ブリュネと中島三郎助_No.3,箱館戦争

ブリュネ 中島三郎助2 ,ガリア魂と武士道、青い目が「泣けた桜」と「泣かした桜」,箱館戦争終焉期,幕末WITH_LOVE,榎本軍, ブリュネ の大脱走と爆裂したガリア魂,彰義隊とブリュネ,ブリュネ撤退の時,弁天台場のフォルタンとマルラン,【楽天市場】

ブリュネと中島三郎助
幕末_WITH_LOVE玄関 <箱館戦争終焉期< 中島三郎助と蝦夷桜(不穏な年明けから宮古湾海戦迄)
<青い目が「泣けた桜」と「泣かした桜」: ブリュネ 中島三郎助 No.1 No.2 <No.3(現在頁)
壮絶終焉,中島三郎助親子_木鶏のほととぎす
SERIES_ No.1 No.2 <No.3(現在頁)
ブリュネ 中島三郎助_箱館戦争終焉期_No.3
青い目が「泣けた桜」と「泣かした桜」_No.3
Jules Brunet & Nakajima

さくら散る、さくら散る。
青い桜の散る時に・・・。

Sec.3_咲いて、散って、土に還るまで


青い目の武士道「ナカジマ」という男
ブリュネ、撤退の決意


当然のことながら、ブリュネと中島、人種も違えば、世代も違う。何もかも別世界。

その上、同じ日本人達、榎本達と同じく「不義への闘いを挑む勇者達」には違いないが、
榎本達の場合、フランス軍人達の胸に秘めるガリア魂と、形異なれど、相通じる要素がある。
その点、この男、中島は特に理解難い存在だった。

日本の「武士道」その魂を秘めたこの中年男、中島は格別な存在だった。
完全に、榎本達と何かが違う。

当初ブリュネは、中島を『やはり、時代遅れの中年男』と錯覚していた。
しかし、違った。それだけは、どうやら、間違いだったようだ。
命を惜しまず闘う精神はお互い、どちらの国にも、軍人である以上、当然の掟。
しかし、中島の発想は、違う。

終盤追い迫るこの段階なればこそ、放置できなないブリュネだった。
日本人は、人の欲せざる事、すべからず。一方、ブリュネ達は、人の欲する事を率先してすべし。
人の知らざる事、率先して知らせ、指導すべし。砲台の問題点を解決させてやりたかった。

しかし、もはや、これ以上踏み込めぬ。何物か得体の知れぬ奥深い魂を漂わす白髪の男。
何もかも食い違う。それでいて、中島という男、けっして、時代遅れの頭だからでは
ないのだ。ジッタローに諭されて、敗北感に浸った。




戦に窶れ、生きながらにして骸骨同然の風貌。深く落ち窪んだ目。
しかし、その奥に光る鋭い眼光。
人物の年輪を物語るまさに、SAMURAIだ。

最も侍らしい本当の侍が、
今ここに『侍』を全うして
果てようとしている。




一方、中島は、後に(終焉の時)、弁天台場や五稜郭から、降伏すべく使いが着た時、
ついに、その壊れた砲の謎を明かした。

「この破れ筒はのう、いよいよの時、
己が、この破れ筒に跨り、己ごと、敵陣にぶっ飛んで
果ててやるまでのことよ。」


ブリュネは、別れ際に聞いた中島の声が、脳裏に焼きついて消えない。

「ブリュネ殿、有り難きお言葉なれど、構造の良し悪しなど、我には解らぬ。
また、それは、もはや重要ではないのだ。
為すべきを為すに必する事のみ、今ひたすら行っているだけなのだから・・・」



頑固者の古武士に、天の祝福を

フランス士官達の中には、食事の前だけは
「天にいまします我らの神よ、今日の日の糧を・・・」
小声で感謝の祈りを捧げている者もいる。

対して、ブリュネは不思議と、皆の見てる前で、日本人に
言わせると、あの「アーメン」の格好を見せたことはない。

無論、ブリュネ自身も、幾多の上司への手紙の内、誓いの精神
の強さを語る意味合いで、「十字架に誓って」の表現は使った
ことがある。しかし、あくまでその程度しか、皆には見せない。



即ち、ブリュネは、本来の信仰心はもちろんあるが、如何なる場合に於いても、軍事を「祈り」に
代入することは、けっしてないのだ。憎まれようが、味方に敵を産もうが、意見は曲げない。
頑固者は、お互い様だ。

その彼が祈る時とは、唯一、死者の弔いの時だけだった。

しかし、この時彼は確固たる軍人特有の敬礼をした。・・・そして、暫しの沈黙。

やがて姿勢を正したブリュネは青い目で、中島の落ち窪んだ目をじっとを見つめるなり、
敬礼の為に揚げた手とは反対側の手を胸に当て、振り下ろすはずの手は、そのまま
小さく十字を切ったかに見えた。初に特有のポーズを見せたのだった。


揺らめく大気の陰

またしても、箱館の突風が、
木々を激しく揺らしたかと思うやいなや、
不思議な『光の影』を褐色の大地に映し出していた。

強い日差しを浴びて暖められた大気と、冷たい蝦夷の空気が
一気に入り乱れて、ほんの一瞬ながら、
揺らめく大気の影が見える。

それは、言うなれば、純度の高い洋酒が入ったグラスの中、
氷が溶け出す時に見られるシュリーレン現象のごとく。

目に見えぬはずの大気が、ほんの一瞬、影を見せた。



一方、中島もまた、黙って、もう一人の頑固者を見送った。
通詞を連れ、足早に立ち去った赤毛の大男。彼の後姿。

青い、青い目が、なぜか一瞬、
揺らめいたかに映ったのは何故だろうか。

己なのか、彼なのか。

桜散る。桜散る。
・・青い目の桜、桜散る。

ブリュネ、撤退の時


いつものように困惑顔の田島金太郎。戦況の低迷が原因ではない。
いつも、この顔なのだ。ブリュネは突如、手を小招いて、すぐ近くに来いと呼び寄せた。

「ジッタロー、いいね。ジッタロー。」

そして、穴が空く程、見つめて、こう言った。

「ジッタロー。お前は、可愛い。とても可愛い。
本当なんだ。嘘じゃない。」

たちまち、田島の頬は真っ赤に染まり、もともと下膨れの顔は、ぱんぱんに膨らんだ。
『可愛い』という言語は、この年代の少年にとって禁句だ。
悔しい時こそ、この子は、口であっさり交わす。

「おっしゃって下さいませ。私が、何か、拙い失敗でも致しましたでしょうか?
おっしゃって下さいませんと、解りませぬ。」


ブリュネは、必死で衝動を堪えた。
もはや、別れの時。本当は、抱きしめてやりたい。
あの頃、着物を真っ二つに折り畳んで着ていた小さな少年。
ほんのニ、三年のことだというのに、丁度成長期にあったため、
子供が大人の形に化けただけのこと。

・・・が、しかし、耐えた。涙も堪えきった。己は軍人だ。そして言った。

「ジッタロー。お前は、間違えてはいけない。
HARAKIRIは私が許さない。殉死も、断じて許さない。
私よりも先に死ぬはならぬ!約束だ!」


そして、さらに言葉を繋ぐと、重要な伝達事を欠かさず伝えた。
イギリス艦に手配を為してある。複雑な伝を使った。運命に抗うことなく、あたかも
押し流されるがごとく、私の指示に素直に従って、必ず実行するように・・・。必ずだ!命令だ!

かくして、ブリュネは、明治2年5月1日、
終焉真近の榎本軍を離脱。
沖の自国艦コエトローエン号に、消え去った。


そして、言行一致の中島三郎助。
明治2年5月16日、箱館戦争に於ける最期の戦闘、
千代台にて、壮烈終焉、烈死を遂げた。


壮絶終焉,中島三郎之助親子_木鶏のほととぎす

青い桜の散る時に


明治2年5月1日。ブリュネは、自国艦コエトローエン号に逃げ込んだ。
榎本軍に於ける運命の日、五稜郭落城は、明治2年5月18日。運命は、上記のとおり、
それより先に、友、榎本武揚と別れの時を招く。

恐れたとおりの展開になっている。下士官達の動向が不安だ。
マルラン、フォルタンが呼びかけに応ずることなく、日本の侍と共に居る。
異国の英雄達の為に、生死を共にする気になってしまったのだろう。

奥州戦以来、結局ずっと同じ釜の飯を食って、共に戦い続け、
勝利を共に分かち合って喜び、勇戦した兵士達の死を心から悼んで、共に涙する。


噂に聞き知った。弁天台場から、なんと!ラ・マルセイエーズの歌声が聞こえたという。
恐らく、マルランかフォルタンの仕業だろう。

弁天台場は、食料どころか、水も枯渇。駿馬、名馬が皆、水が原因で呻き飢え斃れ逝く。
人は、愛馬のあまりにも悲痛な姿を見て耐え、そして、やむなく、その愛馬を屠り、糧と為す。
最悪の事態に追い込まれている。

飢えと絶望の境地の中で、最期の力を振り絞って、ラ・マルセイエーズ。
俄仕込みで、教えたところで、日本人は、誰もまともに歌えはしまい。
声の主は、大方、本人達なのだろう。喉を枯らして、必死で涙ながらに、教え子達と英雄の為に・・・。

いざ子らよ、栄光の日は来た! 武器を取れ、隊伍を整えよ! 進もう!
・・・裏切り者と陰謀 ・・・我らを導きたまえ! 自由よ!愛しき自由よ!
・・・勝利の女神が 君の勇ましい歌声に駆けつけんことを、・・・
君の勝利と我らの栄光を見んことを! ・・・


ブリュネは、彼らの姿を想像しただけで、
胸が張り裂けそうだ。!!


たとえ、榎本武揚を置き去りにしたブリュネとて、鬼でもなければ、悪魔でもない。
しかし、軍人として常に己を糺さねばならぬ総司令官の立場。
さりとて、同じ赤い血が流れる人である以上、下士官達の心情とて、痛い程に解る。


だが、今は、一刻一秒を争う。
カズヌーブは、傷が癒えず、
熱に魘されている!!


己の強制送還。裁判。刑死。今となっては、
それらの全てを運命として、天に捧げてもいい。


忠実なる部下達よ!
天よ、せめて、彼らの命を救い給え!


悪夢と女神

フォルタン、マルランは土壇場迄日本人と動向を共に。
ブリュネは撤収に骨を折ったが、なんとか収容。


運命の女神は、ブリュネを見捨てはしなかった。

彼の人生は、その後、罪に問われることなく、軍に復帰、栄誉の人生。
豊かで家族の愛に恵まれ、安定した晩年に至る。

むしろ、裁判にかけられるべく到着した祖国の大反響に震えたほどだった。
正義の為に、異国の英雄達と共に戦った男、ブリュネは歓喜した人々の群れに絶句した。
罪は許された。ナポレオン三世は、彼の勇気を讃えた。


しかし、人である以上、幾度も夢に魘されたのは否定できない。

されど、彼は、一度たりとも『愛』に裏切られることはなかった。

彼が脱走前にナポレオン三世に送った手紙。国民は皆、彼の勇気を賛美。
フランス人に内存するガリア魂が、人々の心を打った。
しかし、最大の原因は、それではない。キーマンはシャノワンヌ。

脱走前、シャノワンヌ宛てに書いたブリュネの手紙は、悲壮なる遺言状にも近い。
しかし、その中に、概略、こんな意味合いの文章もあった。

「もし時に利なければ私は敗北するでしょう。しかし、あなたはきっと頑張って下さるの
でしょうね。前もって厚く御礼申し上げます。従順なる部下ブリュネ。」


シャノワンヌは、
けっして、ブリュネを見捨てなかったのだ。
・・・・
女神は、微笑んだ。


枕元の家宝、タイクーンの国の刀
昇天の時


ブリュネの家の家宝:「日本のタイクーンから貰った刀三本セット」

ブリュネは、72歳まで生きた。波乱万丈の人生ではあったが、1911年(明治44)まで存命した。
タイクーンの国の刀とは、ブリュネ家の家宝であり、そのうち、一振は、明らかに
将軍、徳川慶喜から授かったものだった。彼は、こよなくこの「タイクーンの国」を愛して
いたことの証として、彼の描いた絵が今も残されている。

彼は愛に恵まれた男だったといえる。シャノワンヌを始め、誰一人、
彼を裏切る者はなかった。心残りの友は、幸い明治の世、出仕。
なんといっても、もはや絶望と思わざるをえなかった榎本武揚本人さえ、出仕活躍なのだ。
心の罪は濯がれた。医師の高松凌雲にも、榎本の義弟、林董も恨むどころか、フランスを訪れ、
再会を祝して、熱い握手を交わした。いわゆるラッキーといった軽薄なものではないが、
詰めるなれば、やはり恵まれている・・・。天から恵みを授かったとでもいうべきか。

そして、ジッタローも裏切らなかった。あの時の約束。
「私よりも、先に死んではならない。」田島金太郎こと、後の応親は、
あの時の究極時に限らず、実質永遠に約束を守ったことになる。ブリュネよりも、ずっと生きた。
田島は、昭和9年まで生きた。


明治44年(1911年8月12日)、ブリュネは、パリ近郊に所在する彼の自宅、
家族に看取られて、ついに、息を引き取った。美しいヴァンセンヌ城がすぐそこにある。
72歳。大往生といえるだろう。

臨終に至る際も、枕元には、大切な宝物、「タイクーンの国の刀」が飾られていた。




桜が散った。ついに散った。

あの日、青い目に揺れた桜。
幻のタイクーンの国に咲いた美しいあの桜・・・。

「泣けた桜」も、「泣かした桜」も、
皆、ついに散り果てた。

Jules Brunet & Nakajima

青い目が「泣けた桜」と「泣かした桜」: ブリュネ 中島三郎助 SERIES
No.1 No.2 No.3 (現在頁)
■関連と補足、■解説頁などリンク集

中島家は、如何に幕臣といえど、先祖代々ご安泰の世襲族ではなかった。徳川報恩の精神は猛烈に強い。
実は先祖の代で、一度痛い目にあった家系だ。

元は歴代、越前加賀藩主_前田家の家臣。中島五郎八の代で急死、この代で、家督相続間に合わず、
お家断絶。子の定房は浪人となる苦渋を嘗めた。
浪人から、身を起こし、実力&能力で下田奉行に採用された。
一介の浪人にひとたび身を落とした者が幕臣となったのだ。

但し、これが仮に幕末混乱末期であれば、さほど珍しくは無い。能力主義の急旋風。
しかし、中島定房が幕臣として抱えられたのは、1669年。1600年代にこの事象は、まさに奇跡に等しい。
まさに徳川報恩が家訓。中島三郎助は、幕臣としての中島家としては八代目になる。
もう少し詳しく1 中島の訳、中島家のルーツ (家訓と、先祖の代に発生した悲劇)、
中島にとっての「心の英雄感」 中島三郎助SERIES&資料編

(中島三郎助の狂歌)

君がため我もえぞ地に行くぞかし
にしんといわば恨なりけり

当の将軍慶喜が屈しても、中島本人に於ける徳川自体への報恩精神は不滅。

「にしん」って何?:慶喜がコロコロ姿勢を変える習性から、影では 「二心殿」 といわれていた。
どうやら松平春嶽が頭にきて、密かにネーミングしたらしい。密かがなぜか世に伝わった!!。



結果からゆくと、ブリュネは許された。いかに、実は個人的な発想によるフランス軍脱走ではなく、
上層部からのなんらかの司令に基づいたものであったにせよ、軍規違反に他ならない以上、
突如、トカゲの尻尾にならぬ保証など、どこにもない。極めて危険な橋渡りだった。

榎本軍に於ける運命の日、五稜郭落城は、明治2年5月18日。
しかし、ブリュネは上記のとおり、それ以前の5/1に、箱館港に停泊する自国艦コエトローエン号に
避難。フランスに強制送還され、裁判にという段取りでしたが、現代の言葉に置き換えるなれば、
一種のマスコミパワー。大反響。大歓迎の騒ぎで迎え入れられました。

原因は、彼が脱走前にナポレオン三世に送った手紙。皇帝が勇気を賛じて、極めて寛大な措置を許し、
また、国民は皆、彼の勇気を賛美。帰国後、形式的な謹慎のような期間はありますが、
実際は罪になされていません。
No.1 にも記載しましたが、脱走した日から事前に小休暇を申請してあり、榎本軍に加担したのは、
休暇中のできごとだった・・・という体裁を周囲が整えてくれたわけです。理屈といえば理屈に
すぎないのですが、救済応援する側にとっても、なんら、そのお材料がなければ、救いたくても
救えません。こうした段取りは、やはりシャノワンヌ。罷免という形になってしまったロッシュは、
シャノワンヌにとって、かつての上司であり、総司令塔はロッシュですが、本人は、健在といえど、
この一件に関しては、身動きできません。しかも、かつての上司といえど、今は後退した人物。
一般的には、誰しも身の安全を図るには、寄らば大樹の陰。しかし、シャノワンヌは転身しなかった
ことになります。いわば連携プレイ。

皇帝が特例的に許したからと言って、人々はなんら不満を訴えるどころか、寧ろそれを望みました。


ブリュネ本人よりも、実質的に、他士官達の結末が哀れといえます。
サイゴンに送り込まれた後、数名は日本に復帰、明治の世暫し活動しますが、なんと、
再び、自国の土を踏むことなく、日本に埋もれてしまった士官も居ます。(詳細略:次回別seriesで)

ブリュネは軍に復帰の上、かなり出世。波乱万丈の生涯にはかわりありませんが、家族に囲まれ、
豊かな暮らしに恵まれます。生きている間に、可愛いジッタローこと、田島金太郎が、
田島応親と改名の上、フランス在住した期間もあれば、医師の高松凌雲や、林董(※▼)などにも
再会することができたのです。また、明治天皇から勲章を貰ったりしています。
もちろん、動いたのは、榎本武揚。

※林董:榎本武揚の義弟、英語堪能
:この人物は一度自尽を覚悟。今井信郎に己の首を斬ってくれと依頼した。
しかし明治を生きた。関連: 斬首の依頼
■ブリュネは、外国語が堪能で、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、唐語、日本語、全部ok。
英語も話せますが、実は他に比べるとやや劣ります。そこで、留学帰りそのまま榎本艦隊突入
した林董には、五稜郭時代、かなり世話になっています。

ここで、ひとつ、つくづく宿命を感じます。ブリュネが罪に問われずに済んだのは、
マスコミパワーもありますし、フランス人に内存するガリア魂に他ならないのですが、
裏で猛烈に頑張ったのは、上記のとおりシャノワンヌ。 前頁のブリュネ大脱走舞踏会の時
書き残された手紙。ナポレオン宛ての手紙も感動のヒトコマですが、シャノワンヌ宛ての手紙は、
悲壮なる遺言状にも近い。しかし、その中に、概略、こんな意味合いの文章もあります。

「もし時に利なければ私は敗北するでしょう。しかし、あなたはきっと頑張って下さるの
でしょうね。前もって厚く御礼申し上げます。従順なる部下ブリュネ。」

徳川報恩で命を捨てた日本の侍達にも泣けますが、この時代、軍人とは、異国に於いても
同じように、哀れなほどに従順。しかし、シャノワンヌは、けっして見捨てなかった。

もともと、ブリュネとカズヌーブの脱走は、もう少し早い時期に設定されていましたが、
なんと、シャノワンヌが突然のなにやら出張。その間、ブリュネが代理お留守番。
苛々ハラハラだったことでしょうが、この出張自体、表向きの理由とは裏腹、実は蝦夷視察
ではないかとも言われています。ブリュネがシャノワンヌに忠実であるのと同様、シャノワンヌも、
必死。罷免されて6月には帰国に至ったロッシュの意向を汲んだ部下。


ブリュネの家の家宝:「日本のタイクーンから貰った刀三本セット」

ブリュネの家には、家宝として、「日本の刀三本セット」があります。
生前ブリュネはとても大切にしていて、臨終の際にも、枕元にあったそうです。
幾つも世代が移行しているわけですから、ご子孫には漠然と「日本のタイクーン(将軍徳川慶喜)
に貰った刀」という程度しか伝わっていなかったのですが、後の世、日本の研究者が訪問して、
刀を鑑定しました。その結果、一番小さい刀が、どうやら、本当に将軍徳川慶喜から貰ったもの
ではないかと思われる極めて高貴なもの。二番目は、なかなか面白いのですが、なりゆき上、
そうであってはマズいながら▼・・・どうも松前の刀ではないか?という結論。
(この「ブリュネ家の刀三本セット」についての話は、▼こちらリンク先へどうぞ。
・・・ (松前の刀とブリュネ家の刀のミステリー)

しかし、残る一本、一番長いモノは、残念安物。ところが実践に使える刀であることから、
もしかすると、教え子の田島金太郎の贈り物ではないか?といったロマンが残されています。

なんの確証も得られませんが、その実、攘夷風が吹き荒れ、異人斬りが横行する中、
当時まだ身長が人並みに至らぬ小さな少年、田島金太郎が、先生であるブリュネを本気で心配
していたわけですから、是非、このロマンが真実であってくれれば嬉しいものです。


ブリュネは、1911年(明治44)まで存命。享年72歳。
1911年8月12日、彼はパリ近郊にある自宅にて永眠。




  1. 千代台砲台の欠点を詰めたブリュネと中島三郎助とのトラブルについて
    • 田島応親の回顧談_(ブリュネと中島三郎助について)
      彼特有のやんわりとした口調ながら、ついに語った。
      「いえね、よくそう言われるんですがね・・・ブリュネと、中島さんは、
      別に、喧嘩調子になったわけじゃないんですよ。・・・むしろ、尊重されておられました。」

  2. 田島金太郎の脱走について・ ・・降伏者名簿に名が無いのはつまりコレ。
    • これについては、彼特有!上手に場をスベらせて、肝心の所旨くはぐらかしているような
      ニュアンスもありますが、だいたい解ります。やはり、イギリス船で脱走。
      概略:「いえ、私は、寸前まで五稜郭におりました。ただ、私のような者がおりましても、
      なんらお役にはたてませんですし・・・イギリス船に乗りました。」

  3. 田島金太郎の兵部省正式出仕前の小騒ぎ
    • 語学が堪能の上、砲術知識も積んでいる田島は、謹慎や抑留無しのまま、闇雲に、早々
      明治の世、抱えられて、若いながらも、教鞭を振るう立場。ところが、本名のままである
      ことから、或る日、やはり騒ぎになった。罰せられるのだろうと諦めた。
      ところが救われた。「もう・・・良い。と言われたんです。こちらも、そうだと知らずに
      使ってしまったという事になるから、その事はいいから、もう良い。と言われたのです。」
      ・・・なんだか、ふんにゃりとした話ですが、つまるところ、彼の知識を明治の世、猛烈に
      必要だったというところでしょうか。この後、周囲が態勢を繕い補正、正式に活発に活動。

      ■田島金太郎の箱館戦争中については、 現在SERIESのTOP から延々登場してます。

  4. 他にもブリュネの教え子の謎:細谷安太郎について
    • こちらにも写真の話 :(コレ、話だけ。写真添付してません。)
      s1.gif8=田島金太郎,5=細谷安太郎:足組んで不敵な笑みを浮かべています。
      (いつか何かの本でご覧いただけると思います。)この人物は、
      砲術に頭角発揮。自信が満ち溢れているような表情。
      細谷安太郎については、資料によっては死亡、また別の資料では、
      類似名人物が死亡。ところが、本人は生存。確かに死んだと言われる程の
      大怪我をした。しかし、いつの間にか榎本軍団から居なくなっている。
      上記、田島氏のように後に本人が語ったのではないのですが、
      研究者達の調査で生存。となると、やはり、ブリュネの配慮、可能性大。大怪我の際、
      一足早く、コエトローエン号に収容されたか。

  5. トリユーヴ(トリボー)について
    • 一般に途中で脱走蒸発とされるものも多いが、横浜の病院に入院した人物と同一の可能性
      有。他士官がサイゴンに追放される段階で、重症のカズヌーブは完治するまでここに。
      その時、同じく重症にて入院していた様子。となると、上記、細谷安太郎同様に、特別措置
      で、取り急ぎ収容されたのではなかろうか。一生懸命闘って怪我をした人物が、蒸発扱い
      では可愛そう。調べたいが、情報皆無に等しいまま、その後進展を存じません。


関連:【榎本軍終焉のコマ】
:大抵のSERIESでは、流れを物語風プラス解説行型の本文の他、資料頁が対になっています。
終焉スポットしたSERIESを、ほぼ順番に▼
  1. 中島三郎助と蝦夷桜 (不穏な年明から急旋回の三月。宮古湾海戦迄)
  2. 箱館総攻撃 :土方歳三を失った瞬間、榎本軍実質上の崩壊。
  3. 高松凌雲院長が仲介となり、和平交渉: 諏訪常吉の置手紙:幕末のオーバーザレインボー
  4. 壮絶終焉,中島三郎助親子_木鶏のほととぎす
    「此の地、我墳墓也。」
    五稜郭の面々は既に全員降伏した後、徳川の殿(しんがり):中島隊他の散華。
    死を必須と知りつつ、討って果てた。
  5. 嵐吹く夕べの五部咲き桜と蕾桜,中島隊の少年達
    中島三郎助と運命を共に散華した者の内、彼の息子と、浦賀同心の年少少年にスポット
  6. 浦賀同心、柴田伸介。咲けよ夢花、天に咲け
    中島隊全壊の後、たった一人で終わったはずの戦闘を再開して自尽して果てた男。
    中島が徳川報恩なれば、彼は、中島報恩。
生きて懊悩、明治に苦した賊達の明治を語る各種SERIES、
「きな臭い!戦犯処理」、各藩の首犠牲(家老達の処刑、犠牲切腹)などにスポットした特集の他、
会津の乙女達の戦闘と、各種有ります。
詳しくは、2048.gif 幕末WITH_LOVE総合玄関 ・・からどうぞ。



■上記、幕末WITH_LOVE総合玄関から、幕末維新から一歩離れた角度で見た、
明治以降、次世代に緒を引いた戊辰の陰、 『賊側家系の宿命』 などについてもご覧頂けます。

大抵のSERIESでは、流れを物語風プラス解説行型の本文の他、資料頁が対になっています。
但し、偉そうに歴史解説をしているではなく、心系のつもりです。
親子愛の事、兄弟愛、師弟愛、少年の事・・・等の角度にスポットして、いつも見ています。
そこに執着して調べると、比較的評判の良からぬ人物に以外な面も発見できたり、時に、
共感したりもしています。


大抵、敗者側の角度で書いている為、官軍さんから見れば、「えっ、そこまで惨い事してないぞ!」
なんて場面もあるかもしれませんが、東軍側から見れば、実際は、もっと惨かった・・・なわけで、
それに関して、詳細をどうのこうの詰めるつもりはありません。その時代に生きてたわけではあるまいし、
現代人である以上、真実を目で見たわけではありません。同じ事象が、東軍資料なのか、西なのかで
異なるのは仕方ないこと。

ただ、老齢に到達した高松凌雲先生が、ぽろっと語っています。
「こんな事があった事、若い人にも知って欲しい。」


ブリュネの描いた絵に感服! (青い目の衝撃_ミカドとタイクーン)
  • ブリュネの絵は実に素晴らしい。この時代、西洋の学識豊かな人物の多くは、皆絵が上手いが、
    ブリュネの絵は、また一味違う。
    上記文章内の■「背が小さかった頃のジッタロー(田島金太郎)」の絵の他、
    ■タイクーン慶喜の絵・・・ 神秘のJAPANとタイクーン。
    ■薩摩邸焼き討ち計画イメージ見取り図=スケッチ
    ▲「絶対に勝てる!の構図」・・人を行動に踏み切らせるツボを心得た絵
    どこからともなく、彼の熱弁が、聞こえてきそうな錯覚に陥る。

    などについて記載した頁です。

SERIES_ No.1 No.2 No.3 (現在頁)
幕末玄関 <SERIES_ No.1 No.2 No.3 (現在頁)
文章解説(c)by rankten_@piyo
イラスト写真については頁最下欄
楽天市場ホットスクープ
li3.gif
薫風館 :和風イラスト(写真除く)


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: