崇福寺跡から更に登って行くと夢見が丘展望台・比叡山延暦寺・ロープウェイとケーブルの乗り場「ひえい」を経て京都側の修学院へと行けるのであるが、今回は近江神宮・弘文天皇陵へと向かうので山を下ることに。
来る時にやり過ごした百穴古墳群を見て行くことにする。百穴古墳群については現地説明板をご参照下さい。
(百穴古墳群現地説明板)
(百穴古墳群)
<追記 2020年7月11日>
以下、縦長の写真が何故か横倒しになってひしゃげていたので、正しい姿に修正しました。
崇福寺への参道の道は前ページの志賀大仏を始めとして石仏の多い道でもある。
(参道の石仏)
(同上)
見晴らしのよい道に出ると琵琶湖が眼前に広がり、東岸に青く霞む山々の中に三上山がひときわ目立っていましたが、近江富士と呼ばれるのも納得であります。
(対岸には近江富士の三上山が見える。)
更に下った処でコースを右(南)に取り、南滋賀町廃寺跡を経て近江神宮へと向かう。
(南滋賀町廃寺跡)
(同上)
発掘当初は崇福寺、或いは桓武天皇の建立の梵釈寺かとも考えられたが、その後、崇福寺跡が発見されたことから(また、梵釈寺は崇福寺に近接して建てられていたものであるから)、今はそのいづれでもなく、寺名不詳として南滋賀町廃寺と呼ばれている。
(近江神宮楼門)
(近江神宮内拝殿)
近江神宮は天智天皇を祭神として昭和15年に創建された神社であるが、小倉百人一首の第1首目の歌が天智天皇のものであることもあってか、かるた名人位・クイーン位決定戦を始めとして、かるた関連の行事が色々と行われ、「かるたの殿堂」とも称されている神社である。
ということで、先ず天智天皇の歌碑から見て行きましょう。
(天智天皇歌碑)
秋の田の 刈り穂の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
(天智天皇 後撰集302 小倉百人一首1)
この歌は、万葉集の「秋田刈る 仮盧をつくり 吾が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける」(巻10-2174)の作者不詳の歌の改作であり、天智天皇が作った歌ではないが、そういう細かいことを言わないのが伝承というものである。
偐家持が今風にこれを改作すればこうなりますな。
国の
庫
の 借入れ物入り 無駄をかさね
わが消費税は 遂に増やしつつ (転嫁天皇)
(芭蕉句碑)
から崎の 松は花より 朧にて (芭蕉)
偐家持風に追和すれば、
おれおれと 言ふははなより 金めあて (鷺翁)
ですかな(笑)。
(高市黒人歌碑)
ささなみの 国つ
御神
の うらさびて 荒れたる
京
見れば悲しも
(高市黒人 万葉集巻1-33)
(柿本人麻呂歌碑)
淡海
の
海
夕波千鳥
汝
が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
(柿本人麻呂 万葉集巻3-266)
さすがに「かるたの殿堂」と称される神社だけあって、境内には多くの歌碑が建っている。一般の方の歌碑も多くあるが、そんな中に保田與重郎氏の歌碑もありました。
先日の榛原から桜井への銀輪散歩で立ち寄った白山神社境内の万葉集発耀讃仰碑の揮毫者が同氏でありましたが、ここでもご対面でありました。同氏のお墓が、芭蕉の墓でも有名な義仲寺で見掛けたように記憶しているが、さてこの記憶確かなのかどうか(笑)。
<参考> 山の際にいさよふ雲は・・
(保田與重郎歌碑)
ささなみの 志賀の山路の 春にまよひ ひとり眺めし 花ざかりかな
これは、同氏の20代半ばの作とのことです。
(近江神宮・一の鳥居)
近江神宮の鳥居前(神宮前バス停)を過ぎ、大津京錦織遺跡など見つつ、JR大津京駅を過ぎ、京阪石坂線別所駅近くの弘文天皇陵へ。
弘文天皇(大友皇子)は明治になって追号されたもので、即位の儀式もせぬ間に壬申の乱に敗れ死亡したことから、それまでは天皇とは認められていなかったものである。
(弘文天皇陵参道碑)
弘文天皇陵は大津消防署の裏手にひっそりとある。三井寺(園城寺)は大友皇子の子の大友与多王が創建した大友氏の氏寺であったのだから、この地域は大友氏の勢力下にあったのであろう。大友皇子の墓がこの地にあるのも故なしとしないと言うべきか。
(弘文天皇陵)
(同上)
御陵の前の石鳥居を潜って奥に行くと新羅善神堂という立派な建造物があった。国宝とのこと。新羅明神は三井寺初代長吏、智証大師円珍の守護神であったそうだから、これも三井寺の守護神として建立されたのであろう。説明板によると暦応3年(1339年)足利尊氏によって再建されたとある。
立入禁止の札が立っていて、中には入れませんでした。
(新羅善神堂)
<参考地図>
<関連記事> 崇福寺へ
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