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「幸せがいつまでも続くものでもないから、人生に行き詰ったら、行き詰った場所だけ見ないで、ちょっと後ろ側から見てみてほしい。そのゆとりさえあれば、人生、そんなに捨てたものではない。どうぞ、物事を面白く受け取って、愉快に生きてください。あんまり頑張らないで、でもへこれないで。」 これは、平成30(2018)年9月15日に全身ガンのため、75歳で亡くなった女優の樹木希林さんの言葉(フジテレビ・インタビュー)です。 樹木希林(きき・きりん)さんは、1943(昭和18)年1月15日に東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)で生まれました。 樹木希林さんは、本名は中谷啓子さんといいます。 お父さんの中谷辰治さんは警察官で、お母さんの中谷清子さんは、神田神保町でカフェ「東宝」を経営していました。 1945(昭和20)年に戦争ですべてを失いますが、やがて中谷一家は雑司ヶ谷に家を購入します。そして、お母さんの清子さんは神奈川県横浜市野毛に「叶屋」という和食の店を出し、現在も樹木希林さんの姪がこの店を経営しています。<写真 樹木希林さん (「不登校新聞」より)> 小学校の頃の樹木希林さんは、ほとんど人としゃべらない子でしたが、両親は「それはちがうでしょ。」と言わずに、「あんたはたいしたものよ。」と言われ続け、それが希林さんの自信になりました。 そんな小学校時代に、もう一つ希林さんが自信をもったことがありました。 6年生の時の「水泳大会」で、泳げない希林さんは、「クロール」や「平泳ぎ」が出来ないので、水の中を歩く「歩き競争」に出場しました。 ほとんどが、1年生や2年生が多い中で、6年生の希林さんは歩き競争で断トツ1位になり、優勝しました。 「人と違うことでも、1位になれる。」ということを、少女の希林さんは知り、以後、マイペースの中に幸せを見つけました。(「不登校新聞」インタビューより) その後、希林さんは、「千代田女学院(東京都千代田区四谷)」に入り、薬剤師を目指しましたが、大学受験の直前に、父と行ったスキーで骨折して大学受験を断念しました。 そして、1961(昭和36)年、「文学座付属演劇研究所」に1期生として、入所しました。 同期には、寺田農さんや橋爪功さんなどがいました。 希林さんの最初の芸名は「悠木千帆(ゆうき・ちほ)」という名前で、1964年に「7人の孫」というテレビ番組にレギュラー出演し、人気が出ました。 この年、21歳で文学座の同期の岸田森さんと結婚します。(1968年に離婚) 希林さんは、1965年に文学座の正座員になりますが、1966年には岸田森さんらと文学座を退団しました。 しかし、その後も、個性派女優として、テレビドラマや映画、舞台に出演します。 ただその多くは、20代なのに「おばあちゃん」役に起用されました。 きれいな娘役や、若さあふれる女優を演じたい年頃に、「おばあちゃん役」に徹したことが、希林さんの未来を拓くことになりました。 1973年には、歌手で自称「ロッケンローラー」の内田裕也さんと、2度目の結婚をしましたが、1年半で別居しました。 1974(昭和49)年、TBSドラマ「寺内貫太郎一家」で、自分より11歳も年上の小林亜星さんの母親役を演じ、人気に火が付きました。 特に、おばあさん役の希林さんが、仏壇の横に貼った沢田研二さんのポスターの前で「ジュリー」と叫びながら、おしりをふって踊る姿は、大爆笑を誘いました。 1977(昭和52)年4月に、「日本教育テレビ(NET)」が「全国朝日放送(テレビ朝日)」に社名変更された時の特別番組で、オークションコーナーがあり、売るものがなかった希林さんは、なんと自分の芸名「悠木千帆」をオークションに出しました。 この名前は、通りすがりの青山のブテックの店主に2万200円で落札されました。 このあと、自分で付けた新芸名が「樹木希林」さんです。 意味は、「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを込めたものですが、一番は「きき・きりん」いう音の響きがよかったから付けたそうです。 <写真 「林檎殺人事件」♪(郷ひろみ&樹木希林)のレコードジャケット> 改名がよかったのか(?)、樹木希林さんが出演し、1977年から1979年にかけて放送されたTBSドラマ「ムー」や「ムー一族」は高視聴率を記録し、ドラマで共演した郷ひろみさんと樹木希林さんのデュエット曲「お化けのロック」(オリコン2位)や「林檎殺人事件」(ベストテン1位、ともにCBSソニー)も、大ヒットしました。 ところが、私生活では、ずっと別居中だった内田裕也さんが、希林さんに無断で区役所に「離婚届」を出してハワイに逃走するという「事件」が起きました。 裁判の結果、希林さんの主張どおり離婚は認められず、以後2018年に希林さんが亡くなるまで、2人の別居生活は40年以上も続けられました。 夫・内田裕也さんについての、希林さんの話です。「私は『なんで夫と別れないの』とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。」 2人の間には、内田也哉子(うちだややこ)さんという娘さんがいて、也哉子さんは、アイドルグループ「シブがき隊」の本木雅弘さんと結婚しました。 二人の間には3人の子供(2男1女)がいて、樹木希林さんの孫にあたります。 因みに、樹木希林さんと内田裕也さんは、2011年に結婚情報誌「ゼクシイ」のCMで1度だけ共演しています。 このCMで、BGMに福山雅治さんの「家族になろうよ♪」が流れる中で、2人はこんな会話をします。樹木希林さん「結婚のいいところってなんでしょうね。」内田裕也さん「ノーコメント」樹木希林さん「・・・」内田裕也さん「ロッケンロール」樹木希林さん「そればっかり」 この短いCMの中に、2人の思いが凝縮されていると思うのは、私、だけでしょうか。<樹木希林さん出演のCM「ピップエレキバン」のロケ地(北海道比布町)> 樹木希林さんのおもしろCMと言えば、「ピップフジモト」の横矢勲会長と樹木希林さんが掛け合いした「ピップエレキバン」のCMも有名です。 1980(昭和60)年に、北海道比布(ピップ)町のJR宗谷線比布駅で撮影されたもので、1日1本しか通らない駅で撮影されたCMです。樹木希林さん「とうとうここまでやってきましたね」と会長と握手樹木希林さん「何か来ないうちにおっしゃったらどう?」会長が「ピップ...」と言い始めた途端、列車が大きな音をたてて通過。声がかき消されてしまう。過ぎ去った後、会長「聞こえた?」樹木希林さん「ううん、なんにも」 もう一つ、忘れてはならない希林さんのCMは、最近まで放送されていた「富士フィルム」のものです。 これは、1980年版です。 写真の現像に訪れた、晴れやかな着物の樹木希林さんと写真屋の店員の岸本加世子さんの会話です。岸本さん「いらっしゃいませ」希林さん「このプリント、富士カラーでお願いします。」岸本さん「出来上がりは、明日の夕方になります。」希林さん「お見合い写真のものですから、特に美しく。」岸本さん「富士カラープリントでしたら、美しい方はより美しく。そうでない方は‥」希林さん「そうでない方は?」岸本さん「それなりに、写ります。」希林さん「(ショックを受けて)それなりに‥」岸本さん「お客さん、お名前は?」希林さん「綾小路だけど、裏の。知らなかった?」 何とも、おもしろいCMですが、「そうでない方はそれなりに」というフレーズも、樹木希林さんの発案だったそうです。 平成に入ってからも、樹木希林さんの女優人生は順調でした。 2005(平成17)年に「はね駒」で、「芸術選奨文部大臣賞」を受賞したのをはじめ、2007(平成19)年には映画「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~」で、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞しました。 さらに、2008年に「紫綬褒章」、2014年には「旭日小綬章」を受章しています。<DVD「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~」> 一方で、希林さんの体の方は満身創痍で、2003年に、「網膜剥離」で左目を失明し、2013年の「日本アカデミー賞」の受賞式では「全身ガンである」ことを公表しました。 それでも、希林さんはあくまで前向きでした。 網膜剥離で左目を失明した際には、「今まで色々な物が見え過ぎた」と語り、全身ガンという診断にはこう語っています。「『病名は?』って医者に聞いたのよ。『いろんながんがあるけど、私の今の病名は何ですか』って聞いたら、『全身ががんですよ』って言うのよ。『え、あ、私、全身ががんなんですね』って。そういうことなの。別に衝撃的でもなんでもないわけ。どこに出てもおかしくないがんなわけです。」 さらに、ガンを前向きにとらえて希林さんは、こう言っています。『この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。 でもね、それでいいの。 こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。 若くても不自由なことはたくさんあると思います。 それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。 でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、 不自由なまま、おもしろがっていく。 それが大事なんじゃないかと思うんです。」 こう言って、がんと共存しながら、それでも「へこたれない」で樹木希林さんは、最後まで正々堂々とロックに生き、2018(平成30)年9月15日の「昭和の敬老の日」に。75歳で永眠されました。 おしまいに、樹木希林さんが愛し続けた夫・内田裕也さんの追悼の言葉を紹介します。「最期は穏やかで綺麗な顔でした。 啓子 今までありがとう。 人を助け 人のために祈り 人に尽くしてきたので 天国に召されると思う。 おつかれ様。安らかに眠ってください。 見事な女性でした。」 (内田裕也) 結局、「ロックな生き方」、「ロックな愛」を貫いたのは、樹木希林さんの方だったのだと、私は思います。 心より、ご冥福をお祈りいたします。「ロッケン・ロール」!【9月上旬入荷分】学校に行きたくない君へ[本/雑誌] / 全国不登校新聞社/編価格:1512円(税込、送料別) (2018/9/24時点)楽天で購入
2018.09.24
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1994(平成6)年7月、高畑勲監督のジブリ映画「平成狸合戦(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ」が公開され、この年、1994年の邦画映画収入トップの26億円を記録しました。 今回は、このジブリ映画の聖地の一つである「金長神社(きんちょうじんじゃ)」が、存続の危機に陥っている。という話を紹介します。 まず、「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじの前半を紹介します。 昭和40年代(1965~1974年)、多くのタヌキが平和に暮らしていた多摩丘陵(たまきゅうりょう・主に東京都)に、開発の話が持ち上がります。 「多摩ニュータウン」の建設です。 タヌキたちは総会を開き、タヌキ伝統の「化学(ばけがく)」の術の習得と、四国などのタヌキ先進地のタヌキの応援を得て、開発や自然破壊をしようとする人間と戦う決心をしました。 この決定を受け、多摩丘陵のタヌキの使者「玉三郎」は、四国の小松島の金長神社に、六代目金長狸を訪ね、応援を依頼しました。 この時、金長狸が住む「金長神社」を忠実に再現したシーンが映画に出てきて、神社内には映画の中の「金長だぬき」にそっくりの人形もあるため、実在する「金長神社」は、ジブリ映画の聖地となりました。<写真 金長神社にある金長だぬき像 (徳島県小松島市)> ところが、この金長神社が奇しくも多摩丘陵と同じように、人間の開発のために消滅の危機に瀕しています。 金長神社(正式名は「金長大明神」)のある小松島市の「日峰大神子(ひのみねおおみこ)広域公園」が、市の再整備で防災公園になろうとしているのです。 金長神社の土地は、実は小松島市の土地を「金長奉賛会」という住民団体が借りて運営していたのですが、再開発をすると現在の「都市公園法」の規制を受けることになり、神社を移設することが難しくなるそうなのです。(小松島市の話) これに対し、「金長神社」の存続をもとめる住民団体「金長神社を守る会」が、存続を求める署名活動を、手書きとインターネットで行いました。 あまりPRできていなかったにもかかわらず、2018(平成30)年4月から7月まで行われた署名活動で集まった署名は、1万186筆集まりました。 署名は、小松島市内や徳島県内はもちろん、全国、そしてインターネットで、アメリカ、中国、韓国、スペインなど世界からも集まりました。県外・外国の署名の多くは「ジブリファン」、特に高畑勲ファンだと言われています。 この署名は、7月31日に、小松島市の浜田市長と武田市議会議長に届けられました。 みんなの願いが届けられ、存続が決まるといいですね。 高畑勲(たかはた・いさお)監督は、1935年三重県生まれで、2018年4月5日に肺がんのため82歳で亡くなられました。 東京大学文学部を卒業し、アニメの演出や監督として活躍しました。 主な監督作品としては、「じゃりんこチエ」(1982年)、「火垂るの墓」(1988年)、「おもいでぼろぼろ」(1981年)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994年)、そして「かぐや姫の物語」(2013年)など、多くの作品を手がけました。 その中でも、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、興行収入トップの24億円を記録した代表作品です。 実は、「金長神社」が建設には、四国のたぬき伝説「阿波狸合戦」と、「平成狸合戦ぽんぽこ」以外の映画も深く関係しています。 金長神社は、1956(昭和31)年に当時の大映社長の永田雅一さんが、金長だぬきが主演する映画「阿波狸合戦」が空前の大ヒットして、映画会社を立て直してくれたことに感謝して建てたものです。 商売繁盛や開運にご利益があると言われています。 永田雅一(ながた・まさいち)さんは、1906年京都市中京区生まれで、「大日本映画製作(大映)」の社長となり、カンヌ国際映画祭でグランプリをとった黒澤明監督の名作「羅生門」などを製作しました。 また、プロ野球「大映スターズ」のオーナーに就任し、1953年には初代のパシフィックリーグ(パリーグ)の初代総裁にもなっています。 ほかにも、1951(昭和26)年に10戦10勝で日本ダービーを制した名馬「トキノミノル」のオーナーでもありました。(トキノミノルは、ダービーの17日後に無敗のまま死亡しています。)<金長だぬきが祭られている「金長神社」(徳島県小松島市)> ここからは、金長だぬきが主役の四国に伝わるたぬき伝説で、映画の題材にもなった「阿波狸合戦」について、紹介します。 時は、江戸時代の後半、天保年間(1830年~1844年)の話です。 小松島の日開野(ひかいの・現徳島県小松島市日開野町)にあった染物屋「大和屋」の茂右衛門(もえもん)が、人間のいじめられていた1匹の狸を助けました。 やがて、大和屋に勤める万吉という丁稚にたぬきが憑いて話はじめました。「私は、茂右衛門さんに助けられた206歳になるタヌキで、金長と言います。命を助けられたお礼に、ここで働かせていただきます。」 これ以降、大和屋は次第に、繁盛していきました。 やがて、金長だぬきは茂右衛門からしばらく暇をもらって、阿波(徳島)のたぬきの総大将「津田(徳島市津田町)の六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出ます。 そこで、抜群の成績を収めた金長だぬきを、津田の六右衛門は自分の娘婿にと誘いますが、金長だぬきは茂右衛門への義理を果たすため、小松島へ帰ります。 津田の六右衛門は、「金長をこのままにしておいたら、いずれ俺の強敵になる」と考え、子分たちと夜襲をかけます。 命からがら夜襲を逃れた金長だぬきは、仲間のたぬきを集めて勝浦川(かつうらがわ・徳島市と小松島市の間にある川)の河原で、六右衛門軍と一大決戦を行います。 金長軍、六右衛門軍、双方あわせて1200匹ともいわれる「たぬき合戦」が、勝浦川で戦い、激戦の末、金長は六右衛門を討ち取りました。 しかし、金長だぬきも、この時の戦の傷がもとに亡くなってしまいます。 大和屋の茂右衛門は金長だぬきを偲び、京都まで上って「正一位」の位をもらって、「金長大明神」として、お祀りしました。 これが四国に伝わる「阿波狸合戦」という伝説です。 徳島市や小松島市には、この伝説に因み、「たぬき郵便局」をはじめ、「「金長まんじゅう」や「六右衛門まんじゅう」というお菓子、さらには「金長たぬき郵便局」や「世界最大のたぬきの銅像」、さらには、「たぬきが車体に描かれたバス」まで、走っています。 この伝説をもとに作られたのが、映画「阿波狸合戦」で、戦後、すぐに全国的に大ヒットしました。 一方、この伝説をもとに、平成になってジブリの高畑勲監督が作ったのが金長だぬきの六代目が活躍するのがジブリ映画の「平成狸合戦ぽんぽこ」なのです。 平成が終わろうとする今、「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台の一つの「金長神社」が撤去の危機にあるのも、皮肉ですね。<写真 「平成狸合戦ぽんぽこ」の主要舞台 多摩丘陵と多摩ニュータウン(東京都西部)> それでは、「平成狸合戦ぽんぽこ」の後半の部分を紹介します。 化学(ばけがく)を使って多摩丘陵の開発を阻止しようとするタヌキたちですが、開発中止には失敗します。 この時、タヌキ先進地の四国に応援を依頼していた玉三郎が、六代目金長をはじめ、有名な四国のタヌキたちを連れて多摩丘陵に戻ってきます。 タヌキたちは、化学(ばけがく)を駆使して「多摩ニュータウン」の建設阻止のために、百鬼夜行など懸命に戦います。 この時、どさくさに紛れて(?)、ジブリのキャラクターである「となりのトトロのトトロ」や「魔女の宅急便のキキ」、「おぼひでポロポロの岡島タエ子」など、ジブリのスターたちが登場します。 これも、映画の見どころですね。 結局、多くのタヌキたちは戦死し、残ったタヌキたちは、人間に化けて人間の世界に入り込んで生きていくことになります。 少し、淋しい結論ですが、それでも全滅するよりも、いいのかも知れません。 この映画の主要舞台となった多摩丘陵は、東京都稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまたがる丘陵で、ここに昭和40年代はじめから「多摩ニュータウン」の建設が進められました。 平成22(2010)年現在、多摩ニュータウンの人口は21万人を数えますが全人口の16%が高齢者になっています。 タヌキたちに勝利した人間も、高齢化には勝てないようです。 もちろん、その人口の数%はタヌキなのかも知れませんが、数字はもちろん非公表です。(笑) 最後に、「平成狸合戦ぽんぽこ」のエンディングテーマ曲を紹介します。 ♪「いつでも 誰かが」(作詞・作曲 紅龍 歌・上々颱風) ♪♪いつでも誰かが きっとそばにいる思い出しておくれ すてきなその名を心がふさいで 何も見えない夜きっときっと誰かが いつもそばにいる生まれた街を 遠く離れても忘れないでおくれ あの町の風をいつでも誰かが きっとそばにいるそうさ きっとおまえが いつもそばにいる雨の降る朝 いったいどうする夢からさめたら やっぱり一人かいいつでもおまえが きっとそばにいる思い出しておくれ すてきなその名を争いに傷ついて光が見えないなら耳をすましてくれ きっと聞こえるよ涙も痛みも いつか消えてゆくそうさ おまえの微笑みがほしい風の吹く夜 誰かに会いたい夢に見たのさ おまえに会いたいいつでもおまえが きっとそばにいる思い出しておくれ すてきなその名を♪<写真 おじいちゃんとおばあちゃんに抱かれる故・名犬チワ> 「平成狸合戦ぽんぽこ」が上映されたのは1994(平成6)年でした。 それから24年が過ぎ、この映画のスタッフにも、故人になった人が多く出ています。 まず、ナレーションをしていた三代目古今亭志ん朝さんは、2001年に63歳で亡くなられました。 また、多摩丘陵の最長老たぬきの声を担当した五代目柳家小さん師匠も、2002年に87歳で他界され、同じ2002年には、多摩丘陵のおばあさんたぬき「おろく婆」の声を担当した清川虹子さんも、89歳で亡くなられています。 ほかにも鈴ヶ森の長老たぬき「青左衛門」の声を担当した三木のり平さんは1999年に74歳で亡くなられ、六代目金長の声を担当した三代目桂米朝さんも2015年に89歳で亡くなられました。 そして、今年、2018(平成30)年には、高畑勲監督が82歳で他界されました。 「しかし、この変わりようは激しすぎる。だまされているのはこちらじゃないか。」という、「平成狸合戦ぽんぽこ」の中のたぬき「文太」の言葉が、しみじみと胸にしみます。 蛇足ですが、今日(2018年9月2日)、このブログでも紹介した我が家の「噛まない・吠えない」チワワのチワも他界してしまいました。(チワの話はまた、別に紹介させてください。) 最後に、高畑勲監督の名言を一つ、紹介します。「与えられた仕事がつまらない」とか、「教育してくれない」とか「自分の才能を生かしてくれない」などと、会社が自分のほうを向いてくれないことにただ不満をつのらせるだけではどうにもなりません。 そんなヒマがあったら、その間に自分でおぼえられるものは、みんなおぼえようとすればいい。 金長神社も、高畑勲監督の仕事も、愛犬チワの思い出も、平成のその先の時代まで残していきたいと思う「平成最後の夏の終わり」の私です。一句「平成も 夏も過ぎ去る 涙の9月」平成狸合戦ぽんぽこ[DVD] / アニメ価格:4304円(税込、送料別) (2018/9/2時点)
2018.09.02
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