家
内と娘と3人で23日~24日と白浜を散策して来ました。
白浜は2009年3月以来なので9年ぶりになる。
<参考> 藤白坂・岩代から白浜へ
2009.3.17.
前回は銀輪散歩であったが、今回はただの散歩である。
海中展望塔の近くにあるホテルに荷物を預け、近くを散策。
(千畳敷)<参考> 千畳敷(和歌山県)
・Wikipedia
(同上)
(三段壁)<参考> 三段壁
・Wikipedia
(同上)
翌24日は、ホテルから海沿いに番所鼻灯台、南方熊楠記念館のある番所山公園へと散策。よく晴れた好天なるも、時々風花が舞う寒さに加えて海からの強風に悩まされながらの、物好きな散策であるが、その分打ち寄せる白波が美しい。シーズンオフとあって観光客の姿もまばら。閉まっている店も多い。
(海中展望塔)<参考> 白浜海中展望塔
・Wikipedia
(牟婁の湯)<参考> 南紀白浜温泉
・Wikipedia
(湯崎七湯の碑)
牟婁の湯の前にある湯崎七湯の碑には斎藤茂吉の歌が刻まれている。
ふる國の磯のいで湯にたづさはり夏の日の海に落ちゆくを見つ (茂吉)
この歌は崎の湯
(下掲)
から夕日を眺めて詠んだものかもしれない。
(崎の湯・写真はWikipediaより借用)
(牟婁の湯付近から白良浜方面を望む。)
牟婁の湯から500mほど鉛山湾沿いに行くと左手に白良浜で右手に小さな緑地があって、そこに有間皇子の碑がある。牟婁の湯と言えば先ず思い起こされるのが有間皇子の悲劇である。前回の白浜への銀輪旅の記事にその概略を紹介しているので、此処では記載を省略します。同記事
(下掲)
をご参照下さい。
<参考> 藤白坂・岩代から白浜へ
2009.3.16.
(有間皇子之碑)
裏面には有間皇子の事件のことが説明されている。また、側面には皇子の歌2首が刻されている。
(同上裏面)
(同上側面)
磐白の濱松が枝を引き結びまさきくあらばまたかへり見む (万葉集巻2-141)
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (万葉集巻2-142)
白良浜を通って熊野三所神社へと向かう。
(白良浜)
写真右手奥の森が熊野三所神社の杜。
(同上)
町営露天風呂の「しらすな」の脇に白良浜の甲羅法師の碑がありました。
(同上・白良浜の甲羅法師の碑)
更に行くと白良湯の裏辺りの場所に西行歌碑がありました。山家集にある歌である。
(同上・西行歌碑)
波寄する白良の浜の烏貝拾ひやすくも思ほゆるかな (山家集下1196)
(同上・西行歌碑裏面)
それにしても風が強い。風に飛ばされた砂が時に顔を打つ。
砂の飛散を防止するネットが浜に張りめぐらされているが、それでも時々砂が飛ばされて来て顔にプチプチと当たる。少し痛い。
風つよみ浜の白砂いたづらにわれに吹き来て行きがてにする (偐家持)
(本歌)風なしの浜の白波いたづらにここに寄り来る見る人無しに(長意吉麻呂 万葉集巻9-1673)
(白良浜)
(同上)
パノラマ撮影だとこんな感じになります。
(同上)
(熊野三所神社)
白良浜の方から入るこちらの参道は言わば裏口。正面は浜通りから入るもののようですが、ここでもヤカモチ流の裏口からの参内と相成りました。
境内に入ると木々が防風林の役目を果たしていて、あれほどの強風も嘘のようにピタリと止んで無風。静かである。
(同上・拝殿と本殿)
本殿脇の杉木立の間には斉明天皇行幸之史蹟の碑がありました。
有間皇子の悲劇は女帝・斉明天皇がこの地に来ている時に起こっている。
有間皇子は孝徳天皇の息子。先の天皇であった孝徳天皇は斉明天皇の弟。従って有間は斉明の甥に当たる。孝徳天皇亡き後の皇位継承については微妙な問題が絡んでいて、斉明の息子である中大兄皇子がこれを直ちに継承することが難しい状況にあったのでしょう。そこで、彼女が重祚して再度皇位につき斉明天皇となったと思われる。
中大兄皇子を天皇位につける上での最大の障害が有間皇子であったということで、有間を排除するために仕組まれたのがこの事件だとすれば、それは斉明か中大兄かのどちらかが仕組んだものであるだろう。或は、両名の意を汲んで、近頃も流行った「忖度」をして誰かが仕組んだものということになる。
白良浜を挟んで向き合うようにして斉明天皇行幸之史蹟碑と有間皇子之碑が建てられているというのも何やら面白い。
(斉明天皇行幸之史蹟碑)
(熊野三所神社鳥居)
<参考> 熊野三所神社
こちらが熊野三所神社の正面鳥居(東鳥居)。浜通り側の鳥居である。
この後、南方熊楠記念館へと向かいますが、本日の記事はここまでとし、続きは明日にします。( つづく
)
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