7月4日の記事に記載していますが、左目の後発白内障の手術は7月3日に受けました。今度は右目が同じ状況となり、本日その手術を受けました。
<参考> 墓参・小雨の花散歩
2015.7.4.
次は左目
2014.2.10.
退院決定
2014.2.11.
まあ、手術と言っても大袈裟なものではなく、水晶体を収納している袋に生じた濁りをレーザー光線を照射して除去(つまり、濁っている袋の真ん中部分だけ除去)するに過ぎないもので、パチッ、パチッと何回かレーザー光線を照射されて終わりというものです。
詳しくは、下記<参考>をご参照下さい。小生が下手な説明をするまでもなく、お医者さんが解説して居られます。
<参考>
後発白内障
要は、白内障の手術(眼球内の水晶体を人工のプラスチック製の水晶体に入れ替える手術)を受けた後に、水晶体が収まっていた袋部分に何らかの原因で濁りが生じて、白内障と同じように物がみえにくくなる病気である。
濁った自身の水晶体は人工水晶体に取り替えられているが、水晶体を収める袋までは取り替えはできない。患者自身の袋があるから、人工水晶体を固定して眼球内に収めることが可能になるのである。この袋がなければ、人工水晶体を患者の眼球内に取り付け、固定して置くことが不可能という訳である。レンズの方が人工の物になっても、それを覆っている袋の膜は患者自身の組織の一部であるから、濁り・曇りなどの病変が生じることもあるという次第。で、レンズの中心部に近い部分の袋を破いて穴の開いた状態にするという訳である。
半透明の網か薄い膜が掛かったように見えているのが、レーザーをパチッと当てられた部分から、何処かへ吹き飛んで消えて、その部分がすっきりと見えるようになる。パチッと当てられるごとに網目部分が消えて行くというか、袋の穴が大きくなってスッキリ見える部分の面積が広がって行くのがよく分かって、その旨をお医者さんに告げると、「へぇ~分かりますか。」と感心したと言うか感じ入ったような風に仰っていました。
目の奥を覗く、と言うのは「人の心の内を読む」比喩で使われたりもするが、この場合、医者は、目の奥ではなく、目の入口近くの水晶体収納袋を見て居るに過ぎないのであるから、小生の「感じ」や「心」までは当然には見えないのでありますな(笑)。それにしても、このケースでの医者と小生とは面白い対置関係である。相互に顔を突き合わせて、眼科検診用の器具を間に挟んで、至近の距離で、医者は膜を外側から、小生はそれを内側から眺めているのですな。医者は光の当たる側から、小生は逆光でそれを見ているのである。
ここまで書いて来て、眼球の中のレンズ(水晶体)の膜を見ている小生は、レンズを通さずにそれを見ていることになる。物は目で見ると言うが、この場合、レンズは「見る側」ではなく「見られる側」。してみれば、網膜の黄斑細胞の方から脳の中の視覚中枢に至るまでの部分のことを目と言うべきであるのかも。眼球の水晶体は眼鏡のレンズと変わらず、水晶体の袋は眼鏡フレームに過ぎないということになる。もし、これらも目と言うなら眼鏡も亦「目」と言わなくてはならないことになるのではないか。
とまあ、でたら「目」なことを思ったり、考えたりしているうちに「手術」は終了。手術前に瞳孔が開きっぱなしになる目薬を点されたので、その効果が消えるまでの暫くの間は、右目の視力が回復したのかどうか心もとない心地でしたが、今はスッキリ、ハッキリになっています。
ただ、右目だけで物を見ると水平に引かれた直線などはゆるやかに波打って、少し歪んで見える。乱視かと思ったが、乱視は縦線と横線で二重に見える部分があったり、無かったりする症状。加齢黄斑変性は縦横の格子模様が中心部で盛り上がるような感じで歪んで見える症状。その何れでもないようだが、網膜の何らかの変状であり、眼鏡で矯正できるものではないそうな。
今の処、右目だけのことで、脳の補正作用も働いて、両目で物を見ている限り、殆ど違和感もなく、日常生活に何の支障もないから、放置して置きましょう。
と言うことで、後発白内障では掲載できる関連写真もありませぬ。花園ラグビー場の写真でも掲載して置くこととします。
少し古い写真です。2014年11月19日撮影のものです。現在のラグビー場はまだこのようには色づいてはいません。
次の写真も2014年10月18日撮影の古い写真です。
何やら実を付けていますが、名前が不明ということで、ブログに掲載せぬままに放置してきた写真です。名前ご存じの方が居られましたらご教示賜れば幸甚に存じます。
どさくさに まぎれ示すは もみつ葉の
青き実の木の 名をぞ知らむと (無知麻呂)
(同上)
<追記>これはサルスベリでした。小万知さんから教えて戴きましたが、
言われてみれば確かにそのようです。(2015.9.20.)
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