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読書案内「鶴見俊輔・黒川創・岡部伊都子・小田実 べ平連・思想の科学あたり」 15
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ジョン・カサヴェテス「アメリカの影」元町映画館 ジョン・カサヴェテスの特集、朝一、元町映画館通いの2本目は「アメリカの影」でした。 1958年の作品です。カサヴェテスという監督は1922年生まれらしいですから、36歳の時の作品ということですね。若いですね。めちゃくちゃ才能と人間性を感じる作品でした。 もう一つ、まあ、見たあとの後知恵なのですが、ニュー・ヨークで暮らすミュージシャンの兄二人と白人にしか見えない二十歳そこそこの妹という、白人と黒人の血を引く3兄妹の日常の姿を描いているこの映画の歴史的背景として、モンゴメリー・バス・ボイコット事件が1955年、ケネディ大統領の暗殺が1963年、公民権法の成立が1964年あたり、1950年代から60年代にかけてのアメリカの事情を思い出しておくとわかりよい気がしました。 「Shadows」という原題を「アメリカの影」という題で日本で公開した、配給会社の時代的気分ということも感じました。 ただ、「Shadows」という複数形が、黒人に対するものだけではなく、女性や貧困に対する差別、蔑視を意識して作られていることは間違いないとも思いました。 まあ、そういう意味で社会的評価というのでしょうか、映画が描いている社会に対する監督の立ち位置には共感と信頼を感じましたが、この映画の面白さは、多分、描き方というか、物語の展開のさせ方と、一つ一つのショットの撮り方ですね。 どいうことかというと、一つ一つのプロットというか、小さな場面の描き方がリアルで丁寧なのですね。具体的に言えば、末娘のレリアの初恋というか初体験(こんな言葉、今でもあるのかな?)が、後半のメーン・プロットです。まあ、見ているボク自身は、そこで描かれる、相手のニックという白人男性と上の兄のヒューのやり取りを見て、ようやく、この映画に差別や蔑視の問題が作品に底流していることに気づくという迂闊さでしたが、そこまでのシーンシーンのやり取りの意味が急に分かり始めて、何の気なしの場面の角の立て方が実にうまいと感心する次第でした。他の場面でもそうですが、日常的なシーンの作り方がリアルで、一方で映画のテーマ、まあ、この映画では差別、あるいは人間的絆ということなのでしょうが、それがジワジワと深まっていくのですね。この深まり方は、この監督に独特のものだと感じました。イヤーぁ、拍手! やっぱり明日も、朝一に来ますね(笑)。 監督 ジョン・カサヴェテス脚本 ジョン・カサヴェテス撮影 エリック・コルマー編集 モーリス・マッケンドリー音楽 チャールズ・ミンガスキャストベン・カルーザスレリア・ゴルドーニヒュー・ハードアンソニー・レイルパート・クロスデビッド・ポキティロウデニス・サラストム・アレン1959年・82分・アメリカ原題「Shadows」日本初公開1965年2月2023・08・22・no107・元町映画館no197
2023.08.30
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ジョン・カサヴェテス「オープニング・ナイト」元町映画館 さて、2023年、猛暑の8月も20日を過ぎました。ちっとも涼しくなりませんが、今日から元町映画館午前10時出勤の1週間が始まります。お目当ては「ジョン・カサヴェテス・レトロスペクティヴ リプリーズ」という6本立ての特集です。先週から始まっていましたが、今週は午前10時スタート、朝一番上映です。 ボクの初日は「オーニング・ナイト」という1977年の作品でした。ジーナ・ローランズという女優さんが、マートル・ゴードンという人気の舞台女優、まあ、スターですね、を演じていて、「女優が年をとるとは?!」 という、まあ、ボクにとっては「どうでもいいんじゃないの?」と言いたくなるような「問題(?)」をめぐって、延々と演じている映画でした(笑)。 実はボクは、彼女が何に悩んでいるのか、映画の後半になるまでわからないまま見ていました。だから、まあ、なにがなんだかわからないで見ていたのですが、これが案外面白かったんですね。 一つは、演劇の舞台を映画で撮っているところですね。演劇を映画で撮ったナショナルシアターライヴという企画が好きで、よく見るのですが、この映画は舞台の裏表を撮っていて、まあ、それがメインなのですが俳優の「人間」を描こうとしているわけです。 ボクには、舞台の裏表の進行が面白かったんですね。芝居の無茶苦茶になる様子とか、最後の、まあ、芝居としては、映画の中で原作者も言ってましたが、いい加減というか、セリフも筋も、アドリブといえば聞こえはいいですが、それでも舞台は続くというあたりは、そんなんありかな? とは思うのですが結構面白かったですね。 もう一つは、プッツンの象徴のようにいきなり車にはねられて死んでしまう「追っかけの、若い女性ファン」と、その死をめぐる女優の葛藤というか、ジタバタの展開は、さて、どうなるか? で、ドキドキして(ウソですけど)見ました。別に好きなタイプではないのですが、イヤ、案外好きかな?というジーナ・ローランズという女優さんはなかなかいいな!でした。 ただ、最後になって、なんとなく「女優と老い」 というテーマ(?)に気づいて、実は、なんだか図式かなという印象だったのですが、まあ、そこまでの監督のネバリがスゴイですね。やっぱり、続けて見そうです。 まあ、とりあえず監督カサヴェテス、まあ、俳優としても出ていらっしゃったようですが、とジーナ・ローランズ、ご夫婦らしいですが、に拍手!でした。 疲れました!(笑)監督 ジョン・カサヴェテス脚本 ジョン・カサヴェテス撮影 アル・ルーバン美術 ブライアン・ライマン編集 トム・コーンウェル音楽 ボー・ハーウッドキャストジーナ・ローランズ(マートル・ゴードン:女優)ベン・ギャザラ(マニー・ビクター:演出家)ジョーン・ブロンデル(サラ:劇作家)ポール・スチュワート(デヴィッド:プロデューサー)ゾーラ・ランパートジョン・カサベテス(モーリス:俳優)1977年・144分・アメリカ原題「Opening Night」日本初公開1990年2月2023・08・21・no106・元町映画館no196
2023.08.28
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映画製作者=匿名「ミャンマー・ダイアリーズ」 8月の中旬に大きな台風が来て、台風一過の「秋風ぞ吹く!」を期待していたのですが、吹きませんでした(笑)。猛暑は復活して、相変わらずのグダグダなのですが、「何だ、この映画?ひょっとして?!」 と、やる気のない気持ちを叱咤して、やって来たのが「ミャンマー・ダイアリーズ」というドキュメンタリーです。もちろんこの手の作品を上映してくれるのは元町映画館です。 アタリ! というか、 これ、見んかったら、ますます無知の塊やったなあ。まあ、それにしても、ここでもとんでもないことが・・・・・ という作品でした。チラシの真ん中に工事用のヘルメットの女性の影が映っていますが、彼女は銃撃され倒れました。血まみれの帰らぬ人となったのです。 ミャンマーなんて、ノーベル平和賞のスー・チー女史の名前でしか知らない国ですが、今、とんでもない状態だということを初めて知りました。 そのスーチー女史は、自宅ではなく犯罪者として刑務所だそうです。このフィルムに登場する人の名前も、顔も隠されていて、顔出しの人は翌日逮捕されたり、帰らぬ人となってしまった人に限られているドキュメンタリーでした。ジャングルで、民主派の青年たちが武闘訓練している様子は、60年代の新左翼ドキュメンタリーで見たことがある「銃を取れ!」のようで、見ていて気が滅入るばかりでした。 映像のほとんどは、おそらく、スマホとか小型カメラの隠し撮りで、いろいろな人が撮った切れ切れのフィルムがつぎはぎを映画として編集した作品です。そして「弾圧」・「圧政」という現実を描く映画としてのコンテクストを支えているどこかに、編集者たち、映画製作者たちの、芋虫から変身する蝶にたくした夢があって、たとえば、チラシのヘルメットにもとまっていますが、それが、なんだかコミカルに訴えられていることが、かえって救いであるかの作品でした。 70分の短い作品ですが、見終えてため息が出ました。しかし、ミャンマーの現実もさることながら、このフィルムを世界に発信する努力を続ける人がいることには、やはり、勇気づけられる思いもするわけでした。ああ、世界のことなんて何にも知らないで、フラフラ徘徊している場合かよ! できれば、若い人に見てほしいと思いました。とんでもないのはウクライナや香港だけじゃないんですよ。で、なによりもまず、この映画を上映してくれた元町映画館に拍手!でした。2022年・70分・オランダ・ミャンマー・ノルウェー合作原題「Myanmar Diaries」2023・08・19・no105・元町映画館no19
2023.08.20
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ヤン・ヨンヒ「愛しきソナ」元町映画館 先日来、元町映画館がやっている「映画監督ヤンヨンヒと家族の肖像」ですが、今日は2009年に発表された「愛しきソナ」を見ました。 「ディア・ピョンヤン」(2005)、「愛しきソナ」(2009)、「スープとイデオロギー」(2021)という、ヤン・ヨンヒの三つの仕事の、時代的には真ん中の作品です。 先日見た「ディア・ピョンヤン」が「父の肖像」、昨年の9月に見た「スープとイデオロギー」が「母の肖像」、そして、本作「愛しのソナ」は、ピョンヤンで暮らす「三人の兄とその家族の肖像」なのだろうと予想して見ました。 たしかに、映画の作り手であるヤン・ヨンヒにとっては次兄の娘、ですから、姪に当たる「ソナ」という少女の、3歳くらいから、大学入学ですから18歳くらいでしょうか、その姿を追ったフィルムを中心に構成されていました。しかし、実質的には、カメラを持って、ピョンヤンの兄弟たちや、甥、姪の姿を撮っている監督自身の肖像という印象を強く持ちました。 1990年代から2009年という時間の経過の中で、「ディア・ピョンヤン」で撮った父の死があり、ヤン・ヨンヒ監督自身が、発表した作品の評価によって、北朝鮮政府から入国を拒否されるという政治的弾圧の対象になったことが明らかにされます。 彼女は、作品の中で何気なく語るのですが、実は、彼女が映画で表現しようとしていた、在日コリアンの「家族」を縛り続けてきた「政治性」・「歴史性」が如実に正体をあらわした事実だと、ボクは思いました。そういう意味では、かなりスリリングな映画だったと思います。 映画の終盤、大阪の祖母が送ってくれた日本製のランドセルをしょって、ピョンヤンの小学校に通う「ソナ」の姿を、学校の校門まで撮り続けるシーンがありましたが、「ソナ」の後ろ姿に、かつて、北朝鮮に「帰国」していった兄たちの姿と、残された小学生だっ監督自身の姿が重ねられていることを強く印象付けられるシーンでした。 政治的な事態が明らかになってから編集されたにちがいないナレーションで、監督であるヤン・ヨンヒ自身が語る「別の世界に去っていくソナ」 という言葉に、強く胸打たれました。見る前には、なにしろ、幼い少女が映り続けて、見ていてつらいだけなのではないかと不安でしたが見てよかったと思いました。監督 ヤン・ヨンヒ脚本 ヤン・ヨンヒエグゼクティブプロデューサー チェ・ヒョンムク撮影 ヤン・ヨンヒ編集 ジャン・ジン音楽 Marco2009年・82分・G・韓国・日本合作2023・08・03・no102・元町映画館no193
2023.08.03
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ジャン=ジャック・アノー「薔薇の名前」元町映画館 SCC、シマクマシネマクラブの第8回例会です。前回の第7回の「探偵マーロウ」も不評でした。主宰者(?)としては「今度こそは!」 という気持ちを込めての提案でした。 原作がウンベルト・エーコの評判の作品で、テレビでも放映されたこともある「傑作!且つ、名作!」、ジャン=ジャック・アノー監督の「薔薇の名前」です。昨年秋からのシリーズ企画「12か月のシネマリレー」で見ている1本だということも安心材料でした。 で、結果は?「暗いですねえ。」「えっ?アカンかった?」「ただのミステリーやないうことはわかるんですが、何をやっているのかがようわかりませんね。」「ウンベルト・エーコという作家はご存じないですか?」 ウーン、ご存知ないようなので、ちょとだけ、解説ふうに、まず、ウンベルト・エーコという原作者についてです。 今となっては古い話なのですが、だいたい、1980年代くらいですね、所謂、記号論ブームというのがありましたが、ボクにとっても、そのころ「記号学Ⅰ・Ⅱ」(岩波現代選書)という本で出合ったのがエーコですね。まあ、なにが書かれていたのかほとんど覚えていませんが、記号をめぐる意味作用の発生におけるコードの重要性を論じた人ですね。コードというのは、まあ、個々の暗号解読のための暗号台帳のようなものですね。 当時、丸山圭三郎という言語学者の「ソシュールの思想」(岩波書店)という、まあ、結構、難しい本が話題になって、シニフィエ、シニフィアンというソシュールの用語が流行言葉になりましたが、その同じころ、記号的な表象(言語、絵画、映像なんか)がシニフィアン(意味内容)としてコノテイト(内包)する、複数の、あるいは、多層的な意味の可能性の読み取りに際して、複数のコードの重要性を説いたのがエーコの記号論だったというのがボクの大雑把な理解です。記号表現は表現主体の主観的な意図を越えた重層的な意味を内包するというところが肝ですね。まあ、40年ほど昔に読んだことなので出鱈目かもしれません(笑)。 で、「薔薇の名前(上・下)」(東京創元社)という長編小説では、エーコがその理論を実践して見せたという印象の作品でした。 原作小説は中世イタリアの修道院で起こった殺人事件の記録というミステリー仕立てですが、ギリシア文化、イスラム文化、キリスト教文化という、現代ヨーロッパ文化の底に、それぞれがぶつかり合い,捻じれあいながら流れ込んでいる重層的な価値観について、博学多識の権化のようなの歴史的ネタをちりばめた作品で、それだけでも、一筋縄では読み切れないのですが、たとえば、主人公で探偵役のバスカビルのウィリアムスは「バスカビルの犬」のシャーロック・ホームズと「オッカムのカミソリ」の哲学者ウィリアム・オッカムを想起させるとか、盲目の図書館長は、「バベルの図書館」のボルヘスがモデルだとかという小ネタで読者を笑わせ翻弄しながら、記録が書き残した「薔薇」とは結局、何の比喩だったのかと悩ませて終わるという、小説だけでも、まあ、大変なのです。で、映画では、エーコをどう料理するのか? 興味は、ひとまずそこなのですが、異端と正統というコードで「中世キリスト教」のわからなさを腑分けする方法を選んだところが卓見ですね。 ギリシア文化がヨーロッパ哲学の原理として君臨する以前の中世の闇の一面を、書物、あるいは、アリストテレスの「笑い」をめぐるミステリーとして描くことで、原作の複雑怪奇な多層性を要約して見せた力業といっていいと思います。 原作でホームズとウィリアム・オッカムを想起させる主人公を、007のショーン・コネリーにやらせたのも笑えましたね。 まあ、要するに趣味の映画といってしまえば、それまでなのですが、ボクは好きですね。あの図書館に並んでいる本は、全部、羊皮紙製で、ホントに焼けてしまったんかな? そういうことにドキドキする作品でしたが、「薔薇の名前」って、映画では語り手で、ワトソン役のアドソくんの初体験(?)の相手のことになるのですが、それって、小説の最後の謎は説いていませんよね(笑)。まあ、しようがないのですが。 というわけで、SCC第7回もシマクマ君だけよろこぶ結果だったようですね。次回はどうしようか、マジ、悩みますが、まあ、映画であれ、小説であれ、好き好きは大切です。しようがないですね(笑)。監督 ジャン=ジャック・アノー原作 ウンベルト・エーコ脚本アンドリュー・バーキン ジェラール・ブラッシュ ハワード・フランクリン アラン・ゴダール撮影 トニーノ・デリ・コリ美術 ダンテ・フェレッティ衣装 ガブリエラ・ペスクッチ編集 ジェーン・ザイツ音楽 ジェームズ・ホーナーキャストショーン・コネリー(バスカヴィルのウィリアム)F・マーレイ・エイブラハム(異端審問官ベルナール・ギー)フェオドール・シャリアピン・Jr.(盲目の師ブルゴスのホルヘ)マイケル・ロンズデール(修道院長アッボーネ)ロン・パールマン(異端者サルヴァトーレ)エリヤ・バスキン(セヴェリナス)クリスチャン・スレイター(弟子メルクのアドソ:語り手)バレンティナ・バルガス(農民の少女)1986年・132分・フランス・イタリア・西ドイツ合作原題「The Name of the Rose」日本初公開1987年12月11日2023・07・10・no87・元町映画館no183・SCC第8回
2023.07.31
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ヤン・ヨンヒ「ディア・ピョンヤン」元町映画館no190 「スープとイデオロギー」というドキュメントで忘れられない監督になったヤン・ヨンヒ監督の特集「映画監督ヤンヨンヒと家族の肖像」を元町映画館がやっています。 上映されるのは「ディア・ピョンヤン」(2005)、「愛しきソナ」(2009)、「スープとイデオロギー」(2021)の三作品です。 今日(2023年7月27日)にボクが見たのは、三部作(?)ともいうべき「家族の肖像シリーズ」の第1作、「ディア・ピョンヤン」です。 2021年に作られた「スープとイデオロギー」が、いわば「母の肖像」であったわけですが、「ディア・ピョンヤン」は、ほぼ、同じ方法論で撮られている「父の肖像」でした。 映画が撮られた2004年当時、健在だった父を、監督自らがカメラを回しながらインタビューし、ナレーションしながら、父と母、ピョンヤンに暮らす兄たちの家族の姿を映像化した作品でした。いってみれば「ホーム・ビデオ」なのですが、これが胸を打ちます。「父ちゃんの映画作ってんねん」「アホちゃうか!」 もらって帰ってきたチラシの中にあった文句です。帰って来て、この言葉のやり取りを見つけて、涙が出ました。お父さん、お嬢さんはアホちゃいまっせ!監督・脚本・撮影 ヤン・ヨンヒ 梁英姫プロデューサー 稲葉敏也編集 中牛あかねサウンド 犬丸正博翻訳・字幕 赤松立太2005年・107分・日本配給 シネカノン2023・07・27・no97・元町映画館no190
2023.07.27
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ナーサ・ニ・キアナン デクラン・マッグラ「ぼくたちの哲学教室」 今、話題の作品です。映画のあとで、倫理社会とか哲学とかの高校の先生とか大学の先生がお話しなさる会なんかも催されて、盛り上がっているようです。ボクは、そういうのは苦手なので、一人で観ましたが、日ごろ出会うことのある大学生の方に、まあ、とりあえず見たらいいんじゃないかと紹介したりしました。 北アイルランドの小学校のドキュメンタリーで、ナーサ・ニ・キアナンという人と デクラン・マッグラという二人が監督だという「ぼくたちの哲学教室」です。 見ながら、揺さぶられるような気持になりました。なにが、どういいのかと問われると、ちょっと困るのですが、「考える」ということをしている子供、しはじめた子供は、なんともいえないいい顔をするということを素直に感じることができたことです。 ドキュメントされている舞台が北アイルランドのベルファストだとか、男子小学校だとか、子どもたちがカメラがあるところで喧嘩を始めるとか、小学校に哲学の時間があるとか、哲学を担当する校長先生が好きなのはプレスリーだとか、面白がるところは満載です。 でもね、なによりも、子どもたちが、例えば「暴力」というようなもっとも根底的な倫理の根っ子を、自分の中に探し始めるんですね。別の言い方をすれば、自分の言葉で自分の意識や頭を自分のものにするということですね。するとね、子供たちの表情が変わるんです。 それは、例えば、学校の校庭や校舎に「やる気・本気・根気」とか「いじめダメ!」とかいう看板を掲げて、子供に見せたり、唱えさせたりすることが当たり前だと思っている社会で暮らしてきた69歳の老人をドキッ! とさせたんです。 今も紛争のただ中の社会だからとか、考える方法論はとか、まあ、あれこれ理屈を持ち出してわかったつもりになりそうです。でも、ボクたちのまわりに、たとえば、友達に殴り掛かったあと、何故、哀しいのか。何故、楽しくないのか。仲直りするためにどうしたらいいのか。そんなふうに、自分に問いかけている子供がいるでしょうか? それは、ひょっとしたら、たとえば教員だったり父親だったりしたボク自身が、子どもたちのあの表情を忘れてしまっていたからじゃないか? 次から次へと問いが浮かぶ帰り道でした。映画を作った監督と教員の皆さん、校長先生に拍手!でした。そして、誰よりも、考え始めたこもどもたちに拍手!です。 監督 ナーサ・ニ・キアナン デクラン・マッグラ製作 デビッド・レイン撮影 ナーサ・ニ・キアナン編集 フィリップ・ラボエ レト・スタム音楽 デビッド・ポルトロックキャストケビン・マカリービージャン・マリー・リール2021年・102分・G・アイルランド・イギリス・ベルギー・フランス合作原題「Young Plato」2023・07・11・no88・元町映画館no189
2023.07.12
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福永壮志「山女」元町映画館 このチラシの写真と、チラシのこの一行に釣られてやって来ました。「遠野物語」に着想を得た、唯一無二の物語」 結構込み合っていました。見終えて思いました。監督でも、脚本家でもいいですが、本当に柳田国男の「遠野物語」とやらを読まれたのでしょうか?もしも読まれたうえで、こういう時代背景で、こういうセリフ回しで、こういう演技で、こういう物語設定で、こういう映画(ボクは「映画」と呼ぶことに抵抗を感じますが)をお作りになったとしたら、作っている人や、広告を書いている人とボクとの間には、まあ、不可知の海が広がっているという気がしましたね。 いやはや、いろんな映画があるものですね。書くことがないので、青空文庫で読める柳田国男の「山の人生」の最初のお話を貼っておきます。有名な話ですが、これだけで、まともな作り手であれば「映画」が一作撮れると思うのですがねえ。 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。 この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。 柳田国男にインスピレーションを得たというのであれば、柳田国男が書き残した世界に対する敬意を感じさせる映像にしていただきたいですね。文化庁だかNHKだか知りませんが、出鱈目は不愉快ですね。監督 福永壮志脚本 福永壮志 長田育恵撮影 ダニエル・サティノフ編集 クリストファー・マコト・ヨギ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャスト山田杏奈(凛)森山未來(山男)二ノ宮隆太郎(泰蔵)三浦透子(春)山中崇(寅吉)川瀬陽太(角松)赤堀雅秋(親方)白川和子(巫女のお婆)品川徹(村長)でんでん(治五郎)永瀬正敏(伊兵衛)2022年・100分・G・日本・アメリカ合作2023・07・04-no83・元町映画館no177追記2023・07・08 感想とも言えない感想を綴って投稿しましたが、案外多くの方の反応があって驚いています。元町映画館では、この作品が結構たくさんの方に見られているようです。めでたいことです。 ちょっと、誤解されているようなので追記しますが、ボクにはこの作品のなかに柳田国男の論考を基礎にして作られた痕跡がまったく見つけられなかったのですが、にもかかわらず、チラシの宣伝文では、あたかも、柳田民俗学の世界を描いているかのような煽り方をしていたことに呆れた結果を感想にもならない感想として書いただけです。 若い映画製作者や宣伝担当者が、たとえば柳田国男を読んでいないことを批判しているのではありません。そんなことは、はなから期待していません。ただ、自分が知らないことをネタに、知らない人のイイネを煽るのは出鱈目です。入場料を払って見に行っている人間もいるのですから出鱈目はやめていただきたい。そう思ったことを書いただけですよ(笑)。
2023.07.04
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ジャン・ルノワール「どん底 」元町映画館 1936年ですから、昭和9年、ほぼ、90年前に作られた作品です。ボクでも名前だけは知っているフランスの名監督ジャン・ルノワールの出世作だそうです。 原作は「嵐だ。嵐が来るぞ!」(「海燕の歌」) のゴーリキーの、こちらは代表作である戯曲です。 見たことのない古い映画なので、まあ、興味本位でやってきた元町映画館でした。場内はガラガラでした。ところが、これが、まあ、なんと、ど真ん中のストライク! 観たのはジャン・ルノワール監督の「どん底」です。 登場人物の名前は、なんとなくロシア風ですが、舞台はフランスの貧民窟のようです。で、その「どん底」に生息している「人間ども」、「貧しい人々」が、まず、すばらしいかったですね(笑)。 泥棒稼業しか働き方を知らないペーペル。博打で地位も財産も失った男爵。木賃宿の家主で、けちくさい欲の権化のようなコスティリョフ。その妻でペーペルの情婦ワシリーサ、ひそかにペーペルに恋している妹のナターシャ。アル中の俳優。流しのアコーディオン弾き。いつも真実(?)を口にする哲学老人。金と権力を振り回し、ナターシャに迫るデブの監督官。 見終えた後で、次々と思い浮かぶこの人物たちを巷間から見つけ出してきたのは、おそらく、原作者ゴーリキーの功績でしょうね。しかし、それぞれの人物に生きている人間の顔をあたえたのは、まちがいなくジャン・ルノワールですね。そこはかとないユーモアを漂わせながら、人間喜劇とでもいう感じのドタバタ的筋運びなのですが、目が離せません。中でも、原作には、たしか、登場しない(?)、博打狂いで破滅する男爵を登場させたのがジャン・ルノワールのすごいところで、映画はゴーリキーの「貧しい人々」の世界から離陸して、ひょっとしたらうまくいくんじゃないか? という「ワクワク」するハッピー・エンディングの予感の中で展開していきます。イヤハヤ、うまいものですね(笑)。 アコーディオンの演奏と、酒場のブラスバンドの音楽だけが、所謂、BGMなのですが、それが見事にドラマの気分を盛り上げていて、アル中の俳優の意味不明な演技と哲学者のトンチンカンなご宣託が世界の行方を暗示しているかのように挿入されるのですが、だからこそでしょうね、なんとなく笑えるのです。初心で恥ずかしがりな娘と愛のために更生を誓った泥棒の恋物語にすぎないのですが、いいもの、みちゃった! この、いい気分はどこから来るのでしょうね。 若き日のジャン・ギャバン、男爵を演じているルイ・ジューベ、そして監督ジャン・ルノワールに拍手!でした。年をとってからの姿しか知らなかったのですが、ジャン・ギャバンが1930年代の人気スターだったことに納得しましたよ(笑)。 監督 ジャン・ルノワール製作 アレクサンドル・カメンカ原作 マクシム・ゴーリキー脚本 エブゲーニイ・ザミャーチン ジャック・コンパネーズ ジャン・ルノワール シャルル・スパーク撮影 フェドート・ブルガソフ ジャック・メルカントン ジャン・バシュレ美術 ユージン・ローリー ユーグ・ローラン編集 マルグリット・ルノワール音楽 ジャン・ウィエネル ロジェ・デゾルミエール助監督 ジャック・ベッケルキャストジャン・ギャバン(ペーペル:泥棒)ルイ・ジューベ(男爵)シュジー・プリム(ワシリーサ:コスティリョフの若い妻)ジュニー・アストル(ナターシャ:ワシリーサの妹)ジャニー・オルト(ナスチャ)ウラジミール・ソコロフ(コスティリョフ:木賃宿の亭主)ロベール・ル・ビギャン(俳優)モーリス・バケ(アコーディオン弾きのアリョーシカ)ルネ・ジェナン(哲学者ルカ)ポール・タン(元電信手)ナタリー・アレクセイエフ(アンナ)アンドレ・ガブリエロ(監督官)カミーユ・ベール(伯爵)レオン・ラリブ(男爵の執事フェリックス)1936年・93分・フランス原題「Les bas-fonds」日本初公開:1937年11月2023・06・27・no79・元町映画館no176
2023.06.29
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ニコラス・ローグ「マリリンとアインシュタイン」元町映画館 2022年の秋から見始めている「12ヶ月のシネマリレー」も折り返し点を過ぎました。 で、2023年6月のプログラムはニコラス・ローグ監督の「マリリンとアインシュタイン」でした。1985年に作られた作品のようですが、マリリン・モンローとアインシュタインの取り合わせにはなんとなくな記憶がありましたがあてにはなりません(笑)。 1954年の、ニューヨークが舞台のようです。地面の通風孔から吹き上げる風にマリリン・モンローのスカートがめくれ上がるという、まあ、モンローといえばアレ! というシーンの撮影中、通風孔の下から風を送っている二人の男のシーンから映画は始まりました。笑えます! で、歴史的(?)撮影を終えた人気女優は疲れています。セクシー女優としての仕事にも、プロ野球選手との夫婦生活にも・・・、で、彼女が今したいことは「抱かれたい男NO1」のあの男と「特殊相対性理論」について議論することだったのです。もう、一度、笑えます! まあ、そういう脈絡で、舞台は天才物理学者のホテルの部屋ということになります。で、女優が先ほど買い込んだ列車のおもちゃや懐中電灯を駆使しながら特殊相対性理論について会話がはじまります。天才物理学者は楽しそうです。とはいながら、さあ、ここから二人は?という明け方近くになって、女優の夫で元野球選手は闖入するわ、赤狩りの上院議員が飛び入りするわで、ハチャメチャな一夜です。やっぱり、笑えます! とうとう、夜が明けてしまって、時間は8時15分です。壊れていた目覚まし時計と物理学者の腕時計と女優の時計の時刻が重なり合った、その時、場面は一気に破局の様相を呈し、天才物理学者は絶望し、美しい女優は火だるまと化して世界が終わります。見事でしたね。もう、笑えません! 蛇足ですが、8時15分、ヒロシマで原爆が炸裂した時刻です。女優と野球選手の間にはどうしても子供ができないという挿話がもう一つのカギでしょうね。 悪夢から覚めた天才物理学者に、女優はにこやかに手を振って去っていきます。衝立のせいで、女優の手だけ見えているラストは素晴らしいです。 アメリカ映画だと思って観ていましたがイギリス映画でした。だからどうだということは分かりませんが、マリリン・モンローとかアインシュタインとかの描き方の明るさとか、野球カード・フェチのジョー・ディマジオとか、あのトニー・カーチスが演じる赤狩りで名を残しているマッカシーに対する辛辣な批評性はイギリス的でしたね(笑)。 納得の1本でした。映画のあいだ中、モンローのあの衣装で頑張っていたテレサ・ラッセルと、まあ、上手なコメディアン・アインシュタインを演じていたマイケル・エミル、理に落ちそうなテーマを「笑い」で描いたニコラス・ローグ監督に拍手!でした。 原題は「Insignificance」です。「無意味」とか「些末」ということだと思いますが、家に帰って調べてもう一度笑いました。やってくれますねえ。まあ、ホントは笑えないのかもしれませんがね(笑)。監督 ニコラス・ローグ脚本 テリー・ジョンソン撮影 ピーター・ハナン美術 デビッド・ブロックハース衣装 シュナ・ハーウッド編集 トニー・ローソン音楽 スタンリー・マイヤーズキャストテレサ・ラッセル(マリリン・モンローかも?)マイケル・エミル(アインシュタインかも?)トニー・カーティス(赤狩りのマッカーシーかも)ゲイリー・ビューシイ(ジョー・ディマジオかも)ウィル・サンプソン(エレベータボーイ)パトリック・キルパトリック1985年・109分・G・イギリス原題「Insignificance」配給:東北新社日本初公開:1986年8月8日2023・06・24・no76・元町映画館no174
2023.06.25
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トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ 「私、オルガ・ヘプナロヴァー」元町映画館 見ようか、やめようか、かなり迷いました。「これは、きっと、面倒くさいやつやな!」 最近、面倒くさい話が苦手です。 「銀行員の父と歯科医の母を持つ経済的にも恵まれたオルガ・ヘプナロバーは、1973年7月10日、チェコの首都であるプラハの中心地で、路面電車を待つ群衆の間へトラックで突っ込む。この事故で8人が死亡、12人が負傷した。 犯行前、22歳のオルガは新聞社に犯行声明文を送った。自身の行為は、多くの人々から受けた虐待に対する復讐であり、社会に罰を与えたと示す。 両親の無関心と虐待、社会からの疎外やいじめによって心に傷を負った少女は、自らを「性的障害者」と呼び、酒やタバコに溺れ、性的逸脱を重ね、精神状態は悪化していく。複雑な形の「復讐」という名の「自殺」を決行したオルガは、逮捕後も全く反省の色を見せず、75年3月12日にチェコスロバキア最後の女性死刑囚として絞首刑に処された。」 ネットの作品紹介にのっていた文章です。こんな話、面倒くさいに決まっているじゃないですか。でもね、チョットだけ気になったの、主人公の事件が起きたのが1973年と書いてあることなんです。ボク、この主人公と3歳ほどしか違わないんですよね。で、出かけてしまったんです、元町映画館(笑)。 観たのはトマーシュ・バインレプという人とペトル・カズダという人が、二人で監督をしているらしい映画「私、オルガ・ヘプナロヴァー」でした。 で、感想ですが、観る前に、あれこれ躊躇していたボク自身の予想は杞憂でした。タバコの吸い方が、たぶん、そう演出しているのでしょうが、最後までさまになっていなかったことが気になったことと、女性の同性愛の「性愛」(古ッ!)シーンに、さほど惹かれないで見ている自分のジジ臭さに気づいたこと以外、実にまっとうな作品だと思いました。「オルガは、あの頃のボク自身だ!」 とまでは言いませんが、描かれていく彼女の存在のありさまには、ほとんど違和感を感じませんでした。 主人公のありさまについて、映画の中でも統合失調症というような病名を持ち出して隔離、保護することが当然だという考え方があることをボクは否定も非難もしません。現実に、何のかかわりもない人間を殺している、その、殺人の当事者なわけですから、事件を未然に防ぐことは不可能だったのか、という視点で考えることは、ある意味で、普通のことです。しかし、映画を作った人は、その視点を捨てることを選ぶことによって、人間存在の普遍的な危うさを描くことに成功しているようにボクには見えました。 「孤独」という、ありきたりな言葉がありますが、人は本来「孤独」でしかありえないにもかかわらず、「孤独」ということについて、正面から見据えたり、考えたりすることを避けて生きています。 では、否応なく、それを見つめざるを得なくなった時、人はどうなるのか。どうすればいいのか。多分そんな問いがこの映画には漂い続けていて、オルガを演じていたミハリナ・オルシャンスカは、一人ぼっちの人間の過酷なさまを実に見事に演じ切っていたと思いました。 チラシの裏をご覧ください。それにしても、この険しい表情の少女が、実は、最後まで「他者」を求め続け、生きることを希求していた姿を映画は描いているとボクは思いました。ある種、露骨な性描写も、いつまでも吸いなれない喫煙も、自動車のぶきっちょな運転も、孤独の壁の乗り越え方を見つけられない少女の子供っぽい仕草の表現に見えて、なんともいえず哀切でした。生き続けていれば孤独地獄で罪悪感に苛まれるだけなのでしょうか。 たとえば「死刑」というような制度は本当に必要なのでしょうか。「やっぱりこの制度はやめたほうがいい。」 ボンヤリした思いですが帰り道、人通りの増えた元町商店街を歩いていると浮かびました。 二人ですが、監督の人間凝視のスタイルに拍手!でした。それから主演のミハリナ・オルシャンスカさん、表情だけでなく体を張った「孤独」の演技は見ごたえがありましたよ(笑)。拍手!ですね。監督 トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ原作 ロマン・ツィーレク脚本 トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ撮影 アダム・シコラ美術 アレクサンドル・コザーク衣装 アネタ・グルニャーコバー編集 ボイチェフ・フリッチキャストミハリナ・オルシャンスカ(オルガ)マリカ・ソポスカー(イトカ)クラーラ・メリスコバ(母親)マルチン・ペフラート(ミラ)マルタ・マズレク(アレナ)2016年・105分・チェコ・ポーランド・スロバキア・フランス合作原題「Ja, Olga Hepnarova」2023・06・19・元町映画館no173
2023.06.20
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ダニエル・レイム「屋根の上のバイオリン弾き物語」元町映画館 先日、SCCと称して、このところ始まった二人連れで映画を見る会のおしゃべりでこんな話題が出ました。「あのね、元町映画館に行きたいというからね、これかなと思ったのが『屋根の上のバイオリン弾き物語』という、アメリカの映画作りを話題にしたドキュメンタリーなのよ。」「何ですか、それは?」「いや、だから、たぶん、屋根の上のバイオリン弾きという、ミュージカル、日本でも森繁とかのは知てるやろ。あれは、たぶん、ブロードウェイのミュージカルの輸入版やと思うねんけど、映画ががあるねんね。1970年くらいの。それは、文句なくええ映画やったと思うねんけど、その原作が、えーっと、何やったっけ?ロシアのユダヤ人の小説やねん。あのね、ナチスの前からユダヤ人虐殺ってあんねん。」「ホロコーストの前から?」「ポルゴムやったかポグロムやったか言うねんけどな、そういうのがあるねん。忘れたけど。ユダヤ人がよおけすどった、19世紀くらいやで、東ヨーロッパ、今の、ポーランドとかウクライナとか、もともとロシアやなかったとこをロシア帝国が征服していって、住んでたユダヤ人が追い出されていくねん。まあ、そういうユダヤ人問題やね。それがアメリカで映画になるわけやけど、その辺の話が出てくるんちゃうかなというので、それを見るのもいいかなと。ごめん、あやふやで。」 で、ダニエル・レイム「屋根の上のバイオリン弾き物語」です。本日、一人で鑑賞してきました。納得でした。1970年代のアメリカ映画学講義、ユダヤ人問題編という趣でした。 この映画がドキュメントしている「屋根の上のバイオリン弾き」は日本公開が1971年ですから、ボクは、どこかでリバイバルを観たのでしょうね。劇中歌の一つである「Sunrise, Sunset」は流行りましたね。鼻歌ならボクでも歌えます。 とりあえず、映画の原作はショーレム・アレイヘムという、今、戦争になっているウクライナの、19世紀の終わりから20世紀にかけてのイディッシュ語の作家が書いた「牛乳屋テヴィエ」という短編連作小説です。ポーランド文学の西成彦という人の翻訳で10年ほど前ですが、岩波文庫で出ていて読むことができます。ボクはもっと以前に読んだつもりでしたが、たぶん錯覚です。 で、この「屋根の上のバイオリン弾き物語」とい映画ですが、50年前の「映画製作」の現場をインタビューで追った、とてもオーソドックスなドキュメンタリーでした。 母親役の方は登場しませんが、主人公のテヴィエ、そして三人の娘を演じた俳優さんたちと監督のノーマン・ジュイソン、音楽を担当したがジョン・ウィリアムズが健在で、その4人のインタビューが、まず、聴きごたえというか、とても面白かったですね。 で、その中で、「東欧の、ナチス以前のユダヤ人の社会と、その迫害のありさまを、まあ、ブロードウェイでは当たり狂言であったとはいえ、映画にするときに、こんなに大ヒットするとは考えていなかった」 らしいということが、ボクには一番面白かったですね。ユダヤ人以外の観客を動員できたことが、作った人たちにもかなりな驚きだったようなのですが、その続きに、こんな発言がありました。「ユダヤ人のことなんて、まったくかかわりのない日本人が、この映画や戯曲を喜ぶのはなぜなんだ?」 まあ、本質的にいい映画だからという議論はさておき、日本という社会の海外からの文化の享受というか、受け入れの特質にふれる発言でドキッとしました。そのうえ、やたら流行っていても、歴史的な関心や理解には、大概の場合広がらないまま、ブームが去るところりと忘れる日本人の特質について、たとえば、この映画を作っているダニエル・レイムとかどう思うんだろうと思いましたね。 もちろん、ジョン・ウィリアムスの音楽に関する思い出話とか、トポルというテヴィエを演じた俳優さんの、演じながら思い出した、東欧出身のユダヤ人の祖父の話とか、ノーマン・ジュイソン監督の撮影苦労話とか、とにかく、面白くて興味深い、とても上質な歴史記録的ドキュメンタリーでしたね。 これからも映画史ドキュメンタリーを、連作で撮ろうとしているらしいダニエル・レイムという監督に、期待を込めて拍手!でした。次のターゲットは、なんと、日本のOZUだそうです。どんな、ドキュメントになるんでしょうね。監督 ダニエル・レイム脚本 マイケル・スラゴウ ダニエル・レイム撮影 アースラフ・アウスタッド シニサ・クキッチ編集 ダニエル・レイム音楽 デビッド・レボルトナレーションジェフ・ゴールドブラム(俳優)オリジナルインタビューダニエル・レイム(本映画監督)キャストノーマン・ジュイソン(監督)ジョン・ウィリアムズ(音楽)シェルドン・ハーニック(作詞)ロバート・F・ボイル(美術)ケネス・トゥラン(批評家)トポル(主人公牛乳屋テヴィエ役)ロザリンド・ハリス(長女ツァイテル役)ミシェル・マーシュ(次女ホーデル役)ニnoーバ・スモール(三女ハーバ役)2022年・88分・アメリカ原題「Fiddler's Journey to the Big Screen」2023・06・07-no68・元町映画館no172
2023.06.14
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デレク・ジャーマン「カラヴァッジオ」元町映画館 2022年の秋から見始めている「12ヶ月のシネマリレー」という企画の完走が目的で、何の予備知識もなしでやってきた元町映画館でした。観たのはデレク・ジャーマン監督の「カラヴァッジオ」、1986年に公開された作品でした。 ふしぎな映画でした。ルネッサンス絵画、ボクのような素人の理解では「モナ・リザ」が、まあ、その代表でしょうが、その後、16世紀の終わりから17世紀にかけて、新しいリアリズム絵画として登場したのが、所謂、バロック絵画ということになるのでしょう。で、その時期に、なんというか、異様に印象的な絵を残していて、20世紀後半になって評判になったのがミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオという絵描きです。 宗教画とは思えないような残酷で、スキャンダラスともいえる画風ですが、一方でフェルメールの光とラ・トゥールの闇へと続くかに見える光と影の描き方は、ルネッサンス絵画と一線を画する独特さで、ボク自身は10年ほど昔ですが、当時、沢山の案内本が出たのですが、その中で神大の芸術学の先生である宮下規久朗の解説が印象深くてハマッタ思い出のある画家です。 映画は、その画家の二人の愛人をめぐる回想をドラマ化していましたが、伝記的な事実との一致はともかく、最初から最後まで、映像的にはとても印象的な作品でした。 最初に不思議な作品といいましたが、一つは、映画の中でモデルを配置して描いているシーンが、幾通りかあります。「これはあの絵の!」 まあ、そんな指摘はとてもできないのですが、そのモデルを配置しているシーンが映像として映るのですが、一瞬、静止して見えるそのシーンがカラヴァッジオの絵そのもので、映画の中で主人公がキャンバスに描いている絵の方も映るのですが、「こっちはちょっと違うな。」 という不思議でした。部屋にモデルを並べて画家が見ているシーンが本物で、それを描いた絵画の映像は偽物って・・・? それは、なんというか、クラクラするような体験でした。 もう一つは、結末のシーンでした。主人公カラヴァッジオの愛人でもあり、まあ、こっちも愛人なので話がややこしいのですが、絵のモデルをしている男性ラヌッチオの恋人でもあったはずのレナという女性の死をめぐって、ラヌッチオの首を真一文字にナイフで刎ねるシーンの鮮やかな残酷さに感じた驚きと不条理でした。 女性のレナも男性のラヌッチオも、カラバッジオにとっては愛の対象であったはずなのに、どうしてこうなったのかというストーリー上の疑問が、当然湧くのですが、それ以上に、ひょっとしてデレク・ジャーマンという監督は、この、実に鮮やかな殺人シーンが撮りたかったのではないかという、ボク自身の中では解決しそうもない不思議な感動でした。 カラバッジオには、たとえば「ゴリアテの首を持つダビデ」というような、まあ、残酷な構図の絵がありますが、その奥底にある不条理というか、わけのわからない怒りの衝動というかに対する監督の共感を、なんとしてでも映像化しようとでもいうような迫力を感じさせるシーンでした。 が、まあ、見終えて「疲れたなあ・・・」 と、感じたことも事実です。でも、まあ、映画そのものとしては納得の作品で、今は亡きデレク・ジャーマンに拍手!でした。監督 デレク・ジャーマン脚本 デレク・ジャーマン撮影 ガブリエル・ベリスタイン美術 クリストファー・ホッブズ衣装 サンディ・パウエル編集 ジョージ・エイカーズ音楽 サイモン・フィッシャー・ターナーキャストナイジェル・テリー(カラヴァッジオ)ショーン・ビーン(ラヌッチオ)デクスター・フレッチャースペンサー・レイティルダ・スウィントン(レナ)マイケル・ガフ1986年・93分・G・イギリス原題「Caravaggio」配給:東北新社日本初公開:1987年8月8日2023・05・29・元町映画館no170
2023.06.02
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クロード・ミレール「なまいきシャルロット」元町映画館 「クロード・ミレール映画祭」の3本目は「なまいきシャルロット」という作品でした。13歳の少女シャルロットが主人公でした。チラシの少女です。 まあ、年齢を確定はできるわけではありませんが、13歳以上、15歳未満という感じです。 去年はちっとも怖くなかったはずなのに、飛び込み台から覗き込んだプールの水面が信じられないくらい恐ろしくて、テレビの中でピアノを弾いている少女が、13歳だと聞いて、心を鷲づかみされてしまいます。自分は何がしたくて何はしたくないのか。何が怖くて、何が怖くないのか。このイライラはどこから湧き上がってくるのか、どうすればホッとできるのか。数え上げればきりがないのですが、みーんなわかりません。そういうお年頃いうのがあるのだよ。 68歳の老人はわかったようにつぶやくのですが、自分のその頃のことはもう忘れましたし、その上、男ですから、ちょっと違う気もします。 それにしてもうまいものです。少女が何を考えているのか、本当は、本人さえ分かっていないのに、手に取るように分かった気になります。シャルロットを演じているシャルロット・ゲンズブールという少女は、きっと、演技なんてしていませんね(笑)。そのまんまです(笑)。で、そのまんまを撮ればそれでいいのです。 観終えた老人は暗転したスクリーンをポカンと眺めながら、もう一度つぶやいてしまいます。13歳以上、15歳未満というのはそういうものです。 クロード・ミレールという人は、こういう映画も撮るのですね。拍手!しかありません。それから、やっぱり、役名も本名も同じシャルロットに拍手!でした。監督 クロード・ミレール製作 マリー=ロール・レール脚本 クロード・ミレール リュック・ベロー ベルナール・ストラ アニー・ミレール撮影 ドミニク・シャピュイ編集 アルベール・ジュルジャンソンキャストシャルロット・ゲンズブール(シャルロット・キャスタン 13歳)クロチルド・ボードン(クララ・ボーマン 13歳ピアニスト)ジャン=クロード・ブリアリ(サム クララのマネージャー)ベルナデット・ラフォン(レオーヌ 家政婦)リュック・ベローベルナール・ストラアニー・ミレール1985年・96分・フランス原題「L'effrontee」日本初公開:1989年4月29日2023・02・16-no021・元町映画館no168
2023.03.27
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ニール・ジョーダン「クライング・ゲーム」元町映画館 「12ヶ月のシネマリレー」の2023年3月のプログラムはニール・ジョーダン監督の「クライング・ゲーム」でした。1992年のイギリス映画です。 IRA(Irish Republican Army)の工作員に拉致されたイギリス軍の兵士ジョディ(フォレスト・ウィテカー)が、見張り役のファーガス(スティーブン・レイ)を相手に、こんな逸話を語ります。 ある時、サソリくんが川を渡ろうとして、水辺にいたカエルくんに頼みました。「もし、もし、カエルくん、向こう岸まで載せてっておくれ。」「だめだよ。君は背負ったボクをきっと刺すでしょ。」「いや、いや、心配いらないよ。君を刺したりしたら、ボクも溺れてしまうじゃないか。」 カエルくんはサソリくんを背負って川を渡り始めました。川の真ん中あたりで、サソリくんはカエルくんを、やっぱり、刺してしました。「君も溺れちゃうよ!どうして、刺したりしちゃったの?」「仕方がなかったんだよ、これがぼくの性(さが)なんだよ。」 こうしてカエルくんとサソリくんは一緒に沈んでいきましたとさ。 この作品で、どなたがサソリくんで、誰がカエルくんだったのか、実は見終えた今でもよくわかっていません(笑)。 映画の登場人物だった数名のIRA工作員、イギリス兵ジョディイ、報復のテロで狙われていたイギリスの政治家(?)や、その護衛の人たち、皆、死んでしまって、ファーガスとジョディの恋人ディル(ジェイ・デビッドソン)の二人だけが生き残るという、ある種、悲惨な結末でしたが、妙なことに後味は悪くありませんでした。「性(さが)」を生きるほかない「人間」の姿を正面から描いているからでしょうね。 蛇足ですが、この作品は北アイルランドとイギリスの紛争を舞台にしていますが、社会派映画というよりは人と人の出会いを描いていている「恋愛映画」というべき作品でした。 組織からの逃亡者ファーガスを演じていたスティーブン・レイ、恋人ディルのジェイ・デビッドソンに、まず、拍手!でしたが、もう一人の女性工作員ジュードの悪辣さを、あんたもすごいねえ!と唸らせてくれたミランダ・リチャードソンにも拍手!でした。 マア、それにしても、この「12ヶ月のシネマリレー」、渋い作品を見せてくれますね(笑)。監督 ニール・ジョーダン脚本 ニール・ジョーダン撮影 イアン・ウィルソン美術 ジム・クレイ衣装 スージー・フィギス編集 カント・パン音楽 アン・ダッドリー主題歌 ボーイ・ジョージキャストスティーブン・レイ(ファーガス・IRA兵士)ミランダ・リチャードソン(ジュード・IRA兵士)ジェイ・デビッドソン(ディル・美容師)フォレスト・ウィテカー(ジョディ・ギリス軍兵士)エイドリアン・ダンバー(マグワイア・IRA兵士)1992年・112分・PG12・イギリス原題「The Crying Game」日本初公開1993年6月19日2023・03・24-no045・元町映画館no167
2023.03.26
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アービング・ラッパー「黒い牡牛」元町映画館 昨年の秋から通っている「12ヶ月のシネマリレー」という企画があります。神戸でやっているのは元町映画館です。で、今回はその4回目でした。映画はアービング・ラッパーという監督の「黒い牡牛」という作品でした。 メキシコの田舎の村で暮らすレオナルド少年と「ヒターノ」という「黒い牡牛」の物語でした。 レオナルド少年は小学校4年生くらいでしょうか、父親と姉との三人家族のようです。父親は牧場に雇われている牛飼い・牧童のようですが、家では1頭だけ身重の牝牛を飼っていました。その牝牛が、嵐の夜、森の中で落雷によって倒れた大木の下敷きになって死んでしまうのですが、そこに駆け付けてきたのがレオナルド少年です。少年が嵐の中に産み落とされた仔牛を助けて家に連れ帰ってきて抱えて寝ているシーンが下の写真です。 目を覚ましたレオナルド少年は仔牛をヒターノと呼ぶことにしたと父に報告します。それを聞いた父親が「この牛はジプシーなのか?」 と少年に質問しますが、単なる思い付きのようです。この辺りは、なんだか意味深なのですが、ボクにはわかりません。ちなみにヒターノというのは、多分、スペイン語ですが、一般にはジプシーとかロマとか言われている人々をさす言葉のようです。 で、少年と仔牛の暮らしが始まります。メキシコの貧しい農家の日常、庭には仔牛が一頭と鶏、ヤギがいます。それから小学校の授業風景、放牧されているほかの牛が暮らす草原、豪華な自動車に乗った金持ちの牧場主、ウシの所有権をめぐるいざこざ、あれこれあって時がたちます。 やがて、レオナルド少年が小学校を卒業します。同級生は3人です。まあ、そういう田舎の村が舞台です。ちょうど時を同じくして成牛になったヒターノが売られていく日が来ます。母牛のときから続いている所有権のトラブルが少年とヒターノの仲を裂いていきます。 闘牛用に売られていくヒターノと、そのあとを追いかけて、何とかヒターノを取り戻そうとするレオナルド少年の苦闘が始まります。 ここまで見ていて、この映画が「12ヶ月のシネマリレー」になぜラインアップされているのかさっぱりわかりません。コタツで見ていたら、この辺りでは寝っ転がっていたでしょう。「フーン、そうなのか。」 と思ったのは、メキシコでは牛といえば、闘牛用の動物だという発見だけでした。 ところがです、舞台がメキシコシティーの闘牛場のシーンに移って、「なんだ!なんだ?」 という展開がはじまりました。少年が走るのです。ひたすら走る。「友だちのうちはどこ?」というキアロスタミの傑作の少年アハマド君と同じです。アハマド君は友だちのモハマド君が学校をやめさせられたら大変だという一心でしたが、レオナルド君は、闘牛場で次々と銛を打たれることになる、友だちヒターノの命を救いたい一心です。 で、レオナルド君の努力が実を結んだかというと99パーセントのところでうまくいきません。にもかかわらず「よかったね!」 となるのですが、理由は原題「The Brave One」に明示されていましたね(笑)。よくも、まあ、「黒い牡牛」なんていう、小学校の教科書みたいな題名で公開したものですね。それにしても、結果的には納得でした。 レオナルド少年(マイケル・レイ)と黒い牡牛ヒターノに拍手!でしたね。 余談ですが、上に書いたキアロスタミの「友だちのうちはどこ?」の原型の一つだと思いました。映画としてはキアロスタミの方がずっと洗練されていますが、子供をどういう視線で撮るのかというところが共通していますね。そこが、素晴らしいとぼくは思いました(笑)監督 アービング・ラッパー原案 ロバート・リッチ(ダルトン・トランボ)脚本 ハリー・フランクリン メリル・G・ホワイト撮影 ジャック・カーディフ音楽 ビクター・ヤングキャストマイケル・レイ(レオナルド少年)ロドルフォ・ホヨス・Jr.ジョイ・ランシング1956年・100分・アメリカ原題「The Brave One」日本初公開1956年11月23日2023・02・23-no027・元町映画館no162
2023.02.27
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備忘録「12ヶ月のシネマリレー」ライン・アップ(2022・11~ 於:元町映画館) 2022年の11月から神戸では元町映画館で始まった「12ヶ月のシネマリレー」という企画上映会に通っています。こんなライン・アップです。鑑賞した作品は、まあ、あれこれ、うだうだ感想を書いています。題名をクリックしていただければ感想欄です。第1弾 『ギルバート・グレイプ』(1993)第2弾 『アナザー・カントリー』(1984)第3弾 『殺し屋たちの挽歌』(1984)★劇場初公開第4弾 『黒い牡牛』(1956) ★国内最終上映第5弾 『裸のランチ』(1991)第6弾 『ラストエンペラー』(1987)第7弾 『カラヴァッジオ』(1986)第8弾 『マリリンとアインシュタイン』(1985)第9弾 『薔薇の名前』(1986)第10弾 『左利きの女』(1978) 第11弾 『ことの次第』(1981)第12弾 『クライング・ゲーム』(1992)第1弾 「ギルバート・グレイプ」(1993)監督 ラッセ・ハルストレム キャスト ジョニー・デップ(ギルバート) レオナルド・ディカプリオ(アーニー)1993年・117分・アメリカ 原題「What's Eating Gilbert Grape」 日本初公開1994年8月20日鑑賞2022・11・21第2弾 「アナザーカントリー」(1984)監督 マレク・カニエフスカキャスト ルパート・エベレット(ガイ・ベネット) コリン・ファース(トミー・ジャッド)ケイリー・エルウィズ(ジェームズ・ハーコート)1984年・90分・G・イギリス 原題「Another Country」 日本初公開1985年8月1日鑑賞2022・12・30第3弾 「殺し屋たちの挽歌」(1984)監督 スティーブン・フリアーズキャスト ジョン・ハート(ブラドック) ティム・ロス(マイロン) ラウラ・デル・ソル(マギー)テレンス・スタンプ(ウィリー・パーカー)1984年・94分・PG12・イギリス 原題「The Hit」鑑賞2023・01・19第4弾 「黒い牡牛」(1956)監督 アービング・ラッパーキャスト マイケル・レイ(レオナルド少年) ロドルフォ・ホヨス・Jr.1956年・100分・アメリカ 原題「The Brave One」日本初公開1956年11月23日 鑑賞2023・02・23 第5弾 「クライング・ゲーム」(1992)監督 ニール・ジョーダン キャスト スティーブン・レイ ミランダ・リチャードソン ジェイ・デビッドソン フォレスト・ウィテカー エイドリアン・ダンバー1992年・112分・PG12・イギリス 原題「The Crying Game」鑑賞 2023・03・24第6弾「ラストエンペラー」(1987)監督 ベルナルド・ベルトルッチキャスト ジョン・ローン ジョアン・チェン ピーター・オトゥール 坂本龍一 ビクター・ウォン1987年・163分・PG12・イタリア・イギリス・中国合作 原題「The Last Emperor」鑑賞2023・04・24第7弾 『カラヴァッジオ』(1986)監督 デレク・ジャーマンキャスト ナイジェル・テリー、ショーン・ビーン、デクスター・フレッチャー、スペンサー・レイティルダ・スウィントン、マイケル・ガフ1986年・93分・G・イギリス 原題「Caravaggio」鑑賞2023・05・29第8弾「マリリンとアインシュタイン」(1985)監督ニコラス・ローグキャストテレサ・ラッセル(マリリン・モンローかも?)マイケル・エミル(アインシュタインかも?)トニー・カーティス(赤狩りのマッカーシーかも)ゲイリー・ビューシイ(ジョー・ディマジオかも)ウィル・サンプソン(エレベータボーイ)パトリック・キルパトリック1985年・109分・G・イギリス 原題「Insignificance」鑑賞2023・06・24第9弾「薔薇の名前」(1986)監督 ジャン=ジャック・アノーキャストショーン・コネリー(バスカヴィルのウィリアム)F・マーレイ・エイブラハム(異端審問官ベルナール・ギー)フェオドール・シャリアピン・Jr.(盲目の師ブルゴスのホルヘ)マイケル・ロンズデール(修道院長アッボーネ)ロン・パールマン(異端者サルヴァトーレ)エリヤ・バスキン(セヴェリナス)クリスチャン・スレイター(弟子メルクのアドソ:語り手)バレンティナ・バルガス(農民の少女)1986年・132分・フランス・イタリア・西ドイツ合作原題「The Name of the Rose」日本初公開1987年12月11日鑑賞2023・07・10第10弾「左ききの女」(1978)監督 ペーター・ハントケキャストエディット・クレバー(マリアンヌ:妻)ブルーノ・ガンツ(ブルーノ:夫)マルクス・ミューライゼン(シュテファン:息子・8歳)他1978年・114分・G・西ドイツ原題「Die linkshandige Frau」鑑賞2023・08・31 第11弾「ことの次第」 (1981)監督 ヴィム・ヴェンダースキャストパトリック・ボーショー(フリッツ・監督)イザベル・ベンガルテン(アンナ・読書する女優)アレン・ガーフィールド(ゴードン・プロデューサー)サミュエル・フラー(ジョー)ロジャー・コーマン(弁護士)1982年・127分・PG12・西ドイツ原題「Der Stand der Dinge」日本公開1983年11月鑑賞2023・09・23第12弾「裸のランチ」(1991)監督・脚本デビッド・クローネンバーグ 原作ウィリアム・S・バロウズキャストピーター・ウェラー ジュディ・デイビス イアン・ホルム ジュリアン・サンズ ロイ・シャイダー1991年・115分・PG12・イギリス・カナダ合作 原題「Naked Lunch」鑑賞2023・10・23
2023.02.26
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スティーブン・フリアーズ「殺し屋たちの挽歌」元町映画館 元町映画館が2022年の11月からシリーズで上映している「12ヶ月のシネマリレー」の、第3弾はスティーブン・フリアーズ「殺し屋たちの挽歌」でした。原題が「THE HIT」だそうで、チラシの写真を拡大したポスターを上に貼りましたが、シャレてますね。 二人組の殺し屋ブラドック(ジョン・ハート)とマイロン(ティム・ロス)が裏切り者のウィリー(テレンス・スタンプ)をスペインのどこかで拉致して、依頼者のいるパリまで運ぶという仕事を請け負って実行するのですが、拉致するときに警護のK察官を殺してしまった結果、K察から追われることになって、なんやかんやあって、もう一人、女性の人質まで連れて逃げることになるという、いわゆるロード・ムービーでした。 いつ殺されても、まあ、シヨウガナイ境遇の裏切り者ウィリー(テレンス・スタンプ)なのですが、なんだか、余裕なのですよね。 この、意味ありげな顔で、ずっとニヤついていて、「死と生はおんなじだ」みたいな、量子論みたいなことを口走って、若いほうの殺し屋(ティム・ロス)を翻弄していくんですよね。そこに、やたらセクシーな人質マギー(ラウラ・デル・ソル)が乗りこんできて、なんだかわけのわからない心理戦の様相なのですが、結末は案外あっけなかったですね。 映画の面白さは心理描写というか、表情の演技だったと思うのですが、普通の人間は「殺す」という発想の手前に、まあ「壁」があると思うのですが、それがあるのはマギーだけで、残りの三人にはないらしいという、そこのところが面白かった(?)ですね。 それから、やはりロード・ムビーなわけで、フラメンコ・ギターの音楽にのって次々に現れるスペインの風景のすばらしさですね。「ああ、こんな所なんだ!」と、うすボンヤリ感動しながら見とれてました。ギターはパコ・デ・ルシアという名人だったのだそうですが、それよりも、テーマ曲をエリック・クラプトンが弾いているとか、事前に言ってもらいたかったですね(笑)。言われていれば、わかったかもしれないのにね(笑)。 それにしても、なんだか不思議な映画でした。一応、監督のスティーブン・フリアーズに拍手!ですね。監督 スティーブン・フリアーズ製作 ジェレミー・トーマス脚本 ピーター・プリンス音楽 パコ・デ・ルシアテーマ曲 エリック・クラプトンキャストジョン・ハート(ブラドック)ティム・ロス(マイロン)ラウラ・デル・ソル(マギー)テレンス・スタンプ(ウィリー・パーカー)ジム・ブロードベント(法廷弁護士)1984年・94分・PG12・イギリス原題「The Hit」2023・01・19-no008・元町映画館no159
2023.01.27
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セルゲイ・ボンダルチュク「ワーテルロー」元町映画館 新春セルゲイ・ボンダルチュク生誕100周年記念特集の3本目は「ワーテルロー」でした。「戦争と平和第4部」との二本立てで見ました。ナポレオンの敗北を見たいと思ったのがこの日のモチーフですが、ネットの映画評とかではあまり高く評価されていないようなので、あまり期待せずに見ましたが、見て、ビックリでした。凄かったです。 「戦争と平和」を1部、4部と見て、この監督について、正直、「なんだかなあ???」と思っていた気分をきれいに払拭する迫力とドラマ展開でした。 原作に拠ることなく、自らが脚本を書いて、実にのびのびとナポレオンという人物を描き出しながら、ライバルのウェリントンの対照的な描き方も面白いのですが、二人が対峙するワーテルローの平原での戦場シーンが実に壮観で、その上、戦局が微妙に揺れ動く一瞬一瞬の息詰まる迫力は、この監督がただモノではないことを実感しました。 歴史的事実なわけですから、この戦場でのナポレオンの逆転負けはわかっているのです。わかってはいるのですが「それで?それで?」と息をつめて、「ひょっとしたら・・・」とか思いながら見せてしまう出来ばえに、いやはや、何とも疲れました。 ここにきて、ようやく、監督、セルゲイ・ボンダルチュクに拍手!です。戦場の大群衆を実写で撮っているスペクタクルの迫力もさることながら、時の流れに逆らい、ロシアからの敗走の結果の失脚から、復活して、ここワーテルローまでやって来たナポレオンの人物像の描き方に感心しました。ボンダルチュク流の人間ナポレオンに納得させられた作品でした。 まあ、そういうわけで、ナポレオンを演じたロッド・スタイガー、敵役ウェリントンを演じたクリストファー・プラマーに拍手!でした。あのオーソン・ウェルズがルイ18世だかを演っていたようなのですが、残念ながら、その時はわかりませんでしたね(笑)。 ちょっと余談ですが、ネットの映画評の得点では「戦争と平和」はとても高評価でした。一方、「ワーテルロー」は、この監督にはこういう作品もあるという程度だったのですが、見てみると、まったく逆だったわけです。マア、「こういうの好き!」という、ボクの好みということがあるのですが、見てみなければわからないものですね。 というわけで、今年も映画館徘徊の日々が始まりました。まあ、ベタな感想をこうやって載せていこうと思っております。皆様どうかよろしくお願いしますね(笑)。監督 セルゲイ・ボンダルチュク脚本 H・A・L・クレイグ セルゲイ・ボンダルチュク ビットリオ・ボニチェリ撮影 アルマンド・ナンヌッツィ音楽 ニーノ・ロータロッド・スタイガー(ナポレオン)クリストファー・プラマー(ウェリントン)オーソン・ウェルズ(ルイ18世)ジャック・ホーキンスジャック・ホーキンスバージニア・マッケンナバージニア・マッケンナダン・オハーリヒーダン・オハーリヒー1970年・133分・ソ連・イタリア合作原題「Waterloo」日本初公開1970年12月19日2023・01・13-no03元町映画館no157
2023.01.15
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セルゲイ・ボンダルチュク「戦争と平和 第4部(1967)」元町映画館 今日は2023年1月13日の金曜日です。元町映画館がお正月番組で上映していたセルゲイ・ボンダルチュク生誕100周年記念特集の最終日です。見たのは「戦争と平和 第4部(1967)ピエール」と「ワーテルロー」の二本です。 まずは第1部で期待外れだった「戦争と平和」第4部です。第2部、第3部は、第1部がちょっと期待外れだったことと、まあ、それ以外にも、あれこれの都合もあって見ませんでしたが、第4部は、ナポレオンの敗走が見たくて、やってきました。 第1部のクライマックスだった、1805年のアウステルリッツの三帝会戦に勝利したナポレオンは、その7年後、1812年、ついにロシア遠征に踏み切ります。 この戦争は、絶対的な軍事力を誇るナポレオン軍に対して、ロシアの老将クトゥーゾフ将軍が、捨て身ともいえるモスクワ明け渡し作戦で応じ、モスクワを占領したナポレオン軍は空っぽのモスクワを焼き払うという前代未聞の報復作戦で応じますが、食料補給をはじめとした兵站に苦しんだうえに、冬将軍による追い打ちが重なり、武力制圧を維持できなくなって敗走するというあの戦いです。 この第4部を「やっぱり、見よう」とやって来たのは、そのあたりがどう描かれているかという興味でした。登場人物たちによる物語の展開は、第1部と同様、アンドレイ、ピエール、ナターシャという三人の人物に焦点が当てられていますが、フランス軍の略奪や放火、燃え上がるモスクワ、占領地での、でっち上げによる放火犯の処刑といった描写が、なかなかリアルで、第1部に比べていえば、格段に面白かったですね。 で、自分なりに気づいたことですが、結局、ボクがかったるいと感じていたのは、トルストイ的なヒューマニズムとか宗教性を、映画はテーマをして描かざるを得ないわけですし、ナレーションも含めて、至極まっとうな戦争批判が語られるのは、ある意味当然なのですが、そこの所だったようです。 戦争そのものを描いた、悲惨なスペクタクルにはとても興味を惹かれたのですが、個々の登場人物たちの内面を描いた、多分、美しい描写には欠伸が出てしまう(まあ、大げさに言えばですが)わけで、自分自身の人間性に疑いを感じる鑑賞でした(笑) 整理がつかないまま、こうして書いていますが、まあ、個人的な問題に過ぎないのかもしれませんが、この映画や、おそらく、原作の小説が描いている、「堂々とした、まっとうな人間観」にたじろいだり、しらけたりしてしまうのは何故かという問題が、少なくともボクの中にはあるようです。 マア、ゆっくり考えればいいことかもしれません。老いたりと言えども、人の中で生きているわけで、生きていくうえで、ちょっと考え込んでしまいますね(笑)。監督 セルゲイ・ボンダルチュク製作 セルゲイ・ボンダルチュク原作 レオ・トルストイ脚本 セルゲイ・ボンダルチュク ワシリー・ソロビヨフ撮影 アナトリー・ペトリツキーアレクサンドル・シェレンコフイオランダ・チェン・ユーラン美術 ミハイル・ボグダノフ ゲンナジー・ミャスニコフ編集 タチアナ・リハチェワ音楽 バチェスラフ・オフチンニコフリュドミラ・サベリーエワ(ナターシャ)ビャチェスラフ・チーホノフ(アンドレイ)セルゲイ・ボンダルチュク(ピエール)1967年・97分・ソ連2023・01・13-no02・元町映画館no156
2023.01.14
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セルゲイ・ボンダルチュク「戦争と平和 第1部(1965)」元町映画館 2023年が始まりました。年明けの映画館徘徊はこれと決めていましたが、あれこれ事件が起こってしまって1月10日(火)まで動きが取れませんでした。元町映画館で元日からやっていたセルゲイ・ボンダルチュク生誕100周年記念特集ですが、1月10日からが最終回です。駆けつけて、とにかくというか、ようやくというか、見たのがセルゲイ・ボンダルチュク「戦争と平和 第1部アンドレイ」でした。1965年のソビエト映画です。 ナポレオンのヨーロッパ侵攻と、それに揺さぶられるロシアの宮廷のありさまを描いたトルストイの大傑作(たぶん)小説「戦争と平和」の映画化の一つですが、恥ずかしながら原作を読んでいません。 最近では望月哲男訳の光文社新訳文庫版全6巻が2020年に出たばかりですし、新潮文庫では工藤精一郎訳の全4巻、岩波文庫では藤沼貴の改訳版全6巻とか、読む気になれば、まあ、いまでも、書店の新刊の棚にはいろいろ並んでいます。 実はぼくの文庫棚にも米川正夫訳の岩波文庫改版全4巻がですね、はい、あるのはあるのです。もう、10数年昔のことですが、買ってきた時のことも覚えています。枕元に置いて、さあ。読み始めましょうか、というときにチッチキ夫人が一声かけてきました。「戦争と平和やん。ちょっと見せて。」 差し出すとページを開いて読みはじめました。で、ぼくは寝てしまったわけです。で、数日間、彼女の枕もとに確かにそれはあったのですが、彼女が読み終えて隣の枕もとに返された記憶はありません。 というわけで、ぼくの「戦争と平和」読書は、始まることなく頓挫し、分厚さで他を圧する4冊の岩波文庫は棚に鎮座することになったのでした。 で、映画です。残念ながら期待外れでした。アウステルリッツでの三帝会戦(1805年)という、以前のぼくなら、もうそれだけで興奮するにきまっている歴史的大事件がこの作品の「戦争」の山場なのですが、なんだか間が抜けているのですね。広大な平原に膨大な人が映っていて、それが実写だというのがこの映画が歴史に残った理由の一つだと思うのですが、CG加工の映像に慣れているからでしょうか、残念なことに、なんだか、かったるいのでした。 「平和」の物語はアンドレイとピエールという、二人の若い貴族の、まあ、生き様を中心に展開しますが、なんとなく「ああ、そうですか」という気分で見ていて乗り切れませんでした。ピエールを監督ボンダルチュク自身が演じているというトピックスもあるのですが、ソビエト映画に疎いボクには、これまた、「ああ、そうですか」でした。 なんだかな感想になってしまいましたが、10代の頃、ロシア革命に至る19世紀のヨーロッパに夢中で、一度は西洋史学科に進学した少年だったのですが、きれいにみんな忘れてしまっていることが、実は、一番ショックでした(笑)。 時間の都合もあるので、全4部を完走することはできませんが、でも、まあ、「戦争と平和(第4部)」と「ワーテルロー」は見ようかなという気分で、2023年の「映画初め」を終えました。何はともあれ、今年も、フラフラ、映画館を徘徊し、ベタな感想の日々を続けて行けそうです。この「シマクマ君の日々」にお立ち寄りいただいている皆様、今年も、かわらぬご愛顧、どうかよろしくお願いしますね。 うーん、ちょっと、空振りでしたね(笑)。監督 セルゲイ・ボンダルチュク製作 セルゲイ・ボンダルチュク原作 レオ・トルストイ脚本 セルゲイ・ボンダルチュク ワシリー・ソロビヨフ撮影 アナトリー・ペトリツキー アレクサンドル・シェレンコフ イオランダ・チェン・ユーラン美術 ミハイル・ボグダノフ ゲンナジー・ミャスニコフ編集 タチアナ・リハチェワ音楽 バチェスラフ・オフチンニコフリュドミラ・サベリーエワ(ナターシャ)ビャチェスラフ・チーホノフ(アンドレイ)セルゲイ・ボンダルチュク(ピエール)アナスタシャ・ベルティンスカヤイリーナ・スコブツェワワシリー・ラノボイ1967年・424分・ソ連原題「War and Peace」日本初公開1966年7月23日2023・01・10-no001・元町映画館no155
2023.01.13
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マレク・カニエフスカ「アナザーカントリー」元町映画館 2022年の映画館徘徊、見納めは「12ヶ月のシネマリレー」という特集の第2弾、マレク・カニエフスカ監督の「アナザーカントリー」、元町映画館です。1984年ですからほぼ40年前のイギリス映画です。 今年1年間、映画館をウロウロして、見たのは146本でした。調べてみると、感想が書けていない、あるいは、このブログにアップしていない作品が40本くらいあってちょっとあせりました。まあ、備忘録の意味もあるので、そのうち、のこのこアップするかもしれませんが、今日のところは「アナザーカントリー」です。 もともとはジュリアン・ミッチェルという人の戯曲の映画化のようです。ソビエトに亡命したイギリスの二重スパイであるガイ・ベネット(ルパート・エベレット)という車いすの老人が、裏切った祖国イギリスの思い出を語るという構成のお話でしたが、自らのパブリック・スクール時代の回想が、ほぼ、すべてで、いたってシンプルな構成の作品でした。1930年代のイギリスの名門寄宿学校の、絵にかいたようなハンサム・ボーイたちの幼い権力欲と愛欲の世界を描いた世界でした。マア、ぼくとは縁もゆかりもない世界ですね(笑)。 印象に残ったのはガイ・ベネットの回想の冒頭あたりでした、第1次世界大戦でしょうね、寄宿舎の中庭で行われている戦没者の追悼集会の場で、ホルストの「惑星」という組曲の「木星・ジュピター」の合唱が少年たちによって歌われるシーンでした。「ジュピター」という曲は20年ほど昔でしょうか、女性歌手が歌って、流行った記憶がありますが、大英帝国の愛国歌だということは初めて知りました。どこの国でも、ナショナリズムというのは美しく哀切に表現されるものなのですね。同性愛とナショナリズムというのはどこでつながるのでしょうかね。三島由紀夫とかナチスとか、なんとなく、その対になっている関係を思い浮かべてしまいますが、よくわかりませんね。 それにしても、20世紀のイギリスというのは、ミステリーにしろ映画にしろ、ソビエトを相手にしたスパイ合戦の話が本当に好きですね。そのあたりの理由も気になりながら見終えました。 たくさん登場する男前の少年たちの中で、その後の姿に見覚えがあったのは、共産主義に傾倒するトミー・ジャッドを演じた若き日のコリン・ファースでした。やっぱり男前でしたが、彼と主役ルパート・エベレットには、とりあえず拍手!ですね(笑)。 元気の出るというより、ヤレヤレな2022年の見納めでしたが、ほかにも、あれこれ、気がかりが浮かんでいますが、とりあえず、「ジュピター」を思い出したのは収穫でした。 では、皆さんよいお年を!2023年もよろしく!ね(笑)監督 マレク・カニエフスカ原作 ジュリアン・ミッチェル脚本 ジュリアン・ミッチェル撮影 ピーター・ビジウ美術 クリントン・カバース編集 ジェリー・ハンブリング音楽 マイケル・ストーレイキャストルパート・エベレット(ガイ・ベネット 多分、主人公。同性愛者。)コリン・ファース(トミー・ジャッド 共産主義者)ケイリー・エルウィズ(ジェームズ・ハーコート ガイの恋人)マイケル・ジェン(バークレイ)ロバート・アディ(デラヘイ)ルパート・ウェインライト(デヴェニッシュ)トリスタン・オリバー(ファウラー)フレデリック・アレクサンダー(メンジーズ)1984年・90分・G・イギリス原題「Another Country」日本初公開 1985年8月1日2022・12・30-no146・元町映画館no153
2022.12.31
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ラッセ・ハルストレム「ギルバート・グレイプ」元町映画館 「12ヶ月のシネマリレー」という特集が元町映画館で始まっています。第1回がラッセ・ハルストレム監督の「ギルバート・グレイプ」という作品でした。1993年ですから、30年前の名画だそうです。もちろんシマクマ君は、何にも知らずに、ただ、ただ、30年間の映画体験の空白を埋めたい一心でやってきました。 アメリカの西部、中西部(?)、アイオワ州のエンドーラという田舎町で暮らしているグレイプさんという一家、シングルマザーで、長女が、家族の家事一般を請け負っているらしいエイミー(ローラ・ハリントン)。長男が食料品店に勤めるギルバート(ジョニー・デップ)。次男が18歳の誕生日を迎える直前のアーニー(レオナルド・ディカプリオ)で、末娘の二女が高校生のエレン(メアリー・ケイト・シェルハート)という5人家族のお話でした。(原作では、もう一人、年長の、ホントは長男もいるようですが、映画では気づきませんでした。) この家族には父親がいませんが、数年前に「何にも云わない人が、何にも云わないまま、ある日、家の床下、倉庫になっている地下室で首をくくっていた」ということが語られます。 突然の夫の死にショックを受けた母、ボニー・グレイプ(ダーレン・ケイツ)は、夫の亡くなったその日から食べ続けて、ギルバートの言葉を借りれば、今や、巨大な「シロナガスクジラ」のようになっています。長女のエイミーが家事一切を取り仕切っているのはそういうわけです。 一見、「普通」の、この家族が、「普通」ではないと印象付ける要素はもう一つあります。次男のアーニーが、放っておくとやたら高いところに登りたがる上に、社会生活はもちろんのこと、日常生活、たとえば、風呂に入るとか、食事をするとかを家族の介護なしにはできない上に、言語生活もままならない、「普通」ではない少年だということです。 映画は、家族を支えて働き、弟アーニーの面倒を見て暮らしている青年、ギルバート・グレイプの前に、トレーラー暮らしのベッキー(ジュリエット・ルイス)という、少女と呼ぶほうがピッタリの女性が現れることで動き始めました。 ギルバートとベッキーが知りあい、二人で言葉を交わし合うようになった映画の中頃です。 「何も言わない人だった。」と自殺した父のことを語るいうギルバートに、「そういう人知ってる」と答えるベッキーの言葉と、「なにがしたいの?」と問いかけるベッキーに「いい人になりたい」と答えたギルバートの言葉に、それぞれ、言葉が出てきた、その瞬間、ドキッとしました。「ああ、これは、そういう映画なんだ!」 原題が「What's Eating Gilbert Grape」で、訳せば「なにを食べているの、ギルバート・グレイプ?」でしょうか。 日常生活の中の、何気ない言葉だと思うのですが、登場する人物たちが、それぞれ「普通」ではない、何かを抱えて暮らしているさまを描きながら、何の疑いもなく「普通」に埋没し、過食とか障害という言葉を、本当は好奇の目で見ながら、平気で平等を口にしている、ぼくたち自身の「普通」の生活を、この題もまた、鋭角に切り裂いたことばだと感じました。 それにしても「いい人になりたい」というギルバートのなにげない言葉の深さは並大抵ではないと思いました。この一言でこの作品は記憶に残るでしょうね(笑)。 アーニーを演じているのが、若き日のレオナルド・ディカプリオだということは、さすがのボクでも、驚きながらも、気づきましたが、ギルバートが、あのジョニー・デップだったことに、エンド・ロールで気づいてびっくり仰天でした。見終えて、受付のおねーさんにそのことをいうと「ええー、それも知らずに見ていたんですか?」と驚かれましたが、そうなんですね。何にも知らずに見ていたのです。でも、そのせいで、単純な発見の驚きもあるわけで、映画館徘徊は、やっぱりいいですね。 ちょっというのは恥ずかしいのですが、デカプリオの演じるアーニーの最初の所作から涙が止まらなくなって、ラスト・シーンで、ギルバートと再会して飛びつくベッキーの姿まで、泣きっぱなしでした。いやはや、年を取ったものですね。 それにしても、グレイプ家の家族のみなさん、ベッキーとおばーちゃん、ギルバートに齧りつく、なんだか哀しいカマキリ夫人のベティ(メアリー・スティーンバージェン)さん、皆さんに拍手!でした。 見たことのないいい映画というのが、まだまだ、山のようにあることを実感しました。やっぱり、出かけないと話になりませんね(笑)。 「12ヶ月のシネマリレー」というこのシリーズ、1年がかりのようですが、頑張って完走できたらいいなと、久しぶりに前向きの気持ちになった11月の月曜日でした。 監督 ラッセ・ハルストレム原作 ピーター・ヘッジズ脚本 ピーター・ヘッジズ撮影 スベン・ニクビスト美術 バーント・カプラ編集 アンドリュー・モンドシェイン音楽 アラン・パーカー ビョルン・イシュファルトキャストジョニー・デップ(ギルバート・グレイプ)レオナルド・ディカプリオ(アーニー・グレイプ:弟)ダーレン・ケイツ(ボニー・グレイプ・母)ローラ・ハリントン(エイミー・グレイプ:姉)メアリー・ケイト・シェルハート(エレン・グレイプ:妹)ジュリエット・ルイス(ベッキー:祖母とトレーラー暮らしの少女)メアリー・スティーンバージェン(ベティ・カーヴァー)ケビン・タイ(ケン・カーヴァー:ベティの夫・保険屋)ジョン・C・ライリー(タッカー:友人)クリスピン・グローバー(ボビー・マクバーニー:友人・葬儀屋)1993年・117分・アメリカ原題「What's Eating Gilbert Grape」日本初公開1994年8月20日2022・11・21-no129・元町映画館no149
2022.11.22
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松井至「私だけ聴こえる」元町映画館 元町映画館で上映していました。見たのは松井至監督の「私だけ聴こえる」という作品です。なにも知らずに見ました。 耳の聴こえない両親から生まれた耳の聴こえる「コーダ(CODA=Children Of Deaf Adults)」子どもたちが、成長し、やがて「母」になる姿を撮ったドキュメンタリーでした。 昨年「コーダ」という作品を見て、初めて「コーダ」という言葉を知りました。あの映画はドラマでしたが、見ていて、耳の聞こえない母親が、生まれてきた赤ん坊の耳が聴こえることに落胆するというストーリーの中の挿話を見ていて不思議に思ったことを思い出しました。 その時には、気付けなかったことでしたが「私だけ聴こえる」の中で、聴こえない家族中の聴こえる子供たちの置かれている「場所」の辛さに、この映画を見ながら、初めて気付いた気がしました。 わかったなんていうのは不遜ですね。ぼくは40年近くの「人と出会う」仕事をしてきましたが、その仕事の中でも、家族生活の中でも、そのほとんどが、聴こえる人たちとの出会いでした。 聴こえない人がどんなふうに生きているのか、まじめに考えたことがありません。そんな人間ですから、聴こえない母のもとに生まれた子供が、何を考えて暮らしているのかなんて、想像したこともなかったわけです。 自分の境遇を当たり前だと思うことで、見えない場所や気づけない事件に鈍感になるだけでなく、いつの間にか抑圧してきたのではないか、踏みつけにしてきたのではないか、そんなふうに自分を振り返る作品でした。 大人になった、主人公たちの一人の女性が耳の聴こえる子供を出産し、育てるているシーンがラストに映ります。 言葉を覚え始めた赤ん坊に手話を交えながら語り掛けるシーンです。うえのチラシに彼女が赤ん坊を抱いて「愛している」の指文字で手を振りながら、窓からこちらを見ている写真がありますが、この赤ちゃんは、耳が聴こえたり、目が見えたりすることを当たり前で普通のことだと思いこむ大人には、きっとならないと思います。 ぼくたちは、自分が普通だと思い込んでいる狭い世界に生きてきて、本当は「見えない世界」の中の、ほんの小さな安逸の中で、結構、自分のことを常識的でいい人だとか思いながら充足しているのにすぎないのですが、本当のところは、見えないことをいいことに、知らんぷりを決め込んでいるにすぎないのかもしれません。 例えば「コーダ」という言葉も、その言葉がどんな人たちを指すのかも、ぼくは知りませんでした。この作品を見なければ、気付かないまま年を取る人生を送ってたでしょう。気づいたからどうなんだ、そんな問いかけも、心の中にはあります。でも、見えなかった世界が、少し、ぼく自身にとっての普通になるのは、やはり、ちょっと嬉しいのです。 窓際で手を振っている親子に、ちょっと手を振り返すことができるかもしれないという、ささやかな喜びですが、コーダのお母さんのさんの願いに、ぼくのような老人だけでなく、他の多くの人も気づく世の中が来ることを祈ります。胸を打つ作品でした。拍手!監督 松井至共同監督 ヒース・コーゼンズ撮影 ヒース・コーゼンズ編集 ハーバート・ハンガー音楽 テニスコーツ2022年・76分・G・日本2022・09・27-no113・元町映画館no145
2022.10.03
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ピル・カムソン「人質」元町映画館「みなさん事件です!本日、俳優ファン・ジョンミンさんが誘拐されました。」 チラシに、こんなキャッチ・コピーが躍っています。映画はピル・カムソン監督の「人質 韓国トップスター誘拐事件」です。 元町映画館のモギリ嬢のすすめで見ました。チラシの文句の意味なんて何にも知らないままです。チョー、面白かったです。先日、ブラッド・ピットが主演する「ブレット・トレイン」の、あまりのバカバカしさに大喜びしたところなのですが、この映画はそれ以上の面白さでした。こっちは、結構リアルでした。 衝動的というか、思い付きでターゲットになったとしか見えない始まりのシーンが、実に効果的で、どうなるかわからいムードが漂いまくっていました。 犯人グループの構成も、「思い付き誘拐」の不安を掻き立てます。 で、誘拐されてひどい目に合う、その人物こそが、今の韓国映画のトップスターだとは知らないシマクマ君です。韓国の人たちは後ろ姿でわかるのでしょうが、ポスターの写真がこっちを向いていてもわかりません。しかしながら、監禁されている主役ファン・ジョンミンさんの演技は超絶ともいうべき迫力ですし、脱出のために彼が考えだして、見事にはまった(まあ、当たり前ですが)アイデアにも、ちょっと唸りました。 捜査陣はどんくさいのですが、捜査主任が冷静な女性であるとか、犯人のリーダーの、悪いことをすることに、異常に長けていて、見かけは目立たないハンサムという設定もうまいものです。 まあ、それにしても、あんまり喜ぶのはヒンシュクかもしれませんが、模造銃が出てきて、「おー!」と思わず拍手!しそうになりましたが、まあ、気持ちだけで済ませました。 後から、気付いたことですが、映画の中で誘拐されたファン・ジョンミンという俳優は実在で、今現在のトップスターだそうで、その役をご本人が演じているという、知っていれば、まず、そこが見どころだったのでしょうね。 さるぐつわされて、苦しんでいらっしゃるこの方を、初めてお出会いしたと思い込んでいたシマクマ君は、そんな大スターとは思いもよらないまま、地味な性格俳優だと思い込んで見ていたのでしたが、まあ、映画の展開には何の問題もなかったわけです。 で、帰ってきてネットをいじっていてやっと気付きました。3年ほど前に見て面白かった記憶ののある、「工作 黒金星と呼ばれた男」というサスペンス映画の主人公がファン・ジョンミンだったのです。何というか、初対面じゃなかったのですが、全然、別人!というか、思い浮かびもしなかったのですが、どうなってるのでしょうね。写真で見ると、確かに同じ人でした(笑) いやはや、その昔、日本でもあったような記憶がありますが、自分自身を演じるという、考えてみれば、やっぱりヘンテコな役でしたが、ファン・ジョンミンの熱演に拍手!でした。監督 ピル・カムソン脚本 ピル・カムソン撮影 チェ・ヨンファン編集 キム・チャンジュ音楽 キム・テソンキャストファン・ジョンミン(ファン・ジョンミン)キム・ジェボム(チェ・ギワン)イ・ユミ(パク・ソヨン)リュ・ギョンス(ヨム・ドンフン)チョン・ジェウォン(ヨンテ)イ・ギュウォン(コ・ヨンノク)イ・ホジョン(セッピョル)2021年・94分・G・韓国原題「Hostage」「 Missing Celebrity」2022・09・20-no110・元町映画館no143
2022.09.25
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グー・シャオガン「春江水暖」元町映画館 グー・シャオガンという中国の若い映画監督の「春江水暖」という映画を見たのは、昨年(2021年)の3月の中頃でした。2019年の暮れだったでしょうか、29歳で自ら命を絶った、フー・ボーという若い監督の「象は静かに座っている」という作品を見て圧倒されましたが、この映画も、負けず劣らず印象的でした。 グー・シャオガンとフー・ボー。二人は、ともに1988年生まれで、北京電影学院で「映画」を学んだ同窓です。 フー・ボーの作品を見ながら、もう数十年も昔に「ぼくもそうだった!」という共感と、主人公とともに、北のはての動物園の檻の中で静かに座っている象に会いに行こうとしながら、ためらう老人に、今、現在の自分の姿を重ねるという、幾分哀しい、重層化したリアルを味わったのですが、グー・シャオガンのこの作品「春江水暖」では、「家族」というくくりではよくあることなのかもしれませんが、いつか同じ「時間」を共有した人間が、それぞれ違う「時間」の中で暮らしながら、あるときふと同じ時間の中に戻ってくる体験、それは普通、誰かの葬儀とか結婚式とかで感じざるを得ない「時間」との出会いなのですが、いわゆる「記憶」とか「思い出」とは少し違うとぼくは思いますが、そんなふうな、また別の重層的な時間の世界がえがかれていました。 映画の中では、老齢の祖母の長寿のお祝いに集まった「家族」のそれぞれの肖像が重ねられる様子を見ながら浮かびあがってくる「時間」との出会いと、青年の長い長い遊泳シーンと、それを岸にそって追いかける女性という、ぼくにとっては、この映画の記憶として残るに違いない「二人の時間」を、出会っている自覚などもちろんないまま、まさに、生きている様子として、対比的に描かれていることに深く納得しました。 人が生きるという経験の中には、「時間」が重層化、あるいは多層化して流れていて、その時、その時の「時間」が、それぞれ流れている複数の空間を孕んでいるわけですが、一人一人が自分の世界として生きている、この重層化した個々の時間の世界を、実の自然の中に溶かし込んでいくかに見える映像の不思議をつくりだしているグー・シャオガン監督に、驚嘆の拍手!でした。 映画を見て、思い出したのが張若虚という初唐の詩人の「春江花月夜」という長詩です。まあ、題名の類似で「そういえば!」と探したにすぎませんが、面白いと思いました。「春江花月の夜」 張若虚春江の潮水、海に連なって平らかなり海上の明月、潮と共に生ず灔灔(えんえん)として 波に随うこと 千万里何処の春江か 月明無からん江は宛転として流れて 芳甸を遶(めぐ)り月は花林を照らして 皆霰に似たり空裏の流霜 飛ぶを覚えず汀上の白沙 看れども見えず江天一色にして 纖塵無く皎皎たる空中の弧月輪江畔 何人か 初めて人を照らせる人生 代々 窮まり已むなく江月 年々 祇(た)だ相似たり知らず 江月 何人を待つかを但だ見る 長江 流水を送るを白雲一片 去って悠々たり青楓浦上 愁いに勝えず誰家ぞ 今夜扁舟の子憐れむ可し 楼上 月徘徊し応に照らすべし 離人の粧鏡台玉戸 簾中 巻けども去らず擣衣の砧上 払えども還た来たる此の時 相望めど相聞かず願わくは 月華を逐うて 流れて君を照らさん鴻雁長飛して 光 渡らず魚龍潜躍して 水 文を成す昨夜 閑潭 落花を夢む憐れむ可し 春半ばなれども 家に還らず江水 春を流して 去って尽きんと欲し江潭の落月 復た西斜せり斜月沈々として 海霧に蔵れ碣石瀟湘 無限の路知らず 月に乗じて 幾人か帰る落月 情を揺るがして 江樹に満つ いかがでしょうか。白文と口語訳はいずれ追記で記したいと思います。監督 グー・シャオガン脚本グー・シャオガン撮影 ユー・ニンフイ ドン・シュー音楽 ドウ・ウェイ芸術コンサルタント メイ・フォンキャストチエン・ヨウファー(ヨウフー)ワン・フォンジュエン(フォンジュエン)ジャン・レンリアン(ヨウルー)ジャン・グオイン(アイン)スン・ジャンジェン(ヨウジン)スン・ジャンウェイ(ヨウホン)ドゥー・ホンジュン(ユーフォン)ポン・ルーチー(グーシー)ジュアン・イー(ジャン先生)ドン・ジェンヤン(ヤンヤン)スン・ズーカン(カンカン)ジャン・ルル(ルル)ムー・ウェイ(ワン)2019年・150分・G・中国原題「春江水暖」・「 Dwelling in the Fuchun Mountains」2021・03・15‐no23元町映画館no142追記2022・08・17 書きあぐねていた感想ですが、備忘録の意味もあるので、なんと書き終えてブログにのせました。引用した漢詩の白文は以下の通りです。「春江花月夜」 張若虚(白文)春江潮水連海平海上明月共潮生灔灔随波千万里何処春江無月明江流宛転遶芳甸月照花林皆似霰空裏流霜不覚飛汀上白沙看不見江天一色無纖塵皎皎空中弧月輪江畔何人初照人人生代々無窮已江月年々祇相似不知江月待何人但見長江送流水白雲一片去悠々青楓浦上不勝愁誰家今夜扁舟子可憐楼上月徘徊応照離人粧鏡台玉戸簾中巻不去擣衣砧上払還来此時相望不相聞願逐月華流照君鴻雁長飛光不渡魚龍潜躍水成文昨夜閑潭夢落花可憐春半不還家江水流春去欲尽江潭落月復西斜斜月沈々蔵海霧碣石瀟湘無限路不知乗月幾人帰落月揺情満江樹
2022.08.19
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森井勇佑「こちらあみ子」元町映画館 今日は元町映画館で二本立てでした。もっとも、見たのはポスターにある「教育と愛国」、「こちらあみ子」のセットではなく、「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」と「こちらあみ子」のセットでした。 今村夏子の小説「こちらあみ子」は、うまくいえないのですが、数年前に初めて読んで強く打たれた記憶がある作品でした。「そうだよな、そういう人間の在り方ってあるよな。でも、人というのは、そういう在り方のことを説明してしまうんだよな。この小説は、説明しないで、あみ子がここにいると書いた、書くことは説明の始まりだけど、なるべく説明にならないように描いたところがすごいんだよな。だから、誰かにこの小説はね・・・と始めると、伝わらないんだよな。」 まあ、こんな感想を持ちました。例えば、とっぴな例で申し訳ないのですが、ドン・キホーテなんていう人物は、あくまでも小説世界の人物だから、あれだけ輝くと思うのですが、現実の中に置いてしまうと、ただの困った人になりかねません。私見ですが、映画というのは、リアリズムで見ると、現実と見分けがつかないわけで、「そこに小説世界の人物をおいてしまうと・・・?」という危惧を感じながらですが、映画になったというので見に来ました。 「うまくいかないだろうな」の予想の通り、うまくいっていないと思いました。あみ子が生まれてくる前に死んだ弟の墓を楽しそうに作ります。それを見て、流産した母親が泣きます。素直だった兄がグレます。父親があみ子を遠ざけるようになり、あみ子を祖母のもとに預けます。あみ子の社会性の未熟さと、それについていけない家族の崩壊と子捨てのプロセス、小説の展開を映像化すればそうなるのですが、それでは、小説の中で「こちらあみ子」と電池が切れているかもしれないトランシーバーで呼びかけてきたあみ子に、映画は応答したことにはならないのではないでしょうか。 最後のシーンで「大丈夫じゃ!」と言わせる映画製作者、森井監督は、何とかあみ子の存在を肯定しようとしているように見えますが、あみ子が求めているのは「応答」であって、肯定や否定の判断や存在のありように対する大人の理解などではないのではないでしょうか。 じっと耳を澄ませて、あみ子の声を聴く場所に、なんとか読者を引き留めた今村夏子は、この作品を見て納得するのでしょうか? 製作者も俳優も真摯に取り組んでいることは間違いありません。あみ子を演じた大沢一菜という子役の演技にも感心しました。しかし、こちら側から描けば描くほどあみ子は遠ざけられてしまい、あるいは、隔離されてしまい、あるいは、捨てられてしまう。うまく言えないのですが、そこのところにどうしても違和感が残った作品でした。やっぱり、拍手はしません!監督 森井勇佑原作 今村夏子脚本 森井勇佑撮影 岩永洋編集 早野亮音楽 青葉市子主題歌 青葉市子キャスト大沢一菜(あみ子)井浦新(お父さん・哲郎)尾野真千子(お母さん・さゆり)2022年・104分・G・日本2022・07・22-no92・元町映画館no141
2022.08.11
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セルゲイ・ロズニツァ「ドンバス」元町映画館 神戸では、たしか、昨年の冬でした。元町映画館で公開された「アウステルリッツ」「粛清裁判」「国葬」という歴史ドキュメンタリー三部作(?)でシマクマ君を打ちのめしたウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督でしたが、その監督の劇映画「ドンバス」が、同じ元町映画館で、2022年の6月上旬に上映されました。 2018年の映画ですが、「ドンバス」という題名が示すとおり、まさに、今、ロシアによる侵攻作戦によって戦争が繰り広げられているウクライナ南東部、黒海沿岸地方=ドンバス地方を舞台にして描いた映画でした。わかったような書きぶりですが、実は「ドンバス」が地名なのか人名なのか映画を観るまで知りませんでした(笑)。まあ、その程度の予備知識です。 ウクライナという国は、今回の戦争によって、にわかに注目されていますが、2010年代に、反ロシア的な政権が樹立して以来「親ロシア」対「反ロシア」の内戦がたえない国で、今年に入って「親ロシア」的な地域「ドンバス」にドネツク人民共和国(DPR)とルガンスク人民共和国(LPR)という二つの「親ロシア」派の独立国家樹立=ウクライナからの分離という政治情勢の中で、ついにロシアが、ソビエト時代からお得意の軍事介入に踏み切ったというのが、素人シマクマ君の、まあ、床屋政談というところです。 この映画は2018年、現在、今(2022年)から4年前、「ノボロシア」と自称している親ロシア派が軍事的に制圧しているドンバス地方の現場の実態をドキュメントしたという設定で、10本ほどの短編ニュースドキュメントが編集されている趣で、あたかもオムニバス・ドキュメンタリー映画という構成の作品でした。 ロケ・バスというのでしょうか、映画に出演する俳優たちがバスの中で化粧したり、衣装を選んだりしているシーンから始まりました。「何をしているんだろう?」と思って見ていると、「早く!早く!」とスタッフにうながされて、どうも、ミサイルだか大砲の弾だかが飛んできて、そこらで爆発している街の中を走り始めます。それをカメラが追い、インタビューとかやり始めるのを見ていて、ハッとしました。 戦争の被災者を捏造しているシーンなのです。「やらせ」番組、あるいはフェイク・ニュースの制作風景というわけです。 そこから、無秩序の極みのようなノボロシア(?)軍による検問の風景、自家用車の軍による徴発プロセス、捕虜になったウクライナ兵に対する市民によるリンチ、病院や市議会の腐敗の光景、圧巻はぶっ飛んだ愛国団体の集会としか思えない異様な結婚式でしたが、なんといっても、絶句するのはラストシーンにもう一度映し出されるロケ・バスの俳優たちの運命でした。 彼らは、オムニバス化されているこの作品の様々なシーンに、市民として繰り返し登場し、それぞれ、記憶に残る独特な人物を演じ続けていたのですが、その俳優たちがどうなったか。バスを襲った数人の狙撃兵によって全員射殺されてしまうのです。映画全体がフェイクであったということでしょうか? 2022年、7月の初旬の朝刊には「ロシア軍、ドンバスを制圧か?」という見出しが躍っていました。映画を観るまでは知らなかったドンバスという地名に、思わずくぎ付けになります。セルゲイ・ロズニツァのこの映画が作られたのは2018年だそうです。その時から、この3年間、何があったのでしょうか。ロシア政府はウクライナのネオナチ勢力による親ロ派住民たちに対するジェノサイドを軍事介入、侵攻の正当化の根拠の一つにしているようですが、対岸の火事を眺めている無責任な言い方ですが、この映画を観て感じるの「どっちもどっち」という印象です。 ただ、この作品のすごさは2018年当時の社会情勢中で撮られているにもかかわらず、反ロシア的なプロパガンダ映画ではないのではないかということです。 前記のドキュメンタリー三部作がそうであったように、本質を覆い隠し、あるいは、捏造することで権力を維持しする暴力的な政治形態のインチキを、その社会で統治されている民衆の姿を活写することで暴いていく作品のトーンは共通していて、監督セルゲイ・ロズニツァが描こうとしているとぼくが感じたものは、共通していて、この映画では特にラストシーンがそのことをあらわしていると思いましたが、特定の国家や政治権力に対する思い入れはかけらも感じませんでした。 彼が次に何を撮っているのか知りませんが、ワクワクしますね。それにしても、この作品は2018年・第71回カンヌ国際映画祭で監督賞だそうですが、やっぱり、ただものではなかった監督セルゲイ・ロズニツァに拍手!でした。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 ハイノ・デカート脚本 セルゲイ・ロズニツァ撮影 オレグ・ムトゥ美術 キリル・シュバーロフ衣装 ドロタ・ロケプロ編集ダニエリュス・コカナウスキスキャストタマラ・ヤツェンコボリス・カモルジントルステン・メルテンアルセン・ボセンコイリーナ・プレスニャエワスベトラーナ・コレソワセルゲイ・コレソフセルゲイ・ルスキンリュドミーラ・スモロジナバレリウ・アンドリウツァ2018年・121分。ドイツ・ウクライナ・フランス・オランダ・ルーマニア・ポーランド合作原題「Donbass」2022・06・14-no81・元町映画館no138
2022.07.09
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エリザ・カパイ「これは君の闘争だ」元町映画館 ブラジルの高校生が「市バス(?)料金値上げ」反対闘争に参加したことを契機に、どんどん頑張って、公立高校の統廃合に反対して、通学している学校を占拠するという、まあ、かなり過激な戦いへと進化(?)、深化(?)していく自分たちの姿を記録した映画でした。見たのはエリザ・カバイ監督のドキュメンタリー「これは君の闘争だ」です。 「バス代値上げは困る。」というところから始まった行動が、参加した高校生の思想を深化させ、行動をより組織的、計画的に激化させていく過程が、実に、心地よい映画でした。 客はたった三人の、ちょっと寂しい映画館でしたが、久しぶりに「造反有理」なんていう、今となっては、ちょっと危ない言葉を思い出したりして、「イギナーシ!」とか、声に出しそうな、久しぶりの高揚感を感じながらで見ていた前半でした。 目の前の現実にカチン!ときて、行動し始めた若い人にとって、彼らを子ども扱いして、たとえば、ぼくのようなジジイが、考えが浅いとかなんとか、おためごかしに忠告したり、叱りつけてくるわけですが、そういう輩はすべて「旧体制」・「保守主義者」なわけですから、反抗は正しい。まあ、そんな気分まずあるのですが、一方で、「この戦いは、永遠に勝てないんだよな。」という、絶望的な詠嘆というか、諦めというかを感じないわけにはいかない年齢でもあるわけで、前半の高ぶりは消えて「結局、どう負けるのだろう?」という、実にジジくさい目で見た後半でした(笑)。 バス代の頃は、子ども扱いの猫なで声で相手していた警官隊も、やがて、彼らを大人扱いしはじめ、容赦ない暴力を振るい始めますし、反抗する子供に困惑していた大人たちは、なんと、ファシストと呼ぶのがふさわしい人物を大統領を選んで事態の収拾を図ります。 貧困や格差がクローズアップされた社会での「大人たち」のやることのたちの悪さは、なんだか、全世界的に共通しているようです。 結果的に、彼らに出来たのは事実の記録としてこの映画を残すことだったようです。ブラジルは、今年2022年が大統領選挙の年だそうですが、若い彼らが、今度はどんな行動をするのか、ちょっと、期待してしまいますね。 というわけで、堂々と頑張って闘った高校生たちに拍手!でした。監督 エリザ・カパイ製作 アリアナ・ジェネスカ脚本 エリザ・カパイ撮影 エリザ・カパイ ブルーノ・ミランダ編集 エリザ・カパイ ユリ・アマラウ音楽 Decio 7ナレーション ルーカス・“コカ”・ペンチアド マルセラ・ジェズス ナヤラ・スーザ2019年・93分・ブラジル原題「Espero tua (Re)volta」2022・07・05-no89・元町映画館no137
2022.07.06
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ビータ・マリア・ドルィガス「PIANO ウクライナの尊厳nを守る闘い」元町映画館 最近、街角ピアノというのでしょうか、公共の建物の広場とか駅のコンコースのはずれとかにピアノが置いてあって、誰かが弾いているという光景に出くわすことがあって、ちょっと嬉しいのですが、この映画では革命が進行しているど真ん中で、ショパンの「革命」が響いていました。 見たのはビータ・マリア・ドルィガス監督の「PIANO ウクライナの尊厳を守る闘い」でした。40分の短いフィルムでしたが、内容は納得です。 敷石を掘り返し、たたき割ったコンクリート・ブロックの破片を投石用の小石に「生産」しているシーンで映画は始まりました。 覆面姿で工事現場用のヘルメットをかぶり、投石用の石ころで武装(?)した市民と盾と警棒を構え、整然と隊列を組んだ風防付きヘルメット姿の警官隊が広場で対峙しています。 そんな中、バリケード用に持ち出されたピアノに気づいた一人の女性が、周囲の男たちを説得し、そのピアノを救い出し、バリケードの上に担ぎ上げ、その場で演奏を始めます。女性は音楽学校でピアノを学ぶ学生のようですが、彼女がバリケードの上で弾いた曲はショパンでした。 2014年2月にウクライナで起こった「ユーロ・マイダン革命」、当時の親ロシア派ヤヌコービッチ政権に反対した市民たちが軍や警察と衝突し、多くの死傷者を出しながら政権を倒した事件をそう呼ぶのだそうですが、その騒乱の最中、この映画に登場するピアノはショパンの「革命」を、ベートーベンの「歓びの歌」を、そして、ウクライナの「国歌」を奏でます。 1台のピアノが救い出され、何人もの演奏者によって演奏され、その演奏に市民たちが声を合わせて歌うシーンが映し出されます。一方で、演奏を妨害するためでしょうか、ロシア製らしいポップミュージックが広場の拡声器から大音量で流れ始めます。 次のシーンでは武装した警官がバリケードに襲いかかり、容赦なく振るわれる暴力と地べたを転げまわる市民の姿が映し出されていきます。 やがて、軍によって制圧され、静けさを取り戻した広場には、あのピアノが雨ざらしにされて残されていました。で、そこにやって来たのはあの女子学生でした。彼女は、今度はピアノ職人らしきオジサンを連れてきて修繕し始めます。ピアノは息を吹き返しますが、試し弾きした彼女の演奏は、駐屯している軍人から「うるさい」と𠮟られてしまいます。 やがて、居る場所を失ったピアノがトラックに乗せられて田舎道を去っていくシーンで映画は終わりました。広場を制圧したのが、親ロシア派なのか、反ロシア派なのか、ぼくにはわかりませんでした。 昨年だったでしょうかスペイン市民戦争で「ワルシャワ労働歌」が歌われる「ジョゼップ 戦場の画家」というアニメーション映画を見て、こころ騒ぎましたが、この映画では、2014年のウクライナで市民に対して武装したエセ「民主主義」権力との戦いでショパンやベートーベンが革命歌として広場に響き渡った様子がドキュメントされていて衝撃的でした。 この現場を撮った監督、ビータ・マリア・ドルィガスに拍手!です。それから、広場のピアノを二度にわたって生き返らせた女子学生、アントネッタ・ミッシェンコさんに拍手!でした。 国旗の色に青く塗られたオンボロ・ピアノがどうなっていくのか、ワクワクして見入りながら、フト、市民的な自由の希求の可能性が、ニッポンのショボイ街角ピアノにだってあるんじゃないかと思いました。 「ウクライナの尊厳を守る闘い」と副題にある通り、ソ連解体とともに独立したウクライナという国家のここ10年の歩み、現在のロシアの侵攻の背景的な政治情勢や社会情勢を伝える歴史的ドキュメンタリーとして見るべき映画だと思いますが、一方で、まあ、牽強付会かもしれませんが、自由を求める表現としての芸術、とりわけ音楽の力にあらためて驚きました。監督 ビータ・マリア・ドルィガス撮影 ユラ・デュネイ アレクサンダー・チューコ編集 トーマス・チェセールスキー2015年・41分・ポーランド原題「Piano」2022・06・29-no87・元町映画館no136
2022.07.02
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クシシュトフ・キエシロフスキー「デカローグ10 ある希望に関する物語」元町映画館 切手収集マニアの父親が死んで、とんでもないお宝が残されているのですが、遺産を何とかしようとやってきた兄弟が、けた違いの遺産に翻弄されるお話でした。 老いた父親の一人暮らしをほったらかしにしていた兄弟が、死んでしまっている父親と出会い直すといえば、まあ、聞こえはいいのですが、残された財産が、二人の、まあ、しみったれた生活では想像もできない額だったこともあって、なんだか経験したことのない欲望に翻弄されていく哀れな成り行きで、まあ、10作のなかでは数少ない笑えるドラマで、ちょっと、コメディの味わいでしたが、苦いものが残るんですよね。ゲラゲラ笑っているわけにもいかない感じというのでしょうか。 面倒だから取り合わないでおこうと思っていたに違いない息子二人のありさまも他人ごとではありませんが、何重にも鍵をかけて、息子たちも世間も拒否して閉じこもっていたかの老人が大金持ちだったことに死んでから初めて気づいて、急に、今や、死んでしまっている親父の後姿を追いかけ始める息子たちの姿にも、まあ、苦いものを感じました。 それにしても、ホント、キエシロフスキーが描く、この巨大なアパートにはいろんな人のいろんな人生があるもんだと感心しますね。監督 クシシュトフ・キエシロフスキー製作 リシャルト・フルコフスキ脚本 クシシュトフ・キエシロフスキー クシシュトフ・ピエシェビッチ撮影 ヤセット・ブラブト美術 ハリナ・ドブロボルスカ編集 エバ・スマル音楽 ズビグニエフ・プレイスネルキャストズビグニエフ・ザマホフスキー(アルトゥル弟)イエルジー・スチュエル(イェジー兄)1988年・60分・ポーランド原題「Dekalog 10」「 Dekalog, dziesiec」2022・04・18-no57・元町映画館no135
2022.06.26
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キリル・セレブレンニコフ「インフル病みのペトロフ家」元町映画館 題名に惹かれて見に来ました。キリル・セレブレンニコフ監督の「インフル病みのペトロフ家」です。 満員のバスに乗って、何やら具合が悪そうに咳をしてる男がいて、乗車券を確認してる車掌の、ド迫力の女性がいて、停車したバスのドアを外からたたく男がいて、咳をしていた男が外に連れ出されて、街角で自動小銃を持たされて、そこに連れてこられた市民(?)が壁際に並んで立たされて、全員射殺されるシーンから映画は始まりました。 何が何だかわからないまま、ポカンと見ていましたが、どうも、映像は妄想と現実を行ったり来たりしているようだという予感めいたものは感じるのですが、やっぱりよく分からないまま映画は場面を変えて、黒縁メガネの図書館司書でしょうか、女性が登場して、まあ、あれこれあって・・・・。というような映画でしたが、実はさっぱりわかりませんでした。 この監督の「LETO レト」という作品も見た記憶がありますが、ロシアというか、ソビエトというかのロックバンドの話だったこと以外、何も覚えていません。 バスに乗っていたのが、題名のペトロフのようです。彼は家では漫画を描いていてとか、黒縁メガネの女性が、その妻(?)ペトロワで、一見、知的で、おとなしそうな彼女が実はおそるべき暴力的マッチョだったりとか、二人が夫婦なのかどうかは定かでないのですが、二人のあいだには息子がいて、家庭の会話があってとか、父親から感染したのでしょうね、熱を出した息子がクリスマスだか、新年だかの演芸会に行きたがっているとか、ペトロワは息子にアスピリンを飲ませて寝させようとしているとか、ペトロフが霊柩車で運ばれる死体と同乗しているとか、プロットというのでしょうか、場面、場面は何とかわかるのですが、コンテクストというのでしょうか、全体の文脈が全く理解できない、まあ、ペトロフ家の三人家族が、みんなインフルエンザにかかっちゃって、アスピリンで何とかしようとしているということはわかったのですが、呆然と見ているほかありませんでした(笑)。 「こりゃ、何時間見ていても、きっと、わからんな。」 で、まあ、そういう結論でした。拍手しようにも、どこに拍手していいのか・・・。題名とチラシはカッコよかったのですがねえ。いやはや、トホホでした。 ちょっと、言い訳をすると、たぶんこの映画には元ネタというか、下敷きになっている神話とか小説とかがあるのでしょうね。そのあたりのことが、見ていて全く思い浮かばないシマクマ君には解読不能というわけだったのでしょうね。 「ナニコレ?」という好奇心がないと、たぶん、付いていけない作り方なのでしょうが、もう、そういう元気はないなあということを実感した作品でした。やっぱり、トホホですね(笑)。監督 キリル・セレブレンニコフ原作 アレクセイ・サリニコフ脚本 キリル・セレブレンニコフ撮影 ウラジスラフ・オペリアンツ編集 ユーリ・カリフキャストセミョーン・セルジン(ペトロフ)チュルパン・ハマートワ(ペトロワ)ユリヤ・ペレシリド(マリーナ)イワン・ドールン(セリョージャ)ユーリー・コロコリニコフ(イーゴリ)ユーリー・ボリソフ(サーシャ)ハスキ(死体)2021年・146分・R15+・ロシア・フランス・スイス・ドイツ合作原題「Petrov's Flu」2022・06・22-no84・元町映画館no133
2022.06.23
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ブリュノ・デュモン「ジャンヌ」元町映画館 ブリュノ・デュモン監督の「ジャネット・ジャンヌ」という2部作の第2部「ジャンヌ」を見ました。第1部の「ジャネット」の後半、少しおねーさんになったところで女優さんが変わったのですが、第2部の「ジャンヌ」は最初の少女だったジャネット役のリーズ・ルプラ・プリュドムのままでした。写真はフランス王との出会いのシーンですが、これがなかなか見ごたえのある「ジャンヌ」を演じていました。 第1部は無垢な羊飼いの少女が神のお告げを聞き「ジャンヌ・ダルク」に成長する物語でしたが、第2部はオルレアンでの奇跡の勝利の後の、いわば不如意のジャンヌでした。 厭戦気分のフランス王、虐げられたまま、敵に奪われたままのフランスの国土と民衆、第1部同様に、極度に抽象化・象徴化された映像でストーリーがすすみますから、当時の歴史についてあやふやな知識しかないシマクマ君には映画はますます意味不明の沼地へと突き進んでいく様相でした。オルレアンの少女について、ずっと昔に読んだことがあるとはいえ、まあ、何が起こっているのかわけがわからないという印象なのです。 その中で、妙にリアルだったのが、位や身分はよく分かりませんが、聖職者、要するにキリスト教の教会のエライさんなのでしょうね、その男たちの「表情」と「発言」でした。 ジャンヌが神の使いと会い、神の言葉を聴いたということが、いかにウソであるかということを、教会で聖書を読むことができる自らこそが神の僕であるという大前提を根拠に、オルレアン以降の戦いの敗北を理由に、ジャンヌが「神の声」を聴いたということが偽りであると追及していくのが、第2部の山場といっていいのですが、なんだか、昔の職場で、まあ、たとえば「タバコを吸った」とか、「カンニングをした」とか疑いをかけた生徒に対して、「指導」と称して、いかに、自らが「教育者」であるかという振舞に自己満足している輩(同僚の教員)を思い出してしまいました。辟易しながらも、異様なリアリティに感心しました。 もっとも、ジャンヌは「それについてはお話しません。」と最後まで突っ張りきるわけですが、結局、丘の上で焼かれているシーンが遠くに映し出されて映画は終わります。 そこには、タバコを吸ったと疑われた少年たちの、鼻白んだ猜疑の眼差しではなく、キッパリと拒否を貫く、なんというか絶対的に「明るい」眼差しがありました。信仰の絶対性とでもいうべきでしょうか。聖書や教会を後ろ盾にした権力化した信仰の欺瞞に対する、「わたしは出会った」という一回限りの経験の絶対性が眼差しに宿っていたというべきでしょうか。 このシーンを演じた主演の少女リーズ・ルプラ・プリュドム(ジャンヌ)と監督のブリュノ・デュモンに拍手!でした。 それにしても、教会の人びとの演技も、鬱陶しさが実にリアルで、見ていて腹立たしい限りなのですが、実は、感心しました。拍手!ですね。監督 ブリュノ・デュモン原作 シャルル・ペギー脚本 ブリュノ・デュモン撮影 デビッド・シャンビル音楽 クリストフキャストリーズ・ルプラ・プリュドム(ジャンヌ)ファブリス・ルキーニ(シャルル7世)2019年・138分・カラー・ビスタ・フランス語原題「Jeanne」 英題「 Joan of Arc」2022・05・23-no70・元町映画館no129
2022.06.10
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ブリュノ・デュモン「ジャネット ― l'enfance de Jeanne d'Arc」元町映画館 予告編を見て「なんだこれは?」という感じで見に来ました。連休明けの元町映画館です。ソフィア・ローレンの「ひまわり」が行列だそうで、実にめでたいのですが、こっちは閑古鳥でした。ブリュノ・デュモンという監督はもちろん知りません。で、映画が「ジャネット」、「ジャンヌ」の二部構成になっていることもよく知らないままやってきました。この日に見たのは第1部「ジャネット」でした。 チラシには、ちょっと怖い顔で映っていますが、実にあどけない羊飼いの少女ジャネット(リーズ・ルプラ・プリュドム)が牧場の空地で歌を歌います。シャルル・ペギーという人の詩劇の詩らしいのですが、要するに「信仰」のことばです。信仰心のないシマクマ君は「ふーん…」という気分で聴いています。少女は高揚してくると歌いながら踊り始めて、頭を激しく前後させたり、側転したり、飛び跳ねたりします。 友だちの少女や、叔父さんも登場します。修道女の二人組や、浮浪児の少年の兄弟の二人組も登場します。「おなかが空いた。」といってヨチヨチ歩く弟の姿なんて最高です。修道女の双子のような二人組も踊ったり歌ったりしますが、なんというか、筋立てのうまく運ばない小学校の学芸会に、中学生か、高校生のお姉さんがやってきて踊っている感じです。振り付けはシンプルで、踊るときの音楽はロック調で、まあ同じ所作の繰り返しです。 オルレアンの少女、あのジャンヌ・ダルクが、まだ羊飼いの少女だったころの物語なのです。だから、神様のお告げを聴くシーンもあります。林の中でジャネットが三人の神様に出会うのですが、なんだか、神様も出会いの場面もシュールでポカンとしてしまいました。 途中で、少女だったジャネットは少しおねーさんに成長して、役者も変わります。神のお告げを聞いたからでしょうか、ジャンヌと呼ばれるようになって、いよいよ、出陣!というところで終わりました。 音楽も踊りも、一風変わっていますがいやな感じではありません。ただ、テンポも展開も、勝手に見てくださいという印象で、見ている方はポカンとしていたら終わったという感じです。これが第1部だそうです。「第2部はどうするのか?」って?もちろん見に行きますよ(笑)なんだかんだ言ってますが、わからないままに、ちょっと誘惑的なのです。 子供の頃のジャネットだったリーズ・ルプラ・プリュドムのたたずまいがとても良かったことは間違いありません、拍手!です。 この映画は、登場人物たちが、おそらくシロウトというか、俳優ではないようです。物語の筋立ては、編集によって、何とか成り立っていますが、映像は一つ一つのシーンが、それぞれ勝手に生き生きしている印象です。不思議な映画でした(笑)。監督 ブリュノ・デュモン原作 シャルル・ペギー脚本 ブリュノ・デュモン撮影 ギョーム・デフォンテーヌ編集 ブリュノ・デュモン バジル・ベルヒリ音楽 Igorrr振付 フィリップ・ドゥクフレキャストリーズ・ルプラ・プリュドムジャンヌ・ボワザンリュシル・グーティエ2017年・106分・フランス原題「Jeannette, l'enfance de Jeanne d'Arc」2022・05・16-no68・元町映画館no124
2022.05.24
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クシシュトフ・キエシロフスキー「デカローグ2(ある選択に関する物語)」元町映画館 巨大なアパートの部屋のベランダに温室を作り、そこでサボテンのような植物を育てている、独り暮らしらしい老人(アレクサンデル・バルディーニ)の生活が映し出されます。彼が外に出るために階段を下りていくと、踊り場の窓から外を見ながらタバコを吸っている美しい女性が佇んでいます。 そんなシーンから映画は始まりました。女性は同じ棟の10階に住んでいて、名前はドロタ(クリスティナ・ヤンダ)でした。彼女の夫は重病で入院中であり、危篤状態に陥っているのですが、踊り場で彼女のそばを通りかかる老人はその病院で夫アンドレの主治医でした。 ドロタは主治医との面会のチャンスを作るために、アパートの階段の踊り場で、まあ、待ち伏せしていたわけですが、面会を許可された彼女が老医師に相談したことがびっくり仰天でした。彼女は医師に向かって、「自分が夫を愛していることは間違いないのだけれど、別の男の子どもを身ごもっている。もし夫が死ぬなら子どもを産み、生き延びるなら堕胎したい」という相談を持ちかけたのでした。 このシリーズには、テレビドラマだからでしょうかね、時々、こういう、まあ、ちょっとあり得ない条件設定のパターンがありますが、思考実験としては「まあ、いいか」という感じで、あまり気にはなりません。 で、顛末はどうなるのか、ということですが、結果的には、映画の主役は医者の方でしたね。 要するに「選択」をしたのは医者で、最初、返答を渋っていた彼はアンドレの容態の悪化の中で、ついに、堕胎を禁じますね。ただ、この映画の面白いところは、それは夫の命が風前の灯火だからの忠告だったのか、命の尊厳に対する忠告だったのか、全くわからない結末になっているのですが、どういう結末か予想できますか? ぼくは、ポカンとしてしまいましたが、そこはご覧になってお確かめください。 ウーン、やっぱりキエシロフスキー監督に拍手!ですね。ついでに、渋いお医者さんアレクサンデル・バルディーニにも拍手! やっぱりこの映画は、コメディとしてみるべきなんでしょうかね。そのあたりは確信がお持てない結末でした(笑)監督 クシシュトフ・キエシロフスキー製作 リシャルト・フルコフスキ脚本 クシシュトフ・キエシロフスキー クシシュトフ・ピエシェビッチ撮影 ズビグニエフ・プレイスネル美術 ハリナ・ドブロボルスカ編集 エバ・スマル音楽 ズビグニエフ・プレイスネルキャストクリスティナ・ヤンダ(ドロタ 妊娠している女性)アレクサンデル・バルディーニ(老医師)1988年・59分・ポーランド原題「Dekalog 2」「 Dekalog, dwa」2022・04・20・no59・元町映画館no122
2022.05.20
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テリー・ツワイゴフ「CRUMB クラム」元町映画館 2022年4月24日は日曜日でした。その上、開映が夜の7時40分という元町映画館です。日頃、日曜日には家からほとんど出ないシマクマ君が、終映時間を考えると市バスの最終が危ない時間になるというのにやってきた元町映画館でした。 おめあてはテリー・ツワイコフ監督の「CRUMB クラム」です。フリッツ・ザ・キャットというキャラクターで有名なロバート・クラムというアメリカのマンガ家を撮ったドキュメンタリーのはずです。ジャニス・ジョップリンの「チープスリル」というアルバムのジャケットを描いた人ですね。 映画は、すでに有名人になったロバート・クラムが、アメリカを捨てて南フランスに移住しようと決めた、最後の日々をカメラで追いながら、漫画家になる経緯を追うように子どものころからの生活が写真やインタビューで振りかえられ、現在の家族との暮らしぶり、兄弟、老いた母、クラム自身の仕事ぶりに密着して丁寧に撮っている映画ですが、ロバートがカメラに向かって話し始める最初のシーンから、やがて、住んでいた家に大きなトラックがやってきて、荷物が運び出され、空っぽになった部屋の窓のカーテンが下ろされる最後のシーンまで、映像に立ち込めていたのは、たぶん哀しさでした。 街を歩く人をスケッチしながら、カメラに向かって「ペンが勝手に描き出していくものを描いている」とつぶやくように彼自身が、自分の描画について語る場面があります。 世界を指が認知し描き出して行くのを目が見て、確かめ直しているというか、ペンが勝手に動いて線や塗りつぶしになり、やがて世界を再現していく、意識や精神というような立派なものは、そこに介在しないということでしょうか。 彼は笑って、カメラに話しかけていますが、自動マンガ描出機械のようにペンが描き出していく、たとえば、デフォルメされた性器が絡み合う世界に、彼が見ていたものは何だったのでしょう。ぼくには、自分が立っている荒野に原初の姿で向き合っている孤独の塊が笑っているように見えたのですが、うがちすぎだったのでしょうか。 彼をマンガの道に誘ったらしい、兄チャールズや弟マクソンとの会話のシーンでも、彼ははにかんで笑いながら、目を合わすことなく相槌を打っていました。チャールズは高校卒業以来、家から出ることが出来ないまま、哲学書を読みふける中年男で、マクソンは釘で作った棘だらけの板に座り、ヨガにふける男です。自分の中に閉じこもっている兄や弟のそばに、打ちのめされたように座り込み、それでも話しかけることをやめようとしないロバートをカメラは映していました。 彼は6冊のスケッチブックと引き換えにフランスの住居を手に入れたそうですが、最後のシーンでおろされたカーテンの闇に浮かびあがったスーパーには兄チャールズの自死が報告されていました。彼がフランスに去って二年後のことだそうです。 芸術的人間の、真の孤独に迫った監督テリー・ツワイゴフに拍手!でした。ぼくはかなり打ちのめされました。 映画館を出て、大急ぎで駅に向かい、駅のベンチでスマホを確認すると、なんと負け続けているだめトラが、今シーズン初めて二けた得点で勝利していました。その場で、自宅に電話をすると「オクビョウモノ!」という高笑いの声が響いてきました。トホホ…。 「でも、まあいいか、この映画見たし。」監督 テリー・ツワイゴフ製作 リン・オドネル テリー・ツワイゴフ製作総指揮ローレンス・ウィルキンソン アルバート・バーガー リアンヌ・ハルフォン撮影 マリス・アルベルチ編集 ビクター・リビングストン音楽 デビッド・ボーディンゴースキャストロバート・クラムチャールズ・クラム(兄)マクソン・クラム(弟)エイリーン・コミンスキー(妻)1994年・120分・PG12・アメリカ原題「Crumb」日本初公開1996年11月30日2022・04・24・no63・元町映画館no119
2022.05.10
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クシシュトフ・キエシロフスキー「デカローグ1(ある運命に関する物語)」元町映画館 キエシロフスキー監督のテレビシリーズ「デカローグ」の1、「ある運命に関する物語」を見ました。その1からその10まであるシリーズの半分くらい見終えたところで見ました。これを最初に見ていたら、次を見る元気が出たかどうか(笑)。 上のチラシの解説の写真が主人公の親子です。お父さんククシュトフ(ヘンリク・バラノウスキ)が無神論者というのがストーリーの支えになっていて、コンピュータと神の対決というか、コンピューターに降臨した神とお父さんの対決というか、そういう筋立てでした。 で、お父さんの教えを受けてコンピュータをいじることが大好きな息子のパヴェウ君(ヴォイチェフ・クラタ)は、2022年の眼から見てもちょっと天才的で、何よりもかわいらしい。そのかわいらしい少年の「運命」をめぐって、父親と伯母であるイレーナ(マヤ・コモロウスカ)の視線を組み合わせることによって描いているところは、実に見ごたえがあるのですが、如何せん、少年の運命のショックから、シマクマ君は立ち直れない気分で見終えました。 映画は巨大な団地があり、団地のはずれの水辺の雪の中で火を焚いている浮浪者(?)の青年がいて、団地で起こることを、寒さに耐えながら見ているシーンから始まります。 この「デカローグ1」だけを見ても、この青年のシーンが、どうもこのシリーズの根っこにあることには気づけなかったと思いますが、何本か見ていると、この青年をチラホラ見かけるわけで、「これはなにかありますね」とシマクマ君にも気づけます。 「世界」のはずれに青年がいて、その青年ともどもカメラが「世界」を映しとり、その映像を見ているシマクマ君がいる、そういう、二重にはみ出した構造をどう考えればいいのか。まあ、ゆっくり考えること、あるいは、このシリーズ全体で考えることでしょうね。 もう一つ「あれっ?」って思ったのはイレーネが街頭のテレビに映っているパヴェウ君が元気に遊んでいる画面を見て涙を流すシーンが冒頭にあります。 「このシーン、どこかで見たことがあるな」 そんな気がしました。女性が何かを見ているだけで、涙だけがながれるシーンで、とても印象的でした。 まあ、この映画では、そこから父と少年の運命の数日間を振り返っていくという、映画の時間の提示だったようなのですが、過ぎていく時間を引き留めるかのようなイレーネの表情は記憶に残りそうです。 かわいらしいパヴェウ君(ヴォイチェフ・クラタ)と何気なく登場するイ―レナ(マヤ・コモロウスカ)に拍手!でした。 いろいろ考えさせてくれる映画です。最後まで完走したいと思います。監督 クシシュトフ・キエシロフスキー製作 リシャルト・フルコフスキ脚本 クシシュトフ・キエシロフスキー クシシュトフ・ピエシェビッチ撮影 ビエスワフ・ズドルト美術 ハリナ・ドブロボルスカ編集 エバ・スマル音楽 ズビグニエフ・プレイスネルキャストヘンリク・バラノウスキ(ククシュトフ父)ヴォイチェフ・クラタ(パヴェウ少年)マヤ・コモロウスカ(イレーナ伯母)1988年・56分・ポーランド原題「Dekalog 1 」「Dekalog, jeden」2022・04・18-no56・元町映画館no117
2022.04.21
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クシシュトフ・キエシロフスキー「デカローグ4(ある父と娘に関する物語)」元町映画館 クシシュトフ・キエシロフスキー監督の「デカローグ(全10話)」が元町映画館で始まっています。1980年代に評判になったポーランドの監督らしいのですが、今回まで、彼の作品を見たことはありませんでした。「デカローグ」というタイトルをチラシで目にして、「十戒?」と首を傾げました。で、何となくですが、ワクワクしてきて、映画館にやってきました。今日(4月15日)から見始めないと、たとえ気に入っても10本見通すことができません。いつもは決してしない夜の6時を回ってからの二本立てに挑戦です。 一本目は第4話「ある父と娘に関する物語」でした。いわゆる父子家庭の物語でした。父ミハウと娘アンカという組み合わせです。娘は年ごろで、演劇学校の学生です。父親は中年のサラリーマンというところでしょうか。母親がアンカを生んですぐになくなっている家庭という設定です。 出張で留守の父の書斎で「死後開封のこと」と父親が上書きした封書の中に隠されていた、亡くなった母親から娘にあてた封書を娘のアンカが見つけるところから「父」と「娘」の心理劇が始まりました。 「父」と「息子」では、決して起きない「男」と「女」という関係を交差させながら、父と子という関係の深層に迫るスリリングな作品で、とても1時間のテレビ番組とは思えない、充実した展開でした。 そもそも、父と子という関係は、昨今のDNA鑑定のことはわかりませんが、母親による証言以外には心理的にしか維持できないのではないかという、ある意味、永遠の課題を下敷きにしている作品だと思いました。 話の展開を追うことはやめますが、一つ一つのプロットの作り方と二人の俳優の表情の自然な変化には目を瞠りました。 特に、ずっと二人で暮らしてきた父親のことを「実の父ではないのではないか」と娘が疑うきっかけと、事実の追及の道具として使われている「手紙」の扱い方は、ありがちといえばありがちですが、なかなか劇的で、シャレていました。 ネタバレになるのかもしれませんが、ラスト・シーンで、巨大なアパートのあいだの歩道を歩く父親が、上の階の自室の窓から叫ぶ娘を振り返り「牛乳を買いに行ってくるよ。」と返事する様子を娘の位置から撮っているシーンには胸打たれました。 事実がどうであれ、誰かの父であることを引き受けて生活してきたということの意味を彼の後ろ姿は伝えていたと思いました。 父(ヤヌーシュ・ガヨス)と娘(アドリアーナ・ビエジンスカ)に拍手!でした。監督 クシシュトフ・キエシロフスキー製作 リシャルト・フルコフスキ脚本 クシシュトフ・キエシロフスキー クシシュトフ・ピエシェビッチ撮影 クシシュトフ・パクルスキ美術 ハリナ・ドブロボルスカ編集 エバ・スマル音楽 ズビグニエフ・プレイスネルキャストアドリアーナ・ビエジンスカ(アンカ:娘)ヤヌーシュ・ガヨス(ミハウ:父)1988年・58分・ポーランド原題「Dekalog 4」「Dekalog, cztery」2022・04・15-no53・元町映画館no116
2022.04.20
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サオダート・イスマイロワ「40日間の沈黙」・「彼女の権利」元町映画館 「で、主人公はどうなったの?」見終えて最初にそう思いました。 中央アジア今昔映画祭という企画にまじめに通って9作品全部見ました。これが最後の2本です。サオダート・イスマイロフという、ウズベキスタンという国の女性の監督の作品らしいのですが、チラシによればウズベキスタンで人生の節目に行われる儀式、40日間の沈黙の誓いを通して描かれる、伝統と今、幻想と現実が交錯する世界を描いたという作品でした。 まあ、今回のどの作品にも共通したことではあるのですが、見ていて、世界のどのあたりの国のどんな場所なのか見当がつきません。画面からわかることは、山奥の孤立した村のようだということだけです。風景がすごいのです。主人公はビビチャという女性です。彼女は「沈黙の誓い」を立てて、それを実行するため祖母の家にいますが、その家には叔母とその叔母の幼い娘、なんだか女性ばかりが一つ屋根の下にいます。 言葉を禁止するという、独特な習俗を描くというシチュエーションだからでしょうが、内面の描写のカットバックが多用されている印象で、ぼくには何が起こっているのか、とうとうわかりませんでした。ここに住み、暮らしてきた女性の過去と現在と、なんだかよくわからない未来が暗示されているのかなあといぶかしんでいるうちに映画は終わりました。 で、「彼女はどうなるの?」というわけですが、寝込んでしまったわけでもないのに話の筋をなぞりなおすことができない鑑賞体験は初めてでした。もう一本の「彼女の権利」は、ほとんどインスタレーション・フィルムの趣で、そちらも、ただぼんやり眺めていただけで、ほぼ、ギブ・アップでした。 ただ、映像に映し出されていることは、おそらく「社会と女性」という視点の表現なのだろうな、監督はかなりしっかりしたフェミニズム思想の表現をたくらんでいるのだろうなという印象は浮かぶのですが、コンテキストがまとまらないのです。多分、ぼくの見方に原因の一つはあるのでしょうが、結構面白がって見てきた中央アジア映画だったのですが、最後の最後がこれだったのでへこみました。まあしようがないですね(笑)。監督 サオダート・イスマイロワ脚本 サオダート・イスマイロワ ウルグベク・サディコフキャストルシャナ・サディコワバロハド・シャクロワサオダート・ラフミノワ2014年・88分・ウズベキスタン・オランダ・ドイツ・フランス合作「彼女の権利」・元町映画館監督 サオダート・イスマイロワ2020年・15分・ウズベキスタン2021・12・07‐no127・no128元町映画館(no108)
2022.01.18
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セルゲイ・ドボルツェボイ「アイカ」元町映画館 映画.com 2021年の秋の終わりに「中央アジア今昔映画祭」という企画で、9本の作品を見ましたが最も衝撃を受けた作品で、「ああ、これは現代映画やなあ」と実感させる映画でした。セルゲイ・ドボルツェボイ監督の「アイカ」です。 舞台はモスクワらしいのですが、映像に登場する人物たちのは「キルギス」から来た不法滞在の労働者たちで、題名の「アイカ」はモスクワで就労ビザを持たずに働いている女性の名前でした。 演じているのはサマル・エスリャーモバという女優さんですが、2018年のカンヌ映画祭で主演女優賞に輝いています。作品を見終えればわかりますが「なるほどそうだろう!」の受賞です。 ちなみに、この年のカンヌのパルムドールは「万引き家族」、他にレバノンの「存在のない子供たち」や韓国の「バーニング」、アメリカの「ブラック・クランズマン」なんかの年です。 2021年の秋、「由宇子の天秤」という邦画作品が話題になりましたが、カメラ・ワークがそっくりでしたが、こちらの方が古い2018年の映画です。 ハンディ型のカメラでを使っているのでしょうか、接写的に主人公を追い続けて、全体状況を、ほぼ写さない方法ですから、映画が始まった当初、何が起こっているのかよく分からないまま、事態が進行していきます。 赤ん坊を出産したばかりであるらしい女性がその赤ん坊に授乳を促されるのですが「トイレに行く」とベッドから立ち上がり、そのトイレの窓から産院を脱出してしまいます。外は雪です。 そこから映画は始まりました。キルギスからの不法労働者を宿泊させているらしい、いわゆるタコ部屋、宿の中の殺伐たる人間関係、故郷キルギスからの金の無心、ほとんど一文無しで、なおかつ借金を背負っているらしい境遇、働き先を失って職探しを続ける殺気立った顔、出産直後からの出血にタオルを当てて凌ぐ苦痛との戦い。 刻々と時がたっていく中で、焦りと苦痛と寒さで疲れ果てていく主人公の息遣いが間近に迫るこんな臨場感はそう経験できるものではないと思いました。この作品のように、見ていて息苦しくなるほどの迫力を感じるのは久々でした。 カメラが追い続ける数日間の逃走の結果、ついに借金取りのやくざに拉致され、彼女は金の工面のために産んだばかりの赤ん坊を思いだします。 ここまで、追いつめられな決して闘争心を失わない彼女の表情を見つめてきたぼくは、彼女が赤ん坊に名前も付けずに置き去りにしたことも、彼女がとどのつまりに思いついたことも、とても非難する気にはなりません。 貧困が世界中で、こんなふうに「人間」を追い詰めているのが現代という社会であることを体を張って演じたサマル・エスリャーモバに拍手!拍手!でした。 キルギスに限らないのでしょうが、アジアの、いや、世界の現実を一人の女性を描くことで活写して見せた監督セルゲイ・ドボルツェボイにも拍手!でした。 とても悲惨な映画でしたが、最後の最後に限りなく美しいシーンが待っていました。ただ、その美しさの次に奈落を感じさせるこの監督はただものではないと思いました。 同じ年のカンヌ出品作は結構話題なのですが、この作品には偶然出会いました。間違いなく傑作だとぼくは思いました。監督 セルゲイ・ドボルツェボイ脚本 セルゲイ・ドボルツェボイ撮影 ヨランタ・ディレウスカ編集 セルゲイ・ドボルツェボイキャストサマル・エスリャーモバ2018年・100分・G・ロシア・カドイツ・ポーランド・カザフスタン・中国合作原題「Ayka」2021・12・07‐no126・元町映画館(no107)
2022.01.15
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アレハンドロ・ランデス「MONOS 猿と呼ばれし者たち」元町映画館 目隠しをした少年たちが、いや少女もいるようですが、サッカーのような遊びに興じています。ボールの代わりに蹴られているのが何なのかは、画面が暗いこともあってよくわからないのですが、見事に標的に命中して、カメラが周囲を映し出すと、彼らが遊んでいる空間がとてつもなく広大な自然の果てのような場所であることが映し出されていきます。「なんなんだこれは?」 映画が始まって、最初にそう思いました。 映画はアレハンドロ・ランデスというコロンビアかアルゼンチンの監督の「MONOS」という作品で、元町映画館のモギリの少年に教えられてみました。 やがて、その広大な風景はアンデスの高地であるらしいこと。彼らは、反政府武装ゲリラ組織の大人たちに武装訓練されながら集団生活を送る十代の少年、少女たちで、互いに「あだ名」で呼び合う、あたかも「遊び仲間」であるような関係であること。彼らの通称がモノス(猿)であり、組織から派遣されている、それこそ、原人のようなメッセンジャーの兵士が、彼らを暴力的に指導していること。米国人らしい、博士と呼ばれている女性の監視が彼らの、今のところの、任務であるらしいこと。南米のどこかの国の内戦の一つの断面を描いていること。 何となく、そんなふうに映画の輪郭が浮かび始める中で、少年たちを支配しているのが、一つは「子どもの遊びの論理」のようなのですが、もう一つ「命令」と「服従」と「規律」いう「軍隊の倫理」をたたき込まれつつあり、「敵」か「仲間」か、「敵」は殺せという「戦場の論理」を、自動小銃をおもちゃにしながら「子どもの感覚」で身に着けつつあるという、危なっかしさが画面に漂い始めます。 映画の始まりに彼らが共有していたはずの無邪気さが、映画の進行に従って、無邪気であるからこそ陥らざるを得ない閉ざされた関係を予感させはじめますが、映画は予感の通りに進行し、いや、予感以上の悲劇的な結末を迎えます。 展開を追いながら、フト、思い出した言葉は、50年前の連赤事件でハヤリ言葉になった「総括」でした。「子どもたち」は自分たちを縛る約束・掟に閉じ込められた「内閉的な集団化」、いじめの集団のあれです、していくわけで、やがて組織の指導者も「敵」として抹殺し、裏切り者を徹底的に追及することで自壊していく道へとなだれ込んでいきます。 この集団と行動をともにしていた、ただ一人の大人であった女性捕虜が、集団の変質と危険性に気づき、必死で逃亡するシーンは、異様にリアルでこの作品の見どころの一つだと思いました。 結果的に、上のチラシの冒頭のシーンで目隠しのまま、無邪気に遊んでいた少年たちのシーンは「目隠しのまま」無邪気な殺し合いを始めてしまい、収拾がつかなくなる結末を暗示していたわけで、「総括」にゴールがないのは50年前に終わったことではないことを実感させた映画でした。冒頭シーンはとても美しくていいシーンなのですが、悲劇の暗示だったわけです。ただ、恐ろしいのはこの少年たちは自分たちが悲劇を演じていることに気づけないわけで、それが見ていて異様にしんどい理由のひとつでした。 コロンビアで1964年から半世紀つづいた内戦の断面を描いた作品のようですが、人間集団の暗いリアルを描いたゴツイ作品だと思いました。 監督のアレハンドロ・ランデスの次作を期待して拍手!でした。それにしても、明るい気持ちにはなれない映画でした。まあ、そこを描けばそうなるわけで、しようがないのでしょうね。監督 アレハンドロ・ランデス脚本 アレハンドロ・ランデス アレクシス・ドス・サントス撮影 ヤスペル・ウルフ編集 ヨルゴス・モブロプサリディス音楽 ミカ・レビキャストランボー( ソフィア・ブエナベントゥラ)ウルフ(フリアン・ヒラルド)レディ(カレン・キンテロ)スウェーデン(ラウラ・カストリジョン)スマーフ(デイビ・ルエダ)ドッグ(パウル・クビデス)ブンブン(スネイデル・カストロ)ビッグフット( モイセス・アリアス)博士(ジュリアン・ニコルソン)メッセンジャー(ウィルソン・サラサル)2019年・102分・R15+コロンビア・アルゼンチン・オランダ・ドイツ・スウェーデン・ウルグアイ・スイス・デンマーク合作原題「Monos」2021・11・24‐no115元町映画館(no105)
2022.01.12
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ハッサン・ファジリ「ミッドナイト・トラベラー」・元町映画館 予告編で興味を持ちました。チラシによればアフガニスタンからヨーロッパ、ドイツを目指す難民家族がスマートフォンで自らの旅路を撮影したドキュメンタリーという触れ込みでした、「アフガニスタン」、「難民」、「スマートフォン撮影」のどれもが気になりました。 この映画の監督であるハッサン・ファジリが、タリバンの指導者を撮った映画のせいで、死刑宣告され、自宅が危険だということで、隣国のタジキスタンに、娘二人と妻の4人で逃げてきて暮らしているシーンから始まりました。映画は「ミッドナイト・トラベラー」です。 ファミリー・フィルムとでもいうのでしょうか。ぼくの所へも家族の様々なビデオ映像が、ゆかいな仲間から送られてきます。運動会とか、お誕生日とか、お出かけの様子とか、パパが撮ったものもあれば、チビラ君たちが撮ったり、ママが撮ったりしたものもあります。笑顔もあれば、泣き顔もあるし、一緒に暮らしている猫や犬の様子も映っています。10秒くらいなものから3分、4分の長いものもあります。ジジとババは「愉快な仲間」の穏やかな暮らしを思い浮かべて喜ぶわけです。 この映画は、どこかそういうニュアンスを漂わせているところがすごいと思いました。 ファジリさん一家の5600キロに及ぶ命がけの旅は、我が家に送られてくる「おバカ」ビデオが映し出す生活とは、もちろん、隔絶しています。にもかかわらずフィルムのなかのナルギスちゃんとザフラちゃんの姉妹の笑顔や泣き顔はチビラ君たちの表情と同じで、「この映像は、命がけの旅という、極限状況を映した・・・」 とでもいう、「構え」のようなもの解きほぐすような、素直で当たり前の子供たちの表情です。 この映画のすばらしさの一つは、間違いなくそこに映しだされている子供たちが作っているその世界が生き生きとしていることだと思いました。 もちろん、現代社会の実相を伝えるドキュメンタリーとしての臨場感や、ジャーナルな関心を掻き立てるリアリティは。並みのドキュメンタリーではありません。ただ、多くのレビューがそのことに言及しているので、ぼくには何も言うことはありません。 しかし、銃の標的になったり、ヘイトの嵐に晒されたり、ノミだらけの宿舎で発疹だらけになったりする信じられないような日常のなかで、たしかに「生きている」二人の少女の、ある場面では名優であり、ある場面ではカメラマンである様子が、見せかけの平和のなかで、絶望的な安逸を貪っている老人に「希望」を感じさせてくれたことが忘れられない映画になりそうです。 ナルギス・ファジリとザフラ・ファジリという二人の少女に拍手! 2年を超える流浪の旅のなかで、子供を励ます「母」であり、夫をしかりつける「妻」であり、勇猛果敢な「女」であったファティマ・フサイニに拍手! 行方の分からない旅の途上で、映画を撮る意味を問い続けた監督、ハッサン・ファジリに拍手! ただ、ただ、この一家のみんなが2022年という新しい年を無事に迎えられることを心から祈りたくなる作品でした。監督 ハッサン・ファジリ脚本 エムリー・マフダビアン撮影 ナルギス・ファジリ ザフラ・ファジリ ファティマ・フサイニ ハッサン・ファジリ編集 エムリー・マフダビアン音楽 グレッチェン・ジュードキャストナルギス・ファジリ(長女)ザフラ・ファジリ(次女)ファティマ・フサイニ(母・妻)ハッサン・ファジリ(父・夫)2019年・87分・アメリカ・カタール・カナダ・イギリス合作原題「Midnight Traveler」2021・12・22‐no136・元町映画館no102
2021.12.28
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ホルヘ・サンヒネス「鳥の歌」元町映画館「現代アートハウス入門 vol 2」、二夜目の作品はパスしました。帰宅が11時を過ぎる時間設定が少々しんどいというのが理由です。 で、三夜目の映画です。ボリビアのホルヘ・サンヒネスという監督の「鳥の歌」という作品で、トークが「セノーテ」の小田香さんと太田昌国というかたです。小田香ファンとしては出かけないわけにはいきません。どんな映画をチョイスしているのだろうという興味です。 チェ・ゲバラでしかその名を知らなかったのですが、南米の大陸の中央部にあるボリビアに「ウカウマ集団」という映画製作グループがあるのだそうです。太田昌国という人は、その「ウカウマ」の共同制作者であり、日本での紹介者だそうです。 で、映画ですが、スペインによるアンデス地方の征服を批判的に暴こうとする映画を撮る撮影隊とアンデスの山地に住む地元の人たちとの出会いと軋轢を描いた作品でした。 こう書くと簡単そうですが、なかなか手が込んでいます。撮影中の映画、16世紀の征服者のシーンと撮影隊のドキュメンタリーな現在のシーンが重ねあわされていて、それぞれの舞台であるアンデスの素晴らしい風景が同じという仕組みです。 現実と過去の時間がだんだんと混ざっていく印象で、その構成がとても面白いと思いました。 映画は撮影隊のインディオに対する蔑視を露骨に描くことで、16世紀にスペインがやったことと、歴史批判とか言いながら、今も同じことを繰り返している「文明」の「未開」や「辺境」に対する無知と無理解の「型」をクローズ・アップしているのですが、面白いのは「鳥の歌」を巡るエピソードでした。 「鳥の歌」というのは村の人たちが、春になって囀り始める「鳥の歌」を聞き、新しい歌を作って新しい年の始まりを祝うというお祭りのことです。 紆余曲折の結果ですが、映画の終盤、撮影隊はそのお祭りを、ようやく映画に撮ることを許されます。ところが、スクリーンいっぱいに飛びかいさえずっていて、今、この劇場にも木霊している鳥たちの歌を劇中の撮影隊のテープレコーダーは感知できません。 撮影隊には録音できないけれど、映画では聞こえてくるところが不思議です。ぼくにはそこが面白かったのですが、ちょっと筋違いに喜んでいるかなとも思いました。 現在では植民地化のための、暴力的な「征服」は過去のことかもしれません。しかし、映画のなかで現地に住み込み「革命」を夢見るフランス人の女性が印象に残りましたが、ぼく自身でいえば、文化人類学や社会学のフィールドワークの報告を読んだり、あるいは、先日見た太田光海の「カナルタ」とか、この日、レクチャーに登場した小田香の「セノーテ」のようなドキュメンタリーを見ながら「わかったつもり」になっている(なっていませんけど)のではないかということを考えてしまいました。 レクチャーの時間に小田香さんが、開口一番「鳥の声が録音できなくて、本当によかった。」という感想を口にしたことが心に残りました。 アンデスの風景とお祭りに拍手! 素直な発言の小田香さんに拍手!監督 ホルヘ・サンヒネス製作 ベアトリス・パラシオス脚本 ホルヘ・サンヒネス撮影 ラウル・ロドリゲス ギレルモ・ルイス セサル・ペレス音楽 セルヒオ・プルデンシオキャストジェラルディン・チャプリンホルヘ・オルティスギド・アルセリネス・エルバスマルセリーノ・グスマンタチアナ・アビラ1995年・100分・ボリビア原題「Para recibir el canto de los pájaros」2021・12・13‐no130・元町映画館no100
2021.12.20
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ムラド・アリエフ「黄色い雄牛の夜」元町映画館 「中央アジア今昔映画祭」通いの3本目です。トルクメニスタンという国のムラド・アリエフという監督が1996年に撮った「黄色い雄牛の夜」という作品でした。カンヌ映画祭のコンペ作品だったそうですが、本国では上映禁止処分を受けた作品だそうです。 トルクメニスタンってどこですか?やっぱり、そんな質問をしたくなる名前の国ですが、アフガニスタンの北西、カスピ海に面しているあたりにある国のようで、トルクメン・ソビエト社会主義共和国という名で、ソビエト連邦内に含まれていましたが、1991年に独立し、国名はトルクメニスタン、「永世中立」を宣言している国のようです。 映画は、上の写真のセルダルという名の少年の、おそらく1948年の日常を、大人になった本人のナレーションで語るという構成で描いたモノローグ作品でした。 セルダル君の母や兄弟との幸せな生活、音楽の好きな友達やりっぱな校長先生のいる学校での暮らしが素朴に描かれていきます。 ただ、平穏な映像と交差するかのように、社会の背後にある重苦しい抑圧を予感させる事件として、田舎者で昔ながらの「神秘主義(?)」を口にする祖父が警察に連行されるという事件も起こります。 そのあたりの経緯は、詳しく語られるわけではありませんが、スターリン統治下の暗黒社会の一面を描いているのだろうと見当をつけて見ていると、とんでもない大事件が起こりました。 大地震でした。1948年にトルクメン共和国を襲った大震災は、首都アシガバードで、10万人を超える人が亡くなったり重傷を負った大事件だったようですが、ここから映画は一変します。 地震の瞬間の映像には、ちょっと首を傾げましたが、家族をすべて失った少年の目を通して「社会」が観察されていきます。映画が描くのは、命令からではなく、中央政府に対する忖度からでしょうか、死者の数が減らされ、被災の規模が縮小されていくプロセスが映し出されます。 映画の根底には、スターリンのソビエトの全体主義に対する確固とした批判精神が流れていることがよく分かります。 しかし、この日、すべてを失ったセルダル君が、この映画の世界を回想する、セルダルさんになるまでの人生をどう生きたのかがわからないのが残念でした。 「ここからどうしたのだろう?」という疑問が浮かんだところで、映画は終わったような印象でした。 とまあ、のんびり見終えたのですが、この映画が1996年当時のトルクメニスタンで作られ、上映禁止になっている不思議について帰宅して調べていると、実はこの作品は当時の大統領をモデルにした、いわば「よいしょ」作品だったらしいのですが、大統領の気に入らなかったということが原因での処置らしいようなのですね。 なんだかよく分かりませんが、その当時のニヤゾフという大統領は、もう亡くなっているようですが、終身大統領だったようなのですね。ますます、わかりません。 ついでにわからないことは、映画の題です。どうも、トルクメン民族の神秘主義的な詩人の言葉のようですが「黄色い雄牛の夜」ってどう意味なのでしょうね。「ウーン、いろんな国があるものだ?」に拍手!でした。監督 ムラド・アリエフ脚本 ブラート・マンスーロフ アシルムラド・マミリエフキャストマクサト・ポラトフアクゴゼル・ヌリィエワタチマメド・マメドベリエフ1996年・121分・トルクメニスタン・ロシア合作2021・12・05‐no122・元町映画館no99
2021.12.19
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シャフルバヌ・サダト「カーブルの孤児院」元町映画館 「中央アジア今昔映画祭」の4本目はアフガニスタンの映画でした。亡くなった中村哲さんが井戸を掘り、水路を築いた国だということを思い出しながら見ました。 シャフルバヌ・サダトという監督の「カーブルの孤児院」という作品で、2019年の映画です。 アフガニスタンは、今回の「中央アジア今昔映画祭」で紹介されている国々のなかで、唯一ソビエト連邦に所属したことのない国ですが、イスラム教と社会主義がせめぎあう国情だったようで、この映画にもソビエトとの関係とイスラム原理主義の力が浮き彫りにされていました。 面白いのは、そういう社会でみんなが夢中になっているのがインド映画だというところで、主人公の少年クドラット君は、学校へも行かず、文字も満足に書けないようなのですが、映画館の前で「ダフ屋」家業に勤しんでいるシーンから映画は始まりました。 時は1989年、長年にわたって軍事介入していたソ連軍の撤退が迫る社会が舞台でした。 で、ダフ屋の少年は、まあ、日本風に言えば補導され孤児院に収容されます。少年の家庭や家族が全く登場しないのが不思議です。孤児院は全寮制の学校でもあって、制服が与えられ、食事にも困りません。子供たちの未来を気に掛ける教員の姿もあります。もちろん、不良少年の暴力や専制もありますが、女性教師へのあこがれ、「親友」との出会いという少年たちの生活が生き生きと描かれています。 驚いたのは優等生へのモスクワ旅行でした。上の写真はモスクワでの交流キャンプでの記念写真ですが、確か「リンゴの唄」のメロディも聞こえてきて、1970年代から80年代かけての、まあ。、良くも悪くもという二面性があるわけですが、ソビエト連邦とその周辺の社会主義圏の関係を再認識しました。 映画の後半、ソビエトが去りイスラム原理主義の政権に代わります。女性の先生がヒジャブというのでしょうか、ネッカチーフを頭にかぶっている様子に代わり、女の子が学校からいなくなります。人格者だった校長先生や生徒思いの教員たちが図書館の本を焼いています。 モスクワでロシア民謡を合唱していた少年たちは、これからどうすればいいのでしょう。見てから10日くらいしかたっていないのですが、この映画のラストシーンがどうしても記憶に浮かんできません。 シャフルバヌ・サダト監督は国外に脱出するほかなさそうだと危惧にしなが見終えた印象だけが鮮烈なのです。 この作品の関係者の無事をこころから祈りながら、生き生きと子供の姿を撮ったサダト監督に拍手!でした。監督シャフルバヌ・サダト脚本シャフルバヌ・サダトキャストクドラトラ・カディリセディカ・ラスリマシフラ・フェラージ2019年・90分・カラー・デンマーク、フランス、ルクセンブルク、アフガニスタン合作2021・12・05‐no123・元町映画館no98
2021.12.18
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イリーナ・ポプラフスカヤ「ジャミリャー」元町映画館 「中央アジア今昔映画祭」の二本目です。1960年代のキルギスという国の映画でした。キルギスって何処にあるのか?まず、そこがわからないのですが、映画はそういう疑問をものともしない堂々たる印象でした。映画の題名は「ジャミリャー」で主人公の一人の女性の名前です。 ソビエトが独ソ戦を戦っている時代を描いた作品のようでした。現在のキルギス共和国がソビエト連邦内の国でキルギス社会主義共和国だったころですね。 若い男たちが戦争に駆り出された農村の日常風景として映し出される老人や子供、女たちの会話、強制労働と見まがうばかりの集団農場の労働の風景、遠景にある山影や広大な草原、風に波打つ麦畑、もう、これだけでも十分見ごたえがありました。 主人公は、小学校の高学年くらいでしょうか、素朴な表情がかわいらしい少年セイトです。彼の義理の姉、兄のもとに嫁いできたジャミリャーは、そのあたりのおばさんや、おばあさんと違って、ボーイッシュで働き者の美人です。戦場から怪我をして帰ってきた男たちと共に働きながら夫の帰りを待っているのですが、行儀の悪い男たちが、あれこれちょっかいを出してくるのが、セイトには気になって仕方がありません。 無作法な男たちを追い払う無邪気な少年騎士のようなセイトのふるまいを描いているシーンは楽しい名場面です。 そんなのどかな村に負傷兵ダニヤルが帰ってきます。なかなか苦みばしった男前で、足を引きずるこの男は、村人たちのからかいや蔑視の中で黙々と働きます。 さて、予想の通り、やがてジャミリャーとダニヤルとの間には禁断の関係が生まれます。二人の関係は少年セイトの目によって追われますが、セイトにとっては兄の、ジャミリャーにとっては夫の復員の日に、村の暮らしを捨てて出奔するジャミリャーとダニヤルの無事、すなわち、二人の愛の成就を祈る少年セイトの姿を遠大な風景の中に映し出したラストは、なかなか感動的でした。 出奔するに至る二人の関係を見つめ続ける少年が、二人の様子を「愛」に対するあこがれを刻み付けるかのようにあどけない絵にして描き続けるさまが筋を運びますが、彼らが生きている、アジアの辺境、キルギスの田舎の村の暮らしが、実は「銃後」と呼ばれる、戦時下での日常生活であることを、作品の背景としてくっきりと画いているところに、イリーナ・ポプラスカヤという監督の実力を感じました。 ジャミーリャ、ダニヤル、そして少年セイトを演じたナタリヤ・アリンバサロワ、ボロト・ベイシェナリエフ、スイメンクル・チョクモロフ(実は誰が誰なのかわかりません(笑))に拍手!監督 イリーナ・ポプラフスカヤ脚本 チンギス・アイトマートフナレーション チンギス・アイトマートフキャストナタリヤ・アリンバサロワスイメンクル・チョクモロフボロト・ベイシェナリエフ1969年・78分・ソ連原題「Jamilya」2021・12・04‐no121・元町映画館no95
2021.12.10
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シャケン・アイマノフ「テュベテイカをかぶった天使」元町映画館 元町映画館で始まった「中央アジア今昔映画祭」という企画に通い始めました。今日は、その初日でした。見たのは「テュベテイカをかぶった天使」という1969年の映画でした。カザフスタンの映画ということですが、映画が作られた当時はソビエト連邦に含まれるカザフ・ソビエト社会主義共和国だったはずで、ソビエト連邦の解体の結果、1991年に独立し、カザフスタン共和国になった地域だと思います。 で、チラシの裏にあった解説がこれでした。 シャケン・アイマノフという監督の名前も、カザフスタンという地域も知らずに見ました。題名から天使のような「子役」が登場する作品だと見当をつけ座っていると、オール阪神・巨人の巨人さんのような、口ひげを生やして、頭の薄い、ちょっと見には40歳はくだらないと見える大男が「私の天使」と呼ばれて登場してきて、のけぞりました。 確かに母親と子供の葛藤(?)がテーマ(?)の作品だといえないこともない映画でした。しかし、30過ぎて結婚しない大男と、どちらかというと「大阪のおばちゃん」系の、まあ、厚かましさも極まれりという雰囲気の母親との、結婚噺を巡るドタバタ喜劇でした。 題名にあるテュベテイカというのは、どうもこの地域の民族衣装で、男性が被る帽子なのですが、他の男性の登場人は被っているわけではないので、被ることに、何か意味があるのかもしれませんが、解説されるシーンもあるわけではないので、よくわかりませんでした。 ソビエト時代のカザフスタン映画ということなのでしょうね。どっちかというと、ミュージカル仕立ての作品ですが、歌といい、ダンスといい、とてもローカルな印象で、まあ、「異文化体験」映画というおもむきでした。 なんだか、意表を突いた、ローカルなバラエティ映画という驚きに、どっちかというと、笑いをこらえて拍手!でした。とはいうものの、さて、これが続くとしたら、ぼくは耐えられるのでしょうか。 監督 シャケン・アイマノフ脚本シャケン・アイマノフ ヤコフ・ジスキントキャストアミナ・ウルムザコワアリムガズィ・ラインベコフビビグリ・トゥレゲノワビケン・リモワ1968年・88分・ソ連原題「Angel wearing tubeteika」2021・12・04‐no120・元町映画館no94
2021.12.05
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メリーナ・レオン「名もなき歌」元町映画館 ペルーの映画でした。メリーナ・レオンという女性監督の作品だそうです。ペルーと言われても、インカ帝国とマチュピチュくらいしか思い浮かばないのですが、映画は現代のペルーを舞台にしたサスペンス仕立てでした。 1988年のペルーであった実話を描いた作品だそうです。 何も知らず産院で出産した新生児を、そのまま奪われてしまうという、今の「日本」社会でのほほんと生きている目から見れば、「なんのことかわからない出来事」が映画の発端でした。 被害者が、いわゆる「ネイティブ」、「先住民」で、貧しく、若い女性であり、犯罪者は時の権力の向こう側に身を隠しているという構造を暴く作品でした。 1980年代というのは高度経済成長に浮かれる「日本人」が、それはぼく自身のことでもありますが、流行りの「文化人類学」や「社会学」の報告として、旧世界の、社会のありさまにたいして、エキゾチックな関心を抱いた時代でしたが、そこに描かれているアジアやアフリカの「発展途上国」の政治的・経済的な実情については「闇」として、あくまでも「他人事」ととして驚いたり同情したりしていたにすぎなかった「ほんとうの事」が告発されていました。 子供を奪われたへオルヒナ・コンドリ(パメラ・メンドーサ・アルピ)が暮らす、ペルーという国の旧社会、先住民の貧困の描写が印象的ですが、中でも、彼女が奪われた赤ん坊を抱きしめる想像の中で歌う「名もなき」子守歌のシーン、犯罪者が隠れるドアの向こうの闇に向かって「子供を返せ!」と叫びながら叩くシーンは圧巻でした。 モノクロでスタンダードの画面で映し出される「古典」を思わせる映像がメリーナ・レオンという監督の映画的な趣味の良さというか、教養の正統性を感じさせる作品でした。 ネット上の写真とインタビューを見ただけの憶測ですが、おそらく「先住民」の一人であり、女性である監督が「先住民に対する抑圧や差別」のみならず、「女性蔑視」や「経済格差」、「貧困」に対する静かな「告発」の武器として映画を撮り始めた記念碑的な作品になると思いました。 「名もなき子守歌」を歌いながら、奪われた赤ん坊を思う若い母親を素朴に演じたパメラ・メンドーサ・アルピという女優さんに拍手!でした。監督 メリーナ・レオン脚本 メリーナ・レオン マイケル・J・ホワイト撮影 インティ・ブリオネス美術 ジゼラ・ラミレス音楽 パウチ・ササキキャストパメラ・メンドーサ・アルピ(へオルヒナ・コンドリ:子供盗まれた女性)トミー・パラッガ(ペドロ・カンポス:新聞記者)ルシオ・ロハス(レオ・キスぺ)マイコル・エルナンデス(イサ)2019年・97分・ペルー・フランス・アメリカ合作原題「Cancion sin nombre」2021・10・11‐no91元町映画館no88
2021.10.21
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