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会津藩,山川浩と祖父山川兵衛重英,先見の鋭利眼_山川兵衛重英の所業,山川兵衛重英と種痘の重要性No.6,幕末WITH_LOVE _サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関松平容保の亡き正妻「敏姫」と、種痘_No.6「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念幕末の「だから、言ったじゃないか!!」Sec.5_祖父の山川兵衛重英の所業に見える彼の性質_(その2)山川兵衛重英天明3or4年7月(1783)1日~明治2年(1869)享年86歳【会津藩,山川浩の祖父】【1】:概要:先見の目、【2】:一蹴された建白と会津の後悔、【3】:人柄と特徴▲前頁、▼現在頁【4】:役職と就業姿勢&特徴:財政破綻を切り抜ける知恵袋【5】:家族、【6】:ルーツ&家系【7】:医学、衛生、生物への関心と能力初めから読む_No.1<・・・<前の頁から読む_No.5山川兵衛重英:人物について【会津藩,山川浩の祖父】彼を一言でいうなれば、第一には「先見の目」だろうと感じる。第二は、財政破綻を切り抜ける知恵袋。第三は医学や生物に関心を示している。伴い実験実証習性有。【4】:役職と就業姿勢&特徴:財政破綻を切り抜ける知恵袋天明の大飢餓から会津を救った賢人で有名な会津家老「田中玄宰」による「天明の改革(1787年:飢餓対策)」の右腕。田中を良く補佐して、各種案を提供実行。役職と家格:勘定奉行:家老職(1000石)山川兵衛重英本人の代に、順次昇格。それまで家は勘定方(300石)。上記のとおり、天明の大飢餓対策時から地道に努力を続けているが、上昇機運は文化5(1808)年樺太警備功績後。文政3(1820)年:勘定奉行。→天保3(1832)年:若年寄。 →天保10(1839)年:家老(1000石):勘定奉行兼務、財政改革に手腕を発揮86歳ででリバイバル【隠居勤】:1868年鳥羽伏見の変勃発直後、隠居中の重英は、藩命にて「隠居勤」としての復帰。その時の熱心度合いを語る文節内容:登城義務の日以外も自主的に登城して任務遂行。会津降伏後の最期の任命=容大補導役明治2年、容保の子、容大誕生。86歳の重英ながら、この大役の令が届く。しかし、同年、ついに本人病没。【5】:家族山川兵衛重英本人:【天明3or4年7月(1783)1日~明治2年(1869):享年86歳】兵衛は通称。幼名:千代吉。会津若松生まれ。会津山川家の八代目当主父(山川治太夫重行(7代目))、母(名前=?、笹原伝蔵忠恒の娘)妻:(名)=知代。神尾小源治友矩の三女寛政2/6/9(1790)~弘化2/3/29(1845):享年56歳子の内、9代目当主:山川尚江重固(=重英本人の二男=山川浩の父【?~万延元年(1860)】尚江重固の子:1_二葉(1844:夫梶原平馬【離】 ),2_浩(1845),3_ミワ(三和,三輪:夫:桜井弥一右衛門政衛),4_操(夫:小出光照),5_健次郎(1854),6_常盤(1854:夫:山川 徳治【旧姓:徳力】),7_咲子(捨松:1860:夫:大山巌)重英本人の引退は安政6年(1859)と伝わる。それが事実だとすれば、倅の在職はせいぜい1年程度で、しかも早々死亡になってしまうが・・・尚江重固情報不足。尚江重固は1860年死亡。なにがあったのでしょう?【6】:ルーツ&家系(保科と共に移動の一族)■保科正之の譜代:高遠藩(現:伊那市)→山形転封→会津■この家系:治太夫は過去この家の代々襲名◆1~6代目_山川治太夫(※)重(※):治太夫は襲名の為(※)部分に名前の某。◆7代目_山川治太夫(※)重行:◆8代目_山川兵衛重英:上記のとおり、山川兵衛重英も資料によっては、山川治太夫と書かれている場合がある。樺太警備赴任は治太夫の名だが山川兵衛重英◆9代目_山川尚江重固(在位1年程度か?)◆10代目_山川浩(大蔵)重栄浩の別名:与七郎、諱:重栄、字:士亮、他に:常盤(妹の名と同じにつき、今日あまり見ないが)【7】:医学、衛生&栄養、生物への関心と能力節制:人体の健康を害する酒、煙草一切やらない。医学:医学といえるレベルかは別として、蘭医学の効能にいち早く着目。我が孫にも種痘実施。栄養と健康&生物への関心:食料危機対策の会津に齎した「鰻、鯰、蜆貝」などの養殖。海のない町会津。蛋白源を淡水魚に向けた。尚、鯉も、もともと会津になかったが、この頃、危機対策の一貫として導入されているが、鯉アイディアは重英本人ではない様子。尚、会津の鯉は有名。会津家老_田中玄宰の功績のひとつ。家々に池を掘り、鯉の飼育奨励。皮肉なことに、会津戦争の最中、官軍が皆、大変喜んで食している場面が各種。会津の鯉に喜んだ官軍の姿が解る場面◆その1:鯉を捕ろうとした瞬間撃たれて怪我した男、◆その2:「なんて旨い鯉!」官軍発言に涙した捕われ人の少年・・・というわけで、山川兵衛重英をご紹介しましたが、本来の職務から距離のある分野についても研究及び実験する習性は、前述のとおり、孫の山川浩に遺伝してます。とはいえど、それに関しては、祖父と山川浩の代では、あくまで研究者的素質が見える程度。ところが、この習性はもう一代続きます。傍系ながら、やはり血は争えない。それは、山川浩が養子に入れた子「戈登(ゴルドンと読む)」。この人物は妹の常盤の産んだ子。山川兵衛重英からみると4代目にして見事開花。戈登の才能は並でなかった。NEXTは、三つ子の魂百までじゃなくて、三毛猫魂百まで!山川兵衛重英、山川浩、山川戈登、4代記。(本当は重英と浩の間に尚江重固が居るが詳細不明)【現在頁SERIES】:「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念No.1<No.2<No.3_山川兵衛重英と孫、山川浩<No.4<No.5<No.6(現在頁)<No.7関連:容保の亡き正妻「敏姫」とは
2012.01.30
会津藩,山川浩と祖父山川兵衛重英,先見の目鋭利眼_山川兵衛重英の所業,山川兵衛重英と種痘の重要性No.5,幕末WITH_LOVEサイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関松平容保の亡き正妻「敏姫」と、種痘_No.5「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念幕末の「だから、言ったじゃないか!!」Sec.5_祖父の山川兵衛重英の所業に見える彼の性質_(その1)山川兵衛重英天明3or4年7月(1783)1日~明治2年(1869)享年86歳 【会津藩,山川浩の祖父】【1】:概要:先見の目、【2】:一蹴された建白と会津の後悔、【3】:人柄と特徴▲現在頁、▼次頁【4】:役職と就業姿勢&特徴:財政破綻を切り抜ける知恵袋【5】:家族、【6】:ルーツ&家系【7】:医学、衛生、生物への関心と能力初めから読む_No.1<・・・<前の頁から読む_No.4【1】_山川兵衛重英:人物について【会津藩,山川浩の祖父】彼を一言でいうなれば、第一には「先見の目」だろうと感じる。第二は、財政破綻を切り抜ける知恵袋。第三は医学や生物に関心を示している。伴い実験実証習性有。結果として、一蹴された彼の建白は、ことごとく後に、会津にとって後悔の題材になっている。彼は、たえず危機感をもって、いちはやく学習&情報収集の上、建議する。ところが、いつも邪魔者登場。時代先駆け一足跳びアイディアは、周囲に理解され難い。一蹴されたり、笑いものにされたり、固定観念に固まった石頭の専門分野スタッフに邪魔されてばかり。彼は当時、「定府」と呼ばれる江戸在勤。その為、皆より最新情報が早い。理解され難い。しかし、比較的スムースに進んだ件は、天保時代の財政破綻防止対策案。飢餓時に備え、会津に鰻、鯰、蜆貝などの養殖を推進。その実、食料危機に功を奏した。時は、藩主容敬であり、会津家老「田中玄宰(現在頁下側にバナー有)」時代。田中には、才能を見込まれ上昇機運だったが、田中は文化5(1808)年、樺太警備時に死亡。【2】_一蹴された一足跳びアイディア一蹴された建白_その1【実験実証した種痘の効能と必要性(実証材は実孫と民)】姫の種痘接種案は、会津藩の漢方医に徹底的に潰された。「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念TOP松平容保正妻「敏姫」は重症の疱瘡に罹り、容姿を悲観衰弱。死の直因は別とて、元因はそれだった。これは、なんと効能を実証するために実験までやっている。モルモットといえば人聞き悪いが、解りやすいので使います。モルモットは、嘉永6(1853)年、我が孫「操(山川浩の妹)」と民。疱瘡に罹った民の情報を収集して、早期に彼らに近づいて種痘実行の結果成功。接種者と否の者の差異に係るなんらかの立証データをまとめ実証に用いたと思われる。一蹴された建白_その2:西洋銃の導入と兵器最新化重英の時代、可能な最新とは「ケーベル銃」。しかし会津はあいかわらず火縄銃。兵器の遅れは危機を招く。「ケーベル銃」を搬入せよ。と提案。結果=却下:軍学者流派の猛烈な反対に押し潰された。(参考までに、会津の西洋銃導入は非常に遅れた。1863年時、会津はまだ火縄銃。同年1863、山本覚馬も建議したが却下されている。これは致命的。山川兵衛重英は、書物知識のみならず、樺太出兵経験から、兵器の遅滞に係る危機感を実感している張本人。ところが、これも、専門畑でないことから、専門畑と称する軍学者達に一蹴されてしまった。一蹴された建白_その3:非常事態の軍用金抽出策1868年:万民の所有する宝物什器財宝全て徴収の上、金銭化せよ。・・・と建白。これは一蹴されたどころか、所詮老人の案と笑われた。この時、彼は85歳。隠居してたが、藩命にて再度、勤務命令。ますます一蹴。しかし、自分の家では、実行。この後、案の定、町は敵の火に焼かれ、焼失及び、宝物什器が敵の掠奪にあった実態が多く報告された。(関連:敵の略奪実態を語る体験談)【3】:人柄と特徴・・心身&精神力強健。:己に厳しく、節制&精進。有言実行。酒、煙草一切やらない。節制。86歳まで生きた。武術&兵学:長沼流室田派引退期宣言:若き日に、己の隠居期を77歳と決意。有言実行。隠居は安政6年77歳と伝わる。節欲精進:若き日に、囲碁に夢中になり、これではならぬと自分で囲碁を売却処分。この時に、上記77歳を決意。隠居後、初に囲碁を趣味として復活させようと考えた。秩序に厳しい姿勢を物語る逸話1868年、鳥羽伏見の変勃発後、隠居の重英が緊急に「隠居勤」としての復帰命令。この時、孫の浩(大蔵)が継承在任状態。その為、実孫ながら敬称で呼ぶ。周囲の者が不思議に思い尋ると、こう語った。「孫とて高格。私は隠居勤。秩序は秩序。」【4】:役職と就業姿勢&特徴:財政破綻を切り抜ける知恵袋【5】:家族、【6】:ルーツ&家系【7】:医学、衛生、生物への関心と能力【現在頁SERIES】:「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念No.1<No.2<No.3_山川兵衛重英と孫、山川浩<No.4<No.5(現在頁)<NEXT:No.6関連:容保の亡き正妻「敏姫」とは★
2012.01.30
山川浩の以外な天性とエピソード,祖父山川兵衛重英と孫の共通点,三毛猫と山川浩,山川兵衛重英と種痘の重要性No.4,幕末WITH_LOVEサイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関松平容保の亡き正妻「敏姫」と、種痘_No.4「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念幕末の「だから、言ったじゃないか!!」Sec.4_孫の山川浩の以外なエピソード初めから読む_No.1<・・・<前の頁から読む_No.3・・・浩は明治時代、世間が唖然とする奇妙なことを柄にもなく、ちょろちょろやってます。「賢人のはずだが、ここだけの話・・・。大きな声じゃ言えないが、もしや、ちょいとココ!にきてないか?大丈夫か?」巷では、思わず、人差し指で己の頭をつっついて、そう呟いた者も居たとか・・・。「紙一重っていうからな・・・。かもしれないな。」それは、なんと三毛猫大研究だった!!・・・三毛猫大伯爵!三毛猫に雄が生まれないなどは迷信じゃ!立証しようと考えたようだ。 飼っておけば、そのうちできるサ!・・・もしや、ウジャネコ状態か?!(全然別畑:猫玄関)他にもおもろいことをやっている。カケスはオウムのように喋れる鳥という。されば人の言葉も同様に違いない!またしても珍実験開始。実験の結果がなかなか傑作。異種の鳥の声と、犬の吠え声は見事真似した。(全然別畑:犬猫玄関)ところが、ついに人の言語だけはダメだった。戊辰の山川大蔵、鬼の大蔵イメージと180度異なる。実は、傍から見ると子供っぽい習性もあったのだと、当時の者が後に回想している。三毛猫やらカケスやらは幼稚に見えるが、大体研究者とは、そもそもそーゆー習性は皆ある。ここの家の爺さんと孫の浩は、理科系実験といっても、生物に随分興味を示す。爺さん側は、西洋医学に明らかに深い興味を示している。重英の時代柄としては、なかなかの先見の目だ。山川浩が、かつて会津藩士時代、藩の教えに背いて、朱子学を無視して、陽明学に徹したのは、おそらく、この重英の影響と思われる。上記イメージと正反対の彼の姿を少し。怖鬼モードの側面。戊辰と、戊辰を引き摺る明治初期の山川大蔵(浩)の話。まずは、白虎隊の少年相手に、身も蓋もないような強烈渇!事件から。道に彷徨い空腹でやっと山川隊に拾われた彼ら。ところが哀れむどころか、大恫喝。「よくもぬけぬけと、腰抜けめ!」粥を与えられた後、彼らは悔しくて、戦に加わって死んでみせようと考えた。「会津の為に僕らは突貫死を遂げてやる!腰抜けなものか!」ところが再び、頭こなしに門前払い。「俺の隊に加わるは許さぬ。死ぬのが怖くて逃げてきたような腰抜け野郎が、鼻先うろついたでは、隊の士気が落ちるわい!いいから、すっこんでおけ!邪魔だ!」この話は、その張本人、当時白虎隊士だった庄田保鉄が後に語る。また、こんな話もある。萱野権兵衛の息子、郡長正の切腹事件の後、その時、友達の意を汲んで介錯をつとめた少年は、神保巖之助。涙ながらに語る巖之助。それだというのに、ここでも山川大蔵(浩)は強烈。「それならば、お前も一緒に死ねばよかったじゃないか!!何故お前は、今ここに、ぬけぬけと生きているんだ!」▲【意味】そうか、お前は正しいと思ったから泣く泣く応援したと言うんだな。されば、正しいと思ったなら、何故その正しい行いを共に実行しないんだ!矛盾しているぞ! ・・・の意味。理由がなんだろうが、子供が死ぬな!いずれも愛の鞭なのだろうが、正直すぎて、直下型。言われた側は立場がない。やはり辛口すぎる。子供相手に強烈。これは、浩に自覚症状多分無いと思いますが、母の血そっくり脈々。間違った者は、容赦なく、どん底まで突き落とす。こうした随分お辛い習性は、明治の世、中年になってからも、やはり、やる時には、やっている。大学の業務で出張旅行の際、その土地の役人が、気を使って付いてくる。当然といえば当然なのだが・・・。浩は、こーゆーのが突然許せなくなる。「俺について来なくていい!民の血涙、官費をこんなことに使うな!お前たちの出張旅費やら経費やらは、全部民の血涙なんだぞ!」意訳するなれば、ざっとこんな内容を、ストレートにぶっつけた。これは派遣された役人が可愛そう。頭にきて場を放棄すれば業務怠慢。できれば始末書など、誰しも書きたくない!悔しいが耐える役人。つべこべ言っても通用する男じゃないし・・・。日頃ふんぞり返って威張りまくってる当時の役人が、この場合は、あたかも、どこぞの番頭のごとく、耐えて揉み手で誤魔化し笑いを必死で作る・・・。「そう、おっしゃいましても、我々も叱られてしまいますし、ハハハッ!(内心は蒼い炎)」想像しただけで、実におっそろしい場面!!役人の名前まで存じませんが、よくぞ耐えたものだ!偉いぞ!【おもろ怖い!】・・・これは多分、この年齢時、浩も結構高慢。水入らずでコップ酒を内輪スタッフだけで、飲みたかったんではないか?と思う。金払っていらんから、立ち去ってくれ!己の飲み食いの金ぐらい俺が自分で払う!・・・が本音でないのかな!!酒呑みは、しんどい輩が側に居ると酒が不味いから・・・。怖くてとっつき難いのも山川浩。その正反対に上記三毛猫大研究の例に見るようなおもろいところもある。両極端。NEXTは、その浩にそっくりな祖父の所業ご紹介。三つ子の魂百までじゃなくて、三毛猫魂百まで!・・・一応、戯れ話に限らず、山川兵衛重英をご紹介。実は、この習性はもう一代続く。傍系ながら、やはり血は争えない。【現在頁SERIES】:「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念No.1<No.2<No.3_山川兵衛重英と孫、山川浩<No.4(現在頁)<No.5・・・関連:容保の亡き正妻「敏姫」とは
2012.01.29
祖父と孫の共通点,会津_山川浩と祖父山川兵衛重英,血は争えない!山川兵衛重英と種痘の重要性No.3,山川浩の以外な天性とエピソード,幕末WITH_LOVEサイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関松平容保の亡き正妻「敏姫」と、種痘_No.3「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念幕末の「だから、言ったじゃないか!!」Sec.3_「山川兵衛重英」という男と、孫の山川浩初めから読む_No.1<前の頁から読む_No.2◆血は争えない!祖父と孫の共通点前述のとおり、「山川兵衛重英」といえば、松平容保の亡き正妻「敏姫」に種痘を受けさせるべく建白した男。先見の目が光るキレモノだった。彼の倅は山川尚江。その子が山川浩(大蔵)。尚江は、父の重英よりも早く死んでしまった。その為、重英は大蔵を引き取り、永らく育てた。山川浩(大蔵)兄弟といえば、幕末明治を兄弟姉妹揃って大活躍、天才才女の一大ファミリー。山川浩(大蔵)は上記のとおり、祖父と暮らし、祖父の影響絶大。非常に似ている要素山盛り。祖父も、孫も、会津藩内のセクションは会津に於ける財務省的存在。重英は勘定奉行。浩(大蔵)も若年寄に昇格の上、軍事会計担当。財務省といえば感覚リンクしないが、昔の呼び方、大蔵省という言語と、山川大蔵の文字、見比べて見てください!!山川浩(大蔵)が、算盤パチパチの恰好は想像し難いが、本来のセクションはそれだった。戊辰の最中、当然ながら会津は財政難。そこで軍費(※▼)。業務柄、財政難切り抜けの妙案を提出するなど、本来の仕事はしっかりやっているが、キャラとしては、どっちも理科系大好き男!上行の※印:勘定奉行:幕末の浩といえば、山川大蔵として猛将、隊長としての姿が定着しているが、一応この若さで実力を認められ、若年寄に就任している。明治政府に贋金職人とされ斬首された可愛そうな会津の職人達。実は、彼が江戸でスカウトして、会津に引っ張り込んだ張本人。よくぞ、浩本人は、戦犯処理で一命を許されたものだ。前頁の流れとは一変して、現在頁では、このカワリネタファミリーについて、カラッと書きます。祖父の時代はオンリー勘定奉行。明治を生きた浩側のイメージとしては軍人&教育者的カラーが目立つが・・・実は、理科系実験大好き男!浩は、父を早く亡くしている為、兄弟姉妹を支え、明治は軍人としてスタートしてゆきますが、本当は学者キャラで暮らしたかったことでしょう。弟の山川健次郎は、ご存知のとおり、東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長といった具合で、どっから見ても正真正銘偉大な教育者であり学者肌であり。ところが、本質的には、浩のほうが、習性的には、よほど研究者肌だと感じる。浩は幕府時代に任務でロシアに渡航暦があるが、明治の世、ゆっくり勉学専念留学できる立場でなかった。長男は皆を支えるが第一条件。もしも、長女の二葉さんが、女性でなくて男だったら、きっと浩は二葉におんぶ。留学して学者の道を歩んだことでしょう。長男である以上、やはり犠牲になっている。この爺さんと孫は、あっちこっち実に似てる。子供のような探究心旺盛な姿が各所。実験大好き。思い立ったら止まらない。思わず笑う場面もある。血は争われない。祖父も孫もどちらも不幸にして己の任務、その殻から脱するは許させぬ立場。しかしながら、業務は業務で怠ることなく、されど、その一方で興味をもった分野は、双方、考察の結果を実証しようと色々やっている。なにやら色々、業務外分野は私的に手掛けているのが共通点だ。(順次、後述)★似てないのは酒だけ。お爺さんの山川兵衛重英は随分医学に興味をもった様子(後述)にて、徹底節制。酒も煙草も一切やらない。おかげさまで86歳まで生きた。対して、浩は「コップ酒」のやたら似合う男。ぐびぐび飲んで、肴もアテも要らない。コップから滴り落ちた酒の雫。受け皿に溜まったそいつを、最期の醍醐味、嬉しそうにコップに移して、グビッ!と空ける。完全に呑ん兵衛。飲みだしたら、絶対止まらない。誰がどんだけ咎めようが、賢妻賢母で知られる母の山川唐衣が叱ろうが、完全に無視。延々やたら呑む。 _<少々脱線:しゃーない七不思議>ところが、妹のうち、操の哀願だけには弱い。「兄上、大酒はお体にさわります。」浩は、操に言われた時だけは酒を止める。その理由について、本人も周囲も語っていない。ふと思うに、佐賀の乱ではないかと思う。浩はそこで功績。その名を明治の世、轟かせる。ところが、操の夫は、この時悲壮な戦死。華々しく表彰される浩。その傍らで、妹が偲び泣く。救えなかった兄の呵責か??生き方、考え方は操と異なるが、兄としては、妹は妹。▲この話、浩が自分で喋っています。語った相手は、当時学生だった篠田利英。略意:「母が叱ろうが、文句言おうが、俺は無視だ。俺は呑む。だが操の哀願だけは弱い。」普通、一般的には、長男は母の愛子。大なり小なり多少はマザコン症候群。ところが、浩は若干、アンチ母君。祖父に育てられて、祖父の影響大にて、母の思想と異なる。母_山川唐衣の模範生は長女の二葉。弟の健次郎のほうが、母のラインに従順な要素有り。健次郎が語る母の描写に、こんな話がある。「母の懐刀は、世に多くある女性用の典型ではなかった。」装飾要素が殆ど存在しない。いざとなったら即座に使える機能重視型。女性の懐刀とは、つまるところ、自刃用。この実用性重視型を持っていたのは、「断じて死に損なってなるものか!!」といった彼女の決意の強さを物語る。・・・他にも、母の唐衣は、間違った行いに対してだけは鬼のごとく手厳しい人だった旨も語る。間違った際には、容赦なく、どん底まで突き落とす。・・・つまり母を深く尊敬しているのが解る。余談ですが、浩の祖父影響カラーの強さからすると、ひとつ不思議なことがある。父の尚江重固の死亡は万延元年(1860)。長女二葉誕生は弘化元年8/19(1844)。浩誕生は弘化2年11月6日(1845)。末娘の咲子(捨松)誕生は、安政7(1860)年2月24日。・・(1860は【安政7年→万延元年:11/28改元】)ここでふと悩む。父は16年間子を作れる体。浩が生まれた後も15年は子を作れる体。だが、浩は祖父に育てられた時間が長い。尚江重固の活躍実績、この件については、真剣に根堀り葉堀り調べた訳ではないが、色んな本斜め読みでひょいひょい出てくるレベルでない。子が無事できる体ということは致命的な病弱ではない。そのわりには、情報不足は一体なぜだろう。<脱線離脱本題へ復帰>前述に、浩は理科系実験大好き男の習性有りと記載しましたが、NEXTは、山川浩(大蔵)の以外なエピソードを含め、彼の先天的別の能力と習性の話題へGO!Sec.4_孫の山川浩の以外なエピソード【現在頁SERIES】:「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念No.1<No.2<(現在頁)No.3_山川兵衛重英と孫、山川浩<No.4関連:容保の亡き正妻「敏姫」とは★
2012.01.29
山川兵衛重英と種痘の重要性No.2,松平容保の正室_敏姫と種痘,「敏姫に種痘を!」一蹴された建白,幕末WITH_LOVE,戊辰戦争,敏姫とは, _サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関松平容保の亡き正妻「敏姫」と、「山川兵衛重英」の種痘建白「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念幕末の「だから、言ったじゃないか!!」Sec.2_奇跡の産声と命現在SERIESの最初から読む「松平容保の亡き正妻「敏姫」と、「山川兵衛重英」の種痘建白」TOP【関連】「殿を泣かせた臣の首と、哀れ朽ちた首」SERIES補足編初めから読む_No.1<関連頁「容保の妻と側室」から読む_No.2・・・<◆松平容保の「正室敏姫&継室&側室」状況明治2年とは、やっと、悪夢の年が明けたところだ。昨年の或る日、容保は夢を見た。全身冷や汗で飛び起きた。それは、真夜中に郭公鳥が鳴く夢(※)だった。それは不吉の証。案の定これだった。1868年(慶応4年→明治元年)は、屈辱の落城、降伏。賊の汚名。鬼の高札。「賊葬るべからず!」。上記※印:「真夜中に郭公鳥が鳴く夢の不吉について」シュネル一団として、カリフォルニアに渡った会津藩士の手記に残った。今、屍に降り積もった雪が溶けて、悲しみまで溶け出して露出した。やっと遅れ、遅れ、屍の回収が許された。あくまで回収。弔いは許されぬ。会津藩士の今後の処分が内定しつつある。それには訳がある。冥土の萱野権兵衛の力だ。萱野権兵衛は、明治2年5月18日、会津の全責任を被って、戦争首謀者の罪を担い切腹を遂げた。その後、間もなく、奇跡の産声。同年6月3日のことだった。萱野権兵衛の初七日を過ぎて、そろそろ半月。謹慎中の容保。側室の佐久が、みごと男児を産み落とした。それが、この後、斗南藩主を授かった容大だ。老齢の山川兵衛重英の元に使者が走り来た。「山川殿、殿(=容保)の御命でござるぞ。貴殿は、大役じゃ。容大様の補導役を仰せ付かったのですぞ!なにとぞ宜しくお頼み申す!」会津藩士達の始末は、この後、翌年の明治3年、斗南の地へ大移動となる。生まれて間もないこの赤ん坊を連れて、最果ての地、津軽へ向うことになる。知らせに、86歳の山川兵衛重英は、微かに微笑み浮かべて瞑目した。「やっと授かった。これで、やっと、殿は天から賜られたのじゃ。・・生きた。生きたわ。わしは、永らく生きたわい。やっと、終ったぞ。すまんが、やっと逝かせてもらえるわい・・・。」山川兵衛重英は、ついに病に倒れ、水谷地村に病没した。今は大窪山に眠る。翌年、明治3年、いよいよ、会津藩士と一族の大移動。まだ一歳にもなっていないベビー藩主様、容大は、藩士冨田重光の懐に、しっかと抱かれて、駕籠に乗った。みちのくの最果て。落人の旅。青森の五戸へ向けて、人々の群れ。細長い人の帯。小雨の中、今にもへし折れそうな細長い人の帯が、奥の細道向けて延々続いてゆく。冨田重光は、駕籠の中、奮え泣いた。この仕事は本来、己ごときに許される大役ではない。彼を思えば、己など、まだ青くさい若僧。ぐずっては泣いて困らせる赤ん坊の容大。冨田重光は、抱いてあやしつつ、あの老人の繰言を、思い出していた。「もしも姫様がお元気で、容保様との間、ご夫婦の暮らし、そして、いち早く、お子を授かってさえいれば、展開は異なったことだろう。」「だから、姫に種痘を!とあれほど私が言ったのに・・・!」ぐるり、ぐるり、走馬燈。意識の中、幾つもの言葉が駆け巡る。確かにこの温もり。赤ん坊の温もり。あどけない赤ん坊の顔が目の前。会津の為、松平の為、徳川の為・・・。必死で夢中で駆け巡った京都時代。己は、我が子さえ、こんなに長い時間、抱いてやったことはない。冨田重光は、つくづく、老人の言葉が身に沁みた。ふと、故人山川兵衛重英の孫、猛将山川大蔵(浩)の顔が瞼に浮かんだ。彼も然りながら、重英は偉大な男だった・・・。会津が遠去かる。向うは絶望の最果て。己も津軽の荒海、押し流されてやがて消えゆくのだろうか・・・。山川兵衛重英と孫、山川浩関連SERIES:松平容保の懊悩:犠牲首への抵抗_No.1<No.2<・・・<No.5(会津関係おすすめ本)<容保の亡き正妻「敏姫」とは【現在頁SERIES】:「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念No.1<No.2(現在頁)<No.3_山川兵衛重英と孫、山川浩文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材については頁下表示★
2012.01.28
山川兵衛重英と種痘の重要性No.1,松平容保の正室_敏姫と種痘,「敏姫に種痘を!」一蹴された建白,幕末WITH_LOVE,戊辰戦争,敏姫とは,サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関松平容保の亡き正妻「敏姫」と、種痘「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念幕末の「だから、言ったじゃないか!!」Sec.1_松平容保の亡き正妻「敏姫」と、種痘【関連】「殿を泣かせた臣の首と、哀れ朽ちた首」SERIES補足編初めから読む_No.1<関連頁「容保の妻と側室」から読む_No.2・・・<◆松平容保の「正室敏姫&継室&側室」状況幕末ファンの中、会津の松平容保をご存知ない方とは・・・多分いらっしゃらないと思います。ところが、ここに素朴な疑問。「あれっ?ところで容保の奥さんって誰だっけ?!」・・・それもそのはず。正室は「敏姫」といいますが、1861年に19歳で既に亡くなっています。戊辰の嵐、京都守護職。多忙の容保。その最中、彼には、妻は居ない。正室は死亡。継室は加賀藩、離縁は必須。案の定。因みに砲声轟く慶応4年の鶴ヶ城に、その存在は既に無い。お家の存続第一。周囲は間髪入れず、養子は、入れてあるが、いかに藩主様とて、人は人。生身の人の心はどうしてくれる。家庭の温もりと夫婦愛聡明で、模範的で・・・さすが松平。高貴で美しくて、あたかも男雛。謳われた彼だった。養子の息苦しさに耐えて、藩主の使命に命掛け。養父の前藩主は、幸い実の叔父ながら、その叔父とて、容保が16歳の時に死別。戊辰の時、紙切れの上、正室も継室も側室もフルコースながら、実質、妾はあれど、心の妻は居なかった。家庭の温もりは尊い。妻と二人、水入らずで憩うひととき。たとえ僅かな時間とて、それにまさるものはない。愛子の姿に、万事忘れて、思わず微笑む父の瞬間を体感するは、万事を塗り替える。それらが全て無縁だった。容保は、安政3年(1856)、20歳の時、会津8代藩主_松平容敬(上記の叔父)の五女、「敏姫」を正室として娶るが、それはほとんど書面上。その時、「敏姫」は13歳。「敏姫」が死亡した直因は、風邪の悪化衰弱のようですが、直因よりも、その誘引が深刻。彼女は、もともと病弱の上、最大のハンディはかつて疱瘡に罹ったことだった。年頃の娘が、しかもお姫様が、容姿に痛々しい痕跡。悲観して心身共に蝕まれていった。たとえ極めて短期間の宿命とて、愛しあった夫婦の暮らし期間は如何程か。乙女心はガラス細工。容姿を悲観するなれば、病、療養を口実に、対面を拒み続ける姿は、誰しも想定がつく。その点からすれば、悲劇の14代将軍家茂と、和宮のほうが、まだマシだ。仇敵同士の結婚。されど、彼らは愛を知った。二人の時間は、累算するなれば、ほんの一握り。霞のようなものだ。されど、こうして考えると、容保より家茂は幸せだったといえるだろう。「だから、姫に種痘を!とあれほど私が言ったのに・・・!」ぼやいていた老人が居た。その名は山川兵衛重英。幕末明治大活躍の山川浩の祖父である。彼はいち早く、先見の目をもって、種痘の必要性を建議したのだが、門前払い!「そんなもの!姫様に万が一なればどうする気だ!不届き者め!」却下された暁が、これだった。ぼやき続けた訳は奥深い。それは姫の一命のみならず。老齢の彼は、会津の壊滅全現象、全ては、そこに由来するのだと言っては、悲しみ続けた。「もしも姫様がお元気で、容保様との間、ご夫婦の暮らし、そして、いち早くお子を授かってさえいれば、展開は異なったことだろう。」・・・老人は、我が孫にむかって、そう呟いた。 明治2(1869)年、ついに彼自身息をひきとる。享年、86歳。ついに力尽きて、冥土に旅立った。(関連頁)【容保関連】:◆松平容保の「正室敏姫&継室&側室」状況、◆高須四兄弟【山川関連】:◆根室の梶原平馬の墓石が紐解く謎SERIES、◆梶原平馬と山川家:考察おまとめ表真下バナーも関連シリーズ▼奇跡の産声と命関連SERIES:松平容保の懊悩:犠牲首への抵抗_No.1<No.2<・・・<No.5(会津関係おすすめ本)<容保の亡き正妻「敏姫」とは【現在頁SERIES】:「だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」の無念No.1(現在頁)<No.2<No.3山川兵衛重英と孫、山川浩文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材については頁下表示猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護▼★
2012.01.28
幕末怨念の過去,死なされ方の相違,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.13,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,お家の体温差,戊辰が背負うもの,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.13,梶原平馬の二人目の妻と倅 _TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.13戊辰の後の雲行き:梶原家と、山川家の体温差一族の『戊辰時に於ける過去の相違』から生じる体温差考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。斗南時代の不気味な亀裂一族に於ける『過去の相違』の続き梶原平馬が背負っていた「時が停止する過去」怨念!語るに語れぬ屈辱の「死なされ方」_(その2)初めから読む・・<この直前頁:No.12しかしながら・・・立場かわれば、人に生まれた以上、明日は我が身かもしれない。おそらく、死なされ方の相違だろう。「余計な死なされ方」をした者が身内に居た場合、これは心の整理は、まず不可能だ。心で尊敬してやまぬ人物に関しても同様だ。また、愛する人がそれならば、口に出せば、たかが惚れた脹れたの下らぬ恋心よばわりが関の山。けっして誰にも語れない。勇ましく闘って死んだのであれば、本当は悲しい、悔しい!ながら、せめてあっぱれ!と心で讃え、堪えれば心に収拾できる。いかに一族全滅、幼子の哀れな最期とて、生き残りの子孫の為なれば、遮二無二堪えて、飲み込んでしまうしか術はない。ところが、「余計な死なされ方」とは、残念ながら各所見受けられる。おそらく、我々現代人がそれと認識できる範囲など、氷山の一角だろう。生身の人間が砲弾に当って砕け散ろうが、一対多勢で卑怯にも寄って集(たか)って、斬り刻まれようが、それが戦。「余計な死なされ方」とは、明らかに異なる。英雄が英雄らしい最期を飾れるなど実際は稀だ。卑劣は戦の裏表紙。余計な余興が実在した。おそらくそれ以前の行程に係る恨みつらみの化身なのだろう。屍の性的陰惨は、異性のみならず。敵を泣かせた猛将ほど、余計な死なされ方が実在した。撃つなら撃てよ。斬るなら、斬るがいい!殺すなら殺せよ!それでいい!・・・兄でも父でもかまわぬ。殺すは許す!それが戦だ!・・・然れども、どうせ殺すなら瞬時に殺さんかい!!・・・どの面(つら)ぶら下げやがって!その面貸さんかい!!残された遺族の怒りが目に見える。嬲り殺しの恨みだけは、収拾しようがない。怨念の化身に化けてしまった者とは、性的陰惨に限らず、親族や愛する者に、語るに語れぬ屈辱を塗ったくられた者の遺族だったかもしれない。ふと、解るような気がする。愛する人や、大切な親族が、惨忍の極みや卑怯な手段で殺された場合は、いかに怒り爆裂とも、この場合は、恨みつらみを吐ける。ところが、もしも、余計な晒し者にされて生きながらにして屈辱を背負い死なされた場合、それは、どんなに親しい人にさえ、口に出して語れない。語れば仏を尚も冒涜するがごとく。私の兄は、このようにされました!・・・私の許婚は、このような屈辱を!・・・そんなもの、一体どこの誰が口に出して語れようものか!口が裂けても言えるわけは無い!!一人の人間が怨念の塊に化身する。その瞬間が、なんとなく解る。・・・この場合、時計の針は、完全に停止している。それと、もうひとつある。これは現代の感覚では、あまり多くの人がピンとこない領域ながら、「曝し首」の屈辱。たとえ、武士の誇り、名誉の切腹じゃないにせよ、無残斬首にせよ、それが戦。ところが、「曝し首」の屈辱は、別だ。それは遺族にとって、死ぬ程の屈辱。故人の屈辱を思えば、耐え難かった。明治6年、折角青森県に出仕した梶原平馬、なんと免職を食らう下手を打つ。何が原因か史実は不明だが、しかしながら、これは仕方ない。梶原平馬は、親族に「死なされ方の相違」を被った側の男だった。■一族全滅同然の平馬と、全員生き残った山川家:斗南時代の「平馬の立場」■平馬と江戸残留組の秘密活動、■平馬の弟「武川信臣」、彰義隊と会津藩■懐古「平馬一族全滅のカウントダウン」、■慙愧!遅れて知った弟の死の全容■幕末玄関<梶原平馬SERIESNo.1<・・・<No.12<No.13(現在頁)<NEXT_No.14・・・<考察おまとめ表別件▼文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材当該有りの場合は頁下表示TOP<
2012.01.26
怨念の過去,死なされ方の相違,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.12,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,お家の体温差,戊辰が背負うもの,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.12,梶原平馬の二人目の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.12戊辰の後の雲行き:梶原家と、山川家の体温差一族の『戊辰時に於ける過去の相違』から生じる体温差考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。斗南時代の不気味な亀裂一族に於ける『過去の相違』の続き怨念の過去、 死なされ方の相違梶原平馬が背負っていた「時が停止する過去」初めから読む・・<この直前頁:No.11◆「耐え忍んで、前方に進める過去」と、「時が停止する過去」の違い怨念!時を制止させる怨念の過去噛み殺して、耐え忍んで、どうにか前方に運び繋げる過去と、「そうでない過去」とがある。同じ悲壮、同じ悲しみの累積・・・なのだが、やはり異なる。後者の場合、完全に、その段階で時計の針は止まる。実のところ、梶原平馬は、「そうでない過去」側の枷を背負った側だった。耐え難きを耐え、許し難きに唇咬んで、生き残りの会津藩士達達は明治を生きてゆく。己が滅ぶは勝手なれど、「怨念」だけでは、何も生成しない。己に言い聞かせる。たとえ藩が消えようが、永久に消えぬ「心の会津」の為に、師弟の未来の為に、生きねばならぬ。多くはそうして、地獄の底から這い上がる。中には不幸中の幸い、敵の中に、たった一人でも敵ならぬ敵に巡りあえた者なれば幸運といえる。膨大な敵の中、その人物だけは別の存在になる。暗闇に刺す一筋の光だ。それがあれば、怨念の塊も、やがて和らぐ。暫しの間、心で憎むターゲットに絞込みがつくだけ、大分救われる。○○藩は敵だが、○○藩は敵とて、本質悪ではなかったとか、所詮全部敵ながら、人物○○氏だけは、善人だ。・・・これは、各お家によっても異なるし、個人差も多種多様。つきつめるなれば、何れも矛盾。人は神様じゃないから。・・・だが、言い換えるなれば、だからこそ人なのだろう。ところが、一部不幸にして、上記の「そうでない側の過去」を背負い込んでしまった者が居る。怨念!語るに語れぬ屈辱の「死なされ方」耐えて語れば、語れるか?それとも、けっして、口が裂けても語れぬか・・・。死なされ方の相違が、万事切り分ける。明治の世、あっちもこっちも復讐のそのまた復讐、その連発。復讐のそのまた復讐は、さらに残忍性を帯びる。恨みの恨みは怪物のごとく蓄積変化する。やられた側が、己は散る覚悟でやりかえすなれば、まあ解るが、その反対もある。官軍は勝ったのだ。みごと錦の御旗靡く名誉の存在ではないか!なのだが、それでもおさまらず、赦免早々、過去の新撰組隊士が、平隊士の果てまで狙われて殺されている。客観的に見れば、いつまで繰り返す!しつこいぞ!・・・なのだが、彼らには彼らなりの訳がある。止まらないのだ。実は、会津側も、同じだった。皆が、皆の為を思うが故、耐えに耐えて堪える中、突如枠を飛び出し、復讐劇を見舞う者が明治の世、度々発生した。離反反覆の動きで、処刑された者に加え、「冒涜の極み惨忍の極み、人に非ず!」と怒り爆裂の例、さらには、裏切り者を天誅して斬首に至った者といった具合で、次々と続いた。【関連頁はこちら】しかしながら、これは一概に理性が乏しいとか、あるいは血の気が多すぎるとは言えない。小事件に関していえば、たった一人や二人の裏切り者を始末して、なんの足しになるのだ!・・現代の者ならば、多くがそう感じることだろう。しかしながら・・・立場かわれば、人に生まれた以上、明日は我が身かもしれない。おそらく、死なされ方の相違だろう。■幕末玄関<梶原平馬SERIESNo.1<・・・<No.11<No.12(現在頁)<NEXT_No.13・・・<考察おまとめ表別件▼文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材当該有りの場合は頁下表示TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!★
2012.01.26
お家の体温差,戊辰が背負うもの,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.11,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.11,梶原平馬の二人目の妻と倅 _TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.11戊辰の後の雲行き:梶原家と、山川家の体温差一族の『戊辰時に於ける過去の相違』から生じる体温差考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。斗南時代の不気味な亀裂一族に於ける『過去の相違』の続き山川家の体温その1_梶原の妻、二葉は山川家模範の長女の立場梶原平馬が背負っていた「時が停止する過去」初めから読む・・<この直前頁:No.10前頁の運びより:絶望の斗南、旧会津藩士達。しかし、歯を食い縛り、立ち上がった山川家。賢妻賢母の山川唐衣の力。大海で溺れる子供達を全員、拾い上げて、波間の浮き板をもれなく配り与えた。一番下の当時9歳の少女、咲子は、斗南で餓死させまいと、箱館に住むフランス人の家に預けてある。これは長男の浩と連携プレイ。操も早々、優秀な男、小出光照に嫁がせた。若い浩もさすが長男。亡き父にかわって、皆を肩に担って漕ぎ出した。これにて、山川兄弟は皆、立ち上がる。残された問題はただひとつ。頼りの長女、二葉の夫。梶原にしっかと立ってもらわねばならぬ。梶原の妻、二葉は山川家模範の長女。長女の宿命を背負い生きる妻と、平馬。◆模範の長女、二葉と、平馬:夫婦の亀裂に至る迄華々しい山川一族の飛翔の時、その傍ら、耳元で不気味な亀裂の生じる音が響く。二葉は母の手足になって影の力持ち。子を育てながら、献身的に山川家の為に奔走。弟妹を守り導く。篭城中は、母に言い聞かせられていた。「照姫様が、もしも自刃なされたら、その時は皆、お従いするのですよ。それが、誠忠義の侍の娘というものですよ。心なさい。否は許しませぬ。」この段階で、長男の嫁、トセは城内に落下した砲弾の犠牲となり、悲壮な最期を遂げている。滝のごとく流れ出る流血の姿。それでも彼女は苦しい息の下、姑に己の介錯を懇願。「母上、あの約束はいかがなされました!早く、私の首を落として下さい!早く!」躊躇して、それができずにいる姑に悲しみと怒りをぶつけて、ついに息耐えた。「それでも、貴女様は、侍の妻ですか!あの約束は、どこにいったのですか!・・・」女傑、山川唐衣といえど、こればかりは果たせなかった約束に終わった。確かに約束だったのだ。誰かが重症を負ったら、苦しませずに必ず介錯を・・・。侍の妻として、侍の娘として、あっぱれな最期を・・。この後、山川唐衣は長女の二葉を呼び寄せ、しっかと語った。「貴女は山川家の長女ですよ。山川の名を汚してはなりませぬ。姫様の万が一の際、下の二人は幼い故、おそらく自力では無理でしょう。常盤と咲子(=捨松)のうち、一人は私が母として責任を全う致します。貴女は長女として、もう一人を必ず殺してやりなさい。不憫も哀れも許しませぬ。不憫なればこそ、必ず成し遂げるのですよ、それが長女というものです。・・・けっして失敗は許しませぬ!幼子が喘ぎ苦しむ惨い姿を曝してはなりませぬ。それが長女の掟です!わかりましたね!!」二葉は肩に背負った。長女の掟。可愛い妹達を生かすも殺すも長女の責任。長女なれば、己の心の苦しみ悲しみ、それらはすべて犠牲はやむをえぬ。たとえ鬼になろうとも、兄弟を導くが天命なのだと、母から言い渡された。・・・【これは後に操が姉から聞いて語った。】模範の長女、山川二葉は、こうして梶原の妻ながら、山川家の長女としての姿を怠ることなく、貫き生きてゆく。ところが、ここで両家の体温差。・・・問題の夫、梶原平馬は・・・誰しも傷は深い。誰しも心に、憎い官軍。恨みつらみは存在せぬわけはないのだが、今や明治というなれば、進むしかない。ところが、梶原平馬の体温は、明らかに異なる。平馬の姓は梶原だが、養子。生家の姓は内藤。たとえ、一人二人程度、極小とて敵中に善人を拾えた家族と、過去のあの段階で、体内時計が完全に停止した家の平馬。目に見えぬ亀裂が、ここに生じてゆく。二葉はふたつの立場に懊悩する。かたや、愛する夫の妻。されど、己は山川家の長女。当然ながら、母とは永久に生きる存在ではない。己より先に旅立つ。母も不憫なのだ。男勝りに仁王立ちで頑張る。されど、それは、夫に死別された以上、女が必死で夫の家名を支える意地なのだ。長女だからこそ、それは他の誰よりも知っている。ずっと見てきた姿だった。されば、長女の掟。兄弟を生かすも殺すも、全て己の責任。母が配り与えた波板。必死で手で掴まって、大海を渡ろうとする兄弟達の姿。再び彼らを荒海に突き落とす失敗は許されぬ。浩は若いながらその名を鳴らした。されど、浩とて弟なのだ。姉がその足を引っ張ってどうする!!歯がゆい夫。されど、夫、平馬が背負った一族の過去は、ここにある。■幕末玄関<梶原平馬SERIESNo.1<・・・<No.10<No.11(現在頁)<NEXT:No.12・・・<考察おまとめ表NEXT_怨念の過去、 死なされ方の相違文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材当該有りの場合は頁下表示TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!★
2012.01.26
土壇場の選択,時には骨休め!考えすぎ人間へ,イソップの暗示信号,大人がマジでイソップを読む,【楽天市場】,おすすめ本,土壇場の選択肢で悩む前に,No.2TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、<■ペットが主流、■飼い主さん主流<本&心系&人物時には、骨休め!考えすぎない方法ってないのかね?イソップの暗示信号:骨休めSERIES:BACK_No.1<No.2(現在頁)変な記事でびっくりした犬猫飼い主さん、現在頁下ピンク枠から脱走して下さい!もしも悩まず、真っ直ぐ進めるものなればイイナ・・・、・・・それだって力だ!悩まないのも実力のうち!!_ _イソップ(アイソーポス)は実在の人。だけど、なんといっても紀元前。古代ギリシャ。身分は奴隷だった。それは、何を読んでも共通しているが、ラストの悲壮は色々ありすぎて、結局古い話だから、どれがほんとか解らない。王が「なにっ!さては俺の事だったのか!」怒って殺したとか、奴隷の身分を脱して優遇された彼を妬んだ者の陰謀にかかったとか・・・つまるところわからない。まあ、なにはともあれ、大人が大人の感性で読んで、おもろいやら怖いやら。・・・たまには読んでみない?ちょっぴりニヒルな笑みを浮かべて・・!!_ __物語と名画:知ってるつもりが、頭って大分インチキ!!忘却の神様。我ながら呆れる。・・・知ってて損ないし、読むのに時間も神経も磨り減らない!!系_ __▲右端:アーサーラッカムの素晴らしい挿絵と物語セットで体感。こーゆーの好きなんです。見つめるともなく、じ~っと見入ってハマる。だが、ここに不幸が。乗り物の中とかだと、暇人と間違えられて、やたらに話かけられて、読書妨害だぞ!!叫びたいが叫べない!怒れない!顔で笑ってやたら耐えてお愛想。もしも悩まず、真っ直ぐ進めるものなればイイナ!左:三浦綾子:塩狩峠:相当ヘビーですが、おすすめ。・・土壇場の選択肢。どうすればいいんだ!な、なんと!真下:犬猫ペットに限らず、隠れバージョン色々。骨休めSERIES:BACK_No.1<No.2(現在頁)
2012.01.26
お家の体温差,戊辰が背負うもの,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.10,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.10,梶原平馬の二人目の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.10戊辰の後の雲行き:梶原家と、山川家の体温差一族の『戊辰時に於ける過去の相違』から生じる体温差考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。斗南時代の不気味な亀裂一族に於ける『過去の相違』の続き山川家一族の飛翔と、平馬の免職事件!・・・そして、二葉上京!そろそろ、別居開始か?明治6年から雲行き怪しい。初めから読む・・<この直前頁:No.9明治4年(1871年)、山川浩は青森県に出仕後、間もなく同年、土佐の谷干城の推薦で陸軍出仕。二葉にとって下の弟、山川健次郎はアメリカ留学。 末妹の山川捨松も岩倉使節女子留学。山川一族は軌道にのった矢先。だというのに、明治6年、梶原平馬は一発やらかします。なんと、青森県に出仕したはよいが、免職!!確かに、いざ出仕となれば、旧会津藩士としては耐え難い旨も多々。平馬に限らず、同じような時期に「依頼免職」の者は複数存在する。しかし、彼らと平馬は異なる。形式上とて、「依頼免職」の形態に収まっていない。「一身上の都合にて・・・」があるのと、ないので大違い。ブチ切れ辞表叩きつけだか、罷免同然だか、知らないが確かに穏やかではない。(詳しくは、後述)二葉にしてみれば、母の意図を汲んで、長女は必死で、折角可愛い弟、妹達を皆、軌道【軌道とは、次枠一覧MEMO有】に乗せたばかりの矢先。彼女にとって、これは、原因が何とあれ、なんちゅうこっちゃ!!・・・以外の何ものでもない!そして案の定、同年の明治6年、妻の山川二葉は、弟の山川浩と共に上京。そして、明治10年堂々、教師として教鞭を執る。この流れでは、まるで、平馬は、あたかも二葉に、ついに捨てられたようなニュアンスに見えてしまう!・・・その為、山川二葉と名乗る実績も共だって、やはり、ここで、きっちり離婚したのだろう!誰もがそう思う。実際、二葉を讃える文章にも、そうとしか感じられない表現がある。一人で一子を育てながら学校教育界で業務に専念・・・。そして、明治8年に会津に平馬在住軌跡。実際居たのか、名置きか知らないが、とりあえず、明治8年に会津に平馬の名前有り。東京の二葉。会津の平馬。ますます離婚と思ってしまうが・・。それらは全て、どうやら現代の盲点のようだ。平馬が築いた二つの家庭に於ける戸籍の行ったり来たりは、明治42年まで続く。本人(平馬)は既に死亡してるのに延々。これが現在シリーズの延々大脈の源。ところが、明治11年5月2日、第二の妻貞は長女のシツエ出産。子とは突然瞬時に完成しない。十月十日というから、よくわからんが、明治10年の7月かそこらには何かあったはず。その上、まさか突然会った途端!いざ鎌倉!もありえぬ話。となれば、それよりももっと前に巡り会って、&恋期間を逆算せねばならないが、それは、ますますよくわからん!いずれにせよ、平馬は、明らかに東京に居る。しかも教育機関関連のセクション近辺に居る。教職に在位する女性教師の視界の中に所在したことになる。新政府の目から見れば、戊辰前科一犯並の梶原平馬なれば、名前が表に出ないだけで、なんらかの教育系ポジションの隅っこに居たのではないだろうか。第二の妻貞は、二葉より5歳若いが教師としてのデビューは、貞のほうが2年早い。明治8年には堂々、新時代を担う女性教師だった。こうして、梶原平馬と二葉の家庭は、ギシギシと音をたてて、実質上は崩れ行く。明治11年5月2日、第二の妻貞の出産は、函館説が有力だ。確かに、その後判然としてる軌跡のみとて、明治14年には、貞は函館で教鞭を執っている。以降、この新しい第二の夫婦、平馬と貞は、このまま、北海道の根室に骨を埋めるに至る。次の項には、山川唐衣が産んだ7人の子に係る「明治早々の飛翔」一覧。 7人の子は、今回のシリーズの重要人物である長女「二葉【平馬の一人目の妻】」の他、大蔵(浩)、三和(三輪、ミワ、三和子)、操、健次郎、常盤、咲子(山川捨松=大山捨松)。明治早々、山川兄弟飛翔一望MEMO長男の山川浩(大蔵)については、話が延々長くなるので、後回し。この場は明治早々期のみ超略型で。まずは、他の兄弟の飛翔から、ざっくりと流します。まずは一望。親戚兄弟の親族とのさらなる血縁や養子関係はさらに絡み、話が長くなるので、「親族血縁絡み糸」二葉:明治6(1873)年上京。明治10(1877)年から教師として教鞭を執る。健次郎:明治4(1871)年:アメリカへの国費留学生として渡米。(健次郎留学に至る追記=親族血縁絡み糸頁) 操:夫死亡後も活躍。ロシア留学。露語、仏語習得。昭憲皇太后(明治天皇の皇后)通訳勤務。ミワ:兄弟の中唯一地味で、飛翔できなかった。夫の方針が異なる。函館の軌跡の後、同じ北海道といえ、極み付けの道東。未開の地、草深い山中)に暮らす。しかし、夫も教育者としてのその姿をやがて表現化。実は北海道根室に居る。梶原平馬の新夫婦と根室でこのとおり交渉有り。■ミワの夫:桜井弥一右衛門政衛は表向きは長男に家督を譲り、この名は暫し長男の厄介その一人に扮して表に出ないが、暫し後、教育者として本人の名も出現する。(私的には今後、平馬情報発掘のキーマンになるだろうと期待。)それでも、ミワ自身も、夫が開始した学校で女子に対して、裁縫など指導する教師。常盤:山川徳治(旧姓徳力徳治)を養子婿として結婚。山川徳治は暦年司法省に活躍。各地で検事正を経て検事長。晩年は教育会長及学務委員。戈登(ゴルドンと読む。浩の養子になるが若くして死亡)の実父。咲子(山川捨松=大山捨松):明治6(1873)年、岩倉使節女子留学にてアメリカ在住10年。 浩:明治4(1871)年、青森県に出仕後、間もなく同年、土佐の谷干城の推薦で陸軍出仕。次は、本題の「お家の体温差」に結びつける為の行程として、山川家の体温の話。その代表者といえば、長女の二葉と母の唐衣の色彩、そして、もうひとつの色彩、長男の浩のこと。対して、ところで平馬ファミリーは・・・というと!の点について書きます。■幕末玄関<梶原平馬SERIESNo.1<・・・No.9<No.10(現在頁)<No.11・・・<考察おまとめ表別件▼文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材当該有りの場合は頁下表示TOP<■わくわくドキドキ!
2012.01.25
お家の体温差,戊辰が背負うもの,梶原平馬根室の墓石SERIES_No.9,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.9,梶原平馬の二人目の妻と倅 _TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.9戊辰の後の雲行き:梶原家と、山川家の体温差一族の『戊辰時に於ける過去の相違』から生じる体温差考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。斗南時代の不気味な亀裂体温差&亀裂への経緯その2_斗南時代の進展と、一族に於ける『過去の相違』の続き初めから読む・・<この直前頁:No.8さて、そういうわけで、山川唐衣は西郷一族の娘。会津戦争の最中、脱走して、いつのまにやら箱館へ向う榎本軍に飛び込んでいる噂の男、西郷頼母も勿論西郷一族。ここで、囁かれる鹿児島の西郷隆盛。頼母が、唯一生き残りの子「吉十郎」の手を引いて逃走する途上、実は、西郷隆盛の軍が密かに警護したとの説も言われている。確かにルーツを辿ると遠縁。後に、ご存知のとおり、西郷隆盛は西南の役を引き起こし、死亡するわけだが、明治突入後も、プスプスと西郷隆盛は妙な煙をあっちこっちで立てている。西郷頼母はもとから交戦派ではなく、かなり薩摩寄りの姿勢。加えて、ここで刑死した頼母の実弟の山田陽次郎達の不穏な動き、その黒幕は、やはり西郷隆盛といわれる。西郷頼母のその後の人生にも、たびたび西郷隆盛の煙立つ。 ・(西郷隆盛と西郷頼母)どう見ても、頼母が隆盛に保護されていたはほとんど丸見え。 因みに、会津の罪を一人の肩に背負い、哀れ萱野権兵衛が犠牲切腹したのは明治2年5月18日 。この時、上記の流れで漠然と多くの人が勘違いする。箱館戦争でついに降伏した榎本軍。実は彼らの降伏日も同じく明治2年5月18日 。とすれば、西郷頼母もその箱館に居た以上、その中の一人として箱館で失意の瞬間を経験したのだろう・・・と思ってしまうという人が意外に多い。西郷頼母は榎本客員。いわば皆が血みどろで闘い死に逝く中、専用宅を与えられ、座って見ている係。偉い人。発言権は与えられぬかわりに、身は安全な特別な人。こういう偉い人は、箱館戦争に参戦した三人の殿、(桑名_松平定敬(容保の実弟)、板倉勝静、小笠原長行)同様、事前に船で帰ってきている。萱野権兵衛が腹を斯き切って死ぬ瞬間、西郷頼母は、ちゃんと本州の地に上陸している。小笠原長行は潜伏、悲壮。比喩の領域脱して、本当に穴を掘って、穴倉暮らし経験さえある。松平定敬と、板倉勝静は自首した。【関連:桑名の松平定敬を守って犠牲切腹は「森陳明弥一左衛門:君にかわれる死出の旅立」】西郷頼母は、深閑として、それらのどれにも該当しない。家格も地位も本来当該でない萱野権兵衛が、会津代表として血潮に染まる日、会津歴代の名家、高家格の西郷頼母、彼は黙して江戸近隣の何処かに座している。一応謹慎形態不自由はあるが、5年には、 伊豆の謹申学舎塾塾長で教鞭を取り、8年には宮司。倅の「吉十郎」は若くして死亡してしまったにせよ、これまた隆盛絡み情報は山盛り。薩摩で家格が低い西郷隆盛が、西郷一族の名をもって、水面下で独特の動き。少なくとも、西郷隆盛と西郷頼母が無縁でないのは誰もがそう感じて当たり前状態。五十歳を既に超えて自称、近々には老齢に至る・・・の或る西郷一族出の一人の尼様から、嘆願があったか否か、史実に裏付は知らない。しかしながら、どん底の斗南で、山川一族は、全員、地獄の淵から這い上がる。誰よりも早く、早々に、皆みごと羽ばたいてゆく。【注】:西郷一族が皆、特待されて楽したわけではありません。哀れ会津の為に散華の西郷として、こちらの一族、西郷刑部の一族。刑部本人も参戦悲壮な散華。西郷刑部(700石)家族5人は、全員揃って自刃。体温差&亀裂への経緯その3_斗南時代の山川家一族の飛翔一般に表に出てくる話としては、会津戦争に於ける若い山川大蔵(浩)の勇戦ぶりが敵ながらあっぱれ!・・・土佐の谷干城が絶賛、この話題。会津戦争の時、藤原の戦地では、板垣退助の大軍と戦って、 山川大蔵(浩)が勝利を。「されば、敵の大将は誰だ?ん?山川大蔵と申すのか。敵ながらあっぱれじゃ!」・・・というわけで、廃藩置県後、山川大蔵(浩)は、青森県に出仕の後、すぐに、土佐の谷干城の推薦により、明治4年(1871年)に陸軍に出仕。報恩に大活躍・・・というシナリオ。推薦は事実だが、世の中、そんなに爽やかな話ばかりじゃない。土佐による山川ファミリーバックアップシステムもどうやら事実。されど、薩摩との絡みを以下の各項を経て、順次溶いてゆきます。・・・NEXT:平馬そろそろ、別居開始か?明治6年から雲行き怪しい!に至るまで。山川家一族の飛翔と、平馬の免職事件!・・・そして、二葉上京!梶原平馬SERIESNo.1<・・・<No.8<No.9(現在頁)<【NEXTボタン▲】No.10・・・<考察おまとめ表文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材当該有りの場合は頁下表示■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.25
会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.8,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,お家の体温差,戊辰が背負うもの,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.8,梶原平馬の二人目の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.8戊辰の後の雲行き:梶原家と、山川家の体温差一族の『戊辰時に於ける過去の相違』から生じる体温差考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。会津落城から斗南へ、斗南時代の不気味な亀裂体温差&亀裂への経緯その1_鶴ヶ城に虚しく白旗靡く初めから読む・・<この直前頁:No.7屈辱の瞬間がついに到来。明治元年9月22日、鶴ヶ城には、虚しく白旗靡く。開城式が執り行われた。得意げに立ち並ぶ新政府軍の前、袴の脇を手で少し摘み上げるようにして、足袋のまま、松平容保が、静々と進み出る。会津家老が、地べたに平伏して謝罪の屈辱を。この中に、梶原平馬が居る。溢れ出る怒り噛み殺し、敵の前、平伏す。この姿は、錦絵にも描かれた。(尚、この錦絵は、ひょんなことから、後の世、山川家の次世代の中、再び話題に浮上する。後述。)戊辰時の梶原平馬の業務実績は略。多すぎてこのページには割愛。ただし、最後の最後まで徹底交戦派の家老として認識されている存在だ。下行の萱野権兵衛に、藩の為に、「死の命」を運び伝える役を蒙ったも梶原。そして、恭順説を唱えて皆から浮いた存在の西郷頼母の暗殺命を密かに下したのも彼、梶原。会津の弾薬、兵器の要、青い目の侍「シュネル(スネル)」とのパイプラインも彼が大幹だ。梶原は重要な密命をもって江戸残留組の一人。兵器の目処を片付けて、シュネルの船で遅れて会津に入っている。まあ、いずれにせよ、梶原は新政府に於ける「ブラックリストの張本人」にはかわりない。そして、ご存知のとおり、裁きを受けて、萱野権兵衛が犠牲切腹。会津の生き残りは、哀れ、流刑同然の斗南へ送られた。梶原平馬と妻の二葉、及び、その子「景清」、そして妻の一族、山川一家と一緒に、ここに居る。梶原平馬と、山川家長女の「二葉」夫婦、妻の母「勝聖院」の力体温差&亀裂への経緯その2_斗南時代の進展と、一族に於ける『過去の相違』梶原平馬は、この群れに居る。上市川村在住。どん底ながら、このあたりまでは、家庭は、まあまあ普通。妻の二葉も、子の景清も居る。ところが、明治4年:廃藩置県=藩は消滅!!この明治4年あたりから、梶原と山川の間、目に見えぬ歪な壁が生じてきている。二葉は、梶原の妻。ところが、山川家の長女。二葉の父、山川重英尚江(勘定奉行:1200石)は戊辰戦本格化前、万延元年(1860)に、死亡している。それ以来、二葉の母は、剃髪して勝聖院と名乗っていた。 この勝聖院こそ、女傑で知られる山川唐衣【1817-1889】。本名は艶(えん)。水面下で、彼女の活躍は目覚しい。さて、ここでひとつ、彼女、山川唐衣は西郷十郎右衛門近登之(ちかとし:軍事奉行:350石)の娘。西郷一族の一人なのだ。・・・という点をまずはふまえて。しかも、侍の妻ながら、夫の死亡以来剃髪して勝聖院と名乗っていた。不幸中の幸い、会津戦争時、夫は天の人。現役で新政府に楯突いた存在の男の妻でない。一応仏に仕える身・・・の形。剃髪している。長男の山川浩(大蔵)は若いながら、勇戦ぶりが後々謳われるほど、大活躍で新政府を泣かせた猛将。しかし、23歳の将であり、地位は家老ではなかったわけだ。ブラックリストのTOP行羅列の一人ではない。幸いしている。 山川唐衣は、12人の子を産んだが、早世せず無事戊辰時まで育っている子は7人。7人の子は、今回のシリーズの重要人物である長女「二葉【平馬の一人目の妻】」の他、大蔵(浩)、三和(三輪、ミワ、三和子)、操、健次郎、常盤、咲子(山川捨松)。会津戦争時、多くの家では、戦死以外に、自刃もしくは、母が我が子の命を断つ形で、膨大な死者を出している。ところが、この唐衣は凄い。上記7人、誰一人として死なせることなく、会津戦争の最中、子を全員守りきった。(唯一死なせてしまったのは、長男、大蔵(浩)の嫁、トセ、19歳。その時の事はこちらリンク先「断末魔、姑に依頼した己の介錯」) 少々脱線ながら参考迄。山川兄弟と白虎隊の飯沼貞吉、及び、一族自刃で死亡したの西郷頼母の家の子達は従兄弟、及び親族。・飯沼貞吉の母(文子)は西郷十郎右衛門近登之の子 ・山川兄弟の母(唐衣)は西郷十郎右衛門近登之の子・・・(文子)と(唐衣)は西郷姉妹・一族自刃で死亡した西郷頼母の妻(千重子は)は、飯沼家の娘飯沼粂之進(450石)の二女 ・飯沼貞吉の父(飯沼時衛)は飯沼一正・・・(千重子)と(時衛)は飯沼家の子さて、そういうわけで、山川唐衣は西郷一族の娘。会津戦争の最中、脱走して、いつのまにやら箱館へ向う榎本軍に飛び込んできたあの噂の人物、彼もまさしく西郷一族だ!!■幕末玄関<梶原平馬SERIESNo.1<・・・<No.7<No.8(現在頁)<【NEXTボタン▲】No.9・・・<考察おまとめ表体温差&亀裂への経緯その3(NEXT▲)_斗南時代の山川家一族の飛翔文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材当該有りの場合は頁下表示TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ! <■ペットが主流、■飼い主さん主流 _
2012.01.24
犬猫お揃い服ぷわもこ暖ったか&可愛っ!SALE,良質自社縫製痛快アウトレット,犬の洋服,猫の洋服,暖かパーカー,トレーナー,ジャンバー他,ペット,【楽天市場】_わんにゃん揃って、暖ったかお洒落!痛快アウトレット!お得だワン!小型から大型犬まで!いろんな犬種&猫ちゃんの試着姿見れるわん!任意画像からENTER後、画面中程までスライドダウン。小さいサムネールに触れると、次から次と色んな犬種&なんと!猫ちゃん!!試着姿見れますよ!_ _ _この材質、毛足が長~い!豪華ぷわぷわっ!おすすめだワン! __ _ __まだまだ選べるわん!!▼★
2012.01.21
幕末の兄弟,兄上がくれた柏餅,グルメ編付録_北海道の旨っ!べこ餅No.2,姉妹編:明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピ,_兄上がくれた「柏餅」の味関連:アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉▲心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみ今回のMINI談話は真下バナー、極めてマジメなSERIES!の付録話です。「かしわ餅話」とは、しゃーないくらいに短いけど、聞いた時には、実は、感動。ところが、なぜか、本文に入れると、どーも浮くんで、抜きました。別件付録として、現在頁に、書きます。弟の亡き兄の思い出。岩吉が、後で泣けた「なぜか?柏餅の訳」_その2この前の部分から読む<ところが、或る日、本当に、それが最後になってしまった。兄は、皆の反対を蹴って、戊辰終焉、榎本軍に飛び込んで、戦死してしまった。老獪に立ち回るなれば、勝てるわけのない末期の榎本軍。それでも不義を許せず自ら飛び込んで散った。岩吉に、いつも優しかった兄は天の人。この話、実は岩吉、イワシピに語った時、大層疲れたそうだ。せっかく思い出話を語りたいのに、生真面目なイワシピが食いついて、先に進まない。「養家が貧しいなら、なおのこと、餅を食わずに持って帰るべきじゃないのか?お前らは、間違っている。お前は正直。兄も善人かもしれないが、それだけは間違っている!」・・・冷や汗タラタラ。やっと説明完結したら、「もう一度語ってくれ、いい話だ。」・・イワシピは頑固だけど、いい縁だったのだが・・最後は悲しい。(詳しくは上のバナーへ) _★ところで、このお餅、ご存知ですか?「べこ餅」といいます。北海道にしかない!・・・とは知らなかった人多いと思いますが・・・実はそうなんです。その名もまさしく、「堂々、北海道にしかない餅!べこ餅!」▼_岩吉さんと同じ藩出身(次世代時代)の人が、お店で「柏餅下さい!」と言ったら、「こっちのほうが、よっぽど旨いっす!」と、べこ餅が出てきて、びっくりしたそうです。不思議ですね。東北は、地域によっては「べこ餅」存在する。 日本って小さいのに広い!?_全国の餅菓子の本。べこ餅も登場。べこ餅は牛のべこなのか、鼈甲色のベコなのかその由縁他説。歴史上、人々の移住によって、食風習も以外なところから受け継がれ、やがて地域特有の変遷を。No.1(前頁)<No.2(現在頁)<幕末玄関 <(これ別件会津編)No.3:悔し悲し!されど旨かった会津惨敗後、少年が食べた味噌餅の味他に:日本人の米への執着話「幕末明治編」近代日本:幕末明治の日本人と栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」カラダに健康を呼び戻せ!白米、対、麦と玄米の価値明治のカレー事情北海道版,開拓使お雇い外国人講師,カレー裏話,クラークと北大生とカレー,開拓使★
2012.01.21
幕末の兄弟,兄上がくれた柏餅,グルメ編付録_北海道の旨っ!べこ餅,姉妹編:明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピ,_ _兄上がくれた「柏餅」の味関連:アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉▲心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみ今回のMINI談話は真下バナー、極めてマジメなSERIES!の付録話です。「かしわ餅話」とは、しゃーないくらいに短いけど、聞いた時には、実は、感動。ところが、なぜか、本文に入れると、どーも浮くんで、抜きました。別件付録として、現在頁に、書きます。弟の亡き兄の思い出。■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語■移住の士族、某岩吉という男、■不思議な赤い実の汁、■青いつくしんぼう【アスパラ】、■二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、■イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■永久の別れ、砕け散った心の絆、■明治男達の「男の身売り」、転落地獄、■大地に風そよぐ白い小花岩吉が、後で泣けた「なぜか?柏餅の訳」岩吉とは、上記バナーの主人公。実在人物ですが、時代的に現代に近い為、仮名。その岩吉さんは、戊辰に敗れて、明治の世、北海道へ。彼の藩は、途中で恭順した藩だった。彼には、二人の兄がいましたが、特に、二番目の兄が大好きだった。家格の低い家の養子に行った岩吉を気使って、時折、なんだかんだと口実をつけて、家によんでくれた。その兄も養子婿ですが、岩吉の家と違って、そこそこマシな暮らし。訪問の理由は、表向き、いつも立派な用事になっているものの、実は「餅食わせの会!」みたいなもんだった。行くたびに、かしわ餅が、てんこもり!笑顔で優しい兄が迎えてくれた。 「さあ、食えよ。たくさん食えよ。腹一杯食うんだぞ。」岩吉は、当時、チビちゃん。なにがなんだか知らないけど、嬉しいから喜んで一杯食べた。「腹に詰め込んで帰るんだぞ。ここで食い切って帰れよ。持って帰っちゃいけないぞ。」兄は、そう言った。これは、いくら幼い岩吉とて、意味は解った。岩吉の養家は贅沢なんてできない家だから、こんなものを持ち帰ればイヤミになってしまうからだ。ところが、それは解るが、一つ不思議でしかたない事がある。「どうして、毎回、かしわ餅なのだろう??他にも、餅菓子なら、色々あるのに・・・?」或る日、思いきって、兄に聞いてみた。すると、訳は、こうだった。岩吉が幼児の頃、町民の子、商家の子が食べてる姿を見て、「あれが食べたい!」と泣いたそうだ。自分のことなのに、張本人の岩吉は、そんなこと全然覚えてない。ところが、厳格な父が、かなり強烈に叱ったのだそうだ。「武士の子にあるまじき!!」以来、優しい兄は、それが不憫で、いつか、弟に一杯食べさせてあげよう。つまり、決心!したのだそうだ。案の定、家格の低い家に出されてしまった弟が尚、不憫。どうやら、そこで「柏餅食わせの会!」に繋がったという経緯だ。(注)岩吉の実家は高家格。餅菓子なんぞ金銭的には全く問題無し。ところが厳格主義、典型的侍の父。武士の子の教育の一環として、子を一切甘やかさない。心優しい兄は、反骨の人。そのうち、戊辰の嵐が吹き荒れる。京や江戸はどうあれ、のどかな奥州の藩も、戦乱に巻き込まれる以前に、じわじわと戊辰の侵食が始まってきていた。藩士達は、俸禄に響く。軍費が嵩む。幕府には、兵を供出するか、かわりに高いお支払いを享受するか。結局、皆の禄が締上げられた。それでも、暫くこの「伝統!の柏餅食わせ会」は続いた。兄は、あいかわらず、岩吉を呼んでくれる。いつもどおり、皿一杯の柏餅。ところが、何度も言われたそうだ。「すまんのう、今日が最後かもしれんな。こんなことやってる場合じゃないからのう。」実のところ、岩吉は、兄の同じ台詞を、何回も聞いた。「今日が最後。」、「今日が最後。」・・・・無邪気な岩吉は可笑しかった。ちっとも最後じゃないじゃん!!ところが、或る日、No.1(現在頁)<NEXT_No.2<(これ別件会津編)No.3:悔し悲し!されど旨かった会津惨敗後、少年が食べた味噌餅の味 他に:日本人の米への執着話「幕末明治編」近代日本:幕末明治の日本人と栄養てんやわんや!富国強兵と脚気患者対策:「麦」と「カレー」と「ビタミン」カラダに健康を呼び戻せ!白米、対、麦と玄米の価値明治のカレー事情北海道版,開拓使お雇い外国人講師,カレー裏話,クラークと北大生とカレー,開拓使
2012.01.21
新島八重(山本八重子)の兄弟観について,姉妹編:泣かない女の思い出枕No.8、山本八重子,戊辰中離縁の謎,我が弟、三郎よ!No.2,幕末明治人物編,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<山本八重子:明治の世、なぜか褒めちぎった「三郎」という名の或る少年姉妹編:泣かない女の思い出枕_山本八重子八重さんにとっての弟、「三郎」_その2初めから読む:この直前頁<八重さんもそうだった。彼女は長生きした為、後の明治の世、いくつも会津戦争時の談話を残す。しかし、ポツンと随分短い話だけど、こんなお話も語った。<語った談話内容:大意で書きます。>・・・あの頃の話です。会津がついに開城に至るより、ほんの少し前のことでした。小田山上にあった会津の火薬庫が爆発致しました。それは、それは、もの凄い大轟音でした。悲しいことに、「これは落城に違いない!」と錯覚して、自刃をなされた家が幾つもありました。この時、そのひとつのおうちに、太田小兵衛という人の家がございました。この家では、母親と、僅か7歳の男の子が、母親と一緒に切腹なされたのです。この男の子は、この家の三男でございます。三郎という名でございました。僅か7歳でございます。されど、まこと、まことに立派な死に様でございました。【太田小兵衛】太田小兵衛は、白虎寄合二番隊中隊長。少年の中、二番隊の出陣は早い。慶応4/7/15、越後口へ。太田小兵衛宅所在は、上記の白虎寄合二番隊の出陣時の集合場所から、「米代三之丁」と解る。 彼らはこの家から越後へ向った。この姿を見送っていたのがこの人「飯盛山の悲劇の一人:津川喜代美」上記の話、伝える当時の人が複数あるため、実は諸説有り。少年は、切腹説もあれば、切腹でなくて、母が手にかけたなど、詳細は様々で、つまるところ、天国のご本人でなければ、よく解らない。しかしながら、本当に切腹かもしれないし・・・。父や兄の名を汚すまいと、7歳といえど、頑張ったかもしれない。ものすごく短い話ながら、八重さんの力説、力の入れ具合が迫力だ。八重さんは、極めて純粋に、この子を讃えている。褒め散ぎっている。誠、模範的会津男児。八重さん本人も、おそらく、どうしてこんなに記憶に鮮烈に残っているかなんて、考えたことないと思う。無意識なのだ。理由なんてない。心から、この子を讃えている。惜しい、可愛そう、賢い子なのに惜しい・・・からなんだけど、これは八重さん特有モードの「八重さん節」。「惜しい、惜しい、・・」と悔いを口に出さず、「あっぱれ、見事!」と讃えて飲み込む。幾つも、そうして悲しみを飲み込んで生きてきたから・・・。 語った頃は、相当年月が推移している。八重さんも、微笑んでいる。時間とは魔法のごとく。どんな悲惨も悲しみも、零れ落ちる涙にならない。一杯一杯乗り越えて、生き続けた人にとって、遠い日の悲しみが、今、ひとつの安らかな微笑みに替わる。八重さんの可愛い弟、その名は、三郎だった。・・・あっぱれ!三郎よ!・・・またしても「八重さん節」。そなたは、見事、あっぱれじゃった!この姉のこの目は、節穴じゃないぞよ。そなたこそ、あっぱれ日本一じゃ!ごくんと飲み干し、なんのこれしき!しっかと胸張ってみた。不思議だ。なぜか知らないけど、微かに微笑みが・・・。八重さんは、姉でありながら、一種母のような気持ちで、弟の成長と未来が、とっても楽しみだった。_ _八重さんにとっての弟、「三郎」_完!山本八重子関連姉妹編◆新島襄と山本八重子「私の貴女よ、グッドバイ!」◆泣かない女の思い出枕_山本八重子落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!:離縁の夫の謎◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!TOP<■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.19
新島八重(山本八重子)の兄弟観について,我が弟よ!姉妹編:泣かない女の思い出枕No.7、山本八重子,戊辰中離縁の謎,我が弟、三郎よ!No.1,幕末明治人物編,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<山本八重子:明治の世、なぜか褒めちぎった「三郎」という名の或る少年姉妹編:泣かない女の思い出枕_山本八重子八重さんにとっての弟、「三郎」_その1新島八重(山本八重子)の兄弟観について、感じるものがある。彼女はとても男っぽいのだけど、色々な場面を見る限り、母性本能豊かな人物。新島との間に子が生まれなかったのは、なんとも可愛そう。生まれていたなら、さぞ優しい母だったことだろう。世間ではガンコおばはんのごとく言われていたけど、母の姿が見えていたら、世間評価も相当異なっただろう。子供達が大好きだ。優しい眼差しで見守っている姿は各所に見られる。彼女の元に砲術を習いに来た少年達には、渇を入れて、檄を飛ばし、男言葉で叱りつける。「こらっ!何回言わせるんじゃ!目瞑るなって言っただろう!腰抜け!」それでいながら、やはり、優しく見守っている。これが、いよいよ会津戦争真っ最中に及ぶと、こんな場面も。11~13歳位のチビ少年(当時は今と違って、この時代の彼らは本当にチビ助)が集まって、一生懸命、自主的に調練に励んでいる。まだまだ子供で、戦士には使えないから、こんなところに居るのだけど、彼らは彼らで本気なのだ。「頑張って僕らも藩主様をお助けしよう!藩主様を苛める悪いやつらを、こらしめてやろう!江戸の将軍様を追い出した不届き者、そやつらをやっつけよう!」・・・八重子が城に向おうとすると、彼らがその気配に気がついた。彼らは八重子が、並の女性でないことを知っている。女ながら闘う戦士なんだと評判だ。なんといっても砲術の女先生。少年の一人が、追いかけてきてこう言った。「もしや、戦争に行くのですか?されば、我らを連れて行って下さい。我らも会津男児。会津の為に闘って死ぬなれば、命は惜しくありません!!」◆とはいえど、中には、実戦で散華した13歳少年も居る。しかも祖父の仇を討って、その場で戦死した。幼少組の武術達人少年だった。◆別件:二本松では究極の為、11~13歳が実際砲隊戦士として戦い散華▼この年代の場合、実戦には・・・まずまともに使えるタマではないにせよ、少年特有の戦争ごっこではなく、生死に係る認識は、曖昧ではない。口先だけではないのだ。藩の為に、本気で命を捧げようとしている少年の真心が、痛い程に伝わってくる。八重子は、思わず涙を堪えた。「いいえ、私は戦に行くのではありませんよ。用事で出かけてきます。頑張って練習してね。」そんな八重の兄弟について、少し書きます。父は山本権八。会津戦争終焉真近、慶応4年9月17日、一ノ堰戦で、玄武士中伊与田隊に属して、あっぱれ戦死を遂げた。享年61歳。兄はというと、これは有名。山本覚馬。当時は、鳥羽伏見の戦の後、官軍に捕縛されて処刑されたと、噂されていた。八重もそうだと思い込んでいた。(実は存命。明治を生きる)そして、弟は山本三郎。鳥羽伏見の傷が癒えず、江戸で死んだ。遺髪が届いた時、八重子は奮え泣いた。悔しくて、悔しくて・・・悔しくて!なぜなれば、可愛い弟!褒めてやりたい。あんなに可愛いかった弟が、一生懸命に闘って、会津の為に戦死したのだから。褒めたおしてあげたい。それなのに・・・。ここには虚しい、遺髪があるだけ。以来、彼女は弟の形見、男物の羽織袴をそっくり着こんで、弟の魂を己に背負ったつもりで、会津戦争突入。自ら、発言していた。「私は三郎だ!弟の仇討ちじゃ!」・・・(この話:関連はこの頁)そんな八重さん。兄弟は一応6人。ところが無事育ったのは下記3人。兄の覚馬と、八重さんは17歳離れている。八重さんは5番目。2~4番目は既に死亡。後は、6番目の三郎。その為、八重さんが物心ついた頃、兄は既に大人で優秀な人。それに対して、弟は二つ下、一緒に遊んで一緒に学んで、時折、姉弟喧嘩も、どっ突き合いも、仲直りも。幼い母さん気取りもあった。身近で親しくて、なんといっても可愛いかった。その為、彼女の目に映る少年達とは・・・特別な存在。失った弟の姿が瞼に映って、幼かった頃の弟と、時折ダブる。暖かい目で見守る彼女の姿が目に浮かぶ。「大きくなれよ。必ず、戦禍潜り抜けて、大人に育てよ!途中で死んだら許さんぞ!!」八重さんは、泣かない女。だけど、泣かないだけで、実は随分、涙脆い。しょっちゅう、ぐっと堪えてばかり。兄は偉大な存在。本人の死亡後も、その名は耐えない。対して、弟は、下枠のとおり、偉業を成し遂げる間もなく、若くして戦死してしまった為、その名は、哀れ、たちまち風化してしまう。明治の世、一人生きる八重さんにとって、それは、ますます不憫でやるせない。あの子は誰にも負けないくらい優秀だった。あの子は、いい子だった。(諸生組のメンバーの多く、現代の言葉で言えば学生さん。選ばれて勉学に専念のはずが戦禍に・・・。あの子は生きてさえいれば、きっと立派なお仕事をやって、世の中に役立つ存在になっていたに違いないのに・・・。【山本兄弟】慶応4年(1868)の時:覚馬40歳、八重子23歳、三郎(21歳=この年死亡につき享年)◆山本覚馬:1828年2月25日(文政11/1/11)~ 1892年12月28日(明治25/11/10) ◆山本八重子:(明治の世:新島襄に嫁ぐ):会津時代「川崎尚之助」に嫁いだが、離縁・・新島八重:1845年12月1日(弘化2/11/3)~ 1932年6月14日(昭和7/06/14)◆山本三郎:1868年、江戸で没(鳥羽伏見戦の延長線1/5八幡戦に於ける傷が原因):諸生組町田隊所属。されど、明治の世、言ってもしかたない。その名さえ知られぬ者を語ってなんになる!それでも、ずっと忘れられなくて・・・。これは擬似体験のある人には解りやすい気持ちなんですが・・・。失ったことありますか?弟妹や我が子といえば、その確率はぐっと限定されてしまうため、三郎さんに恐縮ながら、最愛のペット犬猫なども含めて考えていただけますと案外解りやすいかと思います。おんなじ犬種を見たら、ふと立ち止まる。他のどの子よりも、とても可愛く見える。「頑張って、ご飯一杯食べてね。大きく育つのよ!お利口さんね、貴方は本当にいい子ね・・・。」八重さんもそうだった。NEXT_▲_八重さんにとっての弟、「三郎」_その2山本八重子関連姉妹編◆新島襄と山本八重子「私の貴女よ、グッドバイ!」◆泣かない女の思い出枕_山本八重子落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!:離縁の夫の謎◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!★猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護▼
2012.01.19
山本八重子,おぼろ月よ,この簪誰に貰ろうた!離縁の夫の謎,幕末泣かない女の思い出枕_No.6,幕末明治,落城の時の詩、隠れた側面,夫と簪,幕末明治人物編,山本八重子TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.6山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシー◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!この涙飲み干してしまえ!(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」おぼろ月よ、この簪、誰に貰ろうた!初めから読む・・<この直前頁:No.5返り血の原因を、彼女自身は、迷わず、彼女独自の観念で、「卑怯者を手掛けたからだ」と断言しきっている点が印象的だ。多分家族に『卑怯者』があったからなのでございましょう。おそらく、篭城して戦うのが厭だとか、なんとか・・・。やむをえず、それを手掛けて、そのまま、ここにお来しになられたからなのでしょう。これも独特の観念だ。解らず屋で足手まといの家族だとか、一族の思想に相反する考え方の者とか、そういう表現を使っていない。言い換えるなれば、闘う意思のない者は臆病者どころか、卑怯者と断言している。悪く言えば思い込みなのだが、これも苦い経験によるものだろう。 白無垢が象徴する純たる思い、それが、真っ赤な鮮血に汚される宿命。されど、それは義の為に。泣く泣く家族を切り捨てたと見受けられる第三者の女性に、八重は深く同情したのだ。しかし、皮肉にも、その数日後、同様の立場に至る。いわば悪夢の暗示。八重は、べつに人の命を断ったではないが、ひとたび白無垢に身を包んだ以上、永久に添い遂げるつもりが、夫を我が手で斬り捨てたも同様の結果に至る。それが離縁だ。白無垢のごとく純白の乙女心、それが、真っ赤な血に染められた。彼女にとってそれは、裏切り者でしかない。白無垢を赤く染めた裏切り者!!それは、強烈な憎しみ。八重子の父、権八も終焉真近、9月17日、一ノ堰戦で、玄武士中伊与田隊に属して、あっぱれ戦死を遂げた。享年61歳。明治元年9月22日、ついに会津は、翌朝開城と決っした。この日の深夜、山本八重子は、悔し涙に濡れながら、三の丸の雑物庫の城壁に、落城の無念を刻み付けた。もはや、父も兄も弟も居ない。天の人。最後まで会津を守って闘って、会津の為に、散華。・・・頼りの夫のはずが!!汚らわしくて、悔しくて・・・思い出したくも無い!(注)実際は兄の山本覚馬は生存だが、捕縛されて処刑されたと伝わっていた。その為、この段階で、八重子は、そう思っている。明日の夜は何国(いずこ)の誰か眺むらんなれしお城に残す月影壁に彫りつけた刃物とは・・・なんと、「簪(かんざし)」だった。この時、頭の中は、愛する会津を失う無念で満杯。それ以外何もない。・・・しかし、目に浮かぶ。彫り終えて、ふと、我にかえって見つめるは、手に握った簪。震える手で握り締めて、握り返して、いっそこのまま捨ててしまおうか!!「こんなもの!」掴んで腕を振り上げて、だけど。。。・・・心と裏腹、なぜか、それができない!しょっぱい涙の一滴。おぼろ月よ、この簪、誰に貰ろうた!1裏切り者!・・・なんで転びよった!!卑怯者!目一杯罵倒しつつ、泣き崩れる彼女の姿が目に浮かぶ。八重さんは、簪を貰ったうんぬん話は何ひとつ言ってない。しかし、こればかりは、彼女に大きなお世話!と草葉の蔭から言われそうだが、なんとなく解る。名誉の討ち死、戦死を遂げた夫なれば、いかに落城が無念とて、まさか、その簪を、こんなところで使えまい。男装は開戦早々だが、黒髪を断ち切ったのは篭城の最中。それでも、なぜか懐に簪を忍ばせていたあたり、なんとも甘酸っぱい。八重さんは、言動と裏腹に、とても乙女なのだ。新島襄が妻にとことん惚れた気持ちが解る。川崎尚之助も、戦死なれば、永久に八重さんは、意地でも、一人で、川崎八重子を貫いたことだろう。ひょんなところから、川崎尚之助の痕跡が見つかった!▼▼▼完!_泣かない女の思い出枕_山本八重子【幕末玄関】:◆No.1:明治の夫新島襄と妻八重<No.2&No.3:弟<No.4&No.5:白無垢に鮮血!<No.6(現在頁)NEXTは彼女の別件MINI談話ながら、こちらも彼女が生の自分を隠してるのが解ります。▼NEXT_明治の世、なぜか褒めちぎった「三郎」という名の或る少年▼関連:エピソードはこちらのSERIESにも幕末~明治(戊辰話も登場)▼TOP<■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.18
泣かない女山本八重子前夫,戊辰中離縁の謎,幕末泣かない女の思い出枕_No.5,幕末明治,白無垢に鮮血,幕末明治人物編,山本八重子泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.5山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシーVer.3_明治の世、八重が語ったあの頃。「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」【その2】◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!まずは、八重が目撃した「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」「裏切り者」の言語に、ふと感じた!ここにも有った・・・「義の為なれば、裏切り者は、やむをえぬ!」初めから読む<この直前頁:No.4◆まずは、明治の世、語った話。慶応4年8月23日、会津の篭城開始日、当日の混乱の様子を語った概略。【大意で書きます。】<語りの前半>お城の前、入城者が大勢、ひしめきあっていました。それはそれは大混乱です。ところが、それにしても、ただならぬ殺気が・・・。一人の侍は、ご婦人衆の前、大声で叫んでいるのです。しかも、女子供相手に、なんと、抜刀しているではなりませぬか!「たとえ、ご婦人衆とて、卑怯な真似は一切許しませぬぞ!解り申したな!!もはや、容赦致しませぬ。ご覧あれ!!」 侍の掲げた白刀が、不気味に煌いていた。次の瞬間、八重は、息を呑む。一人のご婦人の姿に、目が釘付けになった!▼侍の前に居らしたご婦人は、なんと白無垢でありました。その白無垢には、生々しい血潮が滴ってるではありませぬか!!<語りの中間部>ここで、八重さんは、それについて、冷静な「繋ぎ」を入れて、手短に済ませ、さっさと次の文節へ早々に運び込む。▼いえねェ、これは多分家族に『卑怯者』があったからなのでございましょう。篭城して戦うのが厭だとか、・・・まあ、なんかあったのでしょう。おそらく、それを手に掛けて、そのまま、ここにお来しになられたからなのでしょう。<語りの後半部>・・・まあ、とにかく、それはそれは、大変な混乱でございました。皆が皆、必死でございます。幼子を背負った者、ご老人の手を取って支えながら、やっとここに辿り付いた者・・・それはもう、雑多な人混みでございました・・・(以下略)。『卑怯者』は、いたしかたないのです。・・・時勢柄、あの頃は・・・。上記の話が語られた頃は、新しい時代。現代から見れば、同じ明治だが、八重さんは旧人類。聞き取る側は新人類。うっかり広げかけた風呂敷は、八重さん自身で、さっさと畳んでしまいこんでしまっている。新人類から見れば、ああそうだったのかな・・・で、突っ込み入れるのを忘れている。何故、白無垢に目が止まったのですか?なぜ、その鮮血が、抜刀の武士によるものではなくて、自ら誰か親族を始末したと解ったのですか?・・・などなど、しつこい突っ込みがない。その為、残念ながら、この話は実質これだけ。最初、ぎょっとした瞬間は、誰しも同じだが、「まさか花嫁!か!」と思うから。恐らく、八重子さんも、そうだったはず。抜刀の武士の前、幸い斃れ死んでる人物も居ない。白無垢の女性の年恰好からして、これもひとつ不幸中の幸い、花嫁ではなさそうだ。白無垢に付着した血痕の様子を再度見る。・・・返り血と判断。短時間ながら、視線と意識の流れは、こんな感じと思われる。会津戦時当該は多分ないと思いますが、史実上、実際戦の真っ最中、あえて、花婿無しで、花嫁一人の早急結婚式はあります。家と家の契りの再認識。たとえ互いに滅んでも契りは永久に。この場合は主に許婚。幸い婿が生還すればいいが、そうでなければ、婿側の親族系から養子がスペアインらしいです。さもなければ種は落ちてないから、お家の血を保つ存続に、あんまり役に立たなくなってしまう。この時、家族を失った乙女達は、己も散華の覚悟で、白装束に身を包んだ者は複数存在。白無垢を真っ赤に染める鮮血は、誰かの負傷や死亡時に飛んで付着した程度ではなくて、明らかに、その女性自身が、誰かを斬り捨てた返り血。八重さんは、この時代の人だから、一目瞭然識別できたのだろう。 実際は、卑怯者の処分というよりも、言い聞かせても、どうしても駄々をこねて皆の足手まといになりかねぬ幼い我が子を泣く泣く斬った母も居る。「死ぬのは覚悟できました。だけど、僕も男児。藩主様の為に、僕も憎い敵を、せめて一人だけでも殺してから死にたい。」幼い少年がそう言った。母は宥めて自ら手にかけた。これも事実の話。いずれにせよ、母自身も死ぬ覚悟だから。史実に残る話に限らず、どこの家庭にも色々あったことだろう。 断定はできないが、ではないか?と思われる女性が、ここに一人候補としてあげられる。それは、河原善左衛門政良の妻、 河原アサ子。夫と倅が初戦早々散華。仇討ちの後、己も討ち死覚悟で白装束。されど親族を篭城組に運び込まねばならぬ。引き連れ向う。途中、老母が観念して自刃。死に切れず、本人の要望で介錯を。その後、幼い我が娘も介錯。アサ子の武術の腕は素人ではない。これは、明らかに返り血を浴びるだろう。城に到着後、早々に一騒動。男達の隊列後方に己を入れよと直訴騒動。かなりの騒動。下部の武士達だけでは収集しきれず、まずは、梶原平馬が、駆けつけ、訳を聞くなり涙。されど彼女は引かない。しまいに藩主も熙姫もやってきて収まった。・・(この話:現在頁下側に特集バナー有り:「お兄ちゃんの思い出」と書いてあるバナーです。)少々脱線しましたが・・・白無垢に返り血を浴びた女性の姿が、何十年たっても、八重さんの記憶に、焼きついて消えなかったのは事実です。義の為に家族を手掛けた姿が不憫に思えたのでしょう。私は心理学者のように、専門的な解説はできませんが、読み知る限り、こうした現象とは、無意識に自分の何かと重なる事象があるからだといいます。 白無垢が象徴する純たる思い、それが、真っ赤な鮮血に汚される宿命。されど、それは義の為に。返り血の原因を、彼女自身は、迷わず、彼女独自の観念で、「卑怯者を手掛けたからだ」と断言しきっている点が印象的だ。多分家族に『卑怯者』があったからなのでございましょう。おそらく、それを手に掛けて、そのまま、ここにお来しになられたからなのでしょう。白無垢に鮮血の乙女の姿が、記憶に焼きついた訳おぼろ月よ、この簪、誰に貰ろうた!!NEXT_▲_No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」◆No.1:(Ver.1)_棚のぼた餅誰が食った!◆No.2~No.3(Ver.2):No.2_■我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1) <No.3_:(その2)◆No.4~No.5(Ver.3):No.4(Ver.3)_白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿<(現在頁)No.5_:(その2)◆No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!
2012.01.18
泣かない女山本八重子前夫,戊辰中離縁の謎,幕末泣かない女の思い出枕_No.4,戊辰の最中、前夫は戦死ならずや離縁,幕末明治,白無垢に鮮血,幕末明治人物編,山本八重子 _TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<(関連)新島襄と山本八重子「私の貴女よ、グッドバイ!」泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.4山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシー◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!Ver.3_明治の世、八重が語ったあの頃。「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」【その1】初めから読む・・<この直前頁:No.3明治の世、新島八重夫人(この段階で新島襄は他界。未亡人)が語る話。「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」・・・それを語った彼女自身について少し、以下書きます。波乱万丈の人生、八重ながら、新島襄とは鴛鴦夫婦。二度目の結婚で、やっとみつけた、本当の幸せ。本当に愛し合った夫婦。一回目も、二回目も、結婚は実は、兄の覚馬の指令に従ったそれだけのこと。新島にしてみれば、理想の女性像についに巡りあったわけなのだが、八重にとっては兄の指令。恋は結婚してから本物に。兄とは17歳離れている。親子同然の年齢差。山本覚馬:1828年2月25日(文政11/1/11)~ 1892年12月28日(明治25/11/10) 新島八重:1845年12月1日(弘化2/11/3)~ 1932年6月14日(昭和7/06/14)今度こそ、けっして崩れ去ることのない永久の結婚を授かったはずだったのに・・・。しかし、明治23年、46歳の夫は、まだまだこれからの年齢。ところがこの年、彼は死亡。一人ぼっちの八重さん。夫婦に子は生まれなかった。後で養子はとるが、実はしっくりいかない。やっぱり、一人ぼっちの八重さん。夫のすすめでキリスト教に入信した八重は夫に習った。「神は、乗り越えられる範囲、最大限の苦しみを人に与える。」・・・のだそうだ。彼女にとって、いくら神様でも、有り難くない。それが、まさか、夫の天昇まで含まれた範囲だったとは夢にも知らなかった。しかし、その実、夫の発言は本当だった。八重は一人、強く生きてゆく。「乗り越えられる最大限の苦しみ」は夫の喪失だったとは。なるほど強く生きてゆけたのだから。明治の世は過酷ながら、ある意味で、今日よりお人良しか?とふと思う。今日の痛烈レポーターは居なかったらしく、掘っくり返して詰めて、聞き出ししてない点多い。八重に限らず、前夫有りの人物について、前の夫婦時代の情報とは、猛烈に欠如。バシャッ!とデリートキー押したごとく、みごと消え去って、まるで無い!状態人物多い。その上、もともとウダウダ言わない八重さん。なおさら全然、一回目の結婚時代の話解らない。なんせ一言、「離縁。」で終わり。されど、前述のとおり。八重は若かった。皆と同じ。自分の意思じゃなくて、家の者が授けた結婚を素直に受け入れて、素直に夫に従う。本当の幸せか否かなんて、よっぽど酷くない限り、誰も自分自身解らない。判断基準が解らない、比較対象がないから、それなりに人並に、皆が皆、良くてもイマイチでも、これが夫婦だと思ってる。それに、八重の場合も、特別不仲でなかったことは確かだ。会津戦争初期、砲述知識に富んだ八重は、砲述師範の夫をちゃんと手伝っている。やはり、この人、八重さんは、かつての夫は、きれいさっぱり洗浄している。それは、いわゆる忘却とはニュアンスが少々異なる。結論が出ている以上、言っても仕方ないから、涙ながらに堪え偲び、心残り・・といった典型的な女の悲哀と異なる。後の生き方を見るに及んでも、彼女自身の思想もおおいに影響していると感じる。 竹を割ったがごとくの気性。悲しいも、どうして?も言ってる場合じゃない。「理由が何であれ、それが誰であれ、裏切り者は要らぬ!ならぬはならぬ!転ぶは裏切り者同然!」ごちゃごちゃ言わず、いわば方程式なのだろう。心の誉れ、愛して止まぬ会津藩。八重は、会津という名の懐刀を抜いて、己自身の川崎という姓は、みごと斬り捨て御免!跡形残さず洗い流して、消し去った。資料をどんだけ掘っ繰り返しても、川崎八重子の文字列なんて見つからない!「義の為なれば、裏切り者は、やむをえぬ!」まずは、八重が目撃した「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」「裏切り者」の言語に、ふと感じた!◆No.1:(Ver.1)_棚のぼた餅誰が食った!◆No.2~No.3(Ver.2):No.2_■我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1) <No.3_:(その2)◆No.4~No.5(Ver.3):(現在頁)No.4(Ver.3)_白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、<No.5_:(その2)◆No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!TOP<★
2012.01.18
泣かない女_山本八重子,戊辰決断の時,前夫と弟の魂,戊辰の最中、前夫は戦死ならずや離縁,白無垢に鮮血!哀れ花嫁の姿,幕末明治人物編,幕末泣かない女思い出枕_No.3,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.3◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシー(Ver.2後半)_八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その2)前夫の「川崎尚之助」を紐解くそして山本八重子:二つ目の決断享受の時初めから読む・・<この直前頁:No.2夫の川崎尚之助(山本八重子の前夫)が早急に指揮者に選ばれ、駆けつけることになった。この時、川崎尚之助は内藤介右衛門(梶原平馬の兄)の隊に居た。八重子の兄、覚馬にスカウトされた砲術のスペシャリスト。抜群の頭脳マン。会津藩士ではない。出石出身だが、覚馬に呼ばれ、会津に来て皆に指導。そして八重子の夫になった男。川崎尚之助は豊岡宮にある会津の砲兵陣地から、抜群の指令。科学物理の頭。軍費の苦しい中、自分で発明して改良した砲弾やら、火薬やらで敵の小田山上にある砲隊を、ボロボロに責め落とした。砲術なら男に負けない八重子も、一説には、手伝ったという。ボロボロに責め落とした・・のはずだったのだが・・。ここに、なにやらハプニングが発生する。不自然なくらいにその情報は存在しない。プッ!と消えてる。会津戦に於ける川崎尚之助に係る史実情報は、以下2点のみ。・・記:「◆この後、川崎は行方不明。◆八重子と川崎は離縁」以上!!これ以上何も無い!そこで、全く別の角度、「敢死隊」から追ってみた。この隊は、小原信之助が戦死後、新規、川崎尚之助が新隊長としてやってきた。隊は8/25総崩れ。川崎が現れて間もなく壊滅。川崎は行方不明。そして、別件、明治の世から拾う。川崎は江戸に居る。世捨て人のような白けた自嘲狂歌を詠んで病に斃れ死亡。これは、何を意味するか。捕縛されたに他ならないが、恭順したのだろう。拘束期間はあっただろうが、命は救われている。捕われて、恭順の勧めを発したのではなかろうか。彼について、「行方不明」で統合されている。誰一人、彼の死亡説を語ってない。これにて、裏を返すなれば、なんらかの形で、存命は確実に会津がキャッチしている証拠だ。川崎は先進の理系頭。抜群頭脳。非科学的な理論には頷かない。ならぬはならぬが会津の教えとて、物理的に可か否か、明晰頭脳が邪魔する。それに、彼は出石の男。会津で暮らせど、体の奥まで会津魂は浸透してない。膨大な官軍兵の数。次から次と恭順に転ぶ近隣諸藩。頭のコンピュータがフル回転。計算式は高速で数値を確実に割り出す。敵の兵力、今後の展開は、鼠算同然!!そもそも、敢死隊が全員殺されて全滅なら解るが、崩れたこと自体不思議な話。こうなると、ますます、長の決断だろう。裏切り者として、会津は、つっぱねて、「離縁」の二文字は、ここに発する確立は否定できない。敵に転ぶは、理由がなんであれ、問答不要。転ぶは裏切り者!! 彼は、会津から洗浄された。 江戸時代から明治初期の離縁に係る法則はこの頁の「三行り半」と、「返り一札」項を、ご参照。戦乱の最中に、「三行り半」を早く出せ!と請求する暇はないだろうが、離縁の決断は、山本家、及び、妻張本人の八重子さえ明確だったのだろう。具体的には、この流れのやりとりで恭順拒否通知と同時に早急に済ませたのか、後の存命所在を得た途端に実行されたのか、それは不明ながら、きっぱり「離縁」と言い切る以上、処置は済ませたものと考えられる。「理由が何であれ、それが誰であれ、裏切り者は要らぬ!ならぬはならぬ!」己をしっかと立てて、それ以上、余計に神経を摩滅させない。今は闘うのみぞ!彼女が沈下している様子を語る文章は、ただのひとつも存在しない。史実は、男勝りの活躍の連発だ。誰にも見せない。誰にも語らない!!彼女らしい。彼女は、城内に転落した敵の不発弾を拾い上げて、藩主のまん前、持ち込んだ。「んっ!爆弾!」藩主の狼狽なんぞ、完全に無視。そのまま、手際よくバラして、構造を説明して言い聞かせた。容保は思わず、だじろいだ。後にも先にも、爆弾抱えて藩主の面前、現れた人物は彼女一人だった。爆弾女の底力。・・・いかにも八重子さんらしい要素と合致するのだが・・・。いずれにせよ、これが、八重子さんの第一の夫、川崎尚之助だった。尚之助の元の名は、正之助。しかし会津藩祖は、保科正之。保科に気遣い、「正」の字をひっこめて、新たに尚之助と改名したのだった。会津に骨を埋める覚悟だった彼は、こうして、綺麗さっぱり、洗い流されてしまった。さて、次なるは、・・・明治の世、八重が語った「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」かつて白無垢に身を包んだ女が、夫をきっぱり洗い流した。それは、遠い過去。記憶の彼方。抹消寸前のレガシーパーツ。忘れたはずが、ほんの一瞬、浮上してはいまいか?・・・ふと、感じた。血塗られた己の宿命。虫の知らせ。不気味な暗示。口では何と言おうと、乙女心。ましてや、あの頃、今と違う。うら若い娘時代。その娘が人並みに花嫁として嫁いでいた。悪夢の暗示を見たのは、嫁いで、ほんの数年後の事。その花嫁は、自ら、会津という名の懐刀を抜いて、屈辱を洗い流す宿命が、訪れようとしていたのだ。過去の自分が、あたかも他人に見える。目を背けていた自分に初めて今頃気がつく。八重が目撃した「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」◆No.1:(Ver.1)_棚のぼた餅誰が食った!◆No.2~No.3(Ver.2):No.2_■我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1) <:(現在頁)No.3_:(その2)◆No.4~No.5(Ver.3)No.4(Ver.3)_白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、<No.5_:(その2)◆No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!関連:エピソードはこちらのSERIESにも幕末~明治(戊辰話も登場)▼ 読み物&資料編集と、おすすめ本編など色々▼★
2012.01.17
幕末泣かない女思い出枕_No.2,二つの決断_山本八重子,前夫と弟の魂,戊辰の最中、前夫は戦死ならずや離縁,幕末明治談話から,白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿,幕末明治人物編,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.2◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシー(Ver.2)_八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1)「鮮血の白無垢」への導入線=前夫の「川崎尚之助」を紐解く初めから読む・・明治の世、世間で何言われようと、この夫婦は鴛鴦夫婦。新島襄と八重。しかし、八重にとって、新島襄は再婚相手。戊辰の最中、前夫は戦死ならずや離縁。昨日まで夫だったはずの人、それが、なぜか離縁!「離縁」その一言以外何も発しない女、八重さん。八重さんが明治の世、語った第三者の姿。うっかり読むと、会津の悲壮を語るひとつの談話。ところが、気のせいか、ふと、垣間見た!!「鮮血の白無垢」の話の前に、その土壌。立場の話。姉であり、別人の妻であったあの頃。八重子:二つの「決断の時」我が弟よ!山本八重子:一つ目の決断慶応4年8月23日、会津運命の日。城下についに官軍がなだれ込んだ。早鐘が打ち鳴らされ、篭城の合図。人々の群れ。近郊の郷を目指し逃れる人もあれば、城へ向う人々の列も。そして、観念して、一族郎党、一家総自刃の家も。その数たるや驚異的だ。(関連)この日、山本八重子は、既に男装している。完全に、討ち死覚悟だった。砲術は男に負けない。重いスペンサー銃を担ぎ、戦闘決意に燃えていた。彼女の意識の上、既に一つ目の決断は下されていた。「己は女子(おなご)ごときではない。己は三郎なのじゃ!!」可愛い弟、三郎は、鳥羽伏見のおかげで既に天の人。三郎は、町田伝八郎の隊にて猛奮闘。1月5日淀の激戦で、負傷して倒れた。江戸に運ばれるも、その傷は癒えず、芝新銭座の中屋敷で息を引き取った。弟の遺髪と形見の衣服が会津に届いた時、八重子は、死ぬ程悔しかった。己より、後に生まれた弟が順を守らず先に死んだ。悔しくて、悔しくてたとえようもなかった。死んでしまうと不思議なものだ。思い出しても仕方ないのに、可愛いかった幼い頃の姿が、瞼に浮かぶ。可愛い弟。耳裏にあの頃の声さえ蘇る。遺品は弟だけ。しかし、噂は早くも流れ、京都で兄の覚馬も死んだと聞いた。青い炎がめらめらと燃えた。兄は会津の要人だ。四条河原で処刑されたと耳に入った。実際は、覚馬は存命。現在頁下側バナー特集内登場。しかし、この段階処刑されたと伝わっていた。「許せぬ!おのれ!ぬけぬけと官軍とぬかしよるか!今に見ておれ!いざ!仇討ちじゃ!妾(わらわ)が討ち取ってくれるわ!三郎よ、天からこの姉を見ておれ!お前も悔しかろう。お前の兄がなんと罪人扱いぞ!許せぬ!何が処刑じゃ!この屈辱!我らの兄上は偉大なお方じゃのう、のう、三郎!!お前の悔しさを、この姉が必ず晴らしてくれるわ!見ておれよ!!」八重子は、弟の大切な形見、その羽織袴を、震える手で、なんと!鷲掴みにしていた。「三郎よ、今すぐ、妾(わらわ)に、そなたの魂をおくっておくれ。そなたの男魂を己が引き継いで、仇にぶちかましてくれるわ!今から、妾は、男、三郎じゃ!!」八重子は、形見として送られてきた弟の衣服をそのまま着込んで挑んだ。(三郎について関連)やがて、苦戦情報が入った。屈強の部隊、敢死隊の隊長、小原信之助が戦死した!!この隊は不屈。大活躍の隊だ。冬坂方面へ進軍後、赤井、笹山での猛激戦で大多数の死者を出しても折れない。たとえ、散って果てても、折れない。皆殺しも同然の各小隊。それでも稀少な生き残りは、仲間の屍を踏み越えて、地を這い、互いに互いを手繰りあって、地の底から、血みどろで這い上がる。最後の一人になろうと、おそらく折れまい。現に、白虎隊のうち、この原田隊は、自刃を決意した途端、どこからともなく獣のように現れた彼らの生き残りに救われた。「死ぬならいつでも死ねる。早まるな!」・・・だが、隊長自ら斃れたでは流石に崩れる。夫の川崎尚之助(山本八重子の前夫)が早急に指揮者に選ばれ、駆けつけることになった。そして山本八重子:二つ目の決断享受の時◆No.1:(Ver.1)_棚のぼた餅誰が食った!◆(現在頁)No.2~No.3(Ver.2):No.2_■我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1) <:No.3_:(その2)◆No.4~No.5(Ver.3)No.4(Ver.3)_白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、<No.5_:(その2)◆No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!関連:エピソードはこちらのSERIESにも幕末~明治(戊辰話も登場)▼TOP<★
2012.01.17
山本八重子談話_幕末泣かない女の思い出枕_No.1,幕末明治談話から,棚のぼた餅誰が食った!,白無垢に鮮血!哀れ花嫁の姿,我が弟よ,幕末明治人物編,山本八重子、第三者の姿に、語らずして、密かに己を映し出している瞬間TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.1◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシー関連:エピソードはこちらのSERIESにも幕末~明治(戊辰話も登場)▼会津の悲惨を経験した山本八重子ながら、明治の世、無事生きて新島八重。男気性の彼女、なにかと事件やら、ご本人にはあんまり嬉しくないあだ名も。親族全員が許しているのに、彼女一人だけ不義を許せず、いつまで怒って事を拗らせたり。ただ、彼女は真っ直ぐなのだ。少しも歪んでいない。幸い長生きした為、談話は各種残すが、やはりウダウダ言わない。どことなく男っぽい。その為、ずっと見落としていたが、ふと気がついた。第三者の姿に、語らずして、密かに己を映し出している瞬間が見えた。今回のこの記事は、完全にショート編。履歴や、戊辰経緯資料表などは略。mini談話にすぎませんが、明治の世、おっそろしいおばはん「鵺(ぬえ)」こと、八重ながら、新島夫婦は極めて円満。夫新島襄は結構、奥さんに甘えているし、八重さんの悪口ばっかり言ってる学生達ながら、子が生まれなかったこの夫婦、八重さんは、母性本能で、夫も学生も、とっても可愛がっていた様子が解る。まずは、ほんわかだけど、実にしゃーない話。No.1_実にしゃーない話、「ぼた餅だか、和菓子だか、棚のお菓子事件」八重さん、思い出枕或る日、八重は学生に食べさせてあげようと、ぼた餅だか、和菓子だか、なんだか知らないけど、とにかくお菓子を作っておいた。ところが考えた。夫の襄は、甘いものに目が無い。「危ない!あやつに全部、やられてしまえばアウトだ!!」棚につっこんで、鍵までしっかり取り付けて施錠。やれやれと外出した。ところがやられた!鍵はぶち壊されて、お菓子は全部、襄の餌食!!・・・なんだが、大型犬の仔犬じゃあるまいし、襄も、なかなかやってくれるわ。いい年して、悪たれ坊主!・・・おかげで学生に与える餌は消滅。・・(以上。超しゃーない話)・・・これは、亡き夫の懐古。思い出して微笑んでる彼女の姿。愛する夫の思い出枕。泣かない八重さん。笑い飛ばしてみせる。困った人だったわよ。いい年してサ・・・。ハハハッ!絶対泣かない八重さんだった。もの凄く愛していたくせに!いっつも、こんなに楽しい話だけだったらいいけれど、やはり戊辰を闘った乙女。彼女は髪を断ち切り、男装して、男の群れの中、砲も撃てば、スペンサー銃抱えて、戦場を戦っている。しかも、会津戦争の最中、昨日まで夫だったはずの人、その人物となぜか離縁!・・・ここからが、今回のテーマ。新島襄は再婚相手。戊辰の最中、前夫は戦死ならずや離縁。「離縁」その一言以外何も発しない女、八重さん。ふと、垣間見た!!この談話・・・ <。◆(現在頁)No.1:(Ver.1)_棚のぼた餅誰が食った!◆No.2~No.3(Ver.2):No.2_■我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1) <:No.3_:(その2)◆No.4~No.5(Ver.3)No.4(Ver.3)_白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、<No.5_:(その2)◆No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!TOP<<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.16
梶原平馬と後妻水野貞,明治初期離縁法,「三行り半」と、「返り一札」,明治籍と慣習と法,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.7,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.7,梶原平馬の二人目の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.7梶原平馬SERIES:No.1<・・<No.6<No.7(現在頁)<No.8・・・<考察おまとめ表明治梶原平馬と後妻:水野貞:夫婦の「北海道軌跡と考察」考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)上記おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。ソースその3_「「三行り半」と、「返り一札」戸籍と慣習と法:明治初期の離縁について」の続き慣習続行の明治初期:離婚の話の続き続:「三行り半」と、「返り一札」初めから読む・・<この直前頁:No.6以上をふまえて、平馬は、けじめとして「三行り半」を発行したものの、「返り一札」を得られず、子が空中に浮いては困るから、妾として入籍したのではないか?また、ずっと後、平馬が死亡した後、早速、貞の子は、姓を水野から梶原に変更されている。これは、凄まじいものを感じる。この子達は、梶原のものです!気迫が伝わる。詳しくは、こちらの「考察おまとめ表」内にありますが、抜書きしてみます。◆明治22(1889)年3月23日:平馬死亡。享年47歳◆明治23(1890)年9月9日:・「水野シツエは梶原景清の妹につき引き上」とある。・「梶原景清弟を水野シツエ実弟に突き引き上」とある。=文雄のこと上記、子の改姓における理由書きにご注目。気迫。これは正妻のパワーと感じるのは気のせいか?まず、シツエは、たとえ妾腹といえど、我が家の子なのに!、一子「景清」の妹だ!と主張。その上、文雄については、「景清の妹」の弟なれば、これまた、もれなく、この子も我が家の子だ!夫の一周忌が済んだら、早速行動。筆記者の名は勿論不明だが、この権限がある者とは、正妻しか考えられない。「引き上」の言語は、水野側でなく、あきらかに梶原の姓を継承させている「景清」の親族側。明治の法律詳しい方、ご興味ありましたら、是非、もっと詳しく掘ってみてください。私は素人の領域をはみ出さずに書いてゆきます。現代人の意識で、山川二葉は、山川と思う故、梶原ときっぱり別れたと思いき、夫婦別姓もあれば、名乗りが複数存在の明治のことなれば、実は、二葉は、離婚していなかったと私は思います。(これについては、まだまだ後述の各ソースで煮詰めますが・・)夫の死に際に会えなかった妻の怒りか、直系卑属の保護目的か存じませんが、気迫であります。というわけで、私の駄説「返らなかった『返り一札』」説・・・です。二葉さんは、お仕事の都合上、問題の多い夫は、表向き、お荷物ながら、やはり愛し続け、夫であり続けていたのではなかろうか。彼女は気丈なタイプですが、哀れ、長女の宿命。父は戊辰以前に亡くなっていますから、母、山川唐衣(=本名は艶)の娘。しかも長女、模範の長女でなくてはならぬ立場。妻として、女としてのみならず、歯を食い縛ってでも、「お家の為の姿勢」を崩せないのが、この時代、長女なる者の悲劇のひとつともいえます。長男の浩は居ますし、彼は偉人として名を残しますが、弟です。姉は相当頑張らねば・・・。山川唐衣と模範の長女については、後述「お家の体温差」項で追記します。鬼の本妻ならずや、彼女にも泣けます。梶原平馬の「三行り半」に、「返り一札」を返さず、粘り、戸籍上は梶原の妻の座を、けっして譲らなかったのではないでしょうか。このことは、「考察おまとめ表」内の「戸籍の不思議」と、法改正、及び死者発生タイミングと、各事象を見比べると、レイアウトが見えてきます。史実の展開は、函館時代の次、すぐ根室に平馬家族は引越ししますが、根室の話の前に、明治6年、平馬免職事件と、「お家の体温差」の話へ運びます。その為、NEXT頁は、戊辰の話登場。梶原平馬SERIES:No.1<・・<No.6<No.7(現在頁)<No.8・・・<考察おまとめ表真上バナーから色々選べます。文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材については頁下表示TOP<★
2012.01.15
梶原平馬と後妻水野貞,明治初期離縁法,「三行り半」と、「返り一札」,明治籍と慣習と法,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.6,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.6,梶原平馬の二人目の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.6梶原平馬SERIES:No.1<・・<No.5<No.6(現在頁)<No.7明治梶原平馬と後妻:水野貞:夫婦の「北海道軌跡と考察」考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)上記おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。ソースその3_「「三行り半」と、「返り一札」戸籍と慣習と法:明治初期の離縁について」梶原平馬と、離婚履歴がなぜ判然としないか?考察初めから読む・・<この直前頁:No.5前述のとおり、梶原平馬は第二の家庭を持っているが、経緯から巷で駆け落ちと言われても、確かに全面否定はできない。二葉(前妻)と、正式な離縁手続きは今日でも不明。平馬がアクション立てても、二葉に拒否された為なのか、それとも江戸時代からこの頃今だ引き摺る慣習、本妻+妾は法的に成り立つ故、ほとんど気にしていなかったのか、そのへんは平馬に聞かねば解らない。ただ、ド貧困の極地、斗南送りを経験した会津藩士達が、東京に出た途端に、ふんぞり返って堂々妾の一人や二人・・と言ってる場合ではないのは事実。多分、愛してしまったのだろう。その上、平馬は、ふんぞり返れない状態だ。(後述頁:明治6年、平馬免職事件:SERIES_No.10)教育者の道を進もうとする妻にとって、古い考え方としては、ほったらかしになる亭主の為に、妾を用意することは想定できないこともないが、そういう場合は、親族やら、己の息のかかったお手頃タイプ。貞は教師の上、家柄の結びつきは全然無い!妻が用意した妾であるわけはない。やはり、愛してしまったのだろう。推測の領域ながら、ひとつの仮説として、私の駄説「返らなかった『返り一札』」説にて、以下書き進めます。べつに専門家のように提唱する!ってわけではないですが、まあ片目瞑って、以下流れにおつきあい下さい。慣習続行の明治初期:離婚の話「三行り半」と、「返り一札」江戸時代、男尊女卑は当たり前。離縁については、夫が一方的に>「三行り半」を出せば、妻は泣く泣く郷へ帰らねばならなかった。いわば返品宣言。異議申し立てはない。 「三行り半」とは、「みくだりはん」と読む。別名、去状(さりじょう)、暇状(いとまじょう)。酷い話だ。その一方では、夫は勝手に妾としてならば、いくらでもOK。・・・▲・・・と感じるが、多分それはマチガイ!!これはむしろ、女性を守る!良識有る男の為す仕事! 「三行り半」と、「返り一札」とは、昔なりの「重婚防止対策」の要素のほうが強い。 「三行り半」と呼ばれるのは、形式的に三行半で書き上げるが通常とされていたから。姦通罪という言葉があったとおり、夫ある妻が他の男と関係した場合の裁きは厳しい。残酷。理由がなんであれ、夫が放蕩三昧、生活費を入れないだろうがなんだろうが、裁きゼロはない。度合いが半端でなければ、事前対処方法がないわけではなかったらしいが、一般庶民の力&頭脳&人脈では、そんなもの、絵に描いた餅。軽くても、髪を剃られて追放。前科者。女性側だけでない。相手の男性も罰せられる。そこで、「三行り半」は、再婚許可証の役目も見逃せない。夫は夫で、妻からの承諾書として、「返り一札」を受けるがベストの離縁。後腐れ無し。主義や思想、武士の戦などで、若い妻が不憫に思えて、あえて「三行り半」を手渡した男は多い。戊辰の際、夫が幕軍側の時、妻の家側が官軍側の家柄なれば、哀れに思って、これを発行して、戦いに挑んだ者も居る。大昔じゃなくて、戊辰だから、明治突入時のこと。「いっそ、俺と別れて、再び嫁いで暮らしておくれ。俺は多分生きて帰れないだろう。お家の為なれば、子を産んで一人で育ててくれと言いたいところだが、それはお前に酷だから。残念ながら雲行きは良くない。万が一の場合、俺の親族は皆自刃するだろう。お前を守れる者が、いなくなる。されば、お前は家に帰っておくれ。」・・・というわけで、思わず泣ける美しい「三行り半」+「返り一札」もちゃんと実在している。むしろ、別れてくれりゃいいようなろくでなし男に限って、この証拠物件をくれない例は多々。待てど暮らせど帰らぬ、金も運んでこないゴロツキの妻が、同情してくれた優しい男と恋に陥り、悲劇・・・。その確立のほうが相当高いと思われる。とはいえ、世の中、美談ばかりじゃないわけで、当然、男の身勝手「三行り半」も山盛りながら、腹黒くても、清くても、いずれにせよ、これを発行した男とは、学識怪しい男ではない。ちゃんとピリオドを打っている。以上をふまえて、平馬は、けじめとして「三行り半」を梶原平馬SERIES:No.1<・・<No.5<No.6(現在頁)<NEXT_No.7・・・<考察おまとめ表文章解説(c)by rankten_@piyo、写真等、素材については頁下表示_TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ! <■ペットが主流、■飼い主さん主流<■幕末玄関
2012.01.15
犬服雪の日平気!可愛ジャンバー,犬の洋服,ミッキー,ミニー,スヌーピ他可愛キャラ,【楽天市場】,ペット,SALE情報,暖ったか可愛スヌーピ&ミッキー1月号(No.4)暖ったか可愛スヌーピ&ミッキー1月号(No.4)犬達の「雪に負けない!冬可愛ジャンバー」(No.4) _(下左)こちらのお洋服、体型の悩み解決タイプ!手足短いとか関係ないし・・・▼_ __ __No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.15
犬服雪の日平気!可愛ジャンバー,犬の洋服,ミッキー,ミニー,スヌーピ他可愛キャラ,【楽天市場】,ペット,SALE情報,暖ったか可愛スヌーピ&ミッキー1月号(No.3)暖ったか可愛スヌーピ&ミッキー1月号(No.3) _犬達の「雪に負けない!冬可愛ジャンバー」(No.3)犬だって、あんまりスゴ雪じゃ、たまらんワン!もう降るな!!わわんのワン!__ _ _ __大型サイズは上の任意画像からENTERの後、左カテゴリで大型犬直行が手っ取り早いわんだれか、雪に天誅見舞ってくれ!!わわんのワン!(実は・・・飼い主の声)No.1<No.2大型犬サイズはここ<No.3(現在頁)<No.4
2012.01.15
函館時代梶原平馬と後妻水野貞,明治籍と慣習と法,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.5,根室到着前の軌跡,梶原平馬の二人目の妻と倅,籍と慣習と法,お家の体温差,戊辰が背負うもの,なぜ水野貞は、そこまで女子教育に命をかけたか会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.5,梶原平馬の二人目の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.5梶原平馬SERIES:No.1<・・<No.4<No.5(現在頁)・・・根室到着前の軌跡_その3明治函館時代の梶原平馬の後妻:水野貞,明治14年(1881)函館の「女紅場」女教師考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)上記おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。ソースその2_婚姻と戸籍、明治初期の端境期:慣習と法の狭間不屈の「水野貞」初めから読む・・<この直前頁:No.4【女教師、明治14年(1881)函館時代の梶原平馬の後妻:水野貞】の続き▼ 上記の「根室の教育者、水野貞を讃える文面」は語る。「明治8年から、東京桜川女学校の二等授業生として教鞭を・・・。 明治11年良縁有。青森県士族梶原景雄氏に配し・・・」とある。 この文章には、思わず泣けてしまった。水野貞は偉大なのだ。賛美している。しかし、学識豊かな人物(その著者)が、婉曲表現を上手に使っているのが解る。用心深く読むと、気付く。泣ける。なんで、函館の「女紅場」だの、最果ての根室だの・・・?東京の桜川、女性教師のエリート街道まっしぐらだったはずの女性が、なぜゆえ脇道を歩む?恐らく当時の人なら、一度は小首を傾げるはずだ。昔から、北海道といえば、「IS AZ 僻地」&人によっては左遷イメージの果ても。また、教職は教職でも、「女紅場」教官とは、生徒は直前まで娼妓。となれば、プライド高い家系の子女なれば一蹴するも不自然でない。身分差別が暮らしの中、当然のように存在していた時代のこと、相手が平民、お百姓の子どころか娼妓では、露骨に眉を顰める者もおそらく居たことだろう。その為、文章が繋ぐ意味合いを現代風に要約するなれば、こんな感じ。「良縁あって、しかも相手は素晴らしいご身分。青森県士族。」偽ることなく、漂わせて、自動的に読者が思いこむ要素を醸し出している。夫たるや、身分でドカン!一発インパクトで終わらせている点にもご注目。職業、職場、役職、全部無い。この文章を見れば、誰しも自動的に、自分なりに思い込む点が2点ほどある。そうか、結婚したからなんだろう。そうか、夫の就労先の都合で、北海道に来たんだろうな。妻だから夫に従い来て、函館も、根室も、妻だからなのだろう。・・・ついでに、人によってはもう少し思い込み要素は増える。ご主人はきっと、お役人さんか、なんらかの学識を生かした立派な職業だろうな。・・本人の説明文だから、横道反れるから略して書いてないのかもしれない・・・。漠然と・・・。確かに、水野貞は、明らかに道を、惜しくも踏み外していた!この時、彼女は、三歳児の母だった。それは元、会津家老、梶原平馬(景雄)との間に生まれた娘。しかし、娘の名は、水野シツエという。貞の姓も水野。函館の書面軌跡は、こうして明治14年に発生する。しかし、シツエは11年函館生まれ。明治11年1月28日(1878)、書面の上、水野貞は、「慢性肺炎症」の為という退職理由で、桜川女子校(東京)を依願退職しているのが解る。 そして、同年5月2日、水野シツエ誕生 。退職時、明らかに妊娠している。前妻より5歳若い。その点でいえば、優秀教師、水野貞にとって、悲しいことに梶原平馬は疫病神。余計な労苦を背負わされている。愛が労苦を背負わした。それでいて心を支えるは愛なのだ。しかし、この時期、一夫一婦制は存在していない。(後述:一夫一婦制は明治31年からの話!)裏を返せば、皮肉にも法に守護されてもいる。女子の身を糾し指導すべき女教師が、なんたることぞ!不貞行為か?には絶対ならない。妾は妾として堂々戸籍に入る。違法ではない。だからといって、堂々と大きな顔して、大きなお腹で、元の職場に粘れるわけはない。そのかわり、新規就職の際の戸籍に係る書面に矛盾曖昧は生じない。実力が立証されてる以上、この場合、北の地、函館、「女紅場」なれば成立したのだろう。いかに実力とて、当時の東京、お嬢さん学校系なら、教師側とて、いわゆる内申点で、多分滑るだろう。一方、前妻の山川双葉は山川と名乗るもの、離婚届けの提出は今日でも不明。明治初期、夫婦別姓名乗りの例は他にも存在、名乗りが複数存在するも皆の例。名乗りが山川だから、きっぱり離婚したものと思い込んでしまうのが、現世の盲点。現実に、偉大な教育者双葉を語る文章も、そう感じさせる。山川と名乗り、女が一人、一子を育てながら、教育にひたすら邁進する姿が賛美されている。後述しますが、前後の平馬の行動もあって、双葉が平馬に離婚を突きつけて、平馬は捨てられたと思っても不思議はない状態でもある。尚のこと、そう感じてしまうが、現実はどうやら結構複雑だ。これは、明治の法と慣習の狭間、闇の要素の犠牲者に他ならない。実質、水野貞は妾ではないのだ。愛する夫はここに居る。死ぬまで一緒に暮らした。そして、もうひとつ悲しい。前妻山川双葉もまた、永久に夫を愛していたのが解る。(後述)こうしてみると、梶原平馬よ、しっかりケジメをつけんかい!と言いたくなるところだが、戸籍の不思議は、平馬が築いたふたつの家庭に延々長年続く。本人の死後に及んでも、まだまだ続く。順次ソースを煮詰めます。■戸籍と慣習と法、■お家の体温差、■戊辰が背負うもの、■なぜ水野貞は、そこまで女子教育に命をかけたか梶原平馬SERIES:No.1<No.2<No.3<No.4<No.5(現在頁)<No.6・・・<考察おまとめ表このバナーから、明治11年頃の函館の街、孤児院他、各種福祉施設、教育のレイアウトも見えます。明治16年には、会津の桜井ちか達が、働く母支援の保育園も開始▼TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ! <■ペットが主流、■飼い主さん主流<■幕末玄関
2012.01.11
明治函館時代梶原平馬と後妻水野貞,梶原平馬のもう一人の妻と倅,明治14年(1881)函館の「女紅場」女教師,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.4,根室到着前の軌跡,婚姻と戸籍、明治初期の端境期:慣習と法の狭間会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.4,幕末明治,根室の梶原平馬のもう一人の妻と倅TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.4梶原平馬SERIES:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5・・・根室到着前の軌跡_その2 明治函館時代の梶原平馬の後妻:水野貞,明治14年(1881)函館の「女紅場」女教師考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)上記おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。ソースその2_婚姻と戸籍、明治初期の端境期:慣習と法の狭間初めから読む・・<この直前頁:No.3前頁から現在頁への送り出し文句には、「平馬が惚れて、平馬に惚れた「或る堅物女教師」」と、書きましたが、中身は三面記事風ではありません。当時、流布された噂は、平馬は京都の娼妓だかなんだかに惚れて、駆け落ち・・・+尾ひれ山盛り。実際そうなら、平たくは、おもろいかもしれないが、現実は重い。堅物とて、愛は愛。恋は恋。ただし、そのあたりは割愛。前妻も後妻も、堅物女教師。ぐっと堪えて、史実にスキャンダル発生は完全に食い止めている。おかげで、現代資料が掘れなくて困るのだが・・・。ところが事象を繋ぎ合わせ、一覧で考察してみるなれば、以外なレイアウトが見えてきました。三面記事どころか、■戸籍と慣習と法、■お家の体温差、■戊辰が背負うもの・・・と、実に重いテーマを展開してくれたものだ。女教師、明治14年(1881)函館時代の梶原平馬の後妻:水野貞 水野貞、函館に於ける軌跡明治14年、函館には臨時設立、「女紅場」という教育機関が設けられた。名前にご注目。教育機関にしては、妙に艶っぽくはないか?実のところ、これはまさしく、元娼妓達の臨時訓練校。就職支援とでもいうべきか。・・(追記注:補足=全国の全ての女紅場が上記娼妓関係ではありません。この時の函館環境時の話)法の改正で、娼妓が解放された。(これは、一応・・・としか言えない。結果としては笑う程不十分ながら)社会復帰の為に、必要最小限の教育を行う目的の施設だった。科目は、洗濯、裁縫、紡績、あと、ほんの少し学問2科目。学問については、どの程度で、どれだけ力を入れたかはわからない。いわゆる古い言葉で、読み書き計算レベルではないかと思われるが詳細不明。ここに、勿体無い位優秀な女教師が、書面上に登場している。「さあ、皆さん、学問が一番大切なんですよ!学は必ず身を立ててくれます。・・・これは、本当ですよ。さあ、この機会にしっかと覚えるのですよ!」ひっつめ髪に、シャキッと背筋を伸ばし、女教師の声が響く。明治14年(1881)函館のことだった。この女教師の名はというと、水野貞という。この女性教師、履歴を見るなれば、誰もが腰抜かす。実に勿体無い。なんで、これほどの人材が、遥か北の地、函館、しかも「女紅場」。この時代、士族の子女なれば、教育者として恥ずかしくない立派な学を有した者は多く居る。しかし、この女性教師はそれどころでない。実績で語るなれば最上級。確固たる新時代の教育指導者としての経験を有する貴重な存在なのだった。学制発布は明治5年。この女性教師は、なんと明治8(1875)年から、東京桜川女学校にて、教鞭を執り、同11年までの約3年間 堂々教育実績者。これは、只者ではない。この時代、各施設の名称は資料により数種類。また度々の法改正で、何れの教育機関も改称などの変遷を遂げてゆく。その為、東京桜川女学校というより、正確には桜川小学校に於ける女子教育を担った教師のほうが解りやすいかもしれないが、いずれにせよ、場所は東京府芝区(現在の東京都港区)。「東京桜川女学校にて、教鞭・・・」の描写は、もう少し後、根室の教育者として水野貞が揺ぎ無い地位を得たことにより、彼女の功績を讃える当時の文面による。因みに、この人物は本件に関係ないが、参考までに。矢嶋楫子(本名:勝子:1833~1925)は、明治6年(1873 )同校就任にて、明治初期に於ける女子教育の先駆者として知られる。二人の友好関係を明確にする資料は存じませんが、軌跡から追うと、水野貞は、東京時代、矢嶋楫子と同僚の教員であったことになる。同僚といっても年齢は水野貞(【嘉永2年(1849)】~【昭和2年2月20日(1927)】:が16歳若いから恐らく上司であったはず。掘ってみる価値はあると思います。ますます凄い実績者。しかし、なぜゆえ、それほどの人材が、こんな北の地に居るのか?不屈の「水野貞」梶原平馬SERIES:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5・・・<考察おまとめ表TOP<★
2012.01.11
梶原平馬のもう一人の妻と倅,明治根室の教育者母子,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.3,函館時代の梶原平馬一と女教師、水野貞TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.3梶原平馬SERIES:No.1<No.2<No.3(現在頁)・・・考察おまとめ表:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)上記おまとめ表頁内の「調べてみた結果と考察」に関する部分のソースを、順次解くならずや、溶きながら書いてゆきます。ソースその1_学制発布と、ある女性の大葛藤_平馬のもう一人の女房初めから読む明治8年をもって蒸発したはずの男が、昭和も終わり、なんと63年、突如湧いて出た。会津の男が、なんと根室の突端、黙って眠っていた。こんな最果て、墓が見つかった。男の名は、会津家老、梶原平馬。戊辰の嵐、最後の最後まで徹底抗戦を唱えた。落城の時、血涙奮え、藩の為、藩主の為、憎き官軍の前、平伏して屈辱を背負い込んだ家老。(関連はこの頁下側バナー軍団「すまぬ。許せ。藩の為じゃ。藩主様の為じゃ。被って貴殿が死んでくれ!」・・・なんと、この悪魔のごとき「死の命」を萱野権兵衛に運び伝えたは、哀れこの男の役割だった。無論、言語の衣。こんな馬鹿げた台詞なわけはないが、言わんとするは、即ちそれ以外の何ものでもない。被って冥土は萱野ながら、被ったままに生き地獄は梶原だった。枯れたか、腐れたか、三途の川さえ渡れまい。地に落ちた男の行く末など、かまってられるか!明治の世、彼の存在は、溶けて流れ出す間もない。固体のままに、一気に昇華、気体に化けた。液体を介せず、忽ち、吹いて飛んで砂塵の彼方。明治14年(1881)函館の「女紅場」 紅(くれない)の明治華乙女哀歌いきなり、このとんちんかんな話も、実は「梶原平馬」の延長線。暫しご辛抱!都々逸モードでいってみます!まずは追いつけ! ついでに追い越せ!西洋なんか 引っこ抜け!・・・苦しまみれに、一応繋いだ・・・七・七・七・五都々逸、わやくちゃ!やってできないことはない。ここは日の本、天下の日本じゃ!世界に羽ばたけ!近代化じゃ!・・なにやら、明治は気忙しい。明治14年、この地に於いても、娼妓達が、解放された!哀れ、売られた娘達は永久の虜。実際、こんな事件もあった。ある置屋が火事に巻きこまれた。店主は必死。前貸し金ががっつり残った貴重な商品の山。まさかここで逃がせば損するどころの騒ぎでない。なんと、彼女達は、床下の室(むろ)に閉じ込められて・・・。ここから先は言うまでもない。全員焼死。永久の虜から逃れたくても術はない。わけのわからぬ金持ちおやじに転んだところで、所詮出口などない。転んだら、転んだで、ますます出口は塞がる。晴れて水揚げ?およびでない。それは単なる経営者とおっさんの駆け引き。その彼女達が一気に解き放たれた!もはや自由の身・・・ならいいが。そして言われた。「人権じゃ!平等じゃ!働け!働け!国の為!」娘達は小首をかしげた。「・・・って何?!」実は、この時代を知っている昔の人に言わせるなれば、とんだ苦笑い。明治5年に、遊女解放令やら、14年の娼妓規則改定やら、なんだかんだあるが、片腹痛かったという。襤褸を纏った見るからに田舎もん丸解りの母親達が行列して娘を迎えに、長蛇の列だったそうだ。「ありがてえ、有り難てえ、仏様、神様!南無阿弥陀仏!有り難てえ!」抱き合って、涙、涙の親子の再会。されど、それも虚しい。逃がしてもらったはいいが、結局、生家は金がない。にっちもさっちもいかない。出戻りラッシュ。検挙されて余計な罰を背負って、それでもおんなじ。出たり入ったり。ますます、地下に潜って悪質化経営の生贄。これは背伸び明治の典型。表面的解放や進展、美化、それはいいが、受け皿が伴わない。後述しますが、明治5年(1872)の「学制」発布。女子教育もおんなじ。誰しも学を!と言うわりには、貧しかったら、およびでない!なんのこっちゃ?それより、こっちは今日の飯さえ食えんぞ!明治24年の手直しまで女子は結局伸びに伸びても、僅か4人に一人程度。【明治女子教育】 :1872(明治5)年「学制」発布。女子就学率上昇は、同24年の手直しで初にやっと一般にも開花。24~37年の段階で、30~約100%直前迄急成長。当初誰しも学ぶべし!と義務教育もどきを発布しても、無料でないし、国が学校建ててくれたわけでなかった。結局豊かな家系以外無縁。また、初期の私学塾の内、男女同一科目方針の学校が不振。女子専用科目構想のほうが、受け入れ安かった時代背景。男女別就学がここに定着。さて、そんな時代の中で、妙に燃えてる一人の女教師がいたとさ・・。舞台はなんと北の地、函館。next_平馬が惚れて、平馬に惚れた「或る堅物女教師」▼梶原平馬SERIES:No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4・・・<考察おまとめ表
2012.01.10
梶原平馬のもう一人の妻と倅,明治根室の教育者母子,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.2,根室の梶原平馬一家,根室の教育者、水野貞,水野文雄,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.2水野貞と、倅、水野文雄の『像と輪郭』水野貞(【嘉永2年(1849)】~【昭和2年2月20日(1927)】:享年79歳:死亡時根室)江戸生まれ。水野謙吉の三女。水野家は能楽を教える家。明治32年:初に梶原姓を名乗る。夫の死(明治23年)から約10年近い後明治初期から東京で教鞭を執る。函館、根室と再び教育者。天涯教育者。水野文雄(【明治18/06/06(1885)】~【明治41/01/29(1908)】:享年22歳。根室生まれ、根室の教師。梶原平馬 (天保13年?月?日(1842)~ 明治22年3月23日(1889))会津藩家老。享年47歳。もう少し詳しい梶原平馬一家に係る履歴&考察おまとめ表水野貞は、明治時代、根室の偉大な教育者。なんといっても無償の私立小学校を設立、運営した。一生を教育に捧げて天昇。皆に尊敬された。それもそのはず。運営資金元は、彼女自身が交渉アタック。無償の学校といえば、バックアップはキリスト教会ではないだろうかとふと思うが、全く違った。実は何もなかった!彼女自身が、お寺さんに交渉&説得。つまるところ、スポンサーはお寺さんになったのだが、一定のお寺さんじゃなくて、共同出資。お布施や火葬料など、子供達の未来の為に。彼女の熱意が人を動かした。実に偉大な女性。しかしながら、背負う荷物は、さぞ重かったに違いない。夫は、戊辰戦争の後、行方不明と言われていた元、会津家老、梶原平馬。彼女は平馬の二度目の妻。しかも、前妻死別による後妻ではない。前妻は、会津の山川双葉。この段階健在だ。彼女もまた、当時東京で大活躍。名高い現役の教育者。梶原は前妻ときっぱり別れているのだが・・・。それでいて、教育の為東京に倅を出した際には、子は前妻のところに世話になっている。時代と、戊辰に敗れた会津の立場上、色々複雑な要因があるのだろうが、つまるところ、夫婦の縁はきっぱりながら、憎くて顔も見たくない別れとは異なるようだ。後妻としては、子の教育上は有り難くても、しんどい要素は否定できない。昔、立派な妻は、妾も妾の子もしっかと養うのが、誠の良妻の証。ヒステリやったら己は安物&負け犬!悔しかったら、尚の事、ドカン!と妾を養ったという。妾じゃないのに、あたかも妾のごとく不快を感じたことはなかっただろうか?【史実上、そんな下らぬ事記載された文章見たことないですが、戸籍の行ったり来たり状態を、見ると、ふと、そんな想像力が!戸籍の事は後述】彼女が、梶原と名乗り出すのは、明治32年。それまでは、生まれて以来の実家の姓、水野を名乗り続けていた。しかも、この明治32年とは、夫の死亡同23年から約10年近い歳月。夭折せず育った二人の子は、戸籍の上で、水野のはずが、途中で梶原に籍が入った。これは何かあるようだ。22歳で若くして死亡した息子の文雄は、なぜか、本人の死後、水野に戻されている。現在の法律では考えるに少し困難だが、事実、文雄死亡は明治41年。44年に苦肉の策、養子縁組の形で水野にカムバック。不思議だが、きっと何か訳があったのだろう。文雄4歳の時、父の梶原死亡。その後、東京で勉学時代、戸籍は明らかに梶原に入れ直されているが、文雄本人は、一貫して名乗る際には水野を徹していた。その母はビッグな存在。名高い教育者。当時、根室で水野貞を知らぬ者はない。強い鉄の女。夫が死に行く末期にも、教育の為に新規学校設立の動きを緩めない。夫が亡くなって悲しみに浸るも、一歩も下がらずそのまま教鞭を執る。しかし、倅は見ていた。どんなに強い女、どんなに偉大な存在だろうが、女手一人で育て続けてくれた母。母を見習って、彼も姉も根室の教育者になった。しかし、運命とは皮肉。文雄は22歳で天の人になった。母より先に死ぬ親不幸をやってしまった。その文雄とは、この人物。東京に出て中学を卒業するなり、18歳かそこらでヤング先生。当時は代用教員といった。早速根室に戻り、熱心に生徒達に歴史や文学を教えた。ユニークな熱血ヤング先生。彼の熱血先生姿はここに。長生きした人物なら、名物でみんなの楽しい思い出。ところが、悲しいことに、僅か22歳で病に倒れ天の人。彼の人生は、短い間だったけど、生徒達の心に永久に残った。ほんの数年だというのに、見事文学青年達の若葉を発芽させて、作家「「寺島柾史」」達を生み出した。会津家老、梶原平馬のもう一人の倅、水野文雄は、無形ながら人の心の中に、こうして根室の歴史を築いたに他ならない。人名事典に載るような歴史じゃないけど築いた。明治の北海道の最果て。海産物は豊かというなれど、厳しい自然環境に加えて、北方領土。【注:この時代、4島は北方領土といわない。当時日本の行政区分で「千島国」。北方領土言語は、1945ポツダム宣言受託以降】もしも母が粘り倒さねば、教育はかなり取り残された存在の地域になったに違いない。世は戦争ばっかり、この地は絶望の最果て、貧困、あらゆる問題・・・尽きない。そこに少年達の心に冒険や夢、希望、愛の事、種を撒いて、育てた男なのだった。泣くなら泣いていいぞ。なにも無理して堪えるな。辛いからこそ、夢を持てよ。夢は恥なんかじゃないぞ。辛いからこそ、夢に意義があるじゃないか!案の定、天才文学少年達の作品が雑誌に花咲いた。この地花咲の子供達が花咲いた。彼が4歳の時、父は他界。歯を食い縛って頑張り続ける母の姿を見て育った彼。生徒達に名乗るは水野。されど籍は梶原。それをどんな気持ちで受け止めていたことだろう。徹底抗戦、最期の最期まで官軍と戦った会津の主要家老。城が落ちて、屈辱の開城の時、藩主松平容保の側に控え、血涙、怒り震えるを堪えて、官軍の前に平伏した梶原平馬。斗南時代、官に出仕するも僅か2ヶ月で免職。後は世捨て人のごとく、表舞台に出ないどころか、行方不明状態。そのうち、下らぬ噂が流布される。地に落ちた男の行く末。なにやら京都の娼妓だか、どこぞの赤線の女だか知らないが、つまらん女と駆け落ちしたらしいぞ。どこぞで野垂れ死にが関の山さ。噂とは、もれなく余計な尾ひれがつく。いつの時代も同じ。根室では、景雄と名を変えた平馬の出仕実績が多少、今日発見されてるが詳細発掘は今だなされていない。明治16年に、その名が見つかった程度に留まる。反骨の男、梶原のもう一人の倅。根室の倅、文雄。彼にとって、記憶に乏しい父なれど、こうしてみると、血は明らかに彼の中に脈々と息づいていた。梶原平馬SERIES:No.1<No.2(現在頁)<NEXTボタン:No.3▼・・・水野貞と夫、梶原平馬について▼この後、■萱野に死の命を届ける辛い役柄も梶原平馬、■恭順派の西郷頼母を始末しようとしたのも彼▼こちらは容保の実弟桑名藩主の身代わり▼幕末玄関:会津系も各種
2012.01.08
梶原平馬のもう一人の倅,明治根室の先生,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.1,根室出身作家「寺島柾史」から紐解く根室の梶原平馬一家,少年達が好きだった先生,寺島柾史,根室の教育者、水野貞,水野文雄,TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_No.1根室出身作家「寺島柾史」から紐解く根室の梶原平馬一家「寺島柾史」:本名=寺島政司。明治26/10/24(1893)~昭和27/4/25(1952)享年59歳。後半に旬の味覚オマケコーナー:根室花咲蟹&鉄砲汁_これは昔の話。明治30年代の話。北海道の最果て、根室。名のごとく、花咲蟹で有名な花咲の話。ここに文学青年達の若葉が、次々と発芽していた。花咲尋常小学校の生徒達は、皆どうゆうわけか、ものすごく文才があった。その一人、「寺島柾史」は天才少年に留まることなく、立派な作家としての人生を歩む。大正、昭和と精力的に沢山の作品を残した。バージョンは幅広く、小説、伝記、随筆も。ところが残念なことに、その殆どが昭和20年の空襲で消失。今日知られるものとしては、主に児童用の夢や冒険の物語。『海底の魔城』、『海賊船』他。また、石川啄木の釧路時代を題材にした小説もある。この花咲尋常小学校の生徒達は、当時の雑誌『秀才文壇』、『文章世界』に、よく投稿しては喝采を浴びていた。メンバーは、「寺島柾史」の他、飯田廣太郎氏、村田丈作氏、前田修氏と続く。このうち、飯田氏がエッセンスを明かしてくれている。皆の発芽の訳は、水野先生というとても若い男の先生。水野先生は、あの水野先生の子供。子供達は、その程度ならば知っていた。先生のお母さんは凄く立派な先生。女だけど校長先生。(左注:当時としては稀少な為)このへんで彼女知らない人居ない。無償の私立学校建てた人だもの。立派な人だよ・・・。この時期の生徒達も、少しだけ、直接習った期間もあった。だけど、なにがなんだかしらないけれど、水野先生ともいうし、梶原先生ともいうような気もする。・・・とはいえ、子供だから、皆そんな程度。余計なことには執着しない。とにかく、今は、この若いお兄さん先生、ヤング水野先生の世界に夢中だった。先生は、とても情熱家。いろんな伝記や物語、時には自作の物語も読み聞かせてくれた。少年達は、先生のあのパフォーマンスが瞼に焼き付いて消えない。自分で作って、自分で読み聞かせてるというのに、突如どどっ!と感情の世界へ!覗き見したら、先生の目には涙が一杯。泣き出すの堪えて読むから、涎だか唾だか知らないけれど、生徒達の机の上、降ってくる!恐怖!普通だったら、これは恐怖!&とんだ迷惑でしかない!ところが、誰一人それに不満なんてない。皆、この若い先生の世界に填まり込んでいった。気がついたら、ここは文学少年達の一大宝庫。この若いお兄さん先生は、なんと僅か22歳で亡くなった。亡くなる直前までみんなの大好きな先生。先生は病気で、東京の病院行ったけど、死んじゃった!この先生の名前は、水野文雄。水野文雄:明治18/06/06~明治41/01/29 。享年22歳。母の名は水野貞。根室の教育者として偉大な功績を。それだというのに、誇らしげに語ることなく、静かに後に世を去って行く。気のせいか、何か影を秘めていた。みんなの大好きだったお兄さん先生:水野文雄とは・・・後の世、巡りめぐって、驚きの事実が判明。これは、なんと!戊辰戦争、会津戦争で名高い会津家老、梶原平馬の・・・もう一人の倅だった!梶原平馬といえば、妻は、会津の名家山川双葉。こちらも名高い教育者。子は、海軍軍医の景清が一子のはずだった。ところが、もう一人の妻が、水野文雄先生のお母さん。水野貞先生だった。その子が、水野文雄と言う。根室生まれ。無論、根室に梶原平馬の奇跡が判明したのは、つい最近、昭和63年。この当時を知る「寺島柾史」の他、皆の多くは、会津の梶原絡みの謎を知らずに天昇していった。梶原平馬 (天保13年?月?日(1842)~ 明治22年3月23日(1889))会津藩家老。享年47歳。No.1(現在頁)<No.2水野貞と、倅、水野文雄の輪郭<・・・・旬の味覚オマケコーナー:根室花咲蟹&鉄砲汁 _梶原平馬SERIES:No.1(現在頁)<NEXTボタン:No.2▼<No.3・・・水野貞と、倅、水野文雄の輪郭★
2012.01.07
松前国獲り興亡物語,炎に散ったコシャマイン親子の悲劇,コシャマインの乱,北海道の歴史,武田信広の巧妙戦術,渡島半島にあった12個の館,松前えとせとらサイトTOP<幕末WITH_LOVEのTOP_<「松前、国獲り興亡物語」コシャマインの乱、武田信広が鎮圧炎に散った「コシャマイン親子」北海道、蝦夷のその昔長禄元(1457)年5月、コシャマインの乱の勃発。アイヌ民族は破竹の勢い。民族の為に、戦士全員、命を投げ出す覚悟で襲い来た。一方、命が惜しい和人。このままだと、蝦夷の和人は滅びた。当時、蝦夷の渡島には「館」が全部で12個もあった。ところが、一気に潰され潰され、なんと、2館しかなくなった。あわや蝦夷の和人社会滅亡の危機!導火線はこれだった。あるアイヌが和人の鍛冶屋に小刀の手直しを注文。口論となる。 「これは切れが悪いぞ、そのわりに値段ばかり高いぞ!」「なんだと!これでもか!」鍛冶屋がその小刀でアイヌを刺した 。これを皮切りに、アイヌの人々は永年の累積した不信と反感。それが一気に大爆発。長い間、和人はアイヌの人との 交易で「騙し!」ばかりやっていた。コシャマインの乱長禄元(1457)年5月、コシャマインの乱アイヌ民族の士気は高かった。なんといっても率いるは英雄コシャマイン。若い倅も勇敢だ。民族のために奮起した彼らは、己の命など、少しも惜しくない。それはそれは勇敢だった。「ならぬ!この屈辱を許してなるものか!」皆が呼応した。全部で12個もあった「館」がことごとく潰され、全て燃え落ちた。(「館」とは?)おかげで、この段階、残った「館」は、下国家政の茂別館、 上ノ国の蠣崎季繁の花沢館の2館のみとなってしまった。こうなれば、時間の問題だ。あわや蝦夷の和人社会滅亡の危機!死角の男、客将武田信広の登場ところが、ここに、彼らにとって死角が生じる。それは謎の客将「武田信広」という男の存在。上ノ国の蠣崎季繁が「客将武田信広」を呼び寄せた。この男、武田信広の戦略は巧妙。結果として、彼の功績により、蝦夷の和人は滅亡の崖っぷちから脱して今日があるともいえよう。ちなみに、この人物が、松前藩になる以前の蝦夷の蠣崎。(武田はこの後蠣崎に婿養子。政権掌握)これが、松前藩の礎石 。無論、コシャマイン親子は、その事実を知る由もない。客将、武田信広の巧妙戦術炎の大行列アイヌの戦士達は、実に強い。・・・しかし、・・・彼らは、飲まず食わず、戦い続けているのだった。・・・・・すっかり、薄暗くなってきた。その時だった。突如、はるか向こうの山並みから、松明の大行列が、こちらに向かってくるではないか!アイヌの戦士達は歓喜した。「あっ、あれは、援軍じゃ!」倅が答えて曰く。「おお、まさしく、あの炎は我らが民族の証。」コシャマインは兵達に一喝入れた。皆の者、走れ!我が援軍ぞ!「皆の者、あれは、山の民にちがいない。彼らが応援に駆けつけたのじゃ!我ら民族は不滅ぞ!!」走った。走った。皆走った。我を忘れて、死に物狂いで、炎の行列目指し、ひたすら駆けた。「援軍じゃ!これは大群じゃ!」皆が走った!!「罠!」だった!その時!!現在頁はお知らせ編です。真下バナーからどうぞ!リンク先頁から、蝦夷松前のさらにその昔、松前、国獲り興亡物語など関連頁へのナビ有ります。▼TOP<★
2012.01.05
明治乱れ髪美女の【告解】実話,劣女哀憐,明治大正の事件と「女性」BOOK_No.1,有名事件一覧BOOK,美女と悪女,歴史のヒロイン1000人一覧,すぐに概要掴めるおすすめ本,【楽天市場】明治大正の事件と「女性」BOOK_No.2乱れ髪、美女の「告解」の時明治の話。当時の新聞には活字が躍った。卑劣な女。凶悪殺人犯どころか猥褻、人に非ず!・・・ありとあらゆる非難の言語が行列。この「悪い女」と呼ばれる人物の悲哀。犯罪の動機の根本は極度の貧困。しかし、それだけでなかった。重い!或る日、怪しげな宿で、男の惨殺死体が。凶器は刃物。一目で、下手人は女と解った。場所が場所。その上、女の力、切り傷は一刀のもとに・・・は不可。どう見ても、女の仕業。その為、現場は、なお凄惨そのもの。あっけなく、すぐに容疑者は捕まった。計画的犯行。凶悪殺人。・・・実は、悲しいことに、それらは全て事実だった。_救いようがない。衝動的な殺人ではない。美貌の女が、女の武器を最大限に悪用。わざわざ男をそうした場所に呼び出して、いきなり殺人!ならずや、それ以上に悪質な手口に該当する。いきなりでは、女の力は知れてるから、しくじる。意地でも、消し損なうわけにゆかなかったから・・・。彼女は素直に自白する。あたかも告解のごとく。ところが、いちいち素直に白状する為、犯罪はさらに周到&悪質と判断せざるをえない。恐らく行為の後、寝首をかいたか、 陥れて、油断させて、 騙し討ち 。以上から、当然のごとく、これは死刑確定。男を惑わす悪婦&卑劣のレッテル。ところが、それらは何の為に?なぜゆえ、そこまで罪に陥った?調べているうちに、頭を抱えてしまった人物が居た。死刑判決前の段階、状況から同情して、本格的に動いたが、結果は虚しい。或一人の美貌の女、彼女は処刑された。犯人の女性は、借金に追われていた。被害者は、貸付本人。取立て本人。たとえ何を捧げようと、借金の帳消しは、おそらく成り立つまい。されば、蜜の引き換え条件に延期依頼を装うなれば、無論延期など期待はできないが、とりあえず、網にかかるだろう。▼案の定、やってきた。そこで、こうなりました!私は極悪人です・・・。悪い事をしました。恐ろしい罪人ながら、ここでも素直に喋る。このアンバランスは一体何なんだろう?せめて刑の軽減に、あれこれ尋ねてみるが、聞けば聞くほど、ますます罪が重くなる一方だ。実は、この女性、女の細腕には不似合いな大きな大きな荷物を抱えていた!どうしても、目を瞑って諦めきれない。不可と知りつつ足掻いて、生きながらにして溺れていた!愚かなれど、必死で必死で愛の為についに罪。それは、なんと夫!最愛の夫。夫は不治の病だった!病床の夫を救いたい一心、薬を買いたい一心、美貌の若妻は終いに我が身を落とし春を売る。それでも借金返済に追われ、ついに殺人。経緯はこれだった。ところが、彼女の生い立ちからすると、夫とは、単に「夫」とはちょっと違う。夫である以前に、彼女にとっては、肉親以上の肉親。この女性の出生は不幸すぎる。直系親族は故郷に居なかった。愛に恵まれず育ち、夫は、夫としての愛以上に、「家族愛」を注いでくれた人。だから、どうしても失いたくなかった。上記の同情した人物は動いた。なんとか死刑だけは回避させてやりたい。あまりにも不幸な生い立ち。命だけは救い、終身刑にできぬものかと故郷に打診。この頃、都会の刑務所は貧困原因の軽犯罪者やら、思想的に捕縛された者やら、刑務所満杯。その為、終身ならば故郷側との発案。しかし故郷側は、不名誉の極み一蹴。結局死刑になった。【彼女の人物像と過去】誰もが振り返る絶世の美女。それは母親譲り。ところが、彼女は、母の代から、業を背負って生まれてきた。美貌の母は、巷で、なにやら良からぬ噂、されど惚れられて、無事結婚。ところが、身篭るはいいが、奇妙に早く子が生まれてしまった!その子とは、まさに彼女なのだ。母は、産み落としたが、離縁された。子に罪無しながら、本人も父方で暫し養育されたものの、母方に押し付けられたり、一時的に戻されたり。いずれにせよ、出生そのものが業だった。誰よりも美しい乙女は、片身が狭くて誰よりも不幸。やっと、生まれて初めて、心から愛しあえる人に巡りあった。最愛の夫。ところが、その夫は、なんと不治の病!もしかしたら、普通の境遇に生まれ育っていたなら、彼女は、罪に至らなかったかもしれない。普通に村の医者をよんで、ちっとも効かない薬でも、それなりに与え、そして、徐々に死期に歩んで行く夫。いくら悲しくても、普通ならば・・・それ以上何もできない。特別豊かな経済力でもない限り、近くの神社かお寺さんに祈って、それぐらいだろう。ところが、彼女は行動を起こした。どうしても諦めきれなかった。両手で抱えきれない巨大な荷物。身の丈にあわぬ絶大な労苦。それでも、どうしても失いたくなかった。彼女は、生まれて以来、誰からも愛されたことがない。いつも後ろ指指されて生きてきた。ところが、不幸にして容姿が美しいことから、好奇の目で、良からぬ目的で虫ばかり寄ってくる。だけど、それは愛じゃない。何もしてないのに、ますます後ろ指指される。そんな彼女が、生まれて初めて、本物の愛に巡りあった。この人を失いたくない!・・・この時、既に死刑台の階段を登り始めていたも同然だった。ヨタヨタの夫を背負って、湯治の旅へ担ぎ出した。町には評判の医者が居るらしい。薬もよく効くらしい。それに、不治の病が治るという有り難い妙薬の湯、名高い湯治場もあるという。なんとしてでも、この人を救いたい!宿泊費や短期賃貸住居代も、薬代も、自分の労働、そこらの日雇い、日銭では、当然ながらすぐにパンク。後は奈落の底へ。借金地獄。されど薬は買いたい。やがて春を売る。ついに殺人。彼女にとって、この夫とは・・・惚れた腫れた!燃えた!愛した!LOVE!LOVEじゃなくて・・・この場合、彼女にとって、この夫とは・・・「生まれて初めてみつかった誠の家族愛」の人だった。・・・惚れた腫れた!で恋に狂って犯した罪と、そこが、かなり異った。この女性にとって、夫とは夫である以前に、初めての家族だったに違いない。ずっと迷子、愛迷子。やっと辿り付いた我が家、愛の家。それが、たまたま夫だったのだろう。困って困って、抱え切れなくて溺れて、誰にも相談できなくて、足掻き続けた結果の罪だった。誰かに打ち明ける機会がなかったこの女性は、哀れなほどに素直に次から次と堰を切ったかのごとく、自白。今まで誰にも言えなかった苦しみ。たとえそれが、早期死刑確定に至ろうと、それを懸念する余裕は己に残っていない。死ぬことよりも、語れない苦しみから逃れたくて、告解の時。相手は鬼の検察官。牧師でないのに、まるで告解。どうしても打ち明けずに死にきれなかった。夫はもともと虫の息。取調べのごたごたで恐らく絶望。親鳥が戻らない雛鳥と同じ。理由が何であれ、殺人、それは絶対いけないし、経緯についても、愚かといわれて、弁護のしようがない。・・・だが、なんとも悲しい。上記の話は何かと申しますと、真下バナー関連注釈のヒトコマ。(本文はこの頁から)赤い靴はいてたおんなのこ~っ!は、調べてみると実に複雑ヘビー要素が無数に絡み合っています。愛のこと、弾圧された思想のこと、戊辰に敗れて、未開の北海道に架けた士族家系の労苦、愛と平等、福祉に命を架けた人のこと。。。と様々。ところが、ここに、「未婚の母」がキーワードとして絡んでいます。幕末志士の女達、その後の結末▼(◆お龍(坂本龍馬)、◆幾松(木戸孝允)、◆おウノ(高杉晋作)、◆陸奥亮子(陸奥宗光)サイトTOPは犬猫サイト<■お得ペットスクープ、■わくわくドキドキ!BACK(=No.1)_明治大正の事件と「女性」おすすめBOOK色々
2012.01.04
明治大正の事件と「女性」BOOK_No.1,有名事件一覧BOOK,美女と悪女,歴史のヒロイン1000人一覧,すぐに概要掴めるおすすめ本,【楽天市場】明治大正の事件と「女性」BOOK_No.1明治の「劣女哀歌」貧困の余り、罪を犯し、死刑となった「或る女性」の話生まれて初めて巡りあった「本当の愛」・・・罪に陥った!ふむふむ、あの事件ね、勿論知ってるよ。古臭い歴史話は苦手でないよ!・・・といいつつ、いざ、解説してみよ!と言われたらボロボロ系って、自慢じゃないけど、てんこもり!即、反省してしまう。知っていたのはタイトルだけか!と非難されても殆ど弁解できない!★強力虎の巻!あんちょこ!▼ _ _なぜか小さめの画像だけど、なかなかおもろい価値有り系。特に右:重厚濃厚幅広い。▼ __ _ 明治の「劣女哀歌」乱れ髪、美女の「告解」の時ちょいと歴史好きさんなれば、こちらにも色々▼読み物&資料セット編と、おすすめBOOKシリーズと双方、色々バナーから探せます。▼TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.04
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.9,ハスカップの涙,男達の「男の身売り」、転落地獄,大地に風そよぐ白い小花,じゃがいもの花_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.9アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】(現在頁)■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.12_男達の「男の身売り」、モッコ担ぎの穴倉転げ初めから読む<・・<この前頁から読む(Ver.8:永久の別れ、砕け散った心の絆) 岩吉が最後に見たのは、悪酒に酔って、目を真っ赤に血走らせた彼の姿だった。農場は、暫し放置の後、時が流れて、農地の持ち主も替わり、別の小作人が入った。裸一貫、逃げ出した小作人が、別の地で、さらに悪い条件の小作人に落ちて、それでも食えず、やがてどこぞの人夫、奴隷同然の最悪条件に転落して、地の果て、山の果て、野垂れ死に・・・はこの時代、よくある構図。人夫にもランクがあった。食うに食えず男の身売りなら、最下層の極悪条件。タコ達の出元は、本州から騙されて連れ込まれた民だけではない。こうして、飛んで火にいる夏の虫も含まれていたという。書面上に判然とするのは、囚人と、明治27年以降のタコ部屋のタコ達。ところが、実際は、前述人材確保業者によって、使役の悲劇に突入する者はもっと早期から存在してました。とにかく急ピッチ開発には、猛烈に人材不足だった。ずいずいずっころばし、胡麻味噌ずい、・・・ここから先が、呪いの戯れ歌。ずいずいずっころばし、胡麻味噌ずい、モッコ担ぎが、穴倉に填まったとさ、二度と、出てこなかったとさ・・・。そこは、地獄の三丁目。逃げ出した小作人。さらに劣悪条件とて、妻子があれば、再び別の小作人。ところが、はじめから借金地獄。前借状態。飢えて妻子が死ねば、男は弱い。死んでくれれば、まだマシ。己の目の玉が黒いうちに、最愛の娘が売られたとすれば、農の意欲は完全に消滅。いくら築いても、突如失うのが農の弱み。耐えて築けば、僅かながらも貯が伴うはずの農とは、あくまで理屈。こうなると、捨て鉢、自暴自棄は誰しも同じだ。どうせ死ぬ。飢えて死ぬ。腐って死ぬのが関の山。されば、冥土の土産は酒浸り。人夫なれば、己の体だけ。守るべき土地も、愛する人もない。荷物運びで、ゴミのような端金。どうせ帰る家はない。前借、前借・・・酒代の前借。そのうち、無給奉仕どころか、金利が団子。キレて暴力、罪人。あるいは騙されて、モッコ担ぎの運び屋人夫より、高額だからと、穴(鉱山とか)に入る。いずれにせよ、二度と穴から出てこれない。遅かれ早かれ、冥土入り。地獄の法則。文献という形ではあまり見れない。判然としないから。しかし、上記、呪いの戯れ歌。補足:タコ部屋についてはこちらの頁でレイアウトが見えます。但し、囚人使役から、犠牲ターゲットがタコに移動するのは上記のとおり明治27年。イワシピの年齢では歴史上のタコになる確率は、高くない。(仮に無事存命していれば、50歳超過のはずだから。この段階で、既に健康を蝕まれた男が、過酷労働の中、10年も存命するか否か。思慮不要。)イワシピの最後は、誰も解らない。だが、ひとつ確かなのは、この地に彼の墓はない!!苗字も某と戸籍改めの際、岩吉という和名と共に名乗って いるわけだが、この地にその名はみつからない。ひとつ、不思議なことがある。あの時のイワシピの予言。環境破壊の天罰の旨は前述のとおり。しかしながら、もうひとつ小さい予言。「もう一度だけ、お前には子供が生まれる。俺には解る。」ふと思う。ところで、この雲を掴むような話、元を糺すなれば、何処で誰が、誰から聞いたのだろう。岩吉の二世は、イワシピの予言どおり、本当に天から授かったのではなかろうか?・・・そんな気がしてならない。肝心の何かが、見えない訳が、案外そこにあるのではなかろうか。No.12_大地に風そよぐ白い小花岩吉の夢は叶わなかった。白い小花が咲き乱れて、実りの秋。逞しい四肢、長身の男。肩の筋肉がせりあがっていた。微かに灰色を帯びたきらきら輝く瞳。英雄の末裔とその家族。腹一杯、栄養豊かな野菜、じゃがいもを食べて、子供達の笑顔。可愛いあの娘、岩吉も微笑んで、膝にあげて抱いてやりたい。全て夢。夢なんて、所詮夢。いつしか岩吉も明治の世、埋もれて死んでいったのだろう。遠去かる意識の中、無数に咲き乱れる白い小花。風に揺れて、北海道の鮮やかな青い大空の下に、皆の笑顔。・・・全て、夢だった。何一つ残らない。砕けて消え去った心の絆。何事もなかったかのごとく、今は白い小花が咲き乱れる。大地の神よ。教えてくれ!二人の岩吉はどこへ行った?
2012.01.03
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.8,ハスカップの涙_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.8アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】(現在頁)■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花初めから読む<・・<この前頁から読む(Ver.7)丘の頂上にたどり着いた。岩吉は思わず、へたりこんだ。あの時の眩暈の再来か。イワシピの畝はぐにゃりぐにゃりと歪んでいる。白い小花など、どこにも見当たらない。そもそも、それどころの騒ぎではない。雑草だらけで、手に負えぬ状態だ。「なんちゅうこっちゃ!」彼は低く唸った。幾つか、彼らの墓らしきものが、目に入った。その後、家族の犠牲発生は、これで言うまでもない。・・それでもいい。居てくれよ。居てくれよ、イワシピよ!祈る気持ちで、岩吉はおんぼろ小屋の戸口に立った。声をかけるが、中から人の声はしない。無人か?!彼は、ずかずかと勝手に中迄、あがりこんで、目を疑った。粗末な囲炉裏の前、肩の肉まで落ちて萎びた白髪老人が一人、背中向けて座り込んでいる。息をしてるのか否か、まさか、その姿のまま息絶えているのか!?その背中は、まるで正真正銘の老人だ。とても同一人物と思えない。岩吉は、おそるおそる声をかけて言った。その声は、あたかも赤子を宥めるかのように・・・呟いた。「イワシピよ、イワシピ、俺だ!岩吉だよ・・・。」男は微動たりともしない。岩吉は、野菜の入った担ぎ袋を脱ぎ捨てて、男の前へ回り込んだ。途端に鼻を突く臭気。それは、質の悪いアルコールの臭いだった。どこから、何から、どうやって語りはじめたらいいのだろう。岩吉は困惑した。目を血走らせたイワシピ。かなり酔っているに違いない。酒に酔って充血した目。かつて、あんなにきらきらと輝いたあの灰色の瞳は、今は虚しい。澱んで、曇った傷だらけのガラス玉。しかも、それを取り巻く白目は血管だらけ。しかし、これは今日の酒、今の酔いのせいじゃない。岩吉は思わず息をのんだ。彼の白目全体が黄褐色に澱んでいる。これは・・・まさに、質の悪いアルコールのせいに違いない。皮膚の色が異様だ。薄暗い小屋の中、肌の色が沁み込んで識別できない。かつては、鮮やかにくっきりと浮かび上がる独特の透き通る肌。典型的黄色人種の岩吉には、それが眩しかったものだ。それが、今はどこへ消えた!死者の黒斑を思わす紫痣色。暗闇色に紛れて溶けている。岩吉は名案を思いついた。担ぎ袋を引き摺ってたぐりよせると、小型の瓶を、掘っくり返して取り出した。「イワシピよ、久しぶりだな。一緒にこれを飲もうや。そいつは、やめとけよ。一緒に、こっちを飲もうや。なっ・・・、イワシピ。」その時だった。白目に赤い筋が走りまくった顔で、イワシピが睨みつけて、こう言った。「大きなお世話だ。帰れ!」家の中といい、畑の様子といい、イワシピの身上の異変は只事ではないのは一目瞭然。嫌われても、岩吉は、この程度では、へこたれない男だ。「イワシピ、すまぬ。じゃがのう、わしは今、遠いのじゃ。気にはなっても、なかなか来れない距離なんじゃ。それは、お前ならば解っているはずじゃないか。遅くなったけど、人が折角、こうして帰ってきたんだぞ。もう少し、優しくしてくれないかのう?」 イワシピは、鼻で笑うと、再び、目の前にあるアルコールを口に運ぼうとする。わけのわからぬ怪しいアルコール。「やめとけ!なんじゃ、これは?なんか変じゃ!」岩吉が妨害した。人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたイワシピが答える。「はっ?なんと?貴様がよこした太る野菜だかの仲間の酒さ。」「どらっ?焼酎か?」岩吉が奪い取って口へ運ぶ直前に、思わず喚いた。「イワシピ!これは焼酎なんかじゃないぞ!誰だ!誰からこんなものを!」No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆これが、岩吉とイワシピの縁、最後の瞬間だった。それは、あっけないほど短くて尻切れとんぼ。情けない最後。悲しすぎる。肝心の何かが、見えない。じゃがいもの種芋は、イワシピ一家が、やはり食べてしまったようだ。生き残りの家族の殆どは死んでしまったようだが、なんせ、イワシピはまともに、口をきいてくれなかったから、細かい事は解らない。飢えか、疫病か、恐らく彼以外は全滅と思われる。死因は、どうやら、べつにじゃがいもの芽を食べてしまったからではないようだが、飢えて、飢えて、飢えまくれば、たとえ禁断の食物とて食せざるをえない。その旨、岩吉に吐き捨てたのだった。「今耐えて、秋に潤いを待てと言うが、今死のうとする子を見殺しにして、生き残りが、ぬけぬけと秋に満腹せよと申す気か?」何が原因で、どの段階で、何をどう誤解して、イワシピが岩吉を恨み始めたか解らない。しかしながら、憎まれてしまったことだけは確かだ。僅か半年のブランク。埋め合わせる術が見つからない。イワシピが言う。口も聞きたくない。その面は二度と見たくない。「帰れ!貴様の声は、もう半分しか聞こえないぞ。あの頃と違うぞ。濁った輩の腐った声なんぞ、俺には、聞こえないんだぞ!聞こえないぞ!貴様は腐りやがった!今に見るがいい。まだまだ終わっていないぞ。 お前達は、神に屈辱を与えたからだ。まだまだ続くぞ。今に滅びるがいい。」 岩吉が最後に見たのは、悪酒に酔って、目を真っ赤に血走らせた彼の姿だった。農場は、暫し放置の後、時が流れて、農地の持ち主も替わり、別の小作人が入った。裸一貫、逃げ出した小作人が、別の地で、さらに悪い条件の小作人に落ちて、それでも食えず、やがてどこぞの人夫、奴隷同然の最悪条件に転落して、地の果て、山の果て、野垂れ死に・・・はこの時代、よくある構図。人夫にもランクがあった。食うに食えぬ男の「男の身売り」時代の狭間、書面に残らぬ裏の暗黒史が展開されてゆく。NEXT_No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄
2012.01.02
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.7,ハスカップの涙,ハスカップについて,栄養と効能,アイヌの言い伝え_不老長寿の妙薬ハスカップ_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.7アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】(現在頁)■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神初めから読む<・・<この前頁から読む(Ver.6)イワシピの不気味な予言が事実になった!・・・蝦夷の大地の神はついに怒りを!明治12年(1879)年から、明治18年(1885)年、なんと北海道は、想像を絶するバッタの大群に食い殺された!空が真っ黒に染まった。主因は急ピッチな森林伐採。農地開拓の為もあるが、各地で森林が消滅状態に至った最大の理由は道路開削。襲い来る諸外国の脅威。官は道東まで道路開削に踏み切った。これは、想像を絶する猛烈スピード。即ち、人命の犠牲が壮烈。残酷の極み。(詳しくは関連:■折り重なる屍の上。蝦夷囚人使役1,■蝦夷囚人使役2ところが、屍の祟りは人だけじゃなかった。手付かずの太古の蝦夷の森林。それが、わやくちゃピッチで伐採されて丸裸。この屈辱に大地の神が怒った!空を真っ黒に染める大群の蝗は、瞬く間に農作物も草木も全て食い尽くし、飛び去る。去った後は別世界。農作物も、草も木も全て丸裸!絶望の大地。飢えた人の屍。これを「蝗害」という。関連■明治の北海道森林伐採とバッタ大量発生相関、■『蝗害(こうがい)』とトノサマバッタ生態,■開拓悲話:バッタ災害直撃された開拓人による実態記録この頃、遠方の任地で暮らす岩吉は、この騒ぎで大変だった。朝夕問わず、駆け回り任務を超えた働きを為していた。心の中は、イワシピ一家が気になってしかたない。やっと情報を得た。イワシピの在住する地域は、どうやら直撃を、免れたらしい。とはいえ、蝗軍団の分派は、たとえ少数部隊とて、この頃、北海道の道南、中部、道東と、もれなく飛び交い、道内全て黒い悪魔の翼に覆われていた。いずれの地とて、被害皆無はありえない。民に奨励金を与え、官が買い取り、成虫は大量に捕縛焼却。しまいに囚人も駆り出されて大掛かりな捕縛作業。しかし、悪魔の翼は目に見えぬ地下に潜伏し続けた。地に卵が産み付けられているのだ。今年抜けても、来年が再び。その実、悪い予感は的中。その実、北海道はこの頃なんと6年間も黒い悪魔の餌食となる宿命を享受する。撲滅祈祷まで行った。No.9_約束の秋岩吉の上司は知ってか否かは不明だが、こんな時期にもかかわらず、岩吉に口実の公務を与え、かつての任地への帰還チャンスを暫し与えた。岩吉が今勤務する地の土は黒い。北海道に珍しく養分を含んだ肥沃な土なのだ。辺鄙な位置だが、農に期待できる地だ。まさか、このあと、黒い悪魔の翼に直撃されようとは、この段階では予期できなかった。黒々と肥えた土は、農作物を実らせている。岩吉は、うんうん唸りながらも、重い野菜を土産に抱えて旅立った。かつての任地は・・荒涼としていた。蝗害は免れたはずが、こうなると、報告書とは、あまりあてにならぬ。思わず唸った。行けど行けど、家主不在と一目瞭然の荒畑が続く。しかしながら、木々の様子から、これは蝗害の跡地の景観ではない。いやな予感。背負った野菜が重い。思わず投げ出したい気分だ。しかし堪えた。イワシピの家まで、もう少しなのだ。彼なら皆と違うはずだ。己に言い聞かせながら、岩吉は、坂道を登って行った。丘を越えれば、彼の畑が見えるはずだ。額に汗して頑張って歩いた。途中、農民に会った。荒畑の原因は、逃げ出した小作人達の仕業だという。働けど働けど、わりのあわぬ小作料を搾られ、恵みの乏しいこの地。逃亡は、この地に限らない。また、もうひとつ原因がある。それは、いわゆるブローカー達の口車。飢えの極みで家族の犠牲が相次ぎ、天災で農地が崩れ去ると、やはり人とは弱い。若い妻や、娘は、売られる。幼子は天昇。残された男の行く末はきまりきっていた。その時限りの子供騙しの金と酒に騙されて、いわば男の身売り。炭鉱の仕事、鉱山の仕事・・・なんだかんだといいつつ、そこは地獄の三丁目。ひとたび足を踏み入れるなれば、永久に逃げ帰る道はない。それでも、次から次へと、男達は転落していった。あいつは違うさ。あいつに限って、そんな馬鹿なことがあるわけないさ。岩吉は、一歩一歩、己に言い聞かせながら、坂をまだまだ登り続けた。もう少しだ。今に見ろよ。丘の天辺から、あいつの畑が見えるさ。そうだ、俺はどうかしてるよ。あいつのことだもの。そうだよ、そうだ。今頃、じゃがいもの白い花が咲いているに違いないさ。あいつの畑は、白い小花が咲いてるさ!頑張れ!俺よ!重いけど、へこたれるな!どれっ、ひとつ、花見でもしようじゃないか!岩吉は自分で自分を励ましつつ、丘の頂上を目指していった。NEXT_No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花丘の頂上にたどり着いた。岩吉は思わず、へたりこんだ。TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.02
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.6,ハスカップの涙,ハスカップについて,_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.6アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】(現在頁)■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.6_イワシピの灰色の影初めから読む<・・<この前頁から読む(Ver.5)少し反省した岩吉は、調子にのって酒を抱えて遊びに行くことは少くなった。だが、苗を入手できた時には、その後も昼間に度々立ち寄り、親切に指導した。「前にも言ったけど、俺は侍の家とはいえど、養家では半分百姓みたいなもんさ。だから、畑のことは、ずぶの素人じゃないよ。植えて育てて、沢山実れば、子らに腹いっぱい、食わせてやれるぞ。」だが、ここに現実の壁。それは北海道の地質、気象。どんなに一生懸命働けど、日照不足。当たり前のように育つはずの菜っ葉の類まで、失敗。実りの乏しい悲惨な地。この時代、稲作は今だ北海道は絶望。不可能だった。米は本州から移入。庶民の口に入るわけはない。文字通り、水飲み百姓。人々の貧困は想像を絶する。イワシピ家も生活に窮していた。「そうだな。沢山実れば、子らも育つな。」大男のイワシピも、すっかり痩せてしまった。きらきら輝く灰色を帯びたあの瞳からは、光が失せた。もともと若白髪の彼、知らぬ者なれば老人と見誤ってしまいそうだ。岩吉は胸が痛かった。なんて勿体無い!英雄の末裔は今や、一人の百姓。別れ際に手を振った時、岩吉は、地面に写ったイワシピの影に一瞬の錯覚を見た。長身の彼を象った灰色の影が、午後の日差しに長く伸びて、畑の畝に映し出されている。この地は、不幸中の幸い、表面には川から押し流された土が堆積しているが、ほんの僅か掘っただけで、中は忽ち不毛の泥炭地。それにもかかわらず、今目の前の光景はイワシピが築いた畑の畝が続く。数年前は伐採したばかりの切り株だらけだったのに、イワシピがこつこつ掘り出して、随分と立派に整頓されたものだ。築いては川の氾濫で押し流され、実りかければ、冷害。それでも人は性懲りなくも農を試みて、足掻く。畑の畝に、細長い灰色の影が幾重にも折り畳まれて伸びてゆく。無理に笑顔を作って、イワシピの顔を見てみたが、逆光で表情が全く見えない。目の錯覚か、気のせいか、一瞬、影がぐにゃりと歪んで見えた。No.7_岩吉に下された転勤命令百姓は昔から飢えるしかない。わかりきったことではないか。ところが、この年は、極端だ。農作物は全滅。皆が飢えた。赤痢やらコレラやら、恐ろしい病気まで流行。バタバタ人が斃れ死んだ。子沢山のイワシピ家でも、既に犠牲者が発生していた。生き残りの子を育てるためにイワシピは身を窶して、かつての面影は消えうせた。食の枯渇が、いよいよ本格的になってきた。強烈ピッチの森林伐採。動物の大量捕獲。この頃の行いが原因で絶滅した動物の数は知れない。有名なものだけでも蝦夷狼、蝦夷かわうそ等。鰊も既に怪しくなりつつあった。江差、小樽など鰊場では、海面が銀色に染まったあの勢いは衰退の兆し。岩吉に下された転勤命令そんな中、或る日、岩吉には転勤命令が下されたのだった。この地を去らねばならぬ。別れを告げにイワシピの家を尋ねて絶句した。子供が半減している。生き残りの子も、飢えを凌いで、床に臥せっている。岩吉が可愛いあの女児の命は、見るからに風前の灯だ。目を半開きにして、口をあけて、あらぬ方向を見たまま動かない。介護する女房も半病人。生きながらにして骸骨同然だ。耐え切れず、岩吉は、罪を犯した。じゃがいもの種芋を、こっそり盗んできて、イワシピに与えたのだった。発覚すれば、首だ。転勤どころの話でなくなる。しかも、業務上の失策ならずや、下らん恥知らずの盗人!されば家名は末代まで汚して転落。それどころか、お家の恥に留まることなく、同藩出身者にも迷惑がかかる。それでも、見るに忍びなかった。倉庫にもぐりこんで、下賎の民のごとく、盗人に身を落として奪い取ってきた。「いいか、くどいけど、また言うぞ。これは種芋だ。どんなに飢えても食うなよ。植えて実れば、秋には皆が満腹食えるぞ。何倍どころじゃないぞ。たくさんに増える。今は辛くても凌げ。秋に全てを架けるんだぞ。耐えて凌いで繋いで、そして咲かすんだ!家族全員、咲かすんだ!これは野菜の中でも少し違う。満腹感だけじゃない。太れる野菜だ。」岩吉は、大袈裟に両手を広げて見せた。イワシピの微笑みが見たかったからだ。だが、それは虚しい。灰色の瞳は、こんな時は、人一倍悲しみを湛えていた。「だから、これを芋だと思っちゃいけないぞ。今食ったとて、一口にも満たんぞ。秋ならば山盛りだぞ。それに芽には毒があるんだ。たくさんあれば大きく刳り貫いて食べるからいいけど、こいつを食おうとすれば毒だらけなんだと女房に言い聞かせるんだぞ。絶対に食うなよ。」 別れ際、イワシピは何度も頭を下げていた。かつてなら、彼がこんな姿を人に曝すことなどなかった。襤褸は着ていても、いかつい男だった。高圧的な物言いをすれば、たちまち得意の勝手つんぼ、聞こえぬふりをして、ふて腐る。友好的に接するからこそ、心開いてくれた男だった。それが、今では、この様。哀れ、お恵みを頂いた乞食爺のように、這い蹲っていた彼の姿が痛々しい。岩吉は泣けた。イワシピは己一人なれば、きっと、もっと強いだろう。たとえ飢えて骨皮同然に陥ろうと、一人なら、きっと強いだろう。死の寸前まで強くいれるはずだ。ところが、彼は悲しきかな、父なのだ!子の居ない岩吉には、それが二重に悲しかった。「永久の別れじゃないぞ。わしも、実はのう、鳥の餌しか食ってないぞえ。今は皆正念場さ。秋には、なんとか一度帰ってこようと思うよ。その時は、俺にジャガイモを腹一杯ご馳走してくれよな。」NEXT_No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神【Ver.7】イワシピの不気味な予言が事実になった!・・・蝦夷の大地の神はついに怒りを! 明治12年(1879)年から、明治18年(1885)年、なんと北海道は、なんと!
2012.01.02
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.5,ハスカップの涙_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.54アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】(現在頁)■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達初めから読む<・・<この前頁から読む(Ver.4)イワシピは、頑固者だが、酒には目がない。普段は逆立ちしても、そんなものは口に入らないからだ。実は、岩吉も同じ。僅かな酒とて、二人で飲む酒は、ことに旨かった。あいかわらず、イワシピは気難しい。一回、本気で変な誤解して怒ったことがある。岩吉は、あの子が可愛いから、「将来べっぴんさんになるぞ。」その一言で怒られた。「何をたくらんでいるんだ!帰れ!」しかし、事情を説明するなり、イワシピは心から岩吉を哀れんで慰めてくれた。岩吉は、子沢山のイワシピが羨ましいのだった。女房は蝦夷には不向きの病弱な体。子は生まれてまもなく死なせてしまった。その後は死産、流産。どうやら子に縁がないようだ。最初の子は、女の子だった。だから、あの子が可愛い。「イワシピは偉いな。子を皆上手に育てて偉いよ。俺は死なせてしまった男だよ。」すると、イワシピが言った。「この酒はどうした?本当は貰ったんじゃなくて、まさか、買ったんじゃないだろうな。体が弱い女房なら、なおさら、一杯食べさしてやるのがお前の仕事だろう。あの赤い実を、今度またやるから、女房に食わせてやるんだぞ。」年上のイワシピには、何回も兄貴風吹かされた。或る日、イワシピが真顔でこう言った。「それじゃ、お前の先祖は王なのか?俺の先祖も英雄だ。」これには、岩吉が頭を掻いた。説明が難しすぎる。「否、王や殿様ではないんだが、本家はもともと重臣だ。俺は三男。妾腹だ。事情あって、養子に出された。本家よりも随分家格が低い。だが、今こうしてみると、それが幸いしたのかもしれない。貧乏だが、ここにこうして居て、おかげさんで今、酒を飲んでるのだから・・・。」イワシピはぐいぐいと、岩吉を詰めてくる。とんでもないインテリだ。「されば、一体貴様はどっちなんだ?」いつの間にか、目が吊りあがっている。困った岩吉がぼそぼそ場を回避しようと答えて言う。「明治維新の事は、俺は偉そうに言えないよ。戊辰の頃、俺はまだ洟垂れ小僧さ。それなりに気になったし、苛立ってもいたよ。だけどなんといっても子供さ。役立たずのガキだったから。」イワシピはひとたび心許したかに見えても、岩吉の出所が気になってつめてくる。「まさか松前か!ずっと昔、松前はシャクシャインを騙した。和解しよう、和解の酒を飲もうと言って酔わして殺した事、俺は知っているんだぞ!他所の地域(この場合現在の日高:シャクシャイン)の事も、俺は知っている!嘗めるなよ!」「違うよ。言ったじゃないか。俺達はこの地には惨めに移住してきた立場さ。松前には関係ないよ。」「されば、どっちなんだ?今のこの状態を強いた連中の仲間か?」「くどいな。よそうぜ。そんな話。」イワシピは中途半端に妥協してくれる質ではない。さりとて、説明が困難すぎる。 蚊の泣くような声で言ってみた。「俺をせめないでくれよ。体に悪いな。さっきも言ったけど、俺達は負けたほうだよ。」これで終わってくれれば幸い。ところがしつこい。「負けた側?それじゃ、榎本の手下か!!」やばい!千島樺太交換条約のキーマンが榎本武揚。これは即否定しておかないと、逆恨みのもと。めんどくさいけど、延々語るしか、逃げ道がなくなった。岩吉は、家格の低い家に養子に出された身。それが、この場合も幸いしたといえよう。本来なら、頭にきて捨て台詞。「この酒はくれてやる!貴様とはこれっきりじゃ!」ところが、耐えて繋ぐ習性が体に染み付いている。啖呵をきらずに延々語った。内容はこうだった。藩論が割れた。藩内で先に血が流された。実家の父は、もともと恭順説。べつに官軍支援じゃないが、血を流す意義に疑問符を示したからだ。しかし初期段階で、藩は、幕軍支援に走った汚点を残した。藩の生き残る道はそれしかない。長男は官軍に引き込まれ、ところが下の兄は飛び出して榎本軍に加担。結局、父は切腹。兄達は戦死。家は取り潰し。養父も死んだ。官軍側に駆り出されて死んだ。岩吉は、こうなると、どっちが仇敵なのか、自己の中絡み合って苛立つばかり。考えないようにしてきた。だが、イワシピは白黒つけさせようと、しつこい。さすがに日頃温和な岩吉も苛立って、立て板に水、一気にややっこしい話を吐いた。複雑すぎて誤解要素が懸念される場合は、彼らに語らぬに越した事は無いと聞いてきた。しかし、その理性がぶっとんだのだった。ところが、我に返ると、イワシピは極めて冷静だった。黙って、岩吉の盃に、酒を注いでくれた。そしてこう言った。 「父も兄も死んだ。それは、俺も同じだ。お前は似てないのに似てるな。だが、全て過去だ。過去など無意味だ。そんだけ辛いなら、普段は忘れろ。だが、俺は将軍のほうがましだったと思っている。お前は友だ。だから別だ。節操ない今の連中より将軍のほうがましだ。だが、それは、将軍が好きだからじゃない。関係なかったからだ。頭の上でドンパチやらかした事は、かつてあるがな、俺の頃は将軍は関係なく暮らせていたのに・・・。上の子はでかい魚を食って育った。だが、今、この地で生まれた子は、腐れかけの草みたいな野菜しか食わせてやれてない。今に滅びるぞ。節操なく、なんでもかんでも毟りとって、森や大地の枯渇は、やがて己を滅ぼす。俺には解る。お前だけは正直者だ。・・・お前の子供は、必ずもう一度だけ生まれる。俺には解る。今度は死なせるな。育てろ!」関連:自然への心と暮らし:ふくろうの住む森他とアイヌ伝説 岩吉は仰天した。イワシピが、まさか徳川を語るとは夢にも思っていなかった。また、この時の不気味な予言が、後にまさに現実となろうとは少しも予測できなかった。いくら複雑な話であろうと真剣に語れば、イワシピは解する。暫くしてから、イワシピが言った。「お前の女房が病弱だと知っていたら、あの時、もう少し、多目に赤い実を摘んできてやったんだがな。あいにく遠い。かつての地なれば、あの潅木はたくさんあった。この地では、残念ながら少ない。お前一人分だから、お前の分だけ摘んできたのだ。必要以上に摘み取るは、罪だからだ。それに、余計に摘み取るは必ず巡りめぐって自滅に繋がる。お前は友だ。これだけは、本当のことだから覚えておくといいぞ。」いやな空気が飛び去った。岩吉はあらためて、この大男を見つめている自分に気がついた。 今では、襤褸を纏い、肥やしまみれの百姓姿なれど、この男には熱い血が宿っている。イワシピの灰色の瞳。岩吉は、目の前に今居る男に、彼が語る先祖の世界、英雄の姿を、漠然と見出していた。No.6_イワシピの灰色の影
2012.01.02
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.4,ハスカップの涙,ハスカップについて,栄養と効能,アイヌの言い伝え_不老長寿の妙薬ハスカップ_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.4アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみ時代は明治初期と思われる。場所や人物名については、現代に近いことから仮名。多少抽象的に書きます。文献によるものでなく、誰かの記憶話につき、不鮮明な部分も多々ありますが、悲しいけれど、いい話と思います。あくまで、現代の問題事に係る話題は追及しない考えなので、時代を過去と割り切って読み流して下さい。優しい心の事、書きたいだけですから、描写などでカチンの場合は、創作か?!程度で片目瞑って流して、本題の「心」の部分だけ感じていただけますと幸いです。いつの時代も、どこの国でも、侵略、蹂躙、殺戮は、つきもの。歴史は、みんなそれで成り立ってきたと言っても過言ではないだろう。だけど、ここに、こんな話もあった。悲しきかな、ラストは誤解と、心の柵。超えられない領域に、屈して、砕けて消えた。いい人も居たのに。折角心の壁が崩れて消えたのに。再び闇雲。■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】(現在頁)■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.4_青いつくしんぼう初めから読む<この前頁から読む(Ver.3)岩吉の具体的業務は謎だ。比較的単独行動が多く、下級のわりには行動範囲が広くて、自己判断で適当にスケジュールを組んでいる様子からして、色々気になるが、とにかく不明。農業技術支援でもなければ、いわゆる廷吏(秘密巡回監視)・・・というわけでもなさそうだし。なんらかの知識があり調査的分野だとすれば、少しそんな気もするが、それにしては生活レベルが酷すぎる薄給。解らないから、謎は謎のままにしておきます。その一方で、イワシピは、移住の民だった。明治8年の千島樺太交換条約。豊かな海の幸、逞しい海の男は、祖国から駆り出されて、強制的に移住させられていた。彼らの多くは農を嫌う。皆漁師を希望したが、調整されて、嫌いな農業に強いられた。・・(関連:強制移住の話:表示先頁下側の「泥濘、泥炭地」項ご参照)或る日、イワシピは言った。「お前だけは信じた。お前達はややっこしい。何々だけど・・・の「だけど」が多すぎる。俺に例外なんぞない!「だけど」がつくのは嘘つきの裏返しじゃ。信じたら信じる。信じたから信じる。それ以下でもなければ、それ以上でもない。信じるに屁理屈はない。子が可愛い時に、可愛いけど何々なんて、ないだろう?だから同じだ。だから、お前もややっこしいのはやめろ。俺達は友だ。」イワシピはかなりのインテリ。喋ってると、時折、若い岩吉が解してない事まで知っている。剛直者で、心開いたかと思えば、下らぬ冗談が通じなくて不機嫌になったり、少し難しいが、本当はいい男だった。岩吉は、酒を入手できた時、嬉しくて、イワシピの家を訪ね、二人で飲んだことが幾度かある。野菜を手土産にすると怒られた。恵んでもらわねばならぬ卑屈な男じゃないぞと怒る。但し、野菜の苗をこっそり持っていってやると喜んだ。「これは内緒だぞ。かなり体にいい野菜らしい。それに、一回きりじゃないのが嬉しいぞ。来年も再び実る。来年は、今年よりも、太くて食べ応えがあるぞ。いい野菜なのに、奨励されてないのじゃ。研究所には齎されたようだが、国は見向かんのじゃ。」岩吉は、その苗木の扱い方を丁寧に教えた。「初年は、つくしんぼうが青く化けただけのようなつまらんやつが顔を出す。ほとんど腹の足しにはならぬ。しかし、それなりには食えよ。放置すると、へんてこりんな海の藻草みたいなわけのわからん葉っぱだらけじゃ。草ぼうぼうに化けるぞ。一応実が成るがな、そいつを食い物にする話は、俺は聞いたことないわ。今年よりも来年、来年よりもさ来年、どんどん食い応えが増すからな。楽しみじゃ!」すると、イワシピがこう言った。「そうか、解った。子らと同じだな。今年よりも来年、来年よりもさ来年!」岩吉は嬉しくて、大の男が思わず、はしゃいだ。「そうだよ、イワシピ。そうこなくっちゃ!あっ、そうだ、できれば、目立たぬところに植えとけよ。雑草の陰なら目立たぬからな。」与えたのは、なんとアスパラだった。国が本気で踏み込むより、随分前の段階だ。関連:ガルトネル表示先:農業試験場の推移の項有りイワシピにとって、農業は、本質的に嫌いで屈辱的。しかし、当時の食糧事情。徐々に彼も変化した。岩吉の教えたとおり、野菜を作れる男になっていった。NEXT_No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達イワシピは、頑固者だが、酒には目がない。普段は逆立ちしても、そんなものは口に入らないからだ。実は、岩吉も同じ。僅かな酒とて、二人で飲む酒は、ことに旨かった。TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.02
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.3,ハスカップの涙,ハスカップについて,栄養と効能,アイヌの言い伝え_不老長寿の妙薬ハスカップ_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.3アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】(現在頁)■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花時代は明治初期と思われる。場所や人物名については、現代に近いことから仮名。多少抽象的に書きます。文献によるものでなく、誰かの記憶話につき、不鮮明な部分も多々ありますが、悲しいけれど、いい話と思います。あくまで、現代の問題事に係る話題は追及しない考えなので、時代を過去と割り切って読み流して下さい。優しい心の事、書きたいだけですから、描写などでカチンの場合は、創作か?!程度で片目瞑って流して、本題の「心」の部分だけ感じていただけますと幸いです。No.3_不思議な赤い実の絞り汁初めから読む<この直前頁から読む【Ver.2】差し出されたのは、薄気味悪い赤い汁。すっぽんの血か?いかに滋養強壮の高級な妙薬とて、そもそも、その類、岩吉は苦手だ。すっぽんなどこの蝦夷の地、北海道にあるわけないが、動物の生き血に見えた。躊躇していると、男は、鼻面に強引に押し付けてくる。その時、微かに果実の香り。ふと目が覚めたような錯覚に陥った。「果物の汁か?」尋ねると、やはり答えない。男は頑固者。予想のとおり。この男は言語がかなり達者なのだが、それは自分で必要と判断した分野に限定される。勝手つんぼを徹する。本当は、ちゃんと喋る。「いいから飲め。効く。毒ではない。」岩吉は観念した。どうせ質問には答えてくれない。だけど、いい男だ。誠意が伝わる。彼は、素直に従い、赤い汁を飲んだ。実はこれが、ハスカップだった!!思わず咽た!「なんじゃこりゃ!おっ渋っ~い!それに酸っぱ~っ!」吐き出したくとも、生憎喉を通過した後だった。男も、女房殿も、声を出して笑った。女房殿が差し出した水を、今度はごくごくと飲み干してしまった。後のまつり。生水は自分の水筒のもの以外一切口にせぬつもりが、こうなった!それを見るなり、大男は腹を抱えて笑いだした。一人、二人、みるみる間に、大勢の子供達がやってきて岩吉を覗き見る。「お~っ!すごいな。こりゃ、全部、お前の子供か?まさに、子宝じゃのう?」子宝の語にだけは、一瞬小首をかしげた大男。しかし、この時、確かに一枚目の壁は砕け去ったのだ。大男は笑った。二人の出会いは、こうして始まった。大男の和名は、岩吉。なんと俺と同じ名前か!これには笑った。ところが、大男は不機嫌だ。本当はイワシピというのだそうだ。しかたないから岩吉。後日岩吉が調べてみると、登録は確かに、岩吉。女房はウラというが、これまた、実はマウラが本名。二人の岩吉には友情が芽生えた。本来ならありえないことだった。また、そうであってはならぬ明治の辛い方針の下敷きが実情。しかしながら、人に語らねばよいのだ。これは、男と男の世界だ。人がなんと言おうと関係ない。互いに報恩が発端だ。子を救った岩吉。その岩吉本人は、もう一人の岩吉に救われ、家へ担ぎ込まれて看護してもらった。天が授けたたのか、なんとも不思議な縁だった。後日、岩吉は、イワシピから聞いた。赤い汁はハスカップ。いわば、不老長寿の妙薬。イワシピが苦労して、岩吉の為に摘んできてくれた。だが、貧しい彼らの暮らし。砂糖どころか、渋味誤魔化しの塩すら入れてくれない。しかも野生種。確かに酸っぱいわ、渋いわ・・・現代人なら多分皆仰天する味と思われる。岩吉は、何回聞き直してみても、ハスカップの固有名詞が解らない。ハスカップとは、この果物の固有名詞ではなくて、枝にたわわと鈴なりで成る状態をいうらしい。されば、これは具体的に何だ?・・・幾度も言葉を変えて聞いてみたが、結局解らなかった。いずれにせよ、何が何だか知らないが、この赤い汁は、イワシピが言うとおり、効いた!NEXT_No.4_青いつくしんぼう【Ver.4へ】TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.02
明治北海道開拓,下級官吏岩吉とアイヌ青年イワシピNo.2,ハスカップの涙,ハスカップについて,栄養と効能,アイヌの言い伝え_不老長寿の妙薬ハスカップ_明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.2アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】(現在頁)■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.2_岩吉とイワシピの出会い時代は明治初期と思われる。場所や人物名については、現代に近いことから仮名。多少抽象的に書きます。文献によるものでなく、誰かの記憶話につき、不鮮明な部分も多々ありますが、悲しいけれど、いい話と思います。あくまで、現代の問題事に係る話題は追及しない考えなので、時代を過去と割り切って読み流して下さい。優しい心の事、書きたいだけですから、描写などでカチンの場合は、創作か?!程度で片目瞑って流して、本題の「心」の部分だけ感じていただけますと幸いです。初めから読む岩吉が目を覚ますと、おんぼろ小屋の中に居た。「ここはどこじゃ?」呟くなり、驚いた。目の前に、巨大な男が居る。意識はうつろながら、こればかりは、ひとめでわかった。この民は、きっと彼らだろう。それにしても頭がボヤける。何とも苦しい。目を閉じて少しだけ考えようと努めた。官職とは名ばかり。連日重労働。その上薄給。栄養失調。大根と鳥の餌しか食ってない。鳥の餌とは、米など贅沢で、粟か稗か、日々不味い粥。大根とてこの地質では、不作。兎同然に、葉っぱも貪り食っていたのが実情。堀の近くで、岩吉は突如、ふらっとなって、意識を失っていた。どうにか、そこまで思い出した。なぜか、目の高さに草が見えた記憶の最後、その情景が蘇ったからだった。どうやら、野垂れ死にだけは免れたのだろうか。岩吉は独り苦笑した。 一方、今ここに現れた巨大な男とは、明治の世、彼らは苗字も名前も和名を強いられた。姿も身なりも、現代の世、皆が思い描く民族衣装ではない。断髪で、同じようなドテラと洋服のできそこないの中間みたいのを着ているから皆と全く同じなのだ。ところが、顔形ですぐピンときた。それに、もちろん個人差はあるにせよ、この男は実に大男。珍しい。煌びやかな勲章だらけの軍服を着れば、ロシアの軍人そっくりだ。大柄な男は、白髪だらけ。しかし老人ではない。若い。逞しい四肢と、顔の艶で解る。岩吉は、それまで多くの彼らと接してきているため、目の前に現れた男は少し特異と感じた。顔中髭だらけだけど、隙間から露出している肌の色がまるでドーランを塗ったようにくっきりと鮮やか。少し赤みを帯びて、岩吉達より、むしろ白い。岩吉達土気色を帯びた黄色人種特有の黄色とは異なる。瞳の色が、ほんの少し灰色を帯びていて、きらきらしている。貧しいこんな環境でさえなければ、相当な美男子に値する。恐らく30代半ばだろう。岩吉より年上だ。目を瞑っていると、岩吉は、男に無言で、揺すり起こされた。しかたなく、目を開くと、男はとことん無言。黙って水の入った器を差し出す。その目は言っていた。「これを飲め。」しかし、岩吉は堪えた。喉は乾くが、生水は危険だ。この頃、各地でコレラが発生している。岩吉は手まねで断り、男に尋ねた。「ここは何処だ?」それでも、男は強情。断固、一言も語らない。単純な言葉が通じないわけなど絶対ない。経緯から、こうなる前の時期とて、彼らは強いられたら、極限でしかたなく従った。つまり、言語に支障はないのだ。教育の機会を得られぬ老齢の者とて、実は解して対処できる。拒絶を露骨にせぬための勝手つんぼ。あまり解らぬ、あまり喋れぬ・・・のふり。岩吉は先輩達に、それを聞いていたから、別に驚きはしなかった。一部を除き、断固自分から、シャモの言語を語らない頑固者は今だ居るものだと・・・。溜息をついて岩吉は言った。「すまぬ。迷惑かけたのう。」大男の灰色を帯びた大きな瞳が微かに、きらきら動いた。再び、岩吉は昏々と眠った。幼女の声で目が覚めた。なにやら、枕元に来て、嬉々とした幼女特有の声を発したからだった。不思議なことに、この子の顔が、なぜか見覚えがある気がしてならない。「どこかで会ったことがあるのう?」岩吉は言ってみた。子供は驚いて後ずさり。女房殿が飛んできて、これで全てわかった。あの時の女だ。以前、こんなことがあった。誰かの子が、なんと肥溜めに落っこちそうになった。我を忘れて岩吉は猛突進。抱き上げて救ったことがある。折角助けてやったのに、現れた女は礼も言わず、子を抱き上げて逃げ去った。なんちゅう母親じゃ!その時は腹が立ったものだった。この騒ぎで、再び、先刻の男がやってきた。岩吉は言った。「本当に迷惑かけたのう。」頭がふらつくが、無理して、藁の布団を自分で剥ぎ取って床に起き上がってみた。すっかり薄暗い。家では、さぞ女房が心配していることだろう。礼を言って立ち去るつもりが、だらしなくも腰が立たない。初めて、大柄な男の表情に笑みが微かに見えた。男は鮮明な言語でこう言った。「やめておけ。まだ無理だ。これを飲め。」NEXT_No.3_不思議な赤い実の絞り汁TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.02
明治北海道開拓,アイヌ青年イワシピと下級官吏岩吉No.1,ハスカップの涙,ハスカップについて,栄養と効能,アイヌの言い伝え_不老長寿の妙薬ハスカップ_TOP <幕末WITH_LOVE<幕末明治大正昭和(引き摺る戊辰の影)明治の北海道開拓時代、ハスカップの涙_Ver.1アイヌの青年イワシピと、下級官吏、泣いた岩吉心の話、どうしても最後のひとこまが通じない!誤解の悲しみハスカップの涙_二人の岩吉物語時代は明治初期と思われる。場所や人物名については、現代に近いことから仮名。多少抽象的に書きます。文献によるものでなく、誰かの記憶話につき、不鮮明な部分も多々ありますが、悲しいけれど、いい話と思います。あくまで、現代の問題事に係る話題は追及しない考えなので、時代を過去と割り切って読み流して下さい。優しい心の事、書きたいだけですから、描写などでカチンの場合は、創作か?!程度で片目瞑って流して、本題の「心」の部分だけ感じていただけますと幸いです。いつの時代も、どこの国でも、侵略、蹂躙、殺戮は、つきもの。歴史は、みんなそれで成り立ってきたと言っても過言ではないだろう。だけど、ここに、こんな話もあった。悲しきかな、ラストは誤解と、心の柵。超えられない領域に、屈して、砕けて消えた。いい人も居たのに。折角心の壁が崩れて消えたのに。再び闇雲。(現在頁)■No.0_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップの涙_二人の岩吉物語【Ver.1】(現在頁下側)■No.1_移住の士族、某岩吉という男、【Ver.2】■No.2_岩吉とイワシピの出会い、【Ver.3】■No.3_不思議な赤い実の汁、【Ver.4】■No.4_青いつくしんぼう【アスパラ】、【Ver.5】■No.5_二人の岩吉の酒_二人の男の先祖達、【Ver.6】■No.6_イワシピの灰色の影、■No.7_岩吉に下された転勤命令、【Ver.7】■No.8_イワシピの予言、蝦夷の大地の神が怒る時、■No.9_約束の秋、【Ver.8】■No.10_夢幻、白い小花_ジャガイモの花、■No.11_永久の別れ、砕け散った心の絆、【Ver.9】■No.12_男達の「男の身売り」、転落地獄、■No.13_大地に風そよぐ白い小花No.1_本題の前に、ヒトコマ:ハスカップについてハスカップとは▼「ハスカップ」は、アイヌの人々に「不老長寿の妙薬」と伝わる。江戸時代の蝦夷の冬。幕命で蝦夷に赴任した侍達、雪に閉ざされる冬は、皆野菜不足。和人は皆、冬になると、原因不明の水痘病。パタパタ逝った。人々は、これを謎の蝦夷病として恐れた。その一方、昔から、アイヌの人々の世界、ハスカップは「不老長寿の妙薬」として言い伝えられてきた。ビタミンC、アントシアニン、カルシウム、鉄分他含有。美と健康の女神。 動脈硬化、疲れ目、貧血、肌の老化、ストレス・・・他、メタボ効能も。それらは現代の世立証されている。ポリフェノールは、活性酸素と闘う英雄!■アントシアニン:「強い抗酸化物質として注目の成分=生活習慣病の追放係」■鉄分豊富!:貧血予防・・・なるほど、ハスカップは本当に「不老長寿の妙薬」だった!!MORE:ハスカップについて、栄養&効能但し、それらはあくまで現代に実証された話。長い間、ハスカップの「不老長寿の妙薬」説は、一部の人々を除き、一般的には所詮迷信程度の意識で、放置されてきた。ここに、ちょっぴり悲しい明治の話。題して、ハスカップの涙。ハスカップの涙_二人の岩吉物語No.1_移住の士族、某岩吉という下級官吏男の名は、某岩吉と言う。二十代後半の下級官吏。官にはかわりないものの、実情は悲惨。現場職。使い捨て。ゴミのようなもんだった。場所は北海道と改名された蝦夷地の最果て。この男の家族は、戊辰の後、世が明治になり、東北から、こんなとんでもない地へやってきていた。【関連:■明治の下級官吏:蝦夷豪雪殉職実話、■蝦夷囚人使役1,■蝦夷囚人使役2■ここに、こんな蝦夷の官出仕の実態も。この仕事もできればあやかりたくないものだ。 :ハーバル暗殺事件記事内、処刑実行係に着目して読んでみて下さい。(注):表示先文章内、少々えぐい!ですが・・・。東北も雪国は同じ。されど、桁が全然違う。人跡未踏の原生林。官職といえど、下っ端は、貧困と大自然の生贄。彼らは、見えぬ所で、バタバタ死んでいった。炭鉱、鉱山、硫黄山の監視係は特に悲惨。彼らは、監視係とて、同じ環境に居る以上、囚人同様、「死の灰」を吸う。蝕まれて死亡者の多いこと。下っ端なんて本当に悲惨。このろくでもない蝦夷の官職。主には、禄を失った哀れ下級武士家系。加えて、戊辰の際、悪いタイミングで途中で恭順した藩やら、賊となった幕軍加担側の出身者家系が多いようだ。それらを思えば、岩吉のセクションはまだマシなのかもしれない。姿勢糺し、痩せ我慢。貧困は、官の端っくれの勲章。この時代、まだまだ続いている。武士は食わねど高楊枝的発想。NEXT_No.2_岩吉とイワシピの出会い不思議な赤い実の汁岩吉が目を覚ますと、おんぼろ小屋の中に居た。「ここはどこじゃ?」呟くなり、驚いた。目の前に、巨大な男が居る。TOP<■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流
2012.01.02
犬猫健康2012!山よりでっかい獅子は出ないワン!,犬の洋服,犬猫の介護用品,ペット,犬猫サイト新年のご挨拶,【楽天市場】新年のご挨拶、わわんのニャン!2012!山よりでっかい獅子は出ない!!ワン!今年も宜しく!わわんのニャン!みんな、健康第一、元気でガンバルわんにゃ!人の健康、栄養の話もあるワン!真下のバナー記事内には、飼い主なれば、時に及んで咬まれる覚悟で救え!・・・とばかり書いておりますが。。。偉そうに言えないもんですね。久々にやられました。我が家の猫。でも病気の子。猫は悪くない。私の油断。・・・とはいえ、腫れとります!なんのこれしき!歯を食い縛るも、二日目には、バンザイ!病院へ。抗生物質にて今日でござります。キーボードいじるのも結構多難!トホホ!長文幕末系、暫しこりゃ着手できないワン!皆様、どうぞ、お気をつけて下さいませ!犬傷と違って、猫傷の場合、患部が小さい為、つい油断。化膿!TOP<■お得ペットスクープ▼下バナー、■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流たとえ辛くても、必ず乗り越えれるから・・・ねっ!山よりでっかい獅子は出ない!!ワン!・・幾つも幾つも乗り越えた人が、あえて惚けて夢物語童話の世界に__せっせっせっ!ぱらりとせっ!本日の一件、あんまり深い意味は、ありませぬワン!
2012.01.01
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