全49件 (49件中 1-49件目)
1
白虎隊士,伊藤俊彦,途中経緯が雲隠れの伊藤俊彦の行動追跡,幕末戊辰,豪風雨の最中、米俵の蓋を頭に被って現れた豪傑少年,複数資料から考察,新たな発見_謎の文章,民家に一泊した豪傑少年,会津戦争白虎隊士:途中経緯が雲隠れの「伊藤俊彦」の行動を追跡_ガイド版豪風雨の最中、米俵の蓋を頭に被って現れた豪傑少年が示唆するミステリー◆現在頁は、「白虎隊士:途中経緯が雲隠れの「伊藤俊彦」の行動を追跡」本文導入編です。飯盛山の悲劇といえば、白虎隊士中二番隊。その中で、語り継がれる内容が比較的豊富な者と、可愛そうなことに皆無状態にも等しい者とがある。今回のテーマ、「伊藤俊彦」について、家柄や容姿などについては、大体「一般的に有名な複数の資料」から伝えられている。ところが、当日の描写については、ほとんど皆無。言い伝えから、かなり勇猛果敢な逞しい少年だった様子が解るわりには、勇戦情報が無い。それについて、調べているうちに、以外な資料を発見しました。まず、サラッと一望ご参考用に:「伊藤俊彦_おまとめ表」サラッとだけでは、ピンと来ないと思いますから、一望の後、「伊藤俊彦」を追跡本文の天辺、または、現在頁までお戻り下さい。私的に注目した二つの資料(B+C)を掛け合わせて、考察を下記にすすめます。◆資料B_酒井峰治の記録:『戊辰戦争実暦談』 :B項目詳細コーナーこの資料から、8/22段階で、「伊藤俊彦」は迷子になって、皆とはぐれていたことが解ります。翌日8/23:皆の心配もなんのその。豪風雨の中、一人颯爽と姿を現す。皆が驚く。◆資料C_著者不明「謎の少年」に係る記載:C項目詳細コーナー _◇ 時期と、場所、豪風雨、豪傑な性格などから、「伊藤俊彦」の可能性多大と考えられる。_◇豪風雨と藁が、この少年のB&Cに係る共通事項:野生的&サバイバル精神民家に一泊した豪傑な少年彼らが戦っていた場所から比較的近い場所の民家(※)に、戦場で迷子になったという謎の少年が、一泊している。翌日も、豪風雨。されど、屈することなく、この少年は戦場へ一人立ち向った。<※:この民家とは、何故か氏名不明状態のこの著者家。>読めば読むほど、どうも「伊藤俊彦」らしきレイアウトと一致する!尚、この氏名不明の著者は、一言も「伊藤俊彦」とは記載していませんが、少年の言動や態度、随分と、「伊藤俊彦」の言い伝えによる「豪傑な性格」と合致します。戦場で行方不明になり、皆が心配していた「伊藤俊彦」だが、豪風雨の中、米俵の蓋を笠のかわりに頭にのっけただけの姿で、颯爽と一人姿を現した。この勇壮ぶりに、皆が度肝を抜かれた。なぜに、この不思議な文章「C項」に登場する少年が、「伊藤俊彦」らしいと判断したかについて:その根拠B項目のキーワードと、「伊藤俊彦_おまとめ表」から、感じられる彼のレイアウトを、頭の中で照合させながら、以下文章をご覧下さい。◆時期的要素、◆当該の具体的戦場示唆,◆身分の象徴,◆期日示唆「8/23」は豪風雨,◆個人特定へ繋ぐ一部行程:豪風雨を凌ぐ材料に「藁製品」を使う習性◆狩の名人として主君に表彰された先祖を尊び、己は時世にあわせて「敵狩」を宣言した姿◆勇猛果敢:一瞬、狂ったか?と錯覚される程、正義の為なら燃える性格◆礼儀正しいこと、筋道立てること何を根拠に、こんな突拍子もない飛躍話を書いているかと申しますと、順次本文各項▼本文側で、最終項目のB+C項目(おまとめ考察コーナー)までご案内します。謎の著者「某」が語る「嵐の少年」C項目(C_2)突然の訪問客:豪風雨と藁、豪傑少年侍著者不明の文章第一幕(意訳)・・・(前略)・・・丁度、私は村の肝煎の命令で、出陣した後でして、私が不在中のことでありました。・・・(中略)・・・それは、酷い大嵐でございました。すると、夜更けに、誰ぞ、扉を叩く者が。家人が戸口へ向うと、なんと、ずぶ濡れの少年若侍が・・。「すまんが、今晩、ここに泊めてくれぬか?本来なれば、肝煎に筋を通すべきことなんだが、なんといっても、こんな深夜のことじゃ。肝煎にも迷惑をかけてしまうから、すまんが、このまま、泊めてもらえぬか?・・・我は、戸の口方面にて戦っていたのだが、あいにく敗れてしまったんじゃ。その上、道に迷ってしまった。なんとか、このまま泊めてもらえると有り難いんだがのう。」少年は、大嵐の中、なんと藁の茣蓙を被って現れた!!世にも不思議な文章:MORE幕末関連玄関<白虎隊士中二番隊37人の行く末と岐路:飯盛山の悲劇、その裏事情<少年達の個別編も上記リンク先<(本文)「伊藤俊彦」を追跡本文<(現在頁)「伊藤俊彦」MINIご案内版No.1津川喜代美資料版
2012.05.31
川崎尚之助の謎No.5,山本八重子離縁の夫、失踪の謎,憎しみの恋文_会えぬ人への反歌,会津藩,幕末明治,会津落城の時TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関川崎尚之助の痕跡憎しみの恋文:会えぬ人への反歌_No.5とことんミステリーな男、川崎!!_其の続き(現在SERIESは、右記より抜粋ミニ特集。詳しくは:川崎尚之助関連資料頁。)現在SERIES:初めから読む<前の頁から読む・・・川崎は、どんな気持ちだっただろうか。あたかも、自分が死なせてしまったような錯覚に陥って、さぞ苦しかったことだろう。「顧りみて、城を望めば、小田山は残り惜しげに夕日を送り、柵壁は、霞をはらって遠く名残をしめすらん。」・・・この句も、きっと川崎だろう。小田山の無念たるや、一言に尽くし難い。小田山の砲台は、川崎の努力で、自慢の砲台に仕上げた場所だ。いわば砲台の生みの親が川崎。それを敵に乗っ取られた!しかも、裏切りが原因だった。会津の治世に不満があったお寺の和尚さんが、官軍を導いた。(復讐事件が後で発生)もしも、天が許すなれば、この手で、霞をはらいたい。その気持ちも、やたらに解るナ。小田山の夕日は、川崎の心に沈んで消える。「顧りみて、城を望めば、小田山は残り惜しげに夕日を送り、柵壁は、霞をはらって遠く名残をしめすらん。」「あすの夜は何処のたれか眺むらん、なれしおう樹に残る月かげ」「行くに輿なし、帰るに家なし、国破れて孤城雀鴉みたる、何の地に君を置き、又、親を置かん。」上記の詩は、詠み手は、全て川崎だろうと私は思う。川崎は、妻の八重子さんを愛していたんだな。たとえ余所者とて、会津の郷を愛していたんだろう!彼は哀れすぎる。デリートされてしまった。こんなに会津を愛していたのに!!関連 ◆川崎尚之助関連資料頁、◆会津戦争:親鳥を失った雛鳥奮起少年隊,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津:山本八重子泣かない女の思い出枕、山本八重子について、是非こちらのSERIESからご覧下さい。かつての夫に対する気持ち◆No.1:明治の夫新島襄と妻八重<No.2&No.3:弟<No.4&No.5:白無垢に鮮血!<No.6未練を詠んで会津を去って、命果てる時には、己の運命を嘲笑しながら死んでいった男、川崎。沈んでゆく小田山の夕日と、掃うに掃えぬ霞。それが川崎尚之助。下は、おなじみダダイズムの太宰さん。時代は異なりますが、なんだか、重なる。「斜陽」でありんす。再び読むも、時にはいいかも。__▲右側:「人間失格」を直筆で読む!稀少なBOOK!原稿そのまま!スゴイ!!「男らしい」って言葉がある。「女々しい」って言葉も。だけど、「女々しい」って言語は男性の形容。女性に、「女々しい」とは言わない。屁理屈だけど、「女々しい」だって、「男らしい」。そーゆー男は、惚れたらあきまへんえ!・・・と知りつつ、ホーホケキョ。TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<No.1<No.2<No.3<No.4<No.5(現在頁)★
2012.05.29
川崎尚之助の謎No.4,山本八重子離縁の夫、失踪の謎,憎しみの恋文_会えぬ人への反歌,会津藩,幕末明治,会津落城の時TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関川崎尚之助の痕跡憎しみの恋文:会えぬ人への反歌_No.4とことんミステリーな男、川崎!!(現在SERIESは、右記より抜粋ミニ特集。詳しくは:川崎尚之助関連資料頁。)現在SERIES:初めから読む<前の頁から読む何かと謎だらけの男、それが川崎尚之助。またしてもミステリー。当時、年少少年だった「高木盛之輔」達の語りが、ぐんと後の世、出没。今回シリーズ、初めからご覧頂いて皆様には、重複しますが、前述のとおり、川崎の失踪について、会津側としては、非常に沈黙モード。「知らぬ!存ぜぬ!あの男は消えた!」大人達が口を揃えて、「知らぬ!存ぜぬ!」。ところが、時代の流れとは、有り難いんだか、マズイんだか!?今回のシリーズでは、明治27年に零れ落ちたヒント。題して、「おぼろ月は見ていた!」とタイトルしたわけですが、それどころか、当時年少少年だったチームが、大正時代に至って、またしても、別のヒントを、ポロリと漏らしてくれた。「高木盛之輔」とは、当時15歳。年少少年ばかりの隊に居た。この隊は「中軍護衛隊」という。「中軍護衛隊の秘話」この資料は、あくまで、彼らの隊の姿を世に示すためのもの。なんといっても、当時この年齢では、難解な戦況や情勢推移に係る描写は困難だ。一応戦況も多少書いてはあるが、やはり浅い。仕方ない。当時は子供の視点なのだから。(この絡みはこの頁:中軍護衛隊の秘話No.6)ところが、ひとつ嬉しい。なんと川崎らしき描写がひとつ、ポロリ。この話は、こちらの頁「川崎尚之助資料頁」にも書いたんですが、ここにも抜書きします。<高木盛之輔の語りによる記録>9/14付で、川崎尚之助は居ないが、川崎荘之助なら、居る!!この日、敵の小田山陣地に、川崎荘之助なる男。抜群の腕が発揮されてる。その後、この人物がどうなったかについては一切書かれてないが、並の腕ではなさそうだ。おそらく、川崎尚之助。二発見舞って、敵に大ダメージ。▼砲師川崎荘之助来り、余に曰く 。砲士でなくて、砲師にご注目。ますます、川崎尚之助臭い。川崎は、砲術師範。砲術と、当時に於ける科学や物理の最先端神様。天才男。川崎の元の名は、正之助、それが会津に出仕の際、尚之助に改めた。ショーノスケとか、マサノスケとか、なんだかんだと入り混じった結果の荘之助になったのではなかろうか?「我軍は天主閣を的に掲げあるに彼等の弾は命中するに能わず、余(が)、一発小田山砲塁に加え、必ず命中せしむべし」 ・・発言も自信満々。素人でない。▲これ、思うに、大人相手にこの発言では自信過剰で滑稽だが、兵として派遣されてきた者が、小さい少年が多い隊だから、彼らを勇気付ける為に、言ってあげた思いやりにも感じられる。兵に命令するでなく、自ら撃っている。これは究極の示唆。)この話、川崎が頑張った話としては、実は、期日さておきなれば、複数の本でも読んだことがある。「頑張ってたらしい」と。ところが、途中で失踪した川崎とは、こんな末期まで居たことになる。9/14までは明らかに頑張っていたのだ。この後、敵が盛り返して、可愛い子供達、14~15歳の子の犠牲が発生している。川崎は、どこで敵に転んだのでしょう。大人達が、あたかもタブーのごとく、川崎のカさえ語らないというのに、ポロリ、ポロリ、忘れた頃に漏れてくる。面白いが、不完全燃焼!!川崎には子がないままに天昇したから、直系が居ないのは解るが、誰ぞ、日本のどっかで、実は、彼の謎を知っている川崎さん傍系ご子孫がいらしゃるのだろうか?もう、今や、平成の世なのだ。そろそろ、良いではありませぬか!実は、私は、川崎尚之助が好きだ。上記、子供相手に語った彼の言葉が、なんとも暖かい。「我軍は天主閣を的に掲げあるに彼等の弾は命中するに能わず、余(が)、一発小田山砲塁に加え、必ず命中せしむべし」▼とは、これを雑に現代版で訳しますと、ニュアンスは、こんなかんじ。▼「連中の腕じゃ無理だろうが、(こっちは違うぞ、腕は数段上じゃ。)見ておれよ。俺が、必ず、あいつらをぶっ放してやるからな!」親兄弟を失って、大切な少年期に戦争。幼少体験が戦争一色に染まる悲劇的人生。そんな彼らを励ました男、それが川崎だ。ちなみに、この時、砲はほとんど壊滅。豊岡にあった砲で、作動する砲とは、この一台だけだった。砲術の神様、川崎なれど、天才男の川崎。たかが、これひとつで、勝利を掴んだと錯覚するほど、頭がお目出度いわけはない。あくまで、子供達への思いやりなんだろう。宣言どおり、見事、二発とも大命中。一発目は、敵は忽ちあたふたあたふた、飛び散る蜘蛛の子状態。四散してゆくのが見えた。二発目の後なんぞは、敵陣は、静まり返って、うんともすんとも暫し音さえ聞こえない。そこで、大歓声をあげた少年達は、大絶叫。「ざまあ見ろ!薩賊長奸!薩摩の賊共くたばれ!長州の糞奸共め、腐れて砕けて吹き飛んで全滅しちまえ!!」その時、敵の銃弾攻撃が。銃弾に打ち抜かれて死んだ子供は、14歳。わざわざ、高い塀によじ登って、叫んでいたから、撃たれた。この時の川崎の無念たるや、とても人事と思えない。勇気付ける為だったのに・・・。子供の状況判断故の惨事。・・・川崎は、どんな気持ちだっただろうか。関連 ◆川崎尚之助関連資料頁、◆会津戦争:親鳥を失った雛鳥奮起少年隊,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津:山本八重子泣かない女の思い出枕、山本八重子について、是非こちらのSERIESからご覧下さい。かつての夫に対する気持ち<No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5
2012.05.29
会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.6,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」,哀れ埋もれた存在の少年達発掘資料編へリンク,白虎隊の他にも参戦散華の少年達を追跡,幕末戊辰,会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.6西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編、◆白虎隊悲劇の裏事情6_中軍護衛隊_木村兄弟の活躍中軍護衛隊とは:(13~15歳:初20人~実50参加:隊長_西郷寧太郎(18歳隊長))初めから読む<前頁から読む(No.5)究極の米事情と、少年達の活躍<究極食糧難に際して、活躍した少年二人>(木村丑徳16歳と、木村新次14歳兄弟の活躍前述のとおり、9/14日に於ける砲弾攻撃で、会津の食糧難には拍車がかかる。この日、城内に打ち込まれた砲弾数は約2500発。ただでさえ少ない食料が欠乏。典型体な兵糧攻めの法則。複数の貯蔵庫がやられた。食料倉庫といえば、十八扉の倉庫、二の丸の米倉庫、佐川官兵衛陣地内の特殊米蔵(輸入米)五ノ丁の倉庫などがあるが、この段階ほとんど枯渇。佐川の蔵も官軍により仕入れルートを遮断されている。蔵奉行が、 敵に取り囲まれ、蔵に火を放ち、割腹自刃の悲劇もあった。その為、年少少年が頑張った。木村丑徳16歳と、木村新次14歳兄弟は、危険を顧みず、皆の食料調達の為に、十八扉の倉庫に行き、米を積み出して、各藩士に配った。 砲弾の嵐。体の小さい二人が城を飛び出す。当然、自藩の大人に咎められる。だが、兄弟は言い切った。一刻一秒を争う時に、時間の無駄は、許されない。「何を迎せられるか!これは藩命じゃ!我を子供扱いは許さんぞ!己は、こう見えても18歳じゃ!体の小さいを馬鹿にする気か!藩命に背く気か!」時間がなかった。嘘八百。嘘も方便。出鱈目なんでもありだ。独断行動だった。なんだか、目に浮かぶ。兄の丑徳は、まだしも、新次の体は、どんだけ小さかったことだろう。小さな体で、重い米俵を次から次へと必死で抱えては、台車に運び入れる。だいたい、米俵とは、約60キロあるといわれる。身長だけでなくて、細い腕で、14歳の新次も必死で、額に汗して兄を助けたのだろう。中軍護衛隊には、恰好のいい実戦話はないが、これぞ、まさしく彼らの勇戦と呼ぶべきではないだろうか。しかしながら、結果としては、実に悲しい。これは17日のこと。開城に係る実質決定は22日。まるで、風前の灯。そのまんま。会津の誇り、鶴ヶ城には、白旗が、虚しく風に靡く。7_ところで、大事件!は、むしろ、こっちかな?の巻◆ところで、大事件!は、むしろ、こっちかな?の巻中軍護衛隊の記録は、ぐんと後の世、◆高木盛之輔述 齋藤肆(シ)郎著「中軍護衛隊」という形で、世に齎された。ところが、この実戦体験者、高木盛之輔でさえ、当時15歳。その為、彼らの隊レイアウトを垣間見る題材としては、まあ注目されるも、実戦に係る資料としては、当然、あんまり注目されない。実際、事件や流れは、前述内容に限らず、会津戦争全体に関して多少記載されているが、レンズともいうべく彼らの目が、そもそも子供だから、ややっこしい絡み世情解説には役立たない。その上、戦場を血まみれで走り回った当事者じゃないから、なおさら、軽く流された。あくまで子供ばかりの隊が実在した程度のあしらいともいえる。ところが、視点を変えて見るなれば、現代の歴史ファンにとっては、この「当時子供だった者ならではのメリット」が潜んでいる。当時すでに大人になっていた者が書くと、克明ながら、ひとつ問題点がある。まずいことは伏せる。個人差もあるから、何から何まで、いちいち自軍の不利な事を隠蔽したりするわけではないが、誰かが猛烈に傷つく事は、伏せて惚けて、その付近は絶対描写しない。卑劣は戦の裏表紙。実際は、勇ましく戦って死んでいった男達だけでなく、著者達は、皆、その裏表紙を知っている。知っているからこそ、伏せて触れない。「余計な死なされ方」について :◆この頁あたりからお読み下さいますと、話が少し見えると思います。:◆不義の刑と屈辱:表示先中央迄スライドダウン勿論、年少少年達とて、いちいち、鈍感に、人が傷つく事を掘り返して書くことは無い。それは常識だから。ところが、やっぱり大人程ピンとこないから、書いて、ヒントの卵を、落としてくれた点がある。▼年少少年隊士が落とした「川崎尚之助」のさらなるヒント(続_川崎尚之助の痕跡No.4)◆川崎尚之助、◆川崎失踪と妻八重子の謎▼■山本八重(=明治の新島八重子)の前夫は、川崎尚之助。ところが、これは離縁扱いとして、明治に新島襄に嫁いでいる為、明治の世、誰に川崎を尋ねようが、「知らん存ぜぬ!」と大人は惚ける。恭順説を提示した様子があることと、新島に嫁いだ八重子の過去を、まさか第三者が喋るわけにいかないから。現代の世、多少は川崎情報発掘されているが、皆が口を割らず、当時は情報皆無で難儀した。=集団沈黙。■その点、このチーム「中軍護衛隊」は子供ばっかりだから、そのニュアンスが鈍感。おかげで、川崎の動きが記載されている。資料頁のいざない少年の死亡(白虎隊に限らず)【A(19人)+B(59人)=78人+埋もれている魂幾多】【A】8/23飯盛山自刃の悲劇メンバー(16人)+戸之口原方面の戦場現場戦死(3人):15~17歳、井深茂太郎(16),石山虎之助(17),伊藤俊彦(16) ,石田和助(16),池上新太郎(16),伊東悌次郎(15),林八十治(16),西川勝太郎(16), 津川喜代美(16),津田捨蔵(17),永瀬雄治(16),野村駒四郎(17),簗瀬勝三郎(17),簗瀬武治(16),間瀬源七郎(17),有賀織之助(16),安達藤三郎(17),篠田儀三郎(17) ,鈴木源吉(17),【B】◆各隊で参戦散華の少年達、◆隊に付属せず親族の所属隊に付随して参戦散華の少年、◆初期遠方、白河方面、越後辺など、もっと沢山埋もれた可愛そうな魂が(MORE!資料頁へ)◆資料頁では、以下の項目についても記載してます。身分差別:異種の武士、仲間、若党など中間階級下層武士考察・・・どうしてこんなに情報が今だ解らないかというと、身分差別、姓を持たぬ者など重いテーマ特殊な家臣達と、率いる地元農兵団の結束について現在は会津の家臣、しかし、戦国時代、先祖はこの地に於ける一国一城の主。殿様だった家系。この場合、現在の自領農民は、昔、先祖の家来だった者達。姿と身分は現在農民ながら、彼らには、侍の血が流れている。会津藩主様の為には、今ひとつ奮起できない者も、直属の殿様のご子孫の命令なれば、奮起して勇ましく戦う。これについては、資料頁のNO.3項目の「河原田家」と、NO.5項目の「沼沢家」のパターンに見るような「少年隊長」についてご覧頂きますと解りやすいかと思います。会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊「中軍護衛隊の秘話」TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<No.1<No.2<No.3<No.4<No.5<No.6(現在頁)
2012.05.29
会津戦争,親鳥を失った雛鳥の奮起少年隊No.5,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」,埋もれた存在少年達発掘資料編リンク,白虎隊の他にも参戦散華の少年達追跡,幕末戊辰会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.5西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編、◆白虎隊悲劇の裏事情5_「木村兄弟」の大決心_の続き中軍護衛隊とは:(13~15歳:初20人~実50参加:隊長_西郷寧太郎(18歳隊長))初めから読む<前頁から読む(No.4)新次がやり返す。「当たり前じゃ!仇が憎くない大馬鹿者がどこにおる!! ・・・貴様、名乗れ!年上とて、許さんぞ!」凄んで見せた新次にはおかまいなしに、高木は笑った。「そうじゃ、そのとおりじゃ。されば、戦おうではないか!憎い敵を打ちのめしてやりたいとは、思わぬか?んっ?・・・今こそ、決起猛奮戦じゃ!親の仇、会津の仇!一緒に戦おうではないか!!」二人の少年は、突如、ぴたりと泣き止んだ。思わず、ふっとんできた兄の木村丑徳。彼に向って、高木盛之輔が目配せをした。新次は、ふたりの年長少年に凝視された。ここが正念場。会津魂。子供だって会津魂。立証の時だ。突然、背筋を伸ばした木村新次(14歳)がこう言った。兄上、我らも、兄上の隊に入隊させて下さいませ!私に仇討ちをさせて下さい。必ず、全う致します。木村の名を汚すような真似は断じて致しません。雑用なり、なんなりお申しつけ下され。兄上、どうか!!お願い致します。皆が、喝采を贈った。兄の木村丑徳と、高木盛之輔は無意識に肩を抱き合っていた。・・・さらに、皆の大喝采。誠、あっぱれ!これぞまさに会津男児じゃ!こうして、励まされて、二人の少年は、仇討ちの参戦を呼びかけられると、大奮起。このうち、11歳の兵蔵は篭城に送り、新次は兄の丑徳に付いて参戦することとなった。実は、兵蔵は、不服でゴネた。しかし、励まされて、篭城組で頑張る。「城には、弱い女子供しか、おらんのだぞ。誰が、戦って、彼らを守るのじゃ?兄達は、戦場で、いつ何時、命を落とすや解らん身の上じゃ。されば、お前は、どうするのじゃ?お前は、強い男児じゃないのか?お前は、子供ながらも、薙刀の腕が達者ではないか。ツワモノがおらんかったら、女子供は、皆どうなってしまうんじゃ。誰が守ってやるんじゃ?お前は戦うのじゃ!強い男児として、先頭に立って戦う意気込みで城を守れ!」声の主は誰かと振り返るなれば、皆が目を合わせて、吹き出すを必死で堪えた。それは、さっきまで泣き虫小僧の新次だった。こうして、18歳の隊長、西郷寧太郎が結成した「中軍護衛隊」は、14~15歳が中心の年少少年ばかりだが、決意を固めて、会津戦争を戦いぬく。初め、20余人だったが、開城時点では、実、約50名が参加していた。 たかが子雀。親鳥を失った雛鳥の集まり。お子様軍団。されど、その決意たるや、本物だった。親兄弟の仇討ちなれば、命は惜しくない。少年達は本気だった。6_中軍護衛隊の実戦記録この隊は、上記のとおり、年少者が多いことから、隊として固まって実戦といえば、実は少ない。束ね役の16歳、17歳は、馬術も巧で、騎兵報告係として走ったり、また洋学知識のある者は、事務的分野で大人の補佐で駆り出されたりという具合、つまり兼務で多忙。ところが、チビ達は、主に城内に転落した砲弾の消火活動や城内の警備事程度で、血腥い戦場にまとめて送り出されることはなかった。ところが、初めての戦場経験は、9/14。この日は、豊岡守備に送り出された。敵の猛攻撃は、小田山陣地からの連発砲弾の嵐。これをなんとしてでも食い止めねばならぬ。この日、城内に転落した砲弾の数だけでも2500余発と言われる。戦場で哀れ落命した少年は二人。■片峰小次郎(14歳)、■南摩節(15歳)。両者共に、敵の銃弾に打ち抜かれて死亡した。木村庄次郎(15歳)も怪我をした。まずは、南摩節(15歳)について。どの子も皆可愛そうだが、この子は、なんとも不憫。南摩家は、8/23日の一家自刃の家。稀少な生き残りだったのだが・・・惜しい。運命の神は、彼を守りきれなかったようだ。。◆会津戦争:集団一家自刃のあらましそして、片峰小次郎(14歳)について。これも、頭を抱え込んでしまう。この子は、連続、敵に向って、「薩賊長奸」と絶叫。狙撃兵の弾に撃たれ、即死。これは、明らかに目立つ。原因を考えてみた。親兄弟の仇に、たとえ撃ち殺されようとも、それを恐れず、死の寸前まで「薩賊長奸」と絶叫したい心境だったかどうか、それは本人に聞かねば解らないが、調べてみると、この子の家は、全滅していない。なぜゆえ、あえて危険を選んだのか?(実は戊辰時、その状態の者が実在する。己の命より、敵を罵り嘲り、嗤いながら死んでゆく。)ところが、さて、彼の場合は、はたしてそれか?次の瞬間、胸が痛くなった。実は、この日、会津側では砲術の達者な男(※後述)が猛奮戦。一発目から、みごと、敵陣に命中。忽ち、ドタバタ、敵が蜘蛛の子状態に四散するが見えた。思わず、少年達が大歓声をあげたとある。(これは、中軍護衛隊の記録に残る。)やっぱり子供なのだ。油断は大敵、斜に構えて睨む老獪さが欠如しているは否定できない。その後、二発目も大命中。これは凄い。敵陣は、静まり返って、うんともすんとも音さえ聞こえない。ざまあ見ろ!薩賊長奸!薩摩の賊共くたばれ!長州の糞奸共め、腐れて砕けて吹き飛んで全滅しちまえ!!少年達は、口々に叫んでいた。中でも、片峰小次郎の行動は、こりゃ目立ちすぎる。高い塀によじ登って、その天辺で、「薩賊長奸!」を連発していた。一艇の銃が、彼の胸板を貫いた。即死だった。なんと言われようと、相手は見るからに小さい子供ではないか!なんちゅうことだ!と怒りたいが・・・悲しいけれど、それが戦なのだ。究極の米事情と、少年達の活躍<究極食糧難に際して、大活躍の木村兄弟会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊「中軍護衛隊の秘話」No.1<No.2<No.3<No.4<No.5(現在頁)<No.6TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊裏事情考察<会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料 <会津にフランス式戦術と砲術を教えた者★
2012.05.29
会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.4,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」,哀れ埋もれた存在の少年達発掘資料編へリンク,白虎隊の他にも参戦散華の少年達を追跡,幕末戊辰, _会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.4西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編、◆白虎隊悲劇の裏事情4_泣きながらやってきた二人の少年_その続き初めから読む<前頁から読む(No.3)天を劈くばかりの大声で、木村新次、14歳が叫んだ。「兄上っ!!母上は死にました。姉上も、御爺ちゃん達も、妹達も、みんな死にました。みんな揃って自刃なされました!!」・・・途端に皆が駆け寄った。これは、史実にも有名な木村兵庫一家自刃事件。運命の慶応4年8月23日、木村兵庫(500石)家では、一家9人が、無念の一家総自刃を遂げた。木村兄弟の生き残りは、 早期にこの隊に居た木村丑徳(16歳)、加えて、上記の木村新次(14歳)、木村兵蔵(11歳)の二人。「男が泣くな!武士の子が泣くとは、何ごとぞ!」叱り付けるその兄、木村丑徳とて16歳。涙声に潤んで、その肩が激しく震えている。この隊は、篭城早々に、正式な隊になる以前に、皆自主的に集まっていたと思われる。正式に隊として許可を得たのが8月25日。許可を下したは山川浩。この事件は、即ち、上記のとおり、正式な隊と認められる前の段階と思われる。思わず、駆け寄った少年達は、十人十色の様々な反応を見せる。なぜなれば、皆同じなのだ。一家自刃で、親兄弟を失ったは皆なのだ。たったの一日で、全部喪失したるはお互いさんだ。気の強い子は、堪えて、寧ろ怒ってみせる。「貴様だけじゃないぞ!皆同じだ!泣くな!弱虫!弱虫は卑怯者とおんなじだ!」勇ましく怒鳴るわりには、泣いている。涙を見せまいと、手で擦るから、顔が真っ黒け。真っ黒けだから、なおさら、苛めっ子に見える。対して、男児ながら、なかなか母性本能に優れた子も居る。14歳の新次は、同年齢につき、さておき見放し、11歳の兵蔵の元に、駆け寄った。兵蔵は、泣いて泣いて、ぐちゃぐちゃだ。涙やら、洟やら。酷い顔だ。優しい少年は、兵蔵の前に、膝をついて、懐紙(チリ紙のこと)を取り出し、洟を拭ってやった。この子も、同じく一家自刃で女家族を失っている。優しかった母や、姉が自分にしてくれた仕草を思い出して、同じようにこの子に再現している。その背後から、鋭い声が、降って湧く。「やめろ!男児を甘やかすでないぞ!そいつぁ、会津魂の恥というもんじゃ!弱虫を許すは、年長者の為すべき手本じゃないぞ!貴様、恥を知れ!」だが、怒鳴る者さえ、泣いている。喧嘩をふっかけるわりには、実のところ、その子とて、泣いている。泣かれるとつられて泣けてしまうから腹が立つ。だから、怒鳴って、そんな自分を、遮二無二誤魔化している。「畜生!もう泣くな!弱虫め!」年少少年軍団は、大混乱に陥ったのだ。己との戦い。泣けても泣かぬ意地の張り合い。睨めっこ。笑ったら負けよ・・・じゃなくて、その反対。泣いたら負けじゃ!泣かぬまいと、必死の睨めっこ状態。その時だった。背後から、低めの声が響いた。少年にしては低い声。その声は、彼らには珍しく、明らかに変声期を越えている。大人そっくりの声の主とは、高木盛之輔の声だった。15歳の高木盛之輔が言った。お前達、なぜに泣く?なぜ、泣いておるのじゃ?仰天して、みんなが振り返った。5_「木村兄弟」の大決心高木盛之輔は、さらに続けて、こう言った。お前達、なぜに泣く?なぜ、いつまでも泣いておる?我は、お前達を責めているのでないぞ。・・・己自身に問うてみよ。なぜに泣いておるかじゃ。問うてみよ。・・・それを我に語ってくれぬか?あまりの愚問に皆は、ぽかんと呆れた。なぜに泣くとはなんちゅうことじゃ。さっきから繰り返し、聞いているではないか。幼子に再び、惨事を語らせるつもりか!!年長の者ですら、一瞬、冷汗が出た。これは惨い!兄の木村丑徳は、年長の立場上、堪えるものの、瞬時に眉毛が逆立った。他人に弟を責められてたまるものか!新次は兄の出幕を許さない。ムッとして、またしても叫んだ。「あんまりだからじゃ!薩長共のやらかす事があんまりだからじゃ!あいつらのせいで、男だけじゃなくて、女子供にまで・・! 」言い返したつもりが、後半は散切れて、全うできない。悔しくて、また泣く。高木盛之輔が言った。お前、今、何と申した?それが、お前の答えじゃないのか?あんまりだからと申したのう。薩長共が許せないからだと、今、しっかと申したではないか!・・・されば、どうなんじゃ?悔しくはないか?親の仇が悔しくはないのか?会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊「中軍護衛隊の秘話」No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊裏事情考察<会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料 <会津にフランス式戦術と砲術を教えた者幕末系記事集約玄関▼_★
2012.05.29
会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.3,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」,哀れ埋もれた存在の少年達発掘資料編へリンク,白虎隊の他にも参戦散華の少年達を追跡,幕末戊辰,会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.3西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編、◆白虎隊悲劇の裏事情3_中途半端な年齢、年少少年、込上げる怒り_その続き初めから読む<前頁から読む(No.2)少年達の胸の内は複雑だ。自分だけは生き残り、一歳年下の弟は、男児でありながら、親の判断で冥土に飛び去った。運命は、年齢僅か一つか二つ違いで、きっぱりと塗り分けられたことになる。それは個々の家、大人達の判断如何で、紙一重なのだ。こう思うと、人の命は、天の裁きだけではない。親といえど、人の命を、人が支配したことになる。複雑すぎて、いいも悪いも、とても語れない。ここに居る中途半端な年齢の少年達は、いわば「あぶれ者」。親と運命を共にすべき幼子でもなければ、戦士として、まともに役立つ年齢でもない。中途半端な少年達は、少年といえど、少年なりに苛立っていた。己は、何も解らぬ幼稚な子供ではない。それなりに、世論を把握している。さりとて、この体。自分で自分に腹が立って仕方ない。チビでもなんでも、この際、どうでもいいが、鉄砲抱えれば、忽ち、つんのめって、てっ転んでしまう。人が歩いてるんだが、鉄砲が歩いているんだか、この体じゃ話にならない。(当時の銃は非常に重い)心は焦るが、実戦に役立たずの己に、自己嫌悪。猛烈に苛立っていた。体が小さいと、銃操作も上記のとおり不可能。その上、砲取り扱いも身長が異なる為不可能。二本松の木村銃太郎(この人物も二本松戦で散華)は、早期にそれを解して、砲の据台にも、特別な加工を施し、銃の取り扱いも少年専用の工夫を為していた。(二本松戦)さらに、運命の悪戯が続く。先天的に背丈の高い者、年齢のわりには頑強な体つきの者の一部は、認められて、特例的に白虎隊に限らず、大人と共に戦場に向った。可愛そうなのは、身分が低い足軽や、武家に仕える下僕達の倅。同じ白虎隊でも足軽は、皆集まり、隊として華々しい活躍を後の世、語り継がれることなく、兵不足の各大人の隊に、補填用にばらまかれて混在している。どこで誰がいつ死んだのやら、混乱困窮で、今だ情報が曖昧。また、下僕達の倅は、さらに悲惨。親の判断で追従しているため、もともと、誰がどこに参加していたのやら、初めから、ほとんど解らない。これ、以外に多いと思います。二本松戦に於いても、その事象。後の世、誰かの記憶で、確か、侍の誰それさんには、先祖代々仕えた忠実な下僕が、戦の中、いつも忠義を徹して、影のように寄り沿っていた。その男は、十代半ばの倅を連れてきていた。その子も戦っていた。確かその子は死んだようだ。親も死んだようだ。だが、名前は確か、○○太郎か、なんか、はっきりしないが、そんな名前の子だったような気がする。(◆二本松SERIES内にこの話記載、◆当該少年頁;最下段A_17)◆身分的犠牲の話も資料頁中途半端な年頃の少年達は、苛立っていた。親の仇!薩賊長奸!あやつらは人でない!・・・その時、鶴の一声。西郷寧太郎による少年隊結成呼びかけ。少年達は、忽ち集まった。ここに、親鳥を失った雛鳥達が、怒りの大変化。奮起結集!!年少少年隊。4_泣きながらやってきた二人の少年隊を結成して間もなく、二人の少年が、やってきた。二人は、わんわんと泣きながらやってきた。この隊自体、白虎隊に入れてもらえぬ十代半ばの少年ばかり。即ち、大人から見ればチビの大集合。そのチビよりも、さらにもっと小さいチビがやってきた。この二人は、木村兄弟。やってきたのは、木村新次(14歳)と、木村兵蔵(11歳)。この隊には、彼らの兄が居る。兄の名は、木村丑徳という。しかし、その兄とて16歳。兄の顔を見るなり、二人の少年は、なおも激しく、泣き崩れた。「兄上っ!!我らは、我らは、一体どうしたらよいのでしょう。母上は、姉上は、御爺ちゃんは・・」・・・支離滅裂で、何を言いたいのか、さっぱり解らない。兄の木村丑徳は苛立った。「貴様ら、恥を知れ!それでも武士の子か!泣いていたでは、何が何やら、わけ解らん!戯け!愚か者め!何が言いたいのじゃ!!」ところが、その罵声が、途中で潤んで歪んだ。皆が振り返ると、その肩が震えている。必死で涙を堪え、兄の威厳で、弟達を叱り付ける木村丑徳のその声は、もはや涙声。その隙に、天を劈くばかりの大声で、木村新次が叫んだ。「兄上っ!!母上は死にました。姉上も、御爺ちゃん達も、妹達も、みんな死にました。みんな揃って自刃なされました!!」・・・途端に皆が駆け寄った。会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊「中軍護衛隊の秘話」No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4・・・TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊裏事情考察<会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料 <会津にフランス式戦術と砲術を教えた者★
2012.05.29
会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.2,西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」,哀れ埋もれた存在の少年達発掘資料編へリンク,白虎隊の他にも参戦散華の少年達を追跡,幕末戊辰,会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.2西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」◆会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編、◆白虎隊悲劇の裏事情2_子雀達の猛発奮中軍護衛隊とは:(13~15歳:初20人~実50参加:隊長_西郷寧太郎(18歳隊長))初めから読む若い魂が爆裂した!命は惜しくない!会津の為に戦って共に果てよう!西郷寧太郎の呼びかけに、少年達が集まった。皆、同じような境遇なのだ。忽ち、親鳥を失った子雀達が集まった。たかが子雀達とて、心は、親の仇討ち!青い炎が燃え盛る。皆、奮起大結集!尚、この隊は、結成当時は、僅か20余人ながら、開城寸前の9月半ばには、我も我もと、40~50人位に膨れ上がっている。身の丈、大人の半分。玩具同然の小さい少年達が、口々に叫ぶ。親の仇じゃ!命なんぞ要らぬ!ぶち殺せ!一人残らず、討ち取れ!「薩賊長奸!」あやつらは人でない!おのれ薩摩!おのれ長州のだんぶくろ野郎共め!ぶち殺せ!◆中軍護衛隊メンバー概略:(中軍護衛隊について各項目資料はこちらの頁【18~16歳は僅か5人】(18歳):隊長_西郷寧太郎,(17歳):田中千代吉,竹村幸次郎,(16歳):木村丑徳、高津勇(15歳):20人太田金十郎、横山吉四郎、永井直千代、小川四郎、岡田豊三郎、藤澤保太、遠山常吉、中澤寅四郎、樋口啓三、田中栄治、廣田東、武川武志、土屋尚次郎、上田元四郎、甲斐庄常吉 矢島惣太郎、村松武太郎、高木盛之輔、南摩節(=死亡)、木村庄次郎(怪我)、石山九八郎(帰ってきた少年とは、彼だ!)(14歳):8人河原熊四郎、黒河内八蔵、池上三郎、木村新次、丸山千代吉、飯田武四郎 鈴木豊彦、片峰小次郎(=死亡)、【上記計8名中、生き残り7名は、15歳未満にて猪苗代謹慎は免除となる。】このうち後の世、資料編纂に尽力した者(括弧内年齢は戊辰時)高木盛之輔(15歳)、村松武太郎(15歳)、木村丑徳(16歳) 横山吉四郎(15歳)但し、資料の著者は、「齋藤肆(シ)郎」。3_中途半端な年齢、年少少年、込上げる怒り前述のとおり、西郷寧太郎の「中軍護衛隊」とは、いわば「雛鳥の奮起結集隊」である。隊長の西郷寧太郎ですら18歳。他に束ね役の4人が16歳と17歳。あとは15歳と14歳の子供ばかり。最終的には、13歳も混じる。<親鳥を失った雛鳥の奮起結集隊が組織されるまでの少年達の立場と心情>8月23日、篭城の鐘が鳴り響いた後、彼らの中で、親兄弟誰一人失っていない者はまず居ない。まずは、敵が会津突入以前の各戦地に於いて、父や兄を失った。そして、同日、敵が城下に乱入した際の防御戦で、さらに多大なる死者の山。しかし、そこまでなれば、少年達は耐えれる。それが武士の掟なのだ。父や兄は名誉の戦死を遂げた。会津の為に、藩主様の為に命を捧げた名誉の人なのだ。歯を食い縛る。泣きそうになったら、「あっぱれ!我が父よ、我が兄よ!」「あっぱれ!」の一言を呪文のように、己に言い聞かせて、必死で涙を堪える。ところが、やるせないのは、母や姉達、それに加えて、幼い妹や弟。足手まといになる幼子は、母が手にかけて運命を共にした。戦場に命を捧げるでなく、哀れ、虚しく散った血色の花びらよ。幼年侍の悲哀:或る家では、後始末を家主人に依頼されて、現場を見取った下僕が後の世語る。一家自刃の際、9歳位の少年が語った。「母上、僕も侍。だから死は観念しました。でも、僕は男児。藩主様の為に、一人だけでも憎い敵を殺してあげてから、死にたい。」願い受け入れられず、母が泣く泣く、この子の命を断った。◆会津戦争:集団一家自刃のあらまし少年達の胸の内は複雑だ。自分だけは生き残り、一歳年下の弟は、男児でありながら、親の判断で冥土に飛び去った。運命は、年齢僅か一つか二つ違いで、きっぱりと塗り分けられたことになる。会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊「中軍護衛隊の秘話」No.1<No.2(現在頁)<No.3・・・TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊裏事情考察<会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料 <会津にフランス式戦術と砲術を教えた者幕末系記事集約玄関▼_
2012.05.29
雛鳥の奮起少年隊,西郷寧太郎の中軍護衛隊秘話,会津戦争,親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊No.1,哀れ埋もれた存在の少年達発掘資料編へリンク,白虎隊の他にも参戦散華の少年達を追跡,幕末戊辰,会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊_No.1西郷寧太郎の年少少年隊「中軍護衛隊の秘話」会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編(哀れ、埋もれた存在の少年達発掘)白虎隊の他にも、もっと沢山の少年達が埋もれています。隊の名が不明ながら、明らかに年少者が集まった隊が、皆の記憶に、複数存在。原因は苦戦による混乱情報錯綜の他、悲しいことに、身分差別なども絡んでいます。後の世、弔いを心掛けた者さえも挫折。その訳は、姓を持たぬ者の情報整理が不可能だった。今回は、「会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料編(哀れ、埋もれた存在の少年達発掘)」資料編のうち、中軍護衛隊に的を搾って、史実から「心系スポット」ご案内。十代半ば、白虎隊にすら門前払い。それでも、小さい少年達が、感動のドラマを。<上記の資料頁MENU>【項1】_中軍護衛隊(年少少年の隊)、【項2】少年の死亡(白虎隊に限らず)【項3】_他にも、少年に係る関連隊手掛事項、【項4】他にも、死亡少年【項5】幸い存命したが、思わず考えてしまう要素 :雑役係として、官軍に拘束された2人他MENU1_少年隊長による「年少少年隊:中軍護衛隊」中軍護衛隊とは:(13~15歳:初20人~実50参加:隊長_西郷寧太郎(18歳隊長))この隊の発生は、慶応4年8月25日。会津戦争の最中。薩長の不義を許せず徹底抗戦、会津の話。 8月23日、敵がついに、城下になだれこんだ。男達は戦い、女子供老人の一家自刃の数たるや、想像を絶する。 ◆会津戦争:集団一家自刃のあらましたった一日で、何百という人が、一家総自刃の悲劇。その数、二百数十とも、三百とも。追従した忠誠の中間や、歴代武家に仕える下僕など含めると、実はその数、定かでない。これは、戦死の数でない。戦で戦死した数はもちろん別ながら、観念して切腹した現役侍の数も、ここに含まれて居ない。いわば戦闘能力を持たぬ者達の自刃数値。切腹やら、喉を突いて自刃やらは、大人ならずや、十代前半の子供も同じく。何も解らぬ幼子は、母が心鬼にして、自ら手にかけた。敵に生き恥曝すまい!それが武家の習い。潔く、忠義を徹して、自ら死を選ぶは必須の理。会津は巨大な釜の中。奥州の城下町は、昼だというのに、空は真っ黒。砲声が鳴り響く。8月25日、西郷寧太郎は、年少少年ばかりの隊の編成を発案、許可を得た。中軍護衛隊と名づけ、自ら隊長となった。僅か18歳の隊長だ。隊士は13歳から15歳が主流。幹部、束ね役として、16歳と17歳も居るが、16歳以上は、自分も含めて、僅か5人だけ。あとは、チビばかり。この時代は、今と異なり、十代半ばとは、本当にチビなのだ。西郷寧太郎が、こうして行動を起こすには訳があった。若い魂が爆裂したのだ。寧太郎の一家は、上記の8/23日、会津中で総自刃が相次いだ中、彼の家もそれだった。母も女兄弟も老人も皆、瞬時天に飛び去った。◆西郷寧太郎家族(一家自刃):表示先からリンク有しかし、それだけでない。寧太郎はつい最近、妻を娶ったばかり。17歳の可愛い花嫁。あたかも高校生のカップルみたいな可愛い夫婦。並んで座ると、雛人形と言われた。それが、まるで悪夢。新婚の妻も、西郷の家に殉じて自刃を成し遂げた。・・・「人形のように可愛い妻。されど彼女は、もう地上に居ない。なんの為に嫁いできたのだろう。なんと不憫な運命じゃ!」死に逝く為に嫁いで来たなんて!・・・寧太郎の悲しみはたとえようがない。子雀達の猛発奮!(No.2)会津戦争:親鳥を失った雛鳥の奮起結集!少年隊「中軍護衛隊の秘話」No.1(現在頁)<No.2・・・TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊裏事情考察<会津戦争,白虎隊以外の少年各隊考察資料 <会津にフランス式戦術と砲術を教えた者幕末系記事集約玄関▼★
2012.05.29
明治のカレー事情北海道版No.3,開拓使お雇い外国人講師,カレー裏話,クラークと北大生とカレー,開拓使とカレー,明治の北海道,軍とカレー,幕末明治明治のカレー事情:北海道版「絡むは、開拓使お雇い外国人講師」_No.3カレーライスと、ライスカレー:陸軍対、海軍カレーの胡椒でなくて、「呼称」初めから読む:No.1<前頁:No.2カレーの呼び方は、こちらの頁にも関連でカレーシリーズにつき、記載しましたが、明治の呼称は、だいたい4種類。ライスカレー、カレーライス、辛味入汁掛飯、もう一つはタイスカリイ(下枠に表記)。今日の感覚では、漠然と、ライスカレーとは、カレーライスのレトロな呼び方のような気がするが、どうも、これは、海軍対、陸軍の違い。違いといえば爽やかだが、そもそも、あんまり仲が宜しくないから、なんともいえないが。とりあえず、両者、ライスカレーと、カレーライスは、陸軍発祥か、海軍発祥かで呼称が違う。つっこんでみると、少多、レシピも異なる。■海軍流:カレーライス:スープストックを使う。小麦粉をフライパンでちゃんとソテーする。■陸軍流:ライスカレーレシピがかなり怪しい。材料は同じようなかんじでも、カレーソース作成行程がハテナ。ラードを使っているようだから、これで小麦粉を炒めたと信じたいが解らない。戦地に於ける究極状態では、いつも陸軍。海軍はスケールの大きい悲惨事象は多いが、地を這いつくばって、飢えや伝染病でゴテゴテ状態はいつも陸軍。陸軍では、カレーソース作りなど、流暢なことやってられない事情にて、簡略化されていたかもしれない。昔の人は、ライスカレーと呼んでいた訳は、こうなると、総体数の違いだろうか。従軍経験者のうち、陸軍兵が多いから、ライスカレーという人口が多かったからなのだろうか。米が食べたい者としては、先に「ライス」の言語が聞こえるほうが、同じイヤでも食欲が湧くか?カレー考察とは、沢山の本があって、沢山の説有り。ご興味のある皆様、BOOKをどうぞ。_おもろい呼称「タイスカリイ」カレーライス&ライスカレー」対「タイスカレー」:明治北海道この時代に於ける一時的方言なのか、それともスペル読み違いか?ハテナ!の巻1872(明治5)年、北海道開拓使の公文書には、「タイスカリイ」登場。前述のケプロンが食べたとされるのが、即ち「タイスカリイ」。しかしながら、これは、一件ポッキリではないから面白い。1875(明治8)年にも「タイスカリイ」登場。三田村多仲(樺太に派遣されていた医師)の日誌にも、そう書かれているらしい。それじゃ、方言か?なんて粗雑な憶測も湧くが、おそらく、彼らは皆、知識人であり、前例&書物を基本に物事を記載する。初期段階で、だれか偉い人が「タイスカリイ」と発音したか、書いたかだろうと思われる。誰なんでしょうね!!つまり、「タイスカリイ」は北海道人の方言ではありません!!明治の北海道の万民が「タイスカリイ」と発音していた話は存じません。尚、今日、北海道が「カレー王国」と称する以上、確かに美味しいものの宝庫!▼TOP<No.1<No.2<No.3(現在頁)上2件系等は主にここに集約▼_★
2012.05.25
明治のカレー事情北海道版No.2,開拓使お雇い外国人講師,カレー裏話,クラークと北大生とカレー,開拓使とカレー,明治の北海道,軍とカレー,幕末明治 _明治のカレー事情:北海道版「絡むは、開拓使お雇い外国人講師」_No.2別発想:カレー事情:明治の北海道版クラークの活躍と、カレーを食べた元祖北大生初めから読む:No.1クラークは、学生達を見て悩んだ。日本人が小さくて、貧弱な体型なのは解るが、みんなヒョロヒョロ。病死する者が多すぎる。もちろん肉を食べないからと解る。だが、彼の場合、そこに固執せず、まずは観察から開始する。彼は、日本人の食生活に猛烈な疑問を感じた。学生に限らず、日本人に於ける白米への執着が異常だ。白米はもともと高価。北海道はさらに、地元生産不可能な時代だから、移入米とくるから猛烈に割高。それでも食べたい。だから、雑穀だらけの混じり飯なのだが、それでも、なぜか、パンより好きらしい。この頃北海道は、逆立ちしたって米は作れない。何回プロジェクトしたって、損金の繰り返しが歴史。クラークは、断言する。「北海道で稲作に執着するな。諦めろ!」開拓使は、その方針に則って動く。隠れて、屯田兵はコソコソ自宅用の稲作試みる。案の定失敗。無駄な労力。終いにお叱りどころか、取り締まる。別途、それでも諦められない男が一人。北海道に於ける稲作の父とは、「中山久蔵」という男。彼の功績によって今日の北海道米が存在するのだが、話が長くなるので、今回は割愛。クラークは、観察を続ける。最初は、この国で生産される米自体、極めて栄養価が低くて悪い食べ物なのか?と仮説もたててみた。しかし、本州から移入してる北海道では、猛烈に高いから、その量は少ない。鳥の餌同様の雑穀飯やら、湯でのばしてトロトロの粥やら。となると、原因は、まだ奥深いぞ!さらに観察。問題は、米そのものよりも、これは食習慣だな!に至る。この国の者は、主食に米だか、雑穀米だかをまず食べる。味噌汁だか、塩汁だか、なんだか飲む。それはいいが、おかずの感覚が非常に変だ!!飛び切り塩辛いもの、梅干とか、漬物少々。小皿に盛って、ハイお終い。少しコマシなものを今日は食べてるかと思えば、なんだか知らんが変な珍味だか茶色いやつ。佃煮みたいなものとか惣菜の一種をほんの少し。塩辛いから、ほんの少し。それで、ガツガツ主食を食べてお終い。干し魚を食することもあるが、貧しいから、それも毎回じゃないし、外国人の感覚では、びっくりする程小さくて話にならない。因みにそれも塩辛いから、ほんの僅かで満足している。さては、こやつら!副食が少なすぎるぞ!この段階で、野菜のビタミンとは、世界的に発見されていない。塩分過多が体に悪いことも、もちろん全世界、誰も特別意識していない。その為、クラーク本人も同様。さりとて、この食習慣だけは、取っ払ってやろう!そう考えた。飯椀を抱えて、あとは、量的に一握りにも満たない塩辛いおかずを極小量食べるこの風習。1876(明治9)年、クラークは、学生達に「米食禁止令」を発布!心鬼にして発布。クラークの発布してくれた鬼のような寮規則。「米食べるべからず!」当時彼は、札幌農学校の教頭。ところが、やっぱり日本人だ。肉料理がみんな苦手。ただでさえ痩せてるのに、腹は減ってるくせに、まともに食べれない。そこで、カレーも一応メニューの中にある。ところが、ここに嬉しい特例があったとされる。「ただし、カレーライスの時だけは、これに非ず。」この日だけは、米を食べれる!!とはいえ、これは公文書に残るとかのレベルではない。闇雲に、そうなったのか、口述許可だったのかは不明だから、異説もあるが、あしからず。つまり・・・彼らがカレーを頻繁に食した原因は、こうなると、▼学生達が、今日の子供達と同じように、カレー味が好きだから・・・じゃなくて、米を食べさせてもらえるから・・・・だったと考えられる。日本全体と、軍の兵に於いては、臭い麦と臭い肉を誤魔化す為のカレーだったが、北海道は、それも勿論だが、加えて、米に飢える比率がさらに高い。たとえ僅かな米とて、ますます、米に憧れる裏事情が絡んでいた。米食禁止令を食らった哀れな北大生は、そりゃ、カレー食べるはずだ!なりゆき、野菜を一杯摂取したことになる。クラーク▼激寒の地、不毛の地、泥炭地・・・開拓時代、ろくでもないとこ、北海道。精魂尽くして開墾、新技術を学び、勝利を信じ、奮い立つ学生達。されど、万事皆無、荒れ狂う石狩川。たちまち氾濫で全て押し流されてしまう。とんでもない寒波の到来で牧草も穀物も何もかも、全部アウト。絶望の原野。がしかし、この人は、こう語った!Boys,be ambitious!少年達よ!大志を抱け!開拓時代&それ以前江戸時代にも頑張って開拓してた人の中、八王子千人同心蝦夷移住隊も。彼らは土方歳三と同じルーツ。箱館戦争の時、仲間同士戦う宿命。犠牲者も出ました。後半に開拓苦労話。八王子千人同心蝦夷移住隊の悲話も。カレーライスと、ライスカレー:陸軍対、海軍TOP<No.1<No.2(現在頁)<NEXT:No.3わんこの少年達も、大志を抱け!★
2012.05.25
明治のカレー事情北海道版No.1,開拓使お雇い外国人講師,カレー裏話,クラークと北大生とカレー,開拓使とカレー,明治の北海道,軍とカレー,幕末明治明治のカレー事情:北海道版「絡むは、開拓使お雇い外国人講師」_No.1カレー裏話:お気の毒な「お野菜さん!」一番偉いのは、本当は、お野菜さんだったのに!!もともと、明治の日本、カレーの伝播発端は、兵に麦と、肉を摂取させる為だったといえる。美味しいから浸透したんじゃなくて、富国強兵の為の対策。強制的にカレー責めにあった兵にとっては、いわば、軍の陰謀みたいなものだ。今日もカレー。明日もカレー。しかも、臭み消しの目的でカレーで誤魔化す。白米ばかりじゃなくて、麦と肉を兵に強制的に与える為の対策。麦が体にいいらしいのは、昔から言われていた。ところが、当時の麦は臭かった。その上、総体的に多くの日本人は肉に抵抗があった。それをカレーで闇雲飯!臭いものに蓋でなくて、臭いものにカレー。強制的与えられる。辛くて黄色い汁ぶっかけ飯。この話:近代日本:幕末明治の日本人と栄養栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」 なにはともあれ、とにかくカレーを食べたら、脚気患者が激減。ところが、固定観念やら、思い込みとは恐ろしい。脚気撲滅の神様は、蛋白質だ!と真っ先に提唱されて、何を申すか!ビタミンじゃ!と展開。ここまでは良いが、折角ビタミンに気付いたんなら、野菜の価値に覚醒せよ!!と言いたいが、当時、栄養分析は極めて初歩段階。ビタミンは、麦に執着したままに、なかなか野菜に目が向かない。あくまで、野菜は脇役だったのだ。臭み消しにカレー。具無しじゃ辛いし、いくらカレーが辛くても、肉だけじゃ気色悪い。だから、レシピに従い、単に野菜は付録の具にすぎない。まあ、原因究明は、上記のとおり、極めてお粗末な状態なのだが、事実、当時の日本にとっての最大の悩み、脚気患者率が激減したのだ。▼「高木兼寛データ:食生活改善による脚気患者減少の推移」:1883年(23.1%)→1884年(12.7%)→1885年(1%未満!!) 上記データは、食生活改善といっても、実施された内容は、麦と肉を与える為のカレー。摂取の結果、僅か3年間で、はてしなくゼロに近づいたというもの。まずは、1883年(明治16年)にご注目。どんぶり勘定でいうなれば、4人に1人がもれなく脚気で死亡する。このデータは一般民でない。海軍兵。戦死する以前に、兵隊は、もれなく病死する!!つまり、これでは富国強兵じゃなくて、貧国弱兵!!その上、自動消滅の法則!!「ビタミンといえば、なりゆき、カレーに野菜が一杯入っていたからじゃないのかな?」・・・の発想に至るまで随分の年月。可愛そうなお野菜さん。本当の英雄は、麦ばかりじゃない。寧ろ、お野菜さんのおかげなのに。みんなの頭は、野菜なんか、そっちのけ!あくまで脇役の座から昇格させてもらえなかった!!野菜の価値は上記のとおり、そっちゃ退け扱いだが、こうして、カレーは軍施設や兵を発端に、日本に浸透してゆく。明治6年には、高木兼寛が頑張ってる海軍だけじゃなくて、陸軍側にも、陸軍養成幼年学校の給食メニューにも、ちょろっと登場している。別発想:カレー事情:明治の北海道版クラークの活躍と、カレーを食べた元祖北大生幕末明治初期のカレー展開は、上記TEXTリンク先のとおり。(割愛!)いずれにせよ、是非食べたいから浸透したでない。それどころか、デフォルトは「気色悪い!イヤな食べ物!」と大層評判悪いが、強制的に与えられたにスタートを切る。ところが、北海道事情は、多少異なる。ここに、開拓使のお雇い外国人講師が絡む。今日、北海道はカレー王国と言われる。その話に、もれなくクラークが登場。しかしながら、クラークが、カレーを食べろ!と言ったかどうかは、実のところかなり怪しい。どうも、学生達の究極の選択で、しぶしぶカレーになったような気がするぞ!この話を下記に。日本でカレーを食べさせられた開拓使のお雇い外国人といえば、真っ先には、ケプロン。確かに、1872(明治5)年、北海道開拓使東京事務所で、ケプロンが「ライスカレー」ならずや、「タイスカリイ」を食べさせられている。本人が欲したのか、なんだか知らないが史実に残る。西洋野菜と農学推進の絡みなんだろうが、食べた原因自体は詳しく書かれていない。そして、その後、1876(明治9)年、北大の発祥の元、学生達に農学を指導した有名人、ウィリアム・スミス・クラークの配下、学生達は、カレーを頻繁に食べている。だが、これには訳がありそうだ。確かに、農学を学び実践して、額に汗して作った西洋野菜を食するところにも、カレーの意義はありそうだが、北海道事情がここに隠れている。クラークは、学生達を見て悩んだ。TOP<No.1(現在頁)<NEXT_No.2<No.3★
2012.05.25
ビタミンと日本人の食と健康,江戸時代から明治の脚気病とドタバタ劇No.4,高木兼寛の蛋白質説と兵のカレー食導入,鈴木梅太郎ビタミン発見,鈴木忠次郎の「押し麦」技術発明,近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」,栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦とカレーとビタミン」近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇_No.4【現在シリーズのガイド】:初めから読む<(現在頁はNo.4頁)THE_明治、悲しきかな現実、「貧国弱兵」脚気患者だらけの実態◆海軍軍医「高木兼寛」提唱の「蛋白質説」脚光、◆兵は「今日もカレー、明日もカレー」その心は?高木氏苦虫!ビタミン騒動!鈴木梅太郎がビタミン発見!抗脚気因子!<押し麦技術の発明。圧ぺん加工機械の普及>鈴木忠次郎の活躍<上記の1~4までのドタバタ行程に至る前の昔考察>高木が、麦と肉と蛋白質にこだわり始めた原因を考察◆徳川家康の健康管理、◆幕末フランス留学の幕臣の「須藤時一郎による「万宝珍書」」▲前頁、▼現在頁近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」近代日本の脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」てんやわんや後で根拠を覆されるが、結果として、確かに脚気患者をぐんと減少させた「涙のカレー話」年解説解説1849(嘉永2)高木兼寛、薩摩藩士の子として誕生1863(文久3)三宅秀(遣欧使節随行人)が、インド人がカレーを食べる姿目撃。<下行の山川以上にイヤがっている。手で食べる風習が非常にイヤな感じ!とぼやく。>1868~1869(明治元~2)高木兼寛:戊辰戦争&明治維新:薩摩藩から官軍側として活躍1869(明治2)高木兼寛、開成所洋学局入学1871(明治4)山川健次郎、留学の際、船内でパンじゃなくて白米食べたいが故、カレー注文。山川健次郎が仰天食べ物尚、この頃、北海道だけは別展開で、外国人技師の影響下、北海道には北海道流「カレー事情」登場。1872年(明治5)カレーレシピ本販売高木氏がこの本、読んだかは知らないが、一応この年、カレーレシピ本販売されている。■「西洋料理指南」(著:敬学堂主人)、■「西洋料理通」(著:仮名垣魯文)著者のお二人がモトにしたものについて、裏付判然としないが、コレじゃないかと思う。▼▼須藤時一郎と「万宝珍書」:江戸幕府幕臣が持ち帰った西洋料理レシピ各種。なぜ日本人は小さい。なぜ体弱い。西洋人は煎じ薬飲まないのに、食事で栄養と、薬効果双方得ているようだな。須藤は日本の兵を強くするため、本気で各種レシピレポート。フランス留学で、この人物は大真面目に洋食を研究報告。しかし戊辰の嵐で苦労は水の泡。1872(明治6)陸軍もカレーに振り向く。陸軍学校(幼年生組)給食に、ライスカレー登場。この年、上記須藤が、万民用に書き直した本を刊行。1877(明治10)西南の役この頃、いち早く、食堂やレストランでカレー提供店も登場してるが、我も我もと浸透伝播する状態ではない。「高木兼寛」が、脚気撲滅を目指したのは早い。富国強兵には、脚気撲滅!原因追求に一人取り組んでいた様子。実権的にカレー登場は、上記文章内のとおり、一般的に言われるより、案外早期の可能性大。「高木兼寛」が作成したデータは1883から1885(明治16~18)歴々、要職についているが、海軍医務局副長就任後、海軍兵のデータを用いて、脚気発生率の推移を数値でまとめる。彼は、強制的に麦食を進めていた。麦だけでなく、洋食を与え、肉による蛋白質を摂取させた。その結果はこのとおり▼1883(23.1%)→1884(12.7%)→1885(1%未満!!)1885(明治18)「高木兼寛」が大日本私立衛生会雑誌に自説発表。▼「脚気は蛋白質の不足が原因である!麦は米より蛋白質が高いから患者が治った!洋食を取り入れて、肉を摂取させたから、なおさら効果があがった!」▼(この人物は、脚気撲滅貢献は事実。だが、この段階の自説は、根拠立証に粗雑不十分だと、影で非難の声ボソボソ。されど回復者多発なのだ!)麦摂取効果は「水溶性食物繊維+ビタミンが原因」とは、この時代だれも知らない。1888(明治21)「高木兼寛」が日本初の博士号授与式:彼は医学博士号。1894~1895(明治27~28)日清戦争いつの日か、兵の皆さん、・・・今日もカレー、明日もカレー肉の臭みも麦の臭みも辛いカレーで誤魔化され!富国強兵、丈夫な体は、哀れ!!1903(明治36)「今村弥(大阪の商店)」が、初にカレー粉販売1904~1905(明治37~38)日露戦争ビタミン大騒動!_鈴木梅太郎1910(明治43)鈴木梅太郎がビタミンの元:発見!抗脚気因子!鈴木梅太郎((静岡県民)がビタミンの元:発見。その上、抗脚気因子!、オリザニンと名づけられた。これは、暗黙に、▼「脚気が治ったのは、蛋白質じゃないぞ!麦と肉に、一杯蛋白質が入ってたから、脚気が治っただなんてウソだぞ!」ということになるのだが、これまた、問題点があり、この段階で脚光はいまひとつ。1911(明治44)カシミール・フランク(ポーランド人)がさらに研究。ビタミンとネーミング。押し麦機発明_鈴木忠次郎1914~1918(大正3~7)1914~1918:第一次世界大戦。貧富の差が増大。国民が飢える。1918:富山の米騒動他、各地で米騒動。この頃、鈴木忠次郎(静岡県出身)が、麦の加熱・圧ぺん技術開発に大成功。硬くて不味くて臭い=麦のイメージを塗り替える。現代人が食べている「押し麦」発明。この後、鈴木は、近藤尚(東京)、増井慶次郎(静岡県)と協力。工業化へ努力推進。1920(大正9)高木兼寛死亡。71歳。1920位~1925位(大正9位~14位)上記、鈴木忠次郎は、近藤尚(東京)、増井慶次郎(静岡県)と協力しあって、「押し麦機」開発、工業化に成功。この段階で機械は普及、浸透している。完全に定着。国民も「押し麦」食べている。ところで、国民生活には、この頃、既にカレーが、そこそこ浸透している。1926(大正15)・・<12/25から昭和元年ハウス食品が、家庭用商品としてカレー粉販売。「ホームカレー粉」<明治36年には生産販売明確だが、一般人には無関係の夢世界。>この時万民も可に。1939~1945(昭和14~20)第二次世界大戦1950(昭和24)池田勇人:「貧乏人は麦を食え!」発言騒動。1954(昭和29)カレールウ(固形タイプ)の初販売は、エスビー食品。この頃、テレビは前年に国内産初販売された程度。庶民がみんな保有するは、まだ先。1960(昭和35)グリコの「ワンタッチカレー」販売。この後テレビのCM合戦。宣伝効果で売上好調化。1969(昭和44)大塚食品、レトルトカレー発明。「ボンカレー」販売。今日、カレーといえば、子供達の人気メニュー。されど、そこに至るまでに、前述延々のとおり、涙、涙のカレーJAPAN物語。従軍経験で、臭い麦と臭い肉に、黄色くて辛いタレをぶっかけられて、食わされた人々だけは、勘弁してよ!恐怖のカレーだったらしい。尚、カレーを称する言語といえば、カレーライス、ライスカレーは誰でも知っているが、他に、タイスカレイも。なんとなく、悲惨がニュアンス的に感じられる表現として、この呼び名がある。「辛味入汁掛飯」。舌噛みそうな発音。早口言葉で三回続けて言うのは案外困難。カラミイリシルカケメシ、な、涙のカレー物語。THE_END! 尚、別編:「北海道流カレー事情(外国人技師の影響下)」<上枠表内記述を詳しく経緯で読むには真下のNo.1▼TOP(犬猫サイト)<現在SERIES_No.1<・・<No.3<No.4(現在頁
2012.05.23
日本人の食と健康,江戸時代から明治の脚気病とドタバタ劇,健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇_No.3,高木兼寛の蛋白質説と兵のカレー食導入,鈴木梅太郎がビタミン発見,鈴木忠次郎の「押し麦」技術発明推進,須藤時一郎と「万宝珍書」,徳川家康の麦食による健康維持論,健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇_No.3日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘JAPAN近代:健康の源は「麦なのか、蛋白質なのか、ビタミンか?」ドタバタ事件関連別編のガイド:食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編No.2:◆貧乏人は麦を食え!発言とは?,◆明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因は何?,◆服役者が健康なのはなぜだ?,◆江戸時代の都会病,◆押麦製法&押し麦用プレスローラーの開発についてドタバタ行程の経緯_その3【現在シリーズのガイド】THE_明治、悲しきかな現実、「貧国弱兵」脚気患者だらけの実態◆海軍軍医「高木兼寛」提唱の「蛋白質説」脚光、◆兵は「今日もカレー、明日もカレー」その心は?高木氏苦虫!ビタミン騒動!鈴木梅太郎がビタミン発見!抗脚気因子!<押し麦技術の発明。圧ぺん加工機械の普及>鈴木忠次郎の活躍▲前頁、▼現在頁<上記の1~4までのドタバタ行程に至る前の昔考察>高木が、麦と肉と蛋白質にこだわり始めた原因を考察◆徳川家康の健康管理、◆幕末フランス留学の幕臣の「須藤時一郎による「万宝珍書」」近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」【ドタバタ行程に至る前の・・・遠い昔段階考察】高木が、麦と肉と蛋白質にこだわり始めた原因を考察<初めから読む<前頁から読む高木兼寛は、大層な勉強家。兵の健康な身体を作る為に、学んだ文献はもちろん、時代的に、それより過去のもの。健康の題材に麦と蛋白質にこだわった原因は、私が思うには、「徳川家康の健康管理」に係る古書知識と、幕末にフランスに渡った幕臣の須藤時一郎による「万宝珍書」がヒントではないかと思う。後者については、明治5年に、民間人に売れるような本として、カレーを紹介した者が居る。(■「西洋料理指南」(著:敬学堂主人)、■「西洋料理通」(著:仮名垣魯文))その彼らとて、ヒントは、当然、自力本願でネタは掘れないわけだから、やはり、須藤時一郎による「万宝珍書」であろう。須藤時一郎は、幕末、襲い来る世界の脅威に、貧弱な日本人の体型と、脚気に限らず病弱な体質の者が多いことに悩んでいた。西洋人のあの体型。巨大で怪物みたいに力ありそうで・・。病人も居るだろうが、日本ほど酷くない。だからアジアに襲い来る。真っ先に、肉食は、すぐピンときた。ところが、彼の偉いところは、固執せずに、全般的になんでもかんでも吸収、几帳面にレポート山のように書き上げる。日本人は、健康の為にも、病気治療の為にも、苦い煎じ薬を飲む。外国人は、そんな変なもの飲まない。ところが、やたらに元気。とすれば、全ての食生活にヒントがあるんでないのかな?須藤時一郎は、野菜料理も、ケーキやお菓子も大真剣にレポート。レシピを持ち帰る。お菓子は、日本人にとって苦手なミルクやバターを大量に摂取できる。つまり、兵士に与える食の改善で、強い兵を作ろうと考えたのだった。富国強兵言語は、明治オリジナルでない。ところが、戊辰戦争で、徳川は潰され、それどころでなくなってしまった。折角、徳川幕府に提出したレポートは水の泡。だが、幸い戊辰戦後、生き残った彼は、明治6年に、万民がわかりやすいように、あらためて書き直して、「万宝珍書」を刊行。日々の多忙に追われて、刊行が、たまたま6年になってしまったために、上記二名の作品のほうが、巷に出回るは早いが、食と健康意識は、須藤が老舗。江戸時代の留学経験者。刊行が遅い訳:この人物は、戊辰時、負け組=幕府側で参戦したから、本人は早め恭順で、わりと被害は軽度だが、いずれにせよ、「賊軍出身者」扱い。「賊」が堂々早期に刊行物なんて無理な話。それが時代背景。ところで、この人物と弟の 「沼間慎一郎(守一)」はどこで捕縛された?戊辰の最中に姿をくらましたのはなぜ?など・・・関連記事へリンク。◆徳川家康の健康管理上記、薩摩の高木氏に限らず、幕末の偉人の多くは、発想発案のヒントに、山盛り古書を読む。兵方についてだけは、長沼兵法もへちまも、およびでない!近代洋風砲術に頭を切り替えろ!状態になったものの、それとて土壇場。ギリギリまで、偉い兵学者達は、それを許さなかった。古書をどんだけ知ってるかで、勝負がきまった。だから偉い人ほど、確かに古い本を読んでいる。さて、参考までに、徳川家康の健康管理について。家康の漢方知識は半端でない。そんじょそこらの漢方医は、知らずに呼び出されて、調子にのってペラペラ薀蓄喋れば、最後!赤面、どん底、穴に潜る。二度と、浮上できない。そんな家康は、実は麦飯を徹して食べ続けていた人物。しかも家康時代は1600年代。当然麦飯は臭い。或る日、気の効く家臣の配慮で、麦の含有量が減らされて、パラパラ粉末が舞い散る程度の美しいご飯が運ばれた。家康は、烈火のごとく怒ったという。可愛そうな家臣。気配りは墓穴に繋がる。「世は、戯れに麦を食していたのではないのだぞ!愚か者め!」因みに、家康は、徳川ご長寿、ナンバー2。ご臨終は75歳。ナンバー1は、ご存知ラストタイクーン「徳川慶喜」。77歳。さて、皆さん、というわけで、麦を食べましょう!戦後の皆さんの消費量は100万トン!現代では押し麦は2万トン程度。家康さんを見習いましょうか?!上記の長い話、NEXT頁に「MINIおまとめ表」としてご案内します。近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」TOP(犬猫サイト)<No.1<No.2<No.3(現在頁)<NEXT:No.4:幕末玄関★
2012.05.23
ビタミンと日本人の食と健康,江戸時代から明治の脚気病とドタバタ劇,健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇_No.2,高木兼寛の蛋白質説と兵のカレー食導入,鈴木梅太郎がビタミン発見,鈴木忠次郎の「押し麦」技術発明推進,須藤時一郎と「万宝珍書」,徳川家康の麦食による健康維持論,健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇_No.2日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘JAPAN近代:健康の源は「麦なのか、蛋白質なのか、ビタミンか?」ドタバタ事件関連別編のガイド:食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編ドタバタ行程の経緯_その1【現在シリーズのガイド】THE_明治、悲しきかな現実、「貧国弱兵」脚気患者だらけの実態◆海軍軍医「高木兼寛」提唱の「蛋白質説」脚光、◆兵は「今日もカレー、明日もカレー」その心は?▲前頁、▼現在頁高木氏苦虫!ビタミン騒動!鈴木梅太郎がビタミン発見!抗脚気因子!<押し麦技術の発明。圧ぺん加工機械の普及>鈴木忠次郎の活躍<上記の1~4までのドタバタ行程に至る前の昔考察>高木が、麦と肉と蛋白質にこだわり始めた原因を考察◆徳川家康の健康管理、◆幕末フランス留学の幕臣の「須藤時一郎による「万宝珍書」」近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦とカレーとビタミン」【ドタバタ行程その3】高木氏苦虫!鈴木梅太郎がビタミン発見!!前の頁から読むところが、1910(明治43年)、今さらにして、高木氏は、突っつかれてしまう!!1910(明治43年)、鈴木梅太郎がビタミン発見!抗脚気因子!とネーミングした!これは、暗黙に、「脚気が治ったのは、蛋白質じゃないぞ!麦と肉に、一杯蛋白質が入ってたから、脚気が治っただなんてウソだぞ!」ということになる。間接的に突っつかれた高木は戊辰時、薩摩藩人。官軍。その一方、静岡といえば、勿論一概には言えないが、戊辰時敗れた徳川の郷。勝てば官軍。負ければ賊軍。「賊軍」の烙印。追い出されて集団移住の転落、元幕臣家系の郷。鈴木の父に係る江戸時代職業は不明であり、静岡県人で農業とある。(注:鈴木氏本人は、父の出自過去語っていません。農業の一言。)薩摩の御大将、高木兼寛、今さら幕臣の郷、静岡県の子孫にアタックされてしまった。しかし、なぜか、この段階で、世は鈴木に冷たい。全面的に認められなかった。鈴木が発見したのは、今日に於けるチアミン(ビタミンB1)。しかも当時の技術では、抽出方法が、完璧ではなかったなどの問題点があったといわれる。おかげで、何をぬかすか!小癪な!状態かどうかは知らないが、運命の女神は鈴木氏に冷たい。ところが、翌年、1911(明治44)年、ポーランドのカシミール・フランクがビタミン抽出立証。これも、多少補正されてゆく経緯があるが、まあ、だいたいビタミンが定着。!!鈴木氏は、大正解だったのだ。・・麦が脚気に効いた原因は、食物繊維とビタミンであり、蛋白質は無関係!肉の蛋白質摂取で、貧弱な体型、歩く骸骨状態は改修されるだろうが、脚気撲滅直因でない!麦に大量蛋白質とは何事じゃ!実は、ボソボソ小さい声で、大分前から独り言言ってた。尚、この段階、水溶性食物繊維効果については、誰も気付いていない。というわけで、学説根拠に、高木氏が「蛋白質!」と断言してしまったから、失敗だったものの、麦が実際、脚気防止に貢献したには、変わりない。【ドタバタ行程その4】・・・とにかく麦を食わせろ!兵だけじゃなくて、この際、国民にも麦を!!そこで、大発奮!世紀の大発明は、またしても、静岡勢だった。とはいえ、世は戦争一色。雄藩、薩摩の御大将と、静岡県人がすったらもんだら、喧嘩してる暇はない。この後、第二の鈴木氏が、安価で健康に良い麦を普及させる為に、大貢献。この頃世情は悲惨。1914~1918の第一次世界大戦で、国民生活はどん底。全国で米騒動が勃発。<押し麦技術の発明。圧ぺん加工機械の普及>◆されば、麦の普及を!!鈴木忠次郎の活躍「静岡の鈴木氏第二号」鈴木忠次郎は、前頁のビタミン発見者、鈴木梅太郎とは別人。別人だが、同じく静岡県人。鈴木忠次郎は、静岡県裾野市出身。前述のとおり、麦はいくら体に良くても不味くて臭い。これを解決しなけりゃ、普及できないぞ。鈴木忠次郎も頑張った。当時は、現代と異なり、価格も米に比べ、断トツに安い。だが、問題点は、不味くて臭い。現代人が食べてるあの「押し麦」とは、この時代無い!!ぺったんこで、真ん中に筋一本入ってるヤツが麦なんだ!と思い込んでいるが・・・当時、アレは無かった。丸麦とは不味い。硬い。煮え難い。おまけに臭い!!悪いことフルコース。それが麦だった。現代のものは余計な部分切除&プレスしてあるから、美味しくて柔らかくて、全然臭くない。▼「ぺったんこで、真ん中に筋一本入ってる押し麦」とは、まさに鈴木忠次郎の大発明!・・・★彼は、苦心の暁、見事、麦の加熱・圧ぺん技術開発に大成功。鈴木忠次郎&近藤尚&増井慶次郎トリオ:発明品の工業化◆鈴木忠次郎(静岡県)、◆近藤尚(東京)、◆増井慶次郎(静岡県)この後、鈴木忠次郎は仲間と力をあわせて、発明発見の成果を工業化へと繋ぐ。押し麦機械の開発、製品化を実現。高木兼寛、ついに天昇の時第一次世界大戦が終わった1918年の二年後、71歳の高木兼寛は、ついに力尽きて天上の人。色々有り過ぎる程にあったけれど、麦が健康の源であったことだけは確かなのだ。死の崖っぷちから、救われた患者も多い、この点も重要なことだ。高木兼寛は、日本国の為に、頑張ったのだ。麦が、兵だけじゃなくて、国民に浸透してゆく行程の最中、彼は冥土入り。江戸時代生まれの男が、惜しくも、ここにまた一人、天の彼方へ。TOP(犬猫サイト)<No.1<No.2(現在頁)<No.3<No.4:幕末玄関
2012.05.23
ビタミンと日本人の食と健康,ドタバタ劇,江戸明治の脚気病と栄養,健康の源は麦、淡白質、ビタミン何れなのか!騒動No.1,高木兼寛の蛋白質説と兵のカレー食導入,鈴木梅太郎がビタミン発見,鈴木忠次郎の「押し麦」技術発明健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇No.1食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編_4日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘■優秀食品:押し麦(大麦)押し麦(大麦)は、食物繊維に関して言うと、■白米の約20倍!、■玄米の約3倍強■ゴボウの1.7倍、■ホウレンソウの3.4倍押し麦(大麦)の食物繊維は、水溶性食物繊維を多く含有、水溶性食物繊維:コレステロールの消化吸収を妨げてくれる効果有り。他に、ビタミンB、カリウム、カルシウムを含むカラダの元気を自分でガンガン呼ぼう!「食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編」さて、上記の話は、あくまで今日立証されている内容であって、明治の人々は、そんなことは知らない。JAPAN近代:健康の源は「麦なのか、蛋白質なのか、ビタミンか?」ドタバタ事件関連別編のガイド:食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編No.2:◆貧乏人は麦を食え!発言とは?,◆明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因は何?,◆服役者が健康なのはなぜだ?,◆江戸時代の都会病,◆押麦製法&押し麦用プレスローラーの開発【現在シリーズのガイド】THE_明治、悲しきかな現実、「貧国弱兵」脚気患者だらけの実態◆海軍軍医「高木兼寛」提唱の「蛋白質説」脚光、◆兵は「今日もカレー、明日もカレー」その心は?高木氏苦虫!ビタミン騒動!鈴木梅太郎がビタミン発見!抗脚気因子!<押し麦技術の発明。圧ぺん加工機械の普及>鈴木忠次郎の活躍<上記の1~4までのドタバタ行程に至る前の昔考察>高木が、麦と肉と蛋白質にこだわり始めた原因を考察◆徳川家康の健康管理、◆幕末フランス留学の幕臣の「須藤時一郎による「万宝珍書」」近代日本:幕末明治の日本人と栄養「おまとめ表」栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦とカレーとビタミン」【ドタバタ行程その1】THE_明治、悲しきかな現実、「貧国弱兵」脚気患者だらけの実態明治の日本は、「富国強兵」というが、これはあくまで夢!実態は、「貧国弱兵」なんといっても、極み付けは、脚気患者の多発。兵は戦死というが、実のところ、飢えて、脚気で体がダメになって死んでゆく率が異常に高い。国恥部分、究極孤立で飢餓状態に至った隊に係る内部のマイナス要因は、結構伏せられて公言されていない。ところが、ちゃんと無理して、ご飯粒を沢山与えていた隊も、兵は同じように脚気が多い。こりゃなんじゃ?!俄に焦り出す。となると栄養か?そこで、ちょっとばかり鼻が高かったのは海軍。陸軍に比べると病死率が低い。まずは、こちらの頁No.2(真上TEXTリンク先)にも書きましたが、海軍は「麦ご飯」摂取率が高かった。この段階で、ビタミンは発見されていないが、現代立証されてる内容で考えると、原因は簡単。白米に比べて、ビタミンが多いし、水溶性食物繊維が断トツに多い。日本は焦っていた。世界の脅威。なんとしてでも、「貧国弱兵」実態を離脱するには、脚気病の撲滅!!早急解決が必要だ!ここで、とりあえず、麦が体にイイ!のがわかっている。されば、寝ても覚めても兵には麦を食わせろ!!■【ドタバタ行程その2】:海軍軍医「高木兼寛」提唱の「蛋白質説」脚光高木兼寛は頑張った。彼は海軍軍医。戊辰を戦って勝った官軍雄藩、薩摩藩出身の意地。そして、明治は海軍の意地。非常に研究熱心。そこで、「高木兼寛」氏が、「ゴッホン!」と学説を提唱。「我が海軍兵の健康の源は蛋白質じゃ!麦と肉による蛋白質じゃ!」・・・喝采を浴びたのだが・・・後年、思わぬ災難が降って湧く。(後述)「高木兼寛」:嘉永2年9月15日(1849)~大正9年(1920):海軍軍医&医学者。東京慈恵会医科大学創設者。・・・長男(高木喜寛)も、二男(高木兼二)も医学者。◆戊辰時は、薩摩藩の軍医。明治2年(1869)開成所洋学局入学。◆明治は、脚気撲滅に尽力。ビタミンの父とも呼ばれるが・・・(後述)。◆海軍カレー発祥の父でもある。健康の為にカレーを取り入れた。◆麦と肉を食わせる為に、カレーをメニューに!!江戸時代、戊辰終焉直後明治初期人もカレーを見た人は居る。(例:山川健次郎が仰天、外国の食べ物。◆こちらの表内にさらに詳しく)しかし、この段階で、日本人にとってのカレーは、典型的「勘弁してくれ!の食べ物」だった。されど、富国強兵の為なれば、心を鬼に!高木カレープロジェクトは功を奏した。兵が喜ぼうと絶望しようと関係ない。病死者の率はぐんと抑制された。これは、まさしく、高木氏の力。流石は軍医、高木の着目は大正解。◆「臭いものには蓋」じゃなくて、「臭いものには、カレー」!!軍の兵食に、カレー登場は、判然としないが、下表データからすると、一般的に言われるよりも早いかもしれない。肉を嫌がる者の為に、臭み消しカレー、麦の臭いがイヤな者にも、確かにカレーなら誤魔化しやすい。当時は、現代と異なり、価格も米に比べ、断トツに安い。だが、問題点があった。現代人が食べてるあの「押し麦」とは、この時代無い!!ぺったんこで、真ん中に筋一本入ってるヤツが麦なんだ!と思い込んでいるが・・・当時、アレは無い!丸麦とは不味い。硬い。煮え難い。おまけに臭い!!悪いことフルコース。それが麦だった。現代のものは余計な部分切除&プレスしてあるから、美味しくて柔らかくて、全然臭くない。これには、後述の「静岡勢」の活躍がおおいに絡む。いくら体に良くても、安くても、不味すぎて、食えないのが麦だった!!高木は頑張った。されば、カレーだ!ついでに、西洋人が日本人がに比べて、やたらデカイのは肉食だからだ。肉を食わせよう。イヤでも食わせよう。魚なんかダメじゃ!日本人の肉嫌いの最大原因は、江戸時代の慣習もあるが、ネックになったのは肉特有の臭い。つまり、肉も臭いからイヤだ!という人口率が高いわけだ。(コレ、個人差ありまして、呆れる程、昔から肉食ってる!タイプの武士はいるのであります。獣肉食うは下賎の民と罵り差別しつつ、実は食っている!ヤダネ!)麦も肉もつまり臭い!!臭いからカレーで蓋をする!!・・・兵達は、ぼやく。「今日もカレー、明日もカレー・・・。」哀れ、涙のカレー物語。◆海軍軍医「高木兼寛」提唱の「蛋白質説」脚光とはいえ、脚気患者が激減したのだから、これは画期的。高木氏は、データをまとめ、学説発表。高木兼寛は、胸を張って、声高らかに叫ぶ。「脚気は蛋白質の不足が原因である!麦は米より蛋白質が高いから患者が治った!洋食を取り入れて、肉を摂取させたから、なおさら効果があがったのじゃ!」(ちょっと脱線):蛋白質と肉食は元気の源。それ以外は栄養といえない!風潮が、この後到来。薩摩の大山厳は、素直に信じて、やたら高カロリーの食べ物ばかり摂取。忽ち太る!妻の捨松が、愚痴をアメリカの友人、アリスベーコンに書き送る。「イヤだわ!あの人、どんどん太る!」この話:山川捨松と大山厳の縁談裏事情現代の常識では、蛋白質で脚気が治るも変!!すぎるし、ましてや、麦の蛋白質がそんなに多いか?と誰しも笑ってしまうが、当時、日本人の栄養知識では仕方ない。寧ろ、高木氏の研究熱心には、脱帽。几帳面にデータ表を作っている。肉と麦を食べさせられた海軍兵データ:今日もカレー、明日もカレー▼<海軍脚気患者の推移:1883年(23.1%)→1884年(12.7%)→1885年(1%未満!!)<上記データの年代から考えると、ねっ、やはりカレー導入時期は随分早いと思いませんか?データを作る段階で、多分カレー導入してたはず。>結局、海軍の定番となったカレーは、兵の健康の為に。この後、日露戦争(明治37~38年(1904~1905))の時も同じく、兵は「ああ、カレー、またもカレー。」折角頑張って、虎口を脱して、生き残ったというのに、ご褒美にはカレーさんが待っている!!こちらも、一種「涙のカレーの人々?!JAPAN風!」ロダン怒るか?TOP(犬猫サイト<No.1(現在頁)<No.2<
2012.05.23
カラダの元気を自分でガンガン呼ぼう!食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編,白米、対、麦と玄米の価値_No.3,日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘コラム付,食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編_2生麦、生米、生卵でなくて、「生ビタミン!」_No.3白米、対、麦と玄米の価値日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘◆第二弾!_麦と玄米を食べようの巻No.1:麦を食べようの巻麦も、玄米も体にイイらしい。ビタミンも食物繊維もイイらしい。No.2:「麦の小話古今当時」◆貧乏人は麦を食え!発言とは?,◆明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因は何?,◆服役者が健康なのはなぜだ?,◆江戸時代の都会病,◆押麦製法&押し麦用プレスローラーの開発についてこちらの特集もカラダの元気◆栄養、有り難成分、◆介護病気で困った時、◆難しくない本、◆健康と栄養各種記事リンク人気のライスケーキとは?&日本人とお米幕末明治話玄米をしぶしぶご飯で食べず、美味しいおかずにアレンジ各種。・・ドリアなどこってり洋食にもアイディアの元は、やはりBOOK!_ _ _すぐ疲れる。会議中、舟を漕ぐ。睡魔に襲われて乗り物乗り越し!代謝が低下してるゾ!そーゆー時は、いくらグーグー寝たって治らん!!愛する??亭主がソレだったら、No.2の服役囚の原理!!でスパルタ活性化の術を!なんもせんで、そこらでゴロゴロ。掃除の邪魔だぞ!ん?▼家族にこんな人居ませんか? . ..玄米、胚芽米、ビタミン強化押し麦、他にカルシューム入りなど各種、こちらのバナー、お米カテゴリから色々選べます。 ____犬猫にも、健康な食生活TOP(犬猫サイト)<No.1<No.2<No.3(現在頁):他に_幕末WITH_LOVE玄関_
2012.05.21
カラダの元気を自分でガンガン呼ぼう!201205,食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編,麦と玄米の価値_No.2,日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘コラム,貧乏人は麦を食え!発言とは?,明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因は何だ,服役者が健康なのはなぜだ?,江戸時代の都会病食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編_2生麦、生米、生卵でなくて、「生ビタミン!」_No.2白米、対、麦と玄米の価値日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘◆貧乏人は麦を食え!発言とは?,◆明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因は何?,◆服役者が健康なのはなぜだ?,◆江戸時代の都会病,◆押麦製法&押し麦用プレスローラーの開発について精麦は、生活習慣病予防や治療にGOOD!「食物繊維」は、精白米の17~19倍も!ビタミンやミネラルなども含まれて居ます。麦も、玄米も体にイイらしい。ビタミンも食物繊維もイイらしいとは?その心は?▼◆第一弾!_麦を食べようの巻は、こちら_No.1JAPAN近代:麦の小話◆その1_「貧乏人は麦を食え!」昭和25年の話。新聞紙上で大騒ぎ。差別発言だ!国民を蹴落とす!火種は、この発言。「貧乏人は麦を食え!」これは尾ひれがついて、ややっこしくなった。勝ち組、負け組の後者なら、「貧乏は、自業自得、麦でも食っとけ!!」・・・のニュアンスになってしまったから、大騒ぎらしい。本当は、そんなイジメ発言ではなかったようだ。今では麦ってあんまり安くないが、当時、麦は安価でビタミン他栄養もあるから、今、みんな苦しいと思うけど、頑張ってそれで対処しようよ。所得に応じて自己防衛自活対策しましょうね・・・のつもりだったとか。(ホントかな?)本当に貧乏な張本人が言ったなら、ああそうかと思うが、そうでないから、ややっこしくなった。これは、当時生まれていた人なら、そうじゃない!本当にアイツは許せん!とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、あしからず。この一大事件の発言の政治家とは、池田勇人(1899(明治32)~1965(昭和40)年)。◆「麦がどうやら、かなりカラダにイイらしい!!」と気付いた原因はなんと!・・の巻<麦は米と比べて食物繊維、タンパク質、ビタミン他カラダにイイ成分をを多く含む><江戸時代の都会病>江戸時代、明治と、日本では「脚気患者」が山盛り。ビタミンなんて発見されてないから、山盛り。ところが、奉公人が、病に倒れる前に、雇い主は、使いもんにならないから里へ追い返す。すると、不思議と完治して帰ってくる。そこで、根源はなんだか知らんが、「脚気」は「都会病」なんだという範囲までのリンクは早かった。田舎で暮らすと治る病気となれば、玄米や雑穀、麦。白い米食えないやつほど、健康!!アララ!それを知りつつも武士は、やっぱ白い米。上記話しが迷信じゃないと、やがて近代の人々も覚醒。それは、戦争時代の軍に於ける兵の病死率と、刑務所の食生活から、ヒントを得たとくるから怖い!!<明治の刑務所編>・・・「臭い飯食ったら丈夫になるぞ!!」刑務所にお世話になった人々。上記のとおり、昔麦は安かったから、服役の皆さんは、7対3だか、5対5だか知らんが、麦だらけのご飯。現代販売されている麦はプレス加工されて、不要な部分は削除されているから、美味しいし、もちろん臭くない。ところが、この押し麦という製法自体、発明されたのは、大正の話。それまでは、丸麦そのまんま。煮え難い。時間がかかる。グシャグシャすり潰して米に混ぜて炊く。これが、非常にイヤな臭いがしたらしい。この悲惨な飯を食わされていると、なぜか、病気気味だった者まで元気になっていった。変だな?気のせいかな?データにしてみたら、やっぱり、どうも、そのようだ!!(この時代、栄養や成分に係る知識レベルはこんなかんじ。食物繊維着目はまだ先だが、ビタミン発見まで、ドタバタ劇は、この後案外早い。後日別編でご案内。)そこで、▼因みに、現代、上記時代の分析がなされており、確かに、この時代の服役者は、一日の必須食物繊維の量をクリア。対して、正常生活の人々は、だいたい彼らの半分にも満たなかった。当然必須数値に全然おぼつかない!ビタミンもさることながら、食物繊維は、代謝を高め、糖尿病対策にもGOOD!<明治の戦争時代、軍の実態編>当時、軍のお偉いさんは、小首をかしげた。「脚気患者が多いのは昔からだが、海軍に比べて、陸軍の脚気率が多すぎる!なんでかな?」実は、海軍では、麦飯を多く与えていた。とはいえ、上記のとおり、当時押し麦はないから、麦飯が臭くて、兵が文句言うから、食料担当の雑用係はいじめられる。イヤだから捨てたりしてた隊もあるようだ。■押麦製法&押し麦用プレスローラーの開発について普及は大正9年~大正14(1925)年位・・・に、日本で普及の様子。それまで、人々は、あのぺっちゃんこで真ん中に筋一本入った麦は食べたことがなかった!!だから、非常に不味い食べ物だったらしい。麦ご飯の普及と、「大麦の加熱・圧ぺん技術」開発貢献者は、鈴木忠次郎(静岡県出身)。・・・この続き:No.4:健康の源は麦なのか、淡白質なのか、ビタミンなのか!ドタバタ劇NEXTは、美味しく食べる製品と、クッキング本No.1は、第一弾!_麦を食べようの巻TOP(犬猫サイト)<No.1<No.2(現在頁)<No.3<・・:他に_幕末WITH_LOVE玄関_
2012.05.21
カラダの元気を自分でガンガン呼ぼう!201205,食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編,白米、対、麦と玄米の価値_No.1,日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘コラム付,明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因,江戸時代の都会病他食生活:毎日のご飯でビタミンと穀物に着目編生麦、生米、生卵でなくて、「生ビタミン!」白米、対、麦と玄米の価値_No.1日本人がビタミンに目覚めるまでの大格闘◆第一弾!_麦を食べようの巻麦も、玄米も体にイイらしい。ビタミンも食物繊維もイイらしい。現代なら、誰でも知っている。それでいながら、食習慣とは恐ろしい。知ってるくせに、ほとんど誰も実行継続しない。最大の原因は、料理法。米より美味しく作れないから・・かな?もうひとつの原因は、よし!やってみよう!と思うわりには、値段が、あんまり安くない!似たような出費で白米買えるから、やめとこう・・になってしまう。今回SERIESは、玄米と、麦。やってみなけりゃ解らない。やってやれないことはない!やってみよう!後半に、関連シリーズご案内します。◆美味しく食べる製品と、クッキング本。◆ビタミン不足で、病人だらけで悩んだ日本国のちょい昔話。まずは、「美味しく食べる製品と、クッキング本」。何事も継続は力(チカラ)なり!精麦は、生活習慣病予防や治療にGOOD!「食物繊維」は、精白米の17~19倍も!ビタミンやミネラルなども含まれて居ます。食物繊維は便秘予防じゃなくて、新陳代謝を高めてくれます。消化がゆっくり。すぐ空腹になって、また食べたくなる人、ダイエットにもGOOD消化がゆっくりだと、もうひとつメリット。成人病、糖尿病の皆さん!血糖値の急激上昇が抑制される。糖尿病に限らず、高脂血症他、予防&治療にもOK。コレステロールのウジャウジャ現象にもストッパー。厚生労働省による目安:成人1日あたり20~25gを摂取しましょう!ところが実態の摂取量は、「15.2g」位といわれている。普通の料理、野菜を心掛けた料理をみんな大抵食べてるのにこの数値。三食コンビニ弁当の皆さんの数値は多分恐ろしい!となれば、やはり、米を麦飯習慣に切り替えると、手っ取り早い!!麦なら、なんも考えずに、単に混ぜるだけ。後は慣れだ。毎日が理想だけど、ダメなら特定サイクルを。継続してると、慢性になって、効いてるんだか、否か自覚症状、イマイチのこともあるが、切れて初めて痛感することって多い。麦じゃないけど、我が家の場合、ハスカップ切れが原因で、体の不調を痛感!ハスカップシリーズはこちらに。やる気はあるけど、水加減とか、配合割合自信無い!▼◆大丈夫!適量混合ブレンド完成商品もあるワン!、◆圧力鍋も強い味方!(麦メニューも有り)右端小さい本:これ、タイトルからして、干からびてしまいそうな精進料理か?なんて思うが、正反対!こってり美味しそうなメニュー一杯! _ _大人は、「えっ!また麦入れたの?」なんて家族も居るようですが、以外や以外。子供って面白い。真っ白米より、珍しがって、寧ろ喜ぶ。食欲ない子も、好奇心で、茶碗の中掘って、麦狙って食べている。誰が喜ぶと張り合いがあるワン!こちらの特集もカラダの元気◆栄養、有り難成分、◆介護病気で困った時、◆難しくない本、◆健康と栄養各種記事リンク米とライスケーキ、激売れのお店、新食感の米粉入りの洋菓子◆日本人と米への執着、幕末明治の「お米に係るエピソード」コラム付人に関係ないけど、犬猫も健康第一!NEXTは、JAPAN近代:麦の小話◆江戸時代の都会病,◆貧乏人は麦を食え!発言とは?◆明治の軍の実態,兵に脚気患者多発原因は何だ,,◆服役者が健康なのはなぜだ?◆No.3は、以外や以外!玄米は美味しいぞ!美味しく食べる製品と、クッキング本TOP(犬猫サイト)<No.1(現在頁)<NEXT_No.2<No.3★
2012.05.21
山川健二郎仰天のメニューとは?,JAPAN人と米&米製品_No.4,新食感!美味しいライスケーキTRY!クッキング,米と米粉のパン&ライスケーキ,幕末明治,日本人丸出しグルメ食の歴史mini談話コラム,JAPAN人と米&米製品_No.4米と、米粉のパン&ライスケーキ(人気店のケーキ,本,材料,道具)<日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠ガイド_No.1からNo.4各頁に順次ご案内>◆思わず泣けた会津落城と白い飯,◆山川健次郎、米が食いたくて・・・。◆日本人と餅、◆日本人と餅菓子、◆可愛そうな漂流民が作ってくれた「ライスケーキ」に泣いた外国人No.4_日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠TOP<日本人丸出しグルメ玄関<No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)美味しい現代の「ライスケーキおすすめ商品一覧」は、上記のNo.1からNo.3です。◆「山川健次郎、米が食いたくて」の巻山川健次郎(1854~ 1931)とは、幕末戊辰の際、最期まで官軍と戦った会津藩。その猛将「山川浩」の弟。明治は教育者として大活躍の有名人。東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学総長他歴任。戊辰の時、健次郎は15歳の少年。ところが、会津降伏後の嘆願水面下の動きを。命がけの秘密活動を。捉えられたら斬首かもしれない!だが、これしか方法がない!頑張りました。ラストは、意を解してくれた長州の「奥平謙輔」に匿われ、無事明治を生きるどころか、いち早く、留学生として渡航させてもらえます。さて、その渡航途上の話船の中、日本人だから、どうしてもご飯が食べたい。パンやヌードルだの、わけのわからんものよりも、白い飯が食いたい!!パンはまずくはないが、食っても食っても、食った気しない。ある日、初に食堂で、ついに米を見た!!「わあ、メニューにあるんだな!あれが食べたい!」目で追うと、運ばれた先のテーブルに居たのはインドの人。思わず、健次郎は、内心、ギャッ!ギャ~~っ!せっかく白いご飯なのに、そやつは、上にわけのわからん気色悪い色の汁をぶっかけた!!「わあ~っ!やめろ!なにすんじゃ!」色もイヤだが、単なる汁でなく、どうも、粘り気がありそうな雰囲気。ますます、ギャッ!しかし、聡明な少年、健次郎は、名案を。単品ライス注文に漕ぎ着けたいが、この段階、まだ、そこまで語学力は伴っていない。しかたないから、カレーを注文。★大正解!夢が叶った!テーブルに、真っ白ご飯が運ばれた。会津のご飯より、まずかったけど、米は米。黄色い変!な汁は、見ただけで、ギャッ!、手もつけずに、まるごと放置。見るだけでもいやだから、テーブルの端っこまで押っつけて、見ないようにしながら、白飯食った!!この後、日本の歴史は、一大カレーブレイク状態になるとは、この段階で考えもしなかった。カレー小話は、後日別編に準備いたします。▼ここにも、山川健次郎登場。◆日本人と餅、◆日本人と餅菓子TOP(犬猫サイト)<幕末玄関<人物名から追跡<幕末#ff8b17背景を知る(文化、風刺、食:幕末現代アラカルト)お餅話有名人達のお餅話幕末日本のケーキ話▼表示先頁に、カステラ話は、略して書いておりませんが、この土井利位氏と、その右腕、「鷹見泉石」は、ご進物といえば必ず「かすていら」です。礼も、見舞いも、和睦も、親善も、調停もかすていら!大活躍。ところが、無念ながら、そのお店名は不明。老舗存続なれば、是非とも、楽天WEB界に、我こそはと名乗り出て、商品展示して欲しいところ!日本人丸出しグルメ玄関TOP
2012.05.20
JAPAN人と米&米製品_No.3,新食感!美味しいライスケーキTRY!クッキング,米と米粉のパン&ライスケーキ,幕末明治,日本人丸出しグルメ食の歴史mini談話コラム付,JAPAN人と米&米製品_No.3米と、米粉のパン&ライスケーキ(人気店のケーキ,本,材料,道具)<日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠ガイド_No.1からNo.4各頁に順次ご案内>◆思わず泣けた会津落城と白い飯,◆山川健次郎、米が食いたくて・・・。◆日本人と餅、◆日本人と餅菓子、◆可愛そうな漂流民が作ってくれた「ライスケーキ」に泣いた外国人No.3_米粉入りで新食感!美味しいライスケーキ、TRY!クッキング しっとり&もっちもちっ感がブレイク! _ _ _イチから自分で計量して作るの面倒なタイプさん!楽々セットもあるワン! _★お餅ワッフルとは?は、日本人丸出しグルメ玄関から、「餅話」と「かすてら話」◆山川健次郎、米が食いたくて・・・「外国人が食べていた変!な食べ物」とは!!TOP<No.1<No.2<No.3(現在頁)<NEXT:No.4・・・★
2012.05.20
JAPAN人と米&米製品_No.2,米と米粉のパン&ライスケーキ,人気のライスケーキ編2,幕末明治,日本人丸出しグルメ食の歴史mini談話コラム付,JAPAN人と米&米製品_No.2米と、米粉のパン&ライスケーキ(人気店のケーキ,本,材料,道具)<日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠ガイド_No.1からNo.4各頁に順次ご案内>◆思わず泣けた会津落城と白い飯,◆山川健次郎、米が食いたくて・・・。◆日本人と餅、◆日本人と餅菓子、◆可愛そうな漂流民が作ってくれた「ライスケーキ」に泣いた外国人No.2_人気店の美味しいライスケーキパレード日本人の味覚嗜好にあわせて「米粉」を加えてヒット商品★よく有るタイプ、いつもの味・・と違うぞ!!この食感!_ _NEXT頁は、米粉ケーキ、TRY!クッキングボク達の着てるお洋服、オリジナルの「可愛ディズニーのお洋服のお店」だわん! _<日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠_No.2>◆可愛そうな漂流民が作ってくれた「ライスケーキ」に泣いた外国人サムパッチこの人物は、幕末人。本名は仙太郎といいます。ところが、漂流してアメリカ暮らし。渾名がサムパッチ。1853年の黒船、ペリー大登場!といえば、有名な話。その時、彼は本国、日本に帰る為乗船してましたが、なんと、土壇場で降船拒否!脅えて、クレイジー状態。原因は、なんと!!あれほど憧れた日本に帰れない!!・・・7年後、親切な宣教師に連れられて再度日本へ。この宣教師はゴーブルさんといいます。宣教師といっても実は、あんまり偉い人じゃなくて、大層な苦労人。サムパッチは、人に語れぬハンディを何かと背負っています。帰国後、英語ペラペラなのだから、通詞として大活躍できそうですが、何か背負っています。有る程度は通詞的仕事もしますが、最終的、彼の地位を示す表現は、堂々通詞ではなく、「通訳もできる召使」であり、「下僕」、「料理人」。これは、当時日本に来ていた外国人の表現。つまり彼はその地位を享受しています。寧ろ、知足安分。サムパッチが最終的に仕えた人物は、E.W.クラーク。仕事で疲れて帰宅するE.W.クラーク。サムパッチは、この外国人さんに、得意の料理の腕をふるって、外国人さん好みの料理を、あれこれ、日本の材料で工夫して作ってあげます。 E.W.クラークは、サムパッチが死んだ時、彼が作ってくれた「美味しいライスケーキ」の味が、忘れられなくて、思わず涙しました。貴重な蜂蜜を手に入れて、沢山ふりかけてくれたようです。哀れな亡骸を見た時、E.W.クラークは、サムが娶った妻に、言いました。「墓に十字架を載せてあげなさい。」▼こちらは別件:切支丹迫害は江戸時代だけじゃありません。明治の切支丹弾圧の裏庭で、兄弟愛の話。これ、宗教の話かい?じゃないんです。後半、イソップ童話のコウモリさんみたいな足軽さん登場(実在人物)。なんて可愛そうな彼ら!ながら、その一方で、足軽さんの気持ちも、とても人事に思えない。NEXT頁は、米粉ケーキ、TRY!クッキングNo.1<No.2(現在頁)<NEXT:No.3(真上NEXTボタン)・・・_
2012.05.20
美味しいライスケーキとは,ケーキとグルメ歴史談話,JAPAN人と米&米製品_No.1,米と米粉のパン&ライスケーキ,人気のライスケーキ編,幕末明治,日本人丸出しグルメ食の歴史miniコラム付JAPAN人と米&米製品_No.1米と、米粉のパン&ライスケーキ(人気店のケーキ,本,材料,道具)<日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠ガイド_No.1からNo.4各頁に順次ご案内>◆思わず泣けた会津落城と白い飯,◆山川健次郎、米が食いたくて・・・。◆日本人と餅、◆日本人と餅菓子、◆可愛そうな漂流民が作ってくれた「ライスケーキ」に泣いた外国人No.1_人気店の美味しいライスケーキ&パンしっとり&もっちもちっ感がブレイク!米粉入りのパンとケーキ類って、食べてみると、とってもおいしいですね。製造メーカーも、こんなにウケるとは想像以上の人気に、当初、驚いたといいます。やっぱり、日本人って、お米が好きなんですね。今回のシリーズでは、◆人気の米粉入りのケーキご紹介と、材料、TRYクッキング本。◆日本人と米話MINI談話。__▲大人好みの人気NEWタイプ!日本人と米:幕末明治のMINI談話コラム枠_そのNo.1◆幕末の「戊辰と、な、涙の米談話」:思わず泣けた会津落城と白い飯明治維新、1868年。一言、「維新」と、真っ先に子供達は習うけれど、実態は血で血を洗う戊辰の嵐。徹底抗戦で戦って滅んだ会津。生き残りの少年が書き残した。少年といえど、武装して少年隊士として戦った十代半ばの者は、捕縛されて謹慎場へ護送された。狭い部屋に、ごっちゃり大の男を詰め込まれて息苦しい。だけど、仕方ない。負けたのだから。負けたから「賊共め!」の扱い。悔しいけど仕方ない。ところが、違う意味で、猛烈に泣けてきた。それは夕食の時。実態は、謹慎だか、捕虜だか、投獄準備期間か・・なのだから、出された食事は粗末。ところが、こんだけ酷く粗末な食事とて、今までの篭城中を思えば、百倍マシだった!からっぽで具の無い味噌汁。おかずはもちろん無い。だけど、ご飯は真っ白。「雪のように真っ白いご飯。」涙がぽろぽろ、落っこちてくるから、ご飯が塩味になってしまった。振り返ったら、強くて逞しくて、勇ましく戦った大人の藩士達も、おなじように泣いていた。「旨い!」とか、「こんなに白いご飯久しぶり!」とか、口に出せば、不謹慎だから、みんな堪えて無言。絶対褒めない。だけど、肩を震わせて涙を堪えている。篭城中、正義の為に、藩主様の為に!徳川報恩の為に!志の為に・・・。言い聞かされて頑張ってきたけど、食べ物が悲惨だった。白いご飯なんて、ここ数ヶ月食べてない。雑穀が混じるだけじゃなくて、いつでも鼠色のご飯だった。<泥だらけのご飯>官軍が城に砲弾をぶち込んでくれるから、ご飯は泥だらけ。鼠色。女性陣が頑張って、兵の為にお握り作るけど、それも鼠色。お握り作る時、手にくっついたご飯のカケラ、洗い水桶に溜まる。もったいないから、それをお粥にして、傷病兵に与える。鼠色で多少砂混じりのお粥。水も貴重。悔しいけれど、たかが子供だけど、痛感してしまった。どっちみち、負けたんだなァ。たった一杯の白飯だけで、泣けてくるんだから・・・つくづく、限界だったんだナ。ますます、ご飯が、しょっぱくなった。TOP(犬猫サイト<幕末玄関▼真っ黒こげになったお握りの話:この中にも出てきます。お握りはアウトだけど、生きてて良かったね。顔を見合わせて一瞬笑顔の乙女二人。だけど、また泣いた。病人達に与えるものが何も無い。このままじゃ彼らは死んでしまう!▼水も貴重。篭城中NEXT頁は、人気店のライスケーキパレード_ _アタイ達わんこの着てるお洋服、「着て涼を呼ぶ加工」だわん!「悪虫寄って来ない加工服」もあるわん!No.1(現在頁)<No.2<・・・★
2012.05.19
憎しみの恋文_会えぬ人への反歌,離縁の夫:川崎尚之助謎_No.3,山本八重子,おぼろ月よ,姉妹編:「山本八重子離縁の夫の謎:この簪誰に貰ろうた!幕末泣かない女の思い出枕」,幕末明治,落城の時,山本八重子,川崎尚之助の痕跡,幕末明治,会津落城の時,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関川崎尚之助の痕跡憎しみの恋文:会えぬ人への反歌_No.3現在頁直結はNo.6のラストシーン。しかし、真下バナーはNo.1にリンク▲山本八重子について、是非こちらのSERIESからご覧下さい。かつての夫に対する気持ち◆No.1:明治の夫新島襄と妻八重<No.2&No.3:弟<No.4&No.5:白無垢に鮮血!<No.6呼応:未練の月影、心残り:秘められた愛のこと(現在SERIESは、右記より抜粋ミニ特集。詳しくは:川崎尚之助関連資料頁。)現在SERIES:前の頁から読む形態が極似の詩。恋文の反歌!!・・<証人は「おぼろ月」>・・八重子さん節でゆくと、「単なる臆病者」とは存在しない。彼女の場合、それは極端なのだ。「臆病者」とは、即ち「卑怯者!裏切り者!」でしかない。強烈なのだ。恭順に転んだ男は、即ち卑怯者!!しかしながら・・・吐き気がする程、嫌いになった男なら、わざわざ、同一形態の反歌は詠まない。・・・愛していたのだなァ。未練だったのは、落城だけじゃなかった!!これが、ごく一般的な乙女なら、べつに騒ぐ必要ない話ですが、彼女のキャラとしては、一大事。たとえ夫婦とて、惚れた腫れたは無関係じゃ!藩を愛して、義を貫く尊い志に、余計な思いなど振り切れ!妾(わらわ)に、無関係じゃ!藩のことしか頭にないぞ!!・・・とばかり、しゃっちょこばっているが・・・。誰も見てない時だけは、月明かりの下、彼女も、一人の女だった!!同一形態で、落城の時、山本八重子が詠んだ詩。二度と会えぬ人に、未練が残る。されど、理由が何であれ、恭順は許せない!死ぬ程、憎い。ところが、彼女は、前述のとおり、自他共に認める「男勝り」。惚れた腫れたは、己にとって完全にタブー。押し隠して、ますます男っぽい仕草ばかりを徹する。髪は断髪、手にしたるはスペンサー銃。男の群れに紛れて、敵に銃弾をぶちかます!!しかしながら、どんなに憎んでも、どうしても未練が残る。簪が象徴している。感情が行ったり来たり。しかし、されどの、そのまた「されど」と揺れ動く。城の壁に刻み付けた八重子の詩。使った刃物は簪。★この簪、誰に貰ろうた!!彫り終えて、ふと、我にかえって見つめるは、手に握った簪。震える手で握り締めて、握り返して、いっそこのまま捨ててしまおうか!!「こんなもの!」掴んで腕を振り上げて・・・。・・・心と裏腹、なぜか、それができない!「月影」の言語に、落城より先に立ち去るやましい男とばかり、己の未練を曝け出した男に、その詩の裏側に、秘められた思いは、黙して、妻への未練。かたや、同じく「月影」の言語に、落城の無念のみを謳ったつもりの八重子は、詩の裏側に、夫への未練を滲ませる。落城より先に消えたとされる男、「川崎尚之助」が、妻との別れに送った詩を、八重子は、ちゃんと読んでいたのが、これで解る。悔しながらも、愛していたのも、これまた解る。お喋りな「おぼろ月」。明治27年にして、今さら暴露されてしまったも同然。川崎尚之助の詩の前後にひょんなところから、見つかった川崎尚之助の痕跡!は上記のとおり、「女学雑誌」。ところが、前述の一句の前後に、もう少し、気になる節がある。以下に。【1】:「顧りみて、城を望めば、小田山は残り惜しげに夕日を送り、柵壁は、霞をはらって遠く名残をしめすらん。」【2】「あすの夜は何処のたれか眺むらん、なれしおう樹に残る月かげ」・・・<川崎正之介>【3】「行くに輿なし、帰るに家なし、国破れて孤城雀鴉みたる、何の地に君を置き、又、親を置かん。」【4】・・・・・・・ああ是れ当日、城を出る万人の心也。上記からすると、川崎の句は、【2】は明確だが、【1】と【3】も気になる。【4】は編集人による筆と明確。除外。ただし、どこから、どこまで川崎なのやら、判然としないのが残念ながら、川崎ではないかと思える節も多々。【1】の小田山砲台は、川崎にとって「未練の代名詞」的存在。砲述のスペシャリスト川崎、本人が中心になって、頑張ったのに、敗北。夕日に沈んでゆくさま。【3】の句:これは、歴史上、あらゆる場面で複数の人物が詠んでいるもの。「行くに輿なし、帰るに家なし、国破れて孤城雀鴉みたる」は皆に共通する感覚。その為、編集に携わった者によるとも考えられるが、後半「 何の地に君を置き、又、親を置かん。」とは、去ってゆく者の罪悪感が滲み出ている部分は、川崎本人も、添えて、書き綴ったとて、違和感はない。一般に「君」とは、尊い人、主君ながら、詠み人の多くは、必ず、ここに掛詞、私的に愛しい人への思いも伏せ掛ける。もしも、この部分も川崎だとすれば、明らかに愛妻「八重子」を示唆。また、前半部、「帰るに家なし」は、余所者の川崎の心情にもあてはまる。なんといっても、前述のとおり、幕末の出石は、出石藩と、出張幕吏双方絡む。後者ならば、踏み潰されて、追い散らされて、そこには誰一人もう居ない。少数人員の地方代官所なんて、皆殺しの生贄。戊辰戦争時資料で、会津人の誰一人として、川崎は敵に殺された!と思い込んでいる様子がない。八重子本人さえ、単に一言「離縁!」しか語らぬことで、恭順説が自動的に感じられる。 実は、上記の詩が、事前に、使者の手によって、川崎から、会津陣に送られていたのではないか?!おぼろ月は見ていた!★この簪、誰に貰ろうた!!おぼろ月が暴露!あらっ?年少少年が書き残した!川崎尚之助ならずや、「川崎荘之助」!NEXT_とことんミステリーな男、川崎!No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4「後の世当時少年が漏らした川崎ヒント」
2012.05.16
憎しみの恋文_会えぬ人への反歌,離縁の夫:川崎尚之助謎_No.2,山本八重子,おぼろ月よ,姉妹編:「山本八重子離縁の夫の謎:この簪誰に貰ろうた!幕末泣かない女の思い出枕」,幕末明治,落城の時,山本八重子,川崎尚之助の痕跡,幕末明治,会津落城の時,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関川崎尚之助の痕跡憎しみの恋文:会えぬ人への反歌_No.2現在頁直結はNo.6のラストシーン。しかし、真下バナーはNo.1にリンク新島 八重(弘化2年11月3日(1845)~ 昭和7年(1932)6月14日) ▲山本八重子について、是非こちらのSERIESからご覧下さい。かつての夫に対する気持ち◆No.1:明治の夫新島襄と妻八重<No.2&No.3:弟<No.4&No.5:白無垢に鮮血!<No.6川崎尚之助:謎の痕跡詩_その続き(現在SERIESは、右記より抜粋ミニ特集。詳しくは:川崎尚之助関連資料頁。)現在SERIES:前の頁から読むところが、もうひとつ、意味深、彼の謎の痕跡詩が見つかった。明治27年8月4日発行の「女学雑誌第390号」掲載文、この中にある文字列、「川崎正之助」とは、なんじゃらほい!「あすの夜は何処のたれか眺むらん、なれしおう樹に残る月かげ」・・・<川崎正之介>■「川崎正之助」と、「川崎尚之助」の文字の意味そして、第二の疑問。「川崎正之助」の名の「正」の字。これには訳がある。意味深。実は、川崎の元の名は、「川崎正之助」。しかし、会津に仕える時点で、名を改めた。藩祖、保科正之の名前に類似では、畏れ多いからだ。その段階で、「正」を捨て、「正之助」を、「尚之助」に改めた。(川崎正之助=川崎尚之助の会津出仕経緯、八重子との結婚に関してもこちら)会津に仕える為に名を改めた男は、会津藩本体よりも先に、個人で転んだ以上、会津に貰った名前を、捨てて、裸一貫、原点降り戻し、「川崎正之助」。の姿で詩を詠んだのだろうか。会津を見限ったわけじゃなくとも、あたかも同然扱いされても仕方ない結末の己。もはや、あえて用いた「尚」の字は無縁。無意味!「尚」を貫いて、忠義を徹したとて、会津という名の受け皿は、己から消えた!!この人物は、謎多い男。大層な苦労人。猛烈に優秀な男だというのに、会津出仕の経緯を、見ても何かと涙ぐましい。彼は、会津の為に戦った男ながら、会津人ではないのだ。哀れ余所者。山本覚馬(八重子の兄)にスカウトされて、会津での活躍はわかるが、出自に関しては、現代に及んでも、出自も家族情報も曖昧。何年待っても、我こそは、彼の傍系末裔也と名乗られた人物の話は知らない。父は出石の医者というが、それ以上進展しない。出石は複雑。単純に出石藩か?じゃなくて、出向幕吏系も居る。さっぱり出自が解らない。おぼろ月だけは、真の姿を見ていた!それは、ともあれ、「川崎正之助」が詠んだとされる敗北感の塊、この詩。落城の時、山本八重子が詠んだ詩が、「意味深、川崎正之助の痕跡詩」に、形態が極似している!!これは、何を物語るか!!答えは、おぼろ月だけが知っている!!<八重子の詩>明日の夜は何国(いずこ)の誰か眺むらんなれしお城に残す月影<「川崎正之助」が詠んだとされる謎の詩>「あすの夜は何処のたれか眺むらん、なれしおう樹に残る月かげ」・・・<川崎正之介>これは、何を物語るか!!これが、今回の本題。証人は「おぼろ月」明治の世、八重子は、ひとこと、「知らぬ存ぜぬ、離縁!」それ以上語らない。戊辰の悲惨は、あれこれ語るが、そのポイントだけは、絶対語らない。会津を愛して、会津の無念を語る者に、そのあたりを執く聞くも下品だから、尚更のこと。しかしながら、こうなると、八重子さん、押し隠して語らないが、さては、落城以前に、夫が発した詩を、ちゃんと見ていたな!!形態が極似の詩。恋文の反歌!!誰も見てないと油断して、天に向けて愛の反歌!証人はおぼろ月だ。明治27年にして、今さら、証拠が零れ落ちる。人前では、ふっきれたふりして、気丈を装い、夫のオの字も語らない。それどころか、やること、なすこと、まるで男そのもの!!それでいながら、この極似は、恰も、恋文の反歌。その昔、一般的に、愛し合う二人は、貰った詩に、呼応して同じ旋律で詩を贈る。誰も居ない夜更け、おぼろ月相手に、八重子は本音を見せる。呼応:未練の月影、心残り:秘められた愛のことTOP<No.1<No.2(現在頁)<NEXT:No.3
2012.05.16
憎しみの恋文_会えぬ人への反歌,離縁の夫:川崎尚之助謎_No.1,山本八重子,おぼろ月よ,姉妹編:「山本八重子離縁の夫の謎:この簪誰に貰ろうた!幕末泣かない女の思い出枕」,幕末明治,落城の時,山本八重子,川崎尚之助の痕跡,幕末明治,会津落城の時TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関川崎尚之助の痕跡憎しみの恋文:会えぬ人への反歌_No.1現在頁直結はNo.6のラストシーン。しかし、真下バナーはNo.1にリンク▲山本八重子について、是非こちらのSERIESからご覧下さい。かつての夫に対する気持ち◆No.1:明治の夫新島襄と妻八重<No.2&No.3:弟<No.4&No.5:白無垢に鮮血!<No.6新島 八重(弘化2年11月3日(1845)~ 昭和7年(1932)6月14日) (現在SERIESは、右記より抜粋ミニ特集。詳しくは:川崎尚之助関連資料頁。)★ひょんなところから、川崎尚之助の痕跡が見つかった!今回のテーマは川崎の謎。川崎尚之助とは、会津の山本八重子の元夫。会津時代の夫。山本八重子といえば、こちらは有名。明治の世、新島襄の妻となり、明治を生きる。戊辰の会津戦争の際には、男装して戦った男勝りの女性。会津が滅んで落城の時、彼女が詠んだ歌は、これまた有名。明日の夜は何国(いずこ)の誰か眺むらんなれしお城に残す月影▲会津が滅んで消える無念が滲み出している。心の会津、愛する会津を奪われる!明治維新というけれど、徳川報恩を解せぬ憎い官軍に会津を奪われる!!彼女の気持ち。ところが、色んな資料や本を山盛り、あっちもこっちも読むと、彼女には恐縮ながら、別れたかつての夫、川崎尚之助を愛していたんだな・・・が解ってしまう。(経緯は真上バナーで解ります。)落城の無念を謳った時、詩を城の壁に彫り付けた刃物は、簪。簪が万事、それを象徴している。明治の世、彼女曰く。「前の夫?んなもん、知らぬ、存ぜぬ!消えた!離縁!」それだけ。他の男に嫁いだ以上、まあ解らんでもないし、男勝りの彼女の気性から、そんなもんだろうが、落城の無念と同時に、一人の妻としての無念。それを、押し隠して無理やり姿勢糾して生きた女性。彼女に限らず、そもそも会津自体、川崎に関して、「知らぬ、存ぜぬ!消えた!」の姿勢。これは、川崎、単に捕縛されただけでなく、恭順の意を会津に発信した証拠。会津としては、これが初期段階、まだ転ぶ意思がなかったから、不名誉な男を、会津から、デリート消去した。誰一人、川崎は死んだかもしれない、殺されたかも?などと言ってない。やはり、これで、デリートは、おのずと解る。(■川崎尚之助の失踪と敢死隊)案の定、明治の世、川崎尚之助は、あたかも世捨て人のように、我が身を嘲笑って、狂歌を吐き捨て、病に倒れ、明治8(1875)年、東京で死亡。「このころは金のなる木の綱切れて、ぶらりと暮らす鳥越の里」・・・▲運命に押し流された自分を嘲笑っている。明治8年とは、山本八重子が、新島襄と婚約した年。晴れて、翌年、明治9年ゴールイン。かたや、冥土入りの川崎尚之助は、時代の波の狭間、永久に消えた。川崎尚之助:謎の痕跡詩ところが、もうひとつ、意味深、彼の謎の痕跡詩が見つかった。明治27年8月4日発行の「女学雑誌第390号」掲載文、この中にある文字列、「川崎正之助」とは、なんじゃらほい!「あすの夜は何処のたれか眺むらん、なれしおう樹に残る月かげ」・・・<川崎正之介>この刊行物は、明治中期の新世代達に対して、過去の戊辰の悲惨を伝え教えるもの。その為、川崎の詩に限らず、複数の人物による詩が引用されている。敗戦とは、いかに辛いものかを若い世代に伝え教えるために。即ち、明治27年に掲載された詩とは、あくまで遠い過去の詩。 27年前の戊辰時の詩。ところが、第一の疑問がここに。川崎の詠んだ詩が、今さら出てきたは、一体誰が、どのような経緯で齎したのやら?この段階で、山本八重子の新しい夫、新島襄は既に、明治23年死亡している。とはいえ、八重子は昭和7年まで、長寿を全うする人物。いかに過去とて、原稿仕上げのご協力とばかり、ご親切にも、こんなものを提供するわけはない。仮にそうなれば、協力者として、どこかに、山本八重子の名も掲載されるはずだ。となると、やはり、どっかから、第三者の手によって、齎されたことになる。編集人としては、巌本善治などがいる。その妻は、同じく会津の若松賤子。「彼女もこの紙面に投稿するところから始まり、巌本と結ばれる。また、この号発行に尽力した人物は、山川二葉、雑賀アサなどが居る。この二人は、どちらも明治の教育者。女子教育に力を注いだ人物。両女史は、この号に、自らの悲しい体験談を積極的に提供。みなさん、筆の立つ女傑揃い。■「川崎正之助」と、「川崎尚之助」の文字の意味No.1(現在頁)<NEXT_No.2<No.3TOP<_★
2012.05.16
愛犬猫の体調異常に早期対処,危機一髪対処,愛犬猫の体質を知る,犬猫の健康と食生活_猫編No.4,ペットフード,【楽天市場】,ペット犬猫の健康と食生活(猫編_No.4)■No.1_愛犬の異常、■No.2_体質にあわせて専用ご飯作り、■No.3_栄養管理士さんが作った豪華犬お菓子&お惣菜のケーキ&和菓子、■No.4_猫ちゃん編(現在頁)猫の体調異常に早期気付く!栄養、健康、介護 __ そろそろ老衰か、仕方ない・・・なんてあきらめないでね!猫の体って本来、どうなのかなって知っていると対処が早い。専門的には無理でも、読んで知っておくと、役に立つ。老齢で痩せて、脂肪が少ないと、特に触診で、案外気がつきます。排泄物を自力で出せず詰まってしまう子居ます。コロコロ変な手触り、異物なのか、排泄物なのか、それとも腎臓と間違えてないか?場所を知っていると、対処できます。巨大結腸という怖い病気もありますが、単に、老齢で排泄できずに居る子も多い。■病気&老齢末期の子:猫犬介護長期戦◆脱肛事件も発生しました。我が家の対処結果について・・後日談話特集アップしたら、「猫ちゃん系記事総合玄関」から当該頁をご検索頂けます。■点滴しても、点滴漏れ起こすどころか、一旦多少吸収したはずの水分が、手足に溜まって、水ぶくれみたいになった。少し少し、気休めみたいだけど、さすってあげると、少しだけど、吸収&代謝をアップできる。すごく時間かかりますから、こーゆーのは、やはり飼い主さんならでは。■また、弱ってくると、すぐ脱水症状になりやすい。首の皮掴んでも戻りが遅いとか、これは危険。脱水症状ダウンの危篤を回避した子いますが、一大事でした。意識はもちろん、目は茹でかけの魚の目玉みたいな不透明な白い色。舌は突き出して、その先端は燻製みたいに、ひっからびて赤黒く。家族は、もう死んだ!と泣きました。形相が半端ではなかったからです。でも辛うじて呼吸はしています。こうなると、飼い主も必死、必死!■ヤバッ!呼吸!危機一髪は、人口呼吸。マウスTOマウス。肺に効果的な手足の始動。これで、何匹か、危機打開。心臓と呼吸だけは、病院に運ぶでは手遅れ。逝ってしまう!動物病院代金ケチるのでなくて、緊急事態には、やはり飼い主さんの対処。この時の原因は、寒い頃でしたから、身動きの鈍い老猫が、電気カーペットのカバーの下に潜りこんで、動けずに、こうなったのでしょう。発見して、あわてて引き摺り出した。体温の異常上昇が誘引と思われたことから、粘って祈って必死で、あの手この手。急に冷しすぎにならない程度に気をつけながら、されど冷やし、人と異なり、足の裏が唯一汗腺有りにて、足の裏や、肛門にも水で冷やして・・・。水分補給だけでは体力低下著しく、ダメ元、ブドウ糖液を、少し少し、口と、肛門(※)。(ブドウ糖は、エネルギー。しかも粘膜から即吸収。お腹で消化する前に効く)微かに、口を動かした。もう一度、水一滴口に。繰り返しで、やっとゴクン。やった!やった!舌を自力でひっこめた。瞼も動いた。そこから先は、シリンジの水無意識に一滴ニ敵ゴクン。再び、昏睡みたいに変になった。鼻のてっぺん嘗めてやると、これは本能だから、嘗めなおそうと舌が動く。・・・根気と祈り!(※)肛門:なぜ、ブドウ糖を肛門?これ、べつに正当オススメではないですが、緊急の為。肛門は粘膜。肛門が栄養を食べてくれるわけはありませんが!極度に衰弱した子、粘膜を頼る位置を口だけと思い込むと、線が細い。ブドウ糖は、粘膜なれば作動するから。意識が戻ると、人と違って、重病だというのに、動物だから、何かに脅えたごとく、ムクッと起き上がる。何者かに脅えてる。だけど、心配顔の他の猫がスリスリしたところ、ふと安心したのでしょうか?おもちゃの小さいお皿で水を与えたところ、社交辞令のように二三滴自力で呑んだ。その後、暫し昏睡状態。・・・この子は、その後、何度か危篤がありましたが、約1ヶ月は頑張ってくれました。犬は老齢で、脳障害を起こした場合も、個体によっては徘徊や奇行しつつ、暫し生きれる子がいますが、猫の場合、脳に来るとまずは・・・。また、脳障害と判定も困難だといいます。この子は、その後、ほぼ正常な時、流動食を与えるにも大分困難でした。・・・流動食の話と材料&使い方は、下の「みんな頑張って!マークの猫とキャバのミニバナー」この時、この猫ちゃんは、人間が歯科で麻酔した直後のような状態。食べようとするが、口が変な動き。自力で食べれないのは知っているが、食欲を確認する為に、若い猫用の美味しいウェットフードを目の前に持ってゆくと、食べようと顔を動かす。ところが、顔がガクガク変な方向に動いて、自分でもイライラ。専門家じゃないですから、断定はできませんが、何度もこうした危篤を乗り越えた子でしたから、脳への負担はおそらくあったことでしょう。それでも、動物は、必ず、心に心を返してくれる生き物。贅沢じゃなくていいから、守ってあげてね!汚い事も、ちょっと勇気必要なことも含めて、頑張れそうな飼い主さんには、下の「猫ちゃん玄関バナー」から各種、病気対処系記事。「明日に架ける橋バナー」は、犬の写真にしましたが、猫共通。図は有り難い。内臓のこと、心配する時、人は、どうしても自分(人間)基準に考えるからズレる。(老齢で排泄困難状態の子は、手で触ると、骨盤の直前位の背骨の下位に、ソレの手触り確認できる。痩せていると、特にすぐ解る。)_ _ ・・■猫の爪,新築住宅お悩み対策,猫の爪切り便利補助グッズ、 ■愛猫の健康&手作り食の本_TOP<愛犬猫の体調異常に早期気付く為に:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護
2012.05.14
愛犬の体調異常に早期気付く為に,愛犬の体質を知る,犬猫の健康と食生活_犬編No.3,ペットフード,【楽天市場】,ペット犬猫の健康と食生活(犬編_No.3)■No.1_愛犬の異常、■No.2_体質にあわせて専用ご飯作り、■No.3_栄養管理士さんが作った豪華犬お菓子&お惣菜のケーキ&和菓子(現在頁)、■No.4_猫ちゃん編栄養管理士さんが作った豪華犬お菓子&お惣菜のケーキ&和菓子愛犬の写真で特注!◆オリジナルケーキ&ヘルシー「お惣菜のケーキと和菓子」これも、愛犬そっくり顔のケーキ特注!_犬種にあわせて選べる _ 色々あるわん!お野菜たっぷり、栄養管理士さんが考案! _愛犬の顔プリント:犬と飼い主さん、お揃い服 ___TOP<■ペットが主流、■飼い主さん主流犬猫の健康と食生活&介護記事玄関、人の暮らしも趣味の分野もいろいろ▼_NEXTは、No.4_猫ちゃん編:健康介護&食生活
2012.05.14
愛犬の体調,体質にあわせて専用ご飯作り,異常に早期気付く為に,愛犬の体質を知る,犬猫の健康と食生活_犬編No.2,ペットフード,【楽天市場】,ペット犬猫の健康と食生活(犬編_No.2)■No.1_愛犬の異常、■No.2_体質にあわせて専用ご飯作り(現在頁)、■No.3_栄養管理士さんが作った豪華犬お菓子、■No.4_猫ちゃん編犬の体質を知って、専用ヘルシーご飯を作る! . .__▼撮影の為に待たされて、このワンコ可愛そう!ケーキをひたすら見つめる顔!_ __TOP<■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流◆老犬さんも元気にお散歩、カートとリュック,犬を担ぎ運ぶ可愛キャラ◆大型犬にも朗報あるワン!飼い主さんとお揃い&名前入り◆老齢犬、目指せご長寿犬!お役立ち本◆大型犬の介護,必要なもの◆犬猫去勢避妊の前に多目的エリザベスカラー研究愛犬の写真で特注!ヘルシー◆オリジナルケーキ&「お惣菜のケーキと和菓子」犬猫の健康と食生活&介護記事玄関▼
2012.05.14
愛犬の体調異常に早期気付く為に,愛犬の体質を知る,犬猫の健康と食生活_犬編No.1,ペットフード,【楽天市場】,ペット犬猫の健康と食生活(犬編_No.1)■No.1_愛犬の異常(現在頁)、■No.2_体質にあわせて専用ご飯作り、■No.3_栄養管理士さんが作った豪華犬お菓子、■No.4_猫ちゃん編愛犬の体質を知る。愛犬の異常に早期気付く犬の体調不調は、犬は猫に比べると、人の目がそれと気付く時期は案外早い。但し、個体差が!時々、なんだか変だな?と思いつつ、大きめ6ヶ月以上の仔犬の場合など、体調悪くても、嬉しい時には、じゃれるし、大好きなおやつならパクパク食べる。だから、気のせいかしら?と油断。ところが、これはゴールデンレトリバーでしたが、動物病院に運ばれた時、なんとお腹の中に、ゴルフボールが11個!!そーいえば、お父さんが、近頃ボールの紛失度が高いナ・・だってサ!余程大邸宅か?庭、相当広いか?しかし、後のまつり。こうなると大手術。幸い一命はとりとめましたが。_ _ _ ★★そこで!今からガリ勉で専門的に把握する必要はないんですが、有る程度、骨格や内臓の位置知っておくと、自分なりに触診できます。たとえば、お腹を触ってみて、コロコロ。でも位置が、ああ、これは腎臓だな・・とか、どう考えてもなんか異物だな・・・とか。飼い主さんが事前に自己診断できるから、動物病院に運び込むとて、的確に状況を説明できる。猫も同様です。猫は神経質な動物なので、まさかボールは食べませんが、異物か、排泄物がつまっている異常なのかなどについて、飼い主さんが気付いてあげることができます。猫編はこちら。_ _ ■他に、犬は人のテレパシーが伝わる動物。その為、精神的ダメージも、モロに健康ダメージへ。あんまり過保護すぎてもいけないけれど、これだけはイケナイ事など、基本知識。専門書でないから、サラサラ楽に読める。頭で考えるだけでなくて、図とは、実にありがたい。ピンチの時閃きやすい。■症状や、年齢で、早め対処で、日頃栄養的にGOODなライフを。■老齢犬、目指せご長寿犬!お役立ち本 _ _ _TOP<■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流No.2:犬の体質を知って、専用ヘルシーご飯を作る!犬猫の健康と食生活&介護記事玄関▼
2012.05.14
会津山川浩と薩摩西郷大山絡み糸資料表,山川捨松の嫁入り騒動の裏事情,大山捨松,山川浩,吉井友実,大山厳,西郷隆盛,西郷従道,吉井友実,影のキーマン:大山綱良,山川浩の不穏な動きを捉えた間諜,隠密「荘村省三」と三条実美,幕末明治山川浩の動きと、薩摩西郷&大山ファミリーの動きから、終結策「捨松の結婚」資料頁ナビ:(資料No.1<資料No.2・・・幕末玄関)◆【序章】_婚姻の裏事情は「山川西郷和平協定」、◆【Sec.1】_結婚騒動に直接絡むメンバー:略式に皆を一望、◆【Sec.2】_関与のメンバー人物について:戊辰時の絡みをご紹介、ここまで人の嫁GETに頑張る訳は「かつての命の報恩」・表表紙のキーマンと、裏表紙のキーマン「既に死人:【大山綱良】」とのかつての縁故・・おもて表紙の大山キーマン:◆山川浩、◆山川捨松、◆大山厳、◆西郷隆盛、◆西郷従道、◆吉井友実、▲資料No.1、▼資料No.2裏表紙のキーマン「既に死人:【大山網良】」とのかつての縁故◆【Sec.3】_死者、大山綱良と西郷大山一族絡み糸と戊辰時事情・西郷隆盛への呵責と、寺田屋過激派処分事件、他◆【Sec.4】_大山家とと西郷家の絡み、◆【Sec.5】_西郷隆盛も、西郷従道も、実は、名前を間違えて登録されてしまった!エピソード、◆【Sec.6】_西郷隆盛の兄弟と、西郷隆盛の以外な側面、◆【Sec.7】_山川捨松が西郷一族に狙われた火種は、山川浩本人が鹿児島に落としてきてしまった!、・山川浩の「不穏な動き」=間諜に察知されている!!・明治5年、元会津の山川浩は、薩摩の大山綱良に連れられて、密かに薩摩へ渡る!!・恐るべく間諜!隠密「荘村省三」という男!!と三条実美◆【Sec.8】_篠田利英について、【序章】_夢物語の裏事情_山川西郷和平協定◆留学帰りの最新式レディーと、時の陸軍閣下の華々しい結婚式・・・(しかし、裏事情は、山川西郷和平協定。日本古来の悪い伝統。姫は人質敵陣へ)時は、明治16年。山川捨松と、大山厳の結婚大騒動。薩摩の大山厳の後妻として、帰国早々の山川捨松が狙い撃ちされた。妹を奪われてなるものかと、孤軍奮闘は、会津の山川浩。この時代生きる彼らは戊辰の延長線。戊辰の怨恨が尾を引き摺る。「誰が、仇敵薩摩に妹をくれてやるもんか!誰が大山などに!冗談じゃないぞ!」山川浩の猛反撃。しかし、山川浩が敗れて、結果は、二人のゴールイン。<この行程について:真下バナークリックで総解説▼明治女性が皆、山川捨松と、大山厳の結婚物語に魅了された。それまで、日本女性は、親兄弟が決めた家と家との絡み結婚に、いや応無しに人形のごとく嫁ぐが宿命。ところが、山川捨松が求婚者「大山厳」に送りつけた返答書。「嫁に来いと言われましても、私は貴方様と、まともにお話したことございません。いわば、見知らぬ人に、お人柄さえ存ぜぬお人に、どうして嫁に行けますか!!」ここに正式にデートを申し込まれて、共に留学帰りの二人は、息統合。二人の会話は、日本語でなく、ぺらぺらの英会話。なんて素敵な物語?!現実でありながら、まるで夢物語。多くの知的女性が衝撃を受けた。また、世の男性陣も大騒ぎ。なぜならば、山川は会津。大山は薩摩。仇敵同士の結婚!!これが、仮に自然なら素晴らしい。ところが、裏事情は、山川西郷和平協定。互いの恨みつらみに、なんとしてでも終止符を!仕組まれた捕り物帳だった。捨松の兄、山川浩にとって、薩摩は仇敵。出征の際、山川浩が詠んだ詩。実におっそろしい!怨恨の塊。▼薩摩人みよや!東の丈夫が提げ佩く太刀は、利きか鈍きか!そこで、大山の嫁に、西郷一族と隆盛の無二の友人が団結。よってたかって、大襲撃。断固猛反対の山川浩を攻め落として、婚姻成立に漕ぎつける。実は、この火種は、知らずして、山川浩、ご本人が、鹿児島に落としてきてしまった!!・・・のであります。今回のシリーズは、少しややっこしいのですが、歴史幕末戊辰大好きさん、是非どうぞ。★キーワードは死者「大山綱良」と、隠密。表面に見える薩摩の男は、◆大山厳、◆西郷従道、◆吉井友実ですが、実は、裏表紙に隠れた影のキーマン、◆大山綱良が居ます。しかも、捨松婚姻騒動の時、この人物は既に死者。明治10年、なんと斬首されています。ところが、この男に、明治5年接点を持ったは他ならぬ山川浩、ご本人。明治5年、山川浩は、密かに薩摩に潜入打診試みている。そして、この秘密の動きを、おみごと捕らえて、密かに間諜報告書を送って下さった優秀な隠密殿が、いらっしゃいます。その名は、「荘村省三」という男!!そして、この男を、斗南に放ったるは、三条実美だった!!三条は、各地の士族の動向に目を光らせる中、戊辰のA級戦犯ともいえる旧会津藩士に関しては、特に警戒路線。なんといっても戊辰時、散々マイナス要因で会津にお世話になって惨憺たる経験者。たっぷりお礼して下さる!案の定、山川浩が不穏な動き!荘村省三は、三条に報告書を提出していた。「山川浩は、仇敵のはずの旧薩摩藩と連携を企んでおります。論より証拠、「大山綱良」に近づき、薩摩への手引きを受け、共に薩摩入りを為してござる!」NEXTはこちらのバナーからどうぞ!▼★_
2012.05.13
大型犬も可愛服,ミッキー,スヌーピ他,犬の洋服,小型~大型犬,大型犬もお洒落服海に行こうワン【2編】,【楽天市場】,ペットモデル犬に関係なく「全部大型犬サイズ」だわん!_No.2海に行こうよ!わわんのわん!暑さに弱い子、いいものできたワン!▼_ミニーちゃんもミッキーも、スヌーピも色々あるわん! _ __ __BACK_No.1★
2012.05.07
大型犬も可愛服,ミッキー,スヌーピ他,犬の洋服,小型~大型犬,大型犬もお洒落服海に行こうワン【1編】,【楽天市場】,ペットモデル犬に関係なく「全部大型犬サイズ」だわん!_No.1 __ . .真ん中は、小型中型みんなのサイズミニーちゃんもミッキーも、スヌーピも色々あるわん! _海に行こうよ!わわんのわん!_ _
2012.05.07
伊庭八郎の微笑みと少年_高梨哲四郎No.3,伊庭八郎の戊辰経緯,友の本山小太郎,幕末戊辰伊庭八郎の微笑みと、少年_高梨哲四郎_No.3伊庭八郎の経緯について初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2 伊庭八郎◇生没:(天保15年(1844)~明治2年(1869)5月17日又※) :享年26歳。◇幕臣。諱:秀穎。江戸生まれ。伊庭軍兵衛秀業の長男。伊庭道場主(心形刀流)。講武所教授方◇養家について:剣術道場「練武館」を開いていた・伊庭家(心形刀流宗家)に養子入り。元治元年(1864年)、伊庭は、幕府の大御番衆。忽ち、奥詰(将軍親衛隊)に昇格。同年、1月には早速、将軍徳川家茂上洛の際、警護として京都大阪方面へ。この時の彼の日記は、「御上洛御共之節旅中並在京在坂中萬事覚留帳面」。後に、中根淑が、「征西日記」として改め、世に書き残す。この段階では、伊庭の無邪気な姿も垣間見ることができる。好きな食べ物の話まで出てくるから面白い。関東風の鰻が大好きな彼は、初に関西風を食べて、ご不満。文句言っているのが可笑しい。(現在頁下側に、彼の好きな食べ物バナー:お気軽編グルメ版有ります。)この「奥詰」とは、不穏なこの時代、慶応2年(1866)、遊撃隊と名を改め、性質も変遷を遂げる。慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦勃発。江戸に敗退。江戸帰還後、彼ら遊撃隊は、木更津から順次、近隣小藩譜代を説得&転戦。腹を割って、快く合流してくれたのは、請西藩主林忠崇。後は軍用金の応援か、兵を得る。話が決裂すると、対決戦。近郊一帯転戦を重ねる。房総半島→相模真鶴→伊豆韮山 ・・・。ところが、この後、小田原で大苦戦。片腕に陥る。小田原は途中で藩論がひっくり返ったハプニング。突如、敵に転じた。(関与された諸藩の様子:ブラックリストの藩と代官所:自刃&首犠牲)実は、小田原もかなり可愛そう。最終藩論に納得できず、飛び出して箱館まで来てくれた藩士も居ます。また、当初遊撃隊を応援した者は曝し首やら、見せ物公開処刑やら。(父を殺された!という理由で、官軍のある倅は、わざわざ処刑場へ。自ら斬首。それを民の前で公開の条件まで飲まされた。)この藩は、雄藩に尻を叩かれ、藩を救う為なれば・・・・絶句!の裁きを享受。原因は情報力。当時の情報スピード。当初、幕軍を応援した根拠は、「もしほ草」という新聞。幕軍は勝てるぞ!国元家老の中、これを根拠に力説する者が居た。頭で考えるだけじゃなくて、さすが博学。よく情報研究してるな・・ってかんじ。ところが、江戸から早籠が飛んできた。目を覚ませ!江戸は本来、国元と反対、幕軍応援モード。ところが、その江戸でさえ、最新情報は、逆転。官軍が勝つぞ!到着が遅かった。既に、遊撃隊と一緒に官軍をやっつけた後だった!ここで、突如、遊撃隊は、小田原にやっつけられる!!伊庭の腕が一本無くなるハメに!!伊庭八郎はこの後、怪我の治療後、榎本艦隊に参加して、まずは仙台へ向うはずが、銚子沖で、彼の乗った「美賀保丸」が座礁。まずは、陸路引き返す形。逃亡の旅。横浜にたどり着き、尺振八宅に潜伏。ここで、横浜からイギリス艦で箱館へ向かう。箱館戦争に於いては、木古内の戦いで致命傷。精神力でもっているが、傷口は腐敗して、患部皮膚の色は死人のごとく。それでも、病院に入らず、五稜郭に居た。皆と生死を共にする為だった。たとえ死ぬとて、勝利の瞬間を見るまで、死ねなかった。しかし、すべての可能性は消えた!すべての可能性を失った時、この人物は、ふと微笑むのかもしれない。高梨哲四郎が、永久に「伊庭の悲し気な微笑」を忘れられない気持ちが、なんとなく解る。前述のとおり、五稜郭開城の前夜、伊庭八郎は、榎本武揚に手渡されたモルヒネを、一気に飲み干し、潔く自決を成し遂げた。伊庭八郎と友達について(恰も、少年のような側面)サイトTOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<「伊庭八郎の微笑み」:No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4・・こちらは、ガラリとイメチェン。実は、伊庭八郎の大好きメニュー!★
2012.05.07
伊庭八郎の微笑みと少年_高梨哲四郎No.2,幕末戊辰,高梨の兄、沼間守一の戊辰動き経緯,伊庭の逃走潜伏期間伊庭八郎の微笑みと、少年_高梨哲四郎_No.2或る日、悲し気な「伊庭八郎の微笑み」前頁から読む:No.1:伊庭逃走と、尺振八が匿った経緯&「懐手」の訳高梨哲四郎は、少年だから、なんにも知らない。全く詮索しない。この人は、先生の知り合いかもしれないが、僕と同じく英語習いたかったから、ここに居るんだろうな・・・。或る日、師匠の尺振八が、直接、伊庭に向って大切な話を語ってる最中のこと、普段ならまだ許せるが、先生のまん前でも、コイツ、相変わらず懐手の癖直らんな!思わず、注意した。「君、先生の前で、その手の癖!無礼だぞ!」その時、伊庭の見せた表情が、高梨哲四郎は、永久に忘れられない。思い出すだけで胸が痛い。・・・伊庭は、口答えできず、ただ、ただ、静かに微笑んでいた。尺振八も、これはマズイ!と思いつつ、その旨まさか語れない。見て見ぬ振りだったのだろう。まさか指名手配の男か?と小騒ぎになる前の段階で、こんなこともあった。伊庭の真の姿を知らない塾生達は、見た目色白で大人しい20歳位の男相手に意地悪を。「どうも、アイツ、さては片手だな。ようし、イイ方法があるぞ!」尺振八宅で、塾生達は、給食当番有り。かしわ肉がメニューの日に、わざと伊庭にその当番を。当時のことだから、精肉じゃない。生きた鶏を殺生するところに始まる。こればかりは、片手では、どーしようもない。それでも黙って、伊庭はその当番を。手が一本足りないから、手のかわりに口で咥えて、滅茶苦茶大奮闘・・のところ、尺振八の妻が気付いて、助けられた。しかし、それも長くは続かない。塾生達も後半には、密かにヒソヒソ。「まさか、あの男、指名手配犯人か!噂の片腕の男か!!」「まさか!百人斬りの豪傑剣士が、あんな可愛い顔した男なもんかよ!しかも、どこぞの道場主って噂だぜ?なんで、アイツに道場主なんか務まるもんか!」・・・「それも、そうだが、どうも、片腕っぽくないか??・・・」どうやら、それが「まさか!」じゃなかったこと、高梨哲四郎は、後で気付く。しかし、まさか明治初期に語るわけにゆかない。・・・時が流れ、ほとぼりさめて・・・遠い過去として、語った。百人斬りの「鬼の豪傑剣士」、その素顔とは、優しい色白のお兄さんだった。徳川の為に戦って、片腕を失った人だというのに、何も知らずに悪い事を言ってしまった自分。思えば、兄達も同じく徳川の為に戦ったのだ。幸い、実の兄達は、こうして明治に帰還できたけど・・・。僕は、本当に悪い事を言ってしまった・・・。後悔先立たず。高梨哲四郎は、いくら時が流れても、胸が痛かった。伊庭八郎の微笑みについて伊庭の微笑みがなんとなく目に浮かぶ。実は、彼の最期の瞬間においても、微笑み説がある。明治2年5月、いよいよ、榎本軍アウト。榎本が重症で床に伏せっている伊庭の元へ現れ、一言。「伊庭君、残念ながら、時来たりた。我らも、すぐ後を追うことになるから。すまんが、君達(伊庭と春日左衛門)には、一足お先に頼む。」榎本に手渡されたモルヒネ毒杯を、伊庭は一気に飲み干した。そして、静かに微笑んだ。万事、諦めた時、もしかしたら、少年高梨哲四郎が見たのと同じ微笑を伊庭は、浮かべたかもしれない。尚、これには異説もあり、なんとも言えないが。丸毛に言わせると、目を怒らせ、奮え、怒りながら毒杯を飲み干した・・・。・・・・だが、どっちも本当ではないだろうか。飲み干したら、案外、ふと微笑みの瞬間を残したかもしれない。そう感じる。伊庭には両曲面がある。鬼の面と、容姿のとおり、美少年のような華奢な側面。<鬼の面>鬼の面としては、剣術の腕やら、自ら先頭に立って戦う姿。箱館戦争では、片腕ながら、馬にも乗るし、その上、馬上で銃まで撃つ。しかし武術だけでない。箱根戦の際、近隣諸藩に同行参戦を呼びかけた時、YESと言わない藩には、まるで鬼!徳川報恩信念なれば、まるで鬼!50代、60代の偉い重臣達相手に平気。大怒号。「よくも大の男がこんだけ面並べて、誠の男は一人も居ないのか!!」それだけじゃない。それでもダメと解れば、切り返しが早い。「ぼさぼさしてる暇があるなら、さっさとせんかい!!」きっちり、軍用金をせしめる。・・・そのお見事な展開を、ゆで卵のような顔して、ポカンと見ているのは、人見勝太郎。彼も豪傑ながら、顔は童顔。武術は凄いが、こうした術は無い。伊庭に御見それなのだ。この話の関連はこちらのバナー。或る日、21歳の若い青年藩主の元、現れたるは、伊庭八郎と、人見勝太郎だった!これが運命の別れ道。藩主自ら脱藩。おかげで明治は悲惨。一文無しどん底。お百姓さん経験まで有りの殿様!後半ラスト頁は資料編集。伊庭八郎の経緯についてサイトTOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<「伊庭八郎の微笑み」:No.1<No.2(現在頁)<No.3・・
2012.05.07
伊庭八郎の微笑みと少年_高梨哲四郎No.1,伊庭八郎の逃走中の姿,尺振八宅に潜伏,幕末戊辰 _伊庭八郎の微笑みと、少年_高梨哲四郎_No.1後の世、高梨哲四郎が語った「伊庭八郎の微笑み」伊庭八郎高梨哲四郎=沼間守一の弟(リンク先に兄弟情報有)高梨本人は明治の弁護士&議員。戊辰中、少年だったことから実戦関与無。但し、当時英語を習っていた横浜の尺振八の塾で、偶然に「逃走中&潜伏中の伊庭八郎」に会っている。実は、この時、尺振八は、伊庭を匿っていた!後の世、高梨哲四郎は、自ら、その時の話を語る。・・・・「色白の優しいお兄さん」の思い出この時、哲四郎は、横浜の尺振八宅で英語を学ぶ熟生。初めて伊庭を見た時、20歳位に見えた。なぜなれば、伊庭は色白で綺麗な顔で。実は25歳なのだが、とてもそんな風に見えない。その伊庭は、ことある度に、優しい目をして、少年、哲四郎を褒める。「哲さん、そうだ、そうだよ、君は本当にお利口さんだね。偉いね。」可愛いくて、可愛いくてたまらないのか、頭を「撫で々」されて、照れてしまうことさえあった。哲四郎にとって、兄達は養子に出されているから、この優しいお兄さんは、まんざらでもなかった。お兄ちゃんって、いいもんなんだな。・・・うちのお兄ちゃん達も無事でありますように。思わず、天に祈った。この時、二人の兄は、幕軍として奥州で参戦中だった。沼間守一&須藤時一郎しかし、ひとつだけ、気に入らんことがあった。優しくていい人なのに、少しだけ行儀が悪い。姿勢もいいし、他に文句はないが、なぜか、いっつも「懐手」の癖。哲四郎は少年だから、何かと鈍感だった。戊辰時、少年だった「高梨哲四郎」が会った「逃走中の伊庭八郎」なぜか、いつも「懐手」の癖・・・の訳伊庭逃走と、尺振八が匿った経緯&「懐手」の訳伊庭は、最終箱館戦争で死亡だが、この段階は、彼が乗船した美嘉穂丸が座礁。そこで、陸路、逃げ延びて、単身蝦夷行き決行までの期間、尺振八に身を寄せていた。この時、伊庭は、単なる官軍に徹底抗戦の幕軍賊軍レベルではない。実は、完全に「お尋ねモノ状態」だった。箱根戦で戦い、伊庭は、片手を斬られ、片手の男。とはいえ、さすが伊庭道場の主。彼は、凄腕の剣客の為、遊撃隊で箱根戦に於いて、大勢の官軍を斬り倒している。江戸の町では、伊庭の「百人斬り」と噂が飛びまくっていた。片手を斬られ、怒った彼は、忽ち片手で大勢の敵を斬り殺した。片腕の男、指名手配だった!!その為、発覚すればマチガイなく斬首!官軍にとっての伊庭とは、賊は賊でも「重罪犯」に該当する。伊庭は、尺振八宅で塾生の一人になりすましながら、船便得ると、蝦夷の榎本軍を目指し、箱館へ去ってゆく・・・のだが、塾生になりすましている期間は、実に大人しくて静かな青年。哲四郎に限らず、生徒達は、皆、当初は同じように、20歳そこらの普通の若者と思い込んでいた。或る日、悲し気な「伊庭八郎の微笑み」サイトTOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<「伊庭八郎の微笑み」:No.1(現在頁)<No.2<No.3・・★
2012.05.07
死角に填まった父とその倅,郡上藩凌霜隊No.2,嗚呼!少年藩主様なれば!,幕末_WITH_LOVE,戊辰戦争サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関郡上藩凌霜隊の悲惨_死角に填まった父と、その倅最大の原因は・・・少年藩主様!父:「朝比奈藤兵衛」と、倅:「朝比奈茂吉」前の頁から読む:No.1「どうして、こんな事になったか?=死角に填まった父:国元家老の罠!」<メンバー紹介>死角に填まった父=江戸詰家老(左幕派)=「朝比奈藤兵衛」郡上藩凌霜隊隊長=「朝比奈茂吉」(17歳)=「朝比奈藤兵衛」の倅国元で獄に繋がれ最悪経過ならが、無事明治を生き、滋賀県へ移住、自力で郡長地位迄挽回の晩年。罠に填めた側=国元家老=官軍支持派=「鈴木兵左衛門」藩主=青山幸宜(48000石:彼は15歳だから、実質は別!家老と?!大人のご親族)郡上藩凌霜隊の隊員=47人+?坂田林左衛門(副長),速見小三郎(副長兼参謀)中岡弾之丞,桑原鑑太郎,小野三秋,米沢小源治,中瀬鐘太郎,山片俊三,菅沼銑十郎,牧野平蔵,石井音三郎,氏井儀左衛門,田中亀太郎,松尾才治,武井安三,山田惣太郎,鈴木三蔵,浅井晴次郎,小泉勇次郎,小出於兎三郎,山脇金太郎,林定三郎,売間直次,矢野原与七,池尾幾三郎,斎藤巳喜之助,尾島左太夫,金子勇次郎,土井重造,山田熊之助,中村国之助,安村敬三郎,白岩源助,岸本伊兵衛,斎藤弥門,山脇鍬橘,野田弥助,岡本文造,他,&?彼らの結末=戦死、国元に護送されてから獄中死,放浪&他地方へ(許されても罪人),野垂れ死に他この隊は、隊長は17歳ですが、しっかり者の30~40代も少し居ます。父の朝比奈藤兵衛が、ちゃんと保護観察役に送り出しています。後は、精鋭大人20代、そして可愛そうな10代。戦死は仕方ないとて、10代を獄中死に至らしめるは、神経疑いますね。<彼らの転戦ルート主な戦地>◇小山、◇宇都宮、◇日光街道~塩原、◇横川、◇田島、◇大内峠、◇関山、◇会津籠城組に入る会津籠城戦に於いて、彼らの生き残りは、日向内記(会津の白虎隊隊長)の配下となり戦う。会津降伏と同時に、彼らも降伏。→国元に護送→獄中へ繋がれる。(ここでバタバタ病死多発<四面楚歌!獄中死を待つのみ状態からの離脱=民とお寺さんの結託>藩の為に戦に押し出されながら、この仕打ちは酷すぎる。いよいよ、お寺さんが動いた。皆の嘆願だけでは力不足。ところが、ここで、嘆願の材料として、一つ札を握った。これは、いうなれば、お寺さん同士の連携パワーといえるかもしれない。それは、彼ら凌霜隊のメンバーの参戦途上、「塩原」に於ける軌跡だった。彼らを無事、獄から解放できた最大のキーマンは「妙雲寺(塩原)」さん。凌霜隊は、転戦軌跡の中、この寺に在隊期間有り。幕府諸隊、及び会津の指示にて、幕軍側の作戦一貫として、彼らは、「この寺を焼き払え!」の命令を受けた。信心深い「朝比奈茂吉」としては、いかに正義の戦の為といえど、寺を焼き捨てるには、猛烈に抵抗があった。その為、最終的に、この寺は無事、焼き落とされずに済んだ。寺に、「朝比奈茂吉」の懊悩が、まさに証拠として残された。妙雲寺本堂天井画には、「菊の紋章」がある。焼き落としに悩んだ朝比奈茂吉は、隊士に命令して、菊の紋章マークには、ことごとく、全て筆でバッテンマークを入れさせた。我らは賊ではない!尊王の姿勢を愚かしくも粗末にする者ではない!割り切れ!!これは、誠の菊ではない!!我らの徳川報恩260余年、今は、その正義の戦じゃ!雄藩共が翳す菊は・・あれは己の私利を正当化するだけの目的、所詮、偽者じゃ!!これは、実に痛々しい心情を物語る。薩長雄藩の不義に戦いを挑んだわけで、尊王自体は、澱みなきことが、明確だ。さて、今日の感覚で、ドライに物を考えると、お寺さんとしては、余計な落書きをされてしまった事になるわけだが、徳川の立場にありながらも、結果として、あえて命に背いて寺を守ってくれた事に、このお寺さんは同情&感謝してくれた。★この落書きは懊悩の証拠。おかげで、寺は焼き捨てられずに済んだのだから・・・!!▼まあ、言うなれば、「切り札」とは、・・「彼らは尊王姿勢に澱みありません。論より証拠です!!」・・・ざっと、こんなかんじでありましょう。<雄藩の威圧に屈した恭順藩の立場>一挙一動気をつけないと、いつ何時、雄藩やら、お公家さんやらのゴキゲンを損なって、折角生き残ったはずの藩の命、これがオジャンになると困る。同情心から、下手な嘆願撃つと、一気に暗転してしまう。それが、上記「切り札」のおかげで、嘆願お材料ができた。即ち、妙雲寺本堂天井画に、「菊の紋章事件」がなければ、彼らは全員獄中死だったことだろう。<少しだけ「鈴木兵左衛門」の立場にも同情> この人物は、恰も悪魔か鬼のように言われていますが、どの藩も、だいたいこんなかんじ。藩論が、幕府か官軍かで、みんなどこの藩も大抵、真っ二つ。いざ参戦の前に、藩内で殺し合いが発生している。その点、鈴木氏の判断はお利口。国元に、左幕派を残しておくと、いつなんどき、己が狙われて殺されるか解らない。この場合、己の命惜しさのみとは言えない。己が殺されたら、二番手で、しっかとリーダーシップ切れる者が居ない。左幕派追い出しに丁度良かった。ずるいかもしれないが、傷を最小限に藩を守る、藩主様を守る姿勢。但し、いかに藩主様第一主義とて、抑留形態が酷い。その仕打ちは、まさに、「早く、獄中死してくれ!こっちは手を加えたくない!自動的にさっさと死んでくれ!」・・・の扱い。まあ、首謀者を数名引き摺り出して、斬首して、首を官軍に捧げ、残りをスカッ!と許すという手も、同じように残酷には変わらないから・・・なんとも言えない。彼の場合、罠の形で、彼らをこの形に填めている以上、選抜引き摺り出して、斬首に踏み切れない。藩の為、藩主様の為。何がなんでも、藩の為・・。これは涙ぐましい。今日の感覚では解り難いが、幕末戊辰の犠牲者達は、みんな己の命を藩の為。痛々しい。用心深く見ると、各藩には、恭順説を唱え、藩を救った英雄ながら、左幕派家老の犠牲首、その罪悪感に懊悩したらしき痕跡、明治の世、折角名誉のポジションにありながら、若死にしてしまった者も見えます。尚、明治の世、鈴木さんは、名誉&お元気。その為、あんまり強烈応援演説できませんが・・・。幕末玄関1<幕末玄関(その2)<人物名から追跡、<郡上藩凌霜隊:No.1<No.2(現在頁)
2012.05.07
笛吹き男は死ぬ気だった!山川浩の笛太鼓獅子舞入城No.11,山川浩隊を獅子舞の隊列に紛らせて無事城に送り届けた民,幕末会津藩資料編の特別付録頁:日本の伝統芸術「◆獅子舞、◆祭り笛太鼓イメージ日本人形各種」山川浩の笛太鼓獅子舞入城(笛吹き男「高野茂吉」は死ぬ気だった!)_No.11【特別付録編_No.11】日本の伝統芸術。「◆獅子舞、◆祭り笛太鼓イメージ日本人形各種」現在シリーズMENU■笛吹き男「高野茂吉(隊長)」は死ぬ気だった!、■山川浩の笛太鼓獅子舞入城劇、■小松集落の人々と彼岸獅子カモフラージュ軍団、■史実の裏側、■会津崩壊!打首寸前!会津を支援した村長受難!・・<他各種項目有>(現在頁):【特別付録編_No.11】日本の伝統芸術会津が滅んで、支援した民がしょっぴかれて、斬首宣告!!この話:詳しくは真上のバナーからご入場下さい!獅子カモフラージュ軍団にて、会津を支援した勇気の村人達。隊列に山川浩と兵を潜め、無事、城に送り届けた。ところが、会津が官軍に負けた!こうなると支援者が裁かれる!!いざ、斬首!引き摺り出された長老、二人。大竹重左衛門と斎藤孫左衛門は、己の首を捧げる覚悟で、最後の嘆願。隊列の指導格、笛吹き男、高野茂吉(30歳)の存命嘆願を許してもらえぬだろうか。彼は、生きた財産だ。(演奏能力たるや、今日の人間国宝並)小松彼岸獅子の技術は、徳川と共に260余年。不穏な世情、幾度も戦禍と大飢饉、それにて、この技術は途絶えるところだった。それでも、必死で守り貫いて、やっと正式に免許皆伝の村となった。我ら二人の命は惜しくはござりませぬ。官軍様に背いた罪なれば、承りましょう。されど、どうか、たった一つ、この年寄りの願いを、叶えて下さりませ。この命にかえて、どうか、官軍様、小松彼岸獅子の技術存続をお許し下され!技術者のお咎めを、どうぞ、お許しください!!彼らを失えば、この国から、技術が途絶えてしまいます。★日本の伝統芸術って素晴らしい!古来技術を伝承&現代人の感性にマッチ共感!日本の伝統芸術。「◆獅子舞、◆祭り笛太鼓イメージ日本人形各種」 _ _ _ _TOP(サイトTOPは犬猫サイト)<幕末玄関<現在SERIES:No.1:山川浩の笛太鼓獅子舞入城_笛吹き男「高野茂吉」は死ぬ気だった!!・・・<No.8おまとめ資料表<No.9<No.10(前頁=完)<【特別付録編_No.11】(現在頁)◆ペットが主流玄関、◆飼い主さんが主流玄関
2012.05.07
飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」No.3,幕末<会津<白虎隊,ベビーパウダーと天花粉,その変遷考察,日本古来と世界,主成分と使用用途,幕末史実と現代の日常関連白虎隊士_飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」について_No.3TOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊(会津)<飯沼貞吉<現在頁飯沼貞吉 (明治の改名:貞雄):『白虎隊顛末記』著嘉永7/3/25(1854/4/22日)~ 昭和6(1931)2/12)■死亡:77歳(飯沼貞吉MORE)ベビーパウダー&シッカロールを・・・別目的にも便利に活用!初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2■この前の頁までの運び白虎隊、飯盛山の悲劇の中、唯一の生き残り、「飯沼貞吉」は、傷の治療に医師が用いた白い粉の正体が、漠然と生涯ずっと気になっていたが、ついに解らず。(「飯沼貞吉」と飯盛山について概略&関連頁リンク) そこで、化膿止め、炎症止めの目的で、医師が幕末用いた可能性のある白い粉考察。世界的に登場する白い粉と、日本古来の天花粉。明治に初販売されたシッカロールについて他。 _さらさら、ふわふわ、しっとり効果とは、人の肌に限らず。こんな使い方、書くと、メーカーさん御免なさい!でもありますが、嘘みたいなホントの話。<年季の入ったカーペット再生術>我が家の場合、犬猫用のふわふわカーペット、洗濯頻繁の為、毛先が団子気味でカッコ悪い。そこで、パフパフとパウダーを振り掛けて、ブラシで、円弧を描く形で必死に擦る。すると、あら不思議。新品の頃状態蘇生。ぷわっぷわっ!(コツは洗濯後、ガリンガリンに乾燥する一歩手前、少し湿度が感じられるうちに上記作戦)嘘かホントか信じられない皆様は、小さい物質で実権してみて下さい。さしあたって、古来のぷわぷわ綿のついた耳かき。年季入って、クシュッとカッコ悪くなったヤツ、それにパウダーを含めて、シャカシャカ指で揉んでみて。シャキッ!プワッ!に化けます。(この場合、ブツが小さいので、わざわざ濡らさず、そのままで効能痛感できます。)尚、本件からだいぶズレますが、犬猫の皮膚対策、床ずれなどについて・・・(表示先特集の後半頁に、介護的要素集中してます。)TOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊(会津)<飯沼貞吉<飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」No.1(現在頁)<No.2<No.3・・★
2012.05.07
飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」No.2,幕末<会津<白虎隊,ベビーパウダーと天花粉,その変遷考察,日本古来と世界,主成分と使用用途,幕末史実と現代の日常関連白虎隊氏_飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」についてTOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊(会津)<飯沼貞吉<現在頁飯沼貞吉 (明治の改名:貞雄):『白虎隊顛末記』著嘉永7/3/25(1854/4/22日)~ 昭和6(1931)2/12)■死亡:77歳(飯沼貞吉MORE)医師が用いた「謎の白い粉」前の頁から読む:No.1<医師が用いた「謎の白い粉」>ところで、飯沼は、治療を受けた際、医師が白い粉を使った事を記憶している。傷が化膿せずに治ったのは、この白い粉のおかげだと思うが故、明治の世、彼は随分、その正体を調べてみた様子だが、ついに解らなかった。礼を言いたいが、どの医師のおかげだったかも、本人はわからない。漠然と白い粉が、生涯ずっと気になっていた。古来より、全世界で、腐敗防止目的に用いる白い粉とは、数種類あった。日本の場合は、「天花粉」が昔からある。これは、烏瓜という植物の根から抽出した澱粉。けっして妙薬というレベルではないが、古くから浸透している。化膿防止といった画期的な存在ではないが、まあ、余計な水分を吸収して、なおかつ、程よい湿度を保つから、病院で傷兵に用いるというより、武家や商家など、そこそこマシな生活レベルの一般家庭で、乳児のお風呂あがりなどに、使っていたようだ。世界的に、白い粉というと、一番古いのは、プロポリス。これは蜂蜜から抽出する貴重品で高価。白く見えるが、よく見ると、少し黄色がかっている。これは紀元前から使われており、ヨーロッパでは、紀元前から民間薬の一種として使われていたことが確認されている。一方、古代エジプトでは、ミイラの腐敗防止の意味でプロポリスを使用した説も有り。 アッシリアでは、腫れ傷、炎症防止に使われたとする資料を述べた学者も居る。とはいえ、貴人に対してだからこそ、こんな贅沢ができたわけで、一般的には、高価すぎて手が届かない。時代が少々流れると、海外では、鉱物に着目。滑石(=タルク)という鉱物の粉が用いられるようになってゆく。用途は、やはり、傷の化膿防止、炎症防止など。滑石は、ケイ酸塩を含む岩石の変成岩のひとつ。これに加えて、別途、亜鉛華(酸化亜鉛:同様に鉱物)の粉も混ぜて用いられていた様子。但し、これは、いつ、どの国のどの医者が、その効能を本格的に解して、意図的に用いたかについては定かでない。但し、解剖学に、滑石の言語が、確かに絡んで発生している。幕末長崎で、松本良順らに、解剖学を実施指導したオランダの医者、ポンペは有名だが、そこに白い粉の話は知らない。この頃、ポンペは、傷を衛生的に保つことを力説してるが、世界的に「細菌」については皆疎く、顕微鏡自体は存在するから、多くの医師は、何かあると漠然と思いつつ、はっきりと「細菌」を認識していない。<顕微鏡について関連:顕微鏡と幕末の雪華に散った男「土井利位」の研究「雪の結晶【雪華図説】」>転じて、会津には、上記松本良順本人も、戊辰時、足を踏み入れ、自ら治療した他、立ち去る際に、貴重な薬を、現地に手渡している。また、松本の弟子が、会津に居る。それらを考察すると、もしかすると、飯沼が見た白い粉とは、滑石含有の物であった可能性は多少考えられる。今日、病院で消毒目的で用いる薬は、全く別のものばかりだが、消毒や化膿止めといった大層な目的ではないにせよ、あせも対策に、日常、一般人が用いるモノとして、ベビーパウダー、およびシッカロールの固有名詞は、有名。やはり、天然の滑石(タルク)、酸化亜鉛(亜鉛華)と一緒に澱粉質を含有している商品が多い。(尚、滑石については、有害物質が含有されるなどの問題が一切無関係の良質素材を用いる商品のみ、許可されているので、非常に安心!)澱粉の効能は上記のとおり、水分吸収サラサラ効果、プラス、ほどよい湿度の確保。とはいえ、日本古来の烏瓜は現代では、用いず、コーンスターチ(トウモロコシ主原料)が主。結局、つまるところ、飯沼が生涯気になっていた「白い粉」の正体は不明。但し、明治期に、日本で、滑石効能に頷いた結果といえるのが、シッカロールの登場。これは、実に歴史が深い。和光堂が、明治39年(1906)に販売開始。やはり、主成分は、滑石、亜鉛華、澱粉。NEXT_ベビーパウダー&シッカロールを・・・別目的にも便利に活用!TOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊(会津)<飯沼貞吉<飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」No.1<(現在頁)No.2<No.3・・
2012.05.07
飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」No.1,幕末<会津<白虎隊,ベビーパウダーと天花粉,その変遷考察,日本古来と世界,主成分と使用用途,幕末史実と現代の日常関連 _飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」についてTOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊(会津)<飯沼貞吉<現在頁飯沼貞吉 (明治の改名:貞雄):『白虎隊顛末記』著嘉永7/3/25(1854/4/22日)~ 昭和6(1931)2/12)■死亡:77歳(飯沼貞吉MORE)飯沼貞吉は、白虎隊の悲劇(慶応4年(1868)8/23)、飯盛山少年達の集団自刃の際、たった一人奇跡的に生き残った者として有名。『白虎隊顛末記』を著わす。平成の世になって、酒井峰治(当時16歳)の 『戊辰戦争実暦談』が公開されブームとなったが、それまで長い間、飯盛山に絡む白虎隊の詳細といえば、飯沼貞吉の語りがオンリーワンだった。因みに、酒井は、別の軌跡を描いている為、飯盛山現場を見ていない。その点、飯沼貞吉の書き残した内容は、今日の歴史にとって偉大なる貢献。しかし、ながら、よくぞ、堪えて語ったものだ。少年であることから、寧ろ生き残った事を褒める者が圧倒的に多く、守られて勇気を取り戻したのだろうが、心は恐らく針の筵。皆は一律、「奇跡的に蘇生、偶然息を吹き返した。」で統一。生き残った事は正しいのだから・・。自刃に失敗して、その後の軌跡に関して、詳細は割愛ながら、一般的に伝わる内容概略は下記。<飯沼貞吉:命拾いの軌跡>■まずは、集団自刃の現場に、追剥らしき男登場。屍の山の中、唯一生き残りの飯沼。金を渡し、場所移動依頼。追剥に担がれ、途中で捨てられた。そこに、偶然、印出新蔵の妻ハツが、通りかかる。飯沼と印出家は既知。そこで、印出家は、命掛けで、医者の居る町、塩川まで、飯沼を背負い、近江屋(醸造業)の深田文内宅にたどり着く。■そこで、飯沼は治療を受け、幸い完治。この時、携わった医者は、初め、三本住庵。その後、長岡藩軍医の二人が再度治療。阿部宗達と、吉見雲台と言われる。・・・・<◇三本住庵、◇阿部宗達、◇吉見雲台>しかし、つまるところ、彼の傷は、比較的浅かったことを物語る。味方側から、それをつっこむ人物は、そんなに居ないと思うが、彼にとっては苦しい心の傷。そうなると、いっそ、何一つ語らぬほうが、身の為ながら、皆の遺族を思い、語ったは、相当の勇気。それを思えば、実に自己犠牲的で痛々しい。なんとなくだが、裏を返して考察するなれば、会津藩士の少年達は「卑怯と臆病」という言語に縛られていた気がする。「臆病者」と言われる事に対して、極度な過敏とは、逆説的に第二の臆病。武士教育の歪みを痛感してしまう。潔くなくてはならない。これが少年達の宿命を死角に。真っ先に詩を吟じたのは飯沼本人。次いで、教導役の篠田儀三郎が朗々と、詩を詠む。引き続き、ラスト部分を、石田和助が締めっ括る。この後、皆は、上記石田和助ピッチに押し流されてしまう。石田和助は有言実行。即時、真っ先に見事な切腹を成し遂げる。こうなると、なりゆき、教導役の篠田儀三郎と、飯沼貞吉は、立場がない。どう考えても、ここで、モタモタできないムードに填まり込む渦の中。石田和助は実に可愛そうだが、彼だけは、きっと、これでよかったのではないかと思う。父の出自で、駆け上がり俄侍と、皆に差別され、苛められた経験もある。負けん気だから、強気で、言い返している。「家柄ばかり立派でも、実力振るわぬどこぞの親と異なり、我が父は、実力実証の者だ!」・・言った以上は、本人は血の滲むようなガリ勉で、遮二無二、なんでもかんでも第一位を獲得すべく頑張る。それが、彼の意地。それを思えば、再び、「百姓あがりの家だから、臆病」だのと言われる位なら、死んだほうがましだ。誰よりも勇ましく、誰よりも早く、有言実行を飾らずにはいれない心境。石田家の名の為、彼の意地。その為、凄いピッチだ。あっという間に、真っ先に、見事な十文字切腹を飾った。恐縮だが、なりゆき、こうなると、飯沼貞吉は、そうせざるをえぬ窮地。傷の具合やら、後日談に係る第三者の語りなどを総合すると、やはり、戸惑い悔恨の色は否定できない。とはいえ、飯沼は生きて本当に良かった。「生きる」とは、正解以外の何ものでもないから。白虎隊 _ _<医師が用いた「謎の白い粉」>ところで、飯沼は、治療を受けた際、医師が白い粉を使った事を記憶している。傷が化膿せずに治ったのは、この白い粉のおかげだと思うが故、明治の世、彼は随分、その正体を調べてみた様子だが、ついに解らなかった。礼を言いたいが、どの医師のおかげだったかも、本人はわからない。漠然と白い粉が、生涯ずっと気になっていた。NEXT_医師が用いた「謎の白い粉」TOP(TOPは犬猫サイト)<幕末玄関<白虎隊(会津)<飯沼貞吉<飯沼貞吉の傷完治の要因:医師が用いた「謎の白い粉」No.1(現在頁)<No.2<No.3・・★
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.21,西郷従道人物像,西郷従道と倅の天昇,大山厳の最期,うわ言で呟いた西郷隆盛の名,大山捨松,山川浩,吉井友実,篠田利英,幕末明治西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.21西郷従道と山川浩後日談:鬼の目の涙<前の頁から読む:No.20大山厳の後妻探しに、西郷一族やら旧知の同郷の友やら、みんなよってたかって山川捨松を狙い撃ち。なんちゅうしつこさ。敵山川陣中で戦う男は、たった一人、浩一人。ところが、西郷一族の結束も、互いに命の報恩なれば、なかなか泣けるシーンも潜んでいます。ここまで必死だったのは、西郷一族の反映も勿論だが、涙の報恩パレードです。(戊辰に絡む。)さて、ところで、前頁文章内の、西郷従道に於ける「父の気持ち」と倅の留学の話に、追記。従道の長男は従理(明治7年生)という。明治14年にロシア留学。その後アメリカへ。ところが、この子は、明治17年僅か10歳にて、アメリカで伝染病チフスに罹り死亡の宿命。その時、父たる 従道はスケジュールの中、間に合わず、そのかわりに、大山厳が剛速球で飛んでゆきます。哀れな少年の最期を見届けた。大山厳は、己の婚姻の為に身を粉にして動いてくれた西郷従道に対して、辛くてたまらない。しかし、少年の最期の様子を一生懸命、伝えてあげた。鬼の西郷とて、人は人。父は父。繰り返し、「ありがと、ありがと、ほんにありがと・・・。」涙で何ひとつ、まともに語れない。「ありがと、ありがと・・・。」壊れた機械みたいに、ずっと繰り返していた。大山は胸が張り裂けそうだった。これは、明治17年のこと。大山に捨松を迎えた16年の翌年。子を失う悲しみ。生まれて間もなくならずや、ここまで育てた子。年の離れた妹を敵陣に送る際、往生際の悪かった山川浩の目頭が、記憶に蘇ってきた。家族愛と歴史の人=心系抜粋スポット・■「西郷従道家」:父として、可愛い我が子を失う時西郷の血、大山厳の最期と、西郷隆盛No.10にも書きましたが、大山厳と、西郷隆盛は従兄弟。大山の父は西郷から大山家へ養子IN。その為、大山の体内を流れる血は西郷。明治10年、西郷隆盛がいよいよ、西南の役を引き起こす時、不幸中の幸い、弟の従道は、追討軍に派遣されるを免れ、座して耐え見送る形。ところが、大山厳には、それは許されなかった。涙堪え、西郷隆盛を討ち取る追討軍を指揮する。これは突然ならずや、涙の別れがあります。海外派遣中の大山は、またしても吉井登場ながら、吉井友実に、隆盛のただならぬ様子を聞かされ、急遽国内に連れ戻される。間に合った。隆盛に遇えたのだ。大山は涙ながらに訴える。生死は共に、隆盛に追従して己も果てたいと。ところが、隆盛は猛烈な剣幕で、大山を叱りつけた。「間違えてはならん!お前は、いつから、俺の家来になっちまったんだ!!間違えるな!俺の家来なんかじゃないんだぞ!お前は天皇に仕える身なんじゃ!!学んだことを、この皇国に伝えるんじゃぞ。それが使命じゃ!」実は、隆盛にしてみれば、大山は従兄弟というよりも、感覚的に可愛い弟。失いたくなかった。大山も、隆盛を兄じゃ、兄さァと呼んでいた。大山は、なかなか上手なお惚けキャラで、人を和ます術を心得た男。されば、人に、この経緯に係る悲しみと罪悪感を語ることはなかった。しかし、妻の捨松は、追々それを知る。大山にとって、隆盛は、心のお兄ちゃんだったのだ。捨松にとって、それは、夫が哀れなのも解るが、内心羨ましかった。捨松には、兄上が居た。しっかり者の有り難い兄。何から何まで世話になった兄が居た。しかし、それは、あくまで兄上。お兄ちゃん・・・が羨ましい。そう思う間もなく、我が兄、山川浩は53歳で天の人。お兄ちゃんが、尚羨ましい。大山は、大好きなお兄ちゃんを撃った己の罪悪感が、生きてる限り、永久に体にへばりついていた。彼は、なかなか長生きしましたから、死亡は大往生の74歳。(この時代としては大往生)ところが、いよいよ断末魔。魘されて、うわ言。「兄さァ、兄さァ、兄さァ・・・。」子供のようなうわ言。枕元に寄り添う妻の捨松は、あたかも、子を宥める母のごとく。親子程年の差があるけれど、もう、こうなると、別世界。子守唄を赤子に歌い聞かせるように、布団の上から、優しく、そっと胸元を、タッピングしてやりながら呟いていた。「よかったね。よかったね。本当によかったね。これで大丈夫ね。ちゃんと、西郷さん、迎えに来てくれたのよ。やっぱりよ。西郷さん、貴方がとっても可愛いからよ。だから、よかったわね。だから大丈夫よ・・・。」捨松は、大山の心の苦しみ、それは昇天前に、現世に置き去りにさせてやりたかった。家族愛と歴史の人=心系抜粋スポット・■妻が夫に贈る子守唄:喝采の夫婦愛(夫の天昇の時_大山厳&妻の捨松「貴方は救われたのよ。少しも間違えてなかったのよ。よかったわね。もう、いいのよ。少しも苦しまないでいいのよ。よかったわね。おやすみなさい。私の貴方。」静かに大山厳は、天に昇っていった。ご登場の皆さん登場人物について(詳しくは下記の後日編へ。ここには略型)山川浩:弘化2年11月6日(1845)~明治31年(1898)2月4日:享年53歳 明治16年(1883)の捨松婚姻騒動の時、38歳山川捨松(=大山捨松):安政7年2月24日(1860)~ 大正8年(1919)2月18日:享年58歳 明治16年(1883)の捨松婚姻騒動の時、23歳大山厳:天保13年10月10日(1842)~ 大正5年(1916)12月10日:享年74歳 明治16年(1883)の捨松婚姻騒動の時、41歳西郷隆盛:文政10年12月7日(1828)~ 明治10年(1877)9月24日:享年49歳西郷従道:天保14年5月4日(1843)~ 明治35年(1902)7月18日:享年59歳 明治16年(1883)お膳立ての頃、農商務卿で、その頃彼は、40歳。吉井友実:文政11年2月26日(1828)~明治24年(1891)4月22日:享年64歳 山川捨松と、大山厳の縁組に係る第一号仕掛け人。大山の前妻の父親。娘が死亡した為。 明治16年(1883)お膳立ての頃、彼は、55歳。篠田利英:安政4年(1857)生れらしいが・・・以下。 なぜこの話を彼が詳しいかは、今回SERIESトップからご覧下さい。当時、山川浩の弟、 山川健次郎の教え子(No.4)だった。後に、利英は、東京高等師範学校教授。篠田利英は長野県出身。教諭であることから、文章は残るが、それでゆくと、東京府士族(東京都でなく当時)となっている。軌跡的には、就職は、群馬県師範学校がスタート。晩年は、文部省視学官兼務。ところが、どうもスッキリしない。安政4年(1857)生れが確定だとすれば、明治16年(1883)の捨松嫁入り騒動の時、26歳。まあ、この年齢で山川健次郎の教え子、学生だったにあまり違和感はないが、話の運びから、後日それを聞いた風に語る。それでは年齢高すぎる学生!ちょっと気になる。まさか、文章内に登場する書生さんとは、まさか!本人じゃないでしょうね。まさかですが・・。戊辰時、11歳。純然たる長野なれば会津の篠田と無関係ながら、山川家の戊辰に係る談話も語る。会津の戊辰時、篠田と山川、小出と秋月など血縁迷路は複雑山盛り。また、会津は、江戸勤の家もあれば、房総在住(湾岸警備派遣)家系もある。判然としないが絡みそう。山川家に詳しいのはなぜでしょう?ミステリー。関連:No.7尚、前述しました「明治5年山川浩の鹿児島意味深な動き」については、別途専用編準備します。不幸中の幸い、上記のとおり、この夫婦は鴛鴦夫婦でしたが、この経緯は、やはり怖い話。真っ先に大爆発、大反対で大暴れの山川浩ながら、驚異的薩摩の人脈網からすると、戊辰の延長線、実は、この火種は、知らずして、山川浩、ご本人が、鹿児島に落としてきてしまった!!・・・のであります。■「意味深な動きSERIES」=資料頁▼サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・<No.20<No.21(現在頁)
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.20,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治 _西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.20西郷従道と山川浩翌日の撹乱戦法初めから読む<前の頁から読む:No.19滅入るは、滅入るは、この男、西郷従道。食い下がらず、あっさり撤退した後は、必ず、何かが起こる。今回も例外なく。それにしても、滅入った。早い!早すぎる!今回のサイクルは、お決まりパターンの二三日ではなかった!!なんと、出没は翌日!妹と兄が、しんみり語る猶予さえ与えてくれない。いきなりのハイテンション。またしても、あの耳障りな言語と妙な音頭調。小狸、ぽんぽん山の中。・・【コーラス】山の中。ぽんぽこぽんの(んっ!)ポンポン!その上、デカい声!「あいや、いやいや先生っ!こりゃまたどうも!あいや、先日の件ですが、それで宜しゅう御座る。特別の仕度は一切望んでおりませぬ。妹さんさえ頂戴できれば、それで目出度し!あいや、目出度し!」・・・西郷音頭付!なんだこりゃ?わけのわからん西郷音頭。具合悪い。下らんこととて、一瞬何か思えば、必ず墓場。剛速球が飛んでくる。浩が、つべこべ言ってる間も無い!西郷の魔術。彼は、捨松が日常使ってる道具を一望。「まずは、成る程、成る程、・・これと、それと、あれですな。成る程。」殺気を感じた浩。まさか!だから、とにかく喋る。されど、不気味な音頭に覆いかぶされて、最期まで喋らせて貰えない。「それは、それで、また別途。なんとでもなりますわい。」 ・・・ついに出た!世紀の一瞬!西郷の大風呂敷。いたずらに時間を与えれば、ろくなことにならない。キャンセルの隙は与えない。心変わりされる前に大風呂敷。「成る程、成る程、・・これと、それと、あれじゃ。ほれ!そこの者共!」 どっから飛び出したか、人夫だか、車夫だか、小者だか。広げた!広げた!西郷の大風呂敷は、なんと、八畳間サイズ!こったらでっかい風呂敷見たこと無い!!浩がポカンとする間に、なんと荷物は全て、奪い去られてしまった!嫁入り道具ならずや、日常品を先取りされたでは、いやでもキャンセルできない。周到な手口。敵ながら、あっぱれ!・・・じゃないが、あまりにも鮮やかな光景。巨大な風呂敷包み。蹄も音も軽やかに、荷馬車が走り去る。奪い去られた捨松の嫁入り道具すったらもんだら、大騒ぎの大急ぎ。大旋風の嫁入り事件。散々火花が飛び交うも、二人の結婚祝儀まで、僅か三ヶ月。さて、この話を後の世語る人物、篠田利英談(篠田氏についての謎)が曰く。「・・・なんと、いってもあの時代のことでございましょう。勿論、トラックなどあらぬ時代でございます。忽ち、その大風呂敷に、荷物は、包み込まれて、そのまま荷馬車に、積み込みまして、運ばれてしまったそうで御座います。」展開は、実におっそろしいながら、幸い、山川捨松と、大山厳夫妻は鴛鴦夫婦。明治の世に、ポッとひとつ灯火。まずは目出度し。明治16年の嫁入り騒動。山川西郷和平協定。西郷従道の大風呂敷SERIES_<一応!完!>後日談:鬼の目の涙大山厳の後妻探しに、西郷一族やら旧知の同郷の友やら、みんなよってたかって山川捨松を狙い撃ち。なんちゅうしつこさ。敵山川陣中で戦う男は、たった一人、浩一人。ところが、西郷一族の結束も、互いに命の報恩なれば、なかなか泣けるシーンも潜んでいます。ここまで必死だったのは、西郷一族の◆NEXT頁では・・・西郷従道に於ける「父の気持ち」と倅の留学の話に、追記:西郷従道の涙父が最愛の子を「永久に奪い去られる悲しみ」西郷の血、大山厳の最期と、西郷隆盛・・・泣く泣く西郷隆盛を討ち取りに向った大山厳、心の傷:断末魔のうわ事「兄さァ!」今回シリーズにご登場の皆さんについてこの火種は、知らずして、山川浩、ご本人が、鹿児島に落としてきてしまった!!・・・の巻ご案内_NEXT頁へGO!幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<・・<No.16<・・・<No.19<No.20(現在頁)<No.21★
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.19,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治 _西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.19西郷従道と山川浩負将の掟。虚しく、妹は敵陣へ初めから読む<前の頁から読む:No.18天の裁きは下った。己は敗れた。毒を以って毒を制する。西郷の猛毒。負将の掟。虚しく、妹は敵陣へ。こうして、哀れ、猛将、山川浩ながら、西郷従道に、首を討ち取られてしまった。敗れた以上、武士なれば、往生際を飾らねばならぬ。されど、兄とは弱い。猛将とて、弁慶の泣き所は妹の幸せ。妹の幸せに関していうなれば、自覚症状の上で、浩は前科一犯。上の妹、操を泣かせた心の傷。せめて、一番下の妹、捨松だけには、永久の幸せを授けたかった。明治7年の佐賀の乱の際、上の妹、操の夫、小出光照は討ち死。同じ戦の現場に居ながら、浩は彼を救えなかった。妹に有無も言わせず、この男に嫁がせたのは、他ならぬ己。無理やりくっつけておきながら、見殺しにしてしまったも同然。酒好きのこの男、山川浩は、他の家族が、どんだけ非難しようが、泣こうが、煽り酒をやめない。ところが、操に泣かれると忽ち弱い。「兄上、お願いです。お体にさわります。私は、兄上まで失いたくないのです。何の為に、私は兄上にお従いしたのでしょうか?兄上!!」小出に関しては、浩自身、自信があった。聡明で勇気があって好青年。それに、なんといっても若い二枚目だ。くっつけたら、必ず幸せになるにきまってる!!ところが死亡した。妹は泣いた。妹を泣かせたのは己。ところが、捨松に関しては、余計な縁談が降ってきた。なかなか弁の立つこの妹は、兄の心を解せず、人権無視の横暴頑固者の兄と憎む。たとえ鬼扱いにされて、根っから妹に憎まれたとて、かまわない!この子を泣かせたくなかった!!可愛い末妹を、敵どころか、あんな中年男の餌食にさせたくない!!後は、坂道を転げ落ちる。恰もあの時、落城の時のごとく、展開は、やたらに速い。立て板に水。嫁入り道具は、風呂敷ひとつ力及ばず、可愛い妹を失うのだ。せめて、ニ三日でいい、そっとしておいてくれ!天は、祈りをつっぱねた。もれなく、れいのごとく、西郷のサイクル。おみごと、またしても、ニ三日で再登場。歯切れの悪い山川浩の姿。早期に父を失っている彼にとって、一番下の妹とは、妹というよりも、感覚的にいうなれば、父に近い。全身傷だらけ、ぼろぼろの父は弱い。我ながら、しつこいと知りつつ、再確認。「くれぐれも、徹して頂きたい。条件は、鹿児島県士族、大山巖殿、対して、青森県士族の妹、山川捨松で、お間違いありませぬのぅ。」これには、流石の古狸殿も、目玉がまん丸。見かけによらず、往生際が悪いのう。思わず唖然。しかし、次の瞬間、頷いた。鬼も狸も賊もない。互いに、流れる血は、もともと赤い。しつこさの意を解した。浩は、まだ喋る。・・「挙式の紙面上のことではござらぬ。妹対、大山殿、永久なる姿勢のことじゃ。」浩は、この時、大山のことを、意地でも、大山閣下とは呼ばなかった。夫婦の間に、閣下もへちまも許さんぞ!!空足掻き。彼の脳裏には、敵陣中、一人ぼっちの妹の姿。前妻の子の前、女中か乳母は、まっぴら御免だ!この時、初めて、西郷従道が、別の表情を見せた。真顔で頷いた。胸に込上げる思いを悟られぬまいと足掻く山川の目元。鬼の西郷とて、思わず視線をそらした。この段階、従道の長男は9歳、ロシアに留学中(後日談)。西郷とて、父なのだ。されど戦に仏心は身の破滅。瞬時に雑念を払って、こう言った。「誓いましょう。この西郷、この国の日の本に、誓いましょう。」暫しの沈黙の後、西郷はニマッと笑い、いきなり握手を求めた。握った途端、またまた、事態は強烈スピード。いよいよ、段取りに、運び込まれる。それでも、浩がブレーキかけて曰く。「了解致した。それなら、それで結構。されど、大山家に嫁ぐとて、我が家では、特別に新しく、嫁入り道具など整える事は出来ませぬ。今まで本人が使っていた僅かな身の回り、所持品程度でござる。なんら、調度品を揃えてやることは、一切致しませぬぞ。所詮、風呂敷一つ程度で御座ろう。その旨、必ずご承諾願いたい!!宜しいのぅ。・・・あくまで、一、鹿児島県士族に嫁ぐ、一、青森県士族の妹の出で立ちでござるぞ!!」浩はあえて冷静を装い、語調を強め、かなり高圧的に言ってみた。しっかと頷いた西郷。「宜しゅう御座る。この西郷、しっかと承り候。」西郷は、それ以上、なんら語ることなく、撤退。西郷が乗った人力車は、勢い良く、山川邸前の坂道を駆け下りていった。後は、ぽつねん、浩が一人、立ち尽くす。翌日の撹乱戦法幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<・・<No.18<No.19(現在頁)<No.20★
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.18,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.18西郷従道と山川浩二度と見たくもない!古狸の微笑み初めから読む<前の頁から読む:No.17西郷の論法はこうだ。山川側からの条件はひとつ。それを満たした以上、山川は、山川として武士に二言は許さないぞ!!今こそ、調印の時!!山川西郷和平条約、調印せよと迫る。雁字搦め!条件満了!条件提示者側に、逃げ道は塞がれた。殺し文句は、武士に二言無し!潔く、調印せよ!!浩としては、条件を提示したつもりなんぞ、さらさらなかった。あくまで切り札。「青森県士族」の言語が放つ猛毒。敵をねじ伏せる懐刀。それが、自刃の懐刀に化けた!!二度と見たくもない!古狸の微笑み!山川浩、孤軍奮闘の城門は、哀れ、崩された。後は生身の恩大将、浩が一人。されど、丸腰じゃあるまいし!浩は粘る。粘るが、どうも歯切れ悪い。必死の足掻きにも似て哀れ。「・・・大山閣下に、鹿児島県士族で、ありましょうか?」「左様。生まれた時、人は皆、すっ裸でござる。青森県士族と鹿児島県士族。これぞ誠。」またしても、白い歯が剥き出し。やめて欲しい。白い歯の真上に、チョビ髭が降り被って、ギザギザマーク状態。吐き気が込上げる。浩は、吐き気を堪えて、まだ粘る。「他県なればまだしも、青森県でござりますぞ!」最期の力振り絞って、猛毒言語をぶちかますも、恩大将は断末魔。戦国侍に例えれば、この時、浩は全身、矢羽が突き刺さり、槍を杖に、ようやく最期の踏ん張り。意識の中、虚しく雁渡る。白け鳥飛んで行く、薩摩の柵(しがらみ)、鹿児島、南の空へ。されど、古狸の微笑みは、尚も絶えず満面に。毒の効きが悪いか?浩は己に叱咤して、あの時の己を蘇生する。薩摩人みよや東の丈夫が提げ佩く太刀は、利きか鈍きか!ついでに、この毒の効きは鈍きか!▲上の詩(上の行一列目のみ)は、山川浩が西南の役鎮圧で、西郷を討ち取りに出征した際詠んだおっそろしい怨恨晴らしの決意詩。青森県のオブラートは余計か!!傷だらけの猛将、山川浩、ふんばり直して、もう一度、雄叫ぶ。「青森県士族なれば、『賊』でござらんか!!しかも賊も賊、会津の賊軍ではござらんか!!」★ここに、運命。古狸の微笑みが、満潮の時到来!待ってました!西郷、敵将、山川に留めの一太刀!「賊でごわすか?・・・賊同士で、寧ろ宜しゅうごわす。我も今や、明治の『賊の弟』でごわはんか!!」▲賊とは、西南の役で、従道の兄、西郷隆盛を示唆。やめてくれ!拷問にも等しい、西郷の振り放つ「古狸の微笑み」。それは、微笑みの領域をはるか超えて、仰け反り返って、大口開けて笑う。見たくも無い!この光景。喉の奥、扁桃腺まで見える!! ここに哀れ、 猛将、山川浩の首は討ち取られたも同然! 哀れ、討ち取られた「山川浩の首」、その行方こうして、哀れ、猛将、山川浩ながら、西郷従道に、首を討ち取られてしまった。会津の文字列をあえて毒の切り札に用いるも虚しい。ものの例えのとおり。毒には、毒を以って毒を制する。西郷の猛毒。賊というなれば、西郷は明治の賊と言う。その賊殿、ご本人の弟に言われた!!ぐにゃぐにゃ、海線山千論法は、所詮、成る程大臣、西郷従道に勝てるわけはなかった!!本来、この男、山川浩には、弱みなど、ひとつも存在ない。しかし、弁慶の泣き所が、只一つ。鬼だろうが、龍だろうが、兄は兄なのだ。泣き所は妹。妹の幸せ。無念なれど、天の裁きは下った。己は敗れた。負将の掟。虚しく、夕暮れの丘、雁渡る頃。妹は敵陣へ。幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<・・<No.16<No.17<No.18(現在頁)<No.19・・・
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.17,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.17西郷従道と山川浩古狸と会津の龍ご対決初めから読む<前の頁から読む:No.16福は内!鬼は外!・・・折角追い出した鬼だというのに!あっちゅう間に鬼は、再び山川家に舞い戻る!!家の使用人が、血相変えて、浩の部屋へ、飛び込んできた。「だんな様、大変でござります。お、おいでになりました・・・!いかがいたしましょう?!」下男は緊張のあまり、顔面蒼白。言語もどもりどもり。まるで漫画状態だ。対して、浩は余裕だ。「いかがもへちまもないぜよ。お通しなさい。」浩は構えた。敵の戦略、あの手、この手。どう出てくるか?古狸と雁字搦め応接間に入ってきた西郷従道。まんまる目玉に、チョビ髭。かつて死んだ兄貴と異なり、けっして大デブではないが、ちょっとした狸面。苦虫、一匹、ニ匹、噛み殺して構える浩。目玉も、眉毛も真直角に吊り上がる。対して、小狸、ぽんぽん山の中。・・山の中。ぽんぽこぽんの(んっ!)ポンポン!いきなり、狸の微笑み!・・何を思ったのか、いきなり西郷、白い歯を剥き出して、笑う。薄気味悪いこと、100パーセント!のけぞる浩。げっそり。狸の微笑み!!またしても、瞬時のフェイント。一発やられる。第一声。「先生!それで、宜しゅうござります。」 ・・・「んっ?・・・先生と?」こんな古狸に、先生と呼ばれる筋は無い。気色悪い。ところが、事態は立て板に水。いきなり、降って湧く。「お受け致し申した。ご要望どおり。」・・・「んっ!ご要望と?!」・・・何がご要望じゃ!いきなり、浩の真っ赤な血は、頭のてっぺんまで急上昇。お受けしましたとは、何ごとぞ!無礼者め。こっちが、撒いた種じゃないぞ!ご要望とは許せん!いつ、俺が、こんな狸相手に、頼み事を依頼したというのだ!!馬鹿屋郎!にもかかわらず、再び、耳障りな先生の音が!「先生!先日の先生のご要望どおり、万事、それでまいりましょう。青森県士族山川浩殿の御妹君、そして、鹿児島県士族、大山巖で結構で御座ります!」そして、続け言う。「お約束どおり、山川先生の御条件を我らは満たしてござりまする。お約束なれば、断じて、お約束を果たすが、武士の掟でごわはんか。されば、条件満了。この西郷、武士に二言はござりませぬ。互いに武士なれば、誠の武士の志、宜しいのぅ。」西郷の論法はこうだ。山川側からの条件はひとつ。それを満たした以上、山川は、山川として武士に二言は許さないぞ!!今こそ、調印の時!!山川西郷和平条約、調印せよと迫る。雁字搦め!条件満了!条件提示者側に、逃げ道は塞がれた。殺し文句は、武士に二言無し!潔く、調印せよ!!<窮地!一大事!>幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<・・<No.16<No.17(現在頁)<No.18・・・★_
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.16,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治 _西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.16西郷従道と山川浩恭順派と徹底抗戦派_その続き初めから読む<前の頁から読む:No.15山川浩は、母の唐衣に檄を飛ばした。母君!目を覚ましやれ!これは、罠ですぞ!!目に浮かびませぬか!つまらぬ事件の度に、あの子が片身の狭い思い。(関連:会津不満分子事件各種)「だから会津、だから賊軍!」そう言われて萎縮してゆく姿!わしは、断じて、あんな中年男に、可愛い捨松をくれては、やりませぬ!!されど、母上、ほぼ結果は見えてござる。ご安堵下され。私は、条件を提示致し申した。可愛い捨松をどうしてもと言うなれば、「天下の陸軍卿だろうが、なんだろうが、その肩書きは一切外して、裸一貫、鹿児島県士族として、青森県士族の妹を受け取るこっちゃ!」 ・・・そう言い含めてござる。なに、山川家の名に泥を塗るは許しませぬ。先方の回答はだいたい予測されますが、断られたでなく、断ったはこちらから、もしくは、水に流していただきますぞ。そもそも、この災いは、一方的に先方から降って湧いた話じゃ。筋は通して頂きますぞ。それまで、あえて惚けて、己の意図を押し隠していた唐衣も、ついに爆発だ。「戯け!言葉が過ぎるぞ!慎まぬか!可愛い妹の晴姿に、『災い事』とは、何事じゃ!申して良いことと否の見境もつかぬか!愚か者!」浩も負けてない。「愚か者は、どっちじゃ!これが、『災い事』じゃないと申すなれば、世の中に、他に何がござろう!頑固者!愚か者!」軍配は、浩にあがった。なぜなれば、浩の頑固は、妹への愛だった。母なれば、それが、胸に突き刺さった。会津男児、山川浩は、母に、己の徹底抗戦の意を明らかにした。そして言う。敵は必ず去るだろうと・・・。落涙のどしゃ降りさすがの山川唐衣も、倅の一撃は、身にこたえた。かつて、幼い捨松をアメリカに送る時、そもそも、彼女の名は、咲子だったのだ。捨てたつもりで永久に待つ。その決心で万年常緑の松の字。だから、捨松。捨てた松に咲かせてやりたい、かつての咲子。改めて、あの時、そう改名させたのは、他ならぬ己なのだ。それほど愛した最愛の末娘。その子が、敵の陣中、一人嫁ぐは武士の娘なれば皆の掟なれど、前妻の子の前、確かに浩が言うとおり、奴婢か下女か、会津の不満分子事件の度に、その地位が転落してゆく・・。山川唐衣は、冷めヾと泣いた。後家の唐衣は、今や、剃髪して、その名は勝聖院。現(うつつ)の戯言にまどわされることなく、不動に徹して仏に仕える身の体裁なのだ。それでいて、なぜだろう。なぜに、この涙は毀れ落ちるだろう?自問自答していた。どしゃ降りだった。夜半になっても、雨足はおさまらぬ。尚も激しく、どしゃ降りの雨。山川唐衣は、落涙のどしゃ降り。古狸と会津の龍浩は、次なる対戦の日を、指折り数えた。それまでの軌跡、西郷という男は、もれなく、ニ三日という一定のサイクルをもって行動。しかし、今回は感が狂った。 一つ、二つ、三つ。鎧鉄兜、身構えていた三日目は何事もなく。だが、しかし、いよいよ、運命の血戦日。鬼は外!福は内!・・・などと祝うも束の間!ニ三日ならずや、三四日の違いあれど、ついに鬼は再登場!!家の使用人が、血相変えて、浩の部屋へ、飛び込んできた。「だんな様、大変でござります。お、おいでになりました!いかがいたしましょう?!」下男は緊張のあまり、顔面蒼白。幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<No.13<No.14<No.15<No.16(現在頁)<No.17・・・★
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.15,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.15西郷従道と山川浩初めから読む<前の頁から読む:No.14「されば、日を改め、再び、参りましょう。」・・・西郷従道という名の鬼は撤退していった!!目出度し!目出度し!鬼は外!福は内!まずは、一安心。山川浩は、得意のコップ酒を一杯、ひっかけた。(下側にバナーあります。山川浩と酒絡み)彼は、我ながら、殺し文句に、ちょいとばかりご満足。当時、青森県士族という文字列。これは、即ち会津。戊辰の賊軍A級戦犯。こーゆー時だけは、「毒」として役立つこともあるのだナァ。初めて気がついた。「あの狸親父め!「毒」の効いた青森県士族じゃ。今度ばかりは、太刀打ちできまい。否、狸のこっちゃ。またしても、なんぞ企みよるな。はて、敵は、どう出てくるかじゃのう・・・。」浩は、次なる対戦の日を、指折り数えた。それまでの軌跡、西郷という男は、もれなく、ニ三日という一定のサイクルをもって行動する。一つ、二つ、三つ。ほう、珍しい。構えていた三日目は何事もなく、庭で小鳥が囀る。明治の世だというのに、恭順派と徹底抗戦派徹底抗戦、本城の山川浩。この晩、浩は久々に母と対話した。この男は、不思議と母を避けている。猛烈に似た要素が遺伝していながら、考え方が、全然異なるからだ。肴もアテも受け付けずに、コップ酒を煽り飲む度、母は煩い。「体に毒じゃ。イイカゲンにせぬか!」「体に毒は当たり前じゃ。当たり前の忠告なれば、無用じゃ!」似た者同士の対決は、いつだって拉致があかない。だから避けるほうが、よほど賢い。しかし、今宵ばかりは、そうもゆくまい。浩は、母の唐衣に、少しばかり焼き鏝を入れておいた。敵の陣地に娘を送るとは、なにごとぞ!時代の為だ。和平の為だ。美語はさておき、母君は、あの子が、敵陣でどんな姿に窶れてゆくのか具体的に、お考え下され。母上ともおあろう方が、読みが浅すぎませぬか?かたや、天下の陸軍卿に、たかが、一人の青森県士族の妹。あの子が、奴婢のごとく傅いて耐えて、身を窶すが読めませぬか?前妻の子がある中、捨松は、奴婢か下女か。不憫とは思いませぬか?母上がいけない。売れ残りだのと、あの子に言うからでござる。世界観と、留学経験だの語学力だの甘言を撒き散らしても、現実は、前妻の子に、乳母か下女でござる。こき使われ、死んでゆくあの子が可愛そうではありませぬか!それに、我は、あえて堪えております故、浅墓な真似は致さぬつもりではおりますが、今だ、会津の反発分子は消滅しておりませぬ。人事ではござりませぬ。状況如何では、我とて保証できませぬぞ!我らが屈して耐えて、それが天秤なれば、いざ知らず、されど、初めから、これは罠ですぞ!会津を折り曲げて落として、その分、あの子の幸せが天秤に釣り合いますか?なんら価値は、なさんのではないですか? 母君!目を覚ましやれ!これは、罠ですぞ!!幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<No.13<No.14<No.15(現在頁)<No.16・・・梶原平馬:目次(戊辰:山川家絡みも各種)山川浩と酒に纏わる話も登場山川浩の祖父に絡みます。_
2012.05.07
西郷従道と山川浩No.14,山川捨松の嫁入りその真相,西郷従道人物像,西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」,幕末明治 _西郷従道が特注した「大風呂敷!八畳間サイズ!」_No.14西郷従道と山川浩不覚!支城&裏門の既恭順!!初めから読む<前の頁から読む:No.13山川浩は、長男ながら、実の母、唐衣と何かと考え方が食い違う。父が亡くなり、母が女の細腕ながら仁王立ち。それもあるが、浩は、祖父に育てられ、彼の影響も強い。普通、長男といえば、多かれ少なかれマザコン要素があるものだが、彼はその反対。アンチ母君。浩にしてみると、実に腹が立つ。母が守る裏門は既に恭順同然。西郷と結ぼうとしている。その母は、明治10年の西南の役の際、西郷追討軍に浩が向うことに猛反対した経緯がある。そして、なんちゅうこっちゃ!!妹まで、なんちゅう娘じゃ!!「良いも否も、お人柄の確認が必要でございましょう。私は、何ひとつ恥ずかしい事はしておりません!!私の事なれば、私自身が責任持てる行動を心掛けるも私の義務です!!」アメリカ暮らしで育った妹は、浩にとって、得体の知れぬ要素が潜んでいる。「馬鹿者!未婚の娘が、男と会話しただと!!馬鹿屋郎!!」イライラ、イライラ、山川浩。今にも、頭に血が上りそうだ。敵をひとまず追い払ったはいいが、裏門から、侵食されている!おのれ!吉井だの、西郷だの、チマチマ、親族揃ってなんちゅうあさましい!!大山だけは許さん!!しかも、母君はどうかしておられる。西郷の陣に、よくもまた、可愛い娘をぬけぬけと!馬鹿馬鹿しい!!「本人に確認するも、人の道」とは、いわば断り文句にすぎなかった浩。西郷が、成る程を連発して、あっさりひっこんだは、つまり、かなりの自信だったのだろう。またしても、やってきた西郷従道西郷従道とは、料理の手順は、けっして手抜きしない男。またしてもやってきた。しかも、あれから、僅かニ三日。精神的プレッシャーによる錯乱効果まで考えてるかどうかは、知らないが、なかなかの手口。「山川殿、先日は、誠、突然失礼致し申した。本日は、お約束を守らせて頂きました次第でござる。お約束どおり、こうして、馳せ参じたまででござる。」「お約束?!・・・と?」「いかにも、約束はお約束。約束どおり伺いましたぞ。先日お願い致しました旨、如何で御座ろうか?さて、妹殿は、いかでござろう?」頼みもせぬのに、自分で勝手にアポを設定して、約束の義務を果たしに来たと言い切る。あっさり撤退で、瞬間ポカンとした隙に、一人でその「約束遂行の窓口」を設けていたのだ。図々しい輩め!一本槍の突貫会津魂と万事異なる。ところが、たとえ、一瞬とて、何か思うと、それが墓場。前回は、勝手にアポをとられたが、今この瞬間も瞬時のミステイク。この時、西郷の目玉は、なかなか、おっそろしい!武士に二言は無いのう。あっぱれ、会津男児でござろう!誠を語るが、誠の武士の証でござるのう・・・。目玉が、そう言っている。いやな目玉だ。兄貴の隆盛ほどじゃないが、この時ばかりは、やたらにデカく見える。つまり、余裕なのだ。仮に浩が、ここで、「妹はいやだと言っている。」などと言えば、一貫の終わり。たちまち安物男に転落してしまう。憎くも敵ながらもあっぱれも、知らんが、旨く会津魂をくすぐる。最初から、展開が非常に不利。まして、西郷は、天下の大者。いやでも迷惑でも、応接拒否は、立場上できぬ身の上。山川浩は、陸軍大佐。用件を聞く前の門前払いもできなければ、聞いた後の無視も勿論できない。可能なのはひとつ。それは、答えの「NO!」苦戦に追い込まれたものの、なんとしてでも、最後の切り札「NO!」に運ばねばならぬ。孤軍奮闘の山川浩。敵のこの余裕、この表情の目ざわりなこと。さては母君。それに、あさましい妹め!!「戊午の密勅」じゃないが、なにやら、敵は、裏工作を着々と進めた結果、威力絶大なカードを既に握っておるな!!負けてなるものか!!山川浩は、策を凝らした。「大山殿は、天下の陸軍卿でありましょう。かたや、私は、一介の大佐にすぎませぬ。偉大なる閣下に、不釣合でござる。今だかつて、常識的に、成り立たぬ話でござりませぬか!!」この時、初めて、浩がニタリ。天下の大山殿の為なれば、世間体、恥ずかしいこんな縁談は、成立させるべきではないぞ!!・・まあ、そんなかんじ。鬼の首この時ばかりは、さすがの西郷ながら、彼の得意台詞「成る程」は出なかった。山川浩は、一騎打ちで、鬼の首を取った!!ついでに、殺し文句も忘れず付けておいた。「釣り合いであえて申すなれば、我が妹は、青森県士族の妹。されば、まさか、大山閣下に、鹿児島県士族・・などとは、そんな運びは、ありえぬお話でござろう。」「されば、日を改め、再び、参りましょう。」・・・鬼は撤退していった!!幕末玄関<西郷従道と山川浩SERIES:No.1<・・・<No.12<No.13<No.14(現在頁)<NEXT:No.15・・・
2012.05.07
全49件 (49件中 1-49件目)
1