幕軍&松前えとせとら13,箱館戦争

箱館戦争,幕軍、松前えとせとらNo.13,資料編,幕末明治,各人物補足頁,各特集頁登場人物のリンク補足集,

幕軍&松前えとせとら
幕軍&松前えとせとらSERIESの目次
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幕末戊辰の人々、その後エピソード,会津中心編

「幕軍&松前えとせとら」は、色んな長編に対する補足&資料寄せ集め型。軽い系もあれば、小難しい
資料系も混在。一気に読もうとするとしんどいかもしれませんが色々。
◆関連:■ 幕末_WITH_LOVE玄関 、■ 人物名から追う 、■ 巨匠達悲劇と懊悩 :幕末関係無の「不遇のアーティスト、偉人」
幕末昂じてはひふへほ! (明治以降さらに引き摺った暗い戊辰の影:生き残りと次世代)

幕末戊辰の人々、その後,みんなのエピソード,ショートMEMO

  1. 野口富蔵成光(会津)
    • 富蔵本人とアーネスト・
      サトウの絡み
    • ■No.26_野口富蔵)、
      ■No.27_野口九郎太夫
      双方に係るミステリー
  2. 野口九郎太夫成元(会津)
  3. 山川浩関連各SERIESナビ(会津)
  4. 山川唐衣(会津:山川浩母)
  5. 鈴木新吾(会津)

<考察材料断片MEMO>
  1. 出身地不明の会津絡み人物の
    関連地考察
  2. 会津近郊に限らず、幕府内全体
    の天領推移から、出所不明の者
    を考察する為のMEMO
  3. 斗南藩と、旧会津藩士の
    出仕に至るMEMO
  4. 自刃または降伏後早々の死亡
    老人と現役世代絡みMEMO
  5. 会津九家
  6. 会津の「諸生隊」について
    多少MEMO
    ・1_諸生隊→後「第二遊撃隊」
    ・2_「遊撃隊」
幕末_WITH_LOVE玄関

現在頁はちょこんとヒトコマ集結編:
▼どっさり大勢のリンクはこちら
人物名から追う

■現在頁は、各特集(長編)の
補足解説用内容の集合体につき、
五十音順ではありません。
詳しくは、各リンク先ご参照。
■No.26_野口富蔵(成光)
:会津藩士【1842~1883(明治16)/04/11】_享年42歳。
(野口富蔵(成光)は、下枠の「■No.27_野口九郎太夫」の弟)

■19歳時(約1861年):箱館英国領事館で、イギリス領事
ヴァイスに英語を学ぶ。
  • 当時会津は江戸の警備担当藩のひとつ。その為、会津藩士の
    倅達は、箱館就学は比較的容易だった。
    1858年に日英通商条約。その後、箱館にイギリス領事館が
    開設されている。
■23歳時(1865年(慶応元年の秋))
英国公使館書記アーネスト・サトウに、
使用人兼用心棒として雇われ、同居開始。
  • 然るにこの人物は、会津藩士でありながら、上記経緯から、
    戊辰の会津戦争時、官軍を敵に回して戦った皆の群れに合流して
    いない。アーネスト・サトウの側に居る異色の存在。
  • 会津降伏後は、水面下で嘆願活動の助力。

■27歳時(1869年(明治2年)):アーネスト・サトウと共に渡英。
この時、ロンドンの学校で西郷従道と会い、日本政府留学生となる。3年間機織業他就学。
イギリスでの学費も当初、アーネスト・サトウが負担していた。 日本政府留学生と認定された後費用は
恐らく日本負担と思われるが。
■31歳時(1873年(明治6年)):帰国。
■内務省出仕、引き続き、陸軍省、工部省在勤中、京都府在住期間が長い。 京都西陣織を指導。
■兵庫県庁に出仕後、明治16年に死亡。 享年42歳。(墓:神戸市営追谷墓園)
■サトウは、野口の死後も、その妻に永らく仕送りを続けた。恩給的な発想だろう。


アーネスト・サトウによる「野口富蔵」に係るコメント :「一外交官の見た明治維新」
  • 「正直で、誠実」。「私にとっての家族といえば、まずは、第一に、用心棒の「野口」君だろう。」
  • 1867(慶応3)年、最後の日光例幣使の一行が暴徒化。この時、サトウは旅行の行程。掛川宿泊。
    江戸に帰る行程の宿だった。乱入した暴徒を追い払った野口の勇戦ぶりに、サトウは感服。
    野口は、床から飛び起き、即座に右手に刀、左手に拳銃。忠義に徹して犠牲的かつ勇敢だった。
アーネスト・サトウが「野口富蔵」を絶賛&応援した訳
  • 1867(慶応3)年、暴徒(=日光例幣使一行の者)乱入事件に至る迄
    • 1862(文久2年):アーネスト・サトウ来日。実に物騒な時期。因みにこの年は、 生麦事件 発生。
      イギリス人を、薩摩藩士が殺傷。無論、サトウは緊張警戒の日々。
    • 箱館英国領事館で、イギリス領事ヴァイスに英語を学んでいた「野口富蔵」は、
      アーネスト・サトウの秘書兼用心棒として専属となる。
    • 1867(慶応3)年、暴徒乱入事件発生。
      この時、アーネスト・サトウは旅の途中。江戸に帰る途中行程で、この日は掛川に宿泊。
      宿に、暴徒乱入。目的は、この当時外国人なれば誰しも恐れた典型的異人斬りの為。
      大扉を何者かが打ち破る異常音が聞こえた。この時、「野口富蔵」は、布団から飛び起き、
      実に勇敢。捨て身の用心棒発揮。結果として、暴徒は逃げ去った。
      上記の「右手に刀、左手に拳銃」の描写は、サトウ本人が書き残した。

戊辰の裁きと、野口富蔵(成光)の水面下の活躍考察
<■No.26_野口富蔵(成光)、■No.27_野口九郎太夫双方に係るミステリー>


梶原平馬とアーネスト・サトウの接点
・・発端&仲介は「野口富蔵(成光)」。アーネスト・サトウの認識は、野口は自分の使用人であり、用心棒。
しかし、実質、専属通訳でもある。( 梶原平馬:目次

兄の存命に係るミステリー部分
  • 兄の「野口九郎太夫(成元)」が無事生きて斗南に移住している経緯に
    なんらかの絡みは無いだろうか?
  • 会津降伏後、梶原平馬の周囲人物は、密かに藩主助命嘆願の動きを諮る。詳しくは 真下の図 から。
    この時、実は、下の図に見える表人物の他、別途、小池帯刀と野口九郎太夫も謹慎所脱走したとされる。
    但し、張本人は、その旨語らない。
  • 小池帯刀は捕縛されて、斬首されてしまった。その一方で、野口九郎太夫のそれに係る軌跡は
    一切不明だが、結果として、幸い斗南群団に存在しており、明治を生きる。
官軍に勝利を齎した実質英国の力。英国人のアーネスト・サトウ。
アーネスト・サトウを攘夷主義者の天誅から、命掛けで救った野口富蔵(成光)。その兄が野口九郎太夫。

この一件はあくまでミステリー。本人達は一切語らず、詳細不明。
しかしながら、戊辰の裁きでは、官軍側の人物に対して、かつて恩師であった者など、なんらかの
縁があった者達の一部が、密かに助命され、救われている例は、幾つも存在している。
尚、明治以降、改名する者は多いが、野口九郎太夫(成元)も、明治には、鉄彦で通す。

<会津藩主助命嘆願:謹慎中脱走部隊の構図>
・・・別途、小池帯刀と野口九郎太夫も謹慎所脱走したとされる。

謹慎中脱走部隊の構図

■No.27_野口九郎太夫(成元)=(明治の鉄彦)
:会津藩士【天保10(1839)年~明治42(1909)年12月21日】_享年70歳。
(野口九郎太夫(成元)は、上枠の「■No.26_野口富蔵(成光)」の兄)


■野口九郎太夫成元(300石):会津藩士。
(野口九郎太夫 は歴代。幕末から明治の人物は野口九郎太夫(成元)。九郎太夫の八代目。)
■幼名:鉄彦。明治の名前は「鉄彦」。
  • <親族、兄弟>
    ■野口富蔵(上枠の「■No.26_野口富蔵(成光)」ご参照)は弟。
    ■野口四郎三郎(白河戦にて慶応4/5/1死亡 :青龍士中一番隊 )は伯父 。
    ■野口留三郎 (江戸の上野にて彰義隊に参加、慶応4/ 5/15 死亡)も弟。
■1864(元治元)年時:禁門の変時:砲術掛で活躍。組頭。
■1868(慶応4)年時:江戸でフランス式調練を受ける。小隊頭。
■1868(慶応4)年:越後長岡方面での戦闘時
:5月越後長岡、新発田参戦時に、負傷した為、治療の為城に入り、籠城組。軍事奉行副役。
■会津降伏時、開城儀式の委員を務めた者の一人。
■皆と共に斗南へ移住。
■1870(明治3)年時:斗南藩大属官。
当初より、牧畜業の発展に志した廣澤安任率いるチームの中、北村要等と共に、本木、五戸、三戸方面にて、
  牛の買い付作業にも着手。

■1871(明治4)年時:この年発布された廃藩置県。さらにそれを経て、最終青森県となった後、
青森県職員として、採用された者一覧の中、彼の名も存在している。
■墓:妙光寺(東京都品川区大崎)
  • 上枠の 戊辰の裁きと、野口富蔵(成光)の水面下の活躍考察 をご参照。
    • これは、本人の履歴に係る情報から、拾えない内容ながら、補足。
      会津藩士は、猪苗代謹慎中、藩主助命嘆願の為に、内密活動を開始。それらの軌跡の中、
      密かに脱走した者の一人として、野口九郎太夫成元の名も存在する。
      不思議と本人は語っていない。その為、この行動に関する詳細は不明ながら参考迄に。
      彼も、密かに救われた者達の一人ではなかろうかと思われる。


山川浩に関しては沢山あるのでこちらからもご覧下さい。◆ 幕末_WITH_LOVE玄関 、◆ 人物名から追跡
・・・ 人物名から追跡 頁では、二葉、操、捨松、健次郎、山川戈登、山川徳治など家族からも別のSERIES有り。

■真下枠:No.29_「山川唐衣」は、山川浩の母


■「山川唐衣」は、真上枠:No.28_山川浩の母。
  • 人物像は、上記の山川浩各シリーズにも各種。
  • 唐衣は、夫をなくしている為、女の細腕で男勝。
    かなり気丈な女性。下の倅、健次郎に言わせると、我が子とて悪は徹底的に容赦しないタイプ。
    彼女が持つ懐刀は、女性がよく持っている綺麗なタイプでなく、実用一点張りタイプだったという。
    女性の懐刀とは、緊急時に敵を倒す為も、まあ、あるが、最大の目的は自刃。生き恥曝すまい。死に損なって
    たまるものか!・・・彼女の思想を、その刀が象徴していたという。

    梶原平馬と二葉篭城秘話:人形が紐解く

  • 彼女は会津西郷の娘。西郷十郎右衛門近登之の長女。長男の浩は、浩の祖父「重英」が育てた期間が
    長い為、長男でありながら、思想的には、各所相違う。会津落城後の身のふりについても、対薩摩姿勢が
    異なることから、明治10年の西南の役に際して、浩が征伐軍に向うことも、捨松の婚姻も、浩と随分
    異なる姿勢を示す。長女の二葉のほうが、唐衣の意向に模範生の子。
    (関連: 梶原平馬根室の妻とその倅 これ長いですが、皆の経緯と心情

  • ところが可笑しいことに、考え方は時に衝突するわりには、浩の性格は非常に母に似ている。
    曲がった事は大嫌い。絶対許さない。かなりキツい。我が子にも厳しい。真上のリンク先にも
    表記ありますが、そのひとつの逸話として、長女の掟の話。篭城中、ある日、唐衣は、長女の二葉に、こう言った。
    「もしも照姫様が自刃なされたら皆お従いするのですよ。幼い二人、常盤と操は自力は不可能なので、
    一人は私が命を断つから、もう一人は貴女が殺してやりなさい。いやも不憫も哀れも許しません。
    失敗も許しません!長女の掟です。」

  • ここに、もうひとつ、彼女のエピソード。城敗れて、女達だけ解放される時のこと。

    長い篭城の後にて、女性は皆、身なりもぼろぼろ。傷兵の介護で、その血膿に汚れた着物、足袋はぼろぼろ。
    裸足の者さえ居る。長い髪は順次皆切り捨てた為、断髪も多い。その姿で、敵兵が通路の両際に立ち、
    監視されながら、女達は、うな垂れて、城門を出て行く。その時、敵兵が、その姿を嘲笑った。

    「所天を失いし女寡婦(やもめと読む)の不憫さよのう~っ!!」

    これは、不憫の言語を用いつつ、完全に馬鹿にして、嘲笑っているのだった。主に女の断髪姿を、
    浅ましい事と、罵っている。会津戦争突入以前から未亡人の唐衣本人は、勝聖院と名乗り、剃髪して
    いるから、本人は無関係。しかし、許せなかった。咽び泣くを堪える者、今にも懐刀を抜きかかった者
    といった具合で・・皆の怒りは半端ではない。
    唐衣は、皆の思いを、一人担って、その場で、罵った男に、負けずに強烈罵声を浴びせる。

    「おなごの黒髪は、伊達には切らぬ!これぞ尊い志じゃ。
    思い知るがよい。賊を征伐するが為の証というものじゃ。
    この尊い志、 そこらの賊共に 、何が解るものか!」

    斬り殺されずに済んだことから考えると、結果は、つまり負け犬の遠吠扱いなのだろうが、
    己は斬り殺される覚悟で吐き捨てたあたり、かなりのツワモノ。
    会津では、官軍を官軍なんて、絶対呼ばない。彼らは、明治を苦渋の「賊!賊!呼ばわり」で耐えるが、
    この時、彼らは現代の我々にとっての官軍を称して、「賊!」と呼んでいた。
    禄を食んで、徳川報恩を裏切るは、それこそ「賊!」だったのだ。山川唐衣は、面と向かって、
    「賊!」と吐き捨てた。



熙姫(会津松平容保の義姉)に許された藩士の話。その名は、鈴木新吾という。
実は、同姓同名が居て、勘違いされる場合もあるので、念のため、別人を真下に追記。
  • 鈴木新吾( 15石3人) 御用役女中附添:会津戦時は「照姫(=熙姫)付」
    ◆謹慎場所:高田_善導寺内長徳院
  • <▼こちらは別人:しかも会津戦争時、既に死亡済>
    鈴木新吾(7石2人)与力,年割金鞁役,新番組,死亡【白坂にて, 慶応4閏4/26,青龍寄合一番隊,享年42 歳
会津戦争の混乱、困窮、重い任命。皆、戦死以外にも可愛そうなことになっています。
本来なら善人がついに罪を犯したり、良かれと思い、藩命と異なる行動を独断、咎められたり、お金が
絡めば(私腹を肥やすではないのだが流用には他ならない)、斬捨てられたり、自刃など。
裏には、細々、変な事件もあります。そーゆーパターンは、敵に殺されるよりももっと無念の死かもしれない。
この人物も、その一人。「敵に生き恥曝さず」の観念から、彼は暗黙に重い指令を受けていたとされます。

事件は、9/14:乱心:熙姫に強制的に自刃を迫り、抜刀して追い掛け回し、取り押さえられた。

この日、官軍の砲弾攻撃は強烈。城内転落の数だけでも約2500発と伝わる。これは、篭城中の誰か、老人か?が
数えたらしい。この中で、担当責任者として、鈴木氏は、焦ったのだろう。
不幸中の幸い、「乱心!」扱いにされたものの、斬首だの刑は免れた。無事、謹慎場に入っている。

ここで、彼が命拾いした原因は、 熙姫 の人物、器。
照姫が彼を責めなかった旨は広く伝えられるが、結果として、「乱心扱い」の蓑で包んで、処罰をみごと
食い止めている点、やはり、苦労人の照姫は偉い。
照姫を斬った後は、当然、ぬけぬけと、自分だけ生きてるわけにはゆかないから、鈴木自身も自刃覚悟だった
ことだろう。それほど、重い使命感に押し潰されていた一藩士に憐憫の情。→ 熙姫、危うし!極秘事件


  • 幕末時の容保は京都守護職にて、従前の天領などが加増。数値は資料によって様々で判然としないが、
    近郊約33石。他に戊辰時、容保は京都守護職にて「南山天領5万石」他、相次ぎ加増。
    会津はこの他にも、「預り地(これも天領など)」と称して、実質は、60石超過。もっと多いと思うが。
    蝦夷にも分領有り。(この蝦夷分領地は、 内密にプロシアに売却打診軌跡 を残す。結果失敗だが。)

出所不明の人物がある。幕臣なのか、会津人なのか。幕臣ながら、会津人に婚姻有り人物等。
近隣の旧天領、代官家系などの婚姻は比較的見つかるが、なぜか密接に絡むのに解らない人物の場合

そうした人物について調べる手掛かりの地域を小MEMO。

  • ■加増された近隣の旧幕領(天領)、■相模房総「 お固め四藩 」相模警備砲隊の家系、
    ■関西方面「京都守護職の役知領」、■江戸在住家系
    ■京都に移住した家族:基本的には単身赴任型ながら、家族ごと移住家系も有る。
    その一例:依田菊子家(依田菊子は、後に水島純の妻:娘子隊の記録を残した人物: 関連頁
会津藩(幕末)
  • <陸奥国(岩代国) >
    ■河沼郡 - 181村(他に、幕府領67村を預かる)、
    ■会津郡 - 309村 大沼郡 - 57村(ほか幕府領104村を預かる)
    ■耶麻郡 - 242村(他に、幕府領68村を預かる)、■ 安積郡の内、 11村
  • <下野国 >
    ■塩谷郡の内 、6村(真岡知県事に編入)
  • <越後国 >
    ■魚沼郡の内157村(他に、幕府領79村を預かる。柏崎県に編入)、■ 三島郡の内、4村(柏崎県に編入)
    ■蒲原郡の内221村(一部を新潟県、村上県、黒川県、三日市県、新発田県、村松県に分割編入)
    ■岩船郡の内59村(村上県に編入)
  • <上記のほか:京都守護職の役知領 >
    河内国河内郡(8村)、讃良郡(13村)、茨田郡(1村)、交野郡(8村)、若江郡(6村)、
    和泉国南郡(4村)、日根郡(15村)にあり、河内国内は河内県、和泉国内は堺県に編入された。


■会津近郊及び、近郊旧天領

・・■ 戦国時代以来の旧家と旧家臣末裔による現行農民の結束

戦国時代より、興亡の繰り返し。滅んだ側が、やがて会津に召抱えられて、その旧家臣団は、身分の上で
農民に転落しているが、この場合、現行は、かつての殿様の末裔が自分達の直属領主。農民ながら、
松平の家臣の「そのまた家来意識」が残っている。会津戦争突入期に於いて、最終的に、その直属旧領主が、
彼らに「報恩の時」を呼びかけ、奮起奮戦の例が複数存在している。

  • 河原田精神隊
    16歳の倅が父が蝦夷から戻るまで自ら旧家臣末裔の農民を率いて自ら参戦。
    父も戻るなり頑張る。伝を使い、自領の農民に洋式砲術調練を施し、砲隊を結成。
    ルーツ的に、戦国時代、河原田家は興亡連続の中ながら、一国一城の殿様。
  • 沼沢家
    会津戦争時、沼沢九郎兵衛弘通(1000石)は死亡してるが、妻の道子が大格闘。
    15歳の倅を隊長に任命して、旧家臣末裔の農民に呼びかけ、一隊を組み参戦させる。
    その傍ら、大活躍の道子ながら、己は女と身である立場を徹して、他女子供家族の介錯を済ませ、
    自分も自刃。農民を戦に駆り出して死なせる責任は、自らの早期自刃にて潔く示した。

  • 他にも各家例有り。
南会津絡みの考察 :(位置:福島県の南西部:栃木県:当時の区別では下野国内)
  • 南山5万石とは:南会津と大沼郡の大半&栃木の一部
    • 会津預かりになったり、幕府の天領になったりの連続の歴史。
    • 戊辰時、 文久5年 、容保は京都守護職にて「元天領の5万石」加増。
  • 南山御蔵入地に至る変遷
    • 鎌倉時代と「鴫山城」:長沼氏の領地(長沼氏は小山氏の一族)
    • 南北朝時代&戦国時代: 伊南河原田氏・白河結城氏、会津葦名氏 らの興亡繰り返し。
    • 江戸時代:幕府直轄「 南山御蔵入地 」
    • 江戸時代末期戊辰時:上記の幕府直轄「 南山御蔵入地 」は会津が治める
  • 田島陣屋 絡み:南山一帯
    • 江戸時代:幕府直轄領、代官所が統治。
    • 江戸時代末期戊辰時:会津が治める
      会津藩士 秋月登之助(=江上太郎)の父、江上又八は、この地の代官

■2_会津近郊に限らず、 幕府内全体の天領推移から、出所不明の者を考察する為のMEMO

【1】_関西近郊の臭い有りつつ、出所不明&藩不明の人物考察
・・▼出向型幕臣かもしれない!のパターン

大阪、京都、奈良、兵庫周辺考察POINT :戊辰時は敵と味方が入り組んで、混在状態の地域
  • 領主支配担当細分≒約130区
    【◇幕府直轄領(天領)、◇旗本領、◇公家領、◇寺社領、
    ◇親幕藩、京都守護職など、実質近郊地域の功労者に対して、幕府が分け与えた各藩の飛地分領、◇他】
  • 「畿内」令制5か国: (山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)
    ・・天皇居住地に近い特殊重要地域(幕末時点だから、京都を指す)
    この内、摂津国切り分け考察は困難
    (アバウト=大阪府北中部&兵庫県神戸市須磨区以東。但し、隣接圏内に、丹波国&山陽道播磨国が複雑に入り組み存在)
【2】_全国の天領 :幕末時点、少人数の代官所が、官軍側に襲われ皆殺しか、逃げ出したパターン。
  • このケースの場合、職員は皆、転勤族。歴代永住していないから、歴代の墓など便利手掛かりは無い。
  • 例: 川崎尚之助 の父:
    出石の医者として、いくら出石藩を探しても居ない訳は、多分、天領への出向幕臣、もしくは関係者。

■3_斗南藩と、旧会津藩士の出仕に至るMEMO

<斗南藩 と松平容大> :斗南藩とは名ばかり。忽ち消えて、急変遷。
  • 明治3年(1870年)1月5日
    :斗南藩初代藩主(ベビー藩主=松平容保の子_ 松平容大 (:明治2年6月誕生)が拝命。
    (関連)
    容大の誕生の様子と周囲のドタバタ事象絡み 、■ 容大の斗南出発 、■ 容大の母:容保の妻と側室状態
  • 明治4年7月14日( 1871)廃藩置県→同年7月、斗南県と改め、
  • 同明治4年9月:5県合併=弘前県成立。
  • 同明治4年11月:上記の弘前県を含む全6県がさらに再併合=青森県成立。
    (弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県
  • 同明治4年12月:旧弘前藩の御仮屋(現青森県庁所在地)で青森県庁開庁式。
<青森県奉職の斗南藩関係者(=旧会津藩士)>
  • 梶原平馬:庶務課長:彼の奉職は明治6年。但し、忽ち2ヶ月程度で辞職事件。
    (このまずいタイミングで辞職から、平馬と妻別居から、平馬家崩壊と、第二の家庭「後妻」に至るシリーズ
    梶原平馬根室の墓石SERIES 、■ 梶原平馬:目次
  • 山川浩:田名部支庁長
  • 永岡久茂:田名部支庁大属
  • <その他>
    ■小出鉄之助、野口九郎太夫、沢三郎、箕輪醇、青木往晴、
    大庭恭平、脇坂照正、沢全秀、小川渉、沖津醇、藤田重明・・他。

■4_自刃または降伏後早々の死亡老人と現役世代絡みMEMO

戊辰に埋もれた存在の人

老人と少年奮戦散華

会津山川浩家系の生物学と祖父&養子



他にも沢山ありますが、私的に気になる家のみ小MEMO


山川家(山川浩と山川重英)
  • 戊辰時活躍で有名なのは、浩だが、祖父の重英(80代の老齢)も復職して活躍。
    重英は降伏時存命。明治2年容大が生まれた後、容大の補導掛筆頭として斗南追従を
    指名されるが、その前に死亡。

■土屋彦次郎家
  • 土屋彦次郎(92歳) (関連: 彼を語るSERIES:戊辰に埋もれた存在の人
    慶応4年8月23日、家老、西郷頼母家婦女子21人の総自刃事件の際、西郷家の前、
    この家に永年仕える老臣「土屋彦次郎(92歳)」が割腹自刃。
  • 土屋左七郎( 28歳) :上記彦次郎孫 :白河で負傷後死亡。同じく西郷頼母家の家来。
    白河の負け戦。西郷本人は無事だが、家来として相当無理したか。

土屋一庵と、土屋鉄之助家
  • 土屋一庵 (200石) ;側医師。 70歳。下記鉄之助の父。慶応4年 8月23日自刃。
  • 土屋鉄之助(200石); 御近習一ノ寄合→「新練隊隊長」
    • 土屋鉄之助提案の隊=敢死隊 敢死隊
      身分混在隊の必要性を提案した人物。身分別に隊を編成するから弱い、実力第一主義提唱。
      その結果、敢死隊(当初隊長は小原信之助)が編成された。
    • 土屋鉄之助本人の隊=新練隊
      土屋鉄之助本人が率いる「新練隊」隊士の特徴は、上級武士でない。地方の武家奉公人等。
      彼らの具体的身分は定かでないが、低級武士に値するものとして「中間」などがある。
      ルーツ的には戦国時代滅んだ昔の侍の血で現行は百姓か、武家に奉公。下男でなく、「中間」の
      各であれば、刀一本だけ帯刀が許されている。その為武術は、ある程度もとから可能。
      「若党」であれば刀二本。主人に追従せず、こうした隊に組み込まれた者も居るかもしれない。

  • 【注:類似名】(土子鉄之助(250石 ):御家老付外様士 :戊辰時御家老付二番組在隊)
    という人物も居る。
  • ▼この中に、土屋鉄之助本人が率いる「新練隊」の件有り
    戦場で命を与えてくれた銀時計:井深梶之助,鈴木丹下


■5_会津九家

会津九家について


■会津九家=名家:家老になる権利がある家
={ 北原、内藤、西郷、田中、井深、三宅、小原、簗瀬、梶原}=9家

■家老を襲名すると、歴代この名前▼
{ 北原妥女、内藤介右衛門、西郷頼母、田中土佐、井深茂右衛門、三宅対馬、小原美濃、簗瀬三左衛門、梶原平馬}
  • たとえば、幕末の有名人物「梶原平馬」というと、現代の感覚では、自動的にこの人物を指して言うが、
    実際は、歴代平馬だから、個人特定には至らないので注意。
    この人物の個人特定は「=梶原景武。(明治改名は梶原景雄)」
    ▼(このシリーズはロング。逆走時代遡る形で途中から戊辰。だんだん重くなりますが各資料リンク有)
    梶原平馬根室の妻とその倅

■また、上記9種類の苗字といえど、それぞれの家に分家がある為、苗字が同じでも、
皆にその権利があるわけではない。
■会津九家のいわれ、開始以来よりの期間とは、以外に浅く、1809年(文化6)にスタート。
■家老になる権利がある家=会津九家といっても、実際は、それ以外もある。特に、瓦解寸前1868年は別世界。
  • 会津九家と言われ始める以前も含め、昔から度々、家老の名に、よくお目見えする苗字名前の一例
    • ◆萱野,◆山崎,◆神保内,◆横山,◆高橋,◆諏訪,◆上田,・・・他
      (例:◇高橋外記,◇諏訪伊助頼信,◇上田学太輔兼教・・他
  • 瓦解寸前の慶応4年(1868=明治元年)は論外
    ◆原田対馬種龍,◆山川大蔵重栄, ◆佐川官兵衛直清, ◆海老名郡治季昌,・・・他

■会津の家を調べたい時、 一冊あると便利:『要略会津藩諸士系譜 (芳賀幸雄著)』

_

■そこまで詳しくなくていいから、
・・ 会津と戊辰を読みたい本色々 幕末玄関1 幕末玄関2 幕末文化&お気軽&参考本編

1_当初:諸生隊→後に「第二遊撃隊」

◆会津の「諸生隊」について

戊辰全体の場合、水戸の諸生党と、時々混乱するケースがあるらしいが、全然別。
ところが、会津全体の中でも、メンバー内訳は、大別2種類考えたほうが良いようだ。

井深梶之助の語りによると、 ■ 諸生隊とは、その名に変遷有り
下側に、「井深梶之助の語り」があるので参考にどうぞ。

二種類とは、編成が京都で鳥羽伏見に参戦したチームと、別途福島県に於ける会津藩本拠地で編成されたチーム。
共通点は、いずれも先生率いる書生中心型。
藩校日新館は、会津だが、京都にも在京が長い為、単身赴任型ではなく在住型家族もおり、京都分校もある。
房総在住の分校によるチームもあるはずだが、「諸生隊」または、「諸生組」という表現では見たことがない。
そもそも、この地域の者は早期より本格的砲術訓練を受けている為、別種。第7連隊他、幕軍と連動型も居る。
(参考:◆ お固め四藩 、◆ 会津にフランス式戦術と砲術を教えた者
  • 京都方面で編成された側 :隊長は 相馬孫一
    当時、京都分校の学校奉行は佐川官兵衛が就任。佐川は武術達者な者を選び「別撰隊」を率いるが、
    鳥羽伏見では、この最強チームに付いて、上記、 相馬孫一 隊長が率い軍団として、
    京都の学生チーム「諸生隊」が戦った。死亡者多発。

  • 福島県会津藩本拠側で編成された側(=「第二遊撃隊」について) <以下は、井深梶之助の語りによる>
    • 隊長:「井深宅右衛門 (=井深梶之助の父)」:( 井深宅右衛門本人について&倅の梶之助について
      • 井深宅右衛門の弟「 井深恒五郎 」は、新選組長近藤勇から六連発元込銃を譲受けた人物。
    • 組頭:茂原半兵衛、池上武助 のニ氏でありました 。
    • 梶之助が年配と感じた人物:小池武八、山崎尚三郎氏等
    • 「第二遊撃隊」の変遷について
      当初の隊長は、上記の「「井深宅右衛門」。■後任隊長は「相澤平右衛門」
      籠城少し前に、父が御側御用人に転任した時、其後任者として 「相澤平右衛門」氏 が、
      遊撃隊長に命ぜられ・・
諸生隊とは、その名に変遷有り▼
  • 当初:諸生隊→後に「第二遊撃隊」と改称される。
    (井深の語り)最初は単に諸生隊と称したようですが、後に第二遊撃隊と改称せられました。
  • 基本的に内在の学生中心「書生」だが、束ね役、組頭として一部に年配の者が居た。
    組頭の中に、教授方が居た。
  • 「第二遊撃隊」の初出陣
    父の井深宅右衛門は君命を帯び、在館の学生中より約70~80名を選抜し、一隊を編成して、越後方面に。
即ち、この隊の特徴は、先生率いる学生さん隊に始まり、指導方として、若干の大人戦力を加えた感じ。
会津で組まれた側は上記のとおり、第二遊撃隊になるわけだが、京都で組まれた側の生き残りは、
どの隊に新規組み込まれたか不明。会津戦争突入以降、この名前「諸生組」は、ほとんど発生しない。
鳥羽伏見の後、江戸で、 武川信臣 らと共に彰義隊に加わり、死亡に至った者もあることだろう。
また、 山本八重子の弟三郎 は鳥羽伏見で、「諸生組」で戦い負傷、江戸に運ばれたが、そこで死亡した。

井深梶之助について


遊撃隊
={■【第1分隊】竹本登(組頭)、■【第2分隊】遠山寅次郎(組頭)、■【第3分隊】大沼城之介(組頭)}
・・△(これがさらに、身分別に小分化している。)
  • 尚、【第3分隊:大沼城之介(組頭)】のチームについて、
    「砲兵隊頭_大沼城之介」の表現もあることから、【第3分隊】は、砲隊であることも特徴。
  • 因みに、この大沼城之介とは、西郷頼母の暗殺密命を受けた下記二名の一人。
    但し、西郷に同情して、わざと見逃している。( この経緯関連
    • 西郷頼母の暗殺密命を受けた二名
      ・◇砲兵隊頭:大沼城之助、◇遊撃寄合組隊組頭:芦沢生太郎(蘆澤生太郎(後直道))


■6_準備中

準備中

幕軍&松前えとせとらSERIESの目次 <・・< Vol.13 現在の頁< Vol.14 ・・
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