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崇神天皇の宗教・人事改革の第一歩は、『古事記』によると、オオタタネコの抜擢でした。きっかけは夢のお告げであったと、書かれています。大物主ことニギハヤヒが夢に出てきて、「私を祀るのにオオタタネコを起用せよ」と告げたと言うんですね。早速、臣下を使ってオオタタネコを探させたところ、河内(大阪)の美努(みの)村にいるといいます。そこでオオタタネコを呼び寄せて、崇神は最終面接して採用するかどうかを判断することになりました。「そなたは誰の子か」と崇神が問うと、オオタタネコは「私は大物主大神がスエツミミの娘イクタマヨリビメを妻として生んだ子、名はクシミカタ、その子イイカタスミ、その子タケミカヅチ、その子、それが私オオタタネコです」と答えたといいます。当時は血筋がすべてですから、一発採用です。「これで天下は太平となり、人々は栄えるであろう」と崇神は大喜びして、オオタタネコを三輪山の大神を祀る神主とする異例の大抜擢をしたんですね。これが一つ目の宗教改革。でも、ちょっと待ってください。どうしてオオタタネコでないといけなかったんでしょうね。ただ単に、ニギハヤヒの直系であれば、ほかにも候補者がいたはずです。それにオオタタネコが語った系図も何かおかしいです。次回はこのオオタタネコの正体に迫りましょう。(続く)
2018.10.31
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最終的には崇神天皇が三部族の血統のバランスを取り戻すのですが、それ以前にもアンバランスを修正しようとした試みはありました。その話をする前にまず、神武が建国した「新大和王朝」の王統に入れなかったナガスネヒコ一族がどうなったかを見ていきましょう。ちなみに竹内氏によると、ナガスネヒコ一族は、秦の始皇帝の時代に蓬莱の国に不老不死の薬を探しに旅立ったまま復命しなかった徐福の子孫だそうです。その根拠は何かと竹内氏に問いただしたところ、「神武の兄であるイツセの命を奪った矢は、中国で使われていた強力な弩(ど)という弓の矢であったからだ」と言います。確かに徐福の子孫であれば、強力な武器を持っていたとしても不思議ではありませんね。さて、系図をご覧ください。そのナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメとニギハヤヒが結婚して、ウマシマジとウマシホヤヒメが生まれました。ウマシホヤヒメは天香山と結婚して、五多手(イタテ)を儲けます。そのイタテの子が天忍男(アメノオシオ)で、アメノオシオの娘が第五代孝昭天皇の后となったヨソタラシヒメですね。ヨソタラシヒメは『古事記』によると、後の第六代孝安天皇を産んだことになっています。ここでようやく、ナガスネヒコ一族の血が大和王朝の血統に入りました。血統のバランスが当初の「和」に近づいたわけです。しかし、これだけではまだ足りませんよね。特にウマシマジの血統からはまだ王統には誰も入っていません。こちらの系図を見ていくと、ウマシマジの子・彦湯支(ヒコユキ)から出石心大臣(イズシココロノオオオミ)が生まれ、その子・大矢口宿禰(オオヤグチノスクネ)と続きます。そのオオヤグチの娘ウツシコメが第八代孝元天皇の后となり、第九代開化天皇の母親となります。ここまで来れば、ナガスネヒコ一族の血統もかなり安泰ですが、実はこれだけでは終わっていないんですね。オオヤグチの子オオヘソキの娘・イカガシコメも、第八代孝元天皇の側室になってヒコフツオシノマコト(武内宿禰の祖先)を儲けただけでなく、イカガシコメは第九代開化天皇の正妃となって、第十代崇神天皇となるミマキイリヒコを産みます。つまり、崇神天皇の母も父も、ナガスネヒコ一族であるミカシキヤヒメの直系であったことになるんですね。その崇神天皇が宗教改革を断行したわけです。(続く)
2018.10.30
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崇神がどのような人事・宗教改革をやったかの説明の前に、大和の事代主は一体誰であったのかという問題に一応の決着を付けておきましょう。オオナムジの息子であるコトシロヌシ(出雲の事代主)は海に没したことになっていますから、候補からは外れることは既に述べた通りです。それ以外に事代主になりえたのは、私の考えでは二人います。オオヤマクイとタケツノミです。タケツノミはオオナムジの子ですから、出雲のコトシロヌシに代わって事代主の役職をもらった可能性があります。オオヤマクイも、出雲の国譲りとともに出雲国が事実上平定されたわけですから、事代主のタイトルがニギハヤヒの大和国に移ったと考えれば、十分にありえますね。ではどちらが事代主になったのか――。その答えは、どちらがイスズヒメの父親か、という問題の答えでもあります。ここが実は非常に微妙なんですね。タマヨリヒメがイスズヒメを宿した後、オオヤマクイが亡くなり、タケツノミがタマヨリヒメと再婚したというケースが考えられるからです。結構、このような複雑な親子関係は古代においては多かったと思われます。鏡王女も、はじめ天智天皇の妃でしたが、後に藤原鎌足の正妻となって、藤原不比等を産んだとされています。果たして、不比等は鎌足の子なのか、それとも天智の子か。同じように、イスズヒメが生まれた時の父親が、タケツノミだっただけで、オオヤマクイの子である可能性があるわけです。もちろんイスズヒメがタケツノミの子であることもあり得ます。結論はDNA鑑定でしかわかりませんね。その問題はさておき、崇神天皇がこのような人事・宗教改革を断行したかに話を戻しましょう。(続く)
2018.10.29
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今日の系図は、竹内氏の『帝王日嗣』を参考にして私が作成したものです。イスズヒメがタケツノミの子であるか、オオヤマクイの子であるかは別にして、神武とイスズヒメには、既に三部族以上の王の血統がそれぞれ入っていることが系図を見るとよくわかります。神武にはスサノオ(出雲族)、アマテラス(日向族)、オオナムジ(出雲族)という三部族のほかにニギハヤヒ(大和族)とオオワタツミ(海神族)が加わっていますね。一方のイスズヒメも、タケツノミが父親だとすると、スサノオ、アマテラス、オオナムジのほかに、やはりオオワタツミの血統が加わっています。オオヤマクイが父親の場合でも、アメチカルミヅヒメ(日向族)、スサノオ(出雲族)、ニギハヤヒ(大和族)、オオワタツミ(海神族)の王統が入っていることになります。大和三山や三輪山は、大きく分けて三部族が和合した象徴なのです。このことからもわかるように、神武が初代天皇に即位した「大和(やまと)」は、大きな和、すなわち大連合がなったことを意味しているのです。しかし、その大連合の系図を見ても、神武にもイスズヒメにも、大和族の王(大将)であるニギハヤヒに仕えた副将・ナガスネヒコ系の血は全く入っていませんね。ニギハヤヒはナガスネヒコの妹・ミカシキヤヒメと政略結婚し、ウマシマジとウマシホヤヒメが生まれます。ウマシホヤヒメは天香山(あめのかぐやま)と結婚しますが、あくまでも第二夫人。大和族の王統には入れませんでした。ここに不和が生じる火種が残されたことになります。そして後に、このアンバランスを見事に解消したのが、崇神天皇であったわけです。(続く)
2018.10.28
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今日の系図は、「タマヨリヒメがタケツノミと関係があった」とする、竹内氏が口伝継承したという『帝王日嗣』が正しいと仮定した場合の系図です。ここで最大の問題となるのは、では神武妃となったイスズヒメの父親は誰か、ということです。母親は琉球王・大綿津見の娘、タマヨリヒメです。口伝が正しいとすると、タマヨリヒメはタケツノミと結婚し、かつオオヤマクイとも結婚した可能性が出てくるんですね。重婚みたいなものです。そんなことがあったのかと思うかもしれませんが、古代においては結構ありました。アマテラスがそうでした。スサノオともオシホミミとも結婚しました。イカガシコメは孝元天皇とも開化天皇とも結婚しています。もっとも、どちらのケースも夫に先立たれた後の結婚ですから、重婚ではなく再婚です。タマヨリヒメの場合も、その可能性があります。最初にオオヤマクイと結婚して、賀茂別雷神を産みましたが、その後、オオヤマクイが神去ったときに、タケツノミと再婚したケースが考えられます。それを示唆しているのが、『山城国風土記』逸文の記す賀茂伝説です。賀茂別雷神が成人したとき、「父と思う人に酒を飲ませよ」とタケツノミに問われると、賀茂別雷神は屋根を突き破って天に昇っていったと書かれています。つまり、父親は既に昇天したと解釈できるんですね。そこで未亡人となったタマヨリヒメをタケツノミが娶ってイスズヒメが生まれたというシナリオが成り立つわけです。実はそれを補強する動かぬ証拠もあります。その証拠こそ、大和盆地に揺るぎなく鎮座する大和三山です。大和三山とは畝傍山、天香久山、耳成山ですね。なぜ大和三山がイスズヒメの父親がタケツノミであることの証拠になるのか、と不思議に思われるでしょう。でも、神武の父親の名がそこにあるでしょう。そう、アマノカグヤマです。熊野久須毘こと天香山が、天香久山となって神武の畝傍山を守っているわけです。ではもう一つの耳成山は、どの神の山でしょうか。一つが神武の父親の山なのですから、バランス的にはイスズヒメの父親が釣り合っているように思いませんか。しかも「耳」に成ったと呼ばれています。どこかで、耳の付く神がこの時代にいたはずです。そう、それがスエツミミであり、三島ミゾクイミミですね。アジスキタカヒコネが「神」(出雲の王統)を捨ててタケツノミとなったように、今度はタケツノミが「耳」になってスエツミミ、あるいはミゾクイミミになったと解釈ができるわけです。逆に言えば、オオヤマクイがイスズヒメの父親なら、火雷山とかになっていたのではないでしょうか。大和三山は、神武と父、そして義理の父の三つの山を指していた。そう考えたときに、大和三山は三つの完璧な護国山であることが理解できるようになっているのです。(続く)
2018.10.27
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ところで、神武が出雲系、すなわちスサノオ系などと言うのは、いまだに信じられないという人も多いのではないかと思います。実は、私も半信半疑です。事の発端は、繰り返しになりますが、竹内氏が口伝継承したと主張する『帝王日嗣』には、アマテラスの子であるとされる熊野久須毘(クマノクスビ)は、実は神武の父のウガヤフキアエズのことで、ウガヤフキアエズはスサノオ系の神であったと記録されていると、竹内氏が『古事記の邪馬台国』に書いたからです。クマノクスビは、どう考えても熊野の神ですから、スサノオ系でその神に該当するのは、「熊野の高倉下」こと天香山(アメノカグヤマ)しかいないのではないか、と私は論じました。ところが、そのように仮定すると、意外と辻褄が合ってしまうので、神武はもしかしたらスサノオ系であったのではないか、と思えてきてしまうんですね。たとえば、『古事記』には天孫(日向)族の王位継承者のニニギが大山津見の長女イワナガヒメを返したことで短命となった、と書かれています。普通、そのようなことは書きませんよね。それでも、書いたということは、日向族の王統が短命に終わったということを強烈に示唆しています。その理由はいろいろと考えられます。ニニギとコノハナサクヤヒメの間に子供ができなかったとか、生まれた子が誰の子かわからなかったとか、海幸彦と山幸彦の争いが尾を引き、正統な後継者を決めることができなかったとか、です。誰の子がわからない王子を王に据えるよりは、まだ素性のわかっているアマテラスのひ孫である天香山を日向族の正統な王にしたほうがましだ、と考えたのかもしれません。竹内氏の『帝王日嗣』によると、もう一つ重大な系図トリックがあります。それがアジスキタカヒコネの問題です。『古事記』によると、アジスキタカヒコネは瓜二つのアメノワカヒコの葬儀で使われた喪屋を切り倒すことによって、出雲族と決別しましたね。奈良にはアジスキタカヒコネを主祭神とする高鴨神社がありますが、別名は神捨篠社(かみすてささのやしろ)と呼ぶと『先代旧事本紀』に書かれています。神を捨てるとは尋常ではありませんが、「神」すなわち出雲族の王統を捨てることによって、高鴨神社のアジスキタカヒコネが、京都の下鴨神社のタケツノミになったと解釈すると。合点が行きます。どちらも賀茂の祖神ですから、どう考えても同一神です。で、問題は、このタケツノミの娘がタマヨリヒメであると『山城国風土記』に書かれているのは間違いで、本当は「タケツノミとタマヨリヒメは関係があったのだ」と竹内氏が『帝王日嗣』の極秘口伝にあると言っていることです。つまり、それを系図にすると次のようになってしまいます。この系図の説明は明日以降にすることにしましょう。(続く)
2018.10.26
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再び昨日紹介した系図を見ながら説明しましょう。今日の系図では、『山城国風土記』が正しいと仮定して、オオワタツミをタケツノミにしています。昨日は、神武の正式名称「神倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)」から神武が神系、すなわちスサノオ系であることがわかる、という話までしました。もっと、詳しく言うと、神武の正式名称から、神武は「神族」と「大和族」の合体によって生まれた神であることもわかります。系図を見てください。神武の母親であるトヨタマは、スサノオとアマテラスの直系ですから半分は神族です。しかし大和族ではありませんね。大和族の王は、オオナムジの国作りを助けた三輪山の大物主神であるニギハヤヒですから、神族のトヨタマと、ニギハヤヒの子である天香山(アマノカグヤマ)が結婚して生まれた神武は、「神」と「倭(大和)」であるわけです。このように神々の正式名称を調べると、系図がわかるようになっているのです。大和族の(大香山)オオカグヤマは、日向族の養子に入って天香山になった、と読めます。両親とも純粋な神族であったニギハヤヒは、日向族のアメチカルミヅヒメを妃に迎えることによって、天火明となって日向族の系図に組み込まれました。このときニギハヤヒは、「火」と「雷」の称号を得たので、アメチカルミヅヒメとの間に生まれたオオヤマクイは「火雷神(ほのいかずちのかみ)」と呼ばれました。オオヤマクイは父・大物主を補佐する「大和の事代主」であった可能性もあります。ただし「大和の事代主」にはもう一人候補がいます。それはタケツノミです。その「火雷神」と、タケツノミの娘タマヨリヒメとの間に生まれた子が、鴨王こと賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)です。タケツノミの娘から「賀茂」をもらい、オオヤマクイから「雷」を分けてもらったということですね。同時に、賀茂の祖神であるタケツノミ(迦毛大御神)の孫なので「鴨王」と呼ばれました。また、鴨王の正式名称「天日方奇日方」の「奇」は、ニギハヤヒの正式名称の中にある「櫛玉」=「奇霊」から取った大和族の王統を指しますから、文字通り「天族」と「奇族」、すなわち日向族と大和族のハイブリッドであることを示しています。タケツノミは下鴨神社の、鴨王こと賀茂別雷神は上賀茂神社のご祭神になっています。ちなみに、『帝王日嗣』の口伝継承者であるとする竹内氏によると、上賀茂神社はまったく同じ造りの正殿と権殿が左右に並んでいますが、一つには賀茂別雷神が祀られ、もう一つには神武(神倭伊波禮毘古)が隠されて祀られているのだそうです。神武の母と鴨王の母は姉妹ですから、いとこ同士の神が祀られていることになりますね。(続く)
2018.10.24
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手書きですが、これまで話した系図を簡単にまとめてみました。初めはスサノオとアマテラスの政略結婚から始まっています。その結婚で生まれた長女タギリと三女タギツを娶ったのが、スメル(シュメール)および古代イスラエルの末裔とみられるオオナムジ。タギリとオオナムジの間に生まれたのが、アジスキタカヒコネですが、出雲族と決別して、別名八咫烏ことタケツノミとなります。ここでは点線で「大綿津見」となっていますが、タマヨリヒメの父親がタケツノミであるとする『山城国風土記』が正しいとすると、大綿津見は海軍大将の意味でタケツノミが大綿津見であったことになります。一方、系図上大活躍しているのが、政略結婚をしまくったオオトシことニギハヤヒです。上の系図にも二か所で登場しています。そう言えば、『古事記』のオオトシの神裔はとても長かったですね。日向族のアメノチカルミヅヒメを娶って生まれたのは、丹塗り矢ことオオヤマクイ。ちなみにアメノチカルミヅヒメは、タカミムスビ(タカギカミ)の娘ミホツヒメの可能性があります。ニギハヤヒは、ナガスネヒコの妹であるミカシキヤヒメと政略結婚しただけでなく、高照姫とも結婚しています。高照姫は『古事記』のオオトシの神裔に記されている香用姫である可能性が高いです。で、その香用姫から生まれたのが、天香山です。別名は熊野の高倉下。竹内氏の口伝が正しいとすると、神武の父ウガヤフキアエズは熊野久須毘で出雲系の神であるとのことでしかたら、まさに熊野の神である天香山がウガヤフキアエズに該当するわけです。神武が熊野で苦境に陥ったときに助けたのは、高倉下の武力(武器庫)でした。さらに神武を先導したのは、神武の母方の祖父・ヤタガラスということになりますね。神武は出雲族の神たちに守られていたわけです。その証拠に、神武の正式名称は「神倭伊波禮毘古」です。既に説明したように、日向系は「天」を出雲系は「神」を頭に付けるでしょ。神武は、実は出雲系の王であったという動かぬ証拠となるわけです。(続く)
2018.10.23
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ウガヤフキアエズは、本当は何者なのか。そのヒントとなる条件は、アマテラスの血統をもち、かつスサノオの血を受け継ぐ出雲の神です。その該当者は、私が知る限り少なくとも一人います。それは天香山(あめのかぐやま)です。「天香語山」、「天賀吾山」などとも書かれるため、「あめ(ま)のかごやまのみこと」とも呼ばれたりします。天香山は、ニギハヤヒと天道日女(あめのみちひめ)との間に生まれた神ですね。ニギハヤヒは、神スサノオと神大市姫との間に生まれた生粋の出雲の神です。名前の前に付ける「神」は出雲族系の神であることを示すからです。一方、名前の前に付ける「天」は日向族系の神であることを示します。ということは、天道日女は日向族系の女神です。あとは天道日女がアマテラス直系の女神であることがわかれば、天香山が該当者になります。結論を言うと、天道日女は十分にアマテラスの直系である可能性があるんですね。では誰かと言うと、一番可能性が高いのが、タカテルヒメです。おそらく別名は香用姫(かよひめ)です。その根拠は、第一にタカテルヒメが、オオナムジと宗像三女神の一人であるタキツヒメとの間の子であることです。宗像三女神はスサノオとアマテラスの政略結婚で生まれた子ですから、アマテラスの直系になりますね。第二に、タカテルヒメの正式名称が「高照光姫大御神」と「大御神」という名称がつけられていることです。どう考えても、アマテラスの直系以外に「大御神」は付けられないはずです。ちなみにアジスキタカヒコネも「迦毛大御神」と呼ばれますが、この神もまた宗像三女神の一人であるタギリヒメから生まれています。では、なぜタカテルヒメが香用姫なのかというと、オオトシことニギハヤヒの神裔に、天香山とみられる「大香山戸臣神」がニギハヤヒの子供として登場しますが、その母親が香用姫と書かれているからです。香用姫の「香」を取ったからこそ、大香山としたことは明白です。ちなみに「大」はオオトシから取られたと思われます。で、大香山が日向族に養子に入ったので、天香山となった。おそらく日向族の男系の王統は、ホデリ(海幸彦)とヒコホホデミ(山幸彦)との権力闘争などで疲弊して、王統としての力が弱くなってしまったのではないでしょうか。そこで仕方なく、アマテラスの直系である天香山を養子にして日向族の系図に組み入れたというわけです。この天香山こそ、「熊野久須毘」ことウガヤフキアエズの正体ではないでしょうか。しかも決定的な根拠は、天香山も熊野の神であるということです。『古事記』に登場する「熊野の高倉下(たかくらじ)」がこの神の別名です。『先代旧事本紀』の「天神本紀」にも、天香山は、ニギハヤヒの天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、「天孫本紀」では、紀伊国の熊野邑(くまのむら)に住み、別名を「手栗彦命(たくりひこ-)」、または「高倉下命」という、と書かれています。このように、ウガヤフキアエズの別名がなぜ出雲系なのかの理由は、天香山を養子に組み入れたからなのですが、それではあまりにもあからさまだったので、「熊野久須毘」はウガヤフキアエズのことである、という口伝だけを『帝王日嗣』に残したというのが真相のように思われます。次回はここまで話した系図を整理して行きましょう。(続く)
2018.10.21
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前回説明しきれなかったウガヤフキアエズの謎について、説明しましょう。記紀神話を信じるならば、ウガヤフキアエズは山幸彦で知られるヒコホホデミ(彦火火出見)の子で、母はトヨタマヒメです。私も長いこと、そのように解釈しておりました。しかし、そこに疑問の声を投げかけたのが、正統竹内文書の口伝継承者・竹内睦泰氏です。竹内氏の主張によると、彼が継承した口伝は、奈良時代に散逸したとされる『帝王日嗣』であり、その系図によると、誓約(うけい)で生まれたアマテラスの五人の息子のうち、最初に生まれたオシホミミはスサノオとの戦いで戦死したアマテラスの夫であった、といいます。他の四人(アメノホヒ、アマツヒコ、イクツヒコ、クマノクヒ)はアマテラスとオシホミミから生まれた子供たちだったというんですね。しかも、アマツヒコは記紀で言うニニギのことで、イクツヒコがヒコホホデミ、クマノクスヒはウガヤフキアエズであるとも言います。つまり本当は、四人は兄弟たちで、系図では横に広がっているのを、親子のように見せかけて縦の系図に改ざんして、王朝を長く続いたかのように見せかけたというんですね。横を縦に、縦を横にする系図改竄は、結構あるのだと、竹内氏は言います。それはそれで構わないのですが、問題はウガヤフキアエズの別名であるクマノクスヒ(熊野楠日)が実は出雲系、スサノオ系の名前だと、竹内氏が断言していることです(『古事記の邪馬台国』29ページ)。確かに熊野大社のご祭神はスサノオとされていますから、「熊野」は明らかに出雲系です。竹内氏の口伝が正しいとすると、なぜ出雲族の神が日向族の神になっているのかが、大きな謎であり、問題なんですね。神武がウガヤフキアエズの子であるならば、神武も出雲族の子となってしまうからです。しかしながら、この難問を解決する方法もあるんですね。どういうことかと言うと、アマテラスの直系でなおかつスサノオの直系である「熊野の神」を探せばいいのです。アマテラスの直系であれば日向族ですから、アマテラスの系図に入れてもそれほどひどい改竄とはなりません。それなら、出雲族の神を婿養子にもらった可能性もあります。おそらくそれが、ウガヤフキアエズが何者かの答えです。次回はそれが何者であるのかを紐解きましょう。(続く)
2018.10.20
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神武の父であるウガヤフキアエズは、海神族・オオワタツミの娘タマヨリヒメを正妃としたことになっています。これが混乱を来す原因でもあります。というのも、タマヨリヒメはほかにもいるからです。魂が依るのですから、巫女の役職名だからしょうがないのですが、同時期に同じ肩書き(玉依)の巫女が複数登場するから解釈が困るんですね。そのもう一人のタマヨリヒメというのが、既に紹介したミシマミゾクイ(スエツミミ)の娘のタマヨリヒメです。神武と結婚したイスズヒメの母親ですね。で、さらに混乱に拍車をかけているのが、賀茂伝説(「山城国風土記」逸文にみえる賀茂神社の縁起譚)でタケツノミの娘がタマヨリヒメであったとされていることです。仮にもし、この同時代の三人のタマヨリヒメが同一人物だとしたら、どういうことになるかというと、タケツノミはミシマミゾクイであり、オオワタツミであった、という結論に至ります。すると、記紀神話の物語自体が破たんしてしまうんですね。海神の国にいた王が、八咫烏ことタケツノミになってしまいます。また、神武は同母異父妹と結婚したことになりますね。しかしながら、これを矛盾なく説明することも可能です。ウガヤフキアエズが結婚したのは、タマヨリヒメの姉であるトヨタマヒメで、神武が誕生した後に姉が亡くなったので妹のタマヨリヒメが乳母として神武を育てたとすることです。このプロットは、記紀神話ではウガヤフキアエズに使われています。実母が出産後に海帰ったので、妹のタマヨリヒメが乳母としてウガヤフキアエズを育てた。そしてこともあろうに、ウガヤフキアエズは自分の乳母と結婚して神武らを生んだと記紀神話は言います。まあ、なくはない話ですが、ちょっとひどいプロットですよね。だけど実は、ウガヤフキアエズではなく神武のときにタマヨリヒメが乳母となったとすればいいのです。つまり、神武とイスズヒメは同母異父兄弟ではなくて、従兄妹(いとこ)婚になりますね。実はこの系図に関係する口伝が正統竹内文書に残っているそうです。タマヨリヒメは神武の正母ではなく、乳母であった、と。ここから類推されることは次の通りです。・オオワタツミの長女トヨタマヒメはウガヤフキアエズと結婚して、神武らを儲けた。・オオワタツミの次女タマヨリヒメはオオヤマクイと結婚してイスズヒメとクシミカタ(鴨王)を儲けた。では、タケツノミはミシマミゾクイであり、オオワタツミだったのでしょうか。その答えはわかりません。ただ、オオワタツミとは海軍王の称号のようなものだとしたら、八咫烏ことタケツノミがオオワタツミであってもおかしくはありません。で、タケツノミはアジスキタカヒコネなどいくつもの別名をもっていましたから、三島ミゾクイでも、スエツミミにもなりえるわけです。アジスキタカヒコネは古代イスラエルの血統を持つとみられるオオナムジの子ですから、既に神武にもその正妃イスズヒメにも古代イスラエルの血が入っていたという可能性が浮上するわけです。(続く)
2018.10.19
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と、ここで蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)のご祭神に話を戻しましょう。天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)はニギハヤヒの可能性が高く、三部族和合の立役者ですから、秦氏が祀るのも不思議はありませんね。では、次の5柱は秦氏とどのような関係があったのでしょうか。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)大国魂神(おおくにたまのかみ)穂々出見命(ほほでみのみこと)鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)瓊々杵尊(ににぎのみこと)この中で面白いのは、天之御中主神です。『古事記』で、天地開闢のはじめに高天原に最初に出現、天の中央に座して宇宙を主宰した神です。造化三神の一柱とされていますね。どうして面白いかと言うと、この神が一番一神教の神に近いからです。なにしろ宇宙の中央に座している神ですから、ユダヤ教でいうところの宇宙の統治者ヤハウェにそっくりです。もし秦氏が古代イスラエル人の末裔であるならば、当然ご祭神にするはずです。次に大国魂神。この神が誰かについては、諸説あります。オオトシの子である大国御魂神説、宮中で天照大神とともに祀られていた倭大国魂神説、大国主(オオナムジ)の別名である大国魂大神説です。オオナムジであれば同郷の先輩の可能性がありますし、オオトシ(ニギハヤヒ)の子であれば三部族和合の功労者の子ということになり、それなりに意味があります。ただし、オオトシの子とされている大国御魂神も、宮中で天照大神とともに祀られていた倭大国魂神も、どちらもスサノオの神霊のことであると思われます。つまり、「大国魂」はスサノオ系の正統な後継者の称号の意味があるのではないでしょうか。そうでなければ、アマテラスと同等に祀られるはずがありません。ニギハヤヒの正式名称から取れば、「天照」と「国照」という意味の二つの称号がアマテラスとスサノオの神霊なのです。そのほかの穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)は皆、日向族系(アマテラス系)とされる王たちです。ニニギは天孫降臨の際、古代ユダヤ人とみられる猿田彦の先導を受けましたが、秦氏と深い関係があるようには思われません。ウガヤフキアエズは、神武の父親ですから、日本に来た古代ユダヤ人にとっては遠い親戚といったところでしょうか。ホホデミは、さらに遠い親戚となってしまいます。ではなぜ、日向族の三神を秦氏は自分の神社で祀ったのでしょうか。ここでヒントとなるのは、『秦氏本系帳』でタマヨリヒメは秦氏の娘であるかのような書き方をしていることです。もし、タマヨリヒメが秦氏の娘であるというのなら、ウガヤフキアエズの母であるトヨタマビメも秦氏の娘(姉)である可能性が出てきます。しかし神話では、タマヨリヒメもその姉のトヨタマビメも、海の神であるオオワタツミの娘のはずですから、古代イスラエルとは関係がないはずです。ここが全くの謎なんですね。その謎をさらに深めているのが、ウガヤフキアエズの正体です。(続く)
2018.10.17
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三輪山の由来は非常に象徴的です。毎夜夜這いに現れる貴人の男性(神)の正体を突き止めようと、その男性の服の裾に麻糸を付けて、その糸をたどって行ったら御諸山こと三輪山に辿り着いた。そのとき、糸巻に糸が三巻き分残っていたから三輪山と名付けた、というものです。三つの輪が一つになって残ったから三輪山とは、ずいぶん文学的な表現です。一つの輪はそれぞれの部族を指すと見れば、辻褄が合いますね。三つの部族とは、イザナギが生んだアマテラス、スサノオ、ツクヨミの三部族(日向族と出雲族とユダヤ族、もしくは天族、神族、月族)の可能性が高いことはすぐにわかりますね。その三部族和合の最大の功労者が、三輪山の神である大物主ことニギハヤヒというわけです。どうして功労者かと言うと、ニギハヤヒが政略結婚をお膳立てしたからです。貴人とは火雷神・鏑矢ことオオヤマクイのことです。「糸をたどる」というのも文学的表現で、「系図を遡る」という意味ですね。ですからオオヤマクイの系図を遡ると、父親は大物主ことニギハヤヒ(オオトシ)で、さらに遡ると、神スサノオに辿り着くことを三輪山へと続く麻糸の物語にしてみせた、ということなのです。松尾大社の縁起や『古事記』を読むと、ニギハヤヒが息子のオオヤマクイの嫁にタケツノミの娘であるタマヨリヒメを選んだことがわかるようになっています。そもそもタケツノミは、古代ユダヤ人と思われるオオナムジと、アマテラスとスサノオの間に生まれたタギリヒメの間に生まれた、三部族のハイブリッドなのです。その三部族ハイブリッドの娘であるタマヨリビメと、日向族の娘アメチカルミヅヒメと出雲族出身の大和族の王ニギハヤヒの間に生まれたオオヤマクイが結婚して生まれたのが、イスズヒメです。そのイスズヒメと神武が政略結婚して、大和の地に完全なる三部族和合の統一国家ができたのではないでしょうか。ただし、ここである部族が除外されていたことが記紀の記述からもわかります。ニギハヤヒを補佐して大和の地を治めていたナガスネヒコの一族です。これが禍根を残すのですが、崇神天皇の時代に解決したことが記紀の記述などからわかるんですね。(続く)
2018.10.16
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最初に、なぜスサノオの四男のオオトシが大物主ことニギハヤヒなのかを説明しましょう。オオトシが大物主であることは『古事記』の記述からも明白です。大物主神は、「国作り」を前にして参謀のスクナヒコナを失い途方に暮れているオオナムヂを助けた神ですが、その物語の直後にオオトシの神裔(神の子孫の系統)が記されているからですね。ある神の活躍の物語が記された後に記されるのが神裔ですから、当然大物主はオオトシのことであったとわかるわけです。では、どうして大物主がニギハヤヒであることがわかるかというと、大物主の正式名称が倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)で、『日本書紀』でもオオモノヌシは「お前(オオナムヂ)の奇魂(くしたま)」であると答えているからです。「櫛甕魂」と「奇魂」は「櫛玉」のことです。で、この「櫛玉」の称号を持つ神と言えば、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこ あめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」しかいません。また、大神神社の由緒では、オオナムヂの和魂(にぎたま)であるとしていますが、「ニギ」はまさにニギハヤヒの「ニギ」にほかなりません。オオトシ=大物主を系図から読み解くこともできます。『古事記』によると、三嶋湟咋(みしまのみぞくい)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という美人を気に入った美和(三輪)の大物主神は、赤い丹塗り矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いたといいます。彼女は驚き走り回ったあと、すぐにその矢を自分の部屋の床に置くと麗しい男の姿に戻ります。こうして二人は結ばれて、生まれた子が富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ-)であり、後に「ほと」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と名を変え、神武天皇の后となった、とあります。この物語では、オオモノヌシは「丹塗り矢」に姿を変えています。丹塗り矢は、松尾大社のご祭神で「鳴り鏑(鏑矢)」の異名を持つオオヤマクイです。で、オオヤマクイはオオトシの子ですから、オオトシの分身、すなわち「姿を変えた大物主」となります。必然的に、オオトシは大物主であり、ニギハヤヒということになりますね。ちなみにヒメタタライスケヨリヒメとはイスズヒメのことです。で、大物主ことニギハヤヒが賀茂氏と秦氏を結びつける一大功労者であったことは、三輪山の由来からもわかるんですね。なぜなら三輪山こそ、「美和」であり「三和」の象徴。すなわち、スメルに源流を持つ三部族――アマテラスの天族、スサノオの神族、ツクヨミの月族――の融和・和合のシンボルに他ならないからです。(続く)
2018.10.14
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秦氏が創建した神社の中で特に異彩を放っているのが、京都・太秦の「元糺の森(もとただすのもり)」にある「蚕の社(かいこのやしろ)」こと「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたま じんじゃ」です。既に述べたように、この神社には非常に珍しい三柱鳥居(みはしらとりい)があります。その先が神域を示す門としての二柱の鳥居とは異なり、三方向に門があることから神域を示す以外にも何か意味が隠されているように思われます。その意味は推測するしかありませんが、ある人は、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとしてこの世に表れた子なる神、そして信仰経験に顕示された精霊なる神都が、唯一なる神の三つの位格であるとしたキリスト教の三位一体を表しているのではないかとみます。確かに非常に変わった作りの神社です。境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と呼ばれる神泉があり、かつては湧水が豊富であったといいます。三柱鳥居はその池の中にあり、三柱に囲まれた中央の神座には、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代が置かれています。秦氏一族はこの池で禊をしたのではないかとされています。前出のケン・ジョセフ氏はイスラエルのヨルダン川の洗礼所と構造が似ているといいます。ご祭神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、 穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の五柱となっています。でも、社名が「木嶋(地名)に鎮座する天照御魂神の社」となっていることからわかるように、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」を祀った神社ですね。では天照御魂神とはどのような神かというと、これもわかっていません。アマテラスのことであるとする説もあれば、アマテラスとは別の神格の太陽神であるとみなす説もあります。その別神格の太陽神候補の筆頭が、オオトシこと「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこ あめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」です。正式名称にあるように、天照の称号を持った「神」です。このニギハヤヒの神こそ、賀茂氏と秦氏を結びつけた最大の功労者であるとともに、アマテラス(天族)、スサノオ(神族)、ツクヨミ(月族、一部古代ユダヤ)の部族を統合させた日本の初代統一王だったんですね。次回はそれについて詳しく論じてゆきましょう。(続く)
2018.10.13
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賀茂氏(アヂスキタカヒコネ・タケツノミ)のご先祖様であるオオナムジと、その子タケミナカタを祀る神社で、旧約聖書を彷彿とさせる祭が執り行われるように、秦氏が創建したり関係があったりする神社でも、ユダヤ的キリスト教文化が色濃く投影されているように思われます。その賀茂氏と秦氏が中心となって平安京が造成されたことは、非常によく知られた事実です。そして、平安遷都(794年)から70年近くが経った863年、疫病が流行したため朝廷は神泉苑で初めて御霊会を行ったことが記録されています。御霊会は、疫病や死者の怨霊などを鎮めるために行う祭です。ところがその後も、翌864年に富士山が大噴火を起こし、869年には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど災害が相次ぎました。そこで、全国の国の数を表す66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行いました。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされています。 で、この祇園祭が、古代イスラエルで、ソロモン王が神殿完成の際、国に伝染病が起こらないように祈り、祭りを開催したことに非常に似ていると、前出のトケイヤー氏らによって指摘されています。トケイヤー氏によると、ソロモンはその祭を、ユダヤ暦第7月の15日から8日間行ったといいます。祇園祭もほぼ同じ時期に8日間開催(昔は6月7日から14日まで、今は7月17日から24日まで)されますね。また同氏によると、祇園祭は「エンヤラヤー」の掛け声とともに始まりますが、ユダヤ人にはヘブル語で「私はヤハウェを賛美します」という意味のエァニ・アーレル・ヤーと聞こえるそうです。ところが、日本人に「エンヤラヤー」とはどう意味かを聞いても、ただ掛け声にしか聞こえませんね。実は地名などの由来も、古代イスラエル人の末裔とみられる秦一族が絡んでいる場合が多いのです。宇佐八幡のそばには「天山山地」と名付けられた山々がありますが、秦氏のかつての故郷とされる弓月国は「天山山脈」のふもとでした。また、『十字架の国・日本』を書いたケン・ジョセフ氏によると、京都の東には琵琶湖がありますが、イスラエルにも琵琶湖と同じ大きさで形もよく似たガリラヤ湖という湖があるそうです。そのガリラヤ湖は古代においては、「キネテレ湖」と呼ばれており、その意味はまさに琵琶湖という意味だそうです。次も秦氏ゆかりの寺社や名前について取り上げましょう。(続く)
2018.10.11
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宇佐神宮(宇佐八幡)を総本社とする八幡神社が、秦氏と深く結びついていることははっきりしましたが、八幡とはどういう意味なのでしょうか。宇佐八幡をはじめとする八幡神社の「八幡」は今でこそ「ハチマン」と呼ばれますが、元々は「ヤハタ」とか「ヤハダ」と呼んでいました。どうしてそれがわかるかと言うと、『続日本紀』に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」と書かれているほか、『日本霊異記』には「矢幡(ヤハタ)神」、『源氏物語』第22帖玉鬘に「ヤハタの宮」などと記されているからです。それがいつの時代からか、「ハチマン」と音読に変化したのだとされています。八幡大神は応神天皇のことであるとされている、と書きましたが、それは奈良時代以降のことで、それ以前は別の神であったと広く考えらえています。ではそのヤハダの神、あるいはヤハダの神とはどのような意味だったのでしょうか。日ユ同祖論の研究家の間では、「ヤハダ」は、元々はヘブル語の「イェフダー」、つまりユダヤまたはユダの意味であるとされています。彼らの説では、ヤハダの神はユダヤの神「ヤハウェ」ということになるわけです。その真偽のほどはさておいて、1313年に選修された『宇佐託宣集』によると、八幡神は「古へ吾れは震旦国(しんたんこく:中国の古称)の霊神なりしが、今は日域(じちいき:日本の異称)鎮守の大神なり」と託宣しているそうです。つまり外国から日本に来た神であったと神様ご本人が言っているわけです。やはりこの神も秦氏の氏神であった可能性が強そうです。ただし別系統の神と合流した可能性もあります。大隅正八幡宮(鹿児島神宮・鹿児島県姶良郡隼人町)の伝承によると、次のような由来があります。「震旦国陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)、七歳で御懐妊。父王怖畏をなして、汝未だ幼少也、誰人の子かありていに申すべしと仰せければ、我が夢に朝日が胸を覆ひ妊娠したと申し給えば、驚きて、ご誕生の皇子と共に空船(うつぼぶね)に乗せ、流れ着いた所を領とし給へと大海原に浮かべ奉る。日本大隅の岸に着き給ふ。其の太子を八幡と号す。此より船が着いた所を八幡浜と名づく。是継体天皇の御宇(5世紀半ば~6世紀初)也。大比留女、筑紫国若椙山へ飛入給ひし後、香椎聖母大菩薩と顕れ給へり。皇子大隅国に留まりて八幡宮と祀られ給へり」つまり中国の王室の流れを汲む幼き姫オオヒルメが七歳で息子を産んだことから、父王は怪しんで船に乗せて母子ともども海に流してしまいます。母子の船は日本の大隅半島に流れ着き、その息子が八幡神になったというんですね。外国の神であることは同じですが、島流しのようになった点や福岡ではなく鹿児島に漂着したことを考慮すると、別系統の可能性が高いです。面白いのは、七歳で妊娠・出産したという言い伝えです。イエス・キリストの母マリアの処女懐胎を彷彿とさせますよね。いずれにしても八幡神は、元は大陸から渡って来た神であったことはまず間違いないことなのでしょう。それが同じく大陸から渡来した秦氏の氏神「ヤハウェ」あるいは「キリスト」と合体して八幡大神となり、さらに秦氏の恩人である応神天皇や神功皇后と同一視されるようになった、ということではないでしょうか。(続く)かも
2018.10.10
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次に、これも秦氏が創建したとする説もある八幡神社を見ていきましょう。八幡神社は全国に約4万4000社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社としています。稲荷神社に次ぐ多さです。ご祭神は、誉田別尊(応神天皇)とされる八幡大神(はちまんおおかみ)、宗像三女神とみられる比売大神 (ひめのおおかみ)、それに神功皇后です。なぜ秦氏が関与したのではないかとの説があるかというと、秦一族の大量移民を受け入れてくれたのが、主祭神となっている応神天皇だからですね。秦氏が感謝の意味を込めて、応神天皇を主祭神とする神社を作ったとしても、まったく不思議ではありません。しかも、宇佐神宮の宇佐の地は、神武天皇の東征や神功皇后の三韓征伐(実際は新羅征伐)の際の重要な拠点であり、当然、朝鮮半島から逃げてきた秦一族の多くもここに住み着いたことが推察されます。新羅は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家です。で、その辰韓というのは、「秦韓」とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国ともされ、言語も秦人(秦朝時代の中国人)に類似していたと言われているんですね。ここでも一つの物語が浮上してきます。弓月の君らが当初、日本に亡命できなかったのは、新羅が邪魔したからでした。つまり辰韓から新羅に移行する過程で、秦人の難民が朝鮮半島に溢れましたが、彼らが持つ養蚕など高度な技術を流出させないようにするため、新羅が日本への移住を邪魔したというシナリオです。そこで神功皇后が新羅と戦い、さらにその子応神天皇の時代に、葛城襲津彦によって弓月の一族を救出したわけです。もちろん、違った解釈をすることもできます。新羅は秦人の国の後継国でしたが、苦役を強いた秦の始皇帝の末裔である弓月の君の一族のことを許せず、日本への亡命を邪魔した、とするものです。いずれにせよ、宇佐神宮のご祭神となっている神功皇后と応神天皇は、弓月の君を祖とする秦氏の恩人であったことに間違いがないように思われます。(続く)
2018.10.08
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秦氏が創建したとされる伏見稲荷大社のご祭神が、古代イスラエル人と関係が深い神々(人々)であった可能性について指摘しました。しかしながら、日ユ同祖論者らの中でこの神社が注目を集めているのは、「いなり」という言葉にあります。「いなり」は今日では「稲荷」と書きますが、おそらく「いななり(稲生)」の音変化ではないかとする説が有力です。その一方で、「いなり」は秦氏の氏神であり、最初は当て字で「伊奈利」と書いたのだという説も根強くあります。どちらの説にせよ、秦氏の氏神的な穀物神であったことは間違いないように思います。で、日ユ同祖論者らがこの言葉に注目する理由は、「いなり」が「INRI(いんり)」という頭文字から取ったのではないかと考えているからです。これはイエス・キリストのラテン語名称の頭文字を取ったもので、「Iesusu Nazarenus, Rex Iudaerorum」(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)という意味だと言うんですね。秦氏がもし、ユダヤ的なキリスト教徒とも言える景教徒であったならば、秦氏の氏神がキリストであったとしても不思議はありません。すると、正統竹内文書の口伝でキリストであると伝わっている猿田彦(佐田彦大神)を祀っているのは、まさに秦氏は猿田彦がキリストであると知っていて、祭神として祀っていたということになります。ではなぜ、スサノオの息子である宇迦之御魂が主祭神にされているのでしょうか。これにはいくつかの解釈が可能です。たとえば、宇迦之御魂は穀物神であることから、別名で「御食津神(みけつかみ)」と呼ばれています。大気都姫(オオゲツヒメ)で説明しましたが、「みけつ」にも「月(げつ)」が隠されているように思われます。宇迦之御魂は「御月神」、すなわちツクヨミ一族の氏神という意味なのかもしれないわけです。あるいは、宇迦之御魂は「食糧大臣」という役職名、あるいは世襲名であった可能性もあります。ニニギの「天孫降臨」の功労者である猿田彦が、食糧大臣「御食津神」となったのであれば、矛盾しませんね。実際、『古事記』神話を読むと、アメノウズメとともに伊勢の地(五十鈴の宮)を任された猿田彦は、食物の管理と関係がある役職(伊勢湾での漁)についたかのような表現が見受けられます。また、猿田彦がスサノオの養子となり、宇迦之御魂になった可能性もありますね。そのスサノオにも、ツクヨミ一族の血が流れていたケースも考えられます。『古事記』では食物の女神オオゲツヒメを殺した(肉体関係を持った)のは、スサノオになっていますが、『日本書記』(一書第11)では食物の女神である保食神(うけもちのかみ)を殺したのはツクヨミになっているからです。宇迦之御魂が誰であったにせよ、宇迦之御魂の別名の御食津神(みけつかみ)を三狐神(みけつかみ)と結びつけて、キツネを稲荷神の使いとする稲荷信仰が生まれました。秦氏の氏神がキリストならば、ひょっとすると稲荷信仰はキリスト教信仰なのかもしれませんね。(続く)
2018.10.07
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実はオオナムジ同様、猿田彦は謎の神です。天孫降臨するニニギの前に立ちふさがった、眼光鋭く、鼻の大きな異形の神として描かれています。日向族にとって、キャスティング・ボートを握っていた重要人物であることに間違いありません。大きな鼻と言えば、秦氏とも関係が深そうですね。秦の始皇帝も大きな鼻を持っていたと書かれています。記紀神話からわかるのはここまでです。ところが、正統竹内文書の口伝には大変なことが伝わっています。猿田彦はもしかしたらキリストかもしれないと言うんですね。どうして竹内氏がそう思うかと言うと、猿田彦は五十鈴彦(イスズヒコ)と呼ばれた時期があり、その五十鈴彦は弟の石切彦(イシキリヒコ)と同様に中東方面から日本にやってきたキリストのことであるとの口伝があるからだ、といいます。キリストであれば、古代イスラエル人の末裔ですね。つまり秦氏と同郷の人ということになります。猿田彦が出自の全くわからない異形の神であるということは、仮にキリストではないにしても、遠い異国からシルクロードを渡ってやってきた古代イスラエル人の末裔で、かつツクヨミ族であった可能性は高いように思います。そうでなければ、これだけの影響力を持つことはなかったのではないでしょうか。記紀神話では、猿田彦がニニギを先導するという重要な役目を果たしたことによって、天孫降臨が叶ったのだと記されています。(続く)
2018.10.05
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全国の稲荷神社の総本社・伏見稲荷大社で祀られている五柱の神――。謎に満ちた神たちですが、神名に「田」が付くなど穀物の収穫とその儀式に関係する神様であることが推察されますね。ではなぜ、秦氏がこうした神々を祀ることにしたかというと、秦一族と関係が深い神々だからです。秦氏の祖先・弓月の君ら一行は、賀茂の祖神タケツノミの直系である葛城襲津彦によって救出されたことや、『秦氏本系帳』によると秦氏はタケツノミを秦氏の系統(古代イスラエル人)と見なしている可能性があることは既に説明しました。そして京都の山王祭は、まさにタケツノミの娘である鴨タマヨリヒメと、ニギハヤヒの息子であるオオヤマクイとの結婚とその出産を再現しているとも指摘しました。いわばオオヤマクイは、弓月の一族の集団移住のお膳立てをしてくれた、歴史上の重要な人物であったわけです。実際『秦氏本系帳』には、オオヤマクイ(火雷神)の息子である鴨王が秦氏に婿養子に来てくれたのだとも解釈できるような書き方になっています。で、秦氏の繁栄にとって重要な役割を果たしたオオヤマクイの叔父さんに当たる神が、宇迦之御魂というわけです。さらに言えば、オオヤマクイの弟である羽山戸神(はやまとのかみ)の大気都姫(オオゲツヒメ)が結婚して生まれたのが、「四大神」とみられる若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神です。と、ここまでの説明で出てきた神の中に、ツクヨミ一族の神名が隠されていることにお気づきになったでしょうか。それがオオゲツヒメです。宇迦之御魂と同様、穀物(五穀)や食物の神ですね。これのどこにツクヨミの神名が隠されているかというと「オオゲツ」という言葉に、です。竹内睦泰氏によると、「オオゲツ」は「大月」のことで、ツクヨミと結婚した女神とのことです。一説によると、巫女の立場でありながらツクヨミ(もしくはスサノオ)と関係を持ったため、粟の国(現在の徳島県)に流罪となったとのことです。確かにイザナギとイザナミから生まれたオオゲツヒメは粟の国になったと古事記神話に書かれていますから、辻褄はあっています。つまり秦氏は、オオゲツヒメがツクヨミ一族の関係者であることを知っていた可能性が高い、ということです。それでは、佐田彦大神こと猿田彦と秦氏はどのような関係があるのでしょうか。(続く)
2018.10.04
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オオナムジが古代イスラエルのガド族出身で、弓月の君がセブルン族ら失われた古代イスラエル10支族の末裔であったとすると、どうして賀茂氏と秦氏が強く結びつき、かつ出雲大社や諏訪大社、それに秦氏や賀茂氏に由来するとされる神社で開催される儀式や祭が、古代イスラエルの儀式や風習・歴史と酷似しているかがはっきりしてきます。出雲大社と諏訪大社は説明しましたから、京都の由緒ある神社を一つ一つ見ていきましょう。最初は、秦氏が8世紀に建立したとされる伏見稲荷神社(京都市伏見区)。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。こんなにも有名な稲荷神社の総本社であるのに、その御祭神は結構、謎に包まれています。ご祭神は稲荷大神。主祭神・宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)ほか4柱の総称であるとされています。他の四柱の神とは、佐田彦大神、大宮能売大神(おおみやのめおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)です。その主祭神である宇迦之御魂大神は、「お稲荷さん」とも呼ばれる穀物の神様ですね。『古事記』によると、スサノオと大山津見の娘・カムオオイチヒメとの間にできた息子です。オオトシことニギハヤヒの弟ということになっています。佐田彦大神は、記紀神話に登場する猿田彦のことだと言われています。大宮能売(オオミヤノメ)は、宮殿の平安を守る女神であると考えられています。しかしながら、わからないのは田中大神と四大神です。稲荷神と何らかの深いかかわりのある神であると言われていますが、由緒がわかっていません。田中大神は文字通り「田の神」と思われますが、オオナムジ、猿田彦、タケツノミ説もあるようです。四大神に至っては、一柱の神名なのか四柱の神の総称なのかもわかっていません。穀物神・オオゲツヒメの御子神である若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神の四柱の神で、四季を表す神ではないかとの説もあるようです。こうした神々をどうして秦氏が祀ろうとしたのでしょうか。(続く)
2018.10.03
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既に説明したように、記紀編纂者が歴史に精通していることを如実に表しているのが、記紀に書かれている日本神話です。大国主(オオナムジ)の神話はまさにスメル神話のドゥムジ神話そのものでしたね。彼らは間違いなく、スメル(シュメール)文明を知る者です。世界の地形をスメル文明発祥地であるメソポタミアから日本に向かってを見たときに、三貴子の支配地に関して、アマテラスを左目、ツクヨミを右目、スサノオを鼻と表現した比喩表現も見事としか言いようがありません。神武の即位年を紀元前660年とした歴史観も、イスラエル王国が紀元前722年ごろに滅亡した歴史と呼応しているように思われます。この滅亡により、北イスラエルにいた10支族は歴史から姿を消すのですが、『日本書紀』によると、神武は北王国滅亡から約10年経った紀元前711年に生まれ、辛酉(このととり)の年である紀元前660年に天皇に即位したことになっています。結構出来過ぎでしょ?つまり、国を失った10支族が東へと進み(神武東征)、海を渡って日本(大和)に辿り着き、神武が日本の王になったのだというストーリーを、神武紀元を紀元前660年とすることにより暗に盛り込んだのではないかと思えるからです。そのようなことができる一族がいるとしたら、それはあらゆる暦を熟知し、歴史を知るツクヨミ系の一族しか思い当たりません。彼らは自分たちがスメル文明の後継者であることを知っていたはずです。古代イスラエル王国の滅亡のことも、当然知っていたでしょう。彼らはシルクロードの要衝地を抑え、東西間の交易に励むとともに、彼ら同胞たちの歴史も記録・蓄積して行ったに違いありません。太陽信仰の祭司王アマテラスの一族は、スメル(イザナギ)の左目である、シルクロードの海の道を支配したのです。彼らは海洋信仰をもつ大綿津見一族と交わり、最終的に九州の日向地方に拠点を置きました。軍事、政治力に長けたスサノオの一族は、ヒマラヤ山脈を鼻に見立てたシルクロードの陸の道を支配しました。彼らは山岳信仰を持つ大山津見や、海洋信仰を持つ大綿津見の一族と交わり、最終的には朝鮮半島から日本海を渡り、出雲地方に拠点を置きました。月と星を信仰する天体観測や暦、歴史に秀でたツクヨミの一族は、右目に当たるシルクロードの草原の道を支配しました。彼らは、紀元前6世紀のペルシャの予言者ゾロアスターが創始した、善神アフラ=マズダの象徴である太陽・星・火を崇拝する拝火教の一族や、唯一の神ヤハウェを信奉するユダヤ教の一族といった一神教の一族と交わり、最終的には東北の月山や、富士山といった火山のある地方に拠点を移していきました。そして、これらの3000年以上にわたるスメルのすべての歴史を記録したのが、ツクヨミの一族であったのではないでしょうか。その中で、秦の始皇帝の生き残りがツクヨミ族の月氏と合流して、弓月の君となって日本に渡って来たわけです。それが古代イスラエルの末裔とみられる秦氏ですね。弓月の君は舟の紋章を持つセブルン族が入っていると思います。長宗我部家も、ほぼ同じデザインの船の紋章を持っていますからね。また、巨大神殿を作らせたことからもわかるようにオオナムジはガド族でしょう。ツクヨミ一族の歴史の知識によって、弓月の君は破格の待遇を受け、かつ弓月の君を祖とする秦氏が、同胞であるオオナムジの直系の子孫である賀茂氏と結びついていったのではないでしょうか。(続く)27
2018.10.01
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