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1年ぶりに、「風の中の龍馬」の続き、3回目を書きます。 慶応元(1865)年1月、前年(元治元年)12月にわずか80人で「長州・功山寺(今の山口県下関市)」で、日本中の佐幕派(幕府を支持する人たち)を敵にまわして挙兵した高杉晋作と諸隊(力士隊・遊撃隊など)は、予想に反して、秋吉台近くの「絵堂の戦い」などで200人から400人の軍勢で、1000人とも2000人とも言われる長州藩の佐幕派を次々と破ります。 一度はほぼ消えてしまったかに見えた勤皇討幕の灯は、慶応元年3月頃までには、長州(山口県)の高杉晋作らの活躍によって再び燃え上がります。 さらに、長州の民衆や奇兵隊、藩の海軍なども味方につけて、ついには長州藩を牛耳っていた佐幕派を破り、藩の実権を握ります。<写真 坂本龍馬の妻・お龍> 一方、坂本龍馬は、元治元年から慶応元年(1864年~1865年)頃、京都の医者の娘・楢崎龍と知り合い結婚します。 さらに、「日本初の商社」と言われる亀山社中(のちの海援隊)を、長崎で立ち上げます。 この亀山社中は、銃などの武器を、幕府と開戦まじかの「長州藩」に薩摩藩名で斡旋し、薩摩藩には不作だった「米」を長州から取り寄せます。 龍馬と亀山社中は、経済の力で犬猿の仲だった「薩長」を結び付ける作戦をとりました。 復活した尊王藩の長州が次第に勢力を拡大するのを横目に、龍馬は、大阪・京都・長州・鹿児島などを精力的に訪問し、薩摩の西郷隆盛や長州の桂小五郎などと会って「薩長同盟」の斡旋を行います。 この頃の坂本龍馬の手紙で特に紹介したいのが、「慶応元(1865)年9月9日付け坂本乙女(姉)、乳母おやべ」あてのものです。「じつにお国(土佐=高知)のようなところにて、何の志ざしも無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり。」と、高知に留まり、慶応元年5月に切腹になった盟友武市半平太らへの土佐藩の対応を、龍馬は怒りを込めて批判しています。 さらに、同じ9月9日付けのお龍への手紙で、恋人であり嫁になる「お龍」のことを、龍馬は姉の乙女に紹介しています。「(借金により悪者2人に大阪へ連れて行かれた妹と弟を取り返すためにお龍が)悪者2人を相手に、死ぬる覚悟にて、刃物をふところに、喧嘩をした。(中略) この女(お龍)は、まことにおもしろき女にて、私が危うい時に救ってくれたこともあります。 私に万が一の時は、(この女のことを)姉上、よろしくお願いします。」 龍馬らしくて、おもしろいですね。 恋人のことを、こんな風に姉に紹介する歴史上の人物は、坂本龍馬以外には、あまりいないのではないかなと思います。 さて、「薩長同盟」の試みは、慶応元(1865)年の5月に、西郷隆盛が訪問する予定だった下関に、現れなかったことで、一旦、挫折します。 しかし、龍馬らの「経済同盟先行」の作戦と懸命の斡旋が成功し、翌慶応2(1866)年1月22日に、京都で薩摩の西郷隆盛らと長州の桂小五郎らの間で「薩長同盟」が締結されました。 まさに、恩讐を超えて幕末最強の「薩摩・長州の両藩」が密約を結ぶ、歴史的な同盟が実現しました。 この同盟で、注目すべきは、締結した文書の裏書(朱書き)で、この文書の内容を保証して裏書をしたのは、なんと一介の浪人の坂本龍馬であった点です。 討幕の導火線に火をつけ、「江戸幕府270年」の終わりの始まりとなった「薩長同盟」に大きな貢献をした坂本龍馬は京都伏見にある定宿「寺田屋」で休んでいました。 ところが、その坂本龍馬を捕縛しようと、幕府の官吏が迫っていました。 このあとのことは、次回の「風の中の龍馬」で紹介します。<写真 「薩長同盟」裏書 (宮内庁所有)> おしまいに、「坂本龍馬の言葉」とも言われている『英将秘訣』をテーマに書いてある詩を、「じゅんくう詩集」から紹介します。詩「坂本龍馬生誕183年と151回忌 ~英将秘訣~」2018(平成30)年11月15日は 坂本龍馬の183回目の誕生日そして151回忌坂本龍馬の言葉とも言われる??「英将秘訣」の言葉(*「」じゅんくう現代語訳)と綴る日本を洗濯することに命を賭けた龍馬はおねしょの治らない少年塾を退学いじめられっ子どうしようもない子供だった*「世に生を受けた人間に上下はない。自分自身を最上だと思え」 剣道をはじめた時から龍馬は豹変した剣豪リーダー江戸留学そして志士になった*「私の命は 天地に預け 自由自在に生きることこそ 生き甲斐だ」若き龍馬青年は夢と未来を探して脱藩した*「恥ということを捨てて 世の中のことは成るなり」江戸土佐京都長州福井鹿児島長崎日本中を旅した龍馬は志だけで夢を追った*「この世に生まれ 生きるのは ことを成すためだ 人の跡を追い 真似などするな」ぼくはフリーじゃきに」高杉晋作西郷隆盛勝海舟歴史に残る英雄になった龍馬海を愛し海を旅し海に消えた*「私が死ぬときは 命を天に返すと思い定めて 死を恐れるな」心はいつも太平洋ぜよ夢は世界の海援隊(「じゅんくう詩集」 2018年11月15日より)竜馬がゆく(1)新装版 (文春文庫) [ 司馬遼太郎 ]
2018.11.23
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平成最後の秋、暑かった気候がようやく秋らしくなったと思ったら、もう晩秋ですね。 そこで今回は久々に名曲の話をします。 今回取り上げるのは、♪静かな静かな里の秋~♪でおなじみの秋の名曲「里の秋」です。 まず1番と2番の歌詞を紹介します。♪「里の秋」(作詞・斉藤信夫、作曲・海沼 実)♪♪1静かな 静かな 里の秋お背戸(せど)に 木の実の 落ちる夜はああ母さんと ただ二人栗の実 煮てます いろりばた(囲炉裏端)♪2明るい 明るい 星の空鳴き鳴き 夜鴨が 渡る夜はああ父さんの あの笑顔栗の実食べては 思い出す♪ 日本の童謡の中でも、「平和でやさしい田舎の情景」を歌っているように思える名曲ですね。 因(ちな)みに、この歌に出てくる「お背戸(せど)」とは、家の裏口のことです。 母さんと二人で、里の秋をセンチメンタルに過ごしているのは、よくわかりますが、 父さんはどうしたのでしょうか。 「亡くなったのかな」と、この曲を聞いた時、私は最初、思いました。 でも、実は、この歌詞には「日本の戦争の歴史」が刻まれています。 この曲の作詞者、斉藤信夫(さいとう・のぶお)さんは、1911(明治44)年3月3日、千葉県南郷村(現在の山武市(さんむし))で生まれました。 1930年、千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)の2部に入学し、代用教員として小学校の先生になりました。 一時、休職して千葉師範学校専攻科に入り、その後、1940(昭和15)年から1945年の終戦まで、千葉県の「葛飾町立(現在の船橋市)葛飾尋常小学校」の教員を務めました。<写真 「里の秋」の歌碑 (千葉県山武市南郷小学校)> 斉藤信夫さんは、小学校の先生を務める一方で、「童謡道」を目指し、1日1編ずつ詩を作りました。その詩の数は、生涯で10、000編を超えたそうです。 1941(昭和16)年12月8日に日本と米英が開戦し、「太平洋戦争」が始まりました。 その13日後の1941年12月21日、斉藤信夫さんが作ったのが、「星月夜(ほしづきよ)」という詩です。 その出だしを紹介します。詩「星月夜」(作詩 斉藤信夫)1静かな 静かな 里の秋お背戸(せど)に 木の実の 落ちる夜はああ母さんと ただ二人栗の実 煮てます いろりばた(囲炉裏端)2明るい 明るい 星の空鳴き鳴き 夜鴨が 渡る夜はああ父さんの あの笑顔栗の実食べては 思い出す♪ あれぇ、これって、「里の秋」の詞ですよね。 そうなんです。 「星月夜」の1番と2番は、実は「里の秋」と同じなんです。 と、いうより、昭和16年12月に、斉藤信夫さんが作詩した「星月夜」が、「里の秋」の原詩なんです。 でも、「星月夜」の3番と4番は、「里の秋」とはだいぶ違う内容です。 ここで、紹介します。3きれいな きれいな 椰子の島しっかり護ってくださいとああ 父さんの ご武運を今夜も ひとりで 祈ります4大きく 大きく なったなら兵隊さんだよ うれしいなねえ 母さんよ ぼくだって必ず お国を 護ります 太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年12月に作られた「星月夜」は、実は「国のために、ぼくも大きくなったら兵隊になって、国を守る。」という、戦争礼賛の詞だったんです。 ちょっと、ショックですね。 この頃、斉藤信夫さんは、面識があり、すでに有名だった童謡作曲家の海沼實(かいぬま・みのる)さんに、この詩を郵送しました。しかし、海沼さんからの返事はありませんでした。 太平洋戦争は、次第に激しさを増してきました。 斉藤信夫さんは、熱心な教師で、「軍事教練」も続けていました。 「日本は神国、必ず勝つ」と、子供たちに教え続けました。<写真 古民家と紅葉(里の秋のイメージ?)> それから4年たった昭和20(1945)年8月15日、内外に多くの犠牲者を出した末、日本は降伏し終戦を向かえました。 まじめな斉藤信夫先生は、戦争中に、子供たちへ嘘を教えてしまったとの後悔から、学校に辞表を出し、教師を辞めました。 この終戦の年、昭和20年の12月に、海沼實さんから斉藤信夫さんのところに、1通の電報が届きました。 「スグオイデコフ カイヌマ」(すぐに、来てください。海沼) 海沼實(かいぬま・みのる)さんは、1909(明治42)年1月31日に長野県松代町(現在の長野市)で生まれました。 東洋音楽大学(現・東京音楽大学)に在学中の1933年に、「音羽ゆりかご会」を創設し、戦後、すぐには、NHKの嘱託として「東京放送児童合唱団」の別名で、「音羽ゆりかご会」を率いて活躍しました。 海沼實さん自身も、戦後の混乱期の子供たちを励まそうと、「みかんの花咲く丘♪」など、多くの曲を作曲をしました、 その海沼さんが、昭和20年12月24日(クリスマス・イブ)に、NHKラジオで放送する歌を作曲するために目をつけたのが、4年前に斉藤信夫さんから送られてきた詩「星月夜」でした。 海沼實さんは斉藤信夫さんに会い、1番、2番は残し、戦時色の強い3番、4番を捨てることを提案し、斉藤さんの了解を得ました。 さらに、新しい3番の歌詞を作ってもらい、タイトルも「星月夜」から「里の秋」に変えて、海沼實さん自身が作曲したものを、終戦直後の昭和20年の12月24日(クリスマス・イブ)に、NHKラジオで放送しました。 「外地引き揚げ同胞激励の午後」というタイトルで放送された番組の中で、「里の秋」♪は、1回だけの予定で、当時11歳の少女歌手・川田正子さんが歌いました。 ところが放送直後から「里の秋」は大好評で、1回だけの予定が、「復員だより」という外地からの引き揚げ者を紹介する番組のテーマ曲になり、ついにはレコード化されました。 それでは、新しくつくられた3番の歌詞を紹介します。♪「里の秋」♪3番さよなら さよなら 椰子の島お舟にゆられて 帰られるああ父さんよ ご無事でと今夜も 母さんと 祈ります♪ 「里の秋」を、戦時中の戦争礼賛の歌としてではなく、戦後の引き揚げ者を待つ家族の気持ちを込めた「平和の歌」として世に送り出した海沼實さんという作曲家は、すごいですね。 そして、この「里の秋」の美しい詞とメロディーは、戦争を乗り越えた名曲となりました。 作詞の斉藤信夫さんは、その後、教壇に復帰し、1987(昭和62)年9月20日、76歳で亡くなられました。 その間に、毎日、作られた詩の数は、実に11,127編に達しました。 一方、作曲の海沼實さんは、「里の秋」のほかに、「お猿のかごや」や「ちんから峠」、そして「みかんの花咲く丘」など、多くの名曲を作曲し、1971(昭和46)年6月13日、62歳で亡くられました。<写真 「里の秋」を最初に歌った川田正子さんのCDジャケット> ここからは、「里の秋」を11歳の時に最初に歌った川田正子さんと、童謡「汽車ポッポ」のお話です。 川田正子(かわだ・まさこ)さんは、1934(昭和9)年7月12日に東京都大田区大森で生まれました。 1942(昭和17)年に、妹の川田孝子さんとともに、海沼實さんが会長を務める「音羽ゆりかご会」に入会しました。 翌1943年には関東児童唱歌コンクールで、♪「兵隊さんの汽車」を歌い、川田正子さんは2位に入賞しました。 1945(昭和20)年12月24日に、海沼實さんの依頼で、NHKラジオで出来たばかりの童謡「里の秋」♪を、川田正子さんが歌いました。 なぜ、放送日が12月24日だったかというと、この日に南方からの復員船が神奈川県の浦賀港に入港する予定だったからだそうです。 しかし、もう一つは、戦後初の「クリスマス・イブ」にラジオを聞いている人へのプレゼントの意味もあったかも知れませんね。 「里の秋」が大好評を博した1週間後の大晦日、川田正子さんは同じNHKタジオの「紅白音楽試合」に出演します。 この番組は、当初は「紅白歌合戦」というタイトルの予定でしたが、当時、日本を占領統治していた「GHQ」(連合軍最高司令部)の意向で、「歌合戦」ではなく「音楽試合」という名前に変更されました。(この番組が、「NHK紅白歌合戦」の前身となります。) この「紅白音楽試合」で、少女歌手「川田正子」さんが歌ったのが、♪「汽車ポッポ」でした。 この歌も、戦時中は♪「兵隊さんの汽車」という名で歌われていましたが、GHQの意志で次のように歌詞を変更されて歌われました。♪「汽車ポッポ」(作詞:宮原薫、作曲:草川信)♪♪1汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ僕らを乗せて シュッポ シュッポ シュッポッポスピード スピード 窓のそと畑もとぶとぶ 家もとぶ走れ 走れ 走れ鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな♪ 有名なこの曲は、戦中はこんな出征兵士を贈る歌詞でした。 ♪「兵隊さんの汽車」(作詞:宮原薫、作曲:草川信)♪♪1汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ兵隊さんを乗せて シュッポ シュッポ シュッポッポぼくらも 手に手に 日の丸の 旗を振り振り 送りませう萬歳 萬載 萬歳兵隊さん 兵隊さん 萬々歳♪♪ ♪「里の秋」も含めて、戦争は童謡の歌詞まで変えてしまうのですね。 因みに「汽車ポッポ」の作曲家・草川信(1893年~1948年)さんは、「里の秋」の作曲者・海沼實さんと同じ信州松代(長野県長野市)の生まれで、「夕焼け小焼け」や音羽ゆりかご会の名前の由来となった名曲「ゆりかごの唄」などの作曲者です。 海沼實さんは、草川信さんを、同郷の先輩として尊敬していました。 さて、川田正子さんですが、1947年に変声期を向かえ、一旦、歌手を引退し進学します。 しかし、武蔵野音楽大学卒業後、成人童謡歌手として復帰し、2001(平成13)年に「歌の道、60周年記念コンサート」をNHKホールで開催するなど、長く歌手活動を続けました。 2006(平成18)年1月22日、長崎県五島市(五島列島)で「子守歌と童謡コンサート」を開催したあと、川田さんは入浴中に意識を失い、その後、病院で亡くなりました。 童謡歌手として「里の秋」を初めて歌ってから、60年、71歳まで活動を続け永眠されました。 1945(昭和20)年12月24日、「里の秋」をNHKラジオで発表した3人は、それぞれの生き方で童謡「里の秋」を、大切に生きて来られました。 作詩の斉藤信夫さんは、教師をしながら、1987(昭和62)年に76歳で亡くなるまで、毎日、作詞をし、11,127編の詩を作りました。 作曲家の海沼實さんは、「里の秋」のほかに、「みかんの花咲く丘」など、多くの名曲を作曲し、「音羽ゆりかご会」という合唱団も育て、1971(昭和46)年に、62歳で亡くられました。 そして、11歳で「里の秋」を歌った川田正子さんは、2006(平成18)年に71歳で亡くなるその日まで、童謡歌手として活躍されました。 ♪「里の秋」という曲は、3人が亡くなっても、昭和、平成の日本で歌い継がれ、来年、平成のその先の年号になっても、この歌はきっと独立して生きてゆくのだと考えると不思議ですね。 最後に、もう1度、「里の秋」の1番と2番を紹介して、今回のブログを終わります。♪「里の秋」(作詩 斉藤信夫 作曲 海沼實 歌 川田正子)♪♪1静かな 静かな 里の秋お背戸(せど)に 木の実の 落ちる夜はああ母さんと ただ二人栗の実 煮てます いろりばた(囲炉裏端)2明るい 明るい 星の空鳴き鳴き 夜鴨が 渡る夜はああ父さんの あの笑顔栗の実食べては 思い出す♪ 「この秋も どこかで誰かが 里の秋」(じゅんくう)CD/懐かしの童謡歌手たちSP録音復刻盤 1/川田正子/COCC-12794価格:2097円(税込、送料無料) (2018/11/9時点)楽天で購入
2018.11.09
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