中條政恒と人道的行動&安積開拓,幕末明治

中條政恒と人道的行動,安積開拓と疎水の偉業,「彼のブランクゾーン」謎解き,戊辰情報欠落の訳考察,会津藩崩壊後の新政府組織の変遷,民生局の細区分,若松県時代,福島県に合併直後時代,米沢人にとっての会津と二本松,幕末戊辰

中條政恒と人道的行動,安積開拓


中條某の墓前で、民が踊る舞いが裏付ける「彼のブランクゾーン」の謎解き!
「Q1」_変だな!戊辰参戦情報皆無!→戊辰情報が欠けている訳を考察

<いきなり以下文章で理解困難な時→ ◆ 中條政恒:目次と序章(入門編

中條政恒とは、安積開拓と、疎水開発で有名ですが、その実績そのものよりも、
この人物の根底には、弱者の救済、必死の救済思想があった事に感服しています。
微妙なタイミングで恭順した藩、米沢藩出身の彼は、人に手柄語らず、
黙って、追い詰められた近隣藩の会津藩と、二本松藩の人々を救おうと必死で動いた
人物だった事を痛感しています。

それほど、立派な人だというのに、 なぜか戊辰末期の彼の行動情報がまるで欠落して不明。
明治の超初期も曖昧。 その訳を追求してみました。

彼自身「枷」を背負っているようです。
それでも、犠牲的に、涙ぐましい程に、
人々を助けた・・この姿を紐解いて
くれたのが、「獅子舞」の民です。

これを「原点」に手繰り、漕ぎ進めてみたところ、
他にも、おそらく彼自身の功績らしき、
「人道的行動」が幾つも見えてきました。
訳があって、語らぬ部分、ブランクゾーンが
あるようですが、寧ろ、それを讃えたい!!

「人道的行動」 とは、以下の「参考表」を順次
読み進めて頂きますと、お解りいただけますが、
史実として、明らかにこれは彼だ!と断言できる部分と、
どう考えても彼だと、答えは自動的に、そこに
辿り着きながら、史実断言には材料不足な部分と、大別二つあります。

「参考表」の下側に、 「人道的行動_考察おまとめ欄」k6枠 をご用意しました。
いきなり、上記リンク先から見ると、なんのこっちゃ?かもしれませんから、
宜しければ、以下順次ご覧下さい。



■中條政恒は、幼少時より、大秀才。ところが、幕末、「勤学生の義務廃止」に係る
建白が、災いして、謹慎の処遇を受ける。
■許された後、江戸で「林学斎」の塾生となる。
■蝦夷地事情&北方警備の必要性を学び、蝦夷開発を、藩に建白。藩に無視される。
→藩に幻滅。→こうなると、異端児モードは、誰しも推測つくが、
■不思議なことに、 戊辰戦争期間から、明治5年初期迄に係る彼の行動情報が、全くの皆無
▲ここに、謎のブランクゾーンが存在している!▼
■判然とするのは、明治5年、福島県出仕以降の軌跡のみ。
実は、この年、初にこの人物は正式に「 中條政恒 」と名乗り始める。
■ところが、中條の任地は、 統括機関名と、当該の所轄区間 が目まぐるしく、
度々変遷している。実は、この当該地区に、明治5年未満段階でも、 「中條某」
という表現では、幾度も登場している。
<★今回の特集_メインテーマ>
おそらく、どちらも、「 中條政恒 」であり、同一人物であろうが、なぜか、
一律、「中條某」表記にて 同一人物である旨を語らない訳について、考察してみます。

これについては、専門家やご子孫による書物に於いても「そうである!」と記載した
ものは見たことありません。その為、今回の特集は、第三者の私が、断言し切ることは
できませんが、一つだけは、既に判然としました。
或事象に係る「中條某」とは、明らかに「中條政恒」である旨が解ります。
その事象とは

「御用提灯事件訴状を、穏便処理して、民の命を救ってあげた人物「 中條某 」」
=イコール:「中條政恒」である!の方程式が成立。

この立証材料は、何かと申しますと、「民による報恩の舞い」を披露する場所とは、
紛れも無く、「中條政恒」の墓前である旨が判然とするからです。

以下に、順次、そのソースを明かしてゆきます。
本来沈黙状態にある事とは、訳があって、掘ってはいけない分野などもあるわけですが、
この場合は、問題無いと考え、今回、この特集を書きます。
  • 平成と慶応とは、こうしてみると、案外近すぎるのです。良いことならいいが、
    もしも悪い事が絡むと懸念される場合は、そーゆーわけにはゆきません。
その点、今回の話は、寧ろ、讃えるべき事柄。彼は、斬首寸前の民の命を救った真の偉人!

お墓の前で、舞いを披露するとは、命の報恩感謝に由来します。

★小松集落の長老が斬首されずに済んだ事実と、米沢出身の「中条政恒」氏の
素晴らしい人道的な行いを、紐付けるところです。


この民は、会津の山川浩に依頼されて、獅子舞パレードを装い、兵を城へ送り込んだ。
実は、完全に会津支援の民として官軍に睨まれたら最期。本来なら、まさしく斬首。
ところが、「中條某」は必死の口上。幹部への報告は、解決済み小事件として報告。
本題の大問題「兵を城へ送り込んだ。」事実は、完全に惚けて、行事を行いたい一心で、
他村の獅子頭を借りたくて、ついつい「御用提灯」を使ってしまった・・が、
深く反省している。その上伝統を守る心は大切だから ・・・と、いうなれば煙に巻く!!

幹部は多忙。解決済みの小事件なれば、無事通過。されど、巻き返しが来ないように、
被害にあった側の村「下居合」に、誠心誠意で詫びを入れ、衣装と獅子頭を返すべく村人に
指示。訴状を引き下げてもらってある。(実は「御用提灯」で脅されて衣装を奪われていた!)

しかし、事情を理解すると、被害者側の村は、寧ろ、他所村の長寿が斬首では可愛そうと、同情。
心的に、応援者の立場に転じさせている。こうして見ると、新政府の担当職員「中條某」は、
随分手間をかけています。並の優しさ程度じゃ、ここまでできない。
やはり、人道的思想、人命の尊重が根底にあるからでしょう。
(この話: ■山川浩の笛太鼓獅子舞入城劇、■笛吹き男「高野茂吉(隊長)」は死ぬ気だった!!

o.jpg <賊軍加担者の命を救った例>
◆斬首を免れた小松集落の長老


「中條某」 は、新政府への陳述書に、大分苦しまみれながら、
必死の言い訳文を完遂してくれた。

「他に類を見ぬ程に難度が高く崇高な儀式故、彼らは、
それを途絶えさせまいと、戦の最中ながら、行事を
行ったのであります・・・。何百年来の伝統技術で
あります。日本国の伝統を守らんとする彼らの熱意に
免じて、ここに死罪を免じ致し候。」



安積開拓開始前には、 金銭的な後援を必要とする為、商人に幾度もアタック。
ところが、当初、商人達は、「米沢キツネに騙されるなヨ!」と皆警戒モード。
これは、上手なタイミングで先に恭順した米沢藩とばかり、彼らのちょっとしたイヤミ。
しかし、それに屈することなく、誠心誠意を皆に説いて、ついに協力者を得てスタート。

以下、経緯と考察&絡み事象と謎解き「人脈迷路」

「中條政恒」経緯と考察&絡み事象と謎解き「人脈迷路」
「中條政恒のブランクゾーン」の謎解き!
P1
以下枠を読む時のポイント
「中條某」という曖昧表現でしか記載されていない時期と、
「中條政恒」と明確に表現されている時期の、各事象の関連性を考察しながら、
読んでみて下さい。
Mとは明治の略記号、◇西暦は右記ご参考に即算して下さい。明治元年=(1868)。
枠内の略型記載について:例:M1/9=明治元年(明治1年)の9月=1868年
<明治政府開始後、度々変遷した統括機関名と、当該の所轄区間について>
■民生局の存在期間=終戦直後の明治元年(1868)9月位~明治2年6月14日
民生局の細区分={ 津川・小田付・若松・坂下・野沢・猪苗代・田島 }=全7区分存在。
明治政府は11月までに上記7区分を設置。その上、幕末は本来天領であった地域の多くも、会津に加増付与して
おり、新政府は策を凝らし、実質の旧会津藩領域全域をこの民生局の配下に入れる為に、
さらに、 南山御蔵入領域 も管轄下に追加した。会津に絡む地域を全て網羅して、監視&取り締りに徹した。
左側色付セルの色分け=当該地域の統括組織名変遷
幕府時代の会津藩統治下期間(鼠色)、
■民生局期間(緑色) ■若松県期間(青色)
■福島県期間(赤色)
右側セルの色分け:?印=どちらの名も見つからない期間
■桃色 :中條某は居れど中条政恒として史実に出てこない期間、
■茶色 :中条政恒として正式に、史実に登場する期間

2
参考:奥州瓦解降伏の様子
◇9/4:米沢藩恭順,◇9/10:仙台藩降伏,
◇9/22:会津藩降伏,◇9/26:庄内藩降伏,10/11:南部藩降伏









g1
M1/9月
降伏
=政権
の移行
9/4:米沢藩降伏
明治元年(1868)9月4日:米沢藩恭順
微妙なタイミングで先に 恭順 した米沢藩は、瓦解=降参降伏とは少し異なる。
この後、新政府の配下で会津取締りの業務も担う。しかし、裏切りではなく、
会津に恭順を勧めるなどして、会津に同情して、穏便処理に奔走した藩である。
g2
9/22:会津藩降伏
会津落城。会津に新政府官軍による「民生局」が入り込む。









g3
9/26:庄内藩降伏

偶然か否か、
この名前
庄内藩降伏時:庄内応援中の幕軍&他藩士も同時降伏。
その中に、「 中條某 」有。(これは、幕臣の一人扱いされているがハテナ!
同時捕縛者として、「幕人の 沼間守一、松浦己三郎、中條某等 」とある。
▲これは 板垣退助 の記述による。この三人について、板垣は死罪を許した。
(■現在頁の「板垣退助フレーズ枠=「 解5 」、■ 板垣退助 の小特集
沼間&松浦は明らかに幕臣。幕府のフランス式調練を受けた大鳥圭介配下の者
沼間達のフランス式調練についてはこちら :彼らは会津に指導していた。)


g4
M1/9
民生局
統治開始
会津降伏
=会津及び、従来天領ながら、幕末時点で会津統治下にあった一部近郊が
「民生局」の統治下となる。
g5
M2年
贋金職人処刑
会津藩指令下で低質の貨幣を製造した者が、民生局に処刑される。この後、
潜伏の関係者が捕縛処刑された他、取調べ不十分なままに、容疑者として
無関係の者も一部処刑された。( 会津贋金職人呼ばわりで処刑された民
g6
M2/5
民政局内揺動く
2年5月各民政局の統廃合試みるが、▼結局翌月で、民生局は廃止に繋がる。
g7
M2/5/18
萱野権兵衛切腹
会津の戦犯処理:抗戦首謀者の罪を一人背負い、会津の為に切腹。
g8
M2/6/14
民政局廃止
2年6月14日迄にて、民政局廃止






g9
M2/6/15
若松県設置
若松県設置=2年6月15日
◆2年6月15日、民政局が廃止となり、 若松県 が設置される。
・第一号若松県知事は鷲尾隆聚(タカツム)
g10
M2の
?月
御用提灯事件
訴状を
なぜか穏便処理
してくれた
中條某
■御用提灯事件を超略記すると、「民が、会津戦争時、御用提灯を用いて会津を
支援」した事象に絡む「御用提灯の乱用」を指す。会津戦争の最中、彼らは祭り
の笛太鼓と衣装で、獅子舞踊り行列の振りをして、実は、この列の中に、会津の
兵を紛れさせ、彼らを無事城に送り届けた。慶応4年8/26の事。この時、衣装や
獅子頭が戊辰の火災で焼け損失していた為、苦肉の策、彼らは、「御用提灯」の
威力を乱用して、近隣の村を脅し、奪い借りる手段を使ってしまった。
■会津が滅んだ後、彼らは賊軍支援者、及び、公的道具の「御用提灯」を
乱用した旨の罪で、罪人として検挙された。
この犯人責任者として斬首宣告された者は、小松集落の長老。

■ところが、この事件は、 「 中條某による穏便処理 」に救われ、斬首を
免れた。この「 中條某 」とは、明らかに新政府の若松県職員でありながら、
史実の上、不思議と、この頃の功績について、人物名フルネーム、及び旧出身藩
が記載されていない。
yu.gif■尚、この命の報恩に、中條某が死亡した後、小松集落の民が、
墓の前で、毎年、踊りを披露して霊に捧げる伝統が暫し続いた。
g11
M2/7/12
束松事件
■旧機関「民生局」職員の久保村が、新機関「若松県」へ業務引継ぎ完了にて、
任期終了後の帰路の際、散々会津藩士の恨みをかっていた彼は、暗殺される。
この事件は救いようがなく、犯人は自刃&処刑。
▼詳細:関係人物名はこちら
束松事件:会津藩士による久保村文四郎(旧越前藩士)暗殺事件

g12



M3/8/11


田邊軍次による
天誅事件


事件処理で
会津の傷を最小限
に食い止めた人物
が、「 中條某
■この事件詳細はテキストリンク先。犯人は旧会津藩士の田邊軍次。
■超略型:犯人の田邊(旧会津藩士:21歳)は、謹慎が終わり、斗南移住後も、
或一人の裏切り者を許せなかった。その人物とは白坂村在住の大平(大竹)
八郎。田邊としては、大平(大竹)氏が、官軍に靡いて、官軍に道を教え、
加担した事がいつまでも許せなかった。しかも、現況を聞くなれば、その功績
にて、官軍に引き立てられて、裕福な暮らしに至ると聞き知った。
我慢できず、ついに斗南を抜け出して、白坂村へ向い、復讐天誅殺害。
■これも上枠「g9」の事象と同じく、「 中條某 」の詳細なぜか不明。
■但し、この後始末の繊細な心使いは並でない。明らかに会津に同情する者
である事が解る。今日、犯人が旧会津藩士である事は丸解りなのだが、
書面上、体裁を整え、偽りの処理報告書を提出してくれている。
関連:◆ 田邊軍次事件の後始末:「k6枠」 、◆ 田邊軍次による天誅事件
犯人は被害者に恨みを持った或る民であり、その者は責任を感じて自刃した・・との偽書。
yu.gif<偽りの報告書まで書いて会津を転落から救ったのが「中條某」>
犯人は実在した民の家族であった旨の辻褄あわせ迄徹底している。
(辻褄:恐らく死亡済みの民。生きている者に濡れ衣では、残酷極まりない為。)
■こうでもしないと、折角、 萱野権兵衛 が犠牲になって、5/18切腹した事が、水の泡。このままでは、再び、
別角で、松平容保は咎められてしまう。萱野の切腹は、会津の戦犯処理を終わらせて、松平容保の存命を
引き換え条件の犠牲。■という点を踏まえてみると、「 中條某 」は命掛けで泥を被っている。
つまり明治3年段階で 中條某 は確実に、この近郊政権タッチしている。
:この事件書面で、中條某は若松県の者と明確に記載されている。

■それでいながら、あいかわらず表記は「 中條某 」。
g13
M4/2/17
小松集落の民
松平容保に
舞いを披露
明治4年2月17日、命拾い&罪を許された小松集落の民は、この時、暫し
会津に帰参を許されて滞在中の松平容保の前にて、堂々「舞」を披露。
あの時、兵を城に送り届けてくれた民の舞いに感動した容保は、彼らの
舞い衣装の一部に「葵紋(=松平、徳川の特権)」を入れる事を許可する。
g14
M5/9月
中條政恒
名前が正式に登場

この時
県令(知事)は、
安場保和

意気投合二人三脚
◆明治5年、福島県に県官として赴任したのが中條政恒
明治5年9月、「上」姓から「中條」姓に復帰
◆明治5年の県令は 安場保和(肥後細川藩:戊辰は官軍として参加)
だが、この人は岩倉使節等で、不在が多く、実質業務は万事、その部下で
ある中條がやっている。余程、信頼関係が強いのがわかる。
◇実は、この頃既に「安積原野開拓構想」は心に。資金源調達に、商人に
呼びかけているが、商人達は当初警戒。「米沢キツネに騙されるなよ!」と
囁き合った。( キツネとは?の訳
◇安場保和も蝦夷開発に絶大な興味を示した人物。その点二人が意気投合は周知。
蝦夷開発の夢が、転じて「安積原野開拓構想」に。













g15
M7年
安積開拓と、

徹底抗戦で敗れ
どん底に至った
旧二本松藩士家系
明治7年開成社誕生。開拓開始。商人に理解協力派登場。
◇この地とは、旧二本松藩領。二本松は会津同様、
徹底抗戦で攻め滅ぼされた悲劇の藩。
◇当時、開拓ドリームの人物の共通点は、国を富まし、国防力の
増強は勿論だが、必ず「民の救済、自活力の応援」の発想もワンセット。
◇賊のレッテル、どん底の二本松藩士が、このプランに参加した。
結果は、あまりにも厳しい現実、貧困と飢え、家族の犠牲死などから、失望
して去った家が圧倒的に多いが、それでも数軒の二本松藩士家系は、最後迄
留まり、下記の安積疎水通水式に感激の涙を流した。
■ここにも、中條には、賊軍となった者に対する同情応援の姿勢が見える。


g16
M9年
明治9年に若松県と福島県が合併
g17
明治9年:桑野村が誕生する。「これが宮本百合子の作品の元エッセンス」
g18
M12/10
明治12年10月:疎水着工式。
g19
M14年
安場の転任で
中條は、暗転
安場の転任。
山吉盛典(同じ米沢藩出身:中條にとって苦手な人物)が上司としてやってくる
(中條は、己の建白を無視した自藩に幻滅している為、反りがあわない。
(他にも訳は有る事でしょう。この藩に限らず、皆と異なる戊辰軌跡を描いた
・者に対して、皆共通して冷たい傾向有り。中條は、米沢に一旦戻って、
藩命による出仕ではないだろう。それなら、藩関連の資料に残るはずだ。
つまり、自藩の者にとって、干された暁、途中で雲隠れの男が、こんな所に
なぜか居るぞ!・・・だいたい、こんなかんじと想定されます。
g20
中條政恒
安積の地を去る
東京へ去る。 その為、夢にまで見た安積疎水通水式を本人は見ていない。







g21
M15/8
安積疎水完成
明治15年8月:安積疎水完成
g22
M15/11
安積疎水通水式
明治15年11月:安積疎水通水式。
g23
M18
中條政恒
島根県へ
島根県大権令(≒知事)就任。
g24
M30
中條政恒
桑野村へ戻る
桑野村へ戻る。訳は地域の民の熱烈なコール要望に答えて。
疎水の尽力者として、皆が行動を起こし、呼び寄せられた形。
この運動に参加した者:開成近郷の区長他代表77名&500戸の民
g25
M33/4/14
中條政恒死亡
明治33年4月14日、 思い出の福島県桑野村 で死亡。享年59才。
g26
それ以降
墓前の鎮魂
「獅子舞い」披露
中條某の墓の前で、民は遠い昔の報恩に、舞いを踊って鎮魂する。
獅子舞に係る表記では、あくまで、その人物名を「中條某」と表記されている。
しかし、示唆する墓の住所はまさに、中條政恒の墓所在地と合致する!!

場所の表記は数種類あるのだが、早い話、全部同じ地域を指していることから、
御用提灯事件で命を救ってもらった民にとっての 「中條某」氏と、
「中條政恒」とは、同一人物であることが、自動的に解る。

<墓の場所に係る表記各種類>
◆金剛寺の中條家の墓前、◆郡山市開成。道因時、開拓者墓地内。
yu.gif学問上の繋がり「人脈迷路紐解き」:林大学頭親子&横井小楠→(中條政恒と安場保和の共鳴の訳)
■中條政恒の師匠は「林学斎(12代当主)」、
■安場保和の師匠は「横井小楠」:「横井小楠」の師匠は「林復斎(11代当主)」

3
中條政恒に

影響を齎した
人物推察

関連:
解6枠
林学斎

林大学頭12代当主
林復斎の次男。

林復斎&林学斎親子の塾が、「重要関節部分」!

【林学斎:天保4(1833)10/1~ 明治39(1906)7/14)】
幕府時代、 既に「学問思想」という点で、安場と中條に接点は?
蝦夷開発建白で自藩の米沢藩に干された中條。片や、同じく蝦夷開発思想を
持っていた安場保和。安場保和は、横井小楠の弟子。その横井は、林復斎の弟子。
林復斎
林大学頭11代当主
【林復斎:寛政12/12/27日(1801:旧暦12月生の者は西暦で1800ではなく、翌1801年)
~安政6(1859)9/17】、横井小楠の師匠。
安場保和

と意気投合の訳
安場保和は、(肥後細川藩:戊辰は官軍側)
【安場保和:天保6(1835)4/17~ 明治32(1899)5/23】
明治5年時、若松県の県令(知事)。この二人の出会いはこの瞬間初では
ないかもしれない。又は面識はなくとも、【林大学頭&横井小楠】の繋がりから、
学問上思想上で、完全に接点がある。互いに感服。開拓思想も合致。
■尚、安場は熊本の者だが、 幕府時代、師匠の横井小楠に連れられ越前訪問暦有り。
横井小楠
【横井小楠:文化6(1809)8/13~ 明治2(1869)1/5】
この人物は、戊辰終焉時、既に殺害されて死亡しているから存在しないが、
間接的に、安場保和と、中條政恒の紐付け関節要人。
横井小楠は、林復斎の弟子であり、安場保和に対しては「師匠」の立場。

4

賊軍となった「徳川派」として参戦した藩の者、及び、実際本人も参戦した者の内、捕縛されるか、
諭され恭順した者が居る。形式上、捕縛、謹慎の手順を済ましている者と、闇雲に救われて、
そのまま明治に於いて早速、その救済者の指示で、働いていた者が居る。これは、主に洋語学や、
なんらかの能力をかわれて、明治政府に即時役に立つ人物のケース。この場合、途中でその応援者
以外の者が、疑い始めて、身のやり場が無くなり、パニックに陥った者が実際有った。
(解りやすい例では、こちら: 田島金太郎の兵部省正式出仕前の小騒ぎ
明治中期までは、戸籍に値する登録には「附籍枠」というものがあった。これは、隠れ蓑として、
最悪事態は使える。家来や下僕等の扱いで自分の籍に入れてしまう奥の手にはなるが、限度がある。
(参考: 江戸時代~明治中期迄の戸籍 )これは偽りである以上一生不便の上、家族引き取りすれば
バレるから、やはり離縁。そうしないと家族も宙に浮いて困る。もっと困ったのは、自分は死んだこと
にしてある人。超長生きした人物の場合、時代流れ、本人は開き直って語れば語れないこともないが、
庇って偽りの書面を挙げてくれた人物に迷惑が及ぶ為、子孫にさえ語らず終いの人物も居た。
ずっと後の世代で、末裔が初に不思議なメモを発見して驚くケースもあった。
<以下は推論の一つにすぎませんが・・・>
■中條政恒の明治初期は、書面の上なれば、「上与七郎」のはずが、既に自称「中條某」と
名乗ったままに活躍した為、浸透してしまい、そこで、明治5年の正式名乗り改正手続き未満の
動作について、自らは、けっして語らず、また応援立場の周囲人も、辻褄あわせで、同じく語らない
形態を取ったのではなかろうか。それが、 「中條政恒」ならずや、一律「中條某」
という不思議な表現に繋がったと考えられるのだが・・!!
■旧米沢藩の者が、明治早々、官軍である安場保和(肥後細川藩)の配下に居たことから、
単純に推察すると、戊辰段階で、既に個人的には、幕軍に背を向けて官軍側にくっついていたと
考えるほうが簡単だが、少し不自然。どこぞで、捕縛されて、恭順、命を拾われ、報恩に
早速、大活躍していたのではないだろうか?
■単なる偶然かもしれませんが、板垣退助のフレーズに登場する「中條某」が非常に気になる。
気になる
板垣退助
の発言
庄内藩降伏時に捕縛したが、糾問結果、死罪を許した者3人組。
その内、 中條某 だけは、板垣がその後保護タッチした形跡が不明。

而して之と同時に予は、昨日まで敵軍の將として死生の間に見へたる幕人
沼間守一、松浦己三郎、中條某等を糾問 したところ、「尊王に不満は無い。官軍に抵抗した理由は、
ただ、薩長の横暴が許せなかったからだ」と彼らが答えた・・・と板垣が記録を残す。板垣は土佐。
この話:もっと詳しく( 板垣退助の小特集
上記「g1」~「g26」まとめ考察

yu.gif 中條政恒は、この名を正式に名乗る明治5年9月以前から、自称、「中條+某」と
名乗っていたのではないだろうか?



■米沢藩時代の名前は「上与七郎」という。しかし、この「上与七郎」とは、蝦夷開発プランを
自藩の米沢藩に上奏したが、相手にされず、浮いた存在のまま戊辰の戦乱。しかも、それ以前から
自藩と反りがあわず、謹慎させられた過去がある。
■ところが、不思議と戊辰時の彼の行動が、全くの空白。
史実の上で、 中條政恒=(元米沢藩士:旧名前「上与七郎」 が堂々判然とするのは、
上記の明治5年9月。そして、気になるフレーズ。明治5年の改名とは、新規に改名ではなく、
名を元に戻すの意有り。つまり、「上」の姓を名乗るよりずっと昔、この家系に「中條」姓が
あったのではなかろうか。この家は、藩主に従い、米沢に移封前の時点からずっと追従してきた
上杉氏の家臣。
■この明治5年9月の改名については、 『「上」姓から「中條」姓に復帰』 とある。
ところが、上記一覧表のとおり、猪苗代近郊の政務に携わる人物に「中條某」が存在しており、
実に涙ぐましい程に活躍している。その動きは、明らかに賊となった会津側を同情している者の
動きだ。一般的に、民生局から、若松県時代に於ける政務担当者は、監視取締り重点で、
こんなに寛大な人物は・・・まず居ない。隣藩の米沢出身可能性は多大であり、
ここにも、 「中條某」=「中條政恒」と判断される材料 が漂う。
■中條政恒の後半人生を見る限り、根っから、自藩大嫌いが丸解り。米沢出身の者が、上司として
やってくるなり、飛び出して東京へ行ってしまう。
■その一方では、 安場保和 (肥後細川藩:細川藩は、戊辰時官軍として参加)との契りは、
かなり硬い。二人三脚で、完全に信頼しあって、安積開拓に全力投球している。

自藩の米沢藩から干された「上与七郎」なる人物は、永らく影を潜め、そのかわり、
安場保和のタックルは最高のコンビ。その名は「中條」としてである。

ふと、思う。スレスレの我が身も危ない危険を冒してもまでも、民を救ってあげた「中條」は、
その一方で、実は、我が身も、「救われた身」だったのではないだろうか?

安場保和 は熊本の人物だが、実は、もとから北越に縁が有る。
彼は横井小楠の門下生。横井は、松平春嶽に招かれて福井藩へ。その時、優秀な安場保和は、
師匠の横井小楠に追従して、同じくと福井藩へ。横井小楠は暗殺されて、戊辰クライマックス
時点には既に天上の人ながら、これにて、安場保和には、多少の地元人脈はあったことだろう。

戊辰の処刑については、官軍内に、捉えた幕軍側の者に、学問上の「師弟関係」があった場合、
必死で救済、存命嘆願に動いたケースが多く存在している。同情心から拾い挙げたケースも
あるが、官軍内嘆願の場合の多くは、学問上の繋がりが目立つ。
それは、数え切れないが、有名なあたりでは、箱館戦争終結時の黒田清隆発言。

黒田は榎本にこう言った。「「大鳥圭介」も、ここに呼んできてくれ。」
黒田は江川塾で、大鳥圭介に学を教わった身。( 江川塾と関連者

また、会津戦争の後始末に係る水面下の動きとして、
長州人に於ける師匠「秋月悌次郎(会津藩士)」と、長州藩士の奥平謙輔:(梶原平馬series_No.18
の例もあります。同じく、結びつきは学問。【上記関連; 梶原平馬:目次

学問仲間が救った例は、まだまだ、沢山あります。

そして今回の主人公、中條政恒に於いても、 「k3枠ご参照
「人脈迷路紐解き」:林大学頭親子&横井小楠→(中條政恒と安場保和の共鳴の訳)
蝦夷開拓と北方警備の必要性、民の救済と自活力、何から何まで、そりゃ共鳴するはずだ。

もう少し欲張るなれば、最低でも、もう一人影のキーマンが居るはずだ。
安場保和は明治5年に、中條政恒の上司としてすぐ側に居る存在になりますが、明治初頭は、
もう少し北側「 胆沢県(旧仙台藩&盛岡藩領の一部)」に居ます。この間、「中條政恒」ならずや、
「中條某」の側に居た者の内、信頼してかなり自由に彼を動かしてやった人物。それが今後の課題です。

「解5枠」の板垣発言の虜になってしまったわけではないのですが、
私的に思うに、やはり、この人物、中條政恒は、一旦、どのタイミングかで、官軍に捕縛された
ように感じております。自分の藩に干されて浮いて、江戸にあったわけですから、
もしかすると、なんらかの幕軍組織と共に途中まで行動していた・・・そんな気がします。

皆と同じ軌跡を歩まず、五十歩百歩ながら、早めに恭順して、人より早く、新政府内で
動いていた人物は、皆、仲間に白い目を向けられています。


「解6」_ 人道的行動_考察おまとめ欄

6

■明らかに、当該の職員「中條某」とは、まさに、「中條政恒」だと断言できる事象

【1】_「御用提灯事件訴状に係る穏便処理」:関連:上記の「 g10枠
  • ■小松集落の民は、慶応4年8月26日、会津の山川浩に依頼されて、時ならぬ「獅子舞パレード」を演出。
    実は、この隊列の中に、山川及び彼の兵を紛れさせ、無事城まで送り届けた。戊辰終結で、会津が負けた
    以上、彼らは、賊軍支援の民となり、罪を被る。
    ■しかも、「御用提灯事件訴状」という逃れ難い既成事実まで残してしまった。
    彼らは、この時「獅子舞」の必需品、獅子頭を火災で失っていた。仕方なく苦肉の策。近隣村から借り出す
    為に、ご法度の「御用提灯」を使った。私的目的で、公的道具の「御用提灯」使用は斬首に値する。
    長老は、責任者として斬首宣告を受ける。
    ■その時、「中條某」という職員が、必死の言い訳文章をもって、彼らの存命を勝ち取ってくれた。
  • この「中條某」という職員が、「中條政恒」だと断言できる証拠材料
    =示唆する墓の所在地=中條政恒の墓の所在地


■当該の職員 「中條某」とは、まさに、「中條政恒」だと断言するには証拠不足ながら、
前後の経緯から、自動的に「彼本人」に結びつく事象


【2】_「田邊軍次による天誅事件」に係る後始末:関連:上記の「 g12枠
  • ■これは、会津不満分子による天誅事件。犯人は会津藩士ながら、当時の書面上、民同士の怨恨事件として、
    「中條某」という職員が、事を丸めて終わらせた。当該の民はどちらも死亡済みにて、解決済み事件報告
    のごとく片付けて、それ以上掘り返されないように、色々段取りを整えた。
    ■時期的に、折角松平容保の存命が決定して、会津の罪後始末も完了した時期だというのに、これが
    会津藩士である旨が表現化すると、元の木阿弥。
  • これは、非常に危険な橋渡り。己の首が飛ぶ。明らかに会津同情派でなければ、こんな危険な事を
    やってくれる人物は他に居ない。
    <「田邊軍次による天誅事件」について補足>
    • 田邊軍次は天誅後、自ら己の罪は認めるが故、直後自刃と伝わる。ところが、被害者同情派は、
      それでは収まらない。殺害後、卑劣にも逃げようとしたところ、皆が取り押さえ斬り殺されたと、
      証言する者も出現。実際そうかもしれない。志成し遂げ、静かな場所へ移動して切腹しようと
      思いつつ、傷を負いその場から逃げ切れず、斬られたかもしれないが・・。自刃と伝わる理由は、
      主に会津応援派によるものだろう。「重罪を自ら観念の男」であった事と信じたい由縁かもしれない。
【3】_「安積開拓と、二本松藩士」:関連:上記の「 g15枠
  • 二本松藩も実に悲惨な藩。徹底抗戦で責め滅ぼされた藩。兵不足で11歳の少年まで参戦散華。
    安積開拓は、旧二本松領。そして第二の人生に架けて開拓に汗を流したのも二本松藩士の生き残り。
    中條政恒は、彼らを呼んで、ここに悲壮な彼らに「生きる架け橋」を。

    二本松少年隊の悲劇



7

■中條政恒の偉業=安積開拓
中條政恒(元米沢藩士:戊辰時の旧名は「上与七郎」

名前について
◇中條政恒の名は「明治5年9月」から正式に名乗る。◇生年から戊辰迄の期間の名:上与七郎
  • 「中條」苗字の読み:ナカジョウでなく、チュウジョウ。子の精一郎時代にチュウジョウに 戻した
  • 「上」苗字の読み:カミと読む。
  • ◆幼名:与七郎。◆号:開成山人、後に磐山。
  • 「与」が継承名。父の名にも、本人にも共に「与」がつく。<父「与惣兵衛政済」、本人「与七郎」>
生没 :天保12年3月8日(1841)~明治33年(1900)4月14日:享年59歳。

■出生から戊辰迄の略暦
  • ■8歳: 興譲館 入学。
    ■12才:世子上杉茂憲の学友に選ばれる秀才ぶり発揮(この時、同様に古藤伝之丞も選抜された一人)
    <幕末期>
    ■勤学生の義務の廃止を建議が、藩の怒りに繋がり、謹慎の身に転落。
    ■許された後、江戸で「林学斎」の塾生となる。
    ■蝦夷地事情&北方警備の必要性を学び、蝦夷開発を、藩に建白。相手にされなかった。
    ■藩に幻滅。
    ■こうなると、異端児モードは、誰しも推測つくが、不思議なことに、戊辰戦争期間に於ける
    彼の行動情報が、全くの皆無!
    ・( この件に係る推察は、こちらの枠をご参照「Q1枠」 :現在枠「解7枠」内には、考察抜きで史実のみ表記
:所在地表現は数種類あるが、結局同じ地域を示唆。
・・◇郡山市開成。道因時、開拓者墓地内。◇金剛寺の中條家の墓

誕生地&親について
・父:米沢藩与板組の上(カミが苗字)与惣兵衛政済:(御用人百石:米沢藩士)
・母:「俊(とし)」・・の長男(又は二男説有り)として、館山口町(現在の山形県米沢市)に誕生。

子&孫ついて
  • 子: 中條精一郎 :「上杉記念館を設計者」
  • 孫: 宮本百合子 (作家:精一郎の娘=中條政恒の孫:【明治32(1899)2/13~昭和26(1951)1/21】
    :本名=中條。生れ&育ちは東京。 本籍地は福島県郡山市南町186番地(=開成:祖父「中條政恒」
    開拓の地)
    桑野村開成山 を舞台の作品有。

米沢藩は他藩と異なり、恭順派と抗戦派が自藩内で割れて、互いに血を流す場面を作らずに済ませた数少ない藩。
ところが、淋しい風、なにやら臭う系なら、ここにあります。▼

米沢藩:甘糟継成とシュネル


山川浩の笛太鼓獅子舞入城(笛吹き男「高野茂吉」は死ぬ気だった!_シリーズMENU)

No.1:■笛吹き男「高野茂吉(隊長)」は死ぬ気だった!!
■山川浩の笛太鼓獅子舞入城劇、■小松集落の人々と、彼岸獅子カモフラージュ軍団、■史実の裏側
■「弥太之進」達の素顔と涙、■会津の小松彼岸獅子舞のルーツ等考察おまとめ表
■「御用提灯事件」:会津崩壊!民に振り被った災い「村長の打ち首寸前!」・・・他




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