』 ギヌアはアシャの炎に焼かれなかった。『運命(リマイン)』のカケラも宿していない人間が、1人でこの荒れ野を生き残る術などない。 静かに続けたことばの後に、アシャを見下ろし付け加える。『こいつは人が生きていける場所をも壊したんだ』 失った部下への悲しみ、奪われた信頼への怒り、苦しげで悲しげな顔から、ただ一度光るものが降り落ち、すぐに振り向いた。『まだ「人」でいる間に死なせてやれ』 それがギヌアに向けてのものなのか、アシャに対してのものなのか、ユーノには判別できなかった。「……『太皇(スーグ)』は伏せっておられる…」「…うん」 ユーノが戻ってから、まだ謁見は叶わない。それよりも先に話し合うべきことがあると、セシ公より召集を受けている。「セシ公は……ラズーンのために忙しく働かれているわ」「……うん」 この手当てが終わったら、シートス、ユカル、セシ公、リヒャルテイとともに、情報の擦り合わせと今後の方針について決めなくてはならない。「ユーノ……」「何、姉様」「私はもう……セレドには戻れないのね…?」「っ」 幼く聞こえるほど優しい声音に胸が詰まった。 ユーノは望んで旅に出た。ラズーンからの要望とはいえ、自分自身も世界の彼方を見てみたかった。 けれどレアナは違う。『氷の双宮』に集まっている人々やセシ公、リヒャルティ達、旅から旅へと動いていたシートスやアシャ、自身で決めてついてきたレスファートやイルファとは違って、レアナはこの地と関わりのない異邦人だ。戦乱に巻き込まれ、謀略に使われ、望まない場所で、願わない役割を押し付けられて取り残された。ましてや、レアナが連れてこられたのは『宙道(シノイ)』を使っての移動、ラズーンが崩壊している今、『宙道(シノイ)』が無事に使えるとは思えない。もし、セレドに戻ろうとしても、これまでより困難で長い旅路が待つだろう。その旅をレアナが耐え切れるとも思えない。「姉様、私は……」 誰よりも幸せになって欲しいと思っていた。長い時間がかかるにしても、アシャが元気で『宙道(シノイ)』を使えるなら、レスファート同様、無事故国に連れ帰り、2人の結婚を祝福し、世界の端の辺境の国で、剣だけが取り柄の第二皇女として、切ないながらも充実した一生を終えるのだろうと思っていた。「ごめん…なさい」 視界が滲んで揺れた。「守り…切れなくて……ごめんなさい」 精一杯必死に頑張ったはずだった。 けれど、守ろうとした1人は重傷を負い昏睡状態にあり、もう1人は故郷から引き離されて異国に打ち捨てられている。レスファートやイルファだって、この先レクスファに戻るには何年もかかり、幾多の危険を潜り抜けなくてはならないだろう。それでも無事に戻れる保証などない。 何もできなかった。 何も守れなかった。 誰も幸せにならなかった。 どれほど責められても仕方がない。「あ…いえ、違うの」 はっとしたようにレアナが包帯を巻き始める。落ちたユーノの涙の上から、繰り返し落ちるユーノの涙に重ねて包帯を巻き、そっと結んで止めた。「違うのよ、ユーノ」「…っ」 ふわりと抱きしめられる。柔らかで温かな香りが包む。皇宮では香水の匂いが絶えなかった姉の、何もつけていない温もりが、懐かしくて切ない。「違うの……私は」 ユーノをそっと抱きかかえながら、レアナは穏やかに続けた。「私は…子どもだったわ」 **************** 今までの話はこちら。
2026.07.29
コメント(0)
****************「った…っ」「ほらもう、動かないで」「いや、でも、姉様そこは結構痛くて…」「綺麗にしておかなきゃ、傷が悪くなると聞いたわ」 ベッドの上で身じろいで逃げ腰になるユーノに、レアナは容赦無く傷の手当てを続ける。一番酷い時にはさすがに怖がって見にも来れなかったが、少し良くなってきて、当て布の交換、衣類の着替え程度になってくると積極的にやって来て手伝ってくれるようになった。「…もっと、早く、手伝えていたら」 治り始めた傷にレアナが暗い表情になる。「いえ…もっと早く…色々なことに気がついていたら」 巻いていた包帯の手を止めて、唇を噛んだ。「姉様…」 それは今回の傷の手当てのことだけではないと薄々わかる。今回の戦闘で、レアナもまた、多くの厳しい経験を積み、今までの視界の狭さに後悔しているのだろう。 『氷の双宮』が開門されて数日、シートスやユカルと満身創痍のアシャを連れ戻り、籠城していたセシ公より『太皇(スーグ)』の余命が僅かだと知らされ、ラズーンはセシ公が引き継ぐと聞かされた。民衆は再び閉門された扉に安堵し、新たな王を迎えて湧き立ち、傷つき疲れた兵達の回復を待っている。 やがて日々を重ねて活力を取り戻していけば、彼らはまずこう尋ねることだろう。 それで? この先は一体どうすれば? その問いにすぐに答えられると思う者は、あの戦場を知らない。 閉ざされた『氷の双宮』の中には、限られた物資しかなく、必然的に扉を開け放ち、外界から再びあらゆるものを獲得していく暮らしに戻るしかない。しかしながら、その『外界』には、命を繋ぐ術がほとんどなく、腐臭放つ遺体と破壊され尽くした住居と新たな食物を得られそうにない乾涸びた地面しかない。 いずれは向き合わなければならない問題、けれども糸のように細い『新たなる国』の幻想に支えられた心では、それらの厳しい現実に耐えられず、心が折れ気持ちが伏し体力が奪われ怒りが溜まるのは明らかだ。 その際に、民衆は思うだろう、今のレアナのように。 もっと早く、色々なことに気づいていたら、こんなことにはなっていなかったのでは? 自分の鈍さを責めるならまだいい。 心をそれほど強く保てないなら、その問いは簡単に次の怒りに繋がる。 もっと早く、色々なことに気づけていたのでは? 必要な手を打てたのでは? 私は気づかなかったとしても、もっとよく、世界のことをわかっているように振る舞っていた、『あなた』は気づけていたのでは? 何をしていたの?「……ユーノ」 包帯を巻くのを止め、俯いていたレアナが呟いた。「アシャが目覚めないわ」「……うん」 シートスに運び込まれたアシャは、『金羽根』の手で傷の手当てがされた。とは言え、特別なことはされていない。なぜか手伝おうとしないシートスとユカルに訝りながらも、リヒャルティを始めとする面々が、焦げて破れた衣服を脱がせ、焼け爛れた皮膚と裂かれた傷に薬を塗り、布を当て包帯を巻き、『氷の双宮』近くの小部屋に寝かされている。誰が見ても酷い傷で、体は冷え切り、意識は戻らず、汚れ乱れた髪は短く切られ、傷以外の部分を最後の手向と丁寧に拭われた。数日内に『死の女神(イラークトル)』が迎えに来ると思われたが、今もなお呼吸が止まることなく、昏迷状態で眠り続けていると言う。「あなたも…酷い怪我をしている」「…うん」 ユーノはアシャの手当てを一部見守っただけで、シートスとユカルに促されて、こちらも傷の手当てを受けた。『大丈夫だ。俺達が見ている。何も起こさせない』 シートスの突き放した口調は、リヒャルティ達には万が一の異変を見逃さないと取れただろうが、ユーノには『アシャが暴走しない』ように見張ると聞こえた。事実、アシャの状況を見ていれば、このまま回復し、再び目覚めて『氷の双宮』を破壊しないとは言い切れないからだろう。ましてや、安全弁の『太皇(スーグ)』が不調の今となっては、破壊兵器のアシャを制御できるものなど誰もいない。 『人』であるなら連れ帰る、と決断したシートスが、それでも『氷の双宮』に入るまで、本当に連れ帰るべきなのか、それともギヌアのように見捨てるべきかと悩んでいたのを知っている。せっかく守り抜いた『人』を、自分の手で再び戦禍に巻き込むかも知れないと葛藤する背中が苦しげだった。 **************** 今までの話はこちら。大変お待たせしました! もう2155000ヒット、近いですやん。やばい。次もすぐに書き始めなくちゃならん。本日から7/31にかけて連載いたします。ご訪問、いつも誠にありがとうございます。どうかご無理されませんように。お楽しみいただければありがたいです。
2026.07.28
コメント(0)
****************「…伊吹さん」 病院の一室に、有沢は薄緑の寝間着のようなものを着て横たわっていた。窓が開け放されていて、晴れ上がった空を眺めていたらしい。気配に振り向いた顔が微かに笑う。風に乱れもしないしっとりとした髪の毛が長患いを予感させる。「…大丈夫ですか」「もう退院できないそうです」 さっくりと答えた。「…」「昨日のことでしたよね……あなたに手がかりを頂いたのは」 なんだか急に時間がすごく速く経っていく気がする。 呟きながら有沢は、もう一度彼方へ視線を投げる。空を見ていたのではなく、右手に繋がれた点滴を見上げていたのだと気づいた。 ポトリ、ポトリ、ポトリ。 明るい日差しの中、一定間隔で刻まれる時間、じりじりと減っていく袋の中身。「もうちょっと居たかったな、外界に」 軋るような声で唸る。「倒れられたんですね」「苦しいのはいつもだったから、見くびりました」 自嘲する声音だった。「…檜垣は?」「車を置いたらすぐに来るとおっしゃってましたが」「…話は聞きましたか?」「はい」 目線で促されて近くのパイプ椅子に座る。枕元にナースコール、触れるものかと言いたげに放り出されたボタンのオレンジもまた明るい。ベッドの上には緊急時に使うものか、二つの器械が取り付けられている。「おそらく、真崎大輔には実刑判決が出ます」 明後日の方向を向いたまま、他人事のように有沢が言った。「…はい」「家族からの訴えもあって、DVに関しても情報が集められている。守秘義務はあるが…」 難しい顔で美並を振り向いた。用心深くことばを継ぐ。「有る事無い事、かなり酷い事を話している、真崎京介さん、に関して」「…」 有る事無い事。 もちろん、大輔のことだから、自分に都合よく事実を脚色し捻じ曲げているだろう。恵子からも情報は集められているだろうが、恵子もまた不利な事を隠し、正当化することだけを話しているだろう。 ただ、それだけではなく。 有沢の頭の中に、欲望のためだけに弟の体を蹂躙し続ける兄という存在はあり得るのだろうか。成長しても過去に捕まり囚われて、自分から体を差し出し続ける被害者は想像できるのだろうか。 有る事無い事、の中には、大輔恵子の嘘だけではなく、有沢の想像外と言うこともある。「…伊吹さんはご存知ですか」「…はい」 頷いた美並に有沢が目を見開いた。「知っていても?」「知ったことから、知り合ったんです」「……そう…なのか…」 苦い笑みが広がった。「そういう、繋がりなのか」 同情なのかと聞こえた。同情もまたあっただろう、けれど今はもう、背中を守るただ一人の人としか思いつかない。「そういう繋がりです」 にっこり笑うと、有沢は大きく息を吐いた。「…勝てないわけだ」 少し押し黙った後、「檜垣は遅いですね」 身を震わせた有沢に立ち上がって窓を閉める。椅子に戻ろうとした時、微かに動いたドアに気づいた。檜垣は戻って来ているが、部屋に入らないつもりらしい。 ふと、何か懐かしいような、悲しいような気がして、美並は戸惑った。ベッドに寝ている有沢、落ちる点滴、閉めた窓、ドアの外に立つ人の気配。「…過去から届いた褒美、ってなんですか?」 ドアを見たまま尋ねた。「え?」「来る途中、檜垣さんがそこまで話して止めました」「あいつ……」 苦笑した有沢が座るよう促して、もう一度腰を下ろす。「実は先日のホテルの近くにコンビニがあるんです」 有沢が話し出して注意を戻した。「周囲には他に店がなく、ホテルを利用する人間もコンビニに入る。そして、コンビニにはカメラがあります」「でも…5年以上前です、映像は」 確か一定期間ごとに上書きするように保存されると聞いたことがあるのだが。「普通ならば」 有沢が目を細めて皮肉な笑みで振り向く。「残っていないはずなんですが」 そのコンビニには残っていたんですよ。「なぜですか」「過去からの、褒美」 有沢が頷いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.28
コメント(0)
**************** 真崎のマンションの前には一台の車が止まっていた。手持ち無沙汰な顔で携帯を弄っていた檜垣が伊吹が出て来たのに目を上げる。「乗りなよ、オカルト巫女さん」「ありがとうございます」「オカルト巫女で返事すんのか、変なオンナ」 運転席に乗り込みながらくすくす笑うが横顔は暗い。「着くまでに一通り話しておけって言われたから」 助手席の伊吹がシートベルトを締めるのも待たず、アクセルを踏み込み、タイヤを鳴らして走り出す。不服なのだろう、有沢が伊吹を当てにし続けるのが。「…有沢さんは入院したんですか?」 流れる景色が署に向かわないのに尋ねる。檜垣が吐き捨てる。「…倒れたんだよ、寝なかったから」「そう、ですか」 時間が限られて来る。ひょっとすると間に合わないかも知れない。「…真崎大輔に任意同行を求めてた。切羽詰まってきたんだろうねえ、割とあっさり話してくれたよ」 バカな男だなあ。「話したからって罪が軽くなるもんでもなかろうに」 司法取引とか夢みたいなこと持ちかけてきやがって、「同席した弁護士も青くなったり赤くなったり、面倒見切れなくなったのか途中からだんまり決め込むし」 檜垣が鬱陶しそうに溜め息をつく。「あれが身内だとしたら俺も凹むわ」 で、わかったことだが。「飯島の殺害は『羽鳥』に指示されたらしい。お互い押し付けあった気配が濃厚だが、結果的には大輔が難波孝のかつての客の一人に金で頼んだ。そいつはもう確保済みだ。まあそいつもバカでさ、孝を一回抱いて、もう一回頼んだら飯島に嗤って断られたから、恨みを晴らすのにちょうどいいやと引き受けたらしい」 ゆっくりハンドルを回す。 事件のことを話し出すと少し落ち着いてきたようだ。「大輔は『羽鳥』は『羽折豊』だと話した。大学からの付き合いで、自分だけじゃない、ずっと『羽折』も計画に加わっていたって。『羽折』はコンビニ好きで、桜木通販に就職しているはずだった。緑川事件に関わり、最近では飯島の殺害を引き換えに、大輔への警察の追及をどうにかしろと交渉したらしい。だが飯島殺害後、連絡が取れなくなった」 自分が捕まるなら、『羽鳥』もろともと画策したんだろうが、『羽鳥』の方が役者が上だな、尻尾を捕まえられるような手がかりをほとんど残していない。「大輔が持っていた映像にも姿も声も残っていない。サークル写真にも写ってない。写真は苦手だとあらゆるものを断ってたみたいだ。連絡は携帯だけ、大学を出てからは顔を合わせることもなく、やらかしたことが追えるのはせいぜい緑川事件まで、それもその時桜木通販に居たと思っていたのは大輔だけだ。そもそも桜木通販には『羽折豊』なんて男は居ないと言ってやったら、大輔も青くなってたよ」「…『羽折』は旧姓です」 美並は口を開いた。あの映像を見た後では当然調べは進んでいるだろうが。 檜垣が頷く。「旧姓、羽折。今は赤来。赤来、豊。桜木通販、経理課課長だよな」「はい」「…時計は今追っている。確かに高価で珍しいが特注じゃない、ネットで買ってくれてるか、ここらの小さな宝飾店で手に入れてくれたら跡が追えるが、別の場所で購入されてたら追いきれないかも知れねえ」「はい」「だが、もう一つ、掴んだネタがある」 檜垣がふっと美並を振り向いた。「過去から届いた褒美、みたいな」「はい?」「……ちっ」 檜垣らしくない詩的な言い回しに訝しく見返すと、薄く頬を染めた檜垣が舌打ちした。如何にも不似合いなことばだと自分でも思ったのだろう、放り出すように言い放つ。「後は有沢さんから聞いてくれ」 車は小さな病院の駐車場に滑り込んで行く。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.27
コメント(0)
****************(中略) ふいに意識が醒めかけてかろうじて堪えた。 本当は恵子に喋らないで欲しいけど、そういう訳にもいかない。 一度大輔に対して似たようなことを仕掛けた。あの時は大輔側から誘ってきた。けれども今度は意図的に、恵子を煽り誘い込む。 いつだって反撃できたはずだ、こんな風に。 けれど今までしなかった。 簡単だ、自分が快楽に弱くて煽られればすぐに崩れるどうしようもない身体を持っているなんて思いたくなかったからだ。嫌がっても抱かれれば感じてしまう、大輔だろうと恵子だろうと、自分の意志を明け渡してしまう弱さを認められなかったからだ。 その弱さに付け込まれ利用されていた。 でももう伊吹が居る。どれほど京介が壊れても愛してくれる人がいるから。(中略) 携帯の向こうが凍りついた。 沈黙が続くが、切られてはいない。 京介には見える、目の前ですり抜けた幻を、どんな顔で恵子が睨みつけているのか。「……ふ、ぅ…う…っ」 すぐに息が整わなくて、それも一呼吸も余さずに携帯に吹き込んでやる。「は……ふ…っ」 気持ちいい。快楽ではなく、黙り込んでいる恵子の憎悪が。『……何よ…』 やがて押し殺したような声が聞こえてきた。「……何が……?」 京介はゆっくりと尋ねた。『…どういうことなの』「だから、何が」(中略) 恵子さんは誰と何をしていたの?『っ、バカっ、最低っ、死んじまえっ!』 思わず携帯を耳から外したほどの罵声、すぐに切れた通話に笑いながら携帯を放り投げた。「あははははっ」 あー面白かった。「酷いなあ、僕」 込み上げる笑いをしばらく楽しんでから、溜め息を一つつき、のそのそ起き上がる。「……ほんと、どこまでやっちゃうんだろうね…伊吹さんがいなかったら」(中略)「際限なし、か」 飢え渇いている体は容易く欲望に支配される。けれど。『相手が握って引き寄せてきたら、その動きを利用して、プラスこっちの動きを加えてすり抜ける』 あの道場で、源内はそう教えた。 どんな攻撃がどこへ来る。その攻撃に何を乗せるどう乗せる。 京介は『羽鳥』と赤来について、何を知っている何ができる。 考えろ、全てが伊吹の鎧になる。「馬になるのと餌になるのは……ご褒美にもらうことにして」 微笑みながら、再びシャワーを浴び始め、もう一つ源内とのやりとりを思い出す。『俺の師匠が使っていた場所で、今は誰も使っていない。あえて言えば、俺が継いだことになってるんだが』『亡くなったよ、胃がんで』『まあいろいろあって。自分にも人にも厳しい人で、厳しすぎて誰もついてこれなくなったというか。家族ともそりが合わなくて、いつだったかな、大事にしてた孫娘が亡くなってからは家を出て、寺に住み込んでた。自分が全部間違ったんだって、そう言ってたかな』 余りにも似ていないか? 大事にしていた孫娘が死んで、悔いて寺住まいを始めた老人、亡くなった原因は胃がん。 そんなに偶然が重なるものだろうか?「寺の名前を確認して」 きゅ、とコックを捻って湯を止めた。「師匠の名前と家を確かめる」 もし、それが予想通りなら。 京介は唇を引き結んで、バスタオルを掴んだ。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.26
コメント(0)
****************『なあに、京ちゃん』 響いた声に集中する。 目を凝らすまでもなく、京介と同じようにベッドに座る恵子の姿が浮かんだ。 耳が恵子が姿勢を変えることで軋む微かなベッドのスプリングの音を拾い、その音をどこで聞いたか思い出し、『京ちゃん』と寝物語で呼びかける声の媚びを感じ取って、意図を察し想像させている、恵子がどこに居るのか。「…『ハイウィンド・リール』に居るの」『ふふ……っ』 恵子は含み笑いを返してきた。『さあ、どうかしら…』 電話の向こうで軽く呼吸が弾む。『京ちゃんはどこに居るの? …ベッド……?』 声が低くなる。『………お昼間なのに眠っていたの…?』 目を閉じた。恵子もまた、同じように京介の居場所を読み取っている。 別の場所に居たならば、見えない触手に絡められるように無意識に促されて、ベッドに移動したかも知れない。声の調子から寝起きだろうと当たりをつけた恵子に、物憂い午後の一人の寂しさを慰めてあげましょうと言外に仄めかされて。 操られる、いつもの手管で、抵抗さえ思いつかないほど自然な流れで、京介のことを隅々まで知っている巧みな声に。 問いを、誘われる。「…どうして…」『一人で来たの……不安で』 肌に触れるような声。「……子ども達は」『預かってもらってる』 だから、誰にも気兼ねなんてしなくていいのよ、私達。『大輔のことを……相談したいわ』 人恋しくて、一瞬の温もりが欲しいなら、分け合いましょう、ねえ一緒に。 甘い囁きに目を開く。 源内の声が耳の奥で聞こえた。『あんたは自分で自分を守れなくちゃいけないんじゃないか』 今京介は一人だ。 伊吹は有沢の所へ行き、疲れて眠っている京介を放置している。『京ちゃん…』 声が涙ぐむ。『不安なの…これからどうなるのか…』 一人ぼっちで、この先どうなるのかわからなくて、伊吹に嫌われるかも知れない自分が悲しくて不安で辛くて痛くて。「…同じだね、恵子さん」『…京ちゃん』 声が華やいだ。嬉しそうに綻んだ顔が見える。『わかってくれるの…』「わかるよ」 携帯に頬を預ける。指輪の冷たさを感じ取る。軽く拳を握って指輪にキスし、その指で頬から耳に、首筋に触れていく。 身体は素直に熱を上げる。恋しい恋しいと呟きながら、潤み弾んでいく。滑らせていく、汗で湿ったシャツの上から、胸へ腹へ、もっと下へ。「すごく、わかる…」 息を吐いた。『…なあに…京ちゃん…』 恵子の声が濡れた。『何してるの……何だか凄く…』「…凄く……何…?」(中略)「……付き合ってくれるの?」 京介は笑った。吐息を零すような声だと我ながら感じた。『怖がってご丁寧に全身の力を集め、相手の扱いやすいような位置にわざわざ一体化させちゃうから、好き放題やられるんだ』「…その通りだね」『…え?』「ううん……こっちの話…」 耳の奥の源内は語り続ける。『自分の回りに防御の壁を張るんじゃなくて、自分の体を防御に使うんだ。同時に相手の体と力も利用する』 本当は『こんな使い方』じゃないんだろうけど。話したら、うんと怒られそうだけど。(中略) 弾む呼吸を逃しながら答える。首筋に優しい唇を感じて、一瞬危なくなった。駄目だ、まだそれを口にしちゃいけない。一番効果的な箇所はここじゃない。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.25
コメント(0)
**************** ペットボトルは目覚めればすぐ気がつく場所に、体を起こして飲もうとすればちょうどいい場所に置かれていた。 だから京介は伊吹が京介のことを配慮してくれたのだと感じ、喉の渇きをペットボトルの水で癒そうとした、立ち上がってキッチンの水を汲みに行かずに。普段ならば、渇きをそのままにぼんやりと座っているか、のろのろ立ち上がって水を飲みに行くところだろうに。 行動が、支配される。 ベッドから体を起こす場所、腕の長さと伸ばす仕草、ペットボトルの高さと形。元気な時と疲れている時では動きが違う、好みも違う、望むものだって違うだろう。けれどそれさえも、データとして積み重ねられたとき、ペットボトル一つで京介の行動を制御できる。 脳裏を大輔の、恵子の、相子の言動が通り過ぎる。 身動きできなくなる感じ、動こうとする全てが遮られて、何も打つ手がない感じ、好き放題に貪られて、なのに、自分が悪いとしか感じられなくなる傾向。 『見えない』支配。 伊吹もまた、同じ力を京介に向けた、それがただ京介を守る方向だっただけで。 時々見せた悲しげな微笑。 あれは、このことを理解していたからだ。 幼い時から支配されることに慣れきっていて、支配されているとさえ考えなかった京介が、そこから抜け出るためには、別の支配下に置かれてからでないと難しいこと。 伊吹の支配下におかれて、そこから少しずつ手放されて、一人で立つ力を蓄えるようになって、初めて『見えた』自分の姿。 選択を放棄し、慣れた安心を得るために蹂躙されたがっている、幼い心。「……そういうことだったのか…」『え?』 恵子が必ずこういう時に連絡してくるのも、それを無視することもなく京介が受け入れてしまうのも、当たり前だ、京介が見えない場所で呼んでいたからだ。一人でいるのが辛い、誰か近くに寄り添って欲しい、これからどうなるのか不安で堪えきれない、未来を選ぶ責務を誰かに肩代わりして欲しい、と。 いつかの夜、恵子の訪れを拒めなかった、伊吹が悲しむとどこかでわかっていたはずなのに。「京介はこれからもそうやって、大輔さんや恵子さんが京介に押し付けたものを支払う気ですか?」 怒りに煌いた冷たく暗い伊吹の瞳。「私も、京介を、抱きに来たから」 あの時、伊吹は何を『見ていた』のだろう。 きっと今京介が『見ている』ものと同じもの、支配を望む体に付け入り、その手綱を握ろうとする自分。 片一方の手を余命僅かな有沢に握られ、もう片方の手を一人で立てない京介に握られ、その力を人を傷つける方向にも使える誘惑に揺さぶられながら吊り下げられて。「…こんなものを……どうやって…」 吐き捨てる。『何を話してるの?』 苛だたしそうな声に思わず嗤った。 恵子も同じなのだ、大輔に支配されて束縛を嫌がり逃げ出そうとしながら、それが外されきってしまうと不安で、別の鎖を求めている。 孝も重なる、一人で選び切れなくて誰かに委ねて考えないでいようとする姿。 伊吹が孝の事件を追うのは、自分との関わりだけじゃない、京介も同じ場所に落ち込みかねないとわかっていたから。『聞こえないわ』 不安を響かせて恵子が問い正す。『ちゃんと答えて』 京介もまた同じだっただろう、伊吹の声を聞かなかった、自分の望みを見ないために。 そんな男を。「…どうやって…なんとかする気だったの……伊吹さん……あ」 記憶の中で声が閃く。「私が、犯人ですよ、京介」 静かな微笑み。 皮膚が粟立った。 そうか。 伊吹は大輔側に立つことを決めたのだ。自分の支配力を引き受けて、責められても切り捨てられても、『犯人』側に立つことで、『羽鳥』を追い、赤来を捕まえることにした。惨い映像を直視し、誰一人わからない孤独を引き受け、奇異の目で見られ遠ざけられることを覚悟して、高山と石塚に全てを話した。「私は、真崎課長の親友である、難波孝さんを殺したのが、赤来課長ではないかと疑っています」 震えていた伊吹。「正気か」 高山の容赦ない糾弾にひるまなかった、予想していたことだから。「信じられんな。とんでもないことを話しているという自覚はあるか」 きっと仕事も生活も何もかも失うことさえ飲み込んで。 京介が逃げきれないから。 京介が拒めないから。 ただ、京介を、守るために。「…っ」 視界が潤んだ。「愛…されてる…なあ……」 いつの間にか俯いていた。垂れ落ちた髪の毛を強く掴む。「…僕……こんなに……」 伊吹さんに、愛されてた。 きっと今も伊吹は闘っている、一人で歩くしかない未来を片手に、京介のことを想いながら。『…もちろんよ、京ちゃん』 携帯の向こうで恵子が含み笑いをする。『ひょっとすると……大輔よりも、ね』 くすくすと優越感に満ちた笑い声を響かせる。『京ちゃんのことを一番わかっているのは、私よ』 目を上げた。伝い落ちた涙を擦り取る。 誰が、誰を、わかっているって? 誰と京介を天秤にかけてるって? 目を閉じる。 伊吹は京介の中に割れたガラスがあると言った。砕けて刺々しい、近づくだけで人を傷つけてしまうようなものが。けれど伊吹は京介の中に踏み込んで、たぶん自分も傷つきながら、それ以外の『綺麗なもの』をいっぱい見つけてくれた。 抜き放て、ガラスを磨いて剣として。 自分を守るためじゃない、闘う伊吹の唯一無二の盾となるために。 やり方は十分知っているはずだ、幾度も身体で覚えさせられたはずだ。 携帯を持ち替えた。右手を開ける。「…恵子さん?」 微笑んだ。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.24
コメント(0)
**************** 京介はベッドの中で目を開けた。 高山の家に石塚が来たことも驚きだったが、彼女がボランティア・グループ『ゆえの会』に属していること、仲間の娘である結衣を赤来が巻き込んだ事件があったこと、彼女を救おうとして『ニット・キャンパス』に参加したことを初めて知った。 加えて、高山が隠していた、孝が大輔達に弄ばれている映像。赤来が今も同じような事件を引き起こしつつ、桜木通販で事の成り行きを見守っていると伊吹が指摘したこと。そこまで伊吹が赤来に近接していたこと。 衝撃と不安と。 予想を越えて放り込まれて来た情報に打ちのめされた。「『羽鳥』は私達と変わらない。だから、誰にも捕まらなかった、悪意さえ見せていませんから」 伊吹は淡々と指摘した。「……赤来が『羽鳥』であることを立証し、捕まえて罪を認めさせるのか」 険しい高山の顔。「…もし、飯島の隠し持っていたカード・キーと赤来課長の指紋が同じならば……少なくとも飯島との関係性について、映像に写った時計のことや、今警察で情報を集めているホテルへの出入りの件について、話を持ち出すことができます」「指紋を取る気か」 もちろん、伊吹はそうするつもりだろう。「私がしようとしていることは正義なんかじゃありません」 冷酷なほど突き放した伊吹の声。「自分の弱さの始末です」 始末をつける、自分の手で。「……」 空っぽの腕の中を見つめる。 高山の家から戻って、疲れ切った気持ちと体を伊吹に甘えて癒してもらって、少し眠った。 よほど疲れていたのか、夢も見なかった。 眠りに落ち切る寸前、伊吹の携帯に誰かからの連絡が入り、応じた伊吹は京介を起こさないように静かに部屋を出て行った。『…伺います』 低めた声の鋭さを思い出しながら、体を起こす。 枕元に洗面器、目覚めた時のためにと置いて行ってくれたのだろう、ペットボトルに水が入っている。その横に畳まれていた眼鏡を掛け、ペットボトルの蓋を開けて一口飲む。思ったほど温くなっていなくて、伊吹が出て行ったのがそれほど前ではないと知らせた。 ベッドに座ったまま、ペットボトル片手に髪を掻き上げ眉を寄せた。 痩せ我慢。 伊吹が行かなくてはならないのはわかっているから引き止めなかった。 けれど、いないことが苦しくて辛い。体が痛い。「今からこんなんじゃ、伊吹さん困るよね…」 一瞬たりとも離れられない恋人、いや夫なんて負担でしかない。 右手の薬指に戻った指輪を眺めた。彼女の指にも嵌っている指輪を思い出す。『京介』 脳裏で伊吹が微笑んで、嬉しくてそっと指輪に口付けた。「…頑張ろう」 痩せ我慢でも何でも、また会えた時にうんと抱きしめてもらえばいいんだし。いや、うんとうんと抱きしめさせてもらえればいいんだし。「伊吹さんは僕のものなんだし」 かなり吐いてしまったから、喉はからからだ。伊吹が戻ってきた時、ぐったりしていたら余計に心配させてしまう。少しずつでも飲んでおこうと、もう一度ペットボトルを傾けかけた時に、携帯が鳴った。「…」 仕事用じゃない、伊吹でもない。 ペットボトルを枕元に戻し、手を伸ばして確認する。非通知の番号だが、何となく相手の想像がつく。小さく溜め息をついて、出た。「……はい」『京ちゃん?』 訝しそうな恵子の声が響いた。 想定内というか、やっぱりこういう時に連絡してくるのか。「何の用?」『……何かあったの?』「何かあったのはそっちじゃないの?」『…聞いてるのね』 私だって、いろいろ考えた結果なのよ。『子ども達のことも心配だったし』 目の前に居たなら、きっと瞬きして上目遣いに見上げてくるところだろう。自分の非など一切なくて、ただただ相手が悪かったのだと確信させるような不安げな顔で。「…っ」 ぎくりとした。 そうだ、京介にはそう『見える』。『京ちゃん?』 思わず落としそうになった携帯を持ち直し、ベッドに座り直す。『私は「見える」し「聞こえる」けれど、それは「見たり」「聞いたり」してるんじゃない。自分の推理や直感を視覚化したり聴覚化したりしている、そういうことです』 蘇る、出会ったばかりの時の伊吹のことば。「…こういうこと…か」 唐突に色々なことが一気に組み合わさった気がして、視界が煌き、瞬きする。『京ちゃん、どうしたの?』 沈黙したままの京介に不審そうな恵子の声が響く。さっきまでの見せかけのものとは違う、本物の不安。何が起こっているのだろうと確かめにかかっている。 『見える』映像が変わっていく。上目遣いの小動物のような可愛らしさが消え、牙を剥く前の獣のように、低く身を沈め、目を細めて眺めてくる。 警戒が広がる、今にも食いつかれそうで。その先に続く逃れようのない苦しさを押し付けられそうで。問われるままに答えたくなる、被害を最小限にするために。 その自分の心の動きもまた、はっきりと『見えた』。 思わず枕元を振り返る。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.23
コメント(0)
**************** 遅い昼ご飯はどうかと誘われたが、辞退して二人で真崎のマンションに戻った。「何とか力を貸してくれそうですね」「うん…」 頷いた真崎が一瞬よろめき、壁に凭れた。「ごめん…」「少し休んでください、京介」「いや……うん…そう、だね」 拒みかけた真崎が、壁を押し退けるように体を起こす。 緑川の画像は全てUSBに入れて持ち帰った。今更だが、有沢に渡せば、美並の気づかない情報も新たに見つかるかも知れない。それが『羽鳥』の包囲網を形作る一目になるかも知れない。「水、飲めますか?」「……」 無言で真崎が首を振る。 高山宅で口を漱がせてもらい、必死に落ち着こうとしていたが、時折苦しげに喉を鳴らしていた。 寝室の暖房を確認し、ベッドを整え直し、枕元に一応ナイロン袋を被せた洗面器を置き、またトイレに飛び込んでしまった真崎を見に行くと、青い顔で戻ってきた。洗面所で口を洗い、壁を伝うように寝室に入り、ぐずぐずとベッドに座り込む。「スーツを脱いでこちらに下さい」「美並…」「はい?」「……抱いてて」 のろのろと見上げてきた顔が縋るようで痛々しい。「今、僕、自分が居ない方がいいんじゃないかって思えて、まずい感じ」「京介」「でも、ごめん、君を抱けなくて……抱く資格がないとしか思えなくて、でも、君が欲しくて」 必死にことばを紡いでくれる努力に思わず泣きそうになった。 何も言えないほど苦しいだろうに。美並が不安がると考えてくれている。「スーツを脱いで待ってて。すぐに戻ってきます」 近寄って背広を脱がしながら額にキスした。「シャワー要らないよ?」「お湯を沸かしてたんです」「うん…」 目を閉じて受け止めた真崎の目元が濡れている。「ごめん」「いいの」 上着を脱がされた真崎が揺れるように倒れ込む。そのままシーツの中に潜り込む。 キッチンに戻って湯を止め、玄関の鍵を閉め、電気を消して戻ってきた。目を閉じて身動きしない真崎の側に滑り込む。ぐったりした頭の下に腕を差し入れると、眉をしかめながら胸に頭を凭せかけ、しがみついてきた。抱き込まれる、熱っぽい体に深く強く。「美並…」「…はい」 くぐもった声に髪にキスした。「僕は…」 辛いよ、いっぱい慰めて、そう続くと予想していたのに。「……幸運だった」「え?」 一つ大きく胸元に息を吹きつけて真崎が繰り返す。「僕は、美並に会えて、幸運だった」 思いもかけないことばに瞬きした。「さっきの話、すごく怖かったよ」 柔らかな声が呟く。「『羽鳥』は僕らと変わらない」「…はい、たぶん」「あの話の中で……僕が『羽鳥』だったかもしれない」 低い声が冷たく響く。「僕が孝だったかも」 沈み込む口調。「飯島だったり、有沢だったり……僕が大輔だったかも知れない」 胸に落ちることばが重い。「僕は、誰かを殺して自分も死んでいたかもしれない」「京介…」 静かに顔を上げてくる、闇の中で瞳がきらきらと光っている、まるでその内側に聖なる何かが宿ってでもいるように。「でも、君に会ったから」 伸びをして目を閉じ、唇を重ねてきた。美並も目を閉じて受け入れる、深く入り込まれるのに、何もかも奪われるに任せる。 やがて、少しだけ離された唇が囁く。「……僕は、僕で…真崎京介でいられた」 柔らかで落ち着いた声だった。 目を開くと真崎は微笑んでいた。「君がいなければ、この僕はここにいなかった」「それは困ります」「僕だって困る」 信じられないほど甘く笑う真崎が続ける。「美並を抱けるこの僕が、凄く、好きだ」「………っ」 これは何の合図だろう。 粟立つ皮膚に思う。 これは本当に、あの、真崎京介か。 美並に振られそうだからと自殺しかけたり、必要がないなら殺してくれと望んだり、美並の一挙一動に命綱を握られているようにぴりぴりしていた男はどこに消えてしまったのだろう。 美並の腕に抱えられながら、美並の胸に甘えながら、けれどいつの間にかその両腕で外界の寒気から遮り、温めてくれている。「気持ちいいよ、美並」 ふわりと鼻先に胸に頭を寄せた真崎の髪が揺れた。「僕は君を抱くのが一番好き」「…はい」「美並は?」「私も…京介と居るのが好きです」「違うでしょ、そこ、抱かれるのが、って言うところでしょ」「……京介を抱くのも好きなんですけど」「……うん」 はにかんだ声が響いて、胸に唇が押し付けられる。「抱いてて」「はい」 ぎゅう、と力を込めてみる。「もっと」「はい」「……気持ちい」 夢見るような声が零れた。「…これだけで……イキそう…」「っ」 押し付けられた感触にどきりとした。「無理じゃなかったんですか」「本能って凄いよね」「私は…無理ですよ」「わかってるって」 けどね、知っておいて欲しかったんだ。「僕の全部は美並のもの」「わかっています」「過去も未来も全部」「はい」「だからさ、美並」 蕩けるような囁きが続く。「必ずここへ戻ってね…?」「…はい」 それほど待つまでもなく、強がっていても限界を超えたらしい真崎は寝落ちていく。「戻りますよ、京介」 囁き返して、もう一度、髪にキスした。 察していたのだろう、『羽鳥』の証拠を得るために、美並が無茶をすることを。無茶をせざるを得ないことを。 自分は大丈夫だからと手放してくれた。 いってらしゃい、僕の美並。でも何があっても、必ずここへ戻ってきてね。 真崎の中に育っていた信頼と強さが美並を支えてくれる。 枕元の携帯が振動した。 予想していた気がした。 真崎の腕をそっと外すと、するりと抜けて解け落ちた。 滑り出る、暖かで優しい褥から。冷たくて厳しい現実へ。 携帯を片手に耳に当てながら立ち上がり、通話を押す。「…はい、伊吹です」『今よろしいですか、伊吹さん』 有沢の掠れた声が響いた。『お時間を頂けますか』「…伺います」 美並は静かに真崎の眠る寝室から出た。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.22
コメント(0)
暑い中、お越しくださってありがとうございます!おかげさまで、2150000ヒット、クリアしました。ひょっとすると、今年中に2200000ヒット、行けてしまうのか?などと思ってしまっているところです。今までで大体10000/2ヶ月なので、ちょっと厳しい(笑)。けれど、今はもう2000カウントほど超えてしまっているので、色々な面で焦ります。どうしよう。仕上がるまでに次が来たら。いや、今までもありましたが。『ラズーン』は一所懸命書いているところです。『新たなる国』の中で、誰がどのように動き出しているのかをぼつぼつと書いていきます。アシャはまだ眠ったままです。ひょっとすると目覚めない方が、彼にとっては幸福かも知れませんが。でも、これは『ハーレクイン』系でハッピーエンド、と宣言しております。どこが。そんなお声も聞こえますが、結ばれるべき2人が結ばれる予定です。先行きはかなり遠いし、気持ちはどこまで重なるのか、いささか疑問ですが、それでも、ステップ踏んでいけば大丈夫なはずです。たぶん。いや絶対。『闇を闇から』も、ようやく七海誘拐事件の筋が見えてきました。『ニット・キャンパス』の勝ち筋も。積まなくちゃならない場面がまだ多いです。美並が関わるとどうにも殺伐とするのはなぜだろう。京介がヒロインポジですね、ずっと。やれやれ。『これは〜』の方も、『花咲』と『龍』を巡って、あれやこれやと研究が続いています。ミディルン鉱石をどう使うのか。『王家の血』がどう関わるのか。発動条件は何か。再現可能なのか。おかしいな、不遇なヒロインが幸福になる話のはずだったのに。1話はそうでしたね。2話はちょっと悪役令嬢っぽい感じで。3話に至っては魔法の研究論です。しかも素人考えの。まとまるかしらん。うーん。『ドラゴン・イン・ナ・シティ』は、ずーっと役者と芝居について、あれやこれやと展開しています。現実とリンクしていて、いつも「これは何を書いているのか」と毎回首を捻りつつ書くお話です。書き終わって3日後ぐらいに、ああそういうことなのかと納得する系。一番わけがわからなくて油断できないお話です。すごく長いのに、書いていて進んだ気がしません。まあ行くところまで行きましょう。いつもご来訪に感謝しています。皆様が少しでも楽しんで頂けているといいのですが。ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
2026.07.20
コメント(0)
****************「まず、赤来と言う男は、『羽鳥』と言う別名を持っていて、その名前の元に大学時代に女性を食い物にするサークルを運営管理していた。真崎大輔もその一味だ。但し、今表沙汰になって裁かれようとしているのは真崎大輔一人で、関わっていた喜多村会長の圧力で、『羽鳥』にたどり着けないまま事件が終わりそうになっている」「はい」 高山はちらりと気がかりそうに真崎を見たが、冷ややかに続けた。「真崎の親友の難波孝は売春組織に所属していて緑川に『提供』されていた。難波はコンビニ強盗事件騒ぎで職を失ったのが転落の原因だが、その事件は『羽鳥』が開催していたゲームのようなもので『料金』を払った奴らが参加したものだ。このゲームは繰り返し行われ、飯島と言う男も関わっていた」「はい」「コンビニ強盗事件の『参加料金』では女性を食い物にするような合コンが開かれていた。赤来が居たサークルでの事件と酷似していて、そこにやはり真崎大輔も加わっている。恐らくはそれが緑川の関わった組織だと思われる」「はい」「難波はホテルで何者かに殺害されていて、コンビニ強盗事件で『羽鳥』と仲間だった飯島も既に殺害されている。両方とも犯人は捕まっていない。事件を追いかけている向田署の有沢という刑事は、大輔逮捕だけに止まらず、余命数ヶ月を賭けて、人の気持ちが『見える』伊吹の力を使い、『羽鳥』を特定し、捕まえようとしている。有沢は『羽鳥』=赤来が、大学時代からコンビニ強盗事件を主催し、サークルと真崎大輔を利用して売春組織を運営し、難波孝、飯島の殺害に関わっていると考えているが、司法が踏み込める証拠も状況も見つかっていないからだ」「はい」 高山はゆっくり息を吐いた。「……赤来が『羽鳥』であることを立証し、捕まえて罪を認めさせるのか」 確認するように呟く。「その前に、赤来は本当に『羽鳥』なのか……今の決め手は伊吹の『赤い』印象だけだろう」「それと警察で見せられた映像の時計ね」 難しい顔の高山に石塚も眉を寄せる。「…もし、飯島の隠し持っていたカード・キーと赤来課長の指紋が同じならば」 美並は目を上げた。「少なくとも飯島との関係性について、映像に写った時計のことや、今警察で情報を集めているホテルへの出入りの件について、話を持ち出すことができます」「そうだな」 突破口はそのあたりしかないか。「指紋を取る気か」「…今ならば、大輔さんが捕まったことで緩みがあるかもしれない」 険しい顔になった高山に頷く。「飯島さん孝さんが殺され、大輔さんは捕まり、緑川さんは直接『羽鳥』の顔を知りません。有沢さん檜垣さんでは桜木通販に突入することはできないし、自分へのルートは全てなくなったと思っているかも知れない」「だが、危険なはずだ」 高山が不審そうに首を傾げる。「真崎大輔なら自分を売りかねないと知っているだろうに、なぜのこのこと事の渦中に残っている?」 それは赤来が『羽鳥』ではないからじゃないのか?「何のためにここに居る?」 美並はためらった。 真崎が落ち着くまでの間、緑川の残した映像を一つ一つ見て行った。 孝の酷い映像は大輔あたりからの『プレゼント』だったのか、他にも入っていた際どいエロ画像と同様、お楽しみの一つだったのだろう、犯罪に絡む映像はもうなかった。 けれど、社内旅行だろうか、見覚えのある顔が肩を寄せ合い写っている画像が目を引いた。 緑溢れる鮮やかな光景の中、石塚や阿倍野、富崎や細田がカメラに向かって笑っている。元子も笑顔でピースを掲げ、他の面々もはしゃぐ中、真崎は目を細めているだけだ。 けれど何より息を呑んだ顔は赤来だった。 静けさを湛えた満足げな笑顔。 奇妙だったからではなかった。全く同じものを、遠い昔、無情に閉ざされたコンビニのガラス扉の向こうで見たからだ。 その旅行が、赤来が計画し調整したものだと聞かされて、疑問が一つ溶け去るのを感じた。「……見ていたいのだと思います」「?」 美並も同じものを抱えているのかも知れない、闇を楽しむ冷ややかな喜びを。 訝しげな高山と石塚に繰り返す。「自分の立てた計画が、思った通りに動いていく様子を。計画にどんな異分子が入り、どこに再調整が必要になり、いつ頃どんな手を加えれば、予定通りに進むのかを、見ていたいのだと思います」「…金じゃないのか」 高山が吐き捨てる。「望んでいるのは金でも権力でも女でもない。ただ『仕事』の進展と成功を見守っている、立派なビジネスマンだと言うのか」 最低だな。「それじゃあ、俺達と変わらない」「その通りです」 美並は静かに応じた。「『羽鳥』は私達と変わらない。だから、誰にも捕まらなかった、悪意さえ見せていませんから」 けれどもその『仕事』は、命を奪い、未来を壊す。大事な人を傷つけ、人への信頼を粉々にする。 石塚が強い視線で美並を見返す。「今も『悪いこと』をしているなんて、思ってはいないでしょう」『あなたには義務がある!』 有沢の叫びが聞こえた。『あなたには、その力を使わなくてはならない責務があるんだ、見殺しにされようとしている正義のために!』「私がしようとしていることは正義なんかじゃありません」 悲痛な響きを聴きながら言い捨てる。「自分の弱さの始末です」 **************** 今までの話は こちら
2026.07.20
コメント(0)
****************「信じられんな」 高山は美並の話を一蹴した。「とんでもないことを話しているという自覚はあるか」 冷静に詰られた。「会社で熱くなれないからって、ここで熱くならないでよ」 元の居間に戻って、勝手知ったる家のようにお茶を淹れてきてくれた石塚が、ぴしゃりと高山をやりこめた。「とんでもない物言いをしてるのはあんただからね。未来の社長夫人に向かって」「う」 高山が引き攣る。「石塚さん、まだ決まったわけでは」「伊吹さん、あなたは社長を知らないのよ」 さくっと美並もやり込める。「ああ、現課長じゃなくて、現社長ね」 並べた茶を断りもせずに一口飲み、ほうと吐息した。職場の時より柔らかい気配だが厳しさは同じだ。「やると言ったら必ずやる人だから。あんたの馘ぐらい平然と捻じ切るわよ」 後半は高山に向けてだ。「だろうな」「あの、お二人は」 美並は一旦話題を転じることにした。 たぶん、この二人は何かを知っていて、美並の訴えが満更根拠のないことではないと気づいている。だからこそ、逆に話が進まなくなっているのだろう。 側に座った真崎がぼんやりしているのも気になるし、本当は今日は切り上げた方がいいのかもしれないが。『他には、何をご存知なんですか…?』『それは』 つい先ほどのことだ。 石塚が飛び込んでしまったから途切れた会話を、真崎が引き戻し促した。『高山課長?』 どこか虚ろな声音に尋常ではないと石塚も察したのだろう。『……修羅場みたいね。私が話してもいいけど』 言われて高山も仕切り直す気になったようで、改めて四人、居間に戻った。 たぶんこれは天の配剤。 この機会を逃せば、聞ける話も聞けなくなる。「同期」 石塚が唇の端で笑った。「男尊女卑もいいとこね、こっちは昇進、私は下っ端」「おい」「と言うのは嘘。始めの頃に昇進の話はあったんだけど、やりたいことがあったから」 不満そうに突っ込みかけた高山を、石塚がいなした。「やりたいこと?」「話してなかったかな、ボランティア・グループ」「ああ…着なくなったニットを再利用したり、必要な所へ贈るって言う…」「元々は編み物を楽しむグループで…『結衣の会』と言うんだけど。『ニット・キャンパス』に似てるでしょ」 石塚は少し悲しそうに微笑んだ。「仲間の娘さんの名前。結衣ちゃんって編み物が得意な子で、その子が中心になっていてくれたから。皆自分の子どもみたいに可愛がってたから」 見ようとしなくても視界に飛び込んでくる。 石塚の胸に陰りがあった。薄黒く殺意を秘めて、それでもそれを抑え込むような鮮やかで激しい緑。 いてくれた、から。 なぜ過去形なのか、聞かなくてもわかる気がした。 美並はあえて踏み込んだ。「その方は」「真崎大輔を見つけた子」 側の真崎がぴくりと体を動かす。「そう、ですか…」『結構あれこれね、あったのよ』 いつかの石塚の声が蘇った。 地域の編み物を楽しむだけの集まり、中心に居た仲間の可愛い娘、その娘が成長し花開く途中に大輔に出会ってしまい、未来の夢が壊れていった。 間近で見ながら、何もできない力になれない、仲間にも娘にも。 歯がゆい思いだけが澱のように降り積る。「神様なんていないと確信した」 石塚が呟く。「でも。神様なんて居ないのよ、はなから。だから始めたの、もう一度、『ゆえの会』」 今度は名前じゃなくて、ひらがなの。「できることから、できる分だけを、できる人が」 編み物は楽しいね。楽しんだものをお裾分けしよう。誰かが要らなくなっても、私達なら役立てるように使えるよ。神様なんて居ないんだ、遠慮なんかしない。進もう願いを込めて信じるままに。 祈りゆえに、夢ゆえに、命ゆえに、ただひたすらに。「何かが届くと信じた」 だから、ねえ、気づいてよ、結衣ちゃん。 あなたにもきっと生きられる場所がある。私たちにはわからないけど、きっとどこかで何かがあなたの力を待っている。 『ニット・キャンパス』に参加したのも願いの先にあったものだった。「たぶん、届いたんだと思ってる」 石塚がぽつりと言い切った。 静かな気配が舞い降りる。 その願いが何を生み出したのか、四人には十分わかっている。 誰の中にも見えない歴史があって、その時間が人を動かしている。運命は一人の願いで紡がれるのではなくて、降り積もった多くの時間が流れを定めていく。「私とこいつの関係はね」 くすりと石塚が笑った。「同期の親友。これからもずっと」「…」 むっつりと口を噤んでいる高山はそう思ってはいないのだろう。続いた石塚のことばに眉を寄せる。「もう、子どもを持つのが怖くなって駄目」 どれだけ大切に育てても守りきれない時がある、それを考えると耐えられない。 苦笑する石塚に胸が痛んだ。 ここにも一人、取り返しのつかない部分を壊されてしまった人がいる。「お茶、淹れ直してくるわね」 鼻声で呟いた石塚が手早く茶器を片付け立ち上がる。「…赤来のことを調べたときにサークルの事件があったのを覚えていたから、石塚が相談にきたとき、すぐに思いついたんだ」 ぼそりと高山が唸った。顎をしゃくりながら、「始めは真崎、そいつの兄の身上調査がらみだったが」 深々と息を吐いた。「……『ニット・キャンパス』は成功させたい」 微かな熱を帯びた声が続ける。「会社がなくなるのも困るしな……そのためにも憂いは無くしたい」 纏めるが、間違っていたなら指摘してくれ。 石塚がお茶を淹れ直して戻ってくる。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.19
コメント(0)
****************「京介!」 飛びついてくれた伊吹の熱がなければ、きっと崩れていただろう、姿形を失って。 どれほど便器にしがみついていたのか、ようやく自分が喘ぎながら体を起こしているのに気がついた。口をゆっくり拭って呼ぶ。「高山課長…」 背後にその人が降りてきていたと、いつ自分がわかっていたのか、それさえもどうでもいいほど加熱した頭が醒めた思考を積み上げる。「………大丈夫か」「…教えて下さい……あなたが赤来を調べた理由はここに入っていない…」 前を見たまま、乱れた髪に削られ、潤む視界で尋ねる。窓際に飾られている花が赤い。造花だが埃一つ被っていなくて、丁寧に手入れされている。 誰が孝をあんな状態に追い込んだのか。痛めつけられ傷つけられることを喜びとして感じ取るように仕立てたのか。本来の望みとかけ離れた世界の中で、赤く色鮮やかに咲くように。 月に照らされた山、静まり返った清冽な空気、失われた命を悼んで身を寄せ合って苦痛を堪えた夜が、どれほど幻になってしまっていたのか、京介はようやく理解している。『お前、なんか!』 響いた声、冬の冷気の中、駆け去っていく背中。 伊吹はこれを見ていたのか。 向き合ってもわからなかった、孝の絶望を。手出しもできず、見つけることもできなかった、この傷みを。 こんなものをたった一人で、小学生の頃から抱えて歩いてきていたのか、死ぬことさえ諦めて。 その上でなお『見て』いてくれたのか、孝さながら危うい京介を、いつ同じように闇の中に沈み込むかもわからない男を、大事にいとしんで愛してくれたのか。『戻りなさい』『突き落とされたいんですか?』 ああ、それぐらいの覚悟はあるだろう。『そういうふうにいろんなものが見えちゃう人だから、その上で誰かを頼りにすることなんてできなくて、それでも信じてた相手なのに』 こんなものを抱える自分と誰も一緒に生きてはくれないだろうと。『頑張りましょうね』『一緒に居ましょうね』 不安がる京介に笑ってくれた、幻になるかもしれない未来をたぶん一人で背負うつもりで。『餓鬼』 ハルに罵られても当然だ。『あの子は大事な人間に幸せになってもらいたいんだ』 それが伊吹の、自分でも気づいていなかった、ただ一つの願い。『……わたしは……あなたを守れないんですね……どんなに……ねがっても……どんなに、大切でも………わたしの……いみは……なんですか…?』 天啓は自分の声で届いた。『この場合問題なのは、あなたが渡来さんをどう思っているか、ということだと思いますね』 釣り合わないと言われたって、負担でしかないと囁かれたって、足りないと思われたって、そんなことは関係がない。『もう少し、頑張れ』 目を閉じた。赤い花を見るのを止めた。息を吐く。こみ上げた吐き気を深呼吸で抑えていく。頬を零れ落ちる涙を拭うことなく、背中に添った温もりを感じ取る。 伊吹が大事だ。 伊吹が愛しい。 彼女の願いは京介が幸せになることだ。 じゃあ、幸せになってやる、力尽くでも。 ただし一人でじゃない、伊吹と一緒に、だ。「京介、苦しいなら今日は」 伊吹の声に構わず、問いかけた。「あなたはまだ……赤来に関して知っていることがあるはずだ…」 抜き放った剣を自分に向ける。一番脆い部分を探し、一番知りたくない場所を見つけ、積み上げた思考の頂からまっすぐ突き立てる。 京介は、気づいていなかった、緑川と孝が関わっていることを。 京介は理解していなかった、赤来の本質を。 相子の話をもう少し深く聞き、彼女にもっと関わっていれば、きっとどこかで透けたはずだ、赤来のことが。京介ならば気づけたはずだ、緑川一人で動けたはずがないと。 イブキを殺したのは相子ではない、見ているつもりで目を塞ぎ耳を押さえていた京介自身だ。伊吹がしてくれたのは、その代行に他ならない。ならば、取り戻さなくては、本来の仕事を。「さっきあなたは、興信所で調べた内容の一部だ、と言った」 もう一度息を吐く。「他には、何をご存知なんですか…?」 溢れ損ねていた涙が再び頬を冷たく伝う。「それは…」 がちゃっ。「ごめんなさい、家の鍵を忘れていなかった……」 突然、思いがけない声が響いた。 背中を抱えてくれていた熱が少し遠ざかる。 伊吹が玄関を入ってきた相手の名前を呼ぶ前に、京介も気づいた。頬を擦って振り返る。凍りついている高山の横顔、呆気に取られた伊吹の声。「…石塚さん…?」「あ…あ」 ひょっとして、まずいところに来たみたいね。 低い苦笑が続いた。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.18
コメント(0)
****************「何だ」「今お聞きした内容は、一介の人事が把握するには詳細すぎませんか?」「……どう言う意味だ」「なぜ、赤来課長の幼少期のことまで調べたんですか、高山課長」「…」「あなたもまた、赤来課長に何かを感じておられたから、調べられたのではないですか?」 高山はのっそりと立った。「茶を淹れ直す。紅茶に替える。苦手なら言え」「大丈夫です」「いただきます」「それならこっちへ来い。そこじゃパソコンが見えん」 京介は伊吹を見やった。伊吹も首を傾げている。「飲まない気か」「飲みます」「行きます」 慌てて二人で隣のリビングダイニングに入った。 一人暮らしにしては広いテーブルの片隅にデスクトップ型のパソコンが載せられている。 確か奥さんは病気で亡くなって、それから独身だったよね。子どもさん達も独立して、離れた場所に住んでるはず。 京介は頭の中の情報を当たったが、椅子の一つにシンプルなエプロンがかかっているのに目を留めた。高山の好みとは合いそうにない。全くの一人というわけでもないらしい。 高山は意外に巧みに缶の紅茶を振る舞ってくれた。それぞれの席にカップを置く。自然と席を指定した形になるのは、さすが人を動かすことに長けている遣り口だ。「緑川事件の際、警察に渡る前にパソコンを一部処分した。元々緑川の個人所有のものだったから会社のリストには入っていなかった。中に入ってた映像もろとも、ここにある」 さらりととんでもないことを口にする。「事件が事件だけに、後釜が困った人間じゃ先行きが心配だ。社長に黙って興信所で赤来のことを調べた。それがさっきの内容の一部だ」 パソコンを立ち上げ、ファイルを確認する。「もう一つ。赤来の新人研修を受け持った時、緑川を『数字に厳しそう』だと表現した。緑川は緩い。社内も社外もそう思っている。だが、実は緑川は数字にも仕事にも細かい人間で、それを知っているのは上層部だけだ。なのに赤来はミスをしないと確約し、緑川の本質を言い当てた。調べていなければできない返答だ。新人研修で赤来が見せたのは、そんなことに気づきそうもないお調子者で元気のいい男だ。妙だろう」 ファイルを見つけたらしい。京介と伊吹に視線を流し、一瞬ためらった後に開く。「不愉快な映像だ」『あ…っあああっ』 高山の声に被さるように切なげな声が響いてぎょっとした。「終わったら呼べ。二階に居る」 気遣ってくれたのか、高山は自分のカップを持って姿を消す。「京介……」「うん…」 思わず寄り添ってくれる伊吹の手を握った。「……孝だ…」(中略)『きょお……すけ……えええっ…!』「っっ」 ふいに吐き気が襲った。数ヶ月感じなかった、体を裏返しにするような不快感。「課長!」 とっさに伊吹が腕を掴んで引っ張り、いつの間に見つけていたのかトイレに突っ込んでくれた。かろうじて間に合って咽せ返りながら、せっかく楽しく伊吹と食べた朝食を全て吐き戻す。「く、う、うう、っ」 何が間違っていた。 どこから狂っていた。 咳き込み空えずきを繰り返し、溢れ出た涙を堪えきれなくて声を上げた。「たか…しっ……孝……ったか……!」 **************** 今までの話は こちら
2026.07.17
コメント(0)
****************「ああ、来たのか、社長から聞いている……どうした?」 明るい日差しが当たる穏やかな気配のマンションで、扉を開いて京介を迎えた高山は訝しむように眉を寄せた。「いいことがあったのか、上機嫌だな」 そんな満面の笑顔で来られる内容じゃないはずだが。 不愉快そうに続けながら、京介の側に立つ伊吹を見やり、「お前はどうしたんだ、体調が悪いのか」「いえ…大丈夫です」「すみません、僕がちょっと無理を……った!」 がつっと妙な音が響いた足元を見下ろし、高山は小さく溜息をついた。「まあ、いずれ結婚するんだな? 次期社長を引き継げるならどういう関係でも構わん」 入れ、と促されて頷き、さすがにいたた、と蹴られた脛を摩って見せると、伊吹が冷たい目で見て来た。「自業自得です」「伊吹さんだって応じてくれたのに」「帰りますよ?」「中身のない鎧なんて怖いでしょ、はい」「何ですか、この手は」「いや歩くのしんどいなら抱っこして入ろうかなと」「…課長?」「あーはいはい、お仕事モードね、了解」 へらへら笑いながら先に立って靴を脱ぐと、背後から続いた伊吹がパンプスを脱ぎながら小さく息を詰めるのを感じた。ちらりと見遣ると、顔を顰めて腰を押さえている。 だから部屋で眠ってていいよって言ったのに。 歯止めが効かなくなったからと言って、好き放題に貪るつもりはなかった。けれどふと、今日高山に会うと知ったら、絶対伊吹は同行を望むと気が付いた。 もう十分に不愉快で辛いものを見て来ている。警察でサークルに誘い出された女の子達が襲われる映像を見たと聞いて鳥肌が立った。京介が見ていても苦しいだろう、どうやらその中には、孝が殺されたホテルもあったらしいから。 沈めてしまおう。 (中略) 朝もすぐに起きられないほどくたくただったのに。『嫌です、京介』 断固として首を振った。『私も行きます』 嫌なものを見るかもしれないよ。『私は「見る」ために京介の側に居るんです』 きっぱりとした口調は、出がけに浴びたシャワーに助けられてのことだったけれど。「…いいか、今は僕が居る」 たとえどんなものを見ても、今は二人で居ることができる。 すぐに、その踏み込みは、まだ覚悟が足りなかったと知らされる。「茶菓子は切らしている、すまんな」「あ、すみません」「ありがとうございます」 手ずから緑茶を淹れてくれた高山が、数枚の報告書のようなものを手に話し出した。「赤来は、旧姓羽折と言う。市内の高校を出て、大学の経済学部に進学。その後、両親が離婚し、母方の姓、赤来を名乗ることになった。幼い頃はいろいろあったらしくてな、妹が一人居たが、事故死している」「事故死ですか」「まあ一応、な」「一応?」「当時は騒がれたらしいぞ。赤来が二階から突き落としたとか言われて、かなり家が荒れたらしい。何でも妹が祖父に溺愛されていて、風鈴を取ろうとした妹の足を支えていた手が滑ったと言う赤来のことばは信じられなかったそうだ。激怒の余り、赤来を殺しかねないような振る舞いをしたらしくて、警察が止めに入っている」 伊吹は無言で聞いている。「まあ、その祖父もその後自分のしたことを悔やんだのか行き先を儚んだのか、住み込みの寺男みたいなことを始めてしまって、家を出た。しばらくして胃がんで亡くなっている」 びく、と伊吹が震えたわけはわかった。あまりにも似た出来事、偶然で済ませるには恐ろしい。「その寺の名前は」「大恩仁寺」 なんでも庭に見事な藪椿があるそうだ。 京介は息を引いた。「伊吹さん…」「……同じお寺です、課長」 声に振り返ると、伊吹は青ざめていた。「あの人は、赤来課長のおじいさんだったんですね」「あの人?」「いえ……先をお願いします」 京介は不審げな高山を促した。そっと手を伸ばし、テーブルの下で伊吹の手に触れる。ひんやりと冷たく、微かに震えている。「その頃かどうかはわからないが、コンビニの万引き事件にも関わったことがあるらしい。それで警察はそれとなく赤来を気にしていたらしいな。もっとも、その頃の名前は『羽折』だが」「…小学生が集団で万引きをした事件ですよね? 似たような事件が繰り返し起こった」「あ、ああそうだ。なんだ、伊吹、お前、こういうことに詳しいのか?」「私も巻き込まれたことがあります……たぶん、赤来課長と一緒に」「そう、か…」 妙な因縁だな。 高山が眉を寄せたまま沈黙した。その先を話すかどうか悩むように淹れた茶を含み、ちらりと京介を見る。「はい、続けてください」 小さく溜め息をつく、話さずに済めば良かったとでも言うように。だが、高山もそれなりに気持ちを決めていたのだろう、滑らかに話し出した。「赤城が居た大学では事件が一つあった。何かのサークルで、女子生徒を勧誘してホテルに連れ込み暴行すると言ったやつだ。最近になって、そのサークルに社協の真崎大輔が居たことがわかったが、同じサークルに赤来も居たらしい。もっとも赤来は幽霊部員でほとんど活動に参加して居なかったらしいから、事件とは関わりがなかったかもしれんな。サークルでの事件は主犯格が一人挙げられそうになったが、結局不起訴になっている」 ただ、そのサークル自体はなくなっていなかった。「お前も知っているだろうが、緑川課長がそのサークルを通じて買春をしていた」「はい」「……確認しておくが、社長から、私が知っている緑川の事件に関することと、赤来に関する情報を、全てお前に話すようにと指示されている。それは、伊吹が居る前で、ということでいいんだな?」「もちろんです」 京介は高山を見据えた。「伊吹さんは僕のかけがえない人であるだけではなくて、今のお話にある以上に赤来課長と関わりがあります」「それは、お前の親友が殺された事件に赤来と緑川が関わっていると言う上で、だな?」「伊吹さんは…」「…私は」 伊吹が口を開いた。小さく震えながら続ける。「私は、真崎課長の親友である、難波孝さんを殺したのが、赤来課長ではないかと疑っています」「…」 さすがに高山が一瞬口を噤む。やがて吐き捨てるように、「正気か」「お尋ねします」 京介は睨み合う二人の間に割って入った。体の中の鋭いものが抜き放たれていくのを感じる。伊吹が『見ている』ことに体を張って殉じるだけでは不十分だ。その真実への道を切り開いてこその剣だろう。一瞬小さく体が震えた。 **************** 今までの話は こちら これに絡む美並の過去話は、番外編にあります。
2026.07.16
コメント(0)
****************「…」 京介は薄く目を開ける。真夜中近くに届いたメールで、明日の予定は決まった。 けれどまだ、伊吹には話していない。 温まったベッドの中、目の前に甘い香りがして、柔らかに乱れる髪の毛がある。抱え込んだ腕の中に寄り添う温もりもある。 待ち合わせた『村野』でたくさんの話をして、それでもまだまだ話し足りなくて、結局京介のマンションに二人で戻ってきて、京介がコーヒーを淹れて伊吹がミルクホイッパーで泡立てたミルクを載せて、そうして二人話し続けた。 ずいぶん長い間、しかも通常の恋人同士とは違う形でお互い深くまで触れ合ってきたと思ってきた。けれど、京介が伊吹から聞いた話は、全く見知らぬ人の話を聞くようで。 ふと、初めて伊吹を実家に連れて行った時のことを思い出した。 あの山の中で、京介は過去の辛かったことを話し、隠していた気持ちを晒し、今もなお自分を傷つける現実について伊吹に伝えた。伊吹もまた、『見える』能力とそれが引き起こした出来事について、いろいろ話してくれた。 話してくれていた、と思っていた。「……話してなかったんだ、伊吹さん」 『見える』ことで味わった孤独とか苦痛とか諦めとか悲しみとか。 いや、違う。「僕が……聴けてなかったんだ…」 今思えば、京介には伊吹の傷みを聴ける余裕などなかった。 『羽鳥』に関わる話を聞きながら、それ以外の話も聞いた。 小学生の頃から『見えてしまう』ことをどう扱っていいのかわからなくて困って、誰にも相談できずに、わかってもらえないのだと何度も諦めたこと。 お寺の老人のことも聞いた、『見えてしまった』ものを伝えたほうがよかったのか伝えなかったほうがよかったのか悔やんだこと。 仲間との他愛ない話の中、能力を引き継ぐ子どもをどうしたらいいのか、それともそんなことを考えてもいけないのかと悩んだこと。 『飯島』に誘われても内側の意図を感じてしまって喜べなかったこと。 有沢の接近も能力目当てとわかっていたこと。 ハルは能力を認めてくれているけれど、その『支配』の側面も教えられたこと。 京介が望んだ『孝』の一件に解決を望まれて怯んだこと。 ただ『見える』だけなのに。 そうだ、京介もまた、伊吹の『見える』ことだけで近づいていた。「……寂しかっただろうなあ……伊吹さん……」 今の京介には『見える』伊吹の過ごしてきた時間が、自分のことのように感じられる。 誰にも相談できなくて、話してもわかってくれなくて、傷みを受け入れるしかなかった生活。ようやく自分を求めてくれる人が居たと思っても、必要とされるのは能力だけ。こんな命など未来につなぐ意味などないと、関係を全て拒んで。 伊吹の気持ちを辿りながら、自分の願いにも改めて気づいた。「…僕も……寂しかった……んだ…」 なぜ居るのだろう、この世界に。 何の意味があるのだろう、自分の存在は。 誰か、答えを。 それと気付かず、伊吹も京介も、もうぎりぎりの場所に立っていて。 見て欲しい、踏み込んで欲しい。 見せて欲しい、晒して欲しい。 本当の姿で望むままに満たして欲しくて。 出会った。「……伊吹さん…」 髪に唇を寄せる。安らかな寝息に安堵して微笑む。 京介は見せることで。 伊吹は見ることで。 二人で一対、ようやくこの世界に居場所を見つけた、と今ならわかる。「ずっと見ててね…伊吹さん」 そうっと深く抱きしめた。「君が見てくれるなら…僕はなんだってできる…」 自分の中にどんな闇が潜もうとも、どんな悪夢が立ち上がろうとも。「全部力に変えて見せる…」 例え、血塗れになって倒れるとしても。『綺麗ですね、京介?』 美並が囁いてくれるなら。「…う…」 瞬きした。 眠る前にも十分満たしてもらったはずだけど。「んー…」 覗き込むと、伊吹は小さく唇を開いて眠っていた。そのまま求めてくれそうで、気分はどんどん高ぶって行く、もちろん既に難しくなっている下半身も。「…」 そっと舌を伸ばして唇を舐める。ちゅぷ、と濡れた音が響いて、歯止めが効かなくなった。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.15
コメント(0)
**************** この能力が何なのか、ずっと知りたかった。 なぜこの能力があるのか、どうやって役に立てればいいのか、この能力に何の意味があるのか。 誰もが信じず、否定し、認めないその能力を、真崎だけが信じて必要としてくれた。真崎の中にある得体の知れない暗がりを、猫のイブキの命を奪うようなことにしか繋がらない存在を、一体何なのか見立ててくれと望まれていた。 けれど、本当に望まれていたのは、『それは何か』ではなく『それは意味あるものだ』という見立てだった。 美並はずっと『見て』きた。人の気持ちを、隠された、次々と変化する、容赦ない、幻のようなそれを。けれど、どれほど瞬間であろうと、それはそこに存在し、存在したことで力を放ち動きをもたらす。だからこそ、美並は警戒して確認していた、自分の心の物陰から。嘲笑が人を脅かし、恐怖が人を食い尽くし、憤怒が人を飲み込み、憐憫が人を押し流すのを。 それらに対して『見る』ことしかできない無力な自分を恥じた。人が見て欲しくないのに『見えて』しまう自分に傷つき、『見えて』も何もできない自分を悲しみ続けた。 けれど、真崎と出会って、能力は意味を変えた。 真崎は望む、『見て』欲しいと。傷ついてしまった自分では見つけることもできず探すこともできなくなった、どこかに居たはずの自分、隠され失われてしまった本来の自分を見て欲しいと。 見て欲しい、探して欲しい。 見せて欲しい、教えて欲しい。 どれほど傷つけられ、どれほど切り刻まれても、失われることない姿を。 本来の、美しさを。 美並の能力は、『それ』を見つけるためにある。 そのためには、相手を壊しかねないほど深く『見る』必要があって、脆くて砕かれそうな真崎ではこれ以上は踏み込めなかった。 けれど今、磨かれ研がれた刃は、美並が『見る』ことにも向けられるだろう。真崎を傷つけるような部分への接近は、ちゃんと防がれるだろう。だからこそ、美並は安心して進めるだろう、この先へ。 今まで自分でも恐れて進めなかった、未来へ。「何をすればいいの…」 見つめる美並の視線に焦れたように、真崎が眉を寄せた。「僕の何が必要…?」「京介を下さい」 全部、隅々まで。「上げる…僕を全部、上げる」 熱に浮かされた声で真崎が誓う。「…嫌だけど……僕は…美並が危険な目に合うなんて……絶対嫌だけど…」 堪え切れないように唇を合わせ、舌を絡ませてくる。 ああ鋭い、やっぱり。 美並は目を閉じながら微かに笑う。 これから美並のすることは『羽鳥』という人間を知ることが全てだ。恐らくは多くの人を傷つけ、今もなお犯罪に手を染めて怯むこともないのかも知れないけれど、なぜ『羽鳥』が今に至ったのか、それを知っていくことだ。 そうして『羽鳥』を見立てた時、『見えない』糸が浮き上がる。『見えない』企みが晒された時、事件は閉じて終わるだろう。 暴こうとする美並の爪に、真崎は気が付いている。「…でも、美並がそうやってしか生きられないなら、僕が盾になる」 頬に唇を触れながら囁く。「剣になり、鎧になり、馬になり……餌になる…」 掠れた声で呟きながら唇が再び重ねられた。「美並は僕を食べて……お腹一杯…」(中略)「美並…」 力が抜けた体を抱き上げられてベッドに運び込まれた。「僕が全部刈り取ってあげる」 **************** 今までの話は こちら
2026.07.14
コメント(0)
**************** 戻された指輪は奇跡のようだった。「伊吹さん?」「あ、はい」 マンションの鍵を開けながら、真崎が振り向く。「どうしたの、怖くなった?」「あ、いえ」 指輪を見ていた美並に気づいたのだろう、真崎が目を細めて笑う。「今更逃げたくなっても無理だよ、もう離してあげないから」「…違います」 体を捻った真崎を見上げる。 眼鏡に前髪がかかっている。端正で華やかな容姿は男女ともに惹きつける。思考は鋭く、対応は穏やかで容赦なく、微笑で人を切り裂く男。 イブキの死体が放置されていた扉の前、自分の能力を試されて、一人で闘い続けて生きて行くしかないと決めていた時間が、幻のように重なってくる。 あの瞬間の、何がここへ繋がっていたのだろう。 美並の過去の、どの行いが目の前の人を呼び戻してくれたのだろう。「…嬉しくて」 ことばが零れた。今まで口にしたことがない、震えるような喜びとともに。「京介と居られるのが…嬉しくて」「え…」 薄赤くなった真崎が顔を背けて呟く。「反則だよ、それ」 伸ばした手が美並の指を絡めて引き寄せ、扉の中へ導いてくれる。その指にも指輪が嵌っている。「今夜一緒に居るんだよ?」 僕にどこまでの克己心を期待してるの。「無理だからね」 ぼそぼそ声が唸るように続ける。「準備してるんだから。美並が欲しいって言ったんでしょ」 背けた頬も耳も紅に染まっている。 部屋に入って暖房を付け、ごくごく当たり前のように二人でキッチンに立って、コーヒーを淹れミルクを泡立て、カップに入れて居間に戻った。 ソファに並んで座り、『村野』では話し切れなかったことを、少しずつ吐き出した。 時々真崎が美並を見下ろす。視線を感じて見上げると、微笑んでちゅ、とキスをしてくれる。髪に、こめかみに、耳に、頬に、そして唇に。 ここに居るからね。 優しく確認を繰り返すように。 僕が側に居るからね。 その度ごとに、一瞬目を閉じて、キスを味わい、美並は小さく吐息する。 驚いていた。 真崎が元子に、大輔とのことをどの程度まで話したのか不明だけれど、この落ち着きぶりはただ事ではない。 同時に見せられた全方位に向けられた刃の姿を思い出した。自分を晒し誘われて襲いかかってくる敵を仕留めるような遣り口は、一体どこで覚えてきたのか。 ひょっとすると、本来の真崎の攻撃スタイルがそう言うものなのかも知れない。 砕かれたガラスが詰め込まれていただけ、触れさえしなければ傷つけられない防衛だけのシステムが、今は一つ一つが明確な意志を持って敵を定め突き刺さろうとしている。 しかもそれは柔らかな仕草と蠱惑的な微笑に包まれ、危険性さえ仄めかさない。 怖い。 けれど、その怖さが、美並には安心を与えてくれる。「…そうか…」「ん?」 何度目かのこめかみへのキスをしていた真崎が瞬いて覗き込んできた。薄く染まった目元、蕩けそうな瞳、薄く開いた唇さえ妖しい。「京介は、私の…」「僕は、美並の?」「……アンカー、みたいなものですね」「アンカー? 錨?」「基盤。ベース。拠り所」「……嬉しいな」 唇へのキスを受け止める。 そうだ。 美並の『見える』世界の話は、普通の感覚では途方もない話だろう、檜垣がオカルト巫女と呼んだように。幻を繋ぎ合わせ、無理矢理こじつけたようにしか聞こえないだろう。そのまま信じる人はいないだろう、この先も。 現実の底に潜む張り巡らされた糸は、寸分狂いもなく始点と終点を結んでいる。途中幾つものポイントで方向を変えられるにせよ、同じ種類の出来事は同じ色の糸で繋がっていて、美並はそれを無意識に追いかけている。けれど、それは他の者には見えない、感じられない。 不安定で不透明で『見えない』能力。 けれど、その能力を、真崎は信じてくれた。人の気持ちが『見える』美並の『見えない』能力が、真崎の中で『見える』ものに変わった。「…美並?」 唇を離して、不満そうに真崎が唇を尖らせる。「何考えてるの?」 僕以外のことだよね。「…」 くすりと笑って、真崎を見上げる。「鋭いですね」 鋭くて、敏感で、そうやって美並の中のものを感じ取って、『見せて』くれる。「他のことを考えられないぐらいにしてあげようか」 煌めいた瞳に見惚れた。「京介?」「何」「綺麗ですね」「…」「あなたが、とても、綺麗で」 手を伸ばして相手の顔を包む。「こんな綺麗なものを、私が蹂躙していいのか、心配だったんですが」「っ」 不敵に上げていた唇が緩み、意味を察した真崎が見る見る赤くなっていく。「大丈夫ですね? 京介は全て受け入れてくれますね?」「…うん…」 ごくりと動いた喉仏、既にボタンが外されていたカッターシャツの内側の肌も染まっていく。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.13
コメント(0)
**************** 二人が話し込んでいる間に、客は一人減り二人減りして、もう二人だけになってしまっていた。 村野は急かさない。真崎から言い含められているのか、特別料金が支払われたのか。 キャンドルの揺れる灯りに励まされるように、美並は一つ一つ話していった。 小学生の頃見た、コンビニでの集団万引き。 高校生の頃に関わった『飯島』を巡る有沢との関係。 ハルが知っている『羽鳥』の色と美並が知っているという指摘。 有沢から知らされた『羽鳥』と彼が率いる『赤』、大輔との繋がり。 桜木通販のトイレで聞いたやりとりと聞き覚えのある声。 そして、殺された『飯島』の家から出てきた映像とカード、青い針の時計。「同じ時計を赤来課長がしていました。手を差し出した仕草が全く同じ仕草でした」「……」 京介は最後のデザートを前に長い間考え込んでいた。 柚子のシャーベットがゆっくりと溶けて皿に広がって行く。「……伊吹さん」 ようやく低い声が呼んだ。「はい」「僕は、社長から話を聞いた時、君を手放そうと思ったんだ」「それは」「うん」 瞬きして頷く顔は暗くない。ただただ静かだ。「これから桜木通販が辿る道は楽じゃない。捜査が進む中、『ニット・キャンパス』を絶対に成功させて、通常の仕事も滞りなく進めて。それだけ頑張っても、岩倉産業に飲み込まれて終わるかもしれない」 そんな生活に君を巻き込むわけにはいかないって。 指先がそっとシャツの胸に触れる。 そこに何があるのか、美並もよく知っている。「けれど、あいつは君を狙ってる」 低い声が殺気を帯びた。「本当に赤来課長が『羽鳥』だったとしても、警察の手が届くまでに、君が無事でいる保証がない」 有沢って刑事さんはいるけどね。「……なぜ僕じゃいけない?」「…京介」「君の側で君を守るのが、なぜ僕じゃいけない」 指を下ろしてテーブルに触れた。「ずっと、それを考えてる」 ゆっくり上がった視線がまっすぐ美並を捉えた。「考えてた、だな」 くす、と小さな声が笑った。落ちた髪の毛がかかった瞳が光っている。「社長に全部話してきた」「はい?」「大輔のしたことも、全部」「え…ええっ」 悪戯っぽい笑みに美並は驚いた。「伊吹さんが何をしようとしているのかに気づいて、僕に何ができるのか考えてたら、僕のことなんてどうでもいいと気がついたんだよ」 美並、と呼ばれて体を乗り出すと、拒む間もなく唇を重ねられる。「、っ」「僕は君が要らないと言ったら、いつでも死ねる」 少し離れた唇が囁く。「京介…」「君が死ねと言うなら、すぐに道路に飛び込んで見せる」 微笑みながら宣言される、これほど心臓に悪い告白もない。「その誓いを、もっと別なことに使えるんじゃないかって、初めて考えた」「別なこと?」 眼鏡の奥の瞳は楽しげに細められている。「伊吹さんを守るために、伊吹さんを生かすために、何ができるかって考えたらさ」 僕の中に爪も牙もあったんだ。 ふいに美並にも『それ』が見えた。 真崎京介はシュレッダーと呼ばれていた。 穏やかで物静かな姿の下に、割れ砕けたガラスの欠片を満たしていて、それが飛び込んでくるものだから、揉め事は収まり諍いは消え苦情も非難も霧散する。 それがいずれはまとまり磨かれ、剣となって抜き放たれ、敵に向かって縦横無尽に翻るのだろうと思っていた。望む未来を切り開くため、鮮やかな舞を見せるのだろうと。 だがそんなものではなかった。 この男は最大級の危機に対して、最上級の報復攻撃を返そうとしている。「伊吹さんを守れる道具は、もう僕の中に揃っていたんだよ」 婉然と微笑む、まるでこれから甘い夜を過ごそうと決めているように。 ネクタイを緩め、シャツのボタンを外した。ゆっくりと鎖を引っ張って、二つの指輪を抜き出し、鎖から外す。熱っぽい吐息、美並の視線を浴びて、満足そうに美並の指に指輪を戻す仕草はうやうやしげで、誇らしげで。「京介…」 呆然としながら凝視する。 こんなものを見たことはない。 真崎の体の中には、全方位に向けて飛び出してきそうな、無数の刃が煌めいていた。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.12
コメント(2)
****************「いらっしゃいませ」 出迎えてくれた村野に、美並はそっと微笑んだ。「お席でお待ちです」「ありがとうございます」 今夜は時間も遅くなりつつあったためか、客の数も少なかった。それぞれのテーブルに、柔らかなキャンドルが揺れている。いつもと違う光景に村野を振り返ると、「キャンドル・ナイトでございます」 優しく笑み返された。 奥まったテーブルに案内されながら、時々気まぐれのように照明を落とし、キャンドルを灯してディナーを提供するのだと聞く。「手元が暗いとお叱りを頂く場合もございますが、気持ちが落ち着くと楽しまれるお客様もございます」 どうぞ、と促された席には、そのキャンドルをじっと眺めている真崎の姿があった。「…お疲れ様です」「…うん」 声を掛けたが、真崎はじっと炎を見ていて顔を上げない。村野が椅子を引いてくれ、美並も真崎の前に腰を下ろした。「コースをもう頼んだよ」 美並に視線を合わせない真崎が呟く。「その方がいいよね?」 長い話なんでしょう? そう尋ねられた気がした。「はい、その方がいいです」 美並の脳裏には青い針の時計とその持ち主が浮かんだままだ。「僕もその方がいいな」 朝、夜のデザート代わりに真崎をと望んだ幸福、準備しておくと嬉しそうに答えてくれた相手は、今無言のまま炎を見つめ続けている。 アミューズは旬野菜の一皿、続いてスープが運ばれてきた。温かなクリームがかったオレンジ色、まったりと甘い香りがする。「人参のポタージュです。メインはハーブ鶏モモ肉となります」「ありがとうございます」 村野は静かに皿を置き、姿を消す。「頂きます」「…」 美並の声に真崎ものろのろとスプーンを取り上げる。けれど掬おうとしない。「…京介?」「社長に会って、話を聞いてきた。次年度、僕が社長になるんだって」「…はい」「……伊吹さんは聞いてたんだね」「…はい」「けれど、その話……、無しに、なるかも」「なぜ?」「それは…」 真崎は顔を歪めた。「桜木通販には、君の知らない、不快な部分があって、それを、僕が、始末をつけるつもりだから」 かなりの核心部分まで聞いてきたのだろう、真崎の声は苦しそうだ。「…いいえ、京介」 美並は首を振った。「それはあなたの問題ではありません」「いや…僕の問題だよ。だって」「京介、お話ししたいことがあります」 美並は顔を上げた。「『羽鳥』と言う人物のことです」「…『羽鳥』………?」 真崎は眉を寄せた。「『羽折』ではなくて?」「え?」 訝しげな返答が思わぬ形で戻ってきて、美並は戸惑う。「『羽折』とは?」「…赤来の旧姓だよ」「え」 今度は美並が眉を寄せた。「赤来課長の旧姓。大学時代はその名前で、大輔の友人だった」「大輔さんの、友人……」「そして、たぶん、僕のことも知っていた。大輔とのことも」「どう言うことですか」 美並は座り直した。真崎がホール・チェックの途中での高崎と志賀のやりとり、そこからわかった出来事を話してくれる。「社長業を引き受ける代わりに、赤来課長の経歴を調べさせてもらった。大輔と同じ大学の経済学部、かなり親しい友人だった。同じサークルにも属していたけど、桜木通販に入ってからは直接会ってないみたいだ。やたらと女の子を誘うサークルで、あんまり評判は良くなかったらしい。名簿を当たっても『赤来』の名前は出てこない、その時彼は『羽折』だったから」 女の子を誘うサークル。有沢の話していた組織が重なってくる。「僕が流通管理課の課長に昇進したのは緑川課長の辞職がきっかけで、大輔はその事件に関わっていたらしい。ひょっとすると孝も『そう言う』仲間の一人になっていて、それで事件に巻き込まれたんじゃないかって、僕は考えている」 これはまだ憶測でしかないけれど。「赤来課長はたぶん、緑川課長の事件にも関わっている」 真崎は吹っ切ったようにスープを飲み始めた。「でもこれはただの勘で、証拠は何もないけれど」「証拠なら、あります」「え」「少なくとも、赤来課長が犯罪的な行為に関わった可能性なら、映像で残っている」 美並は少し息を吐いた。「京介、かなり長い話になります。付き合ってもらえますか」 **************** 今までの話は こちら
2026.07.11
コメント(0)
****************「…早かったのね」 社長室で窓際に立っていた元子は静かに振り返った。「ちょうど良かったわ、私もあなたに話さなくてはいけないことがある」 珍しく紺色のスーツだった。地味で目立たない姿、指のダイヤも外している。「あなたの話は?」「複雑で、難しい問題です」 駆け上がってきた呼吸を整えつつ、京介は口を開いた。元子が頷く。「聞きましょう」「先にお話を伺っても?」「その方がいいの?」 女帝は冷ややかに笑った。「聞いたらなかったことにはできない話よ?」「岩倉産業ですか? 『ニット・キャンパス』は進んでいますが」「この間、伊吹さんに頼み事をしてきたの」「え?」 嫌な予感がした。「噂を信じているんですか。彼女を岩倉産業にやるのは論外ですよ」「まさか」 元子は一蹴し、座って、と命じた。長くなる話、しかも中途半端に終わらせられない話だと感じる。素早く頭を働かせ、京介の話と等価なら交換条件が出せると踏んで腰を下ろす。「桜木通販は終わる」「え?」 目の前に座った元子が微笑みながら言い放って、呆気にとられた。「終わる?」「あなたが社長を引き受けてくれなければね」「……は?」 さすがに頭がついていかなかった。「伊吹さんにはあなたが社長を引き受けた後の秘書をお願いしたわ。経験はないみたいだけど、今必要なのはあなたを心身共に支えられる人、二人でしのげば何とかなるでしょう」「…どう言うことですか」 寝耳に水どころか、全てが予想外だ。「どこまであなたに連絡があったかわからないけれど、数日内に真崎大輔が大学時代からの暴行傷害、『ニット・キャンパス』に関わる詐欺と横領の罪で逮捕される」 元子は淡々と続けた。「その中には家族へのDVも含まれている………5年前の緑川事件も」 ひやりとした塊が背中を滑り落ちる。恵子の顔が脳裏を過ぎっていった。 恐らくはそうだ、恵子は大輔を売ったのだ。「事情聴取の状況によっては、あなたへのDVも明らかにされる」「…それ、は…」「…何か飲む?」 元子が一瞬目を伏せて席を立った。隅のサーバーからコーヒーを淹れて目の前に置いてくれる。「もう一つ。『ニット・キャンパス』にも司法の手が入り、桜木通販はイベントから外される可能性が出てきた……私が社長でいる限り」「…司法取引…ですか」「それほど大層なものじゃないわ」 元子は苦く笑った。「岩倉産業が桜木通販抜きで『ニット・キャンパス』の成功は難しいと訴えてくれたの。勿論、岩倉産業が全てを請け負う形にすることも検討したけれど、今からでは時間も準備も足りない。ならば、私が引責辞任して、あなたに譲る形で桜木通販を存続させ、『ニット・キャンパス』を成功させようと言うわけ」「…喜多村会長ですか」 すぐに察しがついた。 子飼いの大輔が使えなくなり、社会評議会も後押ししている市を挙げてのイベントの頓挫は、誰にとっても不利益しか残らない。元子のすげ替えで始末がつくなら、それに越したことはないと『諸機関と調整』したのだろう。「イベントの成功如何によっては、終了後に桜木通販が存続できるかも知れない。不十分なら、あなたの社長の話もなくなるし、桜木通販は消滅する。販路や顧客は岩倉産業が引き継いでくれるそうよ」「悪くない話です、今の条件では」 京介はカップを持ち上げた。一口飲む間に、元子が話したかった内容を考える。「けれど、それだけではないんでしょう?」「…あなたの酷い噂が流れるわ」「そうですか」 想定範囲だ。 今の状況ならば、桜木通販が生き残るためには、たとえ同情票であろうと集める必要がある。犯罪者である兄に酷いDVを受けつつ、再生していく被害者の弟と言う美談は有益だ、それがどんな憶測を呼び、どれほど不快な視線を浴びることになっても。 相子なんかは、ここぞとばかり『壊れてしまっている可哀想な真崎京介』の話を、面白おかしくメディアにぶちまけてくれるのだろう。「では、伊吹さんは手放します」 微笑んだ。「え?」「そんな状況に彼女を巻き込めない」 胸の中心で微かに触れ合った指輪が鳴った気がした。 今夜急に予定を変えた、伊吹の話もそう言うことなのだろう。そんな状況に追い込まれる京介とは一緒に歩けないと伝えてくるのだろう、京介の夢見たような優しい決意ではなくて。「でも、伊吹さんは」「お話があります」 京介は元子を遮った。「社長を引き受ける代わりに、桜木通販が抱えている膿を出しきりたい」「…どう言うこと?」 今度は元子が眉を寄せた。「赤来課長の履歴情報を下さい。高山さんに協力の指示もお願いします、あなたが社長でいる間に」「何の話をしているの?」「緑川課長の買春事件に真崎大輔が関わっていたのなら、もう一人、桜木通販で事件に関わった人間がいる可能性があります」「……それが赤来くんだと…?」 元子が掠れた声で確認した。「はい」 京介は顔を上げた。「これから、僕の古い親友が関わった事件について、今わかっていることを全てお話しします。友人の名前は難波孝。牟田相子さんの兄で………大輔か、赤来さんに殺された可能性があります」 元子がごくりと唾を呑んだ。「桜木通販の後始末は僕がつける。ご協力をお願いします」 **************** 今までの話は こちら
2026.07.10
コメント(0)
**************** いつか赤来が会社の入り口で外を眺めていたことがあった。ついさっきまで話していたのだろう、阿倍野が走り去っていくのを見送っていると見えた。 けれどその後、携帯を取り出して二言三言やりとりしていた様子が、一転して冷ややかになった。通話を終えても職場へ戻る様子がなかった。用がなさそうなのに、なぜかまだ、じっと空を眺めていた、何かを待ち望んでいるように。『どうされたんです?』 振り向いた顔が珍しく強張っていた。如才のなさが抜けたのは、阿倍野との関係を知られたくなかったからかと思っていた。『もう慣れたかい?』 穏やかに笑う顔に一瞬奇妙な不快感が広がったのを思い出す。品定めする視線と気づいたのは大輔を思い出したからだ。ひょっとして、赤来もそちら系の男だったのかと勘ぐった。記憶は表情に浮かぶ。封じて話題をすり替えた。『どこかへで出られるところだったのでは?』『どうして』 瞬時に返されて違和感が募った。出るところかそうでないかの単純な質問だ。なのに、赤来は京介の質問の意図を尋ねた。 阿倍野との関係を誤魔化したいのか、それとも今の通話を聞いたかどうかを気にしているのか。『背中が逃げたがっているようでしたよ、この場所から』 暗に阿倍野との関係も通話の内容も興味がないと示したつもりだった。仕事は大変で時々投げ出したくなるでしょう、それぐらいのニュアンスだった。だから、『気のせいだと思うよ』 流されて安堵した、矢先、『ところで、仕事が一段落ついたんなら、コーヒーにでも付き合わないか? 奢るよ、紙コップだけどね』 思い出さずに済むわけもなかった。コーヒーを淹れるのは傷みの合図だ。職場の同僚、関係性を壊すわけにはいかない相手、しかも京介から話を振った以上、忙しいとの逃げも効かない。 平然を装って誘いを受けたが、一瞬震えた体を、まあ緊張するなよ、と大輔さながらに背中を叩かれた。「…まだ居るだろうな」 改札を抜けて会社へ戻る。 途中で連絡を入れると、相手は待っていると答えたので、足を速める。 エレベーターを待ち切れず、階段を駆け足で上がる。 脳裏には赤来との別の光景が浮かんでいる。『まるで名探偵みたいだよね、彼女。アベちゃんからちょっと話を聞いただけで、何がどうなってるのかすぐ教えてくれたって、彼女も不思議がってた』 伊吹の能力を見抜いたかのような指摘。 京介だけが気づいているはずだった魅力を話されて不快だった。『もう一回っていうのは、俺が世話になったんだけど』 無くした書類を見つけ出した伊吹に向けた興味。『何だ、この子って、そう思った』 その興味は、どのようなものだったのか。『経理にもらえないかって、頼んでみようと思ってるんだけど』 なぜ欲しがったのか、経理に。単に鋭くて仕事の出来る事務が欲しかった、からではなくて。『家庭を守るには最高の人かもしれないね?』 京介の反応を楽しんでいた、伊吹を失う可能性をほのめかして。なぜ。『…そういう顔もできるんだ、真崎さん』 他のどんな顔を知っていると言うのか。 それは社内のことだけではなくて、ひょっとして。「っ」 唐突に、何の脈絡もなく、一つの笑顔が思い浮かんで立ち止まる。荒くなった呼吸を逃しながら、京介は瞬きした。「…僕も……見てる……?」 明るい日差しの中、体を寄せてくる大輔の熱から逃れようとして、一瞬顔を背けた視界、周囲の無関心な顔の中にただ一つ、日差しと同じぐらい明るい表情の男が居た。今よりもずっと髪の毛が短かかった。ラフで平凡な姿だった。「…あの時……居た…のか」 呆然と呟く耳に、楽しげな声が蘇る。『……総務や人事に動かすぐらいなら、俺のところがましじゃない? もっとも伊吹さん次第だけど』「伊吹さん…」 ぞっとして、再び急いで階段を駆け上がる。 恐怖は確信になる。 赤来は伊吹を狙っている。 ならば。 唇を引き締める。 打てる手は全て打っておかなくてはならない、未来を守るために。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.09
コメント(0)
お待たせしました。なかなか上げられなくてごめんなさい。****************『今日、京介の家ではなくて「村野」で会えませんか」 ホール・チェックが終わって急ぎ足に会社に戻っていく間に、伊吹からメールが入ったのを京介はじっと眺めた。 予想はしていた。 もし、今考えていることが真実で、伊吹がそれに関わっているならば、きっとそう来るだろうと思っていた。『構わないよ。7時でいい?』 電車に乗り込みながらメールを打つ。 打ちながら考え込む。 できればもう少し時間が欲しい。伊吹が出して来るだろう提案に対応するには、調べなくてはならないものがあるし、高山や元子の協力も仰ぎたい。だが、その為には、京介自身もかなりの火の粉を浴びる羽目になる。どの動きを取っても数時間では足りない。『もし良ければ、8時じゃだめ? 「村野」に予約を入れておきたいし』『奇遇ですね』 すぐに返答は返ってきた。『私ももう少し時間が欲しかったので』 その時間を彼女はどう過ごすつもりなんだろう。 胸が痛んで苦しい。 きっと覚悟を決めてくる、何もかも切り捨てて飛び込むつもりで。 胸元の肌の上、シャツの下で二つの指輪を通した鎖が揺れる。「甘いよ、伊吹さん」 囁いて、流れる景色を見ながら指先でそっと押さえた。 肌身離さず着けているのに、なおもひんやりと冷たさを宿す金属の輪。「僕が君を放っておくと思ってるの」『赤来課長。経理課でしたよね?』 携帯の向こうから響いた声が頭の中で鳴り続ける。 経理課の赤来豊。緑川の買春事件で人事異動が為されて、京介は流通管理課の課長となり、赤来が経理課長に昇進した。これと言って問題を起こしたことがなく、緑川の後釜には無難で最適だとされていた。 彼の出身大学はどこだっただろう。経済学部だとは聞いてはいたが、もし大輔と同じ大学で、志賀が誤解するほど『じゃれあう』知り合いだったのなら、京介のことも、京介と大輔の関係も知っていた可能性がある。 けれど、赤来はそんなことを露ほども匂わせなかったし、社運をかけた『ニット・キャンパス』に大輔が絡んでいることに対して便宜を図るでもなかった。まるっきりの他人の話として振る舞っていた、そこには『隠そうとしていた』意思が明確に見える。 ひょっとして、赤来は『孝』のことも知っていただろうか。そしてまた、『孝』の妹である牟田相子のことも、単に同じ社内の女子社員と言うだけでなくもっと近しく。 牟田相子も赤来のことは気に入っていた。時々、京介を焦らすように、赤来の噂話を持ち出していた。京介を魅きつけるための方便だと思っていたが、本当はもっと深く、赤来と繋がっていた可能性はあるか。「……」 背中が寒くてぞくぞくする。何かとんでもないものが見えて来てはいないか。それも、思っても見なかった視界の端に。 赤来の女性からの人気は、京介には及ばないにせよ、富崎と二分する。大抵は赤来に好意的だ。 けれど、違う視点から見ているものも居る。『私はあの人は苦手です』 石塚は言い切っていた。『課長よりも苦手ですね』 それってどう言う基準なの、とおどけて聞けば、『…よくない感じがします』 どこか高山に似た視線で見返された。 経理の阿倍野は好意的だ。 だが、阿倍野は緑川とも関係があったと相子が漏らしたことがあった。事件発覚の少し前だ。それから目立った噂は立たなかったから、長くは続かなかったのだろう。それとなく関係がなくなっていったのは、緑川が買春行為にのめり込んだせいなのか、それとも別の人間との関係が始まりつつあったからか。 買春事件は緑川が辞職し、買春組織に捜査の手が伸び、けれど結局は追い切れずに人々の記憶から薄れ、過去の中に消えていったはずだった。桜木通販は満身創痍ながら、何とか会社を建て直し、重苦しい過去と無縁な組織となったはずだった。 けれど本当はそうではなくて、事件は全く終わっていなかったのではないか。「…狸だな」 元子はきっといろいろ知っていて京介に伏せている。不愉快なのは、伊吹はそれを聞かされている可能性があると言うことだ。 伊吹は孝を殺した犯人を捕まえられるかも知れないと言った。無論確証あってのことだろう。犯人を既に知っているか、或いは間近に捉えつつあるか。 人の気持ちを『見る』ことができる伊吹が、全く彼女に関係なさそうな薬物がらみの殺人事件の犯人に迫れるのはなぜか。「すぐ近くに居るんだ…『見える』ほど近くに、犯人が……この桜木通販の中に」 それは大輔と知り合いで、京介のことも知っていたらしい赤来が、なぜそれらのカードを有利に使うこともなく、一切誰にも見せてこなかったのかの理由ではないか。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.08
コメント(0)
****************「手?」 檜垣が不審そうに覗き込む。「そんなもの、山ほど映ってるって」「いえ、この手は、この中の誰とも一致しない手です」「一致しない?」 有沢も身を乗り出した。「オカルト巫女様の降臨かよ」 檜垣は操作した画面を眉を顰めて注視する。「ここ!」「っ」 美並の指摘に檜垣が画面を止める。「……鏡…?」 有沢が眉を寄せた。「襲ってる奴の一人が鏡に映ってるのが、写り込んだのか?」「いいえ、違います」 美並は画面を睨みつけた。 ラブホテルの一室と見えるが、ただのホテルではない。手摺や柱、拘束具や紐鎖など見慣れないものがたくさんある。その中に一枚の鏡があって、縛りつけた女をいたぶる男達の姿はもちろん、カメラを構えている飯島の姿も写っているが、もう1人、飯島の肩に掛けられた手がある。 本当ならば、この鏡は撮る予定ではなかっただろう、飯島自身が映っているから。けれど、飯島はあえてこれを残そうとした、自分の危険を顧みず。 なぜか。「この手の持ち主の服も時計も、部屋にいる誰とも一致しません」「え」 檜垣が慌てて画像を再確認し、「…確かに……こいつは、この中に入ってない」「顔も見えないな。飯島だって、背格好まで写っちまっているのに」「…なぜ、これを、残したのか」 有沢が唸った。「こいつは飯島にとっても不利だろうが…………っ」 ぎくりとした顔で身を起こす。「『羽鳥』?」「…たぶん、そうです」 美並は画面の中でゆっくりと飯島の肩を叩き、何かを指し示すように翻る手を見つめた。「飯島は『羽鳥』の姿を残そうとしたのか」 檜垣が大きく息を吐く。「こいつが…『羽鳥』…」「…もう一つ」 美並は一旦画像を止め、もう一度流した。「この手の持ち主は、この部屋をよく知っています」「は?」 檜垣が瞬きする。「おいおい、あんた、ほんとにオカルト巫女…」「見て下さい。ここで照明が一旦暗くなりますよね?」「…ああ」 誰かが間違って消しちまったのかな。 有沢が呟く。 画面が急に暗くなったから、悲鳴は続いているが画像としてはうまく撮れていない。「けれどすぐに明るくなる」「ああ?」 美並の声に檜垣はまだ意味がわからない様子だ。「…檜垣」「何すか、有沢さん」「なんで明るくなったんだ?」「そりゃあ、奴ら、このままじゃ画像の意味がなくなるから、照明をつけたんでしょう……あ」 美並の指の先を見ていた檜垣がはっとする。「何だこいつ」「…指示している」 有沢が頷いた。「あそこのスイッチを付けろ、と指で差している」 鏡に映った手は苛だたしそうに振られた後、すっと一箇所を指し示す。慌てたように画面の隅で裸の男が走り寄り、カーテンの後ろにあったスイッチを見つけ、スポットライトのように落ちる一点照明をつける。「……こいつはカーテンの後ろにスポットライトがあるのを知ってるんだ」 有沢が薄笑いした。「『羽鳥』はここを複数回利用している」 プライベートか? 『赤』か?「どっちでもいい……幻じゃなくて実体なら探し出せる」「そうか…! これが記録された日時は残ってる、そこから」「まだあるぞ、檜垣」 有沢は画面の一点を指で突いた。「この時計、かなりの上物で特殊な奴だ。そんじょそこらのガキが買える代物じゃない」「そうですね……そうか、指し示したから袖が上がって時計がはっきり写ったんだ。そんなとこまで気づいてなかった……画像解析に回します!」 さっきのダークさは何処へやら、いきなり跳ね上がる子犬に戻った檜垣が、意気揚々とデータを操作するのを見ていた有沢が美並を振り向き、訝しげに声をかけてくる。「伊吹さん? どうしました?」「私…」 美並は必死に頭の中で繰り返す映像を見ていた。 何かが引っかかる。何かが心を引き止める。ちょうど、あの朝、トイレから聞こえた声のように。 飯島の肩に親しげに置かれた手。 薄暗くなって惨劇を覆い隠してくれそうだったのに、一番酷い状況にスポットライトを当てるように指示した手。「同じものを……」 どこかで見ている。 どこで? 答えは明瞭だ、言わずと知れた桜木通販の中でだ。「どうして…」 これもはっきりしている、『羽鳥』が美並を視認できたほど。 美並は『羽鳥』を知っている。美並は『羽鳥』を見ている。それも、動作一つが記憶に留まるほど近しく親しく、すぐ側で。「あ…」 ふいに頭の中の手の動きが、一つの光景と重なった。『いや、そんなとこにあったとは気づかなかった、ありがとう』 にこやかに差し出された手。上がった袖から覗く、シルバーの文字盤、青く細い三本の針、黒い革ベルト。 普段見えなかった時計は、画像の中の時計と同じものだった。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.05
コメント(0)
**************** 署内の一室に鍵を掛け、周囲に盗聴器やカメラのないことを確認する徹底ぶりで、檜垣は場所を準備した。美並にも無論わかっている、これが最初で最後の無茶になる。これを逃せば、同じ機会は巡ってこない。「まずはこいつだ」 崩れこ込むように座った有沢はナイロン袋に封入された一枚のカードを示した。深い緑色、キャッシュカードに似ているが、503と金文字が浮き上がっている。ホテルのカードキーのようだ。「飯島の部屋を家捜しして見つかった。普段から持ち運びしていたらしい鞄に二重底が細工されていた。調べたら、数人の指紋が見つかったが、大輔でも飯島でもない、もう一人の人間の指紋があった。ホテルは『赤』が使ってたものだ」「『羽鳥』?」「その可能性はあるな。飯島がわざわざこれを隠し持っていたということは、何かの時に証拠品として使おうと思ってたせいだろう」 なくしたとか何とか理由をつけて、密かに一枚手に入れたんだ。「忠義面して何を考えてたんだかな。始めは『羽鳥』に傾倒していたはずだから、どこかで何かが狂ったんだろうが」 檜垣が冷ややかに吐き捨てる。「…それでも、その証拠はまだ使えない」 美並のことばに有沢は頷いた。「『羽鳥』が見つかれば照合できる。大輔の暴行傷害に絡めて引っ張れる」「で、こっちだ」 檜垣が机の上に置かれていたパソコンを開く。「ちょっと細工はしてあったが、素人だな、すぐに開いた」 美並はてきぱきと仕事を進める檜垣を見た。 少し前までの有沢に懐く子犬のような姿は消え失せている。まるで有沢を真似るような容赦ない口調が、残り時間を知らせるようだ。 きっとこれだけの状況を整えるのも並大抵のことではないはず、下手をすれば檜垣の将来さえ危ぶまれるほどのことだろう。「ん? なんだ?」「いえ」 美並の視線に気づいて見下ろす檜垣が、キーボードを叩く。「頼むぜ、何も見逃してくれるなよ」「はい」 画面が開いた。(中略) 掠れた泣き声が聞こえ続ける中で、ふいに『それ』が飛び込んで来た。 笑いながら覗き込む大輔の顔。赤黒く染まり、眼を剥いて、手にしたものを突っ込んでいる。醜悪で、ぎらついていて、けれど例えようもなく上機嫌で。「…」 すう、と顔の熱が引いた。 襲われている女性が真崎と重なった。大輔はきっと同じ顔で真崎を嬲ったに違いない。げらげら笑い続ける男達に声を掛け、背中を叩いて煽りながら、自分も夢中で挑んでいる。 同じようなものが次々に開いた。繰り返される泣き声と呻き声、絶叫し助けを求め嗤い飛ばされる女性が、何人も画面で暴かれる。 拳を固く握り締め、伊吹は凝視し続けた。「…伊吹さん、無理なら…」 続く悲鳴に、さすがに怯みが出たのか、有沢が低く唸った。だが、美並が動かないのに溜め息をつき、新たに開いた画面を解説してくれた。「私達も確認したが、多分これは飯島が撮っている。大輔や他の人間はあからさまに顔も行為も写されてるが、肝心の『羽鳥』は映っていない」 これが唯一男達の顔がはっきりしているものだ。 なるほど、これでは大輔は逃れようもなかっただろう。 飯島の撮影意図は明らかで、確かに暴行現場をあからさまに撮っているが、夢中になっている男達もそれとなく顔を写されている。いざとなればこれを提示し、自分が映っていないのをいいことに逃げ延びるつもりがあったのだろう。「…もう一度」「え?」「今の場面を、もう一度」「おいおいひでえなあ、あんたも」 檜垣が嗤う。「同じ女として心が痛まねえのかあ?」「…ここ」 美並は画面を指差した。「ここをよく見ていて下さい」 手が映っている。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.04
コメント(0)
**************** 美並は有沢に了承の連絡を入れた。 準備にかかると言われて、土曜日を約束した。 土曜日、真崎は11時から『ニット・キャンパス』のホール・イベントのチェックに高崎と出かける。美並の『羽鳥』事件と同じく、そちらも2人の将来のためには押さえて置かなくてはならないイベントだ。 当日の朝、待ちかねたように真崎からメールが入った。『伊吹さん、おはよう。今夜来れる?』 気づいて返信を入れる。『おはようございます。眠れましたか?』 すぐに電話が鳴り、優しい真崎の声が響いた。『おはよう、美並』 名前呼びに一昨日の夜が蘇る。「おはようございます、京介」 同じように名前で返す、その自分の声も柔らかかった。今が朝ご飯と聞いて、首をかしげる。「眠れなかったの? お仕事?」『ううん……ひさしぶりに寝過ぎたんだよ。さっき起きた』 頬を摺り寄せてくる、ビロードのような手触りの気配。 窓から差し込むきらきらした光に目を細める。 美しい日だ、明らかで透明で、そんな日に美並は戦いに赴こうとしている。 机の上のトーストと紅茶を眺めた。さっきまで食べる気がしなかったのに、電話の向こうに真崎が居ると思うと、少しお腹が空いた気がした。読み取ったように真崎がねだる。『……できるだけ早く…会いたい』 あなたが側に居なくて寂しいよ、と声がことばになる前に甘えてくる。 泊まれるよね、と確認されて、7時ぐらいには行けると応じた。材料を買っていくので夕飯を作ると伝えると、デザートはと聞かれたから、「………京介でいいですよ」 呟いて、気がついて、言い直す。「デザートは京介がいいです」 きっとくたくたに疲れるだろうから、極上のものに包まれたい。『うん……じゃあ……僕を用意しておくね…』 切なげな声がもう息を軽く弾ませながら響いた気がして、美並は微笑んだ。「…とびきりおいしそうにしておいてくださいね」 甘い同意が返ってきて、急いで通話を切る。「もう、ほんとに」 危ない危ない。 独り言を言いながら、トーストを食べ終えた。 熱くなった頬に苦笑いする。鏡の中を覗き込むと、きらきらと目を輝かせている自分が居て、我ながら猛々しい。 一昨日なのに、お風呂にも入ったのに、まだ真崎の香りがしている気がする。 一瞬だけ目を閉じて、その香りを吸い込んだ。 左手の薬指には何もない。 けれど何が何でも戻りたい場所があるなら、ぐずぐずしてはいられない。 きっちりスーツを着て、向田署に出向く。 土曜日でも署は妙にざわざわとしていた。「伊吹さん」 出迎えた有沢の影は薄かった。背後に檜垣が背中を守るように付き添っている。「待っていました」「体調が?」「…厳しいです」 苦笑いする顔も青黒い。「痛み止めが効かなくて」「ただあんたを待つために」 ぼそりと檜垣が唸った。「この人は入院を蹴ってるんだ」「…入ってしまえば、もう出られない」 吐き捨てる有沢が光る眼を伊吹に向ける。「わかっているはずです、あなたには」「…わかっています」 伊吹はまっすぐに相手の視線を受け止めた。「始めましょう」「…伊吹さん…?」 あっけにとられた顔の有沢を通り越し、檜垣に頷く。「少しでも早く」「行きますよ、有沢さん」 優しく声をかけた檜垣が支えるように有沢に促す。よろめくように振り返った有沢の体は、一回りも縮んだ気がした。「奥に部屋を用意している。見てもらう画像は、正直女子どもにきつい絵だ」 階段を数段上がっただけで息苦しそうな有沢に代わって、檜垣が説明してくれた。「ならば一層見なくては」 吐き気がするほど酷い画像だろう、だからこそもう二度と。「繰り返させないために」 言い切った美並に檜垣が微かに口笛を吹く。訝しげに振り向く署員が、引きつったように3人を見遣り、それから何事もなかったように眼を背けて行く。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.03
コメント(0)
****************「違うよ!」 少し穏やかに話していた口調が激しくなって、京介は瞬きした。「違う、課長はゲイじゃない!」「…えーと…」 一体どうしてそんな話になってるのかな、これは? 引きつりながら体を起こし、周囲に目を配る。確かに同性愛は徐々に市民権を得つつあるけれど、こういう公共の場所で大音量で叫ぶものじゃないだろう。「違うって、俺と寝たりしてない!」「た…」 呼びかけかけて、すぐ側の公園の入り口から入ってこようとした親子連れが、くるりと向きを変えたのに口をつぐんだ。「ちょっと場所を変えよう…」「待って下さい、こいつ何だか妙な誤解してて!」 袖を引きかけたが大真面目な顔で振り向かれた。「課長がゲイだってきかないんですよ!」「あー…えーと…」 そもそもなぜそんな話になっちゃってるのかな? 声を低めるように指示して周囲に注意を向けさせ、慌てて頷いた高崎が顔を顰めて頷く。「確かに僕はよく勘違いされるけどね?」「直接話してやって下さい、とにかくあいつ、課長がゲイで、俺とできてるってきかなくて。それを見てるのが辛いとか言い出して!」「…あー、僕が出た方がいいみたいだね」 溜め息混じりに高崎の携帯を受け取る。「もしもし?」『…は、い』 掠れた声が応じてどきりとした。甘く響く泣き声は、おそらく何もかもをぶちまけた辺り、その気が無くともかなり色っぽいが、高崎にはほとんど効果がなかったのが可哀想な気がする。「電話を代わりました。プライベートな内容に踏み込んでいるようですが?」『すみません…けど、いろいろ、もう、限界で……』 予想以上に落ち込んでしまっている。このままでは『ニット・キャンパス』にも支障が出そうだし、大石がこの状況をどうにかできるとは、なお思えない。「とりあえず、はっきりさせておきますが、僕には女性の婚約者が居ますし、男性には興味がありません」『…そんなはず、ないです』「…なぜです?」 はっきり言い返されて眉を寄せた。『…あなたを…見たことがあります』「はい?」『中三の、模試会場で。すごく綺麗な人だって思っ………ひっ』 向こうの声がしゃくり上げて、一層眉を寄せた。 志賀は幾つだっただろう? 逆算して弾き出したのは10年前。模試会場。「ああ…ひょっとして、大学?」『そんなこと、男相手に思ったことが、ショックで…』「思春期の、一時の気の迷い、的な」 悩める青少年相談か、と思った気持ちは続いたことばに裏切られる。『…真崎大輔が居て……あなたとキスしているの…見て、それで自分の嗜好に…気づいて…』「…」 さすがにことばが出なかった。 高校生の頃だったか、大輔の大学に呼びつけられたことがあった。孝に手を出さない代わりに抱かせろと言われ脅されて、いつ人が来るかも知れない中庭の片隅で、危うく暴かれかけた。かろうじてキス止まりであしらったものの。 それが志賀が自分の性的な嗜好に気づくきっかけだったとは。「…どうしようかな」「え」 不安そうに覗き込んでいた高崎がぎょっとした顔になる。「何ですか、課長、あいつまさか」『あなたのことは…嫌いじゃない…誰だって……あなたほど華があれば、魅かれるのは無理もないし…』「うーん…」『ただ…高崎を…弄ぶのだけは…許せなくて』「…はい?」 京介は瞬いた。 今とんでもない台詞を聞いた気がする。「僕が高崎くんを?」「俺と課長はそんな関係じゃないぞ!」『…もいるのに』「…失礼」 横から高崎が割り込んできて志賀の声が聞こえなかった。一旦携帯を外し、高崎を見やる。「ちょっと黙っててくれないかな」「けど、あいつまだ俺と課長が」「…自分で話をつける?」「うっ」 携帯を差し出すと引きつった高崎が身を引く。「とにかく僕に任せてくれるかな……コーヒーでも飲んで」「…はい」 しゅんとしてしまった高崎がごそごそ取り出したのは、志賀が放り出した缶コーヒーだ。切なげに見つめながらじっと握りしめている。 それのどこが『男に興味がない』状況なんだろうね。 京介は苦笑しながら、もう一度携帯に話しかける。「すみません。今妙なことばを聞いたと思ったんだけど?」『……俺はもう、高崎のこと、諦めます』 少し落ち着いたらしい志賀が苦しそうに呟く。『でも、高崎は大事にしてやって欲しいんです』 そりゃ、あなたも世間体の婚約者とか立てるぐらいだし、大人の関係だって続けたいだろうけど。「……はい?」 大人の関係。「誰と?」『…あの人はそうじゃないんですか』「…大輔なら違うよ」『いえ、あの人とも、なんでしょう?』「…誰のこと?」 高崎がぴくりと体を震わせて顔を上げたのが視界の隅に見えた。『同じ会社に居るし、真崎さんとも知り合いだから、てっきり…』 戸惑ったように口ごもる声に、志賀の突き刺すような鋭い視線を思い出した。 あの視線は単に恋敵としてではなく、大事な想い人を傷つける男への視線だったのか。「僕と、知り合い」『いえ……大輔さんの方、ですが』 血の気が引いた。 今、志賀は、桜木通販の中に、大学時代からの大輔の知り合いが居る、と言っている。 だが、そんなはずはない。そんな話は聞いたことがない。京介と大輔の繋がりを誰かに確かめられたこともない。「…課長? どうしたんですか」「失礼、志賀さん。誰が、大輔と知り合いなんだろう」『あの会社の模試を何度か受けたことがあって、何かのサークルの勧誘だったのかな、女の子達に声かけていたグループがいて。一緒に話していたのを見たから、てっきり仲がいいのかと』 一度京介を見かけた志賀は、キスをしていた大輔のことを覚えていた。ゲイなのに女性を誘うのかと妙な気持ちで眺めるようになった。その大輔がじゃれつくように話しかける相手も、そういう関係なのかと思っていた。「サークルの、勧誘…」 そう言えば、一度大輔が自慢げに誰かに電話で話していた、いつでもどんな女でも見繕って見せる、と。見かけの爽やか体育会系に引っかかる女達を食い物にしているのかと気にも留めなかったけれど。『桜木通販を調べた時にその人が居たから、きっとあなたとも付き合いがあるんだろうと』 戸惑う声が静かに告げる。『赤来課長。経理課でしたよね?』 **************** 今までの話は こちら 赤来課長側からのお話は『その男』から(アルファポリス、小説家になろう!に掲載されています。アルファポリスの『その男』は番外編の中にあります)
2026.07.02
コメント(0)
お待たせしました。**************** カフェや喫茶店のようなところでは逆に人目が気になるだろうと、京介はオープン・イベントが行われる予定の市役所横の公園に高崎を連れて行った。「はい、コーヒー」「…ありがとう…ございます…」 さすがの高崎も堪えたのだろう、ぐったりした様子でベンチに腰掛け、京介の渡した缶コーヒーを両手で握りしめて俯いている。 そのコートのポケットには、逃げ出してしまった志賀が落とした缶コーヒーが拾われて入っているのを京介は知っていた。「…俺……へま……しました…」 高崎が唸る。「…うん」「……貴重な準備時間、無駄にして」「…うん」「……課長に迷惑、かけて」「…うん」「………俺…」 ひどく小さな声で高崎が呟く。 あいつ、プライド、高いのに。 ぎゅっと缶コーヒーを握りしめる。「…あんなこと、言わせちまって……」「……」 『最後の砦』かあ。 京介は缶コーヒーを開けて一口含む。「…わかるような気がするな」「…え?」「『最後の砦』」「……からかってんすか」「ううん」 空を見上げる。 孝とは違った。志賀はきちんと自分の気持ちを抱えてたし、手放さなかったし、確かにとんでもないところでとんでもない状況の告白だっただろうけど。「気持ちはまっすぐだねえ」「…うん。…昔から」 高崎が小さく笑う。「昔っから、あのまんまです、あいつ」「そうだね、強いね」「強いです」 もし、高崎にキスしていたのなら、そして高崎はそれを受け入れられるような状態ではなかっただろうけど、それでも好きだと言い放てるなら。「高崎くんは、志賀さんのこと、好きなの?」「……俺、女の方がいいです」 けど、敬意はあります、あいつは凄いやつですから。「じゃあ、はい」「? 何ですか、この番号」「志賀さんの連絡先。知らないでしょ」「え、えええっ、課長っ、何であいつのケー番なんかっ」 いや、その対応が十分いろいろことばと違ってる気がするけどね。 京介は苦笑しつつ、続ける。「何言ってんの、仕事相手なんだし、知らない方がおかしいよ」「あ、あ、そう、そうか」「だから、はい」「はい?」「さっさと電話して謝罪して関係を繋いでおいてくれる?」「え、ええええっ」「あのね、高崎くん」 にっこり笑って付け加える。「貴重な時間を無駄にされた上司としては、浪費した部下に残りの仕事を依頼しても当然だと思うけど?」「あ、あー、はい、そうっすね、ああ、はい」 取り出した携帯に高崎の指が忙しく動く。 今目の前で連絡しろって言ったわけじゃなかったんだけど。 京介は面映ゆい気持ちで高崎を眺める。 不思議な感覚だった。今までは敵か味方か、そうでなくとも使えるか使えないかで人を見ていたような気がする。そこから離れて全く別次元の存在だったのは、伊吹美並ただ一人だった、のに。 今京介は、高崎の一所懸命さが気に入っている。不器用に友情と愛情を取り違えないようにしようと足掻いている姿が微笑ましいと思っている。志賀とどのような関係になるにせよ、お互いの気持ちが十分に伝えあえればいいのにと願っている。「……親愛、と言うことかな」「え?」「いや、こっちの話。出た?」 まだ会社までは戻っていないでしょう。「たぶん……出ないな」 高崎が唸った。「出ない……出ないな、何やってんだ、ちくしょう」 呟く高崎はまたもや側に居る京介の存在を忘れてしまったようだ。 たぶん。 そうだ、今ならわかる、たぶんそうだ、孝は京介を性愛の対象として見ていた。 大輔に抱かれたせいなのか、それとも同じ境遇に共感している間に芽生えた感情なのか、それはわからない。 孝。 胸の中で呼んでみる。 僕は君を失ってから、君を殺した奴をずっと探していたけれど、ひょっとすると全く見当違いの場所をずっと見ていたのかも知れない。 大輔に縛り付けられて、生きている意味さえ失って、そんな日々は僕にとって地獄でしかなかったけれど、ひょっとすると君は全く違う気持ちであの日々を暮らしていたんだろうか。「っ、もしもしっ、もしもしっ、あっ、切るな!」 咳き込むように高崎が話し出して、京介は苦笑しつつベンチに凭れ、また空を見上げる。 恵子さんのことは本当はどう思ってたんだ? カムフラージュ? 本気? 大輔のことは? 悪魔? それとも。「…」 ふと体を走ったのは伊吹に愛された感覚だ。内側に火が灯り、震えが生まれる。切なくて焦れったくて、このまま蕩けていきそうになる。 望んだものではなかったかも知れない。普通じゃないかも知れない、それでも注ぎ込まれた快楽は容易く感覚を支配する。 それとも。 京介は目を細める。 孝が大輔から受け取っていたのは、京介が伊吹から受け取るような快感だったとしたら。 大輔は気まぐれで抑えが効かない。欲しいものがあれば次々とそれを奪いに走る。 そんな飽きっぽい男からしか受け取れない快楽を、ずっと受け取り続けていたいと願うなら、自分の体なんか、どうなっても良かったのかも知れない……? 京介に向けていたのは既に、同じ苦しい過去を分かち合った仲間への友情ではなく、喜びを与えてくれる支配者の寵愛を奪う者への敵意だけだった、としたら。 僕は一体何をしていたんだろう。 **************** 今までの話は こちら
2026.07.01
コメント(0)
**************** 孝。 後悔するだろう、ずっとずっと。惨めさを見ないふりして、上っ面だけ整えて、それでうまく生きていたつもりの時間を。 いろんなことに気づかなかった。 いろんなことに気づかないふりをしていた。 そうすれば、傷みが少ないと思っていた。 でも、そうしたことで、京介は大事な愛しい人を守れないほど弱い人間になってしまっていた。「……お前はどうなんだよ」「…え?」 高崎の声に眼を開ける。 ちょうど目の前に、跳ね回り互いのダンス位置を確認し続けるダンサーを背景に、志賀の横顔が影絵のように浮かび上がっていた。「…お前は俺をどう思ってたんだよ」「…お前を…」 あれ? 京介は瞬く。 僕、居ない方がいいのかな、ここに。 ちらりと高崎を見ると、いつもより遥かに真剣な顔で志賀を睨み、志賀は志賀で口を半開きにしたまま惚けている。 そろそろともう数歩下がったが、二人は京介の動きには全く気づいていないようだ。 志賀は孝ではない。けれど志賀に投げられた問いの答えを聞いてみたい気がする。 お前は俺をどう思ってたんだよ。「いつもいつも張り合ってきやがって、何だよ、そんなに俺がむかつくのかよ。言っとくけど、今回のことだって、おれはお前が『Brechen』に居るなんて知らなかったんだぞ、これっぽっちも!」「…って…」「ああ、知らなかったんだ! 『ニット・キャンパス』が面白そうだったから乗っかってただけで、お前のことなんかちっとも、全然、全く気にしてなかったんだ!」 あれ。 再び京介は瞬く。 高崎は粘着質ではないし、からっとした男だし、多少のトラブルも二三日で忘れるぐらいの性格のはずだが、この引っ掛かり方は珍しい、と言うか。「……仕事中だって、忘れてるよね?」「……ってた」「は?」「俺は…知ってた」 高崎の返答から少しずつ俯いてしまった志賀が低く呟いた。「何?」 音楽に紛れて聞こえなかったのだろう、訝しそうな顔で高崎が数歩近寄ってくる。「何だ?」「……俺は、知ってた」 志賀が繰り返した。「ずっと、知って……探して、た」 拳が再び強く握りしめられる。「けど、お前は…どこにも、いなかったから」「何? はっきり言えよ、よくわかんねえよ!」 苛立った高崎が声を荒げてなお詰め寄る。 音楽が盛り上がっている。サビの部分が響き渡る。たぶんもうすぐ一旦途切れる。このタイミングで次の展開になるのはちょっと。「あの、忘れてるみたいだけど、今」 京介が苦笑しつつ、手を伸ばしながら声をかけた矢先、音楽が止まった。同時に、ぐっと一際強く拳を握りしめた志賀が、勢いよく顔を上げ、「お前が好きだから、キスしたんだろうが!」「…は?」 きゃあああああああ。今の何っ、今の何っ、凄すぎる! 舞台上に居た生徒達から絶叫が上がり、高崎が口を開いたまま凍り付く。「あー……」「っ!」 引き攣った京介に気づいた志賀が歯を食いしばり、身を翻して駆け出した。そのまま客席を駆け上がってホールを飛び出していく。「……追っかけなくていいの?」「……いや、……俺……だって……その…」 高崎が呆然としたまま振り向いた。半泣きのような顔でくしゃくしゃと顔を歪める。「あいつ、いま、おれのこと、すきって」「……えーと、とりあえず、場所を変えようか、高崎くん」 きゃあきゃあ騒ぎ続ける興味津々の周囲に休憩を指示し、京介は高崎を伴ってホールを離れた。 **************** 今までの話は こちら『や、『や、み
2026.06.25
コメント(0)
****************「見てもらった方がいい、とおっしゃったので遠慮なく」 コーヒーの缶を開けようともせず、志賀は冷ややかに腕を組む。「どうぞ」 キャラクターは全く違うのに、孝とそっくりなものを感じて、京介は顔を強張らせて頷いて舞台へ目を向ける。 朝、動いてきてよかったと思った。伊吹と今夜の約束をしていて良かった。 腹の底が竦んでいる。まるで孝の亡霊が背後に立っているような気がする。『京介』 亡霊は呼びかける。『どうして、そんなところで幸せそうに笑ってるんだよ』 実際にそんなことなど孝は言わなかった。『どうして、俺を捜してくれなかったんだよ』 そんな風に責めたりもしなかった。 志賀の冷たい視線が京介の罪悪感を掘り起こしているだけだ。 孝はただ、黙って死んでいってしまった。 同じ道を辿るまいと京介は必死にあがいているけれど、この道が正しいのか、それとも伊吹もろとも巻き込んで破滅に向かっているのか、本当のところはわからない。「あ、そこ、もっと自由に動いていいから」 高崎が隣でコンテを開きながら指示する。「こんな感じですか?」「いや、もっと全力で走っちゃっていい」「え~、いろいろ着けてたら落としますよ」「落としていいから!」「落とすの?」 きょとんとした顔で舞台上の辻美の生徒が立ち止まった。 『Brechen』はモデルとタレントを使っているが、桜木通販は辻美の学生と一般公募のダンサーを使っている。手弁当とボランティア扱い、『Brechen』と比較して不満を漏らす相手には表現のチャンスの提供であると説明、それでも不服ならば『Brechen』への紹介を行った。もっとも、実力が伴っていたのは数名で、『Brechen』側に採用されたのはほとんどいなかったらしい。「もっかい最初から行くぞ」 高崎が音楽を鳴らし、リズムを確認させ、やり直させる。 数人で構成されたグループのダンスだ。黒いニット帽を被って飛び出してきて、それぞれグループごとにダンスが違う。足を踏み鳴らし、円周を描きながら跳ねるグループ、柔らかなジャンプを繰り返しつつ横切るグループ、ロボットのように手足を止めつつ互いを掴みつつ動くグループ。リズムの取り方さえも違う。刻むリズムのままのもの、もっと速いテンポのもの、二倍三倍ゆっくりで捉えて動くも。「……これでいけると思ってるんですか」 気づくとすぐ近くに志賀がやってきていた。 高崎からは距離を取り、京介を挟むような位置で、それでも食い入るように舞台を見ている。「さあ」 京介は微笑した。「どう思われますか」「なってない」 一言のもとに志賀は否定した。「こんなにばらばらに動いちゃ、どこを見ればいいのかわからない。表現の意図もわからないし、統一感もない、音もうるさいし、がさがさして、未熟で……ああ、ぶつかりかけてる、ただ同じような黒いニット帽を被ってるだけで……っ」 志賀が口を噤んだ。「……まさか、同じニット帽を被ってるだけで統一感が出るなんて思ってないでしょうね」「思ってるさ」 突然高崎が口を挟んだ。志賀がびくりと振り返る。「制服なんか、その典型的な発想だろ。同じ服を来てりゃ、学校カラーが出るって考えてる」「それだけじゃないだろ」 志賀が弾かれたように反論する。「それだけで、この舞台をまとめようなんて思ってないだろ」 声に響いた期待と不安。「それだけじゃ、駄目なのか」 舞台を見ていた高崎が振り返った。 小さく笑って、京介は静かに背後に足を退き、体を沈ませる。誘われたように志賀が半歩、高崎の方へ歩み寄る。「それだけじゃないはずだ」「何が」「お前がそれだけしか考えてないなんて、有り得ない」「えらく買ってくれてんな」「『最後の砦』っ」 志賀が叫ぶ。「お前は『最後の砦』なんだろっ」 無意識だろう、握りしめられた志賀の拳を京介は静かに見つめる。 あの街で孝に再会した時、孝もああやって拳を握りしめていただろうか、ぎりぎりのところで踏ん張ろうとして、京介との出逢いに何かを掴もうとしていただろうか。 けれど、僕は。 目を伏せる。 何も見えていなかった。 きっとそれが、孝を死へと追いやった。「はあ? 何言ってんだ、お前」 訝しそうに高崎が言い返す。「あんな昔の」「昔のことじゃないっ」 志賀がなお前に進んだ足音がした。「いつだって、お前はずっと、『最後の砦』だったって、皆が」 志賀はたぶん高崎の演出する舞台にがっかりしたのだ。自分の思い描いたものとあまりにも違い、あまりにも稚拙で、あまりにも未熟で。 孝もそうだろうか。 孝もまた、再会した京介に助けを求めようとして、けれどもあまりにも京介が足りなくて,それで全てを諦めてしまったのだろうか。すがるに価しない、求めるに価しないと別の誰かを探し求めて、そうして逝ってしまったのだろうか。 **************** 今までの話は こちら
2026.06.24
コメント(0)
**************** 緩めたネクタイをうっとうしそうに跳ね上げつつ近づいてきたのは高崎、その相手を見上げた志賀が一言、「遅い」 ぼそりと呟いた声に微かな柔らかさが漂って、京介は改めて相手を見直した。「すいません、課長!」 思いっきり寝坊しましたっ。 ひきつり笑いをした高崎が流れ落ちる汗を手の甲で横殴りにしつつ、がばっと頭を下げる。「朝、起きてたじゃないか」 確か朝の連絡ではしっかり起きていたけれど、そう思って返すと、側の志賀がぎくりとした顔でこちらを見やる。「?」「それが、夕べ一晩中だったじゃないですか」 きょとんとした京介に高崎が苦笑しつつ、体を寄せ、片目をつぶって囁いた。「ひさしぶりだったから、つい夢中になって…すみません」 けど、課長タフですよね。「俺なんか一晩でダウンですし」「高崎っ」 いきなり志賀が固い声で割り込んできた。「いい加減にしろ、仕事中だろ」「仕事の話だよ? 何お前カリカリしてんの?」「そんなのが仕事か」 さっきまでのクールな印象はどこへ吹っ飛んだのか、志賀はきりきりしながら高崎をねめつけている。「仕事だよ?」 高崎は突然怒り出した志賀に困惑したように繰り返す。「付き合いっていうのは大事だろ?」 考えてみれば志賀が高崎が夕べ何をしていたか知っているはずはなく、なのになぜそこまで激怒したかということも不思議なはずなのに、二人の言い合いは見る見るエスカレートしていく。「そういうのを付き合いとは言わない」「じゃあどういうのを付き合いって言うんだ」 男同士、じっくり一晩、どこが悪い。「誰に迷惑かけてるって言うんだ」 ぐ、と志賀が詰まった顔になって体を引いたが、すぐに身を乗り出して高崎をなじる。「っ、支障を来たしてるだろう、今現に」「ちゃんと謝ったぞ、俺は」 それにこれはどっちかっていうと俺と課長の問題で、お前に関係ないだろ?「う」 ぐいぐい詰め寄っていた志賀が、ふいに棒を呑み込んだように立ち竦み、続いてぎろりと京介を睨む。「はい?」 なんで僕睨まれてるの? っていうか、この妙な展開は。「ったく、詰まってきてんのはお互いさまだろ、大体」 そんなちゃらちゃらしたカッコして仕事してるような奴に言われたくないね。 志賀の表情に気づかないまま、高崎はがしがしと頭をかきむしりつつ溜め息をつく。「何だよ、その髪、染めたのか? 似合わねえって」「……」「彼女の趣味か? 何色気出してんだよ」 高崎がうっとうしそうに言い捨てたとたん、あからさまに志賀の顔色が白くなった。 その二人のやりとりを眺めていて、ようやく京介の頭に様々な事情が噛み合う。「あー…なるほど」 この気配、どうも覚えがあると思ったはずだ。 彼女を京介に盗られたと勘違いした男が怒鳴り込んで来たときとそっくりなんだよね、と思い出した。 志賀は今日高崎が打ち合わせに来ると思っていた。だからこそ、それなりに服装にも気合いを入れていたはずで、そこへ京介がやってきたばかりか、高崎と交わした会話も聞き方一つできわどいものにしか聞こえなかった、とすれば。「高崎くん」「って、大体お前がどんなカッコしてもしれてんだよ、そういうカッコはな」「あの、高崎くん、僕コーヒーが欲しいから買ってきてくれると…」 京介のことばを遮って、びっと高崎がこちらを指差す。「課長みたいな人がやってこそかっこいいの!」 志賀がぱくっ、と口を閉じた。「……あー…」 やっちゃったよ、高崎くん。 京介はゆっくり深く溜め息をつく。「高崎くん」「なんですか、さっきから」「はい」「はい?」 札を握らせ、外の自販機でコーヒーを買ってこいと命じてその場を離脱させる。「何で俺が?」 もしかして課長、この前の復讐?「何、復讐って」「伊吹さんと仲良くしてたやつ」「違うよ、遅れた罰」「あ、なるほど!」「志賀さんにも」「お、れは」「わかりました! いいか志賀、課長が言うから買ってくるんだぞ、俺が買いたかったからじゃないからな、そこんとこ間違えるなよ、いいな!」 反論しようとする志賀を封じて、高崎は再び客席の間を走り上がっていく。残された志賀が茫然とした顔でぼんやりとその後ろ姿を追っている、その顔にふいに重なったのは、ずっと昔、京介を見上げた孝の顔。「あ」 バスケを教えてもらっていた時だった。ステップを間違って絡まって、転がって押し倒してしまった次の一瞬、孝が大げさに身を竦めて転がって逃げ、何だよもう、と引き起こそうと手を伸ばしたとき、同じような顔で京介を見た。 指の間からすり抜ける宝物を見送るような。 それを無理矢理に握りしめようかと迷っていたところを見つかったような。 まさか。 唐突に沸き起こった理解。 孝は、僕を。 でも、まさか。 それが本当でも、言い出せるわけがない、じゃないか。 京介の中で忘れていた見落としていたことが次々と絡み合って浮かび上がってくる。 一緒にたくさんの小さな命を見送った。深夜の山、泣きながら体を寄せあった。大輔の蹂躙をいつからお互い気づいていただろう。それとなく芽生えた警戒心、本音を見せないことで成り立っていた関係の心細さ、恵子を表の理由にして、その実二人とも逃げられない鎖の両端に繋がれていると知ってから出会ったのはたった一度。『お前、なんか!』 京介は背中を打った冷たい壁の感触を思い出した。 あれもまた、冬だった。 **************** 志賀と高崎のSSは番外編にあります。 今までの話は こちら
2026.06.23
コメント(0)
アップ遅れてごめんなさい。続きあげます。**************** コートを脱いで手にかけながら、京介はホールの熱気に瞬きした。「はい、そこまで来て、ターン……もう少し前がいいかな」「いいでしょう」 ホールのステージ上では入れ替わり立ち代わりモデルが指示に従って歩いていく。正面に立ったホールの担当者の横で濃紺のスーツの男が鋭い視線で舞台を眺めている。「ここから、じゃあ次は」「ちょっと待って」 京介が入っていったのに気づいていたのだろう、男はちらっとこちらを見やった。 明るい茶色の髪は長めで耳の後へ撫で付け、軽く合わせただけの襟元には細めのタイ、大石のかっちりとした安定感と対照的な華のある気配だ。「その後はこの前の通りでいいから」 わかった、と頷いてなおも別の部分を確認しようとする担当者に、すっと骨張った指先を上げてとどめる。「もう桜木通販の真崎さんが来られてる」「え? ああ、これは」「いいですよ、まだ」 急いで振り返る担当者に、京介は微笑みながら近づいていった。「順調みたいですね、志賀さん」「ええ、まあ」 ちょっと、ここだけ確認しといて。 志賀は担当者に指示を与えて去らせると、ゆっくり振り返った。「初めまして、ですよね?」「お名前は伺っています」 静かに頭を下げると、相手が一瞬険しい顔で睨み返した。 あからさまな敵意、大石からも向けられたことのない激しい対抗意識に違和感を覚えて笑み返す。「何か?」「高崎、さんは来ないんですか」「彼は今他の打ち合わせ中です」「余裕なんですね」 彼が担当なんでしょう?「ええ、そうですよ」 高崎は今鳴海工業に出向いている。『夕べ一晩付き合ってきました』 朝の一報で高崎は明るく笑った。『あのじーさん、強いの何のって』 一升瓶片手にしていったんですが、二人で三本転がしましたよ。 鳴海が酒に強いだろうとは以前に出かけた時に隅に酒瓶のケースが積み上がっていたことから想像はしたが、高崎がそこまで強いとは知らなかった。『これだけ楽しい酒を呑んだのは久しぶりだって嬉しそうでした』 俺も楽しかったですよ、いろんな話が聞けて。 高崎を鳴海にあてたのはこの先の「デザイナーズ」の展開を考えてのことだったが、思った以上に相性が良かったようだ。「大事な取引先なので、彼に出向いてもらいました」 京介はにこやかに笑う。「今朝もそちらへ寄ってから、こちらへ来るはずです」「そうですか」 志賀は一瞬寄せていた眉を少し緩めた。ほっとした、そう言いたげな顔が、京介の凝視にはっとしたように元の無表情を取り戻す。「だから、まだ合わせて頂いていいですよ?」「いや、もう済みましたから」 志賀がそっけなく手元のファイルを閉じる。「わざわざ手の内を見せる馬鹿はいないでしょう」「じゃあ僕はその馬鹿なんですね」 訝しげに振り向く志賀にステージへゆったりと視線を投げる。「僕はあなたにこちらの舞台を見てもらっておいた方がいい、と考えてますから」「……自信ですか」「成功を望むからですよ」 志賀がまた神経質そうに眉を寄せた。「僕が望むのは『ニット・キャンパス』の成功。そのためにお互いに潰しあう必要はないでしょう」 刺激しあってよりよいものができれば、それに越したことはない。「……あやういと聞いていますが」 少しためらった後、志賀が目を細めた。「今回の成功にはあなたの地位がかかっていると」「地獄耳なのは大石さんですか」 京介はくすりと笑い声を響かせた。「それはそちらもでしょう? 『Brechen』の進退もこれにかかっているのでは?」「イベント一つで揺らぐ組織じゃありませんよ」 すぐさま言い返したものの、志賀がより冷ややかな視線になったところを見ると満更外れていないらしい。「最後のウエディング、黒ではかなり厳しいんじゃないですか」 舞台のセッティングにそれとなく視線を促しながら、もう一押しすると、「別に」 志賀は吐き捨てた。「白、ばかりが祝いの華やかな席にふさわしいというわけじゃないでしょう」 黒だって。 一瞬、奇妙な沈黙が溜まって、あれ、と思ったとたん、「すまん、志賀!」 背後から大声が響いて振り返ると、後の客席の間から駆け下りてくる白いカッターシャツ姿があった。 **************** 今までの話は こちら
2026.06.22
コメント(0)
**************** 京介と過ごした夜の濃密な甘さに蕩けた後、お互いを抱き締めあって布団に潜りながら交わす会話は優しかった。「海、でしょ?」「うん」「真っ白な、海」「そう」「京介が見てるの、見えました」「美並も見てた?」「綺麗でしたね」「綺麗だったね」「あんなのが見えたの初めてです」「僕も」 熱を交わすだけではなくて、この時間があるから人は、繰り返し体を求めるのではないか。 磨かれて静謐な感覚で、美並はまだ頬を染めて嬉しそうな真崎を見つめる。「また見たいね………美並?」 沈黙した美並に真崎は敏感に反応した。 静かな海だった。思い出すと気持ちが広がり心が和む。 けれどそれだけではなくて、そこで美並は何者かに出会った気がした。 出逢った何者かに強く励まされた気がした。 進もう、前へ。「話さなくちゃいけないことがあります」 ごくり、と真崎の喉仏が動いた。さっきまで切ない声をあげ続けていた部分だと思うと気恥ずかしくて、照れ臭い。それでも冷静になりたくて、布団を押し開けると、真崎も手を添えてくれた。「……ひょっとして……もうこれで終わりとか、そういうのじゃないよね?」 不安そうな声に微笑む。「孝さんのことです」「孝?」 真崎が眉を寄せた。すぐに熱を落として静かな色をたたえる瞳に、少し惚れ直す。「孝さんを殺した犯人」「うん…」 続くことばを真崎は受け止められるだろうか。「私が捕まえられるかもしれません」「捕まえる…」 繰り返しても顔が呆然としている。 かもしれない、でない。捕まえるつもりだ。 わたしのいみはなんですか。 真崎に求めるものではなかった。自分で証明しなくてはならなかったのだ。 見えないものを見てきた。 それが美並のありようで、そのようにしか生きられないなら、それを全うすることで意味が見えて来るのかもしれない。「だから、京介……この指輪を預かっておいて下さい」 汗で濡れた指から、そっと指輪を抜き取った。 真崎はきっと誤解している。顔色がもう真っ白だ。 それでも約束でき、願うことができるのは一つだった。「京介、そこに居て下さい」 伝えたい。伝わってほしい。 今ほど真崎を望んだことなどない。 シャワーを浴びながら、周囲の光景が粉々に崩れて行くような喪失感を味わっていた。その足元に、ただ、真崎の存在があるのを感じ取っていた。 だから。「どうか、お願い、そこに居て下さい」 指を絡め、真崎の手を額に当てて懇願する。「無理を言っているのはわかっています。京介が不安なこと、辛いこと、大変なこともわかっています。けれど……私に行かせて」 誰にも見えない姿を、誰でも見える姿に浮き彫りにするために。 誰にも触れられない真実を、誰もが掴める現実にするために。「美並………っ」 滲んだ涙を見られたくない、そんなちっぽけなプライドがまだ邪魔をする。 首に吸い付き、跡を残した。「京介……京介」「あ…あ」 震える声をあげて、呆然としていた真崎が自分を引き寄せてくれて。 擦り寄った体の耳を含んで声をあげさせ、微笑んで涙した。 戻らなくては。 ここへ絶対戻らなくては。 『誰か』を認識できなくなるような日々に落ち込む前に。 とろけた顔で目を開けた相手を見つめ、溢れる涙に構わず呟く。「愛してます」 真崎が息を呑む。「あなたを」「…み」「誰よりも、大事に想ってる」 もう一度、刻印を重ねる。「待って……る…っ」 喘ぎながら誓う声に頷いた。「君だけを待っている、ずっと、ここで」「……京介…っ」 もし、二度と帰れない旅路に向かうとしても、真崎は同じ答えをくれるだろう、美並が待って欲しいと願ったのだから。 その信頼に、胸が詰まった。 **************** 今までの話は こちら
2026.06.17
コメント(0)
****************「大…丈夫…だよ」 抱かれる前の低い声が囁いた。 響いた途端に耳の奥から震えが走って、背筋が絞りあげられる。(中略) 同時に滴り落ちた白銀の雫が一気に広がり美並を満たし。「……っ!」 突然世界が全て真っ白な海になり飲み込まれた。 深く押し込まれ息もできなくて喘いでもがく、その指先さえ摑まれ含まれ吸い尽くされる。 何も掴めず、何にもすがれず。 海と一体化して、揺れる。 その感覚だけが。「……体が…無い…」 美並は呟く。 風が心地いい。 爽やかな香りが空気を満たしている。 意識は白銀の海を漂っている。 視界には映らないけれど、真崎もどこかで眺めていると感じた。 気持ち良さそうな横顔が浮かぶ、風に前髪を遊ばせながら、目を細めて微笑んでいる。 何もかも、脱ぎ捨ててしまったから。 ふいに誰かが囁く。 ここには『中身』しかこれないの。「…誰……?」 くすくす。 優しい笑い声だった。 ずっと一緒だったわ。「…誰と?」 くすくすくす。 ずっと一緒に、泣いたり笑ったり、怒ったり寂しがったり。 楽しいのよ、ありがとう。 ようやくここまで、来てくれたのね。「……誰なの…」 ずっと一人で生きて行くつもりだったわ。 声は歌うように呟いた。 だって、こんな『中身』なんですもの、誰とも交われないと思ってた。 だからここへも、来れるはずがなかったの。「…」 ずっと一人で生きて行くつもりだったの。 けれど、あの日。 白い海に真紅の花びらが浮かび上がって息を飲む。 落ちた命を見た時から。 風が冷えた。 チリンと遠いどこかで鈴が鳴る。 静まり返る土の上。 白雪に埋まる紅椿。「…」 恨んだことなど一度もない。 ただただ一人で行くんだと、そう心に決めただけ。 けれど、あの椿を救おうと思ったから、命に意味が生まれたの。「…わたしのいみはなんですか…」 くすくす。 わかっているでしょう? 声は静かに問い返す。 わかっているから、ここにいるんでしょう? この『美しい世界』を知っているでしょう? ならばするべきことは一つ。「…っつ」 ざあっと強い風が吹いて視界が一面の銀杏で満たされる。 渦巻く黄金が一瞬途切れた彼方に、仁王立ちになった一人の少女が、腰に手を当てもう片方の掌でメガホンのように囲った口から声を届けようと叫んでいる。 ゴー、美並! 走り出して。 **************** 今までの話は こちら
2026.06.16
コメント(0)
**************** まるで、お互いの体を確かめているようだ。(中略) 日常生活で身につけて使い慣れた『ほどほどの距離』を少しずつ切り捨て近づけて行く。(中略) 全く見も知らぬ制御できない広がりが背後にあって、体が震えた。 本能が嫌がる、突き飛ばされたら戻ってこれない。 **************** 今までの話は こちら
2026.06.15
コメント(0)
**************** 戻った部屋では真崎がバスローブを着たままコーヒーを淹れていた。 出会った時より少し肩周りが大きくなり、体の厚みが増した気がする。『あなたには、その力を使わなくてはならない責務があるんだ、見殺しにされようとしている正義のために!』 有沢の声が耳に戻った。同時にその接近から美並を庇った冷徹な声も。『彼女の婚約者ですよ』 社会正義の名の下に美並を縛ろうとした有沢は、自分が追い詰められた同じ力を美並に向けているとは気づいていないのだろう。力とはそういうものなのだろう。 行使している時にはその是非を問わず、振るわれて初めて良心に響く。「…美並」 気配に気づいた真崎が振り返り、甘い笑みを浮かべた。「……嬉しいな」「え?」「君が……バスローブ着て、僕の部屋に居る…」 二つのカップを手にして微笑む真崎は目を細めて頬を染め、幸せそうだ。「…いい香りですね」 一瞬、涙が吹き零れそうになって美並は汗を拭うふりをして髪を掻き上げた。 誘われてソファでコーヒーを飲む。寄り添って座りながら、真崎が何度も美並を見つめる。 最後の一口まで見つめられたまま終えて、待ちかねたように覗き込まれる。「もういい?」(中略) 今度は美並が明け渡す番。 **************** 今までの話は こちら
2026.06.14
コメント(0)
全5269件 (5269件中 1-50件目)