読書案内「水俣・沖縄・アフガニスタン 石牟礼道子・渡辺京二・中村哲 他」 20
読書案内「鶴見俊輔・黒川創・岡部伊都子・小田実 べ平連・思想の科学あたり」 15
読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
読書案内「リービ英雄・多和田葉子・カズオイシグロ」国境を越えて 5
映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 6
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大岡玲「一冊に名著一〇〇冊がギュッと詰まった凄い本」(日刊ゲンダイ) 今回の読書案内は、著者が大岡玲、お名前はアキラとお読みするそうですが、詩人の大岡信の息子さんで、所謂、二世作家のお一人。30年前の芥川賞作家で、芥川賞をおとりになった時に読んだ記憶が幽かにありますが、お名前をオオオカレイと読んでいたところを見ると、少々怪しいですね。 市民図書館の新入荷の棚で見つけて、書名の迫力(笑)! に押されて借りてきました。「一冊に名著一〇〇冊がギュッと詰まった凄い本」(日刊ゲンダイ)です。 スゴイ! でしょ(笑) 2019年四月から2022年八月まで、「日刊ゲンダイ」という夕刊紙上に連載されていた「熟読乱読世相切り」というコラムを、寺田俊治という編集者とのコラボで再編集した本で、時事批評と書評のコラボでもあるわけで、連載時期をご覧になればすぐに浮かぶと思いますが、コロナ騒ぎの世相に対して60代の作家であり、書評家であり、大学教授でもある人が「何を、どんなふうにお読みになって、どんな感想をお持ちになったのか?」 が、まあ、ボクの興味だったのですが、この方、信用できそうですね(笑)というのが結論でした(笑)。★100書評、読んでから読む、100名著。 ネット上で見つけたコピーです。すでに読んでいて、と、まだ読んでいないので、のダブルミーニングですが、100冊全部を載せるのは面倒なので、書評を読んでいて「すでに読んだ=●」、「オッとこれは知らんな=★」で、興味を感じた作品を抽出してみました。 まあ、「読書案内」というこのブログは、案内本へのお誘いが、一応、コンセプトなのですね。というわけで、まあ、この本、一度手に取ってご覧になればいかがでしょうというのがねらいなのですから、もう少し要領よくということなのですが、ボクは、所謂、書評集というの好きで、読んだ、読んでないと自己満足というか、今後の計画というかに浸るタイプなのですが、最近の新訳ブームの本に目配りというか、宣伝というかが、最近覗かない今の書店の棚に対応しているところも、この書評集のいい所ですね。Part1 知恵と知識の博覧会! 専門家の著した傑作 29編 第1章 時には専門家の書いた傑作で「知ったかぶり」も悪くない●池内紀「となりのカフカ」(光文社新書)●白川静「漢字百話」(中公新書)★義江明子「つくられた卑弥呼」(ちくま学芸文庫)★メアリー・ローチ「死体はみんな生きている」(NHK)★原武史「平成の終焉」(岩波新書) 第2章 歴史とは探検・探索するもの。最後に闇が残るのも、悪くない●司馬遼太郎「幕末」(文春文庫)★新井勝弘「五日市憲法」(岩波新書)★酒井シズ「病気が語る日本史」(講談社学術文庫) 第3章 言葉の重みに真正面から取り組む●谷川俊太郎「定義」(思潮社)●丸谷才一「ゴシップ的日本語」(文春文庫) 第4章 科学は実に愉快である★「ウンコどこから来て、どこに行くのか」(ちくま新書)★大久保奈弥「サンゴは語る」(岩波ジュニア)★中田兼介「クモのイト」(ミシマ社) Part2 やっぱり凄い古典的名作 26編 第5章 名作を再読する悦楽。そこには必ず発見がある●カミュ「異邦人」(新潮文庫)●開高健「ロビンソンの末裔」(新潮文庫)★マーガレット・ミッチェル「新訳 風と共に去りぬ」(岩波文庫)●サガン「悲しみよこんにちは」★田辺聖子「人間嫌い」(新潮文庫)●芥川龍之介「羅生門・鼻 他」(岩波文庫)●パール・バック「大地」(新潮文庫)●ディケンズ「クリスマス・キャロル」(光文社古典新訳文庫)●さいとうたかお「ゴルゴ13」 第6章 混迷の時代の今だからこそ、あらためて読みたい古典●ヴェーバー「職業としての政治」(岩波文庫)★大岡玲訳『今昔物語集』(光文社古典新訳文庫)●マルクス「共産党宣言」(光文社古典新訳文庫) 第7章 古代中国のロマンに思いを馳せる●司馬遼太郎「項羽と劉邦」(新潮文庫)★吉川幸次郎「完訳水滸伝」(岩波文庫)Part3 この世界のリアルを描く 21編 第8章 この時代に生きる人々を観察し、記録し、考える●ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)★石井光太「本当の貧困の話をしよう」(文藝春秋) 第9章 複雑にして怪奇な世界を読み解く★トッド「世界の多様性」(藤原書店)★筒井清輝「人権と国家」(岩波新書)★末近浩太「イスラーム主義」(岩波新書) 第10章 政治を政治家だけにまかせてはいけない★長谷川櫂「文学部で読む日本憲法」(ちくまプリマ―新書) 第11章 ユニークな戦争モノを掘り起こす●ヘラー「キャッチ=22」(ハヤカワ文庫)★安田浩・金井真紀「戦争とバスタオル」(亜紀書房)●こうの史代「この世界の片隅に」(双葉社)Part4 人生の愉しみを語る 11編 第12章 人はなぜ旅に魅かれるのか●内田百閒「第一阿房列車」(新潮文庫)★黒川創「旅する少年」(春陽堂)●中島敦「山月記・李陵」 第13章 呑んで、食べて、愛して★辻静雄「舌の世界史」(復刊ドットコム) 第14章 芸能界の面白さは、洋の東西を問わず●小林信彦「日本の喜劇人」(新潮社)★サミー・デイヴィス・ジュニア「ハリウッドをカバンにつめて」(ハヤカワ文庫)Part5 作家の魂に触れる 13編 第15章 本の中の登場人物に惚れる●ハメット「血の収穫」(創元推理) 第16章 この著者の意気地が好きだ●阿佐田哲也「麻雀放浪記」(文春文庫)●杉浦日向子「ベスト・エッセイ」(ちくま文庫) 第17章 懐古から予見まで。数奇な作品に光を当てる●田宮寅彦「足摺岬」(講談社文芸文庫)★シェリー「フランケンシュタイン」(光文社古典新訳文庫)とまあ、こういう感じでした。いかがでしょうかね? 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.07.07
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池内紀「101冊の図書館」(丸善ライブラリー101) 本棚から転がり落ちて来たので案内しますね。2019年に亡くなってしまったドイツ文学者の池内紀さんが1990年代に「サンデー毎日」とか、茶道の雑誌だと思いますが「なごみ」とかに連載していらっしゃった書評をまとめた新書です。 書名は「101冊の図書館」で、丸善ライブラリーの1冊です。出版は平成五年ですから、1993年、30年前の本です。ふるー! というところですが、案外古びていません、というのは、紹介されている本のほとんどが、もっと古いのですね(笑)。 要するに読書エッセイの達人が、知られていそうで知られていない、まあ、まったく知らなかった本もありますが、いつの時代に持ってきても、ナルホドという名著をネタにうーん! と唸るしかないような文章を、さらりと認めていらっしゃるのを読むというわけですからね、古びませんね。 で、100冊、どんな本かということですが、ネットの書誌にも出てこないので、仕方がありません。全部写してみました。ついでに、取り上げられている作品の出版社もつけておきます。目次1 H・メルヴィル「白鯨」(岩波文庫) 2 飯島友治編「古典落語志ん生集」(ちくま 文庫) 3 尾崎士郎「ホーデン侍従」(暁書房) 4 クラウゼヴィッツ「戦争論」(岩波文庫) 5 梶井基次郎「桜の樹の下には」(ちくま文庫) 6 杉浦茂「猿飛佐助」(筑摩書房) 7 カザノヴァ「回想録」(河出文庫) 8 兼常清佐「与謝野晶子」(角川文庫) 9 柳田國男「山島民譚集」(平凡社) 10 アンデルセン「童話集」(岩波文庫) 11 R・バルト「エッフェル塔」(審美社) 12 「食道楽」(五月書房) 13 寺山修司「一握の砂補遺」 14 宮武骸骨「滑稽新聞」(筑摩書房) 15 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(河出書房新社) 16 シェイクスピア「フォルスタッフ」(白水社) 17 マクルーハン「グーテンベルグの銀河系」(みすず書房) 18 室町京之介「香具師口上集」(創拓社) 19 ガルシア・マルケス「族長の秋」(集英社) 20 宮本常一「忘れられた日本人」(岩波文庫) 21 シャイラー「ベルリン日記」(筑摩書房) 22 シムノン「メグレ警視シリーズ」(河出書房新社) 23 子母澤寛「遊侠奇談」(桃源社) 24 平岩米吉「犬の生態」(築地書房) 25 ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」(角川文庫) 26 野崎万理他「上方はなし」(三一書房) 27 モリエール「守銭奴」(岩波文庫) 28 丸山薫「帆・ランプ・鷗」(中公文庫) 29 吉田健一「私の古生物誌」(ちくま文庫) 30 辻まこと「虫類図鑑」(みすず書房) 31 コナン・ドイル「名前の研究」(新潮文庫) 32 曾良「随行日記」(小川書房) 33 セルバンテス「ドン・キホーテ」(岩波文庫) 34 三田村鳶魚「大衆文藝評判記」(中公文庫) 35 フロベール「ブヴァールとペキシュ」(岩波文庫) 36 佐藤春夫「殉情詩集」(筑摩書房) 37 滝田ゆう「寺島町奇譚」(ちくま文庫) 38 岡本一平「へぼ胡瓜」(旺文社文庫) 39 ワイルド「ドリアン・グレイの画像」(岩波文庫) 40 フロイト「夢判断」(新潮文庫) 41 和田誠「倫敦巴里」(話の特集編集室) 42 森銑三「佐藤信淵」(中央公論社) 43 魯迅「雑文集」(龍渓書舎) 44 坪内稔典「おまけの名作」(いんてる社) 45 ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」(鹿島出版会) 46 石川恒太郎「日本浪人史」(西田書店) 47 篠田一士「世界文学「食」紀行」(朝日新聞社) 48 橋本万平「狛犬を探して」(私家本) 49 アメリ―「自らに手をくだし」(法政大学出版局) 50 玉林晴朗「文身百姿」(文川堂書房) 51 ピセツキー「モードのイタリア史」(平凡社) 52 大佛次郎「パナマ事件」(朝日文庫) 53 岡本誠之「鋏」(法政大学出版局) 54 ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(法政大学出版局) 55 ベンヤミン「ドイツの人々」(晶文社) 56 名和弓雄「拷問刑罰史」(雄山閣) 57 カフカ「変身」(新潮文庫) 58 中瀬喜陽「熊野中辺路・詩歌」(熊野中辺路刊行会) 59 森銑三「明治東京逸聞史」(平凡社) 60 今官一「隅田川のMISSISSIPPI」(津軽書房) 61 カネッティ「マラケシュの声」(法政大学出版局) 62 ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(岩波文庫) 63 ゴーゴリ「鼻」(岩波文庫) 64 矢野目源一訳「ヴィヨン詩抄」(椎の木社) 65 槇有恒「山行」(五月書房) 66 尾佐竹猛「賭博と掏摸の研究」(總葉社) 67 大石真人「全国いで湯ガイド」(山と渓谷社) 68 岡本綺堂「半七捕物帖」(光文社文庫) 69 シェイクスピア「ヴェニスの商人」(新潮文庫) 70 小林太市郎「芸術の理解のために」(淡交社) 71 ジョフィン・テイ「時の娘」(ハヤカワ文庫) 72 チャンドラー「大いなる眠り」(創元推理文庫) 73 柳田國男「還らざりし人」(ちくま文庫) 74 北原白秋「日野国」(菊竹金文堂) 75 カフカ「城」(新潮文庫) 76 牧野信一「ゼーロン」(岩波文庫) 77 神西清「みいらヲカナシム歌」(文治堂書店) 78 レ二・リーフェンシュタール「回想」(文藝春秋) 79 チェーホフ「犬を連れた奥さん」(岩波文庫) 80 シュニッツラー「死人に口なし」(岩波文庫) 81 横光利一「名月」(河出書房新社) 82 南波松太郎「日和山」(法政大学出版局) 83 村井弦斎「食道楽」(柴田書房) 84 平塚武二「太陽よりも月よりも」(童心社) 85 西山松之助「しぶらの里」(吉川弘文館) 86 カネッティ「群衆と権力」(法政大学出版局) 87 橘樹まゆみ「日本の女」(晧星社) 88 エイメ「壁抜け男」(早川書房) 89 幸田文「父―その死」(新潮文庫) 90 石井研堂編「異国漂流奇譚集」(新人物往来社) 91 マリオ・プラーツ「記憶の女神ムネモシュネ」(美術出版社) 92 穂積勝次郎「姫路藩の人物像」(私家本) 93 内田百閒「東京日記」(岩波文庫) 94 レニエ「ヴェニス物語」(弘文堂) 95 木下杢太郎「食後の唄」(中公文庫) 96 伊藤整「雪明りの路」(新潮社) 97 樋口一葉「恋歌」(筑摩書房) 98 寒川鼠骨「鼠骨集」(改造社) 99 三好達治「郷愁」(岩波文庫) 100 辻まこと「山で一泊」(創文社)あとがきにかえて いかがでしょう、気になる本はありましたでしょうか?まあ、これでは味もそっけもないので、一番最後、100冊目の辻まこと「山で一泊」をちょっと紹介しますね。 辻まことという人は辻潤という餓死したアナーキストの息子ですが、お母さんが甘粕事件で大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝ですね。辻まこと自身も1970年代だったと思いますが、60数歳で自ら命を絶った人です。虫とか山とか、独特のエッセイ、絵画作品を残しています。 辻まことの作品を収めた書籍としては、みすず書房の「辻まことの世界 正 続」、「辻まこと全集 全6巻」とか、ちくま文庫の「虫類図譜」とか、平凡社ライブラリーの「辻まことセレクション1・2」とか、今では色々出ていますが、池内さんが取り上げているのは創文社の「山からの絵本」だと思います。 で、書評ですが、蒼穹 辻まこと「山で一泊」と題されていて、こんなふうに書きだされています。 静かな雨に閉ざされた夜のテントに一人いるとしよう。「実際にいま私はそうなんです・・・・めったにない貴重な時間です。」 私たちはみな生まれてこのかた「おまえは人間だ、人間だ」といわれ続けてきた。たまにそういう強制的な「契約意識」から解き放たれてみてもいい。人間の権利、義務、家庭、仕事、エトセトラ。人間、人間といい続けるほど、これは上等な生きものだろうか。「君がもしいま稜線の手頃な岩に腰をおろして、ハイマツの上を吹きぬけてくる風に吹かれているとする」 あるいは倒木にもたれて、木々の間をすぎる風の音を聴いているとしよう。そんあとき、どんな感じがするものか。サワサワと鳴る囁きにのせて。彼らの経験してきた旅の話が聴こえてこないか。谷間の陽かげに湧く小さな泉の話。そのそばの苔の香り。しばらく運んだ渡り鳥の群れのこと。話を聴くばかりでなく、ときには頼んで風に心を乗せてもらえないか。 まあ、こんな感じです。辻まことが、どこかに出てきているのか、まだなのか。まあ、よくわかりませんが、続けて写すと名前が出てきます。 辻まことはこの本の中で、福島と栃木の県境の帝釈山地で出くわしたヤマノヒトのことを書いている。世間との交渉を一切絶って山中に消えた男。その眼は茫漠としていたが異常な気配はまったくなかった。寂しい悲しみを思わせる表情があったという。ひとことも口をきかない。声だと思ったのは、小石に皮を張った古風な鹿笛であることが、あとでわかった。 もはや言葉を忘れ、気もふれてーと人はいうだろうが、はたしてそうか。計画と用意と忍耐がなければ、長い雪の中の生活を過ごしていけるわけがない。経験を推考する言葉がなくて、どうして厳しい環境を克服できるだろう。人は正気を失うと狂気とだというが、正気でも狂気でもない世界があるのではないだろうか。「文化動物」として馴育される秩序をはなれた精神状態。混乱でも混沌でもない、まるきり別の意識でもって環境に適応する。というよりも、環境の意味を変えていく、そういう精神世界があるような気がする。 と、まあ、やっぱり、辻まことがどこにいるのかわからないまま、もう少し続いて、結論はこうでした。 私は夢見ている。おだやかな晴れた朝だ。なんとなく運のいい山旅のような気がする。水筒にみずをつめ、地図をたしかめたのち歩きだす。「左うぐいす右うぐいす」、そんな草野心平を辻まことも引いている。混成林の緑の底でうごめいていると、まるで全身を緑色で染められたような気持がする。 昼すぎ、山頂。「ちょっと下った岩の上から日本海が見晴らせる。潮風が涼しい。食事にする」(P212) ね、見事なものでしょ。 まあ、こういう書評というよりもエッセイが100冊分載っていて、この本と合わせて101冊なのでしょうね。この本自体、手に入るかどうか、むずかしいかもしれませんが、いかがでしょう。 今回、目次を写しながら、一番驚いたのはこのかたですね。橘樹まゆみ「日本の女」(晧星社)。すぐにお気づきの方はえらいですね。谷根千の森まゆみさんの最初のペンネームなんだそうですね。池内訳の「カフカ全集」も、読まなきゃと思うばかり滞っていますが、ここでまたしても、「読まなきゃ本」が増えてしまいました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.13
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安野光雅「読書画録」(講談社文庫) 仕事から帰ってきたチッチキ夫人がうれしそうにカバンから1冊の文庫本を取り出して言いました。「ねえ、これ100円よ。いいと思わない?」「サラやん。」「うん、100円の棚にあってん。」「どこ行っとってん?」「元町。」「1998年やから、25年前の文庫やな。安野光雅、ようはやったなあ。」「文章は短くて、そのかわり絵がついてんねんよ。シャレてるやろ。」「もともと、もう少し大きな本やったんやろな。」「表紙は京都の三条、麩屋町のスケッチよ。」「ああ、梶井基次郎やね、檸檬やろ。難しい字で書くやつ。」 チッチキ夫人は「100円棚の救い主」 を自負しています。まあ、本屋稼業を続けてきたこともあるからでしょうね。新刊本で、売れますようにとホコリをはたいたりした本には、とりわけ情が移るようです。「まあ、あなた、こんな日盛りに並べられて、これじゃあ、あんまりね。」 というわけでしょうか。で、本日、つれかえってきたのは安野光雅「読書画録」(講談社文庫)でした。1989年の新刊ですが、1998年の3刷の本でした。 表紙の絵は、京都の三条、昔「丸善」という洋書屋さんがあったあたりです。内容は安野光雅の読書の思い出エッセイとスケッチです。 とりあえず実物をお読みいただくのがよろしいのではないでしょうか。かつては、高校の教科書の定番、梶井基次郎の「檸檬」です。梶井基次郎「檸檬」 大げさなようだがわたしは、「檸檬」を読んだあのとき以来、文学に対する考えかたが変わった。いま思い返してみると、文学にかぎらず絵や音楽についてもそうだった。再び大げさなようだが、あの時、世界を見る私の意識の曇りが晴れ、心の中に清澄な何かしらあるものが炸裂していくように思えたものだ。(後でわかったのだが、)あれは、かれが二十四歳の時の作で、「檸檬」を読んだ時点のわたしより五つは若かったらしいことは、喜ばしくも腑甲斐ないが、ともかくあの時、「檸檬は絵なのだ」と直感した。 ある時空を越える錯覚を起こそうとつとめ、それがうまくいきそうになると、「それからそれへ想像の絵の具を塗りつけてゆく」かれ、「レモンエロウの絵具チューブから搾り出して固めたやうな単純な色」「本の色彩をごちゃごちゃに積み上げ」る、いかにも静物画を配する行為などをあげて“絵だ”と言っているのではない。 作品全体の構図の緊密なこと、音楽でいえば起承転結、色彩と明暗の対比、何よりも素材の新鮮さ、などと言ってみてもいいが、そのように説明すればするほど、詩の散文的な解説にも似て、かえって「檸檬は絵なのだ」と見た直感から遠ざかってしまう。 彼は絵も描いたし、足しげく音楽会や美術館に通い、透徹した目でそれらを批評している。「中の島の貸ボートの群やモーターボートがまた如何にボート屋のペンキ絵の看板の画家に真実な表現を与へられてゐることぞ、かう思つて私は驚嘆した 綴りの間違つた看板の様な都会の美を新らしく感じた」 また「この靴問屋が靴を造つてゐるのを見て羨しかつたんです、今日は今日で電灯会社かなにかに新しい青竹の梯子がたくさん積んであるのを見て、同様の感を催しました」などと、友人にあてた手紙に書いている(このような視点は、彼の文章の随所に見られる)いわゆる画家が、自分を芸術家だと信ずるために、看板絵などを軽く見ることのすくなくなかったそんな時代に、場末の風俗や、安花火や、果物屋の店頭に、時代に先んじて美しさを発見し、 ― つまりは此の重さなんだな ― といわしめる一顆のレモンを絵にしたのである。 わたしは「檸檬」を絵だと思った。理屈はない、すばらしい絵を見たあとの気分と同じだったというのが答えである。逆に絵はこれほどの感動をあたえ得るものでなければならぬ。ということになるが、それも止むを得ない。 「多読多読、芸術家に教へて貰はなければ吾人は美を感じる方法を知らないから」 これは梶井が友人にあてた手紙の一節だが、わたしはかれからそのように教わったのである。 いかがでしょうか。この文章に、表紙のスケッチがついています。「読書画録」というわけです。 数えてみると、36の作品が取り上げられて、それぞれにスケッチがついていました。樋口一葉は『たけくらべ』で、旧吉原の大門跡、福沢諭吉は「福翁自伝」、三田のレンガ造りの校舎、正岡子規の「歌よみに与ふる書」は上野、根岸あたりです。 巻末には、取り上げた作品と作家の解説、森まゆみさん、あの頃の、森さんがボクは好きですが、その森さんとの対談も付いています。「檸檬」は京都でしたが、谷崎潤一郎の「春琴抄」の思い出では、大阪の道修町です。ザンネンながら神戸のスケッチはありません。 安野光雅が2020年に亡くなって3年経ちました。1980年代でしたか、絵本とか猛烈に流行りましたね。超流行画家だったのですが、お仕事に、なんとなく学校の先生の、細やかな気遣いが感じられて好きでした。 100円で並んでいた文庫なのですが、贅沢な本でしたね。なかなかお得でした。「救い主」のお手柄でしたね(笑)。
2023.05.21
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100days100bookcovers no83 83日目久住邦晴「奇跡の本屋を創りたい」(ミシマ社) KOBAYASIさんが今回選んだのは『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(伊集院静著)でした。幼時より居場所が落ち着かず精神的に不安定な漱石と、致命的な病にとりつかれながらも意欲的な子規との友情が丁寧に描かれた名作ですね。メンバーの会話で、この時代のことを書いている坪内祐三、関川夏央、司馬遼太郎などの名前もあがっていましたが、私たちの先輩で漱石研究者の西村好子さんも、一昨年『優しい漱石』という本を出されています。夫から借りて拝見しました。その中で子規が漱石のことを「渋柿の渋が抜けきっていない男」と書いていたように記憶しているのですが、今その本を探しても見つけられなくて。すみません。柿の好きな子規らしい漱石評が印象に残っています。 次に私が選ぶ本は、子規の好きな「柿」にゆかりのものにしたいところなのですが、なかなか思いつきません。確かSODEOKAさんが寺田寅彦の『柿の種』を取り上げられていたのは覚えているのですが…。「柿」も「八年」も今は思い浮かばないから残念だけど諦めて、子規の辞世の句で探してみることにします。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」 これこれ。「仏」ならなんとかなるのでは?「仏」と言えば、「仏」→「仏教」→「お釈迦の生まれたインド」(苦しまぎれのこじつけ。今のインドは仏教とつながらないですね。)⇒「インド」(やっとたどりつきました。)「インド」なら、(というか、無理にも)いつか出したいと思い続けていた本『シャンタラム』(グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ著)をやっと出せる。と、本を取り出してみたら、なんとこれは無理だとわかりました。なぜなら翻訳が、あの田口俊樹なんです。SODEOKAさんもSIMAKUMAさんも『800万の死にざま』も『日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この40年』ですでに取り上げられていますね。(翻訳者には、注意してなかった。) で、仕方なく、もう一度「インド」に戻ります。インドに関心を持たせてくれたのは中島岳志でした。『インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け』を読んで、ずいぶん衝撃を受けてからです。確か学生時代のでフィールド・ワークを元に書いたはずです。一言で言えば、グローバリズムの時代に、インドで、マクドナルドとヒンズー教寺院が増えている現象をとりあげたものでした。偶然読んで刺激を受けました。それ以来、中島岳志のインドものは読んでいます。 やっと本題に入ります。今回は中島岳志が強く薦めている、というより、彼自身も本作りに携わった本にします。子規の絶句→「仏」→「インド」→中島岳志→『奇跡の本屋を創りたい』(久住邦晴著 ミシマ社発行)というわけで。 ずいぶん 無理した回り道でしたが、よかったらご覧になってくださいね。 アマゾンで新刊で購入したら、帯が二枚も巻いてあり、「一万部突破」とあります。珍しく洛陽の紙価を高からしめたようですね。サイズは128×168mm、判型をなんというのか分かりません。文庫本より1cmほど高く、横幅は2cmほど大きいです。表紙装画はミロコマチコで、緑と黄いろと黒の植物の絵。葉っぱの中や上に本が並べられていたり、ふたりで絵本をみていたり、ほんを読む人が描かれています。中身の紙の色や質は、黄色い白で、滑らず、まぶしくならない。字は大きめで、句点ごとに改行していて読みやすい。軽くて手にとりやすい。子どもにも年寄りにも、有難い本。ミシマ社が念を入れて作ったのでしょう。 著者紹介は裏表紙の折り返しにあるので、そのまま写します。「1951年、北海道生まれ。1946年に父がくすみ書房を創業、1999年に後を継ぐ。読書離れに歯止めをかけようと、良書なのに売れ行きのよくない作品ばかりを集めた「売れない文庫フェア」などの試みが話題となる。「本屋のおやじのおせっかい」と題し、中高生に読んでほしい本を集めた「これを読め!」シリーズは道内各地の書店や他県にも広がった。2017年に肺がんのため死去。享年66。」 古い話ですが、自分が高校生のころは、学校の近くには本屋さんがあるものだと思っていましたが、今は駅近くにさえないことも。もう長く出版社や本屋さんの苦境を聞いていますが、特に打つ手もなく減少していっているのでしょうか。歩いて行ける範囲に本屋さんも図書館もない生活を何年もしたことがありますが、まだアマゾンもなかったし、立読みが好きな私は本当につまりませんでした。コロナ禍でいっそう引きこもりがちですが、日々の買い物のついでに本屋さんに立ち寄れる今の暮らしはありがたいです。これは、地元の本屋を残すために、悪戦苦闘して、奇跡をいくつも起こした本屋さんの記録です。久住さん(著者)の遺稿と新しい本屋の企画書と、友達の中島岳志による詳しい解説をお嬢さんの久住絵里香氏がまとめたそうです。 著者は、2003年10月27日に初めて「なぜだ⁉ 売れない文庫フェア」を開く。良書でも売れない本は本屋にはほとんど置いていない。(中小の本屋の資金力では困難だという)このままではいずれ絶版になり、「良書がどんどん消えていく」。また、全国規模の大資本の本屋の出店攻勢で「町の本屋が消えていく」。この2点をマスコミにも訴えてフェアを試みた。北海道新聞や地元TV局でとりあげられ、意外なほどの話題になる。「売れない本」を見ようと思った人が来店したついでに、売れるはずの本や雑誌などが売れるだろうと思っていたら、なんと、予想を大きく超えて、売れないはずの1500冊全部が一ヵ月足らずで売れる。 この時、実は、久住さんは店を閉める覚悟をしていた。すでに赤字経営が何年も続いているところに、高校生の息子さんを一年間の闘病にも関わらず失ったところだった。閉店準備をし取引先へその旨を伝えようとしている段階で、閉店してはならないことに気づく。(今店を閉めたら周囲の人は「息子さんをなくして力を落とされたんだろう。しかたがないなあ。」閉店は息子のせいだと思われるのだろう。…。いや、そういうわけにはいかない。絶対に閉店を息子のせいにさせるわけにはいかない。息子はあんなに苦しい思いをして頑張ったのに。不甲斐ないオヤジのせいなのに。今、店を閉めるわけにはいかない。) と思い直した。今まではやる気のなかった二代目が、倒産寸前の本屋の再生に初めて挑戦することとなった。知り合いの助言から「まずは人を集めること。そのためには売れなくてもいい。おもしろい企画を立てて、マスコミを動かすこと」と考えてフェアを計画した。狙った以上に新聞もテレビも取り上げてくれた。 翌年は、岩波書店からのリクエストを受けるほどに出版界では有名になる。第二次、第三次フェアで、岩波文庫全点とちくま文庫、ちくま学芸文庫も加え、書店内での朗読会もスタートさせた。 売り上げはアップしたが、それでも、営業を続けるには前年比150%アップさせたい。と思って店内を見ると、以前に比べて中高生がほとんどいない。業界が中学生の購買力を相手にしてこなかったことに気がつく。本を読まなくなった中学生に本屋に来てもらうための方法として、本の苦手な子が面白いと思える本の棚をつくることを考える。彼の妻も本好きで、長年 小学校の図書館でボランティアされていて、選書はもっぱら彼女がした。「本屋のオヤジのおせっかい、中学生はこれを読め!」フェアを企画したら、全国版新聞やTVでも取り上げられ、このときの選書リストは2年後に北海道新聞社からブックレットとして出版された。また、古い『数の悪魔』と言う本の人気に火がつき、出版社で4000部重版が決まったというエピソードもある。 2005年には、ブックカフェ「ソクラテスのカフェ」を本屋と同じビルの地下に開き札幌一うまいコーヒーも古本も置く。その後ここで講演会や友人中島岳志の仲介で北大の先生と市民の触れ合いの場「大学カフェ」も開く。カフェも街の文化施設としても機能し、本屋の売り上げも徐々に伸びてきた。順調。 ところが、(どうしてというか、商売がうまくいっている情報を得たら、コンサルタントとかいう職種の人が目をつけたんだろうかーDEGUTIの勝手な独り言です。)2006年4月、近くに「TSUTAYA書店」がオープン。翌2007年3月には全国一の売り場面積の「コーチャンフォー」という書店が3㎞先に出店してきた。売り上げは一挙に減り、さまざまな企画をたてても歯がたたなかった。やむを得ず、2009年9月に、今まで60年続いた琴似(ことに)の店から、20㎞離れた全く知らない大谷地(おおやち)に移転する。しかし、売り上げが思うようには伸びない。2010年7月から「本を愛する大人たちのおせっかい 高校生はこれを読め!」。2011年10月から「本屋のオヤジのおせっかい 小学生はこれを読め!」フェアをスタートさせるが、2012年にいよいよ支払い不能になる。約100万人に寄付を募る文書を送付し、1600万円集める。また、ネットやクラウドファンディングもやった。しかし、2015年6月に閉店。 この間、妻が発病する。乳がん。手術後よくなるが、2年後、大腸がん。何度も手術したが、2011年10月に57歳で亡くなる。本が好きだった妻が友人に送った最後のメールは「本はいいですねえ。」だった。久住さんの文章はこのあたりの経緯までです。 この後は小さな字で書かれています。 「※ここで原稿は終わる。 その後、2015年6月、くすみ書房大谷地店は閉店となる。 一年後、「奇跡の本屋をつくりたい」と謳い、再始動するも、その矢先に病が発覚。 2017年8月28日、永眠。」 このあと、中島岳志による詳しい解説には、久住さん自身のことだけではなく、くすみ書房の誕生から、時代状況などにも触れています。最後に久住さん自身の講演草稿と、次に作るつもりの書店の趣意書の草稿と、娘によるあとがきがあります。多くの人の手によってできた小さないい本でした。 いい本屋の一つの例を見たいと思い、中島岳志を信用して手に取った本でした。思った以上に面白く読めた。久住さんは旅立って、もうこの世には戻らないのかもしれませんが、いつまでもあきらめずに、この世で次にはどんな本屋を作りたいのか、具体的にプランを考え続ける生き方に心打たれました。 最後に書籍販売のことももう少し知らなくてはと考えています。この中に何度か少しづつ出てはくるのですが、全体としてイメージができていません。ただ、本という商品は、他の商品と比べて圧倒的に回転率が悪くて、資本がなくては在庫を抱えることができず、在庫が少ないと、客としては満足できない。大きな書店は買い取り制度面でも優遇されるけれど、中小は無理。確かに信用面でそうなるのも理解できるし自、難しいですね。自分にできることは、本を買うなら、できるだけ地元の本屋にしようということですね。私を支えてくれている本屋を支えないとね。 本屋さんに詳しいSIMAKUMAさんのうんちくがいっぱいあるのではないでょうか。ではこのあと、よろしくお願いいたします。2022・03・22 E・DEGUTI追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.10.13
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「100days100bookcovers no31」(31日目) 山村修「狐が選んだ入門書」ちくま新書) 100daays 100bookcovers challengeの30日目に、DEGUTIさんが紹介された数冊の本のラインアップを見ながらぼくが印象深く感じたのは、彼女が「お仕事の現場」で必要を感じた結果の読書だったことです。 教科書や入試問題の読解の必要からでしょうか、アダム・スミス、ケインズ、ハイエクと経済学のビッグ・ネームが並び、一方に、この国の近代化の過程で、軍隊や政治家の集まりに限らず、ぼくたちがやっているこういう小さな集まりにいたるまで、人が集まるところでは必ず醸成される「空気」に対する関心が読書の領域を広げ、最後は、いま最も新しい作家のひとりが、新しい通貨「ビット・コイン」に果敢に挑んだ芥川賞受賞作「ニムロッド」。 いってみれば、この最も新しい「経済」小説にたどり着くさまは、少々大げさかもしれませんが「感嘆」するほかありませんでした。 「そういえば、経済学どころか、『ニムロッド』にもついていけなかったなあ・・・」 などとボンヤリ、なにを引いてこようかと思案六法にふけりながら、思いついたのが「入門書」 でした。 昔の「お仕事の現場」では、教科書はともかく、入試問題なんかにかかずらわっていると突如でてくる新しい分野の評論とかに、お手上げという事態はしょっちゅうありました。 まあ、生徒が持ってくる現物に対するその場しのぎというのは、実は間に合いませんから、日ごろからの「山かけ」として、あれこれ興味のあるなしにかかわらず手に取るということはよくありました。 「地球温暖化」、「グローバリズム」、「フェミニズム」、「高齢化社会」、エトセトラ、エトセトラ…。 書き手によって「空振り」とか「敬遠気味のクソボール」というしかない文章に付き合わされると、その分野そのものに対する関心も失せてしまいます。出来れば打率を上げたい。 そこでお世話になるのは「入門書」の「入門書」、「この本を読め!」 の類だったのですが、「100分でわかる」とか銘打たれると「バカか!」と思ってしまう性分に加えて、畏敬する柄谷行人なんかが「入門書は読むな」とかいったりしているのを目にしたりすると、思わず手がとまったりもします。 出来れば、あまりにも守備範囲が狭い高校生諸君にも勧められる「入門書」を紹介している内容で、という欲を掻いた気分もありましたが、そんな本は中々ありません。「まあ、あるわけないわな」 と手がとまりかけた時に出会ったのがこの本でした。もう、十五年ほども昔のことです。 山村修「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)です。 著者の山村修という人についてですが、御存知の方には必要ないでしょうが、少し紹介します。 彼は「日刊ゲンダイ」というタブロイド紙に1981年から20年以上にわたって、毎週水曜日、「狐の書評」という匿名書評を連載していた書評家でした。 2004年当時、「狐の書評」(本の雑誌社)に始まって「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)まで、洋泉社からも二冊、逐次、書籍化されていた人気の書評でしたが、新聞のコラム書評ということもあり、800字という長さの制約が、ぼくには少し食い足りない印象でしたが読み続けていました。 2006年の秋の終わり、その「狐」が正体をあらわしたのです。のちに朝日文庫に入った「禁煙の愉しみ」や、筑摩書房で文庫化された「遅読のすすめ」、趣味のお能の愉しみを綴った「花のほかには松ばかり」(檜書店)のエッセイストとして読んでいた山村修こそが、あの「狐」であることを明かしたこの本と偶然出会ったのでした。 というわけで、まあ、その当時のぼくにとっては衝撃の一冊がだったのですが、衝撃は一撃ではなかったのです。 ぼくはこの本を書店の棚で見つけて、「えっ?おお、あの『狐』が本名をあかしている!」 と早速買い込んだのですが、2006年の10月に二刷だった新書のカヴァーには「2006年8月、死去」の文字があったのです。 死を覚悟した「狐」こと山村修が、青山学院大学図書館司書の勤めを早期退職し、「狐の書評」の集大成、山村修の最後の仕事として読者に残して逝ったのが、この、25冊の「入門書」の書評集だったのでした。 本書の「はじめに」において「入門書こそが究極の読み物である。」 と筆を起こし、「私と狐と読書生活と」と題された「あとがき」では「世の職業人でいちばん自由に読書できるのは、もしかすると、研究者でもなく、評論家でもなく、勤め人かもしれません。」 と、ぼくもその一人であったサラリーマン読者をもう一度励まし、「本書に取り上げた二十五冊の入門書には、それぞれに質が異なるとはいえ、読み手を見知らぬ界域へと導く誘引力が、時には危ういともいえる魅力が、秘められています。」 と、筆をおいた書評家の「覚悟」が本書全体に漲っています。「言葉の居ずまい」、「古典文芸への道しるべ」、「歴史への着地」、「思想史の組み立て」、「美術のインパルス」と5章立てで構成され、それぞれ5冊づつ書評されていますが、残念ながら、「科学」の分野はありません。 当時、この25冊が「ボンクラ教員」の、新たな指標となり、そのほとんどが生徒向けの「読書案内」のネタになったわけです。 取り上げられているラインアップは本書を手に取ってお探しいただくとして、ぼくにとっては藤井貞和「古典の読み方」(講談社学術文庫)、岡田英弘「世界史の誕生」(ちくま文庫)、岩田靖夫「ヨーロッパ思想入門」(岩波ジュニア新書)、辻惟雄「奇想の系譜」(ちくま学芸文庫)あたりが、今思えば、あきらかにその後の読書の流れを新たに作り出す、まさに入門書! として初登場、あるいは、再登場したわけです。 ちなみに「経済学」では、アダム・スミス、カール・マルクスの研究者で稀有なモラリストというべき内田義彦「社会認識の歩み」(岩波新書)にこの本で再会したのも思い出深いですね。 さて、本書に戻ります。「だが、突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続する陶酔があれば、あれで充分だった。」(「慰め」ローガン・ピーアソール・スミス)「はじめに」の中にこんな詩句の引用がありました。30年にわたるサラリーマン生活を「匿名書評家」として生きた「狐」の白鳥の歌 が聞こえてくるようです。それぞれの書評はこの主旋律の、いわば、オブリガート(対旋律)だったということを感慨深く思う今日この頃です。 それではYMAMOTOさん、よろしくお願いします。(2020・07・19・SIMAKUMA)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.31
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「100days100bookcovers」(13日目)田中美穂 『わたしの小さな古本屋』(ちくま文庫) 前回の『風の谷のナウシカ』からどう繋ごうか、と考えていたとき、「蟲」の文字で閃きました。そうだ、「蟲文庫」があった。 しかも、そろそろこのへんで女性の著者を、というひそかな希望も叶えることができます。 田中美穂『わたしの小さな古本屋』(ちくま文庫) 倉敷の美観地区の片隅で古書店「蟲文庫」を営む田中美穂さんのエッセイです。古書店は私にとって「好きな空間」のひとつで、古書店をめぐる小説やエッセイも大好き。たまたま出会った1冊ですが、田中さんの、なにも標榜せず、ただ淡々と自分の信じた道を迷わず歩む日常が、気負いのない穏やかな文章で綴られていて、愛読しています。 21歳のときに勤め人を辞めた田中さんは、ほぼ即日、古本屋を始めることを決心します。知識も資金も存分ではない状態で、店を探し、棚を作り、最初は売る本も少なくてスカスカな日々、古書店のあがりだけでは食べていけなくて、店を閉めたあとの時間は郵便局のアルバイトに精を出し、なんとそれが10年も続きます。売る本が足りないときは、お菓子やグッズ、自分で制作したトートバッグなどを店に置き、店内をミュージシャンに弾き語りのスペースとして提供したりしながら、コツコツと店を続けてきました。今では書店や古書店がほかのものを売ったり、講演会をしたり、コンサートをしたりする業態は珍しくなく、しかもオシャレなイメージですらあるのですが、田中さんはもう30年近く前から、「オシャレ」とは無縁に、店を継続するひとつの方法としてそうしてきたのです。 田中さんは知り合いの人から「あなた一日二十七時間ぐらいあるでしょう?」と言われたことがあるそうです。「店番が好き」と本書の中でも何度も書いている田中さんにとって、自分の店の中で本と過ごす時間はよほど豊穣だったのでしょう。彼女は、店番のかたわら、もともと深い興味を持っていた「苔」の観察を始め、ついに『苔とあるく』という本まで出版します。いまでは「苔に詳しい人」という顔も世間に知られるようになり、亀にも詳しいことから「苔や亀の相談所」のように蟲文庫を訪ねてくる人もあるそうです。『胞子文学名作選』というカルトな書物も編んでいます。岡山出身の作家、ことに好んで読む木山捷平を世間に紹介する役も果たしています。本に関わることの楽しさ、本と人との思いもかけない繋がりが、本書にはあふれています。 この本を読んだ翌年、義父の法事で岡山へ行ったときに蟲文庫を訪ねました。美観地区のなかの古民家の一室で営まれている小さな本屋さんです。田中さんは無口で(きっとシャイなのでしょう)、話したのは購入した本のお勘定をしたときだけでしたが、私も世間話が苦手な方なので、放っておいてもらえる雰囲気も含めて、居心地の良い空間でした(ただときどき、古書店だと意識しないで入ってくる観光客のわさわさした空気は苦手でしたが)。 このとき何冊か買いましたが『苔とあるく』を買いそびれたので、必ずいつか、この本を買うために倉敷の蟲文庫を再訪したい。街から古書店がどんどん消えて行く昨今ですが、未来のささやかな楽しみを描ける古書店があることは、古書店好きにとって幸福なことだと思います。 長々と書いてしまいました。KOBAYASIさん、またまた繋ぎにくいかもしれませんが、どうぞよろしく。(2020・05・30 K・SODEOKA) 追記2024・01・20 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.18
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津野海太郎 「最後の読書」(新潮社) 津野海太郎という名前に最初に気付いたのはいつだったのでしょうかね。いつだったか、劇団「黒テント」のパンフレットで演出家として名前を見た時に「ハッ?!」とした記憶があるからそれ以前で、多分、学生時代です。その頃彼は晶文社という出版社の編集者だったはずで、この本でも装幀している平野甲賀の独特のロゴで、そして、あの犀のマークで、リチャード・ブローティガンとか高橋悠二の「水牛通信」とかを作っていた人ということは知ってた記憶がありますから、まあ、その頃からですね。もう、40年くらい昔のことです。名前は知っていて、作られた本にもお世話になっていて、でも、本人の著書は一冊も読んだことがありませんでした。この本がはじめてです。 この本は新潮社のウェブ・サイト「考える人」に連載されていて、評判になっているエッセイが紙の本になったものです。 第1回は2017年の5月8日の日付ですかが、「読みながら消えてゆく」と題されて、哲学者鶴見俊輔の最晩年の日々の読書について書き始められています。 話しは鶴見俊輔の書き残したメモから始まります。 七十に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。 これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。(鶴見俊輔「もうろく帖」) その後、このメモは「もうろく帖」と題してSUREという出版社から書籍化されますが、津野海太郎はこの本を丁寧に読み解きます。 で、鶴見俊輔が生涯最後に書き残した短い文と、その最後の姿にたどり着きます。倒れる直前の、最後のメモの日付は2011年10月21日。「私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい」(鶴見俊輔「もうろく帖」) そのあと、星じるし(*)をひとつはさんで、編纂者(もしくは家族のどなたか)の手になるこんな記述が付されている。二〇一一年一〇月二七日、脳梗塞。言語の機能を失う。受信は可能、発信は不可能、という状態。発語はできない。読めるが、書けない。以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、翌年四月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。 二〇一五年五月一四日、転んで骨折。入院、転院を経て、七月二〇日、肺炎のため死去。享年九三。 名うての「話す人」兼「書く人」だった鶴見俊輔が、その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態のまま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。 ここから津野海太郎は「最後の読書」について考え始めます。もちろん、彼の思考のモチーフとしてあるのは「年齢」あるいは「老化」ということです。 そして、もう一つは鶴見俊輔に対する敬意であり、そこにこそ、ぼくにとってこのエッセイが手放せない理由がありました。 彼は、少年時代からの「雑読多読」の天才少年鶴見俊輔についてこんなふうに考えて行きます。 いくばくかの誇張があるかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、当時、かれが日本一のモーレツな雑書多読少年だったことはまちがいなかろう。こうした特異な読書習慣は、15歳で渡米したのちは外国語の本も加えて、その後も途切れることなくつづく。そしてその延長として、話す力や書く力を完全に失ったのちも、鶴見は最後まで、ひっきりなしに本を読みつづけることをやめなかった。すなわち発信は不可能。でも受信は可能――。 ――ふうん、もしそういうことが現実に起こりうるのだとすると、老いの底は、いま私が想像しているよりもはるかに深いらしいぞ。 ショックを受けてそう思い、またすぐにこうも考えた。もしこれが鶴見さんでなく私だったらどうだろう。たとえかれほど重くなくとも、遠からず私がおなじような時空に身をおく確率は、けっこう高い気がする。そうなったとき発信の力を欠いた私に、はたして3年半も黙々と本を読みつづける意力があるかどうか。 いまのところ「ある」といいきる準備は私にはないです。でも鶴見俊輔にはあった。どこがちがうのかね。そう思って晩年のかれの文章をいくつか読んでみたら、2002年(脳梗塞で倒れる9年まえ)にでた『読んだ本はどこへいったか』中の「もうろくの翼」という文章で、こんな記述にぶつかった。 ふだんは自分の意志で自分を動かしているように思っていても、その意志を動かす状況は私が作ったものではない。(略)今、私が老人として考えているのは、何にもできない状態になって横になったときに、最後の意志を行使して自分に「喝」と言うことはできるのかという問題です。(鶴見俊輔「もうろくの翼」)おわかりでしょう。 すでにこの時期、鶴見さんは「何にもできない状態になって横になった」じぶんを思い浮かべ、そのステージでのじぶんの行為が「自分の意志」(自力)によるものなのか、それとも老衰をもふくむ「状況」(他力)にもとづくものなのかを、最後の病床で、実地にためしてみようと考えていたらしいのである。 ここまでたどり着いて、津野海太郎は鶴見の晩年の読書の「意志」を称えながら、それを支えたある重要な言葉を思い出します。 それは幸田露伴の娘幸田文が「勲章」という作品に書き残しているこんな言葉でした。書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。(幸田文「勲章」) この文を、鶴見俊輔が誤読しているのではないかという興味と共に、ここからエッセイは第2回「わたしはもうじき読めなくなる」へと続いて行きます。 エッセイストとしての手練れの技というべきかもしれませんが、鶴見俊輔から幸田文へと話がすすめば、鶴見のより深い地点が探られるに違いないという興味とともに、あの幸田露伴の晩年が語られるに違いないのです。 もう、ページを繰る手を止めることはなかなか難しいのではないでしょうか。 本書にはウェブ版「最後の読書」第17回「貧乏映画からさす光 その2」までがまとめられています。 そこでは映画「鉄道員」と須賀敦子の関係が、彼女の夫ペッピーノや彼の家族の生活、コルシア書店での活動を探りながら語られています。 老化を笑うユーモアを配しながら、「最後の読書」などとうそぶいていますが、選ばれたラインアップは、ぼくにとって「これからの読書」を穏やかに煽る刺激に満ちていました。 まあ、すでに老眼鏡必携の前期高齢者なのですがね(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.13
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【BookCoverChallenge no7】草森紳一「本が崩れる」(中公文庫)【7日間ブックカバーチャレンジ】(7日目)(2020・05・27)です。 神戸の垂水の本屋さんで買ったレイ・ブラッドベリから始まりました。「焚書」、「印刷」、「装丁」、「図書館」、「批評」、「出版社」と「本」について思い浮かぶ子、あれこれについての「本」を紹介してきました。今日が、とりあえず最終日ですね。 最後はやはり、あれですね。こうなると、この本を紹介せずにはいられませんね。本といえば「蔵書」ですよね。普通の人は図書館に頼ります。でも、図書館では辛抱できない人がいるんです。 で、「本に埋まる」ということが起こります。そして、その本が崩れ、本の下敷きになるという地獄なのか、極楽なのかわからないことが起きるのです。「崩書」なんていう言い方はありませんが、「本」への蘊蓄がうれしかった最終日にふさわしいのは「本に埋まった」はなしです。この本ですね。 草森紳一「本が崩れる」(中公文庫) 写真を見ていただければ、お気づきでしょうが、これはネット上から借用した写真です。たしかに持っているはずの本がないのです。見当たらない理由は、明らかです、読んだのはこの一年以内ですが、何処に置いたのかわからないのです。 で、amazonで注文したのですがまだ届きません。まあ、この買い方にも危険な兆候はありますが草森紳一に比べれば可愛いものです。 フェイスブックに投稿した後、「物」が届きました。写真は手元の本をスキャナーで撮ったものに差し替わっています。まあ、どうでもいいことですが。 で、話を戻します。草森紳一はマンガから映画、中国文学、漢詩からナチスの宣伝手法に至るまで博覧強記の人です。読むと物知りになれますが、深すぎてついていけないこともしばしばあります。要するに、ちょっとめんどくさい人なのです。 懐かしい本ですが、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」(新潮文庫)という1960年代に出た、懐かしいエッセイ集があります。天才伊丹十三のデビュー作みたいな本ですが、その編集者が草森紳一だったんだそうです。見える人には始めから見えていたんだなあ、って思いませんか? 2008年に亡くなりましたが、東京は江東区、門前仲町の2DKのマンションに3万冊余りの本! と暮らしていらっしゃったそうです。この本は、そのマンションで入浴中に脱衣所の本が崩れ落ち、風呂場での孤独な餓死の危機から、いかにして脱出できたのかという冒険譚がメインの随筆集です。 常識人である我々には、脱衣所にどれだけの本が積んであれば、浴室の外開きのドアが開かないなんてことが、起こりうるのか想像することもできません。 記憶する限り、彼は一時間やそこらで出られたわけではありません。もう必死だったようです。かなり、笑えます。 ちなみに、我が家のドアは内開きです。もちろん脱衣所にはチッチキ夫人が浴室に持ち込む本以外ありません。 松岡正剛の千夜千冊(1486夜「本が崩れる」)にも取り上げられています。詳しく知りたい人はそちらを検索してみてください。 そういえば思い出しましたが、神戸の震災の時に勤務先の高校の図書館の棚は、閲覧室も書庫もすべて倒れていました。一部の図書は回収しましたが、大半は取り壊された校舎と一緒に廃棄されました。 建物の内部のコンクリートの壁に「Z」の文字状の亀裂が入っていたことが印象深いのですが、工事用のバールを担いで書庫を探検し、「朝永振一郎著作集」(みすず書房)を救出したことを覚えています。 電灯もないのに、棚がすべて倒れて明るくなった閲覧室の惨状を眺めながら、「本」というものは棚と一緒に崩れてしまうと手が付けられないということを実感したの覚えています。 「本」を捨てることが平気な人には想像がむずかしいかもしれませんが、草森さんのマンションの3万冊という本の量は、普通の高等学校の閲覧室の冊数より多い数です。だいたい教室というのは四十畳くらいの広さだと思いますが、図書館は普通、教室二つ分くらいの広さです。 草森さんは持っているはずの本を、はたして、自由に読めたかどうか、いや、それ以前に彼自身の生活空間があったのかどうか、想像すると笑い話ではなくなってしまいそうです。 というわけで7日間のチャレンジ終了です。 最終日の今日はキュートなヤングママ、「編集」と「四こまマンガ」のプロ(ちがうか?)の通称「小枝ちゃん」にバトンを渡して、再見! で、皆さん、明日から新しいチャレンジ「100days100 bookcovers」を始めます。メンバーはT・小林 くんとK・袖岡という三人です。港町神戸の丘の上にある学校の文学部文学科、国文学読書室、40年ぶりのおしゃべりトリオのチャレンジです。おもいつき第一回は小林君でーす。そういえば、小枝ちゃんも後輩だったような気がしますね。 というわけで、ゴジラブログ「BookCoverChallenge」のコーナーはしばらく続きます。みなさま、またのお越しををお待ちしています。是非お楽しみください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.27
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【BookCoverChallenge no6】 三島邦弘「計画と無計画のあいだ」(河出文庫)【7日間ブックカバーチャレンジ】(6日目)(2020・05・25)です。 今日は「本」を「作って売る」出版社を、たった一人で作ってしまった人のお話しです。ヤッパリ「本」の話をするなら、思い出の文芸路線かな、なんて思いながら棚を見ていて、いやヤッパリこれにしようと路線変更しました。 「本」は書く人、それを出版する人、本屋に運ぶ人。それを売る人で出来ているわけで、出版社抜きには考えられません。普段は気付かない出版社のご苦労を聞いてみようというわけです。 三島邦弘「計画と無計画のあいだ」(河出文庫) 2006年のことですから、今から15年ほど前にたった一人で出版社「ミシマ社」を起業した男の話です 実家の破産、勤めを辞めてヨーロッパを放浪、帰ってきてつとめたNTT出版から逃げだして、起業するという暴挙に出ます。普通は失敗しますよね。しかし、「ミシマ社」は最近では内田樹とかの版元で頑張ってます。どうも、そこそこうまくいっているようです。どうなっているのでしょね。 前書きで三島邦弘はこう言っています。「いろいろな人のいろんな話」がミシマ社に落とされるのも、いま自分たちがいる「こっち」の世界に広がりを感じてくださっているからではないか。 ここで、「こっち」というふうに言っているところはどこなのでしょう。それを考えるには、本の出版・流通・販売のあらすじをたどる必要がありそうです。 一応前置きで断っておきますが、ここから書くことはぼくが知っているつもりのことであって、正確な事実ではありませんのでご注意ください。 ここで書店に並んでいる本の価格を1000円と考えます。その価格の取り分はどうなっているのでしょう。思い当たる費用負担者と負担率はこんな感じです。 出版社原価(紙・印刷・製本・編集・出版・広告・倉庫)40%、作家・著述者(著作料)10%、取次会社費用30%、販売書店費用20%。大雑把に言えば、こんな感じでしょうか。実際は取次費用はもっと多く、小売店費用はもっと少ないと思います。 具体的な数字で言えば、本屋さんは1000円売って多くて200円の商売です。 本は再販商品ですから、普通の商品と違うのは「取次」というシステムが存在することです。むかし東販という取次会社の大阪の倉庫に行ったことがありますが、巨大な倉庫風の建物の内部が新刊本の山だったことに驚いたことがあります。書籍流通の関西方面基地だったのです。 出版社の方から見れば、取次会社の意向が「本」の売れ行きを左右しているらしいことは、駅前書店や大型書店で山積みされている本のライン・アップが全く同じ顔をしていることでわかります。そうなると、よく売れる「良書」は内容と関係が亡くなってしまいます。 村上春樹であろうが百田某とかのインチキ本であろうが、売れると予想された本はそうした書店の平台を山積みで占領し、飛ぶように売れる、みんなの「良書」が演出されます。一方で街角の小さな本屋には、極端に言えば一冊も並んでいません。 流通を握っている会社が儲けだけを指針にした独占販売網を作り上げているとぼくが考えるのはそういう現象からの推理です。 そういう、どこかインチキの匂いがする「文化の商品化」を「あっち」の世界だと考えたのが三島さんのやり方なのではないでしょうか。 おそらく、町の本屋さんが「ミシマ社」の本を棚に並べるには覚悟がいると思います。不良在庫化のリスクを自らが背負わなければならないからです。それでも、直接取引で本を売ろとしたときに出てきた言葉が「こっち」ではないでしょうか。 出来上がった本はどうやって売られているのか、書き手との出会いから本屋さんの店頭まで、実は読者が知らないドラマが山盛です。 でも、多分この本のいのちは、「こっち」を作り出したいと考えた三島さんの文章にあるんじゃないかというのが、ぼくの読みでした。 本屋さんと呼ばれる仕事が、出版社も町の書店も、大変な時代になっているんですね。 さて、今日は、いつも夜勤の医療現場から楽しいメッセージをくれる、大昔からの友達で、いつまでたっても「働く美少女ママ」に三人目のバトンを渡したいと思います。 無理せず、ノンビリやってください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.25
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【BookCoverChallenge no3】和田 誠「装丁物語」(中公文庫)【7日間ブックカバーチャレンジ】(3日)(2020・05・21)です。 今日は2020年5月21日、金曜日。三日目です。一日目が「本を焼く話」、二日目が「本の印刷の話」でした。今日も「本を作る話」です。一日目に書きましたが、あの日、垂水の「流泉書房」で購入した二冊の本の、もう一冊がこの本でした。 「本」がお好きなら間違いありません。和田誠ファンも必携です。もともと白水社のUブックシリーズにあった本ですが、中公文庫の2020年2月の新刊の棚に並んでいました。 和田 誠「装丁物語」(中公文庫) 以前、このブログでいせひでこさんの絵本「ルリュールおじさん」(理論社)を紹介したことがあります。訳せば「製本屋のおじさん」でした。 ヨーロッパにはルリユールreliure、英語ならブックバインディングbookbindingという仕事があるそうです。 ペーパー・ナイフという文房具がありますが、封書の封を切るのが用途のようになっていて、気障なインテリが趣味の文房具で揃えて、喜んでいそうな道具ですが、本当は「本」のページを切る道具だったことはご存知でしょうか。 彼の地では新聞や書籍は裁断・表装されずに販売されていて、購入者が自分でページを切り、表紙やカヴァーをつけたものだったらしいのです。そこでプロの装丁家が登場するわけで、それがルリュ-ルです。 映画とかで、ヨーロッパの図書館とかが映し出されると立派な革装の本がずらりと並んでいたりしますが、それぞれの本がオリジナルに製本されていて、お金持ちで教養があることのシンボルだったんですね。 日本では考えられませんが、書庫は独特の匂いがしていたに違いありません。図書館の閲覧棚の本には鎖がついていたという話も、どこかで読んだことがあります。 近代になってペーパーバックという形の本がヨーロッパで流行ります。岩波新書が真似たといわれているペンギン・ブックスなんかがそうですが、製本なんかする余裕のない貧乏な学生とかが増えてきた本の需要の結果らしいですね。新書というのは、つまりは、表紙のない本なわけです。 話しが飛びますが紙の発明は紀元前の中国らしいですが、パピルスとか竹簡とかは紙ではありません。ヨーロッパでは羊皮紙という、羊の皮をなめしたものが紙の代わりだったようです。 東洋の竹簡・木簡では製本なんてありえません。紐で繋いで巻いておくんですね。漢字で一巻、二巻と本を数えるのはそのせいでしょう。中国に大雁塔っていう五重塔のような建造物がありますが、塔のそれぞれの階の部屋は風通しがいいので、そういう仏典の巻物の置き場だったらしいですよ。そう考えれば革装の製本の歴史はヨーロッパの伝統ですね。 話を戻します。現代のぼくたちの国では「装丁」は出版社の仕事です。で、「装丁家」和田誠さんの話です。 本来はデザイナーというべきなんでしょうかね。でも、映画監督だし、エッセイストだし、平野レミさんの亭主だし。去年の秋から、過去形で言わないと失礼な存在になってしまったのが哀しいので、すべて現在形で書きます。 「本」に関していえば洒落たエッセイの書き手だし、稀有な読み手だし、装丁家だし、挿絵画家だし、もちろん、製本だってやったことがありそうだし。「マルチ」というハヤリ言葉がありましたが、その「マルチ」和田誠が「本」の「装丁」について、「そうてい」は「装幀」ではなくて「装丁」が正しいというところから語り始めて、ロットリング、字体、紙、絵の具、写真、えーっとそれからという具合に、原稿がやってきて「本」になるまで、交渉から取材、道具から素材、端から端まで語りつくしているのがこの本です。 ロットリングってわかりますか、1970年代くらいから製図用に使われた筆記具ですが、ぼくらはこれで「ビラ書き」をした最初の世代です。線の太さが一定していて、謄写版で印刷したときに、へたな字がちょっと美しく見えるんです。 ああ、それから、この本ではデザイナー仲間の横尾忠則にはじまって、村上春樹、丸谷才一、つかこうへい、星新一、谷川俊太郎、その上、和田家のかかりつけの小児科医毛利子来まで、それからえーっと、というふうに、本づくりで出合った人の紹介があって、それで、次は、という調子で読んでいけます。 その次には、「単独飛行」、「頼むから静かにしてくれ」、「ハリウッドをカバンにつめて」、「ユリシーズ」、「コスモポリタンズ」とか、「『アフリカの女王』とわたし、またはボギーとバコール、そしてジョンヒューストン。はじめてやってきたアフリカでわたしの頭はどうにかなってしまいそうだった」なんていう長い書名まで、書名と表紙とその本のデザインの工夫が語られています。ところで皆さん、ここに挙げた書名の作者わかりますか?(答えは一番最後) もちろん、和田誠のおしゃべりですから、映画の本の話もタップリ出てきますが、招待してくれた友人と重なるので今回は割愛して、このあたりで話を終えたいと思います。そうそう、解答欄ですね。「単独飛行」ロアルド・ダール:早川文庫、「頼むから静かにしてくれ」レイモンドカーヴァ―:新潮社、「ハリウッドをカバンにつめて」サミー・デイビス・ジュニア:早川文庫、「ユリシーズ」ジェームス・ジョイス:集英社文庫、「コスモポリタンズ」サマセット・モーム:ちくま文庫、「『アフリカの女王』とわたし、またはボギーとバコール、そしてジョンヒューストン。はじめてやってきたアフリカでわたしの頭はどうにかなってしまいそうだった」キャサリン・ヘプバーン:文春文庫 それでは次回は4日目です。どうぞお楽しみに。「お楽しみはこれから」ですよ(笑)。【BookCoverChallenge (no1)・(no2)・(no4)】へは番号をクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.21
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【7days7bookcocers no2】松田哲夫「印刷に恋して」(晶文社)【7日間ブックカバーチャレンジ】(2日目)(2020・05・13)です。 今日は二日目です。一日目が「本を焼く話」だったので、二日目は「本を作る話」です。 「本」が出来上がる工程は、ちょっと考えただけでも「書く人」、「編集する人」、「印刷・製本する人」、「売る人」、そして「読む人」という具合ですが、今日は「印刷する人」についての紹介です。 で、紹介するのは松田哲夫「印刷に恋して」(晶文社)です。 まず、松田哲夫という人ですが、若い人にはなじみのない名前でしょうね。「偏集狂」と自称した「編集する」人で、1978年に一度倒産した筑摩書房の復活を支えた編集者の一人です。 和田誠が似顔絵を描いている「編集狂時代」(新潮文庫)が、自伝的回想なのですが、読めばわかります。小学生の時から面白い人です。 世の中には野球ゲーム盤だけを、一人で操作して、プロ野球のシーズンをセ・パ両リーグに渡って開催し、一チーム140試合の戦いを、全12チームについて実施することを、無上の楽しみとするような人が実際に存在します。ぼくの友人は、大学生の時に、実際に、かなり真剣にやっていましたが、松田哲夫という人はそういうことに熱中できる小学生だったらしいというところから、この回想は始まります。 しかし、まあ、「編集狂時代」については、べつに案内するつもりなので、今日はこれくらいにしておきます。 1978年といえば、ぼくは大学生でした。つぶれてしまった筑摩書房が、再建されて、新たに「ちくま文庫」、「ちくま学芸文庫」を創刊したころで、大学生だったぼくは「文学の森シリーズ」、「哲学の森シリーズ」というベストセラー・シリーズの恩恵に直接与ったのわけですが、企画のアイデアは松田哲夫だったということです。作品・テーマと人とを組み合わせる「アンソロジー」の編集センスが、多分、独特なんだと思います。 専務だった筑摩書房での最後の仕事が、今は亡くなってしまった作家の橋本治をアドヴァイザーに据えて企画した「ちくまプリーマー新書」の創刊ですね。十代をターゲットにした新書の登場は画期的でした。結局のはなしですが、「ちくま」を平仮名にしたのが彼の、ひょっとしたら、一番の功績だったかもしれませんね。 橋本治の「ちゃんと話すための敬語の本」はプリマー新書の創刊第1巻です。 とはいうものの、ぼくにとっての松田哲夫は「性悪ネコ」のやまだ紫とか、「百日紅」の杉浦日向子のマンガの文庫化や「全集」化の編集者であり、赤瀬川原平が唱えて面白がられた「トマソン」とか「路上観察学」の仕掛け人で「路上観察学会」の会長だったりする人で、実に「キッチュ」で「ヘンテコ」な人が松田哲夫ですね。 その松田哲夫が西暦2000年、書籍印刷の大手、大日本印刷の工場に突撃ルポしてできたのがこの本です。で、面白いことにこの本の一番の眼目は印刷機械や工程のイラスト画です。それを描いているのが内澤旬子です。 「世界屠畜紀行」(解放出版社)で度肝を抜く以前、斉藤政喜「東方見便録」(文春文庫)で、アジア諸国のトイレのイラストを描いて、一部の人間から「くさいヤツ」 とうわさされ始めていたころの内澤旬子の仕事です。 これも、トイレのイラストおもしろいです。「東京見便録」というのもあった気がします。 最初に貼った表紙の写真をご覧になれば分かると思いますが、このリアルで、いかにも内澤旬子ふうのメモいっぱいの細密画が100ページ以上あります。ようするに絵本なんですね。 物としての「本」に興味があって、こういうのをチマチマとご覧になるのがお好きな方には応えられない「本」ですね、きっと。 表紙でお気づきの方もあると思いますが、装幀が平野甲賀、企画が晶文社の津野海太郎なのですから、名うての「本づくり」達が、総出で作った本というわけです。 津野海太郎という人は、晶文社の編集者で伝説の植草甚一を始め、小林信彦、片岡義男、リチャード・ブローティガン、ピアニストの高橋悠二の「水牛通信」を世に出した人なのですが、一方で、劇団黒テントの演出家でした。ぼくが黒テントの芝居で名前を知ったのが70年代でしたが、彼が晶文社とどういうかかわりがあるのかわかりませんでした。2000年になって気付いたら社長さんでした。最近では新潮社のウェブマガジン「考える人」に「最後の読書」を連載しています。 最後に「印刷に恋して」に戻ります。こういう本は、やはり図書館がたよりですよね。早く図書館があけばいいですね。じゃあサヨウナラ。次回は3日目ですね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.14
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《2004書物の旅 その16》 「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫) 今から20年ほども前に、「日刊ゲンダイ」という夕刊紙に、毎週水曜日、「新刊読みどころ」という評判の書評コラムが載っていました。 書き手の匿名書評家は「狐」と名乗っていました。「狐」は1980年代のはじめころに登場し、その書評が「狐の書評」(本の雑誌社)と題して単行本になったころから、知る人ぞ知る存在になりました。 2003年に新聞コラムから姿を消しましたが、この文庫は「狐」が日刊ゲンダイに書いた、終わりの202冊の書評を集めたものです。 たいていの新聞書評がそうですが、一冊の本の紹介記事は800字から1000字程度、400字詰めの原稿用紙二枚から、二枚半の字数の制限の中で書かれています。それに加えて「誉める」という制限もあるようです。 読者は「一般市民」なわけですから、専門用語のひけらかしでヨイショするような文章はご法度です。そうなると、その本に関連した世界も知らないし知識もない人を説得する書き手の幅の広さと、納得させる奥行を、たった1000字の文章で描き出すことができるかどうかがコラムの面白さを支えるとこになるわけです。 面白くもない新聞書評が大手を振ってまかり通っていますが、論より証拠、「狐」の技をご紹介しましょう。 このブログで「案内」した中井久夫の「いろいろずきん」の書評が、偶然、本書に見つかりました。「母国を持たない精神科医が残した贈り物」と題された文章です。 童話絵本である。原作者のエランベルジェは1993年に87歳で没した精神科医。孫たちから、「赤ずきん」の話はあるのに「青ずきん」がないのはおかしい、他にもたくさんの色のずきんがあるはずだと言われ、黄色ずきん、白ずきん、ばら色ずきん、青ずきん、緑ずきんの物語をつくった。それをやはり精神科医の中井久夫が再話し、自ら絵も描き、絵本仕立てにしたのが本書である。 きっと評判になるだろう。このファンタジーには「自分以外の人間に心があることの発見」(中井久夫)や、夢や無意識や性や差別といったことがらが織り込まれながら、その扱いが独断的でなく、幾重もの読み方ができるような深みのある筋立てになっている。登場する動物たちが、人間にとって容易には理解しがたい世界に属していることをさまざまに暗示しているのも絵本としてめずらしい。また中井久夫の絵がシロウトとは思えぬ出来栄えだ。美しい。 ここまではぼくでも書けます。ここからがさすが、プロの書評家「狐」の本領発揮、面目躍如なのです。 しかし実は、この「いろいろずきん」にはもう一つのバージョンが存在する。 本書と同時に、同じ版元から「エランベルジェ著作集」(中井久夫編訳)の第二巻が出ている。その本にも、精神科医学史にかかわる論文と並んで「いろいろずきん」が収録されているのだが、それがこの絵本版とは別物なのだ、 絵本版が簡略化された再話であるのに対し、著作集版は翻訳(共訳)である。文章の両ははるかに増えるし、その分、物語はいっそう重層的になる。さらに、物語について訳者の中井久夫と稲川美也子がそれぞれ委曲をつくして語ったエッセイも付く。中井久夫の絵は、絵本版から少し選ばれ、モノクロームにして載っている。 絵本を読み、著作集に向かうと、この知られざる精神科医への興味が湧く、スイス系フランス人として南アフリカに生まれ、ヨーロッパで教育を受け、アメリカに渡り、最後にカナダ人として逝去したエランベルジェは、母国を持たぬ越境の人であった。 日本を訪れたときに向かえた中井久夫の印象では長身白皙「ひょっこりひょうたん島」の「博士」のようだったという。(「母国を持たない精神科医が残した贈り物」エランベルジェ原作・中井久夫文・絵「いろいろずきん」(みすず書房)1999・9・8) いかがでしょうか、残念ながら評判にはなりませんでしたが、エランベルジェの著作集に手を伸ばしながら、一つの絵本ができていく過程と、無名の著者に対する読者の興味を喚起してゆく、落ち着いた「奥行」の深さの披歴には目を瞠りますね。これぞ、プロの仕事というものではないでしょうか。 本書には「読み手それぞれの思いで味わう小説の厚み」と題した夏目漱石著「こころ」(ワイド版岩波文庫)の書評もあります。そこでは高橋留美子のマンガ「めぞん一刻」からの引用で話を始めています。その軽みもまた鮮やかなものですよ。 2006年に出版された「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)で初めて山村修という実名を名乗りましたが、その年の夏56歳という若さで世を去りました。15年近くの年月が流れましたが、紹介されている本は、今となっては、洞窟の奥に置き忘れられた宝箱の中の宝石の山です。その上、紹介する書評は年を取ることを忘れた浦島さん、少しも古びていません。 もっとも、問題はこの本そのものがどこで手に入るかですね。いや、はや・・・。追記2020・02・25 こんな紹介すると、恥ずかしいばかりですが、ぼく自身の「いろいろずきん」の案内はこちらをクリックしてみてください。追記2023・01・19 今年も1月17日がやってきて、中井久夫さんの仕事を振り返っていると、案外、多くの人の反応があって、ぼくはぼくで、この人の書評を思い出しました。若くして亡くなった書評家「狐」です。 ネット上にレビューやインチキ書評があふれている現在ですが、この人の書評に匹敵する書評は今の世の中にはありません。大学の図書館勤務だったことも関係するのでしょうが、書評のまな板に乗る書物の豊かさと、読みの深さ、今、読み直すべき人の一人だと思います。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 遅読のすすめ ちくま文庫/山村修【著】 【中古】afb
2020.03.14
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青木真兵・海青子「彼岸の図書館」(夕書房) ぼくはこの本を市民図書館の棚で偶然見つけました。青木真兵・海青子「彼岸の図書館」。なんかすごい「題」だと思いませんか。「こっち」じゃなくて、「あっち」の図書館ですよ。 「なんだこれ?」 そう思って借り出しました。 感想といっては変ですが、もう少し温かくなって、ちょっと遠くまでの「徘徊」は「奈良県吉野郡東吉野村にしよう。」ですね。だって、「彼岸」があるんですよ。まあ、吉野だし、ホントにあるかもしれないですよね。 さて、大雑把で申し訳けありませんが、本の内容は青木真兵さんと海青子さんというカップルが、奈良県のかなり山奥であるらしい東吉野村というところに、阪神間から引っ越して、私設の「人文系図書館ルチャ・リブロ」を開設運営し、「オムライスラジオ」というラジオ放送で意見や情報を配信している実況中継といえばいいでしょうか? 彼が私淑するらしい内田樹さんをはじめ、内田さんの道場を設計した建築家や村への移住者、若い研究者たちとの対談と、お二人のエッセイが収められていますが、「人文系図書館ルチャ・リブロ」の正体がうまくつかめたかというと、そういうわけでもありません。なにしろ「彼岸の図書館」ですからね。だから、まあ、「ちょっと行ってみようか」という感じなんです。 しかし、青木さんが言う「彼岸」という場所というか、言葉は何となくわかります。宗教の言葉ですが、宗教ではありません。さっきからちょっとお茶らけて言っていますが、この「彼岸」にはとても心惹かれたんです。 「大人が多数を占める社会へ」という、ほぼ、巻末のエッセイの中で、彼は、まず、カール・マルクスを引用します。今時、マルクスですよ。ぼくなんか、これだけでうれしい。(真の)人間的解放がはじめて実現するのは、現実の個人一人一人が、抽象的な公民を自己のうちに取り戻すときであり、個人としての人間が、その経験的な生活、個人的な労働、個人的な人間関係のうちで、類的な存在となるときである。 今は、新訳が出ていますが「ユダヤ人問題によせて」というパンフレット用に書かれた有名な(?)言葉です。 そして青木さんはこう宣言します。 誰もが安心して暮らすためには、自己の中に、抽象的な公民を持つ人間、つまり「大人」が多数を占める必要がある。そして「抽象的」であるからこそ、具体的なアクションは人それぞれに任されている。その一ケースとして、ぼくらは「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開館し続けていきます。 この宣言の鍵になる言葉は、たぶん「公」ですね。マルクスの「抽象的な公民」という言葉の「公」の部分です。 ぼく的にくだいて言うと、人は家庭では「父親」であったり、職場では係長であったり、彼女の前では恋人であったりしますが、それだけだと、生きている「人間」であるということの大切な何かを失っていませんかと、まず問うてみる。 たとえば、彼氏の紹介が「給料明細」と「貯金通帳」と「出身大学の卒業生名簿」であるような恋愛している「わたし」って、疲れませんか?というふうに。 日々の生活や仕事に追われて、フト、「あれ、これって?」って思う、その時、自分の中に取り戻さなければならない価値観は何でしょう?それをマルクスは「公」といういい方で言ってるんじゃないでしょうか。だから、それは社会科の教科名ではないんです。 現代の社会で、何が「抽象的な公民」であることを見失わせているのか。端的に言ってしまえば、お金ですね。 消費社会と呼ばれている、今の社会では「すべてをお金の価値で測ることが大人のふるまいであり、そのような利己的な人間こそが社会人だ」というテーゼが大手を振って宣伝されていますが、それに対する青木さんの批判はこうです。 儲かればいい、売れればいい。儲けるためには差別を煽り、人の尊厳を傷つける雑誌も作る。このような言論が公の場に存在するということは、公が本来的な意味ではなく、単に「利己的な人間が多数いる場」になってしまうことを意味しています。 で、さっきの宣言になるわけです。なんか、とても爽やかな「若さ」、そして「希望」を感じましたね。 でも、なんか、その「キッパリ」とした若さが、仕事とか退職して年金とかいってるぼくには、なんか照れ臭い。ちょっと力んでるよねとか言いたい感じもする。 そう思っている「でもね、しようがない」気分の徘徊老人の目に青木海青子さんのこんな言葉が飛び込んでくるわけです。 「人文系図書館ルチャ・リブロ」は、小さな古い橋を渡って、杉林を抜けたところにあります。川の向こう側の図書館ということで「彼岸の図書館」を名乗っています。この「彼岸」にはもう一つ、「現世の社会や常識から、少し離れた場所」という意味合いも込めています。 ここでやってみてほしいのは、実はただ一つ、「現世での立場、価値観、常識という鎧をいったん脱いで、立ち止まって見る」ことです。 もしかしたら今の私の仕事は、「ルチャ・リブロ司書」より「ルチャ・リブロ奪衣婆(だつえば)」が適切かもしれません。「その鎧は彼岸への橋を渡るには重すぎじゃ、イヒヒヒヒ」みたいな。 大丈夫、此岸では戦をしていても、ここは休戦地帯です。誰も切りかかってこないから、安心して鎧に風を通してくださいね。 「ああ、そうか、立ち止まって『あれ、これって?』って、ちょっと、自分の生活の風景を向う側からのんびり眺めてみる対岸を作ろうとしてはるんや。」 ねっ、この「彼岸の図書館」、やっぱり、ちょっと覗いてみたくなりませんか。 「そうか、駅から歩いて橋を渡って行くのか。」って。追記2023・11・20 それにしても、神戸の徘徊老人には吉野は遠いですね。なかなか、出かけることができません。また、今年も寒くなってしまったし(笑)。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.01.21
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