不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

2010/05/02
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カテゴリ: 日本旅行記
◇だいぶん歩いて「ゆい桜えび館」にも行きましたが、人が多かったので訪れませんでした。
裏道を歩いて 由比本陣公園 へ訪れました。
ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。
由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。
屋敷の広さは、間口60m、奥行73m、面積は4300平方mあります。
この地に由比宿が定められたのは、1601年に徳川家康によって伝馬三十六匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場など整備されていきました。
また、ここに本陣がおかれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が1560年に主君・今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死し、その子・権蔵光広が帰農して、この地に永住したことに始まります。
母屋や表門は明治初年に解体されました。
左手奥にある日本建築は明治天皇がご小休された離れを復元したもので、記念館「御幸亭」(みゆきてい)といいます。


説明看板によると、何も残ってないって事ですね(笑)。
本陣が出来た経緯などは、珍しく書かれていました。
先祖も今川義元の配下の武将だったらしいのも書かれていました。

「御幸亭」の入館料は、150円でした。
お茶も戴き、一休みしました。
茶室などもありますが、天窓がある所から現代向きな造りがしました。

東1d本陣跡公園

本陣前に「正雪紺屋」(しょうせつこうや)があります。
江戸時代初期から続いている染物屋です。
由比正雪(1605~51)の生家ともいわれています。

少し寄った程度です。

ここから由比駅へ行くよりも蒲原駅へ行く方が近いので歩いていきました。
まあまあ距離があります。
途中に「御七里役所之跡」の碑が壁に埋まってありました。
江戸時代、西国大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つものがあった。
ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。
同家では江戸・和歌山間(584km)に約七里(28km)の宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。
主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。
これには剣道・弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜・下り竜の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら従来した。

飛脚の話もあまり聞かないので、こういうのもあったんだな~と思いました。
御三家なら専属もあったでしょうね。

少し歩くと「由比宿東枡型跡」の説明看板がありました。
町中ですので道も広げていますが、少しだけ枡型の跡が残っています。
説明看板が無ければ、わからなかったでしょうね(笑)。
蒲原駅まで、歩いていきました。

東海旅行-1-東海道周辺 で訪れた所


東海旅行1は、まだ続きます





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Last updated  2010/05/02 07:47:40 PM
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