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平成21年4月12日のレンタサイクルで廻った斑鳩の里の記録も今日で最終回。 最終回は「法起寺」(ほっきじ) 法輪寺を出て自転車で法起寺に向かう。 途中に春まっさりの菜の花畑 法輪寺から自転車で10分弱で法起寺に到着 この寺は、元は推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮という宮殿であった。その後、推古30年(622)2月22日、聖徳太子がその薨去に臨み、長子の山背大兄王(やましろのおおえおう)に宮殿を改めて寺とすることを遺命し、寺院になった、という 「法起寺のホームページ」より引用 現在の感覚で単に「聖徳太子が経典を講義した場所」と考えると、この地の重さがわからない。 当時、法華経は海外から来た最新思想であり摂政である聖徳太子が発布された現在でいうところの憲法にあたる「十七条の憲法」のベースとなった思想である。 聖徳太子が幼少にして「一度に10人の人の話を聞いた」という”超”秀才であったればそこ、現在でも難解といわれる法華経をこの国に合うよう解釈なされ、政事(まつりごと)にその思想を運用することが出来たのであろう。 その法華経を太子自らが講説される、というのは国家の政治的にも文化的にも最高位に位置づけられる行事であったであろう。 大阪の四天王寺も聖徳太子の講説の話が残っている。 三重塔は飛鳥期に建造された最古の三重塔、とのこと。数度の解体修理、補修がなされているが創建時から焼失などの被害を受けていない。 「斑鳩の里」の風景としてよく風景画でみる景色。 絶好のスポットなのか写生する人々。 この後、国道9号線に出て途中、「中宮寺跡」によって(4月25日「斑鳩の里・・・中宮寺 その2と藤ノ木古墳」をご参照)法隆寺駅前にレンタサイクルを返す。 この日、平成21年4月12日は 朝9時頃自宅を出る ↓ 10時前、JR法隆寺到着 駅前でレンタサイクルを借りる ↓ 10時10分頃 法隆寺南大門に到着 レンタサイクルを置いて法隆寺境内へ ↓ 法隆寺 西院伽藍、大宝蔵院、東院伽藍を廻る ↓ 法隆寺の隣の中宮寺を見る ↓ 12時 東大寺門前で昼食 ↓ 12時30分ぐらい 藤ノ木古墳 ↓ 12時50分ぐらい 法輪寺 ↓ 13時30分ぐらい 法起寺 ↓ 13時45分 中宮寺跡 ↓ 14時15分 法隆寺駅前でレンタサイクルを返す おおまかな時間はこんな感じ。 天気が良くて、久々の自転車漕ぎでいい運動になった。 お天気のいい時、法隆寺駅前からレンタサイクルで斑鳩の里めぐり、お勧めです。
2009.04.27
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法隆寺駅前で借りたレンタサイクルで法隆寺から法輪寺に向かう。途中、少し坂を登りながら自転車で15分弱。 坂を登って平地が開けると法輪寺の三重塔が見えてくる。 表門の桜、楠木の若葉に三重塔。丁度、いい季節に来た。 法輪寺の三重塔は昭和の再建である。お寺でもらったしおりを見ると昭和19年に落雷で焼失。その後、ご住職二代にわたるご苦労の末、昭和50年に再建された。法隆寺金堂を再建した法隆寺宮大工 西岡常一棟梁の手になる。 創建当時のままを再現したもので姿がいい。 法輪寺の創建は飛鳥時代。聖徳太子の御子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が太子の病気平癒を祈願され建立された。それゆえかご本尊は「薬師如来」。飛鳥期の作で飛鳥期特有の面長な面持ちで薬壺(やっこ)を持たない。 「法輪寺のホームページ」 現在の寺域はこじんまりして「斑鳩の里に佇む」という雰囲気がぴったりだが、創建当時は法隆寺の2/3規模の大寺院だったらしい。 山背大兄王は聖徳太子の第一王子でありながら皇位継承の政争のなか蘇我入鹿が送る兵に攻め込まれ自害された。ここに太子の血統は途絶えた。当然、反蘇我の勢力の中心が山背大兄王であったが、王は「戦乱を拡大し万民を苦しめてはならない。わが身を捨ててこの国を固めよう」とおっしゃって自害された、と言う。 おだやかの斑鳩の里であるが、こじんまりしたお寺だけに山背大兄王、太子一族の悲劇がなおさら想われる。 法隆寺は修学旅行、海外からの観光客、もちろん小グループ、個人の観光客で賑わっていたが、ここ法輪寺ですれ違った観光客は老夫婦、若いカップルの二組。静かでおだやかそのもの。 寺域奥の講堂は飛鳥期から江戸期までの素晴らしい仏像がずらりと並ぶが20分くらいの間、観光客が入ってこない。 講堂の中央で胡坐をかいて仏像をじっくり観る。 薬師如来坐像、虚空蔵菩薩立像(飛鳥期)、十一面観音菩薩立像、弥勒菩薩立像、地蔵菩薩立像、楊柳観音菩薩立像、吉祥天立像(平安期)、聖徳太子二歳像などの仏像がずらりと並ぶ。 外はぽかぽか陽気で気温25℃を超える日であったが、講堂の中は薄暗くてひんやり。 そんな中で約20分、仏像を一人占めで観る。何とも贅沢な時間と空間である。 「法輪寺の仏像を紹介したページ」 ここに来たのは3度目だが、だいたいこんな感じ。その頃より仏像を見る目も変わった。 この日はこの時間を過ごすために電車に乗ってレンタサイクルに乗ってここまで来たのかもしれない。
2009.04.26
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法隆寺横の中宮寺を後に南大門にレンタサイクルを取りに戻る。 築地塀と路地 レンタサイクルに乗って藤ノ木古墳を見にいく 法隆寺門前の西里の路地 自転車で5分ほど、藤ノ木古墳に到着 随分以前、この古墳から豪華な副葬品が出たということで全国ニュースになった。 未盗掘の古墳だが、平安の昔から地元の方は「ここはやんごとなき高貴なお方のお墓」ということでお祀りをし、守ってこられたそうだ。 古墳の周りは宅地開発の波が押しよせているが、ここには悠久の歴史が今も連綿と続いているのだ。 斑鳩町観光協会「法隆寺iセンター」の「史跡 藤ノ木古墳」より」 2人の男性が埋葬されているが、それが誰なのか有力説はあるが確定できるには至っていないそうだ。 この後、法輪寺、法起寺に廻ったが、ここでは中宮寺について。 この日の帰り道、国道9号線を走っていると「国史跡 中宮寺跡」の道路標識。 丁度、元の中宮寺の金堂基壇の発掘調査の現地説明会を開催中。 現在の中宮寺から500mぐらい離れたところだが、法隆寺が僧寺、中宮寺は尼寺、として創建されただけに元の中宮寺は法隆寺に比べ小規模だが金堂、2つの塔を擁する相当な規模だったようだ。 現地説明会の受付のテントでは地元女子高生が受付。100円だったかで斑鳩町教育委員会作成の調査パンフレットを貰う。 発掘跡を見ても僕には往時の姿が想像できないが、金堂跡でも相当な広さ。周りは田園風景。この田園の下に塔やその他、当時の建築物の基礎が残っているのだ。 家に帰って調査パンフレットを読むと昭和30年代から発掘調査は続いている。 進学、就職、結婚で現地説明会の受付の女子高生もここから離れていくだろう。でも実家は悠久の歴史の地であることをずっと忘れないでいてほしい、と思ったりした。
2009.04.25
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春、桜真っ盛りの法隆寺を堪能してすぐ隣の「中宮寺」に行く。 中宮寺は聖徳太子の御母上「間人(はしひと)皇后」の勅願によって創建された、と伝えられる。”間人”は地名として丹後の間人(たいざ)として今に伝わる。丹後の間人は間人皇后のご生誕の地とされる。今は「間人(たいざ)カニ」で有名。 法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として当初から創建された、と云われる。 丁度、山吹が満開。塀越しの法隆寺の桜と相まって春満開(平成21年4月12日のこと) 中宮寺と云えば何といっても本尊「如意輪観世音菩薩半跏像」。「飛鳥彫刻の」と云うだけでなく、わが国美術の最高傑作のひとつと言えるだろう。 「中宮寺」のホームページより」 誰もが一度は見たことがあるだろう。 衆生をいかに救おうかと思案されているお姿と云われる。圧倒的でかつ静謐な”美”である、と思う。 この本堂のなかに「如意輪観世音菩薩半跏像」は安置されている。耐震・耐火に徹底的に配慮された設計。写真で見ると古寂びた木造建築と違って”味気ない”と感じるかもしれない。 でも「如意輪観世音菩薩半跏像」を観ると、この観音様にお坐りいただくのに、この施設はぴったりだと思う。「この仏像に万一のことがあってはならない」と誰もが思うだろう。 僕が行った時、拝観者の九割が女性。ふらっとこのお寺を尋ねて「如意輪観世音菩薩半跏像」を拝める。何と有り難いことか。格式高い門跡尼寺であるが寺域はこじんまり。わが国最高傑作の仏像であるが、観る人が等しく”優しい”気持ちになれる、そんなところである。
2009.04.19
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大宝蔵院で百済観音、夢違観音など宝物を観た後、東院(とういん)伽藍へ向かう。 夢殿を中心に四方は回廊。折りしも「しだれ桜」が満開。 「夢殿」はその創建がはっきりしない。聖徳太子の邸宅、現在に当てはめると皇居の「東宮御所」ということか、になっている。摂政としての聖徳太子を考えると東宮御所+首相官邸というイメージかも知れない。 また、太子の逝去の後、御霊を慰めるため建立した、とも云われる。 今回、法隆寺に来た目的の一つが夢殿に安置される「救世観音」(くせかんのん)の春のご開帳を観るため。 明治の始め、フェノロサが観音様を包む白布を解くまで寺の関係者も観ることのない秘仏であった。 この観音様は聖徳太子のお姿を生き写しにしたものと云われる。 等身大のお姿。お顔が生身の人間そのもの、体型もすらりとしたスタイルのいい青年なのだ。飛鳥期の特徴だ、とか白鳳期の特徴だ、というものではない。 「日本の宝物殿 世界文化遺産 法隆寺地域の仏教建造物」 というページを見つけた。「救世観音」が出ている。前回書いた「百済観音」、「夢違観音」も出ている。 ご開帳で救世観音の前は人だかりか、と思ったが、そんなことはなかった。修学旅行の学生さんで境内は人がいっぱいだが、救世観音をじっくり観る人は少ない。「折角のご開帳なのに・・・」と思いながらもラッキーだった。でも、僕自身も中学生の時、仏像がどうのこのう、これは秘仏・・・、など思いもしなかった。 満開のしだれ桜の前は写真を撮る人がいっぱい。修学旅行の記念撮影もしだれ桜をバックに。僕ぐらいの歳になったとき、「あの時観た桜・・・」といういい思い出になるだろう。 法隆寺のホームページ 「日本で最初の世界文化遺産 聖徳宗総本山 法隆寺」
2009.04.18
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法隆寺は云うまでもなく飛鳥時代に建立された世界最古の木造建築で日本を代表する寺院である。聖徳太子建立のお寺である。 聖徳太子の御父君である用明天皇が建立を誓願されたが、その実現を前に崩御された。その御遺願を推古天皇と聖徳太子がお継ぎになり、推古15年(607年)お寺とご本尊「薬師如来」を造られ建立を実現された。(以上、お寺でもらったパンフレットより) 聖徳太子は推古帝の摂政として,まだ日本が国家として不安定であったろう時に当時、新思想である仏法を政事の心柱に据えこの国の基を作られた。 法隆寺はその聖徳太子の政事を具体化した当時の日本の中心”施設”であったろう。 そんなこんな硬い話も考えるのだがいい天気である。 西院(さいいん)伽藍の金堂と五重塔 金堂にはご本尊「釈迦三尊像」、「薬師如来坐像」、「阿弥陀如来坐像」が安置されている。仏様の周りの四隅には「四天王像」。 「釈迦三尊像」、「薬師如来坐像」は飛鳥時代のもの。約1,400年前のものである。すらりとしたお姿で飛鳥期ならでは。この時代のお薬師さんは薬壺を手のひらに載せない。薬師如来が薬壺を手に載せるのは平安期からのようだ。 「四天王像」は白鳳期のもので飛鳥期から少し後のもの。直立不動で後代の動きのある四天王像と趣きが違う。 いずれも教科書に出てくるわが国の仏像を代表するものである。誰もがきっと一度は写真で見たことがあるだろう。覚えている覚えていないは別として。 法隆寺のホームページ 「日本で最初の世界文化遺産 聖徳宗総本山 法隆寺」 西院伽藍の中央奥の大講堂。平安初期の建造 西院伽藍の回廊。瓦と桜のコントラストが鮮やかで印象に残っている。 西院伽藍を出て大宝蔵院へ向かう途中、振り返って西院伽藍を見た景色。 大宝蔵院は平成10年に落成した法隆寺1,400年の宝物を保管する施設。「玉虫厨司」(たまむしのずし)、「夢違観音」(ゆめちがいかんのん)など飛鳥時代から近代に至る法隆寺、というより法隆寺の範疇を超えたわが国の国宝が保管されている。 これらはいつ行っても見ることができる、というものではないが。 この大宝蔵院の中に「百済観音堂」(くだらかんのんどう)がある。「百済観音像」を安置するためのお堂である。百済観音様すらりとした八頭身で光背の前に立たれ左手に瓶子を持たれる。 ここでお名前を挙げた仏様、観音様は誰もがどこかで一度は見たことがあるわが国を代表する仏像である。改めて「実物を見る」と写真ではわからない感動がやはりある。
2009.04.17
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ヒノキ花粉にやられてすっかり意気消沈だが余りにもいい天気。家で洟をグズグズいわせているならいっそう外に出てみよう、ということで4月12日の日曜日、法隆寺とその近辺を廻ってみる。 家を朝9時頃出て天王寺からJR大和路線で20分ほど。JR法隆寺駅に10時頃に着く。1時間弱で世界遺産「法隆寺」に着く。まさに大阪在住の有難さ。 JR法隆寺駅前でレンタサイクルを借りる。2時間で300円だが、一日借りは500円。法隆寺に来たなら断然、このレンタサイクルが楽しい。法隆寺から法輪寺、法起寺を廻るルートの景色はまさに「斑鳩」、「まほろばの国」を楽しめる景観が広がる。 駅からレンタサイクルで10分ぐらい。法隆寺の南大門に到着。 レンタサイクルを置いて南大門を通り抜ける。 雲ひとつない青空の下、法隆寺の境内が広がる。花粉症の不快感がすっかり吹き飛ぶ。 鎌倉期の仁王様が睨みを利かせる仁王門の左奥に桜と五重塔。 桜と五重塔の景色を見ることが出来るとは思わなかった。今年(平成21年)の桜は息が長い。 次回から春まっさりの斑鳩の里、半日遠出の備忘録を書いてみる。
2009.04.15
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