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masaさん、バルダさん、こんばんは、やまももです。 masaさんご自身はまだ入院は幸いにして体験はしておられないとのことですね。それはいけません、ぜひ入院体験をしていただきたいものです、いやいや、やはり健康がなりより大切ですから、病気のために入院するなんてことはやらないにこしことはありませんね。しかし、負け惜しみではありませんが、私は今回の入院体験からいろいろ貴重なことを学ぶことができましたよ。 私は団塊の世代ですが、一人の患者としては生まれたばかりの赤ちゃんと同様の治療や看護も受けねばなりません。ですから、恥や外聞などにはこだわっておられません。この体験はかなりキツイものがありましたが、また本などでは絶対に学べないことを身をもって学んだような気がいたします。それから、病室は六人部屋だったのですが、患者さんの入れ替わりが激しく、いろんな人と接することが出来ました。患者さんの年齢も高齢者が多く、私の近所や職場ではあまり耳にしない鹿児島弁のネーティブスピーカーたちのディープな会話のなかに身を置くことできたのもたいへん貴重な経験だったと思います。そして、なによりも貴重で嬉しかった体験は、私を温かく看護してくれる妻や長男との絆を深めることができたことでした。明石で働いている長男などは、職場の上司に頼んで長期休暇をもらい、私が手術後にしばらく病院の個室暮らしをしていたときは夜もずっと泊まり込んでくれたのですよ。親身の看護に本当に感謝です。 さて、寺尾美保さんの『みんなの篤姫』のことですが、masaさんのお子さんは読了され、「読みやすかった」との感想を持たれ、また「今とは違う境遇に驚いていました」とのことですね。篤姫が生きた頃と今の時代とは環境も習慣、考え方も随分と異なっていますから、そのままテレビドラマ化したら視聴者の多くが非常な違和感を覚えると思いますが、今回の大河ドラマ「篤姫」は現代人の感覚にマッチさせてとても楽しくて面白いものに仕上げていますね。 ところで、「寺尾氏の受賞、早速、南日本新聞のHPを見にきました」と書いておられますが、南日本新聞のサイトに最近載った寺尾美保さんの篤姫関連の記事としては、つぎのようなものがありましたね。「篤姫、親子で知って 児童向け読本きょう発売」 http://373news.com/_bunka/atuhime/index.php?storyid=9696#news「第34回南日本出版文化賞 『天璋院篤姫』寺尾美保著」 http://373news.com/_jigyou/syakoku.php?ym=200805&storyid=10661 バルダさんから「1ヶ月半は、私たち、やまももさんの記事を待つ身としては、とっても長かったです^^」とのありがたいお言葉をいただき、大感激しております。また私がブログにアップした垂水人形の写真について、「かわいいですね♪」と気に入って下さり、「垂水人形は、可憐な宮崎・篤姫のイメージですね。/橙の着物といい、あ、猫とも縁が深いのですよね」とのコメントも寄せてくださり、とても嬉しくなりました。垂水人形は明治の初期から素焼きの土人形として作られていたそうですが、平成になって復活し、NHKの篤姫ドラマ放映に対応してこの人形も作られたそうです。鹿児島県観光連盟会長賞を受賞しており、私もとても気に入って購入しました。 篤姫ドラマでは、大奥でのスマートでクールな瀧山と豊満(?)でホットな幾島(松坂慶子)との対照的なキャラクターの対決もなかなかいいですね。堺雅人演じる家定は多くの女性視聴者のハートをしっかりととらえたようで、深く静かに公方様ブームが起っているようですね。明日放映のドラマでの篤姫との再度の対決(?)が楽しみです。 ところで、篤姫は斉彬から一橋慶喜を将軍継嗣として家定に推すように頼まれていますが、この慶喜という人物の歴史的評価はいろいろ分かれているようですね。では、斉彬はなぜ彼を高く評価し将軍継嗣として推したのでしょうか。このことについては、また後日適当な時に考えてみたいと思います。
2008年05月24日
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バルダさん、お久しぶりです、やまももです。 1ヶ月半も入院しておりましたが、篤姫ドラマは病室で毎週日曜日の夜にしっかりと見ておりました。このドラマの主舞台が薩摩からは江戸に移ってからも好調を維持しており、特に江戸城大奥のお女中たちのきらびやかな衣装や贅を尽くした各種調度品等にはただただ感心させられました。 ところで、堺雅人演じる家定は独特の雰囲気があってとてもいいでいね。バルダさんがご自身のブログ「オペラ座の書庫」の「NHK大河『篤姫』 十三代将軍・徳川家定(家祥)」 で、「篤姫の宮崎あおいチャンを抱きとめる、/家定の堺雅人さんの『危ないではないか!』/きゃ!素敵^^」と書いておられますが、すっかり魅了されてしまった女性たちも多いのではないでしょうか。 またバルダさんは、倒れ掛かる篤姫を家定が抱きしめて助けるこのシーンについて、「チ、面倒なことを! ヘタに助けたら、/皆にホントはマトモってばれちゃうじゃないか!/…でも仕方ない、助けるか」といった家定の逡巡の表情を的確にスケッチされておられますね。家定はそのとき篤姫に真顔で「危ないではないか!」とそっと声を掛けていますから、視聴者の大半は家定の「うつけ」はどうも狂言らしいと判断したことと思ます。このドラマでは、やはり家定は「うつけのフリ」をしていると解釈すべきでしょうね。 ところで、篤姫は家定の「昔話など聞かせよ」とのリクエストに応えて、めおとのネズミの話を語りだしますが、内容を伝えることなく眠ってしまいます。しかし、彼女はどんな話をするつもりだったのでしょうかね。私もめおとのネズミの話の続きが、とても気になります。ぜひ次回はちゃんと私たちにも最後まで語ってもらいたいものですね。
2008年05月21日
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みなさま、お久しぶりで、やまももです。 先月初めに突然入院することになり、みなさまには大変ご心配をおかけしましたが、先週の土曜日(5月17日)やっと退院することが出来ました。46日間もの長い入院生活でしたが、それも過ぎ去ってみますと非常に短い期間のことだったように思われます。 さて、NHKの篤姫ドラマですが、14回目から19回目の6回分を病室でしっかりと見ていましたよ。前回の20回目は久しぶりに自宅で見ることが出来ましたが、この回では篤姫(宮崎あおい)が家定(堺雅人)と婚礼の夜を送る場面がユーモアたっぷりに描かれていました。 鬼ごっこに遊び興じている家定の姿を見て不安を感じていた篤姫は、婚礼の夜も「わしは疲れた。寝る。そなたも休め」とすぐに寝てしまおうとする家定にビックリしてしまいます。篤姫は慌てて大きな声で「本日よりよろしくお願いつかまつります。不束者ではございますが、将軍家御台所として精一杯務める所存にございます……」と型通りの挨拶を始めますが、家定は「うるさいのう。目が覚めてしまったではないか」と言った後、なんと「何か面白き話を聞かせよ」と言い出します。それで篤姫はハリスのことについて語り合おうとしますから、今度は家定がビックリです。 この婚礼の夜の新郎新婦の前代未聞の掛け合い漫才、どちらもどっちのピンボケすれ違いの会話がサイコーによかったですね。緊張している篤姫に家定がまず「わしは疲れた。寝る」とはぐらかし、それに彼女が大声で型通りの挨拶で対応、これには彼もビックリしますが、そこは長年にわたって「うつけ」を演じてきたベテランです、「何か面白き話を聞かせよ」と切りかえします。天然ボケの彼女はハリスのことを持ち出しますが、これは彼が今一番耳にしたくなかった名前ですから、真顔で「二度とそのような話はするでない」と怒り出しますが、やはりそこはベテランです、怒りっぱなしでは芸がありませんから、すぐに「昔話など聞かせよ」とまた相手の意表を衝いて驚かせています。しかし天然ボケの彼女はそれに対して「むかしむかしあるところに」とやりだし「めおとのねずみがおりました」と語りだしますが、朝からの婚礼の儀式に疲れ果てていたためそのまま深い眠りの世界に入っていきます。これにはさすがベテランの彼もかないません。この掛け合い漫才、天然ボケの勝ち!!、ベテランうつけは見事に負けてしまったようですね。
2008年05月20日
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masaさん、こんばんは、やまももです。 NHKの大河ドラマ「篤姫」の主人公の篤姫も生まれ故郷の鹿児島を離れ、ついに江戸の薩摩藩邸に到着しましたね。しかし、篤姫の御台所への道はなかなか険しいようですね。前回の第13回目「江戸の母君」では、篤姫は英姫(余貴美子)の冷たい対応に非常な不安を感じて落ち込んでいましたが、そんな彼女に幾島(松坂慶子)が「殿(斉彬のことですね)を疑ってはなりませぬ」と言って励ましていました。今回のドラマでは、この篤姫の話と江戸に行けない肝付尚五郎(瑛太)の悲哀とを重ねていましたね。 尚五郎の場合は、斉彬(高橋英樹)の側近だった小松清猷( masaさんがお好きな沢村一樹さんが演じていますね)が[殿を信じろ、お前が今の薩摩に欠かせぬ人間だと思うから残したのだ」と励ましていましたね。しかし、この小松清猷の言葉は、清猷自身がアメリカの根拠地化に対抗して同地に行かされることになったときの心の葛藤を踏まえたものですね。 さて、篤姫が江戸藩邸に入る時、慣例に従って江戸藩邸に裏門から入った、というような説明が確かにあり、masaさんが「その意味・意義が解りませんでした」と書いておられますが、私も同様の疑問を持ちました。男尊女卑の考えから篤姫たちは裏門入りさせられたのだろうかとも考えたりもしましたが、念のためにインターネットの検索エンジンで調べましたら、NHKの「大河ドラマ 篤姫」の公式サイトの「トピックス」で篤姫の旅の最終目的地「江戸薩摩藩邸赤門」についての解説が載っていました。それによりますと「江戸時代、徳川将軍家の子女が嫁いだ大名家は門を朱色に塗るというならわしがありました。島津斉彬の正室・英姫も将軍家から迎えているため、赤門になっていたのです」とあります。 史実として、篤姫が実際に江戸薩摩藩邸赤門から入ったという記録があるのかどうかは分かりませんが、ドラマ制作者は上のような意味を込めて薩摩藩邸に高貴な身分の女性を迎えるに相応しい赤門を合成技術で作りだしたのでしょうね。 ところで、私は明日から入院のためしばらくインターネットが使用できなくなります。それで、その間はコメント欄への入力を一時ストップすることにいたしますので、ご了承ください。
2008年04月02日
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今夜(3月30日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第13回目は、篤姫の御台所実現には様々な困難が横たわっていることを予想させる展開となっています。 篤姫(宮崎あおい)は幾島(松坂慶子)とともに海路を使って大坂に向かい、さらに上洛して養女縁組をすることになっている近衛忠熙(春風亭小朝)に挨拶に出向きます。ところが、近衛邸で幾島は同家の老女の村岡(星由里子)から意外な話を聞かされて不安を抱きます。篤姫が将軍の御台所となる件は正式に決まってはおらず、京の公家の娘が大奥に入るとの噂もあるというのです。その頃、江戸城でも、島津の娘が大奥に入れることに徳川斉昭(江守徹)が難色を示していました。 篤姫たちは京からさらに東海道を江戸に向かい、旅の途中で富士山を仰ぎ見たときには、彼女は「薩摩よりまかり越しました篤子と申します。これより先、よろしくお願い申し上げます」と挨拶しています。そんな長旅を終えてやっと江戸に到着して薩摩藩邸に入ることができた篤姫でしたが、斉彬の正室で篤姫には義母となる英姫(余貴美子)にはなかなか面会が出来ません。やっと対面したときも御簾越しにしか話することは出来ず、さらに英姫は「殿にも困ったものよの」「島津の分家の娘が畏れ多くも公方様に嫁ぐなどということは誰も認めてはおらぬ」と冷たく言い放つのでした。 ところで、斉彬の正室の英姫(ふさひめ)という人は史実ではどんな人だったのでしょうか。芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年)によりますと、一橋家の徳川斉敦の四女とのことで、斉彬が数えで4歳のときに藩主の跡継ぎとなり、その直後に英姫との婚姻も決まったそうで、「英姫は文化二年正月二十三日生まれで、斉彬より四歳年長であった」としています。後に恒姫と改名し、斉彬が亡くなった2ヶ月後に江戸藩邸で死亡しています。江戸で生まれ育ち、斉彬に嫁いだ後は江戸の薩摩藩邸でずっと暮らしていたようですが、いまは鹿児島の福昌寺跡に夫の斉彬と一緒に祀られています。
2008年03月30日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 バルダさんから久しぶりにコメントをいただき大喜びしています。バルダさん運営のブログ「オペラ座の書庫」にアップされた「篤姫の時代の人」http://das-musical.jugem.jp/?eid=881#sequelや「少年ドラマシリーズ・篤姫!?」http://das-musical.jugem.jp/?eid=880#sequelをとても興味深く読ませてもらいました。同時代に生きている人間でも、価値観も体験も随分と異なりますね。まして篤姫が生きた時代と今とでは大変な違いが生じていますね。篤姫が現代のミニスカの女子高生を見たらどう思うのでしょうかね。 さて、私が拙ブログで紹介しました薩摩の天璋院引き取り話について、「薩摩が引き取る理由が、/朝廷に対して不遜…だから、ということになっていますが、/政治的には、どうだったのでしょうか。/家茂が生きている時には、篤姫がいることで、薩摩に有利だったものが、逆に不利になったりしたのでしょうか。/薩摩の思惑が、斉彬から久光に代わったことでの変化もあったのでしょうか。。。/…そもそも、斉彬が何をしようとしていたのか政治的には、どうだったのでしょうか」とつぎつぎと疑問を持たれたようで、鋭い質問をいだだきタジタジとなっています。 バルダさんの持たれた疑問と質問はいずれもとても内容の深いものであり、私の貧弱な知識と能力では簡明な説明を行うことは不可能なのですが、和宮降嫁の幕府の思惑とその頃に薩摩藩で実権を掌握した島津久光(大河ドラマ「篤姫」ではバルダさんが大好きな山口祐一郎さんが久光を演じていますね)の東上計画を今回は紹介させてもらうことにします。 和宮降嫁とかかわって天璋院の薩摩引取りの話が持ち上がった万延元年(1860年4月~1861年2月)という年は、幕府の政治路線が大きく転換した年でした。すなわち、同年3月3日(1860年3月24日)に尊王派の公卿・大名・志士らを弾圧して来た江戸幕府の大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士たち(薩摩藩浪士は有村次左衛門のみでしたが、彼が井伊直弼の首級をあげています)によって殺害され、それ以降、急速に権威を失墜させていった幕府が冷え切った朝廷との関係改善を目指して公武合体路線に方向を切り換えた年だったのです。 幕府はその公武合体を実現するために孝明天皇の妹の和宮の降嫁をはかったのですが、和宮降嫁の勅許を孝明天皇から得るために10年以内の攘夷実行という実行不可能な約束もさせられてしまいます。そして、そのことがますます幕府の権威を失墜させていく原因となってしまうのです。 この頃、薩摩藩では藩主の島津忠義の父親の島津久光が実権を掌握しており、朝廷守護と幕政改革を課題としての東上を計画していました。この東上計画とは、まず京都に上って天皇に開国の必要性を説明するとともに、藩としての幕府改革の方針を伝えて承認してもらい、さらに江戸で幕府に対して天皇の権威を利用して幕政改革を実行させるというものでした。 先代の薩摩藩主の島津斉彬は、将軍の御台所となった篤姫を通じて一橋慶喜の将軍継嗣を実現させようとしますが、これは幕府内部からの改革を目指したからですね。それに対し、斉彬他界後に藩の実権を掌握するようになった島津久光は、朝廷の権威を利用して一橋慶喜の将軍後見職就任を実現させるとともに幕政改革を推進させようと計画しています。斉彬と久光の幕政改革に対するスタンスの違いが篤姫への対応の違いを生み出したと思われます。なおこの久光の指導力についてはつぎのところに拙文を以前アップしています。 ↓ 小松帯刀の活躍と島津久光の指導力 その1 http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/200704110000/
2008年03月28日
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かよこさん、コメントをありがとうございます、やまももです。 輪王寺宮公現法親王宛ての天璋院の書状について、「確かに天璋院の立場を考えると驚きな内容ではありますが、女性だからこそ書けた書簡かなという気がします。/当時の、実際に政治を動かしている殿方たちには、とてもこんな思い切ったことは書けなかったでしょう。/展示全体を通してみても、天璋院の一途な想いと強い意志とがよく伝わってきました」とコメントされ、またご自身が運営しておられるブログ「黄昏どきに…第二章」の「天璋院篤姫展」中の私宛のコメントにも、「おっしゃる通り、官軍隊長宛の嘆願書と輪王寺宮宛の書簡とを読み比べてみると、この4ヶ月間の彼女の気持ちの揺れ動きが手に取るようにわかりますね。/それと同時に、一度嫁したからには自らは徳川家のために生きる、という天璋院の覚悟がよく伝わってきます」とも書いておられます。 官軍隊長宛の嘆願書と輪王寺宮宛の書簡との間に彼女の気持ちの揺れ動きが手に取るようにわかるとともに、またそこに当時の女性が守るべき道(婦道)を一貫して堅持しようとする天璋院の一途な想いと強い意志も確かに伝わってきますね。そういう意味で、現在の私たちの価値観から考えたり、また大河ドラマの世界の篤姫のイメージから想像するのではなく、幕末の薩摩の島津藩の一門家に生まれ育った天璋院という実在の人物の心の内を省察する必要がありますね。そう考えます、確かに当時の天璋院のような「女性だからこそ書けた書簡」と言えるかもしれませんね。 そんなことを考えていましたら、輪王寺宮宛の書簡に見られる薩摩藩への憤りは、徳川家に嫁いだ以上は自らの身命を賭して徳川家を守ろうとする彼女の一途な思いを蔑(ないがし)ろにする薩摩藩のつぎのような対応とも関連しているかもしれないと思いました。 万延元年10月18日(1860年11月30日)、攘夷決行を交換条件に孝明天皇が和宮と将軍家茂との婚姻を勅許しているのですが、その年の暮れに薩摩藩から幕府に天璋院を引き取ることを申し出ているそうです。そのことについては、畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年12月)に、薩摩藩藩主の島津忠義の名前で出されたつぎのような文書が紹介されています。「一この度皇妹御縁組の儀、御内々仰付られ候、ついては、天璋院様には御姑に当たらせられ、且つ拙者においても恐ながら皇親の未を穢し候にも相当り、重々恐入存じ奉り候、これに依り、天璋院様御事、其儘に在らせられ候ては、朝廷に対し奉り拙者において恐怖至極に御座候、何卒御同人様御里方へ永の御滞留在らせられ候様、仕度存じ奉り候、 右の趣、一応御内慮相伺度候段、申達候、以上。 申十二月 松平修理大夫(島津忠義)」 この文書の大意は、皇妹の和宮が将軍家茂に嫁ぐと、天璋院は和宮に姑として接することになるが、それは朝廷に対して畏れ多いことであるから、天璋院については里方の薩摩でずっと住んでもらうつもりである、と言っているのですね。畑尚子は同上書でこの文書について、「島津家からの自発的な願い出の体裁をとっているが、幕府より内々の指示あったといわれる。この話は天璋院の耳に入り、猛反発をくらって立ち消えとなった」と解説しています。 ところが、それから7年後に徳川軍が鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れ、慶喜が慶応4年1月12日(1868年2月5日)に江戸城に逃げ帰った直後に、またもや薩摩藩から天璋院を薩摩に戻そうという話があったそうです。そのことは、岩波文庫の巌本善治編・勝部真長校注『新訂 海舟座談』の後注に載っている『海舟余波』にも載っており、「天璋院を薩摩に還すという説があったので、大変に不平で、『何の罪あって、里にお還しになるか、一歩でも、ココは出ません、もし無理にお出しになれば自害する』というので、昼夜、懐剣を離さない。同じ年のお附きが六人あったが、ソレがまた皆一処に自害するというので、少しも手出しが出来ん」状態になったとしています。 それで、勝海舟が一人で説得に行ったそうです。海舟は、このとき天璋院に、「アナ夕方が、自害だなどと仰しゃっても、私が飛込んで行って、そンな懐剣などは引たくります、造作は御座いませんよ」と言い、さらにそれでも自害するようだったら「それはアナタ天璋院が御自害をなされば、私だって、済みませんから、その傍で腹を切ります、すると、お気の毒ですが、心中とか何とか言われますよ」と言ったので、天璋院たちも思わず「御じょう談を」と笑い出し、なんとか説得することができたそうです。 しかし、2回目の薩摩還りの話のときに天璋院が懐剣まで持ち出して自害の意思を示したというのは、やはり彼女が耐え難い屈辱感を覚えたからでしょうね。繰り返し天璋院を実家の薩摩に戻そうとする薩摩藩の対応は、婦道に殉じようとする彼女の女としての誇りを無神経に踏みにじるものであり、絶対に許しがたい行為であったのかもしれませんね。
2008年03月26日
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かよこさん、こんばんは、やまももです。 3月21日の拙ブログに「薩長の『御征伐』『御退治』を依頼する篤姫の書状」という記事をアップし、同日の鹿児島の地元紙「南日本新聞」の文化欄に、天璋院が慶応4年7月9日(1868年8月26日)に輪王寺宮公現法親王宛に「幼い天皇をだまして戦争を続ける薩長の逆賊を『御征伐』してほしい」との書状を出しているとの記事が掲載されたことを紹介いたしました。 その後、インターネットの検索エンジンでこの書状について調べておりましたら、幸いにしてかよこさんが運営しておられるブログ「黄昏どきに…第二章」に「天璋院篤姫展」についての記事をアップしておられ、同展で公開されているその書状について興味深いコメントを載せておられることを知りました。それで、その書状の内容についてお訊ねしましたところ、ありがたいことにとても丁寧なお返事をいただくことができました。 かよこさんのブログ記事によりますと、天璋院から輪王寺宮宛の書簡の大意はつぎのようなものとのことですね。「寛永寺を攻撃した西軍は、朝敵であるばかりでなく神敵仏敵です。/徳川家存続のため、どうか奥羽越の諸藩を率いて、薩摩ら西軍を征伐して下さい。」 なお、天璋院が徳川家存続のために薩摩の隊長宛に書いた嘆願書は、寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、200年6月)によりますと、それを携えた使者が江戸城を出たのが慶応4年3月11日(1868年4月3日)で、同年同月の13日には江戸城に戻っているとのことです。ところが、それから4ヵ月ほど後に、天璋院は輪王寺宮宛てに「徳川家存続のため、どうか奥羽越の諸藩を率いて、薩摩ら西軍を征伐して下さい」といった意味の書簡を書いていると言うのですから驚いてしまいますね。この4ヵ月の間に何があったのでしょうか。 慶応4年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が無血開城され、同年4月29日(1868年5月21日)には田安亀之助による徳川家宗家の相続が認められています。しかし、同年5月24日(1868年7月13日)に明らかにされたその石高は70万石というものでした。また、江戸無血開城と徳川慶喜の処遇に不満を抱いた旧幕臣たちが彰義隊を結成して上野の山に立て籠もったとき、新政府軍が慶応4年5月15日(1868年7月4日)に攻撃して一日で撃ち破っていますが、そのときに徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であった上野の寛永寺が焼失しています。この寛永寺には天璋院の夫の家定の墓もあったのです。 天璋院は、上野戦争での新政府軍の振舞に対してのみならず、500万石近くあった徳川宗家が70万石に大減封されたことに非常な憤りを感じていたのかもしれませんね。しかし、薩摩の隊長宛に書いた嘆願書と輪王寺宮宛の書状とは、内容が相反するものですから、天璋院の当時の心の葛藤を窺い知ることが出来て興味深いですね。 なお、かよこさんが「そして実際の政治的な流れの中では、官軍隊長宛の嘆願書もこの輪王寺宮宛の書簡も、ほとんど影響力はなかったと思うのです」と書いておられますが、それはおっしゃる通りかもしれませんね。しかし、彰義隊の新政府軍への抵抗を止めさせるために懸命に奔走した勝海舟としては、天璋院が輪王寺宮にこのような書状を書いていたことを知ったらやはり仰天したことでしょうね。 なお、この書簡については「図録には詳しい解説が載っているようですが、重さにめげて購入しませんでした」と書いておられますね。そうしますと、天璋院篤姫展の図録を見ればその内容が分かるようですね。どなたかその図録をお持ちの方がいらっしゃったら、この書簡の内容についてのより詳しい情報を教えていただきたいものですね。 かよこさん、これをご縁に今後ともよろしくお願いいたします。
2008年03月24日
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今夜(3月23日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第12回目のタイトルは「さらば桜島」で、篤姫が鶴丸城で今和泉家の両親で最後の対面をした後、桜島にも別れを告げて鹿児島城下から船出していく様子が描かれていました。 鶴丸城で篤姫出立の宴が催されたとき、今和泉家の両親も呼ばれますが、篤姫(宮崎あおい)は藩主の島津斉彬(高橋英樹)の養女ですから、父の忠剛(長塚京三)、母のお幸(樋口可南子)とは父や母として会うことはできません。挨拶もただ型通りのかしこまった挨拶をするしかありません。そんな実の親子の姿をテレビで見ていた私の妻が傍で鼻をグズグズとすすり出し、私もこらえ切れなくなって両目から涙がジワッと溢れ出てきました。 そして、篤姫と対面した尚五郎(瑛太)が挨拶の最後に「今和泉家の方々とはこれからもご昵懇にさせていただく所存でございます」との言葉に、彼女が「今和泉のこと、なに分よろしく」と返事しながら、これまで抑えていた感情が抑えきれなくなって泣き出してしまうのですが、そのとき私もどっと涙を流してしまいました。妻も勿論、大学進学で鹿児島をもうすぐ離れる息子の目にもきっと涙が光っていたことと思いますよ。 その後はもうイケマセン、後日再び篤姫が鶴丸城で両親と水入らずで会う場面や、鶴丸城を駕籠で出立した篤姫が今和泉家の門前で平伏している両親と永久の別れを告げる場面、さらには尚五郎たちが見送る中、桜島に「今日までありがとうございました。これからも薩摩の皆様をお見守りください」と大声で叫んだ後に海上から船出していく場面にもただひたすら涙を流し続けておりました。
2008年03月23日
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今朝(3月21日)の鹿児島の地元紙「南日本新聞」の文化欄を見ましたら、いま東京の江戸東京博物館で開かれている「天璋院篤姫展」のことを紹介した記事が載っており、それには「薩摩への複雑な思いの書状」との大きな見出しが付けられていました。 篤姫の「薩摩への複雑な思いの書状」とはどのような内容なのだろうかと大いに興味を持って同記事を読み始めましたが、なんとそれは天璋院が輪王寺宮に「幼い天皇をだまして戦争を続ける薩長の逆賊を『御征伐』してほしいと、『徳川家再興の一心』から訴えている」内容の書状とのことで、慶応4年7月9日(1868年8月26日)に輪王寺宮公現法親王宛に出されたものだというのですから、私は大いに驚かされました。同記事はこんな天璋院の書状をつぎのように紹介しています。「一八六八(明治元)年の江戸城開城後、篤姫は城に近い一橋邸に身を置いた。徳川家は駿河七十万石に移封が決まったが、東北では戊辰戦争が続いていた。篤姫が薩長中心の新政府軍に抵抗する奥羽越列藩同盟の盟主・輪王寺官公現法親王や仙台藩に送った書状からは、婚家を追い詰めた実家に対する複雑な気持ちを垣間見ることができる。 書状は同年七月九日付。篤姫は、薩摩藩などの新政府軍が東京・上野で行った破壊行為を、悪逆不法で『神敵仏敵盗賊共の振舞』として、輪王寺宮らに『御征伐』『御退治』を依頼している。」 また同記事には、天璋院篤姫展の図録で徳川記念財団の藤田英昭研究員が「このような篤姫の徳川復興を望む行動は「徳川家内でも孤立を深めた」であろうとし、「徳川家の救済を薩摩藩に依頼したが裏切られた反動で薩摩藩を『逆賊』と罵った。外様大名から嫁いできた人間だからこそ、一層婚家の人間になろうとした」と述べていることを紹介しています。 なお、この天璋院の書状の宛先は輪王寺宮とのことですが、この人物は伏見宮邦家親王の第九子で、江戸無血開城と徳川慶喜の処遇に不満を抱いた旧幕臣たちが彰義隊を結成して上野の山に立て籠もったとき、寛永寺の山主である輪王寺宮は盟主にかつがれています。彰義隊は慶応4年5月15日(1868年7月4日)の上野戦争で敗れますが、輪王寺宮は東北に逃れて仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されています。 天璋院がそんな輪王寺宮に「幼い天皇をだまして戦争を続ける薩長の逆賊を『御征伐』してほしい」という書状を送っているのです。しかし、これは旧幕府側の責任者となった勝海舟たち和平派の内戦回避への思いに反するような言動ですね。勝海舟は西郷隆盛との和平会談を成功させて慶応4年4月11日(1868年5月3日)に江戸城を無血開城し、同年4月29日(1868年5月21日)には田安亀之助による徳川家宗家の相続が認められています。しかし、同年5月24日(1868年7月13日)に明らかにされたその石高は70万石というものでした。天璋院は、上野戦争での新政府軍の振舞に対してのみならず、500万石近くあった徳川宗家が70万石に大減封されたことに非常な憤りを感じていたのかもしれませんね。 この天璋院の輪王寺宮宛の書状はとても興味深い内容のものですので、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」の文章中に新たに追加しておきました。
2008年03月21日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 バルダさんは篤姫の夫となる徳川家祥(家定)について、彼が狂言好きであるだけでなく、観劇した「狂言を再現してみせるのには、/かなりの理解力が必要な気がします。。」と書いておられますが、演劇好きのバルダさんならではのご指摘ですね。 昨夜のNHK大河ドラマ「篤姫」第11回目にも家祥(堺雅人)が登場していますが、なんと彼は、大奥に出入りする商人から瓦版を取り寄せており、そこに「さるお方が消えてなくなられた」と書いてあるのを見て、「これは、父上じゃ、父上のことじゃ」なんて大声を上げて臣下の人々を驚かせていましたよ。なぜなら、家祥の父である12代将軍家慶家の死はまだ世間には伏せられていたからです。 しかし、大奥に瓦版を持ち込ませ目を通していたというのですから、ドラマの家祥は情報をとても重視する人物のようですね。そう言えば、彼が島津斉彬(高橋英樹)と対面したときも、遠国の薩摩から参勤交代で来ていると聞いて、参勤交代のときに各地のことをいろいろ見ることができるから、「それは大いなる強みじゃの」なんてことを言っていましたね。広く世間のことを知ることや情報を集めることの大切さを知っているドラマの家祥はただのお馬鹿さんとは思えませんね。 ところで、昨日は寺尾美保『みんなの篤姫』(南方新社、2008年3月)という本を購入したのですが、この本にも家定について興味深い記述がありました。なお、同書の著者の寺尾美保氏は、尚古集成館(島津家伝来の数多くの歴史資料を集めた博物館)の学芸員で、すでに『天璋院篤姫』(高城書房、2007年6月)という実証的な史料研究を踏まえた貴重な労作を発表されています。 ただ、この高城書房の『天璋院篤姫』では、家定について「庭でアヒルを追いかけたり、家臣に豆を煎ってふるまったりと、幼児性を示す行動などが伝わっており、政治的な判断能力もなかったのではないかと言われているのである。とはいえ、実は、家定の人となりも、篤姫と同じく十分には検証されておらず、実際のところどのような人であったのかは明らかではない」とし、あまり詳しく触れられていませんでした。 しかし、今回新たに出された南方新社の『みんなの篤姫』は、子どもにも分かるようにとやさしい言い回しと総ルビで書き下ろしたものですが、家定についてはさらに詳しい記述がつぎのように加わっていました。「かんしゃく持ちで病弱だったという人もいますし、江戸城のお池にいるあひるを追いかけていたとか、豆を煎るのが好きで家臣たちにふるまっていたと言う人もいます。お父さんである家慶の具合が悪い時には、家慶におかゆを食べさせてあげようと考え、おかゆの中に自分の指を入れてちょうどいい熱さになったのを確認するなど少し変わった行動をする人だったと言われることもありました。 記憶力がよく、人の名前をよく覚えていたという人もいますが、将軍としての仕事ができるのだろうか、家定の子どもは生まれるのだろうかと不安に思う人もたくさんいました。 けれども、篤姫は江戸城で家定と仲良く過ごしていました。 (中略) 家定も自分で作ったカステラを篤姫にすすめるなど、お互いのことを思いやりながら仲良く暮らしていたのです。 篤姫はずっと後になって勝海舟に、『家定は決して馬鹿な人ではありませんでした。少しだけ内気な人で、江戸城では頼る人がいなかったのでしょう。私がおそばにいながら、なぐさめの言葉をかけてさしあげられなかったことを、今考えると気の毒に思います』と話したそうです。 変わった人と噂のある将軍家定に対して、篤姫は丁寧に、また、優しく接していたのでしょう。ただ、二人の間に子どもは生まれませんでした。」 篤姫は家定のことを「決して馬鹿な人ではありませんでした。少しだけ内気な人で、江戸城では頼る人がいなかったのでしょう」と言っていたのですね。前回紹介しましたが、家定の小姓をつとめた朝比奈閑水の手記には、病弱な家定のことを「神経過敏で怒りやすく、立ち振る舞いにも意外な感じがみられた」と記録していますから、おそらく将軍としてはいろんな意味で不適格な人物だったと思いますが、自らが望みもしない将軍という地位に就かされた家定という人は、世襲による身分制社会の犠牲者の一人だったのですね。こんな彼の人間的な葛藤と苦悩を「篤姫」ドラマで描き出してもらいたいものですね。
2008年03月17日
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今日(3月16日)、子どもにも読める本として、尚古集成館の寺尾美保さんがやさしい言い回しと総ルビで書き下ろした『みんなの篤姫』(南方新社、2008年3月)を購入するために鹿児島市の天文館に出かけましたが、帰りに蒲焼のお店の前を通りましたら、そこにNHKの「篤姫」のポスターと篤姫キャラクターの立て看板がありました。NHKの大河ドラマ「篤姫」は全国的になかなか人気が高いようですが、篤姫ゆかりの地である鹿児島の平均視聴率は30%以上もあり、観光スポットもなかなかの賑わいを見せているそうですよ。 さて、今夜の第11回目「篤姫」ドラマのタイトルは「七夕の再会」で、鶴丸城で御台所になるための修業に励む篤姫(宮崎あおい)が肝付尚五郎(瑛太)と七夕の日に久しぶりに再会しています。これは、篤姫が御台所として江戸に行くことを知った尚五郎が、藩主の島津斉彬(高橋英樹)に自らの江戸行きを願い出るために鶴丸城に赴き、斉彬と面会したときについ自分の篤姫に対する思いを語ってしまったからでした。それを聞いた斉彬は、なんと篤姫をその場に呼んで尚五郎と再会させます。 御台所になる決意を固め、これまでと打って変わって真剣モードで幾島(松坂慶子)の厳しい指導を受け入れて修業に励む篤姫が、尚五郎と再会できると聞いたとたんにあんみつ姫モードにチェンジさせ、廊下をバタバタと走り出し、満面の笑みを浮かべて懐かしげに尚五郎の顔を見つめ語りかけるその表情がとても自然でよかったですよ。しかし、彼女が御台所になることに対する不安を述べたとき、尚五郎から「あなたなら必ずなれます」と言われ、あらためて御台所になることについての決意を固めた篤姫は、あんみつ姫モードを消し去り、「父母のこと、兄のこと、そして薩摩のことを頼みます」と尚五郎に真剣な顔で頼みます。そんな篤姫に思わず尚五郎は一歩下がって平伏するのでした。
2008年03月16日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 篤姫の祖母・於珎(おたか)の娘時代が暮らしぶりから推測して、同じく島津一門家のお姫様として育った篤姫も箱入り娘として育ち、その生活空間も限られていたでしょうね。ですから、バルダさんが「江戸の町もろくに見ずに大奥入りしてしまった篤姫には、一体どれくらいの『世界』が見えていたというのでしょうか。。。/西郷に送った『嘆願書』書かれているのは、篤姫の視野の狭さのように思います。。。」とのご見解には同感ですね。しかし、ドラマでの篤姫の交際範囲はずっと広く、大いに「じゃじゃ馬」ぶりを発揮してあちらこちらを元気に飛び跳ねましたね。 ところで、「15回から鷹司政通役で、元・劇団四季の光枝明彦さんが出演するそうです」とのことですね。鷹司政通といえば、当時の朝廷で30年間の長きに渡って実権を誇った人物で、孝明天皇が彼に非常なコンプレックスを抱いて反撥したそうですが、大河ドラマではどのように描かれるのか興味深いですね。 さて、「家定をタダの暗愚としない脚本のようですが、実際はどうだったのでしょうか?/篤姫の努力にも拘らず、斉彬からの使命を果たせなかったのは家定がただの暗愚では無かったから…ということにしたいのかな?などと思いました」と書いておられますね。 前回の大河ドラマ「篤姫」第10回目では、老中首座の阿部正弘(草刈正雄)が紹介する黒船対策の意見書に対して家祥(堺雅人)は「つまらぬ」と繰り返していましたが、その意見書の中に「黒船に乗り込み、酒と肴で酔わせて相手を油断させてから火薬庫に火をつけて吹き飛ばす」というものがあることを知って「それじゃ」と大喜びしていましたね。 この場面に私は大笑いしてしまったのですが、こんな荒唐無稽な奇策が実際に幕府に対して提出されているそうですよ。岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(洋泉社、2006年5月)によりますと、江戸の新吉原で遊女屋を営む藤吉という人物が駕籠に乗って登城する幕府の若年寄・遠藤但馬守に差し出した訴状で提案しているとのことで、漁船を富津御台場の外で毎日一千艘操業することを許可してもらい、異国船が来たときに相手が喜びそうな品物を差し出して親しくなり、さらに油断したら品物を持って異国船に乗り込んで酒宴などを催し、酒に酔ったふりをして喧嘩を始めて異国人たちを巻き込み、その間に火薬置き場に火を付け、異国人を鮪包丁で片っ端から切り捨てるというプランだそうです。 実際に家定がこんな奇策を耳にしたかどうかは分かりませんが、ドラマの家定は敢えて道化て大喜びしたのかもしれませんね。では、史実では徳川家祥(後の家定)はどのような人物だったのでしょうか。 篤姫の結婚相手となる徳川家祥は、第12代将軍家慶の第4男として生まれ、嘉永6年11月23日(1853年12月23日)に家定と改名して将軍職に就任しています。なお、父親の家慶には13人の男子と16人の女子がいたそうですが、無事に成長できたのは家定以外には5男の慶昌と6女の暉姫だけだったそうです。 このことから、宮尾登美子『篤姫の生涯』(NHK出版、2007年11月)は、「父家慶も、傍に仕える者たちも風にも当てぬよう大事に育て、そうした過保護も加わったせいでしょう、極度にひよわな将軍になってしまいました。癇症で、身体の線も細く、言葉もはっきりせず、こめかみにみみず腫れのような青筋が浮き出していて、いつもぶるぶるふるえていたといいます」と作家らしい想像力も加えて紹介しています。 しかし、徳永和喜『天璋院篤姫 徳川家を護った将軍御台所』(新人物往来社、2007年12月)には、家定の小姓をつとめた朝比奈閑水の手記(口語訳、『徳川慶喜公伝史料篇一』六八)のつぎのような家定像を紹介しています。「父君家慶は家定の振る舞いには深く憂慮されていたのではないだろうか。江戸城で執り行われる儀礼日に同座されるときや同道するときには、近くにいながら苦々しいことばかりであるとしながらも、御能のときは平常の癇癪による怪しい振る舞いがみられない、そのために家慶は御能の観劇をたびたび開かれたようである。実際は御能は嫌いで狂言が好きなようであり、狂言のまねごとをして戯れることもあった。それは実に驚くほどの手際の良さであった。舞台で舞われるのではなく、人のいないところで、平常のままで狂言を巧みにまねていたという。」「世間にては暗愚の君であると甚だしいまでに諸書に散見するが、時代が文化・文政・天保のころなれば、これほどに世情の風説に取り上げられることはなかったであろう。諸大名でも、薩摩藩主島津斉彬・肥前藩主鍋島斉正(直正)・越前藩主松平慶永・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内豊信は格別であり、そのほかの国持ち大名を評価すれば、家定におよばざるものが多かったであろう。家定が将軍になったころの国難は特別な英明君主でもなければ対応できるものではなく、ましてや補弼すべき幕閣にも有能な人物が不在であったため、時世の移り変わる速さについていけなかったことはやむを得ないことであった。 家定は神経過敏で怒りやすく、立ち振る舞いにも意外な感じがみられた。嘉永のアメリカの渡航により京都(朝廷・公家・勤皇志士)の政治的動き、国の内外の折衝には格別の配慮をされ、夜を徹して頑張った。」 暗愚だったと評される家定について、このような意見もあったのですね。
2008年03月11日
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今夜(3月9日)の大河ドラマ「篤姫」第10回目では、斉彬(高橋英樹)から篤姫(宮崎あおい)の嫁ぎ先が将軍家だと伝えられた幾島(松坂慶子)が、篤姫に琴、鼓、書等の特訓を行う場面から始まりましたね。 しかし、篤姫は相変わらず幾島の指導を真面目に受け入れず、その「じゃじゃ馬」振りに変化は見られません。それで、幾島が斉彬に「このままではを平侍に嫁ぐのも無理です」と伝えましたので、斉彬は篤姫に会って事実を明らかにすることにします。すなわち、嫁ぎ先が徳川将軍家であること、幾島は篤姫を13代将軍の御台所とするために指南していることを明らかにするのです。驚愕した篤姫は、その夜は一睡も出来ず、翌日も食事を摂ることさえできなくなってしまいます。そして、母親に無性に会いたくなった彼女は夜中に部屋から抜け出して今和泉家に逃げ帰ろうとするのですが、幾島に見つかってしまいます。 しかし、自分がなぜ将軍の御台所にされようとしているのか納得がいかない篤姫は、斉彬に「私は父上様に利用されるのでしょうか」と問いただします。それに対し、斉彬は「その通りじゃ」と答え、いま日本は非常な危機にあり、篤姫を将軍の御台所にすることによって御公儀(幕府のことですね)を内から動かすことが出来るようにしたいと自分の意図を明確に伝えます。そのような重大な任務が自分に期待されていることを知った篤姫は、斉彬に「私は自分の意思で江戸へ赴き、自分の意思で父上をお助けし、国の力となりたい」と自らの決意と覚悟を伝えます。 おそらく、今夜のドラマから以降、篤姫はこれまでの明るくお転婆な「あんみつ姫」から大きくモデルチェンジすることになるのでしょうが、それがどのような「篤姫」となるのかとても興味深いですね。 ところで、ドラマでは斉彬が篤姫から夫となる徳川家祥(堺雅人)について、「家祥様とはどのような方なのですか」と質問され、いささか言いよどんだ後に「自分の目で確かめよ」と言っています。これは、第13代将軍家定となる家祥が暗愚な人物と評判されていることを篤姫にどう伝えたらいいのか迷ったからでしょうね。しかし、この家祥は父親の家慶が死去したときに、「螺子(ネジ)を巻いたらまた動き出すのではないか」と凄いことを言っていますよ。もしかしてブラックジョークだとしたら、江戸幕府の将軍というものが所詮は傀儡(操り人形)でしかないということを皮肉った発言かもしれませんね。
2008年03月09日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 故人生幸朗師匠の「リンゴが物言うか!」は、バルダさんのご主人が大好きとのことで、バルダさんご自身は「地下鉄はどこから入れたんでしょうねぇ」の方がお好きとのことですね。春日三球・照代の「地下鉄漫才」のことですね。これも楽しい漫才ネタで、私も大好きでしたよ。 ところで、バルダさんは「史実とフィクションの境目をちゃんと把握しておかないといけないと思います。/私は大河をあまりフィクションだと思っていなかったので…これから、勉強しなければなりません!!」と書いておられますから、私がつぎのような篤姫関連の史料記事を紹介しても、おそらく「うるさい、このドロガメ!!」なんておっしゃらないと思うのですが、いかがでしょうかね? (^ ^;) 今朝(2008年3月6日)の鹿児島の地元紙「南日本新聞」を開きましたら、その文化欄にシリーズで掲載されている「御台所は薩摩人―篤姫さまお目見え(2)」に篤姫の祖母の娘時代の暮らしぶりを伝える貴重な史料のことが紹介されていました。この史料とは、島津一門家の越前(重富)家の女性らの生活をつづった「奥祐筆日記」のことで、島津久光が所蔵していた赤穂浪士の記録「誠忠武鑑」の裏打ち紙として残っていることが2007年に判明したそうですよ。 そこに篤姫の祖母・於珎(おたか)の娘時代のことも書かれてあるとのことです。すなわち、於珎が12歳だった1809年と1813年(文化6年と文化10年)の記述が残っているそうです。なお、於珎が娘時代を過ごした越前島津家の上屋敷は、孫の篤姫が暮らした今和泉家上屋敷に近く、両家は「隣近所の間柄」だったそうですが、於珎は1816年(文化13年)に篤姫の祖父である忠喬に嫁いでるとのことです。 この史料によりますと、「於珎の生活は外出の機会や来訪者も多かったようだ」とのことで、「鹿児島城下の鶴江崎(現鹿児島市浜町)にあった下屋敷や近くの"家臣仲間"の屋敷に出掛けたり、日帰りの茶摘みやクリ拾いなども楽しんだりしている」とのことで、この史料を調べている鹿児島大学の丹羽准教授は「外出や来客が頻繁で、かなり忙しい毎日だったようだ」と語っています。また於珎が父親の忠救らと領地の重富に出向いた記述もあるそうで、そのことから類推して「篤姫も今和泉(親指宿市)に行く機会があったかもしれない」としています。今和泉は篤姫の実家の今和泉島津家の領地ですね。 また、「そのほか、寺社参詣や馬追い見物、月待ち、誕生祝いなどの娯楽や行事を楽しむ生活ぶりがうかがえ、先祖の忌日も多かった。於珎は鹿児島で名の通った能書家・中原林左衛門に指導を受けていたようで、手本のお礼に『さかな一かご』と『銚子(酒)一樽』を贈っている。また、忠救が浄瑠璃芸人を屋敷に呼んだ際は、今和泉家から『奥様』や忠厚の娘『於貞』らも招くなど、一門家の親しい付き合いがうかがえる」としています。 丹羽准教授はこの史料から判断して、「於珎の交友関係は、一門家や親族が中心で、付き合う身分が狭い。屋敷を中心に生活空間が限られ、籍箱入り娘だった。於珎の嫁ぎ先が今和泉家だったように、篤姫も特別な力が働かなければ、一門家や一所持(いっしょもち)クラスの家に嫁ぐ運命だったろう」と推測しています。 当たり前のことですが、いまの女子学生のように楽しくボーイフレンドとデートするなんてことはなかったようですね。ですから、週刊新潮の記事の指摘は確かにヒジョーに正しい!!
2008年03月06日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 週刊新潮の「お笑い大河ドラマ『篤姫』」というタイトルの記事、時代考証に関する個々の指摘はたぶんその通りなんだろうと思うのですが、なんだかとってもピンボケで滑稽な感じがしました。このピンボケで滑稽な感じは何かと似ているなと思いながら、なかなかそれが何だったのか思い出せなかったのですが、今日になってポンコツ山のタヌキの頭に忽然と浮かび上がってきました。 そうでした、故人生幸朗師匠のぼやき漫才の「リンゴの唄」の歌詞についてのぼやきでした。相方の生恵幸子師匠(去年亡くなっておられるのですね)が並木路子の「リンゴの唄」 のつぎのような歌詞を歌うんですね。「リンゴは何にも言わないけれどリンゴの気持ちはよく分かる」。そうしましたら幸朗師匠が怒り出し、「リンゴが物言うか! リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか」 。観客は大笑いするんですが、これはこの歌の歌詞が確かにおかしいと思ったから笑ったのでしょうか。そうではないですね、その歌詞について大真面目で怒る幸朗師匠がとっても滑稽だから観客は大笑いしたのですね。まあ、それとよく似た滑稽さを週刊新潮の記事から私は感じていたのですね。 ところで、バルダさんがご自身のブログ「オペラ座の書庫」にアップされた大奥列伝 ヒロインたちの「しきたり」と「おきて」をとても興味深く拝読させてもらいました。なかでも、NHKの大河ドラマ「篤姫」の第9回目の内容と関連させて、史実の篤姫は「キチンとお姫様教育をされた人だった」に違いないのに、なぜドラマの宮崎あおい演じる篤姫は野育ちのお姫様にしたのかということについてつぎのような鋭い考察を行っておられますね。「大河の宮崎・篤姫は、最初から民主主義の申し子!/それが、先週から幾島によってみっちりと/『身分社会のしきたり』を勉強させられるわけです。/これなら、視聴者が、篤姫と一緒に『身分の高い人が、なぜこういう態度をするのか』ということを学ぶ事ができますね。」 すなわち、ドラマで幾島(松坂慶子)による篤姫(宮崎あおい)に対する特訓を描いたのは、現代社会に生きる視聴者にドラマの舞台となっている幕末の身分制社会というものをそれなりに学び理解させるためであるとおっしゃっておられるのですね。ドラマの制作側のしたたかな計算を見抜かれたバルダさんのこのご指摘、実にお見事です。大いに啓発させられました。 ところで、新たにいただいたコメントのなかに、「ただ、ほぼ毎年大河を一緒に楽しむ同好の士(適度な時代劇を好む友人)が今年は、一人また一人と脱落していくのが残念です。/確かに、いつもは見ない友人の評判は悪くないです^^;」と書いておられますね。今回の篤姫ドラマがこれまでの大河ドラマファンの一部から不評を買っているのは分かるような気がします。 しかし新たなファンを開拓しているのも事実のようで、アメーバニュースには「『篤姫』絶好調 3年ぶりに大河で視聴率25%超える」 との見出しで、「今月2日放送のNHK大河ドラマ『篤姫』(第9回)が、視聴率25.3%という高い数字を記録したことが3日、わかった。大河ドラマの視聴率が25%を超えるのは、2005年放送の『義経』第5回(26.9%)以来約3年ぶり」と紹介されており、あるテレビ雑誌の編集者はその理由として、「今『篤姫』の視聴率を押し上げているのはこれまで大河ドラマとは無縁だった層、特に女性たちです。宮崎あおいがヒロインを務めた朝ドラ『純情きらり』を見ていた主婦たちが同じスタンスで『篤姫』を見ていたり、10代、20代の若い女性が篤姫に自分の姿を投影していたり。初めて大河を見るという人も珍しくないと思います」と解説しています。 この解説に対して、幸子師匠のように「なにつまらんこといてんねん、このドロガメが!」なんて横から言う人はあんまりおらへんように思いますねんけど、どうでっしゃろかいな。
2008年03月05日
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今夜(3月2日)の大河ドラマ「篤姫」第9回は、於一(宮崎あおい)と幾島(松坂慶子)の修行バトルが中心になって展開しましたね。おっと、於一は斉彬から「篤子」という名前をもらいましたから、これからは主人公の名前には篤姫という呼称を使った方がいいですね。 自害した菊本の遺書を見てシャキッとした篤姫も、幾島による島津家の姫様に相応しい言葉遣いや立ち振る舞い等を身に付けるための毎日の厳しい指導には音を上げ、また反撥を強めていきます。こんな篤姫の様子を見た幾島は、斉彬(高橋英樹)に対して篤姫を養女にすることに疑問を呈し、その真意を問いますが、斉彬は「今は言えぬ」と答えるだけでした。しかし、ペリーの1回目の来航後に将軍の家慶が死去し、世子の家祥すなわち後の家定(堺雅人)が将軍を継ぐ日が近いことを知った斉彬は、幾島に篤姫の嫁ぎ先を明らかにします。なんと篤姫は徳川宗家の御台所に望まれているというのです。 さて、ドラマの幾島は篤姫が島津家の姫に相応しいのか疑問を感じますが、『週刊新潮』3月6日号でも、篤姫役の宮崎あおいについて「よくて"あんみつ姫"。どちらかといえば、おっちょこちょいな奥女中が似合う"女中顔"ですよね」などという芸能記者の声を紹介したりしています。 また、同週刊誌は、小谷野敦氏が「時代考証に疑問が多すぎます」として、一万石の今和泉家の屋敷が質素すぎる、篤姫の父の島津忠剛がウダツの上がらないオジさんにしか見えない、この忠剛には実際には側室が2人もいたのにその様子が窺えない等と批判している声を伝え、さらに正真正銘のお姫様であるはずの篤姫が「お供も連れずに、毎日気ままに遊び歩いている」ことや肝付尚五郎と茶屋で話し込んだりする姿に腹を立てて、「お前はボーイフレンドとデートする女学生か!」なんて野次まで飛ばしています。 私は、ドラマ「篤姫」のことを「お笑い大河ドラマ『篤姫』」というタイトルを掲げて真顔で酷評している週刊誌の記事を読んで思わず大笑いしてしまいました。でもね、ドラマに対する個々の指摘は当たっているのでしょうが、まるで歴史教科書の検定を行う文部科学省の役人のようなことを書いているこの週刊誌の記事こそよほど「お笑い週刊誌記事」ではないのかな。それに、篤姫の生涯を史実通りに描いたら、それを1年間通して視聴する奇特な人はそう多いとは思えないんですけどね……。
2008年03月02日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 「なるほど、グレかけたお姫様が、菊本の遺言で気持ちを入れ替えたのですね」と書いておられますから、篤姫ドラマの第8回目の再放送をご覧になったのですね。於一の「不良少女A」モードはいかがでしたか。 ところで、いただいたコメントに「歴代将軍御台所で、武家出身は、篤姫の他には家斉の正室のみなのですね。これが、前例となって武家出身の篤姫にもチャンスが巡ってきたとういうことでしょうか」と書いておられますが、ピンポーンですね。また、「家斉の正室は、れっきとした島津本家の姫であり、婚約が先だったから、御台所に繰り上がった…ということなのですね。/そうすると、養女から御台所になるというのは、例外中の例外…なようですね」と当時の歴史事情を的確に把握されたようですね。このような例外を踏襲して、同じ島津家出身の篤姫も近衛家の養女となった後に将軍の御台所になることができたのですね。 バルダさんはさらに、「斉彬は、実は篤姫ではなく、幾島を大奥へ送り込みたかったのではないか?…なんて私は思っているのですが…」とも書いておられますね。しかし、斉彬が篤姫に託した任務は彼女が御台所だからこそ果たせる重要な使命だったと思いますよ。 ペリー来航以降、紀州家の徳川慶福と一橋慶喜のどちらを家定将軍の継嗣(後継ぎ)にするかで政争が起こっており、島津斉彬は一橋慶喜を継嗣として推していました。そんな斉彬が篤姫に与えた将軍継嗣問題での重大な任務とは、将軍御台所となった彼女が夫の将軍・家定に働き掛けて継嗣に対する考えに影響を与えることでした。継嗣を誰にするかは、現在の将軍の意向がなによりも重要視されていたからです。 ところで、芳即正著『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)は、幾島についてつぎのように述べています。「『昨夢記事』によると、気性のすぐれた肝っ玉のふとい女丈夫で、黄金を湯水のように使って人心をつかんだ婦人、顔にコブがあったことから人は陰でコプ、コブといっておそれたという。大奥工作にはうってつけの人物で、斉彬もそこを見こんだのであろう」。なお、『昨夢記事』とは福井藩主・松平慶永の側近だった中根雪江が記したものです。 そんな幾島(生島)は、斉彬と篤姫との連絡係として重要な役割を果たすばかりでなく、薩摩藩から与えられた「黄金を湯水のように使って」大奥の人心を掴むために画策したのですね。しかし、幾島の大奥工作の甲斐もなく、一橋慶喜の実父である徳川斉昭に対する大奥の嫌悪感を突き崩すことはできなかったようですよ。
2008年03月01日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 前回の拙文へのコメント欄に寄せていただいたご質問に、「宮尾・篤姫には、篤姫の身分の低さには、あまり触れていないような気がしますが(唯一菊本の自害だけでしょうか)将軍御台所としては、篤姫の出自は、そうとう低かったのですよね。/…あ!幾島が篤姫付きになったのが、近衛家の養女になってから、というのは、篤姫の身分が上がったから、幾島が付けるようになった、ということでもあるのでしょうか?」とありましたので、その方面には全く疎い私ですが、参考文献などから私なりの考えを述べさせてもらいます。 篤姫の実家の今和泉島津家は、薩摩藩の中でも一門四家と呼ばれて特別待遇を受けていた家柄であり、島津家藩主に嗣子がいないときは重富、加治木、垂水、今和泉の四家から藩主が選ばれることになっていました。ですから武家社会ではかなり格式の高い家柄だと思うのですが、武家社会のトップに君臨する徳川将軍の御台所(正室)の出自は別格だったようです。 幾島の件で参考にしました畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年12月)によりますと、「三代家光以降、歴代将軍は天皇家、宮家(伏見宮・有楢川宮・閑院宮)、摂家(持政・関白を出す家。近衛・鷹司・九条・一条・二条)から正室を迎えている。これは将軍家が特定の大名と姻戚関係にならないことを意図したものといえる」とのことです。 ですから、11代将軍の徳川家斉の正室(御台所)だった広大院は薩摩藩の第8代藩主の島津重豪の実の娘(茂姫)でしたが、彼女の場合も摂関家の近衛経熙の養女となってから大奥に入っています。正確に言いますと、茂姫は一橋治済の息子の豊千代と婚約したのですが、10代将軍・徳川家治の嫡男だった徳川家基が急逝したため一橋家の豊千代が次期将軍と定められて徳川家斉となり、彼が将軍となったとき、御台所は公家か宮家でないといけないということで、茂姫は摂関家の近衛経熙の養女となったということです。なんとも面倒な話ですね。 では、なぜ近衛家にかつて仕えていた幾島が篤姫付老女に任命されて江戸城大奥に入っていったのでしょうか。私が思いますに、彼女は島津斉彬の江戸城スパイ大作戦に打って付けの人物として現役復帰してきたのだと思います。まず、広大院の関係から近衛家の人たちは江戸城大奥の内情をよく知っており(少なくとも薩摩藩の人間より)、なかでも島津斉宣の娘の郁姫が近衛忠熙の正室となったときに島津家から郁姫付きの老女として近衛家に仕えるようになった幾島は、斉彬の大奥工作に最適の人物と判断されたのではないでしょうか。斉彬は篤姫に将軍継嗣問題で重大な任務を与えていますが、そんな篤姫を補佐して江戸の薩摩藩邸と大奥の情報交換をする大役を果たすのが幾島(生島)だったのです。 なお、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』の「西郷隆盛が斉彬から篤姫への密書の届役!?」の文中に生島(幾島)のことが出て来ていますので、参考にしてください。
2008年02月29日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 今夜(2月24日)の篤姫ドラマは「今、所用で帰宅し、今週分は見逃しました!/来週の土曜までお預けです^^;」とのことですね。土曜日以降にご覧になってのご感想を楽しみにしています。 今夜の第8回目の篤姫ドラマでは、鶴丸城の新生活に慣れない於一(宮崎あおい)がぶんむくれて危うく「不良少女A」モードになりかかるのですが、それをピシャッと食い止めてシャキーンとさせ、お城の老女・広川(板谷由夏)に対し水戸黄門モードとなって「我を誰と心得おるか、当主薩摩守の娘なるぞ」と言わせる役割を果たすのが、他でもないあの自害した菊本((佐々木すみ江)の遺書だったのですよ。ですから、バルダさんの予言に脱帽させられました。 バルダさんがご自身のブログ「オペラ座の書庫」の『篤姫』 第7回 「父の涙」に、「ドラマとしては、菊本の遺言がキャッチフレーズにもなっていますから、/今後、要所要所で、この菊本の言葉は出てくると思われ、/強く印象も持たせる為にも、菊本の自害が必要という計算なのかな、と」と書いておられましたが、見事にその予測は当たったわけですね。うーん、今後は私自身が菊本の自害問題にぶんむくれるような野暮なことは一切しないことにします。それで今夜は、今回のドラマに黒船を率いて来航したペリー以上に威風堂々と立ち現れた幾島(松坂慶子)のことについてちょっと紹介したいと思います。 幾島は、宮尾登美子『天璋院篤姫』では、於一が鹿児島の鶴丸城に入ったときに、その教育係として登場し、江戸にも一緒についていくことになっており、今回の大河ドラマ「篤姫」でも同様の設定のようですね。しかし、畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年12月)によりますと、幾島は「島津斉宣の娘(斉興養女)で近衛忠熙の正室となった郁君の老女藤田であり、元々は島津家から付けられた女中である。郁君の死後、隠居し得浄院と名乗っていた」とのことで、江戸に参府した篤姫が正式に近衛家の養女となったとき、近衛家が彼女を篤姫付老女に任命し、篤姫が将軍家定の御台所として江戸城に輿入れしたときに幕府から「中年寄」に任命されたそうです。なお、「中年寄」とは、諸大名家にはなく幕府女中にのみある職制だそうで、「老女(上聴御年寄・小上席・御年寄)、御客応答の次、中臈の上に位置する役職である。将軍付にはなく、御台所や御簾中・姫君など女性の主に付けられ、主の毎日の献立を指図し、毒味役をも務める。篤姫に近侍し身辺の世話をさせたい、という島津家例の表面上の理由であれば、うってつけの役である。また、幕府と大名家では女中の格に差があり、幕府の表使が大名家の老女と同格くらいになる。島津家(近衛家)の老女であれば、中年寄が妥当と幕府が指示するのは、慣例に則ったものといえる」と解説しています。 ですから、宮尾登美子の原作や大河ドラマの設定と違って、幾島が実際に篤姫と関わりを持つのは、篤姫が鹿児島から江戸に行った後のことであり、将軍継嗣問題で重要な役割を果たすことになるのですが、そのことはまた後日紹介したいと思います。
2008年02月24日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。バルダさんがご自身のブログ「オペラ座の書庫」に今日新たにアップされた篤姫関連の2つの記事をとても興味深く拝見させてもらいました。 ↓ 『篤姫』 第7回 「父の涙」 宮尾登美子 『天璋院篤姫』 読みました。 バルダさんが少女時代にご覧になったドラマでは、「嫁いだからには二度と実家の敷居はまたいではいけない」なんて、カミナリオヤジがやせ我慢で娘を嫁に出す…なんて場面はよくあった」とのことですが、私の子ども時代は夫の暴力や浮気にじっと耐え忍んでいる女性たちの姿を実際に目の当りにして来たものです。今なら、女性はそんな夫に対してすぐに多額の慰謝料を請求してさっさと離婚するでしょうから、隔世の感を禁じえませんね。昔は「貞女は二夫に見えず」という旧い思想が女性たちの身も心も縛り上げており、また嫁ぐときに父親たちは慣用句のように「嫁いだからには二度と実家の敷居はまたいではいけない」と言っていたのでしょうね。 ですから、幕末の島津藩の中でも一門四家と呼ばれる格式の高い家柄に生まれた篤姫が、嫁ぎ先の徳川家存亡の危機に際して、その家名存続をひたすら願って「存命中當家萬々一之事出來候ては、地下において何之面目無之と、日夜寢食も安んぜず、悲歎致居候心中之程御察し下され」と西郷隆盛に嘆願書を出すのは当然すぎるほど当然のことですね。 バルダさんは、「宮尾登美子さんが、篤姫と一体化しすぎているように感じます。/篤姫の行動の『言い訳』が主観的で共感できません。/宮尾さんは篤姫を調べるウチに共感して、一体化してしまったのでしょうね」と書いておられますが、私も『天璋院篤姫』という小説を読んで同様の抵抗感を覚えました。 なお、私の場合、宮尾登美子作品としては他に『蔵』しか読んでいないのですが、新潟の伝統ある酒造りの家に生まれた烈という女性が盲目の身となりながらも酒造りを学び取り、家業の酒蔵を必死で守り抜いていく姿を描いたものでした。『天璋院篤姫』と『蔵』に共通しているのは旧い伝統のある家を必死で守る女性への共感ですね。 ただ『蔵』の場合は酒造りという家の実業を守り発展させていく烈という女性の自立した姿に共感することが出来たのですが、『天璋院篤姫』の場合は、幕末に入って徳川幕藩体制が時代の桎梏と化すなかで、旧い道徳観に従って徳川家の家名存続をただひたすら願う篤姫の姿にはそう素直に共感できるものではないですね。 特に『天璋院篤姫』いう作品の中で、江戸方と京方に分かれて篤姫と和宮の勢力が大奥の中で愚にもつかないことで相争う姿には読んでいてうんざりしてしまいました。こんなアナクロな大奥物なんかをテレビドラマでも長い期間見せ続けられたらたまったものではないと思っていましたから、大河ドラマ「篤姫」では原作の古臭い内容を大胆に手直しして現代感覚にマッチしたものになっていたのでほっと安心して喜んだものです。しかし、やっぱりTVドラマでも菊本の自害の話が出てきましたね。そのことについてバルダさんが「本当の江戸時代にタイムスリップしたようでした」とコメントされていますが、江戸時代の人だってビックリの行為かもしれませんね。もしかしましたら、宮尾登美子さんが篤姫のことを調べて作品化するために鹿児島で採集した伝承話のなかに実際に菊本の自害のこともあったのかもしれませんが、それをあのように美化することには非常な抵抗がありますね。 それから、斉彬が於一を養女にする真の目的もTVドラマではまだ明らかにされていませんが、どんな意図から隠しているのでしょうかね。ドラマが史実と全く違っていてもいいのですが、視聴者が納得できる内容のものにしてもらいたいですね。
2008年02月22日
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今夜(2月17日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第7回目は、於一(宮崎あおい)が薩摩藩主・斉彬(高橋英樹)の養女となるために今和泉家の両親(長塚京三、樋口可南子)たちと別れを告げて鶴丸城に上がるまでが描かれていました。娘との別れる悲しみをじっとこらえる島津忠剛の姿や、肝付尚五郎(瑛太)が秘かに心を寄せる於一にその思いを告げることなく、自害した菊本(佐々木すみ江)のことを忘れるのですときっぱりと言う場面(きっと自分に言い聞かせているのでしょうね)や城に向かう彼女の駕篭にお守りを握りしめて見送る姿には涙が自然と出てきました。 しかし、今回のドラマで菊本の遺書の内容が紹介され、於一(宮崎あおい)の将来を考えて、自分のような身分の低いものが育てたという事実を消し去るためにあえて死を選んだという話にはどうしても納得できませんでした。この「篤姫」のTVドラマは、現代の視聴者の感覚にマッチするように宮尾登美子の原作を大胆に手直しして軽快なテンポで展開してきたのですが、ここでどうして原作通りに菊本に自害させてしまったのでしょうかね。一般に身近な人の自殺というものは人の心に大きな傷を残すものですが、もしも菊本のような自害理由を遺書などに遺されたらたまったものではないですね。酷い精神的打撃を受け、いつまでも消えぬ深い精神的後遺症を残すことになるでしょうね。 宮尾登美子の『天璋院篤姫』という小説中でのこの菊本の自害は、人間の自然の情に反するばかりでなく、当時の封建的道徳にも絶対反する行為ですね。藩主の養女に家の娘が選ばれるというのは今和泉家にとってとても晴れがましいことです。そんな目出度いことが起った時に自害するのですから、父の忠剛でなくても「屋敷を血で汚し、罪人同様の所業じゃ」と激怒するのは当然のことです。菊本の自害は、赤子のときから育てた於一が藩主の養女となったその喜びと急な別れの喪失感からの精神的錯乱からの行動としか思えません。そんな原作の話をなんでTVドラマがわざわざ忠実に踏襲するのか私には全く理解できませんでした。 菊本の自害の話には、於一のみならず観ている私も別の意味でビックリさせられましたが、今回のドラマでは通商を求めてアメリカの軍艦が迫っているという情報が江戸にもたらされるという話も出てきますね。これには幕府の首脳たちは本当にビックリしたでしょうね。 なお史実に基づきますと、嘉永5年2月26日(1852年3月16日)に島津斉彬が別荘の磯邸(いまの仙巌園ですね)で開かれた花見の宴に篤姫の父親の島津忠剛を招き、於一と徳川家との縁組問題のことを話し合ったようですが、その直後(嘉永5年6月すなわち1852年7月))に長崎ではオランダ商館長に着任したクルチウスが長崎奉行に「和蘭別段風説書」でペリー来航の予告情報を伝えています。また、そのクルチウスが伝えた情報は薩摩藩の長崎聞役も長崎通詞から密かに入手し、斉彬に伝えていたそうですよ。 そして同じ嘉永5年6月頃、幕府の老中首座の安倍正弘はこの「和蘭別段風説書」の秘密情報を江戸城溜間(主な譜代大名が詰める場所)の諸侯に回達しています。その内容とは、アメリカ政府が日本に使節を送り、(1)日本人漂流民の送還、(2)交易のために2、3の港の開港、(3)石炭貯蔵場の確保、以上3つを要求するというもので、そのことを知った諸侯に大きな衝撃をあえてたそうです。 そして、嘉永6年3月1日(1853年4月8日) に於一が島津斉彬の養女となり、同年6月5日(1853年7月10日)に 鹿児島城(鶴丸城)へ入るのですが、その2日前の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にペリーの黒船が浦賀沖に姿をあらわしています。いよいよ「篤姫」ドラマは幕末の激動の時期に突入していくことになります。
2008年02月17日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 中濱武彦が『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』(講談社、2007年9月)で、ジョン万次郎の日本帰国はただ望郷の念からだけではなく、開国を迫るぺりー提督に対し、もし日本が鎖国を固執し続ければ戦争が始まる危険を伝えるためだったという見解はなかなか興味深いものがありますね。では、万次郎は薩摩の藩主・島津斉彬と直接対面しとき、そのことをストレートに伝えたのでしょうか。 中濱武彦は、アメリカから帰国したジョン万次郎島津斉彬は直接会ったときに、一刻も早く開国をする必要性を説いたといいます。また、中濱博『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』(富山房インターナショナル、2005年1月)によると、「ある時は、斉彬は万次郎を呼んで酒肴を下された後、人払いをして、アメリカや海外の事情を聞いたという」としています。では、斉彬は万次郎からどのようなことを聞き出したのでしょうか。残念ながら斉彬と万次郎との対話の記録は残っていないようです。 しかし、嘉永4年1月(1851年2月)、ジョン万次郎が昔の漂流仲間の伝蔵、五右衛門と一緒に琉球に到着し、薩摩藩の琉球在番奉行所で取調べを受けたときの「琉球使番取調記録」が『島津斉彬文書』中巻(吉川弘文館、1963年)に収録されています。それでは、琉球在番奉行所で万次郎たちはどのようなことを述べていたのでしょうか。 私自身が興味を引くのは、一つは捕鯨のために「亞美利駕」(アメリカ)等の漁船が日本海に進出し、そのことから日本との通商ものぞむようになったということを紹介しており、また更に「北美利駕」(北アメリカすなわちアメリカ合衆国のことですね)は土地が広大で富んでいるので領土的野心はもっていないということを非常に強調していることです。まず、捕鯨問題についてはつぎのように述べています。 「近来日本琉球地方江繁々通船有之候。如何様之譯ニ候哉と相尋候得は、此以前迄ハ日本海江鮮魚集り候儀、西洋人とも存知不仕、然處亜美利駕之鯨取船ニ艘、不意ニ日本海江渡り過分二取獲、其段風聞ニ相成、夫より追々数艘差越候處、當分ハ鯨都て迯去、北海へ相集候間、獵船追付北海へ『カムシャツカ』邊迄も差越、魚獵いたし候段申出、右付鮮魚仕用之儀相尋候虞、歐羅巴洲、亞美利駕洲ハ種子油抔と申ハ無之、都て鯨之油を燈し、或ハ蝋なとに作り、尤油煎粕不用立所は薪之場ニも焚候由。」「日本海におひて数多之鯨を取り、金貨之利潤夥数有之、専日本之御蔭と申様之譯合二付、近年外國より日本江通商之心願も切に相成候風聞有之、彼是之筋合を以、日本之漂著人共を叮嚀ニいたし候由。」 また、アメリカの土地が広くて豊かなために領土的野心などはないということについては、例えば、「ウワフ」国(オアフ島を中心として存在したハワイ王国のことですね)との対立が生じたときのことについて、「先年北亞美利駕より軍船を差渡、『ウワフ』國を責従平治之後、亞美利駕之大将より申すはハ、自分之国ハ廣大にして富る地ゆへ、此國は本之通可差返と申、『ウワフ』國之大将へ返し呉候由。この嶋、日用衣服、金銀等之諸物至て不自由成所にて、争戦之後ハ都て亞美利駕より運送いたし、當分日用事缺こと無之由。故に土人亜美利駕人を主君之楼畏れ敬ひ、行路之人も皆相避居通候由」と述べています。 さらに、メキシコとの戦争についても、「當年より三ケ年跡、北亞美利駕之内『メキシコ』國と『ヌーヨー』國(ニューヨークを首都としていた国すなわちアメリカ合衆国のことですね)と争戦有之候由。其譯は、『メキシコ』は『ヌーヨー』國之後ろにあり、両亞美利駕之海路、五ケ月位を経至る所にして、此所に『キヤレポニヤ』と云ふ金山あり、黄金澤山出産之所にて、彼國之大将他人に與えず、右之事近来相知れ、『ヌーヨー』國之大将聞及大に怒り、兵船を差向争戦五ケ月位二相及、雙方戦死夥数有之、遂速に『メキシコ』打負降参いたし候得は、『ヌーヨ』之大将申ニハ、自分之國は金も地面も澤山なれハ、土地ハ其方へ差返す、金山は萬國之人に勝手ニ取らすなり」と紹介しています。 このような「琉球使番取調記録」の内容から、万次郎たちが米国の領土的野心を否定することによって日本を開国に導こうとしていたことは明らかですし、きっと万次郎は斉彬と顔を合わせたときもそのことを強調したと思われますね。
2008年02月12日
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今夜のNHKの「篤姫」ドラマは、於一(宮崎あおい)が斉彬(高橋英樹)の養女となると知った肝属尚五郎(瑛太)と菊本(佐々木すみ江)の姿がそれぞれ印象的でしたね。 尚五郎はそのことを於一の父の島津忠剛(長塚京三)から知らされて衝撃を受けながらも、於一への自分の思いは決して伝えないで欲しいと忠剛に頼んでいますね。なぜなら、そのことが於一の心の負担になってはならないからだと言うのですが、こんな悲しい片思いは大概の人が若い頃にみんな体験してきているでしょうから、大いにほろりとさせられたと思いますし、さらには西郷吉之助(小澤征悦)の祝言の場で尚五郎と一緒にどっと涙を流した人もいたかもしれませんね。 於一を乳母として育ててきた菊本の喜びと哀しみも人間の情としてそれなりに分かりますね。しかし、於一に「女の道は一本道にございます。さだめに背き引き返すは恥にございます」との言葉を遺して自害する姿は視聴者にどう理解されたのでしょうか……。一緒に観ていた妻が「どうして自害したのかしら」と首を傾げていましたが、私も一緒に首をほぼ45度ほど曲げてしまいましたよ。 さて、今回のドラマにおいて史実との関連で気になったのが、ジョン万次郎(勝地涼)がアメリカは武力で日本に開国を迫るであろうと話していることであり、実際に斉彬に米国の日本進出の意図をどう伝えていたのかということでした。 なお、岩下哲『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(洋泉社、2006年5月)によりますと、嘉永5年6月(1852年7月)にオランダが長崎奉行所に提出した「別段風説書」に、来春にはアメリカ船が通商を要求して江戸まで来ることを伝えていたそうで、その情報を薩摩藩の長崎聞役も長崎通詞から密かに入手し、斉彬に伝えていたとのことです。 では、それよりほぼ1年前に斉彬はジョン万次郎と会ってどのようなことを聞き出したのでしょうか。そのことについて、ジョン万次郎の曾孫の中濱武彦が『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』(講談社、2007年9月)でつぎのように書いています。「それは"罪人に対する取詞べ"とは全然次元の異なる問い質しであった。 万次郎は驚いた。自分の伝えたかったことを、この殿様は聞いてくれる! 万次郎は話した。語った。この十年間で自分が知り得た、知る限りのアメリカを。歴史を。実情を。そして、アメリカには日本に対する領土侵略の野心などないが、今のまま頑に日本が鎖国を続けていれば早晩日本は危機的状況を迎えるだろうことを。一刻も早い開国の必要性を。それを訴えるため自分は帰国したのだということも必死の覚悟で語った。 万次郎の話にじっと殿様は耳を傾けていた。 この殿様こそ、数々の英傑を生んだ薩摩津島津家の中にあっても開明派の賢人として名高い斉彬である。万次郎の開国の訴えの正しさも即座に見抜いた。しかし斉彬は知っている。海外に漂流して帰国した者は全て長崎へ送られ、そこで長崎奉行の厳しい取調べを受けなければならない。万次郎とて例外ではない。だから、この逸材を守らんために斉彬は釘を刺した。 『今後いついかなる場でも、帰国の意思を質された際は、母恋しさの一心で帰ってきたと申し通せ。禁を犯してまで帰国した理由、まかり間違っても、国を開くためなどと申してはならぬ。その命を失くすぞ』 自分への斉彬の気づかいが心に染みた。 斉彬のこの忠告を胸に刻んだのだろう、以後、求められれば誰に対してもアメリカの歴史や実情等を隠さず語った万次郎だが、帰国の理由に関してだけは偽りつづけた。 ために、今日まで『ジョン万次郎は、抑えがたい望郷の念と母恋しさで帰国した』と世に喧伝されることになったのである。」 中濱武彦によると、ジョン万次郎の実際の帰国の理由とは、軍艦によってぺりー提督が日本に開国を迫り、日本が鎖国を固執し続ければ戦争が始まるであろうから、その危険を伝えて日本を守るために開国させようというものだったとしています。このジョン万次郎の帰国理由や斉彬との対面の場面、とても心を打つものがあるのですが、どこまで史実をきちっと踏まえたものなのか、もっと詳しく知りたいものですね。
2008年02月10日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 バルダさんからいただいたコメントの中に、「水戸の斉昭は、万次郎をアメリカからのスパイだと思ったのでしょうか?/万次郎を遠ざけることで、斉昭の立場に有利なことがあったのでしょうか?」とのご質問がありましたので、私なりに説明させてもらいます。 水戸の徳川斉昭といえば、頑迷固陋な攘夷論者として有名ですが、ジョン万次郎の曾孫の中濱博が書いた『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』(富山房インターナショナル、2005年1月)によりますと、そんな徳川斉昭は米国から帰国したジョン万次郎を終始疑いの目で見ていたようで、幕府からジョン万次郎を預かっていた江川太郎左衛門英龍(幕府随一の開明派の科学者で伊豆韮山の代官)に宛てた手紙で万次郎のことをつぎのように書いていたそうです。「中万(万次郎)のことですが、決して疑いない者と見抜かれておられるようですが、本国を慕い帰って来たほどの者で感心ではありますが、元来、アメリカは万次郎の若いのを見込んで、一人だけ別に恩をきせ、筆算を学ばせたところなどは策略がないとは言い難く、万次郎も一命を救われた上、幼少から二十歳までの恩義があるので、アメリカの不利になることは決して好まないでしょう。ですから、たとえ疑いないと見抜かれても、あちらの船へ行かせることはもちろん、上陸の時も会わせることは決してしないよう。こちらの秘密の会議などはいっさい知らせない方がよい。もっとも江川の用いようによっては、アメリカの方の事情がよく分かり、かえって、防御に利用するのは江川の腹次第なので、間違いないとは思うけれども、心配の余り手紙を書きました。」 ジョン万次郎のことを、米国の策略で日本に送り込まれて来た人物かも知れないと疑っているのですね。その結果、ジョン万次郎はアメリカ側が提出してきた条約案の翻訳作業には従事させられますが、表舞台での交渉でその能力を発揮することはで来ませんでした。そのときのジョン万次郎の悔しい思いをやはり曾孫の中濱武彦が『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』(講談社、2007年9月)でつぎのように書いています。 その条約案に目を通すや、後に日本には万国公法という訳で紹介された国際法に精通している万次郎は憤激した。アメリカに最恵国待遇を与える一方、開港場に逗留するアメリカ人の日本の法律遵守義務の規定もないという、一方的にアメリカ優位の極めて不平等なものだったのだ。「このような屈辱的な要求をこのまま呑んでは絶対にいけないッ」 万次郎はそう進言した。しかし国際事情にあまりに無知な幕府首脳陣は万次郎のその訴えを切実には受けとめてくれず、結局、アメリカ側の要求をことごとく呑んでしまったのだ。 もし自分が交渉の席に加わっていればアメリカ側と徽底的に話し合い、とことん互いが遵守すべきことを協議できたのである。 そう思うと万次郎は悔しくてたまらなかったのである。
2008年02月09日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 島津久光について、「教科書で微かに思い出すのは、生麦事件でした。/今上天皇にも繋がる人なのですね」と書いておられますね。生麦事件とそれが原因で起った薩英戦争のことはきっと「篤姫」のドラマで後日取り上げられるでしょうから、そのときに私も島津久光と関連させて紹介したいと思っています。それで、その島津久光が「今上天皇にも繋がる人」ともおっしゃっておられますが、私のような団塊世代の人間にとっては、昭和天皇の皇后(香淳皇后)の母親が12代薩摩藩主の島津忠義の七女であり、この島津忠義の父親こそが誰あろう島津久光その人という感じです。 それから、「ジョン・万次郎が、もし江戸にたどり着いていたら…/生涯、幽閉だったのでしょうか」とのご質問ですが、彼は幕末の日米交流において重要な役割を果たしています。そのことについて、ジョン・万次郎を曾祖父とする中濱武彦という方が『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』(講談社、2007年9月)という本に書いておられます。この本は、曾祖父に対する深い尊敬と愛情を込めて書かれたもので、読んでいて何度も目頭が熱くなりました。 それで、同書からジョン・万次郎が薩摩藩から長崎に送られてから以降の活躍部分だけを取り出してまとめますとつぎのよううになります。 嘉永5年(1851年)6月 長崎奉行所が無罪判決 8月 高知に到着 11月に母と再会、土佐藩士に登用 嘉永6年(1852年)7月 ペリー来航し、幕府から江戸に招かれ幕府直参となる 嘉永7年(1853年)1月 ペリー再来日して提出した米国側条約案の翻訳担当 安政4年(1857年)4月 軍艦教授所の教授 万延1年(1860年)2月 日米修好通商条約批准書交換のため使節団と咸臨丸に乗船 明治2年(1869年)2月 開成学校(東京帝大の前身)の教授 明治31年(1898年)11月に71歳で死去
2008年02月06日
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バルダさん、初めまして、やまももと申します。 昨日の拙文「大河ドラマ『篤姫』の主人公はちょっとお茶目なお姫様」へのコメントをありがとうございました。なお、NHKの「篤姫」ドラマが1月6日から放映開始されて以来、このドラマと関連する史実について自分なりに調べたことを幾つかこの拙ブログに書き込んで来ているのですが、コメント欄にその感想を寄せて下ったのはバルダさんが初めてなんですよ(関係のない怪しげな書き込みは毎日のようにありますけどね)。ですからとても感激し、バルダさんのブログオ「ペラ座の書庫」も拝見させてもらいました。 それで分かったのですが、バルダさんは大の山口祐一郎さんファンのようですね。山口祐一郎さんと云えば「篤姫」ドラマで島津忠教(後の島津久光ですね)役を演じており、そのことからバルダさんはこのドラマに関心を持たれたようですね。ただ、ドラマの原作本である宮尾登美子の『天璋院篤姫』を先に読んでおられ、1月から始まったTVドラマをそれと比較されることにより、1月19日に書かれた「NHK大河 『篤姫』」という記事では、「原作を読んで、つくづく思うのですけど、なんで、ドラマはあんなつくりにしてしまうのかな。原作通りに作ればいいのに…」とその戸惑いを詳しく書かれておられ、とても興味深く拝見させてもらいました。 特にバルダさんが指摘しておられるのは、「篤姫」のTVドラマには厳しい身分社会の実態が詳しく描かれておらず、「ドラマの篤姫に、既に民主主義の感覚があること」のようですね。それに関連する事柄をいろいろ挙げて述べておられますが、いずれも極めて説得的な内容で大いに首肯させられました。 それで、拙文に寄せてくださったコメントで、そんな「篤姫」ドラマに「『何かヘン!』と思って楽しめずにいて、色々探していてこちらを拝見いたしました。/とても面白いし、納得できました。/やっとドラマを楽しむ気持ちにもなれました」と書いて下さっています。勿論、私もこのドラマを家族と一緒に観ている時につい関西弁で「そんなことあるかいな!!」とか「よーやるわ」とか言って茶々を入れることが多々あるのですが、それでも見ていてとても楽しいドラマに仕上がっているように思います。私の次男は大学浪人なんですが、大の歴史嫌いで受験科目に日本や世界の歴史は選んでいません。そんな彼ですが珍しくこの「篤姫」ドラマは熱心に観ています。これは父親の私にとっては信じられないようなスゴイことですよ。 宮崎あおいのちょっとお茶目なお姫様という感じが物語の展開をとても明るく楽しいものにしており、また脇を固める俳優たちの多くもそれらしい雰囲気を出していてなかなかいいですね。史実に忠実だが退屈で時代錯誤的な時代ドラマより現代感覚にマッチした軽快な時代ドラマの方がやはり楽しくていいですからね。一番ダメなのが史実に忠実なように見せて大嘘をついているノンフィクション番組です(どの番組のことだとは言いませんが)。 そうそう、島津忠教役の山口祐一郎さんは、今のところ出る回数も少なくまだ影が薄い存在ですが、島津久光となって薩摩藩の『国父」となった段階で小松帯刀たちを側近にし、大久保利通たち精忠組のメンバーを藩政の中枢に入れて中央政界に乗り出していきますから、そのときの島津久光役を山口祐一郎さんがどのように演じるのか大いに楽しみですね。 さて、今日のNHK大河ドラマ「篤姫」は第5回目ですが、於一(宮崎あおい)に持ち上がった縁談話の相手が、なんとその山口祐一郎さん演じる島津忠教の息子の右近(後の島津久治)でしたね。それから、於一が小松清猷(沢村一樹)の家でジョン万次郎(勝地涼)と顔を合わせ、アメリカでは身分の隔てなどはなく、女性は大切にされて結婚もその気持ちが尊重されるといった話を聞いたりしています。まさに不思議な力で時代と場所と身分を超えて様々な人々と交流する魔法の国のお姫様モード全開ですね。今回のドラマのラストには、斉彬(高橋英樹)が島津忠剛(長塚京三)を鶴丸城に呼んで於一を「養女にもらい受けたい」との意思が伝えられます。 しかし、ジョン万次郎(中浜万次郎)が薩摩に送られてきたことは史実ですね。芳即正『薩摩人とヨーロッパ』(著作社、1982年2月)によりますと、土佐中之浜の漁師をしていた万次郎は操業中に遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカに連れて行かれてジョン=マンと改名し、英語・数学・航海術・測量術などの教育を受けたそうです。そんな彼が捕鯨船や金山で働いた後、ホノルルから日本帰国を計画し、アメリカ船ボイド号に乗って嘉永4年1月(1851年2月)に琉球(沖縄)に上陸します。その後のことを芳即正『薩摩人とヨーロッパ』はさらにつぎのように書いています。「在番奉行島津登は開明的な人で、万次郎が滞米十年ということを聞き、アメリカの地形地理・人情・造船・航海・捕鯨等について、質問筆記して鹿児島に送りました。当時鹿児島に帰国中の斉彬はこれを読んで、万次郎が航海・測量などに精通していることを知り、鹿児島に送るよう命じました。八月一日に鹿児島に着いた万次郎は、九月八日まで四十八日間、西田町の下会所に滞在ののち、長崎に送られました。 この間斉彬は田原直助や船大工三、四人を、毎号次郎の所に派遣して、造船や航海術また捕鯨のことなどを聞いて筆記させ、万次郎に捕鯨船の模型を作らせました。この模型により、小形船を造らせ、越通(おっと)船と名付けて湾内運輸船用とし、安政元年十月三隻出来上がると、江戸に回航しました。」 同書はさらに、「万次郎はその後幕府に用いられ中浜万次郎と称し、元治元年(一八六四)には薩摩藩に招かれて、開成所教授となります」としています。
2008年02月03日
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今年の1月6日から放映が開始されたNHKのドラマは、家族がみんなで楽しむ娯楽番組としてなかなか上手に作られていると思います。特に於一役の宮崎あおいがちょっとお茶目なお姫様という感じでなかなかチャームな女の子を演じており、その不思議な力で時代と場所と身分を超えて様々な人々と交流し、周囲に愛と希望を振りまいています。まだご覧になっておられない方にはぜひ観ていただきたいものです。 えっ、そのドラマはなんというのかですって!? 「それはひみつ ひみつ ひみつ ひみつのアッコちゃん」、おっと違いました、「ひみつのアッコちゃん」ではありませんし、魔法の国のお姫さまが活躍する「魔法使いサリー」でもありませんよ。宮尾登美子の『天璋院篤姫』を原作とするNHKの大河ドラマ「篤姫」です。 このドラマの原作となった作品は宮尾登美子『天璋院篤姫』という時代小説なのですが、作者の宮尾登美子は史料を丹念に調べ上げて出来るだけ史実に忠実な篤姫像を創り出そうと努力しています。そしてその結果、当時の封建道徳の教えに従って身分格式を重んじ、なによりも家名の存続を大切にする優等生的女性像がそこに描き出されました。そんな篤姫のなかに新しいものや進歩的なものを見つけ出すことは困難です。ですから、篤姫という女性の人間としての優れた資質には感心するのですが、その生き方に深く共感することはできませんでした。 また宮尾登美子の原作は、主人公の天璋院篤姫の活動の場を江戸城大奥という極めて限られた空間に限定しており、彼女と大奥だけに目をやっていますと、幕末から明治にかけての社会の大きな変動の中で新たな道を模索し苦闘する様々な人々の生々しい姿を充分にながめることが出来ませんでした。私は、残念ながらこの作品から当時の時代についての歴史的認識をあまり深めることが出来ませんでした。 さて、こんな篤姫をNHK大河ドラマはどのように描こうとするのか、よほど上手いアレンジをしないとあまりにも雰囲気がアナクロなものになって視聴者を引きつけられないのではないかと心配していたのですが、今年の1月から実際に始まったドラマ「篤姫」では、原作とはストーリーも雰囲気も随分異なるものに仕立て直してあり、私の当初の不安は見事なくらいにきれいさっぱり払拭されてしまいました。 この大河ドラマ「篤姫」のチーフ・プロデューサーの佐野元彦は、『歴史街道』2008年2月号に載せた「今までにない幕末ホームドラマ」と題する文章で、「今までの幕末作品は、大半が男性を中心とした激動のドラマでした。しかし動乱の時代においても、子供たちは生まれ、愛し合う夫婦はいたはずです。そこで今回は、幕末を日常の延長として描くために、女性を主役としたホームドラマを目指しました」としています。また、「今回のもう一つの特徴は、小松帯刀を篤姫と共に物語の軸にしたこと。彼は若くして薩摩藩の家老となり、薩長岡盟の立役者となった人物です。/大奥に入ると、城外で起きている出来事を伝聞でしか知ることができません。大奥の篤姫と幕末の動乱を結び付け、彼女が感じていた時代の空気を表現できないか・・・。そこで、動乱の渦中にいた小松帯刀を、篤姫と幼馴染で彼女に想いを寄せる設定にしました」とも書いています。 もし、大衆小説における時代考証の杜撰さを痛烈に批判した三田村鳶魚がこのドラマを視聴し、島津の分家のお姫様の於一が肝付尚五郎と一緒に城下をすたすた歩いたり、家老の調所広郷の屋敷に突然飛び込んでいったり、さらには下級武士が住む下加治屋町に行って西郷、大久保たちと交流する姿などを目にしたらどうしたでしょうかね。さぞかし目を白黒させて驚愕し、もう話にならないとぼろくそに罵ったことでしょうね。しかし、NHKの大河ドラマ制作者たちは、このドラマが多くの視聴者に共感を持って楽しく観てもらえるようにし、また幕末の動乱を臨場感あるものに描き出すために、歴史的事実を確信犯的に無視したり逸脱したりしているように思われます。 ですから、三田村鳶魚的批判をするのはとても野暮なことだと思います。あくまでも娯楽ドラマとして気楽に楽しんでもらいたいものです。また、このドラマで幕末の史実に関心を持たれた方がおられましたら、そのときはあらためて歴史研究者によって書かれたた篤姫・薩摩・幕末関係の本をいろいろ紐解かれたらいいですね。
2008年02月02日
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拙ブログの前回(1月27日)の拙文記事「篤姫が鶴丸城で斉彬と初対面」で、「寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)によると、斉彬は嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に一門家の家族を鶴丸城に招いており、そのときに今和泉家の娘として篤姫(当時は於一ですね)も出席しているそうです」と書きました。 なお、寺尾美保『天璋院篤姫』の書中には、この史実の原典史料名として『公史料』としか書かれていませんでした。当然、『公史料』とは鹿児島県維新史料編さん所から出されている『鹿児島県史料 斉彬公史料』のことだと思ったのですが、その第何巻のどのページにどのように載っているのか気になりましたので、鹿児島県立図書館まで行って確認してきました。 それで、判明したのですが、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第1巻(鹿児島県維新史料編さん所、1981年1月)の422頁から424頁にかけて嘉永4年12月15日に開かれた「御家督御内証御祝」のことが載っていました。すなわち、「御家督初テ就御下国、御内証御祝御兄弟様方・御女中方来ル十五日御招、御料理被進被下、御能拝見被仰付候御次第」として、当日の参加者名や出された料理、能の演目などが紹介されていました。 そして、それらの「兄弟様方・御女中方」の中に、「島津安藝殿」(篤姫の父親ですね)とその「奥方」に加えてさらに「島津安藝殿」の「息女」の「於一 於龍 於才」の名前も列記されており、「右畢テ御見物所ヘ被為入」としています。「御見物所」とは、能を鑑賞する広間のことでしょうね。そしてさらに「於御見物所御一門方一同御目見、引続大目附以上御目見被仰付」とあり、その下に[御見物所御手狭故、御一門方並種子島弾正殿大目附以上一人ツヽ御目見」との注が付けられていました。 注の内容から判断するに、「御見物所」は狭かったので、「御見物所」に入った人たちは改めて斉彬の前に一人ずつ出て拝謁したようですね。そうしますと、於一(後の篤姫)もまた斉彬と直接対面したと思われます。 寺尾美保『天璋院篤姫』は、これらのことを踏まえて同書の137頁に「史料には、島津安泰(忠剛)殿息女として於一(篤姫)、於龍、於才と三人の娘の名前が並んでいる。この会に、今和泉島津家からは、忠剛夫妻と三人の娘、忠剛の義父忠喬夫妻、そして篤姫の兄忠冬夫妻が出席していた。これが、今和泉島津家の娘として斉彬に初めて対顔を許された日であったと思われる」と書いたようです。 やはり嘉永4年12月15日(1852年1月6日)は篤姫と斉彬の初対面の日だったのですね。
2008年01月31日
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NHK大河ドラマ「篤姫」の第4回目では、ようやく薩摩藩の藩主となった島津斉彬(高橋英樹)が鹿児島の鶴丸城で島津一門四家(重富、加治木、垂水、今和泉のことを指します)を招き、今和泉家の第4子の於一(宮崎あおい)も城で斉彬に初めて会う場面も出てきます。 さて、於一は後に藩主・斉彬の養女となり、新たに篤姫と名づけられるのですが、そんな彼女と斉彬の初対面はいつあったのでしょうか。またそのとき、斉彬は今和泉家の娘である於一を将軍家に嫁がせることを意識して対面していたのでしょうか。そのことを改めて調べなおしてみることにしました。 寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)によると、斉彬は嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に一門家の家族を鶴丸城に招いており、そのときに今和泉家の娘として篤姫(当時は於一ですね)も出席しているそうです。 では、斉彬はどのような思いで於一を見ていたのでしょうか。もうこの段階ですでに於一を将軍家に嫁がせる候補者の一人と考えていたようですよ。 拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の中で、将軍家と篤姫との縁組問題について芳即正著『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)の説を紹介しましたように、徳川家定の夫人が嘉永3年6月(1850年7月)に亡くなった後、将軍家から島津家に縁談の申し込みがあり、その時点から候補者探しが始まったそうです。 そして、薩摩藩内で家臣らの推薦を受けて今和泉家の島津忠剛の娘の於一を候補として考えるようになり、嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に鶴丸城で開かれた「御家督御内証御祝」での斉彬を囲んでの能鑑賞会で直接対面する機会を得た後、嘉永5年2月26日(1852年3月16日)には島津本家の別荘の磯邸(いまの仙巌園ですね)での花見の宴に於一の父親の島津忠剛を招いています。上に紹介した寺尾美保『天璋院篤姫』では、「おそらくこの日、斉彬から忠剛に対篤姫の将来についての話があったと考えられる」としています。勿論、「篤姫の将来についての話」とは徳川家との縁組問題のことですね。
2008年01月27日
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今日(1月20日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の第3回目には、下加治屋町に住む大久保正助(原田泰造)すなわち若き日の大久保利通が父親の大久保利世(大和田伸也)とともに薩摩藩のお家騒動(お由羅の子供の忠教を支持する派と世子の斉彬を支持する派とに藩内が割れていると表現しています)に巻き込まれ、利世は遠島に送られ、正助は謹慎処分を受けることとなり、母親の大久保フク(真野響子)や2人の妹たちが団扇作りで家計を支える話が出てきます。 薩摩藩のお家騒動とは嘉永2年(1849)に起った「高崎崩れ」(俗称「お由羅騒動」)のことで、藩主・斉興の怒りを買った彬高崎五郎右衛門等50余名が酷刑に処せられています。なお「崩れ」とは検挙事件のことをいいます。この高崎崩れでは、実際に大久保家の父子が連座し、琉球館附役だった父の次右衛門利世は喜界島遠島の重刑を受け、記録所書役助だった息子の大久保正助は職を失います。次右衛門には嘉永2年12月(1850年1月)に流刑の命が出されますが、当時、喜界島への渡航は年1回(春に出帆し秋に帰航)だけだったので、実際には嘉永3年4月(1850年5月12日)に船出しています。この後、大久保家は非常な生活困窮に苦しむことになるのですが、そのことについて『鹿児島百年』上巻(南日本新聞社、1968年1月)はつぎのように書いています。「嘉永三年の四月に、次右衛門が喜界島に流刑の船出したあと、一家の苦斗が始まった。父・次右衛門は遠島まで、琉球館付役であったし、一蔵も記録所書役で、一家はゆとりのある暮らしであったが、高崎くずれの突発で、次右衛門はただちに免職になり、一蔵も職をとりあげられた。二十一歳の一蔵は、三人の妹と病気の母をかかえて、窮乏をきわめた。次右衛門の遠島生活は、足かけ六年続くが、その間に森山新蔵が、一蔵の家計を援助したようである。森山はのちに『精忠組』のスボンサーになった人物であるが、大久保のこの間の苦斗は、彼の忍耐カを練りあげる源泉になったようである。」 ところで、大久保家の家格は鹿児島城下士中の最下層に属す御小姓与(おこしょうぐみ)でした。大久保利通生誕地碑も下級武士の居住区だった加治屋町にあります。この加治屋町は、大久保利通のみならず西郷隆盛、大山巌、村田新八、黒田清隆、東郷平八郎、山本権兵衛などを輩出したことで有名ですね。 しかし毛利敏彦『大久保利通』(中公新書、1969年5月)によると、明治43年(1910年)に出版された勝田孫弥著『大久保利通伝』に「利通の生れたる所は、甲突川の西に方り、高麗町と称うる地にあり、されど、其幼年の頃、家族と共に加治屋町に移住せしより、自ら甲東と号し、また後年誕生の記念碑も、加治屋町の旧址に建設したるものなり」と記されているそうです。 実際に大久保利通が誕生したのは、高麗橋の下流近くの甲突川右岸だったようですが、大久保利通生誕地碑はその誕生地から甲突川を挟んだ対岸の加治屋町にあります。そのことについて上に紹介した毛利敏彦の『大久保利通』は、「加治屋町出生が通説となったのは、鹿児島の人が、郷党の偉人として併称する西郷と大久保を、同一町内の出生としたい願いからきたのであろう」としています。
2008年01月20日
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NHK大河ドラマ「篤姫」の第2話には、調所広郷(平幹二朗)が島津斉興(長門裕之)の側室・お由羅(涼風真世)と組んで斉彬(高橋英樹)の子どもたちの呪詛調伏を企んでいるという噂や、さらには薩摩藩士の一部が島津斉彬(高橋英樹)の四男が亡くなったことに怒って「調所一派の悪行」を書き連ねた密書を作り、それが藩主の斉興を隠居させる計画と関連があると見なされ、大量の人々が切腹させられるという話が出てきます。 これらの話は「お由羅騒動」としてよく知られています。斉彬の子どもたちが次々と夭折したことに対し、薩摩藩士の一部がお由羅たちの呪詛によるものだと考え、お由羅やその息子の忠教(後の久光)の暗殺を企て、そのために少なからぬ人々が酷刑に処せられたようです。これらのことは歴史的事実のようですが、この「呪詛調伏」などという妖しげな話がからんだ騒動の背後には、もしかしたら当時の薩摩に内在する深刻な問題があったのかもしれませんね。 それで、手許の本で「お由羅騒動」を調べなおしていましたら、原口虎雄『幕末の薩摩』(中公新書、1966年4月)にこの騒動についての興味深い事実が書かれていることを気付きました。なお、この本では、斉興の別邸だった花倉お仮屋で「斉興と調所は、大胆にも偽金造りを始めた」としていることに対しまして、これはどうも史実として確証できないようだと私は書きましたが、「お由羅騒動」についての指摘は検討に値すると思いました。同書は、調所の財政改革が城下士族に及んだときの状況をつぎのように書いています。「調所の改革が、借金の整理や黒糖専売などにとどまっている間は、虫けら同然の百姓町人だけにかかわることだと、無関心ですまされた城下士族も、改革の鉾先が農政や軍制にまで向けられてくると、足元に火がついたような危惧を抱いた。なにしろ、家禄の収納は減る、役得はなくなる、過上高は吐き出さねばならない、これまでの武芸は無用化してしまうといった、空前の社会革命だったからだ。しかも改革の担当者たちは、茶坊主上りの家老をはじめ成上り者、ことに癪にさわるのが町人たちの抜擢であった。ノド元過ぎれば熱さを忘れるの諺の通り、財政改革で一息つくと、それが誰のお蔭でもたらされたかを忘れ、欝積した不平が爆発した。調所の執政のように、二十数年の長年月にわたる独裁は、まず史上類例が少ないのだから、人心の倦むのも無理はない。そこに虚実とりまぜ大小無数の噂が飛び、非難が生まれた。」 しかし、「反調所派がどんなに虚をうかがっても、調所に落ち度はなく、また斉興の信任は小ゆるぎ一つするものではなかった」ので、反調所派は世子斉彬が襲封し斉興が隠居することを期待するようになったのですが、斉興はなかなか家督を斉彬に譲ろうとしません。 原口虎雄の同上書は、そんな中で「もともと格式が厳重で、おまけに男専女卑のうるさい尚武の国で、一介の江戸の下町娘が側室となり久光を生んだことそれ自体、すでに不幸の影がまつわりついていた」とし、さらに斉興が「士踊」(さむらいおどり)という武士の調練をかねた勇壮な踊りを「由羅はじめ奥の女中たちを側にはべらせて見物した」ことや、「由羅の兄が武士にとりたてられて岡田半七利友と名乗り、小納戸頭取を勤めていたが」、「湯治先で酒に酔って乗馬で小児を踏み殺したのを、由羅が金を出して内済にしてくれたという事件」、「由羅が側用人伊集院平に頼んで貨殖をしているという噂があったが、これは事実であった」こと、「時には奥向から政事に口出しすることも多かったらしい」とし、さらに「わが子久光を家督にすえようとして斉彬の廃嫡を企み、調所や二階堂志津馬・島津将曹・伊集院平などを語らって、斉興に斉彬のことを讒言しているという評判であった」らしいことから、斉形もこの噂には動かされて不安がっていたとしています。 反調所派のこのようなお由羅への反撥と斉彬への期待が「お由羅騒動」の背後にあったとする指摘は正鵠を射ているように思われます。
2008年01月19日
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NHKの大河ドラマ[篤姫」が今月6日から始まったこともあり、NHKは2007年4月25日に放映した「その時歴史が動いた」の「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」を今日また夜の10時から再放送しました。それで私もこの番組を見直したのですが、討幕軍の江戸城総攻撃を「一通の手紙がすんでのところで食い止めた」、江戸城無血開城の裏には「天璋院篤姫の決死の行動があった」、天璋院篤姫の嘆願書が「西郷隆盛の心に痛撃を与えた」といった解説にはやはり納得ができませんでした。 私は、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の中に「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」について文章を載せ、「勿論、旧幕府の代表となった勝海舟の和平路線に従って出された天璋院の嘆願書もそれなりの意味があったとは思いますが、やはり薩長も徳川も国内の内乱が激化することによる欧米列強の干渉、侵略を危惧し恐れたことが西郷隆盛と勝海舟の和平会談に繋がったのではないでしょうか」と書きました。またさらに「江戸城無血開城と勝海舟」というホームページもアップして、戸城無血開城に勝海舟の果たした役割を私なりに詳しく紹介いたしました。 それで、今夜はNHKの「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」でも紹介されていた和宮の嘆願書の内容とそれに対する西郷隆盛、大久保利通の反応を紹介して私の見解をさらに補強しておきたいと思います。 武部敏夫『和宮』(吉川弘文館、1965年3月)には、慶応4年1月21日に和宮が土御門藤子を使者として慶喜の嘆願書および橋本実麗・実梁父子宛に彼女が書いた直書(じきしょ)各一通を持たせて西上させたとしています。土御門藤子は2月1日には桑名に滞陣中の橋本実梁に面会して和宮の直書を手交したそうですが、この和宮の直書にはつぎのようなことが書かれてあったそうです。「此度之一件は兎も角も、慶喜是れ迄重々不行届の事故、慶喜一身は何様にも仰せ付けられ、何卒家名立ち行き候様幾重にも願い度さ、後世迄当家朝敵之汚名を残し儀事、私身に取り侯ては は実に残念に存じ参らせ候。何卒私への御憐愍と思しめされ、汚名を雪ぎ、家名相立ち候様、私身命にかへ願ひ上げまいらせ侯。是非々々官軍差向けられ御取りつぶしに相成り侯はゞ、私事も当家滅亡を見つゝながらへ居り候も残念に侯まゝ、急度(きっと)覚悟致し候所存に候。私一命は倍しみ申さず侯へ共、朝敵と共に身命を捨て侯事は朝廷へ恐れ入り候事と誠に心痛致し居り候。心中御憐察有らせられ、願之通り家名之処御憐愍有らせられ候はゞ、私は申す迄もなく一門家僕之者共深く朝恩を仰ぎ候事と存じまいらせ侯。」(『静寛院宮御日記』) しかし、西郷隆盛は同年2月2日附けの大久保利通宛書簡で「慶喜退隠之嘆願、甚だ以て不届千万、是非切腹迄には参り申さず候はでは相済まず、必ず越土(越前・土佐両藩)抔よりも寛論起こり候半(わん)歟。然れば静寛院と申しても矢張り賊之一味と成りて、退隠位にて相済候事と思食され候はゞ致し方なく候に付、断然追討在らせられ度事と存じ奉り候」(『大久保利通文書』第七)と書いているのです。 江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室だった和宮(静寛院)は薩摩・長州が奉じている明治天皇の叔母であり、また先代の天皇である孝明天皇の妹なのですが、西郷隆盛はそんな和宮のことを「矢張り賊之一味」と言い切り、彼女が慶喜の処分を退隠ぐらいにしてもらいたいと思うのは当然だとしても、やはり慶喜は断然追討せねばならぬとしているのですね。 また同じく武部敏夫『和宮』によると、大久保利通も西郷隆盛と同様に強硬論だったそうで、『大久保利通文書』第七所収の鹿児島藩士の蓑由伝兵衛に宛てられた同年二月十六日附の手紙の中で、慶事が和宮にすがって謝罪の嘆願書を提出したことを知らせて、「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候。反状顕然、朝敵たるを以て親征と迄相決せられ候を、遁隠位を以て謝罪などゝ、益(ますます)愚弄し奉るの甚舗(はなはだしき)に御坐候。天地容るべからざる之大罪なれば天地之間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」と書いているそうです。 明治天皇を奉じた薩長が討幕軍を東征させたのですが、薩摩側の指導者の西郷隆盛や大久保利通にとって明治天皇の叔母の和宮も「矢張り賊之一味」であり、そんな和宮にすがって謝罪の嘆願書を提出したことなど「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候」ということになるのですね。天璋院篤姫だって彼らにとっては「矢張り賊之一味」であり、そんな篤姫の嘆願書など「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候」ということだったのではないでしょうか。
2008年01月16日
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調所広郷と贋金(偽金、ニセ金)づくりとの関連で詳しく論じられた文献がないかと探しておりましたら、なんと芳即正『坂本龍馬と薩長同盟 …新説・通説異論あり…』(高城書店、1998年12月)のなかに「ホント? 華倉御殿のニセ金造り」という論考があることに気付きました。書名からそんな論考が掲載されているなんて思いもしなかったのですが、インターネットを検索していて今日やっと判明したのです。この芳即正の論考は、原口泉『かごしま歴史散歩』の記載では天保4、5年(1833年~1834年)頃に建てられた華倉御殿において調所広郷によってニセ金造りが始められた、としていることに対し疑問を呈したものです。 芳即正の同論考によりますと、まず東大史料編纂所所蔵の島津家史料の中にある名越左源太の『続常不止集』の弘化2年(1845年)の記事に「華倉御茶屋」のことがつぎのように記録されているそうです。 一、華倉御茶屋 右は中村御茶屋の地面を、御手元御製薬方へ差し出され候に付き、右引き 替えに、吉野村の内華倉末川久馬御抱地(おんかけち)ならびに同所東郷 半七枦場(はぜば)等、御用地相成り、磯御茶屋引き続き一囲(ひとかこ) いにて、右の通り御造立仰せ付けられ候条、承るべき向へ申し渡すべく候 七月十七日(弘化二巳) この史料の意味は、「今度占丁村御茶屋の敷地を製薬方に差し出したので、その代わりに吉野村の中の華倉にある、末川久馬の抱地(開墾地)と東郷半七の枦場(枦を植えてある土地)を、藩の御用地にして磯御殿と一まとめにし、そこに華倉御茶屋をつくる事になった、知らせるべきところに知らせよ」ということだそうです。 最後の日付の「七月十七日(弘化二巳)」の「弘化二巳」は弘化2年の巳の年ということでしょうが、弘化2年は干支で乙巳(きのと)なのでこう表記したのですね。これが華倉御茶屋すなわち花倉御仮屋についての最初の記録のようですから、調所広郷の贋金造りの工場となったと想定されている花倉御仮屋は弘化2年7月17日(1845年8月19日)以降に建設が始まったと考えられますね。 ではこの花倉御仮屋の建物はいつ頃完成したのでしょうか。芳即正の同論考によりますと、島津家磯邸『日記』弘化四年(一八四七)三月十一日の条に、藩主斉興が「四ッ時(十時)御供揃いにて華倉御見分に入らせられ、御帰り掛け磯に入らせらる」とあり、さらに同年四月二日の条に、斉興が「五つ半時(九時)御供揃いにて華倉御茶屋へ御滞在に入らせられ候」とあるそうですから、弘化4年3月11日(1847年4月25日)にはほぼ完成し、同年4月2日(1847年5月16日)には完成して滞在できるようになっていたと思われますね。 なお同論考は、華倉御殿建設に調所広郷が関わっていた事実は認めてつぎのように述べています。「現在旧華倉御殿不動堂跡の地に、弘化四年九月と刻んだ手水鉢が建っているが、造園なども全部出来上がったのがこの九月ごろということであろう。また仙巌園内の御庭神社の前庭にある五基の石灯籠に弘化四年九月吉日とあり、幾つかには調所笑左衛門広郷・末川久馬その他の担当者の職氏名が刻まれている。これは恐らく先の手水鉢と同様華倉御殿内にあったものだろうが、御殿廃止後に仙巌園内に移されたものと思われる。この弘化四年は西暦一八四七年で、以上のいきさつから考えると、弘化四年より十三年前の天保五年には、華倉御殿はまだ出来ていなかった事になる。だから原口説はこの点では誤りという事になるが、でも調所広郷が造ったという事はその通りである。」 この華倉御殿はその後も御殿として使われたようで、新納久仰の日記である『久仰雑記』に安政3年3月1日(1856年4月5日)の条にも隠居の斉興が泊まった話が記録されているそうです。しかし、同じ『久仰雑記』の安政3年10月23日(1856年11月20日)には新納久仰自身が銅璞荒焼きの場所を華倉へ移す計画のために現地に行ったということが記録されており、御殿のみに使用されていた訳ではないようです。 そして、『忠義公史料』によりますと、明治2年12月には鹿児島藩庁(知政所)から「華倉細工場之儀、引取り仰せ付けられ候、左候て同所跡へ生産万管轄金性分析所召し建てられ候条、会計局総裁へ申し渡し、承るべき向へも申し渡すべく候」という達しが出されているそうです。そうしますと、華倉には細工場が建てられていたようで、さらに明治になってそれが廃止されて金属の分析所が作られたようですね。芳即正の同論考はそのことと関連させて、「原口泉さんは華倉を『掘り返すと金クソが出てくるので、鋳造工場があったことがわかる』としているが、果たしてストレートにそう決めてよいものだろうか」と述べています。 以上の芳即正の論考を読んで、私はますます調所広郷が贋金づくりを行っていたという説に対する疑問を深めました。花倉御仮屋は弘化4年4月2日(1847年5月16日)に完成した建物のようですが、調所広郷は嘉永元年の12月19日(1849年1月13日)に江戸で死去していますから、花倉御仮屋が建てられてから1年半ほどで彼は他界していることになります。50万両も備蓄するほどに財政改革を成功させた段階であり、まだ江戸幕府の権威が失墜していないこの頃に、調所広郷が敢えて幕府禁制の贋金造りなどという危ないことに手を染めたりするものなのか、また仮に調所広郷が贋金造りを企図したとしても、生前に本格的にそれを実行に移す時間などあったのか等のことから、調所と贋金作りを関連させることには大いに疑問があるのですが、みなさんはどう思われますか。
2008年01月14日
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佐藤雅美『薩摩藩経済官僚』、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』の小説には、調所広郷が天保年間から藩主・島津斉興の別邸として建てられた花倉(けくら)の御仮屋(別邸のこと)で贋金を造っていたとしています。しかし芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)は、「原口虎雄『幕末の薩摩』に、調所が天保四、五年ごろ華倉別邸でにせ金づくりをやったとあるが、華倉別邸はそれから十数年後の弘化三年製製煉所をつくったとき中村別邸をこわしてその代わりにつくったもので、この話は疑問」であるとしています。 なお、藩主・島津斉興の別邸である花倉(けくら)の御仮屋と華倉別邸とは同一の建物のことを指していると思われます。それで、花倉(けくら)の御仮屋のことを芳即正・五味克夫監修『鹿児島県の地名 日本歴史地名体系47』(平凡社、1998年7月)で調べてみることにしました。同書の182頁に薩摩藩主だった島津家の別邸「仙巌園」についての解説がありますが、そこに「花倉御仮屋跡」の説明もつぎのように記載されていました。「仙巌園から国道10号を八〇〇メートルほど北に進むと花倉(けくら)御仮屋跡がある。弘化四年(一八四七)に島津斉興が中村(なかむら)別邸の代わりとして造った別邸であったが、文久三年(一八六三)の薩英戦争後、国分に移された(続常不止集;忠義公史料など)。現在跡地には石垣や手水鉢、庭石などが残る。」 花倉御仮屋は弘化4年(1847年)に建てられているようですね。しかし、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』には、調所広郷の贋金造りが天保5年(1834年)から開始されたとしているように、上記の小説はいずれも調所広郷が天保年間から贋金造りを始めたように描いています。この天保年間において調所広郷は財政改革を成功させ、弘化元年(1844年)には50万両の備蓄さえ達成させているので、それと贋金造りを関連させて考えているのですね。 ところが、調所広郷は嘉永元年の12月19日(1849年1月13日)に江戸で死去しているのですから、花倉御仮屋が建てられてから2年ほどで彼は他界していることになります。50万両も備蓄するほどに財政改革を成功させた段階で、調所広郷が敢えて幕府禁制の贋金造りなどという危ないことに手を染めたりするものなのでしょうか。また、仮に調所広郷が贋金造りを企図したとしても、生前に本格的にそれを実行に移す時間などあったのでしょうか。このようなことを考えますと、調所広郷の贋金造り説には非常な疑問が生じるのですが、みなさんはどう思われますか。
2008年01月12日
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NHKの大河ドラマ「篤姫」の第一回目に平幹二朗演じる調所広郷が登場してきますが、平幹二朗の燻し銀のような深みのある演技が素晴らしく、そんなこともあって調所広郷という人物にあらためて関心を持った視聴者も多かったのではないでしょうか。 この調所広郷については、佐藤雅美『薩摩藩経済官僚』(講談社文庫、1989年6月)、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』(南方新社、2006年12月)、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(2007年10月)という時代小説がありますが、いずれの作品においても、薩摩藩の財政改革のために非情に徹する彼の姿が生々しく描かれています。そしてこれらの作品には共通して島津藩主・斉興の花倉(けくら)の別邸での贋金作りの話が出てきており、彼の財政改革の光と影のなかの影の部分を表わすものとして読者に強い印象を与えています。 ところが、芳即正『調所広郷』(吉川弘文館、1987年5月)には調所広郷が贋金づくりをおこなったという記述はどこにもなく、さらに同じ著者の『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)129頁にはつぎのような記述があります。「原口虎雄『幕末の薩摩』に、調所が天保四、五年ごろ華倉別邸でにせ金づくりをやったとあるが、華倉別邸はそれから十数年後の弘化三年製製煉所をつくったとき中村別邸をこわしてその代わりにつくったもので、この話は疑問。使用すれば斉彬の鋳銭こそにせ金づくりとなる(『磯邸日記』、名越左源太『続常不止集』)。」 これは私にとって史実に関する意外な指摘でした。私は先に紹介しました佐藤雅美『薩摩藩経済官僚』、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』の小説を読んでいたこともあり、調所広郷が贋金作りに手を染めていたことは明らかな歴史的事実だと思い込んでいました。しかし、幕末の薩摩藩についての優れた歴史研究者である芳即正が調所広郷による「天保四、五年ごろ華倉別邸でにせ金をやった」という話は疑問であると指摘しているのです。幕末の薩摩藩についての優れた歴史研究者のこの指摘は重たいものがあると思いますが、このことについてどなたか詳しいことを教えていただけたら有難いと思います。
2008年01月10日
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NHKの大河ドラマ「篤姫」が今日1月6日から放映が始まりました。鹿児島に住んでいる人間としては桜島や石橋の西田橋等が映し出されるだけで嬉しくなりますが、ドラマと史実の関連で特に興味を持ったのは、篤姫(宮崎あおい)の父親の島津忠剛(長塚京三)が薩摩藩の家老である調所広郷(平幹二朗)から弘化4年(1847年)に「百姓に対して手ぬるい」と批判され、家政改革を行うようにとの藩主・島津斉興(長門裕之)の命を伝える場面です。 しかし、寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)には、島津忠剛すなわち安芸守が今和泉家の財政難を救ってもらうために調所広郷すなわち笑左衛門に窮状を伝えて相談に乗ってもらい、その結果困難な状況を打開することができたとする史料が紹介されています。すなわち調所広郷の改革を輔佐していた海老原清熙(海老原宗之丞)の「御取調書類草稿」(『鹿児島県資料集三十九』所収)につぎのようなことが書いてあるそうです。 島津忠剛が「雨天ニハ廊下ヲ傘ヲサシ、少キ子共ヲ浜屋敷へ遣ルニ駕寵へ両人モ乗セヤル」様な財政難に苦しみ、そのことを海老原宗之丞に伝え、「笑左衛門殿へ申シ呉ヨト、御手ヲ席ヘツカセラレ承ハリシ間、畏り奉ルト申シ、其日笑左衛門殿へ其旨ヲ申シ」、「間モナク笑左衛門殿ヲ今和泉屋敷へ召シ」、財政難解決のために相談に乗ってもらい、海老原たちが今和泉家の財政改革に着手し、「用ヲ節シ費ヲ省キ、安藝殿ニハ毎日其席へ御出、大小皆御聞少モ遺漏ナク行届キ、其年ヨリ菜種・蝋共珍シキ高価ニテ、従前二比スレハ雲泥ノ差ニテ、年末二至り余金ヲ生シ」たとのことです。 調所広郷の島津藩財政改革には、確かにドラマにも描かれているような百姓たちへの苛斂誅求ともいえる厳しい取立て等があったようですが、少なくとも今和泉家にとっては調所広郷は財政難解決の恩人だったようですね。 右上に載せた写真は調所広郷(1776-1848年)の銅像で、1998年3月に鹿児島市天保山町の天保山公園に建立されたものです。この銅像は、前迫初実・元県石材連合会会長と野添武二・元県歯科医師会会長が調所広郷の功績を後世に伝えようと建造し、鹿児島市に寄贈したものです。なお、この銅像の碑文には、幕府から密貿易の罪を負わされて自害した調所広郷の功績を称えて次のようなことが刻まれています。「幕末に近い文政十年(1827年)薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。 時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。 広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。 更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成五年八.六災害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等甲突川五石橋も、天保山の造成も全て調所の発案である。 改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。 だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。 しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからと思う。 此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遺ることを願う。」
2008年01月06日
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NHK大河ドラマ「篤姫」もいよいよ明日6日から始まりますね。幕末の鹿児島がどのように描かれるのかとても楽しみにしています。それだけに、昨夜4日の午後11時に放映されたNHK総合テレビの「カウントダウン篤姫」は大いに期待し、同番組に鹿児島市浜町にある石橋記念公園が映し出されたときは、篤姫ゆかりの地について新たな情報が得られるのではないかと喜んだものです。なぜなら、鹿児島市の浜町にある石橋記念公園の近くに2ヶ所も篤姫ゆかりの地があるからです。 塩満郁夫・友野春久編『新たな発見にに出会う 鹿児島城下絵図散歩』(高城書店、2004年12月)という書籍がありますが、これは鹿児島県立図書館に所蔵されている安政6年(1859年)頃作成と推定される「旧薩藩御城下絵図面」に現在の鹿児島市の地図を重ね合わせ、約4千ヵ所の現住所と当時の建物や住人を見比べられる一覧表が付いている貴重な本です。同書によりますと、島津峯之助(篤姫の兄の島津忠敬の通称で、上の二人の兄が若くして病死したために今和泉島津家12代当主になっています)の屋敷に関して、現在の浜町にあるものとして2つの場所が挙げられています。 一つは「春日町12番の北、浜町3番の北西」にある「島津峯之助殿中屋敷」で、現在そこにある構造物としては「上町グラハン」があるとのことです。もう一つは「浜町2番の中」にある「島津峯之助殿下屋敷」で、現在は「鹿児島操車場」になっているとのことです。 しかし、「カウントダウン篤姫」の番組では、浜町にかつて今和泉家の中屋敷、下屋敷があったことなど全く触れませんでした。では、なぜがこの番組で浜町の石橋記念公園が紹介されたのかといいますと、同地で大河ドラマ「篤姫」のロケが行われ、大名行列のシーンをそこに移築された西田橋を使って撮影したりしたからのようです。昨夜の番組は、コロッケと定岡正二が篤姫関連のクイズを解いたり(斉彬、斉興、久光のなかで兄弟は誰かとか、篤姫の夫となった徳川家定は第何代将軍かといった簡単な問題でした)、大河ドラマ「篤姫」のメイキング映像を紹介したりするだけで、残念ながら私が期待するような史実の紹介はありませんでした。 6日から始まる実際の番組では、幕末の薩摩関連のことで新たな史跡や史実が紹介されることを期待したいと思います。
2008年01月05日
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11月17日のこのブログに「篤姫の実家・今和泉家ゆかりの重富荘」という拙文をアップし、鹿児島市清水町にあるマナーハウスの重富荘がある場所は、篤姫の実家である今和泉家の屋敷地であったこともあるとお伝えしました。 現在の重富荘のある場所は、そこに重富家が移り住む前は今和泉家の「田之浦邸」だったようですが、いつ頃まで今和泉家の所有地だったのでしょうか。そのことが気になったので、手許にある本で調べなおしてみましたところ、次のことが判明しました。 芳即正編『天璋院篤姫のすべて』、新人物往来社、2007年11月)に載っている「天璋院篤姫関係年譜」によりますと、弘化4年(1847年、篤姫が数え年で13歳のとき)に今和泉家8代の忠厚が今和泉家田之浦邸で死去しているそうです。そして、寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、2007年6月)によると、「今和泉家の財政もひっ迫しており、忠厚が亡くなると田之浦邸はすぐに藩に献上されている」とあります。 ですから、篤姫が数えで13歳頃まではこの地には今和泉家の下屋敷があったのでしょうね。この場所が今和泉家の下屋敷だった頃、篤姫もまたここから桜島を眺めたかもしれませんね。 それで、これらのことを拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の「上町と篤姫ゆかりの地」という新しい項目の文章中に載せておきましたので、もし興味がございましたらご覧いただきたいと思います。
2007年12月02日
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前に南九州の中世史とくに中世城郭研究の第一人者である三木靖氏とお会いする機会があったとき、今和泉郷の「領主仮屋」について、その屋敷が今和泉島津家の当主やその家族が別邸として使っていた可能性についてお訊きしたことがあります。そのときに、「今和泉島津家は、島津藩の中でも一門四家と呼ばれて特別待遇を受けていた家柄であり、他の私領主と違って鹿児島城下の本宅以外に私領地に別邸を持つことが許され、今和泉だけでなく鹿児島市清水町の祇園之洲近くにある重富荘もまた今和泉家の別邸だった」ということを教えてもらいました。 さらに最近になって、三木靖氏から『特別展図録 越前(重富)島津家の歴史』(姶良町歴史民俗資料館、2004年10月)に重富荘のことがつぎのように紹介されていることも教えてもらいました。「庭園旅館として知られる重富荘の地は、幕末に島津安芸(今和泉家)の屋敷地であったが、明治維新以後に清水町の上屋敷から重富島津家が移り住んだようだ。昭和二三年(一九四八)、島津忠彦の時に屋敷地をそのまま活用した旅館『重富荘』として開業した。」 重富島津家とは、島津一門家筆頭の家柄であり、島津久光も重富家の当主だったことがありますが、彼の息子の又次郎が薩摩藩主となった後に重富家の家督を弟の珍彦(うずひこ)に相続させ、自らは薩摩藩の「国父」として藩政の中枢を掌握しています。そんな久光が住んでいたのが重富邸でしたが、重富島津家がいまの重富荘の場所に移り住んだのは明治以降のことのようですね。 また「南日本新聞」2006年4月11日の記事によりますと、「旧重富荘は、薩摩藩二十九代当主・島津忠義の父久光が重富領主時の別邸を現在地に移築したものを、一九五三(昭和二十八)年から旅館として活用していた。敷地面積は約九万九千平方メートル」としています。 重富荘は、いまは「マナーハウス島津重富荘」として式場・ゲストハウスに使われているそうです。所在地は鹿児島市清水町31-7にあります。 重富荘が今和泉家の下屋敷だったことは、松尾千歳「篤姫の出自とその一族」(芳即正編『天璋院篤姫のすべて』、新人物往来社、2007年11月)にも記載があります。それによりますと、「文政前後鹿児島歴史絵図」内に田之浦(現在の鹿児島市清水町)の今和泉家下屋敷が2つ記されており、「「現在の地名で言えば、一つは重富荘一帯で四七一〇坪、もう一つは多賀山公園駐車場の南手で五五〇坪である」とのことです。 それで、今日(11月17日)は土曜日なので、午前中にデジカメを持って重富荘に行き、島津久光の別邸だった頃の面影を残す和風の建物を撮影してきました。また、その建物が建っている和風庭園の眼前には、噴煙を少したなびかせている桜島が聳え立っていましたので、その雄大な姿も撮影しておきました。 なお、重富荘のことは拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」にも追加アップしておきました。 ↓ 「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」 http://homepage1.nifty.com/yamamomo/siden/atuhime.htm#sakura
2007年11月17日
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桃源選書に八木昇編『幕末動乱の記録 「史談会」速記録』(桃源社、1965年8月)という本があります。この本の編者によると、同書は「歴史的価値が極めて高い、『史談会速記録』四百有余冊より採り出した精華十二編」を収めたとのことです。その12編のなかに渡辺清「江戸、攻撃中止の真相」というとても興味深い回想談も入っていますので、今回それを紹介したいと思います。 なお渡辺清という人物は、明治維新後は福岡県令や福島県知事として活躍した人物ですが、戊辰戦争当時は大村藩士で、自藩の藩士を率いて討幕の東征軍に参加しており、江戸城無血開城の会談にも立会っています。 そんな渡辺清が「江戸、攻撃中止の真相」で語っている回想談において、私にとって特に興味深かったのは、(1)駿府に着陣したばかりの西郷隆盛が東征軍参加の各藩の隊長に示したという勝海舟から届いた手紙の内容と、(2)西郷隆盛が耳にした英国公使パークスの江戸城攻撃に対する否定的発言の話です。 まず西郷隆盛が慶応4年2月28日(1868年3月21日)の駿府に着陣したときの話ですが、その日、西郷隆盛は隊長達に勝海舟から届いたばかりの手紙を紹介したそうです。西郷隆盛の話によりますと、勝海舟はその手紙で、徳川側としては恭順の意思をはっきり示しているのに、なおかつ江戸城を攻撃するとはどいうことなのかとして、さらにつぎのような趣旨のことをが書いているというのです。「若し徳川家に於て朝命を拒むというならば如何様ともその所作は有るべし。徳川家に於ては軍艦十二艘を所有致しておる。これを以て先ず二艘を摂海に浮かべ、又二艘を以て九州中国より登るところの兵を妨げ、又二艘を以て東海道筋の然るべきところに置き、又二艘を以て東海道を下るところの兵を攻撃し、残る四艘を以て横浜に置き同港をしっかりと保って置く。かくの如きことをなしたならば恐らくは九州より登る兵も東に向って下る兵も、躊躇する位のことではあるまいと思う。我がその事をなさざる以上は恭順の実を挙げておる。これを証拠に見て呉れよ。吾、貴公とは従来知己である。天下の大勢は目に着いてあるだろう。然るに今日手を束ねて拝しておる者に兵を以て加えるというは如何。実に平生に不似合の挙動と考える。これは暫く措いて兎も角も、征討の兵は箱根以西に留めて呉れなければならぬ。然らざれば慶喜の意も吾々の奉ずる意も重きを得ずして如何の乱暴者が沸騰するかも知れず。今江戸の人心というものは実に沸いたる湯の如し。右往左往如何とも制せることは出来ない。それに今、官兵箱根を越したならば到底吾々恭順の実をここに挙ぐることは出来ないに依って、是非箱根の西に兵を置いて貰いたいという主意。」 その手紙を西郷は征東軍に加わった各藩の隊長たちに示し、「顔色火の如くなって」つぎのように言ったというのです。「諸君はこの書を見て何とお考えあるや、実に首を引き抜いても足らぬのはかの勝である。人を視ること土芥の如く、尤も官軍を視ることを如何に視ておるのであるか。果して恭順の意であるならば官軍に向って注文することは無い筈。彼れの譎詐(けっさ)というものは今日始まったことではありませぬ。勝(安房)は申す迄もなく、慶喜の首を引き抜かねば置かれんじゃないか。況んや箱根を前にして滞陣するは最も不可である.諸君如何であるか」 それで各藩の隊長は、「如何にもその通り」と勇み立ち、西郷は「然らば明日より直ぐさま東征にかかるからその覚悟で出陣なさい」と厳命を下したというのです。 西郷隆盛が慶応4年2月28日(1868年3月21日)に東征軍の隊長たちに示したというこの勝海舟の手紙は、山岡鉄舟が西郷隆盛と慶応4年3月10日(1868年4月2日)に会見したときに渡した勝海舟の手紙とは論調が随分違っていますね。なお、現在の海舟日記にはこのような内容の手紙は載せられていません。しかし、東征軍が箱根を越えない段階でそれを食い止めようとする勝海舟が必死の思いでこのような手紙を書いて送ったとしても不思議はないと思います。また、この手紙は恭順の意思を明らかにした上で、もしそれでも東征軍があくまでも攻撃を中止しないなら、そのときは徳川の保有する「軍艦十二艘」でもって陸路を進軍する東征軍に海上から大きな打撃を与える力をまだ持っているのだとその可能性を語っただけで、「我がその事をなさざる以上は恭順の実を挙げておる。これを証拠に見て呉れよ」というのが一番の主旨ですね。 また、渡辺清の回顧談には、東海道先鋒総督参謀の木梨精一郎が慶応4年3月12日(1868年4月4日)に横浜で英国公使のパークスと会見し、江戸城攻撃のときに出る負傷兵のために病院を横浜に建ててもらいたいと要請したとき、「パークスが如何にも変な顔付きを致して、これは意外なことを承わる。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何、と云う」とのことで、その会談の内容を渡辺清が木梨精一郎の命を受けて翌日(1868年4月4日)の午後に西郷隆盛に伝えたとしています。渡辺清が「馬に騎り切って品川に着したのは今の午後二時頃であった」とのことで、その後すぐに西郷隆盛にパークストの会談の話を伝えていますが、そのときはすでに西郷隆盛が勝海舟と第1回目の会談を終えていました。 では、西郷隆盛は渡辺清からパークスの発言を聞いてどのように反応したのでしょうか。その時のことを渡辺清はつぎのように語っています。「西郷も成る程、悪かったと、パークスの談話を聞いて、愕然として居りました」。しかし渡辺清の談によると、このパークスの発言を耳にした西郷隆盛は、実際には喜んだであろうとしています。渡辺清はそのことをつぎのように述べています。「前に申上げた時の西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようということは、従前から会得しておるのである。然るに兵を鈍らしてはならず、又慶喜の恭順も立てねばならぬ、又天下の大体のことに大いに関係する。それ故に兵はどこまでも大いに鼓舞して江戸に着して見るところが想像の通り恭順のことを勝が持って来た。そこで明日の戦を止むるということを言うは勝に対しては易き話である。唯官軍の紛紜を畏るることは容易でない。多分板垣などは如何なる異論を以て来るかも知れぬ。我が薩摩の兵及びその他長州始め諸藩の兵が勃起しておる。その機会に攻撃を止むのは容易でないから、種々苦心しておるところに横浜パークスの一言を清が報じたので、西郷の意中はかえって喜んでおるじゃろうと清は想像します。」 うーん、渡辺清の推測、結構的を射ているかもしれませんね。いずれにしても、このパークスの発言は西郷隆盛の勝海舟との会談にそれなりの影響を与えたのでしょう、また勝海舟もその情報をすでに得たうえで西郷隆盛との会談に臨んだのかもしれませんね。こうして幸いなことに江戸城無血開城は実現されることになったのですね。 以上のことを改めて拙ホームページの「江戸城無血開城と勝海舟」に「渡辺清の回顧談」として追加しておきました。
2007年08月22日
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鹿児島市観光課が作成した『もっと知ろうよ維新のまち-篤姫と薩摩の英傑たち』という冊子を同市加治屋町の維新ふるさと館で入館者に無料で配布しているとのことなので同館に行って来ました。なお、このパンフは2007年3月に鹿児島市観光課が発行したもので、A5判36ページの小冊子で、小学校社会科の先生たちが中心になって執筆したものだそうです。 また、維新ふるさと館は1994年に明治維新前後に活躍した人材を多数輩出した鹿児島市加治屋町にオープンしていますが、「明治維新における鹿児島の歴史及び先人の偉業に関する資料等を展示し、鹿児島市の観光の振興を図るための施設」だそうですよ。 さて、同館に入場しましたら、可愛いワンワンちゃんが出迎えてくれました。ふと私の家で飼っているポロが後をつけて来たのかと思いましたが、よく見ると我が家のじいさんポロよりずっと若くて元気そうです。きっと西郷隆盛の愛犬ツンかもしれませんね。もっとも、上野公園の西郷隆盛像の傍にいる薩摩犬のツンはもっと精悍な感じの猟犬ですけどね。 同館に入場したとき、ちょうど維新体感ホールで音と光とロボットを使った「維新への道」が開始されるというので、まずそれを見物することにしました。出て来るロボットたちは西郷隆盛、大久保利通、村田新八、勝海舟、坂本龍馬など明治維新のときに活躍した人物たちをかたどったものでした。なお、勝海舟はちゃんと西郷隆盛に日本の変革の方向性を教示していましたし、もちろん江戸城無血開城で西郷隆盛と会談していましたよ。えっ、篤姫ですか? この維新体感ホールで行われた歴史ドラマには篤姫の「あ」の字も出てきませんでしたよ。 篤姫に関しては、維新ふるさと館の常設展示物のなかにはなにもありませんでしたが、ただ「篤姫」についてパネルで展示がされていました。それで帰りには、ちゃんとお目当ての『もっと知ろうよ維新のまち-篤姫と薩摩の英傑たち』をもらいましたよ。 同パンフには篤姫関連の記事が3ページに渡って書かれていましたが、さすがにNHKのように篤姫が江戸城無血開城で大きな役割を果たしたなんて誇大宣伝はなく、ただ「徳川家の存続にかける篤姫の熱意」という項目のところに、「明治元年(1868年)1月3日、戊辰戦争が始まり、徳川家は存亡の危機を迎えました。篤姫は侍女を東征大総督府参謀長の西郷隆盛のところに遣わし、慶喜の助命と徳川家の存続を嘆願しました。そして徳川家の存続が認められました」と史実が簡単に紹介されていました。
2007年08月17日
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来年の大河ドラマ「篤姫」では 宮崎あおいが篤姫、堀北真希が和宮を演じることはすでに決まっていましたが、今日(8月7日)の鹿児島の地元紙「南日本新聞」に「鹿児島ゆかりの出演者決まる」との見出しで他の主な出演者が紹介されていました。同記事によると、「六日発表されたのは、主に篤姫の出身地の薩摩を舞台に登場する十八人」とのことです。新たに紹介された主な出演者としてはつぎのような人たちがいました。 小松帯刀役に瑛太、西郷隆盛役に小沢征悦、大久保利通役に原田秦造、近衛忠熙役に春風亭小朝、島津忠敬役に岡田義徳、島津斉彬役に高橋英樹、調所広郷役に平幹二朗、小松清猷役に沢村一樹、肝付兼善役に榎木孝明、島津久光役に山口祐一郎。 この記事で興味深かったのは、小松帯刀を「篤姫の幼なじみ」としていることです。拙ブログの「小松帯刀と篤姫」で書きましたように鹿児島時代における両者のかかわりは史料的には確かめられないようなのですが、ドラマでは幼馴染ということにしてしまうようですね。 なお、またNHKの公式サイトの「『篤姫』放送前情報」でも「篤姫」のキャスティングが発表されていますが、そこでも小松帯刀について「篤姫と同じ年に生まれ、ある縁で幼なじみとなり、成長とともに篤姫に熱い思いを寄せるようになる…」としていますよ。しかし、小松帯刀の片思いであり、彼の心の内面の問題だということにしても、実際はまずあり得ないことでしょうね。、 それから、前掲の「南日本新聞」の同記事によると「撮影は十五日から始まり、鹿児島ロケは九月中旬を予定ている」とのことです。
2007年08月07日
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江藤淳・松浦玲編 『氷川清話』(講談社学術文庫、2000年12月)に、勝海舟が江戸開城のいきさつについてつぎのように語った談話が載っています。 「あの時、おれはこの罪もない百万の生霊を如何せうかといふことに、一番苦心したのだが、しかしもはやかうなつては仕方がない。たゞ至誠をもつて利害を官軍に説くばかりだ。官軍がもしそれを聴いてくれねば、それは官軍が悪いので、おれの方には少しも曲つたところがないのだから、その場合には、花々しく最後の一戦をやるばかりだと、かう決心した。 それで山岡鉄太郎が静岡へ行つて、西郷に会ふといふから、おれは一通の手紙を托けて西郷へ送つた。 (中略) さて山岡に托けた手紙で、まづおれの精神を西郷へ通じておいて、それから彼が品川に来るのを待つて、更に手紙をやつて、今日の場合、決して兄弟牆(かき)に鬩(せめ)ぐべきでないことを論じたところが、向ふから会ひたいといつて来た。そこでいよいよ官軍と談判を開くことになつたが、最初西郷と会合したのは、ちやうど三月十三日で、この日は何もほかの事は言はずに、たゞ和宮の事について一言いつたばかりだ。」 そしてさらに翌日に再び勝海舟と西郷隆盛との会談が持たれ、そのときに「西郷がいうには、委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言ったので江戸は戦火から免れることになったとしています。 ところで、勝海舟の上記の談話の中に、「官軍がもしそれを聴いてくれねば、それは官軍が悪いので、おれの方には少しも曲つたところがないのだから、その場合には、花々しく最後の一戦をやるばかりだと、かう決心した」とあり、一戦を交えることも辞さない覚悟で会談に臨んだとしていますね。実際、慶応4年3月10日(1868年4月2日)の勝海舟の日記(勁草書房版『勝海舟全集』19)で、相手は必死の覚悟で江戸に進撃して来ており、こちらも退路を断って必死の覚悟と態勢で臨まねばならぬとして、つぎのようなことを書いています。「窃かに聞けることあり、官兵、当十五日江城侵撃と云う。三道の兵、必死を極め進まは、後(うしろ)、その市街を焼きて退去の念をたたしめ、城地に向て必死を期せしむと。若し今、我が款願する処を聞かず、猶、その先策を挙げて進まんとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼、此暴挙を以て我に対せむには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きて、その進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんば有るべからず。此意、此策を設けて、逢対誠意に出ずるにあらざれば、恐らくは貫徹為しがたからむか。愚不肖、是に任せて一点疑いを存せず。若し百万の生霊を救うにあらざれば、我先ず是を殺さんと。断然決心して以てその策を回(めぐ)らす。」 勝海舟は、このような必死の覚悟と態勢で西郷隆盛との会談に臨み、こうして江戸城無血開城を実現させたのですね。 さて、拙ブログでは、これまで江戸城無血開城の経緯について、主として旧幕府側の代表となった勝海舟に焦点を当てて紹介してきましたが、それらの記事を新たに拙ホームページに[江戸城無血開城と勝海舟」と題してまとめアップしておきましたので、興味がございましたらぜひご覧いただきたいと思います。
2007年08月02日
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宮尾登美子の時代小説『天璋院篤姫』では、篤姫が鹿児島から江戸参府の旅に出たときに 「大阪までは海路を取ることになった」としており、篤姫が船酔いに苦しむ様子などが生々しく描かれています。しかし、これは史実と違っているようです。『天璋院 薩摩の篤姫から御台所』(鹿児島県歴史資料センター黎明館、1995年9月)には、篤姫が鹿児島から江戸までの旅程についてつぎのように紹介されています。 「城下から西にむかい苗代川、川内を抜け出水で薩摩に別れを告げ、八代の海を左に眺めつつ北上し、熊本から北北東へ山鹿・久留米を通り小倉から中国路を経由して大坂、京の近衛邸に入ったのが十月二日。(略)京・宇治を見物し、伏見を経つ。十五日大井川を渡り、箱根を越えて鎌倉に詣で、二十九日江戸に入る。」 なお、篤姫が鹿児島城下から陸路を通って「出水で薩摩に別れを告げ」たことは、今日(2007年7月7日)の鹿児島の地元紙「南日本新聞」に載った「篤姫ゆかりの掛け軸公開」と題された記事からも裏付けられるようですよ。 同記事によりますと、出水市野田町下名の旧家に伝わる篤姫ゆかりの掛け軸や「篤姫からの頂き物」の旅だんすを所有者の濱田綱正さん(東京都在住)が出水市で報道陣に公開したそうです。 所有者の濱田綱正さんの話によると、「濱田家は野田郷の郷士年寄で明治期に東京に移った」そうですが、「篤姫さま輿(こし)入れの際に一番の掛け軸でもてなした」という祖父の話を思い出して調べてみて判明したとのことです。 それで、篤姫ゆかりの掛け軸ですが、この記事によりますと、「篤姫が1853(嘉永6)年、鹿児島を離れるときに見たとされる掛け軸」だそうで、「白鹿を従えた寿老人や松、旭日など吉祥の図柄を、室町期の雪舟風に描く。作者は不明。軸の裏にあった由緒書きには『篤姫様』が『公儀江御縁與ニ付嘉永六年八月御通行之節』に見たことが書かれている。野田郷は参勤交代の際の休憩地で、篤姫は同月21日に鹿児島を出発した記録がある」とのことです。また、「たんすは質素な造りで化粧箱と思われる。篤姫が『江戸では使わない』と置いていったという」とのことです。 同記事は南日本新聞の公式サイトにも「篤姫ゆかりの掛け軸公開 専門家『鹿児島最後の足跡』」と題されて掲載されています。
2007年07月07日
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emiさん、初めまして、やまももです。 拙文「福昌寺跡のキリシタン墓地」等を読んでくださって、このブログの掲示板へつぎのような書き込みをわざわざ寄せてくださり、本当にありがとうございました。「福昌寺とキリシタン墓地は幼いころの遊び場でした。特に十字架の刻まれている石棺は吸血鬼のお棺で夜になると出てくると信じて怖かったことを覚えています。高校も玉龍を卒業して、今もすぐそばに住んでいます。ポロちゃんとよく似た芝犬を連れてよく福昌寺まで散歩に行っているのでとても楽しく読ませていただきました。鹿児島の歴史おもしろいですね。天璋院篤姫鹿児島の女性のすばらしさにうれしくなりました。宮尾登美子さん作だけでなくほかの方が書いた本もあるんですね。また探してみたいと思います。これからも楽しみにしています。 」 幼い頃から福昌寺の近くで暮らしておられ、いまもすぐそばに住んでおられるとのことですね。できましたら、そんな emiさんならでは福昌寺に関する思い出やご意見をまたいつかお伝え願えたら有難いと思います。 ところで、天璋院篤姫について、「宮尾登美子さん作だけでなくほかの方が書いた本もあるんですね。また探してみたいと思います」とも書いておられますね。小説としては、梅本育子『天璋院敬子』(双葉社、1997年4月)があり、そのことについてはこのブログに「梅本育子『天璋院敬子』の紹介」と題して載せています。また最近になって、史料から実像に迫ろうとする寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房)が出版されていますね。 なお、今日(2007年7月5日)の「南日本新聞」のコラム「南風録」には、天璋院篤姫についてつぎのようなことが書かれていましたよ。「宮尾登美子さんの小説『天璋院篤姫』に、幼い姫が指宿の浜で兄をかばって漁師の少年に砂を投げる場面がある。豪胆な性格を示す逸話だが、残念ながら作者の創作らしい▼来年の来年のNHK大河ドラマのま人公となる篤姫は指宿の今和泉島津家出身。十三代将軍徳川家定の正室となり幕末の激動期に歴史の表舞台に出る。ところが指宿や鹿児島での様子を示す幼少期の記録ははとんどないという▼史料から実像に迫る『天璋院篤姫』(高城書房)を出版した尚古集成館(鹿児島市)の寺尾美保学芸員によると、篤姫の存在が最初に記録に表れるのは将軍の花嫁候補となる十七歳のころ。それ以前については想像するしかない」 また、この「南風録」の記事には、「鹿児島を全国にPRするチャンスだと思う一方で、史実とドラマや小説が混同されて定着してしまうのではないか、と一抹の不安も覚える▼庶民の味方水戸黄門といえば、諸国漫遊世直しの旅でだれもが知っている。しかし実在した水水戸光圀が全国を旅した事実はない。信じている人が多いとすれは長年続くテレビドラマのなせる業だろう」としています。しかし、ドラマに興味を持たれた方のなかに、史実はどんなんだろうかとそれを知りたく思われる方が出てくるに違いありません。私もその一人ですが、いろいろ自分なりに調べてこのブログに載せて行きたいと思いますので、どうか引き続きご覧下されば有難いと思います。
2007年07月05日
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篤姫が西郷隆盛宛てに出した嘆願書のことはこのブログで何度か紹介しています。例えば、「『その時歴史が動いた』で紹介された篤姫の嘆願書」では、NHKのTV番組で紹介された天璋院の嘆願書について私なりの見解を述べたりしています。 ところで、この嘆願書はいつ頃出されたものでしょうか。最近刊行された寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、2007年6月)では、「官軍隊長宛の天璋院嘆願書として知られる」この書状のことについてつぎのような解説をしています。「天璋院は江戸城から着の身着のままで離れる前に、一通の書状を西郷隆盛宛にしたためていた。官軍隊長宛の天璋院嘆願書として知られるその書状は、江戸城無血開城の約一ケ月前に西郷に届けられたとされるものである。 国立公文書館に残る二通の書付『天璋院様附御年寄つほね初帰府之儀申上候書附』と『天璋院様為御使つほね東海道筋江被差遣候二付為差』によれば、天璋院付女中七人と御広敷番など男性五人が天璋院の書状をもって三月十一日江戸城を出て、十三日にもどったことがわかる。おそらくこの時、持参した書状が官軍隊長宛の嘆願書であろう。」 天璋院が官軍隊長宛に書いた嘆願書をもった使者は慶応4年3月11日(1868年4月3日)に江戸城を出て13日に戻っているようですね。しかし、すでに同年の3月9日(1868年4月1日)に勝海舟から派遣された山岡鉄舟が新政府軍の本陣がある駿府で西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合いを行っており、さらに勝海舟自身が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見しています。こうして新政府軍の江戸総攻撃は中止され、江戸城無血開城が実現しています。海舟はこのときの思いを日記につぎのように書いています。「無偏無党、王道堂々たり。今、官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我、徳川氏の土民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。」 この海舟の「皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり」という言葉は、中国の古典『詩経』の「兄弟鬩于牆、外禦其務」(けいていかきにせめげども、そとそのあなどりをふせぐ)を踏まえたものです。海舟は、自分たちが徳川家に仕える人間でありながら官軍に恭順するのは、「現在の日本の形勢は昔と違って同胞が争っている場合ではなく、外国からの侵略の危機に一致団結して立ち向かわねばならないことを認識しているからである」と言っているのですね。 NHKのTV番組「その時歴史が動いた」の「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」では、天璋院の西郷宛の嘆願書が江戸城無血開城に大きな役割を果たしたと解説しているのですが、あんまり過大に評価するのはどうかなと思います。徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いで惨敗した後、部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、慶応4年1月23日(1868年2月16日)に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁(忠寛)を会計総裁に起用しています。この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せているのですね。 勿論、旧幕府の代表となった勝海舟の和平路線に従って出された天璋院の嘆願書もそれなりの意味があったとは思いますが、やはり薩長も徳川も国内の内乱が激化することによる欧米列強の干渉、侵略を危惧し恐れたことが西郷隆盛と勝海舟の和平会談に繋がったのではないでしょうか。それに、天璋院はこの書簡でただひたすら徳川家の存続を嘆願しているだけです。 なお、これらのことは拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院と篤姫』と鹿児島」に追加しておきました。
2007年07月01日
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寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、2007年6月)の書中に、「明治三十六年に出版された夏目漱石の『吾輩は猫である』の中にも『天璋院』の言葉が登場している。これを見ると、漱石が天璋院に対して親しみを感じていたことが伺える」としています。 では、夏目漱石の『吾輩は猫である』のどこに「天璋院」が登場するのか、みなさんはお分かりになるでしょうか。著作権の切れた文学作品をオンライン上で公開しているサイト「青空文庫」で『吾輩は猫である』を調べてみましたら、例の「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と言っている猫が新道の二絃琴の御師匠さんの家で飼われている美貌猫の三毛子をお正月に訪問したときに「天璋院」の名前が出て来ることが分かります。 漱石の名無しの権兵衛猫が三毛子に彼女のご主人の二絃琴の御師匠さんのことを質問して、「その御身分は何なんです。いずれ昔しは立派な方なんでしょうな」と訊いたときに、三毛子はつぎのように答えています。「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」 三毛子の説明に対して、名無しの権兵衛猫は「何だか混雑して要領を得ない」ようでしたが、私も吾輩猫の頭とそう大して違いのないポンコツ山のタヌキ頭なので、残念ながら同じく「何だか混雑して要領を得ない」のですが、それでも新道の二絃琴の御師匠さんが「天璋院様」となんらかのかかわりがあることをとても誇りに思っていることぐらいは分かります。 夏目漱石は自ら「僕はこれでも江戸っ子だよ。しかしだいぶ江戸っ子でも幅のきかない山の手だ、牛込の馬場下で生まれたのだ」と言っていますが、当時の江戸っ子たちの意識をよく知っている作家です。ですから、二絃琴の御師匠さんが「天璋院様」との何等かの関連があることをとても自慢にしていることをユーモラスに表現することにより、当時の東京の住人たちが天璋院に対して親愛の情を持っていたことをそれとなく伝えているように思われますね。
2007年06月29日
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2007年6月になって新たに出版されました寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、2007年6月)を一応読了しましたが、これまで私が自分なりに調べても判らなかったことが幾つも判明しました。例えば、篤姫がとこで生まれたのかということですが、同書にはつぎのように書いてありました。 『源姓嫡流今和泉家系図』によると、「府第に於いて生まれ」とあるとし、彼女が鹿児島城下で生まれたとしています。ただし、今和泉家には篤姫が生まれた当時、鹿児島城下につぎの5つの屋敷があったと思われるそうです。 上屋敷(現鹿児島市大竜町)、下屋敷(同市清水町)、下屋敷(同市浜町にあり「鶴江崎屋敷」「浜屋敷」ともいう)、下屋敷(同市清水町にあり「田之浦邸」ともいう、下屋敷(同市清水町) また、同書は領地の今和泉にも屋敷があったとしていますが、「篤姫が日常をどこで暮らしていたかについての記述は、『嫡流系図』にもなく現時点では不明であるが、状況から考えれば、城下の上屋敷を基本の住まいとし、鶴江崎などの下屋敷や、領地にも必要に応じて訪れたと思われる。領地の今和泉には、上屋敷・下屋敷のいずれからも舟で行くことができるので、比較的往復しやすい距離であったと推測される」としています。 この他にも興味深い記述がたくさんあり、今後は拙ホームページの「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の記述にできるだけ反映させていこうと思っています。
2007年06月17日
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今日、書店で寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、2007年6月)が置いてあることに気づいて購入してきました。 著者の寺尾美保氏は島津家に関する歴史資料館である尚古集成館の学芸員の方で、「本書では、可能な限り歴史資料に基づきながら篤姫の人物像を浮かび上がらせたい」と書いておられます。 私はまだ読み始めたばかりなのですが、沢山の史料を使って実証的に考察を行っておられるようで、私の知りたかった篤姫関連の史実がいろいろ判明しそうです。読了しましたら、またこのブログでそれらの点について詳しく紹介させてもらいたいと思っています。
2007年06月13日
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