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映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 6
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ホン・サンス「小説家の映画」 ホン・サンスという監督の映画を、なんとなく見続けています。毎日通勤する仕事をやめて、まあ、映画でも見ようか、という気分で映画館通いを始めて6年ほどが経過します。 で、最初に見た韓国の監督の映画で、わけがわからなくて感想が書けなかった思い出の監督がホン・サンスという人です。にもかかわらず、なんとなく見続けている人です(笑)。いつも同じ女優さんが出てきます。今回も同じでした。で、何が伝えたいのかわかりません。今回もわかりませんでした。見たのは「小説家の映画」という作品でした。 中年の女流作家(イ・ヘヨン)が、偶然会った女優(キム・ミニ)と意気投合して、映画を作るというお話でした。 今も、現役の作家である中年の女性が、もともとは作家であったらしいのですが、今は身を隠して、書店を営んでいるらしい昔の知人を訪ねて来て、店に入ると店員が叱られているらしい、かなり激しい口調の叱声が聞こえてきます。 見ているこっちがハッ!?とします。そんなシーンから始まりました。画面はモノクロです。画面上の作家の行動は、偶然から偶然へと連鎖して、何人かの人と会うシーンが、まあ、何の必然性もないままくりひろげられます。やってきたのがどこの町なのか、作家が住んでいるらしいソウルから遠いのか近いのか、まあ、そういうことは見ているボクにはわからないのですが、やってきた町のどこかにある展望台で出合う映画監督の夫婦。そこから、遠くの公園でウォーキングしてる人が見えて、展望台から公園に行くと、さっき見えていたのは有名な女優だったようで、初対面のその女優と映画監督の夫婦が仲立ちするかのの様子で知り合いになって、4人の立ち話が始まります。で、監督が、まあ、お愛想のようにいうのです。「映画に出ないのはもったいないですね。」 すると小説家がキレていいかえします。「もったいないってなによ、この人の人生でしょ。」 まあ、正確な記憶ではないのですが、とか、なんとか、なのですが、見ているこっちは、ポカン? ですね。気色ばむというのでしょうか、ムキになるというのでしょうか、女優の、その雰囲気に????ですね(笑)。 気まずくなったのでしょうか監督夫婦は去って、女優の甥だかなんだか、映画の勉強をしている青年が新しく登場して、それから小説家と女優は食堂のテーブルで向かい合って座り食事をするシーンが始まりますが、それを窓の外から見ている少女がいます。上のチラシの写真のシーンです。少女が何者なのか、何故、そこに立って二人を覗いているのか、見ながら気に掛かるのですが、まったくわかりません(笑)。 それから、女優が参加しているという、地域の集まりにいっしょに行くことになって、そこには最初の書店の店主と店員の女性と、新たに、詩人ということですが、おしゃべりな老人とがいて、ちょっと狭いテーブルにはマッコリの空き瓶が並んでいます。やがて、酔いつぶれたように(全然、そうはみえませんが)女優はテーブルに俯せて寝込んでしまって、残りの四人の、なんだか、やっぱりお愛想めいた会話が続いて、いつ目覚めたのか覚えていませんが、店を出た小説家と女優は映画を撮ることを約束して別れます。 音のない、カラーの画面で笑顔の女優が花を抱えているシーンがいきなり映ります。小説家と女優が作った映画のシーンなのでしょうね。これは、たしかに、美しい! でも、浮かんでくるのは、「小説家の映画」という、この映画を作っているホン・サンスという人に対する、共感がないわけではないようなのですが、やはり、困惑というべき気分です。なんなんですかね、これは? 見終えて、はっきり記憶に残ったのは、最初の罵声と、遠くから見えた歩いている女優の姿、小説家の怒りの発言、窓の外の少女の姿、老詩人との過去をにおわせる囁き、そして、いきなり映った花の画像です。 新しい作品が公開されたら、やっぱり見に来るのでしょうかねえ。毎回、毎回、ちっともわからないし、納得も行かないまま、ボンヤリ眺めているだけなのに、こりませんねえ(笑)。監督 ホン・サンス脚本 ホン・サンス撮影 ホン・サンス編集 ホン・サンス音楽 ホン・サンスキャストイ・ヘヨン(ジュニ 小説家)キム・ミニ(ギル 女優)ソ・ヨンファ(書店の店主)パク・ミソ(ヒョヌ)クォン・ヘヒョ(ヒョジン)チョ・ユニ(ヤンンジュ)ハ・ソングクキ・ジュボン(詩人)イ・ユンミ2022年・92分・G・韓国原題「The Novelist's Film」2023・06・30・no79・シネ・リーブル神戸no196
2023.07.18
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チョン・ジェウン「子猫をお願い」元町映画館 本当は、まあ、同じ監督の猫のドキュメンタリィーを見るつもりだったのです。で、予告編を観ていて「これって、いけてるんじゃないの?」 とかなんとかで、とりあえず観たのですがあたり!でした。 チョン・ジェウンという女性監督の「子猫をお願い」という作品です。20年前の映画だそうです。英語の題というか、原題の「Take Care of My Cat」でしたが、見終えて、そのままの方がよかったんじゃないかと思いました。 高校を卒業した五人の少女の旅立ち(?)のお話でした。20年前に18歳というのは、わが家の愉快な仲間たちのサカナクンとかヤサイクンとほぼ同世代です。まあ、舞台が韓国のソウルとかインチョン(仁川)あたりなので微妙に違いますが、あの頃の高校生のリアル感は共通していました。 実家のサウナ風呂屋さんの番台というか、店番をしているテヒ(ペ・ドゥナ)、親のコネで入社したらしい証券会社の雑用係のヘジュ(イ・ヨウォン)、多分、アーティストになりたいのだけれど、仕事のないジヨン(オク・チヨン)、屋台というか、露天というかで怪しげなアクセサリーを売っている双子のピリュ(イ・ウンシル)とオンジョ(イ・ウンジュ)の五人です。 テヒは兄夫婦と両親、弟という家族構成で、父親は金もうけに夢中ですが、身体障碍者の詩人の口述筆記のボランティアをしてたりします。ヘジュは両親が離婚して姉と同居していますが、経済的に困ることはなさそうで着飾ることに夢中ですが、職場では、ただの高卒には未来がないことに気づき始めています。ジヨンは両親と死別しているようで、祖父、祖母と暮らしていますが、明らかに貧しい地域の壊れかけの住居で暮らしています。ピリュ(イ・ウンシル)とオンジョ(イ・ウンジュ)の双子の姉妹は、住居こそ出てきますが家族については不明ですが、ガチャな雰囲気を充満させていて、いい味出しています。 話を急に変えますが、映画が始まる前にアランというフランスの哲学者の「定義集」(岩波文庫)を読んでいたのですが、恐ろしいほどに偶然なのですが、ちょうど「友情」の定義でした。AMITE 友情 それは自己に対する自由でしあわせな約束である。この約束によって、自然な行為が、あらかじめ年齢や情念や相剋や利害や偶然を越えて、揺るぎない同意となっている。そういうことはふつう、明言されていないけれども、そういう感じはよくわかる。友情には絶対的な意味での信頼がある。そこから、どんな策略もなしに自由に話し合うことが、自由に判断することができるのである。逆に、条件付きの友情など嬉しいわけがない。(P26) 映画は、このアランの定義を、あたかも映像化して見せてくれるかの展開で、正直驚きました。 で、ネコはどこに出てくるのかということですが、ボクの見るところ、「信頼」の象徴の役まわりでしたね。よくある野球とかサッカーをネタにした少年の青春漫画とかだとボールが果たす役割といえばいいのでしょうか。 映画では、一番きびしい(?)境遇にあるジヨンが子猫を拾うのですが、五人の手から手にわたって生きていく子猫が醸し出すゆらぎのようなものが、互いの信頼のゆらぎを実に素直に表現していて納得でした。 それぞれが、ぼくとしては「そういう娘さんもいたよな。」 とうなづける普通の女性たちといっていいのですが、それぞれの人間のこころの底にある、その人だからこその真摯さ、あるいは、やさしさのようなものを掬い取ろうとしている作品だと思いました。 チョン・ジェウン監督に拍手!でした。それから、高校を出たばかりの少女たちのおバカぶりをなかなかリアルに演じたペ・ドゥナ、イ・ヨウォン、オク・チヨン、イ・ウンシル、イ・ウンジュに拍手!拍手!でした。 上のチラシの写真の少女、ちょっと変わりもののテヒを演じていたペ・ドゥナさんは、40歳を過ぎて刑事になったようで、最近「べイビーブローカー」の捜査で張り込みをしているのを見かけましたよ。 「そうか、彼女は、結局、K察官になったのか!?」 とかなんとか、頓珍漢なこと考えたりしていましたが、ちなみに、アランの「定義集」によれば、「真摯」という言葉の定義はこんな感じでした。SINCERITE 真摯 人が真摯といえるのは、話し相手を疑わないで、ゆっくり自分の考えを説明する時間がある場合だけである。こうした友好的な状況以外では、もっとも真摯な人間は、誤ったことはなにも言わないこと。誤解されかねないことはなにも言わないこと、そして自分の考えていることはすべて、ほとんど黙っていること、またもちろん、確かな考えでないことは必ず黙っていることを、規則とするだろう。(P150) この定義を写していて気付いたのですみませんが、ちょっと、映画の話に戻りますね。映画の後半ですが、ありえない祖父母殺しを疑われたジヨンが警察につかまります。捜査員の尋問でも、収容された施設の取り調べでも、彼女は完全黙秘を貫き続けるのですが、面会に来たテヒがこんなことをいいます。「ジヨン、話さないとわからないよ。」 このことばで、ジヨンははじめて語りはじめたらしく(そのシーンはありません)解放されるのですが、帰る家も家族もすべて失ったジヨンの真摯がテヒの友情とぶつかったシーンだったのですね。 やっぱり、この映画はかなり分厚い作品でしたね。アランとかも、たまには読み直してみるものですね(笑)監督 チョン・ジェウン脚本 チョン・ジェウン撮影 チェ・ヨンファンキャストペ・ドゥナ(テヒ)イ・ヨウォン(ヘジュ)オク・チヨン(ジヨン)イ・ウンシル(ピリュ)イ・ウンジュ(オンジョ)2001年・112分・韓国原題「Take Care of My Cat」日本初公開 2004年6月26日2023・03・01-no030・元町映画館no164
2023.03.03
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ハン・ジェリム「非常宣言 EMERGENCY DECLARATION」109シネマズハット ここのところ、ちょっと常連化し始めている109シネマズハットにやってきました。観たのは韓国映画、ハン・ジェリムという監督の「非常宣言」です。原題が「EMERGENCY DECLARATION」だそうですから、そのまま邦訳すれば「緊急事態宣言」とかいう日本語になりそうですが、「非常宣言」という、日本語の語感としては、なんか変な印象の題でした。何か、意図があるのでしょうかね? 飛行機とウイルス感染を使ったパニック映画でした。言葉は変ですが、まじめに見る人がいれば、先ほどの邦題のつけ方に始まって、いろいろ、いちゃもんをつけたくなる設定も、あれこれ感じましたが、映画全体の気合というか、勢いで、結構楽しく見ました。 ソン・ガンホという俳優が気に入っていて、まあ、彼を見に来たという面もあるわけなのですが、全体として、もちろん真面目に作られているのですが、どこか「マンガ的」ともいうべき展開を底から支えるかの立ち位置の役柄で、結果的には、もっとも「マンガ的」な、だから、もっともまじめな人物を、実に彼らしく演じていて、笑いとともに拍手!でした。 もう一人、この人の顔はどこかで見たなという俳優はイ・ビョンホンでしたが、彼は、ソン・ガンホとは対照的な役柄で、まあ、隠遁から目覚めるヒーローというか、かっこいい役をかっこよく演じて拍手!でしたが、男前は得ですね(笑)。 飛行機の乗客、乗務員全員が、わけのわからないウイルスに感染し、死んでしまった機長に代わって操縦している、副操縦士が「非常宣言」を出すのですが、にもかかわらずですね、アメリカ、日本、自国の大統領府からさえも着陸を拒否されるという設定には、少々無理がありましたが、2020年、コロナウイルスの蔓延で都市封鎖した武漢の生活の記録である「武漢日記」を読んだばかりということもあってでしょうか、機内の人間、だから、感染して苦しんでいる人間の命を気遣うことなく、着陸後の感染の危険性を主張するという、地上の政治家たちの異様な論旨に、「そういう対処の仕方をしそうだな。」という妙なリアルを感じてしまいました。これって、「コロナ後の世界」の始まりなのでしょうかね。 で、もうひとつ面白かったのは、緊急着陸を要請した成田で自衛隊機が威嚇射撃までして感染機を追い払い、そのあと、日本の政治家の、口先だけの言い訳声明が続くシーンがあるのですが、なんだか、これまた、やりかねない気がしましたが、そういうことを、今、やるかやらないかはともかく、映画を離れて、韓国側から日本を見れば、そういう国だということなのかもしれませんね。 ここの所の対韓政策や、なし崩しの軍拡政策に対する、映画製作者の痛烈な揶揄を感じましたね。監督 ハン・ジェリム製作 ハン・ジェリム製作総指揮 キム・ドゥス脚本 ハン・ジェリム撮影 イ・モゲ パク・ジョンチョル編集 ハン・ジェリム音楽 イ・ビョンウ チョン・ジフンキャストソン・ガンホ(ク・イノ刑事)イ・ビョンホン(パク・ジェヒョク元パイロット)チョン・ドヨン(キム・スッキ国土交通省大臣)キム・ナムギル(ヒョンス副操縦士イム・シワン(リュ・ジンソク:テロリスト)キム・ソジン(ヒジンチーフパーサー)パク・ヘジュン(パク・テス大統領府危機管理センター)2022年・141分・G・韓国原題「Emergency Declaration」2023・01・16-no005・109シネマズハットno21
2023.01.17
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イ・スンウォン「三姉妹」パルシネマ 「ベイビー・ブローカー」と2本立ての1本でした。おそらく30代後半から40代の3人の姉妹の現在が描かれています。どなたも、うまくいっていない「今」と格闘していらっしゃる様子で、それぞれのうまくいっていない現在が、ちょっと凄まじいのが、この映画の特徴だと思いました。 マア、過剰なのですね。がんを患っていることを隠しながら、非常識の塊のような娘と二人暮らしで、流行っているとはとても思えない花屋を営む長女。教会の合唱団の指揮者で、過剰な入信ぶりを振りまきながら、夫の浮気相手に陰気な暴力を振るう二女。劇作家、まあ、クリエーターとかいうほうがいいのかもしれないお仕事の人らしいですが、才能のなさを食べることと、だれかれなしに振る舞う乱暴で紛らわしているらしい三女。 喜劇になってしまう、いや、もう、なっていたのかもしれませんが、その一歩手前ぐらいの「イライラ感」というか、「チグハグ感」というかが、過剰に描かれていることに唖然とする展開で、正直、訳がわかりません。 見ていて「なにこの映画?」だったのが、実は、三姉妹の幼児体験、家族体験にその理由が・・・・という結末まで来て、もう一度唖然としました。 もう、シュールとでいうしかない帳尻合わせでポカンとしてしまいました(笑)。映画の展開の論旨というか、見ているこっちの「なぜ?」に答える文脈は案外古典的というか、ありきたりなところが、まあ、アホらしいのですが、妙な力感というか、パワフルというかの印象は残りましたね。 韓国映画は元気がいいですね(笑)。チラシのイメージを蹴散らしまくる怪作!でした。で、まあ、三姉妹のハチャメチャさと、最後にちょっとだけ出てきて血まみれになったお父さんに「ご苦労さんでした!」の拍手!でした(笑)。マア、見終えたこっちも、結構、「ご苦労さん!」でしたね(笑)。 二本見終えて、外に出ると、まだ明るかったことに、理由は判りませんが、心底、ホッとしました。久しぶりに東山市場を徘徊して、まだ並んでいた柿の安売りを買い込んで、歩き出すと重くて閉口だったのですが、JRの兵庫駅まで歩きました。何はともあれ、お天気のいい、秋の夕暮れというのはいいものですね(笑)。監督 イ・スンウォン脚本 イ・スンウォン音楽 パク・キホンムン・ソリ(ミヨン 二女)キム・ソニョン(ヒスク 長女)チャン・ユンジュ(ミオク 三女)チョン・ハンチョル(ミヨンの夫)ヒョン・ボンシク(ミオクの夫)2020年製作・115分・G・韓国原題「Three Sisters」2022・11・25-no131・パルシネマno45
2022.11.26
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イ・ギュマン「警官の血」 kino cinema 神戸国際 先日、久しぶりに神戸国際映画館にやってきて、一人鑑賞体験を経験しましたが、それに味をしめて、また、やってきました。見たのはイ・ギュマン「警官の血」です。 チケットブースに行くと、同じように会場図を見せられましたが、今回は会場中央の二つの席が埋まっていました。で、残りは空席でした。 先日より、少し広いホールなのですが、客は三人でした。開場を待って、ホールの前のベンチに座っていると、女子大生風の二人組がポップコーンとか飲み物をトレイに載せてやってきました。「まだみたいね。ここで待つ!?」「あのー、ちょっと、話しかけてもいいですか?」 いきなり前に座っていた老人から声をかけられて、ちょっと、ギョッとしたようですが、すぐに笑顔に戻って頷いてもらえました。「はい、かまいませんよ(笑)」。「あのね、お二人は、警官の血をご覧になるんでしょ。ぼく、さっきチケット買ったんですけど、客は、たぶん、この三人なんです。先日はこの映画館で一人だったんだけど、今日は三人で、ホッとしてるんです。」「ええー、そうなんですか。」「そう、でね、この映画、たぶんバイオレンスだと思うのですが、お二人は、出ている俳優さんとかがお好きなのですか?」「はい、私がファンなんです。」「主役の人?」「いえ、若い方のチェ・ウシクさん。」「ああ、そうなんですね。すみません、突然、声をかけたりして。」「いえ、いえ、大いに楽しみましょう。もう入れるようですよ。」「あっ、ありがとう。」「こちらこそ(笑) と、まあ、厚かましい系老人力を思いっきり発揮して、思いのほか和やかに返答してもらえたので、なんとなくうれしい気分で席に着きました。彼女たちは自由に席を選びなおしていたようですが、ぼくはいつものように、ほぼ最後列の隅っこに座りました。結局、最後まで3人でした。 で、映画です。納得でした。パク・ガンユンという年かさのベテラン刑事と、チョーまじめな青年刑事チェ・ミンジェのコンビを、チェ・ジヌンとチェ・ウシクという俳優が演じる警察ドラマでした。 チェ・ジヌンは、多分、「工作 黒金星と呼ばれた男」で脇役でした。チェ・ウシクは「パラサイト」という映画でで、ソン・ガンホの長男だった人です。最近、ちょっと「ああ、この人は・・・」と気づくようになりましたが、帰宅して確認し直さないと判らない程度ですから、当てにはなりません(笑)。 原作は佐々木譲の「警官の血」(新潮文庫)とのことですが、見終わっての印象では、ほぼ、翻案作品という感じでした。マア、読んだ記憶もあやふやですから、これも当てにはなりません。 納得でしたと書きましたが、理由はうまく言えませんが、まず、人物の描き方というか、主役二人の演技がよかったですね。 ヤクザの代貸役が似合いそうな汚職を疑われているやり手の刑事パク・ガンユンを演じるチョ・ジヌンと、とっちゃん坊やというか、甘ちゃん顔の新米刑事チェ・ミンジェを演じるチェ・ウシクという二人の俳優が、ドラマが展開していくにつれて、だんだん、演技に気合が入っていく印象で、心理の奥の襞の部分がぶつかり合っていると感じさせるセリフ回しとそれに伴う動きに、グイグイ引き込まれました。 話の大筋が読めてきた後半に入ると「で、どうするの?」という気分で、もう、目が離せませんでしたが、まあ、「謎とき」という要素はあるのですが、やはり、主役の二人が作り出す緊張感に酔いましたね。映画を見ていて、この感じは久しぶりでした。特に、坊やの印象だったチェ・ウシクの変貌ぶりは見ごたえがありました。 もう一つは筋立てですね。「警官の血」という小説がそうだったように、父と子のドラマという、まあ、云ってしまえばありきたりな型に沿った筋立てなのですが、そこからどう飛躍すれば、エンターテインメントを見来た観客は納得するのかが、実にうまく仕込まれていて、これまた、ありがちの結末なのですが、後味がよかったことですね。ほんと、うまいものでした。 主役の二人には、もちろん拍手!ですが、日本の作家の原作なのですが、いかにも、韓国の今を感じさせて、かつ、すっきりとした結末で仕上げた監督イ・ギュマンに拍手!でした。 イ・ギュマンという監督も若い人らしいですが、韓国映画のレベルは高いですね。当分、ハマりそうです(笑)。 件の女性たちに「チェ・ウシク君よかったね!」と声をかけたかったのですが、エンド・ロールでトイレに駆け込まなければならないていたらくで、見失ってしまいました。ザンネン! それにしても、なんで、この作品で、観客がたった3人なのでしょうね。それも、また、残念ですね。監督 イ・ギュマン原作 佐々木譲チョ・ジヌン(パク・ガンユン 汚職刑事)チェ・ウシク(チェ・ミンジェ 内偵刑事)パク・ヒスン(ファン・イノ監察部係長)クォン・ユル(ナ・ヨンビン 麻薬組織のボス)パク・ミョンフン(チャ・ドンチョル やくざ)閉じる2022年・119分・PG12・韓国原題「The Policeman’s Lineage」2022・11・07-no124・kino cinema 神戸国際no7
2022.11.09
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ホン・ウィジョン「声もなく」シネ・リーブル神戸 半月ほど前の予告編で妙に気になっていたいた映画でした。ポスターのお二―ちゃんの顔を、どこかで見たことがあると思うのですがわかりません。「どうしようかなあ・・・」「でも、この子役おもろそうやん。」 最終日に決断(そんな、おおげさな!)してやってきました。ホン・ウィジョン監督の「声もなく」です。 で、わかりました、この青年は「バーニング」で自動車に火をつけて焼いたあいつです。あのの映画の主役ジョンス青年を演じたユ・アイン君が今度は自転車に乗っていました。 韓国ではトップ・スター(?)の一人らしいのですが、まあ、そのあたりが全く分かっていないのがシマクマ君です。 で、そのユ・アイン君が丸刈りにして挑んだ役柄が、耳は聴こえるようなのですが、口をきくことができない青年テイン君です。 どうも妹ムンジュ(イ・ガウン)と二人、親のいない孤児の兄妹のようなのですが、チャンボク(ユ・ジェミョン)という、足の不自由な中年男に拾われて暮らしているようです。 で、このチャンボクというおっさんですが、表向きは「卵売り」で生活していますが、実は犯罪組織の死体処理というのが正業で、その手伝いをしているのがテイン君なのでした。 お話は、その下請け業者の二人に、雇い主の犯罪組織の方から誘拐してきた少女チョヒ(ムン・スンア)ちゃんを預かれという、まあ、考えてみれば何となくごまかしのききそうな下請け仕事ではなくて、直接犯罪に加担する仕事が舞い込んでしまい、断るに断れないまま誘拐事件の共犯になってしまうのですが、今度は、本家の犯罪組織の仲間割れで、誘拐事件は空中分解してしまい、引き取り手がなくなった少女チョヒちゃんだけが手元に残るという、まあ、ドタバタな展開の中の下請け犯罪者の悲哀(笑)を描いたかのような展開です。で、これはなかなかの映画なのだ! と思いました。 まず、テイン青年が、口がきけないのですから当たり前ですが、無言の表情がすばらしい! のです。無言の青年と二人の少女がゴミ屋敷のような棲家での生活のなかで、互いのコミュニケーションを成り立たせていく様子はなかなかな見ものでしたよ。正直、胸を打たれました。 もう一つ、この作品の演出の不思議は、死体の片づけなどという、まあ、重労働(?)を終えて、テイン青年が少女チョヒちゃんを自転車に載せて、妹ムンジュちゃんの待つ村はずれの棲家に帰る夕暮れの空が、チラシの写真のような絵にかいたような茜色なのです。偶然、夕焼けだったといってしまえばそれまでですが、なんなんでしょうね、この茜色は? たしか(ちょっとあやふやですが)一度ならず美しい夕暮れを映し出すことで、この作品が単なる犯罪映画ではない、じゃあ何映画なんだといわれれば、まあ、答えに困るのですが、というようなことを感じさせました。 この作品の、英語の題名は「Voice of Silence」だそうですが、「沈黙のことば」とでも直訳した方が、映画の中のテイン青年の哀しさを正しく言い当てている気がしました。 完成度では及びませんが、是枝裕和監督の「万引き家族」に似たテイストを感じました。監督のホン・ウィジョンという人は1982年生まれの女性らしいですが拍手!ですね。 コントロールが少々甘い気はしましたが、いきなり剛速球でした。次の作品が楽しみな監督だと思いました。 テイン青年役のユ・アイン、そして二人の少女にも、もちろん拍手!でした。特にチョヒを演じたムン・スンアという少女のしたたかな演技は子供のすることとは思えない小癪さで、拍手!拍手!でした。 イヤ、ホント、見逃さなくてよかった、よかった。韓国映画は若い人もすごいです(笑)。 監督 ホン・ウィジョン製作 キム・テワン脚本 ホン・ウィジョン撮影 パク・ジョンフン編集 ハン・ミヨン音楽 ヒョクジン チャン・ヨンジンキャストユ・アイン(テイン・口のきけない青年)ユ・ジェミョン(チャンボク・おっさん)ムン・スンア(チョヒ・人質の少女)イ・ガウン(ムンジュ・幼い妹)イム・ガンソン(ヨンソク)チョ・ハソク(チョンハン)スン・ヒョンベ(スンチョル)ユ・ソンジュ(イルキュ)2020年・99分・G・韓国原題「Voice of Silence」2022・02・17-no20・シネ・リーブル神戸no136
2022.02.26
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イ・ファンギョン「偽りの隣人 ある諜報員の告白」シネ・リーブル神戸 週間限定公開とかで、すぐに終わるということでやってきたシネ・リーブルでした。実は住まいの二階あたりで改築工事中らしく、サンデー毎日の自宅ゴロゴロ生活の予定だったシマクマ君、頭上から直接響いてくる騒音に音を上げて逃げ出してきたのです。 でも、まあ、80年代からの「民主化」をテーマにした韓国映画! ということで、ちょっと期待してやってきました。 チラシにもありますが「タクシー運転手」とか、「1987、ある戦いの真実」とか、個人的な見方にすぎませんが、韓国映画の、ちょっとやりすぎで、どこか笑えて、それでいて「民主化」ということを正面から受け止めようとしているニュアンス がぼくは好きです。 今日の映画はイ・ファンギョン「偽りの隣人 ある諜報員の告白」です。 この作品もサスペンス仕立てではありますが、どこかコメディを強く意識している監督なのでしょうね、結構、シリアスでバイオレンスな展開を「笑い」で引っ張っている演出に笑ってしまいました。 やる気はあるけど、まっすぐにしか考えられない諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が旧式トイレの便壺から登場するのがスタートです。 まあ、この辺りから生真面目な「民主化」賛歌ではないことは予想できるわけで、結果的に最後まで結構笑わせてくれたところが好み映画でした。 まっすぐにしか考えられない諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が、外国帰りの大統領候補イ・ウィシク(オ・ダルス)の自宅を盗聴するとどうなるかというストーリーで、1970年代から続いた、朴正煕の政敵、金大中に対する弾圧をモデルにしているとすぐにわかるストーリーでした。 金大中が実際に交通事故を装って「暗殺」されかけたことは、今では公然の事実です。しかし、その事件の中で、彼の長女が殺されるということがあったのかどうかまではよく知りませんが、この映画の中では殺されてしまいます。 まっすぐにしか考えられない、愛国主義者の諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が、はっきりと上司に楯突き、「殺してこい」と命じられながらも、自らが盗聴している民主化大統領候補イ・ウィシク(オ・ダルス)を救うため、人間として「まっすぐ」に行動する契機になるのがその事件なのですが、この時代の後、民主化を支持した韓国の人々にとって、「タクシー運転手」の主人公がそうであったように、主人公の素朴な心情の描き方に「ほんとうの事」 を感じました。 最後のクライマックスシーンのカー・チェイスの最中、素っ裸になって路上を走り回る、主人公の「滑稽さ」と正直な「善意」の姿は、韓国の民主化の「強さ」と「弱さ」の両方を表している印象を持ちました。特にこの作品は「愛国」者が「民主」化を選ぶ姿を描くことで、「本当の愛国」を問いかけているのだろうと思うのですが、一抹の疑問が残ったことも忘れないでおこうと思いました。 マア、それにしてもシリアスと、漫才のような掛け合いの笑いを演じ、最後は裸になって頑張ったチョン・ウ(ユ・デグォン)に拍手!でした。監督 イ・ファンギョン脚本 イ・ファンギョンキャストチョン・ウ(ユ・デグォン)オ・ダルス(イ・ウィシク)キム・ヒウォンキム・ビョンチョル2020年・130分・G・韓国原題「Best Friend」2021・10・05‐no90シネ・リーブル神戸no124
2021.10.25
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キム・ドヨン「82年生まれ、キム・ジヨン」パルシネマ 映画と同じ題名の原作の小説が評判になったのがつい最近だったと思うのですが、あっという間に映画化されて、封切りを見損じたと思っていたらパルシネマでやってくれていました。 キム・ドヨン「82年生まれ、キム・ジヨン」です。 河島直美の「朝が来る」と二本立てで見ました。河島の作品には、なんだかうまく言えない「ウソ」のにおいがしましたが、この作品には、明るく、ストレートに言いたいという、率直な「ホント」を感じました。 新人のピッチャーが全力投球して、タマは早いけど、ちょっとストライクじゃないねという印象です。 原作小説では、主人公キム・ジヨンの担当医が、彼女の訴えを記録した「カルテ」という構成で描かれていた「社会」が、映画ではキム・ジヨンが直接出会う世界として描かれています。 結果的に、現代韓国社会で生きる女性の「ドキュメンタリー」のような体裁で、シンプルでわかりやすいのですが、「社会」も「人間」も、なんというか、分厚さというか、重層性を失っている印象でした。 まあ、その結果というわけでもないのですが、俳優さんたちの演技や、描かれている社会のリアリティに、共感したり、疑問を感じたり、「日本」も一緒やとかいうような感想に落ち着く映画になっている気もしました。それはそれで納得のいく作品なのですが、原作で、構成的要素としてしか描かれていませんが、思い浮かべざるを得ない、男性医師がカルテを記入するときの「意識」の闇については表現しきれていないのではないかという印象を受けました。 キム・ジョンが抵抗している、社会の無意識のような女性に対する抑圧に意識を支配されている男性医師による診察という構造が、女性の医師・カウンセラーに置き換えられて、この映画は作られているわけですが、その結果テーマに対する印象が、少し変わったんじゃないかと感じたわけです。 映画化が原作に対して忠実である必要は全くないと思いますが、最後のシーンで、社会と妻の板挟みになりながらも、終始、妻をいたわり、「やさしい」夫であったデヒュンが、笑顔で「子どもを作ろう!」とジョンに抱き着くのですが、「えっ?なんか解決したの?」って、思わず笑ってしまいました。 なんだか貶しているようですが、しかし、正直で率直な明るさと強さが描かれている後味のいい映画でした。なんといってもこの映画のような率直さは、日本ではあまり見かけないように思うのですが。「球は、確かに速いんですよ!」(笑)監督 キム・ドヨン原作 チョ・ナムジュ撮影 イ・スンジェ編集 シン・ミンギョン音楽 キム・テソンキャストチョン・ユミ(ジヨン)コン・ユ(デヒュン:夫)キム・ミギョン(ミスク:母)コン・ミンジョン(ウニョン:姉)キム・ソンチョル(ジソク:弟)イ・オル(ヨンス:父)イ・ボンリョン(ヘス:同僚)2019年・118分・G・韓国原題「Kim Ji-young: Born 1982」2021・06・15-no56パルシネマno41
2021.08.21
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チョ・チョルヒョン「王の願い ハングルの始まり」元町映画館「タクシー運転手」で出会ったソン・ガンホという俳優さんは、ぼくに韓国映画の面白さを教えてくれた一人といっていいのですが、そのあと見た「パラサイト」もそうだったのですが、韓国の庶民の顔だと思い込んでいました。 半年ほど前に元町映画館でかかっていた「王の運命」という映画に出ていて、見よう見ようと思いながら見損じていて、今回の「王の運命」で、ようやく「王様」を演じているソン・ガンホと出会えました。なんと、王様も似合うのでした。 映画は15世紀の朝鮮を舞台に、ぼくたちが世界史で「李氏朝鮮」という呼び名で習った国の4代目の王で、「ハングル」をつくった世宗大王の「ハングル=訓民正音」公布までの苦闘を描いた歴史ドラマでした。 チラシを見ればわかりますが、その世宗大王を演じているのがソン・ガンホでした。 歴史教科書的には世宗大王という人は科挙制度や明との冊封関係によって王朝を維持する儒教国家の頂点に立つ人であったわけですが、こと「ハングル」の創生に関しては仏教の僧侶と手を携えるという、二律背反を丸のみにした人物であったというのがこの映画の「面白さ」の肝だったように思います。 その、苦悩の王を演じて、いかにもリアルであったのがソン・ガンホでした。一方、王朝による弾圧のなかで、才気あふれる剛毅な人物として、世宗大王と渡り合うのが仏教僧シンミで、彼を演じたパク・ヘイルという俳優さんが、今回の映画で、特に記憶に残った男前でした。 儒教対仏教の対立、冊封国家としての対「明」に対する思惑、15世紀の朝鮮王朝の風俗を背景に、人工言語ハングルが生まれていく、実に学問的ともいえるプロセスと、それにかかわる人間模様を丁寧に描いた秀作だと感じました。 15世紀の朝鮮国の王と仏教徒、すなわち、当時、最下層の民が、手を携えて、民族独自の「文字体系」を希求し、完成する姿は、大日本帝国統治下で「朝鮮語」を守ろうとした民衆を描いた「マルモイ」という作品と響きあうものを感じました。 ぼくは「国家」を讃える考え方には抵抗を感じるのですが、この映画の後味が実に爽やかであったのは何故なのか、今のところ答えの分からない問いとして残った作品でした。 なにはともあれ、シンイの弟子として「ハングル」を生み出す現場で大活躍した少年僧に拍手!の映画でした。監督 チョ・チョルヒョン脚本 チョ・チョルヒョン撮影 キム・テギョン編集 キム・サンボン音楽 タル・パランキャストソン・ガンホ(世宗)パク・ヘイル(シンミ)チョン・ミソン(ソホン王后)キム・ジュンハイチャ・レヒョンタン・ジュンサン2019年・110分・G・韓国原題「The King's Letters」2021・07・20‐no67元町映画館no82
2021.07.23
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オム・ユナ「マルモイ」元町映画館 2020年の秋、だから今年の秋ですが、辞書を作る映画を2本みました。1本目は「博士と狂人」というイギリス映画で、オクスフォード英語辞典Oxford English Dictionary、通称OEDの誕生秘話とでもいう映画でした。 登場人物や、映画としての物語についてはここでは触れませんが、辞書を作っている人の「ことば」の集め方が、「失楽園」とか「聖書」とか、書物での使用法の引用をメインにしていたことが印象的な映画でした。 2本目がこの映画「マルモイ」でした。 チラシの副題には「ことばあつめ」と記されています。「マル」は朝鮮語で「言葉」、「モイ」は「集める」という意味だそうです。「言葉+集める」で、朝鮮語では「辞書」という意味になるそうですが、この映画は、文字通り半島全土で使用されている日常語を「集める」様子を描いた映画でした。 文盲で「置き引き」や「すり」を働いて二人の子どもを育てている、刑務所帰りのキム・パンスという男と、留学帰りで、朝鮮語学会を率いるエリート、リュ・ジョサンという、インテリ青年の出会いから映画は始まりました。 キム・パンスを演じる、ユ・ヘジンという役者さんが我が家では人気で、実は、この日も同伴鑑賞でしたが、期待にたがわぬ大活躍でした。 辞書を作ろうかという真面目な人たちや、なぜか、京城中学というエリート学校に通う中学生の息子や、小学校に上がる前のかわいくて利発な娘にかこまれて、「フーテンのトラ」の、渥美清もかくやという大活躍でした。 脚本の力でもあるのでしょうが、本来、抵抗映画として重くなるほかはない映画全体を、彼の存在が明るく、勢いづける原動力となっていて、大したものだと思いました。 映画を見終わって、チッチキ夫人が、ぼそりといいました。「映画の中のいろんなことが、ああなったのって、日本人がやった事でしょ。映画の中で、頑張っている人に、そうだ、そうだと思いながら、なんだか悲しくなってきたわよ。」「うん、あの、オニーさんの方が留学から帰国したソウルの駅前で、子どもたちが言うたやろ、日本語で。ぼく、朝鮮語できません、って。それから、小学校に上がる娘が言ううやん。キム・スンヒのままがいい、って。」「あの子ら、今、80越えてはんねんな。うちのオカーチャンとかと一緒くらいやろ。台湾でもそうやろ。」 そのまま話がとぎれて、帰宅しましたが、気にかかったことがありました。唐突ですが、朝鮮語で「国語」といういい方はあるのだろうかということです。 日本の学校では、今でも、日本語のことを「国語」と言います。でも、この言葉を、直訳で英訳すれば「National language」であって、「Japanese」ではありません。 韓国語では「ウリマル」といういい方があるそうです。「ウリ」は「私たちの」、「マル」は「言葉」で「私たちの言葉」という意味になるそうですが、「ハングル」を指すそうです。日本語の「国語」とは少し違いますね。 で、数年前に読んだ本を思い出しました。「国語という思想」(岩波書店)という、イ・ヨンスクという、一橋大学の学者さんがお書きになった本です。 その本で彼女は、日本語を「国語」と固有名詞化した、近代日本のイデオロギー、政治的意図について詳細に論じていて、スリリングな本ですが、この映画を見て、イ・ヨンスクさんが、なぜ「国語」を研究対象にしたのか、彼女が言う「近代日本のイデオロギー」の正体とは何だったのかが腑に落ちた気がしました。 「国語」と「帝国臣民」を押し付け、「言葉」と「名前」を奪った統治政策の「悪質さ」は、まだ十分に検証されてはいないのではないでしょうか。ヨーロッパの帝国主義諸国も同じことをしたいう人もありますが、果たしてそうでしょうか。「同じこと」とは、実は言えないのではないでしょうか。 ぼくは「国語辞典」を愛用していますが、なぜ、この「国語」という言い方に疑問を持たなかったのでのでしょう。そんなことを考え始める映画でした。監督 オム・ユナ製作 パク・ウンギョン脚本 オム・ユナ撮影 チェ・ヨンファン編集 キム・サンボムキャストユ・ヘジン(キム・パンス)チョ・ヒョンド(キム・ドクジン:中学生の息子)パク・イェナ(キム・スンヒ:幼い娘)ユン・ゲサン(リュ・ジョンファン)キム・ホンパ(チョ・ガプイン先生)ウ・ヒョン(イム・ドンイク)キム・テフン(パク・フン)キム・ソニョン(ユ・ジャヨン)ミン・ジヌン(ミン・ウチョル)2019年・135分・韓国原題:「Malmoe」 The Secret Mission2020・11・13元町映画館no62にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.27
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キム・ボラ「はちどり」元町映画館 休日は満席が続いていると聞いて、月曜日にやって来ました。キム・ボラ監督の「ハチドリ」です。 当てが外れました。元町映画館は今日も満席でした。とはいえ、一つ飛ばしの着席です、余裕ですね。で、映画が始まりました。 チラシの顔の少女がドアの前で繰り返しチャイムを押しています。ドアを素手で叩いて母を呼び始めました。902号室、高層アパートの9階にあるこの部屋は、彼女の自宅のようですが、彼女は家族から締め出されているようです。 1994年、中学2年生、14歳のウニは「餅屋」を営んでいる両親と姉、兄の5人家族の末っ子です。 映画は中学生ウニの日常生活を写し続けます。冬のシーンがありませんから夏から秋にかけての、半年ほどの生活です。 家庭では、期待過剰な受験勉強の欲求不満を抱える兄の暴力のターゲットです。父親の男尊女卑の暴言は日常的で、姉は男友達を部屋に引き込む「不良少女」です。 学校の勉強には何の関心も湧きません。授業中も寝ているか、そうでなければ漫画を描くことに熱中していますが、クラスメイトはあざけりのことばを平気で投げつけていきます。ファースト・キスを試みる異性の友達はいましたが、ただのマザコン少年でした。 慕ってきた下級生の少女に告白された「愛」を、ちょっと真面目に信じていましたが、しばらく音信不通が続き、再会したときには先学期のことだと、軽くふられてしまいます。 いっしょに書道塾に通っている友達と文房具屋で万引きをします。なんことはない、友達に裏切られ、住所をバラされ、さらし者にされたのはウニだけでした。 たった一人、わかってくれるかもしれないと期待した、塾のヨンジ先生は大橋の崩落事故に巻き込まれて死んでしまいました。 なにしろ、中学2年生です。何にもなさそうですが、あれこれ、ろくでもないことに次々と遭遇します。哀しいだけです。どうしてそうなるのか、他の人たちがどうしてそんなことをするのか、中学生のウニにはわかりません。 映画の中で羽ばたき続ける14歳のHummingbirdに、安らぎの小枝は最後までなかったように思います。 映画のタイトルロールで、わざわざ1994年という字幕が入ります。中学生ウニの生活のところどころに、北朝鮮の国家主席、金日成の死、サッカーのワールドカップ、アメリカ大会、そしてソウルの漢江に架かっていた聖水大橋崩落事故のテレビ・ニュースが挿入されます。みんな1994年のことです。 それぞれ、ほとんど、唐突な印象のシーンなのですが、この監督が、この映画にこめた意図が、そこにあると思いました。 隣りの島国より、十年遅れて到来した高度経済成長という資本主義が追い求めるアブナイ社会で中学2年生のウニは暮らしています。 彼女が毎日通る道筋に、「地上げ」に抵抗し、バラックの小屋に住む人たちの横断幕があります。彼女はその横断幕が気がかりでたまりませんが、やがて破り捨てられてしまいます。 友達とはポケベルで連絡し合います。懐かしいアイテムですね。公衆電話を使って、暗号のような連絡を取った、あれです。しかし、ポケベルでは心は届きませんでした。 修学旅行でしょうか、どこかへの旅の始まりの日に広場から空を見上げているウニのくっきりとした眼差しをカメラが上から撮ったシーンで映画は終わります。 なんだか満たされない気持ちで映画館を出て、人通りの増えた商店街を歩きながら、ふと、思いました。 14歳だったHummingbird はあの日から25年の年月、ドアから締め出され続け、羽ばたき続けてきたのではないでしょうか。 「地上げ」された空き地には高層ビルが建ったのでしょうか。住居から締め出された人たちはどうしているのでしょう。 「ポケベル」は「スマホ」や「ライン」に進化しましたが、普通の気持も伝えらるようになったのでしょうか。 今、羽ばたき続ける中学生ウニの姿を映画に撮った監督キム・ボラが、あれから、ずっと羽ばたき続けてきたウニであることは間違いなさそうです。 監督 キム・ボラ 製作 キム・ボラ 撮影 カン・グクヒョン 脚本 キム・ボラ キャスト パク・ジフ(主人公ウニ:中学2年生) キム・セビョク(ヨンジ:塾の講師) チョン・インギ(ウニの父) イ・スンヨン(ウニの母) パク・スヨン(ウニの姉スヒ) ソン・サンヨン(デフン:ウニの兄) キル・ヘヨン(ヨンジの母) 2018年・138分・PG12・韓国・アメリカ合作 原題「House of Hummingbird」 2020・09・14元町映画館no53ボタン押してね!
2020.09.15
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キム・ソンホ「お料理帖」パルシネマパルシネマの二本立て、手帳シリーズでした。もう一本は「最初の晩餐」で、亡くなったお父さんの手帖の料理でしたが、こっちは生きているお母さんが「認知症」で、記憶を失ってしまいつつあるという設定でした。見たのはキム・ソンホ監督の「お料理帖」です。 韓国映画を見始めて、早くも二年たちますが、所謂「ヒューマンドラマ」は初めてのような気がします。 シッカリ者の母と、人はいいのだけれどボンクラ、まあ、どっちかというと「マザコン」で、文学とかやっている息子とその「家族の物語」といっていいのでしょうね。 ところで、予告編を見た時からの興味は、韓国のお総菜屋さんの店先に並ぶ料理についてでした。こういうと、朝鮮、あるいは韓国料理に詳しいと誤解させるかもしれませんが、実は全く知りません。キムチとかナムルとかいう言葉は知っていますが、具体的に白菜やキュウリ以外にどんな種類があって、どんな味なのか、何も知らないのですが、なんか「食べてみたい」という興味はあるわけです。 特に韓国の映画は、小さな食堂や食卓で食事をするシーンがよくあると思うのですが、そういうシーンを見るたびに、料理はもちろんですが、食べるしぐさとかとても興味を惹かれます。 今回の映画はバッチリでしたね。とりあえずマザコン男が友達を夜中に連れてやって来て食べるのがこれです。酔っ払い二人がスープをうまそうに飲んですすり込んでいました。 映画.com 冷麺でしょうかね。出汁のスープでさっぱりいただく感じ。うまそうですね。 下の写真は、お母さんの「エラン」さんが、ボロクソに言う、彼女に苦労だけ残して早死にした夫の好きだったらしい料理。 映画.com キムチの鍋のようなのですが、具はサバなのですね。もちろん、お魚のサバです。かなり、食べてみたいですね。それから、下の写真、これは、日本料理ならおウドンでしょう。横に添えられているキムチがうまそうでしょ。添えられている箸としゃもじが金属製でないのには理由があるのでしょうか。 映画.com 鶏頭の花の砂糖漬けの料理の途中がこれです。 映画.com 砂糖とか、お酒に漬けた「ジュース」がお店の棚にいっぱいに並んでいます。乾燥野菜や植物の根っことかもあるようです。お店の屋上には大きな壺がたくさんあって、コチュジャンや醤油が自家製で作られています。 映画.com 何の飾り気もないお店の中は、お母さんとなかなかいい感じの店員さんが毎日仕込んでいる宝の山という風情です。 たしかに映画では母と家族をつなぐレシピ帖が、「家族の物語」を紡ぎだす大切な役割を担っていますが、本当にすごいのはこの「宝の山」のように思いました。 ボンクラ息子が母の哀しみの秘密を知らなかったところに、筋立てとしては、少し無理があると思いました。 しかし、最終的には、認知症の母の姿に、不愛想だった母の態度の奥にあった「真の愛情」を発見するという「母恋物語」という定型が評価されているようですが、お母さんの財産の処分をめぐって、現代社会全体にとっての「宝の山」であるこのお店の本質を発見しているところに、作品全体の印象に「深さ」のようなもの、飽きさせない面白さが生み出されていると思いました。 上のチラシの、お団子のようにみえるのが子供用のおにぎり、大鍋いっぱいのスープに見えるのが、ボケてしまったエランさんが作り過ぎたおかゆです。 それにしても、画面に登場する韓国の女性たちの、「嫁」とか「姑」とか、軽々と飛び越えた本音が飛び交う闊達な物言いがとても気持のいい映画でした。 監督 キム・ソンホ 製作 イ・ウンギョン 脚本 キム・ミンスク 撮影 ソン・サンジェ 美術 ウン・ヒサン 編集 オム・ユンジュ 音楽 カン・ミングク キャスト イ・ジュシル(母エラン) イ・ジョンヒョク(息子ギュヒョン) キム・ソンウン(息子の妻スジン)2018年・104分・韓国原題「Notebook from My Mother」2020・09・04パルシネマno30ボタン押してね!
2020.09.06
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キム・ギドク「人間の時間」元町映画館 この日、見たのは、キム・ギドク監督の「人間の時間」でした。この映画の監督は「嘆きのピエタ」、「メビウス」などで知られる韓国の鬼才! なのだそうですが、映画から遠ざかっていたぼくはもちろん知りません。 とはいうもの、ご覧の通りチラシには「鬼才」とあるのですから、ただ事ではありません。今日はこの後もう一人の鬼才(?)、クリストファー・ノーランのIMAX初体験をもくろんでいましたので、とりあえず「鬼才」慣れ! のために朝一番の元町映画館にやって来ました。「あっ、おはようございます。今日はお早いですね。」「うん、昼から万博公園やねん。」「万博でなんかあるんですか?」「ダンケルクや。4Dなら、すぐそこのハット神戸でやってんねんけど、ピーチ姫に椅子揺れて落ち着かんで、オトー、グターと座って見たいんやろ。ならやめた方がええわ。いわれてん。」「で、万博のIMAXですか?」「そうそう、その前に肩慣らしやねん。鬼才て書いてるし。まあ、ノックアウトとされることはないやろ。」「うーん、されちゃうかも、ですね。」「エエー、それどういうこと?」「まあ、そのあたりは本編ご覧になって、どうぞ、ごゆっくりお確かめください。」 というわけで、映画が始まりました。老朽艦丸出しの軍艦に乗ってクルーズという、まあ、意味不明の始まりです。 藤井美菜とオダギリジョーが日本語をしゃべっている新婚カップルを演じているのですが、残りの乗客はクルーズを楽しむという取り合わせではありません。 何しろ大統領の椅子を狙う政治家親子が唯一の「セレブ」で、あとはヤクザ、売春婦、詐欺師、金には縁のなさそうな若者や夫婦ものなのですから。 まあ、そこで起こるハチャメチャが、監督によれば「人間」の実相だったのでしょうね。正義感の塊であるオダギリ君はあっという間に抹殺されて、映画から退場しますが、この「日本人」カップルに限らず、どなたも無茶苦茶「へたくそ」なところがこの映画の特徴の一つ目でした。 どのへんが、チラシで謳っているハード・ファンタジーなのかよくわかりませんでしたが、この味わいの映画をある時期よく見ていたような気がします。 70年代後半の日活ロマンポルノとかで、だったでしょうか。人間を「性欲」と「食欲」の欲望機械のように単純化しているからでしょうか、ざらざらした埃っぽい味わいです。 当時の日本映画にもその傾向はありましたが、その埃っぽい味わいの中に現代「韓国社会」の空気感が強く漂っているのが二つ目の特徴だと思いました。空中に浮かぶ軍艦の上で繰り広げられる「世界」の終わりと始まりという設定に「社会」を描きたい監督に意図が表れていると思いました。 軍事政権の誰かに似ている国会議員、チンピラヤクザ、議員の息子の三人に次々と暴力的に犯される日本人女性の姿を見て、頭にくる「日本人」もいらっしゃるのかもしれないなあ、これって何を象徴しているのかなあ、などとのんびりしたことを考えながら見ていると、被害者の女性が加害者のチンピラに対して「悪魔!」と叫ぶシーンに出くわしてポカンとしてしまいました。 筋運びの「ご都合」であったとして、こういう仕打ちを受けた女性のセリフとして、いかにも陳腐、少なくとも日本語の語感では出てこない「悪魔」が出てきたことに意表を突かれたのですが、女性の役名がイヴだったことを思い出して笑ってしまいました。 要するに、映画が描いているのは「創世記」だったということなのですが、最後にもう一度笑わせて画面は暗くなりました。 デタラメで陳腐な展開としか言いようのない映画でしたが、人間社会を殺伐とした欲望の連鎖としてとらえようとする、こういう味わいの映画が、実はさほど嫌いではありません。なんとなく、こういうふうに撮りたいという監督の気分は、わかるような気がするからです。 まあ、それにしても、これで「鬼才」は大げさなのではないかいな!? と笑いながら思いました。もちろん、ノック・アウトされることもありませんでした。 監督 キム・ギドク 製作 キム・ドンフ 製作総指揮 キム・ギドク 脚本 キム・ギドク 音楽 パク・イニョン キャスト 藤井美菜(イヴ) チャン・グンソク(アダム) アン・ソンギ(謎の老人) イ・ソンジュ(アダムの父親) リュ・スンボム(ギャングのボス) ソン・ギユン(船長) オダギリジョー(イヴの恋人) 2018年・122分・R18+・韓国 原題「Human, Space, Time and Human」 2020・08・05元町映画館no50ボタン押してね!にほんブログ村
2020.08.09
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チャン・リュル「慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ」元町映画館 元町映画館でチケットを販売しているお嬢さんから薦められて見ました。題名にある「慶州」という地名にも惹かれました。 今日は火曜日でレディ-ス・デイなので、男性はダメなのかもと不安に思っていました。別に、性別のチェックはありませんでした。無事いつもの席に座って映画が始まりました。チャン・リュルという監督の「慶州 ヒョンとユニ」です バスの待合室のようなブースから男が出て来て、道を渡り、停留所で煙草を一本取り出します。タバコのにおいを嗅いでいるだけで、火をつけるわけではなさそうです。なんとなく意味ありげですが、通りかかった小さな女の子が男を注意して言いました。「ここでタバコを喫っちゃあダメよ」 このシーンが、結局、最後まで印象的だったのですが、映画が始まりました。 映画は北京から、友人の葬儀のために大邱(テグ)にやって来た、パク・ヘイル演じる若い大学教授チェ・ヒョンの長い長い24時間のお話でした。 葬儀があり、再会したもう一人の友人との食事のシーンがあり、そこで、無くなった男の不可解な死と、奇妙な夫婦関係を友人の口から聴きます。 しかし、チェ・ヒョンは、その話にさほど動じる様子も見せず、友人と死んだ男の三人にとって思い出の地である「慶州(キョンジュ」にある一軒の茶屋、そして、そこで見た「春画」を、もう一度見たいという言葉を残して、慶州へと出かけてゆきます。 見終えて帰宅して、慶州を地図で確認すると、大邱と慶州は目と鼻の先といった距離で、半島の南端にある港町として、ボクでも知っている釜山(プサン)の少し北の町です。寺と古墳が有名なようです。 慶州に着いたチェ・ヒョンはレンタ・サイクルを借り、目的の茶屋にやって来ます。その茶屋の女主人がシン・ミナという女優さんが演じているユニです。 こうして、題名出てくる二人の男女が出会います。ここから話は「時」と「空間」を「無化」するかのように、その上中国語、朝鮮語、日本語という三つの言語を横断して展開しますが、だからと言って、大したことが起こるわけではありません。 荒唐無稽で非常識な話の運びに、少々辟易としながらも、「春画」の暗示につられてユニとチェ・ヒョンの二人がどうなるのか、意識と記憶のせめぎ合いの中でエロスへと昇華してゆく展開を、それなりに期待しながら見ていました。 チラシに写っている「耳」をまさぐるシーンなんて、当然、そっちへとなだれ込むはずなのですが・・・・。 ユニが恋人を失った「心の空虚」を抱えながら、その面影を探す女性であり、初対面の男を誘うかのように寝室に消えたところがピークでした。 なんといえばいいのでしょう。チェ・ヒョンは、どうも本物の「空っぽ」であったようです。もっとも、彼が「空っぽ」であることの理由は、全くわかりませんでしたが(笑)。 美しい古墳群の緑。朝一番に聞こえてくる中国の恋歌の微妙なリズム。カラオケでがなられる韓国歌謡曲の歌詞とメロディ。啞然とするほどツマラナイ春画。親子心中したらしい快活な少女。訳の分からない売り込み口にする大学教授。ソウルからあっという間にやって来て、チェ・ヒョンとの過去を暴露し、あっという間に帰っていく女。あらゆるものが雑然とチェ・ヒョンの「空っぽ」を語ろうとしているのか、していないのか、ここまで「意味深」で「意味不明」な映画もそうそうないのでは、そう思った次第でした。 帰りの戸口で、「不可解!」と顔に書いてあるらしい老人にチケット係のお嬢さんが笑いながら言ってました。いやー、シマクマさんならヨロコブかなって、詩的だったでしょ。 いや、まいった、まいった。笑うしかありませんね。で、最初のタバコの話には、一体何の意味があったんでしょうね。で、詩的ってなんやねん!監督 チャン・リュル 製作 チェ・ジヨン ユ・ピョンオク 脚本 チャン・リュル 撮影 チョ・ヨンジク 美術 キム・チョヘ 音楽 カン・ミングク キャスト パク・ヘイル(旅の大学教授チェ・ヒョン) シン・ミナ(ユニ)2014年・145分・韓国原題「Gyeongju」2020・06・23 元町映画館no47ボタン押してね!
2020.06.24
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イ・ジェギュ「完璧な他人」神戸アート・ヴィレッジ・センター 今日は一月十七日です。神戸に30年以上お住まいの方にとって、特別の日です。あれから25年たちました。今朝も、あの日のように、少し曇ってはいますが、いい天気でした。 というわけで、我が家では震災記念二人連れ映画鑑賞会を挙行いたしました。 神戸アートヴィレッジセンター、午前10時45分、現地集合、作品は李 在奎「完璧な他人」でした。 凍った湖面に穴をあけるシーンを水中から映しているシーンから映画は始まりました。氷上では少年たちが魚釣りをしています。ここが海なのか湖なのか言い争いをしている二人がいて、それを止める二人がいます。 そこから三十年だかの時間がたったシーンに画面は変わります。あの日と同じ月蝕の夜のことです。「弁護士」、「豊胸手術の美容整形外科医」、「実業家」、「マッチョな体育教師」に姿を変えた「少年」達が外科医の家の食卓に顔を揃えています。今日は外科医夫婦の新築祝いに旧友を読んだという設定です。それぞれ美しい妻を同伴していますが、マッチョのヨンベ君だけは一人です。 まずは、食卓に繰り広げられる料理の数々がなかなか楽しい。ホント、韓国映画はよく食べ、よく飲みますね。韓国料理はよく知らないのですが、いろいろ美味しそうです。 やがて興が乗ってきた一同は、よせばいいのに、それぞれのスマホにどんな電話やメールが来るのか公開するという遊びを始めます。スマホにはスピーカーというシステムがあるようで着信や電話をその場に公開することができるというのが、この映画を成り立たせています。 ピュアな「友情」を信じていた「少年」達はもちろん、愛し合い、労わりあっていた「愛情」を信じていたその妻たちも、れっきとした「大人」であることが暴露されてゆきます。他人事ながら結構ドキドキします。モチロン、他人事ですから大いに笑えます。 結果的に、皆さん、一人の例外もなく、立派な「大人」だったことが判明して「月蝕」の夜の宴は終わります。 「震災記念映画鑑賞会」を終えたシマクマ君とチッチキ夫人の二人は、なかなかご機嫌でした。 映画の結論をなぞって考えれば、「公的な生活」、「私的な生活」、「秘密の生活」という三通りの生活を実践できて初めて「大人の生活」らしいのですが、なんといっても、この二人は「スマホ」に縁がありません。というわけで、「秘密の生活」が成立しません。ついでに言えば、まあ、年齢的な制約もあって「公的生活」も怪しい。となると「私的」などということも、ひょっとしたら、もはや成り立っていないかもしれない。 じゃあ「生活」そのものが・・・・。なんていう心配はご無用、兵庫駅の近所の「円満」なんていう、円満そのものの中華屋さんで、マーボー定食にタンタンメンなんて遅めの昼食でしたが、すっかり元気いっぱい、お腹一杯になって、ノンビリ御帰宅、炬燵でゴロゴロして円満な一日が暮れていきます。「無為徒食」な「生活」は確かにあるのです。 ところで、この映画ですが、スマホとかをチャキチャキ(どんな擬態語がいいのでしょう?)お使いになって、お仕事も交友関係もビシバシという感じの40代くらいの方ですね、そういう方が読者の中にいらっしゃるとしてですが、カップルあるいは御夫婦でご覧になることをお勧めします。きっと面白いことになるんじゃないかと思いますが。 監督 イ・ジェギュ 李 在奎 音楽 モグ キャスト ユ・ヘジン (テス 弁護士) ヨム・ジョンア (スヒョン テスの妻 主婦) チョ・ジヌン (ソクホ 美容外科医) キム・ジス (イェジン ソクホの妻 精神科医) イ・ソジン(ジュンモ レストラン経営者) ソン・ハユン(セギョン ジュンモの妻 新婚 獣医) ユン・ギョンホ(ヨンベ 体育教員 独身) 2018 韓国 116分英語「Intimate Strangers」 2019・01・17・KAVC(no6)追記2020・01・18「大人の事情」という2016年に公開されたイタリア映画だあるそうです。この映画はそれの韓国版リメイクだそうです。そういう意味で、話の展開はありそうな話なのですが、まごうかたなき「韓国映画」だと思いました。 たぶん、モノの食べ方と、男女の会話の機微ですね。韓国語の響きということもあるとは思いますが、会話のテンポは韓国映画でした。それが、また、何となくおかしい。ボタン押してね!
2020.01.18
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ポン・ジュノ「パラサイト 半地下の家族」シネリーブル神戸 「タクシー運転手」ですっかりファンになったソン・ガンホが主演なんですよね。チラシでは目を隠していますが、向かって左端の男です。 チラシを読むまで気付きませんでしたが、カンヌ映画祭のパルムドール作品だそうです。初日のシネリーブルはさほど混んでいたわけではありませんでした。イスズベーカリーの「フィッシュフライ・タルタルソース添え」パンを齧っていると始まりました。 Wi-Fiが繋がらないと騒いでいる、二十歳くらいの男の子と女の子、母親らしいおばさん、その傍らで宅配ピザの箱を組み立てている中年の大男、ソン・ガンホですね。この四人家族が住んでいる建物の構造が、イマイチよく解らないのですが、ここがとりあえず「半地下」の住居らしいですね。 この四人が坂の上の豪邸に、どうやってパラサイトするのかというのが前半ですね。笑えるような、笑えないような、ドキドキするような、しないような、ある種、嘘くさい展開ですが、この辺りは好き好きでしょうね。ぼくは大男のソン・ガンホが曲芸のようにピザの箱を組み立てていたり、母親のチャン・ヘジンがハンマー投げをするシーンとかがおかしかったですね。 韓国では「坂の上のベンツ」というのが金持ちの象徴なのでしょうか。「バーニング」という映画にも、似たような坂道の上の豪邸のシーンがありましたが、この映画では、そこから坂の下を遠景で撮らないで、いきなり半地下生活のシーンというのが面白いですね。 後半は、このお屋敷にも、半地下どころか、地下二階があるという展開でした。北のミサイル攻撃に備えて地下シェルターをコッソリ作った建築家と、その存在さえ気づかない若いIT企業の社長夫婦という組み合わせが仕込まれているのですが、この映画をただのブラックコメディでは終わらせない、監督のたくらみを感じさせます。 映画はこの地下シェルターに住む本物の「地底人」夫婦と「半地底人」家族の対決へと展開し、やがて、ハチャメチャな破局を迎えます。 後半の途中、坂の上のお屋敷から半地下の住居まで逃げ帰るシーンが一番印象的でしたね。長い急な階段を駆け下りていく、社会の底のような街にたどり着くと、半地下住居は、折からの豪雨による洪水で水没している。 坂の上のお屋敷では広い庭でインディアンごっこの降って湧いたリアルに興奮する子供がいて、それを眺めながら、ソファーでセックスシーン繰り広げる夫婦がいる。ごった返した避難所の人ごみの中で「無計画の計画」を説く半地下人のソン・ガンホとその家族がいる。ここまで、畳みかけてくるシーンのコントラストには、構造分析なんて手続きはいりませんね。現代という「時代」と「社会」が鮮やかに浮かび上がります。 街の底から立ち昇ってくる「貧困」の匂いを、厳重なセキュリティーで脱臭しているはずのお屋敷に、アメリカを経由した外部からパラサイトを敢行する寄生虫たち。それに対して、屋敷の地下二階に「韓国」という社会に潜在し続ける無意識のような、旧来の寄生虫を埋め込んでいる構成も俊逸だと思いました。 とうとう、本物の地底人になってしまったソン・ガンホと、彼を救い出すという「かなわぬ夢」を見る息子のラスト・シーンは「現代の奈落」そのものでした。ここまで念を押されると、もう笑えませんね。何はともあれポン・ジュノという監督の名前は覚えました。 それにしても、カンヌ映画祭のパルムドールは2018年の「万引き家族」に続いて、角度は少し違いますが、よく似たテイストの「家族」の崩壊を描いた、アジアの映画なのですね。 こうなったら、ケン・ローチの「家族を想うとき」にも何か賞をあげて、カンヌ「崩壊家族大賞」三部作と銘打って上映すればどうでしょう。「みんなでへこむ映画祭」とか。 ああ、そうでした。お金持ちのパクさんの、お馬鹿で、妙に色っぽい妻を演じていたチョ・ヨジョンという女優さんはいいですね。若き日の若尾文子を思い出しました。顔や体つきは全く似てないんですが、なんか、根っからの天然な感じが似てると思いました。 監督 ポン・ジュノ 製作 クァク・シネ ムン・ヤングォン チャン・ヨンファン 脚本 ポン・ジュノ ハン・ジヌォン 撮影 ホン・ギョンピョ 美術 イ・ハジュン 衣装 チェ・セヨン 編集 ヤン・ジンモ 音楽 チョン・ジェイル キャスト ソン・ガンホ(父キム・ギテク) イ・ソンギュン(金持ちの主人パク・ドンイク) チョ・ヨジョン(金持ちの妻パク・ヨンギョ) チェ・ウシク (ギテクの息子 キム・ギウ) パク・ソダム(ギテクの娘キム・ギジョン) イ・ジョンウン(家政婦ムングァン) チャン・ヘジン(ギテクの妻 キム・チュンスク) 2019年132分 韓国 原題「Parasite」 2020・01・10・ シネリーブル神戸no41追記2020・01・11「タクシー運転手」・「バーニング」・「家族を想うとき」・「万引き家族」の感想は題名をクリックしてみてください。 ところで「地底人」という用語は、四コマ漫画のいしいひさいち、そう「バイトくん」、「がんばれ‼タブチくん‼」の彼が使っていた言葉です。ぼくは彼のマンガの「プガ・ジャ」以来のファンです。追記2020・01・15ツイッターで教えられました。家政婦役の「イ・ジョンウン」さん、「タクシー運転手」でも、「焼肉ドラゴン」でも出会っていたんですね。名前が覚えられないボクも新しい女優さんの名前を覚えられました。この人の存在感は、とてもいいですね。それにしても韓国映画にはいい役者さんがいますねえ。追記2020・02・10 2020年のアカデミー賞なんだそうです。うーん、ほかのどれがという気はありませんが、これですか!?という感じですね。でも、受賞はめでたいですね。 ボタン押してね!ボタン押してね!nno41
2020.01.12
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イ・チャンドン「ペパーミント・キャンディー」 元町映画館が「オアシス」とセットで企画、上映している作品の今日は最終日です。残念ながら「オアシス」は見損ねたのですが、こっちだけでも、まあ、「バーニング」という作品の不可解を解きたいという、一応それらしい目的もあるし、というわけで受付へやってきました。「よお、久しぶりやね、元気?」「お久しぶりでーす!」「あのさ、明日からの『ニューヨーク公共図書館』混む?」「ああ、たぶん、満席ですね。」「朝一番で、チケット買える?」「はい。それだと大丈夫ですね。ありがとうございます。それで、今日は?」「もちろん、イ・チャンドンやんか。」 で、座って、始じりましたまりました。イ・チャンドン監督の「ペパーミント・キャンディー」です。 どこかの河原で、おじさんおばさん年齢の人たちがバーベキューしています。チョー場違いな男がやってきて、何だか知らないけど、一人で暴れまわりはじめます。この男がこの映画の主人公キム・ヨンホ(ソル・ギョング)でした。 いつの間にか、河原からかかっていた鉄橋をよに登った男は突進してくる列車に向かって絶叫しながら突っ立っています。これが1999年のことであったようです。で、そこから列車からの風景が、どうも逆流しはじめたらしくて、カメラの方向と風景の流れが逆になってきます。「ふーん、そういうことか。」と思ってみていると、案の定時間をさかのぼり始めました。 列車の前で棒立ちしていた男が、何だかわけのワカラナイ男と女の出来事に遭遇しています。会社の経営者らしいのですが、ちょっとヤ―サンの風情で、殺伐としていて、画面もそっけない。要するに壊れているようです。これが1994年です。 部屋には妻(?)がいます。男は、仕事場では最悪の拷問装置と化して、そこまでやるかというか、非情のライセンスというか、とにかくめちゃくちゃです。ここでは、なんというか、男は壊れているようです。1987年までさかのぼりました。 仕事に就いたばかりの新米の警官が男です。なんとなく予想通りに「汚いこと」にまみれてゆくようです。しかし、ここでも、すでに男は壊れています。1984年ですね。 兵士である男がいて、娑婆で待つ恋人がいます。ここで初めて、映画の題名の由来がわかりました。恋人が兵士に差し入れるのが「ぺパーミントキャンディー」、ハッカ飴です。光州事件の鎮圧に出動したへっぴり腰の兵士であった男は「壊れてしまう」経験に遭遇しています。1980年です。 河原にピクニックにやってきた学生たちの中に男がいます。まあ、ちょっと、そこまでもっていきますかと言いたいようなうぶな夢を語ります。1979年です。 ここで映画は終わりました。20年という時間が遡られて謎が解かれました。ナルホド! それにしても、「壊れた男」になってからの方が主演の男性の「顔」がいいと思うのはどういうことでしょうね(笑)。 なんというか、とても図式的で、理屈で描いたと感じました。さほど心を動かされた映画ではなかったですね。しかし、この映画が監督イ・チャンドンによって1999年に撮られていたことには、強く引き付けられるものがありました。20年前のイ・チャンドン。彼は何を考えていたのでしょうか。 一つは「バーニング」という、イ・チャンドンの近作の、ぼくにとっての分かりにくさを解くカギを見た気がしたことです。 勝手な言い草かもしれないが、この監督は「韓国」というアクチャルな社会を生きる人間の「実存」、「生のありさま」に興味があるのであって、そこで描かれる「世界」は村上春樹的な「世界」とは微妙にズレてしまわざるを得ないということがあるのではないかということです。 村上の作品の登場人物たちは、高度に資本主義化してきた社会のなかで、空洞化してしまった「内面」と、それを取り囲む「外部」の真相を、その底に潜ることで見出そうとすることを繰り返しているとボクは感じています。だから、「納屋を焼く」とか「井戸を掘る」というメタファーは実は「日本」という社会に対してこそ有効なレトリックだったのではないかという印象ですね。 それを韓国で映画にするなら、疲弊した農村の象徴のような廃棄されている「ビニールハウス」を焼くシーンを撮らざるを得なくなるし、登場人物の失踪はアクチャルな殺人事件というサスペンスになってしまう。もう、そこには「春樹の世界」など跡形もなくなってしまっているといっていいのではないでしょうか。 監督イ・チャンドンが「ペパーミント・キャンディー」で描いているのは、人間から根こそぎ人間性を奪というような、社会の暴力的で直接的なありさまであったとぼくは思いました。そういう現実が、その時代のその社会にはあったということです。 イ・チャンドンは「青春の夢」などという、甘ったるいものは、袋入りのハッカ飴のように軍靴に踏みつぶされてしまう現実の中で、人間はどんなふうに壊されるかを告発しているという印象です。それは、たった20年前のことなのだ。いまも、忘れることなど不可能なはずだ。 まあ、そんな叫びのような訴えです。 それがひきつけられた二つ目の理由でした。2019年の今、ぼくが見ている韓国映画は「史実」として「人間を壊す社会」を暴き始めていると感じていますが、彼の映画は、ひょっとするとそれらの映画を作る人々に進むべき道を示しているのではないか、ボクはそう思いました。「バーニング」の感想はこちらをクリックしてください。イ・チャンドン「ペパーミント・キャンディー」監督 イ・チャンドン Lee Chang-dong製作 ミョン・ゲナム 上田信原作 イ・チャンドン脚本 イ・チャンドン撮影 キム・ヒョング美術 パク・イルヒョン編集 キム・ヒョン音楽 イ・ジェジンキャスト ソル・ギョング(キム・ヨンホ) ムン・ソリ(スニム) キム・ヨジン(ホンジャ)原題「Peppermint Candy」1999年韓国・日本合作日本初公開 2000年10月21日130分 2019・07・05・元町映画館no18 ボタン押してね!。
2019.08.21
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チャン・ジュナン「1987、ある闘いの真実」 1980年に、そして、1987年に韓国で何が起こっていたのか? そんなふうに自分に問いかけてみます。1989年「北京の天安門で何が起こったのか?」、「ベルリンで何が起こったのか?」には反応できても、「韓国で?」という問いには答えられません。それは、ぼくだけのことかもしれませんが、この、隣の国に対する無関心はただ事ではなかったと、今は考えています。 ともあれ、2018年になって、相次いで公開されている「タクシー運転手」、そして「1987、ある闘いの真実」の二つの映画は、実に鮮やかにこの問いに答えてくれました。 民主化を叫ぶ運動の周辺にいた大学生が取り調べ中に死亡します。お決まりの隠蔽工作が命じられますが、事故死の報告書に疑問を持つ若い検事がいました。映画はそこから始まるのです。 通称は「南営洞」と呼ばれているらしい「対共捜査警察(?)」の悪辣極まりないパク所長(キム・ユンソク)。一方は恐れを知らない熱血漢チェ検事(ハ・ジョンウ)。その二人の対決のように事件は始まります。 熱血漢チェ検事の真実を求める意志。その真実への希求が、網の目のように学生や市民、医師、新聞記者、普通の暮らしをおくってきた庶民たちに広がってゆく様子を映画は描きます。一方、手段を択ばぬ「反共・赤狩りの権化」ともいうべきパク所長の、民主化弾圧と追及の手がすべての網の目を引き裂いてしまうのでは?というサスペンスは120分間休むことなく続きます。 まあ、ドキドキしっぱなしなわけです。全斗煥失脚という、歴史的事実に基づいた結末に、やっと、一息つきました。 チラシのおどろおどろしさに、少々ビビりながら見ましたが。後味爽快とはこのことをいうのでしょうね。権力の悪の権化パク所長を見事に演じた、悪役キム・ユンソクがまずよかったですね。もの怖じしない若き検事を好演したハ・ジョンウといい、気弱な看守ユ・ヘジンといい、なかなかな役者がそろっていると思っていると、さもありなん、現代韓国オールスターだったようです。 ところで、後味のよさの理由はもう一つあります。韓国の歴史を振り返ると1910年以来の近代史、および現代史は、「人権」が踏みにじられてきた100年と総括することができると思います。1945年、創氏改名に始まり、「日本語」の押し付け、神道の神社の押しつけに至るまで、「人権」抑圧政策で統治しようとした植民地宗主国大日本帝国の敗戦で「光復」を迎えたはずですが、朝鮮戦争、38度線分割、軍事政権による独裁的統治という歴史のなかで、普通の国民の「人権」が擁護されていたとはとても考えられません。 たとえば、映画の中のパク所長や取調室の職員たちによる市民に対する振る舞いは、植民地時代の警察権力が民衆に対した振る舞いを引き継いでいるとしか思えませんでした。権力は見たことのある権力を模倣するかのようでした。 いま、カメラが「抑圧の歴史」に向けられ、こうした事件の真実を伝え始めています。その映像には1000万人及ばんかという観客が集まり、拍手することができる社会が生まれつつあるのです。映画を撮っている人たちの「民主化」に掛ける使命感のようなものを強く感じさせる明るさが映画に満ちていました。こんな後味のよさは、なかなか味わえるものではないと思うのです(笑)。 このところの韓国映画の後味の良さは、役者たちの達者な演技力だけに理由がるのではなく、映画をつくっている人たちの思想性にもあるといえるとぼくは思います。 監督 チャン・ジュナン 脚本 キム・ギョンチャン 撮影 キム・ウヒョン 音楽 キム・テソン キャスト キム・ユンソク(パク所長) ハ・ジョンウ(チェ検事) ユ・ヘジン(看守ハン・ピョンヨン) キム・テリ(女子大生ヨニ) パク・ヒスン(チョ刑事) ソル・ギョング(民主運動家キム・ジョンナム) イ・ヒジュン(新聞記者ユン・サンサム) 2017 韓国 129分 2018・11・09・元町映画館no17追記2023・02・27 もう、4年ほど前の感想で、後味の良さ、映画の元気さについて語っていますが、現実政治がどういう展開になっているのかはよく分かりませんが、映画の元気さは続いていますね。 それから、もう一つ、文学の面白さにも興味をひかれています。翻訳事情もあるのでしょうね、なかなか読めませんが、そろそろ、現代韓国文学の案内もしたいと思っているのですが、なかなかですよ(笑)。にほんブログ村
2019.08.15
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ユン・ジョンピン「工作・黒金星と呼ばれた男」 真夏の元町映画館を連日満席にしている映画があります。この作品です。韓国軍事政権暴露第三弾「工作」。おそるおそる見ましたが、拍手喝采の気分で見終えました。 1980年、全斗煥(チョン・ドゥファン)のクーデターから光州事件へと続く動乱の現場と市民の闘いを描いた「タクシー運転手」。軍事政権下、民主化弾圧政策のなかで起こったソウル大学の学生の拷問死の真相を描いた「1987、ある闘いの真実」。それぞれ全斗煥による民主化弾圧政策の始まりと終わりを見事に暴いて見せた韓国映画ですが、今度は北朝鮮の核開発をめぐる、南北のスパイ戦を、1997年、金大中政権誕生に至る韓国軍事政権の秘話の暴露映画として描く快作を登場させたのです。 一連の韓国社会派映画の特徴は、登場人物の印象的で個性的な描き方だったのですが、この映画も、主役である二人の俳優の演技の味わいが、まず、申し分ないと思いました。 陸軍情報少佐の身分を隠し、工作員「黒金星(ブラック・ヴィーナス)」ことパク・ソギョン(ファン・ジョンミン)の、軽薄と冷静を演じ分ける二重人格ぶり。 対するのは、北京に駐留し、「金王朝」のために外貨を稼ぐ、朝鮮民主主義人民共和国対外経済委員会「リ所長」(イ・ソンミン)でした。工作員パクに対して、疑いから信頼へと変化する真情を、あたかも「目の輝き」で演じてでもいるかのような、イ・ソンミンの動かない表情の存在感。この二人の「演技戦」がこの映画の一つ目の面白さでした。 二つ目は、なんといっても平壌の風景ですね。韓国映画が北の国内をロケできるはずはないわけですから、セット撮影であることは間違いないでしょうが、知らないとはいえ、そのリアルさにはポカンとしました。ついでと言っては失礼ですが、金正日という実在だった人物のメイキャップも、なかなかでした。 さて、この映画には、もう一つ見逃してはならない面白さがあると思いました。 映画は、金大中による政権獲得という韓国現代史の重要な転換点に実在した、旧勢力の陰謀の暴露という、以前の二つと同じ構造の歴史ドラマということができます。しかし、それだけだったでしょうか。 この映画で主人公にあたる工作者二人には、それぞれの国家の権力当事者にとって、自分たちが使い捨ての駒であることは自明の前提でした。彼らの決死の演技合戦は「駒」として生き延びるために必然でした。ところが、その二人が、互いの演技の裏に、それぞれが信じていて、且つ、共通する「義」が存在することを発見するのです。 映画の結末は、それによって大きく動きます。しかし、ぼくはそこに、この映画の結末を越えた監督ユン・ジョンビンの夢を感じました。 韓国国内の民主化を支えようという意志を強く感じさせてきたのが、前記二つの作品だったとしたら、この映画は未来への夢を、静かに暗示したところに新しさと面白さがあるのではないでしょうか。監督 ユン・ジョンビン脚本 ユン・ジョンビン クォン・ソンフィ撮影 チェ・チャンミン音楽 チョ・ヨンウクキャスト ファン・ジョンミン(工作員パク・ソギョン) イ・ソンミン(リ所長) チョ・ジヌン(韓国国家安全企画部室長チェ・ハクソン) チュ・ジフン(北朝鮮国家安全保衛部チョン・ムテク)原題2018年 韓国 137分 2019・08・07元町映画館no16追記2022・09・20 映画スターファン・ジョンミン誘拐という設定の「人質」という映画を見ていて、主役の映画スターは、この「工作」という映画の工作員を好演していたファン・ジョンミンのことで、なおかつ当人が主役を演じていることに、欠片も気づきませんでした。この感想では手放しでほめている、当の俳優に、全く気付かないというのは、イヤ、ホント、ひどい話ですね。 数年前から、退職徘徊老人のヒマつぶしで映画館通いをしていますが、哀しいのは、こういうことがふえたことですね。 二十代に映画にかぶれていたころから、スクリーンに登場する映画スターに肩入れしてみる方ではありませんでしたが、ここ数年は、全く覚えられません。今回の「人質」も、主役ファン・ジョンミンの表情や物腰がストーリーを引っ張る作品で、それにどっぷりつかって面白かっただけに、彼を以前見たことがあることに期近なかったのは不覚でした。にほんブログ村
2019.08.14
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イ・チャンドン「 バーニング 劇場版」 元町映画館 「村上春樹の小説『納屋を焼く』の映画化」という触れ込みに、何となく心騒いで見に行きました。元町映画館です。 映画が始まりました。青年がトラックから荷物を運び終わって、物陰でタバコを喫います。ショッピングセンターに商品を運んできたようですが、建物の前では若い娘が商品のPRをして踊っています。 チラシの、向かって左の男がその青年で、役名はジョンス、演じているのはユ・アインです。真ん中に座っているのが、やがて行方がわからなくなる女性で、役名はヘミ(チョン・ジョンソ)です。右側に座っているのが、納屋ならぬビニールハウスを焼く男ベン(スティーブン・ユァン)です。。 ジョンスとヘミは、経緯は忘れましたが仲良くなります。ヘミの部屋で二人はセックスに及びます。ここで、「エッ?」という、最初の違和感を感じました。裸になったヘミが、ジョンスに対して避妊具を差し出すのです。が、これがパッケージされていないまんまのコンドームなんです。このシーンのもたらした困惑。それがこの映画の総てだったかもしれません。 「この映画、なんか、へんだ。」 ジョンスが作家ではなく、作家志望の青年であること。彼が失踪した、いや、行方不明にになったヘミの部屋を訪ねるて、その部屋で猫を探すこと。彼に38度線の南に位置していて「北」の宣伝放送が聞こえてくる故郷があること。薄暮の中で踊るヘミ、このシーンは異様に美しいのですが、それを見るジョンスの呆然とした姿。ヘミの失踪後ベンの素性を調べ、最後には彼を焼いてしまうこと。 村上小説のファンだということもあり、既成の小説を原作にしているという思い込みもあって、見ているぼくの関心は原作の記憶に引きずられ続けているのですが、ここにあげたシーンに該当する場面は原作にはありません。困惑の理由はたぶんそこにあって、映画の罪ではありません。 考えてみれば当たり前のことですが、この作品は監督イ・チャンドンのドラマです。この映画の肝は原作の小説にはない、これらの要素の中にこそあると思いました。 彼は現代の「韓国」という「世界」を、批評的に描こうとしている表現者なんじゃないでしょうか。 原作にもあって、映画でも描かれる二つのディーテイルがあります。一つめはヘミがうつくしい手の動きで演じて見せながら語る「蜜柑むき」のパントマイムのコツの話です。「要するにね、そこに蜜柑があると思い込むんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」 二つめは、原作小説では「時々納屋を焼くんです」というセリフですが、ベンによって「ビニールハスを焼くんです」と言い換えられた告白です。 この二つの「春樹的ディテール」が、この映画の「わからなさ」を深めながら、見ているぼくを謎解きの誘惑に誘い込んでいきます。 「蜜柑むき」は、小説では女性のはじまりからの不在、ひいては作品世界そのものの不在を暗示していると思うですが、映画にすると犯罪の謎を暗示してしまいます。「納屋を焼く」も同じ形の暗喩で、日本の農村に点在する納屋なんて本当はないのですが、小説は「ないことを忘れ」させ、イメージとしての納屋を連想の中に思い浮かばせることをねらっていると思うのですが、ビールハウスは日本にも韓国にもあるのです。あるものは焼けるのですが、なぜ焼くのか答えはありません。そこから「殺人」の実在が暗示されていきます。 見終えて思い出したのは、村上春樹と同じ時代を描いた作家中上健次でした。ジョンスは「十九歳の地図」の主人公「僕」とよく似ていると思いました。中上健次の小説は主人公「僕」が本当はそんなものはないのですが、自分を取り巻く世界に、自分に対する悪意を妄想し、それに対して憎悪を対置させた青春小説の傑作だと思いますが、ジョンスの心の動きは「僕」をなぞっているように感じました。 最後にベンを車ごと焼いてしまうジョンスはどこに行くのでしょう。どこか、青年のやり場のない怒りと「わからなさ」が印象に残った映画でした。何はともあれ、「謎」は春樹的でしたが、やり場のない怒りは「春樹ワールド」とは遠いのではないでしょうか。 ぼくには70年代の日本の文学シーンを喚起させてくれた作品でしたが、案外、ビビッドな現代韓国社会を映し出した傑作なのかもしれません。ウーン、案外ありがちなのですが、原作に振り回されて映画を見損ねた気がしますね。難しいものです(笑)。 監督 イ・チャンドン 製作 イ・ジュンドン イ・チャンドン 原作 村上春樹 脚本 オ・ジョンミ イ・チャンドン 撮影 ホン・ギョンピョ 美術 シン・ジョムヒ 衣装 イ・チュンヨン 音楽 モグ キャスト ユ・アイン(イ・ジョンス) スティーブン・ユァン(ベン) チョン・ジョンソ(シン・ヘミ ) 原題 「Burning」 2018年 韓国 148分 2019・03・10・元町映画館no16追記2019・11・18イ・チャンドン「ペパーミントキャンデイ」を観ました。感想は表題をクリックしてくださいね。ボタン押してね!螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫) [ 村上 春樹 ]村上の短編は総じて、比喩的です。まあ、好き嫌いはありますが、面白い。【中古】 十九歳の地図 / 中上 健次 / 河出書房新社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】これは、中上健次、初期の傑作だと思います。
2019.08.04
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チャン・フン「タクシー運転手 約束は海を越えて」パルシネマしんこうえん 2018年に見た映画で、ぼく自身にとってはベスト10に入るにもかかわらずうまくいえない映画が複数あります。その中の一本がこれ「タクシー運転手」です。間違いなく傑作だと思うのですが、どう説明していいのかわからないのです。 1980年、韓国全羅南道、光州市を中心に拡がった民主化弾圧事件、所謂「光州事件」を世界に報道したドイツ人のジャーナリストをソウルから光州に送ったタクシー運転手を主人公にした映画でした。ぼくは、何の事情も知らないまま二本立てのパルシネマでこの映画を見ました。 見終えて、何とも言えない明るい気持ちになりました。それが一番の感想ですね。緑のタクシー運転手マンソプを演じたソン・ガンホという俳優が印象に残りました。 妻には逃げられたと思しき父子家庭の生活と、一人で父を待つわが子を思う心情。マンソプを取り巻く近所の人々とのやり取り。タクシー運転手たち。食事の風景。流行歌を歌いながら運転するマンソプ自身の姿。 生活するマンソプという人間の描写の面白さが、まず、この映画の肝ですね。 そのマンソプが、ただ、ただ金のために、こずるく上客を奪います。その結果、出会ってしまうのが、国家とか政治とかいうもう一つの現実でした。 偶然が気のいい、仕事熱心なタクシー運転手のオッサンを「信じられない現実」へ引きずり込んでゆくのです。客のために責任を果たす。ただそれだけのために知恵をしぼった潜入行。そこで見てしまう「現実」。驚きと恐怖とためらいと勇気。 もう「金」のためではなくなってしまった必死の逃避行。運転するマンソプの顔に浮かんだ恐怖と半ばやけくそな意地。 ただの庶民であったマンソプが、信じられないようなカーチェイスに巻き込まれ、やっとのことで約束を果たした途端にただの庶民に戻ります。生活の物陰に姿を消してゆきます。 今日から、また、ただの生活が始まり、できれば、厄介ごとには巻き込まれたくない。 ここに描かれている、「生活者の実像」にこそ、この映画の、もう一つのすごさがあると思いました。 ソン・ガンホの演技のすごさは、演技している印象をただの一度も感じさせることなく、ケチで、欲張りで、人のいいタクシー運転手を演じきったところだと思います。こんな俳優は、なかなかいないと思いました。 チャン・フン監督についても、現代韓国の映画事情についても、何も知らないぼくの感想は間違っているかもしれません。でも、この映画には、この映画が撮れることの喜びがあふれています。韓国で大ヒットした理由はその「明るさ」にあるに違いないと思いました。2019・07・15 監督 チャン・フン 製作 パク・ウンギョン 製作総指揮 ユ・ジョンフン 脚本 オム・ユナ 撮影 コ・ナクソン キャスト ソン・ガンホ(キム・マンソプ ) トーマス・クレッチマン(ユルゲン・ヒンツペーター=ピーター) ユ・ヘジン(ファン・テスル) リュ・ジュンヨル(ク・ジェシク) 原題 「A Taxi Driver」 2017年 韓国 137分 2018・11・01・パルシネマno追記2019・07・15 半年前に見た映画の感想を書きましたが、じつは、ずっと逡巡していました。僕の生きてきたこの国と、お隣の韓国という国の間には、ここのところ、誰かがわざと煽っているにちがいない、いやな空気が流れています。この空気に対する怒りはずっとわだかまっていますが、映画の感想に、その怒りをぶつけるのは、それはそれで嫌な感じでした。 今年の三月の月曜日に元町商店街を歩いていて、昔はよくのぞいた古本屋さんに立ち寄ってしまいました。出費に対する警戒もあるのですが、なによりも、際限がなくなるので自分で自分に禁じていたのが「古本屋さんに、ちょっと。」なのです。棚の前に立ってしまうと、やっぱり抑えが効きません。岩波現代文庫になっている岡部伊都子さんの「生きるこだま」という本を見つけて、買ってしまいました。そして読み終えました。 今思っていることを正直に書き残しておきなさい。岡部さんの文章が、そんなふうに促していると思いました。 韓国は日本の植民地統治以来100年ぶりに「言いたいこと」がいえる国になりつつあると、この映画で実感しました。心して、この映画を見るべき時代がやってきているのではないでしょうか。追記2020・02・26先日、ケーブルTVで上映していた「タクシー運転手」を見ました。戦う学生や仲間のタクシー運転手や、その家族にいい役者がそろっていたことに気付きました。光州の運転手の女将さんは、映画の「焼肉ドラゴン」の女将さんでした。味のあるいい役者たちの映画だったことに、あらためて気づきました。 で、アカデミー賞の「パラサイト」を見るとその女将さん、イ・ジョンウンが、いわば、パラサイト1号の妻で、お屋敷の家政婦役でした。パラサイト2号はもちろんソン・ガンホというわけで、もうそれだけで笑ってしまう映画でした。 そんなにたくさん見ているわけではありませんが、現代の韓国映画が社会に対する深い批評性を失わず、明るい映画になっているところが、「すごいなあ」と思います。ボタン押してね!にほんブログ村【中古】 生きるこだま / 岡部 伊都子 / 岩波書店 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】【中古】 沖縄の骨 / 岡部 伊都子 / 岩波書店 [ハードカバー]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2019.07.20
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ホン・サンス「正しい日 間違えた日」シネリーブル神戸 今回は寝てしまうことはありませんでした。 名匠(?)ホン・サンスと女優キム・ミニの初タッグ作なのだそうですが、思わず「それがどうした。」といいそうな映画でした。 映画だからやれることをやっているわけですが、二つの場合の結末の何が違うのか全く分かりませんでした。二十代、三十代の頃なら…という仮定法で考えても、やっぱりダメでした。 映画の中の監督の役が「言葉なんか、…」と叫んだところは、「フムフム」と思いましたが、「それで、あんたの映像はどうなってますねん?」 「芝居が好き。」と言いながら服を脱ぐのも、「それが、何やっ、ちゅうねん。!?」 笑えるわけでも、納得がいくわけでもない。 映画が何を映し出していたのか、納得のいく答えが見つからないまま、映画館を出て、本当は元町商店街から神戸のほうに歩くつもりだったのですが、センター街の地下と、センタープラザの二階をぐるぐる歩き回って、昼飯にと数件のラーメン屋、うどん屋の前で立ち止まりながら、結局、入る決心がつかないまま、高速バスに乗って帰ってきました。 JRの三宮駅では、明日の嵐の運休情報を繰り返し放送していましたが、新学期早々の警報騒ぎも、まあ、徘徊の身には何の関係もないのですが、わざとらしい対策が妙にあほらしいのは、部外者だからでしょうかね。妙に腹立たしい、準備万端な感じでした。 「それから」の漱石といい、夢の中の日常のような「夜の浜辺」といい、今回の二つの場面の設定といい、面白さの一歩手前のような、意味ありげなイライラは、いったい何でしょう。私の頭が悪いのでしょうか。(それぞれの感想は表題をクリック。) それが持ち味なんでしょうかね、この監督さんは。 飯も食わずに歩き回りながら考えましたが、私にはわかりませんでした。(まあ、一食だけですが。) 何故だか、当然,、理由はありませんが、バス停の上空には雲一つない青空が広がっていました。 監督 ホン・サンス 製作 キム・ギョンヒ 脚本 ホン・サンス 撮影 パク・ホンヨル 編集 ハム・ソンウォン キャスト チョン・ジェヨン(ハム・チュンス ) キム・ミ(ニユン・ヒジョン) コ・アソン(ヨム・ボラ) チェ・ファジョン(パン・スヨン) 原題「Right Now, Wrong Then」 2015年 韓国 121分 2018・09・03・シネリーブルno18ボタン押してネ!にほんブログ村にほんブログ村
2019.07.01
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ホン・サンス「クレアのカメラ」シネリーブル神戸 シネ・リーブル神戸「ホン・サンス」シリーズ第4弾! お客さんは数人。予約の時は一人でしたが、劇場には数人。なんか、こういう状態になれると、流行っている映画に行きにくくなるんじゃないか不安です。 4本のホン・サンス映画、すべてキム・ミニという女優さんが主役でしたが、今回の「クレアのカメラ」が一番出来がいいと思いました。理由は簡単で、この映画には「外部」があるからです。 イザベル・ユぺールというフランスの女優がポラロイドカメラの持ち主、写真をとる人として登場しますが、会話は英語です。韓国語でも、フランス語でもありません。この会話のシーン、そして、知らない人だったけれど,このフランス人の女優の演技、ぼくはこれを、今まで見たホン・サンスの3本の作品にはなかった「外部」だと感じました。 この映画も含めて、彼の映画は主役の女性キム・ミニの「ひとりごと」を映像化しているように見てきました。だから、彼女が寝ているときは、観客のぼくも寝ていればいいのです(笑)。 しかし、映像としては、筋立てから女優の表情を読むことを求めているようで、「思わせぶりの押し付け」の印象が強く、ぼくふうにいえば、「めんどくさい映画」と言いたくなる傾向があったと思います。 加えていえば、「これは、どうも、いままでに見慣れてきた日本映画とは違うな。」という印象です。この映画でも社長の役をしている女優や監督役の男優の、いかにもという演技やセリフ。二人の別れ話のシーンや、監督とキム・ミニの再会のシーンなんて、「おい、おい、大丈夫か」という不自然さで、一方に、キム・ミニの表情だけがあります。これが読みきれないんです。 共通の解読法、いわゆる、コードを知らない異文化の人間たちのありさまに、興味は惹かれながらも、理解できなくて困惑するという違和感がぼくにとってのホン・サンス映画でした。 「意味ありげやけど、ホンマは何もないんとちゃうか?まあ、ええけど。」 ところが、この映画にフランス人の音楽教師イザベル・ユぺールが登場し、ぼくにでもわかる英語の会話で場面が動き始めると、その印象が変わったのです。 一つは、明らかに、このフランス人女優の映像上のふるまいが、きっと、俊逸なのです。軽いのに深い、バーサンなのに若々しい。 今まで見てきたホン・サンスの映画の登場人物の誰とも違う動きと表情があります。俳優としての演技力ということかもしれません。 もう一つは、たぶん英語の会話です。ユペールのやってることも、いっていることも奇妙なのですが、フランス語だったらどうだったでしょう。ちょうどいい具合に中間点を作り出している。それぞれの登場人物たちが外部と出会う場所になっています。 そこでは、不思議なことに、そこまで、見ているぼくが、わざとらしく感じていたそれぞれの人物の演技が、リアルに感じられようになります。映画そのものが、ある意味どうでもいい話なんですけれど、いや、どうでもよくないか、面白くなってくるのです。 もっとも、予告編やチラシがうたっている「カンヌ映画祭の裏事情」なるものが、この映画のどこにあるのかは、結局最後まで分かりませんでした。まあ、ぼくがものを知らないせいだと思います。 大雨警報の午後、シネ・リーブルを出ると、青空が広がっていました。 帰ってきて、調べてみるとイザベル・ユぺールはとんでもないキャリアの女優でした。いやはや、失礼しました。2018・09・10・シネリーブルno20にほんブログ村にほんブログ村
2019.07.01
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ホン・サンス洪常秀 「夜の浜辺でひとり」 ホン・サンス監督の「夜の浜辺でひとり」(2017)をシネ・リーブルで見ました。 先週の「それから」に引き続き、2本目。シネ・リーブルがホン・サンスのシリーズ企画をやっていて、あと二つ、秋までに見ることが出来ます。先週よりも劇場は混んでいました。今日は、一人できましたが、周り中人が座っていて、落ち着きませんでした。(なにゆうとんねん!映画館の敵か!?) フィルムが始まって、ヨーロッパの町と公園のシーンで、なんと寝てしまいました。目覚めると、韓国の喫茶店のシーンに変わっていました。テーブル、食事、会話。今回はやたらとたばこを吸うシーンが初めから印象に残りました。 浜辺で向こう向きの女が寝ています。誰かが来て、彼女を起こします。でも見ているぼくには、波が打ち寄せてきて、女の背中がある。逆か?女の背中があって、波が打ち寄せてくる。それが、この映画のトーンでした。ただ、ただユルイ睡魔が繰り返し襲い掛かってくるのです。 あのまま、ぐっすり寝てたらよかったんじゃないか。映画を観て寝てしまったのは、40数年前の「愛のコリーダ」以来ですが、このまま寝てもよかったんじゃないかと思うのは初めてです。 だって、主役の映画女優さん、劇中でも、ずっと寝てたんじゃないでしょうか。もちろん、起きて、しゃべったりしてはいましたが。 キム・ミニという女優さんのための映画のようにも思えましたが、実に今風な印象を受けました。まあ、今風というのは要するについていけないことの言い訳かもしれませんが。「うーん、なんか、この今風イメージを説明するのがめんどくさい。でもね、この人の映像の印象は悪くないんだよな。海のシーンも、公園のシーンも。」 困った映画なんですが、このシリーズは最後まで見るでしょう。「韓国」の「今」、これは「日本」の「今」ではない。そういう今風がこの映画の肝のような気がしています。監督ホン・サンス脚本ホン・サンス撮影キム・ヒョング パク・ホンニョル 編集 ハム・ソンウォンキャストキム・ミニ(ヨンヒ)ソ・ヨンファ(ジヨン)クォン・ヘヒョ(チョンウ)チョン・ジェヨンミ(ョンス)ソン・ソンミ(ジュニ )原題「On the Beach at Night Alone」2017年 韓国 101分 2018・08・14・シネリーブルno17追記2020・05・27「韓国」の「今」の感覚に興味を感じて、韓国の映画を時々見ます。その中ではこの監督は独特です。うまくいえませんが「映像のたち」、「たちが悪い」とかの「たち」ですが、「質」と書くと違うような、それが違っていると感じます。 コロナ騒動のあと、映画が変わるのかどうか、そういう興味も湧いています。そろそろ映画館に戻って行こうかなという今日この頃です。ボタン押してネ!にほんブログ村
2019.06.29
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ホン・サンス洪常秀 「それから」 シネ・リーブル神戸 生まれて初めて、韓国の映画を観ました。ホン・サンスという監督の「それから」という作品でした。 当たり前のことですが、セリフが朝鮮語で、そのリズムというか、テンポが、スクリーンの映像と重なって、「自然なこと」が新鮮でした。まあ、初めての体験だからでしょうか。 ストーリーは、なんというか、始まってそうそうというか、一目見ただけでというか「この男は殴れるものなら殴ってしまうか、誰かに殴られるかしにたほうがいいな。」と直感で思った登場人物がいたのですが、最後まで見終えても、ボク的には、やっぱりどうしようもないやつで、あれこれ、あるけれども、「ああ、そうなの。」という結論で終った印象でした。「あのね、ほら、漫才のブラックマヨの、アバタの方を、ちょっと、ようしたみたいな。けど、あれって何なん?何なん、あのオトコ?ちょっと、ホン・サンスって、こういう映画なん?」「いやー、ぼくにいわれてもなあ。エエらしいから行こういうたんあんたやねんけど。ぼく、そこそこ面白かったで?」 間「女が二人、言い合ってた時に、あいつ泣きだすやん。アレなんで泣くの?」「おカーちゃん!って、そんな感じとちゃうの。」「アホちゃう!」「わー、最悪やん。ぼくは、韓国では、こういう時に男が泣くんかって、まあ、冗談やけど。」「韓国でもどこでも、ああいうとこで泣く男はサイテーやん。なんか、あの女の子以外、みんな、どうしようもない。見てて疲れへんかった?」 実は同居人のチッチキ夫人と同伴鑑賞でした。隣同士で座ってみたのですが、見終えての二人の会話は、いまいち、もりあがりません。主人公らしき男性に関しての評価は、どうやらボクよりひどいらしく、俳優の地顔にまで文句言っています。 やれやれ‥‥ とはいうものの、ボク自身はそこそこ面白かったのかもしれません。 まず、モノクロのシーンがいいと思いました。現実と記憶を重ねた展開なのですが、カラーだったら、きっと疲れてしまったと思うのです。まず、男の記憶に出てきて、やがて登場する女と、目の前でしゃべっている女が、同じ人かと思わせるのも、おそらく、かなり意図的な演出だと思います。観ている側に、時間と意識について、微妙な混乱を引き起こすことを狙っているのでしょうが、問題は、この混乱を描くのか?ということですね。そのあたりが腑に落ちないところにイライラが生まれる原因があるらしいのです。 会話のシーンの設定が、そっくりなのも面白いですよね。向き合っているシーンがありますが、これもわざなのでしょうね?そこに現れる二人の表情は、相互理解の不可能性を映像としてくっきり表しているように感じるシーンというか、表情になっていて、観ているこっちは、どっちを見ても落ち着かないのです。女に寄り添う男のシーンがありますが、そこでも、握り合っている手とは裏腹に何も共有していない印象ばかりが伝わってきます。 ドラマは内向きの、世俗的でうんざりする世界なのだけれど、一人だけ、そこにいない女が、紛れ込んできて、やがて出ていくのですが、女は、ここで何をしているのか? 「なぜ、男はあそこで泣くのか。」「なぜ、タクシードライバーは女を覚えていたのか。」「なぜ、女は、もう一度男を訪ね、男はなぜ、「それから」を渡すのか。」 とりとめもない疑問が、次々とわいてきますね。「うん、しかし、このわけのワカラナイ感じは、そう悪い映画じゃないな。」という気もしてくるんですよね(笑)。「女は「代助」なのか「三千代」か。」 ふとそんな気もして、去っていった後ろ姿が浮かんだ。でも、まあ、どっちとも違うような気もするし。「いや、そもそも、「それから」ってなんなん?やっぱ、ようわからんね。」 2018・08・02・シネリーブル神戸 (no16)追記 2019・06・27 尾を引いて、しばらく、同じ監督を続けてみました。しかし、まあ、ようわからんことは解決しなかったですね。そのうち、新しい映画を作ったら、また観てみるか?そんな感じは残りました。 一年たって、やっぱり、話は思い出せない。そういう映画やったんかな? ホン・サンス洪常秀「正しい日 間違えた日」・「夜の浜辺でひとり」・「クレアのカメラ」の感想は表題をクリックしてくださいね。にほんブログ村
2019.06.27
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