本日は石切・額田・額田・瓢箪山界隈を自転車散歩。行程にして10km余に過ぎないのであるが、坂道を登ったり、下ったりを繰り返すので、結構いい運動になりました。
先ず 近鉄石切駅
まで山沿いを走り、石切神社への参道の坂を下る。参道の途中に千手寺という寺がある。在原業平ゆかりの寺である。
(千手寺山門・左側の石碑の後にあるのが「業平の腰掛石」)
(業平の腰掛石)
(左・本堂<光堂>、右・護摩堂<業平廟>)
千手寺
(せんじゅじ)
は役行者によって開山。空海が、この寺に止宿した際に童形の青衣の善女竜王が現れ、観音浄土の霊池に浸されていたという霊木を託されたので、この木で千手観音像を刻し、これを本尊として本寺を中興したとのこと。その後兵火によって堂舎悉く焼失し、千手観音は深野池
(現在の深北緑地にあった大きな池)
に飛び込み行方知れずとなった。
時代が下って、当地にやって来た在原業平が夜池の中に不思議な光を発するものを見つけ引き上げると千手観音であった。これを天皇に奏上すると天皇は大層喜び、業平に命じて寺を中興し、五院を建立させた。業平が没した時に本堂の右に業平の廟を築き、遺品を納めたと伝えられている。
(明治時代の落語家・桂文之助の句碑 千手寺境内にある。)
業平と 背中合わせの ぬくさかな
そろり
(注)桂文之助は後に曽呂利新左衛門を芸名とする。
(オオテマリ)
千手寺に長居し過ぎました。境内は花がいっぱい。オオテマリの白い花が印象的でした。そして、何の木でしょう。赤い若葉の木が風にそよいでいました。
石切神社参道に戻り、坂道を下る。神社詣の人がいっぱいで、自転車は殆ど進まない。
(石切神社・拝殿横のクスノキは東大阪市の天然記念物に
指定されている。)
木の花桜さんがブログにアップされていた牛の像を横目で見て、神社を後にし、南側の鳥居前の坂道を再び登ると、こんなのを発見。大西丹後守の馬乗り石だという。
ヤカモチのMTBが凭れかかっている石が馬乗石です。昔、大西丹後守というお方が、この辺りに住んでいたらしいが、彼は背が低かったので、乗馬するときは、この石の上に立ってから乗っていたとのこと。
いやはや、業平の腰掛石があったり、大西さんの馬乗り石があったり、さすが石切だけに、色んな石がありますな(笑)。しかし、この馬乗り石は、いずれ100年もすれば、ヤカモチの自転車が凭れたということで、「ヤカモチもたれ石」という名に変わるかも(笑)?
馬乗石から坂道は険しくなり、突き当りの東石切公園に着いた頃には息が切れていました。公園で暫し休憩。
(東石切公園)
東石切公園から夫婦塚古墳、額田戎神社、玄清寺、妙徳寺と回り、近鉄額田駅へ。
夫婦塚古墳は6世紀中頃の双円墳。東側石室は全長9.2m。2体が埋葬されていたことが分かっている。西側石室は全長9.6m。3体が埋葬された痕跡があったとのこと。
(額田戎神社)
(玄清寺)
玄清寺は、織田信長に従って大坂石山本願寺との戦いに参加した高内正定が、戦後その戦没者の霊を弔うために慶長2年(1597年)に建立したもの。高内正定の法名・浄翁玄清居士から玄清寺と名付けられた。彼は、古代河内の豪族、額田首
(ぬかたのおびと)
の子孫と言われている。
観音堂には観音像の脇侍として南無太子像
(聖徳太子2才像・室町時代作)
が安置されている。
昔は神と鬼は表裏一体のもの。鬼退治をするのは童子であったりするのも、神は童形で現れると考えられていたからだろう。童子は神聖な存在であると同時に恐ろしい力を持った存在であるから、これを鬼として怖れるというのも自然なことである。救済などプラス作用の面を神、祟りなどマイナス作用の面を鬼と見ていたということであるのだろう。聖徳太子像が童子姿であることが多いのは、聖徳太子を鬼
(祟る存在)
と見ていた時期があったからという見解もあるようだ。
(妙徳寺)
(妙徳寺本堂)
江戸時代に五百羅漢を安置したので羅漢寺と呼ばれていたらしい。黄檗宗の禅寺である。昭和2年まで大阪の福島にあったのが、当地に移転して来たとのこと。
妙徳寺から最後の坂を登り切ると 近鉄額田駅
である。
この後、 枚岡駅
前経由、 瓢箪山駅
の方に向ってまた坂を下って行くのだが、上巻はここまで。下巻はページを改めます。(下巻に続く)
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