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映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 6
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草野心平「宮沢賢治覚書」(講談社文芸文庫) 「銀河鉄道の父」という映画を見ました。宮沢賢治とその父政次郎、そして、彼の家族を描いた作品でした。で、帰って来て、なんとなく気になってさがしたのがこの本です。 草野心平の「宮沢賢治覚書」(講談社文芸文庫)です。 映画は1933年(昭和8年)に、わずか37歳で亡くなった宮沢賢治の臨終の場で、質屋・古着屋の篤実な主人であった父政次郎が息子である賢治の「最初の読者」であることを宣言するかのように「雨ニモマケズ」を朗唱するクライマックスで幕を閉じた印象でした。 で、そのシーンを見終えたあと、宮沢賢治が今のように「たくさんの読者」を得て世に知られることになったのは、文学的には無名といってよかった宮沢賢治の死の翌年に文圃堂というところから出版された『宮澤賢治全集・全3巻』(1934年 - 1935年)と、その原稿を引き継いで十字屋書店というところが出した『宮澤賢治全集・全6巻別巻1』(1939年 - 1944年)という二つの、まあ、普通ならあり得ない「全集」の出版事業によってであり、それを成し遂げた人物がいたことが頭に浮かびました。のちに「カエルの詩人」として親しまれることになる草野心平ですね。 東京から葬儀に駆け付けた、まだ若かった草野心平が、映画の中では洋風のトランクいっぱいに入っていたあの原稿を、実際に手に取って驚愕したことが、すべての始まりだったということがどこかに書いてあったはずだというのが気になった理由です。 で、見つけたのがこの文章でした。書かれたのは昭和33年(1958年)ですから、賢治の死後25年経って、当時のいきさつを思い出している草野心平の回想です。 宮沢賢治全集由来 二十六年前の九月二十二日に、私はぶらりと駒込林町の高村さんのアトリエを訪ねた。「宮沢さんが亡くなったですよ。今日デンポウがあって・・・」 多分そのような言葉で私は宮沢賢治の他界を知った。文通でしか知り合っていないお互いなのでその死をは悲しむよりは、賢治の文学創作もこれで遮断されたか、という実感の方が強かったのをおぼろげながら憶えている。高村さんも大体は同じような感慨ではなかったかと思う。高村さんは賢治と一回会ってはいるにしろ、それはアトリエの玄関での僅かの時間のたち話にすぎなかったし、賢治の家族のことなど私たちは皆目知らなかったので、話題は恐らく賢治の芸術に限られていたことだったろう。そしてそのしめくくりとして遺稿が問題になった。おせっかいといえばそれにちがいないが、おせっかいでも考えずにはいられない気持ちだった。家庭なにの事情とかとりまく文学青年などによって遺稿が散逸しはしまいか、とつまらない取越し苦労をしたのである。(あとで分かったことだが、それは正しくおせっかいであり取越し苦労にすぎなかった。遺族による以降の整理の整然さに、私は内面赤面した程だった。遺稿に対するいかにも細心な扱い方は、家族全体の賢治への愛の並大抵でないことを強く、物語ってもいた。)「ボク、行こうかなあ」 というと高村さんは即座に賛成した。そして、「いまはないけど、明日になれば旅費は都合をつけます。君が行ってくれると一番いい」 その高村さんの言葉で私は安心し花巻行きを決めた。 中略 花巻は私にとっては初めての土地だった。駅前の広場に面した雑貨屋で宮沢家の方向をきいたがわからなかったので、一本道を歩いていった。道ばたにはコスモスが咲いていた。 ようやくわかった宮沢家は相当大きな家だった。私は自己紹介して並みいる遺族の方々に挨拶した。そして仏前に焼香した。いまでは何度も何度も見ているナッパ服姿の賢治の写真をはじめてみた。このような人だったのかと私はボンヤリその遺影をながめた。それから清六さんに案内されて色々見せてもらった。道路に面した格子窓のある二階には蓄音機やレコード、それからうず高く積まれた遺稿があった。横線のない縦だけの朱線の自家製の原稿用紙に、鉛筆やペンの、こっちに流れたりそっちにはみだしたりのおもに未定稿が、ずっしり積まれてあった。 賢治が最後の息をひきとったのは別の奥まった二階でだったが、そこで私は清六さんから意外なものを見せられた。十枚ほどの私あてのハガキの反古だった。宛名だけ書かれたものや、内容の半分だけ書かれたものや、宛名と本文の半分だけのものなど・・・・ 賢治のおおらかに流れる書体から感じられるものとは別な角度を見せられたような不思議な気がした。 中略 東京へ帰るとすぐ私は花巻の模様を高村さんに報告した。そして遺稿の膨大さを話した。それらの遺稿を私は、宮沢家でほんのあっちこっちめくった程度にすぎなかったが「春と修羅」や「注文の多い料理店」の延長があんなにもあるのだろうかと、私にとっては一つの驚異としていつまでも頭の中に渦を巻いていた。 以下略(P261~P263 ) いかがでしょうか。文中で高村さんと呼ばれているのは、もちろん、詩人で彫刻家の高村光太郎です。で、この後、出版社が途中で変わった事情や、賢治に対する、弟、宮沢清六をはじめとする遺族の情愛深く誠実な様子についても回想している文章の一部ですが、なによりも賢治の膨大な遺稿に出合った草野心平の率直な驚きの思い出が、ボクには記憶に残っていました。 本書は昭和10年代から20年代に書かれた、宮沢賢治の詩や童話、あるいは賢治の世界に対する評論を中心に編集されています。戦後、たくさんの宮沢賢治論が書かれていますが、始まりの1冊というべき論考群だとボクは思います。ちなみに目次はこんな感じです。 目次宮沢賢治覚書四次元の芸術「春と修羅」に於ける雲賢治文学の根幹賢治詩の性格「農民芸術概論」の現代的意義宿命的言葉無声慟哭 その解説オホーツク挽歌 その解説宮沢賢治・人と作品及び解説二つの極一つの韻律宮沢賢治全集由来 この年になってしまったので「春と修羅における雲」なんていう綿密な論考は読みなおすのが骨でした。しかし、教室で子供たちと一緒に賢治を読まれるお仕事をされている若い人たちには読んでほしい1冊です。古い本ですが、宮沢賢治理解では欠かせない1冊だと思いますよ(笑)。
2023.06.01
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成島出「銀河鉄道の父」キノ・シネマ神戸国際 SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)の番外編です。というのは、第3回SCCで「帰れない山」というイタリアの小説を映画化した作品を見たのですが、その後のおしゃべりで話題になったのがこの作品です。 成島出監督の「銀河鉄道の父」ですね。「3年ほど前の、直木賞ですけど、門井慶喜という人の『銀河鉄道の父』が映画になっていますね。」「映画、観ましたよ。で、講談社の単行本も手に入れてます。」「原作は直木賞の時に読みました。おもしろかったですよ。」「原作は、今、読み始めですが、映画は見ました。やっぱり、永訣の朝のところ、としこと別れのシーンは涙が出ましたね。」「うーん、やっぱり。」 まあ、こういう会話があって、それならボクも見ましょうと、勝手に決めて、第3回SCCの、ちょっと一杯、の翌日に、キノ・シネマと名前が変わった神戸国際会館にやって来ました。 観たのは成島出という監督の「銀河鉄道の父」です。 宮沢賢治の父、宮沢政次郎(役所広司)が夜行列車に乗って、どこからか帰って来る車内のシーンから映画は始まりました。夜行列車=銀河鉄道の父です(笑)。 原作は、童話「銀河鉄道の夜」の作者宮沢賢治を題材に、質屋で古着屋だった実家の父、宮沢政次郎の視点から、あまり知られていない賢治と彼の家族の伝記的事実、実像を語ったエンターテインメントです。詳しい感想は読書案内に書いています。ご覧いただければ嬉しいです(笑)。 で、映画ですが、役所広司の一人芝居(違いますけど(笑))でした。団扇太鼓を打ち鳴らしながら南無妙法蓮華経を唱える賢治役の菅田将暉くんも、祖父を平手打ちするトシ役の森七菜ちゃんも、ついでにいえば祖父役の田中泯さんも、まあ、乱暴な言い方ですが芝居になっていませんでした。しかし、ボクはシラケませんでした。宮沢賢治だからでしょうかね。 SCCのM氏は「永訣の朝」あたりのシーンについておっしゃっていましたが、ボクは 「雨ニモ負ケズ」を、賢治の臨終の場で、父、政次郎、役所広司が朗読する場で泣きました。場面と関係なく役所広司の朗読がよかったのです。 で、そのことを報告すると、M氏から返信がありました。「雨ニモマケズ」のところは作りすぎでわたしは白けました。母親が見事に描かれてなくて、本当に父と賢治だけの映画ですよね。まあ、観ているこっちも、あとの役者は名前すら知らない。で、作り手と観客がなまぬるさにお互いに甘えているような。でも日本の映画だから許すところがありますね。ちょっと厳しすぎる見方ですかね? なるほど、なるほど、ですね。 M氏は日本の近現代文学について、実に丁寧に読んでいらっしゃる方です。もちろん宮沢賢治についても、詩だけでなく、家族や生活、思想についてもよくご存知のはずです。その彼が「永訣の朝」という、あまりにも有名(?)な詩で描かれている場面に、思わず落涙なさったのは、実はその詩を暗唱できるほどにご存知だったからではないかとボクは思いました。宮沢賢治というだけで、どこか、予定調和的な安心感がありますね。 M氏が付け加えておっしゃった一言ですが、「雨ニモ負ケズ」の朗読に涙したボクですが、実は賢治役の菅田将暉くんが妹トシに「風の又三郎」の冒頭を読んで聞かせるシーンでは、ドン引きでした。「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ」 菅田将暉くんは、この作品を、まあ、勝手な憶測ですが、読んだことがない、そういう朗読でした。このあまりにも有名な、擬音と擬態を両義的に表していることばの持っている力強さも哀しさも響いてこない声でした。役者として初心者という印象でしたね。 ついでに言えば、ボクが涙したシーンは、父と息子の和解のシーンとして描かれていましたが、黒皮の手帳を見た政次郎の父としての寛容の深さは、息子が手帳に書きつけている詩句を暗唱するほどに何度も読んだという父の子に対する思いに加えて、下の追記に載せていますが、その「雨ニモ負ケズ」の詩句とともに南無妙法蓮華経という法華教の真言が記されていることを、南無阿弥陀仏を信じる目で見た上でのことであったことも大切な要素だと思います。 信じるものが違うまま死んでいく息子の作品の最初の読者になるために父は父として、越えなければならない壁があったわけで、役所広司の朗読は、そのあたりを思い出させてくれる力があったとボクは思いました。 というわけで、役所広司さんに拍手!でした。監督 成島出原作 門井慶喜脚本 坂口理子撮影 相馬大輔編集 阿部亙英音楽 海田庄吾主題歌 いきものがかりキャスト役所広司(宮沢政次郎)菅田将暉(宮沢賢治)森七菜(宮沢トシ)豊田裕大(宮沢清六)坂井真紀(宮沢イチ)田中泯(宮沢喜助)2023年・128分・G・日本配給キノフィルムズ2023・05・16-no061・キノ・シネマ神戸国際追記2023・05・28 折角ですから、宮沢賢治の詩を二つ追記します。「永訣の朝」と「雨ニモマケズ」です。永訣の朝 宮沢賢治けふのうちにとほくへいつてしまふわたくしのいもうとよみぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゆとてちてけんじや)うすあかくいつそう陰惨な雲からみぞれはびちよびちよふつてくる (あめゆじゆとてちてけんじや)青い蓴菜のもやうのついたこれらふたつのかけた陶椀におまへがたべるあめゆきをとらうとしてわたくしはまがつたてつぱうだまのやうにこのくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゆとてちてけんじや)蒼鉛いろの暗い雲からみぞれはびちよびちよ沈んでくるああとし子死ぬといふいまごろになつてわたくしをいつしやうあかるくするためにこんなさつぱりした雪のひとわんをおまへはわたくしにたのんだのだありがたうわたくしのけなげないもうとよわたくしもまつすぐにすすんでいくから (あめゆじゆとてちてけんじや) はげしいはげしい熱やあへぎのあひだからおまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいのそらからおちた雪のさいごのひとわんを…………ふたきれのみかげせきざいにみぞれはさびしくたまつてゐるわたくしはそのうへにあぶなくたち雪と水とのまつしろな二相系をたもちすきとほるつめたい雫にみちたこのつややかな松のえだからわたくしのやさしいいもうとのさいごのたべものをもらつていかうわたしたちがいつしよにそだつてきたあひだみなれたちやわんのこの藍のもやうにももうけふおまへはわかれてしまふ ( Ora Orade Shitori egumo)ほんたうにけふおまへはわかれてしまふあああのとざされた病室のくらいびやうぶやかやのなかにやさしくあをじろく燃えてゐるわたくしのけなげないもうとよこの雪はどこをえらばうにもあんまりどこもまつしろなのだあんなおそろしいみだれたそらからこのうつくしい雪がきたのだうまれでくるたてこんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくるおまへがたべるこのふたわんのゆきにわたくしはいまこころからいのるどうかこれが天上のアイスクリームになつておまへとみんなとに聖い資か糧てをもたらすやうにわたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒドリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ南無無辺行菩薩南無上行菩薩南無多宝如来南無妙法蓮華経南無釈迦牟尼仏南無浄行菩薩南無安立行菩薩
2023.05.25
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佐藤通雅「うたをよむ 宮沢賢治の青春短歌」(朝日新聞・5月9日朝刊) ゴールデンウィーク最後の日曜日の朝、食卓で新聞を読んでいたチッチキ夫人が何かいっています。「ちょっとォー、アルカリ色とかなんとかいう本の宮沢賢治の短歌とか、いうてへんかったァー?ここにも、宮沢賢治の短歌とかいうて、のってるよ。新聞の短歌のとこ。」「だれ?」「佐藤とかいう人。」「あ、その人やで、あの本の編集というか、著者というか、さとうみちまさいう人やろ。」 朝日歌壇というページの真ん中にその記事はありました。 佐藤通雅という人は、先日案内した『アルカリ色のくも』(NHK出版)という本の著者です。1943年のお生まれらしいですから、シマクマ君より10余り年長です。東北は宮城県の高等学校の教員だった人です。歌人ということですが、この方の短歌を読んだ記憶はありません。ただ、学生時代に『宮沢賢治の文学世界 短歌と童話』泰流社(1979)という評論集を読んだ記憶がありました。 「ふーん、賢治の短歌を話題にする人もいるんだ」というふうなことを考えたのでしょうが、内容も買ったはずの本の所在もどこにいったのかわからないのですが、著者の名前だけは憶えていて、「アルカリ色のそら」(NHK出版)という本を図書館でみつけたときに、「ああ、あの人だ」と気づいて、手に取りました。黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなりちばしれるゆみはりの月わが窓にまよなかきたりて口をゆがむる対岸に人、石を積む人、石を積めどさびしき水銀の川 記事に引用されている、この三つの短歌は、つい先日、目にしたばかりですが、「黒板」、「ゆみはりの月」、そして「水銀の川」が流れる世界そのものに「歌」の主体を読み取る紹介を読み直して、「なるほど」と感心することしきりです。 確かに宮沢賢治の世界が、ココにもありますね。今から、もう一度賢治の世界をたどり直す元気はありませんが、こうして教えられると嬉しいですね。どうですか、一度、「賢治の短歌」。新しい発見があるかもしれませんよ。
2021.05.12
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門井慶喜「銀河鉄道の父」(講談社) 何故だかわかりませんが、2018年の春の芥川賞、直木賞は二作品とも宮澤賢治がらみで不思議な感じがしました。芥川賞は若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」(河出書房新社)でした。宮沢賢治の詩の「ことば」が、そのまま題名として使われている趣で、まっすぐに、いま生きている女性の姿を描いていました。 で、今回案内するのは、直木賞を受賞した門井慶喜さんの「銀河鉄道の父」(講談社)です。この作品は、おおざっぱに言えば、宮沢賢治の父、宮澤政次郎を視点人物にした伝記小説ということになるでしょうか。宮沢賢治の生まれた時から死ぬまでに加えて、賢治が亡くなって、彼の作品が詩人の草野心平や高村光太郎の手によって世の中に認められるところまでが物語られています。 何が起こるかわからないエンターテインメント小説というよりも実直な父の語りで描いたところにこの作品の良さがあると思いました。 ちょっとした賢治ファンならだれでも知っている出来事、起こることはまちがいなくおこりますし、わざとらしい脚色も施されていません。事実の経過は読んでいて勉強になります。そうであったに違いないと思わせるように丁寧に描かれています。 ただ、父、政次郎も、母、イチも、それから賢治本人をはじめ、弟、清六や妹、トシたちの姿も、当然、その人々をめぐる出来事も、作家門井慶喜の手によって描かれているわけですから創作です。 その創作性とでもいう、作家独特の解釈がどこに姿を現すのか、ぼくは期待しながら読み進めていました。 実は、賢治が、当時、最も過激な日蓮宗の宗教団体、田中智学の「国柱会」の信者であったことはよく知られています。一方、父、政次郎は清沢満之(きよさわまんし)や暁烏敏(あけがらすはや)の時代の浄土真宗の篤実な信者でしたから、ふたりの間には単なる、父子の葛藤を超えた「何か」があったはずです。 そのあたりに期待しながら読みましたが、山場は若竹さんの小説では「題名」に使われていた「永訣の朝」が描いている妹、トシの言葉にありました。うまれでくるたてこんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる トシのこの有名な言葉を賢治の創作だと政次郎は言うのです。 詩人・宮沢賢治はそうまでしてしてもこの文句を書き付けたかった。トシのセリフとして。人類理想の遺言として。(覚悟だな)みとめざるを得なかった。子どものころから石を愛し、長じては「人造宝石を、売りたい。」という野望を抱いた二十九歳の青年は、ここでとうとう、ことばの人造宝石をつくりあげた。賢治は詩人として、いや人間として、遺憾なき自立を果たしたのだ。父親がどう思おうが。妹をどこまで犠牲にしようが。あとはもう、(売れるか)問題はそれだけだった。(引用の( )書きが政次郎の心中語) 政次郎の中にある「本当のことば」と賢治が作った「人造のことば」というわけです。賢治の作った「人造のことば」が「詩のことば」として離陸した瞬間に父と子の葛藤は終わりを告げます。作家はそこが書きたかったに違いありません。 宮沢賢治に関心のある方ならさらりと読めるでしょう。加えて、たとえば「永訣の朝」を授業で取り上げていらっしゃる、高校とかの若い先生方にとって、格好の参考図書といっていいと思います。2018/06/03追記2019/05/04 本文中の清沢満之という宗教家は、ぼくが学生時代のことだったと思いますが、司馬遼太郎の雑誌での紹介と法然院の住職(?)で、当時、神戸大学の哲学の先生だった橋本峰雄の「日本の名著」の紹介によって、その名を知った人です。 病床の正岡子規にこんな言葉を送った人だそうです。「号泣せよ、煩悶せよ、困頓せよ、而して死に至らんのみ。」 ぼくには、その態度と言葉が印象深く、名前を覚えました。著書に触れたことはありません。 暁烏敏という人については小説家石和鷹の「地獄は一定すみかぞかし 小説暁烏敏」(新潮文庫)という作品で知りました。 石和鷹という作家は集英社の「すばる」という文芸雑誌の編集長だったひとです。晩年の石川淳が「狂風記」以降の長編傑作群を連載したのがこの雑誌ですが、編集者として寄り添ったのはこの人だったそうです。 のちに小説を書きましたが、確か65歳くらいで亡くなったと思います。で、遺作になったのがこの作品です。作家の死の原因となった癌との闘病の中で書かれた作品で、強烈な読後感は間違いなく傑作ですが、広く知られている作品とは言えないですね。追記2020・06・28若竹さんの「おらおらでひとりえぐも」の感想はここをクリックしてください。追記2023・05・27 案内した作品が映画化されたので見ました。役所広司さんが政次郎を演じて、まあ、ほぼ、一人芝居の趣でしたが、楽しく見ました。で、ついでに古い記事を修繕しました。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 銀河鉄道の父 /門井慶喜(著者) 【中古】afb楽天で購入
2020.06.30
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西成彦「新編 森のゲリラ 宮沢賢治」(平凡社ライブラリー) 今から十五年も前になるでしょうか、垂水の丘の上の学校に転勤して三年生の授業を担当しました。名刺代わりの「読書案内」でしたが、何だかイキッテマスネ。そのまま掲載します。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 春休みが終わってしまった。ついでに転勤してしまった。「休み前にはまとめて紹介しないと。」 夏休み前にも、冬休み前にも思うんだけど、今回は「転勤前に」だったのに、これが,やっぱり、できなかった。「事前に準備しておく」 そういうことが子どもの頃から全くできない。とりあえず一度失敗しないと真面目になれないと自己弁護して暮らしている。実際は失敗ばかり繰り返している。いまどきの学校の教員としては失格。職員室が嫌いな理由の第一はこのことだからね。 結局、昨年は一年間、とうとう職員室のぼくの机の上は一度も片付かなかった。この読書案内で案内している本もそうで、そういう「~のために」とか、「整理整頓」的な意図は全く持続できない。何となく興味があったり、授業で扱ったりした話題に引きずられて書いている。ドンドン上に重なっていって、やがて収拾がつかなくなる。 ところで昨年の二学期から、ボクにとってだけど、宿題は「宮沢賢治」。学園西町で話題にしていた事を新しい星陵台の読者相手に書き続けるというのもなんかヘンだけれど、まあいいか的のりで書いている。尤も読者していただけるのかどうかは今後の事なので、ホントはよくわからない。 なにはともあれ、十二月に入ってから冬のあいだ、いくつかの「宮沢賢治」関連の本を読んだ。ぼくの疑問は「なめとこ山の熊」のラストシーンで熊達がお祈りするが、それは「何故だ?」ということだった。学園西町の学校で授業に付き合った人たちには問いかけだけはしたけれども、結論があったわけではなかった。 高等学校に限らないと思うが、教員というのは因果な商売で、同じテキストを繰り返し授業する。作品によって何回やってもよくわからないものがある。いい作品の場合が多い。授業をするたびに解釈が変わってしまう場合もある。結局、ボク自身に宿題ということでお茶を濁す。 さて、西成彦というポーランド文学の先生がいる。伊藤比呂美さんという詩人の夫だった人。たぶん過去形だけど、今の話題としては関係ないか?その西成彦が「新編 森のゲリラ宮沢賢治」(平凡社ライブラリー)で賢治の童話を詳しく論じているのにぶつかった。 彼によれば<賢治は何故、祈る熊を描いたのか>を考えるために思い出してほしい作品は中学校の教材で出てくる「注文の多い料理店」だそうだ。山猫亭にやって来た「人間」は自分が料理されるコトになるということを知って仰天してしまうのだが、なぜこんな話が子供向けに書かれたのだろう。西さんは植民地文学という考え方を導入する事でこの問題を解こうとしているようだ。 西さんの説を、ぼくなりの解釈でおおざっぱに言うと「文明」と「野蛮」の関係を逆転させてみるということだ。 文明人は未開社会に対する文化的優位に何の疑いも抱かず近代社会を作り上げてきたフシがあるが、<ほんまかいな?>という疑いを持ってみると、鉄砲担いで山の中に入って猟を楽しむ人たちと、たとえばキリスト教や近代文明を担いでアジアやアメリカ、アフリカに出かけていったヨーロッパの人々の姿を重ねて考える事が出来る。 これって、実に現代的な視点の逆転、発想の逆転の意味もあるのではないだろうか。たとえばイスラムとアメリカという例を思い浮かべてもいいかもしれない。しかし、熊が祈る事についてすきっとわかったわけではない。しようがないね。 西さんのこの説を読んでいて思い出したのが「ますむらひろし版宮沢賢治童話集」<朝日ソノラマ>だ。ますむらひろしは「アタゴオル物語」という傑作マンガで知られているが「賢治に一番近いシリーズ」と銘打ったこの「宮沢賢治童話集」のシリーズもなかなかいいと思う。 登場人物がすべて猫なのだ。挿絵は「風の又三郎」の主人公なのだが、学生服にガラスのマントをはおっている又三郎が猫なのだ。このシリーズでは「銀河鉄道の夜」のジョバンニもカムパネルラも猫。で、猫であるほうがずっとリアルに賢治の世界に入っていけるような感じが、ぼくにはする。 読者もまた猫の世界の住人であること。そこから賢治が物語を作っているのではないかというリアルさ。尤もますむらひろしが描くネコマンガのキャラクターが、初めから好きだというのが前提条件かもしれませんがね。まあ何処かで探して読んでみてください。ちょっと意外ですよ。 というわけで、この春転勤してきた国語の教員です。ぼくは「本」を読まない人を特に軽蔑したりすることはありませんが、「本」も読まずに、受験技術の読解力とかを口にする人は「バカ」だと思っています。ヨロシク。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ というわけで、実に幸せな丘の上の暮らしが始まったのでした。「2004年書物の旅その9」はここをクリックしてください。「その12」はこちら。追記2023・12・20 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)という読書日記の2004年の6月17日に紹介されていました。 どんぐりと山猫というよく知られた童話において、なぜやまねこはどんぐりたちの争いの仲裁を人間である一郎に頼まねばならなかったか?なぜ稚拙な「国語」で書いた葉書を送らねばならなかったか?政治的な役割を負わされた標準的な国語を用いるのは、先住民が弱い立場を自覚してからである。山猫は一郎に権威を求め、一郎はその権威を利用してでたらめな審判を下す。その結果、彼らの友情は一回かぎりで終わる。 このような読みは実に新鮮で知的刺激に満ちている。(P49) 「クレオール」とか植民地主義とかを話題にしながらの紹介で、実に刺激的です。ボクが高校生に案内したのが、今から20年前でしたが、池澤夏樹の日記も2004年、同じころ同じ本を読んでいたんだという殊に、チョット、しみじみしますが、西成彦の本書は、今でも読まれるべき本だと思うのですが。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.01.16
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宮沢賢治「雨ニモマケズ」 高校の国語の教科書に宮沢賢治の「なめとこ山の熊」が出てきます。とても有名な童話ですが、なぜか高校の授業で出てきます。中学校では「注文の多い料理店」なんだそうです。ぼくの小学生の頃は「よだかの星」が出ていました。「ゆかいな仲間」たちのころは「クラムボンは笑ったよ」の「やまなし」だったかな?いや、これは、寝床で読んで聞かせたていた絵本だったかもしれません。 ともあれ、宮沢賢治は学校の国語の時間に人気のある詩人で、童話作家NO1なんです。詩もあるし童話もあります。「Ora Orade Shitori egumo」の「永訣の朝」のない教科書はちょっと想像できないですね。 ところで宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の題で有名な詩は、元々は手帳の走り書きであったことはご存知でしょうか。 子ども達に読ませる最高の詩として取り扱われていることもある。それは下に書いたふうに手帳に記してあったのが、彼の死後見つかったものらしいのですが、実物はこんな感じです。 昔の、筑摩書房の「宮沢賢治全集」の写真を撮って貼ってみますね。 うーん、全然見えませんが、ちょっと雰囲気を味わっていただけたら、ということなんです。全集版の「行わけ・レイアウト」を真似て写すとこういう雰囲気になります。五一頁・五ニ頁(鉛筆・青鉛筆)雨ニモマケズ 風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ 丈夫ナカラダヲ モチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテ ヰル一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ 野菜ヲタベ五三頁・五四頁(鉛筆) アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ 入レズニ ヨクソシテ ミキキシ ワスレズ ワカリ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ 小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテ ヤリ五五頁・五六頁(鉛筆・赤鉛筆) 西ニツカレタ 母アレバ 行ッテソノ 稲ノ束ヲ 負ヒ 南ニ 死ニサウナ人 アレバ 行ッテ コワガラナクテモ イヽ トイヒ五七頁・五八頁(鉛筆) 北ニケンクヮヤ ソショウガ ツマラナイカラ アレバ ヤメロトイヒ ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボート ヨバレ〈マタ〉五九頁・六〇頁(鉛筆)ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ南無無辺行菩薩南無無上行菩薩南無多宝如来南無妙法蓮華経南無釈迦牟尼仏南無浄行菩薩南無安立行菩薩 太字が頁数ですが、彼が残した「黒い皮の手帳」のものです。最初の「現代詩読本」の表紙写真にある手帳です。「ヒドリ」とあるのは「日照り」のことですね。こうしてみると読みにくいですね。 注目してほしいのは六十頁のお念仏なのです。彼は「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」と自らの願いを記した後、仏様たちにお祈りしていた、言うならばこの詩全体が「お念仏」としてとなえられていた言葉のメモの可能性があるのです。 冷害の夏、穂が青いまま秋を迎える田んぼのあぜ道に俯いて立っている青年。彼は病んだからだを治療することも拒否し、日がな一日、ここに立って、ぶつぶつと「雨ニモマケズ」を唱えている。そんなイメージ。結構、暗いですね。これを暗いと感じるか、純粋ととるか。 このイメージをぼくに示唆してくれたのは、思潮社が1979年に出した「現代詩読本 宮沢賢治」で、今は亡き、詩人の菅谷規久雄が「雨ニモマケズ再読」と題して書いているエッセイでした。詩人は一行一行綿密に読み返し、最後にこう結論しています。 もはやかれが、現世において、また現世にたいしてなしうることはなにもな。かれの、自死にもひとしくえらばれた意図的な病死は、おのが身を仏への供養とすることにほかなるまい。―あの法華経にいう焼身供養にもひとしく、である。 ともあれ、50年前に、僕が通っていた中学校の校門には「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」と彫ったプレートがはめ込んでありました。それが、この詩との出会いです。当時、やたら頑張れといっているように感じて、少々めんどくさかったのですが、こうして今読んでみると、むしろ「頑張れない」と泣いていることばようにも感じますね。頑張って偉くなる事をおそれているような気もします。無力であることを耐えつづけている人、いや、覚悟を決めてしまった人かもしれません。 「雨ニモマケズ」は、そんな人間のポケットにコッソリ隠されていた哀しい秘密だったのかもしれません。 そう考えてみると、あのプレートも、結構ラジカルだんじゃないか、そう思いませんか。(S)にほんブログ村ボタン押してね!
2019.10.08
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高村光太郎「レモン哀歌」「智恵子抄」(新潮文庫)より 十代の終わりから、二十代の初め、詩と出会い、読みはじめる。そういう体験は、今の若い人たちにもあるのだろうか。 「智恵子抄」の高村光太郎、「春と修羅」の宮沢賢治、「在りし日の歌」の中原中也。やがて、「わがひとに与ふる哀歌」の伊東静雄を知り、「荒地」派の詩人たちを知る。それが十代から二十代前半への、精神の成長のあかしのように思っていたころがある。1970年代初頭の高校生の「青春」だった。 レモン哀歌 高村光太郎 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁は ぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ わたしの手を握るあなたの力の健康さよ あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた それからひと時 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた 写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう こんな詩句をこっそり口ずさんでいた少年は、やがて、四畳半の下宿の天井に貼り付けた詩句を呪文のように繰り返しながら、四年で出られる学校に八年も在籍する、怠惰で無為な青年になる。 ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでいる 街は喧騒と無関係によってぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちょうどぼくがはいるにふさわしいビルディングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お袂れだ(吉本隆明「廃人の歌」部分) ようやくもぐりこんだ、海の見える丘の上にあるキャンパスは明るい廃墟のようだった。神戸製鋼所の溶鉱炉が深夜になっても赤い炎を立ち昇らせていた。 生協の書籍部に積み上げられた「構造と力」、「チベットのモーツアルト」、「映像の召還」。みんな眩しかった。40年近く過去の出来事になった。 今でも、こんな詩を読む人はいるのだろうか。丘の上で大きく一つ深呼吸して、もう一度読みはじめるのも、悪くないのではないだろうか。(S)2019・07・11追記2022・04・26 半世紀前に出会った詩や小説を読み直そうかと思っています。「読む」というよりも「書く」、一つずつ手で書き写してみようかと。思い出をたどりたいわけではありません。なにか、新しいことが起きないか、そんな気持ちです。 新しく目の前にやって来る作品群についていけない抵抗感の由来が知りたいという思い付きもあります。さあ、どうなることでしょう。にほんブログ村ボタン押してね!レモン哀歌 高村光太郎詩集 (集英社文庫) [ 高村光太郎 ]今はこんな装丁なんです。【送料無料】 智恵子抄 詩集 愛蔵版詩集シリーズ / 高村光太郎 【本】こういう、単行本もあるんだ。
2019.07.11
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