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明石で暮らしている長男の創「はじめ」夫婦が2月10日~2月12日の三連休を利用して宮城県仙台市に旅行し、被災地巡り、松島見物の後、11日に私の亡くなった母昌子(長男にとっては祖母ですね)の弟の達雄さん(私の叔父。面倒なので後は私の長男の立場から書き、親属関係の表現も統一します)の90歳の祝いに参加しました。そのときのことをつぎのようにメールで送信してくれましたの紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー大叔父の90歳のお祝い参加 (by 創) 2年前に一度仙台に訪れている弟の望から達雄大叔父の90歳の祝いをしないかとの計画誘いがあり、達雄大叔父から私達の結婚のお祝いをもらっていることもあり、今回休みを取って2月10日~2月12日の三連休中に妻と一緒に宮城県仙台市を旅行し、その後仙台の市川家の先祖の墓詣りと達雄大叔父の祝いの会に参加することにしました。 11日は仙台は晴れて暖かく、時折雨のような雪が降るぐらいでしたので、まず午前中から祖母の昌子ばあちゃんの実家の市川家のお墓のある正圓寺に向かい、途中で仏花を購入しました。花屋さんではサービスでマッチと御線香を頂き、仙台の人の優しさにも触れました。 正圓寺で待つと達雄大叔父の甥の和生さんが車で来られ、久しぶりの出会いに挨拶と私の妻の博子の紹介をして、お墓に向かいました。先祖のお墓には市川家、佐藤家と書いてあり、實雄曽祖父が佐藤家から市川家に養子に入った事を知りました。お墓に刻まれた没年、享年に拠ると、實雄曽祖父の没年は昭和35年、享年76,まつよ曽祖母の没年は昭和44年、享年73とのことでした。曽祖父、曽祖母の詳しい事は晩に達雄大叔父に聞く事になりました。お墓が汚れていたので暮石を磨き仏花をいけました。お墓の前で線香をあげました。手を合わせ、私自身の紹介と博子の紹介、昌子おばあちゃんの息子の秀夫がたいへん世話になったお礼をつたました。 お詣りの後、和生さんの車で達雄大叔父の住むマンションの1階にある飲み屋が本日の会場であると言われ見に行き、達雄大叔父の住むマンションも訪ねましたが耳が遠い為か出て来られず、晩のお楽しみになりました。そこを離れてパパさんが浪人中に住んでいた町を車で案内され、一度和生さんとは分かれました。 空をを仰いだらとても綺麗な青空で、パパさんが浪人中に見上げて見た青空もこんな感じだったのかと感慨深いものがらありました。 さてお次は青葉城にある伊達政宗の銅像を見にるーぷる仙台バスで向かいました。とても観光客が多くバスは一杯でしたが、東北大学前を通ったりと景観は見る事はできました。とりあえず伊達政宗さんの偉大な銅像と記念撮影をしてから、すぐにホテルに戻り、16時半に和生さんが仙台駅に迎えにくるのでお土産などを取りに帰り準備する事にしました。 16時半には和生さんが駅に来られ、弟の望とも合流し、まずは支度が間に合わなかった宣子おばさまを迎えに行き、達雄大叔父のマンションに向かいました。雪が降り出し、仙台らしくなり歓迎されてるように感じました。寛治大叔父は来らないとの事で長男で今は福島のいわき市で公務員をされているしゅんさん(46歳)が来られると聞きました。初めて聞いた名前で嬉しく思いました。大叔母を迎えに行き、達雄大叔父のマンションに向かいました。雪が降り出し、仙台らしくなり歓迎されてるように感じていました。寛治大叔父は来られないとの事で寛治大叔父の長男で今は福島のいわき市で公務員をされているしゅんさん(46歳)が来られると聞きました。初めて聞いた名前で嬉しく思いました。 十数年振りにお会いする宣子大叔母はとてもにこやかで、昌子おばあちゃんを思い出すような笑顔でした。私の妻の博子を見て、可愛いね可愛いねと言われました。少し足元はおぼつかない感じでしたが、それは寝てばかりいるためだとおっしゃっておられました。車の中でも久しぶりの再会で談笑が続き、和やかな雰囲気で会場に向かいました。宣子おばさまは台湾の事は覚えているよと言われ、川で溺れて逆さまに振られて生き返ったなどを言われていました。 会場に到着するも雪は降り続いていましたが積もるほどではなく、マンションに入り1階にある居酒屋さんに向かいました。扉を開くと和室の上がりにチョコンと座る白髪のおじいちゃんを見つけました。達雄大叔父です。すぐに目が合い、握手を交わしました。奥にはしゅんさんがすでに座席に着いていました。机の上には寿司や刺身、居酒屋さんの逸品が何点もあり華やかな雰囲気で、すぐに私が博子の紹介しょうとすると博子ちゃんだねと達雄大叔父自ら言われ、博子も喜びあいました。 しゅんさんにも紹介がすみ、座席を何処にするかを決めて達雄大叔父の横に私としゅんさんが座り、大叔父の正面に望が座り、私の正面に博子が座り、私と博子の間に宣子大叔母が座り、背もたれがあるように机を移動し、和夫さんがしゅんさんの正面に座りました。 大叔父の乾杯との一言で皆さんがグラスを合わせましさんた。達雄大叔父は毎日飲んでると焼酎のウーロン割りを、望も同じものを、私としゅんさんは生ビール、博子はウーロン茶、宣子おばさまは白湯で和生さんは運転手だったのでジュースでした。たつおじさんは呑める人の隣がいいと言われ、私ははたくさん呑みました。 達夫大叔父は「本当に今日はいい日だ、よく来てくれた」と何度も何度も言って下さり、歓迎してくれました。「毎日朝からビールを飲んでサンドイッチさんを食べ、夜には焼酎を飲んで寝て、また夜中にトイレで目が覚めたら酒を飲んで寝おり、目が覚めるから呑んでる方がいい、長生きしてるのは酒のおかげだ」ともおっしゃっておられました。「まさに酒は百薬の長だと、こりゃ100歳まで行くかもしらん」とも何度もおっしゃって、だから自分より先に死んではダメだと言われ、100歳の記念にはまたここで祝おうと皆で盛り上がりました。何度か同じ話はされることもあり、もうボケてるからなとも言われたり、耳が遠いが聞こえるとしっかり答えてくださいました。 實雄曽祖父祖が奈良を訪れた時、夏の甲子園を何度も見に行ってたのは、少し奈良に居づらいのもあってではないかと父の秀夫が考えている事について意見を聞くと、父は本当に野球が好きだったから、見に行きたいと本当に思ってたのではないかと言われてましたよ。 真面目な自分の父の實雄は真面目すぎるぐらいなのに少しずぼらなとところもあったとのことで、達雄大叔父が海軍の予科練に入隊した時も、親の実印がいったそうですが、大叔父は何処に実印があるか分かっていて勝手にその実印を書類に押して提出したと笑ってました。實雄曽祖父はそのとき驚いていたが怒る事はなかったとも言われてました。ただ父の實雄や母のまつよ、まっちゃん(昌子おばあちゃん)には悲しい思いをさせたとおっしゃいました。達夫大大叔父によりますと、愛媛の松山での海軍予科練での訓練は練習生で終わり、飛行訓練生には上がらずに陸軍で朝鮮に行った時に終戦をむかえたとのことでした。飛行機に乗る訓練はした事がなかったそうですよ。 居酒屋での楽しい会は17時過ぎ~21時前まで続き、さすがに達夫たつおじも宣子おばさまも疲労が見えてきて、解散する事にしました。達雄大叔父は普段より飲み過ぎてしまったが、自分1人で歩いて帰る、部屋までの付き添いはいらんと頑なに付き添いを拒否され、最後まで立ち上がる事なく私達と握手して見送ってくれました。和生さんの運転で宣子大叔母、望、私、博子で仙台駅まで行って和生さんと宣子大叔母とは分かれました。雪は強くなっていて、仙台が歓迎してるように思えました。 今回のお祝いの会で望が計画してくれた事で皆さんに会えて、また達雄大叔父の屈託のない大らかな人柄に触れ、皆が集まり楽しい会となりました。また仙台に行って達雄大叔父とお酒を酌み交わしたいと思いました。達雄大叔父への思いや人柄は後世に伝えて行けるようにしていきたいものです。市川家のお墓に手を合わせ、たつおじのや宣子おばさまに出会い、昌子おばあちゃんも天国で喜んでくれてると思います。あんなに可愛がってくれたおばあちゃんの孝行として少しはお返しができたのではと思います。これからも仙台の市川家の人々と共にある事を思い、日々の生活に戻ります。 追伸、翌日は起きたら外は一面銀世界、まるで仙台からまだ帰るなよと言われてるようで、予定より4時間遅れで飛行機が飛び立ちました。少しでも長く仙台にいられて幸せでした。ぜひパパさんやママさんともまた仙台に行きたいですね。これにて仙台旅行記報告を終わりますね。また色々思い出したら追伸しますね。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2018年02月14日
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3日前、大阪に勤務している次男が妻の誕生祝いのために鹿児島に帰ってきてくれました。翌日、次男が私たち両親のために霧島の温泉旅館に夕刻から1泊する計画を立ててくれましたが、その日は妻が朝からボランティアのために家を空け、次男と私で来年引退する安室奈美恵(次男が彼女の大ファン)のことなどを居間で熱く語り合いました。 その直後のことです。次男が居間から出て行き、しばらくすると隣のピアノが置かれた部屋からハッピーバースディのピアノの音が聞こえてきたのです。さらにドビュッシーの月の光(妻の大好きなピアノ曲です)のピアノの音色がきこえてくるではありませんか。私は不思議に思って隣の部屋のドアーを開けました。 次男坊がピアノを弾いているのです。次男坊は鹿児島では全くピアノなど習っていなかったので、不思議に思って理由を訊くと、2年前から母の誕生祝いのために大阪でピアノ教室に通って練習をしていたそうです。 その日の夕刻に帰ってきた妻に私たちが誕生祝いのための花束贈呈をした後、次男坊が先に紹介した2曲を弾きましたので、妻は大感激いたしました。その後、予定通り次男の運転で霧島の温泉旅館に出掛けました。 P.S. 今日(10月23日)長男夫婦から妻に誕生祝いのマットレスのプレゼントが届きました。妻は肩こりや腰痛に日頃悩まされており、今回のプレゼントはそんな母親のことを考えての睡眠時に体圧分散、寝姿勢保持のマットレスとのことで、長男の言葉によりますと「母親のことを心から思っての高額、高品質な贈り物」だそうです。妻は長男夫婦のこの優しい思いやりのプレゼントに大感激しておりました。
2017年10月22日
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私が小学校低学年の冬の季節、可愛い女の赤ちゃんを抱いた着物姿の若い美しい女性が母を訪ねてきました。その女性と赤ちゃんが帰った後、私の母は私に腹腹立だしげに彼女たちの哀しい境遇を語ってくれました。 母を訪ねて来たこの若い女性の名前を仮にA子さんとしておきます。A子さんは母が勤めていた高校の卒業生で、卒業後すぐに親同士が決めた結婚式を挙げ、彼女が身籠もった直後に浮気相手がいるらしいことが発覚し、夫から離婚話を切り出されます。前から交際している好きな女性性がいるので別れてくれないかと言うのです。A子さんは泣く泣く離婚話に応じることになりました。 母は相手の男の自分勝手さに憤り、私も幼い子どもながらにこの話に腹を立てました。ところで、こんな話とそっくり似たような外国での出来事がありましたね。そうです、英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚騒動です。チャールズ皇太子が結婚前からカミラと交際しており、結婚後も交際を続けていたという不倫が発覚しました。 ところでなぜチャールズ皇太子は、そんなに好きなカミラに最初から結婚を申し込まなかったのでしょうか。カミラは社交界の人気者ボウルズ氏とすでに結婚して子どもも生まれていました。そんなカミラ夫人との結婚など母親のエリザベス女王や周囲の王族から当然反対されて、優柔不断なチャールズ皇太子は愛してもいないダイアナと結婚することになったのです‥‥。 A子さんの夫の不倫相手の女性が既婚者かどうかは全く分かりませんが、少なくとも親たちが決めたA子さんとの結婚話を承諾し、結婚後も交際を続け、不倫が発覚したのでやむなく離婚話を持ち出したのでしょう。幼い子どもの頃にはただ腹立だしかったこの種の浮気男に対するイメージが随分変わりましたよ。優柔不断な情けない男の姿が自然と眼に浮かぶようになりました。 A子さんは見るからにお嬢さん育ちのおとなしい女性でしたから、夫の勝手な離婚話をやむなく承諾したのでしょうが、この後に私が知った似たような離婚話における奥さんたちの対応には様々なものがあるようです。不倫相手の女性の家に押しかけて大きな声で罵詈雑言を浴びせるってのがありますね。自殺未遂を繰り返し夫の浮気に対する自らの精神的苦痛を表現する手もあります。実家に帰って、夫が謝りに来るのをじっと待つ方法もありますね。しかし、チャールズ皇太子的な夫は所詮は優柔不断な駄目男ですから、しばらくはお嫁さんの元に戻って来るかもしれませんが、相手の女性との腐れ縁は切れないでしょうね。 死んでも君をはなさない 地獄の底までついていく oh,please stay by me,Diane.おっと違った Camillaですね。
2017年09月23日
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私の父親についての記憶は天狗のお面の恐怖とともに始まっている。幼い私の目の前に突然真っ赤な色をした大きな鼻の厳つい顔の化け物がニューッと現れ出たのである。私はそのときギャーッと叫んで別の部屋に逃げ出したと思う。 しかし厳つい顔の真っ赤な大きな鼻のお化けは泣き叫ぶ私の後を追いかけまわし、泣き叫ぶ子どもの声を聞きつけた母が現れて、その怖いお化けもやっと面を脱いでくれた。その天狗のお面の記憶が私の父親に対する最初の記憶だったように思う。 関西の奈良のことであるから、父親が天狗のお面を被って私を驚かせたのは、秋田のなまはげの風習を見習ってのものではなかったであろう。ただ幼い子どもが泣いて騒ぐのが面白いかったにすぎないと思われる。私の父はそういう人であった。 この私の幼い頃の記憶は、私の両親が祖父母の暮らす奈良市の大豆山(まめやま)に身を寄せるようになった頃でことである。そして私の父親の記憶は上に述べた天狗面の恐怖の体験と重なっている。天狗のお面は祖父が集めていた能面の一つであった。
2017年09月13日
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私が小学校低学年の頃、学校の教師をしていた私の母は、ときどき日曜日に幼い私を連れて生徒の家庭訪問をしたことがあります。おそらく母は、我が子が日曜日に独りぼっちで過ごすことが可哀想だと思って、家庭訪問に私を連れて行ってくれたのでしょう。 そんな家庭訪問の思い出の一つとして、いまでも強烈な記憶として残っている体験があります。それは奈良市から近鉄の電車の駅を乗り継いでたどり着いた農村地帯にある生徒の家に家庭訪問をしたときのことです。訪れた大きな藁葺き屋根の豪邸は、青々とした水田の広がりのなかに建っていましたが、私たち親子を見つけると周辺で遊んでいた子どもたちがワーッと集まって来ました。その子どもたちの様子が奈良の町で育った私には異様なものに感じられました。こんな表現を使うと大変失礼なこととは思いますが、土人の子どもたちに取り囲まれたように感じたのです。子どもたちはみんな真っ黒の顔をしており、着ているランニングシャツも土と泥に汚れていました。 いまではテレビに映る農村の子どもたちは街の子どもたちと大きな違いを感じることがありませんが、私の子どもの頃(1950年代末から1960年代初)は全国的に都市と農村に文化的に大きな格差があったのですね。 訪れた家庭は靴下生産工場を経営していたのでしょう、お父さんが私たち親子に見せるために織機を一台外に出して、女子職員によって靴下を編み出す様子を見せてくれました。この昔の記憶からネットで調べてみましたら、奈良県は全国の5割を占める生産量ナンバーワンの県だそうで、昔から靴下生産が盛んだったとのことでした。
2017年08月31日
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私の両親は戦後一年後の1946年12月に台湾から奈良(父の生まれ故郷)に引き上げ、高畑の伯父の家に一時身を寄せ、そこの農機具小屋で母のお腹のなかにいた私を出産しました。その後、大豆山(まめやま)町の私の祖父母の家に移り住みました。 母にとって奈良は同地の奈良女子高等師範学校で学んでいたのですか、寄宿舎生活しかしておらず、奈良独特の風習文化には馴染んでおらず、女高師卒業後は台湾に戻り、台北の女学校の先生をしていました。 私の祖母は目から鼻に抜けるような賢い人で、太田の奥さんは接待上手だとの定評があったのですが、その祖母がたまたま用事で家を空けていたそのときのことです。祖父を訪ねて一人のお客さんがやってきました。祖母に代わって母が接待しなければならなかったのですか、お客さんが帰った後、祖父が母に「皇后さんやな」とポツリと言ったそうです。 その祖父の言葉、私の母にとっては義父の言葉になりますが、普段は寡黙な人の「皇后さんやな」の寸評はあまりにも的確すぎて母の心を深く傷付けたようです。母は幼い私に繰り返しこのときの「皇后さんやな」との批評がショックだったと回想していました。 この祖父が母を評して「皇后さんやな」と言った「皇后」とは、昭和天皇の香淳皇后のことで、昭和天皇が1945年終戦の翌年1946年1月に「人間宣言」をしてから1954年にかけて全国を巡幸したときに一緒に付き添っていた皇后をイメージしてのものだと思われます。言葉の表面にはお嬢さん育ちの気品のあるお嫁さんだとの褒め言葉と理解できますが、母はその言葉の裏に全くお客さんに対してまともな接待も出来ない役ただずの気が利かない嫁だなという皮肉が込められていると理解したのです。
2017年08月20日
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仙台の市川寛治叔父への返事 次男の望(大阪の病院勤務)が東北地方太平洋沖地震の被害状況を学ぶために仙台市に立ち寄ったときに、私の亡母昌子の姉弟(達夫叔父、寛治叔父、宣子叔母)に連絡を取って、そのときに私が四月に自費出版した拙著『風が開いた書斎の窓』を手渡すことになりました。 ところで仙台市には達夫叔父、寛治叔父、宣子叔母さんたちが住んでいるのですが、私の子どもたちとはどのような親類関係になるのでしょうか。辞書で調べましたら大叔父、大叔母ということになるそうです。 次男の望は達夫叔父さん、宣子叔母さんとは寿司屋さんで寿司をおごってもらったそうですが、残念 ながら寛治叔父さんとは今回はお会いできませんでした。その寛治叔父さんから拙著贈呈に対するお礼の葉書が届きましたので、その返事を書くことにいたしました。 市川寛治叔父への返信内容 前略 拙著贈呈へのお礼のお葉書をいただき、「昌子姉のことなど思い出し、懐かしく読ませていただきました」等のお言葉をいただき感激しております。 私の大学浪人時代、仙台の叔父さん、叔母さんたちには大変お世話になり、そのことは拙著『風が開いた書斎の窓』の短編小説「目に染み入るような青い空」にも書いておりますが、そんな叔父さん、叔母さんに私の次男が去年、今年と二回に渡って連絡を取り、温かく歓迎して下さったことに痛く感激いたしました。 ただ残念ながら、次男の望の仙台訪問では、寛治叔父さんとは今回はお会いできなったとのことです。それでも寛治叔父さんから久しぶりにお葉書をいただき、大喜びしております。 私が大学浪人時代、確か寛治叔父さんは大学卒業後銀行に就職されて6、7年経った頃だったと記憶しています。生意気な私はいろいろ議論をふっかけ、「大人」の寛治叔父さんから非常に真面目に反論していただいたことに驚くとともに感激したものでした。 そんな時代から半世紀以上過ぎ、私は70歳、叔父さんは82歳になられたとのこと、あのときのことを懐かしく思い出す今日この頃です。叔父さんはきっといまも聖書の勉強会を真面目 に続けておられることと思います。いつまでもお元気でご活躍下さい。 敬具
2017年08月12日
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頭部挙上訓練(Shaker訓練) 昨日(8月3日)、言語療法を受けているとき、水を飲む場合、よく咳き込んで困っているのだが、どうすればいいかと相談しましたら、シャキア訓練(頭部挙上訓練 Shaker訓練)を行えば良いと教えてもらいました。 このシャキア訓練法の目的は、舌骨上筋群など喉頭挙上にかかわる筋の筋力強化を行い、喉頭の前上方運動を改善して食道入口部の開大を図るものです。食道入口部の食塊通過を促進し、咽頭残留(特に下咽頭残留)を少なくする効果がありまう。 シャキア訓練法のやり方は、仰向けに横になり、肩を床につけたまま頭だけを足の指が見えるまで拳上する方法です。疲れない程度で30秒程度持続し、休憩を入れながら5~10回繰り返します。できれば1日3回行い6週間継続します。施行中、口を閉じて訓練したほうがいいですよ。
2017年08月04日
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鹿児島市の高見馬場リハビリセンターに通うようになって、重度の脳梗塞を起こした後の平川法によるリハビリとは、脳障害部分の完全回復治療を行うものではなく、脳障害を起こした部分以外の場所の反復訓練により障害の再建・強化を図ることにより健康回復を目指すものだと教えてもらいました。 この川平法のリハビリとは、鹿児島大学名誉教授の川平和美先生が考案されたもので、(1)興奮を繰り返し伝えた回路は強化し(2) 同時に興奮する神経路は結合し、強化される、との認識から、促通反復療法による脳の神経回路の再建・強化を目指すリハビリ療法だそうです。 なお、私の場合は軽度の脳梗塞なので、下肢、手首の筋力トレーニングや呂律(ろれつ)がまわらない「構音障害」に対しては、口唇や舌の上下、左右の開閉や出し入れを繰り返す療法がおこなわています。
2017年07月28日
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今日もリハビリの話をしたいと思います。私がリハビリの大切さを痛感したのは、年老いた八十八歳過ぎの父が肺に水がたまり、治療のために歩いて病院に入院したのに、僅か四日間ずっと横になっていただけで足腰の筋力がすっかり弱り、リハビリ治療も受けることなくすぐに車椅子で退院し、そのまま寝たきり老人になってしまったという怖い経験があるからです。 私が今年五月一日に軽い脳梗塞を起こし鹿児島医療センターに入院しましたが、入院後四、五日して理学療法、作業療法、言語療法のリハビリを受けるようになり、私も大変真面目にこれらのリハビリに取り組みました。理学療法は主として足腰のもみほぐしからひとり立ちでの歩行訓練、作業療法では記憶障害の有無を確かめた後に腕や手足のもみほぐし、言語療法ではろれつが回らなくなって発話が困難になった口や舌の上下、左右に動かす訓練がなされるようになりました。 鹿児島医療センターでは三週間で退院し、すぐ高見馬場のリハビリセンターに毎週一回通うようになり、同じく理学療法、作業療法、言語療法のリハビリを各四十分受けるようになりました。 脳梗塞を起こした後のリハビリとは、脳障害部分の完全回復治療を行うものではなく、脳障害を起こした部分以外の場所の訓練により障害の補充を図ることにより健康の回復を行うものだそうです。退院後、リハビリセンターの訓練も受けて二ヶ月近く経ち、随分と健康が回復したようです。
2017年07月14日
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前回書きましたが、映画鑑賞のために六月二十七日に街歩きして、街の鏡に映るあまりにも老化した我が姿にショックを受けた話を書きましたが、軽い脳梗塞のために鹿児島医療センターで早期治療を受けて退院後、新たに週1回高見馬場のリハビリセンターに通うようになりました。 私が受けるリハビリの内容は、理学療法、作業療法、言語療法の三療法に分かれており、計二時間たっぷりあります。一番目の理学療法は足腰をもみほぐした後に各種の歩行訓練を行い、三番目の言語療法は些かろれつが回らなくなった発話訓練を行いますが、二番目の作業療法なるものは毎週内容が異なっています。 最初に受けた作業療法は、認知症の症状が強まったときの私の父になされた記憶テストのようなもので、二回目は主として手首のもみほぐし、三回目は各種形態をした大小異なるコマの並べ替えや輪投げといったように日によって異なるんですね。それでウィキペディアでリハビリの「作業療法士」を調べてみましたら、つぎのように説明されていました。「作業を通して健康と幸福な生活の推進にかかわる職業である。作業療法の主目標は,人々が日々の生活の営みに参加できるようにすることである。作業療法士は,こうした成果を達成するために,人々が自らの参加能力の向上をもたらすような事柄に取り組めるようにしたり,参加をよりよく支援するための環境整備を行ったりする。」 実際に作業療法を担当されている方にもお訊きしましたら、非常に熱心にいろいろ説明して下さいましたが、私なりにまとめると、普段の日常生活の様々な作業が滞りなくできるようにするリハビリなんだろうということです。 どの療法士さんからも優しく熱心なリハビリを受けることが出来ますし、また趣味の話や社会の出来事などの日常会話も楽しめますから、会話すると言えば妻か看護師さんぐらいだった日常生活に新たな楽しみが加わったようです。 ところで私のリハビリ楽しそうですが、療法士さんはみんな女性の方なんだろうと誤解されるかもしれませんが、事実を明らかにしておきますと、理学療法士、作業療法士、言語療法士の三人全員が男性です、念のため。
2017年07月08日
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5月1日より軽い脳梗塞のため鹿児島医療センターに入院しておりましたが、昨日(5月20日)に3週間で退院することが出来ました。 入院期間中、お医者さんや看護師さんたちからの手厚い治療や看護を受け、大変感謝しましたが、やっぱり思うように体を動かせないことは辛いことですね。 特に困ったのは排便のことです。体がよくなるに従いトイレも使えるようになったのですが、それでも看護師さんの付き添いは必要です。そのときにはナースコールを押してトイレ使用をお願いするのですが、現在便秘気味の私の場合、尿意を催すことと実際の排泄との間にかなりのタイムラグがあり、下手をすると一日中ナースコールを押すべきか押さざるべきをひたすら考えることになってしまいます。「押すべきか押さざるべきか、それが問題だ」ですね。 まるで人生とはナースコールを押す適切な状況を判断することにすごい意味があるようなな気持ちになり、トイレで空振りになった時にはとても申し訳のない気持ちになり、つぎはヒットを必ず打ちたいものだと自分を励ますしかありません。こればかりは猛練習を重ねることにより成果が発揮できるようになるものではありませんからね。 退院できて何が嬉しかったかと言えば、トイレが自分の意思で自由に使えるようになったことです。すると不思議ですね、トイレに行くことそのものが激減して、 人生には他の大切なことがあることを考える余裕が生まれ、人間らしい生活を取り戻すことが出来るようになりました。
2017年05月22日
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4月26日に拙著『風が開いた書斎の窓』出版を依頼していた南方新社からお昼頃に納品があり、その日の夜には、大阪に勤務している次男が私の誕生祝いにJRで鹿児島に帰省して来てくれることになりました。次男を迎えに鹿児島中央駅に行く途中、車中で私が妻に明石にいる長男夫婦は今回のゴールデンウィークを利用しての帰省は無理だろうなとつぶやきましたら、「二人一緒に都合を付けるのはなかなか大変じゃないの」とにべもない返事。「それじゃ、拙著の出版を祝う家族会は5月頃にでも神戸で開こうか」と提案しましたら、これにもまた「そんなに急がなくていいじゃないの。6月頃にしたらどうなの」とのつれないお返事。妻は私の透析治療のための週3回の病院通いに加えて、最近になって自分の母が腰の骨を痛めたため手術を行って入院しており、そのための病院通いもあり、なにかと忙しいのだろうなと思いながらも、私は妻のこんなつれない返事に些か機嫌を損ねて車内で黙り込んでしまいました。 鹿児島の拙宅で一泊したは次男は翌日の4月27日の夕刻にはもう大阪に帰るとのこと、鹿児島中央駅近くの寿庵という黒豚料理専門店のお店でお別れの夕食をすることになり、私が先にお店の人の案内で妻が予約してくれていた部屋に入ったとき、ビックリ仰天、そこには全く予想もしていなかった二人の人物たちが待ち受けていました。なんと明石に暮らす長男夫婦だったのです。とても驚いたのですが、後で聞くと妻と子どもたちで私の古希と出版を祝うサプライズ企画を練ってくれていたとのことでした。いつも迷惑を掛けてばかりいる妻と多忙な中を都合を付けてお祝いの会を開いてくれた子どもたちの優しさにただただ感激、いゃー、子どもたちはひねくれ者の父親に全然似なくて本当によかった、よかった。 私から兄弟二人に拙著の贈呈式の後、彼らからは私への古希の祝いとして風呂敷に包まれた桐の四角箱に入った大きくてずっしり重たいものをプレゼントしてもらいました。額縁大の大きさですから、もしかして私の遺影かな、なんてこともふと頭を横切りましたが、いやいやまだちょっと早すぎるだろうと、風呂敷包みを解いて箱を開けてみるとそこには毎年4月27日(私の誕生日ですね)の毎日新聞の記事一面と番組欄を2016年まで69年間を裏表両面に纏めたものでした。これに次男がサントリーのウィスキー「響」17年も添えて贈ってくれました。 私は高校生の頃、凡河内久躬恒(おおしこうちのみつね)が詠んだ「今さらに なに生ひいづらむ 竹の子の 憂き節しげき世とはしらずや(我が子はいまは筍のように元気にすくすく育っているが、人生には辛いことがの多いことをいまは知らないのだろうな)なんて和歌に強く共鳴するようなかなり屈折した人間でしたが、こんな嬉しい誕生日を迎えるとは想像もしていませんでした
2017年04月28日
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私は奈良市に生まれ育った人間ですが、昔から奈良に伝わる「東大寺のお水取り」、「春日大社の節分万燈籠」等の全国的に有名な伝統的行事を見物した経験がありません。それは私の両親、特に母が奈良の伝統行事を意識的に嫌っていたことと関係があるようです。 そんな私でも、一月の若草山の山焼きは、家のほぼ真東に望める小高い若草山の数カ所から火が点けられて全山に燃え広がって赤々と夜空を焦がす様子を毎年見物することが出来ましたし、十二月の寒い時期に開催される春日若宮おん祭には、幼い頃から四才年上の従兄弟と連れだって、母から数枚渡された百円札をポケットにねじ込んで、時代行列見物や賑やかに立ち並ぶ露天での買い物を大いに楽しんだ記憶があります。 奈良の子どもたちにとって「春日若宮おん祭」とは、奈良市内を牛に引かれた御車に乗った十二単の女性たちや鎧甲を身に纏った武者行列、白房の付いた大きな槍を担いだ奴さんたちが先頭を歩む大名行列等の時代行列を見物した後、様々な物が売られている露天で買い物を楽しむことでした。 張られたテントに立ち並ぶ露天には綿菓子、水飴、ソース煎餅、たこ焼き、お好み焼き、赤、白、黄色の派手な飲み物、お面、射的、金魚すくい、ヨーヨー釣り、段ボール箱に入れられたヒヨコ、ヤドカリ、花火、針金細工等々が売られていました。 特に記憶に残っているのは、沢山の子どもたちが群がるその前でテキ屋のおじさんが巧みな口上とともに口に小さな笛を含ませて様々な音を吹き鳴らしたり、紐の上を地球ゴマが見事に綱渡りする曲芸で、子どもたちは大いに購買欲をそそられたものでした。しかし、おそらく購入後に上手く笛が吹けたり駒の曲芸が出来た子どもたちは少なかったのではないでしょうか。 なお、地球ゴマについて言いますと、テキ屋のおじさんが売っていたのはタイガー商会の本物の地球ゴマだったそうで、子どもたちが買わされたのはほとんどがニセモノの商品だったようです。そりゃー、紐からすぐ落ちますよね。はい、お話のオチが上手く決まったようです、ちゃん、ちゃん。
2017年01月23日
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母が亡くなったのが16年前の2001年1月15日でしたが、諸般の事情により今日1月14日に十七回忌の法要を行いました。 お坊さんの長い念仏を聞いている間にいろいろ生前の母のことを回想し、特に若い頃の母と年老いた頃の母との相違に驚いたことが思い出されました。 よく最近になって耳にするのが、知人の近親者が年を取って怒りっぽくなったという話なんですが、これは老化に伴う自己抑制力や理性の低下が原因しているとよく言われます。それに対し、私の母は年を重ねるなかで性格が非常に丸くなって行ったことに驚かされたものですが、それはやはり母が理性の人だったからだと思います。 若い頃の母は父の浮気に激しい怒りを表し、社会における男女の不平等に憤り、古くからの伝統的なものも全て因習的なものとして毛嫌いしていました。しかし歳を重ねるなかで性格が穏やかになり、なにかあるとすぐあいかわらず怒鳴り出す夫に従順な妻に身変していました。考え方も保守的になり、奈良市の油留木町にある先祖の土地を絶対に他人(ひと)の手に渡してはならないと言い出したことには大いに驚かされたものです。 油留木の家は幕末に建てられたもので、先祖代々に渡って東大寺の寺侍だった太田家の武家屋敷風の建物でした。しかし明治になって失職した太田家の先祖(私の曽祖父は太田頼傳とのこと)は困窮して家と土地のほぼ半分は手放したそうです。私の両親は祖父からこの奈良の油留木の古い家を受け継ぎ、私たち一家はリホームを何度も繰り返しながらこの家に長年住んでいたのですが、両親も私もそれぞれ仕事のために奈良から離れ、油留木の家は知人に貸していました。 私の両親は退職後、鹿児島市に住む息子である私の家の近所に新たに家を建てて移り住んで来たのですが、母が奈良の油留木の「先祖の家」を絶対手放すなと言い出しました。太田家の菩提寺に両親が墓参りしたのは、祖父母が亡くなり納骨式を挙げたときくらいだったと記憶しています。それだけに母が太田家の先祖の土地を守れだの手放すなと突然言い出したことには驚かされたのです。 しかし母が他界し、また奈良の油留木の家に住んでいた知人も亡くなった後、私は父と相談してこの油留木の家を取り壊し、土地を隣人に売り渡すことにしました。私にとってこの油留木の家には「辛い思い出」が山積しており、父も「先祖の家」に対する執着など全くなかったからです。 奈良の油留木にある「先祖の土地」を隣人に売り渡してほぼ半年後の夏の暑い日、私は妻と一緒に鹿児島から奈良を訪れましたが、百坪近い「先祖の土地」はまだ敷地内にコンクリートを打っている最中でした。そしてその土地は驚くほど狭くて小さなものでした。
2017年01月14日
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私の義父の本田又雄が先月中旬に他界しました。享年90でした。本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。 義父の葬儀も無事に終わった後、関西に勤務する私の長男、次男から「じいちゃんの思い出」についてのメールをもらいましたので、義父への追悼記念としてこのブログにアップさせてもらいます。 なお初孫のはんちゃん(明石の福祉施設勤務)は、福岡の病院で産まれています。当時妻の実家が福岡に在ったからです。義父は毎日仕事帰りに初孫の顔を見に病院に通いました。鹿児島に帰った初孫のお食い初めの日には義父が福岡から駆けつけて祝ってくれました。妻がはんちゃんを連れて福岡の実家に里帰りしたときには、いつも義父が嬉しそうに「はんちゃん、はんちゃん」と言って初孫と一緒にお風呂に入っていたものです。また自転車に乗せて散歩によく出掛けており、そのおじいちゃんと孫のほほえましい姿が忘れられません。大泉逸郎が「孫」という題名の歌謡曲で「なんでこんなに可愛いのかよ/孫という名の宝もの」と 歌っていますが、まさにその通りの思いを持ったおじいちゃんがそこにいました。 妻の両親が鹿児島に移ってからも、明石に就職したはんちゃんが鹿児島に帰って来たときはいつも義父母の家に立ち寄っていました。義父が88才になったとき、はんちゃんが米寿のお祝いを率先して企画し、4人の孫たちがおじいちゃんに帽子や花束を贈呈していました。はんちゃんが帽子をじいちゃんの頭に被せたときは、些かはにかみながら祝いの席のみんなに披露していたものです。 義父ははんちゃんが年頃になったとったとき、「はんちゃん、結婚はまだかい」といつも声を掛けていましたから。そんな初孫が結婚すると聞いたときは大喜びしたものです。ところが彼の結婚式の約1ヶ月前に腰骨を折ってしまい、神戸での結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。はんちゃんは初孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。 そんな初孫のはんちゃんがじいちゃんの思い出としてつぎのようなことを書いています。「まず1つは焼酎です。福岡の福間に遊びに行き、私はじいちゃんの膝や傍に座り、みんなで食事を囲んだときに、必ず焼酎にポットからお湯を入れて、お湯割りを飲んでいました。あの、芋焼酎とじいちゃんの匂いは今でも思い出します。 次に2つ目は自転車です。孫達みんなじいちゃんの自転車の後ろには乗せてもらってます。色々連れて行ってもらいましたが、行き着く場所の思い出ではなく、私は、真面目なじいちゃんが道行く若い女性に『お姉さん! 今何時ね?』と熊本弁で声をかけたことを鮮明に覚えてます。なぜかというと、真面目で真っ直ぐなじいちゃんが、若い女性に声をかけるだなんて、と驚いたからです。ただ時間が知りたいだけの事だったんでしょうけどね。 3つ目は、マッサージと就寝の時間厳守です。これも福岡の福間に孫が遊びにきても、6時半か7時半くらいか忘れましたが、必ず決まった時間には二階に上がり、マッサージのベッドでマッサージしてましたね。それから就寝するようで、朝まで下りてくることはありませんでした。孫が来ようが自分の決めた時間を守るじいちゃんでした。 この3つ以外にもたくさんエピソードはあります、初孫として愛されていたことはパパさんの方が知ってるのではないでしょうか。福間の広い家に優しい笑顔で迎えてくれたじいちゃん。いつも笑顔で、親しみやすかったですね。結婚はまだかと手紙が来たり、冗談なのか分かりませんがもう諦めたなんて手紙が来たりしたものです。私の結婚式には喜んで参加してくれましたね。晩年は耳が遠いのもあったのか、あんまり思いを話せる事はなかったですが、手紙をたくさん頂きました。手紙を返す事が少なくすいません。 真面目で2人の娘にも4人の孫にも、ばあちゃんにも愛されていたじいちゃん。みんな誇らしく思っています。最後は遺す言葉も伝えられず無念だったと思いますが、きっと私達の声は届いていて、私の休みに合わせて旅立ちましたね。最後まで人様に迷惑かけないように、真面目なじいちゃんらしいな思しました。本当にありがとうございました。私の子供達にもしっかり伝えていきます。」 また次男ののんちゃん(大阪の病院に社員として勤務)も下記のような本田のじいちゃんについての思い出を書いています。なお彼は、鹿児島で産まれています。「僕が小学校入るか入らないかだった頃、両親と兄と4人で鹿児島から福岡の福間まで在来線と特急電車に揺られて会いに行ったことをいまでも覚えています。当時で片道5時間くらい、普段の生活で電車に乗る機会がないので、それだけでわくわくしたものです。福間駅に着くとおじいちゃんとおばあちゃんが改札口に待っていてくれて、『よく来たねー』って本当に笑顔で喜んでくれたのが、いまでも忘れられない嬉しい思い出です。いま思えばこの時に、僕の中でのおじいちゃん、おばあちゃんっていうのは、離れていても温かくて優しい存在なんだなってことを強く認識させられたように思います。 そんなおじいちゃんは、うる覚えですが自転車の後ろに僕を乗せて、買い物やプールに連れて行ってくれたような記憶があります。僕を楽しませるために家の近くを何度もぐるぐる回ってくれたときに、『じいちゃんこの道さっき通ったよ』って僕に突っ込まれたみたいで、そのことを晩年よく楽しそうに語ってくれました。 鹿児島に帰省したときも、僕の同級生のプロ野球選手のことを話のきっかけにして、僕の仕事のことをとても気にかけてくれました。また戦時中のことなど話してくれました。どれにおいても忘れられない思い出です。 最後に一つだけおじいちゃんに謝らないといけないことがあります。それは何回か手紙をもらったにもかかわらず、返事を書けなかったことです。ごめんなさい。もうおじいちゃんに返事は渡せないけど、心の中にいるおじいちゃんに感謝し、生きていきたいと思います。おじいちゃん本当にありがとう。」 本田のおじいちゃん、本当にありがとうございました。真面目な勤め人であり、また優しい家庭人だったおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思いますよ。
2016年12月02日
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私が大学院修士課程2年生の冬の頃のことである。 エス教授が専攻内の全院生6人を研究室に集め、にこやかな笑顔で「みなさんに嬉しいお知らせがあります」と話を切り出し、「教授会でみなさんと一緒に学んでいるエヌ君(博士課程2年生)が助手として採用されることになりました」と伝えたのである。エス教授としてはここでその場の院生たち全員から拍手が起こることを期待したはずであるが、ただ一人の拍手も起こらず、研究室内は水を打ったように靜まり返った。 そのとき、研究室内の静寂を破ってその場に集まった院生としての第一声を発した人物がいた。誰あろう私がその人物であった。「大変嬉しいお知らせだと思います。ただ本学の教員採用には学生の声も前もって聞いて決めると聞いていますが、教授会決定前に新たな教員採用人事について院生はなにも聞かされていませんでした。」 そのとき私はそんな疑問を呈したのである。当時、私は大学院生自治会の委員をしていたので、耳にしていた大学紛争当時に決められたという教員採用規約をその場の院生たちにただ伝えようとしただけであり、私の発言などに賛同の声などあがるまいと思っていたのだが、なんと院生から私に賛同する複数の声があがり、「それもそうですから、院生で相談させてもらいたい」ということになってしまった。そしてなんとなんと専攻内の院生の多数決で今回の教員人事で院生との話し合いを新たに持つまで無期限の大学院専攻内の授業ボイコットを行うことに決まってしまった。 いま考えると、いやそのときも私自身は大学紛争時に決められたという教員人事にまだ学問的に未熟な学生の声も反映させるなんて学内規則には疑問を感じており、そんな学内規約などに賛同の声などあがるまいと思っていたのに、無期限授業ボイコットになってしまったのには驚いてしまった。こう言うのをなんと喩えたらいいのだろうか。「瓢箪から駒が出る」とか「籔をつついて蛇を出す」なんて言うのかな、それとも同じ「藪」なら「藪から棒」に物事が決まって慌てふためいたと言うべきか。そして私は言い出しっぺとしてエス教授の研究室にそのことを伝える役目まで仰せつかってしまった。 温厚な人柄で学問一筋のエス教授は、私の報告を聞いて非常に困惑され大いに動揺されたようであったが、この老教授はなんとか「来週中に専攻内の院生のみなさんと教員とで話し合いを持ちましょう」との返事を下さった。 さて、その一週間後、研究室に院生とエス教授、エス助教授、ケイ講師の教員3人が集まり、仕方が無いので私が先週と同じことをまた述べたのであるが、私が言い終わるやいなやエス助教授が大きな声で「馬鹿なことを言っちゃいけない!! 大学院生と言えどもまだ学問的には評価の定まらぬ学生身分だ。そんな諸君が大学の教員人事に口出しするもんじゃない」と一喝された。 このエス助教授こそ、新進気鋭の研究者として私が専攻していた学問分野で高い評価を得ていた学者で、私もこの方から薫陶を受けようと志した先生であった。ただ残念ながら私が修士課程に入学した1年目には病気入院しておられ、2年生後期から大学院で演習を受け持たれ、院生各自が専攻分野で興味を持った論文の要約紹介を行い、私も発表の準備をしていた頃であった。 私はそのとき平伏して「ハハーッ、誠におっしゃる通りでございます」と言うべきだったのだろうが、そのときは院生代表としての立場もあり、なんだかんだと理屈を付けて反論し、他の院生たちも気分を害して話し合いは物別れとなってしまった。 専攻内の院生による授業ボイコットが一ヶ月近く続いた頃、博士課程の先輩がエス教授の言葉として「このままだと授業日数が足らなくなって、みんなの単位が出なくなることを心配しておられるよ」と私に伝えてくれたので、渡りに船と専攻内の全院生に集まってもらい、この授業ボイコットはなんとか終わりを告げたのであった。 私たちを叱りつけたエス助教授は、その年の11月に43才で他界された。病名は閉塞性肝炎とのことであった。先生の葬儀や実家に帰られる奥さんのために書籍の後片付けのお手伝いをしたことが哀しい思い出としていまも記憶に残っている。
2016年11月26日
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今月の14日に義父の本田又雄が他界しました。享年90でした。 義父の本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。 葬儀の喪主となった義母の挨拶文にはつぎのようなことが書かれてありました。 「旧電電公社で仕事に励んだ、温厚な夫でした。家族を支え、優しく子どもたちを導きました。運動会で親子リレーに出場したり娘に算数を教えたりしていた姿が胸に浮かびます。 後年の夫は、テレビでスポーツ観戦を楽しむなど、穏やかに暮らしました。若い頃から続けていた囲碁は五段の腕前で、大会やトーナメント優勝していたものです。孫に慕われ、『真面目に仕事して、家族を守ったじいちゃんはすはごいね』と言われて微笑んでいました。(中略)今年五月に体をくずすも、リハビリに励んで初孫の結婚式に出席した夫。笑顔を輝かせていた様子が偲ばれ、別れの切なさがつのります・・・。今はただ、心からの感謝を伝え、かの地へと見送ります。(後略)」 上の挨拶文に「リハビリに励んで初孫の結婚式に出席した夫」と書かれていますが、その「初孫」とは私の長男のことで、明石に勤務しているのですが、神戸で今年の7月2日に結婚式を挙げました。義父は可愛い初孫の晴れ姿を見るために車椅子に乗って鹿児島からはるばる神戸まで新幹線を使って結婚式に参列しました。そのときの嬉しそうな笑顔を思い出すとに胸にこみ上げてくるものがあります。私の長男も孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。おじいちゃん、本当にありがとうございました。すばらしいおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思います
2016年11月18日
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私が小学校のころ、仲良し三人組の思い出をこのブログにアップし、「仲よし三人組は順繰りにお互いの家を訪問していつも楽しく遊ぶようになりました。漫画雑誌の貸し借りとかオモチャの連発銃で西部劇ごっこをしたり、近所の川でザリガニ取りを楽しんだこともありました」と書きましたが、その「漫画雑誌の貸し借り」の思い出についてもう少し詳しく紹介したいと思います。 漫画月刊誌『少年』を毎月購入していました。この『少年』には手塚治虫「鉄腕アトム」、横山光輝「鉄人28号」、堀江卓「矢車剣之助」等の人気漫画が連載されていたからです。 仲良し三人組の田岡くんは『少年画報』を購入しており、同誌には武内つなよし「赤胴鈴之助」、桑田次郎 「まぼろし探偵」、河島光広「ビリーパック」等の人気漫画が連載されており、もう一人の山形くんは『冒険王』を購入しており、梶原一騎原作、荘司としお画「夕やけ番長」、手塚治虫「魔神ガロン」等が連載されていたと記憶しています。 仲良し三人組は各人が異なる漫画雑誌を購入していたので、漫画雑誌の貸し借りをしていろいろな人気漫画を楽しむことができたのです。 仲良し三人組が漫画雑誌の貸し借りをしていた昭和三十年代中頃は各漫画雑誌が別冊付録の冊数を競い合った時期でした。月刊誌の表紙の中に十冊近くの人気漫画家の別冊漫画が付録として入れられてビニール紐で括られ、子どもたちはすごいお得感を味わったものでした。人気漫画家の漫画が別冊として付録にあるかどうかが各漫画雑誌の売り上げに直接影響すると言われたものです。 仲良し三人組が「漫画雑誌の貸し借り」をしていたと書きましたが、正確に言うと漫画雑誌と好きな漫画作家の別冊付録を貸し借りしていたことになりますね。その時期はまたテレビで「鉄腕アトム」がアニメ化され、「赤胴鈴之助」が映画化、テレビドラマ化(実写版)、「まぼろし探偵」がテレビドラマ化(実写版)されたように、人気漫画がつぎつぎとテレビドラマ化されていったものでした。なお、「鉄腕アトム」以外、いまでは当たり前となった漫画のアニメ化は数年後からのこととなります。
2016年09月20日
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寅さんシリーズ39作目「男はつらいよ 寅次郎物語」で、寅さんを柴又駅まで見送りに来た甥の満男くんが「おじさん、人間は何のために生きてるのかな?」と質問する場面があります。これに対し、寅さんは「難しいこと聞くな」とちょっと返事に躊躇しますが、すぐにつぎのような素晴らしい回答を満男くんに与えます。「ああ生まれてきてよかったなと思うときが何遍かあるじゃない、そのために生きてるんじゃないのか。」 じゃー、みなさんはどんなとき「ああ生まれてきてよかったな」としみじみ思ったことがありますか。私は幼い子どもから絵本を読んでくれとせがまれて読み聞かせてやり、すやすやと眠りに入った子どもの顔をのぞくときになんとも言えない至福の喜びを感じ、生きることの充実感を何度も味わったものです。 私は長男、次男ともに『ちいさいおうち』、『どろんこハリー』、『おおきなかぶ』、『おおきなおいも』、『ぐりとぐら』シリーズ等の絵本を読んでやりました。 長男に幼い頃に読んでもらった絵本のことを憶えているかと訊いたら、『おおきなおおきなおいも』のことはよく憶えていると言いました。これは福音館書店から出ているもので、市村 久子作、赤羽 末吉絵の楽しい絵本でした。幼稚園のいもほりが雨で延期になったので、園児たちが一緒に紙の上に絵の具でおいもの絵を描くことになり、想像がどんどん膨らんでいって、大きな大きなおいもが描き出されるというお話でした。 長男から何度も何度もせがまれて大きな声で繰り返し読んだため、長男はすっかりこの絵本の文章を憶えてしまい、最初のページから最後のページまで絵を見ながら一字一句間違えずに暗唱したものでした。 次男に父親から絵本を読んでもらったことを覚えているかいと訊きましたら、全く覚えていないとのことでした。でも一、二才ころのことですから仕方がありませんね。しかし、お父さんには幸せな思い出として記憶にしっかり残っていますよ。
2016年09月09日
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私の両親は、台湾からの引き揚げ者で奈良市の父親の実家に身を寄せました。私が生まれたのは奈良市の高畑町の伯父の住んでいる屋敷内の鋤、鍬等の野良作業用道具小屋だったとのことで、なんだか馬小屋に生まれたキリストか聖徳太子を連想しますが、終戦直後の焼け野が原に多くの人が掘っ立て小屋を建てて住んでいた時代のことですから、野良作業用道具小屋でも素人が急遽作った掘っ立て小屋よりも作りはしっかりしており、文字通り雨露をしのぐことのできる家屋だったと言えるでしょう。しかし母はこの小屋内でムカデに素足を刺されて足が腫れ上がった痛い思い出を私に繰り返し語ったものでした。 その後、私の両親はすぐに奈良市の大豆山町(まめやまちょう)に住んでいた父親の実家(私の祖父母の家ですね)の二階に移り住みました。私の幼いころの記憶もこの大豆山町時代から始まります。 内気な私は、幼稚園から帰宅後、家の玄関内で近所の友だちが「遊ぼう」と声を掛けてくれるのをじっと待っていました。自分から友だちに「遊ぼう」と声を掛けることは絶対ありませんでした。近所のほぼ同世代の子どもでよく声を掛けてくれた男の子によしちゃん、よりちゃんがおり、彼らとビー玉遊びやコマ回し、ベッタ(メンコの奈良弁)打ち、さらに道路に「ろう石」で絵を描いたりして楽しんでいました。 しかし小学校1年生になると、奈良市内の油留木町(ゆるぎちょう)にある祖父の持ち家を借りていた家族が新居を建てて出て行くことになり、両親と私は油留木町のその家に移り住むことしになりました。この家と土地は江戸時代から寺侍(格式の高い寺院に仕えて警衛にあたったり、事務をとったりした武士のことです)だった先祖のもので、私が移り住んだ当時の建物はペリーが浦賀に来航した嘉永年間ごろに建てられた屋敷だったそうですが、明治になって職を失った曾祖父が本来の屋敷の半分以上を切り売りした後に残った平屋建ての家屋でした。 この先祖が残した家屋は、いまなら江戸時代の奈良市には珍しい武家屋敷造りの面影を残した家屋として評価されたことでしょうが、子どもの私の目から見るとただオンボロのやたら室内が暗い家で、両親も住みにくいこの家をすぐに二階建ての家屋にリフォームしたものです。 さて小学校の1年生から油留木町に移り住んできた私に、近所の友だちが出来たでしょうか。あいかわらず家の玄関内で友だちの誘いを待っているような私に近所の友だちは一人もできませんでした。しかし、小学校内にいつも遊ぶ二人の仲良し仲間ができ、私を含めてこの仲よし三人組は順繰りにお互いの家を訪問していつも楽しく遊ぶようになりました。漫画雑誌の貸し借りとかオモチャの連発銃(細長い紙に点々と少量の火薬が付いており、ひきがねを引いて撃つたびに爆発音がし、1回撃つごとに紙が排出されてくる方式でした)で西部劇ごっこをしたり、近所の川でザリガニ取りを楽しんだこともありました。小川のひんやり冷たい流れの中に足首まで浸けて歩きまわったときの心地よさは格別のものがありました。 家庭内には父親の浮気が原因で両親の諍いが絶えませんでしたが、小学校時代には仲良し三人組仲間とのこんな楽しい遊びの日々があったのです。しかし、中学校に進学してからはただ一人の友だちも出来ず、高校でも赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいませんでした。中学校、高校時代の私には、苦い思い出ばかりで、ただ書物だけが親しく語り合う相手でした。
2016年07月24日
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私の長男の結婚式が7月2日に神戸の須磨離宮迎賓館であり、幸いにして天気は快晴で、人前式も披露宴も滞りなく執り行われました。 なお、私の妻の両親(新郎の祖父母)が今年90歳と86歳を迎えるのですが、鹿児島から神戸まで出向いて、可愛い孫の晴れ姿を見るのをとても楽しみにしていたのですが、祖父が結婚式の約1ヶ月前にバスに乗車しようとして、乗車口の取っ手をを攫みそこなって尻餅をつき、腰骨を折ってしまい、結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。 このことがあって、私の妻は夫の透析治療の送り迎えに加えて父親の病院通い、さらには神戸での結婚式に父親の車椅子参加の手配のために妹や甥っ子たちの手助け依頼とてんやわんやの大忙しで、かなりナイーブとなり、なんとも気の毒でした。それだけに車椅子の父親と足腰の弱った母親が無事に可愛い孫の結婚式に参加出来たことにほっと安堵の胸を撫で下ろしたと思います。 神戸の結婚式の披露宴は新郎新婦たちの工夫がいろいろ取り入れられ、参加者全員に感謝の言葉が送られたり、両親に感謝の言葉を添えた二人の成長を記録した写真帖を会場に配置したりし、新郎新婦の友人・知人からの心のこもった楽しいスピーチやパフォーマンスが続きました。 披露宴の最後に、私が新郎新婦の両親を代表して挨拶を述べましたが、式の最後のスピーチは極力短いものにすべきと考えて、臨席いただいた方々への感謝の言葉とともに新郎新婦へのプレゼントの言葉として「偕老同穴(かいろうどうけつ)」という四字熟語を贈りました。人生をいつまでも仲良く暮らしてともに老い、死んだ後は同じお墓に仲良く葬られましょうねという意味で、私が小学校のときに年上の従姉妹の結婚式での来賓の方の言葉として強く印象に残ったものでした。 なお、須磨離宮迎賓館(旧西尾邸)は兵庫県から重要有形文化財の指定を受けている由緒ある建物であり、式場のスタッフの接客態度の素晴らしいさにも感心させられました。しかし足腰の弱っている私のような人間には、人前式会場と披露宴会場との距離が離れており、また各建物の階段の上り下りも大変で、私の次男にはもっと便利な結婚式場を考えておいてねと注文を付けておきました。
2016年07月02日
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私の手許に武部利男『白楽天詩集』(六興出版、1981年)という本がある。私はこの本を手にするたびに高校1年のときに受けた漢文の最初の授業の日のことを思い出す。 教室に入って来られた漢文の担任の先生は、いきなり黒板にさらさらと漢詩を書かわた。そのとき、この先生が黒板に書かれたものがどんな漢詩であったのか、残念ながら忘れてしまったが、確かそれは人口に膾炙された詩で、私もそれまでにその読み下し文を耳にしていたと思う。さて、つぎに読み下しによる説明が始まるのかと思ったら、先生はこの漢詩をなんとも奇妙な発音で読み出された。 上がったり下がったり、やけに高い音が発せられたかと思うと、ど すんと落ち込んだり、そうかと思うと急に浮上したり、それはまるでジェットコースターに乗って起伏の激しいレいルの上を滑走しているような感じであった。いや、レールの上をゴーゴーと走るジェットコースターよりももっとなよやかでリズミカルであった。 生徒たちはあっけにとられてぽかんとしていた。私もそのなかの-人だった。漢詩は中国の詩であるから、この奇妙な発音も中国語読みであることくらいは推測がついたが、それにしてもカルチャーショックであった。 私が驚いたのは、独特のイントネーションを持つ中国語の発音そのものではなかった。中国音の発音はラジオやテレビでときどき耳にしていた。衝撃を受けたのは、漢詩に対する既成のイメージをこの先生の朗読がきれいさっぱり吹き飛ばしてしまったからである。漢詩や漢文といえば、ついこの間まで中学生だった私の頭のなかにも 「国破れて山河在り」とか「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といった類の中国の名句・名言の片言隻句が雑然と入っていたが、それらは格調が高くどんと重々しい感じがしていた。 しかし、教室でいま中国語で朗読されたものはそれとは全く別世界のものであった。なんとも奇妙でなよやかでかつリズミカルであった。この漢文の先生が『白楽天詩集』の著者である武部利男先生であった。 こうして、私は漢詩に非常な興味を持ち、武部先生と親しく接し、先生の薫陶を受けて漢詩の素晴らしい世界に目が開かれていった、なんてお話をつぎに展開していきたいところだが、残念ながらそんなことは全くなかった。高校在学中、ステルス機のように全く目立つこともなく密かに低空を飛行していた私は、武部先生に自分から積極的に親しく接することはなかったし、漢詩も大学受換の対象として勉強するだけであった。また、大学に進学して後も、漢詩に関してそれほど強い関心を持つことはなかった。 それでも、高校で漢文を担当されたあの武部利男先生が中国の古典詩の優れた研究者であることぐらいは知るようになった。また、なぜ武部先生が高校生に漢詩をいきなり中国語で朗読されたのか、その理由も次第に分かるようになった。 確かに、中国の古典語で書かれた漢文や漢詩の内容を理解する上で、日本人が中国の優れた文化を吸収するために編み出した読み下し(訓読)の方法は非常に便利なものである。また、漢文の訓読は、日本の「古典語」としてそれ独自の格調の高さがあり、この漢文訓読そのものが日本語をはぐくみ育ててきた。 しかし、漢詩は独特の韻律に基づく独自の美しい調べを有しており、それは漢文訓読では残念ながら絶対に体感できないものである。だから、あのとき、高校1年生の私は先生の漢詩の中国読みを初めて耳にして、漢詩に対する既成のイメージが吹き飛んだのだ。 もっとも、中国での漢字の発音は時代とともに変化し、現代中国語と古典詩である漢詩が詠まれた時代とでは発音が随分異なっている。しかし、漢詩を現代中国語音(現代北京音)で発音しても、押親や平灰の組み合わせから作り出されるリズムは大体つかめる。先生はおそらくこんなことを生徒たちに印象深く教えるために中国語でいきなり漢詩を朗読されたのであろう。 武部先生は五十代半ばにして病のために亡くなられたが、その翌年に『白楽天詩集』が遺著として出版された。私は先生のこの遺著を手に入れて読んだとき、先生の漢詩への思いがあらためてひしひしと伝わってきた。 同書で先生は、白楽天(自居易。中唐の詩人)の詩を七五調のやさしい言葉で全文ひらがな(固有名詞はカタカナ)を使って口語訳しておられたのだ。 例えば、白楽天には「買花」と題する詩があり、もし、この詩の冒頭部分を読み下しにすれば、「帝城春暮れんと欲し/喧喧として車馬度(わた)る/共に道(い)う牡丹の時/相随いて花を買いに去(ゆ)くと/貴賤常価無く/酬値花の数を看る」となり、とても格訴高く重々しい。朗読するときは、思わず正座して背筋を伸ばして朗読することであろう。ところが、武部先生は『白楽天詩集』でこの「買花」全文をつぎのように訳されている。 みやこでは はるの くれがた/がやがやと くるまが とおる/だれも いう ぼたんの きせつ/あいついで はな かいに ゆく たかい やすい きまりは なくて/その あたい はなの かずだけ/もえさかる ひやくの べにばな/こじんまり いつつ しろばな てんまくで ひよけを つくり/たけがきで まわりを かこむ/みずを やり つちを もりあげ/うつし うえ いろは かわらず いえいえの ならわしと なり/ひとびとは まよいが さめぬ/いま ひとり いなかの おやじ/はな かう ところに であう/あたま さげ ながい ためいき/この なげき だれも きづかぬ/ひとむらの こい はなの ねは/じっけんぶん なみの いえの ぜい 当時、唐の長安の都では牡丹ブームで、都の人々は相争って牡丹を買い求め、それを我が子のように大事に育て、その美しさを競い合ったそうである。そのために珍しい牡丹は「-叢深色花、十戸中人賦」(一叢の濃い牡丹の花の値段が並みの家の十軒分の税に当たる)様な高値で売買され、それを見た「田舎翁」(田舎から出てきた貧しい老農夫のことであろう)をして嘆かせることになる。そんな異常な牡丹ブームに対する白楽天の素朴な疑問と激しい義憤が時代を越えていま私たちに伝わってくるような見事な訳文である。そして、またなんて分かりやすくてリズミカルな訳文であろうか。 白楽天は、詩が出来上がると、近所の字の読めないお婆さんに読んで聞かせ、お婆さんが分かるまで何度も書き直したという逸話が残っているが、この口語訳には白楽天のそんな詩に対する姿勢や思いが見事に現代の日本語で再現されているのではないだろうか。私は、高校の漢文の最初の授業のときに味わったような驚きを先生の遺著『白楽天詩集』で再び体験したのである。
2016年06月05日
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大阪で働いている次男が休みを取って 我が家に帰ってきたとき、二日目は「お父さんとだけ二人で食事がしたい」と嬉しいことを言ってくれたので、その日の夕方に天文館の焼き鳥の店に出かけ、大いに談笑しました。 次男は酒が一滴も飲めず、最初に就職した 大阪の信用金庫では上司から酒をしつこく強要されるなどパワハラまがいの嫌がらせを受け、精神的に耐えかねて半年で退職し、その半年後に大阪の総合病院の事務職に再就職しています。 病院の仕事にも慣れ、今年の春のGWでは4年前に卒業した大学のゼミの担当の先生と13人のゼミ仲間に呼びかけて彼の生まれ故郷の鹿児島市内や指宿方面の卒業旅行を成功させたりしています。 次男坊の意外な側面を知ったので、焼き鳥屋さんでまずそのことを言いましたら、自分がしてあげたことで、みんなに喜んでもらえることがとても楽しいとの返事でした。私と全く違って、そんな風な優しい性格に育ったことをとても嬉しく思いました。 焼き鳥屋で私はハイボールを、彼はノンアルコールのビール小瓶を頼み、まず乾杯してから、焼き鳥をいろいろ注文して食べ始めました。私はハイボール二杯目を追加注文し、酔いが回ってきたので、思い切って彼が高校三年生になったときの私への冷たい対応について質問をしました。 私が進学先をどこにするのかと質問したとき、彼はこう言ったのです。「あなたは何でそんなことを訊くの。あなたにはそんなこと関心がないでしょう」。むかーっと来た私は彼に怒鳴ったものです。「子どもの将来のことに関心を持たない親がどこにいるかっ!」 私のことをよそよそしく「あなた」呼ばわりし、子どもに関心がない人物と見られていたことに私は激しいショックを受けました。このとき以来、私と彼との間にはなんとも言えぬ疎遠な関係が生じたように思われました。 そんな疎遠な関係に変化が生じたのは、私が慢性腎不全で透析治療中に心不全で気絶し、一週間ほど入院治療を受けていたときのことだったように思われます。彼が大阪から病院見舞いに来てくれ、瘠せ細った(透析治療による体重コントロールのためです)私の姿を見て驚いたようです。彼はそんな私の手を強く握って「早く元気になってね、お父さん」と声を掛けてくれ、「僕のお父さんはお父さんだけだから」と言ってくれました。そのとき私の両目から涙がどっと溢れ出したものです。 焼き鳥屋で、彼が高校三年生のときの私への発言について 訊いたところ、彼は苦笑いしながら「そんなこと言ったかな。ただお父さんは僕が子どもの頃、叱るときに『お母さんに言いつけるよ』といつも言っていたので、自分の行為をチクる人というイメージが強かったな」との返事でした。なんだかずっこけるような返事で、半ば冗談半分に言っていたと思うんですが、子どもの彼にはそのニュアンスは伝わらなかったようです。子どもの頃、私が家庭で希薄な存在だったということを言いたかったのでしょうが、まあいいではないですか。もう私たち親子の間にあったわだかまりがすっかり溶けており、二人で仲良くいろいろな焼き鳥を注文して楽しく談笑しました。 焼き鳥を満喫し、店を出るとき割り勘にしょうと言って私の財布を覗いたら二千円しかありませんでした。「ごめん、いま全額払ってくれる。後でお母さんから半額出してもらうよ」と言いましたが、やはり我が家では私は影の薄い存在だなと痛感させられました。 2016年5月29日
2016年05月29日
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五月十三日(金)に私たち夫婦は鹿児島中央駅から午後3時28分の新幹線「みずほ」に乗って神戸に向かいました。翌日のお昼に長男の婚約者のご両親と顔合わせするためです。 三宮駅近くの宿泊したホテル前のマロニエ並木 5月十四日お昼にご両親との初顔合わせを三宮の和食のお店「栄ゐ田」で行いました。妻はすでに先月に相手の御嬢さんのお母さんと結婚式予定場所での試食会で顔合わせをしているのですが、私たち夫婦が相手のお父さんと会うのは初めてのこととなります。私はお父さんと会うのは初めてなので些か緊張しました。まさか顔合わせ後に長男の婚約が破談になるなんてことはないでしょうが、ふと映画「男はつらいよ」の第一作のことが思い出してしまいました。 映画「男はつらいよ」シリーズ第一作で渥美清演じるフーテンの寅さんがホテルニューオータニで開かれた妹のさくら(倍賞千恵子)の見合いの席で大醜態を演じる場面があります。見合い相手は、オリエンタル電気の下請け会社の社長さんの息子とのこと、見合い相手の父親に寅さんがセールス関係の仕事をしていると紹介され、父親から「どういう御種類のセールスを?」と質問され、「えー、主に…本ですね…」と寅さんは答え、さらに「出版関係ええ、出版といいますか、まあ、法律とか、統計とか…」と言い添えたので、相手の父親はなんとなく納得しますが、さらに寅さんが「その他、英語、催眠術、灸点方、夢判断、メンタルテスト、諸病看護方、染み抜き方、心中物、事件物、と、まあいろいろなんでもやってますけど…」と言い出したので、見合いの席の雰囲気がなんとなく怪しくなります。 その後、会食が始まり、寅さんは慣れないフォークとナイフを使ったために、付け合せの野菜を入れている器を見合い相手のおでこに見事に当ててしまいます。まあ、これは手元が狂ったハプニングとして許されますが、寅さんが学のあるところを披露したいと思ったのか、妹のさくらの名前が戸籍上は「櫻」と出されており、「木へんに貝2つでしょ、それに女ですから、ええ、二階の女が気(木)にかかる」とこう読めるんですよ!」と説明し、調子に乗ってさらに漢字は面白いと言い出し、尸(しかばね)の下に水や米、比を加えると尿、屎、屁になるなんて下ネタ的なことを言い出します。 会食で出されたビールで酔いが回った寅さんは、セロリをかじりながら見合い相手に「こんな美人の妹に、ぶっ壊れたツラの兄貴が いるってことは不思議でしょ?お兄さん」と問い掛け、「いやー、それもそのはずよ、これとオレとではね『種違い』なんだよ。あたしの親父ってのはね、大変な女道楽、私のお袋ってのは芸者なんですよ、えー、その親父が言うにはね親父がへべれけの時私を作ったんだとさ…」「親父はね、あたしのことをぶん殴る時いつも言ってたね。『おまえはへべれけの時つくった子供だから生まれつき バカだ』とよ! あんちゃん悔しかったなあ!…酔っ払って つくったんだもんなぁ…オレのこと…。真面目にやってもらいたかったよオレは!本当に」なんてことを言い出し、女性にだらしがなかった寅さんの親父のことまで暴露し出します。言わずにはおれない寅さんの悲しい過去を酔いに任せて吐き出したのでしょう。全然違った環境に育った私ですが゜なぜか寅さんの気持ちが痛いほど分ります。 その他、酒にへべれけになった寅さんの演じる様々な醜態に見合いの席は無茶苦茶となり、後日になってさくらの見合い相手側から予想通り縁談は断られてしまいます。 さて、話変わって長男の許嫁のご両親との初顔合わせなんですが、両家の相互の簡単な自己紹介が終わって全員着席したた後、私が「まずビールでも頼みましようか」と言ったところ、相手のお父さんが「体のためいま禁酒しています」とのこと、みんなでウールン茶を飲むことにしました。 座の話が続かずシーンとなったので、何か話題がないかと私がお父さんに「何かご趣味をお持ちですか」とお訊きしたところ、「仕事が忙しかったので特にありません」とのこと、前に長男からお父さんが仕事に忙しく「家族のことは全て妻に一切任せております」とおっしゃっておられると聞いていましたが、私と同い歳(2月生まれで学年は一つ上)なのにいまも務めておられるとのこと、お会いして私とは随分違ったい真面目一筋の仕事人間の方らしいとの印象を持ちました。お母さんは穏やかで優しそうな女性という印象でした。 話題がなかなか続かないので、長男が「私は鹿児島で生まれ育ちましたが鹿児島県人の血は一滴も入っていません。父は奈良県人で母は熊本県人です」と紹介したので、私は彼の言葉に続けて、「私の父は奈良県人ですが、母は日本統治時代の台湾に生まれた仙台にルーツを持つ東北人です」と付け加えたのはいいんですが、つい「私のオヤジは酒が強かったんですよ。酒も女も好きでした」と余計なことを口走ってしまい、自分でこれはヤバイと慌てて話題をすぐ変えましたよ。 この両親同士の初顔合わせで私は些か醜態を演じてしまいましたよ。会食が終わり、これからもよろしくと挨拶をして席を立とうとしたとき、私の席に出されている水の入ったコップをそっと横に退かそうとして手許が狂ってコップが倒れ、なんとお父さんの膝に水を掛けてしまったのです。 さらに私の醜態は続き、靴を履こうとして新品の靴を履いてきたこともあり、なかなか履けず、お店の人が持ってきた長い靴ベラも上手く扱え切れず、自分の指先を靴のかかとになんとか無理矢理入れ込んでやっと履くことが出来ました。後から席を立たれた相手のご両親はおそらくその様子を些か困惑して見ておられたことと思います。 翌日の五月十五日(日)に新神戸駅から午前10時12分発の新幹線「さくら」に乗って鹿児島に帰りましたが、車窓から熊本近くの沿線から屋根に敷かれた青いビニールシートが次々と見え始め、今回の熊本大震災の生々しい被害が目に入って来ました。 おっと、その後いままで神戸のご両親からなんの連絡もありませんから、今回の初顔合わせは無事に済んだと思っていいのでしょうね、ホッ。
2016年05月17日
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あるフランス人の作家が「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」と言ったそうですが、終生添い遂げることになった私の両親は相当の忍耐力の持ち主たちだったのでしょうか。 私が妻と結婚した年の夏、当時山陰のM市に住んでいた私の両親の家に初めて帰省したことがあります。おっと、「帰省」とは本来は「故郷に帰って両親の安否を問うこと」だそうですが、私の両親がM市に住んでいたのは勤務先が同市であり、両親ともに出身地は別の地方の人間でした。 私の妻は、なにかあるとすぐ怒鳴り出すオヤジとそれに「はいはい」と素直に従うオフクロの姿に強い印象を残したようで、私も久し振りに見る両親の意外な関係の変化に驚きました。例えば、近くの勤務先からお昼に帰宅したオヤジが「食事の支度が遅い」と激しい剣幕で怒鳴りだし、オフクロが「はいはい、すぐ支度しますよ」と従順に対応する姿に驚いたものでした。 私が子どものころ、両親はともに教師でしたが、この共稼ぎ夫婦の喧嘩はいつも絶えることがなく、私はいつ始まるかもしれない二人の喧嘩に恐れおののいていました。喧嘩が始まると、亀が首を甲羅にすくめるようにして、いさかいの嵐が過ぎ去るのをじっと待ったものでした。 安月給の共稼ぎ夫婦の喧嘩の主たる理由は、オヤジの金遣いの荒さと浮気でした。酒好きのオヤジは、酒場で一日に何千円も散在して夜遅く帰って来るようなことがよくありました。軽い浮気は日常茶飯、子どもの私が知りたくなくても知るようになった深刻な浮気の数も片手では足りないくらいありました。 普段見るオフクロの姿は観音菩薩様のように穏やかでしたが、ひとたび夫婦喧嘩が始まると般若の如く怒り狂い、口から火を噴いて激しい言葉でオヤジをののしったものでした。 そんな若い頃のオフクロのことを知っているものですから、妻に「オフクロも変わったものだ。昔のオフクロはもっと突起だらけのゴツゴツとした石ころを心に持った女性だったが、オヤジとの数多くのイサカイにいつの間にか表面が研磨されてまるくなったのだろう」と言ったものです。 しかし、私が子どもの頃、自分の両親がなぜ離婚しないのか不思議に思いました。いさかいが絶えなく、また趣味も価値観も全く違う二人であり、教師をしているオフクロがもし離婚しても、すぐ生活が困窮するわけでもないだろうになんて考えたものです。ところがオフクロはその教師という職業にとても高いプライドを持っており、いつも世間体を気にしていた人間でした。そんな彼女に離婚という選択肢は考えられなかったようです。 ところで子どもにとって両親の離婚は不幸なことなのでしょうか。勿論、仲の良いことに越したことはありません。しかし夫婦喧嘩の絶えない家庭の子どもは両親の不和に心を深く傷付けられているのです。大人の目からは子どもの心の裡はほとんど見えません。大人たちは、彼らのちょっとした言葉や行為でさえもが、それが子どもたちの心のなかで何倍にも増幅され、幼い心に大きな衝撃や影響を与えているということをほとんど知りません。オフクロは私の子どもの頃のことを回想したとき、私につぎのように言ったものです。「お前の子どもの頃は給料も安くて生活は大変だったけれど、でも、お前に辛い思いをさせるようなことはなかったと思うよ」 それで、私はその母の言葉にどう対応したでしょうか。私はそのとき、表情を全く変えずに小さく頷いただけでした。結婚は判断力の欠如から始まるそうですが、記憶力の欠如によって美化され持続することが出来るようです。 この拙文は、拙サイト「やまももの部屋」のやまももの短編小説のページに「幼な心を傷付けられた両親の不和」と改題して転載いたしましたので、興味がございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/stories/stories.html#huwa
2016年04月16日
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映画「男はつらいよ」シリーズのの第一作で、寅次郎(渥美清)が御前様(笠智衆)とお嬢さんの冬子(光本幸子)にばったり出会い、二人の写真を撮る場面があります。そのとき、笑顔を無理に作ろうとした御前様、なんと「チーズ」ではなく「バター」と言ってしまいます。「バター」では口が開いたままになって、口許に笑みを浮かべるこはできませんね。えっ、誰ですか、御前様の天然ボケぶりには開いた口がふさがらないなんて言うのは。 ところで、寅次郎による御前様と冬子の記念写真の場面、どこでロケがおこなわれたかご存知ですか。私のふるさとの町である奈良市の奈良公園内にある鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)六角堂の浮御堂の前なんですよ。このときのスチール写真を見ると、左側に寅次郎、右側に御前様と冬子、そしてその間に大きな擬宝珠(ぎぼし)飾りのついた木造の橋が あり、後ろに浮御堂が見えています。 この鷺池に浮かぶ浮御堂、寅さんだけでなく、私も中学生時代にカメラで撮影したことがあります。そして、それは私にとって初めての写真撮影でした。確か中学1年のときのことだと記憶しています。父からペトリの小さな二眼レフカメラを譲ってもらい、さてなにを写そうかと公園に出かけ、ぶらぶら歩いているうちに鷺池にやって来て、その池に浮かぶ浮御堂の美しい姿が目に飛び込んで来たので、この建物を撮影対象に選ぶことに決めたのです。 そのとき、浮御堂のなかには観光客が5、6人ほどいて、それらの観光客の中に赤い日傘を差した若くて美しい女性の姿が目に入りました。これは絵 になるなと思った私は、池のほとりから浮御堂の欄干に件む彼女の方にカメラのレンズを向けました。私ほ、カメラのファインダーの中心に日傘を差したこの女性を据え、その周囲に複数の人間を配し、それらを浮き御堂の全景のなかに納めてパチリパチリと何故か撮影しました。 私は、写真屋さんにこの写真の現像を頼んだ後、それが出来上がってくる日を指折り数えて待ちました。そして、数日後、心待ちにしていた写真をやっと手に入れました。しかし、袋を開けて写真を見てたとき、私はガッカリしてしまいました。だって、鷺池に浮かぶ浮御堂が私がイメージしていたものよりずっと小さく写っており、その浮御堂のなかにいる観光客たちはまるで豆粒の様だったからです。そして、悲しいことに、あの赤い日傘の女性は、それら小さな数個の豆粒たちのなかにおいて特に際だった存在ではなく、同じように単なる豆粒の-つでしかななかったのです。 私は首を傾げました。おかしいな、私が二眼レフのカメラのファインダーから覗いて見たあのときの浮御堂の情景といま手許にある写真とはあまりにも違いすぎるではありませんか。あのとき、日傘の女性は、そのころ視力1.5だった私の目に大きくそしてくっきりと鮮明に映り、他の親光客たちはその他大勢として彼女の背後に下がり、浮御堂全景は彼女とその日傘にとてもよく調和しながら水面にその美しい姿を浮かべていたはずではなかったのか? 私の目が正しいのか、それともこの写真が正しいのか、私はそのとき、いろいろ考えたものです。 私は、初めて写した写真を見てショックを受けました。しかし、私はまたこのときの経験からとても大事なことを学びました。さて、私はいったいどんなことを学んだと思いますか。使用した機械としてのカメラの能力や撮影者の腕前の低さを思い知らされた。いえいえ、そんなことではありません。人間の目なんて、いかにいいかかげんなものであるかということを学んだろうですって。いえいえ、そうでもありません。確かに、それらの写真は対象となった人間、建物、池の大小の比例関係において、それをかなり正確に再現していたことでしょう。撮影テクニックが未熟なことは当たり前のことです。しかし、それらのことを考えても現像された写真はあまりにも魅力がありませんでした。それに比べて、2眼レフのカメラのファインダーを通して私が捉えたと思った情景の方はずっとずっと魅力的で素晴らしいものに思えました。そうなんです、私という人間が主観的に創り上げたイメージの世界の方が確かに素晴らしいものだと思われたんです。 私は、子どもの頃から絵を描くのが大好きでしたが、この浮御堂の写真撮影の体験以降、自分の主観を大切にし、風景画でも人物画でも描く対象に対して感じたものを表現するために大胆な省略や誇張などを意図的におこなってデフォルメするようになりました。しかし、デフォルメの魅力を頭で理解したからといって、それで実際に魅力的な絵が描けるわけではありません。そのためには、豊かで鋭い感受性と独創的で優れた表現力が必要なんです。私は、次第に自分の画才に嫌気がさすようになり、いつのまにか絵筆を握らないようになっていきました。しかし、いま文章を書くとき、あの浮御堂の体験を大切にしたいと思っています。 1998年2月20日 執筆
2016年04月03日
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たくさんの野良犬や野良猫を拾って大切に育てていたアイさんのことを拙サイト「やまももの部屋」のエッセーのページに「犬猫の尻尾」と題して載せたことがあります。その拙文に「功徳を積んだアイさんの天国行きは間違いないですね。それでも閻魔さまが間違ってアイさんを地獄に送ったら、犬や猫たちが尻尾を繋いでアイさんを地獄の底から助け出そうとするでしょうね。蜘蛛の糸ならぬ犬猫の尻尾ってわけです」と書いたものです。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#dogcat そんな心優しいアイさんが今月の14日(2016年3月14日)に腎不全で他界されました。享年78歳とのことでした。お通夜に参列し、喪主となられたアイさんの奥さんや参列者の方々と故人を偲ぶなかで、犬猫だけでなく誰にでも心温かく接し、みんなに愛されたアイさんの人間像が浮き彫りとなり、あらためて私なりのアイさんとの思い出を書くことにいたしました。 アイさんは職場の同僚で、2007年3月に退職されています。誰とでも心優しく接するアイさんは、1976年4月に赴任したばかりの私にも、年齢的には10歳ほど違いがあるにもかかわらず、すぐ親しく声を掛けて下さいました。特に永吉町に職場があった当時、終業後の夕方になると広いグラウンドにアイさんたちと毎日と言うほど集まり、ソフトボールの練習を楽しんだものです。アイさんは守備もバッティンクもなかなか巧みで、トンネルを繰り返す私のためにゴロの守備練習をしてもらったことがあります。そんな私は守備ではピッチャーを務めることが多くなりました。どうも球の速度は遅いけれど、キャッチャーのミットに打ちやすい球を正確に投げるコントロールが評価されたようです。しかし打撃はさっぱりで、専ら下位打線を担わされました。 拙宅は1989年3月にいまの伊敷台に新築していますが、そのときアイさんからたくさんの樹木をいただきました。すでに庭師さんに頼んで、前庭の樹木を植える場所をレンガで囲いを造り、そこに土を入れ、さらにツツジ、ヤマモモ、サンゴジュ、ウバメガシ、クロガネモチ、ザクロを植えてもらいましたが、それでも空間が目立つ様子を見て、アイさんはわざわざ自宅の犬迫から萩、ナンテン、キンモクセイ、グミ、アジサイ、クコ等の苗木やホトトギス、シラン、スミレ等の野草を車で運び植えて下さいました。いまも萩は毎年秋になると必ず長くて細い枝先に無数の花を開花させて目を楽しませてくれます。 職場が坂之上に移ってからは、鹿児島市の伊敷台に住む私はバスやJRで通勤していましたが、会議で一緒になる日には、ほぼ同方向の犬迫町に住むアイさんに自動車で送ってもらうことが多くなりました。そんな日は、妻が帰宅した私に「アイさんに送ってもらったのね」と必ず言い当てたものですが、それはヘビースモーカーのアイさんの車に30分近く同乗していたので、私の身体からタバコ臭がしたからです。晩年のアイさんはお医者さんから禁煙を厳しく指示されていましたが、喫煙を最後まで続け、慰霊写真にも咥え煙草姿のアイさんの姿が写っていましたよ。 それから、アイさんと言えば忘れてならないのは竹の子のことです。毎年アイさんは犬迫町の自宅の裏山に竹の子が顔を出すと、職場のみんなに配って下さり、我が家でも竹の子が生える季節になるとアイさんの竹の子を楽しみにして待つようになりました。 アイさんが退職後も伊敷台2丁目のAコープいしき店でよくお会いしていましたが、この2、3年お会いすることがなくなり、竹の子のプレゼントも途絶えました。今年の竹の子の季節になって、アイさんはどうしておられるのだろうかと妻と一緒に気にしておりましたら、知人から3月14日夜にメールでアイさんの悲しい訃報を知らされ、お通夜に参列させてもらい、アイさんのご冥福を心からお祈りいたしました。 アイさんのことを追悼するとき、私のような他人に対する不信感のバリアーを張り巡らした人間でも、人間っていいなーと思うんですね。
2016年03月20日
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日本の食文化の特徴の一つに箸の使用がありますが、大昔は手掴みだったそうで、6、7世紀頃に中国から箸が渡来し、次第に普及していったと言われます。では中国ではいつ頃どのような理由で箸が誕生し、食事に使う道具として普及していったのでしょうか。 そのことについて太田昌子著『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が詳しく調べています。同書は、中国古代文献から箸使用の定着について考察するだけでなく、さらに中国の考古学界の発掘成果から箸の出土を考察し、さらに箸が発生し普及した理由等について食器具類・食事様式・居住環境の変化と関連させて考察を加えています。 太田昌子は同書の50頁から57頁において、二本の棒でものを挟みあげる用具としての箸は、はるか三千年前以上前の殷代の遺跡から銅製の箸が発掘されているが、これらの箸は熱いものを挟み取る冶金か調理の道具であったろうと推測しています。そんな箸が食事用の道具として普及する過程については、同書の242頁から243頁につぎのように要約しています。 「まず住居と食事様式の 変化、特に手食から箸使用への変化との関連について考察してみた。 それにさきだち、新石器時代から春秋戦国時代ごろまでの住宅建築の発達状況を見ると、貴族階層の住む住宅は殷時代頃より次第に発達して、戦国時代には瓦葺きの高層建築も見られるようになった。このような広壮な貴族階層の住宅では、例えば調理は奴婢たちが別棟の厨房において行い、主人側の家族は別棟に運ばれた食物を、従者の介添えを受けながら食べていたと思われる。それに比べ一般庶民の住居は、戦国或いは漢時代においてさえ、萱葺き屋根の粗末な作りで、大きさも一と聞か二た間程度の狭小なものであったようである。従って調理と食事の場も分離せず、調理された食物はただちに家族たちに供せられたと思われる。そしてこのような環境であってこそ、元来調理用具であった箸がそのまま食事の場にも取り込まれて行く可能性があったと考えられる。 一方食事作法についての意識には、中国古代の支配者階級の中で重んじられていた伝統的儀礼に束縛されていた貴族たちと、それとは全く無関係の一般庶民との間に、大きな差異があったと考えられる。貴族たちは、自らの地位と権威の保全のためにも伝統的な礼法に忠実であることを要求されたに違いない。したがって礼法で定められていた直接手で食べるという食事様式を、新しく箸を使用する方法へ変えるという発想は、全く生まれなかったと考えられる。一方庶民階層の人たちは、窮屈な礼法の埒外に置かれていたために、因習に縛られることもなく、便利でしかもよりおいしく食事を楽しむ方法をひたすら追い求めたと思われる。そしてこのような自由な雰囲気の中でこそ、元来は調理用であったと思われる箸のような用具でも、さほどの抵抗感なしにごく自然に食事の場へ取り込まれていったのではないかと考えるのである。 そしてこのような食事様式の変化をよりいっそう促進させた要因として、春秋から戦国時代にかけて次第に人口が増加し、商工業も発達していった都市という環境の影響が大きかったと考える。その理由の一つは、材料の入手もまた加工も比較的容易で、値段もさほど高くはなかったと思われる箸は、早くから商業ペースに乗り、市場でかなりの数量が売買されたと考えるからである。 そしてまた、当時は酒や塩、干し肉などの食品が市場で売られたのみならず、調理品も売られるようになり、街頭で食事を楽しむという習俗も生じつつあったようであるが、このように家族という閉じられた場から公共の場へと食事が開かれた時、新しい 箸使用習俗の定着と普及は大いに促進されたと考える。 さらには、街頭において一定の値段で提供された調理品は、恐らく碗のような比較的小型の食器に盛られていたと思われるが、小型の碗は手では食べにくく箸やスプーンの方が適しているので、このような小型の食器の使用が広がるに従って箸使用の習俗もまた広がっていったことも考えられる。」 太田昌子は、春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)の社会的、経済的大変動の時期に、手食から箸使用の食事へと変化したことはほぼ間違いなかろうとしています。 ところで、『箸の源流を探る』の著者の太田昌子は私の母で、息子の私から太田昌子の経歴と彼女の古代中国の箸の起源と普及の研究のかかわりについて紹介させてもらいます。 母は、1993年3月に鳴門教育大を定年退職し、父と一緒に私の家の近くに引っ越してきました。私が両親の家を訪れますと、いつも母は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ってくれました。母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマに愛情を注いでいたのです。また、中国古代史がご専門の奈良女子大名誉教授の大島利一先生から箸の研究についていろいろアドバイスのいただいておりましたが、その大島先生からお手紙が届くと、いつも恋人からの手紙を見せるように嬉しそうに私に見せてくれました。私もよく母から箸の研究の原稿についての意見を求められ、根がヤクザな私は「もっとはったりを利かせて読者に興味・関心をもたせないと駄目だよ」なんて言っていましたが、生真面目な母にそれは無理な注文だったように思います。 母の箸の研究を纏めた『箸の源流を探る』は残念ながら遺著となってしまいました。母が亡くなる前日の朝、私は両親の家を訪れているのですが、そのとき母は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、私に暖かいコーヒーを出してくれました。その後いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるとは想像もしていませんでした。翌日には解離性大動脈瘤破裂のために突然あの世に旅立ってしまったのです。 母の葬儀も全て終わり、父と一緒に両親の家に戻ったとき、母の書斎の机の上に愛用の広辞苑が開かれたままになっているのが目に入り、突然なんとも言えぬ寂寥感に襲われ、胸に熱いものがこみ上げて来ました。 私の母は、1923年5月17日に日本統治時代の台湾の台北市大和町に市川實雄、まつよの次女とて生まれ、1943年に奈良女子高等師範学校の家政科を戦争中のために3年半で繰り上げ卒業し、戦後まもなく奈良女子大文学部附属高等学校・中学校で家庭科の教諭となりました。本来は食物学を主な研究領域としていたのですが、1960年代末頃から独学で中国の古文(漢文)のみならず現代文を習得して古代中国の箸の起源とその普及に関する研究を開始し、同校の校長をされていた奈良女子大の大島利一先生(甲骨文や金文に造詣の深い中国古代史の研究者)から激励されたこともあり、同研究に没頭するようになりました。そして、かつて奈良女附属高校の同僚だった奈良女子大の中塚明先生(日本史研究者)の紹介で研究成果が汲古書院から出版されることとなりました。しかし、その原稿が脱稿し、校正も初校を終えた後、『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が出版される直前の2001年1月19日に解離性大動脈瘤破裂で急逝しましたので、同書は母の遺著となりました。享年77歳でした。 なおこの拙文に加筆して拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページに「母の遺著『箸の源流を探る』」と改題して新たにアップしましたので、興味がございましてらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#hasi
2015年12月13日
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今年(2015年)、台湾でドキュメンタリー映画「湾生回家」が興行収入1億円を超える異例のヒットとなったそうで、そのことについて野嶋剛が「東洋経済 ONLINE」に「今なぜ台湾で『懐日映画』が大ヒットするのか」と題して興味深い論評文を書いています。なお映画の題名にある「湾生(わんせい)」とは、戦前、台湾で生まれ育った日本人のことを指します。 ↓ http://toyokeizai.net/articles/-/94829 野嶋剛はこの評論文で、従来は「台湾では国民党の『国民化教育』によって日本への思いは『皇民意識』として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。/その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの『人間の歴史』までが忘却され、軽視されてきたのである」としながら、近年になって台湾では「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンが政治的党派の違いを超えて共通のものなり、「その意味では、この湾生回家のヒットは『日本人も愛した台湾』という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう」と結論づけています。 ところで、私がこの野嶋剛の評論文で最も印象に残ったコメントは、「記憶は環境によって育てられる面はある。台湾における日本時代への懐かしみは、国民党の苛烈な統治や弾圧が強化したものであろう。/日本での湾生たちの台湾思慕も、敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはずだ。戦前の台湾経済水準は、日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができた。日本に戻った『湾生』たちが台湾での生活をより一層懐かしんだことは疑いようがない。(中略)映画で湾生たちは、口々に『私の故郷は台湾』と語っていた。そして、戦後の日本でずっと他人に語れない『台湾の私』を抱え込んで生活してきた。その感覚を映画の主人公のひとりである老婦人は『自分がいつも異邦人のような気持ちだった』と明かしている」という箇所でした。 ああ、そうなんだ、私の母も「湾生」として「異郷の地」に生きる複雑な思いを子どもの私にだけ繰り返し語っいたものでした。私の母は自分のことを「湾生」と呼称したことは一度もありませんでした。しかし「自分のふるさとは台湾だ」といつも言っていましたし、私が幼い頃、彼女は問わず語りに彼女のふるさとの街と生まれ育った家庭のことを何度も何度も楽しそうに語ったものでした。母のふるさとの台北の街は大きく、道路や建物は立派で、沢山の人々や車がとても賑やかに往来していたとのことで、住んでいた家も大きく立派で、お手伝いさんが沢山いて、ピアノもあり、何不自由のない生活を送っていたそうです。私は何度も何度もそんなことを聞かされて育ちました。 幼い私は、母のこんな想い出ばなしを聞きながら、その想い出ばなしと比較して、自分が今住んでいるふるさとの町はなんてちっぽけなんだろう、自分たちはいまなんて恵まれない境遇にあるのだろうと思わざるを得ませんでした。 幼い私には、人間の屈折した心理など皆目分からなかったのです。だから、彼女が語る話の表層に出ているものを素直に受け取るだけでした。母がその想い出ばなしの奥の方にどんな複雑な想いを託していたのかなんてことは全く理解できませんでした。 私はそのことを拙サイト「やまももの部屋」の「やまもものエッセイ集」に「母のふるさとの街と家」と題して載せています。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#furu 私の父は奈良市で生まれ育った人間ですが、日本統治下の台湾帝大(現在の国立台湾大学)で学び、戦後も国民党政権が必要とする「留用者」として一時台湾で教鞭を執っています。そんな父は「俺は蒋介石から給料をもらっていた」と子どもの私に言っていたものです。台湾が日本の統治から中国の国民党の統治となった様子もよく聞かされました。 そのとき、台北の台湾人は「光復」(祖国復帰)と言って歓呼の声をあげて「中国軍」を歓迎したそうです。ところが台北の街に入ってきたのは敗残兵同様のみすぼらしい兵隊たちでした(実際、中国大陸で共産党軍との内戦に敗れた国民党軍でした)。彼らの文化程度は低く、水道の仕組みも分からず、水を飲むために蛇口だけを壊して持っていこうとしたそうです。国民党政権の役人も腐敗しており、日本人資産の接収だけにとどまらない「略奪」まがいの行為や官庁・企業の役職の独占、賄賂等が横行し、治安も悪化したそうです。 台湾人の失望は怒りとなって学生たちを中心とする抵抗運動が起こり(1947年2月28日に起こったので二二八事件と呼称されています)、父か教えていた学生たちの多くがこの抵抗運動に参加し、根こそぎ逮捕されていったそうです。この抵抗運動への徹底した弾圧は、その後の台湾に外省人と本省人の間に深い溝を作ったそうです。 そんな体験を戦後の台湾でしている父ですが、台湾から故郷の奈良市に帰った後も青春時代を過ごした台湾を懐かしみ、よくアコーディオンで「夜来香」(イエライシャン)、「雨夜花」(ウーヤーホエ)等を奏でながら歌っていたものです。その後、仕事の関係で奈良市を離れ、松江市や鳴門市に移転した父でしたが、定年後に私が住んでいる鹿児島市に家を建てて晩年を過ごしています。自分が生まれ育った奈良市に帰る気は全くなかったようです。 そんな私の両親は、いま錦江湾の海上に屹立する桜島の全景を眺めることのできる高台の墓地に静かに眠っています。 なお、拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページにこの拙文を一部書き直して「私の両親の懐かしの台湾」としてアップしています。
2015年12月06日
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退職後サンデー毎日の私ですが、10月31日の土曜日と昨日11月7日の土曜日と同じ土曜日に2週続けて同窓関連の楽しい出来事がありました。K君のお嬢さんの結婚式に参加 10月31日の土曜日には大阪外国語大学中国語学科の同級生K君のお嬢さんの結婚式に招待されて出席しました。以前このブログに「大学同級生のK君との44年ぶりの再会」と題してアップしています。 ↓ http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201509130000/ 東京で長年暮らしていたK君が鹿児島に移り住み、大学の同窓会名簿で私が鹿児島市内にいることを知って電話を掛けて来てくれ、それから以降、電話やメールで何度か連絡を取り合っているうちに、今度は鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4Fで会おうということになり、9月中旬に大学卒業後44年ぶりに再会いたしました。 その日、別れる間際にK君から彼のお嬢さんの結婚式が来月末にあるので参加してくれないかと招待され、再会で意気投合したその勢いで快諾したのですが、帰宅後冷静になって考えるとK君のお嬢さんのみならず彼の家族の方と全く交流がなく、正式の招待状を受け取ったとき、慌てて下記のような辞退のメールを送りました。「口頭で招待を受けたときは、光栄です、喜こんで参加しますと言いましたが、よく考えるとK君のご家族とはこれまで全く交際はなく、新婦の父親としてのK君の友人として招待を受けるに相応しい方々は他におそらくたくさんいらっしゃることと思います。/それで、光栄なことにご招待状を受け取った後で大変失礼なことだと思いますが、今回はやはりご辞退させていただきます。本当に申し訳ありませんが、どうかご理解下さい。」 しかしK君からすぐに返信メールが届き、結婚式場には新たに連絡を取って席を用意した等のことが書かれており、それをむげに断ったらそれこそ本当に失礼な話だと思い、当日参加させてもらうことになりました。 当日は秋晴れで、陽光の輝く式場のガーデンテラスでまず人前式がとりおこなわれ、その後140人以上の人々が参加する披露宴が開かれました。つぎつぎと心ろのこもったお祝いのスピーチや新郎の同僚たちの元気なパフォーマンス、新郎の父と新郎の立派なお礼の挨拶などに感心させられ、また素晴らしいお料理にも大いに満喫させられました。 なかでも私が感激したのは、K君のお孫さん3人が披露したストリートダンス風踊りで、軽快なリズムに乗って可愛いお孫さんたちが元気いっぱい舞台で飛び跳ね踊る姿を見て思わず落涙してしまいました。 私にはまだ孫がいませんが、私の長男が来年の7月頃に結婚するとの電話をもらったとき、「嬉しいな、孫の顔も見られるね」と返事したのですが、その「孫」という言葉を発したとき、思いもかけずに涙がどっと溢れ出し、涙声になってまともに言葉を続けることができなくなりました。それには自分でも驚ろいたものです。それ以来、最近は「孫」という言葉に条件反射のように涙を流してしまう私です。大阪市立大学同窓会の鹿児島支部総会に参加 昨日の土曜日(11月7日)にはいちき串木野市のシーサイドガーデンさのさで開かれた大阪市立大学同窓会の鹿児島支部第2回総会に参加して来ました。私は大阪外大卒業後、大阪市立大学の大学院の文学研究科で4年間東洋史を学んでおり、去年の第1回鹿児島支部総会から参加しています。 今回の支部総会の企画として、いちき串木野市羽島に建てられている薩摩藩英国留学生記念館見学もありました。大阪市大の前身である大阪商業講習所は薩摩藩英国留学生の一人である五代友厚によって創立されたものであり、 今回の支部総会の企画として立案されたそうですが、健康に自信のない私は辞退させてもらい、総会と懇親会のみに参加させてもらいました。 前回の総会のときは、退職直後の参加であり、名刺もないままに参加したのですが、今回は直前に拙ホームページ「やまももの部屋」http://yamamomo02.web.fc2.com/とそのURLも印刷された名刺を持参し、自己紹介のときには「やまももの部屋、やまももの部屋、やまももの部屋をよろしく」と連呼したものです。もうビョーキですね。
2015年11月08日
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母校の同級生のK君と44年振りに再会してから以降、これまでずっと意識的に封印して来た母校の中国語学科のことがいろいろ懐かしく思い出され、改めてお世話になった先生方のお名前や担当された科目名などを確認しようと考えて母校の70年史を開くことにしました。同記念史誌は1992年に購入しておきながら、いままで一度も開いたことがありませんでした。 同記念史誌の「第2編 部局史」には諸学科の歴史等の概要が掲載されており、私が一年生のときに中国語Aクラス担任をされた中国文法の伊地智善継先生、中国語音韻史の辻本春彦先生、中国現代商業通信文の住田照夫先生、中国社会主義経済の芝池靖夫先生、Bクラス担任で中国文学の相浦杲先生、中国近代史の彭沢周先生、中国語学の大河内康憲先生、中国近代史の西村茂雄先生等の懐かしい名前が載っていました。また近代歴史ゼミナールでは帝塚山大学から林要三先生が非常勤で教えに来られ、お世話になりました。 ところで先ほど母校の中国語学科のことを「ずっと意識的に封印して来た」と書きましたが、中国語学科の先生たちのことが書かれている部分を読み始めましたら、その258頁に以下のような文章に遭遇しました。そして私が意識的に母校や学科のことを心の裡に封印してきたその理由の一端を探り当てたように思われ、不覚にも思わず落涙してしまったものです。 それでその母校70年史の258頁の文章の一部を下に紹介させてもらいます。「ふり返って、専門学校時代の『中国語』には日本の中国侵略の影がつねに、どこかにつきまとった。そしてそれと同じように、大学の『中国語』には新中国の政治、いやその国の政治をめぐる日本の政治情勢が抜きがたく影響した。それは直接現代を学問の対象とする難しさであるが、研究室で、また学生が日頃とりあげる問題は生々しく人々の『今』とかかわっていた。中国語を学ぶことは中国革命の進んだ経験を学ぶことであると信じた学生は少なくない。昭和35年の文化クラブ案内を見ると中国革命研究会がある。後の文革期にはもちろん毛沢東思想研究会があった。その後には開放政策の時代が続く。政治を離れられないのは我々の宿命のごとくであった。しかしただ言えるのは、学生はいつの時代にも中国に対して純情であり、ひたむきであった。彼らは鏡に映すがごとく、そのままにその時代の中国を映している。それはせつないばかりに忠実であった。昭和40年代は多難な、悲しい時代であった。中国をめぐる日本の左翼陣営の対立は、共に中国を学ぶ仲間が対立し、互いに傷つかねばならぬ事態をまねいたからである。学生だけに限った話ではないのだが、現代を扱うとはなんと過酷なことか。これが平穏になるのはここ10年であろうか。」 私が母校の中国語学科で学んだ時期がまさにその昭和40年代の多難で悲しい時代であり、共に中国を学ぶ仲間が対立し、互いに傷つかねばならぬ事態をまねいた時期だったのです。中国に起こった文化大革命の嵐がそのまま日本の小さな大学の小さな学科にも吹き荒れ、当時の在学生に程度の差はあれPTSD(心的外傷後ストレス障害)を起こしていたのです。 こんなPTSDは、同じ母校に学んだ同級生のK君との新しい友情を築き上げる過程で時間を掛けて掘り起こし、癒していく必要があるのかもしれませんね。
2015年10月04日
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私が年金受給年齢に近づいた頃、健康も害しており職場からの退職を考えるようになりました。しかし退職となればそれに伴う心配事がいろいろありました。 えっ、自分がいなくなったら職場が困るのではないか、ですって。そんなことは天下御免の窓際族の私ですからこれっぽっちも考えませんでした。しかし、当時は日本年金機構の厚生年金基金の記録ミス問題が大騒ぎとなっていた頃でしたから、年金制度については全く無智蒙昧な私でしたから、確かに退職後にちゃんと年金が受け取れるかどうかってことには些か不安を感じ心配しましたよ。 しかし私が一番気になったのは蔵書の処分のことでした。これが骨董品なら意外な高額で売れる可能性もありますが、書籍ばかりは自分にとっては必要だったとしても、全く関心のない人にはただのゴミの山でしかありません。 いよいよ退職日も近づき、職場に置いていた書物を公費購入と私費購入とに選り分け、公費書籍は図書館に全部返却し、私費で購入した書籍は総て箱詰にして引越し業者に頼んで自宅の倉庫に運送してもらいましが、その個人蔵書が一千冊以上もありました。 有無相通じるということで、古書店を通じて必要だと思う人の手に渡ればいいのですが、鹿児島市内では私の一千冊近い蔵書の大半を引き取ってくれそうな古書店などあるとは思えません。それで、退職後一年近く経ってから、ネット検索で東京神田の神保町のある古書店が出張買取りをしてくれることが分かり、箱詰めにしていた蔵書を全て棚に出し、蔵書の概要が分かるように写真に撮り、去年の5月(2014年5月4日)に連絡を取って引き取ってもらうことになりました。 それでも、花のお江戸の神田神保町からは九州最南端に位置して桜島の噴煙上がる鹿児島は遥か遠くに離れていますね。その後なかなか実際に引き取りには来てもらえず、昨日(2015年9月15日)になってやっと引き取りに来てもらうことになりました。 こちらとしては書籍の買い取り価格などは二の次で、少しでも必要とされる方々に渡れば幸いだと言ったこともあり、棚に横積みにした千冊近い蔵書のほとんどをきれいさっぱり引き取ってくれました。ところで、さてその買い取り価格総額はお幾らだと思われますか。計一万円也でしたよ。でもね、ゴミとして紙屑業者に引き取りをお願いしてその代金を払うことを考えればありがたいことかもしれませんね。いやー本当にありがたかったです。本当にありがたい、ありがたい(ちょっとクスン)。
2015年09月16日
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私は約3年前に退職した後、外に出ることもめっきり少なくなり、しゃべると言えば妻や病院のお医者さん、看護師さんぐらいに限定され、人恋しさが募っていました。そんなときに大学時代の同級生のK君(現在県内在住)から電話があり、何度か連絡を取り合っているうちに昨日(9月12日)、鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4F紀伊国屋書店でお昼に会いましょうということになり、私はイソイソと 出掛けていきました。 K君は大学卒業後ながらく東京で働いていたのですが、鹿児島が気に入っていまは地元に住んでいます。大学の同窓生名簿で私が鹿児島市に居ることを知って電話を掛けて来てくれたのです。 待ち合わせを約束した紀伊国屋書店で先に声を掛けてくれたのはK君の方でした。私の記憶の中のK君は英会話が得意で、そんな得意な英語を自由に駆使して外国人留学生と楽しそうに交流する姿でした(後にもらったメールによると全国高校生対象の英語のコンテストで二位の賞状を貰ったとのこと。そんな英会話能力が卒業後の仕事に役立っているようです)。 久しぶり(1971年卒ですから44年ぶり)の再会であり、初め別人かと思いましたが、じっと見つめると大学時代のK君の面影が全くないわけではありません。私は思わず自然と「いゃー、立派な紳士になりましたねー」なんて言ったものです。K君は私の運営するサイト(やまももの部屋)などで私の現在の写真を見ていたこともあり、先に気づいてくれたようです。 同じアミュプラザ5Fのあるレストランで昼食を摂りましたが、大学の同級生ってこんなに肩肘張らずに気さくに話し合えるものなんですかね。2時間ほど語り合ったのですが、K君が「聞き上手」なので話題は大学在学中のことばかりでなく政治、文学等多岐にわたって語り合い、つい私の在職時代に感じた少子化対策に関連した複雑な思いなども吐露してしまいました。こんなことお医者さんや看護師さんに語れないですよね。 学生時代、私は奈良市から近鉄奈良線に乗って上六(上本町6丁目)駅まで行き、その後如何にも大阪の下町らしい猥雑な雰囲気の上本町8丁目の繁華街をテクテク歩いて幼稚園の門と間違うような小さな大学の門を入って学舎まで通った人間です。1年生の時は少人数クラスでの語学学習特にヒヤリングに苦労させられ、10円ハゲができたほどです。その少人数クラスの同級生の一人がK君だったのです。 K君と大学の少人数クラスの仲間として席を並べたという縁も不思議なら、鹿児島ではおそらく数えるくらいしかいないであろう大学の同窓生のそれも同級生として44年振りに再会できたことは奇縁としか言えません。このK君との奇縁をこれからも大切にしていきたいと思います。K君、これからもよろしくお願いしますね。 2015年9月13日 なお、この拙エッセイを短編小説に書き直し、拙サイトの「やまももの短編小説集」のぺージに「大学同級生との44年ぶりの再会」と改題してアップしておきましたので、興味がございましたらご覧ください。
2015年09月13日
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2015年3月下旬、大阪に住む次男が連休を利用して鹿児島に帰省したとき、私たち夫婦と明石に住む長男に呼びかけ 、3月22日から翌日のお昼に掛けての指宿一泊二日の旅をプレゼントしてくれました。次男 に言わせると「親のお蔭でいまは社会人として元気にやっているが、親孝行をしたいときに親は無 し、なんてよく言われるので、いまのうちになにか親孝行がしたい」とのこと、ウルウル。大喜び で彼の好意を受け取ることにしました。 家族4人揃っての旅行と言えば、次男が小学校2年生のときの沖縄旅行以来となります。振り返りますと、1992年8月初旬の2泊3日の奈良・大阪旅行、1993年8月下旬の4泊5日の東京・鎌倉旅行、1995年8月初旬の3泊4日の北海道旅行(登別・小樽・札幌)、1996年中旬の2泊3日の沖縄旅行(那覇の首里城、糸満の平和記念公園)等の旅行で懐かしい思い出を作っています。また鹿児島県内でも、霧島、指宿に宿泊したことがあります。 朝食後、次男の運転で自宅を出発し、まず知覧にある薩摩英国館に立ち寄りました。館内には主として生麦事件から薩英戦争に関する絵や写真が展示されていました。同館内には喫茶店が併設されており、ミンティという紅茶を楽しみました。 後で知ったのですが、この薩摩英国館の設立者は大阪の森口生まれの田中京子さんという方で、 1967年に知覧町で開業医になる夫とともに同地に移り住み、92年に薩摩英国館を設立された とのことです。知覧と言えばお茶の産地として有名ですが、紅茶の本国、英国の”The Great Taste Awards 2007″に於て、田中さんが生み出した「夢ふうき」が受賞し、その後紅茶部門で何度も金賞を受賞しておられるそうです。 お昼は知覧の武家屋敷通り内にある高城庵(たきあん)で郷土料理を楽しみました。この高城庵は 店主の生まれ育った家をそのまま開放して藩政時代からのお膳で出しているそうです。 その後、知覧の特攻平和会館を見学しました。太平洋戦争末期、この知覧の特攻基地を主軸基地とする全国の特攻基地から1036名の特攻隊員が飛び立って戦死しており、この会館では陸軍特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。なお、私の母方の叔父(1928年生まれ)が旧制中学在学中に親の反対を押し切って予科練(海軍飛行予科練習生の略。海軍の航空機搭乗員の大量養成をねらいとして開設。太平洋戦争末期には特攻隊要員の訓練を行なった)に志願し、松山海軍航空隊に入隊し、17歳の青春を投げ打って厳しい訓練を受けている最中に幸いにして終戦を迎えています。 知覧の特攻平和会館見学後、日本本土内のJR最南端の駅「西大山駅」にまわってから指宿白水館に宿泊し、 同館の懐石料理を大いに満喫しました。私自身は身体のために食事の内容と量に気を付けなければならない人間なのですが、新鮮なお刺身や豚骨料理、黒牛のシャブシャブなどに魅せられてついつい完食してしまい、翌日の午後に出掛けた病院で体重オーバーでみっちり膏血を絞り取られてしまいましたよ、トホホ。 指宿旅行二日目は鹿児島の一之宮である枚聞神社(ひらききじんじゃと読みますが、かつては新田神社と一之宮争いをしたそうです)にお参りした後、薩摩富士と称される開聞岳を車内横手に見ながら池田湖湖畔まで廻り、その後は指宿スカイラインを利用してお昼までには鹿児島市に戻りました。 なお、今回のエッセイを拙サイト「やまももの部屋」の下記のページに「次男が一泊二日の指宿旅行をプレゼント」と題してアップしておきました。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#ibusuki
2015年03月24日
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今日(11月23日)、次男が3連休を利用して鹿児島に帰省したので、彼の運転で紅葉の美しい霧島山麓に位置する霧島神宮までドライブに出掛けました。 秋の季節になっても鹿児島市内ではモミジの紅葉を楽しむことはできません。鹿児島市内では秋になっても夜間の急激な冷え込みがなく、そのためにモミジの紅葉風景を楽しめないのです。しかしテレビの二ュースなどで、鹿児島市から北東に62キロ離れた標高460mの場所に位置する霧島神宮の紅葉の美しさが紹介されており、紅葉狩りを楽しもうと同神宮に出かけることにしたのです。 連休の二日目なので霧島神宮は参拝者で大いに賑わっていましたが、同神宮とその周辺では鹿児島市内では見られない紅葉の風景を大いに満喫することができました。また帰りには坂本龍馬、お龍夫妻が新婚旅行の際に18日間滞在したといわれる塩浸温泉に立ち寄り、竜馬夫妻の銅像も撮影することが出来ました。
2014年11月23日
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先週、大阪市立大学の同窓会鹿児島支部の総会がありましたので参加して来ました。 私の卒業大学は大阪外国語大学の中国語学科なのですが、大阪市立大学大学院の文学研究科(修士課程2年、博士課程2年)に4年間在籍していたことがあります。 同大学院への通学は、自宅があった奈良市の近鉄駅から乗車し、国鉄阪和線に乗り換えて杉本町駅まで計約一時間少し掛け、そこから大阪市立大のキャンバ内の研究室にほぼ毎日テクテク歩いて行ってました。この大学の素朴で真面目な学部学生たちと一緒に過ごした4年間の勉学一筋の大学院生活がいまとなってはとても懐かしいものがあります。大学のプールでもよく泳いでいました。 鹿児島市在住の大阪市立大学同窓生のNさんから最近になって同大学鹿児島支部が成立し、11月15日にその総会があるとの案内メールが届きました。ほとんど同窓会と名の付くものに出たこともない私ですが、2年前に退職後、外に出ることもめっきり少なくなり、しゃべると言えば妻か病院のお医者さん、看護師さんぐらいに限定され、人恋しさが募り、この機会に一人でもお知り合いになりたいものだと思い、鹿児島中央駅近くの東急インで開かれた同同窓会に出掛けることにしました。 当日の大阪市立大学の鹿児島支部総会の出席同窓生は計12名で、その内訳は医学部3名、生活科学部3名、商学部2名、看護学部2名、法学部1名文学部1名でした。さらに5名の来賓(副学長、事務局長、全国同窓会関連者)の出席者が加わって開催されました。 まずは第1回総会で半数以上の方が初対面の為、出席者の自己紹介が行われ、その後、議事に入り、支部規約が承認され、役員選出等が満場一致で可決され、鹿児島支部が発足会から6か月を経て正式にスタートすることになりました。その後、宮野副学長からお祝いの言葉が述べられ、植田事務局長からは薩摩藩留学生で大阪経済の礎を築き、母校大阪市立大学の源流となった大阪商業講習所設立者の五代友厚の功績が語られ、大学での銅像建設の話がありました。 私にとっては、会場でお会いした17名の方たちはみなさん全員初対面の方ばかりでしたが、それがかえって気楽にお話ができ、特にお隣に座ったHさん(医学部卒)とは親しくお話しすることが出来ました(あれっ、この方もお医者さんだった)。この同窓会に出席してとても楽しくて有意義な2時間を過ごすことが出来ました。 なお、当日の総会に渡された資料のなかに「大阪市立大学同窓会報」第5号があり、鹿児島支部発足の記事も載っており、そこに発起人の人たちに「鹿児島出身者88名の卒業者名簿」が渡されていたと書いてありました。大阪から遥か離れた鹿児島の地に住んでいる同窓生たちですが予想より多い数ですね。 おっと、植田事務局長のお話にもありましたように大阪市立大学の前身は明治13年(1880年)に創立された大阪商業講習所であり、この創立者は薩摩の英国留学生の一人であり、大阪財界の父と言われる五代友厚ですから、鹿児島と大いにゆかりのある大学であり、鹿児島からもっと多くの卒業生が輩出してもいいですね。 ところで、同会報に載っている奈良支部だよりには、私が生まれ育った「奈良県には大阪府に次ぐ6000人以上の市大卒業生がいる」とあり、奈良県内には鹿児島県とは比べものにならない数の卒業生がいることも初めて知りました。交通の便から考えて当然のことと言えば当然なんですが、鹿児島では圧倒的少数派ですから、この縁をこれからも大切にしていきたいと思いました。
2014年11月18日
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私が高校時代に教科書で習った和歌に「世のなかは何か常なる飛鳥川、きのうの淵ぞ今日は瀬になる」というもがありましたが、60数年生きていますとこの和歌が詠っているのような感慨を心から感じることが度々あります。私は永年勤務していた鹿児島国際大学の短期大学部(元鹿児島短期大学)を今年(2013年)3月31日に退職していますが、その短大部もとうとう来年三月に閉じられることとなり、「世のなかは何か常なる飛鳥川」の思いを痛切に感じさせられました。 この短大部は、学校法人津曲学園により1967年に鹿児島市永吉町に鹿児島短期大学として開学し、2001年には鹿児島国際大学短期大学部と改称されて同大学の鹿児島市下福元町のキャンパスに移転しましたが、ついに来年の三月で閉じられることになりました。 昨日(2013年11月2日)、この短大部のファイナルセレモニーがありました。少子化等の時代の流れとはいえ、私が永年務めていた短大が終了を迎えることはなんとも哀しいことでことですが、それでもそのファイナルセレモニーに参加してとても嬉しいことが2つありました。 一つは、ファイナルセレモニー会場の教室のドア前で「ブログを拝見していますが、最近はクレパス画を描いておられるようですね」と卒業生から声を掛けられたことです。突然声を掛けられたので、正直その卒業生の名前が分らなかったんですが、「わっ、嬉しいですね、ありがとう」と一応は感謝の言葉を返し、もしかしたら天神爛漫さん(ハンドルネームです)かなと思いながらも、確信が持てずそのまま会場に入りました。 ファイナルセレモニーが始まり、学長、元学長、学部長、同窓会会長の挨拶が続き、その中で短大の創設以来の歴史が回顧され、私も懐かしく回想しておりましたが、えらく真面目な話が続くことにいささか「ちょっと違うなー」という違和感も覚え出しました。 そこにセレモニー開始直前に出会った卒業生が登場し、実名を名乗ってからプロジェクターを使ってゼミナール担当の先生たちの似顔絵入りのプロフィール紹介を始めました。やっぱり、天神爛漫さんでした。彼女の在学時代のプレゼンテーション能力の上手さには感心させられており、とても強い印象を残していたのですが、今回の「ゼミナール担当の先生たちのプロフィール紹介」にも大いに舌を巻かされました。 彼女はのっけから「短大の先生たちの特色はみんな言うことが違い、バラバラということです。こんな先生たちを纏める学部長のN先生はさぞや苦労されていることでしょう」と切り出したので、会場にどっと爆笑が起こりました。その後の各先生たちの紹介もユーモアにあふれたもので、会場に笑いが絶えませんでした。 天神爛漫さんの素晴らしいプレゼンのおかげで会場にはすっかりなごやかで楽しい雰囲気が出来上がり、最後に在学生全員が前に出て「明日があるさ」の歌詞を短大の思い出に替え歌した歌を元気に合唱し、会場のみんなも自然とそれに唱和してこのユニークな短大らしいファイナルセレモニーも愉快に楽しく終わりを迎えることができました。 このファイナルファイナルセレモニーは、南日本新聞の読者からの投稿欄「若い目」に11月1日に載せられた田上恵理さんの「最後の思い出」によりますと、在学中の思い出づくりの一つとして「短大を卒業した方たちと協力し、閉学する短大の思い出をつくろう」と計画し実現したもののようです。このセレモニーを計画した田上恵理さんたちにも素晴らしい思い出作りになったことでしょうが、私も忘れ難い思い出をプレゼントしてもらったことに対して心から感謝したいと思います。
2013年11月03日
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今朝(3月2日)、今年度後期の成績発表があり、この時間を利用して私が卒業予定の学生たちに向けて退職のスピーチをするよう求められました。それで以下のような非常に格調の高いスピーチをしましたので、ご紹介したいと思います。 みなさんもいよいよ学園を巣立って社会に出ていかれますが、私もみなさんと一緒に学園から巣立つ、いや退職することになりました。みなさんはこれから新たに社会に一歩踏み出され活躍されることになるのですが、私の場合は健康のこともあり、新たに社会から一歩も二歩も退き、昔で言う隠居暮らしを始めるつもりでいます。振り返りますと1976年の4月に奉職し、それから36年間もこの学園で過ごしたのですが、これからの隠居暮らしもそれなりに意義あるものにしたいと思っています。 私にとって模範とすべき隠居さんと言えば、幕末の伊能忠敬という人物がいます。彼は50歳で家督を長男に譲り隠居していますが、その後、天文学や測量学を学び、日本全国を測量して廻り、日本で最初の近代科学的日本地図を完成させています。私もこんな立派なご隠居さんに負けずに頑張りたいと思い、最近、ウナギ(鰻)の研究を始めました。ウナギの稚魚であるシラスウナギが全国的に不漁で、私の大好きなかば焼きの値上がりが懸念されていますが、残念ながらウナギの生態はまだまだ謎に包まれていますよね。 そこで、ウナギの生態の謎を解明する手かがりとして、私はまずウナギがなぜ「ウナギ」と呼称される様になったのかを調べることにいたしました。鵜飼で有名な岐阜県長良川周辺で行った実地調査の結果、そのことが判明いたしましたので、この場を借りてご紹介したいと思います。 昔の文献ではウナギはヌルヌルしていたのでヌルと云われたそうです。長良川の鵜の好物はアユ(鮎)ですよね。しかし鵜匠に操られて毎日アユばっかり食べさせられていると鵜だって別のものが食べたくなりますよね。そこにヌルがぬらりくらりと目の前を泳いでいたので、飽き性で新し物好きの鵜がこれは珍しいと一気に呑みこみました。しかし、これがとっても大きかったので全部呑み込めません。「うわーっ、く、苦しい、ど、どないしょ」とえらい難儀したそうです。それで鵜が難儀した、鵜難儀、ウナンギということからヌルはウナギと云われるようになったそうです。 えっ、私のスピーチに対して学生の反応はどうだったかですって? それまで成績のことが気になりざわついていた教室が水を打ったようにシーンと静かになりましたよ。
2013年03月02日
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私も年金受給年齢に達し、今年三月末に職場を退職することにしました。2008年4月から約1ヶ月半に渡って腎不全で入院し、退院以降も透析治療を毎週3回受けなければならなくなった私には、自宅から職場まで片道約18キロの距離を公共交通機関を使って通勤することは身体にかなり負担を感じるようになりました。また毎週3回の透析治療のために同僚に迷惑を掛けることも多くなり、次第に一日も早く退職したいものだと思うようになり、今年ついに年金受給年齢に達したので退職することにしたのです。 今年度の授業も全て終了した二月中にこれまでやまももに割り当てられていた職場の教研用オフィス内にあった書物を公費購入と私費購入とに選り分け、公費書籍は図書館に全部返却し、私費で購入した書籍は総て箱詰にして引越し業者に頼んで自宅の倉庫に運送してもらいました。 私のオフィスの書架にこれまでぎっしりと詰め込まれていた書籍が綺麗さっぱり無くなってガランとなった状態をあらためて眺めて、初めて自分もいよいよ退職するんだなという実感か湧き、なんともいいようのない寂しさに襲われました。 さて四月からどのように毎日を過ごしましょうか。退職後にもらえる年金受給額は悠々自適の生活が送れるほどのものではないでしょうが、それでも爪に火をともすような極貧生活に陥って、老骨に鞭打って懸命に働き続けねばならないということはなさそうです。落語世界に出て来るご隠居さんと同程度の暮らしはできるかもしれませんね 落語と言えば「茶の湯」という噺があります。若い頃から腕一本、脛一本で身代を築き、江戸の蔵前の大店の旦那となった人物が、もうお店の商いは息子夫婦に任せてもいいだろうと彼らに身代を譲り、根岸の里に適当な隠居所を探し出し、お気に入りの丁稚の定吉と二人だけの隠居生活を始めます。 根岸の里の隣人たちはお花、お琴、盆栽等々を楽しんでおり、隠居生活に暇を持て余している旦那の姿を見た丁稚の定吉は「なにか風流な遊びをやりましょうよ」と言い出します。幸か不幸か旦那が買い求めた隠居所の前の住人は茶人で、お茶の道具一式がそろっていました。それで旦那は定吉と茶の湯の真似事を始めますが、二人とも茶筅で撹拌すると泡立つ緑色のものの正体が分かりません。それで定吉は「青粉」(食べ物を青く着色する粉」と「ムクの皮」(洗剤用に使われる無患子(むくろじ)という木の皮でサポニンという泡を出す物質)を買い込んで、二人でブクブクと泡立てごっこを始めます。これを隠居所に訪れた客人に振る舞うのですからたまったものではありません。旦那と定吉だけでなく客人たちも下痢で苦しみ、いまだったらO157症状だと大騒ぎになったことと思います。 幸い、私は茶の湯で風流を楽しもうという気はありませんから、周辺の人に迷惑を掛けたりはしないと思います。調べごとは昔から好きなんですが、身体が思うように動かずフィールドワークはできません。読書も好きなんですが、最近は目が弱って、数ページも読むと睡魔に襲われてしまいます。文章を書くことと映画を観ることが好きなので、これからは観た映画の感想を拙ブログに書き込むことを楽しみの中心にしょうと思っています。
2013年02月27日
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拙サイトの2012年06月09日に「曾孫(ひまご)の墓参り」と題して、私の二人の息子が私の故郷のお寺にある父方の先祖の墓参りに行ったことを紹介しました。それから2ヵ月ほどして私の父が90才で他界しましたが、亡くなる3年間は認知症に罹っていた父の記憶に最後に残されたものは故郷(奈良市)のことだけだったようです。 そんなことから、やまもも夫婦は11月16日(金)夕刻に新幹線に乗って鹿児島から大阪に出発し、翌日17日の午前中に関西にいる息子たちと大阪市内で合流し、同日のお昼過ぎに奈良市内の父方の先祖が眠る称(稱)名寺(鎌倉時代に建てられた興福寺の別院)というお寺に家族四人でお参りに出掛けることにしました。 17日の奈良への墓参の日はずっと小雨が降っており、傘を差してのご先祖様へのお墓参りとなりました。息子たちに案内してもらって先祖の墓前に赴き(私自身は祖父の墓参りをした記憶はたった一度しかなかったのです)、新たにあの世に行った末っ子で甘えん坊だった父をどうかよろしくとお願いしました。 父が他界したとき、私の従姉からもらった手紙に「若しあの世が存在するならば、最愛の奥様をはじめ、おじい様、おばあ様、伯父様、伯母様、私の父、その他大勢の親しい方々に『よく来たよく来た』と温かく迎えられて大喜びなさっている叔父さまのお姿を思い浮かべたい心境でございます」とありましたが、きっと大歓迎を受けているに違いありません。 18日の日曜日はお天気も好く、その夕刻に鹿児島に新幹線で戻るまでにかなり時間があったので、私たち夫婦と次男の三人であらためて大阪から奈良公園に紅葉狩りに出掛けることにしました(長男は仕事のために参加できず)。 懐かしい故郷の景色というものはどこで生まれ育ったかによって様々でしょうが、生前の父のまぶたに自然と浮かんだ故郷の景色は秋の紅葉が美しい奈良公園だったに違いありません。なぜなら、私自身もきっとそうだろうと思うからです。
2012年11月20日
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今日(9月29日)、両親の住んでいた家で父の四十九日の法要を行いました。正確には父が亡くなってから48日目なんですが、諸般の事情から今日行うことになったのです。 父の葬式は家族葬で行い、死亡通知の葉書にも「葬儀は家族のみで過日あい済ませました。(中略)尚、御香典、御供物、忌電等の儀は堅くご辞退申し上げます」と印刷して親類や知人など限られた人たちのみに出したのですが、それでも何人かの方から丁寧なお悔やみの手紙や葉書をいただきました。父を偲んでそれらのなかから印象深い内容のものを御紹介したいと思います。 Aさん「常に美しい心で人生を看ておられたニイチャン。日本中が盆灯をつける日に穏やかにあの世に旅立っていかれたのですね。ご夫妻の人生の生き方、私は自分の指針にしております。(中略)鹿児島にお二人で行かれた、そのお心、人間(じんかん)至る所に青山在りの親の心は、私の『親として子の方に動こう、呼ぶより、未来の方へ年寄りが行こう』と思う判断の決定、指針として仰ぐことになりました。」 Bさん「奈良の旧家に生まれ何不自由ない生活をされていたぼんぼんが、勝手気ままな愚かな妻(貴方様にとっては賢母だったようですが)に引っ張り回され、生まれ故郷に帰ることなく鹿児島という異郷の地で亡くなられたことに同情の念を禁じえませんでした。」 Cさん「私が大学生の頃、叔父さまご夫妻宅に時々立ち寄らせて頂きました。その節、若々しく豪放な叔父さまから声を掛けて頂き、近くの飲み屋でお酒を御馳走になり、何かとご指導いただいた楽しい記憶もあります。」 Dさん「思うがままに生き、お幸せな生き方だったのかもしれません。家族の皆様は何かとご苦労も多かったと推察致しますが、いつも陽気で人を楽しい気分にさせるのが上手な方でした。」 Eさん「若しあの世が存在するならば、最愛の奥様をはじめ、おじい様、おばあ様、伯父様、伯母様、私の父、その他大勢の親しい方々に『よく来たよく来た』と温かく迎えられて大喜びなさっている叔父さまのお姿を思い浮かべたい心境でございます。」 生前の父を知っておられる方々からのこれらのお悔やみの言葉を拝見し、いろいろ感慨にふけっているやまももでありました。 なお父の葬儀関連のことを拙サイト「創作・エッセイ」の「父の大往生と家族葬」にまとめてアップしましたので、もし興味がございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#daioujyou
2012年09月29日
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私がパソコンは使用するようになったのは1984年の12月からで、使用機種はカシオのMSXパソコンのPV7でした。これは私の父が3才の初孫(私の長男のことですね)のクリスマスプレゼントとして購入したものでした。 カシオのMSXパソコンPV7は、1983年に任天堂から販売されたファミリーコンピュータ(ファミコン)の対向機種として翌年の1984年のクリスマス商戦に向けて派手に売り出されたMSXパソコンでした。私の父がこのPV7を当時まだ3才になったばかりの私の長男のクリスマスプレゼントとし購入したのです。 なお、父は最初はファミコンを買うつもりでいたようです。しかし、お店の人からこのPV7はゲーム機としてだけではなく、キーボード一体型で初心者用の覚えやすいパソコン用プログラム言語であるBASICをROMで搭載しており、ゲーム機として遊べるだけでなく、プログラミングの練習も出来ますよと言われたようで、思わず食指が動いて衝動買いをしてしまったようです。父の専門は土木工学で、当時すでにエプソンのハンドヘルドコンピュータHC-20を購入してBASIC言語を使って技術計算に活用していました。それで、PV7もBASICを使えるということを聞かされ、孫のクリスマスプレゼントとしてファミコンの代わりにこれを選んだようです。 では、私の長男はこのPV7を喜んだでしょうか。最初はテレビに接続してもらい、付属に付いていたパチンコゲームのカセットを同機のROMカセット用スロットに入れてチンジャラジャラと遊んでいましたが、2、3日もするとすぐ飽きてしまい、このPV7は見向きもされなくなってしまいました。 そこでお父さん(私のことですよ)の登場です。PV7の簡単な説明書にはBAICの起動方法と幾つかのBAIC言語で書かれたゲームのプログラムが紹介されていました。しかし、当然のことですが、私にはこのプログラムの意味が全く分かりません。それでBASIC言語の基礎的解説書を書店で購入し、PV7にBASIC言語に基づく簡単な計算式を打ち込みましたら、接続したテレビの画面に計算結果が表示できるではありませんか。嬉しかったですね。自分には縁遠い存在だと思っていたコンピュータを私も操作できるということになんとも言えぬ快感を覚え、その後は試行錯誤を繰り返しながら次第に複雑なプログラムも組めるようになりました。テレビ画面上にロケットを飛ばして、ミサイルで撃ち落とす簡単なゲームも作れるようになりましたよ。 ただ、PV7にはBASICで作成したプログラムを保存する記憶装置がありません。それでテープの表面に塗布された磁性体にプログラムを記憶させたり読み出せるカセット式テープ機を外部記憶装置として使うようになり、ちよっと長めのプログラムも作れるようになりました。しかし、この外部記憶装置では苦労して作ったプログラムが正しく記憶されないことも度々ありました。 そのときに私が次に目を付けたのが父の以前使っていエプソンのハンドヘルドコンピュータHC-20でした。このHC-20はマイクロソフト製BASICを内蔵しており、作成したプログラムは液晶表示部で見られ、それをマイクロカセットに保存・読み出しすることが可能という優れものでした。この父のHC-20を借りて長文のプログラムを組んでみますと、それらを確実に保存し活用することができるようになりました。私はこのHC-20を使って20項目ほどのアンケートを一括処理するプログラムを作成し、実際に仕事で活用したこともあります。 しかしHC-20も実際に仕事にフルに使い出すとその限界もすぐ見えて来ました。液晶表示部が20桁×4行しか見えず、マイクロカセットの外部記憶装置は16Kバイトしかありません。これでは複数の長文プログラムを保存することができません。 それで私は大阪に出張したとき、日本橋電気街で1985年発売のNECのPC9801-U2を購入しました。これは3.5インチのフロッピーディスク(320kb)ドライブの付いた16ビットパソコンで、このパソコン購入以降、BASICでプログラムを組むだけでなく、ワープロソフトや表計算ソフトを購入して使用するようになり、いつのまにかBASICによるプログラミングは記憶の彼方に消えて行きました。 以上が私のパソコン事始めと言えるものなんですが、幼い頃から余り影響の受けることがなかったと思っていた父親でしたが、大人になってから最初に使用したパソコンの使用機種に関しては私の父が極めて重要な役割を担っていたことに気がつきました。その父も今年の8月13日に他界しましたが、パソコンのことを通じて改めて亡き父のことを偲ぶことができました。
2012年09月09日
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私の父が90才の高齢で他界しました。医者の死亡診断書には「誤嚥性肺炎」と書かれてありましたが、高齢に拠る体力低下に伴って起きた肺炎のようで、以前なら「老衰」と診断されたに違いありません。実際、父はほとんど苦しまず安らかにあの世に旅立って行きました。 3年前に認知症になり、それ以降グループホームにお世話になっていましたが、3週間前にお医者さんから容態が危ないですよと言われ、家族としては住み慣れたグループホームの個室で最期を迎えた方がよいだろうと判断し、ホームに「看取り介護」をお願いし、病院には入院せず、個室に酸素吸入器と点滴装置を取り付けてもらい、それからはやまもも夫婦も2週間以上毎日ホームに赴いて見守ることになりました。その間、父はグループホームの職員さんたちや訪問看護ステーションの看護師さんたちの親身になっての手厚い介護や看護を受けていましたが、ついに1週間前に穏やかな大往生を遂げることが出来ました。 ところで、父は元気な頃、学生時代を過ごした場所や勤務地の話は懐かしそうに語っていましたが、故郷(奈良市)のことはほとんど話題にすることはありませんでした。それが晩年になって認知症に罹り、いろいろなことが記憶からどんどん喪失していく中で最後に残った思い出は故郷の奈良のことだったようです。「ここは奈良か」「奈良に帰らんとあかん」「奈良で兄貴たちが待っている」等の言葉を繰り返し発するようになりました。これは私には意外なことでした。亡くなる直前、父は故郷の両親や兄弟のことを思い浮かべながらあの世に旅立ったに違いありません。 父が他界する前日、やまもも夫婦は母の墓にお参りに行き、父の容態を伝えたのですが、もしかしましたら、そのことを知った母が父の枕元に立って「ずいぶん頑張ったんだから、もうこちらにいらっしゃい、家族も大変よ」と伝えに来たかもしれませんね。 父が高齢で他界し、また父の親類や知人の大半が遠隔地の住人等のことから判断し、葬儀は家族葬で執り行うことにしました。家族葬は8月15日の終戦記念日に真夏の太陽が照り輝く昼過ぎから行われましたが、葬儀の雰囲気もその日のお天気のようにカラっとしたものでした。出棺前に棺に眠る父の遺体の周囲に参列者が花や遺品を飾るとき、葬儀の司会者の別れの悲しさを強調する言葉がなんだか過剰演出のように感じられ、式の終了後に長男などは私と父との親子関係の内実を係の人に少しは説明しておいた方が良かったのじゃないのとジョークを飛ばしていました。 葬儀は家族葬で済ませたので、死亡通知の葉書にも「葬儀は家族のみで過日会い済ませました。(中略)尚、御香典、御供物、忌電等の儀は堅くご辞退申し上げます」と印刷することにしました。しかし、通夜、葬儀、火葬、納骨式と父の他界後になすべきことを一通り終わったその夜、妻が私に「家族葬」でよかったのかしらと呟きました。母が77才で急逝したときは、喪主となった父によりとても盛大に葬儀が執り行われており、派手なことが好きだった父の意思としては自分の葬儀もきっと盛大にやってもらいたかったのではないだろうかと言うのです。 そう言えば、父の二番目の兄が15年前に88才で他界した時、私が葬儀に参加したのですが、その時の様子を父に報告に行ったときに最初に訊かれたのが、「わしと姉とで花輪代を送ったが、ちゃんと飾られていたか? 立派に見えたか?」というものでした。そしてその二日後に会ったとき、父は開口一番、「姉から電話があってとても豪華絢爛だったそうだ」と喜色満面で言い出し、私はすぐにはピンと来ず、「古いお寺で葬儀があったから、そんなに派手な感じはしなかったよ」と返事しましたら、「違う違う、わしたちが贈った花輪のことや」との返事でありました。 そんなことを思い出しますと、今回の家族葬は親父には申し訳なかったかなと思いましたが、我儘一杯やりたいことを好きなようにやって賑やかに生き、90才で大往生遂げたのですから、本人の葬式くらい静かなものでよかったのではないでしょうか。
2012年08月21日
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1992年の8月初旬、やまもも一家は2泊3日の家族旅行をしました。旅行先は私のふるさとの町でした。ふるさとの町を離れて就職してから十数年ぶりの帰郷でした。私はその間に結婚し、そして2人の男の子の父親となっていました。 久しぶりに見るふるさとの町でしたが、古都のたたずまいは昔のままでした。緑の甍(いらか)が美しい古寺の苔生(こけむ)した石段に私たち家族の跫音(あしおと)が静かに響き渡り、その石段の上を大小3つの影が重なりながら歩むのを見て、私はなんとも言えぬ感慨を覚えたものです。 子どもたちが父親のふるさとの町を見るのは初めてでした。小学校高学年の長男と幼稚園児の次男の目に私のふるさとの風景はどう映ったのでしょうか、どんな印象を持ったのでしょうか。おそらく、彼らには、父親が生まれ育った町をいま訪れているんだという様な感慨などは全くなかったと思います。しかし、彼らが生い育ったふるさとの街では見られぬ古い神社仏閣や大きな大きな仏様、また沢山の鹿が群れ集う広くて美しい公園などはきっと彼らの心に強い印象を残しに違いありません。 ところで、家族と一緒に訪れたふるさとの町で、私が家族を連れていきたかった場所の一つに南大門がありました。鎌倉時代に建てられた重層入り母屋づくりの豪壮なこの大門の東西に、高さ8メートル以上もある大きな寄せ木造りの巨大な仁王様が向かい合って立っているのです。南大門の西側に立って口を大きく開けているのが「阿形」(あぎょう)、東側に立って口を閉じているのが「畔形」(うんぎょう)で、仁王様たちは寺を邪神から護るために約800年間ずっと阿畔(あうん)の呼吸を合わせてきたそうです。 私は、特に「阿形」に私の家族を引き合わせたいと思っていました。口だけでなく目もぎょろっと大きく開け、右腕に両端の尖った金剛杵(こんごうしょ)を抱え、左手はその指の全てを大きく開いてぐいと構えているこの「阿形」には特別の思い出があったからです。私が小学5年生の時、野外写生の時間にこの南大門の「阿形」をクレヨンを使って描き、美術の先生に高く評価してもらったのです。ちょうどその頃、私は色の濃淡を使い分けて対象を立体的に描くテクニックを見よう見まねで身に付けたばかりのときでした。ですから、南大門のこの仁王様の巨大で力感溢れる木造彫刻は私の絵の対象として最適だったのです。私は茶色を基調にしながら、様々な色のクレヨンを画用紙にぐいぐいと塗り込んで仁王様を力強く播き出しました。そして、この絵は後で額に入れられて校長室に飾られることになりました。 運動会で走れば、「やまもも君、最後まで頑張って下さい」と場内アナウンスで励まされ、音楽発表会で笛やハーモニカを吹くときは、ただそれらしくパントマイムを演じるしかなかった内向的で目立たない男の子にとって、こんな嬉しいことはありません。ですから、私が後に結婚したときも、媒酌人の方に頼んで、その新郎紹介の話のなかにこの仁王様の絵のエピソードをわざわざ入れてもらったほどです。だって、結婚式のために遠路わざわざおいで下さった列席者のみな様方に対し、新郎は「優秀な成績で卒業されました」「将来も非常に期待されています」なんて誰も信じないようなウソっぼい紋切り型の紹介の言葉だけで終わってしまうのでは余りにもさびしすぎますからね。 さて、私はこんな楽しい思い出のある南大門の仁王様の「阿形」と再び会うことができたでしょうか。私の家族を「阿形」にちゃんと紹介することができたでしょうか。それが残念ながらできなかったんです。私たち家族が南大門に赴いたとき、その大きくて豪壮な門は昔のままに元の場所に建っていました。南大門の東側に「畔形」の雄姿を見ることもできました。しかし、なんとなんと、南都の南大門の西側には「阿形」ではなく巨大なミイラ男がいたのです。 びっくりしましたね。だって、白いサラシで全身をぐるぐる巻きにされた巨大なミイラ男が南大門の西側にどんと立っているなんて予想もしなかったからです。しかし、南大門に出現したこの巨大なミイラ男があの「阿形」であることはすぐに判明しました。私たちが南大門の前の石段を上がると、先に来ていた観光客の一団にガイドさんが南大門の説明をしており、金剛力士像の解体修理のことも話してくれました。その解説によりますと、口を閉じた仁王様「畔形」の解体修理がまず先になされ、それが終わった後、今度は口を開けた「阿形」の解体修理がおこなわれ、つい最近、作業所から傷つかぬように全身を白いサラシで巻かれて戻ってきたばかりとのことでした。ですから、私たち家族が南大門を訪れたとき、仁王様の約800年間続いた阿畔(あうん)の呼吸合わせがちょうど一時的に中断していたんですね。ああ、うんがないですね(駄酒落です。念のため)。 私は、仕方がありませんので、東側の仁王様の「畔形」に心のなかで私の家族を紹介し、ミイラ男に変身している「阿形」にもくれぐれもよろしくと伝言を頼みました。 その後、私は家族と連れだって大きな仏様が鎮座ましますお寺の方に向かって晴れ渡った夏空の下をまた歩き出しました。 1998年2月28日に記す
2012年07月21日
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今年(2012年)4月中旬の夜、明石在住の長男から電話で「おじいちゃんのお父さんの墓はどこにあるのか」との突然の問い合わせがあった。 私が小学生の頃に祖父は他界しており、勿論、私の長男にとって父方の曾祖父は知識の上の存在でしかない。長男にとって、そんな大昔の先祖とも言える人物のお墓の問い合わせだけに、私はいささか驚いたものである。 実は、祖父の他界後に私が両親と一緒に祖父の墓参りをした記憶はたった一度しかなかった。私の両親は、父方の故郷の地からは仕事の関係でずっと離れて暮らしており、また私の父が末っ子ということもあって、先祖供養の墓参りなど全くしなかったのである(威張ることではないですね)。そのため、私の母が2001年に急逝したときなど、葬儀屋さんから父方の菩提寺や宗派のことを訊かれたときも、父はそのことをすっかり忘れており、私が慌てて親類に問い合わせて、なんとか故郷の浄土宗のS寺ということが判明したという、なんともあきれ果てた次第であった。 ですから、今回の長男の突然の問い合わせに対しては慌てふためくこともなく、即座に答えることが出来た。しかし、それにしても曾孫(ひまご)が全く顔を見たこともない曾祖父の墓の場所を質問してきたことには正直驚きを感じ、その理由を訊くことにしたのである。 長男の言うに、弟が今年の4月から大阪に就職したので、ケータイで連絡を取り、今度の5月の連休にどこかに一緒に行かないかと声を掛け、選択肢の一つとして「おじいちゃんのお父さんの墓参り」を挙げたところ、次男も曾祖父の墓参りがしたいとのことで、それで私に電話で先祖の墓について問い合わせたとのことである。 それはご先祖様も大喜びされることであろうと返事をし、君たちの曽祖父の名前は「勝(まさる)」で曽祖母の名前は「つきえ」と言うんだよと教え、私の故郷の町のS寺の場所はパソコンのGoogleマップで簡単に分かるに違いないと伝え、最寄りの私鉄の駅からS寺までの簡単な道順だけを教えた。 その数日後に長男から「墓参りに行ってきました」とのメールが送信されて来て、「少し迷いましたけど、無事に見つけました! 駅から近いから、またいけそうです!」との簡単な文章にS寺の先祖の墓の写真も添付されていた。その先祖の墓の写真には新たに供えられたと思われる花も写っており、電話で長男に訊いたところ、お寺の近くの花屋さんで手向けのために購入したとのことであった。 嬉しいことである。父親の私は先祖の墓参りなどほとんどしたこともなかったのに、子どもたちが先祖の墓のことを気に留めてくれており、花も添えてくれたという。私が思うに、私の母が亡くなってから、その墓が鹿児島の市内に新たに建てられ、私たち夫婦が子どもたちと一緒に墓参りをするようになったのだが、私にとって「大人になってからの新たな体験」である墓参りが子どもたちにとってはきわめて自然なことであり、今回、兄弟がともに関西で暮らすようになって、その記念として同じ関西の地の私の故郷の町に眠る先祖の墓参りを思いついたのであろう。勝(まさる)おじいちゃんもつきえおばあちゃんも「よう来た、よう来た」と言って初めて見る曾孫たちの墓参りに大喜びしたに違いない。
2012年06月09日
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今日は11月3日の文化の日ですね。 私は両親の家の母(2001年に他界)の書斎の後片付けをしていましたら、段ボールの底から古い写真帳が出てきました。開きますと、そこに若い頃の母と幼い私とが一緒に写っている写真が貼られていました。ずっと私の子ども時代の写真を探していたのですが、これまで1枚も見つからず残念に思っていたのですが、それが今日になってやっと1枚見つかり、そこに写っている母と子の姿をとても懐かしい気持ちでしばらく眺めておりました。 私の母は、息子の私が言うのはいささかはばかられますが、なかなかの美人だったんですよ。私の小学校時代、友達と一緒に学校から下校している途中、偶然に母と出会ったときの友達の言葉がいまも強く記憶に残っています。友達は過ぎ去っていく母の後姿を見ながら驚いたように「お前のおかーちゃん、えらい美人やな!」と言ったものです。 一方、私の方は、母の知人が道で私を連れて歩いている母と出会うと、その人たちはみんな私をどう褒めたらいいのか一瞬戸惑い、ちょっと間を置き、「お、お元気そうなお坊ちゃんですね」と異口同音にお世辞の言葉を発したものです。私の生まれ育った関西の地では、落語の「子ほめ」のように何か一言おべんちゃらを言わなければなりません。でも流石に「栴檀(せんだん)は双葉より芳しく、蛇は寸にしてその気をのむと申します。私も早くこんなお子さまにあやかりたい、あやかりたい」とまでは言えず、特に元気そうでもない男の子を評して咄嗟に「元気そうなお坊ちゃん」という適当な言葉を見つけ出したのだと思います。私は子ども心に大人たちは「えらい苦労してるんやな」と彼らに大いに同情したものです。 1枚の写真を見つめていて、あの頃のいろいろ懐かしい思い出が蘇って来て、自然と涙が滲み出て来ました。それでこのブログにもその写真を記念に載せることにします。もしこれをご覧になった方は、やまももさんは子どもの頃は「お元気そうな坊ちゃんだったんですね」との感想を持たれるに違いありませんね、きっと。 なお、拙サイト「やまももの部屋」に私の幼少年時代や亡き母の思い出を主として書いている「創作・エッセイ」のページがありますが、ここにこの母子の写真に加えて幼い頃の母が家族と一緒に写っている写真なども新たに載せておきました。
2011年11月03日
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今年の夏は暇があると両親の家に行って亡くなった母(享年七十七で他界)の書斎の整理をしていましが、遺品の中に切手のシートが沢山あることが分かりました。母が切手をシートで集めていたことなど全く知らなかったのですが、それらの切手のシートを眺めていて、私自身が子どもの頃に切手集めをしたことを懐かしく思い出しました。 私は幼い頃から様々なものを集めて楽しんでいました。収集対象は、松ぼっくり、ドングリからビー玉、めんこ、下着、いやいや、下着は集めませんでしたが、とにかくなんでもかでも集めたものです。 そんな私が郵便切手を集めるようになったのは小学校の高学年の頃(団塊の世代なので、1950年代後半)だと思います。それまで、地味な色と図案の多かった日本の郵便切手が昭和33年(1958年)になって急にカラフルになり、また鳥居清長「雨傘美人」、安藤広重「東海道五十三次之内・京師」や「第3回アジア競技大会」「ブラジル移住50年」「世界人権宣言15年」など優れた図案の特殊切手(記念切手、切手趣味週間切手、年賀切手などのこと)が次々と発行されるようになります。 この頃に日本の切手が子どもたちの興味関心を惹きつけるだけの魅力を持つようになり、子どもたちの間に切手ブームが起こりました。その頃、小学校高学年になっていた私も例外ではなく、切手集めに大いに熱中し始めました。 私の切手収集は、最初、グリコのおまけについていた外国切手から始まりました。しかし、グリコのこの外国切手にはろくなものがありませんでした。そのうちに、家に来た郵便物に貼られた切手にカラフルで魅力的なものがあることに気づき、母に頼んでハサミで切手の部分を切り取らせてもらい、水ではがしてストックブックに整理するようになりました。この方法での切手集めが私にものを集める楽しさをなによりも実感させてくれたような気がします。 使用済み切手を集めることにすっかり熱中した私は、ある日、親の留守中に無断で家の中を家捜しをしたことがあります。そのとき、普段使わない奥の部屋の押し入れの襖も開けてみましたら、しめしめ、その中に挨だらけの大きな麻袋が一つ見つかりました。いかにも古い郵便物がぎっしりと詰まっていそうです。私は、期待に胸を大いに膨らませながら、逸る心を抑えつつこの袋の紐を解いたものです。しかし、残念、郵便物は全く入っていませんでした。でも、その代わりに、その袋の中には古い書籍がいっぱい入っていました。これらの書籍にはとても粗悪な用紙が使われており、書いてある言葉も難解なものが多かったのですが、内容は小学校高学年の私にはとても有意義なもので、それらを夢中で読み耽るようになりました。 私が両親に無断で読み耽ったのは、敗戦直後に雨後の筍のように出版されたいわゆるカストリ雑誌でした。おっと、カストリ雑誌なんて言葉はいまの若い人には死語でしょうね。三省堂の『新明解国語辞典』には、「滓(かす)取り焼酎」について、「酒の滓をしぼりとって作った下等な焼酎。アルコール度が高い」と解説し、肝心の「滓取り雑誌」については、「三合飲めばつぶれるといういうことから、三号で廃刊になるような粗悪な雑誌」とまさに「明解」の名に恥じない見事な解説をおこなっています。これらカストリ雑誌の多くが戦争中の抑圧の反動なんでしょう、性風俗を主題にしており、なんとも隠微で淫らな感じの文章と扇情的な挿し絵によって構成されていました。私が見つけ、熱心に「学習」した雑誌もそういう類のものだったのです。 さて、カストリ雑誌でいろいろ大事なことを真剣に学びつつ、切手集めへの情熱と努力もその後しばらく続きました。家での古い郵便封筒こ貼られている使用済み切手は漁り尽くしたので、祖父母や知人にもお願いして集める努力をしました。また、新しく発行される特殊切手は、新聞で発行日をチェックし、その日に最寄りの郵便局で買うようになりました。しかし、古い切手の方は入手できない切手がまだまだ沢山ありました。そのために、学校の友だちと切手の交換もしましたが、私が欲しい切手はみんなも欲しがっているものばかりですから、交換には限度があります。後はお金を出して購入するしか方法がないようになりました。 ところで、私と同じ団塊の世代である漫画家の西岸良平が『夕焼けの詩』第28巻(小学館)に「切手」と題してこの昭和30年代の子どもたちの切手熱を描いています。そこに登場する一平君は、切手を買うお金をお母さんからもらおうとして、「手紙も出さないのに切手ばかり買い込んでムダづかいして」とお母さんに叱られてしまいますが、そのときに一平君はつぎのような反論をおこなっています。「チェッ、ムダづかいじやないや、これでもマネービルのつもりなんだい!」「ほら、このカタログを見てごらんよ、二年前に郵便局で十円で売っていた記念切手がもう三十円だよ! もっと前の『月に雁』なんて八円だったのが千円以上になっているんだ、貯金なんかよりずっとわりがいいだろ」。 一平君が言っている「月に雁」とか「見返り美人」なんて切手は、小学生には高嶺の花でしたから、こんな高額な切手を入手することは初めから諦めていましたが、でも、少年向け月刊誌に載っている通信販売の切手のなかで安いものはお小遣いを貯めてよく買うようになりました。 中学生になって初めて迎えたお正月、私はこれまでにない大金を手に入れました。祖父母や親類の人たちからもらったお年玉が小学生のときに比べて大幅にアップしたのです。私は、それではと喜び勇んで私鉄に乗ってトンネルを越えて大きな街のデパートまで切手を買いに出かけることにしました。 デパートの切手売場のガラスのショーケースのなかには前から欲しい欲しいと思っていた切手がずらっと並べられていました。そして、その周りには獲物にたかるハイエナに様に沢山の子どもたちが群がり集まり、それらの切手をじっと食い入るように眺めていました。私は彼らの熱い視線に耐えながら、思い切って十数枚の切手を買いました。それらのなかには、年賀切手「羽子板をつく少女」(1949年発行)や原節子によく似た看護婦さんがにっこり微笑む「日本赤十字社創立75年」(1952年)なんて切手もあったように記憶しています。 しかし、不思議ですね、前から欲しい欲しいと切望していた切手を一遍に十数枚も買えたのに、デパートからの帰り道、私は全然喜びを感じませんでした。家でこれら買ったばかりの切手を眺めていると、羨ましそうに私を見ていたあのショーケースの周りの子どもたちの眼が思い出されて来ます。そしてまた、彼らの前で高額の金を支払ったときのあのなんとも言えぬ抵抗感が私の心によみがえるのです。その日から私の切手収集の情熱は急速に萎えていきました。それから以降、私の切手収集は郵便局で新しく発行された特殊切手を買うことに限定されるようになりました。そして、東京オリンピックが開催された1964年に空前の切手ブームが到来したとき、私は切手への関心を完全に失っていました。
2011年10月05日
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私は、従来はADSLの通信回線を利用してインターネットに接続していたのですが、2009年9月から光ファイバーに切り替えました。このときにプロバイダも「@nifty」から「OCN」に変更し、拙サイト「やまももの部屋」の関連ファイルも無料で利用できるFC2ホームペーに全て移し変えました。このFC2ホームペーへの拙サイト関連ファイル移動に伴い、何箇所が不都合が生じ、気が付く度に修正していたのですが、それでも全て完全に修復するまでにはなっていませんでした。 それが最近になって、拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」に訪問して下さるようになったクマタツさんから、有難いことに拙サイト「やまももの部屋」の幾つかのコンテンツをご覧下さっていることをメールやご自身のブログ等でお伝え下さり、私も久しぶりに拙サイトを見直す機会を与えられました。すると、あるわあるわ、未修正の問題個所が花咲爺さんの犬の「ここ掘れワンワン」じゃありませんが続々出てくるではありませんか。 ところで、クマタツさんからメールで興味深いエッセイを数編いただき、私個人が見るだけでは勿体ないので(すでに活字化されて公表されているものもあるようですが)、新たに拙サイト「やまももの部屋」に「月下推敲」と名付けた読者投稿ページを新設し、そこにクマタツさんのエッセイ2編をアップさせてもらいました。 ↓ 拙サイト「やまももの部屋」の新設ページ「月下推敲」 http://yamamomo02.web.fc2.com/essay/index.html このブログをご覧になられた方の中には、いろいろエッセイを書いておられる方もいらっしゃると思います。ぜひ「月下推敲」をさらに充実したページにしていきたいと思いますので、同ページ内に掲示しています私宛メールアドレスに添付ファイルで送信していただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
2011年09月27日
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みなさん、こんばんは、やまももです。 今日は最寄りの動物病院に飼い犬のポロ(13歳のオスの柴犬)を連れて行って狂犬病予防接種と混合ワクチン接種の注射を受けて来ました。 このポロは、8歳のときまで私の母がまるでわが子のようにとても可愛がっていましたが、母の他界後に我が家に引き取って世話をしています。しかし、犬の飼い主が亡くなったり、高齢化して飼えなくなったとき、その犬を引き取って飼ってくれる人がいない場合はどうなるのでしょうか。 世間にはいろいろな事情から飼い主がなくて戸外をうろつく野良犬がたくさんいますね。それで、今夜はそんな可哀想な野良犬を拾って育てて来たアイさんのことをちょっと紹介させてもらいます。 私が10数年前にアイさんの家に初めて行ったとき、犬が7匹もいましたが、その犬たちはみんな野良犬として街をうろついていたのを拾ってきたものでした。猫も家の中をたくさん出入りしていましたが、その猫たちもやはりもとはノラ猫だったそうです。 このアイさんのお家は、鹿児島市の中心地からかなり離れており、周囲は田あり山あり川ありと自然環境にとても恵まれており、私が訪問したときは近くの山で採ったタラの芽をテンプラにしたものを食べさせてもらいました。しかし、アイさんは特別の自然環境愛好家というわけではありません。アイさん夫婦がそんな場所に住むようになった最大の理由は、たくさんの犬や猫を飼うことのできる環境が得られるからでした。 アイさんの話ですと、最初に野良犬を拾って育てたのはいまから30年くらい前のことだったそうです。ある日、家の近くの道路を痩せ細ったビーグルがふらふらと歩いているのを見かけたそうです。しかし、可哀想だとは思っても、そのときは飼うつもりはありませんでした。ところが、数日のうちにこの犬を三度も見かけ、その哀れな姿に耐え切れずに家で飼うことになったそうです。 それから以降、野良犬を家に連れてきて育てることが多くなり、住居もそれに適した場所と家屋を選んで住むようになりました。しかし、多数の犬を飼うのは経済的にも時間的にも大変なことです。毎日の餌代がバカになりませんし、病気をしたときには多額の治療費が掛かります。毎日散歩させなければなりませんし、犬が病気になれば看病しなければなりません。 そんな心優しいアイさん行為に私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話を連想しました。芥川龍之介のこの「蜘蛛の糸」という作品では、極楽にいらっしゃる御釈迦様が地獄の底にいるカンダタをご覧になって、彼が現生で悪事の限りを尽くした人物であるが、ただ現生で一匹の蜘蛛を助けたことがあるのを思い出され、カンダタを救い出すために極楽で美しい銀色の糸をかけていた蜘蛛の糸を地獄の底へ下ろされますね。ですから私はアイさんにつぎのような冗談を言ったものです。「功徳を積んだアイさんの天国行きは間違いないですね。それでも閻魔さまが間違ってアイさんを地獄に送ったら、犬や猫たちが尻尾を繋いでアイさんを地獄の底から助け出そうとするでしょうね。蜘蛛の糸ならぬ犬猫の尻尾ってわけです」とね。 現生でアイさんに助けられ、いまは天国で幸せに暮らしている犬や猫たちがアイさん救出のためにつぎつぎと尻尾を繋いで地獄に降りて行きます。それでも地獄の底は深くてなかなかアイさんまで届きません。いぬ、ねこと増えるたび「うんとこしょ どっこいしょ」・・・、それでもアイさんには届きません。ねこにねずみも加わって「うんとこしょ どっこいしょ」・・・そして、やっとかぶが抜けました。あれっ、いつの間にか絵本「おおきなかぶ」の話にすり替わっていましたね。 最近、アイさんが飼っていた犬は一匹だけでしたが、それが老衰で死にました。それで、アイさんは自分の年齢のことを考えて、もし新たに犬を拾って飼い出しても、最後まで面倒を見られないかもしれないだろうと判断し、もう犬は飼わないと言っています。しかし、ときどき家の近くを歩いていて、傍らに一緒に歩く犬が一匹もいないことになんとも言えない淋しさを覚えるそうです。
2006年04月15日
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