本日は書店に立ち寄ったついでに、少し足(銀輪)を延ばして、花園の津原神社に行って来ました。
先日(6日)銀輪散歩で玉串川沿いを走りましたが、その「玉串」の由来となった神社であるので、表敬訪問であります。
(
若江岩田から山本へ(下)
のコメント参照。)
(津原神社・南正面)
(津原神社の由来)
上の説明板の文中、天平勝宝6年を西暦780年と表記しているのは間違いで、正しくは754年です。
この年は、かの鑑真が我が国にやって来た年であります。
因みに、この年の大伴家持は37歳。4月5日に兵部少輔就任、11月1日に山陰道巡察使に就任しています。
前年の2月23、25日にはかの春愁絶唱歌3首を作っています。
また、翌年2月には難波で防人の閲兵をしています。万葉集に防人の歌が多数残っているのは、このような折に家持が彼らの歌を採集したからだと思われます。
わが
屋戸
の いささ
群竹
ふく風の
音のかそけき この
夕
かも (巻19-4291)
うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
情
悲しも 独りしおもへば (巻19-4292)
風水害に苦しむ河内の百姓には「春愁」に浸っている暇はなかったことでしょうが、彼らも歌を作ることはあったでしょうか。
ヒバリの声を彼らはどのように聞き、夕方に鳴く鶯の声や竹の葉をそよがせて吹く風の音をどのように聞いたのか、それは記録に残っていない。
(本殿)
(津原の池)
津原の池も今は亀がゆったりと泳いでいるだけの小さな池である。
<参考>
津原神社
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